- フェンダーのイギリス上陸
- ディック・デイル、どうしてそんなに大きな音で~
- サーフミュージックの流行
- レス・ポール・モデルの失敗
- 孤独な天才技術者レオ・フェンダー
- ジミ・ヘンドリックス
- フェンダー・ベースがキャロル・ケイにもたらした成功
- ビートルズにリッケンバッカーを使わせ続けろ!
- フェンダー社、ビートルズから不評を買う
- CBSにフェンダー社売却
前回の続き。
フェンダーのイギリス上陸
母国のチャートにおけるバディ・ホリーの活躍は短命だった。〈ザットル・ビー・ザ・デイ〉と〈ペギー・スー〉(略)大きなヒットはこの2曲のみに終わった。ところがイギリスでは、バディのシングルはまぎれもない大ヒットを記録した――最初のこの2曲だけでなく、続く〈メイビー・ベイビー〉や〈レイヴ・オン〉といった、アメリカではそれほど受けなかった曲もである。1958年初めにロンドンにやってきたときのバディは、大物とみなされていた。大西洋を渡ってくることのできた真のロックンローラーとして、(ビル・ヘイリーに次いで)2番目という扱いだった。
(略)
バディのイギリスツアーにおける注目すべき瞬間は、3月2日の日曜日に訪れた。クリケッツとして、「ヴァル・パーネルズ・サンデー・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディウム」に出演したのである。イギリス版の「エド・サリヴァン・ショー」
(略)
ステージに立ったバディには自信がみなぎっていて(略)オオカミのような高い声を出すとストラトキャスターを攻め立て(略)弦を叩いた。(略)
クリケッツは3人編成になっていた(略)彼らにあった機材はごく控えめなもの――アコースティックのダブルベース、スタンダードなドラムキット、そしてスピーカーを4発備えたフェンダーのアンプとつないだストラトキャスター(略)にもかかわらず、彼らが出す音量は聞き手がすぐには忘れられないほどの大きさに達した。イギリスの大所帯のジャズ管弦楽団でリーダーを務めるロニー・キーン(略)「あの瞬間」と、キーンが思い出して言う。「自分のようなミュージシャンはもう終わりだと気づいたよ。これが未来の姿なんだとね。彼らにはパワーはほとんどなかった。あったのは会場のマイクロフォンとあの小さなアンプだけ……確かあのベースはアンプにつながれてもいなかったと思う。それでいて彼らは、13人からなるうちの管弦楽団と同じくらいの大きな音を出すことができていたんだ」
(略)ストラトキャスターはイギリスにはほとんど入ってきていなかったため、バディ本人に次ぐ花形とみなされた。(略)宇宙時代を示す輪郭(略)にぎやかな音を聞かせるピックアップ(略)
戦争の恐怖以降に生まれた最初の世代が、演奏するバディを映すテレビを歓喜の眼差しで見ていた。(略)エリック・クラプトン少年にとっては、フェンダーのギターは宇宙からやってきたもののように見えた。未来からもたらされた、可能性を秘めた輝きだった。(略)
その同じ夜、リヴァプール郊外のウールトンでは、17歳で近眼のジョン・レノンが粒子の粗いテレビ画面にかじりつくようにしながら(略)和音のリフを弾くバディの様子をじっと見つめていた。
(略)
イギリスでのコンサートツアーを依頼されたとき、マディ・ウォーターズのキャリアはかつてのピークからは大きく落ちていた。(略)
チャック・ベリーが〈メイベリン〉で世間に姿を現し、エルヴィスとビル・ヘイリーは国民的な大スターになった。マディのレコードの売上は落ちて、持ち直すことはなかった。黒人の若い聞き手は次第に、マディの音楽をスローで田舎っぽく、時代遅れで少しみっともないとまで思うようになっていった。1958年になる頃には、マディはスケジュールが埋まる仕事なら、シカゴ界隈でほとんどどんなものでも受け、出演料が安くても仕方なく演奏するときさえあった。
ただ、マディの人気の低下については、イギリスまで伝わっていなかった。イギリスはフォークとジャズが大流行している最中で、これはマディを招いたバンドリーダーのクリス・バーバーが主導した面もあった。(略)イギリスの白人学生やリベラルな知識人[は](略)マディがシカゴへ出てくる前に作ったようなフォークブルースのレコードを高く評価していた。(略)
マディはイギリスへ向けて出発する2ヵ月前に、ギターを学び直す必要があることに気づいた。彼は1955年頃からステージでの演奏をやめていたが、これは左手をひどく怪我したためで、それ以来一度も手に取っていなかったのだ。(略)ロックンロールの台頭後は、自分の音楽に対する自信をやや失っていた。イギリスツアーでは、伴奏者はピアニストだけとなることから、彼がギターを弾く必要があった。(略)持っていたレス・ポールは盗まれたか、その重さにうんざりしただけなのかもしれないが、結局彼がイギリスへ持っていったのは白いフェンダー・テレキャスターだった。
(略)
セント・パンクラス・タウンホールにやってきた多くの者が予想していたのは、オーバーオールを着てゆっくりとした口調で歌う、ボロボロのアコースティック・ギターを抱えた貧しい小作人の姿だったようだ。
しかし、実際に彼らが目にしたのは、パリッとしたスーツを着た都会のやり手の人物が、薄くて白いフェンダーのギターからとてつもない音量をひねり出す姿だった。マディがテレキャスターで最初のコードを爪弾いてアンプの音を調整するや、ある有名な評論家とその取り巻きは、全員が立ち上がって出ていった。
(略)
アメリカのブルース・ミュージシャンも以前にイギリスをツアーしており、アンプとつないだホロウボディのギターを使った者もいた。だが、マディがフェンダーのソリッドボディを用いて弾いたエレクトリック・ブルースは、まったく異なる体験をもたらした。
(略)
大きなアンプから揺らめくように放たれた、巻きついてくるブルーノートの音の終わりにより、マディは観客を夢中にさせていた。(略)左手の小指に短い黄銅管をはめて出した音は不気味で、強く人情味ある(略)声のうしろで歌われる、歪んだ電子的な声を悲しげに響かせていた。
(略)ジャズやフォークの純粋主義者の中には、エレクトリック・ギターを営利目的のR&Bの象徴と見た者がいた。表現された強大な力に激しくいらついただけの者もいた。(略)イギリス人たちから当初に浴びせられた厳しい非難に傷ついて、同地でのツアーを進めるうちに、アンプの音量を徐々に下げていった。ところが、この批判にもかかわらず、もしくはそのせいかもしれないが、イギリス公演はほぼすべて完売となった。この2週間のうちに、マディは自分の音楽が(略)大西洋の反対側で、耳の肥えた聴衆を得たのを目の当たりにしたのだ。そのことに気づくや、彼は元気を取り戻した。「2ヵ月ほど前まではギターを弾いてなかったけど、これからは弾き続けるよ」と、彼はトニー・スタンディッシュに語っている。「休むのはもう終わりさ――次に休むときは、俺が終わったときだよ」。マディはそれまでに弾いたエレクトリック・ギターをすべて手放していたが、イギリスで使ったテレキャスターは生涯使い続けることになる。のちには赤く塗り直して、ネックも太くした。
このツアーが終わる頃には、あまりにも温かい反応を得られていたため、マディはイギリスに戻ってくる計画を立てると告げた。「やっとわかったのさ(略)イギリスの人たちがソフトなギターと昔のブルースを好きなことがね」。ただ、すでに彼自身の手によって、その部分は変わり始めていた。[観客の中からアニマルズやストーンズが結成される]
ディック・デイル、どうしてそんなに大きな音で~
ビング・クロスビーが、1960年に「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙にこう寄稿している。「ロックンロールが2小節聞こえてきたら、ダイヤルに手を伸ばしているのだ。(略)そして、どうやら私の考えは正しかったらしい。ロックンロールは役割を終えたようなのだから」。(略)何か別のものが音楽の流行りとして取って代わる――それはもしかしたら、自分が好きなスローで静かなバラードかもしれない――と、クロスビーは続けている。
(略)
[除隊したエルヴィスは]不良から感傷的に歌う流行歌手へと変わっていた。リトル・リチャードは引退して聖職につくと発表した。ジェリー・リー・ルイスは13歳のいとこと結婚していること――しかもその子が3番目の妻であることを――イギリスツアー中に報道陣に明かして、上流社会から自ら消えた。(略)[バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンスらが飛行機事故死](略)
ロックンロールの流行の始まりに手を貸したDJのアラン・フリードが、ペイオラ・スキャンダル(略)翌月には、未成年の女の子を州境を越えて連れ出したとして、チャック・ベリーが逮捕され[3年間の法廷闘争後](略)有罪判決を受けて服役した。
つまり(略)クロスビーの主張には、それなりの根拠があったのだ。
(略)
それでも南カリフォルニアでは、元々のロックンロールから派生した特殊な系統が、中流階級のティーンエイジャーの間で生き延びていた。(略)
デュアン・エディの〈レベル・ラウザー〉が、特徴としてグレッチのホロウボディのギターによる金属的な反響音以外はほとんど聞かせず、"ブワーン[twang]"という音を考え出して、非の打ち所のないクールさを放った。同じ58年のリンク・レイによる〈ランブル〉はさらに荒々しく、バリバリと苦しげな音を強調していたが、これはレイがアンプのスピーカーに穴を開けて得たものだった。
(略)
ディック・デイルはLAに移ってきたことで、ハンク・ウィリアムス志望からエルヴィス・プレスリー志望へと進化(略)モンローの映画『恋をしましょう』でエルヴィスを演じる端役まで与えられた。だが、デイルによる初期のロカビリーのレコードは鳴かず飛ばず
(略)
[50年代後半オレンジ郡へ]
エレクトリック・ギターでフォークとカントリー音楽を弾くようになると、ファンが少しついた。(略)
60年7月から、ディック・デイル&ザ・デルトーンズはランデブー・ボールルームにおいて、毎週木・金・土曜の夜8時から真夜中までステージに立った。地元の高校生の間で噂が広まるや、観客は数週間で数十人から数百人へと膨れ上がった。
(略)
フォークナンバーはより力強い曲、それもロックのインストゥルメンタルに取って代わられ(略)デイルのギターは激しいリズムに負けじとリードメロディーを大いに響かせ(略)
ついにはアンプに問題が生じてきた。火が出るようになったのだ。
(略)
彼の望みは、自分のストラトから、最高に厚みがある低くて太い音、腹に響くほど可能なかぎり重厚な低音を出すことだった。
(略)
[デイルとレオは]夜遅くに電話をしては技術的な新しいアイデアを出し合い、レオの家のリビングでくつろぎ、マーティ・ロビンスのカントリーのレコードを聞いたりした。(略)
[レオは助手のタバレスと]改良点を考え出し、開発中だったアンプの新製品の強化版を組み立てた。デイルは1960年には毎週木曜の午後に研究室に立ち寄ると、レオがテストに用いた新しい回路とスピーカーを並べた壁を試した。コンクリート製の研究室内では、彼のギターは機関銃のように響いた。(略)
[翌週デイルが戻って来ると]
アンプはコンデンサが焼けついたかスピーカーコーンが破れたか、もしくはその両方という状態になっていた。望みの音は得られなかったという彼の感想にも変化はなかった。「レオには何度も訊かれたよ。『どうしてそんなに大きな音で演奏する必要があるんだ?』とね」(略)彼が壊したというアンプの数が40個か50個ほどになったところで、タバレスがついにレオに提案した。この問題を本当に理解するには、デイルが実際に弾いているところを見にいかなくては、と。
(略)デイルは自分のギターをいじめ、叩き、切り刻み(略)鋼鉄の咆哮、電気の釘の嵐(略)ランデブーにいる3000人の若者はひとり残らず、身も心も完全に虜になったかのようだった。(略)
レオがタバレスの方を向いた。「ディックが言おうとしていることが、ようやくわかったよ」(略)
ジェームズ・B・ランシング(JBL)社に15インチスピーカーを新たに発注し(略)自社のキャビネットに取りつけ(略)
デイルに言った。「君こそショーマンだ。これは君のアンプだよ」
それが、フェンダー社がひとりのミュージシャンのニーズに応えるために特別に作った、初のアンプだった。このフェンダー・ショーマンは、いわゆるスタックというものの最初のひとつで(略)ロックンロールがロックへと進化していくなかで普及した、そびえ立つようなアンプの配置方法である。(略)
それでもデイルにとっては、まだ物足りなかった。(略)音を吸収する3000人の肉体でいっぱいのランデブーでは、デイルが望む低くて太い音にはならなかったのだ。その新しいJBLのスピーカーをもってしても、彼の演奏には耐えられなかった。JBLのスピーカーコーンを両手で抱えたタバレスが、デイルが弾くダンダンダンという演奏により、ついにはコーン紙の端が剥がれるほどの奇妙な歪みが引き出されるのを見て驚いたのを、デイルは覚えていた。デイルはレオに、もっとパワーが欲しいこと、そしてキャビネットには15インチのスピーカーを1発ではなく、2発望むことを伝えた。
ある日の午後、レオとデイルは研究室でショーマンの微調整を行っていた。(略)
[レオが]スピーカーグリルに耳を当てて、何か気に入らないうなり、それにきしみが聞こえないかと耳を澄ました。(略)アンプにつながれていたギターに何かが当たったとき、音量が目いっぱい上げられた状態のアンプのスピーカーに、レオの耳はつけられていたままだった。(略)ストラトキャスターが85ワットで金属質の強烈な爆音をもたらし(略)レオは鼓膜が破れるのを感じた。(略)
レオは片目だけで生きていけるようにはなっていた。それが今度は、片耳だけで楽器の開発をしていかねばならなくなったのだ。
それでも彼はやり抜いた。(略)高出力トランスと改造したJBLの15インチスピーカー2発をキャビネットに収めた(略)通常のショーマンモデルはフェンダーのカタログに記載されたが、レオが名づけたこの"ディック・デイル・ショーマン"は載らなかった。
このアンプは見事に機能した。(略)1年もしないうちに、デイルのステージは南カリフォルニア界隈で伝説的なものとなった。(略)
デイルのステージを観ることは一種の通過儀礼となった。(略)高校生の歌手にしてソングライターのブライアン・ウィルソン(略)はそのステージのパワー、それにギターのヘビーさに圧倒された。
(略)
サーフィンをカッコいいと思っている者にとって、デイルのインストゥルメンタルは波乗りという爽快な気分になれる体験を捉えているように感じられた。
デイル自身は、オレンジ郡に移って少ししたときにサーフィンを覚えていた。長くて強いその手足は長さ9フィートというホビー社のサーフボードを難なく操れたうえ、色黒の肌と整った体躯は、海に出て波に乗り、太陽を浴びて輝くと、実に神々しく見えた。
(略)
デイルは、自らの圧倒的な音量と催眠術をかけるようなインストゥルメンタルのリズムによって、海が持つとてつもないパワーを再現することを狙いとしていた。(略)
リズムセクションの波を縦横に動くという彼のリードギターの動きには、波乗りをしているサーファーの音が聞こえるも同然だった。この新しい音"サーフミュージック"と知られるようになってきたものでは、エレクトリック・ギターはもはや伴奏でも脇役でもなかった。張り合う歌手さえ存在していなかった。(略)しかも、レオとデイルによるさらなる協力関係のあとには、エレクトリック・ギター自体がウェットな感じの音を出し始めたのである。
サーフミュージックの流行
アコースティック・ギターは自然な豊かさを生み出す。スティール・ギターはほぼ永遠に響く。(略)
だが、アンプを通してそのまま出されたエレクトリック・ギターの音は平板なことも多い。この楽器の最初期から、何か要素を加えて、説得力あるリードボイスになれる個性を持たせる必要があると、ミュージシャンは感じていた――ディストーションのようなもの、もしくはエコーが。
(略)
教会オルガンのエコーこそ、ディック・デイルが求めたものだった。デイルはレオ・フェンダーに、自分のハモンドオルガンには、音にちょっとした震えと多くのサステインを加える、人工的な残響(リバーブ)をもたらすボタンがあると話した。このハモンドオルガンの残響は、オルガン内に組み込まれた、スプリングがある金属の小部屋によって作り出されていた。(略)
レオは、ハモンドのリバーブタンクを取り出すと、個別の箱の中に据えてみた。デイルがそこに自分の声を通す。すると、急に「エルヴィスのような声で歌うことができた」という。次はほとんど冗談でのことだったが、デイルが自分のストラトキャスターをそのリバーブを通して弾いてみた。彼もレオもすぐに気づいたが、かなり驚きのものを発見する。常に存在する身を切るようなストラトのシャープなエッジが、金属製の湿った洞窟内を漂っている感じになったのだ。弦をかき鳴らすと、いつもは刺すように尖っているのに、角が取れて丸くなり、コードが浮かんでいるようだった。デイルの鋭いエレクトリック・ギターが、落ち着いた色合いの染みへと変化していた。リバーブのウェットな雰囲気によってストラトのシャープさがぼやけたことで、水中で光るナイフのように、スリリングなものが同時に存在していたのだ。
デイルがこの音を自分のステージに望んだため、レオは1961年に初となるフェンダー・リバーブ・ユニットを、ディック・デイル&ザ・デルトーンズに進呈した。(略)
デイルのフォロワーたちの多くも(略)この新しい装置によってストラトキャスターの音が変わるのを耳にするや、彼らも欲しがった。
そのようなグループのひとつがシャンティーズだった。(略)
サンタアナ高校の友人たちが集まっただけのグループで、気軽に演奏活動をしていたにすぎなかったが、その年にフェンダー・リバーブを使って、独特の雰囲気を持つメロウなシングル曲〈パイプライン〉をレコーディング(略)国内で100万枚以上を売り上げ、サーフミュージックで最も成功した曲となった。
(略)
[ディック・デイルのおかげでサーフバンドの羨望の的だったが]
〈パイプライン〉の成功後は、ほぼ必須のものに変わった。今やサーフミュージックといえば、まずはフェンダーのアンプを通したフェンダーのギターのシャープさと明瞭さ、続いてフェンダー・リバーブによる水中のような残響と、それが熱を持った際に出るポップノイズやヒスノイズのことになったのである。水中のナイフのようなその特徴を持つのは、レオが手掛けたものだけだった。
(略)
1957年頃には、フェンダーは鮮やかな"フィエスタ"レッドという色を、ギターに施し始めた。楽器をイタリアのスポーツカーのような色に塗るというアイデアは斬新すぎて、ドン・ランドールの販売チームは当初、それを笑い飛ばした。ところが、ジョージ・フラートンが工具店で初めて混ぜ合わせて得たフィエスタレッドは、若いミュージシャンたちの間で大人気となった。フェンダーはすぐさま、デトロイトの自動車メーカーによる色合いと同じギターを売り出した。レイクプラシッドブルー、ファイヤーミストシルバー、シーフォームグリーン、キャンディアップルレッドメタリック、バーガンディミストである。
同社の楽器のクロームメッキのパーツは派手な車の各部品を反映していたうえ、レオによるソリッドボディのエレクトリック・ギターの新モデルは、そういった車の流線型のシルエットにも似合いそうだった。ジャズマスターのボディはアメーバ状の丸みのある形をしていて、1958年に流行った車のテールフィンに合っていた。これはジャズギターとしては成功しなかったものの、サーフロッカーたちは好んだ。
(略)
[ギブソンやグレッチは大人のミュージシャンに売り込んでいたが、フェンダー社]
がターゲットとしたのは若者だった。というのも、楽器店でレッスンを受け(略)買ってほしいと親に頼むのは、若いプレーヤーたちだからである。
(略)
スケボーをしている若者がストラトキャスターをかき鳴らしているもの、ロングボードで波乗りしているサーファーがコードを爪弾いているものなど[に](略)要を得たキャプション――"手放せない関係"をつけて雑誌広告とした。そのメッセージは明瞭で、フェンダーは誰が弾いてもOKということである。フェンダーのギターはプロ用の道具ではなく、レジャー用のアクセサリーだと。
(略)
この当時のバンドを写した写真やレコードのジャケットは、それ自体がフェンダー社の広告にも見える
(略)
ドン・ランドールは1955年に、商品を100万ドル以上売り上げたことで興奮していた。それがサーフィンの熱狂が頂点に達した68年には、フェンダー社の純売上高はわずか3ヵ月間で220万ドルを突破したのである。ある調査によると、フェンダーは同年のエレクトリック・ギターの国内市場で26パーセントを占めていて、11パーセントだったギブソン社を圧倒したという。それでも、サーフィン熱はいつまでも続くものではなかった。
(略)
サーフロックはまぎれもなく上流中産階級的でもあり、その主役はビーチへ行く車もフェンダー・ショーマンのような機材を買う金も持っているティーンだった(同アンプの60年当初の売出価格は天文学的ともいえる550ドルで、現在の4000ドル以上に相当)。
(略)
デイル自身は、大手のキャピトル・レコードと契約してからも、自分の音楽を全国的に流行らせることには、あまり関心がなかった。彼はツアーに出るよりも地元にいて、サーフボードや外国産の猫、スポーツカー、それにガールフレンドたちを相手にするほうを好んでいた。
(略)
[こうしてカリフォルニア・ドリームを大きく異なる形で売り込むのは、ビーチ・ボーイズとなった]
彼らはオレンジ郡では本物とは見られなかった。
国の残りの人たち、つまりディック・デイルのギターのモチーフが(略)波乗り体験そのものだとはわからない聞き手にとっては、明るく響き渡るビーチ・ボーイズの歌声は、南カリフォルニアのライフスタイルをはるかに魅力的に宣伝するものだった。そこにあったのは海の音だけでなく、海についての言葉であり、それに伴われるとされるロマンスと改造車についての言葉だったのだ。
(略)
レス・ポール・モデルの失敗
[サーフロック全盛の頃]
レス・ポールとメリー・フォードは懐メロ路線を突き進み、州の農産物品評会、米軍基地、警察官のダンスパーティー、二流のナイトクラブなどで演奏活動を続けていた。(略)キャピトル・レコードはレスとメリーを1958年に手放したが、コロムビアがふたりを拾い上げ、ロック嫌いのプロデューサーのミッチ・ミラーが、このデュオにまともな大人をターゲットとしたリリースを連発する手助けをした。
(略)
[本当の家庭生活を送りたいメリーは]レスに強いて、1958年4月に新生児の女の子を受け入れ(略)翌年10月(略)男の子を生む。(略)夫妻は子どもたちが小さい間は仕事を減らして、マスコミからは「隠居」と言われた。
(略)
[61年レコード宣伝のため]定期的な巡業を再開した。(略)メリーは、子どもたちと離れるのをいやがった。(略)
レスが人前で見せる優しさは、プライベートでは姿を消すことが多かった。(略)メリーに演奏と巡業の続行を強いていて、もしそれが果たせないのなら、自分はほかの女を見つけて巡業に出ると脅した。(略)
この争いの最中の1961年に、レスとギブソン社との契約が更新時期を迎えた。同社はレスのことをまだ手放したくなかったものの、会社としてはレス・ポール・モデル自体を失敗とみなしていた。(略)[フェンダーに比べると木目調の格調高い楽器]は古臭く見えた。テッド・マッカーティと弦楽器製作者はかなり斬新なデザインをいくつか試していた。フライングV、[稲妻型の]エクスプローラー(略)両者が発表された58年というのは、高級車のキャデラック・エルドラドに長さ2フィートの金属製のテールフィンがついていたときだった。市場ではどちらのギターも惨敗に終わった。
これらと同年に売り出された、かなり従来型をしたモデルは、すぐさま人気を博す。ギブソンによるES-335はセミホロウで、アコースティックの薄いボディには、ハウリングを抑えて、レス・ポール・モデル並みのリッチなサステインをもたらすソリッドブロックが埋め込まれていたが、はるかに軽量だった。このギターは、ジャズ、カントリー、ブルース、それに少数のロックンロールのミュージシャンの間で人気となった(略)冷え込んでいたギブソンを代表するソリッドボディ――重くて安定性に欠けるレス・ポール・モデル――の売上を苦しめた。
そこで1960年に、ギブソンはとうとう見切りをつけると、まったく新しいギターを作って、それにレス・ポールの名を冠した。これは"ソリッドギター"を意味するSGの名の方で知られるようになる(略)
かつては自社の優秀さに自信を持っていたギブソンの弦楽器製作者が、(ボディの形と軽量という点における)快適さこそ最も重要というフェンダーの信念に屈したわけである。
(略)
レスはこのギター――新たな"レス・ポール・モデル"と銘打たれたもの――を、ある日の楽器店で初めて目にしたという。「形が気に入らなかった(略)あの鋭いホーンでなら、人が自殺できるよ。ボディはあまりに薄いし……ネックは細すぎて、ボディとのつなげ方も気に入らなかった。木が十分になかったから」。だが、この木の少なさこそがポイントのひとつだった。SGの重さはわずかに7ポンドほどだったのだ。一方で、レスはギブソンと契約を交わしていたことから、自分の名を冠したそのギターを弾く義務を依然として負っていた。そのため、1960年代初頭の宣伝写真には、真新しい赤と白のギブソンSGを抱えたレスとメリーが写っている。その細くて尖ったギターは、ふたりが浮かべた作り笑いと同様に、場違いで奇妙に見えた。
ある夜、シカゴのホテルでレスと口論になったメリーは(略)家族の温かい抱擁を求めてLA行きの飛行機に飛び乗った。(略)
レスはメリーに対して、もし離婚を考えているなら、子どもの親権は自分が手にして、彼女には一銭も渡さないと告げたという。(略)
メリーは約14年連れ添った夫に対する裁判別居を申し立て、虐待および扶養不履行でレスポールを訴えた。
(略)
レスは反訴を提起し、メリーが"ほかの男たちと……隠すことなく公然とつきあって"いて、さらには彼と知り合う前にも不貞行為を働いていたという、広く噂された訴えを主張した。
(略)
2週間後、ジョン・F・ケネディ大統領がダラスで暗殺されて、戦後に残っていた純真さがアメリカから失われた。
(略)
[メリーは50万ドルで調停に応じた]
ふたりのステージでは彼女こそ声であり顔だった(略)
彼女がいなくてもレスは立派なサイドマンに(略)革命的なギタリストになったかもしれない。だが、ポップスターには絶対になれなかったと思われる。
レスとの離婚でメリーが望んだ唯一のもの――子どもの親権――を、彼女は手にできなかった。パサデナ出身の茶目っ気ある牧師の娘だった彼女は(略)夫と争ううちに、次第にアルコール依存症と鬱病に陥っていく。(略)
レスはギブソン社とのエンドースメント契約は更新しないことにしたが、その契約を交わすと、今後の収入の一部をメリーに要求されるかもという懸念があったほかに、自分の名前が冠された新モデルがどうしても気に入らなかったからでもあった。この契約が切れると、ギブソンはその薄いギターをSGと改名する。オリジナルのカラマズー製で、ソリッドボディでシングル・カッタウェイの分厚いギターは、楽器店の店頭からはじきに姿を消して、質屋の棚を飾るようになった。この時点でレスに関するあらゆるもの楽曲、楽器、ステージーは、忘却の彼方へ向かいつつあるようだった。
(略)
孤独な天才技術者レオ・フェンダー
(略)
レオが何人かの従業員と一緒に技術的な問題に取り組んでいたときだった。「あの人はみんながしゃべっている内容に、ずっと耳を傾けているんです。『実は、これが問題で、これこれがこういうわけで』といった話に。すると彼が部品か何かを持ち上げて、それを直してしまうんです。あっという間に解決するので、誰もが口をぽかんと開けて立ちつくすのですが、彼は何かをひけらかそうとしたわけではありません。『ただ、理解できただけなんだ。みんなの話を聞いていたら、わかったんだよ』といった感じなんです」
それでも、ほとんどの従業員にとってレオ・フェンダーとは、工場の第6棟をすべて占める研究開発用の研究室にいる、孤独な天才だった。伝説の人物であり、存在しないも同然だった。ある日のこと(略)
[台車に箱を積んだ17歳の新人が年上の従業員とぶつかりそうに]
「そんなにたくさん積まなかったら、もう少しうまいこと運べるんじゃないのかね?」(略)
「俺よりうまくできると思うんなら、あんたが運べばいいじゃないか」と、シモーニは言い返した。相手の男は頭をかいただけで、立ち去った。シモーニが第1棟にたどり着くと、そこの係の人ににらまれた。「お前、やらかしたな」「なんのこと?」(略)
「お前がさっき、ひどい口を利いた相手が誰か、知らないのか?あれがレオ・フェンダーだよ!」(略)
多くが似たような経験をしていて、自分たちのうしろでうろうろしている物静かな人が、すべての製品にその名が記されている人物と知って、ハッと驚くのだ。
(略)
1963年、フェンダー社にわずかにいる販売員で、年間の稼ぎが3万5000ドル――現在の27万ドル以上に相当――に達しない者はひとりもいなかった。ある者は3年以上も連続で10万ドルを稼いでいて、そのほとんどが手数料だった。57年以降、同社は販売員を新規で採用していなかったが、その間の売上はおよそ600パーセント増を記録していた。(略)
屋内のスペースが足りなかったため、アンプの完成品を入れた出荷用の木箱は建物の外に積み置かれ(略)フラートンの乾いた日差しにさらされた。(略)
多くの製品で14~16週に及ぶ受注残が生じ、これは推定で150万ドル分にも達した。工場で製造できる見込み以上のアンプやギターの注文を受けないよう、ランドールは販売員に指示しなければならなかった。
(略)
アコースティック部門を始めたが、その楽器の設計を行うのはリッケンバッカー社でホロウボディのエレクトリック・ギターを手掛けていたロジャー・ロスマイズルというドイツ人の弦楽器製作者で、同部門には工場が必要だった。レオは何年間か、ハロルド・ローズという仲間の職人による実験にも興味を持っていた。エレクトリック・ピアノの製造である。その技術は非常に複雑で、レオとハロルド以外のほぼ全員がうまくいかないと思っていたが、それでもレオは投資した。このプロジェクトにもスペースが必要だった。
(略)
[自分が好きなC&Wはすたれ]大きな音でギターを弾くディック・デイルのフォロワーたちを見ても、レオには自分の居場所ではないように思えた。その世界の構築に手は貸しても、自分の居場所はどこにも見当たらなかった。
激しい不安にたびたび見舞われて苦しんでいたレオは(略)ふたつの結論に達した。ひとつは、真空管が(略)トランジスタに取って代わられたように、自ら学んだ電気に関する技術も、じきに用済みになるといこと。
もうひとつは、レンサ球菌感染症と、ほかにもいくつか抱えていると感じる健康上の問題から、自分の命はそれほど長くないということである。
(略)
レオはランドールに、自分が所有しているフェンダーの会社の半分を彼に売り渡すと告げたのだ――それも100万ドルで。
ランドールは唖然とし、驚きのあまり返事ができなかった。
(略)
ジミ・ヘンドリックス
チトリン・サーキット(略)ジミはすぐに、サイドマンとしての自分の決まったパターンに、派手な動きを盛り込み始めた。ギターを背中に回して弾く、歯を使って弾く、ギターをファックしているような動きをする、両膝をついてソロの演奏を行う、高音を出す際に最前列の女性たちに向けて舌を素早く動かしてみせる、などなど。(略)ジミを雇った者たちは、あまりいい顔をしなかったが。
「5日間は問題ないんだ」と(略)ソロモン・バークは振り返った。「それが次のショーになると、彼は曲とは関係のない激しい動きを始めるんだよ」。バークは結局、巡業中の南部の道端に、ジミを置き去りにすることになる。
リトル・リチャードとのツアーでは、ジミは一度、フリル付きのシャツを着てステージに立ち、スターから怒声を浴びせられた。「リトル・リチャードは俺だぞ!(略)かわいい格好をしていいのは俺だけなんだ!」
(略)問題だったのは、彼がステージの"端にいられない"ことだった。どこだろうと、彼が立つところがセンターになったから。
フェンダー・ベースがキャロル・ケイにもたらした成功
(略)サーフロックかポップス――のレコーディングに、キャロル並みの腕を持つジャズ畑出身のミュージシャンを使うのは、アリ塚を壊すのに核弾頭を用いるようなものだった。キャロルがいちばん好きなビバップというジャズのスタイルは、ほかには見られないほど頭も指も使った。(略)
1963年までに(略)キャロルが名声を得てきた何百ものジャズクラブは、店じまいをしたか(略)ロッククラブへと姿を変えていた。(略)
3時間のレコーディング・セッションに対するその年の最低賃金は66ドル(略)
自分の嫌いな音楽を演奏することで、キャロルはいい稼ぎを得ていた
(略)
プロデューサーは、キャロルが車のトランクに入れている、改造されたダンエレクトロの6弦のベースギターを扱えることは知っていた。ただ、1963年のその日にレコーディングに現れなかったのは、フェンダー・プレシジョンベースを弾く人物だった。(略)借りてきたプレシジョンベースが彼女の前に置かれると、自分でうまくできそうだと思うメロディーを弾いてみるように言われた。その楽器に張られているのは6本の細い弦ではなく4本の太い弦で、ネックはエレクトリック・ギターやダンエレクトロのベースのものよりも格段に長かった。キャロルがそれまでに一度も弾いたことがないものである。(略)
このセッション後、キャロルはハリウッドにある楽器店(略)へ行くと、自分用にフェンダー・プレシジョンベースを2本買い求めた。そしてまっすぐ家に帰って、練習を始めた。
(略)
キャピトルでのセッションが始まると、そのエレキの4弦がスタジオのアンサンブルにおいて重要な位置にあり、またとない機会を自分に差し出していることに、彼女は気づいた。そのフェンダー・ベースは、ドラムの純然たる衝撃音を、グループ内のほかのあらゆるメロディー要素と結びつけていたのだ。(略)レオ・フェンダーが手掛けた斬新なエレクトリック・ベースを弾いているうちに、彼女は"バスの運転手"と自ら思うものになっていた――ドラマー以外の全員が従うべきプレーヤーという存在に。(略)
[さらに]進むルートも自ら選べるようになり、ジャズにおいて自ら考えついた流れるようなメロディーを利用できたのだ。
キャロルが運転手役となって舵を取るメリットは、彼女がフェンダーの4弦と初めて出会ってから数ヵ月後にレコーディングした(略)オージェイズによる〈リップスティック・トレイセス〉の冒頭部分で明らかである。彼女が弾くプレシジョンベースは激しく躍動して、曲を先へ進める低音域へと弾性エネルギーを押し込んでいく。彼女とアール・パーマーのドラムがしっかり組み合わさり、両者は混ざり合うかのように、ひとつの重厚なビートになる。キャロルが重いピックで弾くことで、その電気楽器はリズムに存在するあらゆる繊細さを目立たせていく。パーマーによるキックとスネアドアラムが彼女のベースの進行を強調し、キャロルも彼のつなぎを強調しながら、ふたりして攻撃的なグルーヴを切り出していくのだ。
(略)
低音域で"バス"を動かしながら、当時の単純な流行歌内に複雑なルートを考え出すことで、スタジオでのかつてのギター演奏では得られなかった喜びが、自分自身にもたらされたのだ。
(略)
彼女は地元の音楽家組合の名簿にある記載を変更して、ギターだけでなく"フェンダー・ベース"の欄にも自分の名前を加えた(略)
じきにキャロルは、LAの多くのプロデューサーがレコーディング・セッションで最初に声をかけるベース奏者となった。仲間のベーシストがテレビ番組で音楽監督をするために現場を去ると、彼女にはますます仕事が舞い込んだ。キャロルは1964年には、3時間のセッションで104ドを稼ぐようになった。ガソリンが1ガロン[約3・8リットル]で30セント、彼女のローンの支払いが月に233ドルだった当時では、天文学的な金額である。
(略)
ビートルズにリッケンバッカーを使わせ続けろ!
そのバンドはアメリカではまだ存在をほとんど知られておらず(略)
イギリスのティーンエイジャーの間で新たなものが流行っていると、訝しげに伝えていた。(略)
彼らが体の前に抱えていたのが、ホールが手掛けているリッケンバッカーのエレクトリック・ギターだった
(略)
12月末になると、モリスはさらに興奮した様子で伝えてきた。「リッケンバッカーのギターのメーカーとしてビートルズのマネージャーにコンタクトを取り、彼らの来るアメリカ訪問の際に、ある程度の宣伝を展開すると申し出たら、素晴らしいことになるでしょう」(略)3日後には、キャピトル・レコードがついにシングル〈抱きしめたい〉を発売し、大々的な宣伝キャンペーンを同時に打って、アメリカでビートルマニアが始まった。
(略)
ホールは[「フェンダーの宣伝係にはご注意ください」という]販売代理店の助言に従って、ビートルズがNYを訪れる際に、マネージャーのブライアン・エプスタインと会う約束を取りつけた。(略)「[この面会のことは]誰にも漏らさないように」と、ホールはバックナーに伝えている。「彼らがNYに来たときに私も現地にいることは、ライバルたちには知られたくないから」
(略)
アメリカのティーンたちは、「エド・サリヴァン・ショー」でストラトキャスターやプレシジョンベースは見かけていたし、ギブソンについては親が持っているジャズのレコードのジャケットで目にしていた。だが、このビートルズが腕に抱えているものはいったい?ポール・マッカートニーがかき鳴らしているのはビオラの形をしたエレクトリック・ベースで、ドイツのヘフナーという会社のものだった。その夜のジョージ・ハリスンが選んだのはリッケンバッカーではなく、NYのグレッチ社製のカントリー・ジェントルマンというギターだった(略)
ビートルズが3分間でアメリカを制覇した際にその楽器に気づいたランドールは、体が震えたに違いない。(略)
レノンが大西洋の向こうから持ってきて、アメリカの音楽を変えることになるギターは、リッケンバッカーのモデル325だったのだ。ランドールは、彼とレオの元パートナーが手掛けた楽器が、ビートルズのリードギタリストの肩で揺れるのを、指をくわえて見ていることしかできなかった。
(略)
一方で舞台裏にいたホール自身は、NYのサヴォイホテルのスイートルームでミニチュア版の見本市をセッティングして、ビートルズとの顔合わせの準備をやきもきしながら進めていた。彼は、グループ側が求めるものは、ほとんどどんなものでも提供するつもりだった。
(略)
サヴォイに到着したビートルズのメンバーの前にはリッケンバッカーの各モデルが並べられていて、楽器を実演するためにホールが連れてきたプロミュージシャンのトゥーツ・シールマンスもいた。(略)
ポール・マッカートニーはエレクトリック・ベースを試してみた(略)自分のヘフナーと比べて重すぎると感じたのか、それともホールが用意したのが(略)右利き用だったのか。いずれにしろ(略)マッカートニーはリッケンバッカーの4弦は見送った。
ホールが用意していたギターのうちの1本は実験的なニューモデルだった。(略)
セミホロウで12弦のエレクトリック・ギターで、光り輝く薄い赤色で仕上げが施されていた――まだ市場に出ていないリッケンバッカーの試作品だったのだ。
自分のバンドメンバーが12弦ギターに興味があると知っていたレノンが、ハリスンに試させたいと口にした。だが言うまでもなく、インフルエンザにかかったハリスンはその場にいなかった。(略)全員が――ホール、ビートルズ、エプスタイン、さらにはおそらくシールマンスまでもが――コートを羽織ってセントラルパークを抜け、プラザホテルのハリスンの部屋へ向かったのである。
(略)
ハリスンが試作品のリッケンバッカーの12弦でちょうどコードを試しにかき鳴らしていると(略)ラジオ局が、彼の部屋に電話をかけてきた。(略)何をしているのかとDJが尋ねる。彼は新しいギターを試しているところだと、生放送で答えた。電話の向こう側から、そのギターは気に入ったかと訊く声が飛んだ。「ああ」と、ハリスンはそっけなく答えた。「リッケンバッカーだから」。彼のために買い上げましょうとラジオ局が申し出るも、ハリスンには無償で提供すると、ホールは言い張った。
この当時のレノンは(略)ハンブルク時代から擦り切れるほどかき鳴らしてきた、1958年製のリッケンバッカー・モデル325を頼りにしていた。(略)ホールはレノンに(略)新品の黒のモデル325で、3個のピックアップと白いピックガードがついたもの[の提供を申し出](略)マイアミにいる当月中に、彼の元に届けられることになった。(略)
[大満足のホール]でさえも理解できていなかったと思われるのが、自ら成し遂げたことの大きさだった。レノンが手にする新しいモデル325は、グループのその後のキャリアにおいて長らく共にあり、彼が深く関わるギターとなる。ハリスンも赤い12弦をすぐさま使い始めることになって(略)新曲〈ア・ハード・デイズ・ナイト〉の印象的なオープニングコード(およびそれに続くあらゆるコード)を弾いたのだ。
したがって、ビートルズと過ごしたほんの1、2時間で、F・C・ホールは(略)ビートルズとリッケンバッカーの関係が何十年も続くようにしたのである。まもなく、リッケンバッカーのロンドンの販売代理店は、自社モデルの一部を"ビートル・バッカー"として宣伝(略)ビートルマニアの波に[乗り](略)リッケンバッカーの小さな工場を大々的に拡張することとなる。(略)
フェンダー社、ビートルズから不評を買う
半年後にレオが提示した金額は、150万ドルになっていた。(略)1963年8月にはこの数字は200万ドルにまで上がっていた。
買い手にとっては、実にお買い得だったことだろう。というのもフェンダー社はじきに、四半期ごとの商品の売上が200万ドルを記録して、毎年の税引前利益が100万ドル以上になるのだから。だがランドールは、今回のような形でレオの権利を買い取ることには大いに慎重だった。(略)レオとの関係は問題を抱えていたが、ランドールはパートナーをだますようなことはしたくなかった。「私がもし今買い上げたら、来年の今頃は、あなたは私に奪われたと言うでしょう(略)あなたは私を憎むことになる」
その一方でランドールは、フェンダーの会社はレオの考えよりもはるかに価値があるのではとも思っていた。そこで彼は外部の企業による買収を進めてみることにした。
(略)
[ビートルズへの]働きかけには、フェンダー社にとって異例のものが含まれていた。現金である。
「これは巨額でした。それだけは言えますね」と、ランドール(略)
ほかの情報源によると、フェンダー社の申し出額は1万ドルだったという――1964年には、シボレー・コルベットの新車を2台買えるほどの金額だ。言うまでもなく、ビートルズはこの金に加えて、フェンダーの機材を望むだけいくらでも無償で手に入れられるのである。(略)
ランドールがビートルズに会いになぜ自ら足を運ばず、広告ディレクターのジム・ウィリアムズを行かせたのかははっきりしない。(略)[大事な取引時には]ランドールは自身の率直さと魅力を自ら持ち込んで、それでたいていうまく事が運んでいたのに。
そのウィリアムズはというと、目も当てられない状態となった(略)[緊張をほぐすため一杯ひっかけ]スタジアムに赴いたときにはできあがっていて、ビジネス的に許される気安さ以上の態度を取ってしまったらしい。[さらに金額を提示したことが不作法と取られ、エプスタインにすら会えず]
(略)
ビートルズ側の回答はシンプルで、"メンバーはこれまでの機材でうまくいっていので、このまま使い続ける"という内容だった(略)
ビートルズは彼らの機材を使ってこそいなかったが、その製品のことは好意的に見ていた。その会社が不作法な感じで申し出たことで、同社自体が横柄かつ焦っているように見えてしまったのである。
(略)
CBSにフェンダー社売却
フェンダー社の買収に本格的な関心を最初に寄せたのは、オハイオ州のピアノとオルガンの大手メーカー、D・H・ボールドウィン社だった。(略)
1964年の7月までにボールドウィン側が出した数字は[1000万ドル](略)
(略)
[エレクトリック・ギター市場参入が目的のため]
アコースティック・ギターとエレクトリック・ピアノの事業は望んでいなかった。だがランドールは、両事業にレオが投資した費用の4万ドルほどは、少なくとも同社が彼に与えるべきと主張した。
(略)
[話を詰めるころには、CBSも買収話に参入]
クライヴ・デイヴィスはその夏の間、成長を続けるCBS帝国にフェンダー社を加えるのは得策なのか、またCBSはこのカリフォルニアの会社を適正価格で手に入れられるのかを見極めようとした。
担当者がフェンダー社を訪れて、部長や販売員らと面談し、カタログを調べたり鋭い質問を投げかけたりしても、フラートンの工場でもサンタアナの販売会社でも、自分たちを雇っている会社の所有者が近々変わるかもと思った者はひとりもいなかった。
(略)
1964年の秋、アーサー・D・リトルのコンサルタントたちが、フェンダー社の過去、現在、未来の分析に加えて、エレクトリック・ギター業界全体の評価をまとめた、40ページに及ぶ報告書を発表した。(略)
「まぎれもなく、フェンダー社の名前は業界内で非常に高く評価されている」と、報告書は記している。(略)フェンダーに対して初めから有利な点を持っている競合他社はあるかとの問いは、次のひと言で結論づけている――「ない」。(略)
「フェンダーのアンプは、蹴られても落とされても、揺らされても熱を持つ事態になっても、優れた性能を変わらずに発揮し続ける」と説明している。改善すべき点はないとする一方で、コンサルタントたちは同社に大卒の技術者がいないことに仰天し、「ほぼすべての工学技術の才能はフェンダー氏本人に集中している」と知って驚いている。会社全体に正規教育が欠けていると、彼らは見て取ったのだ。全国に散らばるフェンダー社の販売員9名については(略)「我々が話を聞いた販売員たちに見苦しさはなく、意見をはっきり述べて、販売に関する熱意とやる気に実に満ちていた一方で、社会的な洗練さの面では、やや粗さも見られた。大学の学位を持っている者は、たとえいたとしてもごくわずかである。彼らは自分たちが従事している種類の職業には非常に向いているようで、仕事ぶりは確かにいい」
ほかにもコンサルタントたちにとって衝撃だったのが、レオとランドール(略)上級幹部に加えて、販売員が手にする「かなり高額の給与」だった。注目すべきことには、このコンサルタントとの面談の際に、ホワイトとランドールは、販売会社と工場の関係が機能不全に陥っていることを徹底して隠したらしいのである。(略)
ランドールはコンサルタントたちに気に入られていた(略)
報告書では、ふたつの条件を設けてCBSにフェンダー社の買収を勧めていたが、その条件とは妥当な価格であることと、「仕事に熱意を注ぐランドールを確保すること」だった。このフェンダ・セールス社の社長は、マーケティング活動には不可欠な存在であるうえ、社員から「強い忠誠心」を得ていると見られたのだ。(略)
一方で、独習で技術を得て、片方の目が悪く、今や片方の耳も悪くなっている(略)レオ・フェンダーについては(略)「新製品において"正しい進め方"となる、比較的些細な設計上の特徴に早くから気づくという、やり手で現実的な考案者の才能がある」[としつつも](略)
1964年のフェンダー社には合っていないと、かなり正確に見ていた。「(略)彼は明らかに成長志向の人間ではない。一方でランドール氏の方は、拡大が続く活動範囲を大いに満喫している」(略)
新製品の開発については、「(略)フェンダー氏並みの積極的関心と創造性を確保することが、非常に望ましい」[が](略)CBSの技術者なら、ヒットする電気楽器の新製品を自分たちで設計して売り出すことは間違いなく可能だとほのめかしている。
(略)
ブリティッシュ・インヴェイジョン(略)が、アメリカのティーンの間にエレクトリック・ギターに対する興味を急増させたため、ランドールはその新たな状況を最大限に利用した。(略)ボールドウィンとCBSの双方と交渉を進めていた際に、注文はできるだけすべて受けるよう販売員に指示(略)工場の受注残がさらに増えたことで、NYとオハイオの双方の交渉担当者は莫大な利益が得られると思い描き、ランドールの見ている前で、とりわけCBSからのオファーの額はどんどん増えていった。(略)
[結局、CBSとの]契約の総額は1300万ドルに達した(略)
そして――重要なことに――アコースティック・ギターおよびフェンダー=ローズのエレクトリック・ピアノの両部門が入っていた。(略)
ランドールはCBSの新部門フェンダー・ミュージカル・インストゥルメントの副社長兼本部長としてとどまることになり、5万ドルの給料(ボーナス付き)とNYの役員室が与えられ(略)レオは設計顧問として5年間雇われるが、競合する仕事は10年間はできないことになった。(略)トタン造りの小屋2棟とラジオパーツの卸問屋からスタートしたフェンダー社が、可能性を秘めたCBSの新部門にまで成長を遂げたのだ。
(略)
CBSによる買収は1965年1月5日に公式発表され(略)
レオとエスターのフェンダー夫妻あてには、573万5000ドル[当時の日本円で約20億円]という小切手番号8339がコロムビア・レコード販売会社から振り出された。レオはそれを受け取りに、わざわざNYへ出向く気になれなかったので、ドン・ランドールがひとりで赴き、彼の小切手と自分の分(526万5000ドル)を、それぞれの銀行口座に預け入れた。追加となる200万ドルについては第三者預託とされ、2年後に分配される予定だった。
(略)販売会社と工場には[問い合わせの電話が殺到したが](略)答えを知っている者はひとりもいなかった。(略)
するととうとう、工場内の放送設備からレオの鼻声が響いてきた。「みなさんに重要なお知らせがあります。みなさんが耳にした噂は事実です」(略)レオはこれまでの経緯を自ら説明して、従業員の間に広がる不安を鎮めようとした。みなさんが仕事を失うことにはなりませんので、心配は無用です彼はそう告げた。「私もこのまま、ここにいますので」
このように請け合われても、従業員はショックに包まれた。
(略)
AP通信の記事は、こう問いかけた。「価値が高いのはどちらか――ギター工場か、それともニューヨーク・ヤンキースの経営権か?」。
[CBSは1120万ドルでヤンキースの株の8割を獲得していた]
(略)
自身のライフワーク、わが子ともいえる存在、それに何より自らの名前を、レオは東海岸の一大企業に引き渡そうとしていた。
(略)
学位を持たない元商品補充係のドン・ランドールは(略)ウッドパネルが張りめぐらされたマンハッタンの会議室で果てしなく続く会議に出て、アイビーリーグのエゴが渦巻く中で話し合いをしながらも、バランスシートには出てこない細部にはまったく関心を示さないコングロマリットの実情を目の当たりにすることになる。
(略)
自分の素晴らしい上司で、このフラートン全体に広がる土地の所有者が、正面ゲートから出ていくのをホワイトが目にする最後の夜となるのだ。
「君がいなかったら、どうなっていたことか」と、レオが声をかけた。(略)
レオは返事を待つことなく、アクセルを踏んで駐車場を永遠にあとにした。(略)
[工場長の]ホワイトはすすり泣きながら、レオの車が見えなくなるまで、いつまでも見送り続けた。
次回に続く。
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