ゴング格闘技ベストセレクション・その2

 前回の続き。

ゴング格闘技ベストセレクション 1986-2017

ゴング格闘技ベストセレクション 1986-2017

 

なぜホームズやルパンに、柔術がバリツという名で登場したか

なぜ、当時のヨーロッパで柔術がそれほど有名だったのでしょうか?
 答えははっきりしています。ひとりの日本人柔術家が前田光世以前に異種格闘技戦を行ない、大評判を呼んだからです。
 その男の名は谷幸雄(たにゆきお)。(略)
 19歳の谷幸雄が兄・虎雄と共にロンドンに到着したのは1900年(略)ウィリアム・バートン=ライトに招聘され(略)

 バーティツ(Bartitsu)とは、バートン=ライトの「バートン」と「ジュウジツ」を組み合わせた造語です。バートン=ライトは「私はまったく新しい格闘技・バーティツを創始した。夕二兄弟はそのインストラクターである」と説明したのですが、内実は柔術とまったく同じものでした。「グレイシー柔術」という発想と同じです。

(略)

[だが生徒は増えず、兄は帰国。幸雄は]

生計を立てるために演芸場すなわちミュージックホールで興行を行ないました。(略)

「誰の挑戦でも受ける。私を打ち破ったものには大金を差し上げる。ただし柔道衣を着ること」と言ったのです。

(略)

 谷幸雄は生涯に数千試合を戦い、大金持ちになりました。

(略)

 小さな日本人が、雲をつくような大男をギブアップさせ、失神KOに追い込んだこと、そして失神させた相手に活を入れ、蘇らせた事実は「日本人は一度死んだ相手を蘇らせることができるのか!」とイギリス人を仰天させました。
 かくしてスモール・夕二と、活殺自在の神秘的な格闘技「ジュウジツ」の名は英国中に轟き、たちまちのうちにドーバー海峡を超え、ルパンの作者モーリス・ルブランの耳に達したのです。
 前田光世がヨーロッパやアメリカ大陸で行なったことは、一言で言えば谷幸雄の二番煎じです。
 ただし前田光世講道館の人間でした。前田の海外での活躍は、講道館の格好の宣伝材料になります。また、前田光世の前に先例が存在するのは、講道館にとってまったく好ましくありません。

[かくして谷の名は埋もれてしまった]

  そもそも、柔道と柔術の違いとは何でしょうか?

 起倒流も含めて、古流柔術の根本にあるのは実戦であり、相手を殺すか、戦闘不能状態に追い込むことが目的です。

 投げはあくまでも相手をテイクダウンして有利な展開に持ち込む手段に過ぎず、最終的な決着をつけるのは絞めもしくは関節技によるギブアップまたは失神KO、というのが柔術の考え方です。(略)
 ところが、教育者である嘉納治五郎先生の考えはまったく違います。
 首を絞めたり、関節を破壊する行為は本来、教育的なものとはいえません。(略)

[そこで]近代的でエレガントな勝負判定法を採用したのです。

(略)

「投げて相手の背中がつけば勝利」というルールは、明治期の欧州のレスリングに存在した「フライング・フォール」にヒントを得たものだろう、と筆者は推測しています。
 当時、欧州大陸で広く行なわれていたグレコローマンレスリングは、抑え込む必要はなく、相手の両肩が一瞬でもマットに触れればフォールというルールでした

(略)

 講道館柔道の「相手を30秒抑え込めば勝利」という発想は、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンのピンフォールに由来するものだろうと、筆者は考えています。

(略)

ふたつの新ルールを導入することによって、安全で、さらにレスリングになじんだ西洋人から見ても了解可能なものになった柔術。それこそが、明治期有数のインテリゲンチャであり、英語ペラペラの国際人にして教育者である嘉納治五郎の考案した「柔道」だったのです。

フランス人が柔道を愛する理由

嘉納治五郎が作り出した柔道を、世界で最も愛する国は、わが国ではなくフランスです。フランスには、人口比で日本の約6倍の柔道選手がいるからです。

 フランス人は、柔道の投げに美しさを見ました。
 下半身の攻防を禁じるレスリングの「グレコローマンレスリング」とは(略)実際には19世紀にフランス人が作り出したものです。
 下半身の攻防を禁じれば、必然的に重心は高くなり、その結果美しい投げが決まりやすくなる。芸術を愛するフランス人は、美しい投げを鑑賞するために、下半身の攻防を禁じたレスリングを考案したのです。(略)

[着衣格闘技の柔道はグレコよりさらに華麗な投げ技が決まりやすい]

だからこそフランス人は、柔道を深く愛しているのです。

 ヨーロッパには「ジュードーはフランス起源のスポーツ」と誤解している人がたくさんいるくらいです。(略)
 欧州柔道連盟誕生以来ずっと、世界の柔道の方向性を決めてきたのはフランス人でした。(略)
 フランス人は、自分たちが正しいと思う方向へと柔道の国際ルールを変えていきました。
 その結果、現在の柔道は、限りなくグレコローマンレスリングに近いものになっています。(略)

[下半身タックル禁止も]

華麗なる投げ技を見たいフランス人主導で決めたことです。

カール・ゴッチ×ジョシュ・バーネット(2007)

 ジョシュ 正直に言ってください。私は正しい力の使い方を知りたいんです。
ゴッチ ……分かった。君はキャッチレスリングの動きをまったくしていない。両手にグローブをして、パンチのことだけを考えている。それに相手がグラウンドにいるときは、その上で動くかわりに、相手を挟んで引き込んでいる。すべて間違っているよ。本当のことを言ってほしいんだろう?(略)

三脚のテーブルを考えてみろ。脚を押しても動かない。でも脚を取って押せば簡単に倒れる。それが君のすべきことだ。敵のバランスを崩す必要がある。相手の足があったら、それを押しやるかわりに君は挟んだ。それは間違いだ。ヒジやヒザは何のためにあるんだ?君はそれを使ってない。中に入ったらパンチじゃなくヒジを使え。顔面を狙えば相手はパニックを起こす。それから頭部、ボディーにもだ。

ジョシュ この大会ではグラウンドでの顔面へのヒジ打ちは禁止されているんです。
ゴッチ 打つのではなく、押し当てるとしたら?グラウンドではいかにヒジとヒザを相手の弱い部分に置くかを考えろ。瞬間的に押せば、相手のクラッチをたやすく切ることもできる。それに打撃として使う場合は拳を傷めることもない。
ジョシュ はい。この上四方のとき、ノゲイラにクロックヘッドシザーズを極められれば良かったのにと思います。このGPでは誰もあの技を知らなかったから。
ゴッチ そうだね。フロントフェースロックのように腕を使う代わりに足でも出来るはずだ。
ジョシュ 私はそのポジションを取るために対戦相手と常にレスリングをしています。彼らはダブルリストロックを防ごうと必死で、ヘッドシザーズについて予測していないから、あなたならきっと首を折りかけてます。

ゴッチ クロックヘッドシザースは乗る場所が重要なんだ。ヒザを使って相手の頭の耳の下にポイントを押さえる。相手が痛がったら逃してやればいい。そしてそれとは逆の方向に捻るんだ。
ジョシュ 私は2種類のやり方を学んできました。ひとつはヒザを中心に旋回するやり方。もうひとつはつま先で回転するやり方です。
ゴッチ ダメだ。君はまったくそんなやり方をしていない。見てごらん。
ジョシュ はい、つまりあなたはつま先で立ってヒザを地面に着けるようにしろと。
ゴッチ でも決して足は伸ばさないんだ。
ジョシュ (略)私が聞きたいのは、ヒザをどこに動かし、体重をどこに移動するか、というメカニズムなんです。

(略)

ゴッチ (略)力をコントロールするんだ。骨と骨(ボーン・トゥ・ボーン)、テコを使って少ない力で大きな力を出せばいい。相手に何かを仕掛けようとするときは、釣りに行くときのように、えさを出すんだ。

(略)

 ゴッチを見送った帰り途、タンパ空港のロビーで聞いてみた。
″神様″に会って、新たなキャッチ・テクニックの発見はあったのか、と。
 その反応は意外なものだった。

 「テクニック面で新たな発見はほとんどなかったよ」

 「あのクラッチを外す動きは?」
 「僕が知っている動きに似ていたけど……ディテールが違った。もうひとつやり方が増えたね」
 「ゴッチさんがジョシュにかけたフロントチョークはギロチンじゃなかった。ダースチョークとも違う……」
 「ソウ!僕がノゲイラに極めたのがあれさ。相手の顎に手首の骨を当てて、自分の手首を掴んで首をひねる。“グロヴィット”――ビリー・ライレージムに古くから伝わるキャッチの技を今日、僕はゴッチさんから直に教わったんだ」
 そう語るジョシュの顔は晴れ晴れとしている。
 「僕を教えてくれたセンセイたちを、ゴッチさんが教えていた。今日もゴッチさんは、彼らに教えていたことを、僕にも教えてくれたに過ぎない。でも僕は、それがとても嬉しかったんだ(略)

ゴッチさんが教えてくれたことのいくつかは、基本的なチェーンレスリングの動きだった。でも、サブミッションに関することは、僕はこれまでゴッチさんに会ったことが一度も無かったにも関わらず、僕とカミサマは全く同じ考え方をしていたんだ!これが喜ばずにいられるかい?僕は僕のルーツに会ったんだ」

黒崎健時、魂のメッセージ(1992) 

[野口修から極真でタイ式拳法に挑戦する人いますかと問われた大山が] 

「なに、タイ拳?そんなもの取るに足らんよ。ワンパンチ・ノックアウトだ」(略)

[ならばと野口はさっさと試合日程を組んでしまったが]

いざタイ拳と闘う段になると、誰もがいろいろな口実をもうけて尻込みを始めてしまった。

(略)

 「じゃあ、及ばずながら私がタイに行ってきましよう」
 腹をくくって、私はそう言った。

(略)

 当時の空手界の状況は、おそろしく前近代の色に支配されていた。あちこちに創始者や師範が乱立し、試合もしないで「我こそが最強なり!」と吠えまくっていた。

(略)

 トレーニング一つをとってみても「えいや!えいや!」とバカの一つ覚えのように突き蹴りを出すだけで、動いている相手に、どういう攻撃が有効かという着想にひどく欠けていた。
 今から思えば誠にバカバカしい話だが、一撃必殺信仰に取りつかれ、正拳一発で相手を仕止めることができると本気で信じ込んでいたのだ。

(略)

 もちろん、私がそれを知るのは、一敗地に塗れた後だった。

(略)

 タイに着いた私を待ち受けていたのは、謀略とでも呼びたくなるようなルールの壁だった。日本を発つ前、野口社長は、「先生、向こうでの試合は投げも絞めもありです。場合によってはゲンコツで殴ってもかまいません」と調子のいいことを言ってたのに、タイについてみるとそんな話はなく、ムエタイそのものの試合であることが判明した。

(略)

 体重差を理由に、試合は一ヵ月後に延期された。私は見ず知らずの土地で、飲み水に気を使いながら8キロの減量を敢行した。
 私35歳、ラウィー23歳――。
 タイでトレーニングやスパーリングを重ねているうちに、徐々にムエタイの輪郭が明らかになり、同時に緊張感も増していった。

(略)

[試合開始]

 フットワークで劣る私は、遮二無二、接近戦を挑んでは頭部にヒジをくった。ガツンという音とともに、頭の中に火柱がたった。だが、それでも

「なーに、大したことない。なーに、大したことない」

と自らに言い聞かせるようにして、相手にくらいついていった。

(略)

 ロープ際で何度もラウィーのヒジ打ちをくっているうちに、まるで酒にでも酔ったかのように頭がボォーッとなり始めたのである。
 そうしているうちに、ラウィーのローキックをもろに太ももにくってしまった。これはきいた。相撲や柔道で鍛えた私の腰が、1メートル近くももっていかれてしまったのだ。
 腰がガクンとなり、ヒザがふらついた。これほど威力のある蹴りをくったのは初めてのことだった。精神的なショックが痛みとともに残った。
 これは後で理解したことだが、人間、ヒザの内側は少々蹴られたところで立ち通すことができるが、ヒザの上の筋肉を蹴られると足全体がガクガクして、満足に立つことすらできなくなってしまう。物理を気迫がカバーすることは決して容易なことではないのだ。

(略)

完敗だった。
 だが、あえて負け惜しみを言わせてもらうなら、私はラウィーの攻撃にさらされながらも、しっかりと、自らの身にムエタイの凄さを刻みつけた。
 薄れいく記憶と闘いながら「なるほど、ヒジはこうやって使うのか」「ここを蹴られると致命傷なんだな」「そうかこんな蹴りと突きのコンビネーションもあったのか」と脳の奥で反すうした。

(略)

 とりわけ、身に染みて感じたのは一撃必殺信仰の愚昧だった。(略)

「肉を斬らせて骨を断つ」という日本の武士道精神(略)がガラガラと音をたてて私の心の中で砕け散った。

(略)

 当時、日本の空手界は、パンチ一つ打つにも肩に力が入り過ぎていて実戦向きとは言えなかった。空手はある一点でパンチを止めるため、威力が伝わらないのである。

(略)
 「ウッ、ウッ」と重い声を発しつつ、突きを繰り出したところで、得られるのは声帯が鍛えられるくらいのもので、実戦の戦力にはなりえない。今の時代にあっては、誰でも知っている理屈も、29年前には非常識以外の何物でもなかったのである。 

ゴング格闘技ベストセレクション 木村政彦対エリオ・グレイシー

ゴング格闘技ベストセレクション 1986-2017

ゴング格闘技ベストセレクション 1986-2017

 

 木村政彦エリオ・グレイシー

 この大イベントは、「柔術ナイト」と冠され、地元ブラジル紙も邦字紙も試合前から一面トップで大きく煽っていた。[その扱いは前年のW杯サッカー並み](略)

マラカナンスタジアムで行われること自体が、ブラジル人たちのナショナリズムを強く強く刺激していた。

(略) 

連勝街道を驀進するエリオはブラジル国民の英雄だった。

(略)

[木村は「私が負ける可能性は皆無だ」と最後までリラックス]

 対するエリオのブラジル紙インタビューからは、木村の強さがわかっているからこそ揺れ動く悲壮な覚悟が伝わってくる。

(略)

木村は「私は大外刈りは使わない」と宣言し、「もし、エリオがこの試合で三分間自分に抵抗できるようであれば、彼を勝者として認めてよかろう」とまで言った。

(略)

さらに木村はエリオの主武器である寝技にも絶対の自信を持っていた。いや、寝技こそ木村の真骨頂でもあった。

(略)

[エリオ周辺も勝てるとは思っておらず、兄カルロスは「技が極まったら即タップ」と約束させて漸く出場を認めた]

(略)

木村は袈裟固めに変化し、エリオの頭をヘッドロックのようにして引っ張り上げ、頚椎にプレッシャーをかけた。(略)

その剛力に息が詰まりながらも、しかしエリオはタップしない。
 木村はしかたなく袈裟固めを外し、エリオの頭側に回って横三角で返し、腕を縛ってそのまま強烈な横三角絞めに入った。

(略)

[兄との約束を思い出すも]

参っただけはしたくないと思っているうちに、落ちてしまう。エリオが落ちたことに気づかない木村は、絞めが効いていないと判断し、しばらくしてまたマウントポジションに戻した。そのときの動きでエリオに運良く活が入り、蘇生した。エリオは後に「あのままいけば私は死んでいたかもしれない」と述懐している。

 額から汗を滴らせた木村はマウントの姿勢でこう言った。
 「エリオ、おまえは本当に凄い」

(略)
 ここで第1R終了のゴング。
 エリオの消耗は激しく、足元もおぼつかないままフラフラと自陣に戻っていく。

(略)

[そして第2R]ここからは動画が残っている(略)

 木村は堂々たる試合態度だ。
 背筋をスッと伸ばして自然体のまま前に出ていき、組み手争いもせず、エリオに好きなところを持たせている。
 そして、ついに「使わない」と公言していた伝家の宝刀、大外刈りで一気にけりをつけにいく。三分で仕留めるはずが予想以上のエリオの頑張りで作戦を変えざるをえなかったのである。
 凄まじい大外刈りだ。(略)

だが、エリオは人形のように頭から叩き付けられても、下が柔らかいマットだったため脳震盪を起こさなかった。

(略)

エリオを逃しながら上半身を両腕ではさんで得意の腕がらみに持ち込もうとするがエリオが脇をすくわせない。エリオの脇は堅い。このあたり、エリオのディフェンス能力がかなり高かったのがわかる。
 木村は動きながら作戦を考え、また崩上四方固めに移ってエリオの顔を腹で潰し、窒息させようとする。そしてエリオの動きに合わせて枕袈裟固め、横三角と流れるように変化する。

(略)

木村は執拗に腕がらみを狙う。「十五回くらいアームロック(腕がらみ)を狙われた。あそこまであの技にこだわるとは思わなかった」というエリオのコメントがブラジル紙にある。

(略)

 そして、ついに腕がらみをがっちり極めた。
 その瞬間、歓声と怒号が交錯していた会場が、水を打ったように静まり返った。
 だがエリオはタップしない。

(略)

 木村は自伝でこう書く。

 木村はさらに強く極めながら「いい!いい!」と日本語でエリオに語りかけた。エリオは日本語を理解できなかったが、それがエリオの精神力を讃える言葉だと理解でき、逆に何としてでもタップすまいと思った。

 《(略)グジ、グジという不気味な音が一、二度した。シンと静まりかえった会場に、骨が折れる音が大きく響いた。
 それでもエリオは参ったをいわない。すでにその左腕には、まったく力が感じられなかった。

(略)

 心を鬼にして、私はもう一度、グッと力を加えた。またグジッという音がした。たぶん、最後に残っていた骨が折れたのだろう。もうエリオの腕は抵抗の気配さえしない。
 それでもエリオは降参しない》(『わが柔道』)

(略)

[ブラジリアン柔術植松直哉に映像を観せ感想をきく]

「見てどうですか。密着してプレッシャーを与えては緩め、わざとエリオを逃げすこの動き。(略)」

「隙間を与えるようでいて肝心なところはすべて潰していますからね。エリオは逃げるというよりも逃されているというか。いや、逃されてもいない、むしろ動くたびに追いこまれていますよね。(略)」

(略)

「まずは立技のレベルに差がありすぎますね。それから木村先生のパスガード(相手の脚を捌いて越えること)です。(略)」

「あのパスガードは今のブラジリアン柔術でも?」

「まったく遜色ないです。むしろ日本のトップ柔術家が使わないようなものです。しっかりパスガードのときに手を持ち替えてる部分とか。ブラジルとかでは見られますけど今の日本のトップ柔術家はできない」

(略)

グレイシー柔術の歴史』のなかでもエリオはこう語っている。

「木村は人間的にも立派だった。木村の前では私は子供同然で、すっかり手玉にとられてしまった。(略)彼の態度に悪意はみえなかった。木村のヘッドロックが強すぎて私の耳から血が出ると、木村は腕を緩めて『大丈夫か?』と聞いたんだ」

 ホリオン・グレイシー58歳

「キムラは柔術ファイターだ。素晴らしい投げを持っているが、柔道は柔術の一部だ。柔道だけでなく柔術を知っていた。彼はただの柔道家ではない」

――(略)なぜ木村戦後もグレイシー柔術は柔道のように投げを採り入れなかったのでしょうか。

「(略)投げは柔術の一部だ。柔道の全てが、柔術の一部なんだよ。なぜ、我々が投げの稽古をそれほどしなくなったのか、必要ないからだよ。投げをどれだけ稽古しても、相手を仕留めることができるのは寝技だ。だから、寝技の稽古が必要になる。つまり綺麗な投げなど、それほど必要ではない。

 高専柔道

 金光弥一兵衛 は、起倒流柔術最後の継承者である。

(略)

[明治44年]

すでに講道館は柔道・柔術界制圧に成功し、試合では内股、撥ね腰、背負い投げ等の華麗な大技が主流となっていた。(略)

寝技に誘えば「汚いぞ」と罵声を浴びた。

 寝技を研究する者は少なくなり、絞め技も固め技もごく単純なものへと限定されていった。

 だが、柔道界の一角には、講道館の迫害が及ばない寝技の聖域が残されていた。高専柔道である。

(略)

[スーパーエリートたちによる]選ばれし者のための柔道。それが高専柔道であった。(略)
 厳しい入試のある旧制高校の柔道部員が柔道経験者ばかりで固められるはずもなく、各校柔道部は、団体戦に勝つために、柔道未経験者を手っ取り早く強くする必要に迫られた。
 俗に「立ち技3年、寝技3ヵ月」と言われる。(略)

 強い選手は「抜き役」となって、体力を温存しつつ、可能な限り多くの敵を倒す。
 弱い選手は「分け役」となって強い相手を寝技に引き入れ、膠着させて時間切れ引き分けに持ち込み、相手を止める。
 これが高専柔道の戦い方である。
 立ち技には瞬間的な反射神経と才能が要求されるが、寝技は知と理と落ち着きと経験がものをいう。

(略)

[六高新任師範の]金光は、抑え込み主体の四高に勝つためには、敏捷に動き回って逆(関節技)や絞め技で戦うことが必要だと考えた。(略)

宿敵四高と対戦した六高は、金光弥一兵衛考案の新技「足の大逆」を披露した。現在サンボや総合格闘技で使われているヒザ十字固めと寸分たがわぬ技であるが、サンボ誕生以前の話だ。
 四高は「この技は足搦み(ヒールフック)と同じ反則技ではないか」とクレームをつけ、審議のために試合は中断された。

(略)

 この「足の大逆」は後に禁じ手とされたものの、そのことを見越したように、六高は翌年の第9回大会にもさらなる新技を実戦投入してきた。
 当時松葉搦み、あるいは三角搦みと坪ばれたこの技は、私たちのよく知る三角絞めである。
 興味深いことに、開発当初の三角搦みは純粋な関節技であったという。立っている相手に対して下から飛び込み、相手の頸部と腕を自分の両足で挟み、腰の力で相手の肘関節を極めたのだ。跳びつき腕十字に近い。
 この技には欠点があった。相手が横か後ろに倒れた場合は、相手の肩側にある足は相手の頭を越え、普通の腕ひしぎ十字固めに変化する必要があったのだ。
 だが、まもなく欠点は克服された。足を三角にロックし、相手頸部と腕を完全に固定することで、相手の姿勢がどう変化しようが、取り逃がす恐れがなくなったのだ。
 さらに、足を三角にロックした場合、肘関節を極めるよりも、むしろ頸動脈を圧迫する方が容易であることが判明した。
 三角絞めは、関節技から絞め技へと進化した技なのである。
 三角絞めという必殺技を手にした六高は、第9回高専柔道大会で念願の初優勝を遂げると、四高を超える8連覇の偉業を達成した。
 この六高の快進撃は、寝技嫌いの講道館にとって相当目障りであったらしい。
 夏の高専柔道大会で六高が連覇を遂げると、翌年春には審判規定を改正し、初めから寝技に引き込むことを禁止してしまった。
 嘉納治五郎高専柔道を主催する京都帝大柔道部を訪れ、改正された審判規定に従うように求めたが(略)「学生は従来通りの柔道が正しいと思っています」とやんわりと拒否した。

(略)
 学生を説得できない嘉納は、岡山の金光弥一兵衛のところに使者を送[り、立ち技を主とするよう要請](略)
 激怒した金光が「ルールの問題は京都帝大に言え」と使者を追い返したのは至極当然であった。

 そんな金光のところに、明治神宮第一回柔道選手権大会の出場依頼(略)

 講道館は、寝技絶対不利の特別ルールを作った上で、寝技の達人金光弥一兵衛に出場依頼を行なったのだ。
 だが金光は、不利なルールに敢然と挑み、見事に優勝した。いわば敵地に乗り込んで勝ったのである。

(略)

[金光に学んだ小野安一は19歳でブラジルへ]

 3連覇を飾った小野安一は、しかし、その後全伯武道大会には出場していない。
 興行を行なったという理由で、出場を禁止されたのだ。
 小野安一がアベニーダ・サンジョンとイピランガ街の角に小さな道場を開いたのは、第2回武道大会で内藤克俊の腕を折って失格した1934年のことだ。
 だが、無名の柔道家の下に生徒が集まるはずもない。小野は道場の名を売るために劇場や体育館を借りて、空手家やレスラーやボクサーと異種格闘技戦を行なった。
 ルールは明らかではないが、ギャラの配分は勝てば6割、負ければ4割であったという。
 「全部リアルファイトですよ。遊びじゃない。負ければ食えなくなるんだから」

(略)

 小野安一はエリオ・グレイシーと互角以上に戦い、その実力をリオとサンパウロの大観衆に見せつけた。
 政財界のトップが小野に関心を持ち始め、会社社長や弁護士も弟子入りしてきた。
 小野安一は、貧乏な柔道家から、上流階級のサロンに出入りする護身術指南役へと変貌を遂げつつあったのだ。

次回に続く。

[関連記事] 

kingfish.hatenablog.com

アメクラ! ポップ・ミュージック・ファンのための新しいクラシック音楽案内

 アメクラ事情を知るにはアマプラでやってる『モーツァルト・イン・ザ・ジャングル』を観るといいらしい。 

 「迷った時には墓参り」

大瀧詠一が遺した数多くの名言のひとつに「迷った時には墓参り」というのがある。(略)

過去のなかに、必ず″未来″への答えがある。むやみやたらに新しいことを試すのではなく、まずは自分たちの来た道をきっちり振り返ってみる。まさに温故知新。(略)
 たとえば、今どきのルーツ・ロックやアメリカーナと呼ばれる音楽を好きになれば、やがて60年代のフォーク・ロックや50年代のロックンロール、それ以前のカントリー・ミュージックブルーグラス……とさかのぼり始めることになる。それはやがて郷愁に満ちたスティーヴン・フォスター、都会の洗練と南部の土臭さが交錯するジョージ・ガーシュウィン、米民謡の要素を大胆に取り入れたアーロン・コープランドらの楽曲群、果ては南北戦争時代の流行歌にまでたどりつく。さかのぼってゆくほどに、クラシックとポピュラー音楽の境目はどんどん曖昧になってゆくのが面白い。

フィラデルフィアは弦がいい

音楽通の先輩が面白いことを教えてくれた。

「クラシックでも、やっぱりフィラデルフィアは弦がいいんだよ」

フィラデルフィア管弦楽団は、濃厚でとろけるようなストリングスが特徴の華麗なるフィラデルフィアサウンドでおなじみだけれど、それはポップ・ミュージックの世界でも同じ。(略)“フィリー・ソウル”だ。(略)

こちらもまた、やはり流麗なストリングスの響きが特徴だった。そう。フィラデルフィアは弦がいいのだ。

 実のところ、こうしたソウル界のレコーディング・セッションには、契約の関係上名前は出せなかったものの、フィラデルフィア管の奏者たちもかなり参加していたらしい。

(略)

[その]先輩は、「それに対して、シカゴは管がいいんだよ」とも言った。

(略)

古くから南部の黒人労働者が出稼ぎのために多く流入してきた土地柄だったこともあり、ジャズやブルースが独自の発展を遂げるなか、多くの名管楽器奏者を輩出してきた。

 エルヴィスの憧れ、マリオ・ランツァ

  マリオ・ランツァ。1921年、フィラデルフィア生まれのイタリア系アメリカ人テノール歌手にして″歌う銀幕スター″。40年代後半から50年代にかけて大活躍した、ロックンロール誕生前夜の″アメリカン・アイドル″だ。歌手として44年にRCAレーベルと契約、艶やかなヴェルヴェット・ヴォイスと甘いルックスでたちまち人気者となり、その後、映画界にも進出して黄金期MGMのドル箱スターとなった。50年、主演映画『ニューオリンズの美女』のなかで歌った「ビー・マイ・ラヴ」がシングルとしてもリリースされ全米1位の大ヒット全記録。翌年にかけて34週間ヒットチャートにランクし続け、200万枚以上を売り上げた。

(略) 

 映画での代表作といえば、なんといっても51年に伝説の名テノールエンリコ・カルーソーを演じた『歌劇王カルーソ』だろう。これが全世界で10億円近い興行成績をあげ、アカデミー賞3部門にもノミネートされる大ヒットに。この映画に描かれたサクセス・ストーリーに憧れてオペラを志した歌手は多い。かのルチアーノ・パヴァロッティもそのひとり。

(略)

 もちろん、ランツァ自身も本格的オペラ・シンガーヘの道を夢見ていた。けれど、格式を重んじる当時のオペラ界は銀幕アイドルには冷たく(略)生涯、実際に本格的オペラの舞台に立つことはなかった。

(略)

 ケタはずれの才能と、それゆえ生じた時代との齟齬。その、もどかしいような、切ないような微妙な″ズレ″感は、もしかしたら優れたロックンロール音楽から匂い立つ孤高や反逆の感情に相通じるものかもしれない。ランツァが歌っていたのはジャズでもロックでもクラシックでもない、ある意味とても無難で、優等生的で、今の時代からすれば退屈に思えるジャンルの楽曲だったりするのに。彼の歌声からは、今聴いてもドキドキするほど生々しい情感が伝わってくる。気品あふれる唱法でありながらも、カリスマならではの危険な色気が漂っている。やがて誕生するロックンロールによってもたらされることになる躍動感や昂揚とまったく同じ質感の何かが、そこにはある。それもまた、ランツァが時代の寵児となったゆえんだろう。

(略)

 あのエルヴィス・プレスリーも、ランツァのそんな魅力に惹かれたひとりだった。(略)

70年代になってからもエルヴィスはことあるごとに、54年のミュージカル映画『皇太子の初恋』(略)のサウンドトラック・アルバムを聴いていたという。もっとも影響を受けた歌手としてランツァの名前を挙げることも多かった。(略)

[エルヴィスが除隊後活動拠点を映画界に移したのには]

“ロックンロール版ランツァ”のようなイメージもあったのだろう。

Be My Love

Be My Love

  • Mario Lanza
  • ヴォーカル
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes

  

ネヴァー・ティル・ナウ

ネヴァー・ティル・ナウ

 

 山下達郎とイタリアン・テノール

[日本ではあまり有名ではないランツァだが]

なかには彼の名曲を愛してやまないアーティストもいるのだ。ディオン、フランキー・ヴァリ&ザ・フォーシーズンズ、ラスカルズ、ジョニー・マエストロといったイタリア移民系アメリカ人によるポップ・ミュージックをこよなく愛する山下達郎だ。彼は93年に発表したホリデイ・アルバム『シーズンズ・グリーティングス』のなかでランツァの「ビー・マイ・ラヴ」をカヴァー。

(略)

 思えば、私にオペラへの道を開いてくれたのも、おそらく山下達郎の 「ビー・マイ・ラヴ」だった気がする。

(略)

彼の艶っぽいロックンロール流ベルカントは、普通のポップス好きがちょっと背伸びをしてイタリアン・テノールを聴いてみたいと思う好奇心の背中を押してくれた。 

Season's Greetings

Season's Greetings

 

 オペラ

 オペラだけは敷居が高いとずっと敬遠していた理由は、知識と時間と金銭問題。

(略)

[多少齧ってはいたが]

オペラが「面白い!」と思えるまでには至らないまま10年くらいが経ってしまった。 いっときは、正直、オペラはもう無理かなと思った。30代の頃だ。(略)

が、40代になって間もない頃、ふと、自分はこのままオペラを知らないまま一生を終えるのだろうかと考えた。もったいない。(略)

とりあえず、好きな演目や歌い手がわかる程度になるまで聴き続けてみようと決めた。

(略)

オペラ通の知人にいわせれば、オペラはー生かかっても登りきれない高い山のような趣味だから楽しいのだとか。そういう意味では私なんかー生かかって登山靴の紐を結ぶところで終わってしまうかもしれない。それでもオペラには、これまで体験してきた音楽や演劇や映画や文学では味わうことのできなかった新しい感動がある。

(略)
ドーナツ盤に刻まれた1曲の名曲は、たった3分間で長編映画にも匹敵するような夢を見せてくれるのだ。オペラは、その正反対のパラダイスなのかもしれない。もしかしたら3分もあれば説明できてしまうかもしれない想いを、じっくり3時間、4時間かけて丁寧に濾過してゆくような、そんな心地よさがある。 

Mountain of Love

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 ノエル・ギルバート

 ポップ・ミュージックのなかのストリングスについて考える時、テネシー州メンフィスの音楽業界の歴史を振り返ってみると面白い。(略)

注目すべきはメンフィス。正確には[その礎を築いたヴァイオリニスト、ノエル・ギルバート](略)

 スタジオ・セッション仕事として関わった最初の全米ヒットは(略)「マウンテン・オブ・ラヴ」[ポップ・カントリー曲がストリングスによって印象がガラッと変化]

(略) 

サン・レコード関連のスタジオに頻繁に出入り(略)スタックス・スタジオ、アメリカン・サウンド、ロイヤル・スタジオ、アラバマ州マッスルショールズのフェイム・スタジオ……など、まさに60年代から70年代の米国南部サウンドを確立したレコーディング・セッションの数々にノエル・ギルバートや、彼が教え子あるいは同僚として育てた面々が携わっている。
[参加した主な曲は、ザ・ボックス・トップス「あの娘のレター」、エルヴィス・プレスリー「イン・ザ・ゲットー」「サスピシャス・マインド」、アイザック・ヘイズ「黒いジャガーのテーマ(シャフト)」etc]

[教え子のマイク・リーチ]の表現によれば60年代のメンフィスのストリングス・セクションは“ややぬかるんだサウンド”なのだとか。(略)

ダン・ペンは、そんなメンフィス・ストリングスが大好きだったという。ベンいわく″バーベキュー・サウンド″。(略)

ニューヨークやロサンゼルスのそれとはひと味違う、おっとりとした優しい南部訛りと、古きよき田舎の紳士の上品な物腰を思わせるメンフイス産ストリングス。その心地よさは、″巧い″とか″洗練″とは異なる独特の味わいだ。

 ノエル・ギルバートと興味深いつながりを持つロック・ミュージシャンとしては、先述した「あの娘のレター」を歌ったザ・ボックス・トップスの中心メンバー、アレックス・チルトンがいる。アレックス・チルトンの父親シドはもともとジャズマンで、ノエルとも古くからの友人だったらしい。そんなこともあって、アレックス・チルトンにとってノエルはもっとも信頼を寄せるミュージシャンでありメンターのひとりだった。

(略)
[ビッグ・スターのサード収録の「ストローク・イット・ノエル」]

デモ段階では「ラブリー・デイ」なるタイトルだった曲だが、バンドの演奏のバックでノエルが気品あふれる、しかし力強いストリングス演奏を披露した時「ストローク・イット・ノエル」と改題され、歌詞も書き直された。

(略)

 この曲をはじめ、ビッグ・スターのストリングス・アレンジを手がけていたカール・マーシュもまたノエル・ギルバートの教えを受けた後進のひとり。

(略)

 60年代、楽譜などまったく読めないR&Bシンガーが、譜面がなければ何もできないクラシック畑のオーケストラ団員に自分の欲しい音を伝えたい時、通訳の役目を果たしてくれる存在が必要不可欠だった。(略)

[今なら]「フィル・スペクターロネッツでやったようなオーケストレーションを」とか「『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』風の弦が欲しいんだ」というざっくりした表現だけでも真意は十分に伝わるだろう。けれど、60年代にはまだまだポップ・ミュージックとクラシックの演奏家の間には高い壁があった。

(略)

[ノエルは]クラシック畑の演奏者たちにわかりやすく“通訳”することができた。だから(略)スタジオに集められたクラシック系奏者たちは何の心配もなく演奏に専念できたという。
(略)

[カーラ・トーマス「ジー・ウィズ」、スタックス・スタジオでの録音。アレンジャーのボブ・タリーがすっぽかしたあげく、譜面も未完成。慌てふためいたジム・スチュワートは自分の先生でもあった]ノエルにストリングス・アレンジを頼んだ。(略)

 「こんな風に弾いてください、先生。最初は白玉で、サビには変化をつけて、また戻ってきたら、こう、何かやってくれれば……」(略)

[一気にアレンジをまとめヴァイオリニストの息子と娘に指示]

ミュージシャンたちは、焦るスチュワートの心を読み取ったかのように、見事たった1テイクでこの素晴らしい演奏をやってのけた。ヴォーカルをとったカーラ・トーマスも含めて、すべて生で一発録り。  

Stroke It Noel

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Gee Whiz, Look At His Eyes

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グローバリゼーション・パラドクス・その3 トービン税

前回の続き。

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

 

WTO体制

世界貿易機関WTO)は、ブレトンウッズ体制が優先してきたことと逆行する新しい種類のグローバリゼーション、すなわちハイパーグローバリゼーションの追求に目を向けた。

(略)

一九八〇年代は、レーガンサッチャー革命の十年だった。自由市場経済学は支配的地位を占め(略)

[政府は]市場が機能することを邪魔するものであり、その規模は縮小されなければならないと考えられた。

(略)

過去の貿易交渉から逃れてきた二つの分野である農業といくつかのサービス業は、いまや自由化の群れにしっかりと投げ入れられてしまった。

 金融のグローバリゼーションという愚行

IMFの暫定委員会は「ブレトンウッズ協定に新たな章を加える時が来た」と宣言した。(略)

「資本移動の自由化は、このグローバリゼーションの時代における効率的な国際通貨体制のために重要な要素である」と委員会は宣言した。

(略)

 巨額の財政赤字と経常収支赤字を抱えた上にインフレ財政に携わるような、ひどく誤った経済運営を行っている政府なら、金融市場から信用を失っても不満を言う資格はない。(略)

しかし、アジア通貨危機はこのような類のものではなかった。(略)

これらの国々の「健全なファンダメンタルズ」や「持続的な成長」の見通しを、IMF通貨危機の起こるほんの数カ月前まで褒めちぎっていたのだ。
 通貨危機が発生した当時、観察者の多くは、政府と財閥の癒着関係――簡単に言うと、アジア型の政治的縁故主義――が過剰な貸し出しと非効率な投資をもたらしたと論じた。しかし、このような説明にはいくつかの問題があった。癒着がはびこっているのに、これらの国々は、なぜあのような奇跡的な経済成長率を実現できたのだろうか?(略)外国の貸し手は、なぜこれらの過ちに全く気づかなかったのだろうか?ひとたび金融状態が安定した一九九八年以降、韓国とタイ、マレーシアの経済が素早く回復したことは、根本的にこれらの国々の経済に間違ったところはほとんどなかったことを示している。(略)

通貨危機が示したことは、アジア諸国の政府自体に何かとてつもない過ちがあったということではなく、金融市場に特有の問題があったということなのだ。

(略)

[それでも]IMFと米国財務省は、二〇〇八年にサブプライム危機に見舞われるまで、資本取引自由化の擁護者であり続けた。

トービン税

変動相場制はわれわれに重大な教訓を教えてくれた。いったん資本移動が自由化されれば、為替レートが固定されていようが変動しようがほとんど違いはなかったのだ。一九七八年に(略)ジェイムズ・トービンは、中核となる問題をすでに的確に指摘していた。(略)

根本的な問題は、民間金融資本の「過剰」な移動なのだ。「国民経済と中央政府は、実体経済が苦難に遭遇したり、雇用や産出量、インフレに関する国民経済政策の目標を大きく犠牲にしたりすることなく、外国為替を通じた資金の大量移動に適応することはできない」。彼の議論は、本質的にケインズのそれと同じだが、いまや変動相場制の世界にも適用することができる。彼が記すように、資本移動は、各国が他国と違う財政金融政策を実行することを妨げ、それゆえに国内の経済状況に適した政策の実行にとって害となっている。

(略)

 世界経済は次の二つのうちどちらかの道を辿るだろうと、トービンは指摘していた。われわれは、単一の世界通貨を採用し、国内において正しいとされることを、世界全体においても適用させることができる。このことによって、国家ごとの通貨の違いが生み出す困難や歪みをすべて消し去ることができる。もちろん、これは、すべての国が単一の金融政策に従事するという犠牲の下で実現するものだ。このシナリオが政治的に不可能だと判断すれば、われわれはもう一つの答えへと進行ことになるだろう。トービンがきっぱりと論じるように、必要なのは「過剰なまでに効率的な国際金融市場の歯車に砂を投げつけること」だ。特に彼が推奨するのは国家間の資本取引に対する課税であり、これは後に「トービン税」と呼ばれるようになった。
 しかし、トービンは明らかに少数派であり、彼の主張はブレトンウッズ後の時代精神に反するものとして無視された。

 金融の森のハリネズミと狐

 アイザイア・バーリン卿は(略)古代の格言に立ち戻って、二種類の思想家を区別した。「狐は沢山のことを知っているが、ハリネズミは大事なことを一つだけ知っている」。

(略)

[ハリネズミは一つの思想で世界を観察するので]世の中の複雑さや例外的な出来事を見落としたり、それらの事物を自分の持つ世界観に適合するように取り繕ったりする。(略)

[一方の狐は]壮大な理論には懐疑的である。

(略)

ハリネズミ経済学者は[税は非効率で、制限は経済規模を縮小させると主張する](略)

政府による介入と比較して、市場による解決の方が害悪はより少ないと論じる(略)

[官僚は]自身が規制する部門の利害に関心を持ち、とかく腐敗に陥りがちである。

(略)

[アルゼンチンは]九〇年代初頭、金融や貿易、財政政策、統治体制の幅広い改革とともに資本移動を熱心に受け入れた。(略)金融規制と監督に関するルールは(略)IMF加盟国中で最も輝いて(略)

IMF専務理事ミシェル・カムドシュ[が称賛した](略)三年後、アルゼンチンは、一九九九年のブラジルの平価切下げに誘発された突然の資本流入の停止という大惨事に遭遇した。

(略)

「問題は道具じゃない。誰がその道具を使うかなんだ。デリバティブは銃のようなものさ」。このたとえは意義深い。要するに、ハリネズミによる金融自由化の主張は、銃に対する規制緩和の主張のようなものなのだ。そのスローガンは次のようなものである。「人を殺すのは銃ではない。人を殺すのは人なのだ」。

(略)

トービンは狐のような改善策を提示せざるをえないと考えた。それが国際資本市場を分割するための課税である。このような国際金融取引に対する課税は、たとえ非常に低率なものだったとしても、トレーダーが極めて短期の利益を追求するために通貨や他の金融資産を過剰に売り買いするのを防ぐだろう。
 もちろん、ケインズも賛成しただろう。彼もまた、過剰投機の根本的な原因を指摘することを望んだに違いない。ケインズは、その原因として、規制の弱さや政治的分断に加えて、人間の持つ欠点や群衆心理があると考えていた。しかもケインズは、現実世界において実現できることの実践的な限界に鋭い感覚を持つ狐だった。そのため、安定的な国際金融システムに必須なものとして、彼は資本規制を心に描いていたのだ。
 今日の経済学者の中で最も有能な狐は、ジョー・スティグリッツかもしれない。(略)

彼は、資本移動の自由化に遠慮のない反対意見を表明しており、IMFに対する熱心な批判者であり続けている。

 資本市場に対する懐疑派の中で、最も奇妙な人物は(略)ジャグディッシュ・バグワティである。(略)

短期的投機、パニックに陥る傾向、そして資本の逆流がもたらす大きな犠牲を伴う調整(略)を考慮すると、各国に資本移動に対する規制を無理やり撤廃させる適当な理由はないと、彼は論じた。

 バグワティの立場が奇妙なのは(略)

貿易についてはハリネズミであるが、金融のことになると狐になっている[こと]

トルコ、ギリシャ 

一九八〇年代に資本移動に対する規制を撤廃した後、トルコ政府は、マクロ経済の運営が稚拙であるにもかかわらず、安価な資金を着実に得ることができると気づいた。トルコでは、公的債務は急増し、インフレ率は高いままだったが、それにもかかわらず、国内の商業銀行は、利鞘による利益を得るために、外国から資金を借り入れて国債を購入しようとした。しかし、結果として、資本流入の「急停止」によって突然罰せられることになり、経済はこの数十年のうちで最悪の落ち込みを見せた。金融のグローバリゼーションがなければ、トルコは二〇〇一年よりもかなり早い段階で財政再建を強いられることになり、そのコストはかなり少なく済んだかもしれない。

 また、欧州連合の放蕩息子で問題児であるギリシャについて考えてみよう。この国は、予算に関する統計を操作することによって、ブリュッセルが定めた財政赤字の上限を数年間にわたって無視した。このような統計のごまかしを実行する際に、ギリシャ政府には巧みな共犯者がいた。数億ドルの報酬で、ゴールドマン・サックスのようなウォール街の企業は、ギリシャの財政悪化の規模を隠すのを手助けする金融派生商品を設計した。二〇一〇年初順に財政破綻の規模が完全に明らかになった時、ギリシャだけでなくユーロ圈全体が危機に陥った。

(略)

 対外金融とは、いい時だけの友達のようなものだ。全く必要でない時にはそこにいるが、何か助けて欲しい時にはそこにいない。

 規制が撤廃された新システムの脆さ

大恐慌以前、アメリカは十五年か二十年ほどの期間ごとに大きな銀行危機に見舞われていた。しかし、その後一九八〇年代に貯蓄貸付組合危機が発生するまでの五十年間、それに比する危機は全く起こらなかったのだ。

(略)

[政府とウォール街の]取引は単純なものだった。すなわち、経営の自由と引き換えに規制を課したのだ。政府は、公的な預金保険と最後の貸し手としての機能を供給する代わりに、商業銀行をいくつかの厳しい健全化規制に従わせた。そして、株式市場には、それが発展する前から広範囲に及ぶ情報開示基準と透明性の規定が重くのしかかっていた。

 一九八〇年代の金融自由化は、その約束をひっくり返し、われわれを新しい未知の領域へと導いていった。

(略)
規制が撤廃された新システムの脆さは、大いに強められた。(略)

ある国で起こった金融危機が他国の銀行のバランス・シートを汚染してしまうという、国境をまたがった強力な伝染病を生み出してしまった。一九八〇年代後半より以前は、アメリカは資金に関して事実上の自給自足状態だった。

(略)

 自由な資本移動によって、ヨーロッパやその他の地域の投資家が、アメリカから輸出された有害なモーゲージ資産の山の上に腰掛けることになった。アイスランドは、国全体がヘッジファンドのようになってしまい、わずかな利鞘の違いから利益を上げるべく、国際金融市場で徹底した投機活動を行った。金融に対する規制強化の要求は、銀行がより規制の緩い国へと移転するだけだという指摘によってはねつけられた。

「ワシントン・コンセンサス」

これは一九八九年に経済学者ジョン・ウィリアムソンによってつくられた新語で、最初は当時の南米諸国が乗り出した改革に共通する要素のいくつかについて言及したものだった。(略)

規制緩和、貿易と金融の自由化、民営化、通貨の過大評価の回避、そして財政規律を大きく強調した十個の異なる改革が含まれていた。時が経つにつれて、「ワシントン・コンセンサス」は、超自由主義者による呪文のようなより狂信的な手法へと変形された。ウィリアムソンは金融グローバリゼーションに対して懐疑的であったにもかかわらず、遺憾なことに、資本市場の自由化は、すぐに同じパッケージの中に混ぜ合わされた。

(略)

一九九〇年代に途上国を旅行した時、政策立案者、特に南米の人たちが、経済救済の唯一の道としてこの政策課題をイデオロギー的な熱狂を持って受け入れる姿に、私は衝撃を受けた。東アジアにおいて、価格インセンティブと世界市場の力に対して実践的に重視されたに過ぎないものが、お粗末な宗教に一変されたのだ。

(略)

彼らが論じるには、貧困国が貧しいままなのは、政府による貿易制限によって生み出された非効率性に溢れた小さな国内市場を持っているからである。この考えによると、これらの国々が国際貿易と国際投資に開放されると、貿易がもたらす上げ潮によって貧困から抜け出すことになるだろう。

(略)

 このような運動の典型は[ジェフリー・サックスとアンドリュー・ワーナーの論文で、国際貿易に対して開放的な国は閉鎖的な国より成長率が高いという分析だった]

(略)

[サックス=ワーナーや世界銀行が実施した研究は、グローバリゼーションの推進を煽り立てた]

(略)

ワシントン・コンセンサスを受け入れて輸入代替工業化を放棄した南米諸国は、そのほとんどがかなり低い成長を遂げる羽目になった。

(略)

[ジェフリー・サックスは自説を]捨て去った。アフリカでより多くの時問を過ごすにつれて、彼は、低水準の教育や粗末な衛生基準、みじめなほど低い農業の生産性、工業インフラに対する不十分な投資など、経済発展に対する国内の制約にますます注目するようになった。

(略)

新しい筋書きによると、ワシントン・コンセンサスの失敗が示したのは、意図した結果を確実に生み出すためにはより根本的な制度改革が必要だということである。実際に着手されていた改革はちぐはぐで不完全だったと、二〇〇五年のIMFの報告書は不満を述べていた。

(略)

 途上国はもっと徹底しなければならないと考えられた。輸入関税の引き下げや貿易障壁の撤廃だけでは不十分で、開放的な貿易政策は、広範囲に及ぶ行政機関の改革、労働市場の「柔軟性」や国際貿易協定によって補強されなければならなかった。

(略)

これらの新しい改革は「第二世代の改革」と呼ばれた。

(略)

このような果てしない政策課題は、途上国の政策立案者にとってほとんど助けにならなかった。

南アフリカの苦境

 [94年]白人による支配が終わった後、この国は、辛辣な罪の擦りつけ合い、終わりなき再配分、そして経済を台無しにして国を見せかけの民主主義へと転換させるポピュリズムに転落することを何とか避けてきた。

(略)

[経済政策も]慎重で用心深いものだった。経済は貿易と資本移動に対して開放されていた。(略)
 もし世界が公正だったら、これほどの政治的自制と経済の清廉は、南アフリカ経済に完全雇用と好況をもたらしただろう。しかし、不幸なことに、一九九四年以降のこの国の成長率は、毎年一人当たり二%以下とみじめなものだった。

(略)

南アフリカは、ゲームのルールが全く異なる世界で、この困難に直面しなければならなかった。低コスト輸出国としての中国の興隆は、製造業における競争をより困難なものとした。南アフリカの輸入関税は引き下げられており、国際協定は輸入関税を大幅に引き上げることを困難もしくは不可能なものとしていた。

(略)

 結局、私と同僚はいくつかの折衷的な政策の組み合わせを推奨した。われわれは、中央銀行金利を低下させランドを切り下げる余地をつくるために、より緊縮的な財政政策を提唱した。次に、若い新卒者を雇う雇用者のコストを低下させる一時的な雇用補助金を提案した。そして、より効率的、より市場友好的で、かつWTOで訴えられる可能性が低いと考えられる新しい産業政策の手法を推奨した。

(略)

アレクサンダー・ハミルトンは、政府の支援なく近代産業が自ら発展するだろうと信じる者は間違っていると、一七九一年にすでに論じていた。

(略)

 貿易原理主義者は、ハミルトンやそれ以降の数限りない他の経済学者たちによる知見を見落としていた。重要なのは政府が介入すべきかどうかではなく、どのように介入するのかだった。

次回に続く。