言葉はいかに人を欺くか:嘘、ミスリード、犬笛を読み解く

217ページからの

「附録 犬笛、政治操作、言語哲学」だけを読んだ。

リー・アトウォーター、共和党「南部戦略」について語る

 私たちは一九五四年には「N*****, n*****, n***** [黒人を指す蔑称]」と言っていました。それが、一九六八年までには言えなくなりました。そんなことを言ったら痛手になります。逆効果になります。それで、強制バス通学や州の権利などと言ったわけです。私たちはますます抽象的になってきていて、[その結果]今では減税をすると話しているんです。私たちが話しているのは、みんな完全に経済の事柄なんですが、その副産物として黒人は白人よりも損害を被るのです。無意識では、そのことも[政策や話の]一部なのかもしれません。私はそう言っているわけではないんですよ。私が言っているのは、これだけ抽象化されていて、これだけコード化されているなら、私たちはどのみち人種問題をやりすごせているということなんです。お分かりですね。当然、「私たちはこれをやめたい」とだらだら言うのは、強制バス通学よりもはるかに抽象的で、「N*****, n*****」よりもずっとはるかに抽象的ですから。

 ――リー・アトウォーター

[一九八一年のインタヴュー。アメリカ共和党の政治コンサルタントでプッシュ・ポール等を実践。このインタビューでは、黒人差別に訴え白人の票を集めるという共和党の「南部戦略」について語っている]

犬笛

「犬笛」とは政治における比較的新しい用語で、一九八〇年代にアメリカの政治ジャーナリズムで誕生した。

(略)

 キンバリー・ウィッテン[社会言語学]は、犬笛について研究している数少ない言語学者の一人である。彼女がとりわけ注目するのは、私があからさまで意図的な犬笛と呼ぶ種類の犬笛で、それに関する彼女の定義は、優れている。

 

 [あからさまで意図的な]犬笛は、二つのもっともらしい解釈ができるよう、意図的に設計された言語行為である。一つの解釈は、ある私的なコード化されたメッセージで、一般的な聴衆の一部に向けられる。そのメッセージは一般的な聴衆には隠されているため、彼らは二つ目のコード化された解釈の存在に気づかない。

 

(略)

 ジョージ・W・ブッシュは、[大統領再選に向けた]選挙運動の期間中、自分の信仰に関わる難しい状況に直面した。彼はどうしてもキリスト教原理主義者の票が必要だったが、他の多くの人々――総選挙にはこの人たちの票も必要だった――が原理主義(略)に神経質なのも明らかだった。ブッシュのスピーチライターたちが講じた解決策は、原理主義者たちに犬笛で呼びかけることだった。その好例が、二〇〇三年の一般教書演説(略)におけるブッシュの発話だ。

 

 しかし、力が、奇跡を冠こす力が、アメリカの人々の善良さと理想主義との信念のうちにはあるのです。

 

 原理主義者でなければ、これを聞いても薄っぺらな政治的な決まり文句からなる平凡な一文だと気にもかけずに聞きすごすだろう。だがキリスト教原理主義者なら犬笛を聞きとる。原理主義者の間で、「奇跡を起こす力」はキリストの力を明確に示す表現として好まれるのだ。

(略)

ほとんどの白人有権者は黒人が生まれつき自分たちより劣るとか、人種隔離を法的に強制すべきだという主張を支持しない。

(略)

 別の時代だったなら、堂々と人種差別する有権者に呼び掛けるために、露骨に人種差別的な見解を明示的に表現していたかもしれない政治家が、現代では、「人種的な不満を覚える」有権者に、彼らとある種の心理的な同類だという合図を送るために、より巧みな手段を模索しなくてはならない。人種差別が明示的である犬笛は機能しない可能性がある。

隠れた犬笛

 隠れた意図的な犬笛の最も有名な例は、ウィリー・ホートンの広告である。ジョージ・H・W・ブッシュは、マイケル・デュカキスとの選挙戦でこの広告を使用し、大成功を収めた。この広告は、一時出所した[殺人罪終身刑に服していた] 受刑者ウィリー・ホートンについて語ることで、デュカキスの知事時代に実施さにれた、受刑者の一時出所の制度を批判した。ホートンはあるカップルの自宅に侵入し、女性をレイプし、男性を刺した。広告は人種について一切言及しない。だが、広告の画像はウィリー・ホートンの写真で、ホートンは黒人である。ブッシュの選挙キャンペーンはホートンを重要な問題にしたてあげ、それを機にニュースで大々的に放映されることになった。

 ウィリー・ホートンの広告が出る前は、デュカキスの方が世論調査で大幅に優勢だった。広告が放映され、議論が始まると即座に彼の支持率は急落し始めた。ほぼこの期間中、この広告は人種に関連づけて議論されることはなかった。それが議論されたのは、選挙運動における犯罪の役割やネガティヴ・キャンペーンの話の一部としてだった。しかし、かなり後になってジェシー・ジャクソンはウィリー・ホートンの広告を「人種差別だ」と言った。その時には、彼の告発はきわめて懐疑的に受け止められ(今ではきわめて広く受け入れられているが)、民主党員が「人種のカードを切っている」として不当な試みと見なされた。だが、これについては広く議論された。人種差別の可能性が提起された途端、広告は暗示のレベルでは完全に機能しなくなった。視聴者は人種に関わることが起きている可能性を考え始めたのだ。この時点で、デュカキスは再び世論調査で支持率が回復し始めた。これはひとたび人種について明示的に議論されると、広告が効果を失ったことを示す。

(略)

 アメリカでは、「インナーシティ」[字義的には大都市中心部を意味するが、「スラム」を暗示する]が黒人を意味する犬笛として機能するようになった。したがって、もし政治家が黒人犯罪者への厳しい対策を訴えれば強く非難されるだろうが、インナーシティにおける犯罪の取り締まりならそのような心配なく呼びかけられる。

(略)

 一九八〇年代を通してアメリカでは、共和党が一丸となって、財政支出と人種的マイノリティを関連づけようと取り組んでいた(略)。この取り組みは非常に大きな成功を収めた。例えば、政府の支援に関するメディア報道は、支援の受給者の中で黒人は少数であるにもかかわらず、黒人の支援受給者に偏って焦点を当てるようになった。この取り組みの結果、「財政支出」のような言葉でさえも、いまや人種的な犬笛の役割を果たすようになったことが分かるだろう。そのような言葉を含む発話は、人種に関する態度を顕著にしようとする意図を伴う場合、結果として意図的な犬笛として機能することがある。国が何に税金を使うかは議論すべき問題であるため、こうした言葉は広く使われる。そのようにして、これらの言葉はきわめて頻繁に意図的でない隠れた犬笛として機能し、実際しばしば増幅された犬笛の役割を果たす。

(略)

 ジェイソン・スタンリーは、私が隠れた犬笛と呼ぶもの(意図的な犬笛と意図的でない犬笛の両方)を議論する唯一の哲学者である。彼はこの隠れた犬笛を、特に狡猾なプロパガンダの形態と考える。スタンリーの見解では、この犬笛は、会話の中にいくつかの有害な「非争点の」効果を導入することで機能する。非争点の内容とは、会話の共通基盤の一部となる要素であるが、それは、主張される内容のとおりには明示的に検討の対象になることはない。これによって、この内容が共通基盤に追加されていることに気づきにくくなり、それに反対することもさらに難しくなる。また、取り消すこともできない。関連する意味は、非争点の内容として常に伝えられるが、話し手はこれが起きるのを阻止できない。(略)

 

 ニュースメディアが、都市部の黒人のイメージと「福祉」という言葉への言及を繰り返し結びつけるなら、「福祉」という言葉は、黒人は怠け者であるという非争点の内容をもつようになる。どこかの時点で、繰り返された連想は意味の一部、非争点の内容になる。

 

 スタンリーはまた、言葉の非争点の効果が、選好の順位づけという形態をとり、集団を敬意という価値の観点から順位づける形態をとると示唆する。つまりある言葉は、その言葉を聞いた人に、一部の集団に対する敬意を損なう仕方で、集団ごとに異なる順位づけをさせる可能性がある。人は集団を、多かれ少なかれ共感の価値に応じて、順位づけるようにすらなるかもしれない。これは、スタンリーにとってとりわけ重要な種類の非争点の効果である。

(略)

 スタンリーは、民主主義を蝕む機能があるという理由で、私が「犬笛」と呼んでいるものに特に関心を寄せている。彼が特に関心をもつ言葉は、――「福祉」のように――壊滅的な打撃を与える性質をもつ。

(略)

例えば、あからさまに人種差別的な主張に対抗するよりも、犬笛に対抗する方が確かに難しい。もし選挙運動の宣伝が明示的に「黒人は危険な犯罪者で、デュカキスはもっと人種差別すべきだ」と主張する場合、その広告の何が間違っているかを指摘することは非常に簡単である。これが人種差別であることは疑いようもなく、最も臆病なジャーナリストすら気楽にこれは人種差別だと主張するだろう。広告を作った人たちは、謝罪せざるをえないか、明らかに人種差別的な有権者に選挙の期待を懸けるしかないだろう。だがウィリー・ホートンの広告は全く異なる。多くの視聴者は、自分たちの人種的な態度を顕著にする広告を見たことに気づかないだろう。

 

誰がメンズファッションをつくったのか?その2 モッズ、スキンヘッド

前回の続き。

誰がメンズファッションをつくったのか? 英国男性服飾史

誰がメンズファッションをつくったのか? 英国男性服飾史

 

カーナビー・ストリート、ドラァグのはじまり

 最初のうち、ビル・グリーンは俳優の肖像写真を専門に撮るカメラマンだった。戦時中に重量挙げと関わりを持ち、復員後は男性専門誌のために、ボディビルダーやレスラーの裸体写真を撮りはじめた。(略)

「あの当時、男性ヌードの撮影は、とても危険な仕事だった。(略)

そこでわたしは妥協点を見いだした――モデルにブリーフをはかせたんだ。マークス&スペンサーの伸縮するガードルを短くカットした、特製のブリーフをね。するとこれがちっちゃいのにすごくはき心地がよくて、モデルや読者のあいだで大反響を呼んだんだよ。(略)

もしかしたら普通に売り出せるんじゃないかと考えはじめた。そこで1950年に『デイリー・メール』で広告を打ってね。(略)

 ブリーフの販売が急速にグリーンの生活の大部分を占めるようになり(略)1951年にマンチェスター・ストリートのスタジオを本拠地にして通信販売業を開始

(略)

賃料が安い上に、ニューバーグ・ストリートは、ボディビルダーや男娼たちがこぞってトレーニングを積むマーシャル・ストリート浴場のすぐ隣に位置していたのだ。浴場を出るなり彼らは、ヒップスター・パンツやピチピチの高価なセーター(約7ポンド)、そして鮮やかな赤、黄色、紫のブリーフやショーツに目を奪われることになった。

 これがドラァグのはじまりだった。といっても服装倒錯という意味ではない。メンズウェアの業界では、それがファッショナブルでファンシーな装いを意味する言葉として使われていた。(略)

「わたしはつねにつくりよりも、インパクトを重視していた」とグリーンは語る。「わたしはそれまで、使われたことのなかった素材を使った。ヴェルヴェットやシルクを多用し、マットレス用の綿布でズボンをつくった。色落ちさせたジーンズを最初に売ったのもわたしだ。そしてなんでもできるだけカラフルで、派手な仕上げにしていた。

 客も客で、インパクト満点だった。みんな、うちはチェルシーホモセクシュアルだけを相手にしていると思っていたが、実際にはおおよそ25歳から40歳までの、非常に幅広い層がターゲットだった。ティーンエイジャーはいない。うちの値段じゃついてこれないからだ。だがアーティストや劇場関係者、それにボディビルダーやあらゆる種類の有名人が来店していた。

 具体的な名前を挙げるのは好みじゃないが、ピーター・セラーズやジョン・ギールグッドやライオネル・バートもうちのお得意だった。デンマーク王はわたしから海水パンツを買った。ピカソからはスエードのズボンのオーダーが入ったし、スノードン卿は婿入りの衣裳を大部分うちでそろえたんだ」

 グリーンの言葉に嘘はまったくない――彼の顧客は、ホモセクシュアルだけに限ぎられなかった。だがもし彼が戦前に商売をはじめていたら、まちがいなくそうなっていただろう。そしてそれこそがヴィンスの新しさであり、重要な点だった。そこで売られていたのは、以前ならホモ以外に着る者がいない、おそろしく過激な服だったのだ。それを今、異性愛者が買うようになっていたのである。

 その背景にあったのは、いうまでもなく、男性のアイデンティティの大々的な転換だった。「ぼくらの特徴のひとつは」とサイモン・ホジスンは、チェルシーについて語る。「性別をいっさい気にしなかったことだ。みんなに全部の気がちょっとずつあることを、全員が理解していた」

 いいかえるなら、男たちは自分たちの女性的な側面と折り合いをつけるようになったということだ。彼らは恐れることをやめはじめた。ナルシズムや浮気っぽさや意地の悪さ――こうしたもろもろが男性の構成要素として、ヴィクトリア朝時代であればおぞましいと見なされていても不思議はない形で受け入れられるようになったのだ。ピチピチのズボンは、そうした変化のあらわれだった。

(略)

最初の亀裂ができると、その先は広がっていくばかりとなり、数年のうちにそれと同じセックスの自由化が、カーナビー・ストリートとそのあらゆる成果の基盤を築いていくことになる。ティーンエイジャーも、郊外の先端族も、アイダホからやって来た中年の旅行客もドラァグを着用した。

 事実、60年代の男性ファッションはすべて、ある程度までホモセクシュアル由来だった。その意味で、「オカマ」、「玉なし」などと罵声を浴びせたインド軍の退役将校やトラック運転手は、100パーセント正しい。彼らは自分たちの若かりしころ、そうした服装が同性愛者の印だったことを覚えていたのだ。

(略)

 その意味で、ビル・グリーンの影響は大きい。美的な観点から見ると、決してすばらしいデザイナーではなく、またすばらしい理論家でもなかった。そしておそらく当人にも、自分がなにを体現しているのかがわかっていなかった。にもかかわらず、彼が切り開いたのは非常に重要な突破口だった。

(略)

 ヴィンスは性的な曖昧さだけでなく、形式ばらないスタイルの推進者でもあった。レジャーウェアが史上はじめて、ハイ・ファッションとなったのだ。セーターとジーンズが、シックな装いになりはじめた。さすがにまだ、ビジネスで着用されることはなかったものの、夜の外出やパーティーに着ていくのは、まったく問題でなくなった。

モッズ

 モッズのスタートは1960年前後、かつてない、そして以後も類を見ない度合いで服装にとことんこだわり抜くティーンエイジャーが登場したときのことだ。

 その人数は決して多くなく、数十人が地方にぱらぱらいる程度だった。

(略)

[バーナード・クーツの場合]

「着るものは全部一点もので、シャツは一度しか着てはならない。

(略)

じょじょに反抗ではなく自己愛から着飾るという、新たなスタンスの支持者が増えはじめ、1962年になると改宗者の数は“モッズ”というセクトが出来上がるまでにふくれ上がっていた。

(略)

バーナード・クーツからすると、モッズはどう見ても粗悪品だった(略)

「ぼくの慣れ親しんだスタイルではありませんでした」とクーツ。

(略)

[のちのマーク・ボラン]早熟の天才、マーク・フェルドは12歳で入門した。

スタンフォードヒルズには、初代のモッズと呼べる男が7人ぐらい住んでいた(略)二十歳くらいで、ほとんどがユダヤ人だったけど、全員、仕事はしていなかった。親のすねをかじりながら、ただブラブラしていたんだ。服のことにしか関心がなくて、いつもなにかしら新しいものを身に着けていた。

 ぼくはそんな彼らのことを最高だと思い、家に帰ると文字通り、モッズになれますようにとお祈りしていた。

(略)

 当時のモッズは服のことしか考えていなかった。音楽や踊りやスクーターや錠剤が出てくるのは、もっとあとになってからだ。

(略)

1962年、マーク・フェルドは美しくカットされた丈の長いコート、黒革のヴェスト、ポケットチーフにラウンド・カラーのシャツといういでたちで、「タウン」誌に登場した。(略)

 こうした派手な服装が可能になったのは、ひとえに60年代初頭のティーンエイジャーが、前例のないほど金銭的に恵まれていたおかげだった。モッズに戦争の記憶はなく、緊縮生活もわずかにその片鱗を覚えているだけ。また本物の貧困に脅かされたこともなかった。仕事をすると、彼らは裕福になった。仕事をしていないときも、失業保険を受け取り、こうした緩衝材に護られながら、モッズはうぬぼれと全能感、そしてデカダンな感覚を育んでいった。

(略)

 この動きは郊外からロンドン全域に広まり、シェパーズ・ブッシュが新たなメッカとなった。その後、今度は南海岸を席巻し、遠くノッティンガムにまで到達

(略)

リッチモンドから登場したローリング・ストーンズが初のモッズ・グループとなり(本人たちはモッズではなかったが、モッズは彼らを受け入れて支持した)、彼らが全国的な人気バンドになると、ヤードバーズがその後釜に座った。「レディ・ステディ・ゴー!」は基本的にモッズのTV番組だった。

(略)

バーナード・クーツが初代のモッズを認めなかったのと同様に、今度はマーク・フェルドが異を唱えた。「だんだん手に余りはじめた(略)モッズはクールじゃなくなっていたし、ぼくも話しかける気がしなかった。こっちはこの上なく真剣に考えていたのに、向こうはまがいものにしか見えなかった」

 たしかにシェパーズ・ブッシュのモッズは、なにかにつけて雑だった。独自のスタイルをつくり出す代わりに、彼らは群れをなしはじめ、よりけたたましく、より荒々しく、より暴力的になっていった(略)

 大半はとても背が低く、真面目くさった顔をしていて、年齢は17歳前後。スクーターを乗りまわし、集団で騒々しく移動した。どの地域にも着こなしのよしあしによって決められるるトップ・モッドがいて、地域全体が彼と同じ着こなしをしていた。

 その意味で、モッズのスタイルは場所によって変化した。とはいえそんななかにも、いくつか基本的な要素があった――小ぶりのモヘア・スーツに細身のズボン。ズボンは毎日プレスされ、ボウリング・バッグで運ばれて、パーティーの会場かダンス・ホールに入る直前にはき替えられる。白と青のストライプ入りで、長いサイドヴェンツがついた、コットンかシアサッカーアイヴィー・リーグ・ジャケット。栗色か辛子色のスエード靴。襟にキツネの毛皮を縫いつけた“パーカ”と呼ばれる軍放出品のアノラック。ニットタイ。ジャケットの下につける、クリップ式のサスペンダー。

(略)

 彼らは奇妙なくらい自己完結型で、自分以外の人間には、女性もふくめて、あまり関心を示そうとしなかった。クラブではナルシスト的な夢に没入しながらひとりで踊り、鏡があると、そこには決まって列ができた。メーキャップ――アイライナーやマスカラ――も普通にしていたが、といって彼らが全員、ホモセクシュアルだったわけではない。それは単に、風変わりさのシンボルだった。

 いっぽうで彼らに同調する娘たちは、フェイクファーのロングコートにスエードの靴をはき、髪の毛を短く刈って、男の子のまわりをウロウロしたが、まるで無視されていた。彼女たちはこの上なくみじめに見えた。

 週末が来ると、モッズはイースト・エンドにくり出し、36時間ぶっつづけで起きていた。クラブやコーヒーバーやソーホーの街角にたむろし、くたびれるとクスリの錠剤|パープル・ハーツをひとつかみ飲んで、エネルギーを補給する。それをのぞくと、彼らはなにもしなかった。セックスとも感情とも縁がなく、なににつけても受け身でいるように見えた。彼らは幸福でも不幸でもなく、部外者の目には不気味に映った――生ける死人の群れ。

 モッズの全盛期は疑いなく1964年のなかば、火曜の夜のマーキー・クラブにレギュラー出演するようになったザ・フーの台頭とともにはじまった。(略)

衣服にも強いこだわりを持ち、週ごとにまったく新しい衣裳に着替え(略)ピート・タウンゼンドだけでも、週に最大で100ポンドを衣服に費やしていた。

ロッカーズ

 これはカミナリ族の別称で、モッズの登場前は、すっかり勢いが衰えていた。ロンドンのカミナリ族はほぼ絶滅した。地方でもバイクに乗ったゲリラたちは瀬戸際まで追いつめられ、あちこちに散らばった生き残りたちが、運転手向けの安食堂でくだを巻いていた。

 しかしモッズがブームになると、その流れに乗るのをよしとしないティーンエイジャーも数多くあらわれた。とりわけ北部と田舎には、モッズをやわで気味が悪いと考える少年が多く、そのまったく逆を行こうと、細身のズボンやラバーソールで武装した。カミナリ族の灰のなかから、不死鳥のようにロッカーズが飛び立ったのだ。

 ただし大半のロッカーズは、使命感が薄かった。内なる衝動に駆られてというより、モッズに対する反感から、このムーヴメントに加わっていたからだ。そのためモッズが下火になると、彼らも同じ運命をたどった。

 それでも、しばらくのあいだはルールを遵守し、髪の毛にグリースを塗りつけ、背中に虎の浮き彫りとスタッドを入れた黒の革ジャンパー姿で、ジェリー・リー・ルイスを崇め奉っていた。かくして闘いが勃発した――えせモッズとえせロッカーズのあいだで。

 1964年から1965年にかけて、彼らは国民の休日のたびに、南海岸沿いの町に群れ集まって、正面から衝突した。騒乱は48時間にわたってつづけられ、だがその時間がすぎると、全員がきびすを返して帰宅した。やっているあいだは刺激的に思え、マスコミも飛びついた。新聞の論説記者や政治屋や説教師にとっては格好の話題となり、おかげでだれもが満足していた。それは5年後に開かれるワイト島ポップ・フェスティヴァルと同様、誇大な表現にうってつけの機会となった――家族全員で楽しめる、20世紀のパントマイム。

 しかしどれもあまり変わり映えのしない騒ぎが6、7回もつづくと、次第にマジックが薄れはじめた。マスコミは興味を失いつつあり、参加者、とりわけモッズも同様だった。騒ぎそのものはともかくとして、それにまつわるもろもろ、たとえばスクーターで町を流したり、錠剤をポンポン口に放りこんだり、さらにはモッズと名乗ったりすること自体が、使い古された感じになってきたのだ。

 新しいスタイルが台頭していた。そこで勧められていたのは錠剤ではなくマリファナ、短髪ではなく長髪、無抵抗ではなく反逆だった。ヒッピーのために場所が空けられ、1966年になると、モッズは実質的に終わっていた。スタンフォードヒルから海辺での最後の乱闘までの期間は5年足らず。

 そしてマーク・フェルドは今や、18歳になっていた。「ふり返ってみると」と彼はいう。「ときどき、すごく疲れてくるんだ」

長髪とミック・ジャガー

 今世紀の前半部を通じてずっと、長髪はホモセクシュアリティを意味していた。

(略)

 しかしながら50年代の後半に登場したビート族はちがった。彼らは髪の毛と髭を伸ばしたが、それは性的な嗜好ではなく(略)画一的で凡庸なエスタブリッシュメントに対する反抗心のあらわれだった。

(略)

英国のビート族自体はアメリカで生まれたオリジナルの貧弱なイミテーションにすぎず、つねにどことなく滑稽味を感じさせた。しかし彼らのスタンスやルックスは、水で薄めた形で美術学生たちにも採り上げられた。長髪がはじめて一般層に広まったのも、美術学校を通じてだった。

(略)

 最初に長髪を一般大衆に広めたのは――薄められた形でとはいえ――ビートルズだった。

(略)

 今、初期のビートルズの写真を見返してみると、なんともおとなしい印象を受けるし、髪の毛もかなり短い。それでも坊主に近い髪型が当たり前の当時は衝撃的だった。プレスリーのリーゼントともみあげ、それにダックテイルはテッズとともに姿を消し、それ以降は頭の側面を短く刈り上げた髪型のひとり舞台だったのだ。もしも大胆さをアピールしたければ、選べる道はふたつだけ。けば立った髪型になるイタリア風のレザーカットと、前髪をひとふさ眉毛まで垂らす、ビリー・フューリー・スタイルしかなかった。

 そんなあとに登場したビートルズは、とてもワイルドに見えた。それ以前のポップ・グループにはなかった率直さがあり、ざっくばらんで、髪型もそれをあらわしていた。だがそれ以上に重要なのは、彼らが道を切り開く存在だったことだ。

(略)

 ストーンズはビート/美術学校の伝統を直に受け継ぎ、さらに押し進めた。まっとうな社会をとことん軽蔑していたばかりか、できるだけわざと不快に、暴力的かつ卑猥でかつ原始人的になろうとし、「過激になれ。醜くなるのも、厄介者になるのも、阿呆になるのも勝手だが、絶対に生ぬるくなるな」という、現在ももてはやされている異議申し立てのスタイルを打ち立てたのだ――彼らのあるアルバムに入っていた、「このレコードは“大音量で”かけるべし」というただし書きのように。

 彼らはあらゆる規則をないがしろにした。ストーンズ以前のポップ・グループ、そしてティーンエイジャーの大規模なムーヴメントにはすべて、ユニフォームが欠かせなかった。彼らはその流れに終止符を打ち、いったん地位を確立すると、好き勝手な格好をしてステージに立つようになった――ある時はキャンプで突拍子もなく、ある時は高価な装い、またある時はただのジーンズとTシャツといった具合に。

 彼らがいわんとしていたのは、“オレたちはオレたちのやりたいようにできる、守んなきゃならないルールなんてないし、オレたちにはなにも当てはまらない”ということだ。それによってストーンズは、紳士、そしてボー・ブランメル以降形づくられてきた服装のコンセプトを完全に破壊した。

 こうした動きを主導していたのが、傍若無人を地で行くマネージャーのアンドルー・ルーグ・オールダムだ。ハイヒールのブーツにズボンをはき、パフスリーヴのビンクシャツと色つきの眼鏡、それに宝石を身にまとい、メーキャップをしていた彼は、信じられないほどキャンプで、よこしまで、露出狂的な男だった。そしてストーンズも、そんな彼のあとを追った。

(略)

[ミックの服装の]ポイントは無数のスタイルや生地や雰囲気をないまぜにし、だが決してレッテルづけする暇を与えず、「そう、あれがジャガー・ルックだ」といわせないことだった。

 彼はダンディではない。むしろその対極に位置し、ダンディズムが奉じる教義の数々――こだわり、繊細さ、完璧主義――が、まさしく彼の攻撃対象となった。彼は無頓着でぶしつけだった。キッチュに走ったり、ポルノまがいの真似をしたりと、しばしば趣味の悪さを意図的に用い、シルクとデニム、ヴェルヴェットとサテンを衝突させた。色彩を乱舞させ、かと思うとプライアン・ジョーンズが亡くなった直後のハイド・パーク・コンサートでは、白のミニドレスを着用していた。

スキンヘッド

 海辺での暴動がひと段落すると、モッズは全国的なムーヴメントではなくなってしまう。だがおもに南部でぽつりぽつりと生き残り、ダンス・ホールではそれなりの勢力を維持していた。ザ・フーのポップ・アート的な奇抜さの代わりに、彼らはソウル・バンド、とりわけジーノ・ワシントン&ヒズ・ラム・ジャム・バンドを支持するようになり、ライヴでは毎回のように、大挙して騒ぎを引き起こした。時にはひたすら飛び跳ねながら叫び声を上げ、時には会場を壊しまくる。いずれにせよ彼らは、ほとんど先祖返りを起こしたかのごとく、テッズ並みに単純で暴力的な存在となり、意図的に下品さをよそおって、気取りや上品さをことごとく忌み嫌った。

 こうしたすべては、当時の中流階級が信奉していたフラワー・パワーと対比させて考える必要がある。そうすればモッズがひとつの反動――労働者階級には理解されず、いかがわしいものと見なされていた“優しさ”に対する、しっぺ返しだったことがわかるだろう。ヒッピーを前にすると、彼らは本能的に、馬鹿にされているような気分になった。

 この時期のモッズはほとんどが17歳から18歳で、髪の毛は短く、機能的な服を着ていたが、決して極端に走るようなことはなかった。しかし1968年になると、3、4歳は若い新世代が登場し、基本的なスタンスは同一ながら、それをフェティシズム的な方向に強化しはじめた。

 スキンヘッドという名称が、最初から使われていたわけではない。当初は単なるモッズの若年版と見なされ、未分類のままだった。ただし荒っぽさでは上を行き、とくにノース・フィンチリー地区には、血の気の多いメンバーが集まっていた。丸刈りにした髪型や重いブーツが最初に流行ったのも、ぼくの知る限りではここだった。

 年長のモッズが漠然とした敵意を振りまいていたのに対し、新参者たちはひとつのモットーを打ち立てた“見せびらかすんじゃねえ”という、いたって簡潔なモットーを。

 なにもいわずにぶちのめす――それよりも複雑な行為は、ほぼすべて“見せびらかし”と見なされた。ヒッピーはもちろん見せびらかし屋で、インテリや成功者もそうだった。弁の立つ男は見せびらかし屋だった。かわいいガールフレンドであれ、車であれ、派手な服であれ、ステータス・シンボルと呼べるものはすべて見せびらかしだった。肉体的な美しさ、変人ぶり、趣味のよさへのこだわり――イメージ全般がそうだった。

 では見せびらかしではないものは? 土曜の午後のサッカー、暴力、レゲエ、そして“ファック”という言葉――それでほぼすべてだった。それ以外は異端とされ、ブーツで罰を与えられた。

 じょじょにクルーカットや厚手の重いブーツ、そして足首丈のズボンやズボン吊りや開襟シャツなどからなるユニフォームができはじめた。そもそもの出所はアメリカのキャンパス・ルック――ズック靴、デニム、チェックのシャツ――だが、裏通りでいきなり剃りあげた頭とにきび、そしてダッジェム・カーのようなブーツに行き当たると、そこから受ける印象はかなり異なっていた。すさんだ雰囲気が漂い、とくに向こうから近づいてくるのがまだ13歳か4歳の子どもでしかないことがわかると、ひどく怖ろしくなってきた。

 美という観点で見ると、これはすばらしいファッションだった。「シンプルさの極みだ」とトム・ギルビーは語る。「非の打ちどころがない、古典的なファッション。余計な飾りはいっさい抜きで、ただただインパクトに特化している」しかし当のスキンヘッドは、そうした言葉にいっさい耳を貸さなかった。彼らからすると、それはおしゃれに対する異議――意図的に華美さを排したがさつなスタイルで、「知ったこっちゃない。オレたちは見せびらかし屋じゃないんだ、飼い慣らされてたまるか」という宣言にほかならなかったのだ。

 さまざまな名前が生まれては消え――スミシーズ、スカルズ、ピーナッツ――1969年にようやく、スキンヘッドが定着した。このころになると、このムーヴメントは全国的な広がりを見せ、騒動の数々――サッカー場での暴動、パキスタン人に対する暴行、バンク・ホリデーの海辺でくり広げられる馬鹿騒ぎがマスコミ沙汰になっていた。

 いっぽうでそれに反発するかのように、テッズ/カミナリ族/ロッカーズの復活が起こる。彼らは取り急ぎバイクを改造し、ヘアオイルをはぎ取り、屋根裏部屋から黒の革ジャンを引っぱり出してきて、新世代にうやうやしく手渡した――グリーザーズである。

 グリーザーズはロッカーズよりもさらに凝った服装をしていた。花飾りのようにチェーンをぶら下げ、革ジャンには華々しく鋲が打たれている。カリフォルニアのグループをそのまま真似て、ナイト・ホークス、ヘルズ・エンジェルズ、あるいはミッドナイト・マローダーズなどと名乗っていたが、そうした飾りを取り去ると、中身は昔ながらのテッズだった。彼らはジェリー・リー・ルイス、トラック運転手ご用達のカフェ、チップス、おっぱい、そして殴り合いを好んだ。スキンヘッドとの衝突は、まさしく5年前のモッズとロッカーズの再現だった。

 スキンヘッドは変わらなかった。いったんスタイルができあがると、古いワークシャツがチェックのシャツに代わり、ブーツがさらに大きくなったぐらいで、それ以外はずっと元のままだった。時がたつにつれて、彼らはいくぶん新奇さと強面なイメージを失いはじめる。1970年の末ともなると、すっかりなじみのある気軽な存在となり、ファッション化の機はじゅうぶん熟していた。

 かくして軟弱化のプロセスが、またしてもスタートする。なんにでも一番乗りするクリストファー・ギヴズがまず、1969年のクリスマスに髪を短く切り、ジョン・レノンほかの男女が彼のあとを追った。

 じきに衣服のデザイナーたちも、この路線に乗ってきた。靴屋はつま先の丸い、かさばる靴を売りはじめた。ジム・オコナーはキャンパスのスタイルを採り入れ、その仕上がりはホームでサッカーの試合がある、土曜日のシェッドやストレトフォード・エンドを多分に思わせるものになった(略)

トム・ギルビーは、“けんかルック”という新しいスタイルを提唱した。

 それらはいずれも正統的なスキンヘッドのファッションではなかったものの、影響ははっきり感じさせ、むしろ本物に近すぎたせいで、ムーヴメント本体の勢いは衰えはじめた。先達たちと同じように、スキンヘッドはやる気を失い、歳を取るにつれて脱落していった。夕刊紙を開くとファッションのページで戯画化され、チェルシーのヤワな連中が自分たちのスローガンをパクっている。だがそれを見ても彼らはただ、「ちくしょう」と歯噛みすることしかできなかった。

 1970年の秋になると、スキンヘッドのピークはすでに過ぎ去っていた。彼らはサッカー場から姿を消し、ブーツやズボン吊りを捨てて、髪を伸ばしはじめた。この時点で10代のなかばになっていた彼らは、スエード(スエードヘッド)あるいはヘアリーズと呼称された。スーツにネクタイ姿の彼らは、ずっとこざっぱりとしていて威嚇的でもなかったが、社会に対する態度は依然として反動的だった。一見すると彼らは1965年ごろ、シェパーズ・ブッシュにたむろしていたモッズがよみがえったかのように見えた。

 しかしたとえスキンヘッド本体が消え去っても、そのムードが消え去ることはないんじゃないかとぼくは思う。彼らは労働者階級全般に広まりつつある反動的な動き、パウエリズム[60年代末の英国でおこった反移民キャンペーン]を生んだ右翼的な盛り上がりの一断面にすぎない。それをティーンエイジャーが示して見せたのが、スキンヘッドだったのだ。この動きはどうやら70年代を通じてつづき、さらに激化しそうな勢いだが、その場合には3、4年ごとに、スキンヘッド的なカルトが復活することになるだろう。名前は変わるかもしれないし、ブーツとズボン吊りも新しい小道具に取って代わられるかもしれない。だがその本質はつねに同一だ――徒党、制服、厄介者。

 

誰がメンズファッションをつくったのか?英国男性服飾史

誰がメンズファッションをつくったのか? 英国男性服飾史

誰がメンズファッションをつくったのか? 英国男性服飾史

 

セシル・ジー、ズート・スーツ

 戦前の彼はイースト・エンドに数軒の店を構え(略)「大枚をはたいていることを隠すのではなく見せるのをよしとする(略)サヴィル・ロウなみに排他的な、優秀なテーラーにまつわるイースト・エンド系ユダヤ人の伝統」に属していた。

(略)

 その伝統に従って、彼は一般的なメンズウェア業者に比べると、つねにより色鮮やかで冒険的だった。30年代の初頭にはストライプのシャツやシャツコート、そして襟つきのカラー・シャツを売っていたが、これらはいずれも当時としては驚くべきファッションで

(略)

 日曜日の休業を義務づける条例がこの流れに終止符を打ち、ショッピング・センターとしてのイースト・エンドは息の根を絶たれてしまう。しかしジーはその時すでに、ウエスト・エンドに居を移していた。1936年、チャリング・クロス・ストリートに店を開いた彼は、すぐさまミュージシャン相手の商売を一手に引き受けるようになり、戦争がはじまるころには、ジャック・ハイルトン[英国のジャズ王]の衣裳を手がけていた。

 それでもジーが真の飛躍を見せるのは、戦争が終わってからのことだ。1946年に彼がアメリカン・ルックを導入すると、数週間のうちに、店のあるブロックには何重もの列ができ、その列は次のブロックの途中まで伸びていた。

 アメリカン・ルックはクラーク・ゲイブルやケイリー・グラントが30年代の映画で着ていたような、ワイドショルダーのダブル・ジャケットをベースにしていた。たいていはピンストライプが入り、襟は幅広で、ドレープは大きく、20年後のボニー&クライド人気で注目を浴びる、ギャングのスーツに酷似していた(現に後者のブーム期には、数多くのブティック・オーナーが古着市場で古いセシル・ジーのスーツを買い上げ、クリーニングし、細身に直した上であらためて売り出していた。

(略)

 ジャケットと併せてジーは、アメリカから輸入した長くとがった襟の(“スペアポイント”)シャツや、カウボーイとインディアン、あるいは飛行機の画を手描きしたネクタイ、そしてつばの広いアメリカの帽子を売った。全体的な雰囲気は男っぽく、生意気で、いくぶん不良じみていた。今の目で見るといくぶんヤクザっぽく思えてくるが、当時は単純に派手なだけだった。みすぼらしい復員服のあとで見ると、なんとも贅沢に感じられ、反応は熱狂的だった。「店の客はみんな夢中だった」とジーは語る。「戦争がすべてを変えたんだよ。全員がカーキ地を着せられて、ほとほとうんざりしていた。(略)

招集される前はきっと、ガチガチの保守派だったはずなのに。でももうみんな、歯止めが効かなくなっていた。

(略)

この手のファッションを見苦しいと考える業界誌はほんの申しわけ程度に触れていたものの、全国的なマスコミは、完全に無視してかかっていた。それでもセシル・ジーは彼なりに、まったく新しい存在だった――大衆市場を意識した初のデザイナー。「わたしが登場する以前」と彼は語る。「一般人にはだれも目を向けようとしなかった」

(略)

彼にはひとつ、重要なポイントがある――本質的には既製服の売り手だったことだ。すでに述べた通り、戦前のテーラー・チェーンはオーダーメイド専門だった。それは今も変わらない。英国男性はつねに、独自のスーツを身にまとってきた。だが史上初のポップ・デザイナーたるセシル・ジーはそのルートをパスし、それ以降のカルトな衣服すべてに受け継がれるパターンを築き上げた

(略)

 従来よりも安くて速いこの方式が、20世紀に発達するのは自明の理だった。そしてそれはことファッションに関する限り、メイン・ストリートをもっとも動揺させたポイントのひとつでもあった。遅かれ早かれ、既製服が完全に主流になるのはまちがいない。それは彼らにもわかっていた。だが彼らはその変化に、頑強に抵抗した。昔のままでいるほうが、ずっと簡単だったからだ。

 セシル・ジーのデザイン自体は、アメリカで10年前に流行ったスタイルの焼き直しだったという意味で、とてもオリジナルとはいいがたかった。それでも英国では目新しく、それなりにすばらしいところもあった――力強さとインパクトにあふれ、痛快なまでに悪趣味だったのだ。

 ほかの店もジーの人気にすぐさま目をつけ、彼をコピーしたり、彼の廉価版を出したりしはじめた。チャリング・クロス・ストリートはクリスマスツリーのような店でいっぱいになり、とりわけズート・スーツが流行した。

 ジー自身のスタイルを激しく誇張したのがズート・スーツで、ジャケットはひざ小僧のなかばまで垂れ、肩にはアメフトのプロ選手のようなパッドが入っていた。アメリカではすでにブームになっていたが、それがイギリスに導入されると、しゃれ者たちのユニフォーム代わりになった。

 1950年になると、アメリカのファッションは、総じて不良性をにおわせるようになっていた。ジーのスタイルにはどっちつかずなところがあったけれど、彼の模倣者たちはあからさまで直裁だった。ネクタイにはカウボーイとインディアンの代わりにヌードがあしらわれ、ほかにもシャンペンボトル型のタイピンや、カポネ風のスペクテイターシューズ(略)、そして暗闇のなかで発光する腕時計バンドなどがあった。

 この時点で、セシル・ジーはふんぎりをつけた。道徳的な男だった彼は、顧客のタイプにもうるさかった。「ひと財産築くこともできただろうが、その気にはなれなかった。ソーホーでは殺人が横行し、通りではギャングの抗争があった。だがわたしが相手にしたいのは、そういう手合いじゃなかったんだ。そこでわたしは別の市場に移行した。

(略)

彼の商品はよりまっとうになり、そのぶん面白味はなくなった(略)

 それでも彼は、大々的に成功を収めつづけた。ジャズとダンス・バンド両方のジャンルでミュージシャン相手の商売をつづけ、シャフツベリー・アヴェニューに巨大な支店を開き、郊外にももっと小規模な支店をいくつか構えた。

バニー・ロジャー、エドワーディアン・ルック

[チャリング・クロス・ストリートとの]唯一のちがいは階級だった。サヴィル・ロウの反逆者は、大半がエリート軍人や、名家の次男、三男坊、あるいはいわゆる有閑紳士だったのである。

(略)

サヴィル・ロウは過去、すなわちより優雅でゆとりのあった時代への回帰という形で抗議をおこなったのだ。

(略)

 1948年ごろから、エリート軍人や高貴な出の若者たちが、細身で丈の長いシングルのジャケット、折り返したヴェルヴェットの袖にヴェルヴェットのカラーのオーヴァーコート、カーネーション、パターン入りのヴェスト、そして銀柄の杖といったもろもろを身に着けて、人前に姿を見しはじめた。

 このスタイルはヒットした。(略)細身のラインは同性愛者の世界、さらにはスマートさを志向する中流階級の一部にも広まり、1950年の時点で、エドワーディアン・ルックはロンドンの支配的なファッションとなっていた。

(略)

 こうした新しいエドワード人のなかで、もっともスタイリッシュかつもっとも有名な男が、ドレスメーカーのバニー・ロジャーだった。

(略)

 30年代に入ると、彼はニューポート・ストリートで婦人服をつくるようになる。ビンクのスーツにピンクのシルクシャツをまとい、長く伸ばした髪の毛の両端は、あごの下でくっついていた。

(略)

 彼は戦時をイタリアで、ライフル旅団の一員としてすごし、そこではかなり目立った存在だった。(略)

 軍服もかなり美しかった。一種の暗緑色で、黒のすてきなボタンがついていた。ズボンはむろん、丈をつめる必要があって、わたしはバレーのタイツのように、かなりぴっちりした仕上げにした」

 復員後、婦人帽製造の仕事に復帰したロジャーは、フォートナム&メイソンで働いたのちに、1950年、彼としても最大の成功を収めた。40歳の彼はもう、決して若造ではなかったが、にもかかわらず新しいエドワーディアン・ルックを取り上げ、それを最高に荒唐無稽なファンタジーへと変化させたのだ。

(略)

彼以前、スーツは灰色か黒の2種類しかなかった。しかしそこにバニー・ロジャーが、緑と金色と深紅、そしてピンクと紫で殴りこみをかけたのだ。そして彼はみずからをアクセサリーやパールグレーの安い宝石、つばのカールした山高帽、片眼鏡や時計の鎖やダイアモンドの飾りピン、そして金柄の杖やさまざまな色合いのカーネーションで飾り立てた。

 その効果は衝撃的だが芝居っ気に富み、かすかにミュージック・ホールのにおいがした。

(略)

 エドワーディアン・ルックは次第に同性愛と結びつけられるようになり(略)一般的な中流階級のファッションではなくなってしまう。

(略)

[54年まで生き延びたが、テディ・ボーイに乗っ取られる]

 これ以上の皮肉はないだろう――上流階級が自分たちの身を護るためにスタートさせたエドワード朝風のファッションが、労働者階級の男性ファッションとしては、初の爆発的なブームを迎えるスタイルの基礎をつくり上げたのだ。

テディ・ボーイのインパク

1952年前後にテッズがスタートしたとき、ビジネスはいっさい絡んでいなかった。

(略)

 彼らはちんぴらだった。金と無駄にできる時間はあるのに、なにもすることがない少年たち。退屈し、鬱屈していた彼らは、みずから非行集団を組んだ。

(略)

1958年になると、英国全土にしっかり根を下ろしていた。

 彼らのユニフォームは基本的に、サヴィル・ロウ風エドワーディアン・ルックの簡略形だった。テディ・ボーイという呼称もそこに由来する。だが彼らは同時に丈の長い、ゆったりしたジャケットという、ズート・スーツの要素も採り入れていた。

 ゆったりしたジャケットのほかに、彼らは先細のぴっちりしたジーンズ、明るい黄色のソックス、ボートにも似た大ぶりのラバーソール・シューズ、そして川船の賭博師のようなひもタイを着用した。またアクセサリーと武器を兼用する真鍮の指輪を複数の指にはめ、ジーンズの尻ポケットには、しばしば飛び出しナイフを忍ばせていた。

 彼らは顔つきも共通していた。栄養不良でやつれ、いくぶんネズミっぽく、吹き出ものやにきびが多い。だが彼らがいちばんの誇りにしていたのはもみあげで、耳たぶのずっと下まで伸ばし、前髪は長く伸ばして真ん中に集めたリーゼントに仕上げ、両サイドはたっぷりのヘアオイルでうしろになでつけた上で、下に散らせるのが鉄則だった。

 このヘアスタイルはダックテイルと呼ばれ、ヴァリエーションにはトップをダイアモンド型のクルーカットにし、それ以外は下に垂らすスタイル、あるいは刈りあげた白い首筋の上で、髪を横一直線にカットするボストンなどがあった。

 これだけで終わりではない。ゆったりしたジャケットは黒か栗色、場合によっては淡青色で、派手なヴェストをちらりとのぞかせることもあった。

(略)

 どれを取っても安くはなかった。まっとうなテッズのスーツは裏町の仕立屋の手づくりで、値段は15ポンドから20ポンド。アクセサリーも全部そろえるとその2倍はした。もしトップのテッズになりたければ、ダンスホールに入るとき、少なくとも50ポンドはする服を着ている必要があった。

(略)

 これは決して安易に手を出せるスタイルではなかった。

(略)

[ロックンロールの神々が勢揃いした1955年は]

テッズの黄金時代だった。映画館で暴動騒ぎを起こし(略)新聞の見出しを飾ったり(略)興奮がピークに達した何か月かは、ティーンエイジャーが完全に主導権を握ってしまいそうな勢いだった。

(略)

[だが]メッセージが広まるにつれて、そのスタイルは希釈化され、魂とアイデンティティを失っていった

(略)

新たな改宗者の多くは(略)本格派のユニフォームには手を出さず、単に細身のジーンズとダックテールの髪型を採り入れ、大ざっぱに雰囲気を真似るだけで満足していたのだ。

 ラバーソールは1958年以降、イタリアン・スタイルの、黒い、先細の靴に取って代わられ、これがとりわけ北部では、50年代末から60年代初頭におけるティーンエイジャーの基本的なスタイルとなる。ブルージーンズの裾は巻き上げられ、その下から先端のとがった靴が存在を主張していた。

 同時期、ゆったりとしたテッズのジャケットも姿を消しはじめ、丈の短い、ボックスシルエットのイタリアン・ルックが幅を利かせるようになる。その先はもう、はっきりしていた。1958年になるとテディ・ボーイのスタイルは完全に廃れ、着用するのは、あえて古めかしさを狙う者だけだった。

 オリジナルのテッズは大半が20歳を超え、結婚し、身を固めていた。その一部は革ジャンとバイクに転じ、最初期のロッカーズとなる。スタイルを変えることを拒んだ(略)少数派は頑迷に古いやり方と古いユニフォームにこだわり、永遠に忠誠心を失わなかった。

 太鼓腹になり、スキンヘッドの息子たちがいる今になっても、彼らはまったく変わっておらず、その忠誠心には一点の曇りもない。これは一種のセクトであり、秘密結社だ。(略)毎度、一張羅に身を包んで、パブの奥の部屋に集まっている――ヴェルヴェットのドレープ、スパンコールつきのヴェストに指輪、残された髪の毛にはグリースをたっぷり塗りつけ、三日月刀のようなもみあげを伸ばして。

 そして隅っこに腰を下ろし、エディ・コクランジェイムズ・ディーンやメイミー・ヴァン・ドゥーレンのことを語らい合う――男は男らしく人生をまっとうし、女はみんな豊かな胸をしていた過ぎ去った時代のことを。ほんの15年前の話だというのに

(略)

 だがどれだけアナクロな存在になり果てていようと、テッズがスタート時に与えたインパクトは強力だった。とくに彼らが切り開いたふたつの突破口は、それ以降の男性ファッションに、ずっと影響を与えつづけている。

 最初の突破口は、彼らが衣服をふたたびセクシーにしたことだ。150年におよぶ隠蔽の時代をへて、華麗さと身づくろいをよみがえらせたのはテディ・ボーイだった。彼らのコスチュームが持つバロック的な複雑さ、股と股間部のぴっちり感、そして女性の前で髪をとくといった、モテるための儀式(略)

直接的なセクシーさの誇示である。

(略)

戦争の影響がついに、テッズの登場で明白になった。戦争はひとつの世代が次の世代に引き継ぐ、家族と伝統の感覚を破壊し、子どもたちははじめて、大人と同じ格好をしたいとは思わなくなる。いや、むしろ父親とは正反対の格好をしたいと思うようになったのだ。

(略)

テッズは、ならず者を志向しはじめた。彼らの衣服が主張していたのは、基本的にこの3つだった。オレはちがう。オレはタフだ。オレはファックする。

 伝統の代わりに、テッズは新たな文化をスタートさせた“ポップ” である。

 過去は関係ない――それがポップの本質だった。ポップにおいて重要なのは今という瞬間とすぐ先の未来で、すべてがインスタントになった。ロックンロールのレコードには3か月の寿命しかなく、それが過ぎると捨て去られた。ダンスのブームや言葉もそれに負けず劣らずはかないものとなり、衣服についても同じことがいえた。出来栄えと耐久性という、戦前の基準は無視された。今や、なによりも重要なのはインパクトだった。一瞬で認知される派手やかさと、性的な興奮度である。

 テッズが切り開いたもうひとつの重要な突破口は、労働者階級をファッションの新たな権威に位置づけたことだ。(略)テッズ以前のファッションは上流階級によって生み出され、それが少しずつ下々にも広まっていた。しかしテッズとポップは、その状況を一変させた。

 テッズには、オーソドックスな中流階級の文化には太刀打ちできないガッツと独創性があった。そして彼らはまちがいなく、独創的だった

(略)

 かくして金持ちの階級も、彼らをコピーしはじめた。

(略)

パブリック・スクールの生徒はこっそり『監獄口ック』を観に行って退学になり、ブルージーンズが必須とされ、ブルジョア階級も粗野な口をききはじめた。 

イタリアン・ルック

イタリアン・ルックを発見したのは、セシル・ジーではない。単にはじめてそれをよしとして、プッシュするだけの勇気とエネルギーがあっただけだ。

(略)

丈の短さ以外にも、ジャケットの襟は細く、裾はえぐれていた。シャツの襟は小さく、50年代の末にはボタンダウンになった。ネクタイは細かった。髪の毛は短く、すべてが切りつめられていた――細身のズボン、先のとがった靴、肩のないジャケット。

 ジーの意図はどうあれ、それはどう見てもエレガントではなかった。美しさの点から見るとメイン・ストリートと大差がなく、ねずみ色は依然として健在だった。しかしそれは少なくとも前進だった――目新しく、少しばかり派手で、とりわけロンドンと南部では、50年代末における若者のベーシックなスーツとなった。

 事実、それはテディ・ボーイ・ファッションをも上まわる成功を収めた。労働者階級限定ではなく、不良少年的なイメージとも無縁で、ほとんどまっとうともいえそうなスタイルだったからだ。逆に硬派のテッズからはヤワなファッションと見なされ、完全に無視されていた。

 以前のどんなスタイルにも増して、イタリアン・ルックは階級の垣根を越え、極端なファンだけでなく、労働者階級から中流階級まで、幅広い層の穏当な青少年――仕事に就き、家族とフィアンセがいる若者や、カミソリを持ち歩いたり、女性の前で悪態をつくような真似はしない若者たちにも受け入れられた。

 しかもこのスタイルは息が長かった。丈の短いジャケットと細身のズボンをベースしたスタイルは、以後8年間にわたり、連綿と引き継がれていったのである。まずは元祖のイタリアン・ルック。次いでのちにビートル・スーツとして復活を遂げる、丸首のカルダン・スーツ。最後にカーナビー・ストリート初の定番ファッションとなるモッズ・スーツ。また英国以外の場所では、さらに寿命が長かった。たとえばサハラ以南のアフリカでは、バム・フリーザーと先のとがった靴が今も幅を利かせている。(略)

 英国では、最初の弾みをつけたセシル・ジーを受けて、ジョン・マイケルというチェーン店を所有するジョン・マイケル・イングラムが、このスタイルに改良を加えた。

次回に続く。