キャロル・キング自伝 その2

前回の続き。

キャロル・キング自伝 ナチュラル・ウーマン
 

ブリティッシュ・インヴェイジョン

 私の二十二歳の誕生日に、世の中は大きく変わった。一九六四年二月九日、ジェリーと私がテレビを見ていると、番組司会のエドサリヴァンビートルズを紹介したのだ。

(略)

インタビューでの(略)無礼な受け答えは、多くの若者たちに、そうだ!ヤツらみたいな恰好をしたかったんだ、ヤツらは自分の思っていたことを口に出している、と気づかせた。

(略)

ビートルズが登場した翌日、アメリカ合衆国下院議会は一九六四年の公民権法を通過させた。

(略)

 ジェリーと私が公民権運動に関わるようになったきっかけは(略)人種問題について二人とも共通した怒りをもっていたからだ。そのためにミシシッピ州アラバマ州の最前線で遊説もしたし、活動家支援のための資金も出した。

(略)

長髪、ルネッサンス・ファッション、東インド・プリント柄カーテン、ビーンバッグ・チェア、ディスコテック、ポップ・アート、幻覚剤、そして反戦運動

(略)

 一九六四年、私はそんな時事にいくぶん関心をもっていたが、それ以上に心配だったのが、精神の解放を望む夫だった。私は精神解放なんかしたくない。家計をやりくりするためには、家族の誰かが脳細胞を十分に機能させておかなければならないし、少なくとも夫か私のどちらかは大人を演じる必要があった。ジェリーの歌詞は徐々に社会的関心度が増していったが、私はその歌詞にメロディをつけることで家計を守るしかなかった。

(略)

「ヒップ」だとする男性の長髪は反体制を象徴して世間の非難を浴び、社会的地位を「ストレート」として自慢する短髪のビジネスマンや丸刈り海兵隊員から見下された。ちなみに当時ストレートという言葉に性的な意味合いはなく、ヒッピーではない、という意味に使われていたのだ。

(略)

強い政治意識をもつ革新派は男らしいとして「ザ・マン」と呼ばれ、世の男はザ・マン本人か、ザ・マン反対派のいずれかに分けられた。

(略)

ボブ・ディランを始めとするフォーク歌手たちが「メッセージ・ソング」を掲げて、かつてヒット・チャートを席巻していたポップ歌手たちを凌ぐようになっていた。ヒット・シーンから取り残されたアーティストの中には私たちの曲を歌っていた者も多く、不幸にも我が家の生計にも影響は及んだ。

(略)

つまり、私たちの曲は必要とされなくなったのだ。その後の奇跡がなければ、私たちはそれまでの心地よい生活形態を維持することはできなかっただろう。

 だが奇跡は起きた。しかもそれは、クイーン・オブ・ソウルとして数世代にわたって君臨するビッグな女性による、ビッグな奇跡だった。

ナチュラル・ウーマン」

[二人でブロードウェイを歩いていると黒塗りリムジンが横付けし、ジェリー・ウェクスラーが顔を出し]

「アレサ向けの大ヒット曲を探してるんだ」(略)

「“ナチュラル・ウーマン”という曲を書いてみない?」

(略)

[40年後、当時を振り返り、ジェリーは]

こう語ってくれた。「君はピアノに座って、ゴスペル調のコードをいくつか八分の六拍子で弾き始めたんだ。そのコード進行が自分のイメージしていた曲の方向性そのものだった。君のおかげで、歌詞が楽に出てきたんだよ。君のおかげでまったく苦労しなかった」

(略)

ジェリーが私のコード進行がイメージそのものだったと言うならば、私は彼の描く歌詞世界に心底驚かされた。「遺失物取扱所に取り残されたソウル」……「引き取りに来た恋人」.…ジェリーは一体どうやってこのような表現を思いつくのだろう?

(略)

 アレサが歌う「ナチュラル・ウーマン」を初めて聴いたとき、滅多にないことだが、私は言葉を失った。そして今日まで、あのときの感情を簡単な言葉で伝えることができない。

 アロノウィッツとミドル・クラス

 ジャーナリストのアルフレッド・ギルバート・アロノウィッツは一九二八年五月五日、ニュージャージー州ボーデンタウンに生まれた。彼のビート・ジェネレーションに関する記事やコラムと、後の「ポップ・シーン」という題名の『ニューヨーク・ポスト』紙連載コラムは、五〇年代後半に成人した世代の共感を呼ぶような、直接的で生意気な姿勢が感じられるものだった。私の夫がアロノウィッツに最初に注目したのは、彼がアレン・ギンズバーグジャック・ケルアックと知り合いだと知ったときだ。その後彼はビートルズローリング・ストーンズとも交友関係があると知り、さらに興味をもつ。だが最もジェリーの信頼を高めたのは、アロノウィッツが「時代は変る」を書いた男の親友だったことだ。

(略)

ジェリーはすぐにディランに注目した。革命の声を聞いたように、のめり込んでいった。ディランの曲を聴けば聴くほど、ジェリーは自分の不安と戦うことになる。ジェリーが郊外と都会を行き来してティーンエイジャーの恋やダンスについてのポップ・ソングで金儲けをしている間に、ディランはブリーカー街で丹念に言葉を選んで歌を編み出している。若者に、親に敷かれたレールなど拒否して、本当の人生の意味を深く考察しようと勧告するのだ。そしてジェリーは、今のままの自分では人生の意味を見つけることなどできないと感じていた。彼はディランになりたかった。端的に言うと、ジェリーはディランをもっと知りたかった。

 アロノウィッツがジェリーをディランに紹介すると約束した日から、夫はアロノウィッツに強く引き寄せられていった。まるで池の底の巨石のように、頑として意見を譲らなかった。ジェリーがそうなればなるほど、私は不機嫌になっていく。

(略)

 アロノウィッツが我が家の平和を脅かすと私が認識したのは、理由がどうこうよりも私の勘だった。丸顔で、ボサボサの赤いヒゲを蓄え、私の考えていることを見通しているような抜け目のない笑顔を作るこの男と、私は戦いたいと思った。多分彼は気づいていただろう。

(略)

 アロノウィッツと出会わなかったとしても、時代はジェリーを引き寄せたのかもしれない。

(略)

夫がドラッグやフリーセックスを体験する一方で、妻はなぜ自分の夫がそれまで共有していた価値観を放棄するのか、理解できないでいた。

 もし私が四十二歳でジェリーが四十五歳なら、夫が放浪生活のような未体験の世界に目覚めても理解してあげられたかもしれない。だが私は二十二歳で、妻であり母でもあり、二十五歳の夫を前衛的発想の中に見失いつつあった。私の人生を返して欲しかった。

(略)

 一九六五年の初頭にアロノウィッツが、ジェリーと私と一緒にインディーズのレコード・レーベルを設立しないかと提案してきたときは、当然ながら反対した。だがジェリーを思い留まらせることができず、私は「友人は近くに置き、敵はもっと近くに置く」という格言に従って企画を受け入れることにした。最初のヒットと未来の成功を祈って、レーベルはトゥモロー・レコードと名付けた。アロノウィッツが連れてきたバンド、キング・ビーズはニュージャージー州の高校三年生五人組

(略)

未熟さはあったが、バンドの才能は明白だった。

夫のLSD中毒

 最初にジェリーが妄想症の兆しを見せて怯えていたとき、私はそのことに疑問を抱かなかった。LSDが非合法であり、摂取した者は当局に逮捕されて投獄されることを考えれば、LSD中毒者が怯えるのは当然だろう、と。それから、彼は他の精神障害を併発するようになったのだ。その時点でもっと注意すべきだったが、私は精神障害についてまったく知識がなく、弟の障害は別として私も周囲の誰も精神障害を経験したことがなかった。その後ようやく専門家の元に相談に行ったが、当時は精神衛生の専門家でさえ現代に比べるとごく限られた知識しかもっていなかった。

 ジェリーがますます挙動不審になると、私は彼が後々後悔するような行動に出ることを心配した。その時点でまだ彼の挙動は、危険というより苦々しいもの。子供達や私に対し暴力や虐待に走ることはなく、その兆候もなかったので家族を傷つける心配はなかったが、意味のありそうでないことを喋り、普通の人は思いついてもやらずにおくことを、やるようになっていた。例えばハシゴに登って家の外壁に「ラヴ・ユア・ブラザー」とペンキで描いたり。(略)

しかし、彼が自分の体を深く傷つけてしまったとき(幸いにも未遂で終わった)、外部に助けを求めるときが来たと私は確信した。

 最初、医者はジェリーを統合失調症と診断した。その後、躁病と判断して、鬱にするためのソラジンを大量に処方した。予想通り彼は深い鬱に陥る。医者たちは投薬を調整しながら精神科治療に通わせたが、ジェリーの深刻な鬱状態は変わらなかった。次に医者たちが勧めてきた治療は電気ショック療法だった。

(略)

 私には選択肢がないように感じられた。書類にサインし、病院を出て、泣きながら家まで帰った。十年後、ジャック・ニコルソンの強烈な演技を伴った映画が公開された。(略)

[『カッコーの巣の上で』の]ジャック・ニコルソンは電気ショック療法の恐怖感を見事に再現している。(略)

映画を最後まで見る自信はなかったが、彼にショック療法を許可したのは自分である事実を噛み締め、一コマ一コマしっかり見るよう自分に課した。

ブライアン・ウィルソン 

 

それから三十年以上経った二〇〇〇年(略)

私たちはお互い五十八歳になっていた。

 私たちはソングライターズ・ホール・オブ・フェイム (作曲家の殿堂)の式典に来ていた。私はジェイムス・テイラーを、ポール・マッカートニーブライアン・ウィルソンをこの殿堂に迎え入れる役だった。ブライアンと私が舞台裏で一緒に出番を待っていると誰かが、こう尋ねてきた。あなたたち二人が曲中で多用する、あのコードを先に使い始めたのはどちらか、と。ミュージシャンの間でそのコードは「IV・オーバー・V 」と呼ばれている。キーがCの場合これは“FコードにGのベース音”を意味し、キーがGなら“CコードにDのベース音” を意味する。これを「キャロル・キング・コード」とか「C・オーバー・K」と呼ばれているのを聞いたことがある。だがビーチ・ボーイズのファンはこれを「ブライアン・ウィルソン・コード」と呼ぶのだろう。呼び名が何であれ、ミュージシャンもそうでない人も、このコードは「グッド・ヴァイブレーション」のクライマックス部分で耳にする和音、と言えば分かりやすいだろう。全員の声が一つになって作り出す荘厳で印象的なあの瞬間。

「アーーーーー!」

(略)

 ブライアンと私はそのとき、どちらが先に使ったかについてはファン一人一人に答えを出してもらうことで合意した。「どうせ、ファンのほうが僕たちよりも僕たちの人生を熟知しているんだから」とブライアンは言った。私たちの世代がこれまで辿ってきた道のりを考えると、お互いにちゃんと元気で生きていることがどれほどありがたいか、二〇〇〇年になって十分すぎるほど分かっていた。

西へ 

 一九六七年、ジェリー・ウェクスラーが私に、アーティストとしてアトランティックとの契約を提示してきたとき、私の最初の質問は、「ジェリーにプロデュースしてもらってもいい?」だった。

「もちろん」

「私は作曲家で、パフォーマーではないのよ。それに子供もいるから、プロモーションのために外回りするつもりはないけど」

ウェクスラーはクックッと笑った。

「そんなこと僕が知らないとでも思ってる? ジェリーに相談して、君の希望を聞かせてよ」

 車を運転してリンカーン・トンネルに向かいながら、ジェリーのやる気を喚起させる方法を考えていた。ニューヨーク市内に引っ越したらどうだろう?(略)

グリニッチ・ヴィレッジだ。(略)

私はひたすら歩き続け、ひとかけらの可能性にしがみつくように、市内への引っ越しとプロデュースの話が結婚生活を救うことを願っていた。

 だがそうはならなかった。

 ジェリーのほうから、私を置いてカリフォルニアに引っ越すと言われたとき、私は、彼がドアから出て行くまで涙を流さなかった。そして私が、あんなに涙を流すとは思わなかった。家族が崩壊し始めたときから私は夢を見ていたのだ。神話に登場するような男性と四人の美しく健康な子供達に恵まれ、広くて賑やかな家に住み、これからの人生をいつまでも幸せに暮らす家族の夢を。

(略)

ゴフィン家の買い手が見つかった。(略)庭付きアパートを借り、娘たちが転校せずに住める手はずを整えた。やらねばならないことがたくさんあった。家具の処理、所持品の梱包(略)何とかしてやるべきことをすべて終わらせた。

 こうして私は一人で、元我が家の玄関広間に立ち、家と最後のお別れをしようとしていた。

(略)

私の夫はどこに行ったのだろう。大人になった私の初恋の人であり、作曲パートナーであり、娘たちの父親でもあるジェリー。家にいたときはどこの部屋よりも寝室のイームズ・チェアに座って考えを巡らし、ぼんやりとヒゲをなぜていた私のジェリーはどこに行ったのだろう?

(略)

ここで私はいくつか重要な決断を下さなければならない。(略)

すべての要素が、グリニッチ・ヴィレッジへの引っ越しに傾いているように思えた。だが何かが、あの家の契約を引き止めている。

(略)

私が西に行かなければならない理由があった。(略)

私が、娘たちと父親の距離を引き離すことはできないのだ。

(略)

 こうして一九六八年三月、シェリーとルイーズとライカテレマコス、そして私はカリフォルニアへ移住した。

ローレル・キャニオン 

 一九六八年、サンセット・ストリップがポップ・ミュージックとクラブ・シーンの商業中心地だとしたら、ローレル・キャニオンはその居住中心地だろう。

(略)

キャニオンの曲がりくねった道を運転すれば薬物誘発により正気を失った人々を、軽度から重度まで昼夜問わず見ることができる。

(略)

 キャニオンの起伏に富む道路をオープントップにしたムスタングで走ると、私のカーラジオと競い合うように周囲の渓谷から音楽が聴こえてくるのだった。それが生演奏なのかレコードやラジオなのか一度も判別できた試しはないが、常に音楽は空気中に流れていた。そして音楽があるところには、ミュージシャンがいる。バンドは様々な事情で結成し、解散し、再結成し、どこかのバンドは七桁の前金を提示された、とも噂に上る。どのミュージシャンも、七桁の小切手は自分のものとばかりに野望を抱いていた。

(略)

「誰かがそれだけの前金をもらえるなら……」一人のミュージシャンが、輪になって座る隣の人間にヨレヨレになったマリファナの残りを回して言う。「俺たちだってもらえるんじゃないか?」

 そして彼は深く息を吸い込む。続いて別のミュージシャンがマリファナの効果を最大限に生かそうと息を止めて沈黙し、「そうだよ……なあ?」と、彼も煙のもやの中にゆっくり長い煙を吐き出す。「俺たちでいいじゃねえか。この辺りじゃ一番クールなバンドだぜ」

 次の男は、マリファナが人間の指で持つには小さくなりすぎたのを見て、その吸いさしをくわえるため、ポケットから小さなワニ口クリップを取り出す。

(略)

グラハム・ナッシュの作曲した「アワー・ハウス」は、彼とジョニ・ミッチェルが一緒に住んだルックアウト・マウンテンの外れにある小さな一軒家について書かれた曲。かの有名な、フランク・ザッパが住んでいたトム・ミックスのログキャビンは、ルックアウトとローレル・キャニオンの角にある。ザ・バーズのメンバー何人かはワンダーランド・アヴェニュー小学校の下方にあるホースシュー・キャニオンに住み、中でもメンバーの一人は、小学校の勉強を大いに邪魔していた。彼は紫のベルベットのケープを羽織ってキャニオン周辺をバイクで暴走するのが大好きだったのだ。

(略)

 まだピンと来ない読者のために言っておく。その人物はデヴィッド・クロスビーだった。

 デヴィッドと知り合うのはそれから七年後だが、もう一人キャニオンの住人で彼はど有名人ではない女性と私は知り合いになっていた。彼女はカリフォルニアの人間で、詞を書いていた。

トニ・スターンの歌詞

私が見つけた生粋のLA人、トニ・スターン嬢はサンセット・ストリップ下方のウエスト・ハリウッド育ち。新しい環境に順応しようとしている私にとって、彼女はうってつけの友人だった。

 トニは“歌のフィーリングをもった詩”を書く人で、読むと自然とメロディが生まれてくるのだ。

(略)

曲作りの後に彼女は私をサンセット・ブルヴァードにある有名なローフードのレストラン「ザ・ソース」へ連れて行ってくれた。私たちが外のテーブル席に座り、サン・ティーをすすり、木のボウルに入ったチャイニーズ・サラダを著で食べる

(略)

長髪で性別不明の人々が、白のゆったりした服や花のプリント柄の服、あるいはジーンズと鮮やかな色合いの絞り染めTシャツ姿で行き交う。トニと私はこの大通りを行き交う人々、服装、ガソリンの臭い、人生、恋愛など二人の興味の赴く話題や、歌詞のテーマにぴったりの話題で盛り上がった。

(略)

 ト二は典型的なカリフォルニア・ガールだった。(略)

自宅の平らな屋根に寝転がり、大きなビーチタオルの上で紫外線を全身に吸収していた。ビーチも大好きだ。鮮やかな赤のビキニを着た小麦色のボディはしなやかで、長くたおやかなカーリーヘアは太陽に輝く千の川のように揺れ、非の打ちどころがない姿を露出していた。突然思い立って愛車のオープンカー、アルファロメオに乗り、髪をなびかせてビッグサーまで海岸沿いを走らせることもあった。

(略)

 トニの書く歌詞には明白なリズムがある。歌に託す思いや感情を、単語のアクセントのリズムで表現するのだ。彼女の歌詞からはメロディが応えるように頭の中に浮かび、私の声と指先から音楽になって流れ出す。これまで何年も、ジェリーが彼独特の言葉や身ぶりで表現しようとする方向性を、解析し翻訳し理解して、彼の意図するメロディを作り出してきた私にとって、トニの明晰な指示は開放的だと感じた。メロディの方向性を無言で示す彼女のやり方は、私に、彼女のアイデアを試しながら自分のアイデアを発掘しようという勇気を与えた。ジェリーなしでヒット曲を書けるのかまだ不安だったが、ト二と私の間に流れる気楽な空気は、消えた自信を再発見する重要なステップになった。

(略)

 トニの歌詞は、白い紙にきちんとタイプしてあるか、黄色い罫線入り用紙に特徴的な字で手書きされていた。彼女の詞は、歌詞的にも視覚的にもアートなのだ。曲のAメロやサビは、用紙の上で独特なシェイプを描いている。私はピアノの譜面台に彼女の歌詞を置くとすぐに心を開放し、曲のリズムや内容を無心で体に吸い込ませる。

次回に続く。

キャロル・キング自伝 ナチュラル・ウーマン

キャロル・キング自伝 ナチュラル・ウーマン
 

 リズム&ブルース

十三歳のときに私を熱く燃え上がらせた音楽は、クラシックとは似ても似つかないものだったのだ。退屈な男たちが支配する五〇年代に青春を過ごした私たち世代にとって、アラン・フリードの届ける音楽は、まさに天国からの贈り物だった。だが世間の親たちにとってこの音楽は、地獄から不安を撒き散らしながらやって来た邪悪そのものに見えていた。

(略)

実際に、アラン・フリードがかけるレコードは私たちの世代に性を目覚めさせ(略)自由を奨励するものだった。ただ、セックスを具体的に言及することはなく、歌詞でもさりげない表現に留めている。そもそも「ロックンロール」という言葉自体、黒人スラングで性行為を遠回しに意味しているのだ。「レット・ザ・グッド・タイムス・ロール」の歌詞の一節から「ロール・ミー・オール・ナイト・ロング」を分析してみると、いかがわしい単語は一つも出てこないが、全体の意味は間違いなく性行為を指している。そしてそこには「ビッグ・ビート」の要となる、ベースのうねりが響き渡っていた。

 思春期を迎えるまで私は性についてナイーブだったが、突如、うねるベースラインと脈打つドラムビートが今まで感じたことのない形で私の未体験ゾーンに押し寄せると、その音楽は私の本能に訴えてきた。思えば、ロックンロールとの出会いは自分の下半身に対する意識と同時に発展していたのだ。だから夜更かししてまでアラン・フリードの番組に耳を傾け、リズム&ブルースのレコードを聴くことにあれほど夢中になれたのだろう。

サラダ・デイズ

唯一、私のやましいことは、煙草で(略)煙草代、映画代、その他遊ぶ小遣いを貯めるため、私たちは親の手伝いのほかオフィスや店でのアルバイト、ベビーシッターなどをした。アルバイトがないときは、ブライトン・ビーチまでバスで行き、日焼けローションをお互いの肌に塗り合い、まだ成熟していない少女の体を日中の太陽にさらした。(略)

 コニー・アイランド・ボードウォークやシープスヘッド・ベイ・ロード、キングズ・ハイウェイといった街路を行き来するうちに、私たちのホルモンとフェロモンは炎天下で混ざり合っていく。(略)

男子たちが気取って歩き、女子たちはヒソヒソ話をしてクックッと笑い転げる。店のショーウィンドウに飾られた秋物の服を着た自分を想像しながら、実際はバナナ・スプリットを一つ買ってみんなで分けて、帰りのバス代をとっておくのがやっと。店で可愛い服を買えるお金は持っていなかったが、代わりにハンカチ・セットで我慢した。イニシャルのCが、それぞれピンク、青、黄色で刺繍されて箱に入っていた。

 一九五五年の夏はそんな思春期の私たちの思い出の日々、サラダ・デイズである。甘く、素朴で、平和な時間が、金色に光り輝く若さと新緑の無邪気さから生まれていた。毎日が熟したブドウのように甘く、夜はスイカズラの蜜のように淡い。もし、地球上の子供達全員がこんな夏を一度だけ験できるとしたら、世の中はより良くなっているかもしれない。

 だが、学校に通う子供なら誰でも教えられるとおり、夏は終わるのだった。

アル・パチーノ

 パフォーミング・アーツ高校での初日(略)

私が履修した演劇とダンスのクラスの担任は、ユタ・ヘーゲン先生とマーサ・グラハム先生。最初の点呼で覚えた名前は、アル・パチーノとラファエル・キャンポスだ。その他の名前は、親が映画や舞台で活躍している人たちで、スーザン・ストラスバーグは演技指導のリー・ストラスバーグ先生の娘、レティシア・フェラーはヘーゲン先生と俳優ホセ・フェラーの娘、そしてフランセス・シュワルツはユダヤ人舞台俳優モーリス・シュワルツの娘だった。

 新学期のスタート時に私はここで、ポピュラー・ミュージックへの情熱を満たしながら演劇を勉強し、ニューヨーク州の高校必修単位を取得できると思っていた。だが

[遠距離通学と演劇の授業に疲れ果て、二年の二学期、ジェイムズ・マディソン高校に編入]

 デートに誘われず

 マディソン高校での私の基本的な目標は、魅力的な女になり、みんなに好かれ、同級生から尊敬されることだった。だが、人気者になろうとすればするほど目標は遠のく。先祖の遺伝子によって背は低く、思春期の発達も一年遅れで、さらにほとんどの同級生より二歳年下という数字はごまかせない。競争の激しい高校時代において、私は同級生に比べておよそ三年も身体的発達が遅れていたのだ。

 男の子が私のことを“キュート”と表現するのを聞いた日、私は泣いてしまった。当時、それは人気者とか魅力的という意味ではなかった。キュートはデートしたい子に向ける表現ではなく、男子が女子を友達として見ているときに使う表現なのだ。男子から好きな子の相談を受ける女にはなりたくなかったが、実際に男子からかかってくる電話はすべてそれ。しかも私は友達が少なく、家に兄弟がいないため、多くの時間を一人で過ごすようになっていった。だが孤独は予期せぬ恩恵をもたらすもの。私は観察力を身につけたのだ。

(略)

 私が不良の仲間入りをする心配もなかった。そもそも私の高校に不良はたいしていない。(略)

 自分も含めて同級生の大半は労働者階級の家庭育ちで、常に親の監視下にあった。良い成績を収めることが期待され、私はその期待に応えていた。だが残念なことに、これこそがデートに誘われたいけど叶わない女の子の典型なのだ。どんなに自分の知的好奇心を低く見せても、男の子は相手にしてくれなかった。それはつまり、人気のある女子たちも私を相手にしていないことになる。少なくとも私は当時そう思っていた。

 三十年後、中年男女のグループが私のコンサート終了後、中年女性になった私に会いに楽屋へ訪ねて来てくれた。彼らはマディソン高校の同級生だと自己紹介した後、私が耳を疑うようなことを教えてくれた。当時、私のことをきれいで人気者でクラス一羨ましがられていた女の子だと思っていた、と言うのだ。私は反射的に「そのときそう言ってくれれば良かったのに」と答えた。だが本心は「そのときそう自分に言い聞かせれば良かったのに」だった。「あなたはきれいで、賢くて、面白い。そのままのあなたが一番。自信をもちなさい。自分のままでいい。自分を好きになりなさい。心配しなくていい。そのうちデートできるし、そうしたら別の問題が出てくる」と。マディソン時代にはそのことに気づかなかった。私は行動圏内で自分の居場所を探すのに精一杯だったのだ。

ジェームズ・ディーン、 ナタリー・ウッド

当時の良いルックスの持ち主とは、ポップ・アイドルなら健康的なフランキー・アヴァロンやフェビアン、映画俳優ならダークなイメージが“クール”以上の魅力を醸し出していたジェームズ・ディーンマーロン・ブランドだ。彼らの影響下、男の子たちは煙草ケースをTシャツの袖に巻き込み、ギャリソン・ベルトに親指を引っ掛けて、ワルぶっていた。(略)

一方で、ナタリー・ウッドが女の子たちの憧れをすべて背負っていた。彼女が演じるのは、若く美しく不良っぽさを忍ばせたティーンエイジャー。彼女の役はセクシーで、ロマンティックで、しばしば悲劇的だった。私もまた、親に内緒でグリニッチ・ヴィレッジでたむろし煙草を吸うなど禁じられた遊びに手を出しはしたが、私のことをクールだとか不良だと思っている人は一人もいなかった。私はあまりにもナタリー・ウッドとかけ離れていて、彼女のようになりたいと思ったことさえない。かすかな希望があったとしても、それが打ち砕かれたのはある日、階段下から聞こえてきた男の子の声だった。「キャロル・クライン? ああ、悪くないけどね、デートするなら背の高いブロンドの子だよ。あの大きい……」「ああそうだね!」とその友達が言葉をさえぎり、「ぼくも彼女だ」と低い声で言ったのだ。

 私は急いで階段を上りながら、三つのことを考えていた。恥ずかしさで顔が真っ赤になっていること、幸い誰も私に気づかなかったこと、そして血筋による不運を穴埋めするほど魅力的な女になるため、自分の長所を発達させよう、と勢いづいたこと。

ポール・サイモンとカズンズ

 一九五八年秋にニューヨーク市立クイーンズ・カレッジに入学したとき、同じく大学一年生だったアート・ガーファンクルポール・サイモンの存在は知らなかった。雑誌に写真入りでアートが「トム」、ポールが「ジェリー」として紹介されるのを見るまでは。一九五八年、ABCパラマウントから出た私のシングル失敗作に先立って、ビッグ・レコードという小さなレコード会社からトム&ジェリーの「ヘイ・スクールガール」が発売されていた。そのシングルはトップの圏内に入り、ヒットとみなされていた。

 同じ大学だったポールと私はすぐに友達になった。(略)

小遣い稼ぎを期待して私たち二人は、カズンズの名前でデモテープ制作をするようになった。ポールはベースとギターを弾き、私はピアノを、そして二人とも歌を。彼の曲や私の曲だけでなく、他人の曲のデモ制作も行った。収入はわずかだったが、まったく金にならなくてもやっていただろう。

(略)

 ポールと私が共作することはなかった。その理由を二〇〇六年にポールに尋ねたとき、彼は、自分が他人と曲作りができる人間だとは思えなかったこと、そして作詞の才能がないと思っていた、と教えてくれたが、一九六六年に「サウンド・オブ・サイレンス」が全米一位になった時点で彼は自分の作詞の才能に気づいたことだろう。

 一九五八年、私はまだ歌詞も書いていたが、一年前に比べたいした進歩はなく、自分より作詞技術をもった共作者を必要としていた。

ジェリー・ゴフィン登場

 高校二年、十五歳のとき、「トゥルー・ストーリー」という雑誌で黒髪と黒い瞳の若い男性のイラストを見つけた。あまりにもそのイラストが私の理想の男性像そのものだったので、切り抜いて財布の中に忍ばせていたのだった。ジェリー・ゴフィンに出会った日、その切り抜きはまだ財布の中にあった。

 一九五八年秋、ジェリーは十九歳、私は十六歳で、彼はクイーンズ・カレッジの夜間学生だった。(略)

ある日の午後、友人のドロシーと学生会館で試験勉強をしているとき、私はひどい生理痛に悩まされ勉強に集中できずにいた。そしてちょうど教科書を片付けているところに、ドアが開いて、ジェリーが入って来た。その瞬間心臓が止まった。彼は、財布の中に忍ばせているイラストに瓜二つだったのだ。

(略)

ジェリーと知り合いだった(略)ドロシーは彼に手を振って呼び寄せ、私たちを紹介し、私の具合が悪いことを伝えた。すると彼は、家まで車で送ってくれると言う。帰り道、薬局に立ち寄りジェリーは煙草を一箱、私は痛み止めのマイドルを購入した。車に戻ったジェリーは箱の上部からセロファンを剥がして箱を振りながら煙草を出し、唇に挟んだ。そして火を点けた後、マッチを振って窓から外に放り投げた。私は父親の職業[消防士]を考えると身が縮んだが、何も言わなかった。ジェリーは再び車を走らせた。ラジオからはジャズが流れ、会話は自然と音楽の話題に。私たちは二つのジャンルで好みが共通していた。ジャズと、舞台音楽だ。そして彼は唯一好きになれない音楽がある、と言うので「それはどのジャンル?」と尋ねるとこんな答えが返ってきた。「ロックンロール」

(略)

 私は彼にリトル・リチャードの音楽がどれほど自分に感動を与えているか伝えたかったが、それどころか私は、目の前の理想に近い男性に日は西から昇るのだと説得されそうになっていた。

 それから彼は、ジュリアン・ヘィルヴィの小説『若い恋人たち』を基にして、『ベイブス・イン・ザ・ウッズ』というミュージカルの脚本と歌詞を自分で書いたことを打ち明けてくれた。その歌詞に曲をつけてくれる人がいれば、ブロードウェイのプロデューサーに作品を持ち込んで、九時から五時の一般職に就かなくてもいいほど金儲けする夢が叶うという。

(略)

彼は片手でハンドルを回しながらもう片方の手でもう一本煙草に火を点けた。あまりにもその仕草がクールだったので、私は正気を失い、こんなことを自発的に口走ってしまったのだろう。

「実はね、アトランティックがミッキー&シルヴィアに歌わせる曲を探しているの」

 ジェリーは煙草を深く吸い込んで、煙を吐き、こう言った。「じゃあ一緒にその曲を作ってみない?」

 私は唖然とした。さっきまで彼は二十分もかけてロックンロールをけなして過小評価してきたのに。それほど嫌いなジャンルの曲をなぜ書こうと思うのかと聞くと、勉強のためにやってみたい、自分にできるのか見てみたい、と言う。

(略)

 母にジェリーを紹介してから、私と彼は居間に入って行った。そして「ラヴ・イズ・ストレンジ」を二回聴いただけで、ジェリーはその曲の第二弾となるアイデアを出してきた。ティーンエイジャーの恋人同士が、いい雰囲気になるたびに女の子の弟に邪魔されるという筋書きの「キッド・ブラザー」だ。(略)

 こうして初のゴフィン&キング作品は、わずか三十分で完成した。

 ジェリーと曲を作る作業は、とてもやりやすかった。

(略)

次々と曲を書くうちに、一曲に前金二十五ドルをもらえるまでに成長していった。それは音楽出版社にとっては小銭程度でも、私たちには大金だった。

結婚、アルドンとの契約

一九五九年の夏、私たちはローズデイルの両親の家で結婚した。

(略)

ジェリーはブルックリンのダウンタウンで科学者としての職を続け、私はマンハッタンにある工業用煙突製造会社で秘書として働いた。仕事が終わると、祖母のレシピ本やリア・レオナルド著『ユダヤの料理』を参考にして自分たちの夕飯を作った。

(略)

 夕食が終わると二人で曲を書いた。前金二十五ドルの小切手を期待して、私が仕事を休んで音楽出版社やレコード会社の重役に会いに行くこともあった。

(略)

さらに素晴らしい出来事があった。妊娠したのだ。

(略)

[ひどいつわりと音楽のために休みを取り過ぎたせいで解雇、そんな時]

偶然ブロードウェイで出くわしたのがニール・セダカなのだ。ニールに、ジェリーと私が自作曲の買い手を探している旨を話すと(略)アルドン・ミュージックのドン・カーシュナーとアル・ネヴィンズに会うように、と指示してくれた。

(略)

「アルドン」とは、アル・ネヴィンズとドン・カーシュナーの名前を合体させた社名。アルは、一九四四年のヒット曲「トゥワイライト・タイム」で知られるスリー・サンズの元メンバーだ。同社はアルが共同出資し、ドンがボビー・ダーリンやコニー・フランシスとの近しい人間関係とヒット曲を的確に聴き分ける能力を提供して、運営されていた。

(略)

[何曲かピアノで演奏すると、明日、ジェリーとまた来てと言われ]

 翌日の会合の結果、ドニーとアルは私たち作曲チームに三年間の音楽出版契約と、それに伴う前金として最初の一年目は千ドル、二年目は二千ドル、三年目は三千ドルを提示してきたのだ。合計六千ドルの前金を受け取る代わりに、アルドン・ミュージック株式会社「及び(又は)その相続人その他の継承人」との契約期間内にジェリーと私が書く全楽曲の著作権所有権をアルドンに譲渡し、前金はすべて、作曲家が受け取る出版印税から差し引かれる。音楽出版社と作曲家の著作権配分は同率で、音楽出版社の取り分がアルドン及び(又は)その相続人その他の継承人に行くことになる。当時、私は「相続人その他の継承人」の意味が一体何なのか分からなかったが、アルドンとの契約をその後延長したことで、一九五九年の契約時から一九七一年に発表した「つづれおり」の数年後まで契約は続き、私とジェリーの共作曲に限らず、別々に書いた曲もその中に含まれることになった。

(略)

六千ドルという金額は私たちにとって大金[だったが](略)

アルとドニーにとって、六千ドルの投資は比較的少ない額だったかもしれない。ジェリー及び(又は)私が書いた全楽曲の版権の所有権及び(又は)その移動権を、当時は五十六年間保持できたのだから。

「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」

ドニーがシュレルズの候補曲に選んだのは、ジェリーと私の曲だった。次の関門は、セプター・レコードの人の前で演奏すること。(略)

手にジェリーの手書きの歌詞を持ち、私はエレベーターを使わず階段を駆け上がり、セプターの社長フローレンス・グリーンバーグと、プロデューサーで「トゥナイツ・ザ・ナイト」の共作者であるルーサー・ディクソンの前で演奏した。二人は曲を気に入り、すぐにシュレルズでレコーディングしたい、と話が進む。私はそのままセプターのスタジオでデモを録ったのだ。自分のピアノ伴奏に生で歌を乗せただけの未熟な見本演奏だったが、シュレルズのリード・シンガーのシャーリー・オーウェンズに似せて歌った。後になって、シュレルズの誰か(略)が教えてくれたのだが、シャーリーがリード・ボーカルを録ったとき、私のデモを真似て歌ったという。シャーリーを真似て歌った私を本人が真似て歌ったとは!

(略)

 多くの人が歌詞を書いたのは私だと勘違いしているが、それはこの曲が十代の女の子の不安――一生に一度のご褒美を彼氏に捧げてしまうともう愛してくれなくなるかもしれないという心境を雄弁に表現しているからだ。作詞をしたのはジェリーで、彼は人間の本性を男女を超えて理解できる人。私はメロディを書き、スタジオでピアノを弾き、ストリングス向けのアレンジを作った。

(略)

 アレンジに取り掛かっているとジェリーが、ボーカルをこんな風にしたらどうか、と歌ってみせた。(略)

ヒントを探して私たちは、作曲家チーム、ジェリー・リーバー&マイク・ストーラーによるヒット・レコードを、ウィルバート・ハリソン(「カンザス・シティ」)からコースターズまで聴きあさった。(略)

今まで耳にしたことのない独特のアレンジは(略)「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」(ドリフターズ)だった。ドリフターズベン・E・キングの歌声にチェロとティンパニーを合わせるなんて、リーバー&ストーラー以外に誰が思いつくだろうか?

(略)

手書きで十五以上のアレンジ譜を作り終えた頃、私は目がかすんでいた。時計を見ると午前四時四十五分。ルイーズの寝顔を覗いてからベッドに入った。

(略)

ミュージシャンたちが(略)各パートを弾き始めたとき、私は興奮して目がくらむようだった。自分が書いた五線紙上の黒い丸と線が、美しい音楽となって流れ出すのだ。このときの経験は、私の期待を遥かに超えたものだった。

 私は十八歳だった。

(略)

私たちは、ジェリーが日中の仕事を辞めるタイミングをシングル百万枚という数值に設定していた。ドニーは、シングルが百万枚を記録したと知った日、このニュースをジェリーに個人的に伝えることにこだわり、運転手を出して私を拾ってからジェリーの職場のあるブルックリンへと車を走らせた。ジェリーは知らせを聞いて仕事を辞め

(略)

昼の空いた時間を使って他のアルドン所属作曲家たちと曲作りするようになった。その一例がバリー・マンとの「フー・プット・ザ・ボム」で

(略)

私もまた、他の作詞家と共作するようになった。シンシア・ウェイルやハワード・グリーンフィールドが有名だ。

「ロコモーション」 

 “黄金の耳”をもつドニーがヒットの太鼓判を押した「ロコモーション」をカメオ・パークウェイが見す見す逃したことは、ドニーをディメンション・レコード設立に駆り立てた。カメオ・パークウェイがレコード会社として成功していた事実も後押ししたのだろう。ディメンションは、アルドン・ミュージック所属作曲家たちが制作し、アルドンの管轄下にあるアーティストたちが歌ったレコードを発売することになった。我が家のべビーシッターをリトル・エヴァ命名したのはドニーである。こうして「ロコモーション」はディメンション・レコードの第一弾シングルとして、一九六二年六月八日に発売された。

 ドニーの直感は、本当にお金を生み出した。「ロコモーション」が全米一位になるのに大した時間はかからず、その後七週連続一位。

(略)

「ロコモーション」は新種のダンス・ステップをほのめかしてはいるが、ジェリーも私も具体的なダンスを思い描いていた訳ではない。そのためエヴァは人前で歌うために自分でダンスを考案せねばならず、宣伝写真撮影の日、彼女は機関車の横に立ち、「ロコモーション」の曲がスピーカーから大音量で流れる中、機関車のように腕を動かした。こうしてダンスが生まれたのだ。

(略)

 ドニーは「ロコモーション」のヒットにご満悦で、ジェリーに他のアーティストのプロデュースも任せるようになった。間もなくディメンションは強力なインディーズ・レーベルへと成長し、ジェリーは才能あるプロデューサーとして認められる。

郊外暮らしに退屈していた夫

 全体的に見て私たちは安泰だと思っていた。だがジェリーは郊外での暮らしを楽しんでいなかったのだ。「プリーザント・ヴァリー・サンデー」(モンキーズの六七年ヒット曲)と言う曲の中で彼は自分の意見を強く主張している。

[バリー・マン&シンシア・ワイル夫妻とマンハッタンでディナーを楽しむと、二人]

(略)

は歩いて帰るが私たちは駐車場から車を出し(略)西に車を走らせ、ようやく家に到着する。“私たち”と言ったが運転手はジェリーで、私は寝ていた。そしてジェリーは運転を好んでいなかった。理由は二つ。一人で運転するから、そしてマンハッタンに帰るほうがよっぽど楽しかったからだ。

(略)

私は幸せで、その安堵感に溺れる中で夫も幸せに違いないと思っていた。だがジェリーは、東と西の両海岸で起こりかけている社会運動の風を感じ始めていた。その風は嵐となって、家族を分裂させるに十分なエネルギーを伴い、私たちは東から西へ、国から国へとバラバラになっていくのだった。

(略)

 ニューヨークを制したドニーは新たな征服地を模索した。

(略)

 西海岸にオフィスを構えるというドニーの決断は、明敏かつタイムリーだった。そしてその運営にルー・アドラーを抜擢した人選もまた賢明と言える。ルーは西海岸のアーティストやプロデューサーたちと長い付き合いがあり、彼を登用したことでアルドンの作曲家たちの元には幅広いジャンルのアーティストたちのヒットが転がり込んできた。

次回に続く。

ボブ・ディランという男 その3

前回の続き。

ボブ・ディランという男

ボブ・ディランという男

 

カントリーミュージック

小さなころからディランは、ハンク・ウィリアムズを魔法の力を持つお守りのように見てきた。「十代でロックンロールを始める前から、ハンクの歌をよく歌っていた」。(略)ディランが最初に好きになったのは、そういう音楽だったということだ

(略)

しかし『ナッシュヴィルスカイライン』は、ハンク・ウィリアムズへのトリビュート・アルバムとは言いにくい。(略)このアルバムはカントリーポップそのものでしかない。

 ナッシュヴィルでレコーディングをしたことで、ディランのなかにあったカントリーへの思いが復活したのだろうか? ディランは一九六六年から二年間、『ブロンド・オン・ブロンド』と『ジョン・ウェズリー・ハーデイング』で、ふたりのナッシュヴィルのミュージシャン、ケニー・バトレイ(ベース)、チャーリー・マッコイ(ギターほか)と共演している。ディランは彼らに「現代的な哲学」という流行り病をうつし、かわりにホンキートンクという熱病をもらったようだ。

(略)

このとき彼が出会ったカントリーとは、田舎の白人たちが代々歌ってきたブルースではなく、カクテルを片手に聞くイージーリスニングに近いナッシュヴィルの音楽だった。ワクチン接種を怠ったままナッシュヴィルに行ったディランは、その種の音楽に感染し、ペダル・スティール・ブルースを取り入れた。七〇年代、ロックの分野でペダル・スティールが多用されたが、それにはディランの影響も大きかった。その後ウッドストックに帰ったディランが、バフィー・セント=メリーだかバルトークだかを聞いているうちに、突然、頭のなかでナッシュヴィルメトロノームが動きだした。まるで魔法にかかったようだった。そして気がつくと、以前のようなワイルドな作品が書けなくなっていた。

(略)

 一世紀前の南北戦争が生んだ南部と北部の軋みは、現代も続いていた。北部人はカントリーミュージックを軽蔑していた。ヴィレッジのフォークシンガーはアパラチアの山間部の住人たちを偶像視したが、らば追いや密造酒づくりの子孫がつくる現代の都市化した音楽、つまりカントリーを認めていなかった。逆に、南部の子孫たちは、左翼や同性愛者や黒人と仲良しのやつら、つまりサンダルを履いたグリニッチヴィレッジ人種を毛嫌いしていた。

 この時期、カントリーミュージックにロックの要素をとりこもうというカントリーのナッシュヴィル化がさかんにおこなわれていた。カントリーはロックンロールの源泉のひとつであるにもかかわらず、価値の低いものとして扱われてきた。しかし派手な衣装をまとったヒッピー、グラム・パーソンズの登場で大きく変わった。バーズがディランの曲を美しいハーモニーのカントリーに仕立てて歌うということも起こった。この時代にカントリーは、ロックの別荘のような存在、派手好みのいなかの親戚のような存在となり、同時にブーツ、帽子、マント、ヌーディがデザインするきらきらカウボーイ服という衣装が定着した。これがやがて、イーグルスや彼らの永遠のベストセラー・アルバムにつながる。

(略)

 このころのディランは渇水期を迎えていた。聖書由来の終末論的色彩が強い前作『ジョン・ウェズリー・ハーディング』の最後に、不似合いなカントリー曲がふたつも入っているという事実をとっても、彼が新しいアイデアを生み出せずにいるのはあきらかなように思えた。コロンビア・レコードの社長だったクライヴ・デイヴィスは、初めカントリーへの移行に反対だったが、ディランの制作活動が停滞していたため、新しいものが助けになると考えたようだ。それに何よりも彼はアルバムという商品を欲していた。

(略)

[しかし、ジョニー・キャッシュとの共同作業]をもってしても、ディランの創作活動が勢いをとりもどすことはなかった。

(略)

ナッシュヴィルスカイライン』は、わたしたちをからかうためのものなのか?(略)

恐ろしいのは、悪ふざけでなく本気でやっていることかもしれないという思いだった。(略)

ただ絵に描いたような幸せの嘘っぽさ、彼ののどかな家庭生活が『トゥルーマン・ショー』のようなつくりものに思えるうさんくささだけがあった。

(略)

 『ジョン・ウェズリー・ハーディング』の教訓を説教する賢人はまだよかったが、快活ないなか神士、愛想のいい隣人のイメージはどうにも受け入れにくかった。ジョニー・キャッシュのテレビ番組や『ナッシュヴィルスカイライン』で披露された新しいディランは、大いに問題だった。

(略)

しかし『ナッシュヴィルスカイライン』はディランのアルバムのなかでもよく売れた一枚となり、カントリーロック・アルバム最高の売上を記録し、

(略)

そのまま七〇年代のカントリーロック・ブームにつながった。

『セルフ・ポートレイト』

整理されないままのぶざまな断片が集まり(略)

ほとんどの人に理解されることなく嫌われた。さまざまなことが言われたが、いちばんの問題はアルバムのなかに、ディランがいないことだった。まもなくしてファンは群れをなしてディランから離れていった。

(略)

『セルフ・ポートレイト』は、真の意味でファンの心をディランから遠ざけた初めてのアルバムだった。パロディだと思ってしまうほどの、受け入れがたいアルバムだった。

(略)

収められた曲はどれも、歌い方が粗雑で、プロデュースも悪く、声も疲れて感情がこもっていないことが多かった。

(略)

諸説のなかで、もっとも魅力的なのは、ディランは『地下室』の曲を録音したときのような魔法の再現をスタジオで試みたという説だった。つまり、結実はしなかったものの、そこには何らかのアイデアがあったということだ――しかし、どういうアイデアだったのか?

(略)

 それが何であったにしろ、ディランが目指したものは実現せず、アルバムが発売されると、評論家連中は大激怒した。(略)

彼らは『セルフ・ポートレイト』をぶった切って抹殺した。ディランの血を吸う吸血鬼の親玉が、グリール・マーカスだった。彼は『ローリング・ストーン』誌のアルバム評を「このクソは何だ?」で始め、そのことばがアルバム自体より有名になった。

(略)

[なぜ評論家たちは感情的になったか]

ディランとは、一九六五年に世界をヒップな者とヒップでない者に二分した人間だった。(略)

「ライク・ア・ローリング・ストーン」を聞いて、マーカスやヤン・ウェナーを含む大勢の人間がその後の人生を変えたのだ。そのもっとも先進的であるはずの人が、とんでもなくくだらないものをすすめている。このアルバムは侮辱的だ。ディランは彼らを裏切った。ディランはもう終わりだ。ディランはもういない。

駄作を作った10の理由

理由#1:これまでもっとも広くいきわたっているのは、ディランは自分の神話を打ち壊したかったという説だ。

(略)

理由#4:一九七〇年の夏、わたしはロビー・ロバートソンに、ディランはどういうつもりで『セルフ・ポートレイト』をつくったのだろうと訊いたことがある。ロバートソンは「ビール好きの一般大衆を対象にした」ようだと答えた。

(略)

理由#5:バーズがその特徴である液体水素のようなサウンドを加えるはずだったが、行き違いがあった。連絡が徹底せず、バーズは帰ってしまった。

(略)

理由#8:一九六九年の『ザ・グレイト・ホワイト・ワンダー』への反応だという説。(略)「あのころぼくのブートレグが出回り、ブートレグにはあれよりひどいものがたくさんあった。だから、いっそ自分のブートレグをつくってやろうと考えた。あれがほんとうのブートレグだったら、大勢が人目を忍んで買いに行き、こっそり聞いただろう。(略)

ディランらしいひねりのあるおもしろい答えだが、残念なことに『セルフ・ポートレイト』の曲の多くが、ブートレグの『ザ・グレイト・ホワイト・ワンダー』より程度が悪く

(略)

『セルフ・ポートレイト』発売の四か月後の一九七〇年十月、さらに聞く者を動揺させる『新しい夜明け』が発売された。

(略)

ディランは新しい歌をつくるときはいつも、それを歌う人物像をつくりあげてきた。つまり新しいディランが必要だった。そして『新しい夜明け』で披露された新しい分身は、「幸せな家庭人」――ディランにはもっとも不似合いなイメージ、ファンにとっては悪夢――だった。(略)

このアルバムを聞くと、ディランがヒビングを出なかったらどんな人生を送っているかを見せられている気がした。パパの家庭用品店を継ぎ、小さなころからのガールフレンド、エコ・ヘルストームかボニー・ビーチャーと結婚し、子供をもうけて腰を落ち着ける。「ワン・モア・ウィークエンド」のディランはひどくおめでたくて、ある朝、眼を覚ましたらドリス・デイと結婚していたとでも言いたげだ。

ローリング・サンダー・レヴュー 

 ツアーのさなか、フィル・オクスが首つり自殺をした。ローリング・サンダー・レヴューに呼ばれなかったことが最後の止めを刺す役を果たしたのかもしれないが、原因はそれではなかった。オクスは昔から不安定で激しい性格の持ち主で、ビター・エンドに手斧を持って現れたこともあった。しかしディランのソングライターとしての成長と成功がオクスに決定的な打撃を与えた。ディランのせいで、オクスが書いたものすべてが無価値になった。そして一九七五年には、アルコール依存症で太りすぎの亡霊と化していた。

 ツアーのあいだにさまざまな場面が撮影された。

(略)

 一行はプリマスロックを見物に行き、落胆した。記念の岩は屋根の下で鉄格子に囲まれていた。まるで肉の色をした死骸――からだの半分を食べられ、打ち上げられて砂に埋まった海獣の死骸――のようだった。おまけに地元の人たちは岩が縮みつづけていると言う――ピルグリム・ファーザーズが抱いた夢が年を追うごとに縮んでいくかのようにだ。

 ローリング・サンダー・レヴューは、アメリカ建国二百周年の熱狂のなかでおこなわれた。サム・シェパードによれば、「現在の社会の狂気を過去の亡霊が癒してくれる」という感覚が蔓延していた。昔の衣装や複製や模型――歴史の大売り出しだった。歴史がのしかかるように現代に入り込んでいた。人々は意地悪な時間旅行者のように、自分たちの歴史を低俗で安っぽい飾り物に変えていた。

 「ディランは、ぼくたちのまわりの地面から神秘的空気を創造する」とサム・シェパードは書いている。ディランはエンタテイナーであるだけでなく、古い蝋人形に生命をもたらす蘇生者だった。

(略)

 ツアーが進むにつれて、当初の可能性の光と批判の精神は失われた。

(略)

ディランは、アメリカ合衆国の集団的無意識という精神的な結合体に焦点を合わせた。

(略)

アメリカ自体に肉体を与えようと試みた。ディランは失われてしまったアメリカを探求したが、最初からわたしたちのほうが見失っていたのだ。

(略)

 だれもが、ディランがつぎのすばらしい作品をつくるのを待っていた。しかし彼はどん底にいた。

(略)

そこに、物語を歌にする方法を知っているというジャック・レヴィが登場した。レヴィは『オー!カルカッタ』を演出し、演劇の舞台デザインを多数手掛けていた。そしてディランのつぎのアルバム、『欲望』のなかの多数の曲をディランと共作することになる。

(略)

 レヴィの映画的な物語の手法は、ディランの歌詞づくりに――たとえディランの歌詞が堂々巡りでまとまりが悪いとしても――、よくない影響を与えた。まるで一九七五年にロジャー・マッギンがディランに、類義語辞典押韻辞典を与えたかのようだった。短篇小説のような歌を書きたいなら、ジョセフ・コンラッドチェーホフなどの巨匠の作品を知る必要がある。『欲望』の曲をつくっているとき、レヴィもディランにそれを薦めた。

 一九七六年に発表された『欲望』は、ディランのアルバムのなかでももっとも売れた一枚だった。

(略)

アルバムのジャケットの裏には、一風変わったそっけない文体の作家、コンラッドの写真が載っている。このころのディランは物語に興味を持ち、「ブラック・ダイアモンド湾」「リリー、ローズマリーとハートのジャック」というふたつのすばらしい短篇小説のミニチュアを書いた。

(略)

「ブラック・ダイアモンド湾」は大きな転換があって終わる(略)歌で、ディランが新たに開発した着想の力を表すものと言われているが、ジャック・レヴィは『アイシス』誌のインタヴューで、彼がほとんどすべてをひとりで書いたと主張している。  『欲望』には二曲のプロテストソング、「ハリケーン」と「ジョーイ」――プロテストソングと呼べるかどうか議論は分かれる――が収められている。しかしこのふたりの主人公、ボクサーのルービン・ハリケーン・カーターとギャングのジョーイ・ガッロを、迫害を受けた者とまつりあげるのには無理がある。ハリケーンはたしかに警察に仕組まれて罪を着せられたが、聖者にはほど遠かった。(略)

[抗争で]射殺されたガッロは、精神的にも問題がある悪人だった(略)

のちにガッロの残虐な犯罪歴を知って、ディランはずるいことに、すべてをすでに故人となっていた共作者、ジャック・レヴィのせいにした。

(略)

 レヴィは、ディランは筋の通った物語をつくるのが苦手で、とくに話をAからBへ、そしてCへと進めることができなかったと批判した。しかし、その点こそ、わたしたちがディランの六〇年代の作品を愛する理由だった。いっぽうレヴィはオフブロードウェイで演劇を手掛け、歌の演劇的要素を高める技術を持っていた。たとえば「ハリケーン」の冒頭の「銃声が鳴り響いた」などの表現だ。レヴィがディランと共作した曲には、オペレッタのような感触がある――舞台の背景幕に描かれた風の空、国境の南から送られてきた絵葉書にはホット・チリ・ペパーの絵、小道具部が用意した悪魔。レヴィは曲のひとつひとつを一幕劇に仕立てた。まぶしい光と悲しさがいっぱいの短編映画に

 『ウィー・アー・ザ・ワールド』、トラヴェリング・ウィルベリーズ

青ざめて疲れ果てたように見えるディランは、『ウィー・アー・ザ・ワールド』のヴィデオ撮影[に参加](略)

収録中、ディランはためらいがちにマイクの前に進み、小さな声で歌いだした。プロデューサーのクインシー・ジョーンズはテープを止めさせた。一体どうしたんだ?スティーヴィー・ワンダーがボブのそばに行き、今の歌い方では「ディランらしく」ないと教えた。さらにどのように歌ったらいいか教えた。スティーヴィーはディランを真似て歌った。ディランは自分自身を見失っているように見えた。何十億人もの人がこのヴィデオを見る。その全員がディランの声を聞きたがっている。しかし、ディランは自分らしく歌う方法を忘れていた。クインシーがディランをなだめるように説得し、転調させて歌えばいいと見本を聞かせた。気を取り直したディランは、もう一度挑戦した。「こんな感じでよかったのかな?」。歌い終わったディランはためらいながら訊いた。

 一九八五年七月十三日、フィラデルフィアで開催されたライヴ・エイド・コンサートで事態はさらに悪化した。

(略)

主催者側はボブに、最近再結成したピーター・ポール&マリーといっしょに「風に吹かれて」を歌ってほしいと望んでいた。しかしボブには断る正当な理由があった。

(略)

 午後のあいだ中、楽屋で飲み続け、薄汚れたように見えるボブがよろけるようにしてマイクの前に現れた。

(略)

ボブは「バラッド・オブ・ホリス・ブラウン」をまとまりなく歌った。中西部の農民が餓死するよりも家族を殺し自殺する道を選んだという恐ろしい歌である。

(略)

彼の最悪の低迷期に(略)ある運命的な出来事が彼を悲惨さから救い出した。

[『クラウド・ナイン』制作中のジョージ・ハリスン]のプロデューサー、ジェフ・リンはボブがポイントデュームの自宅のガレージにスタジオを持っているとジョージに教えた。ただ、その前にジョージは、たまたまトム・ペティの家に置いてある彼のギターを取りに行かなくてはならなかった。結果、トム・ペティも仲間に加わった。こうして出来上がったグループ――ジョージ、ペティ、リン、ボブ(さらにドラマーのジム・ケルトナー) ――は、即興で楽しい音楽を生み出した。(略)リンはロイ・オービソンのプロデュースもしていた。(略)

オービソンが加わり、トラヴェリング・ウィルベリーズが誕生した。

(略)

 世間から離れ、非難にさらされていたディランにとって、このグループは理想的な環境だった。彼はウィルベリーの一員として匿名で自分を隠すことができた。ボブはラッキー・ウィルベリーを名乗った。トラヴェリング・ウィルベリーズは、気難しい陰気な性格になっていたディランを更生し、元気付け、孤独な恐怖心から抜け出させ、ふたたび重要なアーティストに戻した――もはや彼はかかってこない電話を待つ必要もなくなった――さらに巨額の金を彼にもたらした(アルバムは三〇〇万枚を売り上げた)。

 しばらくしてネヴァー・エンディング・ツアーが始まった。(略)ディランの個人的な不満や不安、曲作りの危機を解決するものではなかったが、生き統けていく理由を与えてくれた。

『オー・マーシー

みんなに愛されるトラヴェリング・ウィルベリーズのメンバーであったが、長く待たれているディランのニューアルバムはどうしたのか?一九八九年といえば、『血の轍』から十五年、『インフィデルズ』から七年、ディランはインスピレーションを求めて雨乞いをしていた。そして彼はネヴィル・ブラザースのブードゥー教のような『イエロー・ムーン』を耳にした(このアルバムには、彼らが歌った不気味な「ホリス・ブラウンのバラッド」が収められている)。プロデューサーはダニエル・ラノワで(略)U2のボノがボブにラノワを紹介し、ようやく長い水不足が解消された――結果、ディランの一九八九年の傑作『オー・マーシー』が出来上がった。

(略)

 ラノワは、移動式録音機材を利用して舞台セットのような録音環境をつくった。ルイジアナのスワンプサウンドを生み出すために、ラノワはニューオリンズのソニアットストリート1305番地に一軒家を借りたのだ。

(略)

ディランに南部のブードゥー霊感を感じられるようにと、動物やワニの剥製、苔などを持ち込み、その家をハウス・オブ・ザ・ライジング・サン、つまり娼婦の館のように飾って架空の舞台セットのような奇妙な環境をつくりだした。

最悪のパフォーマンス 

 ツアーを続けるうちに、ディランはプライヴァシーに執着するあまり、しだいに不機嫌で被害妄想になり酒に溺れるようになった。「彼はまるで――あちこちうろつき回り、ビルの裏にある非常階段からこっそり忍び込むような男になった」と、八〇年代末にバンドのベースプレイヤーだったケニー・アーロングは指摘する。

(略) 

一九八九年五月のヨーロッパ・ツアーでは、ディランはスウェットのフードをかぶったままステージに立った。

(略)

ぼさぼさの髪、着替えずにそのまま寝た服、ボブは乱れたままのベッドのように見えた。バックステージでのボブは、だれとも会わなかったし、いろいろな面でますます変人になっていった。

(略)

 ボクシングトレーナーのボブ・ザ・マウス・ストラウスを真似て、修道士のようなフードをかぶり始めた。

(略)

彼は過去に有名だった男を見せるフリークショーのような存在になっていた。評論家たちも彼のショーは最悪だ、と不満や哀れみを込めて文句を言う。いつも酔っぱらっていて、コントロールできない。おまけにひどいリードギターを弾く。

(略)

 いまや彼のショーは、しばしば列車事故のようだと言われるようになった。彼は不幸だ。自分の役割を見いだせず、家庭もなく、レコードも売れない。ビニールレザーのソファの上に横たわり、赤ワインかブランデーを直接ボトルから飲んでいる。

(略)

 最悪のパフォーマンスは一九九一年二月まで続いた。

(略)

『アンダー・ザ・レッド・スカイ』をプロデュースしたデイヴィッド・ウォズは(略)苦労を次のように語っている。「彼との仕事は疲れた……彼はディレンマに取り憑かれていたようだった。『ボブ・ディラン』であることが絶えず重荷になっていると、おれは思った」

『アンダー・ザ・レッド・スカイ』 

ツアー移動もひとりで専用のバスを使う。彼はホームレスのような格好で通りをうろつく霊のようだった。疑い深く、こっそりとディランは逃亡者のように暮らし、大音量のバックバンドやゴスペルコーラスに自分のヴォーカルを隠してきた。八〇年代の大半、彼はまるでろう城するかのように、ミツバチの巣箱――クイーン・オブ・リズムと呼ぶ黒人女性バックコーラスでレジーナ・マックラリー、キャロリン・デニス、彼女の母親マデリン・ケベック、元ローレッツのクライディ・キングの四人――に囲まれてステージに立った(しばしばステージを離れてもいっしょだった)。秘密だったが、バックコーラスの女性とも関係を持った。ボブの女性関係は複雑だ。彼女たちはボブのバックコーラスであり、取り巻きの女たちであり、保護者でもあった。その中のひとりキャロリン・デニスは、二度目の正妻となり、ボブの子を産んだ。

(略)

[マリア・マルダー談]

「彼が黒人女性とつきあったのは、彼女たちが彼を偶像視しなかったからだと思う。(略)ばかなことをしないで!ときっぱり言うことができる女性だった」

 一九八六年一月三十一日、キャロリン・デニスはボブの第六子となる女児ガブリエル・デニス・ディランを産んだ。もともと『アンダー・ザ・レッド・スカイ』はこの女の子のために書いた子供向けのアルバムだった。しかしガビー (ガブリエル)の誕生は極秘とされ、四か月後に正式に結婚した。(略)

[ロスの新居は]理想の家をつくるのにふさわしいと思われたが(略)

一九九〇年八月、キャロリン・デニスは離婚の申請をした。明らかに新居は家庭とは呼べなかった。ボブが家にいることはほとんどなく、いつもほかのバックコーラスの女性やレコード会社の女性A&Rと遊んでいた。

(略)

ボブは、さらに悪い方向に落ちていったが、突然いくつもの栄誉を受けることになった。この瞬間、悪いことに終止符が打たれた。一九八八年一月二十日、ディランはロックンロール・ホール・オブ・フェイムの殿堂入りをはたした。

ツアー名称 

ネヴァー・エンディング・ツアー(終わりのないツアー:八八年五月から九一年、ギタリストのG・E・スミスが抜けるまで)、マネー・ネヴァー・ランズ・アウト・ツアー(金は尽きないツアー:九一年秋)、サザン・シンパサイズ・ツアー(南部支持者ツアー:九二年初頭)、ホワイ・ドゥ・ユー・ルック・アット・ミー・ソー・ストレンジリー・ツアー(なぜそんなに奇妙な目で見るのかツアー:九二年ヨーロッパ)、ワン・サッド・クライ・オブ・ピティ・ツアー(哀れみのひと叫びツアー:九二年オーストライア&アメリカ西海岸)、プリンシプルズ・オブ・アクション・ツアー(行動主義ツアー:九二年メキシコ&南アメリカ)、アウトバースト・オブ・コンシャスネス・ツアー(意識の噴出ツアー:九二年)、ドント・レット・ユア・ディール・ゴー・ダウン・ツアー(約束を破るなツアー:九三年)

『変なおじさん』 

ある日の午後、ボブは(略)フードをすっぽりとかぶった姿で、どこかの家の前の芝生に立っていた。ブルース・スプリングスティーンが『明日なき暴走』の曲をつくったとされている家を探していたらしい(略)。不審な浮浪者と疑った近所の人が警察に通報

(略) 

「バブル巡査は二十二歳で、ボブ・ディランを知らなかったのです。(略)身元証明書類を調べるためホテルまで同行し、その間に署と連絡をとり、ボブ・ディランがいかなる人物であるかを知ったんです。(略)」

 このほかにも、時折『変なおじさん』の目撃例が報告されている。

 

 ロサンジェルス郊外の高級住宅地、カラバサスの幼稚園児は両親に、「変なおじさん」のことを話していた。何度も幼稚園にやって来て、ギターを弾きながら「怖い」歌を歌うのだと。「変なおじさん」はボブ・ディランであり、その孫(ジェイコブ・ディランの息子)が幼稚園に通っていたのがわかった。ディランは楽しませようと歌っていたが、子供たちは伝説の人物が歌ってくれているとは知らなかった。子供たちにとってディランは、ただの「ギターを弾く変なおじさん」でしかなかった。

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