プリンス FOREVER IN MY LIFE

スザンナ・メルヴォワン

 当時の彼は『パープル・レイン』のヒットで世界中が熱狂する大スターになっていたが三年間公式なインタビューを受けていなかったし、今後も受けることはないと宣言していた。(略)

この数週間前にローリング・ストーン誌の特集のために、彼のバンド、ザ・レヴォリューションのウェンディ・メルヴォワンとリサ・コールマンのインタビューを済ませていた。だから、彼女たちが説得してプリンスはインタビューをついに承諾したのだと勝手に考えていた。

 裏話を聞いたのはずっと後になってのことだった。(略)ザ・ファミリーでボーカルだったスザンナ・メルヴォワンの「彼と話してみたらどう?」という言葉が決め手となったらしい。スザンナはウェンディと一卵性の双子で、当時プリンスとは随分長く付き合っていた恋人だった。数々のプリンスの伝記に彼女はプリンスと婚約までしていたと記されている。実際にこれは事実で作り話ではない。スザンナは自分をしっかり持っていてプリンスに意見することができ、言わば彼を地球につなぎとめておける唯一の女性だった。

 スザンナのために、または彼女について彼が書いたとされる曲は『ナッシング・コンペアーズ・トゥ・ユー』『ビューティフル・ワン』『フォーエバー・イン・マイ・ライフ』『イフ・アイ・ウォズ・ユア・ガールフレンド』などだ。そして神話的と言っていいだろう『ウォリー』もある。別れたスザンナへの気持ちを込めたバラードで、録音を担当していたエンジニアのスーザン・ロジャースによれば言葉にできないほど素晴らしい曲だったらしい。けれどもプリンスは録音後すぐにこの曲を消してしまったそうだ。

(略)

ウェンディとリサが彼に代わって質問に答え、プリンスは彼女たちと表紙を飾るだけという設定だった。けれども彼女たちはスザンナに、プリンスはインタビューを受けるべきだと話した。(略)

ロックの世界ではローリング・ストーン誌の特集を他人に譲るなどあり得ない話だった。

 けれどもウェンディとリサはプリンスに譲ろうとしたのだ。

死の理由

アドリアーノエスパイアートが彼の祖母によって少しひねりが加えられたサン=テグジュペリの言葉を引用していた。「彼女は、よく『あなたと一緒に歩いてくれる人は誰ですか?その人たちを見ればあなたという人が分かります』と言っていた」

 誰もがプリンスの隣で歩きたいと思っていたがプリンスは誰かと寄り添って歩くことがなかった。誰かと短期的に親しくなるということはあった。けれどもプリンスと急速に親しくなることは「プリンスの元友達」という出口に一直線に向かってしまうことも意味したのだ。

 プリンスの死亡証明書にはフェンタニルオピオイド鎮痛剤)の過剰摂取が原因と記されているのだろうが、彼が死んだ理由はそれだけではない。原因は多数で、その一つは生きる活力を失ったということだ。(略)

 プリンスの一部はすでに死んでいた。彼は二人の子を失ったことから完全に立ち直ることがなかったからだ。最初の妻マイテとの間の二人の子供を一人は流産で、もう一人は先天性の欠陥によって生後一週間で失ってしまった。「誰も僕のために生きてくれない。僕も誰のためにも生きていない」と彼がつぶやいたことがあった。

(略)

 彼を追いつめたのは、子供を亡くしたことだけではなく、ひどい腰の痛みであったことも僕は確信している。何十年もの間、ほとんど踊るのが不可能な厚底の靴でスピーカーから飛び降りたりしていたのだ。(略)

他界前の数ヶ月間は、ずっと働かせ休ませることのなかった腕の麻痺がひどくなっていた。 ピアノやギターを今後どのくらい弾き続けられるかも分からない状態になっていたのだ。

マイルス・デイヴィススパイク・リー

かつて多大な影響を受けたボクサー、シュガー・レイ・ロビンソンが後に試合で完璧に打ちのめされて、控え室で仰向けになり茫然としていたとき、マイルス・デイヴィスはこう言い放ったという。「さっさと荷物まとめろ、レイ」

 これを聞いたプリンスは「あいつ最低だな。才能はすごいよ。影響も受けたし感謝しているけど、もし同じ部屋で過ごせと言われたら耐えられないな」と言った。

 

 デイヴィスは裕福な家の生まれだ。(略)父親は幼いデイヴィスをジュリアード音楽院に送った。そのためプリンスはデイヴィスを、有産階級の甘やかされた黒人だとみなして、デイヴィスを会話に出すときはいつも、彼の名前を言わず罵り言葉で代用していた。(略)

 彼は映画界に入りたての頃のスパイク・リーに対しても同様の気持ちを持っていた。リーの映画が嫌いだったのではない。リーが裕福な学生たちが集うニューヨーク大学で学んでいたからだった。ただ、リーについては彼の『ドゥ・ザ・ライト・シング』の一場面を見てから、気持ちが変わったようだ。恥ずかしげもなく人種差別をするピノを演じたジョン・タトゥーロと、リー自身が演じたムーキーとの会話。ピノが、プリンス――恥ずかしげもなく高慢な黒人――を好きだという矛盾をムーキーが問いただすと、ピノがこう答えるのだ。

「でも、プリンスはその辺の黒い奴らじゃないだろ」

「その通り」とプリンスはつぶやき、もっと嫌な呼ばれ方があったけどと言った。

 プリンスは何年も実母の悪口を言い続けていた。(略)母は薬物依存者で自分の貯金箱からお金を盗んだこともあると言ったり(略)彼女が際どいポルノ映画を家のあちこちに隠していて、思春期前の彼がそれを見つけてしまったというような話などだ(この嘘は「礼儀正しい」という言葉の象徴のようなマティを知る人々にとっては、笑ってしまうほどバカバカしいものだった)。現実のマティはミネソタ州立大学の修士号を持ち二十年も学校でソーシャルワーカーとして勤め高く評価されていた女性だった。

 そんな嘘を言い続けながらもプリンスは、二〇〇二年に彼女が亡くなるまで、他の誰の意見よりも彼女のアドバイスを大切にしていた。

『パープル・レイン』とナパーム弾

「僕の父はナパームを作っていたんだ」。(略)プリンスは十一歳か十二歳のとき、[父の職場]ハネウェルの「家族参観日」に行った。「彼らは僕たちにビデオを見せた。ナパーム弾がジェット機からジャングルに落とされるんだ。(略)すごく綺麗だったのを覚えてる。真っ青な空と飛行機と。それでナパーム弾が目の覚めるような緑の地上に落ちてオレンジ色の光があたりを輝かせる。(略)

父が説明してくれたんだ。仕事から帰ってきてからね。『あれは地獄だよ。お前が見たのは地獄だ。ナパーム弾が緑の大地に落とされたのを見ただろう?あの緑が命だったんだ。オレンジは地獄の色だ』」

 会話の後で僕たちは 『地獄の黙示録』を見た。

(略)

「血しぶきが空に上がる。赤と青が混じると紫になるだろ。紫色の雨は世界の終わりなんだ。愛している人と一緒にいて、神を信じて委ねることでその雨をやり過ごすことができる」とプリンスは語った。

(略)

「(略)彼が見た夢、空が全部紫色になって人々が逃げ回る核戦争の終末、を表現した曲を作り上げた」とロニン・ロは解説している。

モハメド・アリ

 プリンスの生き方の見本になった人たちは他にもいた。デューク・エリントンジョニ・ミッチェル。ただ、一時期憧れることがあっても必ず彼らに失望するときがきた。一度も失望することがなかったのはアリだけだ。

 彼はジェームス・ブラウンマイルス・デイヴィススライ・ストーンに憧れ、失望した。スティーヴィー・ワンダーのことはよく知らない、ワンダーの作品は好きだけど彼個人にはまったく興味がないとプリンスは言っていた。

(略)

アリがまだ「カシアス」だった頃から、一度もアリに失望したことはなかった。もしチャンプが望めば、彼の家に飛んで行って庭の芝刈りもするとインタビューで話したほどだった。

(略)

その試合が、プリンスの人生を変えた。 プリンスは(カシアス・)クレイが奇跡的にリストンからチャンピオンの座を勝ち取ったとき、リストンの魂までもが失われたのが実際に見えたと言っていた。

(略)

「リングに入ったとき、リストンは三メートルぐらいの巨大な男に見えたんだ。でもリングを降りる彼は十五センチぐらいに縮んでしまったように見えた。彼はボクサーとしてそのときもう終わってたんだ。(略)」

 

 プリンスは一九九七年にアリと面会し、今までで一番心が震えたのはどの瞬間かと聞いた。(略)

 アリの答えは、一九六四年二十二歳のときのヘビー級世界王者決定戦。誰も倒せないと思われていたソニー・リストンを打ち負かしたときだった。

(略)

 アリは過去に記者に対してこう言っている。

 

 人生で恐れというものを感じたことが一度だけある。試合のゴングが鳴る前に審判がソニーと俺をリングの真ん中に呼んだ。 審判が話している間、彼はただ静かにじっと俺を見ていた。俺のふざけた態度に対して「虫けら野郎、悪いがかなり痛い目を見ることになる」と言ったんだ。本気で言っているのが分かった。一ラウンドで彼と戦っているときが最も恐怖を感じた三分間だった。それまで誰も彼を相手にニラウンド以上戦った者はいなかった。(略)弱い一人の人間の俺が、一番興奮したのはそのときなんだ。

 

(略)

ハーバード大学の学生たちを前にスピーチをしていたアリは、彼の詩を聞かせてくれと頼まれ、まず自分の胸に手を置きそしてその手を彼らに向け「俺?俺たちだ!」と短い詩を披露したのだ。

 

「それが『格好いい』ってことだよ」プリンスは言った。

アンドレ・シモン

 冷酷な父親のせいで家を追い出されたと聞いたシモンは[母に相談し自宅に住まわせた](略)

それから四年間、二人は(略)音楽で生きていくという共通の夢を見ていた。

(略)どちらが先に注目されても相手を一緒に連れて行くと誓った。

(略)

 プリンスは内向的で、母マティの言いつけに従い宿題をきちんと提出するような良い生徒だった。一方シモンは外向的で近隣では逆らうべきではない人物としての評判もあった。車を乗り回し、捕まらない程度に盗みも働き、気に入らないことは喧嘩で解決していた。

 プリンスは、頭の回転の速さと鋭い機転でからかいや暴力を免れ、また、力が強くて体も大きく威圧的なデュアン・ネルソンという兄がいたことも助けになっていた(異母兄と思われていたが、遺伝子的にはつながりがないと後に判明した)。

(略)

プリンスはシモンから、人を惹きつけるための自信に満ちた態度、近寄りがたい雰囲気が持つ力、人に弱みを見せないことの必要性を学んだのだ。

(略)

 そんな関係にあった二人なのに、プリンスは彼の四枚目のアルバム 『戦慄の貴公子』の中の一曲『ドゥー・ミー・ベイビー』のクレジットにシモンの名前を入れなかった。彼は傲慢にも、すべての曲を書き、すべての楽器を演奏したという表示にしてしまったのだ。(略)

自分が行き場がないときに手を差し伸べてくれた親友を、プリンスはただの雇われ者かのように、「バンドのベース奏者」と呼んだのだ。(略)給料を提示してシモンを他大勢の従業員のように扱った。友達に頼む態度ではなかったので、二人の仲に亀裂が走った。(略)

ただのバンドメンバーの一人として扱われることに嫌気がさしたシモンは、それからまもなくしてプリンスから離れることを決めた。その後彼は自分の力で成功を収める。やがてプリンスのことも許せるようになったのだとシモンは語った。

 目の前にいるシモンからは、プリンスに対する恨みなどまったく感じなかった。 「俺には愛する六人の子供と妻がいるんだぜ」と彼は言った。 彼の長男は元妻の歌手ジョディ・ワトリーとの間の子供で、シモンはワトリーのヒット曲となった『ルッキング・フォー・ア・ニュー・ラヴ』の制作も担当した。(略)

「俺は自分のキャリアに満足してる。四枚のアルバムを作ったし、グラミー賞(新人アーティスト部門)も取った。リズム・アンド・ブルースの番付で一位になった曲も作った(『ドゥー・ミー・ベイビー』―――クレジットはプリンスになっている)」と語るシモンに嘘は感じられなかった。

スプリングスティーン

僕には理解不能だが、プリンスはディランだけではなくあのヘンドリックスでさえ尊敬はしていなかった。「みんなが僕らを比べようとするのはただ僕が黒人だからだ。本当にそれしか彼との共通点はないよ……彼よりサンタナにずっと大きな影響を受けた」

 プリンスはそう言ったのだが、サンタナにも大して敬意を払っていたとは思えなかった。

(略)

 プリンスが尊敬した人など存在するのか?

 

 「ブルース・スプリングスティーン」。 彼が一度心からの称賛を込めて言った。

「そんなに彼の音楽が好みというわけじゃないけど、僕がファンを盗めないと思うミュージシャンは彼だけなんだ」と、「盗む」という言葉に感嘆を込めてつぶやいた。

(略)

 プリンスが(略)「ザ・ボス」に値するとみなしていた一番の理由が、彼の圧倒的な影響力だった。プリンスが初めてスプリングスティーンのコンサートを見たのは舞台裏からだったらしい。「そこでバンドメンバーが演奏を始めたとき少し浮ついた音を出したんだ。そしたらスプリングスティーンがちょっと振り返って、バンドに目をやった。その一瞬でメンバー全員に緊張が走ったし、すぐに演奏が変わったんだ!」

 二人は友達になり連絡も取るようになっていた。プリンスが他界した後、スプリングスティーンがプリンスに捧げるとして『パープル・レイン』でコンサートを始めたときの映像が、多くの人々に繰り返し視聴されている。

「プリンスは死んだ」

実際のところ、プリンスがヒップホップ革命に乗り遅れたと言うのも語弊があるかもしれない。

 彼は単純にヒップホップなど問題にしていなかったのだ。初めは。

(略)

最終的にはラップやヒップホップを認めて自分の曲に取り入れてみたりしていた。ただ音楽が重要でなくなり、業界全体がひどいものになったという考えは頭の中から消えていなかった。

(略)

[1993年]プリンスは、彼のロサンゼルスの豪邸で憤慨し苛立っていた。有名なスターたちの大半が楽器が弾けず歌えず踊れないのにチャートを制覇し、自分がそうでないことに怒っていた。(略)

 そして続けて「プリンスは死んだ」と言い出したのだ。(略)

「プリンスは死んだんだ。だからタイムカプセルを作る。プリンスをタイムカプセルに入れて歴史にする。彼は過去なんだ。彼ができることは何もないし彼が加えられるものも何もない。彼は必要ないんだ」

(略)

名前を発音できない記号にし(略)後に『ラヴ・シンボル』と名付けられるアルバムのジャケットにその記号を使う予定だとプリンスは続けた。(略)

それから二時間ほどの間、この行動が意味することを僕に説明した。

息子の死

 一九九六年十月二十三日、彼は崩壊する(略)

 プリンスとマイテにとっての突然の打撃は、彼らの息子アミール・ネルソンが先天性の病気との死闘の末、生後一週間で他界してしまったことだった。

(略)

残りの人生をかけて、彼は息子の死で自分を責めた。(略)

彼の存在に根を張っている「許されない者」としての意識が彼を決して離さず、息子の死は自分がしてきた罪に対する罰であると感じさせていたのだ。

(略)

 この朝を境にプリンスは二度と以前の彼に戻らなかった。

 彼の魂の大部分がアミールが他界した年に死んでしまった(略)

彼が持っていた一種の明るさ、たとえ最悪の時期でもいつも絶やさなかった小さな灯火が消えていた。普遍的な上昇思考、一種の楽観、最悪のときをやり過ごす生命力、終末的で運命論的な思想の中でも熱い石炭のように息づいていた希望がどこかに行ってしまった。

(略)

二年たち、もう戻れないほどに彼が変わるまで、変化に気づいた人はほとんどいなかったのだ。

 プリンスにはもともと好きな人があまりいなかったが、その数がさらに減った。

鎮痛剤の常用

[著者がローラーブレードで足の骨を五本折り半年自宅療養中、プリンスから電話があり慰めの言葉]

僕はその日(一九九七年だった)の電話で他の様々な話題と共に「パーコセット、制限なし」という処方箋をもらった話をしたのだ。

(略)

プリンスがドアベルを鳴らしたので松葉杖に頼りながらどうにか彼を迎え入れた。水を飲むかと僕が聞く間もなく、彼は僕の居間で、薬局の容器に入った錠剤を見つけたようだった。

 プリンスが容器の三分の一ほどの錠剤を、まるでエムアンドエムズのチョコレートを食べるようにあっという間に飲み込んだとき、僕の気持ちは沈んだ。ずっと噂は聞いていたが本当だったんだと思っていた。十年以上も前から、彼が強い鎮痛剤を常用したりやめたりを繰り返しているとは耳にしていた。『パープル・レイン』ツアーのあった一九八四年の秋からということだ。

 でも僕はいつも彼の事務所が使う言葉、プリンスは聖職者のごとく薬物に対して潔癖だという説明を信じていた。彼のツアーに同行したときは薬物摂取が解雇を招くとされただけでなく、彼の周辺でタバコを吸うことさえ禁じられていた。

(略)

チャーリー・パーカースライ・ストーンなど(略)が薬物で破滅したことをプリンスは見下していたし、知り合ってからずっとそんな彼の話を聞いていた。レイ・チャールズマイルス・デイヴィスに薬物中毒だった過去があったことさえ軽蔑していたのだ。それは弱さだ、と。

 そんな彼が今、まるでアップタウンあたりをうろつくみすぼらしい物ごいのように、切に錠剤を求め僕の家の居間に来ていた。

 ここ二年ほどの間彼とは会っていなかった。彼と知り合い始めの頃の方が、実際に会って一緒に過ごすということが多かった。

引きこもるプリンス

 アミールの死による打撃と体の痛みが限界まで達して、プリンスは引きこもるようになっていた。

 

 プリンスがもう外部からの情報を吸収しようとしていないことに僕が気づいたのは一九九七年だった。(略)

 仕事を始めた十代の頃の彼はクリス・ムーンからスタジオ録音のすべてを学んだ。 ムーンやオーウェン・ハズニーの妻やリサ・コールマンから、ジョニ・ミッチェルについてのありとあらゆることを教わった。コールマンによって幅広いクラシック音楽の世界を知るようにもなった。

(略)

 アンドレ・シモンのアイスバーグ・スリムのような態度を模倣し、一九八〇年にリック・ジェームスのコンサートのオープニングで演奏していたときには、衰えていく伝説的なファンクスターと彼の弱さを観察していた。サクソフォン奏者のエリック・リーズによってジャズとマイルス・デイヴィスの荘厳なトランペットに興味を持つようになった。 ウェンディ・メルヴォワンとプリンスは精神的にそして知的に共鳴し合い、僕には計り知れない本質的な何かを共有していた。

 そんなプリンスが、だんだん内にこもるようになって生活をさらに区分化するようになっていった。彼が会話の中に出す人物を僕が知らないということが多くなっていった。そして昔は文章だった彼の会話が、切れ切れの文の集まりのようになり、彼が実際何を考えているのか僕にはほとんど分からなくなった。彼は自分が誰なのかを問い、自分を責めているようだった。死んでしまい、自分に痛みを与えるだけの赤ん坊をなぜ授かったのかという質問に苦しんでいるようだった。

ミネソタ・ナイスと裏の顔

ミネアポリスでは本当に多くの人がふりをしているように見える。(略)

住民の仮面の下を覗いてみれば、欺瞞の精神が深く根を張っていることに気づく。どんなに状況が深刻だとしても、とりあえず今は考えずに見ないふりをしておこう。そんな精神がミネアポリスの伝統となっていて、人々は現実を直視するより拒否しようとする。

 

・アルコールや薬物依存の友達に何か助言しようなどと夢にも思わない。

・同性愛者は、異性愛者を装う。

・「面白おかしい叔父さん」が四世代にわたって十代の姪たちにいたずらをしている状況を、身内が見て見ないふりをする。

・ある夫婦の夫が休暇中の親族の集まりに何年も姿を見せないが、誰一人理由を聞かない。

・自殺願望がある人がいても、カウンセリングをすすめない。

 

 ここでは皆が何事もなかったように振る舞い、波風を立てるべきではないと思っている。

(略)

 プリンスは他界したとたん、ミネアポリスのモダンカルチャーの神殿で君臨するゼウスのように(略)祀られた。けれども生前は決してそんなふうな扱いではなかった。実際ミネアポリスの住民の大部分は彼に対して、大げさでいつも態度の悪いスターという印象を持っていたのだ。

 

 ミネアポリス十戒は北欧の社会通念である「ヤンテの掟」だ。人より秀でてはいけない、身の程を考えるべき、変わっていると言われないようにすることが大切だとする社会構造 。こんな土地がどうやって「プリンス」のような人物を生み出すことができたのか?

(略)

 この十戒ノルウェーに移住したデンマーク人作家、アクセル・サンデモーセの風刺小説『逃亡者は己が轍を横切る』に出てくる。一九三三年出版の小説の中では、架空の町ヤンテで協調して生きるためとしてこの教義を広める。

(略)

一九六〇年の人口調査、ミネソタ州の九十九パーセントを占めたのは白人。大部分はノルウェースウェーデンデンマークの血筋を持った人々だった。つまりヤンテの掟を伝道し、教え、実行する集団だったのだ。

(略)

ミネアポリスアメリカ国内の十五都市の中で最も有色人種の人数が少ないと記録されている(二〇一八年にミネソタ州で黒人と自己申告した人は全体の七パーセントだった)。また白人とアフリカ系アメリカ人の平均所得の格差、そして高校卒業資格の保有率の差が最大なのがミネソタ州だ。

(略)

コーエン兄弟の映画 『ファーゴ』(略)

ミネソタ州の風習や社会的習慣を風刺し一九九六年に公開されたこの映画は、アカデミー賞の作品賞にノミネートされてニューヨークやロサンゼルスで人気を博した。劇場を出てくる観客が、アメリカ中西部訛りの映画のせりふを練習していたぐらいだ。

 一方で、ミネソタ州ではと言うと、人々の評価は「変わっている映画」だった(略)。コーエン兄弟は地元では以前から変わっているとみなされていたので、『ファーゴ』のウィリアム・メイシーの役が「ミネソタ・ナイス」を象徴し、社会病質の殺人者という設定だったのも驚きではなかったのだろう。しかも、ミネアポリス・スター・トリビューン紙の映画批評家の名前をその役名にしていた。この批評家は、彼らが皮肉を含んだ逆説的表現を試し始めた『ブラッド・シンプル』以降ずっと、国際的に多くの称賛を得ていた作品たちを痛烈に批判し続けていたのだ。

(略)

 プリンスが他界した夜(略)ミネアポリス繁華街の建物や橋は紫色のネオンで輝いていた。数え切れないほどの人が集まり、見知らぬ人同士で抱き合い、踊り、『パープル・レイン』を歌い、大泣きしていた。

(略)

ミネアポリスは、プリンスへいつもこんなふうに敬意を払っていたのだろうか?ミネアポリスは彼の曲がラジオでかからない場所ではなかったか?『リトル・レッド・コーヴェット』、彼の初めてヒットしたシングル曲が全米ポップ・チャートで六位になっても、このあたりではまったく聞くことがなかった。あんなに競争心が強く、簡単に怒り、蔑視されることを何よりも嫌うプリンスがなぜ気にしていなかったのか?「別に」と彼は平然と言った。「ここ以外では他のどこに行っても僕の曲が聴けるからさ」

(略)

ミネアポリスのマスコミも彼をまるで厄介者のように扱い、名前を変えたことをからかい、態度を軽蔑していた。ニューヨークやロサンゼルスではわりと普通とみなされる彼の横柄な態度は、ミネアポリスの基準では正真正銘の変人と判断されていた。それなのに彼は他界したと同時に神話化された。

(略)

 フィッツジェラルドプリンストン大学に入る前に格式高いセントポール・アカデミーを飲酒で退学になったが、僕の調べでは彼はその後一度もミネソタ州に戻っていない。しかし、驚くべきことに彼が逝去して五十四年後の一九九四年、セントポールの繁華街にあるワールド・シアターは、フィッツジェラルド・シアターと名前を変えた。しかもその二年後、生存中はまったく彼のことを認めなかったこの町には実物より大きい彼のブロンズ像が立てられたのだ。(略)

ジュディ・ガーランドは生涯ミシガン州のグランド・ラピッズ出身と言い続けたが実はミネソタ州のグランド・ラピッズで生まれた。本名はフランシス・ガムだった。映写技師の父親が複数の男性を性的に誘惑していたことが明るみに出て、家族は住民から蔑視され、この地から去る以外の選択肢がなかったのだ。

 そのような経緯があったにもかかわらず彼女が逝去した後、ミネソタ州のグランド・ラピッズは当然のようにジュディ・ガーランド博物館を建てた。隣の「黄色いレンガ道」というギフトショップでは驚くほど高い値段がつけられた商品が売られている。

(略)

 ボブ・ディランは一九四一年にミネソタ州ダルースで生まれ七年過ごした後、一家でヒビングに移った。ダルース・シビック・センターを囲む道を彼の名前にするか否かという論争は、彼がノーベル賞を取るかどうかの議論よりずっと激しいものだった。彼は一九六〇年代初期にミネソタ州から去ったが、この地に残った家族や親類(略)や幼なじみたちと連絡を絶やすことなく密な関係を保っている。彼の母親が数年前に亡くなったときに、彼女に向けた詩をグランタ誌でもパリス・レヴューでもなく、セントポール・パイオニア・プレス紙に寄稿した。

 それでもミネソタ州では、彼が生きている間は「ボブ・ディラン?それで?」とぞんざいに扱い続けるのだ。

 なぜなら彼も、プリンスやフィッツジェラルド、ルイスやウィルソンそしてガーランドと同様に、「変わっている」からだ。自分が特別だと信じていたからだ。

 

バンドやめようぜ! その2

前回の続き。

シーン内の政治をさばくには

 ギグは終わったものの、それとは別にちょっとしたパフォーマンスが始まりつつある。会場スタッフはテーブルや椅子を引っ張り出し、つまみを用意している。イベント主催者はまだ居残っている観客やバンドの連中をライヴ後もまだお酒を飲むつもりの面々、あるいは帰ろうとしている人々とに必死な形相で仕分けようとしていて、前者からは酒代を集め、そして後者にはお礼の言葉と元気でねの挨拶をかけている。

 観客に混じったふたりの若い青年がミュージシャンのひとりに声をかけようと辛抱強く待っている。彼は共演バンドのひとつの友人の一群を相手に愛想を振りまくのに忙しい。彼はアルバムを出したばかりのところで、ヴィデオはスペースシャワーTVで何度か放映されている。いまや友人連中よりもちょっとばかり有名というわけだが、あちらの方が歳上なので彼は礼儀正しいままだ。彼の友人連中が終電をつかまえて家に帰らなくてはいけないのは、次の日に新作アルバムのレコーディングが控えているからだそうだ。彼らはなにげないふりでレコーディングのエンジニアの名前をわざわざ持ち出すが、そのエンジニアはスペースシャワー君よりももっと年配かつ有名な御仁だ。

 チャンス到来とばかりに、若いふたり組は彼に近寄っていき彼のバンドのセットにお祝いを述べる。(略)

彼らはそのミュージシャンが以前に所属していたのと同じ大学の音楽同好会メンバーで、彼のバンドはふたりにとっての大きなインスピレーションだ。彼らが企画するイベントにもしも彼に出演してもらえたとしたら、彼らにとっては非常に名誉なことになる。

 そのミュージシャンはふたりの若者からの賞賛の声をあたかも自分に寄せられて当然な賛辞を受けているに過ぎないといった余裕の雰囲気で受け止めているが、イベントの話題が持ち上がった途端に、彼はふたりの話をさえぎる。

 「あのさ」、と彼は言う。「この段階で僕らが君たちと一緒に演奏するのって、とにかく間違いなんじゃないのかな。その手の誘いを僕たちにお願いするには、君たちはまだ早過ぎ、そのレベルには達していないんだから」。

 ふたりの若者はうなずき合いながら、謙虚な面持ちで大失態をおかしてしまったと自覚している。

(略)

たぶん彼らがシーンでしばらくの間がんばってみて、自分たちの立ち位置に近いバンドたちともうちょっと付き合ってみたら、いつの日か彼のバンドが出演するライヴで前座を務めるチャンスをつかめるかもしれない。その日が訪れるまではしかし、彼らは自分たちの分をわきまえなければならないのだ。

 その晩のライヴ主催者が割り込んできて、若者ふたりに打ち上げにも参加するつもりかと尋ねる。彼らは表情を感謝の笑顔に整え直し主催者にいそいそと金を払う。会場内にはまだたくさんの人々が残っているし、ふたりはコネを作るのに手一杯になりそうだ。

 

 東京でイベントを企画する際には、単純な収支計算以上の多くのファクターも考慮に入れる必要がある。個人的には、僕は自分のイベントをほぼ毎回東京の高円寺で開催してきた。なぜかと言えば僕は怠惰だから:自分の住居から10分以上歩かなければならない会場は遠過ぎる。それに(略)[街そのものも素敵で]中心街寄りなエリアにある会場では滅多に味わえない親密なフィーリングを添えている。

 新進イベント・オーガナイザーが検討するファクターには他にこんなものがある:会場のスタッフは親切か?自分がブッキングしようとしている種類のバンドのファンたちの間でその会場はよく名が通っているだろうか?ドリンク料金はどんな感じ?トイレの臭いはどういうことになっているのか、またトイレ配置はライヴを観るのに都合がいいか?

(略)

 ミュージシャンで音楽ジャーナリストの青木竜太郎はアメリカで育ったものの日本に帰国後はミュージシャンとして経験を重ねてきた人間で、彼は日本のアンダーグラウンド音楽が世界に向けて表に出しているワイルドで奔放な顔つきは、しばしば意外なくらいにコンサバな社会的潮流を隠していると感じてきた。

「インディあるいはオルタナティヴ・バンドの活動はこうあるべきだみたいなやり方が、ナンバーガール/くるりの頃、2000年に入ってすぐ後くらいに固まったんです(略)ノルマを払い、打ち上げ (アフター・パーティもしくはライヴ後の飲み会のこと)に行き、他のバンドと知り合いになる、と。 とても通り一遍で」。

 この人脈作りのプロセス、あるいは青木が言うところの「チンポしゃぶりのおべっか使い」は、序列の中でそのバンドが先輩か後輩かをベースにした社会的な力関係とも関係している。

(略)

 とはいえ誰もがこの序列システムに賛同しているわけではない。ナンバーガールパニックスマイルといったバンド周辺に集まった博多ノー・ウェイヴ・シーンには、彼らより古株な福岡のめんたいロック・シーンに築かれた閉じた序列型カルチャーに対する反動という側面も一部あった。

(略)

 「バンドには二種類あって」と、メルト・バナナのAGATAが説明する。「まず、イベントを企画しコミュニティを生み出しながらそうやって努力しているバンドたちがいます。それから僕たちみたいに、招かれればライヴをやりますよ、というバンドがいる。でも僕たちは、誰かからライヴ出演を依頼されたくて、わざわざ先方に贈り物を送ったりはしません、と」。

 東京で自分のイベントをブッキングし始めた頃に僕を見舞った大きな問題は、お客が観に来てくれるという期待をほんのわずかでも繋ぐには、出演バンドはすべてまったく同じ音でなければいけない、という点だった。完全に誰もが僕に向かって多様性が好きだと言ってはくるのだが、多様性は客を呼べない足枷だとすぐに気づかされた: 彼らは積極的に多様性から逃げていくのだ。

 おそらくこの分離ぶりが、東京に暮らす外国人にとってはその音楽シーンに分け入り進んでいくのが非常に難しく思える理由の背景にあるのだろう。

(略)

「メルト・バナナやボリスみたいなバンドのことですが」と、青木が語る。「アメリカで高校時代に発見したこうしたバンドたちについて、僕にはまったく文脈が欠けてたんです。(略)彼らみたいなバンドのすべてが一緒に存在している多様なシーンみたいなものを思い描いていたわけですけど、実際に日本に来て、彼らのライヴを観に行き、そして彼らとおしゃべりしてみて理解したのは、彼らはここ日本にフィットしないバンドだからこそ日本を出たんだな、ということでしたね」。

 東京より小さな都市ではライヴ会場の数も少なくなるし、したがってバンドも観客も違うジャンルの音楽と接するのにもっと慣れている。それに対して首都シーンは、党派的なニッチの数々へと細分化していく傾向がある――時には似たような感じに思える音のバンドの間ですら細かに分かれている。

(略)

 音楽シーンにある細分化の性質(略)をうまく切り抜けるのにいくつかの方法がある。ひとつはリンガー (訳者註:不正競技者/替え馬の意味もあるように、正規メンバー外の人員を指すターム)を連れてくることだ。

 これは基本的にどういう意味かと言えば、シーンの外側に腕を伸ばし、もっと有名なバンドにお金を払って来てもらいヘッドラインを担当してもらうということだ。

(略)

 もうひとつやれることと言えば、とにかく長期戦でじっくりゲームに取り組むことだ。安上がりな会場をゲットし、定期的な間隔をおいて同じ場所でショウを予約し、少人数のDJ連を確保して自分に可能な限りべストなバンドをブッキングし続け、そうやってアイデンティティを築き上げ、そしてついにはパーティに来てくれる自分自身のオーディエンス群を作り出していくべく努力する。日本で開催されるイベントでよくおこなわれているのにヴォリューム1、ヴォリューム2、ヴォリューム3 といった具合にイベントに通し番号をつけるというのがあるが、これは数字が大きいほどそのイベントがおふざけではなくもっと真剣なものと映るから、という発想からきている。ほとんどのイベントは三回目以上に達することはまずない

(略)

 フライヤーはいまだに人気の高い手法で、僕が最初にイベントを組もうとし始めた時に教えられたラフな公式で覚えているのはフライヤーを1万枚刷れば約100人のお客に値する、というものだった。これは完全なでたらめだ: 原則として、フライヤーというのは人々めがけて戦車から豆鉄砲で豆をぶつけるようなものだ。

(略)

 いずれにせよ、日本のバンドとイベント組織者というのはいまだにかなりの時間と制作費を費やし、たまにかなり豪華なものにもなるフライヤーを作っている。フライヤーの魅力、そのイベントが「何号目」かを記すといった点は、バンドあるいはオーガナイザーを真剣にやっている連中として見せることに尽きるようだ

ミニ・アルバムというフォーマット

 北米と日本双方でバンドと仕事してきた経験を持つエンジニアであるセブ・ロバーツ

(略)

は日本のロック界のマスタリングにある「あまりにホット」になる傾向、たとえばスネアがティンパレス(ラテン打楽器)のように聞こえるほどコンプをかけたり趣味の良い聴き手には不必要なほどハイ・ハットがうるさ過ぎる、という点を特に指摘している。

 「比較的に言ってミックスも概して明るいですよね」とロバーツが付け足す。 「ものすごく高音重視なミックスというのは西側ではずっとダンス・ミュージックの分野で使われてきたもので、対してロックは常に中域が非常に前に出てくるジャンル。日本では、かなり甲高く響いてしまうレコードが多くなるわけです」。

 日本でのミックスが高音に重点を置いたものに傾きがちになる理由の一部には、ヴォーカルの声域、とくに女性シンガーの場合は高めになりがちな声域と楽器部との間に残る空間を埋める必要がエンジニアの側にあるから、という点もあるのかもしれない。

 いずれにせよ、いったんレコーディング/ミキシング/マスタリングの過程を通過すれば、ほとんどのバンドは通常7曲前後収録、尺は30分程度のCDという成果を手にすることになる。この手のミニ・アルバムが優位を占める理由には、おそらくこのフォーマットであればレコーディングにかかる費用とアイドル以外のCDシングル作品や低価格なEPに難色を示すレコード店側とのバランスをとりやすいから、というのも部分的に含まれていそうだ。その上、たぶんこちらの方がもっと重要な点だろうが、バンドとオーディエンスの双方がライヴ・シーンにおける標準である30分間のセットと、その簡潔な一定量内で音楽を届け、また消化するように鍛えられているから、というのもあるだろう。

(略)

 その理由がなんであれ、ミニ・アルバムというフォーマットの完成ぶり(略)こそ、日本のインディ音楽の経済学が20世紀の音楽シーンにもたらしたただひとつのもっとも素晴らしいアーティスティックな業績である、という自分の意見に誇張はない。 

英語で歌うメリット・デメリット

 日本語は「日本人っぽい」思考を表現するのに非常に適しているわけだが、逆に言えばそれは日本的なレールから外れた思考を表現するにはいささか不向きだということで、多くのアーティストがそうした意味論における制約から解放され自らの思考を好きなように浮遊させることのできる外国語のもたらす自由を満喫している。シーガル ・スクリーミング・キス・ハー・キス・ハーの日暮愛葉は、彼女にとっての英語の持つ柔軟性の魅力についてこう語ってくれた。

 「英語はもっと音楽的なんです」と彼女は言う。「英語の響きはパーカッション楽器、ピアノ、ギター・リフみたいに聞こえる。英語なら自分の弾くピアノやリフにもっと楽に乗せやすい。日本語で曲を書こうとすると、私にはほんと難しくて――ひとつの言葉から次の言葉へといった感じに細かく考えなくてはいけないし、この言葉はどうやったらうまく乗るだろうとか、あるいはこの言葉はどうもうまくいかないからここは変えなくちゃとか、これだと全然意味が通じなくなってしまうなぁ、等々。でも英語でなら、私は本当に自由に書けるんです」。

 英語を母国語とする人間だったら、果たしてこんな風に言語に対してルーズな姿勢をとるだろうか?という点にはおそらく議論の余地があるとはいえ、この本の中でも既に見てきたように、日本語をポップ/ロックのリズムやメロディにフィットさせるのが決して楽ではない言語にしている要素は確かに存在する。これに対し、英語はもっと会話調スタイルな発語を許容する傾向がある――日暮はそんな「喋っているような歌い方」のヴォーカリストとして彼女が特に魅力を感じる対象に、サーストン・ムーアとルー・リードをあげてくれた。

(略)

シー・トークス・サイレンスの山口美波が説明してくれたのは、彼女が聴いてきた音楽のほとんどは英語で歌われていたので自分で歌うことになった時にいちばん使うのが自然に思えた言語も英語だった、ということだった。これは40年前に内田裕也が主張したのと基本的には同じ見解から出た発言であり、これからも決して絶えることなく続く見方だろう。

(略)

 日本国外でのサクセスについては、英語で歌詞を書けば海外でデカく当てるチャンスが増すと信じているミュージシャンと業界人たちは一部にいる。この戦術はスウェーデン人作曲家やプロデューサーたちには有効で、彼らは新たなトレンドを吸収しそれをもっともキャッチーな形へと凝縮できる達者な能力でもって90年代後半以降のグローバルなポップ・シーンにアンバランスなくらい過剰な影響力を及ぼしてきた。

(略)

 英語で歌うことは、海外市場で独自なニッチを作り出せる一部のバンドにとってはコマーシャル面での恩恵をもたらすかもしれないが、大概その戦略はわざわざ苦労してやった甲斐に見合わないトラブルをもたらす。日本人バンドによる英語使用は必ずしも海外リスナーとはそりが合わないこともあるし、彼らリスナーにとって下手に使われた英語を良くて邪魔物、サイアクな場合は恥ずかしくて聴くに耐えないものになってしまう。多くの人間にとって、ジャパニーズ・ミュージックの魅力というのはまさにそこにある日本らしさにあるわけで、したがってファンたちはむしろバンド側がそれらを英語を通じて伝達することを望まない : 彼らにしてみれば、歌詞は東洋の神秘に包まれたままであるべきなのだ。基本的にあらゆるJ-ポップ曲の歌詞は完全に、救いようのないほどひどいものであることを思えば(略)

国家主義的だったブリットポップ

 オアシスやブラーといったバンドが頂点を極めていった最中にイギリスで大きくなった人間として、僕はとにかく、このブリットポップ時代の基盤を成していた気風が実はどれだけ国家主義的なものだったかという点に気づくのが遅かった。

(略)

 アメリカからやってきたグランジの侵略に対する返答としてのブリットポップというのは、当時僕たちの多くがアメリカと結びつけて考えていたあの一種均質化した大企業系の薄気味悪さを受けて登場した、反グローバル主義者による国としての――そしてそれ以上に、特に地元と地方のアイデンティティの更生という風に感じられたものだった。それが時には公然とした反米主義に傾くことがあったとしても、自分たちは負け犬の側なんだから無害だろうと思えた果敢なブリッツどもがスピットファイアに乗り込み、無慈悲な外敵から自分たちならではの暮らし方を死守しようとする図だ。まだ若過ぎて馬鹿過ぎたために僕はそのムーヴメントが内部に同じく資本主義の強欲な力を宿していたことに気づかなかったし、新たに衛生処理を施され、社会主義色を消し去った労働党の1997年総選挙での勝利とブリットポップの崩壊とが軌を一にしていたのは偶然ではなかった。

(略)

ブリットポップを特徴づけていたあの尊大さとシニシズムの混合物とは異なり、J-ポップが提示してみせたソフト・フォーカスで柔らかく捉えられた日本像は明らかに陳腐だった。

ライオット・ガール、フェミニズム、キュートとクリエイティヴィティの交点

 とことんフェミニンなキュートさとDIY原理主義とが、そのどちらに対してもこれといった妥協なしに組み合わさった様を見て取れる場のひとつが〈ザ・トウィー・ガールズ・クラブ〉 DJチームで、このチームはブティック&レコード店〈Violet And Claire〉を経営するシーンの女王、多屋澄礼が中心になっている。多屋は西洋からの影響が非常に強いインディ・ポップとローファイ・パンク、そしてファンジン文化に根ざしている人物で、ルーツという意味でこれほどアイドル・シーンからかけ離れたものもない。にも関わらず、トウィー・ガールズがキュートで可愛いものをフェティッシュ化する度合いというのはイギリスあるいはアメリカで80年代/90年代に育った人間の認知をはるかに越えた範囲にまで及んでいて、様々なクラブ・メンバーたちの販売する手作りの工芸品やアクセサリーにそれがもっとも強く表れている。

 僕のおこなったインタヴューの中で、多屋は彼女のやっている女性に焦点を絞ったインディ・カルチャーのプロモーションはその美意識と姿勢とに対する彼女自身の愛情が中心になっていると語ってくれた。「女の子たちはいい意味でとても大胆不敵だと思います――たまにちょっと危ないってこともあるくらいに」と彼女は言う。「彼女たちは最後までよく考えずに何か新しいことだとかプロジェクトを始めてしまう。この衝動性が、私の好きなタイプの興味深いガールズ・カルチャーを生み出してるんです」。

 そうは言いつつ、多屋は彼女のやっていることと彼女にとってのキーになる影響のいくつかを受け取ったライオット・ガールのムーヴメントとの間には違いがあるという点についてははっきりしている。

 「私の考えるライオット・ガールというのは、たぶん一般的な解釈とは少し違うんでしょうね」と多屋は言う。「人々はいつだって、ライオット・ガールに関わるものと言えば"フェミニスト"になると考えます。 私は自分たち(トウィー・ガールズ・クラブ)がフェミニストだとは思っていませんけど、でも私たちは90年代のライオット・ガール・ムーヴメント―――ビキニ・キルやスリーター・キニー等々――がもたらしたカルチャーは大好きなんです。あれがインディペンデントな女の子たち音楽の文化のスタート地点でしたから」。

(略)

『VAMP!』誌主幹の坪内アユミが主催する〈チックス・ライオット!〉というイベントは、同じようにライオット・ガールをルーツに据えつつよりラモーンズ/ジョーン・ジェット系のトラッシュなパンク感覚を備えた催しだが(略)

 90年代始めにアーティストのマネジメントと男性が優勢な音楽ジャーナリズムの世界とを通じて音楽シーンに入った坪内は真剣に受け取ってもらうために必死で闘わなければならなかったそうで、おそらくその奮闘の結果なのだろう、彼女は自身をフェミニストと呼ぶことに対する抵抗がはるかに少ない。それでもやはり、彼女はライオット・ガールの直接的なアプローチを日本の文脈において機能させるのは難しいだろうと考えている。

(略)

「私はワシントン州オリンピアで2000年に開催された、第一回〈レディフェスト〉 (略)を観に行ったんです(略)あのイベントは元祖ライオット・ガールの面々がオーガナイズしたもので、そこで私も日本でこういうことをやる必要があるなと悟りました。でもそれと同時に、あれをそっくりそのままコピーしたものはやりたくなかった。〈レディフェスト〉は明らかに政治的だったけれど、そのアプローチを日本に直に移し替えるのは楽じゃない: あれらの物事――音楽、政治、文化というのは、日本では同じ領域に共存してはいないので」。

(略)

90年代初期の日本のロック・シーンの中で前に進んでいこうとして葛藤した日暮愛葉の経験は坪内がジャーナリズム界で味わったそれとパラレルを描いている。

 「日本の女性というのは本当にフェミニズムの"過激さ"に気を使うんです(略)私もたまに自分をフェミニストだと思うことがあったり、あるいはそうじゃなかったりまちまちで。フェミニズム思考の一部は好きですが、でも考え方はただひとつっきりというのは私は嫌。それは危険だと思う。時には自分にフェミニズムが必要なこともあります――あんなにたくさんの男性を相手に自分が闘ってきたのもだからでした:立ち向かって闘わなくてはいけない偏見があったんです」。

 過激そうだという思い込みは、なんであれ明白なメッセージの拡散を阻むバリアを作り出す。その代わりに坪内のとったアプローチは、とにかく実際にやってみて実例を提示しリードしていくことで、女性たちが自身のカルチャを自分で所有するという発想を一般化していくことだった。

 坪内の認識は、重要な断層線は美学の領域よりもむしろ創造性とコントロールの間に存在する、というものだ。「90年代にとあるアイドル歌手のマネージャーをやっていたんです(略)彼女は決して音楽について喋りませんでした――ただ男性陣から音楽を渡されるだけ、と。彼女は歌を覚え、歌唱レッスンを受け、繰り返し何度も練習し、ステージに立ち、テレビに出演し、スタジオに入り、コマーシャルをやっていました。働き者でしたが、でも彼女はいつだって誰かからの指図に従っていたんですよね」。

 そんな状態の業界を去ってインディ/DIYな道を選んだわけだが、坪内は子供を産んだ際に再びアイドル文化と対峙することになった、

「以前、チックス・オン・スピードのメリッサ・ローガンに取材した際に『フェミニストってなんなんでしょう?』と質問したことがあったんですが、彼女の回答は『フェミニストというのはクリエイティヴって意味よ』でした。私の娘は今7歳ですが、近頃『アイドルになりたい』と言い出すようになって。 彼女のやりたいことを応援してあげたいのは山々だけど、私はこう言うんです、『やってもいいけど、自分の音楽は自分で作らなくちゃダメだよ』と。娘にピンクのギターとちっちゃなオルガンを買ってあげましたね。彼女には創造的になってほしいんです」。

 このピンクのギターと小さなオルガンは日本の音楽シーンでもっともうまくいった「女の子カルチャー」表現のメタファーとして位置するもので、そこではキュートで子供っぽく素人くさい何かとパンクっぽく原石なままのクリエイティヴィティとが組み合わさっている。それをフェミニズムと呼ぼうが呼ぶまいが、その可憐すぎる素朴さ✖未加工の創造力のコンビネーションを調和させることは、日本において女の子たち(略)と音楽シーンとが結んでいる関係の重要な部分を理解するキーになってくる。

(略)

この可愛らしさとクリエイティヴィティの交点というのは、インディというものの政治的な感覚が薄れてライフスタイルになっていく、資本主義的行動がインディ・シーンの中へと広がっていく作用でもあるのかもしれない。

(略)

日本で生まれ育った女の子たちはそもそもハイパーにキュートなイメージに取り囲まれながら育ってきたのだ。マルクス主義のタームをそこに当てはめさせてもらえば、彼女たちは生産手段のコントロール権を奪い取ったということだし、インディ音楽のゆるい経済においては、彼女たちの生産するカルチャーは今や多かれ少なかれ彼女ら自身の設定した条件のもとで流通している、ということになる。この意味で、彼女たちは外から押し付けられた可愛らしさや女の子っぽさといった概念の犠牲者ではないし、むしろ彼女たちはそれらをクリエイティヴなツールとして利用し、ポップ・カルチャーの広範なパレットから様々なものを引用しながら、それらを音楽シーンそのものと同じくらいに多種多様な目的へと適用していることになる。

オルタナティヴとアイドル産業

ここで代表例になるのがでんぱ組inc. で、彼女たちには「以前は引きこもりだった女の子たちが、困難を乗り越えて輝く未来に向かい夢を追い求めていくことになった」というグループ像を描き出す前歴ストーリーがある。ゆえに彼女たち自身も、ただひたすらに(略)男性の性的欲望を満たすためのフェティッシュのオブジェ的存在というわけではなくなる: 彼女らはアバターであり自己同一化できる対象であり、若者世代が潜るドラマの中核部を実演しているのだ: それは成人としての人生がもたらす侘しい現実と、子供時代に抱いていたきらきら輝く夢の数々との間に生じる葛藤劇だ。その子供時代というのはおそらく、買い手を幼児化させる消費文化によってえんえんと引き伸ばされる一方なのだろう。重度にコマーシャル化されたものかもしれないが、それが発しているメッセージはメインストリームな文化的生活を拒絶するファンたちの感性に対して明白なアピールを備えている。

 とはいえ、そうした反メインストリームな感覚にも関わらず、アイドル音楽にとってもサブカル型の消費にとっても商業主義は避けがたい部分を担っている。アイドル音楽の促進する夢の数々は消費文化と直接繋がっているし、その文化の唯一の目標というのは同一のベーシックな商品を際限なく再利用し焼き直し、それらを夢として改めてパッケージし直した上でファン/消費者側に再び売りつけることでしかない。とどのつまりは、 業界標準マーケティング形態、可愛い子、コメディ、懐古から成るそれの様々なヴァリエーションへ何もかもが煮つめられてしまうということだ。これらの重要な要素に依存しているメジャー・レーベルやタレント事務所を我々は批判するかもしれないが、それらの三要素はまたサブカル型の音楽プロモーションでもその中核を成している。

(略)

レベルを下げて最大多数を求めていく中で、サブカルチャーはどうしたって、はっきり区別された個々ジャンルの間にある違いをスムーズに均一化してしまうものなのだ。

(略)

これら異なるシーンの間の流動性は、オルタナティヴな素性を持つ音楽家たちに職業作曲家あるいはプロデューサーとしてアイドル産業複合企業に入っていく足がかりという、経済面でのチャンスをもたらしもする。しかしインディとパンクがイベント主催者からアイドル音楽と同様の扱いを受け、ファンたちからもアイドル音楽と同じように消費されると、彼らの持つ意味合いのいくつかは失われてしまうし、キッチュな品物を並べたウィンドー・ディスプレイに加わった単なる要素に成り下がっていく。こんな風に、メインストリームなカルチャーとサブカルチャーというのは、実は一見したところ以上にもっと似通ったものだったりするのだ。メインストリーム文化は意味性の欠如した均一化された全体を作り出すために多様で異なる「声」を焼き払っていく:その一方で、サブカルチャーの美学はあまりにも多くの異なる、矛盾したメッセージを持つひとそろいのジャンルの数々を一緒くたにしてしまうがために、それらのメッセージの中身はカルチャーの雑音の中へと掻き消されていく。この意味では、サブカルチャーは真の意味でメインストリームを代替する存在ではないし、それはむしろひとつの手法(略)「既存のものとは違うんだ」という興奮の感覚をマーケティングするための手法ということになる。本質的に異なるジャンルやアイデアの数々をしばしば目がくらむほどエキサイティングなやり方でまとめていくという面において、サブカルチャーには計り知れない価値がある。だがそれはまたメインストリーム文化と同じく、上っ面だけに向かっていってしまうというあの内在型のトレンドのいくつかに悩まされてもいる。

 

バンドやめようぜ!あるイギリス人のディープな現代日本ポップ・ロック界探検記

レーベルからの規制

『ピッチフォーク』はウェブが発展していった中のとある時期にその評判とアイデンティティとを確立させたメディアであり、後進の新しいサイトが現時点で彼らのような成功を繰り返せるかどうかには疑問の余地が残るからだ。その代わりにどういうことが起きているかと言えば、多くの場合は未知のアンダーグラウンドな音楽を報じようという誠意ある姿勢でサイトがまずスタートするものの、ウェブ分析や統計値が描き出す状況がいったんはっきり見え始めると、サイト側はページ閲覧数を追い求めてアイドル音楽や万人受けするインディ・ポップ/ロック等々の既に人気のある分野へ向かうことになる、という感じだと思う。アクセスの大部分が、たいていプレス向けの告知文を忠実に真似たくらいの短いニュース記事に由来するものという状況では、音楽サイトの持つ影響力は多くの場合、単に情報をキュレートする行為に限定されてしまう

(略)

 もうひとつ考慮すべき重要な問題として、たとえば仮に、レーベルがお金を払って生まれたコンテンツに依存しなくても経済的に存続できる音楽プレスが発生した、としよう。だが、そこでほんの一瞬でも「ではレコード会社の側も、これまでずっとジャーナリストたちに向けて行使してきた『何を書くか』に関するコントロールを放棄してくれるのかな」と考えるのは大間違いだ。日本の音楽業界ではスタンダードになっている、ジャーナリストが書いた記事をレーベル側が前もって読むことを要求する「チェッキング」は、レコード会社と記者的な慣例の双方の中に深く定着している。メジャー・レーベルやタレント事務所はアーティスト写真やアルバムのジャケット写真の出版・使用権をきちょうめんに管理することで、自分たちの意向に沿う内容記事を確保している。

 それどころか、肖像権や情報の長きにわたる管理というのは、肝心のアーティストたちにまで及んでいる。ある取材の場で、シーガル・スクリーミング・キス・ハー・キス・ハー日暮愛葉は2000年代初期~半ばに彼女がソニーに所属していた頃の実体験を僕にこんな風に話してくれた。

 「それぞれの写真に関して、向こうは私のイメージの使用許可権を持ってたんです(略)だから、たかが1枚の写真を自分が使いたいなと思っても、先方にお願いしてアップロードしてもらうしかなかった。あの当時はMySpaceが盛り上がっていたんだけど、おかげで私はMySpaceはおろか、それ以外のソーシャル・ネットワーキングもやれなかったんです」。

日本のロックってなんなんだろう?

 1970年代に起きたアングラ演劇とロックとの交わりは非常に重要な意味を持っていて、探究心豊かに物事に疑問を呈していく前者の知的な感性は、後者の成長を刺激し挑発するのに重大な役割を果たした。

(略)

巻上公一はこんな風に説明してくれた:「寺山修司が一種のロック・ミュージカルだった『書を捨てよ町へ出よう』を作ったんですが、 このサントラが本当に良かった。西洋の要素と東洋のそれが一緒に混ざっていたところに、大きく影響を受けましたね。寺山さんは内田裕也やフラワー・トラヴェリン・バンドのメンバー、J・A・シーザー三上寛らと仕事をしたことがあって、そうした連中はみんな『日本のロックってなんなんだろう?』の問いを発していた」。

巻上公一近田春夫、ライヴ・ハウスの変容

巻上公一は述懐する:「僕はちょうどヒカシューを始めたところでしたが(略)友人の近田春夫が深夜2時に放送されるラジオ番組をやっていたんです。デモ・テープを作ったのでそれを渡そうと彼が番組をやっている局に行って、その音源について「ドラマーがいないんだよ。だから俺たちはリズム・ボックス・バンドなんだ」と彼に説明してたんですね。そしたら部屋の隅で待っていた他の奴から『おい、俺も同じだよ。俺もそういうバンドやってる』と声をかけられて。後で分かったんですが、それがプラスチックス立花ハジメだった、という」。

(略)

1970年代後期には今風の「ライブ・ハウス」文化が東京で連合し始め、バンド群が集まって小さなクラブを中心としたサーキットを形成していく。

(略)

サエキけんぞうはロフトで開催された〈DRIVE TO 80S〉こそ(略)[座って楽しむスタイルから]客が最後まで演奏をスタンディングで観ることになったイベントだったと語っている。

(略)

 このライヴ会場の数とスタイル面における成長はしかし、日本におけるライヴ音楽の文化とその基幹インフラの発展にまた別の意義を付け加えることになった。巻上はまたもその発展をじかに体験していた。「(略)70年代、あるいは80年代始めの頃っていうのはライヴ・ハウスがギャラを払ってくれてメシも出してくれて、バンドにとっては良い時代だったんです。ところが80年代半ば頃から突然、バンドの側が金を払わなければいけなくなった。以前はごくわずかしかライヴ・ハウスが存在しなかった――ロフトやラママくらい――のが、80年代中期にものすごい数のバンドが出てきたことでライヴ・ハウスが貸部屋みたいになってしまったわけです。この変化は大きかった。昔だったら、会場の8割は出演料を払ってくれました: だから音楽を演奏していくだけでなんとかやっていくのも楽だったんです。ところが80年代半ば以降、音楽で食っていくのは無理な話になってしまった」。

 ここで巻上が形容しているのは、80年代中盤に訪れたいわゆる「バンド・ブーム」の影響のことだ。(略)洪水のように押し寄せたこの新参バンドの大群は(略)

数多くの会場が観客を集められる、あるいはライヴの経費をまかなえる者なら誰にでも「金を払えば演奏させてやる」型のギグをオファーする、という状況へのシフト・チェンジを引き起こすきっかけになった。このライヴ・サーキットの変容は、今日に至るまで音楽シーンの構造にその傷跡を残している。

メジャーが草の根シーンに与えるダメージ

 日本の音楽産業というのは、病的なほどにコントロールを求めてくる。(略)

 メジャー・レーベルによる管理支配は(略)草の根シーンにダメージを与える

(略)

 典型的な筋書きというのはこんなところだ: いくつかのバンドの周辺にシーンが育ち始めると、メジャー会社がやって来てその中でもっとも見込みのありそうなアクトを摘み取ってしまい、そのバンドにはやがてレーベル側が彼らに求めるようなタイプのギグで演奏しなければというプレッシャーがもっとかかるようになり、一方でシーンの側はトップ・バンドを失うことになって(略)衰退していき、そして四散してしまう。多様なバンドのセレクションがあちらこちらから引き抜かれ、そしてプロによって管理された他のバンドたちと共に成功に向けて訓練を仕込まれていくことで、新たなアイデアは下から育ってきたところで茎から切り取られ、またいちばん良く売れた果実はもぎ取られ、多彩ではあるものの同時に実は決して変化することのないトップを占める大きな鍋に加えられてしまうという、二層構造の音楽シーンが作り出されている。

 多くの難関が待ち構えているものの、日本人ミュージシャンたちが音楽産業の認可した「成功への道」を迂回できる手段がふたつある。その第一の方法でありもっとも難しいのは、あるシーンもしくはサブカルチャーが財力面で非常に重要な影響を持つものになり、無視できないほどの存在になること。90年代後半以降のオタク文化とアイドル音楽のリヴァイヴァルとの間で起きたのがこれだったし、そこについては後にこの本で詳述するつもりだ。もうひとつの方法は外の世界に目を向けることだ。

ジャパニーズ・ポップの特性

 日本のポップスはまた調性 (訳者註:トーナル。主音を中心としてそれに従い他の音が解決していく関係)を有するものになる傾向があり、長・短2種の調を基本にした上でより組織的なコード変更を用いることが多いが、対して英米系ポップスはモーダル(:コードが進行せずにひとつのコードやスケール内で繰り返される旋法) になる傾向があり、厳密にメジャー調かマイナー調かということもなく、コードをより雰囲気・質感重視で用いている

(略)

 日本語は我々が言うところのモーラ的言語に当たる。拍(: mora) は音節(シラブル)に似ているものの、しかしそこに時間的な長さの要素、あるいは「ビート」が含まれている点で音節とは性質を異にする。たとえば、「東京 (Tokyo)」という単語が持つのは2音節(「ト」+「キョ」)だが、モーラの数え方では4になる(「ト」+「ー」+「キョ」+「ー」、もっと正確に言えば「ト」+「ウ」+「キョ」+「ウ」)。同様に、「can (キャン)」という言葉の終わりにある「ン(鼻音で発される撥音)」もまたそれ自体でひとつのモーラと数えられるため、それに準じてビートを得ることになる(「キャ」+「ン」)。それとはまた別の日本語が持つ特徴は、個々のシラブル、あるいはモーラはいずれもほぼ同等な強勢(ストレス)を持つ=強弱の差があまりない点だ。

 この言語学上の紛糾は初期の日本のポップス作曲家たちに難問をもたらすことになった。というのも彼らは英米系ポップスの伝統の範疇で曲を作ろうとしたわけだが、英米のポップスはストレスタイムド(訳者註:音節の続く長さがストレスの位置・有無によって変化する言語) 言語である英語の歌詞を中心にデザインされたものであり、そちらの方が言葉を縮めたりメリスマ効果を用いたりするのにはもっと柔軟で、歌詞の1音節を引き伸ばして複数の音符を当てはめるとか、あるいはビートが勢いをつける前/後に発語をかすかに落とすことで歌にもっと会話調なリズムをもたらすことが可能だったからだ。

 もちろんこの問題点にも抜け道はある。演歌はほぼどの音節にも大袈裟なビブラートをかけて伸ばして歌うし、一方で四畳半フォークのミュージシャンたちは「早口言葉」(略)と称される、そもそもそのリズム空間を占めるべきではないところに高速で歌った歌詞を詰め込んでいくスタイルを用いることになった。

(略)

 ともあれ、1970年代のはっぴいえんど以降の作曲家たちはリズムに収まりきらない言葉をそこに無理に詰め込むのではなく、徐々に日本語の特徴を切り抜けられるようなヴォーカルのアレンジのスタイルを発展させていった。日本語のリズムがフィットするようにメロディはますますモーラ的なものになっていったし、また日本語の比較的平坦な抑揚は各シラブルあるいは各モーラに個々の音高が割り与えられるという慣習にも繋がっていった。その結果、英米ポップスを聴いて育ったリスナーの耳には、ジャパニーズ・ポップのヴォーカル・メロディはビートと固く結びついていて硬直した、柔軟性に欠けるもののように感じることがある。

 それは別にジャパニーズ・ポップの洗練度が低い、という意味ではない。というか実のところ、日本のポップスと英米ポップスの間の大きな差のひとつというのは、むしろ日本のポップスの方が音楽的にはもっと洗練されていて、伝統的なアメリカ/イギリスにおけるコードが四つのブルーズをベースとするそれよりも、はるかに複雑なコード変化のパターンを用いているという点にある。

(略)

 というわけで、西洋のリスナーたちがジャパニーズ・ポップをそれとよく似た西洋の音楽の質の劣るコピーだろうと片付けてしまう際によく起きているのは、その聴き手たちはたとえばシンセやギターの演奏スタイルといった彼/彼女なりにとってはありふれた表層的かつスタイル面での要素は心に留めているものの、どこかしら親しみのあるものを示唆しながら、しかし聴き手の期待に沿って解決していくことを拒むメロディによって欲求不満を抱かされる、ということなのだろう。

 日本発の実験的な音楽やアンダーグラウンド音楽の方がJ-ポップよりも、海外にいる熱心な聴き手たちには輸出しやすい。

(略)

海外で受ける日本の実験的バンドというのもやはり、なじみのある枠組みの範疇でエキゾチックさを誇るバンドになる傾向がある: ボリスやあふりらんぽの音楽はよくブルーズっぽいコード進行がメインになっているし、にせんねんもんだいの音楽もおなじみのモトリック、あるいはディスコのリズムを用いている。海外のファンたちもやはりまだ、彼ら自身の参照点から成るシステムの範囲内に収まるものに惹かれがちだ、ということになる。

 イギリス/アメリカのインディ・ロックというのもまた、名目上はインディペンデントで自由な発想を掲げていながら、多くの意味でメインストリーム・ポップ以上に、非常にアングロアメリカン型なソングライティングの伝統に縛られている。それに対して日本のインディ・ポップやロックというのは、外側に目を向けて「本物の」オリジナルを盲目的に模倣するポジションをとるか、あるいは自らの内側にフォーカスし、典型的なJ-ポップ型コード進行から影響を引いてくる、そのどちらかになりがちだ。そのどちらの順路も西洋のリスナーに問題を提起することになる: 西洋アクトの日本版イミテーションは地元(=西洋のオリジナル) で間に合うだけにそれ以上の何かをもたらすことができないし、 J-ポップの伝統に乗っ取って書かれた歌というのは、あの手のコード進行に子供の頃から鍛えられ、慣れ親しんできた経験を持たないリスナーの耳にはどうしても違和感が生じてしまう。

(略)

 親日家の連中は別として、海外で注目を集めがちな日本の音楽というのは既存の「日本という国はこんな感じ」 なる概念を増強する類い――とりわけ、そのイメージ面で異国性を強調しているミュージシャンたち――になるし、しかしそれと同時に、勢力の強い英米に支配された音楽の聴き方のスタイルにあまり強く異議申し立てを発さないもの、ということになる。

クール・ジャパン」、〈東風レコーズ〉の失敗

 海外のリスナーからの受けを狙った考えの浅い試みのひとつに〈東風 (Tofu) レコーズ〉というのがあった。ソニー・ミュージックエンタテインメント・ジャパンのアメリカ向け販路として設立されたこのレーベルは、アニメ・ファンのコミュニティを基盤として利用することでアメリカ合衆国に日本の音楽を紹介するのが狙いだった。こちらも「クール・ジャパン」と同じくらいあてにならない思考の筋道に陥っていた: アニメはクールである→そのアニメは日本製→J-ポップも日本製→ということはJ-ポップもクールに違いない、という発想だ。ソニーがこの誤りを悪化させたのは、90年代のアニメに備わっていた先鋭的な魅力は西側のほとんどで過去のものになり、映像媒体としてよりお子様向けな面を持ち始めていた時期、遅まきながらの2003年に同レーベルを始めたことだった。平たく言うと:2000年代半ばのアメリカで、仮にあなたが「自分はJ-ポップ好きです」と触れて回れば、周囲の人々はあなたを気味悪がり、下手をすれば幼児愛好家と思われる可能性があったということだ。

 それは何も、西側にはアニメとJ-ポップの市場がない、ということではない――マーケットは明らかに存在する。それよりもむしろ、西側での両者のマーケットというのは日本国内でのそれに該当するマーケットとは非常に性質が異なるものであり、したがって後者においては効果的なビジネス習慣も、前者における同レベルの成功に繋がるとは限らない、ということだろう。本当のところがどうかと言えば、「クール・ジャパン」というのはこれまで主に日本国内に向けられてきたもので、注意深く演出されたヴァージョンの「国外の世界」を鏡に用いることで日本人の持つ文化的な不安を緩和するための取り組みだった。その推進力になっているのが広告代理店、事務所、メジャー・レーベルというのもしょっちゅうだし、彼らにとっての主要なゴールは自分たちの顧客や契約したスターたちを売り込むことにあるわけで、そこからはどうしたって既存のJ-ポップ主流派寄りなバイアスが生じる。したがって、ポップ・ミュージック界におけるその結果というのは概して冒険心に欠けるものであり、日本で既に人気の高いアートやカルチャーにピントを合わせた上でそれらをなじみのある想像力に欠けた事務的な手法を通じ、現状からもっと拡張しようという余地があまりないマーケットに送り込もうとする、というものになっている。

海外における日本の音楽

かつて2013年にメルト・バナナに話を聞いた際に、ギタリストのAGATAはアメリカの音楽ファンが日本の音楽に対して抱く一般的な関心のレベルはインディ勢が海外に出始めた草創期の90年代時よりも落ちているのではないかとほのめかしていたが、[ボルチモア在住のプロモーター/ミュージシャン]マイケル・ヤングはローカルなライヴ・サーキットでは日本性はいまだに集客を煽るパワーを誇ると信じている。

 「アメリカ人の多くは、外国のバンドやパフォーマーがやって来るとやっぱりエキサイトするんです(略)だから、アンダーグラウンドパフォーマーのためにクラウドを集めるのはかなり楽ですよ」。

 スティーヴン・タナカやヤングの取り組み方とはいくぶん違うものの、ロンドンに拠点を置く〈JPUレコーズ〉を運営するトム・スミスが〈ジャパン・アンダーグラウンド (Japan Underground)〉という名称のイベントでやってきた仕事は、日本の音楽が海外でどんな風に受け止められるかという点に関する重要なポイントのいくつかを示している。

 表面的には多くの意味でソニー/〈東風〉に近いアプローチをとっているスミスはもっとメインストリーム寄りなアクトと仕事する傾向が強く、そこにはアイドルやヴィジュアル系バンド、そしてど真ん中にJ-ポップなアクトが含まれている。しかし〈JPUレコーズ〉のこの手法は三つのキーになる部門を際立たせているわけで、それらは日本国内に話を戻せば音楽シーンを構成するそれぞれ重要な「売り」ではあるものの、いったん音楽が海外に渡ると、それらの区分はとにかくたちまち消え去ってしまうものだったりする。

 それは第一に、日本では存在している、モッズとパンクスとを、インディ・キッズとテクノポップ族とを、シンガー・ソングライター勢と機材を神経質にいじるエレクトロ系とを分け隔てているジャンル間の区分というのは海外では消去されてしまうからだ

(略)

 「僕の日本での経験は、ファンたちはかなりお互いに分離しているんだな、というものですね」と、スミスは「日本人の方たちから〈ジャパン・アンダーグラウンド〉 みたいなイベントが日本にもあったらいいのに、と言われたこともあります。彼らに言わせれば、日本ではヴィジュアル系が好きなファンたちはとにかくヴィジュアル系一辺倒で、他の種類の音楽は無視しがちなんだそうです。もしくは、特定のタイプのインディ・ロックのサウンドしか好みじゃない、だとか。でも〈ジャパン・アンダーグラウンド〉では、来る観客もプレイされる音楽も本当に混ぜこぜなので、日本でやってもあんまりうまくいかないでしょうね」。

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 最後にもうひとつ控えているのは、いったん日本の岸を離れるとアンダーグラウンドとメインストリームという区分がねじれてしまい、これが海外で日本の音楽をプロモートしている者にとっては厄介になることがあるという点だ。

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 比較的メインストリームな日本アクトを扱っている海外プロモーターやレーベルですら、その経営は実にささやかな収益マージンあるいは完全な損失の上に成り立っているし、ツアーをしに来る日本のバンドが多ければ多いほど、収支面での損害はますます大きく現実のものになる可能性が高い。アメリカあるいはヨーロッパをツアーして利益をあげているインディ・バンドというのは、数ヶ月を犠牲にして各地を回りひっきりなしにライヴをおこない、志を同じくする近いタイプの地元のバンドと共演し、同志と言える地元のプロモーターからサポートを受けている連中だ。過去20年間を通じて、この長期型ツアーはメルト・バナナやアシッド・マザーズ・テンプル、ウルトラビデといった、自分たちの人生そのものを音楽中心に編成しているバンドにとっては最適なスタイルとして機能している。

 とはいえ、そうしたバンドたちの多くはまた、1990年代から2000年代初期にかけてのオーディエンスにとっての日本の音楽の目新しさとエキゾチックさの恩恵をこうむってもいる。このエキゾチックな魅力というのはまだある程度は残っているものの、プロモーターが「ほらほら、見においで! 日本人ですよ!」と宣伝して人々の関心を煽ろうとするのにも限度があるわけで、いずれ彼らも「あー、また別の、日本のおかしな実験的なパンク・バンドぉ?好きにすれば!」と言い出すだろう。90年代初期に起きたノイズ音楽ブーム、そしてその後に続いた渋谷系の海外クロスオーヴァーに伴っていた新奇さという感覚は消えてしまったし、オンラインを通じて日本の音楽へのアクセスがますます容易になったことも、そのインパクトを弱めることになった。

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売りのポイントとしての日本らしさを取り去ってしまったら、どんな風にそのバンドを売り込めばいい?なぜ他の連中を差し置いてそのバンドを観に行く必然がある?

 理想を言えば、すべての音楽ファンとプロモーターたちが日本の音楽にある微妙な違いを認知すれば、ツアーしにきたアクトを異質な文化の産物としてプレゼンすることなしにバンドと海外オーディエンスとの間に繋がりを作り出すことは可能だろう。

(略)

日本の音楽の魅力の大きな部分を占めるのは、〈JPUレコーズ〉のトム・スミスが示唆するように、バンドたちがいかに既におなじみな影響を用いて「それをどうにかして近い、でも新しい響きのあるものへ作り直す」か、にあるのだから。

 以前から日本の音楽と海外のオーディエンスを結びつける手段を見つけようとしてきた現地プロモーターへのサポートは、パリにアイドル歌手たちを送り込んで博覧会のステージで歌い踊らせるよりももっと生産的に政府の基金を役立てられる場面だ。

ライヴ・ハウス事情

大東京都圏には500軒近いライヴ・ハウスが存在する、としよう。(略)

 さてその数に一晩の平均出演アクト数である4バンドを掛けてみよう。東京では毎晩2千組のバンドがライヴをやっている計算になる。それを30倍すれば1ヶ月に6万組だ。もちろん、その数の中には同じバンドが2度出演するものも含まれるし、すべての会場、特にもっと都心から外れたエリアにある会場は、毎晩営業しているわけではない。それでも、ものすごい数のライヴ・ミュージックがほぼひっきりなしに続く、そういう状態を我々は前にしている。それらのアクトのうち、いくらかでも良いものが何組いるか考えてみてほしい。正しい回答は、「ほぼゼロに近く、統計上から考えても問題外」になる。

 では、あなたがこの凡庸でまったくもって観るにたえない集団を観に行く行為を通じてちゃんとしたバンドをどうにかして6組くらい見つけられたとして、さてどうやったら確実に彼ら全員を同じ会場で一度に観ることができるだろう?それに対する回答は、諦めてしまうか、あるいは自分自身でそんなイベントをブッキングするか、ふたつにひとつだ。

 僕はそのふたつめの方法を選んだ。

 だが、どんな風にライヴ・イベントを企画すればいいのだろうか?東京にはいくらでもライヴ会場の選択肢があるし、そのレンタル料金も無料から数十万円までピンキリだ。平均して、50~60人の観客が集まればイベント一本をやるためのホール・レンタル費用はまかなえるし、5組のバンドが出演する内容と思えば大した数とは思わないかもしれない。しかし典型的なウィークデイの晩開催のショウにやって来る観客の数がその三分の一を上回ることは滅多にないし、それよりもっと少ないということもしょっちゅうだ。 週末ですら、会場が満杯になる確約からはほど遠い。この状況ゆえに、自分たちでバンドをブッキングする際にほとんどの場合、東京のライヴ会場側の大多数は80年代中期のバンド・ブーム期以降とあるシステムを取り入れることになった――「ノルマ」だ。

(略)

自分たちで売らなければならないチケットがバンド側に割り当てられるのだ。大抵は、まず10枚から25枚程度のチケットを自分たちでさばかない限りバンド側に儲けは一切入ってこないし、その割り当てを下回った場合、バンドは売り損ねたチケット代を会場側に支払わなければならない。日本でギグに行くとドア係のお兄ちゃんにどのバンドを観に来たのかと尋ねられるが、これはそのシステムのせいだ : 彼らは終演後にそのバンドが会場側に支払うことになる料金から、あなたのチケット代をさっ引くべくカウントしているのだ。

(略)

 最悪な場合、それは完全な詐欺行為になる。(略)[ブッキング担当者は]ウェブをさらって若手バンドを見つけ出し、彼らを褒めそやして名声と認知に至る入り口を約束した上で、ノルマ負担を課していく。それとは別のよくあるやり口は会場側が企画したオムニバス・アルバムというやつで、作品に参加したバンドが制作費を負担するものの、誰も買ってくれはしない。

(略)

 もっとも良い類いの、コネが豊富でシーンに対する理解の深いミュージシャンたちが運営に参加しているべストな会場(略)

では、ノルマを支払っているバンドたちはウィークデイの地味に死んだシフトを担当し、その代償としてコネと、いわゆる「先輩」バンドたちとステージを共にするチャンスとをつかむ立場にいる、ということになる。そうすれば、彼らもやがてエリート層のいる梯子を上がり、自腹を切らなくてもにぎやかな週末の晩にライヴをやれるという神聖なるステイタスを与えられる可能性もあるのだから。

 根本にある問題は東京の不動産は高くつくという点で、チケット代とドリンクの売り上げだけでは会場側が営業を続けるのにはどうしたって足りない。ライヴ会場側は、東京の地価からこうむる莫大な経済的負担と、自分たちの占めている地位や社会的な対面が性風俗産業よりやや落ちるとは言わないまでもそれに近いレベルにある、という事実と折り合いをつけなくてはいけないのだ。

 自宅や職場のそばにライヴ会場を欲しがる人間はいないし、クラブが得てして街の中の怪しいエリア、ホステス付きのバーや売春宿、ラヴ・ホテル付近に固まっている理由のひとつもそれだ。騒音問題もその一部とはいえ(略)

騒音以上に重要なのは、路にたたずみ何もしないでいる若者たちに対するほぼどこの国にも存在する恐怖心を、日本という国が病的なまでに極端に誇張するそのやり方だ。

(略)

 実際、風俗産業の店ですら、ライヴ会場の存在をいやいやながらもなんとか大目に見てやっているという感じで、表の通りに集まった下層民音楽ファンのせいで彼らのもっとご立派で金づるな顧客たちが遠ざかってまうことのないよう、会場の経営側にプレッシャーをかけてくる。そんなわけでライヴのロック音楽やクラブに対する公衆の忍耐というのは常に一触即発状態にあるし、会場がオープンしているとしたら、彼らはできだけ目立たないようにするという鉄則な理解の下に営業している、という結果になる。近隣からちょっとでも騒音に対する苦情が出たり、あるいはだらしないみてくれの若者たちが外にたむろすことで地元の他の商店/ビジネスに差し障りがあるとの声があがれば即座に警察からお目玉を食らう――もしくは、苦情を出した側の商売次第では、地元のヤクザから礼儀正しいお見舞いを受けることになる。このせいで多くの会場は午後10時頃までにすべてのライヴ演奏を終了させる羽目になっている

提言4 一貫性のあるブッキング・ポリシーを持て

もしも会場側がどんなタイプの音楽を演し物にするかという点である程度の一貫性めいたものを提供していけば(略)観客からすればどんなライヴを期待できるかはるかに察しがつけやすくなるだろう。西側のアイデアで日本に輸入できそうなもののひとつがバンドのレジデンシー (訳者註: バンドが同じ会場で一定期間にレギュラーでライヴをおこなうこと)で、集客の鈍い月曜あるいは火曜日の晩を毎週ひとつのバンドもしくはイベント主催者に1ヶ月間託してサポート・アクトのブッキングまで彼らに任せてみて、ひと月経ったところでその企画が好調であれば、ちょっとした金額が手に入るかもしれない、というものだ。このレジデンシー・システムは会場側のアイデンティティを強化すると共に彼らが様々なバンドと関係を築くのに役立つし、将来的に自分たちもレジデンシーをやってみようかと思っているアーティストにとってそのヴェニューがより魅力的な場と映ることもあるだろう。そこにはもちろん問題もあって、まず第一に恒久的なのは果たしてレジデンシー・ナイトを企画したところで、会場側がいつものように様々なバンドにステージをレンタルすることで得るのと同じ収益を見込めるか?というもの。 第二の問題は、ミュージシャンのほとんどはバンド活動と制約の多い職業および家庭生活とをやり繰りすべく奮闘していることがしょっちゅうで、1ヶ月間に四回連続で毎火曜を担当できる人々を探すのは楽ではないという点だ。

 

 ライヴ会場をもっと持続的なものにしようというこれら様々なアイデアを繋ぐのは、こうした戦略はすべて「オーディエンスは消費者」という概念に基づいている点だ。通常の経済モデルで考えれば東京のライヴ音楽は明らかに供給が過多で需要に関してはひどく不足している不釣り合いな状態で、それに対する自然な反応は大多数の会場が閉鎖し再び供給と需要が見合うまでその数を減らし続ける、というものになるはずだ。

 しかしそうなる代わりに実際何が起きたかと言えば、会場側はステージ上で演奏できる特権を味わうためならアマチュア・バンドたちがある程度の出費を厭わない――一夜のロック・バンドごっこに興じるために――ものと認識したし、その理解においてはアーティスト自身が消費者になってしまうため、方程式からは観客が除外されることになる:「よう、お客さんたち!あんたらは貧乏で、お酒もロクに飲んでくれない、それに音楽の趣味も悲惨だから、あんたたちはもう我々には必要なし!」。

(略)

バンドの面々がお金をかき集められる限り、ノルマという制度は彼らバンドが30分間ステージに上がり、最上級の音響設備を使って思いっきり好き放題にやることを可能にしてくれる。

(略)

非コマーシャルで、しばしばめまいがするほど斬新でアヴァンギャルドな音楽をやっている、あるいは純粋に奇妙なポスト・パンクをやっているバンドたちはいくつかの会場では相当な存在感を誇っていて、それをれっきとしたシーンと呼んでいいくらいの規模に達している。

 何もここで、ノルマが様々なシーンを合体させることになったと言いたいわけではない。だが、ノルマの存在のおかげでこうしたバンドたちがまず始めに結集しやすくなったのは間違いないだろう。ではそこからどうやって前進するかこそが難関だ。

次回に続く。