脱原発の哲学 佐藤嘉幸 田口卓臣

脱原発の哲学

脱原発の哲学

なぜ活断層の上に原発が建つのか

伊方原発のすぐ近くを、中央構造線という世界最大級の活断層が通っている。中央構造線は、関東から九州へと西日本を縦断する断層系であるが、近畿南部から四国に至る部分は活断層と見なされており、注意が必要であるとされている。にもかかわらず、伊方原発訴訟において明らかになったことは、国はこの中央構造線の危険性を安全審査時にまったく考慮していなかった
[それはなぜか、当時の主要な地震学者が活断層説を否定していたから。]
(略)
 活断層説に立てば、古い地震記録のない地帯は「地震の空白地域」に相当し、地震のエネルギーが蓄積している危険な場所ということになる。(略)
「日本のような地震多発地帯では、地震の空白地域こそ、これから地震の起きる可能性が高い地域である」と原告は主張した。ところが日本では、[過去の地震歴のみを参考にし]そのような「地震の空白地域」に原発が立ち並んでしまった。
(略)
[地震学者鈴木康弘によれば、活断層調査は立地審査の段階では行われず、立地場所が決定されてから耐震審査の段階ではじめて行われる]
この時点では立地場所は既に決まっている(略)活断層があってもそれをできるだけ過小評価して、活断層でないと評価しようとするようなメカニズムが働く、というのである。

「仮想事故」においても

炉心溶融は起こらないと強弁する理由

なぜこのような過小評価が可能になるのだろうか。それは、安全審査において、一次冷却材喪失事故のような過酷事故が起こっても炉心は溶融せず、従って圧力容器も格納容器も健全性を保つ、という不可能な仮定がなされているからなのである。
 安全審査において、事故の想定は、二つの奇妙な概念に依拠してなされている。すなわち、「重大事故」と「仮想事故」という二つの事故概念である。「重大事故」とは、「技術的見地から見て、最悪の場合に起きるかもしれないと考えられる重大な事故」と定義され、炉心を冷却するための一次冷却系のパイプのうち、大口径のパイプが瞬時に破断して一次冷却材喪失事故が起きると想定されている。しかし、緊急炉心冷却装置(ECCS)によって炉心が効果的に冷却されるため、炉心にある燃料棒の健全性は大きく損なわれず、この場合、環境に放出されるヨウ素は約20キュリーにとどまるとされる。
 それに対して「仮想事故」とは、「技術的見地からは起るとは考えられない事故」と定義される。まず過酷事故が「技術的見地からは起るとは考えられない」と定義するところが既に事故可能性の否認に当たるのだが、そこで「仮想」された事故の内容そのものがさらなる否認の論理(略)に基づいている。(略)
[「仮想事故」とはECCSの冷却効果を無視して]炉心内の全燃料が溶融したと考えた場合に相当する核分裂生成物の放出があると仮想する」場合のことである。
[「仮想事故」では「重大事故」と同様]ECCSがある程度動作するために(実際には、これまでの過酷事故は、すべてECCSが適切に作動しなかったために起こっている)、炉心は溶融することなく、格納容器、圧力容器共に健全性を保つが、にもかかわらず炉心が溶融した場合に相当する核分裂生成物の放出がある、という奇妙な「仮想」が行われているのである。
(略)
原告住民側による、伊方原発の安全専門審査会長、内川秀雄への反対尋問が興味深いので、以下に引用しよう。
(略)
 内田証人 (略)ECCSの性能を全く無視して放出されると仮定する放出量を決めているわけです。それが仮想事故の基であります。ですから仮想事故の場合でもECCSは実際に働くという評価をしているわけです。
(略)
 住民側 そうすると性能を全く無視したと考えるんだから、動かないと考えてもいいわけですね。
 内田証人 多少違いますけれども、結果としては同じに考えてよいと思います。
 住民側 だから一次冷却材が喪失した場合に水が入らんと考えていいんですか。
 内田証人 そう考えているわけじゃないんです。けれども、要するに立地評価の場合の事故の想定の基として、放射能が格納容器にどの程度出るかという仮定をしなければならんわけですよ。その仮定に当たって非常に厳しい考え方としてECCSの性能を無視するということで、炉心の溶融したのに相当する放射性物質の放出を仮定するわけです。
 住人側 炉心が溶融するわけですか。
 内田証人 溶融したと考えたときの放射能の放出を立地評価の基にするわけです。
 住民側 炉心が全部溶融するということですか。
 内田証人 溶融するんじゃないんです。溶融はしません。想定事故だと溶融はしませんけれども、どの程度溶融するかということが、性能を無視するときにどの程度溶融するかということがゼロか100%かということでいえるわけじゃありませんので、放出量の評価の基として、100%の溶融に相当する放出量を決めるわけです。
 住民側 だから炉心が全部溶融するという仮定をされるわけですか。
 内田証人 いやそうじゃありません。放射能の放出量の計画の基にそれを仮定しているわけです。


不可解なやりとりである。普通に考えれば、ECCSの性能を無視するということはECCSが機能しないということであり、ECCSが機能しなければ炉心を冷却することはできないので、必然的に炉心は溶融して、圧力容器と格納容器が損傷し、大量の放射性物質が外部に放出されることになる。しかしここで内田は、ECCSの性能を無視することはECCSが働かないという意味ではなく、ECCSはある程度は働くので炉心は溶融せず、ここではただ「炉心が溶融したのに相当する放射性物質の放出を仮定」しただけである、と述べて、「仮想事故」においても炉心溶融は起こらないと強弁している。原子力安全委員会はなぜこのような意味不明な仮定を行うのだろうか。答えは簡単である。炉心が溶融するような過酷事故においては、圧力容器、格納容器がともに破壊され、大量の放射性物質が環境中に放出される。もしそのような過酷事故が想定されるとすれば、それは「原子炉立地審査指針」に反してしまい、伊方に原発を設置することは不可能になってしまう、いや日本のどこにおいても原発を設置することが不可能になってしまうからなのである。

伊方原発訴訟判決

[1978年伊方原発訴訟判決では]
原発が「電力供給のために不可欠」である以上、原発が事故時のみならず平常時の被曝も含めて住民に様々な危険をもたらす可能性があるとしても、行政とその「専門家」が「安全」と認める限りは原発を設置することができるし、安全審査や許可の手続きも公開の下で行われる必要はない、というのである。(略)
[1972年の四日市コンビナート大気汚染訴訟判決]が次のように述べていることと比較すれば、異様な判決であり、司法においても原子力ムラの論理が貫徹されていることがよくわかる。「少なくとも人間の生命、身体に危険のあることを知りうる汚染物質の排出については、企業は経済性を度外視して、世界最高の技術、知識を動員して防止設備を講ずるべきであり、そのような措置を怠れば過失は免れない」。これとは反対に、原発においては安全性をめぐる多くの事柄が「経済性」や「電力供給の必要」のために切り捨てられており、さらには、周囲の環境に放射能汚染を引き起こしても、原因企業は一度として司法によって処罰されたことがないのである。

電源三法交付金という麻薬

電源三法を地域住民への単なる「迷惑料」と見なすことはできない。私たちはむしろ電源三法を、国家がその核エネルギー政策へと原発立地地域を服従化し、その服従化を再生産するための有力な手段である、と定義する。
(略)
 第一に、電源三法交付金はあくまで「交付金」であって、原発の運転を開始すれば、電源三法交付金」とは別に、膨大な固定資産税が地方税として原発立地自治体に入ってくる。[ただし減価償却に従い固定資産税も年々減少する。例:初年度36億円が運転20年目には1.5億円に](略)
 第二に、交付金は(略)建設がまだ正式に決まっていない段階から公布され始め、工事着工の年からその金額は突然大きく跳ね上がる。なぜなら(略)[原発稼働により固定資産税が入るまで]原発立地の「インセンティヴ」を与える役割を果たすものだったからだ。(略)
 第三に、原発の運転開始までは交付金の額が山型に膨らんでいるのに対して、運転開始後はそれよりはるかに低い平坦な水準で安定する。(略)交付金の交付期限は原発の運転開始年までに制限されていた(現在では、運転開始から五年後まで)。しかし、期限が来ると打ち切りになるこの交付金に対して、立地自治体から不満の声が上がるようになったため、政府は、原発の運転が続く限りは継続する交付金を支給することにしたのである。
 第四に、原発が老朽化すると、交付金は増加する仕組みになっている。これは、新規の原発の建設が困難になる中で、原発の寿命を延長し、地元にそれに同意するインセンティヴを与えるという目的(略)
政府は電源三法交付金によって、[事故の危険の増した]老朽化した原発を運転し続けるよう(略)
地方を麻薬中毒患者のように原発に依存させ、その依存から抜け出せないように服従化し続けるものなのである。

原発事故と足尾鉱毒事件の類縁性

足尾の鉱毒被害は、実質的には何一つとして解決していない、それにもかかわらず、あたかも被害は終わったかのように見なされている(略)
[柄谷行人は『文學界』で3.11当日足尾の汚染物質堆積揚が決壊した出来事に注目しながら、福島第一原発事故足尾鉱毒事件の類縁性、近代における出来事の反復強迫性を指摘している。](略)
2011年3月13日付の『朝日新聞』(栃木版)は、「鉛、基準の倍検出 足尾銅山、土砂流出」という見出しを掲げながら、この時の事件の模様を比較的詳しく報じている。
(略)
「堆積場」とは、要するに大量の有害物質が山積みに廃棄されてきた場所のことであり、それらの廃棄物の山は、何ら有効な遮蔽も施されることなく、野晒しの状態で放置されてきたのである。(略)こうした長期的な忘却期間をかいくぐり、鉱毒被害は繰り返し「回帰」してきたし、今後も原因が根治されない限り、いつまでも「回帰」し続けることだろう。(略)
[2015年の豪雨で]福島県飯舘村では314袋、栃木県日光市では341袋の除染廃棄物が流出している。この一事を取ってみても、原発事故の汚染問題が「除染」によって解決するかのように主張する言説が、根本的な欺瞞を含んでいることは明白である。
 前掲記事で見落とせない第ニのポイントは、加害者である古河機械金属鉱毒汚染を否定している、という点である。その古河機械金属の心性は「十分希釈できる」という説明の仕方に見て取れる。この説明に特段の注意が必要なのは、それが水俣においても福島においても繰り返し持ち出される加害側の常套句だからである

宇井純「公害の起承転結」

 日本における批判的科学の位置付けを考える上で、宇井純を無視することは不可能である。(略)
彼は、東京大学工学部を卒業後、塩化ビニル樹脂の生産を手がける古河系列の会社(日本ゼオン)に就職し、製造工程で使用した水銀の廃棄にも関わっていたが、会社を辞めて東京大学大学院に戻った直後、水俣病有機水銀原因説を知って衝撃を受け、公害研究を開始することになる。この異色の経歴ゆえに、宇井純の公害研究の出発点には、「自分は図らずも公害加害者の側に立ってしまった」という痛切な反省が控えている。これは海洋生物の生態を研究していたレイチェル・カーソンとは著しく異なる点だろう。(略)
この「加害者からの出発」という特異な立場が、公害被害者の現場に通い詰めた彼独自の姿勢につながったばかりでなく、公害の諸相を、科学技術の「専門家」としてではなく、批判的かつ社会科学的な観点から考察する方法へと結実したのである。(略)
[汚染]データは基準値以下だから危険ではない、と断定する「客観的」な説明が、実は単なる視野狭窄の産物でしかない、ということが明らかになるだろう。福島第一原発事故後に登場した「専門家」たちには、公害とは科学的な現象であるよりも前に「複雑な社会現象」である、という認識が欠落しているのである。
(略)
 宇井純水俣病患者の元に通い詰めることで到達したのは、公害の被害者は「生きるか死ぬか」の次元で被害を受忍している、という認識であった。加害者と被害者の間には逆転不可能な権力関係としての構造的差別が存在しており、両者の間には公害の実態に関する認識の乖離が存在するのである。(略)
特定の汚染物質の数値に基づいて被害状況を判断することは、「全生活的な差別の全体」を見えなくさせる効果を持っている。
(略)
[宇井による「公害の起承転結」説明]
 公害というものが発見され、あるいは被害が出る。それに対して原因の研究、因果関係の研究(第一段目)というものが始まりまして、原因がわかる。これが第二段目とします。そうしますと原因がわかっただけで決して公害は解決しない。第三段目に必ず反論が出てまいります。
 この反論は、公害を出している側から出ることもある。あるいは、第三者と称する学識経験者から出される場合もあります。いずれにせよ反論は必ず出てまいります。そうして第四段目は中和の段階であって、どれが正しいのかさっぱりわからなくなってしまう。
(略)
宇井純の診断では、公害が発生するや、ほとんど法則的にこの「中和」への過程が反復されることになる。「真実は一つしかないから、多数の反論と並べられると、どれが真実か事情を知らない人にはわからなくなってしまう」。ところでこの言明が、福島第一原発事故後に生じた言論状況を正確に予告している、という点を見落としてはならない。例えば、福島県における小児甲状腺ガン増加の傾向は(略)「そもそもチェルノブイリよりも福島の方が汚染のレベルは低く、甲状腺ガンの増加はありえない」、といった多くの反論によって「中和」されているのである。
 公害加害者の責任は、このような「中和」現象を通して必然的に曖昧化されていく。また、肝心の原因の除去は先送りにされるので、当然ながら被害者の側にますます犠牲がしわ寄せされることになる。この間、公然と加害企業に加担する国々自治体の態度が明白になるばかりでなく、生死の淵に立たされた被害当事者に対して、科学的な立証責任を負わせようとする倒錯的な言論が登場するケースさえあるという。
(略)
[宇井純は『公害原論』で]
 現在の工学部あるいは東京大学全体が、業種別の職業訓練所として、出てすぐ使える人間の養成のために大学はつくられてきたということから、このなかでの研究ないし教育はつねにそれぞれ狭い専門の分野で、自分の見通しうる範囲をできるだけせばめた上で、その狭い分野のなかの序列をきそいあう、あるいは自分の優位性を他の人間に対して主張するというものが研究といわれているものの実態であります。
 ですから公害のように総合的な被害が、たくさんの自然条件の複合した場合に起るような問題に対しましては、狭い専門から見た場合には、しばしばとんでもない見落しをいたします。
(略)
宇井純新潟水俣病民事訴訟のケースを紹介している。(略)
[出廷した「化学」「統計学」「医学」などの「専門家」たちは]個々の専門の枠内で整合的に説明することに終始し、それらの説明同士の間に生じた相互的な矛盾に関してはまったく無頓着であった。
(略)
 このように専門に分けて、その専門のわくのなかだけでつじつまを合わせようとする技術があるかぎり、公害の被害者は救われませんし、その専門のすき間から必ず公害は出てまいります。
(略)
部分的である他ないデータのみに依拠した者たちの「科学」的な姿勢は、彼らの意図如何にかかわらず、公害被害者の「生活の全体」を抑圧してしまいかねない。彼らに欠落しているのは、公害が、公害加害者と被害者との間の非対称的で逆転不可能な権力関係や、必然的に公害加害者の側に立とうとする国家と資本の論理を包含する「複雑な社会現象」である、という視点である。

新装版 合本 公害原論

新装版 合本 公害原論

  • 作者:宇井 純
  • 発売日: 2006/12/01
  • メディア: 単行本

専門家は本当に専門家なのか

津田敏秀によれば、水俣病事件において、医学者たちは率先して「水俣病の専門家イコール神経内科の専門家」という性急な決めつけを行った。まさにこのことが、公害の本質的な理解を阻害し、そして公害それ自体の拡大を促進してしまったのである。(略)
この見地に立てば、原発の専門家は原子力工学者であるとか、放射能の人体影響の専門家は放射線医学者であるといった言説がどれほどいかがわしいものであるかが見えてくる。

公害影響を否認する者

国家と資本の論理に依拠して意図的に公害影響を否認する者、そして意図的ではないが否認する者

原子力安全委員長として「原発は構造上爆発しない」と断言した班目春樹、福島第一原発一号機の水素爆発に際して「爆発弁を作動させた可能性がある」と取り繕った関村直人、「プルトニウムは飲んでも問題ない」、「専門家になればなるほど格納容器が壊れるなんて思えない」と豪語した大橋弘忠(略)
福島県放射線健康リスク管理アドバイザーとして「放射能の影響はニコニコ笑っている人には来ない」と被曝影響を否認した山下俊一は(略)明らかに、国家と資本の論理に依拠して意図的に原発事故とその影響を否認してきた者たちに該当している。
 一方、中川恵一や早野龍五は、必ずしも意図的にそうしているわけではない者たちに該当すると思われる。彼らの「啓蒙」活動を支えているのは、「科学の客観性」を追求してきた立場ならではの強烈な自負と使命感であろう。
(略)
 現在の中川恵一と早野龍五に欠けているのは、いわゆる科学的判断の隙間からこそ公害が生まれ落ちてきた、という歴史的な知見である。その証拠に二人の著作においては、汚染値に関する解説が披露されることはあっても、彼らと同じような学者たちによる安全論にもかかわらず日本各地で公害が繰り返し回帰し、激化してきた歴史については一言の言及もない。要するに、彼らは「科学の中立性」の側に立ちながら、「公害という複雑な社会現象」を直視することを否認しているのである。

再稼働差し止め判決文

著者による大飯原発再稼働差し止め判決文からの引用。
裁判所のデータベースにある全文はこちらに→ 

被告[関西電力]は本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。我が国における原子力発電への依存率等に照らすと、本件原発の稼動停止によって電力供給が停止し、これに伴なって人の生命、身体が危険にさらされるという因果の流れはこれを考慮する必要のない状況であるといえる。被告の主張においても、本件原発の稼動停止による不都合は電力供給の安定性、コストの問題にとどまっている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。

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