僕の音楽キャリア全部話します 松任谷正隆

 

僕の音楽キャリア全部話します: 1971/Takuro Yoshida―2016/Yumi Matsutoya

僕の音楽キャリア全部話します: 1971/Takuro Yoshida―2016/Yumi Matsutoya

  • 作者:松任谷 正隆
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2016/10/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 キャラメル・ママ

──キャラメル・ママは、松任谷さんにとってどんなバンドでしたか。

 キャラメルというと、当時青山にあったパイのチェーン店、アンナミラーズでのミーティングばかり思い出します。(略)

 キャラメルは話し合いばかりやっているバンドでした。なにを話し合っていたのか──思い出せませんけれど。ヴィジョンが見えなかったんだと思います。ヴォーカルがいなかったことが大きかったんでしょうね。

 それでも、とにかくスタートをしようということで、細野さんのソロアルバム、『HOSONO HOUSE』を狭山でレコーディングしたんだけど、あれは、僕にはバンドの活動とは思えませんでした。だって、細野さんのソロアルバムですから。そういった気持ちのギャップがキャラメルにはいつもありました。

 よく、キャラメル・ママが発展したバンドがティン・パン・アレーと言われていますが、 どこまでがキャラメルで、どこからがティンパンなのか、僕にもあいまいなんですよ。確か細野さんがマッスル・ショールズ・スタジオのイメージを提案したんじゃなかったかな。

 キャラメルからティンパンになる頃に、風都市から、桑原オフィスに事務所も変わった。ただし、音楽の方向性は相変わらず不確定で、給与の安さも改善されませんでした。

 自分たちの強みは何か──。やっぱりクリエイティビティと演奏技術ではないかと僕たちは自己分析しました。だったら、サウンド・クリエイト集団になったらどうかと。

 それが、ティンパンのスタートだった気がします。キャラメルは、僕の中では、卵のまま孵化することなく終わったバンドです。

サウンド・クリエイト集団をイメージした頃(略)

[荒井由実吉田美奈子からオファー]

どちらもデビュー・アルバムでした。「オレ、やることあるの?」

 決まった時に僕がそう言ったことを憶えています。由実さんも美奈子もピアノを弾きながら歌うシンガーソングライターだったからです。

 結局、どちらも、僕はピアノではなく、オルガンやアコーディオンを演奏しました。二作同時進行だったので、バンドで西新宿にあるヤマハのスタジオでサウンドを構築してから、それぞれのスタジオに行ってレコーディングしました。

(略)

[交際のきっかけ]

 ドラムスとベースは基本のリズムが決まればそこで役割は終わりですけれど、キーボードというパートはレコーディングに参加する時間が一番長いんですよ。

 由実さんは僕に意見を求める人でした。僕の意見に積極的に耳を貸してくれるので、会話が多くなり、僕の役割も拡大していった。音楽的な方向性も一致しました。その一方で、美奈子は、最初から自分の世界観をしっかり持っていて、それを軸にレコーディングが進んでいきました。だから、僕はあくまでも一人のミュージシャンとしての参加です。でも、美奈子のレコーディングがつまらなかったわけではありませんよ。彼女の発信する世界観は僕も好きでしたから。

 シンガーソングライターとしての、当時の由実さんの音楽のイメージは、パープルグレーです。暗くはないけれど、かといって明るいとも言えない、ミステリアスな、見たこともない色でした。一方、美奈子はブラック、かな。 

扉の冬+3 (紙ジャケット仕様)

扉の冬+3 (紙ジャケット仕様)

  • アーティスト:吉田美奈子
  • 出版社/メーカー: メーカーオリジナル
  • 発売日: 2003/06/25
  • メディア: CD
 

 

フー・イズ・ジス・ビッチ、エニウェイ?

フー・イズ・ジス・ビッチ、エニウェイ?

  • アーティスト:マリーナ・ショウ
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック
  • 発売日: 2018/07/25
  • メディア: CD
 

 

死ぬほど聴いたアルバム

──『ひこうき雲』と『扉の冬』をやって、細野さんのレコーディングもやって、それでも給料は三万円ですか。

 少し増えて八万円くらいかな。ただし、どんなに忙しくても八万円。だから、音楽の仕事は楽しかったけれど、不安でしたよ。「僕は音楽で食べていくことができるんだろうか」──と、いつも自問していました。大学へ入り直して、教職課程を取って、音楽教師になることもまじめに考えたほどです。この時期のことを僕は自分の「暗黒時代」と言っています。

 その頃、よく聴いていたアルバムがあります。(略)

マリーナ・ショウの『フー・イズ・ディス・ビッチ、エニウェイ?』です。

 当時原宿にあった輸入盤専門店 「メロディハウス」で勧められて、ものすごく衝撃を受けました。僕の好きな音楽のフレーバーが全てミックスされていたような気がしました。忘れられない出会いです。その日から、数年間は毎日、おおげさではなく、本当に盤がすり切れるほど、このレコードを聴き続けました。(略)

まず、ベーシストのチャック・レイニーとドラマーのハービー・メイスンが生むグルーヴがすさまじかった。特に、ハービーの演奏から感じる筋肉の躍動感は、それまでに聴いたことのない音楽でした。(略)

[この頃、スティーヴ・ガッドが]日本人のドラマーにすごく影響を与えて、一時期だれもがガッドをイメージした叩き方になったほどです。

 でも、僕はずっとハービー派です。あの短距離選手のような躍動が好きでね。(略)バラードのナンバーですらすごいスピードを感じます。「デイヴィー」とか「ローズ・マリー」とか。

(略)

都会的なR&B。汗を感じない、風のような音楽です。

 あのアルバムは、楽曲やパフォーマンスがスペシャルなだけでなく、偶然性も味方しています。マリーナ、チャック、ハービーの脂が乗りきっている演奏が時代にジャストにはまっている。

(略)

僕には、死ぬほど聴いたアルバムがほかに五枚あります。スタイリスティックスの『ザ・スタイリスティックス』、ポール・サイモンの『スティル・クレイジー・アフター・オール・ディーズ・イヤーズ』、スティーヴィー・ワンダーの『ミュージック・オブ・マイ・マインド』、マイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』、ボブ・ジェームスの『BJ4』。(略)

この六枚があれば、ほかにはもういらないと思うくらい大切です。どれも奇跡が起きている。(略)

[『スリラー』や『バッド』]には奇跡は起きていないと思う。

[『オフ・ザ・ウォール』は]タイトル・チューンもロッド・テンパートンです。マイケル、ロッド、そしてプロデューサーのクインシー・ジョーンズの一番脂の乗ったタイミングが重なっている。ロッドはね、「オフ・ザ・ウォール」以降は、それを超えるような曲を書いていないんですよ。

 「生まれた街で」

『MISSLIM』からコーラス・アレンジを山下達郎に任せて、その最初の曲が「12月の雨」でした。このアルバムのコーラスは、山下、ター坊、美奈子、アッコちゃんと、その後の日本のポップシーンの第一線で活躍するメンバーです。

(略)

 アレンジで僕がよく憶えているのは「生まれた街で」と「私のフランソワーズ」です。ストリングスのアレンジを僕が初めて手がけました。

(略)

「生まれた街で」は、アレンジャーとしての僕のキャリアにおいて、特に大切な曲かもしれません。初めてストリングスのアレンジを手掛けただけではなく、それまでの自分にはないリズムを構築できたと思えましたから。

 この曲のアレンジは、ブライアン・オーガー&ザ・トリニティ(略)の音がヒントになっています。あくまでも考え方を参考にしただけで、サウンドはまったく別なものになっていますけれどね。

 「生まれた街で」のデモテープを初めて聴いた時に、生ぬるい風が吹いているような感じを覚えてね。それをどうやって音で表現しようかと考えて、あのリズムにたどり着いた。リズムというのは本来シンプルなものだけど、林と細野さんと話しながら、バリエーションを豊かにしていきました。そこにストリングスや管楽器やコーラスをからめていったら、それまでに見たことのない音の風景に出会えた。

(略)

[給料はまだ]八万円です。それと、アレンジ料が一曲一万六千円だったかな。十曲やると十六万円です。まだ暗黒時代でしたね。

[ハイ・ファイ・セットのアレンジをするようになり暗黒時代脱出] 

去れよ、去れよ、悲しみの調べ(紙ジャケット)

去れよ、去れよ、悲しみの調べ(紙ジャケット)

  • アーティスト:梶芽衣子
  • 出版社/メーカー: ウルトラ歌謡探偵団/ヴィヴィッド
  • 発売日: 2005/06/15
  • メディア: CD
 

 梶芽衣子、Char

「去れよ、去れよ、悲しみの調べ」というロックテイストのアルバムでした。レコーディング・メンバーもロック系です。ギターは竹中(尚人。その後のChar)。ドラムスとベースは、大先輩のロックバンドのミュージシャンでした。

 このレコーディングは、僕がイメージするグルーヴがなかなか出せなくて難航しました。(略)ドラムスとベースの人たちと、ちょっとかみ合わなかったんです。でも、先輩だから、無理も言えない。

 途方に暮れていると、竹中が僕のところにやってきてね、オレが話してきますよ、と言うんです。それで、竹中が二人を断ってきた。

 あの時、竹中だけが若くて、まだ高校生でした。その高校生が僕よりも先輩にあたるミュージシャンを説得した。助かりました。どう話したのかはわかりませんけれど、穏便にいったようです。というのも、竹中はその後二人にステーキをご馳走になったらしいので。

 「ルージュの伝言」と山下達郎

[色々やったまだ60点のできだった「ルージュの伝言」]
それでひらめいて、また山下を呼んだんですよ。(略)彼は美奈子とター坊と伊集加代子さんを集めてコーラスをつくってくれた。あれで抜群のアメリカン・ポップになりました。だから、「ルージュの伝言」に関しては、山下の力がすごく大きい。結果的に由実さんのポップ・シンガー路線を開拓してくれました。

 「卒業写真」はもともと、由実さんがハイファイに書いた曲です。でも、そのときはあまりアレンジが加えられていなかった。それで、僕のほうではちょっと変わったことをしてみたくて、キャラメル時代の跳ねたリズムをやろうと細野さんと話しました。茂は勝手にワウ・ペダルを使ったギターソロを弾いていた。確かワンテイクで録ってしまったはずです。 

キャラメルママ

キャラメルママ

 

 『キャラメル・ママ

 メンバーそれぞれが二曲か三曲ずつ持ち寄ってつくろうということになって、坦々とレコーディングした覚えがあります。ティンパンはいつも、坦々とやっていましたから。というよりも、ちょっとぎすぎすしていたかもしれませんね。この状況でバンドとしてきちんとコーディネーションされたアルバムになるんだろうか──と思いました。四人がてんでんバラバラでした。このアルバムは、確か赤坂にあったクラウンレコードのスタジオでのレコーディングです、あそこの音もあまり好きになれませんでした。 

TIN PAN ALLEY 2

TIN PAN ALLEY 2

 

 『TIN PAN ALLEY 2

 当時も、今も、これでいいの?という疑問符が消えないアルバムです。これをバンドの作品と言っていいの?と。

 レコード会社との契約があったから、そしてティンパンのメンバーは器用だったからできてしまったものの、アルバムというのは、本来そんな安易につくってはいけないと思っていた。もっとしっかり熟成させるべきだったと思います。

 このアルバムの後、ティンパンのメンバーで集まる機会は徐々に減りました。ただ、僕に関していうと、ほかの三人との結びつきが薄いことも大きかったんじゃないかな。(略)

細野さんと林と茂は、それ以前も、それ以後も、一緒にやっているんです。僕を除いた三人の関係性が強いバンドです。

 細野さんに関していうと、僕とは、ミュージシャンとしては水と油だと思っています。けっして融合しない。常に考えていることが違う。しゃべっている言語が違うと思うことすらあります。

(略)

[関西と関東で]笑いのツボが違う。あれは理屈ではなくて、感性ですよね。細野さんと僕の違いもそれと似ていると思う。かっこよさの基準が違う。かっこいいと感じる対象も違う。でもね、だからこそ、細野さんとやると、いつもおもしろい。一緒に演奏するたびに感じます。(略)

[『自伝鈴木茂~』]を読むとね、僕はカントリーのミュージシャンということになっています。出版前のゲラ刷りを見せてもらって驚いたけれど、おもしろいから、直してほしいとも言いませんでした。

 茂とは、ティンパンだけでなく、その後の由実さんのアルバムのレコーディングでも、拓郎のバンドでも一緒にやっています。それなのに、僕をカントリーのミュージシャンだと勘違いしているんですよ。そのことでもわかるように、僕たちはおたがいのことを知っているようでよくわかっていないのだと思います。

大切にしている映画

 僕には心の中で大切にしている映画がいつも必ず五つありましてね。今は『男と女』未知との遭遇』『グッバイガール』『マディソン郡の橋』『アイガー北壁』です。

(略)

未知との遭遇』からは、音楽も影響を受けている気がします。音楽に影響を受けているということは、つまり考え方にも影響を受けている。あの映画を象徴する五音階も印象深い。この作品は音と映像、どっちが先にできたんだろう、と思いながら観ました。

 それと、この映画、物語が進むにしたがって、不安感が安らぎになっていくでしょ。そこが好き。それを考えると、同じスピルバーグでも、『ジュラシック・パーク』はどうも苦手でね。ただ恐怖をあおられているように感じるからです。(略)

[『激突!』は]主人公の気持ちになって観ると恐ろしい。でも。時々、主人公を執拗に追い、恐怖を植え付けるタンクローリーのドライバーに自己投影することもある。そういう時に、自分の中の暴力性を感じますね。

(略)

マディソン郡の橋』は僕にとってかなり大切な映画です。イーストウッドメリル・ストリープが迷って迷ってなかなか関係を進めないところに共感できる。人はだれでも、守りたいものと捨てたいものがありますよね。それを代弁してくれている作品だと思います。ストリープの夫たちが帰ってくるシーンは悲しいですね。

 フィリップ・シュテルツルの『アイガー北壁』は、最近好きになりました。最初は二度と観ないと思った。嫌な映画だとね。でも、もう一度観たら、ロマンティックなんです。

大瀧詠一

──須藤薫さんの『Chef’s Special』に収録されている曲「あなただけI LOVE YOU」のアレンジは、大瀧詠一さんと並んでクレジットされています。

 川端さんの関係だったと思いますよ。川端さんは、薫ちゃんと大瀧さんのディレクターでしたから。それで、『Chef’s Special』の翌年の大瀧さんの『A LONG VACATION』にも僕はストリングスやピアノなどで参加しています。

 ただ、残念なことに、『A LONG VACATION』には、ストリングスのほかには僕の名前のクレジットはなかった。それで表記を担当したスタッフにクレームを言ったことで、大瀧さんとも疎遠になってしまいました。大瀧さんと僕の間には何の問題もなかったのに(略)。大瀧さんのスタッフと僕は昔から仲がよくなかったんですよ。そのままの関係で、大瀧さんが亡くなられてしまったことが悔やまれます。

 僕がフォージョーハーフにいた頃、大瀧さんも狭山と似たような福生の米軍ハウスで暮らしていたので、当時から交流がありました。

(略)

 長野県の松本にあった富士弦楽器に一緒にギターを買いに行ったこともあります。(略)ドライバーは僕で、大瀧さん、細野さん、茂と男ばかり四人で、一泊二日で行きました。青春ですよ。

「守ってあげたい」

「守ってあげたい」のレコーティングでも、音楽の小さな奇跡が起きています。レコーディングで、由実さんの声と、コーラスのBUZZの声を何度も何度も重ねていくうちに、突然、鮮やかな風景が見えたんです。

 抽象的な表現になりますけれど、この曲を僕は、なんというか、しゅわっとした音にしたかったんですよ。当時は今ほどエフェクターが発達していなかったので、ドルビーを使って効果を狙いました。ドルビーで録音して、ドルビーをはずして再生すると、高音域が広がる効果が得られたんです。すると、エア・サプライのようなコーラスになった。そこにね、風景を見た。

 こういうことは意図的にはできません。努力だけでは到達できない奇跡の領域です。

夫婦関係

音楽づくりについては、まず結婚して最初の一、二年はつらかったですよ。これは、僕たちだけではなく、世の中の多くの夫婦が似たような経験をしているかもしれませんけれど、単純に新しい生活になじめませんでした。

 その上、結婚して一作目の『紅雀』が思うような評価を得られなかったので、しばらくは微妙な状態が続いていた。おたがい、こんなはずじゃあなかった、と思っていたはずです。だから、由実さんは「趣味は社交」と言って、よく出かけていたし、僕は働きまくった。

(略)

 僕は子どもの頃から結婚願望が強くてね。夫婦とか家族を定型化して考えていたところがあった。でも、人間関係って、百組あれば百組全部違うでしょ。

(略)

 四十年も一緒に暮らしていると、楽しいことも、そうでないことも、いろいろ起こります。そういうプライベートの出来事や、そこから生じた感情を、僕は、作品にフィードバックさせようともしました。自分で自分を悪魔じゃないかと思ったことも、ときにはあります。そんなことをくり返し、自分たちだけの夫婦関係を築いてきました。

 こうしたことを踏まえて、シンガーソングライターとしての由実さんの音楽を僕がブロデュースし、さらにショーの演出をすることが、果たして理想的なのだろうか──。自分に問いかけることはありますよ。四十年にわたって僕がやりつづけていることが、彼女のまだ見ぬ可能性を狭めているんじゃないかと考えることは、どうしてもね。

 でね、僕が由実さんのプロデュースをやることによるメリットは五一%、デメリットは四九%だと感じています。

 メリットがわずかに上回っているのはどこなのかというと……、それは彼女の安心感、かな。(略)

そう思えるから、今もなお、僕が彼女の音楽をプロデュースし、アレンジをしている。

 安心感というのは、間違いなく、作品の仕上がりに反映されます。逆に緊張感も。どちらがいいかは分からないけれど。

 僕と由実さんは、たぶん、その二パーセントのメリットの部分でおたがいに納得し合っで、ここまでやってきているんだと思います。

 

フィッシュマンズ全書 その2

前回の続き。  

フィッシュマンズ全書 FISHMANS Chronicle(1988-)

フィッシュマンズ全書 FISHMANS Chronicle(1988-)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2018/12/07
  • メディア: Kindle
 

月刊カドカワ 1996年3月号

[『暴動』が]いちばん好きなアルバム。SLY&THE FAMILY STONE全部。なかでも特に「Family Affair」、この曲が好き。考えられる音楽のよさが全てつまってる。もうほんとに全て。メロディー、リズム、緊張感、静けさ、興奮、繰り返されるハマリ具合、革新性などなど。最近の日本じゃ、メロディーだけがよけりゃそれでいい、サビの歌詞がオモシロきゃそれでいい、そんな感じでつまんない。いつもどっかで聴いた感じ、誰がやってもいい感じで超ダサ。もっともっと全て、歌詞から構成、ギターの音から声の出し方まで全部で曲の世界を作り出す、そのほうが圧倒的に深い。この曲はその感じがすごく伝わってくる。聴くほうに襲いかかってくる、いわゆる「音楽」って感じがする。ボクは静かな興奮を味わうのが好き。ちょっとだけ優しくてすごくきびしい音。あんまり甘いとつまんない。心をちょっと揺さぶる音。腕のあたりがゾクゾクしてくる音。どっかにもっていってくれる音。そんなのが好き。この歌は騒いだりせず静かに包み込むように唄ってる。後半のSAXも同じ。この感じはすごい伝わってくる。そう、伝わってくる、音楽は伝わるのが大事。終わんなきゃいい、この曲がずっと続けばいいって思わせる、ちょっとだけ気合をいれて、目をつぶって聴きたい感じの曲だと思う。

 月刊カドカワ 1996年5月号

佐藤伸治インタビュー

(略)

最初、ヨロシタミュージックって事務所から声がかかって、そのあとりぼんが来て。さすがに悩みましたよ。事務所に入るとプロにならなきゃいけないとか、俺らがプロになっていいんだろうかっていうね(笑)。こんなんでいいの?こんなんでデビューしていいの!?って。

(略)

バンド・ブームってのもあったんでしょうね。それに他のメンバーがすでに乗り気だったからね。特に欣ちゃんとか小嶋がね。アマチュアの頃はその二人がひっぱってたってのはありましたね。

(略)

で、ヨロシタには自由な風が吹いてるっていう印象があったんです。で、りぼんってのはカッチリしてるぞ、でもRCがいたぞっていう(笑)。かなり悩んでね。りぼんに桶田賢一さんって人がいて、その人と話をしてたら、「俺RCのメンバーだったんだよね」って話になって。それで盛り上がってりぼんに入っちゃった気がするな(笑)。(略)その人の影響がデカかったですね、りぼんに入ったのは。でも桶田さんはすぐ辞めちゃうんだよね、フリッパーズ・ギターの事務所設立で(笑)。すごく憎たらしかったもん。

(略)

[1stは]小玉和文さんにプロデュースをお願いしたんです。そのころのアマチュアって、やたらリズムがよわよわだったんですよ。で、自分たちでもいかんともしがたいものがあってね。それで小玉さんに頼んだところはあるんです。だからファーストはけっこうデカかったですね。小玉さんはリズムに異様にうるさくてね。最初全然分からなかったもん、何言ってるか(笑)。「間奏はリズムで押すんだよ」って言われてもその発想が全然分からなかった。僕は間奏にこそギターを入れたいって気持ちがあるのにね。だからそのころはすごくケンカしましたよね。分からないこといっぱいあったし。でも、けっこう後悔してるっていうかね。ああ、あんなこと言わなきゃよかったって今思ってます(笑)。

(略)

 2枚目の窪田晴男さんはギタリストには厳しかったですね、すごく。(略)一旦レコーディングが終わると、小嶋は部屋に呼ばれてずーっと夜中練習してましたからね。

(略)

うまいヘタじゃなくて盛り上がったテイクを選ぶタイプでしたね。だから、このアルバムは……俺たちっぽくないかな、冷静に考えると。でも、そのとき俺たちすごく元気だったんですよ、何でか知らないけど。

(略)

勉強になりましたよ。こうやってレコーディングは進んでいくんだなって。

(略)

[3rd]

このころサンプリングマシーンを買うんですよね。たぶん誰かに言われたんですよ、サンプラーというのがいかにいいものかって。で、もう毎日サンプリングしまくってましたね。あとは、このアルバムでずっとライヴやってたエンジニアの人が参加できるようになったんですよ。これもデカいですよね。エンジニアぐるみでやると、好きなことやっちゃおうぜって感じになりますからね。

(略)

 でも、この後一時ライヴ志向になった時期もあって、4枚目の『ORANG』は完全にそうなんですね。3枚目の後にマキシ・シングル2枚出すんですよ。それでライヴがすごくいい感じだったんです。ライヴでやっててすごく快感があったんですよ。ライヴ・アレンジってのがすごくおもしろくてね。生バンドが打ち込みやってるみたいな感触をやりたかったんですよ。(略)

でね、すごく好きなアルバムになりましたよ。(略)

でも、作ってツアーやって一段落してからは、もっとテンポの遅い曲やりたいなって思ったかな。もっとドローンとしたものをね。このアルバムで小嶋が抜けるんだけど、このバンドではギタリストとしての快感があまりにもなかったんだと思います。
 フィッシュマンズって、絵で例えると点描画みたいで、すべてが点なんですよ。それが理想なんです。その点の集合がカッコいいっていう。絵から遠のいて見てみると雰囲気と立体感が表れるっていうね。だから、最初サポートの人は変なアレンジだなって思うみたい。でも、ちょっとデカめのライヴハウスでやると、「ああ、よーく分かったよ、きみたちの言いたいことは」って言われる。PAを通してると、なぜこのテンポなのか、なぜこんな音の少なさなのか分かるって。実は俺も最初はそう思いましたもん。ちょっと遅いんじゃないって。譲(ベース)がその点、先を行ってたところはありますね。

(略)

[ポリドール移籍]

辞めたんです、突然。HAKASE、曲まで書いたのに(笑)。リハ最終日の帰りぎわに、「明日までにここんところもうちょっと考えておくよ」って言ってたのに、次の日に辞めるって電話がきてさ。分かんねーんだ。HAKASEはよく分からなかったな、最後まで。プレイヤーとしてはすごいと思うけど、人間としては最後までよく分からなかった。なんで辞めるんだろうって本当のところは分からないですね。けっこう話し合ったんですけど。
 そんなんで『空中キャンプ』を作るんだけど、俺たちのプライベート・スタジオができてね。(略)

音楽っていろんな気持ちよさがあるけど、フイッシュマンズは十回聴いてやっとわかる気持ちよさがいいなって思ってたけど、普通のスタジオで作ると余裕なくてそれより攻撃的な感じがして、いざ家に帰って何十回も聴くにはきつすぎるのがすごくイヤだった。家でがっぽりいけるような感じがとにかく欲しかったんです。

(略)

音はどんなにうるさくてもいいんだけど、その中に静かな何かが聴こえるっていうか

(略)

それがこのアルバムではいけてるんですよ。カッコいいなって、我ながら思います。 

ディクショナリー 1996年 no.49

HOW TO MAKE A SONG

「BABY BLUE」

佐藤伸治「歌詞はいつもサラサラッと書くことにしてる。サラッと書いてあんまり見直したりしない。自分がすごくバカでダサくて無力な、社会のクズみたいな気分で、とっても謙虚な気分で書くことにしてる。そうやって誰にも見つからないような歌詞を書くのが好き。もうどうだっていいようなこと、紙クズみたいなもん、それを何年もやるのがいい。この曲もそう、もうずーっとおんなじ感じです。ヨロシク」
「SEASON」
この曲の詞の中にも出てくる「僕ら半分夢の中」、そんな中で、今あったことがもう過去になっていくような、気分を歌にしてみたかったのです。まるで何も見てなかったり、まるで地に足がついてなかったり、過去と未来がなくなったり、フッと逆に感じたり、まるで自分が役立たずに思えたり、そんなことを歌いました。(略)

 『ez』96年12月号

 ●フィッシュマンズはだんだんシリアスになってきているように感じますが……。

佐藤「そうです。やっぱりシリアスにやらないと通じないと思う。そこが音楽がナメられる原因だって気が僕はするんです。音楽はかなりナメられてる。だからマジメにやる。純粋にやればそうなるんだと思う」

●誰がナメてるの?

「(笑)いや、9割5分の国民がナメてるよ。作る人も聴く人もレコード会社のひとも含めて、芸術の歴史というものを軽視してる。本当は、ミュージシャンの“こういうことをやりたい”っていう純粋な気持ちと、リスナーの“こういうのを聴きたい”っていう純粋な気持ちが直接結びつくのが普通じゃないですか。それがあまりになさすぎる。それに対して、誰一人立ち上がろうとはしない」(略)

リズム&ドラムマガジン 1997年8月号

茂木欣一インタビュー

●今回は一曲の中でも生ドラムとMIDIドラムを併用してますよね。生ドラムだけで演奏した曲は?
「WALKING IN THE RHYTHM」と「DAYDREAM」の2曲。ラディックのバスドラにスネア、ハイハットに、20”のライドを1枚!
●「MAGIC LOVE」は生ドラムじゃないんですか?
ハットだけ生で、あとは全部自分のラディックの音をサンプリングしたものなんですよ。「POKKA POKKA」「うしろ姿」「バックビートにのっかって」は全部MIDIドラム。ライブではローランドのMIDIドラムだけど、レコーディングではヤマハのTMXを使ってます。
●「WEATHER REPORT」はリズム・パターンが凝ったものになっていますが、これは?

打ち込みとMIDIドラムですね。打ち込みのデータには、僕だけじゃなくて、ZAKが叩いたデータも入ってるんですよ。それをぐちゃぐちゃに混ぜて“面白い!こんなことになっちゃった”って感じかな。僕、人に叩かせるの大好きなんです(笑)。あとは「IN THE FLIGHT」ですけど、これは佐藤君のデモ・テープに入っていた音をそのまま使っているので、僕は参加していません(笑)。

(略) 

8月の現状

8月の現状

 

ミュージック・ライフ 1998年9月号

 (略)

──今回のアルバム、今まですごい、すごい素晴らしい仕事をしてきたZAKがいないんですけど?

「うん、コンビ解消(笑)。理由は、端的に言うとあまりに頼りすぎたなぁっていう感じかなぁ。『このままいくとだめになっちゃうよ』って感じで、向こうから『さようなら』でした」(略)

篠原ともえのクレクレミラクル大作戦 vol.23

篠原 (略)シノハラ、二十歳になるんです。それまでに何かを成し遂げたいんですよ。おふたりは二十歳の頃、何をしてたんですか?

佐藤 10代の頃は二十歳になれば人生が変わると思ってたね。二十歳の頃…、ウウ、嫌なこと、思い出したよ。(前の)バンドのメンバーに“どうせ就職するのに、バンドなんか続けてもしょうがねぇ”って裏切られてさ、解散したんだ。暗かったね、悩んだね、俺は。

佐藤伸治、急逝以降

remix 2005年6月号 茂木欣一インタビュー

[バンドを象徴するような印象的エピソードは?]

ひとりひとりメンバーが辞めていくたびに、「辞めていってもいいけど、俺たちはバンドとしてどんどんタフになっていくぜ」という感じでバンドが強くなっていったところがある。

ミュージック・マガジン 2006年2月号

ZAKインタビュー

──『ネオ…』を手がけたきっかけは?

「佐藤君が強く推してくれたみたいです。セカンドから推薦してくれてたみたいですが、当時のレコード会社は、実績のない者をいやがって。

(略)

──欣ちゃんが言うには『宇宙…』の時に佐藤君のデモ・テープがソロ色が強くなって、それをバンドにどう落とし込むか苦労したということですが、実際どうだったんでしょう。

「正直に言ってぼくは、それを受け切れないバンドの状況も辛かったんですよね。(略)

デモそこまで完成されてると、その音がぼくは好きだから、これでいいじゃんって思って。でも、バンドだから何かやらなきゃいけない。その時点で、それはそれで受け流せば…バンドも受け入れて、これは必要だから、これは必要ないからってスムーズにやっていければ良かったんですけど、ちょっと迷っちゃった。サトちゃんこういうものを作ってきて、困ったなあと。でも彼の曲が大好きだったし、彼が作るものは素晴らしいと思ってた。

(略)

3人がね、同じ方向に向いてれば、ぼくも行けるんだけど、佐藤君と欣ちゃんと譲がまたちょっと違う方向で。二人が“どうしよう?”ってなって、ぼくがそれを見て、“んん?どうしたらいいんや?”って。みんなどうしたらいいのかわからない。そこまで大人じゃなかった。経験がなかったから。

──そこで割り切って、じゃあデモ・テープ通りにやればいいとはならなかった。

「もちろんそういう曲もあって、それでうまくいってる曲もある。でも、何か知恵を絞って作ったっていうのが問題かなと。

(略)

すごく。できあがったものから苦労が読み取れちゃうんですよ」

(略)

ぼくがいなくなってから〈ゆらめき In The Air〉がありますけど、やってることは〈デイドリーム〉と同じだと思うんです」

──ああ、なるほど…。それがフィッシュマンズから離れるきっかけですか?

「(略)[『宇宙…』を]作っててちょっと辛かったんですよ。別にバンドの状態がひどいとか仲悪いじゃなくて、でもなんかうまくいってない」
──『空中キャンプ』の、すべてがうまくいってる感じとは逆の状況ですね。

(略)

〈デイドリーム〉をやってる時にこれで終わりやって思った。“この曲で終わりや”って、自分でミックスをしながら。やればやるほど終わりに近づいてる気がして

(略)

佐藤君が亡くなっちゃったから

(略)

すべてにおいて何でも予兆ってのは現れるんですよね。音楽ってのはそういうのが出やすいから」
──辞めるのはZAKさんから言いだしたんですか。

「ええ。(略)

[佐藤の家に行ったが留守で]

東北沢の踏み切り前にクルマで止まったら向こうから佐藤君がきて。踏み切り越えて道端で何時間か話して。で、薄々感じてたからわかったと。ライヴは辞めないでくれと言われたけど、俺は切り替えなきゃダメだ、ライヴも辞めるわって。極端だけどその次の野音から辞めた」
──こういう言い方したら失礼ですが、男女の別れみたいな感じでもありますね。
「(笑)。確かに恋愛関係に近いかもしれない。そのバンドをどれだけ愛してたかっていう話。逆に続けていくことで、中途半端になあなあになるのは嫌だったから。

(略)

── やっぱり『宇宙…』って、ひとりぼっちな感じはありますよね。
「ありますね。すごいそれが悲しかった。『空中キャンプ』は、ぼくも他の人も受け入れてくれてその感覚を共有できたっていうのがある。『宇宙…』では共有しきれなかった、そういう意味では。もちろん個人的に届く強い力はあったと思う。音楽的な面では『宇宙…』はすごく高いレベルにあると思うんですけど…俗っぽいかな。欲望が表れているというか。何かしてやろう、何かしないとダメっていう感覚がね」

(略)

──以前、佐藤君が、バンドとソロは違うんだ、バンドの方が娯楽的な部分が多いんだっていうことを言ってて(略)

娯楽を除いた佐藤伸治の本質が出てる曲は何ですか?って聞いたら考え込んじゃったんだけど(笑)

「はははは。ぼくはすごくハッキリしてて、〈シーズン〉なんですよね。

(略)

彼の曲だけども、できた曲はみんなの総意だった。演奏していた人、ミックスしていた人とそれに関わった人たちすべての曲じゃないですか。〈シーズン〉はそれが出てる。あの曲は“未来”だと思うんですよね」

 〈コメント〉植田亜希子(マネージャー)

(略)

──スタジオでの作業はどんな様子だったんですか。

「(略)[スタジオの構造上]一斉に音をだせない。何時から何時までは柏原(略)みたいな。パーツごとに作っているから、完成見取り図がわからない。メンバーはわかってると思うんですけど(略)

それがどうなっていくのか見ていくのが楽しかったですね」

──3人とはどんな会話を交わしてたんですか。
「ワイキキは、2階がスタジオで、1階がリビング的な雰囲気だったんだけど、ずーっとゲームしてたり、TV観てたり、それぞれ好きに過ごして、やる人だけが上に行く。私は1階で暇な人と遊んでることが多かったですね。音楽と関係のない話ばかりしてましたね、クルマの話とか。佐藤とは、洋服の話とか。長袖シャツが欲しいとなると、あとで電話がかかってきて「欲しがってた感じのがあったよ。あの店に大至急行った方がいい」とか連絡網として回ってくる。二人とも珈琲好きなので、地方に行っても喫茶店に行ってボーッとしてたり。ある時から、喋らなくても平気になりましたね。機嫌悪いときはあるけど、そういうときは“構うな!”モードを全開にしてたから、放っておいて」

(略)

[メンバーの離脱について]

「そういうことがあっても、しょうがないって思ってるところがあった気がします。といって淡々としてるわけでもなく、あんまり人に言わないだけで。ZAKさんのときも絶対に痛手は大きかったと思うんですけど、それも同じ。(略)

私に対しても、俺たちの担当になるとみんな辞めるんだよねって言うんです。だから、辞めてくれと言われるまで辞めないっていうのが私の目標でしたね。(略)

“いろんな人が辞めていって辛かった、ある時から諦めるようになった”って言ってました。思った以上にショックだったんじゃないかなと」
──それで内向的になって、人と一線を引いてしまうようなところはあったんですか。
「懐に飛び込んでドンドンってやると、意外にあっさりドアを開けてくれました。逆に女の人の方がいいのかも。女の人ってそういう部分ですうずうしいじゃないですか。私は若かったし、怖いもの知らずだったんで。そういう人が周りにいなかったのかもしれない。身近なところで気楽そうな私がいたんじゃないのかな」
──バンド内の関係性というのはどうだったんですか。

「佐藤は、自分の思ってることを最後まで言わないことで、誰かが何かを言い出して変わる、ってことをすごく期待してました。誰かとやることによる変化というか。『空中キャンプ』以降はすごくライヴの本数が増えたこともあって、HONZIさんと関口さんがいて、5人でフィッシュマンズって意識が強かったと思う。やっぱり女の人が入ると違うなと思いましたね。だいたいご飯はHONZIさんが決めるし(笑)、HONZIさんが入ったことですごく変わったと思います」

(略)

[『宇宙日本世田谷』での状況]

「たぶんみんな悩んでたんでしょうけど、あのときはメンバーの個別作業が増えてしまって。レコーディング期間が長いというのもあったのですが、スタジオに人が集まらないんですよ。前まではあんなに毎日何をするでもなく集まってたのに。『空中キャンプ』のころのような部室感がなくなったというか。佐藤も、みんな来てるの?って怒って。

(略)

[ミックスを]聴いたか聴いてないか、感想があったら書く、っていうチェック表を作った記憶があります(笑)。その後ZAKさんが離れるんですけど、佐藤はそうなることを予感してた気がします。そんなことを匂わしたこともありましたね。
 ただ『8月の現状』のときはまたみんな集まって作業してたし、解散の危機とか全然思わなかったですね。柏原が辞めるときも、今まで3人でやってたわけじゃないし、スタッフもいっぱいいるし、そういう意味で抜けるのはかなりの痛手だけど、みんなでフイッシュマンズをやっていこうよって。だからムードは悪くなかった」
──亡くなる直前はどんな感じだったんですか。
「………やっぱり体調を崩してたんで、しんどそうだった部分はあったんですけど、何かいい休みになればいいなと思ってました。さっき話に出たように、調子悪い時は表に出なくていいんじゃないっていう話もして。……本当に……次のことはみんな楽しみにしてただけに、残念というか。

 

フィッシュマンズ全書 小野島大

  

フィッシュマンズ全書 FISHMANS Chronicle(1988-)

フィッシュマンズ全書 FISHMANS Chronicle(1988-)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2018/12/07
  • メディア: Kindle
 

 〈コメント〉チバユウスケ

チバユウスケフィッシュマンズは、明治学院大学で同じサークル「ソングライツ」に所属していた。チバの一学年上が茂木欣一柏原譲、三学年上が佐藤伸治という関係である。
 大学は1、2年が戸塚で、3、4年が白金。だから伸治さんとは滅多に会わなかったけど、欣ちゃんや譲とはしょっちゅう会ってた。チケット買ってくれって言われて。で、渋谷のラ・ママでライヴ見たのが伸治さんに会った最初かな。
 最初の印象は、ふんわりしたバンド。うまいなと思ったし、いい歌だなと思った。歌が好きだったかな。声も歌詞もメロディも良かった。曲の合間に喋る感じがまた、うまいんだよね。客をつかむ呼吸。

(略)

ファーストが出たときは、俺はライブのほうがいい気がしたな。レコードはちょっと軽い感じがした。

『空中キャンプ』で変わったって言われるけど、俺はそういう印象はない。俺にとってはフィッシュマンズは伸治さんの歌だから。(略)伸治さんの歌は、伸治さんそのものだった。たぶん、すごく正直にやってたんじゃないかな。あんまり架空の世界じゃない気がする。そういうリアルなところは、俺も影響受けてるかもしれない。(略)
 でも伸治さんには挨拶するぐらいで、個人的なことはあまり知らない。俺の見た限りでは、すごく自信に溢れた強い人って印象。(略)
 伸治さんて、寝そべってる印象があるんだよね。フェスか何かで一緒になったんだよ。確か俺らがデビューしたばかりで。で、伸治さんのところに行って「お久しぶりです」って言ったら、「久しぶり~」って寝そべって手を振ってたイメージがある。最後に会ったのは、その時じゃないかな。(略)

東京Walker 91/5/28号

ミュート・ビートとたまを足して2で割ったみたいなバンドだなってよくいわれる」 (略)

[三人編成の]第1期フィッシュマンズの頃は、ブランキー・ジェット・シティみたいだったとか。

salida 91/5/31号

小嶋 (略)小玉さんはプロデューサーっていうよりメンバーに近い感じでしたね。(略)

小玉さんって本当にレゲエ好きみたいですね。僕らは……レゲエっていうか縁側なんですよ。縁側で一服……そんな感じですよね。

 アリーナ37℃ 91/6月号

──(略)レゲエをやりたくて始めたバンドなの?

 さとう いや、全然。ただ歌いやすいからで、べつにスカやレゲエはどうでもいいんです。あと、音がゴチャゴチャとまざってるのはすごいイヤだから、それでこういうのをやってるだけ。スカやレゲエはかえって聴いてない。ストーンズとかTレックスとか好きだから。

 宝島 91/6/24号

 おじま 単純に小玉さんしかいないんじゃないかって思ったから。今回はあまりプロデューサー然とした人を必要としなかった

(略)

──実際やってみてどうだった?

さとう もう、凄いよ(笑)。

おじま 凄いけど、プロデューサーじゃないよね(笑)。メンバー、バン・マスって感じ。

ゆずる 今までやっててあやふやだったところを全部明らかにしてくれたんだよね。特にリズム隊なんかエライ進歩したっていうか。根底から考え方が変わったね。今までは歌についていくだけで、歌がこけるとみんなこけるって感じだったんだよね。(略)

リズムを安定させて、その上で歌がドーンと伸びるみたいな、そういう気持ち良さがわかったという。

STAGE GUIDE 91/7

佐藤 (略)昔、モッズ系っていうか、JAMとかフーとか演ってたんですよ。で、演ってみて自分とはちょっと違うんだなあ、って。それがあって今の僕があるという。

〈コメント〉こだま和文 

 彼らはホントに無邪気でしたよ。音楽のことしか頭になくて。佐藤くんなんか、どう楽しく過ごすかとか、ものすごく先が開けている感じがあったし。あの一丸となってる感じというか、一生懸命さが良かったんですよね。(略)
 最初に会った時のことは、覚えていますよ。僕のライヴですよね、同じ学園祭でね。(略)ものすごく個性的な感じがしましたよね。 すごく華奢で(略)小動物のような、東南アジアとか南米とかの絵本に出てくる少年のような。それで、ものすごく明るいんですよ。

(略)

最初のデモ・テープは、なんかユーミンみたいだった。アレンジもね、ティン・パン・アレーとかに近い質感があったんですよね。そんなにレゲエでもなかったし。(略)

[1st録音では]参考のために、僕がロックステディのミックス・テープを作って彼らに渡して、まずそこから始めたんです。彼らはリズムが散漫だったんですよね。これはソウルっぽいとかこれはファンクっぽいとか、これはレゲエっぽいかなという。(略)僕は一回、レゲエとロックステディをしっかりさせようと思ってね。レゲエのリズムを解釈すれば、すごいオールマイティになれるから。(略)

(略)

リズムにおけるカリビアンなるものというのは、絶対この先強いぞって思っていたから。(略)

 だからファーストがレゲエになったのは、僕の意向ですよ。半ば強引だったと思いますよ。それに佐藤くんは必ずしも100%賛同しなかったと思うんです。そこにはちょっと衝突があって。すごくレゲエ好きな男でしたけど、それと自分たちのバンドでこれから出していこうとするものとはね、分けて考えていたという部分は、当然持っていたと思いますよ。ある種のレゲエ・バンドってくくられたくないとか、自分の中にはもっといろんな要素があるんだとか。だけど、僕は一番いいと思うことをやるってことですから。彼もバンド全体としても、それを納得した形になった。

(略)

最後の言葉を交わしたのも(略)亡くなる前の年(98年)の野音ですよ。その時僕は酔っぱらってて、なにかぼやいたと思うんですよね。佐藤くんはそれを察知したかなにかで、楽屋のソファーの陰に隠れたんですよね。(略)

酔っぱらっていたから、なんだよ佐藤、なんでそんなによそよそしいんだよ、みたいな、そういう感じで言ったんですよね。なんで隠れたのか、わからないですね、今となっては。
 佐藤くんは、すごくウェットな男なのに、すごいクールでもあった。繊細だし。自分の居心地というものを、ものすごく感じ取っている人だから。かといって難しい男じゃないんですよね。すごく江戸っ子なところもあって(略)

スパッと割り切れたところもあったし。だから願わくば、もっと話がしたかったな、と思う何人かの一人ですよね。あんなに想いを残す人も、そうはいないですよ。

BANDやろうぜ 92/12

──(略)結構過激なダブ処理もありますよね?

佐藤「(略)録ってる段階から、1日の終わりにはダブ大会、みたいな。今回はそれが結構目玉だったなっていう」

茂木「<頼りない天使>なんてすごい収穫になりましたね。これはダブの理想的な到達点ですね。そこまで言わせてもらいます。歌ものに関してのという意味ですけど

 デイリーan 93/4/9号

佐藤「唐突だけどね、最近ヒップ・ホップ に凝っているんですよ(笑)。(略)レゲエとヒップホップって結構似ているんだよね。勢いっていうかリズムの強さに共通するものがある。(略)

それに音の詰め込み方が凄い。ムリヤリ詰め込んでいるんだけど、ちゃんと音楽になっているってところ。(略)

だから次の作品にもきっと影響が多少出てくるんじゃないかな。レゲエという基本は崩さないけど、音楽的でない音の入れ方とか」

〈コメント〉窪田晴男 [2ndアルバムプロデューサー]

 僕にプロデュースのオファーをした理由というのは、特になんにも。あいつらもにゃもにゃしてるから(笑)。どうも自分たちの中でははっきりしているらしいんですけど、それをちゃんと外に表現したりするのが、あんまり上手な子たちじゃないんですよね。(略)

 すごくヘンなアルバムになったのは、まず、レゲエ・バンドですっていう骨格が見えた方が、絶対この子たちは当たるだろうって思ったんですよね。で、レゲエだったらダブだろ的な。彼らにポップ・チューンのスマッシュ・ヒットが出ても、その次が出るか出ないかが、ちょっと僕にはわからなくて。それよりも、佐藤伸治の得体の知れない才能とバンドの音楽性、そっちを出したいと。たとえばクラプトンもいろんな音楽やるけどあの人はブルースですみたいな、あれと同じように、いろんなことができるけど基本にレゲエが見えます、みたいなバンドの方が、バンドとしても長持ちするだろうし、売れるだろうなって当時は思ったんですね。それにこの子たちが自分たちでプロデュースするようになった方が、よりおもしろいものができるに違いないと。(略)

バンドと佐藤くんを自由にしてあげるのが、僕の役割かなあって。それと誰もやっていないようなことを俺達やってるぜ、という風な自信をつけさせてあげたかったんですよね。

(略)

 佐藤くんについては、おまえが天才だってことがわかったから、おまえは放し飼いにするって(笑)。だからおまえは好きに歌詞を書いていいし好きに歌っていいし、好きにやりなさいと。僕が全部面倒見てあげるから、やりなさいと。整頓された歌唱とか売れ線どうのとか、そうじゃない魅力がこの子にはあるなと。(略)ひたすら彼が愉快であることがバンドにとっても良いはずだと。

 あのアルバムの後も、レコード送ってくれていたんで、聴いていました。ああ、どんどん好きな方向へ行って、どんどんいい意味でわかりづらくなってるな、ポピュラーでなくなってるな、って思いましたね(笑)。でも、それもいいかなと。あのアルバムでは、要するにレコーディングの場合は演奏するだけじゃなくて、卓(コンソール)の側にも音楽がある、ということを、彼らは覚えてくれたんだと思います。そういう意味では、その後、なにか妙にクスリ臭い音になったりとか、いろんな風になっていくということの、ある種のきっかけ作りはしたのかしらと思いますね。
 佐藤くんが亡くなった時は、あれはねえ、ちょっとショックだったな。譲くんが抜けた時のコンサート(98年)に行きそびれてるんですよ。あの時佐藤くんは、相当絶望していただろうし。ただ、ドラムと2人でも音楽は作れるよ、ということをひと言言ってあげようと思っていたんだけど、それはちょっと言いそびれちゃってて。そのへんがね、未だに自分の中でもにゃもにゃしてるんですけどね。 

Go Go Round This World!

Go Go Round This World!

 

 『Go Go Round This World!』1994年2月2日発売

月刊カドカワ 1994年3月号 文 佐藤伸治

  お正月に『MJ』という夜やっている歌番組を観た。普段、歌番組はほとんど観ないけどその日はなぜか真剣になって最後まで観た。出てくる人の顔から歌詞から曲から何からもう全部。そしたら無性に腹が立ってきた。なんなんだね、コレは。もう何がなんだかさっぱりわからなかった。もう頭の先から靴の裏まで、歌詞のひとつからギターの趣味まで何ひとつわかりあえることはなかった。同じ人間でもこうまで違うものかと思った。それもこの日の出演者は去年すごく売れた人ばかりらしい。なんてことだ。これが売れてるって?前々から怪しいとは思っていたけど、もう相当怪しい。ここまでくるともう完全に犯罪だ。もう全員犯罪者。歌ってる人も聴いてる人もカラオケやる人もみんな極悪、悪党の集まり。こんなすごい犯罪国家は日本だけだ。さみしい。

 MUSIC GUIDE 1994年3月号 佐藤伸治インタビュー

(略)

 あと、ボク日本の音楽史にちゃんと興味ありますから。10年後にちゃんと聴けるものとかそういうのに。

(略)

だからあんまり“今、今”ってことだけで曲つくりたくないんですよね。無責任に。そう思うのだ!

ガレージ・パラダイス 1994年創刊号

[インタビュアーは小嶋の同級生。尖ったブーツでストーンズやってた小嶋がこじゃれた感じになってびっくりしたので、その経緯を訊きたいというところからインタビューが始まり]

──それは小嶋君はLMS、佐藤君はソングライツ(両方共軽音サークル名)に入った後?
小嶋「そう。両方共の部室が近くて、それに学部もクラスも一緒だったから、ちょっと音出そうとかいって毎日やってたよな。その時伸治って歌うよりドラムよくやってたんだよ、ベースとか。当時学内でレゲエ叩けるの伸治しかいなくて重宝してたんだ(笑)

(略)

俺も狙ってはいたんだけど、いかんせん再現できなくてやめたね(笑)。当時は本物のレゲエより、クラッシュとかストーンズがカヴァーしたホワイトレゲエをよく聴いてた。レゲエいいなあとか言って、ボブ・マーリィだとなんかたるいなとか秘かに思ってて。で俺のバンドは卒業と同時に終って、伸治のも解散したんだよね?」

佐藤「うん。俺はそのバンドでプロになろうと思ってたけど、2年くらいで終ったな」
小嶋「こいつのバンドが解散したって聞いてさ、俺、入れろって言ったんだよ。そしたら断りやがってさ」
佐藤「あ、そうだっけ?」
小端「(笑)だめだ。お前のギターはうるさいとか高飛車に言われて、けっこうしょぼんとしててさ。一緒にできないのかにゃーって」(略)
佐藤「いやいや、俺忘れてたよ、まじで。それから大学3年の時、きんちゃんがライツに入って来て。今と全然違って、うるさくてしょうがないドラム叩いてて(略)

で、プロになるのをあきらめてた時で、きんちゃんがパンクみたいなドラム叩いてたから、これはちょっとギャグでモッズみたいなのやろうかなって(笑)」
小嶋「ギャグだったのか、あれ(笑)」

佐藤「最初はね。(略)」
小嶋「いや、俺ときんちゃんは本気だったよ(笑)。こいつはおちゃらけだったけど」
佐藤「そうなんだよ。この2人がいなかったら、このバンドはプロにはなれなかったね」(略)
──そのモッズバンドの名前は?
小嶋・佐藤「FISHMANS」(略)

ガレージ・パラダイス 1994年12/12号

(略)

[小嶋脱退について]

──なんで抜けちゃったの?

佐藤 うーん……。あんまり言いたくないかな(笑)。

──小嶋くんが抜けることでいろいろ思うところがあったのは、本人とか他のメンバーとかよりも、実は佐藤君なんじゃないかなって……。

佐藤 わかんない。小嶋はそりゃああるだろうけど……。俺と小嶋なんじゃないの、ショックなのは。

──じゃあなんで!(笑)。前インタビューした時、すごく信頼しあってるのが感じられて、ずっと一緒にやっていくんだろうなあと。

佐藤 ねぇ。そんな気もしてたんだけどね。なかなかうまくいかないですよ。(略)

サウンド&レコーディングマガジン 1994年12月号

──ZAKさんはいつごろからフィッシュマンズと関わるようになったのですか?

ZAK デビューしてすぐのころのライブからです。

(略)

──佐藤さんの声は結構特殊だとおもうのですが、ボーカルはどうやって録りましたか?

ZAK 真空管系のマイク・アンプとU47の組み合わせで録ってます。ライブでもボーカルだけは真空管のマイク・アンプを使ってます。

(略)

「ナイトクルージング」ポリドール移籍第一弾シングル

B-PASS 1996年1月号

(略)

スタジオはさ、レコード会社の人に、ちょっと軽く欲しいなって言ったら、じゃ、作ろうっていうことになっちゃった。それならって、自分達で不動産屋回ってさ。マンションの一室でもと思ったのが、結局2階建てのビルを借りれることになったんだけど。で、決まった時点で、俺はハワイに行ったの。でも、その行く当日、荷物持って出ようとしたらHAKASEから電話があったのかな。やめたいんだけどって(笑)

──ショックだった?

そうでもなかったな。(略)帰ってから話そうって、そのまま出掛けた(笑)。で、帰ってからじっくり話したな。すごく大雑把に言えば、HAKASEはソロ指向っていうかんじで。それならしかたないなって俺も納得したし。スタジオも決まってたから、俺の気分はやるぜ!っていう方向だったしね。ただ、HAKASEは何でもできるキーボードだったから、いなくなった時点で、今までとは別のバンドっていう感じが、俺の中にはあるんだよね。(略)

次回に続く。