浅川マキの世界 その2

前回の続き。

神がブギ・マンだとしたら 長谷川博一

[相倉久人『都市のブルース』新訳はこれ→

アーバン・ブルース チャールズ・カイル - 本と奇妙な煙]

 

(略)

――(略)"浅川マキは特定の時代の愛玩物ではなくて、実にモダンなシンガーである"というのが僕の仮説なんです。(略)

ブルースについても日本ではずいぶん大きな勘違いをされてると思うんですよ。(略)自分の苦しみを舐めてもらうためのものだとか(略)

ブルースの湿り気だけを愛好するというのも片手落ちだなあと思ってしまうんですけどね。

浅川 ええ。ただ私がブルースについて語るには、言葉にできないし僭越という思いもあります。相倉久人さんの『都市のブルース』。あの本は今読んでも改めて想いを深くしますしね。確かな歴史の中で黒人の辛い環境というのはずっと続いていて、今もまた状況としてはますます複雑なものになっていますよね。でも少なくとも六〇年代までを語るならば、辛いがゆえに辛いとうたうのはブルースではなかった。逆にちょっと短絡化した言い方をすると、辛いがゆえに明るく表現するのがブルースのように私は感じましたね。

(略)

マヘリア・ジャクソンの黒人霊歌やゴスペルを聞いてもらうとわかりますが、"神様はいるよ。辛くても、いつかはきっと自由になれるさ!"とうたうと、聞き手が彼女の歌の深さゆえに(略)

訳もなく心を打たれた。そんな希有な歌手でしたね。

(略)

マヘリア・ジャクソンは悲しみ悲しみとしてうたうことは一〇〇%なかったと思います。ですから"悲しいのよ、私"と訴えるのがブルースだと誤解している日本人が多いとしたら残念ですよね。確かに、いかにも悲しそうにうたえば伝わりやすくて売れます。でも私は、それはちょっと違うんじゃないかと感じます。

(略)

――(略)ただ、初期の頃の曲というのはどうでしょう。デビュー・アルバムの《浅川マキの世界》を聞くと、どこか日本ふうに演出されたブルースの世界がやっぱりあって(略)"辛いことを辛いとうたわない"という世界は少し薄められている気もしますが。

浅川 いえ。でも〈夜が明けたら〉をもう一度聞いてみていただきたいんですけど、あの曲は確かにマイナーですよね。だけど私は絶対に暗くうたっていませんよ。むしろ特別な感情を入れずにうたっています。確かに"切符を一枚用意してちょうだい"という詞の一節があります。でも言葉とは裏腹に、ちっとも期待していない歌い方、闇に向かって、誰もいないところへと放り投げるわけです。

(略)

それからブルースについてもう一ついうと、一二小節の形式がブルースの基本だと考えてる人も多いでしょうけれど、本当はそうじゃないみたいですね。これは今、私と一緒にライヴでドラムを叩いてるセシル・モンローという黒人のドラマーから聞いた話なんですけれど。彼は「ブルース・コードの流れの中で、その場で即興で言葉を乗せていくのが本当の黒人のブルースだ」といってました。

(略)

だからキッチリー二小節にしてポピュラーになっていったのは、黒人たちがそんな形式を作ってその中でより自由に楽しんで、それはまた快感だったということなのかもしれない。

(略)

南部の黒人たちに昔から伝わっている歌を記録として録ったレコードを聞くと、たった一曲、女のアカペラで入っている物売りの声なんかは、もう"歌"に聞こえますね。それは物哀しさが自然に響く……遠いところでね。

(略)
ですから今ブルースをうたうのなら、うたう人の日常、そして歌い手が感じている世の中……非日常の域までとは欲張らなくても、そんなことを一二小節の快感のコード進行の中でもっと自由に歌手が自分の言葉で乗せていくのもいいし、いいたいことを歌にするといい。"このコーヒー、ちょっと苦いけど、その苦味が非常に……"といって、でもそれ以上は何もいわなくてもいい。あとはお客さんの感性とイマジネーションにまかせれば、想いは個々に広がって(略)

そんなふうにして続けていきたいですね。でも日本のブルースだと、"それでどうしたんだ"というところまでいい切らないと話が収まらないと思われてるフシがありますよね。これは今、日本でカラオケでうたわれている作品についてもひどく傾向化している。いえ、ますますそうなっていく気がして怖いなあ。本当は日本人がブルースだといってうたうなら、自分の中で一度咀嚼して出したものをブルースと呼んでほしいんですよね。だから私がもしも客席にいるとしたら、聞き手の想いを自由に広げてくれるような、逆に客としての私の日常や非日常、極端にいえば私自身のレベルまでもがあぶり出されるのだろう、というようなものをね。もし、そういうふうにやってくれる歌手に出会ったら、私はドキドキしてライヴに出かけたい。この数年、ずっとその想いが重なっていますね。ええ。ブルース本来の自由自在な感覚を、もっと日本語の歌でも味わいたいですよね。

(略)
パティ・ラベルの場合は、下からだんだんに声を持ち上げないと黒人霊歌やゴスペルをうたってるという実感が持てないのか、あまり私は......。

(略)

ああしないと声が出ないのかも。マヘリア・ジャクソンは、クラシックの名歌手としても歴代の一〇本の指に入る人でしょうしね。いい声が、音程を探ることなくパッとすぐ出ます。

(略)

――(略)たいがいの歌手はミキサー卓のメーターが大きく振れないとボーカルが聞こえてこないのに、マキさんの場合はメーターがそんなに振れなくても声が聞こえてくる。

(略)

浅川 (略)吉野金次さんが二〇年もTD(トラックダウン)をしてきて、「やはり浅川マキの声と音程には謎が多くて、そこが面白い」と。あと、近藤等則さんからは「アタマから声を探らずにドンと出る人なんてほとんどいない。だからマキさんとつき合ってるんだ」といわれたことがありますね。

(略)

[歌い方を]勉強したことは一度もないです。すべて自己流ですね。とはいえ(略)

[小林亜星作曲〈東京挽歌〉]の時に「なんだ、ミミズが這いずってるような歌い方じゃないか」といわれて、演歌の先生につけられて、森進一さんみたいな歌い方を習わされたんですね。(略)無理してうたって五日間で声が枯れた憶えがあります。
(略)

クラシックの唱法も一度だけ習ったことがあります。(略)一緒に暮らしていたクラシックの学校を出ている男に勧められて、ベル・カント唱法だったか何かを習いに行ったんです。教室には芸大の生徒さんがいっぱいいましたね。

(略)

――(略)日本語で歌をうたう時は、マキさんはどこに気を配りますか。

浅川 私は、日本語がゆっくりと聞こえてくるのが好きです。それはアップテンポでも同じ。(略)ただそうすると日本語は、音楽的にはシンコペーションに乗せ辛い。しかし、やはりこの時代も含めてリズムの心地よさを考えた時、日本語をシンコペーションでうたいます。この際、いっちゃおうかな(笑)。ジャズ演奏者もそうなんですけど、シンコペーションをシンコペーションと観客にわかりやすくプレイすると、俗にいえばお客さんは喜ぶしウケることは確かなんですよね。でもたとえば今、私とご一緒してくださってるピアニストの渋谷毅さんね。同じ仲間たちからは尊敬されてますけど、実は一〇何年も一緒にライヴを共にして、私もそのシンコペーション……まったく、どこがどうなっているのかわからない(笑)。多分、前者の方たちは"シンコペーションが堅い"。そして渋谷さんは"シンコペーションが、より自由自在"なんでしょうね。私見で恐縮ですが。

(略)

――(略)言葉を探す時にマキさんが気をつけていることはなんですか。

(略)

浅川 何もないですよ。(略)

演奏者にフリーでやってもらったものに「今、詞をつけてくるからね」と、スタジオで書いたりしてますから(笑)。(略)

詞をその場で書いてからうたってみると、「あれ?なんでここにただダラダラと書いてあるものがこんなにちゃんとハマっちゃうの?」と録りのミキサーの方に驚かれて。

(略)

東芝の方が苦笑して「またデタラメを書いて......」と怒られちゃうんですね。去年はレコードの作り方について厳しく批判されましてね、それで私は一年間死にました。

(略)

[〈アメリカの夜〉]

――(略)歌詞の中には先ほどおっしゃったように、サングラス、午後の陽射し、ブルーのフィルター。それから"僕を真正面から見て欲しい"というフレーズもあります。(略)

浅川 (略)運命なのかもしれないと思うんですが、私がレコーディングしようとする時に実際に目を悪くしてしまったんですね。左目が網膜剥離になって(略)次から次と目から血が流れてきました。歌にしたサングラスはそれまでは基本的に私はかけないできたんですが、その日から急に必要になりました。
(略)

レコーディングだけじゃなくライヴも控えていましてね。「先生、私はすごく幸せな人生だったし、もう片目ぐらいはいらないから早く出してください」と主治医に話したんですがダメだといわれました。(略)"左目はいらない"という念書も一応書いてスタジオの間隙をぬって治療を続けていたら、幸いにも成功して視力は上がってきましたけどね。

 でも、その時には不思議な体験をしましたね。陽のあたるところで患った方の目を閉じていると、ものすごくキレイな色が見えてくるんです。まさしくサイケデリックで万華鏡、アンディ・ウォーホルもビックリの世界です。あれほどきれいな色や柄の体験というのは、シラフじゃなくても生涯味わえないものかもしれませんね。治療中も先生の前で思わず「わあ、キレイ!」と声を上げましたね。

(略)

――(略)アルバム《アンダーグランド》で今度はファンク色の強いサウンドをバックにうたっていますね。このアルバムではファンクをやろうという、はっきりした意志を持っていたんですか?

浅川 いいえ。(略)

セシルを通してベーシストのボビー・ワトソンと知り合いましてね。何度か私のアルバムに参加してもらってたら、彼は「レコーディングにドラマーを連れて来る」と急にいったんです。(略)そして次の日にギタリストも連れて来たんです。それがちょうどライオネル・リッチーのツアーで来日していた(略)ギターのトニー・メイデンとドラマーのリッキー・ローソンでした。

(略)

――(略)バンドのリーダーはボビーですか?
浅川 ええ、ボビーです。(略)

片言の日本語でこういうんですよ。「ワタシにマ・カ・セ・ナ・サーイ!」って(笑)。ですからあのアルバムの曲のキーなんて、私は未だによく知らないです。ボビーが指示を出して演奏が始まりましたから。

 ただこの時の演奏も「私がうたっていないとできないから、なんでもいいから声を出してほしい」と、彼らはまずそういいました。特にノリと声質が知りたいのでしょうね。それでバンドの音がパアーッと出ると、"ああ、こういう感じか"というのをつかんで即興のメロディをその場でうたっちゃうわけです。それから私はコンソールのところに戻って来て、ディレクター・チェアに座って今度はバアーッと詞を書くわけですよ。
(略)

この日の彼らは、決して高いギャラではないのに生き生きと演奏していましたね。

(略)

一曲につき、一人三万円です。

――ルーファスに三万円!いい話です(笑)。

浅川 私はライヴにしろレコーディングにしろ、必ず終わったその日にギャランティを払うんです。(略)この日はいくらなんでも……ということで、みんなの財布から現金をかき集めて、一人について一万円ずつ多く、ほんの気持ちですがお支払いしました。もちろんボビーの一声で彼らは来てくれたのですから、つまり"お車代"(笑)。私にしてみればラッキーな、ということですよね。

(略)

――(略)じゃあ、これを最後の質問にします。今までのご自分の人生を一曲のブルースとして考えてタイトルをつけてみてくれませんか。

浅川 "ちょっと長い関係のブルース"。

 これは何年か前にレコーディングした曲のタイトルなんですけど、何やら未熟な自分への自覚と、そしてまた、いろんな人たち、出来事。それらを想ってね。吉野金次さんがコンソールから振り向いて、「ちょっと長い関係のブルース」と呟くようにおっしゃって。微妙な温かい笑い顔が美しかった。そんなことを今、ふと想い出しましたね。

――(略)歌い手としての生涯をいつか終える時、マキさんは最後にどんな歌をうたうでしょうかね。

浅川 でも、私の最高の"歌"は、沈黙の中にあるのかもしれません。


『きれいな歌に会いにゆく』(長谷川博一著、一九九三年、大栄出版)

 

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関係者インタビュー 山本幸三郎

(略)

〈蠍座〉でマキが再デビューするということで、改めてまた依頼されてね(略)

寺山さんから詞をまとめて渡されてね。すべてこのステージ用に書かれたオリジナルで、十二曲くらいあったのかな(略)

 寺山さんの詞は言葉が多くて小節に収まらなかったりするんだけど、寺山さんはこちらが言っても一字一句変える人じゃないから、「そこはあんたがなんとかしなくちゃ」と逆に言われちゃってね。

(略)

詞が寺山さんですからね、そのイメージで曲つけていくと、大体あんな感じになりますよ。「かもめ」は何か投げやりな感じで歌うような曲調でとか、「ふしあわせという名の猫」はしんみりした感じだからマイナー・メロディーにしようとか(略)

芝居の音として考えると、自然にメロディーは浮かんできます。

(略)

当時、ぼくが担当していたシャンソンの歌手がいて、それがシャルル・アズナブールが来日したとき「かもめ」を聴かせたらしいんだ。そしたら、「これがいままで聴いた日本の歌で一番いい」って言ったんだって。これはうれしかった。

(略)

二枚目の『Maki Ⅱ』になる頃は、マキは自分詞も曲も作るようになったけど、独特の曲作りで面白かったですよ。

(略)

 そのうち、ぼくや寺山さんの世界とは違う方に行きたいと思ったのかな(略)

自然に縁がなくなってきたけど。

(略)

亀渕友香

(略)
歌手デビューする前の浅川マキのことを知っているのは、もう私ぐらいかもしれませんね。

(略)

 私は最初米軍キャンプでうたっていたんですが(略)六五年頃でしたか(略)[〈銀巴里〉の]二階に〈銀巴里ジャズ〉というのがあったんです。でも、ここもジャズのプロしか出演できないということで、どうしようかなと思っていたら、近くに〈エポック〉という喫茶店というか、ライブハウスのようなところがありまして。そこはオーディションで、どんな歌手でも受け入れてくれるというので、受けたらOKになって、そこにいたのが浅川マキだったんです。もう一人、上条恒彦さんもいて、それで私を入れた三人でグループみたいになりまして、いつも笈田敏夫さん、丸山明宏さん、ラテン歌手の宝とも子さんの前座(略)でうたっていたんです。

(略)

同じステージで歌ったこともありますよ、労音の舞台で。三人とも黒人の音楽が好きでしたから。上条さんが「出発の歌」でヒットした頃に出したファースト・ソロ・アルバムには、その頃のレパートリーが半分くらい入っています。労働歌というか、そうワーク・ソングですね。

 私はマリア・ジャクソンとか、オデッタとかに心酔していましたし、私たち三人は、黒人の歌、ブルースとゴスペルとかが好きでうたってました

(略)

あるときマキがやってきて、「亀ちゃん、R&B好きよね?」「もう大好きよ」「今度、リッキーさんという人がバンドやるんだけど入ったら?きっとアレサ・フランクリン歌えるよ」「じゃあ行くわよ」と、それでリッキーさんのところに入ったんです。だから、〈リッキーと960ポンド〉のきっかけはマキなんです。

(略)

 その頃の私のレパートリーは、「Sometime I Feel Like A Motherless Child」「エーメン」、マキもうたっていた「ゴーダウン・モーゼ」、「ジェリコの戦い」とか、オデッタでは「We Shall Overcome」ですね。

 ニーナ・シモンのこともよく話しましたね。「ジン・ハウス・ブルース」「トラブル・イン・マイ・マインド」はマキもあとでカバーしています。

 みんな言ってますけど、このカバーのセンスも良かったですね。

(略)

そういった古い曲の訳詞もかなりのもので、しゃべり言葉で書くところとか、マキ独自の世界は当時から下地があったんですね。

(略)

ずっとマキとは数少ない歌仲間として、いつも一緒でした。私の父がマキのことを好きで、自宅に遊びにくると、「あの人はなかなか色っぽい人だね」って言ってました。いつもなごやかな感じで、一般的なイメージでは暗い無口な感じかもしれませんが、素顔はよく笑う、人なつっこい人で、気に入ると朝まで話し込むという。

(略)

私が三十歳くらいからジャズを始めまして(略)渋谷毅さんと出会って、この人ならいろいろと学べるなと。マキにも「渋谷さんっていいわよ」って話をしてたんです。「もう最高で、セロニアス・モンクみたいで、歌をよく聴いてくれるし、言葉をとにかく聴いてるし、空間がたくさんあるし、あんないいミュージシャンそんなにいないわよ」って。そしたら、あるとき、ふらっとマキがきて、それから二人で独自の音楽を作る世界に入っていったんだと思います。

(略)

 当時、歌の友達は私ぐらいだったですけど、「隙間のないくらいきちっとしている歌は、たぶん面白くないよね、どうやって言葉の言い方を変えていくか、削っていくかという作業をしていかなくちゃね」って、そういう歌のことはいつも話してました

(略)

誰も信じないかも知れないけど、マキは美空ひばりさんの歌がすごくうまくて、その通りうたえる人なんです。「美空ひばりはこういう風にうたうけど、私はこういう風にうたうのよ。そこが美空ひばりの美空ひばりたる所以なんだけど、そうじゃない風にしないと面白くない」って。マキのルーツは演歌ですよ。

 マキとの話はいつも歌と男の話ばかりで、でも人の悪口は言わない人でした。その代わり批評をするんです、しっかりとね。それで悪口と批評は違うって言ってましたよ(笑)。非常に辛らつなことも言うし。話が止まらなくて、一日中でも話しているような人でした。

(略)

 可愛いくて、明るい、それで少し怖い(笑)。それと足のきれいな人でしたね。(略)

あの衣装になってからは、誰も見たことがないでしょうけど。〈エポック〉の頃はミニスカートで歌ってましたからね。

(略)

電話で話していても話し足りなくて、お互いに「これから行くから」ってことになるんです。それで、マキのところに行ったときは、帰りに必ずタクシー代を手渡すんですよ。そんな仲じゃないから「いらないわよ」っていくら言っても、絶対に受け取らせるという人でした。古風というか、義理堅いところがあって。

(略)

 研ナオコさんとか、日吉ミミさんとか、山崎ハコさんとかいろんな方が、彼女の歌に惹かれて、ああいうムードで、ちょっと引いた歌い方で歌ってますが、日本では珍しい存在の歌手でしたから、当時の女性シンガーに与えた影響は大きいと思いますね。

(略)

マキのああいう世界はただ好きなだけでは表現できないですから。(略)

いつも私たち言ってました、「生活だよね。生活していて、その生活から〈歌〉ってのはできるから、何かを削るしかないよね」って。

(略)

 最後のレコードが九八年ですか。その頃「もうレコード出せなくなっちゃった」って言ってましたよ。CD時代の音がどうもしっくりこなかったというか、合わなかったみたいですね。音にこだわる人だから

(略)

私もボイストレーナーとして、いろいろな人と出会ってきましたが、歌がうまいとかというのでなく、その歌手の持っている世界観ということでいえばマキとナミ(南正人)ですね。いまだにその世界観が好きです。マキの声は深みがあってね。またあのあごがいいんですよ、深い声が出るから。わざと浅くしてみたり、低い声も巧みでね。

 いま、ナミのところでギターを弾いているのが昔マキとやっていた荻原信義ですけど、私のところでも弾いてもらっています。(略)

喜多条忠

[68年頃丸山明宏を観たい彼女と〈銀巴里〉へ、前座のマキに魅入られ]

一人で〈銀巴里〉に聴きに行くようになったんです。当時から「奇妙な果実」はうたってましたね。

(略)

うたっている最中にノートを広げて、詩とか、何か書き物をしたりしていたんです。(略)ある日、マキが客席の近くまできて「何書いているの?」って聞くんです。「マキさんの歌を聴いていると、いろいろと言葉が浮かんでくるんです」って言って書いたものを見せると、あの口調で「やるわね、学生さん」って言われまして(笑)。

 それから、プロデューサーの寺本さんを紹介されて、寺本さんが当時、毎月一回開いていた詩とか音楽の勉強会のような集まりに参加するようになったんです。当時そこにいたのは、田村仁、南正人、松山猛、早川義夫と曲を書いていた相沢靖子、りりィはまだいなかったですね、作曲家の中村泰二さんもいたかな。まだ南こうせつたちと知り合う前です。

(略)

[マキは]〈銀巴里〉では伴奏はピアノだけで、ほとんどアカペラ風にうたっていましたね。

(略)

七二年頃でしたか、日劇ミュージックホールに出ていて(略)ストリップの幕間(略)

マキのファンだった演出家の丸尾長顕さんがうたう場をはめ込んだんですね。(略)
ストリップの客以外はぼくだけだったと思います。観客はそういうのを観にきているんじゃないけど、一応ちゃんと聴いていましたね。

 マキの歌は、初期はマヘリア・ジャクソン、ビリー・ホリデイの曲をうたっていたこともあって、その影響は受けていますが、ベーシックなフィーリングはやはり演歌だったと思います。美空ひばりも大好きで、プライベートな時間によくうたってました。

(略)

共演するミュージシャンがいつも豪華メンバーで、ギャラを支払うと自分の分はほとんど残らないということをいつも繰り返していたんです。

(略)

営業的な意味では回りのスタッフは大変で、すごく苦労されたと思いますよ。頑固ですが、良く言えば一種の完全主義者ですから、自分が嫌だと思ったことは絶対にやらない、ちょっと常識では考えられないくらい意思の強い人で、写真一枚撮るときでも、田村氏(田村仁)以外には撮らせません。その代わり、主旨に納得すればどんな遠くの大学祭でも、どんな少人数のところでも行く。ギャラが少なくてもかまわないという。

(略)

こういう話をすると、ちょっと一緒に仕事をするのは大変だと思いがちですが(略)意外と若いスタッフには仕事を教えて、長い目で見守っているという面もあったんです。

(略)

 マキほど自分の力で自分の伝説を守り切った人はいませんね。稀有な存在だと思います実際に共演したミュージシャンたちも勉強させられたって言ってますね。歌手としてのアイデンティティーを絶対曲げなかったし、そのために努力、感覚、エネルギーを注いだ女、それが浅川マキです。

(略)

 誰もが指摘するように、マキの訳詩はたいしたもので、言葉の使い方に関して、ほかの人がマネできないものを持っていました。シャンソンの訳詩の第一人者はなかにし礼さんですが、ブルース、ゴスペルの訳詩の第一人者は間違いなくマキです。訳詩というのはただ訳すだけではなくて、自分の中に取り入れて、こなれた日本人的な言葉にしなければならない。しかも自分で歌うわけですから、パーフェクトな訳詩です。「朝日楼」(「朝日のあたる家」)とかそうですね。カバーの選曲も絶妙で、当時、そういう話題でマキと話していると楽しかったですね。

(略)

とにかく読み取りの才能は凄かったですね。「夜が明けたら」の歌詞の感覚の一部は、ラングストン・ヒューズの詩に近いとぼくが言うと、すぐその詩集を買ってきて読んでました。

(略)

九條今日子

(テラヤマ・ワールド代表取締役)

 寺山が最初にマキに会ったのは、寺本さんから「ちょっと面白い歌手がいるから観にきてくれないか」って言われて〈銀巴里〉に行ったときです。

(略)

「夜が明けたら」を聴いたとたん、寺山は電流が走っちゃったみたいで、それでのめり込み始めたんです。

 マキも寺山も性格がすごくよく似てるんです。言葉を大事にする歌手って、あの頃そんなにいなかったでしょ。寺山は(略)すごい音痴なんですけど聴くのが好きで、耳がいいんです。詩人ですから(略)詩から入るんですよね。

(略)

 寺山にとって、カルメン・マキと浅川マキでは全然違った素質だったと思うんです。自分で作詞作曲する歌手なんて、その頃あまりいませんでしたでしょ。だから、迂闊に詞を書けないなという気もしてたと思うんです。

 寺山はマキのことを「彼女詩人だね」って、会った直後に言ったんです。相手が詩人だから、マキに書く詞は気合いが入って、詞では負けないと思ってたでしょう。

 詞の言葉も二人でやり合うわけですよ。寺山はそんなにうるさい人じゃないんです。(略)

マキがうたいにくい部分があったんでしょう、「寺山さん、この詩は良くない。私だったらこう書く」というような丁々発止がしょっちゅうあってね、「でも俺の方が正しいんだ。このまま歌え」って。マキは次のコンサートから自分で変えちゃったりしてね。そのくらい頑固なのよ。

(略)

映画の撮影のときも「こんな場所でなんかうたうのは嫌だ」とか、楯突けるのはマキぐらいしかいなかったんです。ほかはみんなイエスマンですから。そういうことも面白がる人なんですよ、寺山は。マキには一目置いていたと思いますね。

(略)

 「ふしあわせという名の猫」って曲がありますけど、寺山はほんとにその名前の猫を飼ってたんです。「ふしあわせ」って名前つけて、怒ったのよ私(笑)。

(略)

 マキに最後に会ったのは九年前(二〇〇一年)でした。三沢の寺山修司記念館にマキを呼んだんですね。(略)
寺本ちゃんに電話したら「たいへんだぞ、マキを呼ぶのは。行くかどうかもわかんない。機嫌が良ければ行くだろうけど」って言うわけね。ダメかなって思って電話したら「行く行く」って、機嫌良く来てくれて。(略)

田舎の記念館だから予算がなくて「マキね、ほんとはバックのミュージシャンを連れてきてくれればいいんだけども、そういう予算ないの。無理かも知れないけど、真昼の野外劇場でアカペラでうたってくれない?」って言ったんですよ。「あ、いいよ」って。寺本さんも自費で来て下さって。それで、真夏(八月五日)の、みんな汗かきながら見てる野外劇場で、アカペラでうたってくれたんです。これがまた良くてね。「夜が明けたら」とか「かもめ」とか。真っ黒の洋服で、いつものあのスタイルでうたうでしょ。みんなシーンとして感動してました。

 彼女のすごさっていうのは、寺山もそうだったけど、言葉をたくさん持ってるのね。歌と歌の合間に寺山との思い出とか、そういうのをほんとしんみり話すんですよ。そしてまた歌に行くみたいな。

(略)

つのだひろ

 マキさんと最初にあったのは(略)当時、加藤登紀子さんのバックをやってまして、加藤さんの、まだシャンソンの時代です。そこにマキさんが楽屋に来たんです。マキさんの最初のLPが出た頃

(略)

二枚目のLPに参加したのも、プロデューサーからではなくマキさんから直接です。

(略)

ストローベリー・パスからフライド・エッグを結成する、その間にあたる時期です。

(略)

リハーサルというのは初めから音資料というのはなくて、本人が憶えてきてうたうというかたちですね。たとえばピアノの白井を事前に自宅に呼んで、「こういう歌なのよ」ってまずコードを採らせるわけですよ。これをもとに、「とりあえずレコーディングやってみればわかるから」っていきなりやり始めるんです。レコーディングのアレンジだって前から決まっているわけじゃなくて、どうなるかはその場でビルド・アップしていく(略)アレンジャーっていたことがないですから。

 本多俊之の頃になってからは、本多俊之がアレンジしてましたけど、ぼくたちの頃はヘッド・アレンジ(略)

だから、この時期のものはレコードにアレンジのクレジットはないはずです。書いてないということは、ぼくら全員がアレンジャーということです(笑)。

 後半、一番面白かったのは、ステージでマキさんが出てきてうたって、次の曲に行くときに(略)いきなり曲目を言ってうたいだすという、結構スリリングな展開でしたね。そういうところをマキさんが狙っていたようなフシもありますね。ハプニング的なもので何か面白いものが出てきたらいいんじゃないかと。実際、ライブ・アルバムも多いですから。

 マキさんもジャズ・ミュージシャンの中で生きてきた人ですから、その辺は心得てましてね、曲の途中にサインというか、そっとアイ・コンタクトを送るんですよ。それですぐ合わせられないと、マキさんのバックはできないですよ。

(略)

 後年フリー・ジャズ的な世界に行ってしまってからぼくは関わっていないんですが、浅川マキのように歌える人はこの世の中にいないですよ。いまさら言っても遅いんですけど、それは失ってみて、つくづくそう思います。

(略)

一番面白かったのは、〈アケタの店〉だったと思いますが、ぼくと本多俊之と浅川マキの組み合わせがあって、コード楽器はなくて、メロディ楽器とリズム楽器しかないんです。それで、いろんな曲をやりましたけど。それで本多俊之が言うんですよ、「これは楽だ」って、コードがないから全然関係ない音階を吹いても成立するからね!って言ってました。歌的にもアヴァンギャルドの方向に行っていて、詩を読むような。八〇年後半ですかね!

(略)

共演したミュージシャンにとってはいい思い出ばかりだと思います。非常にミュージシャンを立ててくれる人で、MCでも、律儀に必ず一人づつちゃんと名前を呼んで紹介するしね。待遇も良かったし、ギャラの支払いもちゃんとしていました。「私なんかお金なくてもいいのよ」って言ってましたけど。だから、マキさんから直接話がきて断るミュージシャンっていなかったんじゃないですか。それぞれバンドのリーダー格のメンバーばかりなんですけど、本人からオファーがきたら、すぐ参加したいと思わせる人でしたね。

(略)
いまの歌手の歌になんの感動もないのは、ただ声が出ているだけだからですよ。でも声は歌じゃない。

(略)

本当に人の心を打つ何かを出すということは、とてつもなく難しいことですよ

(略)

ケーキが声だとすると、その上にクリームかチョコレートがトッピングされるのかどうか、それによってケーキ自体が違うものになるじゃないですか。でも、今みんな声を出しているだけ、みんな白いケーキだけなんです。ただの流行だけで、ほかに何もない。でも中を切ってみたらこんなものまで仕込んでいたんだ、何か懐かしいと思ったらこんなものまで入っていた、ちゃんと別のものが、そういう含有物が必要なんですね。この含有物がないとただの声なんです。そして、浅川マキはその含有物をちゃんと持っていたんです。

 一つは彼女の人生だっただろうし、聴いてきた音楽だったかも知れないし、彼女が住んでいた世界だったかも知れない。そういうものがしっかり含有物として声の中にあって、それが歌になって、聴いている人の耳や心にずっと沁み込んでいったんだと思っているんです。

 歌というのは本来そういうもので、誰も浅川マキのようにうたえないというのは、それこそが〈浅川マキという人間〉の証明でもあるし、本当の歌手だということです。誰がマネしても同じようにならない。しょせんマネだから本物じゃない。人生がない。人生や雰囲気をマネているだけで、浅川マキには誰もなれない。

(略)

 浅川マキのようになりたいと思っていた人はたくさんいますよ。ちあきなおみがそうです。でも〈浅川マキとい人生〉とは違うんです。

(略)

 後年、音響をやっていた柴田(徹)が、何年か前に亡くなったのがすごくこたえてたみたいで、その後よくその話をしていましたね。

(略)

(二〇一〇年十月二十九日 西片で)

萩原信義

 バンドを組んでいた大学三、四年の七一年頃に、TBSラジオで土曜の夕方に生放送されていた「ヤングタウン東京」という、桂三枝司会の番組がありまして(略)

そのハウス・バンドのオーディションを受けて、採用されたんです。

(略)

浅川マキさんがゲストで出たことがあったんです。曲は覚えていませんリハでは良かったんですけど、本番ではド演歌みたいになって散々な出来で。

 その前後かな、同じバンドの杉浦(芳博)と楽屋でニール・ヤングをやってましたら、マキさんとマネージャーがやってきたんです。それが最初の出会いですね。

(略)

後日いきなり電話がかかってきて、実は二枚目のアルバムの最後に新宿の花園神社でライブ録音すると、「〈朝日のあたる家〉だけど、知ってる?」って言われて(略)杉浦と二人で参加しました。

(略)

まだb5も分からない頃ですからね。(略)[今田勝、稲葉国光は]大御所ですからね、共演というよりとても緊張したことを覚えています。(略)

そんな俺たちを起用するマキさんもすごいですよね。「あなたのギターの音には色がある」と言われて。つのだひろと会ったのもこのときが最初です。

(略)

「ガソリン・アレイ」も知らなくて、レコードを渡されて「これを覚えてきて」って感じでした。(略)

ロッド・ステュワートが好きだったですね、特にあの声が。この紀伊国屋のライブのジャケットにマイクがあるでしょう、これマキさん専用のマイクで、ちゃんとマイクに"浅川マキ"って彫り込んであるんです。人に貸さない専用の58のマイク、これしか使わなかったですね。

 

 コンサートは学祭が多くて、沖縄から北海道まで、三年くらいで日本全国行きましたね。毎月、多いときで十回くらい、少ない月でも三、四回は必ずありました。当時、大卒初任給が四万円の頃で、ギャラが毎月だいたい八万くらいでしたから、その面ではとても良かったと思います。

 ツアーの合間はレコーディングのリハとか、東芝と一年に一枚という取り決めがあったようで、レコーディングはだいたい一カ月くらいでした。

(略)

 四枚目の『ブルー・スピリット・ブルース』は、「これはほとんど、フィーチャリング萩原信義って感じで、あなたのために出したのよ」ってマキさんに言われました。

(略)

「ケンタウロスの子守唄」という山下洋輔さんの作った曲があるんですが、その楽譜を見せられたとき、b5だらけのコードなので、「こんなのちょっと弾けません」って言ったら、山下さんから、「まあ、いいんだ、この音だけ入れれば、だいたいでいいから」と言われたのを覚えています。

(略)

 「流れを渡る」のときに、内田勘太郎が参加してますが、この頃ぼくはちょっとスランプでね、ずっとやっていたかち、ちょっとクサってきちゃった頃なんです。

 いつも同じ曲をやってきたから、ギターが決まりすぎてくるというか、クサっちゃったんです。変な言い方ですけど。ギターも鳴らなくなって。

(略)

そこで勘太郎を入れて(略)俺を少し激励しようという意図もあったのかも知れません。勘太郎は憂歌団で人気、実力とも抜群の頃でしたから。

(略)

 『寂しい日々』が最後になりましたが、当時ぼくももう三十でね、自分から辞めるって言ったんです。辞めさせてくれって。そのあと悶々として、「もう一度やらせてくれないか」って電話したら、マキさんから「あんた何言ってんのよ、もう終わったものは終わったのよ」と言われて。

 終わったというのは、マキさんの中でも何かが終わったんでしょうね。違う方向に行くというのもあっただろうし。その頃俺は生彩を欠いてましたから、次に乗っかれなかったんですね。マキさんはもっと音楽的に自由になりたいと思っていたから。

(略)

 マキさんというのは素晴らしい人でした。とにかく、いろいろなことを教えてくれましたね。いつか「ノブ、いいフレーズは三回続けて弾いていいからね。三回まで、四回目はダメよ」って言われました。マキさんはいろんなミュージシャンと共演していますが、譜面というより、頭の中で、すでにある種の音が鳴っているんでしょうね。だからそれに合わない人とは一緒にできない。そういう意味ではミュージシャンの起用の仕方は絶妙だったですね。この曲だったら、この人を呼んでこようと。あと「タイム感」というのか、小節の中の間合いについてはかなり聞かされました。歌はこうだけど、演奏は少し遅れてこうとか、自分の中で独特の音楽観があるというか。

 素顔は、暗いとか陰気とかいうことは全然なくて、よくしゃべる陽気な人ですよ。麻雀大好きだし、長谷川きよしさんもよく来てて、そのときはぼくも呼ばれてずいぶんやりました。
(略)

 亡くなってから昔のレコードをこの間聴いたんですが、やっぱりいいですね。自分のフレーズも意外にいいんで安心しました(笑)。ギターはヤマハですけど。友達から一万五千円で買ったものですが、これが一番いいんです。弦もモラレスという三百円の安いコンパウンドですけど、この柔らかい音がいいんですよ。いろんなギターを、高いのも買ったけど、やはりヤマハです。だから、マキさんの当時のライブもレコードも全部ヤマハです。

(二〇一〇年十月十五日 府中で)

 

 

寂しい日々(紙ジャケット仕様) - 浅川マキ

寂しい日々(紙ジャケット仕様) - 浅川マキ

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山下洋輔

(略)

初共演となる「奇妙な果実」の伴奏をしないかという話は、確か当時東芝EMIのディレクターの渋谷森久さんから来たんですよ。

(略)

マキ自身がぼくを指名したということではなかったと思いますね。

(略)

 「奇妙な果実」は、色々な意味でジャズマンにとって怖い曲ですよね。下手に手を出せないです。ですからあれは、ぼくにとっても大冒険だった。"歌伴"らしくやっても仕方がないので、そのときできることを全力でやるしかなかった。それを浅川マキは"許して"自分も自分の世界を歌い切った。すごい包容力を感じました。「すごい奴だ」と認めることができた。それから付き合いが始まったんですね。

 

 マキの詞に曲をつけるということが始まりました。マキがもたらしてくれた初めての経験ですね。楽しんでやれましたよ。「港町」と「あんな女ははじめてのブルース」は最後までうたってくれていたようですね。

 その後、だんだんとマキの方がフリー・ジャズに接近してきてくれました。それ風の曲を紹介したこともあります。七四年からぼくはヨーロッパに行き始めたんですけど、向こうのミュージシャンと知り合っていくうちに、マーク・レヴィンっていう活動家みたいな音楽家の曲に出会った。「ナイロン・カバーリング」っていうんですけど、これが面白くて、何を考えたんだかマキにこの曲を紹介して「日本語の詞をつけてうたってみたら?」なんて勧めた。あとにも先にも初めてのことです。

(略)

 そのあと『ONE』ですね。完全にフリー・ジャズになっていくんですけど、結局、何をやっても浅川マキだというところがすごいんで、この現象はぼくも参考にしているところです(笑)。

(略)

マキはそのあとますます過激になっていったんですね。近藤等則だけをバックにうたったりしてね。詩の朗読みたいになっていったでしょう。フリー・ジャズっていうのは本当はこういうもんだってことを言っているみたいでしたね、原点を見つめたと言いますか。

(略)

 

 浅川マキという歌手は、当然ながら〈浅川マキの世界〉というものを完璧に表現し続けていました。それがすごい磁力を持っていて、共演者も聴き手もあっという間に虜にされてしまいます。本当に不思議な表現力です。"深い"っていう言葉は非常に曖昧かもしれないけど、やはり深いんですね。(略)

「一音を深く掘り下げる音楽家になりたい」という意味のことを言っていたという記憶がある。それをぼくが覚えてるんでしょう。このように、あの人の言葉の影響もすごいんです。柏原卓だったかな、「マキと話していると読み合いになる」って言うんです。時には互いの存在をかけた会話になっちゃう。言い合いでも闘いでもないんだけど、すごく深いところで言葉を交わしているってことに自然になるんです。マキは言葉にもまた独特の思想があったようですね。

(略)

 電話は芸術品でしたね。最近は年に一、二度ぐらいだったかな。だいたい一時間ですね。こういう用でかけてきたというテーマはあるんです。でもそれを言いながら、バーっとインプロビゼーションが始まって、昔の話になったり、人物評をやったり、思想の開陳になったりする。どうなるんだろうと思っていると、すっと最初のテーマに戻って「じゃあよろしくね」って終わる。これでピッタリ一時間、名人芸ですよ(笑)。質問すると三十分延びる。口を挟むと十五分延びる(笑)。じっと黙って聞いているのがコツなんです。この経験は、ずっとあとにニューヨークのセシル・テイラー先生のお宅でお話を聞いたときとそっくりで、すごく役立ちました!(笑)。

(略)

 歌うときの環境へのこだわりはすごいですよ。共演者の人選から始まって、控室にも及ぶ。〈ピットイン〉の楽屋の電球を全部とり替えちゃうんですからね。おユキさんの差配で暗い青色の電球にしてしまう。

 音響でも有名な話がありますよね。普通、歌手が「どういう音」にしたいかを言うときに「ここの何ヘルツの音をちょっと上げて」とか「引っ込めて」とか言うと「お、なかなかできるな」とスタッフは思うんですね。ところがマキはあるとき「私の声をもう少し紫色にしてちょうだい」って言ったというんです。しかし、この世に「なんだよ、紫色の音とは」と言って怒れる人はいないんです。マキがそう言うんだからそうしなくてはならない。紫色の音にしなければならないんです(笑)。
(二〇一〇年十月十四日 渋谷で)

ONE(紙ジャケット仕様)

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渋谷毅

(略)

渋谷 (略)最初に会ったのは吉祥寺の〈曼荼羅〉。そこで亀渕友香さんとぼくとベースは川端民生さんでドラムは誰だか忘れちゃった、その四人でやっていて、そこにマキさんが来たわけ。(略)終わってから紹介されたの。

――そのときは友だちである亀渕さんのライブを聴きに来たんですか?

渋谷 どうやらぼくを聴きに来たらしいんだけどね。

――やっぱり亀渕さんから渋谷さんのことを聞いたんですかね?

渋谷 そうなんじゃないかな。亀渕さんと仲が良かったからね。(略)

三、四ヶ月くらい後だったか、その京大西部講堂を頼まれた。「渋谷さん、誰かベースの人ともう一人連れてきて」といわれたから川端さんとトロンボーンの粉川忠範さんの三人で行った。その頃マキさんは自分のバンドがあったんだよね。ベースが吉田建、ドラムがつのだひろ、ギターが萩原信義でキーボードが白井幹夫。(略)ロックっぼい感じだったから、もしかしたらそのあたりからジャズの感じでやりたかったのかな。

(略)

その一年くらい後かな、マキさんはそのバンドを解散して、それからはいろんな人を呼んでやるようになった。ジャズの人だけじゃなくてロックやフォークの人たちもよく来ていた。めんたんぴんっていうバンドがあるんだけど、そこのメンバーもいた。同じ石川県だから、むかしから知ってたみたいね。

(略)

――初めてマキさんの歌を聴いたときはどういう印象を受けましたか?

渋谷 よくわからなかった。いま、むかしの歌を聴くとよくわかるというか、「ああ、マキさんも若い頃があったんだ」って思う。むかしのアルバムを聴くと、感じはあんまり変わっていないけど、声が若々しい。当時はね、そんな風には思わなかったんだけど。

――なんだか明るくて、のびのびしていますよね。なんであんなに「暗い」というイメージで語られてしまうのかよくわからないくらい。

渋谷 本当にそうだよね。明るい。

(略)

[オイルショック後]あんまり仕事がなくなってきたんだよね。世代交代みたいなものがあったのかもしれないけど。それで暇になってきたから〈ロブロイ〉なんかに行ってまたピアノを弾き始めて、そこで亀渕さんと知り合ってライブをやっていたマキさんが聴きに来たというわけだね。よくそんなぼくを見つけてくれたと思う。

(略)

[オイルショック前、柳田ヒロと]毎日のように一緒に飲んでいた。当時彼は岡林信康のバックをしていて、今度コンサートがあるからって聴きに行ったら、すごくよかった。七一年か七二年か。とにかく気に入って、柳田ヒロがキーボードを弾いている『俺らいちぬけた』と、それから高田渡の『ごあいさつ』とはっぴいえんどの一枚目、その三枚を買って、どれもすごくよくて毎日その三枚を聴いていた。それを聴いていてフォークの人とかが好きになったんだよね。

(略)

フォークっていったら森山良子くらいしか知らなかったから。それで、岡林とかを聴いたら「ああ、こういうものがフォークっていうんだな。森山良子のはフォークじゃない」という風になっちゃった。で、ちょうどぼくの事務所が東京セントラルアパートにあって、同じ建物の中にURCレコードがあったの。そこへ行って、はっぴいえんどの二枚目とか買ったりしていた。

(略)

こういうロックやフォークの人たちと仕事がしたいなあって思っていたら、はっぴいえんどが解散したという話を聞いた。解散したから暇だろうと思って、何回かコマーシャルの録音をお願いしたことがある。あと、渡さんにうたってもらったりとか。大瀧詠一さんにもうたってもらったなあ。

――何のCMだったんですか?

渋谷 何だったかなあ、忘れちゃった。

(略)

――ライブやレコーディングなど、現場でのマキさんは結構厳しいというかこだわる部分があったりしたんですか?

渋谷 厳しいとか、そんなことはないけどね。あの人は準備の段階が大変で、別にそんなことどうでもいいじゃないっていうようなことがあんまりどうでもよくないらしいんだよね。
(略)

PAのほんのちょっとしたこととか、照明にしてもそうなんだけど、なんというか、なかなか具体的には言えないんだけどね。音の全体というか、自分がうたっている全体の聞こえ方、見え方、そういうことをすごく大事にしていた。〈ピットイン〉なんかでも楽器の位置はもちろんだけど、客席の椅子の位置まで自分で決めていた。ちょっと椅子を曲げて並べたりしてね。均等に並べると絶対にあの人はダメだった。ちょっと曲がっているのを誰かが直そうとしたら「ダメ!動かしちゃ!」っていってね。どこへ行ってもそうだった。

(略)

――演奏に関してはどうでしたか?

渋谷 特にリハーサルというのもあんまりやらないし、ちょっとした行き方とか、この曲とこの曲は続けてやるとかその程度のことをするだけで、「あとはお任せよ」って言ってたなあ。で、本番の時はどうなってもかまわない。予定は作っておくんだけど、でも、当人だって本番どうなるかわからないし、人が変な風になってもそんなことは全然問題にしなかった。

(略)

亡くなってしまったんだけど、ずっとマキさんのPAをしていた柴田徹さんという人がいてね。ものすごく優秀な人で、感覚的なところで素人というか、PAの専門家だったらどうしても今までの知識とか経験とかでこなしてしまうようなところを、いつも第一歩からやっていくんだよね。そこが素晴らしい。PAって音を電気的に処理するわけだからいい音になりようがないんだけど、柴田さんがやるとPAのない状態よりも自分のピアノとか周りの音が美しく聞こえるんだよね。そんなことは彼以外に経験がない。柴田さんの存在はマキさんにとっものすごく大きかったと思う。彼が亡くなったときはマキさんもずいぶんがっかりしたんじゃないかな。


――以前『ぐるり』のインタビューで「最近のマキさんはさらに良くなってきていて、うたっているようなしゃべっているような、そんな自由な感じがとてもいい」というようなことを言っていましたね。

渋谷 そうそう。歌をうたっている状態から普通にしゃべる、普通にしゃべるのも、まったく普通にしゃべるのと普通にしゃべるようにしゃべるというのがあるじゃない。そういうのがいつも行ったりきたりしている、そんな感じなんだよね。聴いていると、どこが作ったものでどこが作ってないものなのかわからないんだよね。なんか、他の歌い手とは別の次元の人だね。普通は歌があって、それをうたっていますという感じがするものなんだけど、マキさんの場合は歌をうたっていますという感じがしない。歌とマキさんというものが一体化しているような感じがする。やっぱり、音楽はそういう風にならないと面白くないんじゃないかと思う。

(略)

あと、一緒にやるミュージシャンにとってマキさんという人はすごく貴重な存在なんだよね。マキさんと一緒にやると自分がすごく活きるわけ。たとえば、ぼくと一緒にやるとぼくがすごく活きる。それは近藤等則さんも言っていたし、この間山下洋輔さんに会ったときにちょっと話したら「そうそう、そうなんだよな」って言っていた。みんなそういうことは感じていたんだね。だから、マキさんと一緒にやるのはすごく楽しいという言い方はおかしいけど、すごく嬉しいんだよね。

(略)

――浅川マキさんの一番印象に残っている姿はどんなものですか?

渋谷 やっぱり歌をうたっているときが一番かな。あとね、ライブが始まる前の控え室なんかではすごくよくしゃべるんだよね。緊張しているせいもあるんだろうけど。だから、始まる前は黙っていることはなかった。

(略)

 

ロング・グッドバイ 浅川マキの世界

あの娘がくれたブルース 浅川マキ

『青春遊泳ノート』(1973)より

 その日、レコード出版社の狭い試聴室で、わたしとギターを弾く萩原信義は、つい昨日までかかってやっとレコーディングしたそのテープを聞いていた。

(略)

テープはすでに工場に送られていた。

 

 ――だめだなあ。

 わたしがそう言うと、うん、と萩原の重い返事が返って来た。(略)

テープから流れて来るこの音は、わたしがいままで見えていた音とは違うのであった。

(略)

萩原は自嘲するように言った。

「ミックス・ダウンまで、おれ達参加させてもらっただろう、あの時のミキサーの森さんはおれ達の言う事に耳を傾けてくれて、それから音を創ってくれたんだ。しかも、その場で出来た音に、おれ達は納得して帰ったんだ」

(略)

 レコーディングに入る前にミキサーの森さんにわたしは言った。

「マルチの機械的な音ではなくて、暖かい音が欲しい」

 そして、ジャンゴ・ラインハルトのレコードを聞いてもらった。(略)

「このレコードはモノラルの時代のものだし、いまここまで逆戻りして音を創るのではなくて、現在の時点で創るのでしょう、だけど、このレコードにある何かが欲しい訳でしょう」

 そう言って森ミキサーはさらに、
「ミックス・ダウンがひどく重大になって来る」とも言った。

 

 実際こうして、この試聴室で聞くと、このレコーディング・テープは暖かい音ではある。しかしずっと聞いていると苛立って来る。

……なんだか、

空間がないんだなあ……(略)

萩原が、おれもそう思う、と言った。

 プロデューサーの寺本はすでにきびしい顔をしていて、渋谷ディレクターに電話をしていた。

 工場に送ってしまったテープを引き戻す事は異例のことであり、会社と言う組織の中でひどく困難な事であった。

 

 このLPレコードが企画されたのは、ギターを弾く萩原信義に出逢った事から始まる。

 もう一年半ぐらい前にラジオの公開録音の楽屋ではじめて彼を見た。

 彼は素朴なフレーズのくり返しを弾く。(略)

わたしは、この男は珍しく色を持っていると思った。

「おれ、プロにはなりたくないんです」

 ぼそっと言うのである。

 大学四年だった萩原が、或る日プロになる事を決めた。
(略)

 こんな風にして、わたしが唄う時、必らず萩原がいるようになってもう一年になる。

 彼はその間、わたしと組む以外はほかではプレイしていないのである。

 だがその事は、必らずいつか別れる時が来ると言う事でもある。

 

 ちょうど去年、大学祭が始まった頃、わたしは今田勝トリオと組んでいた。すぐれたモダン・ジャズメン達だ。

 そこに萩原が入って来た。

 溶け合わぬのである。(略)リズムの乗りが違う、感覚も違う、モダン・ジャズの人達はやり辛いと言い出した。しかし彼等は萩原の持つ音のひびきをいいフィーリングを持っている、とも言った。実際、わたしにとって、萩原の音とフレーズが欲しかったのだった。

 だから、今田トリオの方がすぐれている事はわかっていても萩原を舞台から降ろすわけにはいかなかった。楽屋にはいつも重い空気が流れていた。ちょっとした会話にも馬鹿みたいに気を使い合ったりして、益々気まずくなって行った。その事とはうらはらにどこでも客席は満員だった。

(略)

 一ツ橋大学の兼松講堂でのコンサートの時だった。

 今ちゃんは憤然として舞台を降りて来た。

「マキが萩原君のがブルースだと言うのなら、おれのブルースとは違う」

(略)

 おおみそかの紀伊国屋ホールでの公演、この日だけは今田勝ピアノを中心に、ベース稲葉国光、フルート市原宏祐、ドラムつのだひろ、そしてギター萩原信義、それに萩原の友達杉浦芳博で行われた。(略)

わたしの好きな人達に来てもらったらこんなふうになってしまったのだった。

 それは実況録音盤としてわたしの3枚目のLPになっている。

(略)

一月の終りの頃、又わたし達は地味なステージ活動に戻った。

 今田トリオ+萩原である。
 今田トリオはモダン・ジャズの色を益々濃くのこすようになり、その事はわたしのうたの伴奏にしては強烈になり過ぎたのかも知れなかったし、静から動へとも言えるもので、わたしが欲しい一瞬の間のようなものが失くなってしまった。

 一月二十九日、新潟の公演で、萩原はついに舞台の上で立往生となってしまった。

 帰りの夜汽車(略)萩原がいきなり上着を脱ぎ捨て寝台にたたきつけると(略)デッキの方へ駆けて行った。

(略)
「今田さん、
 おれ、イモですか」
「……イモだよ」

(略)
「……でしょうね。きっとおれはイモだと思います。だっておれはモダン・ジャズを知らないんですから、ビートルズなら聞きました。いま、知りたいんです。

 モダン・ジャズって何んですか。(略)

今田さん、ロックって何だと思いますか

(略)
……今田さん、最初はこんなふうに、そう、それからこんなにまわって会場を、みんなを巻き込むんです。
 ロックはこんな風に巻き込む、まわるんですよね……」

 バンドの楽器を運ぶ役目の、そのぼうやはしきりにうなずいていた。

「……今田さん達のジャズは何なのですか……」

(略)

「おれはプレイする時、おれ以外は全部敵だと思う……」

(略)

 夕方のレコード出版社[の部屋の隅で向かい合う寺本と渋谷](略)

わたしはおどおどとその場所に座った。
(略)

 渋谷ディレクターがものすごく怒る事は当然予測されていたので、わたしは顔が上げられなかった。

「どうしてもやり直したい」と寺本が言った。ふたりの激しいやりとりがあった。

 渋谷ディレクターはわたしの顔を見た。それから少し静かに言った。

「このLPはマキと萩原がいて作る気になった。ふたりの何かだ。今回は最初から萩原とマキは音についても、これと言う確信が見えていたね。だからおれもオルガンを弾いたりしたけれども、それは萩原とマキの世界に参加したのだ」
(略)

「……しかし、おれはミックス・ダウンには立ち合わなかった。それは音創りでは、おれは妥協出来ない。おれの音がある。それは萩原とマキのものとは違う。おれはふたりをプロと思っている。ふたりの音を創るだろうと考えた。森ミキサーも萩原とマキをプロと思っていた。だからミックス・ダウンでふたりの言う事に耳を傾けたに違いない。
 ……だが、あの大きな設備のなかでは、ふたりは失敗したのだろう。

 おれは完成したこのテープを聞いて思ったんだ。

 ロマンがないんだなあ……と」

(略)

 ロマン、それはきっとわたしが感じた、あの空間がない……と言う事に違いない。

「今度のLPはね、このLPを買ったお客が、これは萩原とマキが出来てると思わなければこっちの負けだ……」

 渋谷ディレクターはするどい目でわたしの目の中を凝視した。

(略)

 渋谷ディレクターは電話で上司にミックス・ダウンのやり直しを告げた。

(略)

 プロデューサーの寺本もわたしの肩をたたいて帰って行った。

 想えば、あの六十八年暮れの蠍座で唄った時からずっと寺本はプロデュースして来た。

「萩原がね、やめるかもしれないの……」

 昨日、わたしがそう言った時、

「そう言えば、いろんな人と出逢い別れて来たなあ」

 プロデューサーの寺本は、少しばかりしみじみと言った。

 わたしがこの寺本幸司と言うひとに出逢ったのは六十七年の春だった。

(略)

六年ぐらい前、ビクターから『東京挽歌』と言うレコードを出した時である。(略)

[二人で]新宿を毎夜キャンペーンして歩いた。

バーからクラブへと何軒も顔を出し、流しのお兄さんにも唄ってもらうように頼んだりした。

 そんななかで、わたしと寺本は日が経つにつれ、レコードが売れそうもない事を感じていた。

 レコード会社の誰もが少しずつ無関心を装って来ていた。

(略)

「おれは思うんだ。『東京挽歌』はマキを考えて作ったものだけれど、実はやっぱりマキのうたじゃない……」

 寺本とわたしは一年近く、ほとんど逢う事もなく過ぎてしまった。

 

 突然だったが寺本から連絡があった。
 一九六八年の秋である。

 わたしはこの一年間、喫茶店やキャバレーで唄って来たのだが、実は月に三日ぐらいしか仕事がなかった。

 その夜、寺本はわたしを新宿文化の地下劇場、蠍座に連れて行った。

 真暗な室内に紅がら色を配し、そして鉄パイプのあるこの小さなアンダー・ダラウンドにわたしは目を見張った。

(略)

「このひとに唄わせたいんです」

 プロデューサーの寺本は言った。

 新宿文化の葛井欣四郎は、あらためてわたしを見ることもなく淡々としているかに見えた。

(略)

 十二月の寒い夜遅く、蠍座での三日間の初日である。

 客席にはラムネと水割りが配られ、客電はゆっくりと落ちて行った。

 お客は暗闇をのぞき込んでいるようだった。

(略)

 詩のほとんどは寺山修司で、メロディーのほとんどは山本幸三郎だった。

 お金が出ない事を承知で寺山さんは演出を引き受けたのだった。

(略)

照明が血のような色で(略)

 わたしは『かもめ』を唄い始めたのだが、ぶっきらぼうである。(略)うらはらに、わたしの体のなかを熱いものが突き上げていた。

 

 うたは麻薬かもしれない

(略)

筒井さんのこと

『別冊新評 筒井康隆の世界』(1976)

 筒井康隆さんにお会いした京都の夜のことになるのだろう。

 ふたつの舞台があった。(略)

フランク・ザッパは京大西部講堂で、山下洋輔の会場は、其処から歩いて一分のところであった。筒井康隆さんは、山下洋輔の演奏が終わった楽屋にいらした。

(略)

 筒井さんが言った

「明日の演奏も聞きたい」

「明日は、倉敷へ行ってしまうんだけど」

「ぼくも倉敷へ行っていいかな、今夜の演奏を聞いて、明日はどんな風になるのか、是非聞いてみたくなった」

 山下洋輔は長い旅の途中であった。(略)わたしも倉敷へ行くのだから、なにやらおかしな旅になるのだろう。そのことを山下さんが言うと、筒井さんは笑った。

 わたしは今夜の演奏は好きだった。(略)ときには腕までも使って叩くように弾く。轟音は満員の客席で鳴った。この夜は「チュニジアの夜」で終った。

 表通りに出たとき、京都は祭りだった。夜店が並んで、人混みのなかに、筒井さんと山下さんが見え隠れする。(略)わたしにはなにか馴染めないひとの群れであった。あとで会う場所を約束すると筒井さんと山下さんは何処かへ行ってしまった。わたしはわずかしか聞くことが出来ないだろうザッパの会場に行くことにした。

 西部講堂は、すでに熱気で客は総立ちであった。ザッパはしたたかなミュージシャンである。だが、五年前のロック・コンサート全盛の頃を想わせる乗りをする大半の客とは、少しずれがあるようだった。そのことが終わったあとで、わたしのなかになにか残るものがあった。

 

 白川橋のたもとにある店の隅に筒井さんは座った。(略)

わたしは筒井さんの向いに腰かけていた。(略)

わたしが、はじめて筒井さんにお会いしたのは、筒井さんの作品「デマ」の発表コンサートの楽屋であったが、わたしはただ挨拶するだけだった。

(略)

「デマ」は小説を音楽にしたのではなくて、ぼくのなかの音楽を小説にしたのだ、とそんなはなしをした。(略)

山下洋輔がやって来た頃は、もう夜明け近かった。山下さんは機嫌よく、だが少し疲れた様子だった。遅れて来た詫びを言うと筒井さんが、うたうように言った。

「シュバダ、シュバダバ、シュバダバ」
「ウディ、ウディウバ、ウバ」
「ブルース・コードに乗るぞ」
「月夜にオレを殺せ、だが、影は踏むな」

「影は踏むな、シュバダバダ」

(略)

黒いブルース・フィーリング 対談:河野典生

『ジャズの本』(1977)

(略)
河野 浅川さんは、だいたい自分で詩を書いているわけでしょう。あれは、やはり、夜中に眠ろうとしてふわっと浮かぶとか、そういう感じで出来るわけですか。

浅川 夜中が多いですけどねえ。……ずっとステージで歌ってますでしょう。心情ソングみたいなねえ。(略)私の中を歌っているみたいなものが多いと、とても、つらくなって来たりするのですね。……そうすると、もうちょっと違う詩が欲しいなあというようなことを思ったりするのですね。そういうところで、ちょうどいま感じているようなことを、なかなか言葉にできなくて、私の場合は、アメリカの詩を日本語にすることを含めて、一年に十曲できたら、もう大変なことのわけで、今度出したLPも足かけ二年くらいで八曲がやっとなわけです。

河野 ああ『灯ともし頃』というやつでしょう。東京、西荻の「アケタの店」で録ったやつですね。(略)

あれは、かなり意図的に音を作るとか、そういうことはあったんですか?

浅川 そういうことはないのです。「アケタの店」というのは、ああいう響きがしているのです。(略)

「アケタの店」に行って座っていて、じっと二時間ぐらい座っていて、ピアノの音が鳴って、レコードの音の流れとかだれかがピアノをポローンと弾いたときの響き方とか、そういうものがいいなあと思うから、ここで録ろうというミキサーの人がいるんですよね。(略)吉野金次さんというミキサーの人は、「アケタの店」にじいーっと座っていて、ピアノの音もすごく好きだし、ここで録りましょうといって、そうするともう、あの狭い店の中にドラムセット、ベース・アンプと、ギター・アンプが二台、生ギターのマイクが二本、それにエレピに、オルガン、ボーカルそれで16チャンネル。それこそ足の踏み場もないくらいです。それでも、そのミキサーの人は、ふつうだと衝立を立てたいくらいでしょう。ベースがもう、ドラムの横で鳴ってるわけです。でも、平気で録っちゃったのです。ここの店のこの感じ、この音でいいのだということでねえ。しかも、プレイヤーが、この座が好きだというのだったら、ここでいいのだと。

(略)

河野 (略)最初の「夕凪」のときとか、すーっとオルガンが入って来るあたりが、なんともいえない。

浅川 あれは偶然なのですよ。私が歌いますでしょう。そうすると、みんなで、ザワーッ、とこう……じゃあ、何小節あなたが行なって、何小節あなたが行なって、という話がぜんぜんないのです。ザワーッ、と始まったのです。

(略)

ですからリズムがあって、ないような。だから、ミュージシャンが、これはすごいって、あとでねえ。

(略)

だから、ああいうことは、とっても不思議ですねえ。ずっとテープを回しておいて、その中でいいものが録れると、いちばんリラックスした感じが出るのでしょうけれども、たいがいレコーディングというのは(略)短い期間の中で、限られた予算の中でやりますでしょう。ですから、レコーディングより、生のステージのほうが、やっぱりいいということになってしまうのですけれどもねえ。レコードは、作るたびにまた、やってしまった、という感じになるのですね。

      X

浅川 ですけどねえ、こんどのLP、ものすごい宣伝してます。ある日、突然、ものすごい勢いで宣伝するのですね。各雑誌なんかに……。"その秘めたる新しい方向を指し示し、世に問う、熱情のアルバム"それを見ただけで私はもう……。

(略)

灯ともし頃(紙ジャケット仕様) - 浅川マキ

灯ともし頃(紙ジャケット仕様) - 浅川マキ

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バンド編成をめぐるむずかしめの話 対談:奥成達

『深夜酒場でフリーセッション』(1984)

(略)

奥成 マキさんは実にバンドの編成が上手で(略)今いちばんやりたい音楽の状態が、マキさんのバンド編成の仕方に最も如実に表われてきますね。そして、そのどれもが、いつもとてもみごとなピックアップなので感心しちゃう。ちょっとこれは、ほかの人ではまねできないことでしょうね。

浅川 歌手とかミュージシャンというのは、長い間バンドを組むときは、いちばんよかった演奏のことがどこか頭にあったりして、自分がよかったというのは忘れてるけど、その組んだ相手が、あのときこんなによかったというのは覚えていて、それが自分の中で、あの人はいいんだ、という基準みたいなものになっちゃうんですね。しかし、それがやっぱり、いつでもいいというためには、体質的なよさだけではけっしてもたないんです。そのためには頭も使わなければならないし、それなりに努力もしなければならないこともあるんでしょうね。

 わたしは七年くらい、ギタリストの萩原信義さんを中心にロックバンドを組んでやっていたんだけど、そのグループを四年ほど前に解散してね。なぜかっていうと、わたしは萩原信義のよさっていうのは、往々にして彼の指先が四角いところにあると思うんです。その四角い指で奏でるアコースティックな音っていうのはとてもすばらしくて、ちょっと聴いたことのない、いや、なかなかにオーソドックスかな。ただ、あまりにも彼は技術を勉強しなかった。彼自身もそこに興味もなかったみたいだから。極端にいうと、いつも腕に覚えのブルースフィーリングばかりで、コードも簡単で、出てくる音はいつも同じになってきちゃったのね。やっぱり、体質だけでいつも音楽と勝負していくというのはね。

(略)

少し粘っこく弾いたりして、いい音をしているんですよね。もちろん、そこは大好きな部分なんだけど、彼がそう、技術はなくてもいいと思うけれど、フィーリングだけでいくと、いつも同じことをやってて、だんだん自分で自分のギターにいやけがさしてきたらしい。そうすると、そういう彼の気持ちがステージで全部反映しちゃうのね。でも、この人はもっとよかったはずだ、きっと彼はまたどうにか変わるかもしれない、というような気分の時期がわたしにはそれから三年くらいつづいていたんです。これはおよそ、もうバンドというより腐った夫婦のようなもんですね。

(略)

これはいかんというんで、まだ、それでも三年くらいやったんですがね。

(略)

わたしの場合、アレンジするのがいやだし、キメをつくるのがいやだから、どうしても、演奏者のキャラクターというか、萩原信義のすべてにかかっていくわけですね。(略)

そういうサウンドをぶらさげて全国をまわるなんて耐えられなくなって、やめたんですね。そのパーマネントグループをやめたあとから、きょうまでの四年間は、全部今夜のようなセッションです。

奥成 (略)皆、日本のジャズの大物たちですよね。(略)

今夜の「ピットイン」も渋谷毅(p)、杉本喜代志(g)、本多俊之(as)、近藤等則(tp)、川端民生(b)、つのだひろ(ds)と豪華メンバーですね。

浅川 でも、ある日来てみると、杉本さんと森山威男さんと三人で、ベースがいなかったりとか。あるいはベース+ピアノだけだったりなんてときもあるんですよ。

奥成 いつぞやの西荻窪の「アケタの店」では本多さんひとりだった(笑)。俊之さんがピアノを弾いて、たしかベースも弾いて、サックスも吹いてた。刺激的でとてもおもしろかったですね。ああいう場面はめったに見られないことだし。

浅川 本多俊之さんとは、もう一度、あんな夜があってもいい。でも、ほんとうにめったにないことですね。

(略)

浅川 (略)ふだんの生活のことでいえば、六本木のド真ん中に住んでいて、部屋でステレオをかけると、古いスピーカーから古っぽい音が聴こえてくる。すると、突然、タクシーの無線の声が強力な勢いでそのスピーカーに入ってきたりするんです。かと思うと、古いアパートなんで、暖房が入るとき、カンカンカーンって、ロンドンやニューヨークの古いアパートみたいに音が入ってきたりもする。その音がすごくいいんですね。そして、それが部屋でかけているレコードの音と奇妙にミックスされているのね。そういう猥雑な、都会っていうのか、そういうところで音楽を聴くのがごく自然なことになっちゃっているんです。

 それからずっと昔は、自分が何をほんとうにやりたいのか、自覚が日常感覚の中にあまりなかったんです。(略)

[同棲している男がモダンジャズにはまれば]

「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」をやったり。男が、これがいいよって、黒人霊歌のレコードを買ってくれると、確かにマヘリア・ジャクソンはいいんですよね。で、英語は全然できないのに、さっそくぜひやりたいと思ったり。実にさまざまなレパートリーにそうやって挑戦した時期があるんですね。そのとき、アレンジをしてくれていたのが、「ニュー・ハード・オーケストラ」の山木幸三郎さんという人で、当時、モード手法ですね。それでマイナーのものでもメジャーでアレンジしていたりしていたのね。たとえば「ワーク・ソング」というのは、キャバレーでもまあまあ許される範疇のポピュラーソングだったんですが(略)それをなんと、メジャーでアレンジするんですね。それでサウンドが出ると、先輩のジャズシンガーがわたしを呼ぶんです。「よく、あなた歌えるね、まちがいじゃないの」「あなたの、だれがアレンジしたの」っていわれたりするんですね。普通じゃない音だったんでしょうね。だから、わたし、そういうのにきっと慣らされちゃったんですね。

(略)

音楽を通して人間が見えてくるんです。ライブの場合は特にそれがあってすばらしいですね。で、この歌に対して、どうアドリブが出るのかなっていう期待がいつもあるから、アドリブの長さも全部指定しないんです。やっぱり今は、その人その人の持ち味を、わたしが勝手にイメージを連想して、「ヨーイ、ドン!」で音を出すんです。

(略)

近藤等則さんの全作曲ですから、近藤さんを中心に、つのだひろがリズムのパターンのアイデアを出したり、いいコンセプトがとれました。だから、これからのライブで、この『CAT NAP』の作品がどんどん変わっていく可能性が大きいですね。

(略)

[詞はいつ書く?]

浅川 あれは、追いつめられたときしか書きません。

奥成 そのとき曲は考えないの?

浅川 ええ、ひとつも考えてませんね。今度の近藤等則さんとの『CAT NAP』では、全部メロディが先なんです。そんなことは、もうこれまでになかったことですね。

(略)

"こころ隠して"は、メロディと一致する部分がある。ところが「暗い眼をした女優」は、メロディをつけると間のびするというか、ちょっといやみになっちゃう。

(略)
詩がハッキリ聞こえるようにってベースだけでやってもおもしろくないこともありますね。わたしの場合は、詩が聞こえなくてもいいから、どんどん音を出してくれといってるんです。

奥成 詩の言葉を全部伝えようとすることはない、ということですか。

浅川 それは、伝わったほうがいいですね。でも、全編すべてにわたって聞きとれなかったけれど、たまたまひと言聞こえたところが、たとえば「スキャンダルで消えた」なんて、いいでしょ(笑)。そういうふうに聞こえてもいいな、という考えもありますね。

(略)

全員、音を出して、わたしもできるかぎり出して、ハッと音が消えたすきまにコレッという言葉が出ると、その日はいいんですね。いつもそうは、なかなかいかないんですけど。その意味では歌よりスリリングに響くことがありますね。

(略)

渋谷さんのピアノは、「イエーッ!」というような大きな拍手がなくても、次の日までズーッとつづいて観客の頭の中に波打ってるんじゃないか、ということもありますし。渋谷さんという人は「ナントカ、カントカでした」なんて、絶対アドリブが終わらないんですよ。非常に結論なく終わっちゃうんです。それが、あまりに突然のことなので、客が拍手なんかできない状態になっちゃうんです。でも、その渋谷さんのバイブレーションが、次の日になっても観客のなかにつづいている、そう思えることがありますね。

(略)

 

ちょっと長い関係の話 対談:本多俊之

(略)
編集者 浅川さんのために本多さんが初めて書いた「街の汽船」は、転調がユニークで不思議な曲ですよね。浅川さんへの曲はどのようなイメージで書かれるのでしょうか?

本多 僕はどんなときでも、ひっかかる曲……あえてここでいい曲とは言いませんが、そういうひっかかってメロディックな曲をマキさんに提供してきたんです。歌いやすい、歌いにくいなどということは意識せずにね。だから「街の汽船」のサビは絶対に歌えないと思ってたんですよ。あそこは3管のアンサンブルのつもりでね。するとマキさんは歌詞を付けてきたのでびっくりした(笑)。マキさんは歌手として本当に守備範囲が広いですよ。器楽的な曲まで歌にしちゃう。山下さんの「都会に雨が降る頃」だってそうでしょ。もう鼻歌のように自然に歌っちゃうよね。普通の歌手にはできないことなんだけど。

浅川 私にとって「街の汽船」は、いつ歌っても新鮮なんですよね。今、舞台では必ずレパートリーの中に入って歌ってます。


本多 そういえば「アケタの店」で開演の数分前に、マキさんに「今日は他に誰が来るんですか?」って聞いたら、「誰も来ないの」って言ったことありましたよね(笑)。

浅川 あのね、そのことは最初から話してあったのに信じてくれなかったんじゃない。だからサックス1本だけなんですね。

本多 サックス1本ならいいんだけど、ステージ見たらベースが置いてあるしさ。ドキッとしたよ。

浅川 あのときはアケタの店で、1ヵ月長期公演だったんですね。(略)つのだひろさんの事務所が「ベースとアンプを据え置きにしたら?」って言ってくれて、たまたまそれが置いてあったんです。アケタの店だから当然ピアノもあるし、私、「これだけあればべつにどうってことないじゃない」って言っちゃったんです。そうしたら俊之さん、「だったら譜面出して!」っていうの(笑)。演る曲には歌モノもありますから、当然譜面がなければできませんよね。だからそれで譜面と曲順を渡したら、それを譜面台に乗せてね、エレキ・ベースを弾いてくれたんです。もう最高。気持ちよかった。だからその次に、また俊之さんと「新宿ピットイン」でやろうとしたんですよね。でも俊之さんはOK出しておきながら、公演日の2ヵ月ぐらい前になったら「嫌だよ」って言ったんです。

本多 そうでしたっけ?

浅川 はい。だけどそのときに、本多俊之を1年のうちで二十日も拘束できるとは(略)思えなかったし、そのとき俊之さんから「NO」が出て、私がやりたかったそのふたりでのギグができなくなったことが、今でも残念だと思いますね。

本多 僕が「嫌だ」って言ったんですか?

浅川 ええ。「嫌だよ。他にもメンバーを入れてよ」って言ったの。

本多 やっぱりメンバーがいた方がいいですよね……(笑)。

浅川 そんなふうに、一見明るい笑顔でそう言う……。だからライヴをやるというのは難しいものがあるんでしょうね。
(略)

[ツアー中、電車で二人になって、間がもたなくて]

「私の好きなドラマーを当ててよ。5人までで当てるとエライ!」と言って戯けた。せめて3、4人目ぐらいで当ててくれると時間が埋められるのに、「うーん、バーナード・パーディかなあ」と一発で言い当てるんです。それまでふたりの間でバーナード・パーディという名前は一度も出たことないんです。そこなんですね、俊之さんの恐ろしさは。それでまた沈黙の「時」(笑)。怖いよね。

本多 そういえば「戸惑いがない人は嫌だ」っていうことも言ってなかった?

浅川 戸惑いがないのは、ハービー・ハンコック。映画の『ラウンド・ミッドナイト』も観たけど、ハッピーな人。もちろん脈絡もなく短絡的に言えば、プレイの中に戸惑いなんか全然ない。

本多 でもハービーって、そんなに戸惑いなく見えますかね。

浅川 例えばコードの使い方とか、そういうことは私にはわかりませんから。私がハービー・ハンコックを初めて見たのは、確か60年代の中頃でしたけど、そのときから印象は変わってませんね。だけど『ラウンド・ミッドナイト』でのデクスター・ゴードンは戸惑いがありますよね。戸惑いがあるというのは、戸惑って吹いているということでもないんです。

(略)
[好きな映画を問われ、本多が『ジュラシック・パーク』と答えた流れで]

浅川 俊之さん変だね……(略)そういうことをここで言う(略)

俊之さんにはいろんな面があるからね。だから「浅川マキみたいに映画を観てませんよ」って言ったこと、けっこう「心隠して」……でしょ?だってこれはビデオでお互いに観た作品なんですけど、『マスカラ』を観て俊之さん、言ったじゃない。「みんな病んでていいじゃない」って。(略)

本多 病んでるのは好きですよ。マキさんから見れば僕なんか健康優良児のように見えるんでしょうけど。でも病んでるのが好きだということは、実は僕自身、もしかしたら病んでいるのかもね。

浅川 だからさっき私が言ったじゃない。"俊之さんって、けっこう「心隠して」……でしょ?"ってね。だけど、自分自身で病んでると言えるっていうのは、若いパワーかなぁ。

(略)

本多 (略)毒っぽく演奏しようとしても、ぜんぜん毒にならないでサラッとしている人もいるし、サラッと演奏しようとしても毒々しくなってしまう人もいる。それで、あえてここでマキさんと僕の世代の違いということでも、かろうじて共通しているミュージシャンで言うと、ウェイン・ショーターなんてすごくヌメッとしたものがありますよね。マイルスもそうだし。だから、どういってもマイルスに繋がるんですよ。

(略)
浅川 私、もうすぐ2枚組のCDを出すんですけど、この機会に初期の作品から25枚以上の全作品を、吉野金次さんにリマスタリングしていただいたんですね。すごく贅沢なことですよね。それで実感したのは、その「時代」の音についてですね。

(略)

本多 時代の質感は大事ですよ。だから無理に変えちゃうことはないと思いますよ。
(略)

昔の質感があるからこそ謎な部分がまだ残っててさ、それをクリアな音で聴くと、がっかりしちゃう場合もあるわけですよ。例えば、チック・コリアの『NOW HE SINGS,NOW HE SOBS』がCD化されたとき、あれは当時すごくクリアなサウンドだったので、デジタルで聴くと絶対にいいものだと期待していた人が多かった。僕もね。ところが、いざCDで聴いてみると全然アナログの方がよかったわけ。だから不思議だよね。

浅川 さっき吉野さんにリマスタリングしてもらった「MY MAN」を聴いてもらったでしょ。俊之さんが参加しているアルバムですよね。どうでした?

本多 あれはすごく良かった。変えてみると見えなかったものが見えてくることがあるよね。

浅川 ただね、これはヴォーカリストの悩みなんですけどね、今回は曲順を吉野さんにお任せしたんですよ。そうすると、極端に言うと「夜が明けたら」の次に15年後の作品、「ちょっと長い関係のブルース」がきたりすることもありますよね。そこのところ、長く歌ってきた歌手としてはつらい。で今、吉野さんとちょっと険悪な状態(笑)。

本多 (笑)。今までに吉野さんと何回ぐらい険悪になりましたかね。

浅川 ……120回ぐらい。たぶんその次に多いのが本多俊之だと思う。

本多 僕とは険悪になってないですよ、全然!

浅川 あ、だからそういう感じの険悪さです。で、近藤さんとの険悪さは、また質感が違う。

本多 なんとなく性格が悪いみたいに言われてるよね。

浅川 悪いに決まってるじゃありませんか。それが、長い歳月続いたというのは、長い人生「アリガトウ」と言いたい。言葉にすると安直だし、気障で恥しいけど、今ここであえて言わないと......。非情さすらも抱きながらきた……、稀有な日々をね。

 最後に、これは私の、俊之さんに対する夢なんですけど、予算も時間も贅沢して、俊之さんが完全に納得するまでの1枚ができる予感がするんですね。そういうものを聴いてみたいんです。

本多 でも、そこで自分が納得しきっちゃったらおしまいでしょ。

浅川 違うの。そうじゃなくて、それはそれで作っちゃって、後は放り投げて、俊之さん自身はもう聴かなくていい。

本多 うん、かっこいいですね。

 来週から次作のプリプロに入るんで、がんばってみます(笑)。僕はまたマキさんのところで、ぐしゃぐしゃなのをやってみたいですね。ぐしゃぐしゃというのは音楽形態じゃなくて、みんなの心意気なんですよ。だから例えばバラードを演奏していても、内に秘めたそういうエネルギーが感じられることですよね。僕は思うんだけど、マキさんと演奏するときは、まず壊していくんだよね。例えばマイナーもメジャーも関係なくなっちゃう。みんな勝手に壊していくんだけど、そこに不思議な調和が生まれるんですよ。

浅川 俊之さんがどういうふうに思って吹いていたのか、吹いていくのか私にはわかりませんけど、俊之さんやミュージシャンの人達は相当大変な思いをしているんでしょうね。

本多 いや、僕は楽しんでます。二人でのライヴ、またやりたいですね。


 いま、本多俊之さんとの対談を終えて想うこと、それは、昨年の春の終りの頃、新しく作曲してもらったその音楽、一本のカセット・テープを何度聴き続けたか、それに、安直な詩は乗せられない。憂愁、深い一拍、どう表現したらいいのだろう。この一年、その音楽、メロディに埋もれてた「とき」。今度こそ、ゆっくりとわたしの身体に沁み込んだ本多俊之のメロディを歌おう。

 

 近藤等則さんのトランペットが聞こえた。ぎわめきと拍手が起きる。彼は客席の一等後方から吹きながら登場したのである。向井滋春さんのトロンボーン、本多俊之さんのサキソフォン、いよいよ今夜やって来た演奏者全員が舞台に立つ。

 大音量の洪水のなかで、わたしの声は漂う。

 その歌詞は、客席にはっきりと伝わる筈もない。小劇場にこのミュージシャンの大合奏だ。いい音だ。豊かで、いつまでも耳に残るだろう。そんななかで、わたしは右に行くでもなく左でもなく、しかし気持は決して後に行くことはない。歌詞のあるわたしのうたは、ちょうど楽器のひとつのように伝わっている。

(講談社刊『幻の男たち』より)(1990年)

マイ・マン(紙ジャケット仕様)

マイ・マン(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト:浅川マキ
  • ユニバーサル ミュージック (e)
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一九六五年のわたし 浅川マキ

1975年 『JAZZ』二月号

(略)

 私の六五年頃というのは、日本ではレコードの原盤制作はマイナー・レーベルでやって、売るのは大手のレコード会社がやってました。(略)

 大手で原盤を制作するということが全然なかった時期にそれをやろうとした人が居て、その第一号が私だったんですネ。それまで、ずっと米軍キャンプとか、主に日本のキャバレーとか……そういう所をずっとフロアショーで歩いていて、ちょっと怪しげな発音をあやつって、黒人霊歌なんか唱ってて

(略)

[「東京挽歌」]

小林亜星さんという人が作曲して全然売れなくて、キャンペーンみたいに釜ケ崎まで行ったんだけど、全然ダメで……。まあ、唱い方というのがあって、私、ジャズが好きだったから、なんかこう、あんまり無理のない発声をしてたからミミズが這いずってるみたいで、「歌謡曲としては通用しない」って言われて、歌謡曲の先生の所へ行ったんですよ。そうしたら五日間で声がつぶれて。(略)日に日に売れないっていうのが判って(略)悶々としていた時期ですね、六五年頃というのは。

(略)

 コルトレーンが来たのは六六年ですよネ。(略)行きたかったんです。理由なんか何もなく、唯わけもなく聴きたくて、私が行けないんなら一緒に住んでいるピアノ弾いている男に行ってもらいたいと思ったけど、お金もなく(略)今思うと死ぬ程くやしいけどね。あの時、入場料が三千円くらいじゃないかな。(略)友人もいないし、もう千円だと辛いわけですよ、入場料が。

(略)

 よく新宿のジャズ喫茶で夜明かししましたが、その頃、すごく自分に好きなレコードがあると番号写して来て、お金あると買ってきて聴くという風でしたから、脈絡なんて全然判んないわけです。(略)ジャズがいちばん何か聴きやすかったっていう感じですよね。だから六五年に何してたかというと、キャバレー回りと、大根の値段と、ジャズ喫茶の夜明かしですね。

(略)

アビー・リンカーンとマックス・ローチ、それにハンク・モブリーなんかが一緒に来たとき、ハンク・モブリーというのはわからなかった、あの時に。かったるいような感じで、ああいうのあんまりいいと思わなかった。それよりコルトレーンだと、いいなあっと思う。

(略)

私はジャズと演歌しか聴かなかった時代が六、七年あって、それも、ものすごく偏ってて、ビリー・ホリデイとマヘリア・ジャクソン、デューク・エリントン、それにコルトレーンと、かたまっちゃってるんですね。だけど、外国からジャズ・ミュージシャンあんまり来ないんで、肌に触れたいという意味では、ホレス・シルバーからはじまって……日比谷の野外音楽堂でトニー・ウィリアムスがまだ有名でない頃来て、よかったのネ。「あのドラムの人、いいじゃない」って言うと、まわりの人が白い眼で見てね、ジミー・コブが次に出たもんだから、白い眼で見られたり、懐かしいですよね。
ホレス・シルバーのときは一緒にクリス・コナーも来たんですよ、大分昔みたいだけど。その時は、なにがなんだかわからなかったんです。自分が惚れた男が、いいって言うから聴きに行った、みたいなことからはじまっているんで、男に影響されたというのかな……。で、暮しているうちに、ジャズ喫茶で夜明かししてても男の方は十二時何分かの最終電車で帰っているのに、私はどうしても夜明かししちゃって……。

(略)

 ジャズって最初は本当によくわかんなくてネ。今でもわかんないけど、少なくともジャズ聴いていていい気分になれるという類のものだし、なにか変だなっていう感じで聴いていて、そのうち楽しいっていうより、一般的にスウィングするとかそういうことよりも、きつい聴き方してるけど、すぐ、こう、痛めつけながら解放してくれるみたいな、そんなものがなんとも好きだったりしてネ。それが、どう自分とつながるのか本当にわからないの、全然

(略)

 男の人と暮らしていてね、形式を追ってるような気がしだしたんです、ジャズという形式をネ。すごくやさしい人だったし、いい人だったんだけど、私とは違うって感じね。ジャズ喫茶で、このレコードいいなあって思うと買ってきたというのが私で、このレコードの人がこういう死に方したんだと思うと、ウーンやっぱり、って思うの。でも彼の場合は、そういうことあんまりなかったみたい。それよりも、どの音とどの音を積み重ねると、この音がでるとか、左手の使い方はこうだとか、という風なんで……。ジャズを聴いた時の思い方みたいなものが違っていたんじゃないかと別れる頃はすごく感じてましたネ。

(略)

 「コルトレーンがよだれ垂らしながら吹いたよ」って聞くと、それはもう聴きたかったなぁ、と思うわけで(略)

だから、何々風だとか、何々の系統とかネ、私は語れないし、その人をバッと見て、どれだけ私を解放してくれるかみたいなところで、のめり込んでいくみたいなことですよね。

(略)

コルトレーンという人がいたことが、ものすごく大きかったわけで、その人がどういう人だったかと解説なんかいっぱいあるけど、私なりに思ったことのほうが、今私にとってすごく重要なことでね。私の中にある思い込みみたいなもの、例えばどの音が好きでそれにのめっていくかということと共通してるような気がしてるんです。そういう意味で、コルトレーンっていうのは一種の思いがあってね。それが懐かしいというところにはつながんないですよね。

(略)

ある情況の中でプレイしてたから、そういう情況じゃなきゃわかんない、ということではないというところまで、あのコルトレーンっていう人は表現してるって気がするんですよね。だから、形式で語れない人じゃないかって

(略)

(一九七四年十一月二十七日夜・六本木の自宅にて談)

次回に続く。

スティーヴ・ハウ自伝 その2

前回の続き。

パトリック・モラーツ、『リレイヤー』

 かつて初めてのUSツアーに向かうとき、空港スタッフが私たちの機材をぽんぽんと放り投げていたのを見ていたので、あんな目にあうのは二度とごめんだった。その代わり、会場から会場への機材搬送はトレーラー・トラックが使われるようになった。ツアー日程は主にトラックが時間内に到着できる地点によって組まれた。次に考えなければならなかったのは自分たちの移動スケジュール。(略)

3回目のUSツアーの時点で私たちは移動を確実にするため、次の都市へ直行できるジェット機をレンタルするようになった。アメリカ全土に渡って小さな私設飛行場があり、そこに着陸すると滑走路で待機していた車にそのまま乗り込む。チェックインもなければ身体検査もない。荷物の移動も楽でギターに優しい。究極の移動形態だっ
た。

(略)

 当然これは代償を伴う。そもそもとんでもないコストがかかった。だが純然たる利便性を考えるとこれに勝るものはなく、どこへでも時間通りに快適にたどり着けることは、コストに見合うものだったとクリスと私は思っていた。

(略)自分たちだけのスペース、スケジュールで動くことができ、プライバシーも保てる。失うには惜しい贅沢だった。

(略)

 『海洋地形学の物語』を制作しツアーに出た辛さのせいで、リックはイエスから1回目の脱退をした。彼の後釜に誰が座れるというのだろう?ましてや彼を上回ることなどできるだろうか?

(略)

 私たちは巨匠ヴァンゲリスとバッキンガムシャーの納屋を改造したスタジオで2週間過ごした。忘れられない経験だった。ずらりと並べられたキーボード群をさらりと弾きこなしながら、エコーのリピートとリヴァーブがたっぷりかかった豊かなサウンドを彼は作り出す。見た目からもそうだが、音楽的にはなおいっそう自信が滲み出ている。曲を完璧に弾きこなす絶妙な技に、私たちはときとしてどっぷり浸かり、ほとんど圧倒されていた。さらにはあの部分ではドラムやギターはこうプレイしたほうがいいと実演まですることがあった。だが毎回同じものをプレイすることに彼は懐疑的だった。(略)

根本的な部分で、ヴァンゲリスとのケミストリーは生まれなかった。

(略)

 キース・エマーソンにも電話したが興味を示さなかった。すごいバンドにいるのに、なんで抜けてそっちに入る?私は言った。「こっちのほうがヴォーカル・ハーモニーは分厚いし、ギターも多い(!)。それにもっともっと成功するからさ」。「いや、遠慮しとく」。彼の返事は素っ気なかった。

 私たちの目は、ちょうど注目を浴びようとしていたレフュジーというバンドに向けられた。(略)パトリック・モラーツ。なかなか見栄えのする、かなり派手なヨーロッパ人だった。そのスタイルはダイナミックなジャズが身上で、大胆さの点ではリックやトニーよりも上だ。大量のキーボードを擁し、それらを使いこなす度量がある。彼がイエスに加入し、そこから私たちの次のアルバム、“ソロ・アルバム"の時期、そしてバンドとしてのさらなるツアーを包括する3年間が始まった。ライヴでの彼は秘密兵器であり、先入観を揺るがし、忠誠心を駆逐し、ヴァンゲリス並みのめざましい演奏を繰り広げた。

 新曲に取り組む作業は1974年6月頃に急展開を見せた。エディ・オフォードが24トラックのモービル・レコーディング・システムを購入し、それを設置する家が必要となったためだ。クリスはサリー州ヴァージニア・ウォーターズに邸宅を持っていた。地下には彼が自分のスタジオ用に準備していた空き部屋がいくつかあり、演奏するエリアと小ぶりなコントロール・ルームに当てられる予定だった。エディの機材はここに設置され、それからレコーディングのためにキーボード、ギター、アンプ、ドラムが続々と運び込まれた。

(略)

夕食は上の階にある広いダイニング・ホールの長テーブルに用意される。ドライヴウェイにはレンジ・ローヴァー、ベントレー、ロールス・ロイスなどみんなの車がぎゅうぎゅうに停められていた。

(略)

 レコーディング開始。のちに熱心なファンのお気に入りアルバムとなる『リレイヤー』だ。

(略)

 このアルバムではフェンダーのギターしか弾いていない。それもとくに1955年のテレキャスターだ。フロント・ピックアップをギブソンのハムバッカーに付け替えてあるので、必要なら厚みのあるふくよかなサウンドも出せる。(略)

『究極』、リック復帰、ウェス・モンゴメリー

 バンドがレコーディングに戻ることになっても、イギリス国内にこだわる必要は感じなかった。イエスはどこでも好きなところに行ける。あれこれ考えて、場所はスイスがいいということになった。モントルーのカジノにあるマウンテン・スタジオを訪れると、すべてがしっくりはまった。私たちが着いたときちょうどELPがレコーディング中で、スタジオ・モニターで何曲か聴かせてくれたが、それがほぼ最大音量だった。ミュージシャンが失聴するのも不思議ではない。だが爆音でプレイバックを聴くのが当時のトレンドだった。

(略)

 パトリックはスイス生まれなので、モントルーにはある意味なじんでいた。

(略)

 のちにカウント・ベイシー・ホールとなるカジノの一角で、私たちは『究極』となるアルバムのリハーサルを開始した。道に出れば向こうにはフランスの山々、背後にはスイスの山々が控え、息を飲むようなパノラマが広がっている。スイスは絵ハガキのような場所だった。

(略)

パトリック・モラーツと一緒に作業に入ったものの、2週間後には彼はどうにも苦い顔をするようになった。彼の望みはもっとジャズ寄り路線だった。「いや、そっちには行かないよ」と私たちは彼に伝えた。なんとか彼と続けようと散々努力したものの、打つ手はなかった。

 レコーディングに予定した期間が始まってからキーボード奏者を交代しなくてはならないというのは異常事態だ。(略)そこで自分たちに問うた。リック・ウェイクマンと決別したときの傷はもう十分に癒えただろうか。(略)答えはイエスだった。リックが復帰し、アルバムの輪郭がよりくっきりした。楽曲にかける熱が増し、一筋縄ではいかない曲が進化すると、私たちはいつものように完璧さを求めて楽曲を磨きあげていくようになった。「悟りの境地」は70年代最後のアンダーソン/ハウ作の曲になる。

(略)

「不思議なお話を」はポルトガル・ギターと最後のジャズっぽいフレーズはギブソンL-5で弾いている。

 L-5を使ったのはウェス・モンゴメリーへのオマージュだった。(略)

モンゴメリーほどの音楽的クールさと柔軟性を発揮できるレベルにいる人間はほとんどいない。類いまれな即興演奏者として、オクターヴ、シングル・ノート、コードを組み合わせ、親指も使った惚れ惚れするようなトーンを生み出していった。

(略)

 私は1963年にロニー・スコッツ・クラブでモンゴメリーを見たことがある。(略)

奥の楽屋からウェスが出て来たとき、彼の顔に浮かぶ満面の笑みを見て私はいきなり心を打たれてしまった。その笑みは素晴らしいパフォーマンスのあいだ中続いた。私は今日まで、ショウの最初から最後まであんなふうに笑顔だったパフォーマーを他に見たことがない。次々と弾かれる曲を聴けば、彼がギターを完璧にコントロールしていることが分かる。(略)

あの大きな手が静かにギターを奏でる様を目の前にすると、ひれ伏したくなった。(略)

 おそらく一番好きな音源は『ジ・アーティストリー・オブ・ウェス・モンゴメリー』になると思う。全フォーマットで所有している「ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームス」はロマンティック・ギターの最高峰と言える曲。

(略)

『究極』にはポジティヴなエネルギーと穏やかな美がきらめいている。これはおそらく私たちがディテールにまで細心の注意を払ったためだろう。例えばタイトル・トラック曲の場合、27種類のミックス(略)を作った。(略)私は2番目にやったミックスで十分オーケーだとずっと言い続けていた。もう一度聴いてみないか、と私はみんなに言った。いざそうしてみたら、なんということか、あとの25種類のミックスよりこっちのほうがよかった。

 アルバム・ジャケットは想定外のものになった。一人を除く全員がロジャー・(ディーン)にデザインを頼みたかったのに、何か誤解があって結局はヒプノシス(ストーム&ポー)が彼らのストックしていたデザイン案をいろいろ提示してきたからだ。これまでロジャーとやってきたジャケットに比べれば、イエスらしさも、感情に訴える感じもまるで足りなかった。いわゆるヒプノシスらしいデザインだったが、私を含めて全員が満足しなかった。ただし彼らだってできるだけのことはやったわけで、責める気はなかった。こちらが発注先を間違えただけの話だ。

(略)

1976年7月のアルバム・リリースに合わせたツアーの準備に入った。

(略)

 この時期にコンコルドが運行を開始している。(略)私はこの飛行機で大西洋を14回渡った。まさに最高の旅客機だった。エイジアやGTRのメンバーたちも、約3時間そこらで"大きな池"の上を飛ぶ宇宙時代の乗り物を大いに楽しんだ。

(略)

『トーマト』

 1977年の暮れに『究極』ツアーを終えたイエスは、次のアルバム『トーマト』リリースに向けて、1978年8月まで曲作りとレコーディングをおこなった。

(略)

 ハーディ・ガーディを弾けるように練習していた。1600年代のパリでとても有名だった、フランスのいにしえのストリート楽器だ。(略)

まさしく中世そのものなので、出てくる音も想像を超えた古めかしい不気味な響きを持つ。実は、この楽器を「UFOの到来」のオーヴァーダブで使えないだろうかというとんでもない考えが浮かんだ。(略)回転盤を回し素晴らしい不協和音を響かせて、ぞっとするような騒音を鳴らした。「だめ、だめ」と、私のバンド仲間はたちまち反応した。「二度と使用禁止」

 同じようなリアクションはリック・"冗談は通じない"・ウェイクマンにもあった。私が市販の8トラック・カートリッジを密かに入手し、リックがトイレに行った隙にそれをみんなで彼のダブル・マニュアル・メロトロン・キーボードの内部に装着してある8トラックと入れ替えた。戻ってきたリックが(略)メロトロンを弾いたとたん、シールズ&クロフツ、フランク・ザッパなどの曲がまぜこぜになったぐしゃぐしゃの音が飛び出してきた。(略)まったく面白がりもせず、頭に血が上ったリックはスタジオから飛び出していった。

(略)

[アルバム発売に伴うUSツアー、リムジンとプライベート・ジェットを使っても]

ピリピリした雰囲気とプレッシャーは避けられない。(略)ある晩、ジョンとクリスの口論がひどいことになり、あろうことかクリスは本番直前にジョンにオレンジ・ジュースを浴びせかけた。遅刻はクリスの常で、もめ事の原因になるばかりか、私たち全員の時間を無駄にしていた。

(略)

 ツアーが終わると私たちは散り散りばらばらになった。おのおのに目指すものがあり、それらが私たちを違う方向へ向かわせている。だからこそ、ジョンと私が共作をすることもなくなった。もう無理だった、ポットは空っぽだった。『究極』のときに作った「悟りの境地」がフィナーレとなった。

決裂、財政問題、バグルス

 1979年の暮れにかけて、イエスはニュー・アルバムのためのレコーディングを事前の曲作りもリハーサルもせずに国外でおこなうという軽率な試みに走った。ジョンとリックはアルバム用にいくつか共作していたようだったが、問題があった。クリスと私がその曲にどうにも入り込めなかったのだ。私たちはやや神経質になり、作業をしていたパリのスタジオの雰囲気になじめなかった。曲そのものもこれまで手掛けてきたものとまるで違う。バンドの方向性についてクリスと私は戸惑いを覚えた。それに今回のプロデューサー、ロイ・トーマス・ベーカーとも話が合わなかったし、彼が作るいかにもヘヴィっぽくしたドラム・サウンドも気に入らなかった。自分だけの隠語(「うんちブー」と言えば「1回録ってみよう」の意味)を使ってプロデューサー風を吹かせもした。

(略)

 パリとロンドンを往復しながらの作業。スタジオに近いホテルはひどくて、寒い上にうるさい。ラフなリード・ヴォーカルを録ったものの、ぱっとせず迫力もないように聴こえた。リズム的にちよっとダメな曲もあった。

(略)

 「そのあとパリでどうなった?」と尋ねる向きもあるだろう。実はこの行き詰まり状態を解決したのは、一つの事故だった。アランが足を骨折した。確かスキー中だったと思う。作業はすぐさまストップし、私たちはさっさとパリを脱出して、今の状況をもう一度真剣に考えることになった。(略)[未解決の音楽的な方向性に加え]差し迫った財政問題が浮上してきた。

(略)

 ミーティングで(略)ピンク・フロイドのほうがはるかに大きな収入を生み出していると知った。(略)これほど長く成功してきたのに(略)[イエスの銀行口座は]どうやら空っぽらしい。単純な解決策が決められた。(略)不均衡なお金の流れを調整し、"たまたま生じた"不平等を是正するためだ。全員が納得したわけではなかったが、最終的にはそう決まった。(略)イエスの一人のメンバーが他のメンバーより値打ちがあることなどあり得ない。私たちは共に駆け上がってきたのだから、それぞれが平等・公平に利益を受け取る資格がある。

 この公平性を達成するまでは何年もかかった。

(略)

 リハーサルを再開(略)アラン、クリス、私[で作業](略)

ジョンもリックもまったく姿を見せなかった。

 それから数週間後にジョンが現れ、バルバドスで書いたという新曲をいくつか聴かされた。私たち三人のほうは速いリフに重いドラムの結構大がかりな構成を持つプログレッシヴな曲を作っていたのに対し、ジョンの曲はフラワー・パワーのそよ風が吹いたような、軽くてひらひらとしたものだった。メジャー・コードとキャッチーで唄いやすいサビだらけだ。「妙なことになった。方向性が真っ二つに分かれた」と私たちは思った。ジョンはその日のうちにスタジオを出たので、その後の共同作業はなかった。残った三人は引き続き集まってさらに曲を作ることにした。三人で力を合わせ、ジョンと(ジョンの尻尾をいつも追いかけていた)リックの穴を埋めなくてはならない。

 ちょうど同じ頃、トレヴァー・ホーンとジェフ・ダウンズからなるバグルスは、「ラジオ・スターの悲劇」でポップ・チャートを席巻していた。そのバグルスのアルバムを聴いてみたらとクリスから薦められたときは驚いたが、彼はバグルスを"かなりプログレッシヴ"だと心から思っていた。壮大なキーボードにクオリティの高い音作り、考えさせられる歌詞といい、確かにとても進歩的だ。この二人組ならイエスの好敵手になれるかもしれない。面白いことに、彼らはマネージメント業務を担当してもらえないかとすでに私たちの事務所と接触していた。そこでその機を逃さず、挨拶代わりにリハーサル・スタジオに彼らを招待した。できればイエスへの加入話を切り出す考えもあった。ウマがとても合ったので、彼らの機材も運び込んで一緒に演奏を始めてみた。するとすぐさまピンときた。久しく感じることのなかった何か――貪欲さと興奮だ。今後に向けて素晴らしいポテンシャルがあると感じられた。

(略)

 分裂した理由の約半分は音楽的なものだったが、他の理由にははるかに複雑なもの――性格の不一致、財政面での考え方の違い、主導権の奪い合い――などがあった。バンド内の争いを売りにすることなど、本書を執筆しようと思ったきっかけでは絶対にない。だが確執の中にはあまりに浅はかなものもあり、黙っているわけにもいかない。自分たちがイエスを仕切っていると考えていたかもしれない輩がいた。だが彼らがそう思っていたとしたら、それは単なる思い込みに過ぎない。イエスの中には声が大きい者と小さい者が常にいた。つまり対立を好むメンバーと好まないメンバーだ。表向きにはバンドというものは民主主義であったし、今もそうだ。一人ひとりに投票権があり、多数決が勝つ。

(略)

 70年代の半ば、私たちの著作権収入が大幅に減るという事態があった。それは私たちの曲が"二重出版"されてしまうような契約のせいだ。出版社2社が私たちの楽曲から著作権使用料の分け前を取ることになり、それだけでも本来私たちが受け取ることのできる額からすると大打撃だ。それに輪をかけて、巨大なステージ制作費用、プライベート・ジェット代、おしゃれなホテルの宿泊費などがかさんでしまい、私たちのツアーの収益やアーティスト印税が食い尽くされるのは自明のことだった。それでもまだ足りないかのように、私たちの個人支出が収入を超えようとしていた。どうにかこうにか毎回そのハードルをクリアしはしたが、それは単にまた次のハードルに近づきつつあることでしかなかった。

 1980年、新しいラインナップの誕生によって、私たちはこれまでの経営体質をリセットし過去と縁を切る格好の機会を得た。

(略)

最初の10年は私のギターを前面に打ち出してイエス・サウンドを世界に知らしめた歴史的な10年だった。1980年当時、私たちは「生命感あふれる素晴らしいレコードを作ってこの10年を締めくくろう。一音符、一文字もおろそかにせず、どのビートも間にも自らを語らせよう」と思っていた。

『ドラマ』

『ドラマ』のレコーディングを開始した。

(略)

当初エディ・オフォードと組んだのは、クリスがパートナーシップは"昔と同じように"したほうがいいと信じ、押し切ったからだった。しかし、昔と同じようにはならなかったし、無理な話だった。

 あるとき私たちはミックスをプレイバックしていた。コントロール・ルームに入ってきたエディはそれをマルチ・トラックから流している音だと思って、フェーダーを動かし、ディレイをかけたパンニングして、自分がサウンドを変えているのだと勝手に勘違いしていた。曲がフェードアウトすると、私たちは大声で「エディ、今のはミックスしたやつだよ!」と言った。

 エディは3週間後に去った。決定的なある午後に彼は私たちに言った。「コントロール・ルームのデスクの前で仕切り役をするよりもっと面白いことが俺にはできる」。

(略)

「分かった。もう我慢できない。君はクビだ!」と私はエディに言った。「正式に解雇する!ここから出て行け、今すぐ!」

(略)

『リレイヤー』の終わりの頃から、彼はツアー中にヘマをしでかしたあとずっと"自分を立て直そう"としていた。本当に熟練したエンジニアで、穏やかだが少しネジの外れたところもあった。矛盾の塊。ホテルのロビーをオートバイを押してエレヴェーターに乗せようとしている姿を想像してほしい。「自分の部屋で修理しようと思ってね」

 ヒュー・パジャムがエンジニアとして参加すると、タウンハウスでの作業にはいい時間が流れるようになった。

(略)

トレヴァーと私が最後まで残ってほとんどのトラックのミックスに立ち合った。他のメンバーはみんなヴァカンスに出かけてしまい

(略)

 この作品をどこから見ても非の打ちどころのないイエスのアルバムにしなくてはならない。そこでロジャー・ディーンが復帰し、完璧なジャケットを作った。

(略)

[アルバム発売後の]USツアー(略)マディソン・スクエア・ガーデンでのソールド・アウト公演数17回という、その時点までの最高記録を作った。

 イギリスではやや事情が変わり、ジョンとリックの不在を嘆く頑固なファンたちが、やじを飛ばしたり騒ぐことがあった。しかもメンバーの何人かが悪癖にはまったおかげで満足のいく演奏ができなかった。誰とは言わないが、そういう連中は改心することなど滅多になく、残念ながらすぐにもと通りの習慣に戻っていく。私たち全員にとって試練のときだったが、中でもトレヴァーは辛かった。昔の何曲かのキーを下げてみてはどうだろうという彼の意見を、私たちは(おそらく)軽率にも却下し(略)とてつもないプレッシャーを与えてしまっていた。同じことが2008年にも起きる。ベノワ・ディヴィッドがこうしたほうがもっとうまく唄えると提案しようとしても、私たちはまともに取り合わなかった。

(略)

 『ドラマ』は真にイエスを代表するアルバムだと私は思っている。もしも聴いたことがないのなら、ぜひ聴いてみてほしい。そこにはイエスの音楽が、私たちが愛した心躍るメロディの数々が、ある意味過去10年の総決算として大海原のように広がっている。本質的には私たちは、個々のプレイにちょっと重点を置いた、ただのロック・バンドだった。

(略)
ツアー最終日、想定内のパニックが起きた。誰が45分遅刻したか……言わずもがなのクリスだ。「だってクリスなのよ」と彼の妻は言った。なんの慰めにもならない。それまでの10年を通して、私は何も進められないままクリスをずっと待っていた。

(略)

 1981年1月初旬[の話し合い](略)

クリスとアランはジミー・ペイジとコラボしてみると宣言し(略)、トレヴァーはバグルスの次のアルバムの録音があると言い(ただしジェフは全面的に参加するかどうか決めかねていた)、私はイエスとして活動することができる。ということはつまり、ジェフと私だけがバンドに残ることになりそうだった。

 そのことについてちょっと考えてから、私はジェフに言った。「三人のメンバー・チェンジ?冗談じゃない」。

(略)

とはいえイエスを続けないという決断は簡単ではなかった。それを切り抜けられたのは、私の健全な精神状態のおかげだ。それはひるがえれば、私とジャンが1972年に菜食主義に転じて以来従ってきた、食と健康に関する指針によって培われてきたものだった。この時点でイエスは終わりだった。少なくとも1982年に挑戦状に応じるまでは。

エイジア

 イエスを離れると決めて数ヶ月かのうちに、ジョン・ウェットンと会った。
る。
[何日か一緒に]大音量でリフを鳴らし、シンプルなジャムをしながら、お互いの相性や、曲を一緒に書けるかどうかをチェックし合った。最終的には共作曲となるいくつかの材料が生まれたような気がする。

(略)

[サイモン・フィリップスに]声をかけた。数日前に見たジェフ・ベックとのプレイが強烈だったからだ。リダンにやって来た彼が組み立てたドラム・ライザーとキットは、部屋の半分も占めるほどのものだった。そしてそのプレイもまたすさまじかった。彼も曲を作りたいということだったので(略)三人で何曲か演奏し、軽くオーヴァーダブもおこなった。かなり見込みがありそうな流れだったが、まったく無関係らしい別件のせいでサイモンが私たちと組むことはなかった。互いに悪感情はない。このとき録った2曲は、一つは"タイトルなし"だがもう一つはやがてレコーディングすることになる。

 ELPが活動休止中だったので、ジョンはカール・パーマーをノミスに誘った。(略)

1981年半ばのある午後、三人で一緒にプレイしてみた。結果は上出来で、新しいバンドを始められる手応えを感じた。

 ジョンとカールはギター・トリオを思い描いていた。これはある意味光栄なことではあったが、私の頭の中にはギターとキーボードのインタープレイの応酬と音色が聴こえていた。私は二人にジェフ・ダウンズの鍵盤奏者及び曲の作り手としての才能を伝えた。(略)ジェフを呼んでのノミスでのセッションもうまくいったが、オーディションはそこで終わらなかった。妙な話だが、私たちはさらにメンバーを増やすために、さらなるミュージシャン/ライター/シンガーを探し始めた。(略)ロバート・フライシュマン、そしてトレヴァー・ラビン(!)をオーディションした。その後、ロイ・ウッドと会って話をしてみて、私たち四人だけでラインナップはもう完成しているということがはっきり分かった。

(略)

 バンド名として"エイジア”が選ばれた。(私の記憶では)全10個の候補のうち9個が却下されて、残ったのがこれだけだったからだと思う。確かに"スカンソープ"とかよりは断然いい。

(略)

 ほとんどの曲のレコーディングが終わると(略)デヴィッド・ゲフィンが様子を見に来て、本当に強力なシングルにふさわしいものがあと1曲欲しいと言った。幸い、ジョンとジェフが書いた中にもう1曲ストックがあった。「これをもう少し肉付けしよう」とジョンと私がヴァースのコードをざっと弾いた。サビのパートはベースの進行が興味深く、軽快に展開する。「ヒート・オブ・ザ・モーメント」のバッキング・トラックを録り、細部を仕上げていく作業は手間がかからなかった。

(略)

 エイジアが成功を収め、かつてイエスが歩んだ道を駆け上がろうとしている状況に私は満足感を覚えていた。アメリカであっという間に火がついたので、日本とオーストラリアもツアーで回りセールスを上げられるのではないか。私にとってエイジアはどこか再来感のようなところがあった。1967年にトゥモロウはある程度売れた。70年代にブレイクし、大きな成功を収めたのがイエスだった。そして今、エイジアとしての私に同じことが再び起きつつあるのかもしれない。

(略)

 プレイヤーとしての私の人気も相変わらず高かった。アメリカの由緒ある『ギター・プレイヤー』誌の人気投票ギタリスト部門で、1977年から1981年まで(史上初の)5年連続1位。(略)何度も特集を組まれ、長いインタヴューと共に表紙にもなった。

(略)

 これまで変性意識について学ぼうとさまざまなメソッドを試してきたが、1982年の終わり近くに、私は瞑想のためのアプローチを一つに絞り込むことにした。変性意識は禅、道教、仏教、インド式水平弛緩、多様なチャントやマントラを参考にした呼吸法によって喚起することができる。

(略)

私は自分の意思で選択し、過去30年に渡って超越瞑想のメソッドを採用している。皆さんも自分に合うものが見つかれば、しばらくやってみてどうなるか見てみるといい。(略)

黄金期ラインナップ、クリスの悪癖

スタジオに入り『スカイライン』のミックスを終わらせ、1ヶ月後には曲順も決めた。

 その一方で、流動し続けるイエスのラインナップとツアー計画の状況が漏れ伝わってきた。複雑怪奇なバンドの歴史の新たな一章がまたしても始まろうとしている。大規模なツアーが予定され、リック・ウェイクマンが復帰し、黄金期ラインナップが再び現実のものとなった。

(略)

 振り返ってみると(略)このときのイエスは規律もなく統制が取れていなかった。本来なら動くはずの大昔の機材(予備もない)の修理に何時間もかかってしまう。クルーたち(略)が、ぎりぎりまでセッティングに追われている。しかもツアーは始まってさえいない。リハーサルで私たちは全体の通しをすることもほとんどできず、最終日は"本番通し"とされていたものの、待ちくたびれてしまうことばかりだった。そして一人が抜けたとたん、何もかもが終了してしまう。

(略)

 このツアーでは残念ながら、だらしない振る舞いが垣間見えるようになった。 暴飲やある種の物質の摂取の影響で、バンドの深夜行動が度を越してしまっている。私が寝ようとする時間に、他のメンバーたちははるか昔の自分たちをなぞるようにバーやクラブに出かけていく。ステージ上での音量がやたらうるさくなり、演奏ミスでライヴの流れが止まる。褒められたものではない。客は気づくわけがないと言い出す人間もいれば、ちょっとラフな演奏のほうがライヴ感が出ていいというとんでもないことを言う人間もいた。私にはそうは思えなかった(略)

2001年から私たちは本番が終わるまではアルコール禁止という厳しいルールを設けていた。だがルールが守られたのは数日のみで(略)隠匿物質は普通に行き渡っていた。本番前にクリスの楽屋に行って、曲のある部分について尋ねたときのことだ。ブランデーの強い匂いがした。飲んでいないとクリスはさらっと言った。ははは、そうだよね、もちろん。クリスのプレイは依然として抜群だったが、私たちのコミュニケーションは――かつてはステージ上でありったけのエネルギーが発揮されていたのに――狂騒の中でかき消されていくことになる。どんちゃん騒ぎ、熱狂的なファンたちとの最前列でのパーティ。それが糧になる人もいるだろうが、おおかたにとってはショービズの世界のただのネタに過ぎない。あとになってクリスは飲酒を認めたが、だからといって止めることは絶対に無理だった。 考えてみてほしい、一杯ならまあいい。だが一本なら?だめだろう。ビールが他の瓶に移され、行く先々にこっそり持ち込まれる。だがステージでの演奏が私たちの本業だ。(略)

準備万端、頭すっきりで臨むべきだ。頭が痛いとか気分が悪いとか二度と言うな。さっさと支度して、備えろ。

(略)

 ライノ・レコードが計画している35周年ボックス・セットについて先方から連絡があった。90年代に出た前回のコンピレーション『イエスイヤーズ』では音源供給元として私のクレジットはなかったが、スタジオ・セッションの4分の1インチ・テープをずっと保管していたから、こういうコンピレーションのプロジェクト向けの掘り出し物やマスター音源には事欠かなかった。その後も『ヒストリーBOX』でライノは私のテープ在庫から大量に使用する。

(略)

エイジア再結成

 2006年の初め、マネージャーのマーティン・ダーヴィルから、オリジナル・エイジアの再結成について電話がかかってきた。うん、素晴らしい。もしも可能ならば、ちょうどやりたいという気になっていたからだ。

 1月5日、パディントン駅近くのホテルに集まった。(略)ジェフ・ダウンズ、カール・パーマー、そしてもちろんジョン・ウェットン、私が一堂に会した。みんなが腹を割って話した。その結果まとまったのは、過ぎたことは過ぎたことであり、過去を振り返らないのなら、私たちは一緒にできるのではないかということだった。日本、 アメリカ、イギリス、ヨーロッパからもツアーの引き合いが殺到するだろう。新作をレコーディン グして成り行きを見てもいい。イエスは休暇中だから鬼の居ぬ間のなんとやらというやつだ。23年前に私たちが持っていた確固たるチームワークを再び示せるのなら、いい結果が出せるかもしれない。バンドを始めたのはジョンと私であり、その二人が気持ちを通わせているのなら、ジェフとカールにとってもやりやすいはずだ。

(略)

 今はヤマハに買収されたLine6と私の関係は、彼らのモデリング・ギターであるVariax を手にして以来、ますます良好なものになっていた。Line6のVETTAIIアンプのプログラミング技術に非の打ち所がなかったことで、私は45年使ってきたフェンダー・アンプに別れを告げた。自分でプログラムを組むことは昔もできなかったし今もやらない。(略)スティーヴ・バーネットがセットリストの曲 に合わせてプログラムしてくれる。だから私は求めている質感にふさわしい音色、ディレイ、ディストーションその他のエフェクトを呼び出すだけでいい。 これはエイジアやイエスのツアーでもお こなっているやり方だ。HD500、そして究極のエフェクト・プロセッサーでありアンプ・モデリングである現行のHelixシステムを開発して以来、Line6の機材は飛躍的によくなっている。ちなみに私はツアーのとき必ず最低2台の同じアンプを持っていく。いつなんどきバックアップが必要になるか分からない。

 エイジアとして3月4日の名古屋から始まる日本公演が控えていた。(略)どうやら私たちの演奏を聴きたくてうずうずしているということだ。それを証明するかのように、大阪公演後の東京公演は5日間連続だった。行く先々で、かつてのエイジアのときの感覚を味わった。この頃のセットリストには、エイジアの曲以外にいわゆる四人を"代表する曲"も入っていた。私は「ラウンドアバウト」、 ジェフは「ラジオ・スターの悲劇」、カールは「庶民のファンファーレ」、ジョンは「クリムゾン・キングの宮殿」といった具合。(略)オーディエンスはライヴの中で、五つの異なるバンドの記憶を呼び起こす。それに加えて 私にはソロでのアコースティック・ギター・コーナーがあり、そこでは「インターセクション・ブルース」などを弾いた。毎晩、1、2曲は違う曲を選ぶようにしたら、大勢のオーディエンスがあとから私のところに来た。彼らは「スティーヴ、今夜はあれとあれを演奏してとてもよかった」と言って、私の選曲にきちんと気づいていてくれた。いろんなソロ曲をたくさん弾けると高揚感が増す。

(略)

 過去23年間の休眠状態を経て、エイジアに心からの敬意と愛を示している多くのファンたちが突然復活した。

(略)

 ツアーが終わるとエイジアは再結成後初となるCD(2008年に『フェニックス』としてリリース)のための曲作りとレコーディングの準備に入る。(略)

90年代にあったジョン・ウェットンと私の曲作り上での確執はいまや氷解し、コラボレーターとして確固たる関係になった。私の曲を心地よさそうに唄うジョンの声を聴くと、今でも幸せな気分になる。

イエス再集合

 イエス陣営のほうからとてつもない話が流れてきた。エアロスミスのマネージャーのトゥルーデ ィ・グリーンがイエスのマネージメントを申し出たという、いささか驚きのニュースだ。私たちをロードに戻し、この夏にツアーに出たら一晩につき25万ドル払うという。メンバーはジョン・アンダーソン(体調は回復していた)、クリス・スクワイア、アラン・ホワイト、そして私だ。リックは参加しないとのことだったので、私はキーボードにオリヴァー・ウェイクマンを推した。

(略)

利益の取り分についてマネージメントとメンバー間での協議がおこなわれた。(略)

ジョンは自分が誰よりも価値があると信じていて、より高いパーセンテージを要求してきたのには開いた口がふさがらなかった。逆上したクリスを私は必死になだめた。ところが驚いたことに、ジョンはまた体調を崩してしまい(略)全ツアーが延期、私たちのスケジュールから完全に消滅した。(略)

再集合まで3年待ったこの期に及んで、あっさりとまたダメでしたみたいなことにするつもりはなかった。ゲスト・シンガーを入れるという軽率なアイデアもよぎったが、将来全員がそろうという方向で計画を練るほうが賢明だった。クリスとアランは私たちが必要とするメンバーがそろえばという条件でのみまたツアーに出たいと言った。

(略)

 私たちはクロース・トゥ・ジ・エッジというトリビュート・バンドでイエスの曲を唄っていたカナダ人シンガー、ベノワ・ディヴィッドに白羽の矢を立てた。なかなかの逸材だ。ジョン・アンダーソンが復調するまでにはしばらくかかることははっきりしていたので、私とクリス、アランは大ばくちに打って出ることに決め、予定されていた復活のためにキーボードとしてオリヴァー・ウェイクマンを抜擢した。今は2008年の半ば。最後にイエスがライヴをおこなったのは 4年前のことだ。これ以上は待てなかった。

(略)

オリヴァーはバンドにすんなりなじみ、父親が弾いたあらゆるキーボード・パートをこなし、ベノワはどの曲も熟知していた。(略)『ドラマ』の頃のように、クリス、アラン、私は再び困難に立ち向かっている。

(略)

 このラインナップのイエスがステージに上がった最初の晩のことを私ははっきりと思い出せる。 気分、感情、ムードが今すべてよみがえってくる。メンバー全員の胸が躍り、本番前のときめきが最後のコードまで途絶えることはなかった。(略)

ショウのあとのクリスはとても優しく、私のプレイとパフォーマンスに注ぐエネルギーに感動したと声をかけてくれた。

(略)

イエス&エイジア、クリスに激怒

何より重要なアメリカのサマー・シーズンについて慎重に検討した結果、エイジアが当時好調だったこともあって、イエスとエイジアを一緒にしてみたらということになった(略)クリスは、私のほうがギャラが多いと分かると渋い顔をしていた。だがそれはそうだろう。エイジアがオープニングを務め、イエスがトリを取る。私はそのどちらからも自分の分け前をもらう。私にすれば一粒で二度美味しいわけだが、それ以上に気分が上がるような面白みがあった。それは同じ晩に、二つの違うギター・スタイル(略)を披露するチャンスを得たということだ。私にできるか? 確信はなかった。だがやってみない手はない。

(略)

 ツアーには一ダース以上の楽器を持っていった。そのうちVariaxギターは2本で、1本はエイジア用にコンサート・ピッチより半音下げチューニングにしたもの、もう1本はイエス用に通常のチューニングにしてある。

(略)

[2010年のツアー]

クリスとアランのロックンロール・ライフスタイル(略)が問題を発生させる。(略)

アランは体調を崩すようになり、クリスはステージに躍り出るとフル・ヴォリュームで演奏した。医者が処方していない物質の混ぜ物を軽はずみに服用したせいだ。彼はますますコントロールが利かなくなっていくものの、それでも演奏はまだ素晴らしかった。だがどう考えても自分だけの世界にいた。

 私はイエスの3時間ルールを復活させようとした。本番前と本番中はアルコールやその他のクスリは一切禁止というものだ。(略)

このルールは2001年にも試したことがあった。そのときと同様、今回もやんちゃな二人がルールを曲げ、やがてはまったく無視されてしまった。それでもショウはずっと続いた。だがその中身は?一定の水準にぎりぎり踏みとどまってはいたが、ザ・リバティーンズのように崩壊寸前だったと言っておこう。

 バンドのメンバーたちには何度もメールを送り、イエスの音楽が持つ繊細さと私たちに常に求められている完璧さについて語った。ときどき誰かが、本来ならまったく入ってこないはずのポイントで演奏を始めることがあった。そんなときは「言っておくけど、あそこでプレイしてはだめだ」ときちんと伝えた。

(略)

[10月]

クリスが私やみんなの手に負えない状態になりつつある。(略)

ステージ上のベースの音量が問題の根幹だった(略)クリスは興奮状態で、いまや私たちをステージから吹き飛ばしそうな勢いだ。

(略)

ステージ以外でも事態はかなり深刻化(略)

私のホテルの部屋は(不幸にも)クリスの隣で、壁はぺらぺらに薄かった。とんでもない大声で彼が電話で話している(略)私のことをトレヴァー・ホーンに向かってボロクソに言っている(略)すぐさま私は隣の彼の部屋に行き、どういうことだ、もうがっかりだよ、とまくしたてた。普段は激怒することなどあまりない私だが、このときは怒り狂っていた。翌日、全員が帰国の途についた。ツアー終わりではいつものことだが、私の耳はまだキーンと鳴りっぱなし。あれほどの音量を浴びてもとに戻るまでには約1週間かかるのが普通だ。

 帰国したその足で今度はジェフ・ダウンズとロシアのサンクト・ペテルブルグに直行し、現地で1回だけのエイジアのコンサートをおこなった。こんな素敵なスケジュールがあるものだろうか?

(略)

 二つのバンドを行き来するというのが私の日常となってしまっていたが、それがまた始まろうとしていた。エイジアのツアーが終わってわずか1週間後にイエスがリティッツでリハーサルを開始した。だが今回は(略)ジェフ・ダウンズがキーボードで同行する。ジェフがイエスに戻るのは1980年に終わった『ドラマ』の時期以来のことで(略)これでジェフと私はイエスとエイジアにいることになり、私は二つのバンドを掛け持ちする日々がかなりしんどくなり始めていた。

(略)

エイジア脱退

(略)

2012年2月はエイジアが最後のリユニオン・アルバムとなる作品作りを開始したため多忙な月となった。アルバム・タイトルは『XXX~ロマンへの回帰』といい、私はこのタイトルにかなり抵抗したが、ジョン・ウェットンは一歩も引こうとしなかった。これまで2枚のタイトルを思いついたのも彼であり、メインとして歌詞を書いている以上、今回も同じようにやりたがった。私は百害を並べ立てたがそれでも返事は「ノー」だった。

(略)

 エイジアの音楽の仕組みは不思議だ。ジョンとジェフの曲が常に中心にあるが、私の曲が入り込む隙間もある。私の曲はどちらかと言えば構成としての流れを重視したものが多く、ジェフは単音のアイデアをプレイしようとすることが多い。メインのライティング・チームの曲には、ジョンがキング・クリムゾンのあと自分はどこへ向かうべきかという感覚が常にある。かつて1982年に彼は、ロックとポップの融合した曲で聴き手とつながりたいと考えていた。70年代から目指してきた高いレベルの成功をつかみたいと願っていた。

(略)

バンドの可能性を100パーセント満たしたエイジアのアルバムはファーストだけだと私は強く思う。

(略)

 イエスはジョン・デイヴィソンというヴォーカリストを見つけていた。私たちが求めるレベルで彼はバンドの歌を唄うことができる。私たちとオーディエンスの前でその力を見事に発揮した。物真似ではない。自分の唄い方を持ち、私たちの音楽にしっくりくるスタイルをものにした男だ。

(略)

[9月]
次はエイジアが日本でプレイする番だった。9月の最終週にかけて、東京で2回、大阪と名古屋でそれぞれ公演をおこなう。もう旅程表など必要のない旅だったが、それでも持っていた。エイジアは2006年の再始動から6年経った。だがエイジアの2年後にイエスもまた始動して以来、私の時間とエネルギーはますます失われつつあった。遅かれ早かれエイジアを脱退し、イエス、トリオ、ソロだけに集中せざるを得ないことが私には分かっていた。

 10月に私はLAに行き4日間のオフを過ごしたあと、イエスのロックの殿堂入りに関するプレス・イベントに出席(略)またしても6週間に及ぶツアーに出発した。

(略)

 エイジアからの私の脱退は2013年初めに発表された。

(略)

『ヘヴン&アース』、クリス死去

 『ヘヴン&アース』の制作は、LAでプロデューサーのロイ・トーマス・ベーカーと会った2014年1月14日に再開した。1979年のパリでのことを思い起こせば、彼を再びプロデューサーに起用することに対して、私たちは全面的に納得していたわけではない。彼の行動は異様だった。私たちが用意してきたテープにはほとんど興味を示さず、頻繁にトイレに行ってばかりいるあいだに私たちがやり変えた曲にもまったく気づくことはなかった。それでもまだ彼にやらせてみて、だめなら中止すればいいという考えのメンバーがいた。

(略)

彼はプロデューサーとしての決定を何もしない。何事につけ曖昧で、クリスや私がバッキング・トラックのセッションを独占しても止めることもできない様子だった。

(略)

 ロイは外付けのエフェクターを山ほど持っていて、ダビングするものにはすべてそのエフェクトがかけられる。(略)しかもこのおぞましいエフェクター群のセッティングを楽しそうにいろいろいじりまわしている(こっちには恐怖でしかない)。ジョンに対する扱いもひどかった。延々とヴォーカル録りをさせたあげく、まあそんなもんでいいんじゃない程度の反応だ。私がダビングをしているときでさえ、「今のはいいテイクだったね」などの褒めの反応を口にすることもない。いつも「まあいいんじゃないの」というような台詞だった。レコーディングのやり方にも大きな不安があった。私たちは(ご想像通り) プロ・トゥールスを使っていた。(略)ロイはマルチで録ったハーモニーにオートチューンをかけようとした。そのままでも十分に心地よい響きだったのにだ。心地よさの定義は?耳に心地よいということだ。一声ずつチェックしてなんの問題もなかったのに、どのヴォーカルにもメロダインとかいうオートチューナーをかますと言ってきかない。それが今風だとされていた。不毛な時間が積み重なり、なくてもよかったプレッシャーにつながっていく。ざっくりと言うならば、無能なロイを尻 目に私たちは作業を進めるしかなかった。

(略)

私たちがツアーに出発したあと、ロイはネヴァダの自分のスタジオでミックスをすることになる。これが第3の過ちとなった。

(略)

UKツアーが開始(略)

ロイヤル・アルバート・ホールでの演奏はいつも特別な感じがしてうれしい。楽屋でクリスが正真正銘のマリファナを吸っていたので私は頭に血が上り、「どうしてもと言 うなら外で吸ってくれ、クリス」とこれまで何度も口にした台詞をまた言った。

(略)

ロイのミックスを聴いた私たちは即座にストップをかけ、「もう結構お世話さま」と伝えた。

(略)

ビリー・シャーウッドにミックスを依頼するのはそんなに悪い考えではなかったが、スカイプ経由でのミックスは(第4の)過失だった。(略)ファイルそのものの中で実際に消えてしまった部分もあり、全体的にはまるで一体感がなかった。

(略)

今回のセットリストは『危機』と『こわれもの』完全再現だった。この2枚のアルバムの演奏順についてはなかなか頭の痛いことになった。クリスと私はどっちのアルバムを先にやったほうがうまくいくか、延々と話し合った。『こわれもの』から始めるほうが難易度が高い。そのため『危機』から演奏することがほとんどだった。そのあと『こわれもの』を演奏すると、最後の「燃える朝やけ」がいつも本編終了にふさわしい終わり方を演出してくれる。いきなりのエンディングと同時に、すべてのプロジェクションと照明が消えるという最高のクライマックスが生まれるわけだ。

(略)

 クリス・スクワイアはこのところずっと断続的に体調が思わしくなかった。5月7日付けで彼はイエスの他のメンバー宛に、今年は仕事ができない旨を伝えてきた。

(略)

相談の結果、ビリー・シャーウッドをクリス不在の期間に代役として招くことにした。

(略)
2015年6月27日、悲しいことにクリスは急性赤白血病のため帰らぬ人となる。

(略)

イエスにとって、これは一つの時代の終わりだった。(略)

クリスは破天荒極まりない、愛すべき人物だった。

(略)