ヨーロッパ憲法論 ハーバーマス

 

ヨーロッパ憲法論(叢書・ウニベルシタス)

ヨーロッパ憲法論(叢書・ウニベルシタス)

 

 序文

加盟諸国が合意して持続可能な財政収支の水準を定め、各国が自発的に国民国家の予算をその水準に従わせるというオルド自由主義の夢は、失敗に終わったという認識である。ここで、夢想されたのは、それさえあれば協同の政治的意思形成は必要なく、民主主義の暴走を防ぐことができるとされた「メカニズム」だった。(略)

今日では誰もが、通貨同盟の「構造的欠陥」について語っている。通貨同盟にはそれが必要とする政治的なカバナンス能力が欠けているというのだ。

(略)

 目下検討されている計画は、ユーロに参加する一七か国の共同統治を、政府首脳のサークルで、すなわち欧州理事会の「中核」で実現しようとするものだ。指導部となるこの組織には、法的拘束力を持つ決議を行う権限がない。(略)

「ユーロプラス協定」によって、欧州理事会の決議が及ぶ範囲は拡張した。経済的に格差が広がっている国家群は、クローバル市場における競争力を左右するような政策のすべてについて、欧州理事会の決議に従うことが求められる。

(略)

そのつど自国の議会において、EUによる処罰という脅しをちらつかせながら、過半数をまとめる。ここで想定されているのは、あきらかにそのような手続きである。こうしたやり方は、一七か国からなる欧州理事会が全権を奪取して行う統治連邦主義といえる。(略)それは、まるでポスト民主主義的な支配行使の模範となることだろう。

 政府間の決議を通じて民主主義を空洞化するこの動きは、当然のごとく抵抗を引き起こしている。(略)

ひとつは国民国家を擁護する勢力からの抵抗である。彼らは(略)建前としては残っている国家主権の概念に、ますます意地になってしがみついている。

(略)

別の方面では、長い間沈黙してきた「ヨーロッパ合衆国」の支持者が、ふたたび名乗りを挙げている。

 人間の尊厳というコンセプトおよび人権という現実的なユートピア

ここ数十年(略)世界中で幅を利かせている政治は、なによりも経済的自由を保障することで、自己決定に基づく市民生活を可能とし得るかのように称している。このような政治は、基本権の異なる範疇間の均衡を破壊してしまう。

(略)

基本権が法システム全体により深く浸透するほど、それはより頻繁に、個々の市民と国家の垂直的関係を超えて、個々の市民の間の水平的関係に介入するようになる。

(略)

「人間の尊厳」は地震計である。この地震計は、民主的な法秩序にとってなにが根本的であるのかを──すなわち、政治的共同体の市民が、たがいに自由で平等な人々からなる自発的結社の成員として尊重し合うためにおたがいに認めるべき権利がなんであるのかを示すのである。この人権の保障によってはじめて、平等な権利の主体として自らの人間的尊厳にふさわしく尊重されることを要求し得る市民という法的地位が生じる。

(略)

人間の尊厳はいわば扉であり、その扉から、平等主義的かつ普遍主義的な道徳内容が、法のなかへと持ち込まれた。

(略)

不偏不党とは程遠く、全体の代表とはいえない安全保障理事会が、恣意的で一面的な決議をしたことが思い出される。また、議決された介入を実行する気乗りしない中途半端で無能な試みも、──そしてそれがしばしば悲劇的な形で失敗したこと(ソマリアルワンダダルフール)も思い出される。さらに、こうした警察力の投入は戦争のごとく執り行われ、軍隊は無辜の住民たちの死と悲惨を「副次的被害」として無視する(コソボ)。その上、介入を行う諸国は、当該地域を平定しても、その地域で破壊された、あるいは崩壊したインフラを再建し、国家を建設する能力も、そのために必要な忍耐も、見せてはくれなかった(アフガニスタン)。人権政治が、大国の国益の実現の道具と、そのことを覆う隠れ蓑のようなものになってしまうならば、そして、超大国国連憲章をないがしろにし、介入の権利を不当に行使するならば、さらには、人道主義的な国際法を破って侵略を行いながら、普遍的価値に訴えてみずからの行為を正当化するならば、人権のプログラムは人権の帝国主義的な乱用そのものだという疑念のとおりということになる。

 人権の実定法化によって、理念と現実の間の緊張が、現実そのもののなかに入り込んできた。そのことが今日われわれに、ユートピア的な起爆力を裏切ることなく現実的に思考し行動するという挑戦的課題を突きつけている。

(略)

人権のプログラムを一括りに捨て去ろうとするカール・シュミット的なやり方はとっくに現実的でなくなっている。人権のプログラムはいまや、支配体制を揺るがすそのパワーによって世界のあらゆる地域で深く浸透しているからだ。したがって「現実主義」は今日では別の様相を示すことになる。正面切って人権の建前を突き崩そうとする批判にとってかわったのが、人権の穏健な価値切り下げである。この新しいミニマリズムは、人権からその核心である道徳的原動力、すなわち各人が等しく有する人間の尊厳の保護という内容を切り離すことによって、理念と現実の緊張の緩和を促す。

 ケネス・ベインズはこのアプローチを、ジョン・ロールズに依拠しつつ「政治的な」人権の企てであるとする。さらに、そうした「政治的人権」は、人間であるという理由だけでなんびとにも「生来」の人権が備わっているという自然権的な人権観とはちがうものである、としている。「人権は、政治共同体への包摂の条件として理解される」。これには私も賛成である。問題なのは、それに続く指し手である。つまり、この包摂の道徳的意味──各人が等しい権利の主体として、その人間的尊厳において尊重されるという内容──を、フェードアウトさせてしまう点である。人権政治に最悪の失策がともなっていたことを考えると、慎重になることはたしかに必要である。だからといって、人権それ自体からその道徳的な付加価値を奪ってよいということではない。そして、人権政治の失策は、人権という主題の論点を、はなから国際政治の問題へと狭隘化してしまう十分な理由とはなりえない。 

 「政治的なるもの」、カール・シュミット

法は一方では、支配の権威的な行使のための組織手段であったが、同時に他方では、そのつど支配する王朝にとって自身の支配の正当化には欠かすことのできないものでもあった。つまり、法秩序は、国家の処刑・制裁権力を通じて安定的なものとなっていたが、それとは別に政治的支配権力は、自らが正当なものとして被支配者から受け入れられるためには、自らが取り扱う聖なる法のもつ正当化の力に依拠せざるをえなかった。王の裁判権および法が、聖なるアウラを帯びていたのは、元来は神話的な暴力との結びつきによってであり、のちには、宗教色を帯びた自然法に依拠することを通じてであった。しかし、法がその独自の力を発揮したのは、ローマ帝国において法という媒体が社会の風俗習慣から分離独立してからであった。そしてついには、支配権力の行使そのものが法というチャンネルを通じるようになることによって、法は合理化の作用を持ち、また展開できるようになったのだ。

 もちろん、支配の正当性が、被支配者たちの側からの法的に制度化された同意に依拠するようになるためには、それ以前に国家権力そのものが世俗化され、法そのものが隅からすみまで成文法として実定法化されていなければならない。そうなることによってはじめて、政治的支配の行使そのものが民主的な法制化を見るという、我々の議論の連関で重要なプロセスがはじまりえたのだ。法制化が国家権力からその権威的性格を奪取し、それによって政治的なものそれ自体の内実を変化させる程度に応じて、この法制化は、合理化の力だけでなく、文明化の力をも発揮するようになるのだ。この文明化の流れに不審の目を向けたのが、政治神学者カール・シュミットである。彼から見れば、それによって支配の権威の中核が柔弱となり、聖なるアウラそのものが奪われてしまうからである。彼の理解では「政治的なもの」の「実体」は、法的に確立された支配権力の自己主張の能力のことであり、この支配権力を規範的な鎖で縛ることはゆるされない、というのだ。

(略)

「政治的なるもの」をシュミットが振りまくようなアウラ重視の反啓蒙の霧から救い出して、決断および統治権力の民主的な法制化という核に還元するならば、このシュミットの記述が意味するところが明らかになろう。

 国民主権と国家主権

とはいえ、政治的支配を、国境を越えて民主主義に即して法制化することへの執拗な懐疑は、間違った集団主義的な理解、つまり、国民主権と国家主権を混同して考える誤解から養分を得ているのだ。この誤解は、例えばコミュニタリアン的な理解にも、リベラルなそれにも、また保守的な、そしてナショナリスティックな解釈にも登場しているが、それは、偶然的な歴史的状況を一般化しすぎるためである。つまり、一九世紀のヨーロッパで構築されたナショナル・アイデンティティという人工的で、それゆえいくらでも変わりうる意識を誤解してそのまま受け取ることになってしまうのだ。
 市民たちは、民主主義的な選挙に参加することで、自分たちの中の何人かに全員のために行動する権利を付与する。それによって市民たちが共同の政治的 実践に参加していることはたしかかもしれない。しかし、それだけでは、民主主義的に生じた決定を、当該集団の決定とすることにしたといっても、それは、分配的に普遍的な意味で[一票でも多ければ、全体の意志となるという意味で]そうなっているにすぎない。多様な個人の多様な見解が民主主義の規則にしたがって生み出され、論じられる結果として、集団的決定が生じる。複数で多様な意見形成と意志形成のプロセスの結果が、特定の行為へと決定する主権者としての国民の意志の表明ということになる。しかし、こうした考えは個別の異議を無視した集団主義的な解釈によっている。そして、このように主権を物象化し、単数化することによってのみ、国家主権と表裏一体として国民主権があるというような想定が生まれることになる。それによって古典的な国際法の意味で交戦権を持ち、それゆえに無制限の、つまり、競争相手となる別の国際法上の主体の決定によってのみ制限されうる行為主体の自由を享受する国家、その意味での国家主権の鏡像であるかのように国民主権が見えて来てしまうのだ。こういう誤解のパースペクティヴから見るならば、国民主権という考えは、国家の外交上の主権に実現していることになる。こうして国家の行動を通じてその市民たちは、おたがいに、そして自分自身を当該の政治的集団の一緒に行動する成員として確認し合うことになってしまう。

 なるほど、共和主義的な自由、国民皆兵制とナショナリズムは、おなじフランス革命にその歴史的起源を持っているにはちがいない。とはいえ、内政における民主主義的な自己決定と外に向けた国家主権とのあいだに強固な関連を設定するこうした考え方が多くの人に訴える力があると言っても、これをこうした歴史的コンテクストを越えて一般化してはならない。古典的な国際法で保証されている主権国家の行動の自由は、おなじ自由とは言っても、「自由の法の下での自律」(カント)、つまり、市民たちが憲法国家において用いる自由とは、異なった種類のものなのだ。国家の外交面での主権は、恣意的自由というモデルで考えられている。それに対して、国民主権は、民主主義的な普遍化を目指す法に、つまりすべての市民に同じ自由を保証する法に表現されるのだ。「恣意的自由」は、「法としての自由」とは本質的に異なるものなのだ。この理由からして、国家主権を制限して、スプラナショナルな審級にいくつかの主権条項を移譲するからといって、それは必ずしも、民主主義的な市民の権利の剥奪に至る必要はない。この主権の移譲こそは、すでに国民国家の枠内で市民たちが自分たちの自由の源ととなる国家権力を憲法的に確立した行為を、継続することになるのだ。もちろんその際に、民主主義的な手続きが無傷のまま残されるとしてのはなしだが。

 とするならば、国民国家からスプラナショナルな審級に移譲された、あるいは、そうした審級と分かち合うことになる権能は、国際条約にもとづくレジームにおいて法制化されるだけであってはならない。それ以上に、こうした権能は、民主主義的な 法を通じて法制化される必要がある。そうした主権諸項目を移譲する際に、市民たちの国家公民としての自律性を発揮する余地が狭まるのではないかという危惧があるが、そうしたことが起きないためには、こうしたスプラナショナルな法制定に当該国家の市民が、それ以外の参加各国の市民たちと民主主義的な手続きにしたがって、ともに加わる必要がどうしてもある。

 [リーマン破綻後、オバマ選出の数日前のトーマス・アスホイヤーとのインタビュー]

ハーバーマス──(略)

こうした潮目の交替は、公共の議論のパラメーターを変えます。それとともに、どのような政治的対案が可能かという幅も変化します。朝鮮戦争とともにニューディール政策の時代が終わりました。レーガンサッチャー、そして冷戦の解消がはじまるとともに、社会福祉国家というプログラムの時代が終わりました。そして今日、ブッシュ時代が終わり、ネオリベラルの大言壮語の吹き出しが泡のようにはじけると、クリントンおよびニュー・レイバー[イギリスのブレア政権。労働党]の綱領も命脈が尽きました。それでは代わりになにが来るでしょうか。私が望むのは、ネオリベラルの綱領が、額面通り受け取られなくなり、ともかくいったん看板を下ろさせて考え直そう、という風になることです。生活世界を、なりふりかまわず市場の指示に服従させようというプログラムは、考え直す必要があります。

──ネオリベラルにとっては、国家といえども経済のグラウンドでのゲームの一参加者にしかすぎません。国家は小さくなった方がいいというのですが、こうした考え方は、もはや信用されなくなったということでしょうか?

ハーバーマス──それは、危機のこれからの進行しだいです。また各政党がどのように危機を受け取るかによります。そして、公共の議論がどのように論じるかにかかっています。ドイツではまだなんとも言えない議論の無風状態です。ともかく一連の政策が醜態をさらしたのです。たとえば、投資家の利害をなにがなんでも中心にしようという考え、そして社会的不平等が拡大しても平気でいられ、不安定雇用者層の発生も、貧困児童、低賃金などなども仕方ないと見ていられるような物の考え方は、顰蹙を買うようになっています。あきれられているというその点では、民営化に狂奔して、国家の中心的な機能まで空洞化させるやり方も同じです。また、政治的公共圏で当面の利害を離れて論議できるわずかに残る拠点までも、配当性向の上昇を企図する金融投資家に売り飛ばしたり、文化や教育を、景気に応じて対応の変わるスポンサーの利害や気分に委ねてしまうやり方も、その馬脚を露わしています。

(略)

証券取引のリスクに曝してはいけない傷つきやすい生活分野もあるのです。例えば、老齢年金を株に委ねることなど、してはならないことなのです。

(略)
彼らはもう大分前から、金融市場に規制が必要なことについては、分かっていたのです。(略)

ところがアメリカとイギリスの政治指導者たちは、野放図な投機であっても、うまく行っているかぎりは、利用できると考えていたのです。そしてヨーロッパ大陸でも、ワシントン・コンセンサスに服してしまいました。

(略)

──ワシントン・コンセンサスとは、一九九〇年に国際通貨基金(IMF)と世界銀行が打ち出した有名かつ悪名高い経済構想のことですね。まずはラテン・アメリカの、そしてそのあとは世界の半分を思いどおりに改革しようというものですね。その中心テーゼはいわゆるトリクル・ダウン説です。つまり、金持ちをもっと豊かにしようではないか。そうすれば豊かな生活からのおこぼれが貧者のところにもまわってくるようになる、というわけです。

ハーバーマス──この予測は間違っていることを示す経験的データが何年も前から沢山出ています。生活水準の向上は、ひとつの国の中でも、また世界全体でもきわめて不均衡に配分されています。現在では、貧困地区が、われわれのすぐ目の前にまで広がっているのが実情です。

(略)

──ネオリベラリズムというのは、ひとつの生活のあり方ですね。市民一人一人が、起業家に、そして顧客になれというのですから……

ハーバーマス──そして競争相手になれというわけです。この競争社会の広大な荒野で勝ち残った強者は、成功は個人的能力の成果であると自惚れてかまわないと言うわけです。経済マネジャーたちは(略)テレビのトークショーで有名人たちのおだてに乗って、自分が模範的な目標であるかのようにもてはやされるのを本気で受け入れ、自分たち以外の社会を心のなかで下に見ています。そうしたさまはなんともぞっとする喜劇です。機能エリートと、身分が違うとぶっているエリートの区別がもうできなくなっているみたいです。トップの役職にあって自分の仕事をまあまあ普通にこなしている人間のキャラクターのなにが、いったいぜんたい模範的だというのでしょうか?もうひとつ警告になったのが、二〇〇二年のブッシュ・ドクトリンです。イラク侵攻の下敷になったドクトリンです。このドクトリン以来というもの、市場原理主義という社会ダーウィニズムは、社会政策の分野だけでなく、外交政策においてもその力を振るうようになったのです。

──しかしそれはブッシュだけではありませんでしたね。彼の味方をする影響力のある知識人が驚くほど沢山いました。

ハーバーマス──しかも彼らの多くはなにも学んでいません。ロバート・ケーガンのような先導者にあっては、イラクの大失敗のあと、カール・シュミット型のオオカミのカテゴリーを使った物の考え方が、さらにはっきり前面に出てきています。国際政治が、核武装を伴う危険きわまりない力のぶつかりあいへと後戻りしているさまを見て、「世界はまた正常状態になった」とコメントする始末ですから。

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データでいのちを描く テレビディレクターが自分でAIをつくったわけ

 東日本大震災の報道での無力感から、辿り着いたのがビッグデータ

データでいのちを描く―テレビディレクターが自分でAIをつくったわけ

データでいのちを描く―テレビディレクターが自分でAIをつくったわけ

 

 ナースコール

 意外なところにデータが眠っていることもあります。(略)

協力してもらったのは、熊本県にある済生会熊本病院。長年大量のデータを収集・活用しており、データに関するリテラシーが高い病院です。自前で巨大なサーバーを用意し、検査データは看護師の皆さんが即時にデジタル化を行います。提供してもらった1年分のナースコールのデータは、約109万回分。(略)

 提供されたデータには患者個人が特定できるような情報は含まれておらず、ナースコールが押された日時や病棟の場所、診療科、患者の年代や性別、押した目的などの限られた属性がひも付けられているだけでした。しかし、「109万回」という、とてつもないボリュームが大きな意味を持ったのです。(略)

頻繁にナースコールが押されるのは何時ごろか、性別はどうなのか、どの年代が多いのか。結果、80代の男性患者が、消灯から1時間の間に、「寂しいから」という理由で押すパターンがいちばん多かったとわかりました。

飲酒運転

 飲酒運転を撲滅したい──強い思いで臨む現地取材チームが福岡県警と交渉し、過去10年間の飲酒運転による事故の詳細データを提供してもらったのです。(略)
[データは予想以上に]とても細かくデジタル化されていました。

 事故の起こった地点、運転者のアルコール量、発進した後いくつ目のカーブを曲がりきれずにぶつかったかなど、事故の詳細が記録されていたのです。これらのデータを分析したところ、飲酒運転で事故の起きたケースの多くでは、発進後一つ目のカーブすら曲がりきれないことがわかりました。

ディープラーニングが最強なわけではない

第3次AIブームを牽引するディープラーニングは画期的なものですが、最新の学習法が使用されたプログラムだけがAIではないというのが個人的な意見です。

 私自身の体験を紹介しましょう。あるセンサーデータをAIに学習させて、自動判別を行うことを試みました。「どうせやるなら最高の技術を投入しよう」と、数日かけてディープラーニングによる学習モデルをつくりました。結果は、判定精度が98%と高い成績を収め、その力強さに大満足。そこで終えても良かったのですが、古典的な機械学習との差を確認しようと、そちらも試してみることに。結果、95%と高い精度を叩き出しました。わずか30分で実装したものです。さらに、設定値を少し調整すると98%に到達することがわかりました。

 確かにディープラーニングのパフォーマンスはすばらしいのですが、古典的な技術とあまり変わらない場合もあるのです。ある意味で手垢の付いた古典的な技術は、その導入方法やロジック、あるいは問題点が明確になっており、使い勝手が良いという利点があります。

(略)

 ここで、ちょっとした笑い話を紹介しましょう。あるプログラマーと話していたときのことです。その人は「自分は決してエクセルを使わない」と言い張りました。エクセルは、データの整理もグラフ化も数理処理も手軽に行える、優れた表計算ソフトです。最近は性能も上がり、ビッグデータ解析にも使えます。しかし、その人は普段からプログラムを書くことにこだわりを持っており、既存のソフトウエアを使うことはあまりないと言うのです。

 あるとき、データの中に混じっている“汚れ”を取り除くことをお願いしたのですが、その処理をするためだけにプログラムを書いたそうです。エクセルですれば10分でできるはずなのに3時間かかっていました。これは典型的な“プログラマーあるある”です。「必要もないのに、20行のプログラムコードを3行に短くして自慢する」「計算速度を5倍にすることに数日かける」。少し汚いコードでも、正確に動いてくれれば問題ありませんし、コーディングに数日かけるくらいなら、さっさと計算を始めて、空いた時間でコーヒーブレイクした方がいいでしょう。

 AIの技術も同様です。シンプルな機械学習を使わない(認めない)プライドの高い人がいますが、それはもったいないです。たとえ10年前と同じ手法であっても、今だからこそ入手できるビッグデータを学習させるならば、当時よりはるかに良質な結果が得られます。

 また、一つの手法を磨くよりも、複数を組み合わせた方が効果的な場合もあります。NECの開発した、「異種混合学習」という学習法はその内部で巧みに手法を組み合わせており、防犯カメラの顔認証から食品スーパーの在庫管理まで驚異的な精度を出しています。

ディープラーニングブラックボックス

 たくさん技術がある中で、どれを社会課題解決型AIに使えばいいのか。ここで二つの大きな選択肢があります。

1.ブラックボックス

2.ホワイトボックス型

 ディープランニングは前者に分類されます。比類のない高い成果を生み出しますが、開発者であっても弾き出された回答までのプロセスの理解は困難で、ブラックボックス化してしまうのです。

(略)
 しかし、社会課題を解決したい場合、それでは困ります。100万件の交通事故状況のデータをAIに学習させるのならば、「事故発生確率が60%」と予測をするだけでなく、確率の高くなる要因が「ドライバーの年齢」なのか、「日が暮れて暗くなってきたこと」なのか、「街路樹が多いこと」なのか、原因を突き止めることが求められます。事故発生予測AIをつくることに意味はありません。具体的な解決の一手にたどり着かなければ、新たに発生する事故を、ただ見守ることしかできないのです。

 さて、選択肢の二つ目、ホワイトボックス型のAIにはどんなものがあるのでしょうか。(略)機械学習の中には、決定木や次元削減、クラスタリング、回帰分析など長年使用されてきた技術が山のようにあります。可視化の方法や精度の上げ方も明確です。そして、AIの“思考”プロセスをのぞくことが可能なこともポイントでしょう。

 事例によってはディープラーニングのパフォーマンスに敵わないこともありますが、精度の差が極端に開くことは少ないので、開発者は目的に応じて適切な技術を選択すればいいわけです。思い切った表現をするならば、ホワイトボックス型AIの技術水準はもはや“伝統芸”の領域に達しているとも言え、安定した結果を生み出してくれます。

(略)

AIは「何でも放り込めば、後は何とかうまくやってくれる」と思われがちですが、内部構造をつくる際、さまざまな値を設定する必要があり、その微妙なコントロールがパフォーマンスに大きく影響します。まるで職人の世界です。設定値は、データの種類や量によっても変わるのですが、「うまくいったらそれが正解」的な性格が強くて、研究者の方とお話ししていても、「やってみないとわからないね」と返ってくることが多々あります。

「人は被害に遭うまで避難しない」 

東日本大震災の際の携帯電話の位置情報から、浸水域を対象に10メートル以上移動した人のデータを抽出し、その軌跡をグラフ化したのです。(略)

 ざっと解説しますと、震度7地震が発生した直後、さらなる余震、そして津波を警戒して人は移動し始めました。しかし、データから見えてきたのは多くの動かない人たちです。最初の地震から約15分、震度5程度の余震が発生すると、最初よりは少ないですがやはり人々は移動を始めました。その後、しばらくは大きな行動は見当たりません。そして津波警報などの情報が入り始め、また少しずつ動きが出始めます。そのタイミングでまた余震が起き、そこでまた少し移動するのが認められます。その後しばらくはほとんど動かない時間が続き、最後に、津波が押し寄せてから多くの人々が動き出しました。

 ここから見えてくるのは、「人は被害に遭うまで避難しない」ということです。 

ブレードランナー証言録

 

第一章 ハンプトン・ファンチャー

ブレードランナー』とフィルム・ノワール

[原作]は気に入らなかったが、映画の視点から見て一つ興味深い要素があった。それは一人の男が何体かのアンドロイドを追跡するというもので、そのような部分をもとにしてアイデアを積み重ねていった。構造的にはかなり単純なものだった。それが本から提供されたアイデアだ。

(略)

当時はレイモンド・チャンドラーの作品をたくさん読み漁っており、それがきっかけでフィルム・ノワールについて思いついたんだ。主人公がやさぐれたアルコール依存症で、失望のどん底にあるシニカルな男であれば、おもしろくなるだろうと思った。結婚しておらず、孤独だ。私は配役にロバート・ミッチャムを想定して書き進めていった。

 ちょうどその頃リドリー・スコットが関わってきた。最初はロバート・マリガンという別の監督がいたが、引き継いだリドリーはフィルム・ノワールのアイデアを理解してくれた。(略)

その段階では、アパートの中という非常に限られた空間でストーリーは展開し、まだあの独特の世界は存在しなかった。それがじわじわ発展していった。

(略)

それから脚本が大幅に直され、ハリソン・フォードがその役にぴったりであるように思えてきた。ただ、その配役について確信をもてる者はいなかった。ハリソンはまだスターになっていなかったからね。(略)

デッカードレプリカントか?

答えを明確にしない方がいいと思う。(略)

疑問符のままにしておくほうがおもしろい。(略)

リドリー・スコットははっきりさせたがったが、私はそのことで彼と言い争ったんだ。

 最初のヴァージョン

──『ブレードランナー』にはいくつのヴァージョンがあるのでしたか。

七つだ。

──それぞれの違いをどう考えますか。

最初のヴァージョンのデッカードのヴォイスオーバー(一人称の語り)は、みんなバカげたアイデアだと思ったね。ひどかった。ナレーションがない新しいヴァージョンはすばらしかった。でも今思い起こすと最初のヴァージョンに対してノスタルジックになってしまう。当時は陳腐な手法だと思っても、後から思い出すと感傷的になるものだ。日によって気分が変わるように、いろいろなヴァージョンが好きになることがある。

フィリップ・K・ディック

ブレードランナー』については映画を作りたかった。だから本当はディックに脚本を書いてほしかった。(略)

[だがどこにいるのか誰もわからず諦めていた時、ビバリーヒルズの通りでレイ・ブラッドベリが話しかけてきたので、ディックについて尋ねると電話番号を教えてくれた]

ディックはロサンゼルス近郊のオレンジ郡にある大学で教鞭をとっていた。ディックは私のことを好きじゃなかったと思う。『電気羊』の映画化なんて嫌だったはずだ。彼から『ユービック』という著書をもらったが、私は気に入らなかった。『電気羊』もあまり好きではなかった。ただ、いい映画になると思っただけなんだ。でもそのときは、何も起こらなかった。

 それから数年して、友人であるブライアン・ケリー(『ブレードランナー』のエグゼクティブ・プロデューサー)がプロジェクトを探していたので、ディックに会いにいくように言ってみた。するとブライアンは映画化権が取れたと言ってきた。(略)

[ちょうどフランスの会社とのオプションの期限が切れたところで]

二〇〇〇ドルで取得することができたんだ。ディックはお金が必要だった。

(略)

──ディックは、薬物の影響下にあったと伝えられますが、実際はどうでしたか。(略)

私の目にはパラノイアに見えたが、薬物の影響か、もともとの性格かはわからない。まるで別世界に住んでいるような男だった。話している途中で突然止まって、また話し始めると言う変わった人。ただいろいろなものを超越した、非常に興味深い天才だ。

(略)

彼の作品にはあまり興味がない。(略)彼の作品を気に入ったことはない。読んだのは『ユービック』と『電気羊』だけだが、どちらも気に入らなかった。

(略)

──(略)[原作とは]かなり違う作品に発展したように思いますが。

まったく違う。ただ原作の中には、映画にとって非常に重要なことが、いくつかある。一つは「人造人間を破壊するために、探し回る人間」というアイディアだ。フォークト・カンプフ検査も重要だ。

第二章 マイケル・グリーン

『2049』での自分の仕事は、デッカードが人間であるのかないのか、という問いに対する答えを出さないことであると直感的に理解しました。答えを出すのは、バカげています。

ライアン・ゴズリング

──さきほどライアン・ゴズリングを念頭に置いて書いたと言いましたが、その時点では彼のキャスティングはすでに決まっていたのでしょうか。

まったく決まっていませんでした。さきほど言ったように最初はリドリー・スコットの助けを借りながら書き、それに対してスタジオがOKを出しました。次に重要なことはハリソン・フォードを引き入れることでした。もしハリソン・フォードがノーと言えば私が書いたヴァージョンは却下されてしまいます。ですからハリソン・フォードがそれを読んで受け入れてくれたときは歓喜の瞬間でした。

ニアンダー・ウォーレスの倫理観

 彼は目が見えませんが、自分には視力があると思っています。それにははっきりとした理由があります。事の是非はさておき、人類の未来は自分が見通したいと思っている特定の事柄につながっていると彼は信じているからです。(略)

彼は自分の行動や現実を、彼の言葉で言うと「崇高的な目的」のために正当化してきました。彼は一万年、二万年先を見て人類の未来を救おうとしている、その結果、自分の眼前にいる生物の苦痛を取るに足らないものだと考えてもいいと信じています。

レイチェルの寿命

──レプリカントの間に子どもが生まれるというアイデアはあなたのものですか、ファンチャーのものですか。

それは難しい質問です。すべて二人が生み出したというべきかもしれません。

──レイチェルには寿命がなかった、ということはネクサス7型ですか?

それは誰を信じるかによります。彼女が無期限の寿命であるというヴォイスオーヴァーが入るヴァージョンもあれば、ガフが「残念ながら彼女は長くは生きない」と言うヴァージョンもあります。彼女がネクサス7型であるとか、8型であるとか、あるいはまだ世に出ていないまったく新しいヴァージョンであるとか、信じたければどれを信じてもいいのです。レイチェルが妊娠していなければ生きていたかもしれない、というのは解釈の余地があります。生きていた可能性もありますし、子どもができたために死んでしまったのかもしれません。彼女が元々そのようにプログラムされていた可能性もあります。

第三章 渡辺 信一郎

[リドリー・スコットのヴィジョンと執念]だけではこんな作品にはならないでしょうね。(略)[キャスト・スタッフのせめぎあい、アクシンデントなどの奇跡的偶然で生まれた名作]
──『ブレードランナー』は奇跡の産物であったと。

関係者の話を聞くと、ハンプトン・ファンチャーの存在も大きいみたいですね。(略)

作品の基本的なトーンを決定づけたらしくて。彼の最初にあげてくる脚本は脚本というより散文とか詩のような感じらしいんですよ。そこから直しを経てだんだん脚本っぽくなるそうなんですけど、おそらくこの作品の詩的な部分は、彼に負うところが大きいんじゃないかな。

(略)

監督のドゥニ・ヴィルヌーヴが言ってたんだけど、ファンチャーに脚本に関して相談すると、その返信として詩が送られて来たらしくて。

(略)

ケミストリーが起きた、というとキレイな感じがするけど、実際はもっとカオス状態というか、制作ももめまくってるしキャストやスタッフとも喧嘩状態だったりで、そういう緊張感が奇跡的にいい方に作用しているという(略)

あとリドリー・スコット監督は美術畑の出身なんですごくセットにうるさくて、いくらスタッフがつくり込んでもOKが出なかったらしいです。予算もなくなってきて、困ったスタッフがLA近郊のジャンク屋をまわって鉄屑を買ってきて、かたっぱしからセットにくっつけまくっていったらOKが出たという。だからセットのデザイン画と全然違うカオス状態になっちゃってて、偶然の産物なんだけどそこにまた再現不可能な良さがあるんですよね。

(略)

[デザイン部門のトップ、デニス・ガスナー]はけっこうなベテランで、若かった頃にフランシス・フォード・コッポラ監督の『ワン・フロム・ザ・ハート』のセットをつくったりしていたらしいんです。それで一つ面白い話があってね、最初の『ブレードランナー』のとき(略)撮影の終わった他の映画からネオンとかを借りてきてやりくりしていたらしいんです。その中には『ワン・フロム・ザ・ハート』のセットからもらってきた有名なカウガールのネオンもあった。それで、デニスさんが『2049』 をやることになってリドリーにその話をしたら「あのときのネオンは、お前がつくったのか!」って驚かれたらしい。

第四章 ポール・M・サモン

『2049』は八〇〇〇万ドルから一億三〇〇〇万ドルの赤字です。これまでの映画の中で三〇番目に赤字の映画であると考えられています。

(略)

[『ブレードランナー』を]多くのSFファンは気に入りませんでした。理解できなかったのです。(略)

批評家のコンセンサスが変化しはじめたのは、一九九二年になってからなのです。

(略)

[初期投資を回収するためにテレビやケーブルで放映され若い世代が魅了され]この映画の深さを理解して、批評家たちも再評価しはじめました。

 (略)

 撮影中、ハリソン・フォードとリドリーの馬が合わなかったことは有名な話です。リドリーは、カメラが写している映像をそのまま見ることができるモニターを持ち込んでいました。(略)当時はそれほど一般的ではありませんでした。ハリソン・フォードはそれがいやだったのです。リドリーが現場にいなくてテントの中でモニターを見ているので、ハリソンはフィードバックをリドリーからもらえないのが不満だったのです。

(略)

[ハリソン・フォードとの交流。撮影中]

私がミハイル・ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』というロシアの小説を小脇に抱えて歩いているのを見かけ、話しかけてきました。彼は、「君が撮影所にいるのに気付いていたけど、何をしているんだい」と訊いてきました。私は、「この映画が製作される全部の過程について本を書くためです」と答えました。ハリソンが、「全部だって? いったいどんなことを書くんだい」と訊ねるので、私は「真実を書くんです」と答えました。

(略)

[ハリソンのトレーラーの]中には本棚が作ってあり、ドストエフスキートルストイ、それにブルガーコフの小説があり、まさに彼はロシア文学を読んでいました。それから、私たちはロシア文学について二〇分くらい話し合いました。ハリソンはハリウッドでもっとも知的な俳優の一人で、しっかりとした自分の意見をもっている人物です。

(略)

[レイチェル役のショーン・ヤングについて]

最初かなり混乱していたようです。(略)周囲と摩擦が生じていました。問題の一端は、ハリソン・フォードが熟練の俳優で、彼女は駆け出しの女優だったということです。さらに、単純に言って彼女とハリソンは相性も悪かった。だから二人のロマンスを描かなくてはいけないときは大変でした。

(略)

[2000年代にハリソンにインタビューすると]

彼は、「『ブレードランナー』は、その時点までの自分のキャリアにおいて最も不快な経験の一つだった」と言いました。緊張や軋轢の連続で、ヴォイスオーヴァーも気に入らず、ショーン・ヤングも嫌いで、リドリー・スコットが彼をレプリカントにしたいという考えも嫌でした。おまけにリドリーのことも嫌いだったのです。(略)

[デッカードの役作りについて]

彼が最初に言ったのは、「デッカードは破損品」という答えでした。それはおそらくアルコール依存症や、反社会的で、自滅的な人であるという意味だったと思います。そういうことを彼は考えていたのです。

シド・ミード

 ミードはデザイナーで、自動車マニアです。彼の創作におけるアプローチは機械のユートピアとでもいうべきものでしたが、『ブレードランナー』でのリドリー・スコットの考えはディストピアでした。ですから摩擦がありました。ミードは普段のアプローチをやめて、リドリーに合わせなければなりませんでした。彼の貢献は膨大です。(略)

[空飛ぶ車スピナー、]フォークト・カンプフ検査機のデザインを手伝ったのもミードです。電話のデザイン、様々なコンピューター・スクリーンのデザインを手伝ったのもミードです。彼は時計をデザインするとき、時計自体だけではなくその周囲のものもデザインします。車のデザインも、車だけではなくそれが走るストリートもデザインするのです。

バンド・デシネの影響

リドリースコットはもともと『エイリアン』でメビウスを起用しました。彼が『エイリアン』の宇宙服をデザインしたのです。メビウスが(略)メタル・ユルラン、英語では「ヘヴィ・メタル」のムーブメントの中心にいることをリドリーが知ったのは、一九七七年頃のことでした。

 『エイリアン』の脚本を書いたダン・オバノンが、リドリーにメビウスの『ザ・ロング・トゥモロウ』(一九七六年)を見せたのです。(略)これは、未来の大都会で探偵が活躍する話ですが、一九四〇年代のフィルム・ノワールのパロディでもあります。

  リドリーは『ブレードランナー』を意識的にヘヴィ・メタルのように作ろうとしました。ヘヴィ・メタルのほとんどのストーリーは奇抜でシュールなものですが、と同時に非常に現実的です。現実に根差しているものと、現実離れした想像を融合したもです。とてもドライでおもしろい。メビウスはそういうことに非常に長けています。だからリドリー・スコットメビウスに『ブレードランナー』をまかせようとしたがうまくいかなかった。しかし、彼が基本的にやったことはすべてをヘヴィ・メタルの感受性でフィルターにかけることでした。(略)

リドリー・スコットは「『ブレードランナー』が大人のためのヘヴィ・メタル・コミックであることをみんな理解していない」と何回か言っています。この発言をふまえてこの映画を見ると、コミックのコマの連続のように思えてきます。

『電気羊』と『ブレードランナー

[ディックは図書館で]

ほとんど子どもだけが入れられている収容所の司令官が、「ユダヤ人の子どもが夜中に泣き叫ぶので、睡眠不足になる」と不平を言っている[ゲシュタポの]日記に出くわします。もちろん、子どもたちはのちに殺される運命です。

 それを読んでディックは愕然としました。どうやったら人間にそんなことが書けるのか理解できなかったのです。ディックは、彼らは人間ではないと断じました。彼らには人間として何かが欠けていて、最悪なことに、その欠けている部分が人間を大量殺戮できる官僚システムを考え出したのです。そして、第二次世界大戦後もそのシステムが使われるようになったとディックは語っています。

 「人間ではない人間」──それが『電気羊』の主眼です。人間性を決定するのは何なのか。何が現実と非現実を分けるのか。

(略)

[原作と]映画の底流にある無意識のテーマは、この人間性です。映画と小説の最大の違いは、小説ではアンドロイドは魂もなく、悪意がありますが、映画ではレプリカントは人間よりも魂があることです。

 映画ができたあとに、リドリーはついにディックに会うことになるのですが、大激論が始まりました。ディックはリドリーに「レプリカントには魂がないはずなのに、あなたは魂を与えた」と言いました。リドリーはそれに対して「彼らは飛べないスーパーマンみたいなもので、欠陥がある。だから完璧に人間的だ」と言いました。そこが最大の違いでした。

試写版が一番優れたヴァージョンだ

 私が何年も前から好きなのはいわゆるワーク・プリントと言われるもので、公開される前にデンバーやダラスで試写されたヴァージョンです。それには本当に最後の部分以外にはヴォイスオーヴァーが入っていません。オリジナル版のバカげたハッピーエンディングも入っていません。

 『ブレードランナー』にたくさんのヴァージョンがあるのは金儲けのためだ、と多くの人が言っていますが、それは事実ではありません。リドリー・スコットのスケジュールはずっと多忙を極めていたので、二〇〇六年まで自分の希望通りの『ブレードランナー』を作り上げることができなかったのです。二〇〇七年が公開二五周年でそれに間に合わせるために、すべての要素を洗い出し、失われたものを再構築して自分の思い通りのヴァージョンである「ファイナル・カット」を作り上げたのです。

(略)

ファイナル・カットが私の最も好きなヴァージョンです。それがワーク・プリントにもっとも近いものです。ワーク・プリントにあるものを集めて編集したものです。

 ファイナル・カットについての私の唯一最大の不満は、デジタル化されて、いくつかのシーンが明るくされたことです。あの巨大な地獄のような産業用地の風景の部分はファイナル・カットの方がずいぶん明るくなっています。

クルーとの軋轢

問題は、アメリカ人のクルーがイギリス人であるリドリー・スコットのことをまったく理解できなかったことです。

(略)

異なる背景をもった監督と働くということを理解していませんでした。

 最初リドリーは非常に冷静で、礼儀正しく、気さくでした。(略)

[しかし]ハリウッド・システムでは(略)「こういう理由で、私はこうやりたいんだ」というように、スタッフにいちいち説明しないといけません。リドリーはとうとう堪忍袋の緒が切れて「くそったれ」と怒鳴り始めました。その態度の変化をアメリカ人は理解できませんでした。

(略)

 そういう状況の中、プロデューサーを務めたマイケル・ディーリーはリドリーの熱心な擁護者でした。マイケルは作品の完成に深く関わっていますが、その功績を十分に認められていません。彼がいなければ「ブレードランナー」は存在しなかったでしょう。

デッカードは結局何者か?

撮影現場で耳にしたことを教えましょう。リドリー・スコット自身は何年にもわたって考えを変えてきました。撮影中でさえも考えを変えたかもしれません。最初からリドリーは、これは曖昧さとパラノイアについての映画だと言っています。自分こそが最も憎むべきもので、殺すべき対象であることに気付く──これ以上パラノイアであるものはあるだろうか。それが彼が私に言ったことです。

 ハリソン・フォードは「ちょっと待て、それはあまりにも曖昧すぎる。観客で感情移入できる者は誰もいない。デッカードは人間であるはずだ。私は観客と映画を感情的につなぐ存在であるはずだ」と言っていました。そこでハリソンとリドリーはまた争ったのです。ハリソンはレプリカントになりたくなかった。彼は弱い人間でその弱さを克服する人間になりたかった。

(略)

 私は、デッカードレプリカントかどうかは曖昧なままでいいと思います。『2049』に、すばらしい台詞が出てきます。Kがデッカードにはじめて会うシーンに犬が出てきますが、そのときKは「それは本物の犬か?」と訊ねます。デッカードは「わからない、犬に聞いてみたらどうだ」と返す。まさにそのシーンこそ、このミステリーについて象徴的に語られているところだと思います。

 解説 中条省平

(略)

ファンチャーが原作小説において特に重視したのは、核戦争と核の残留物の影響で、自然の動物がほとんど死滅した世界と言う舞台設定でした。動物のいない世界、すなわち、自然の生命を人工物で置き換える世界ということです。自然の生命を滅ぼし、人間がすべてを人工的に作りなおす世界とは、人間中心主義の極限であり、人間が神になることを意味します。ファンチャーはそのような未来のディストピアを恐れ、人間中心主義を批判しようとしたのです。 

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