ハービー・ハンコック自伝 その6

前回の続き。

ウィントン・マルサリス

[フレディの遅刻癖にうんざりしていた時に、ウィントンを紹介され、フレディとの交代を思いつく]

ロンはVSOPが継承するマイルス・デイヴィスの遺産にこだわりをもっていた。(略)十九歳の若者にその役を任せてもいいのだろうか?トニーはそれほど気にしていなかった。マイルスのバンドに入ったとき、まだ十七歳だったからだろう。

(略)

「聞いてくれ」と私は言った。「おれたちは、やろうと思えば、マイルスの遺産を自分たちだけで守り続けることはできる。だけど、おれたちが死んだら、それも一緒に死んでしまう。若い世代の連中と分かち合ったら、彼らがそれを後世に伝えてくれるんだ」。

(略)

 ロンは理解してくれた。彼はウィントンのレコードを聴いていなかったが「オーケー、ハービー。彼を入れよう」と言った。

(略)

最初のショウからウィントンは圧倒的なプレイを繰り広げた。彼は臆することなくステージ上で私たちと渡り合った。

(略)

 ニューオーリンズで育ったウィントンには多少ショーマンシップがあった。彼はすぐれたプレイヤーだったが、客の拍手を得るためソロの最後にこれ見よがしの派手な装飾フレーズを付け加えた。マイルスはけっしてそんな見せびらかしはやらなかったし、ロンもトニーも私もそんなマイルスに薫陶を受けた。私たちはウィントンのそのようなパフォーマンスが好きではなかった。私は彼が演奏だけに専念してくれればいいと願っていたが、いっぽうで、それは彼が緊張しているからであり、いずれはそんなプレイをやらなくなるだろうとも思っていた。というわけで、マイルスがそうしたように、私は演奏に関してウィントンには何も言わなかった。

 ところがウィントンは、まだ十九歳だというのに、他のミュージシャンを批判するようになった。(略)

インタビューで彼は先輩の偉大なジャズ・ミュージシャンの何人かに関し、否定的な意見を述べた。私は理解できなかった

(略)

私は何度か彼を諭した。「おまえは何を考えているんだ?ジャズはいま難しい時期にある。ファンをつなぎとめなくちゃいけない。だからおれたちは傷つけ合うんじゃなく、助け合わなきゃいけないんだ」。するとウィントンは「ああ、そうだな。悪かった!おれはどうかしていた」と言った。あとで謝るということから考えると、彼は口が滑るのを制御できない性質だったのかもしれない。

(略)

 数年後、ウィントンの言動はさらに過激になった。彼はヴァンクーヴァー国際ジャズ・フェスティヴァルにおいて、客の目の前でマイルスを挑発した。マイルスはバンドを引き連れてステージに登場した。彼の音楽はエレクトリック・サウンドにどっぷり浸かっていた。そのセットの途中、ウィントンが呼ばれてもいないのに、トランペットを手にしてステージに上がった。彼はマイルスに競演を挑もうとしているかのようだった。だがマイルスはそんなことはやりたくなかった。彼はウィントンを追い払おうとしたが、ウィントンがステージから下りなかったのでバンドの演奏を中断させた。

 ウィントンは目覚ましいプレイヤーだったが、そんな競争意識が彼の欠点だった。ごく若いころから、彼は特権を与えられた男のように振る舞った。演奏に専念し、自分がやるべきことをやるだけでは満足しなかった。いつも自分と他人を比較し、自分の基準に合わない演奏をしているプレイヤーをこき下ろした。

 だが、誰にでも欠点はある。正直なところ、私にも多少ウィントンと同じような短所があった。若いころの私はエリート意識に凝り固まっており、トニー・ウィリアムスとマイルスが私の目を開かせてくれるまで、ロック・ミュージックやポップ・ミュージックをばかにしていた。またマイルスから教えられるまで、エレクトリック・ピアノなど見向きもしなかった。

(略)

 あれほど前向きなエネルギーに満ちていながら、なぜウィントンは他人をけなさないではいられなかったのだろうか? それを考えるとき、私の頭には日本にツアーした際に起こった奇妙な出来事が思い浮かぶ。それはウィントンを迎えて行なった二度目のVSOPツアーだった。このときはウェイン・ショーターも参加しており、バンドはクインテット編成だった。ショウが終わったあと、夜遅くに、ホテルの私の部屋にウェインから電話があった。

「あのな、ハービー」と彼は言った。「ウィントンの部屋に行ってみないか。なにか様子がおかしいんだ」。何があったのか訊くと、ウェインは「彼がえらく落ち込んでいるんだ。ちょっと心配なんだよ」と言った。

(略)

部屋の窓が開いているのが目についたので、少し妙に感じた――そんな高層ホテルの窓を開ける者など誰もいない。ウィントンは私たちから離れて窓辺に座った。

「大丈夫かい?」と声をかけたが、彼は黙り込んだまま、私たちを見もせず窓から外を眺めていた。(略)

「おれはあんたのプレイのなかに何かを聴いた、ウェインのプレイにも、ロンやトニーのプレイにも聴いた――おれにはない何かを聴いたんだ」と彼は言った。

(略)

「おれのプレイには何かが欠けているような気がするんだ」と彼は言った。

 ウィントンがステージ上でこれ見よがしのプレイを挿入したくなるのは、彼が感じている欠点を補うためなのだろうかと考えた。それについて彼に訊きたかったが、思いとどまった。そのことについて最後まで彼と話すことはなかった。彼の気持ちを損ねたくなかったからだ。

(略)

「ウィントン、おまえが何を聴いたのか分からないけど」と私は言った。「おまえは立派に演奏している。おまえのプレイには心がこもってるよ」。

(略)

これほど自分に対して不安を抱くとは、この若者の人生に何かそうさせるようなことがあったのだろうかという思いが駆け巡っていた。その不安感の裏返しで、彼は自分の気持ちを盛り上げるため他人の悪口を言っているのだろうか?

 その夜ウィントンに何が起こったのかは、正確には分からなかった。私たちはそれについて二度と話さなかった。彼が弱さをさらけ出すのを目撃したのはそのときだけだったが、それはいまも記憶に残っている。

 そのVSOPツアーについて、もうひとつのエピソードがある。ウィントンは兄のブランフォードを日本に呼ぼうと決めた。(略)もちろんバンドにはすでに偉大なウェイン・ショーターがいた。私たちはツアーの途次にライヴ・アルバムをレコーディングする予定になっていた。ウィントンはレコーディングに際して二曲ブランフォードをフィーチャーするよう強く主張した。

(略)

 あまりにも大胆な提案だった。なにしろ、バンドに加入したばかりの男が史上最高のサックス奏者のひとりに代えて自分の兄弟に演奏させろと言っているのだ。とうぜんながら、バンドの他のメンバーやクルーは、とんでもないアイデアだと言い張った。“ブランフォードがウェインより上手いはずがない! レコードの出来が損なわれる!ウェインの気持ちを傷つける!”

 ウェインにどう思うか訊くと、彼は面白そうにニヤリと笑った。

「よし、ちょっと状況を整理してみよう」と彼は言った。「ウィントンには愛する兄がいて、彼に演奏させたがっている。そしておれは約束どおりのギャラをもらう。レコードにはおれの書いた曲が収録される。おれはそんなに演奏しなくてもいい」。ウェインは無表情な顔で私を見た。「なぜみんなそれがとんでもないアイデアだと言うんだ? おれには分からないな」

(略)

けっきょくブランフォードはアルバムのなかの二曲に参加して演奏した。ウェインはブランフォードに「がんばれよ! 何か訊きたいことがあったら、おれはここにいるからな」と上機嫌で声をかけた。こうしてブランフォードはジャズ・ミュージシャンとしての輝かしいキャリアの第一歩を踏み出した。

 ロックイット

[82年デイヴィッド・ルービンソンが39歳で心臓発作。さらにエムワンディシからVSOPまで立ち会ってきた協力関係にも発展性がなくなり、若い世代の創造性に入り込むため]

私は『ライト・ミー・アップ』のサブ・プロデューサーとしてトニー・メイラントを雇った。

[トニーとデイヴィッドは対立](略)

私はヒートウェイヴのロッド・テンパートンと組んだ。収録曲の大部分は彼が作曲している。(略)

[マイケル・ジャクソンでヒットを生み出していたが]

なぜか結果は芳しくなかった。(略)

ロッドはいい曲を提供してくれたのに、私がうまく曲のイメージを表現できなかったのだろう。

(略)

次のレコードにはもっと大胆な予想外のサウンドを取り入れたかった。(略)

ある日、トニーが「ニューヨークでビル・ラズウェルとマイケル・バインホーンという二人の男がチームを組んで最先端の音楽をやっている」と教えてくれた。

(略)

音楽ジャンルとしては、ラップはまだごく初期の段階にあった。「思い切って、次のレコードで彼らを使ったらどうだろう。きっとクールなものができると思うよ」とトニーは提案した。私は、よし、やってみようと応じた。トニーが電話すると、彼らは私のレコードために二曲分の斬新な面白いアイデアを用意できると言った。

(略)

そのいっぽう、私は名付け子のクリシュナ・ブッカーにどんな音楽を聴いているのかと訊いた。クリシュナはキャノンボール・アダレイのバンドのベーシストだったウォルター・ブッカーの息子であり、ウェイン・ショーターは彼の叔父だった。(略)

「おれが聴いておくべきだと思うものを、何でもいいからテープに入れてくれ。いま若い連中が聴いているような曲をな」(略)

一曲だけ、とても惹きつけられた曲があった。(略)マルコム・マクラーレンの〈バッファロー・ギャルズ〉という曲だ。 (略)

クラッチサウンド(略)によってリズムを創り出すというアイデアを私は気に入った。

(略)

[LAにやってきた]ラズウェルがテープをかけると、驚いたことに(略)スクラッチサウンドだった。私は膝を叩いて「これだ!まさにおれがやりたかったサウンドだよ」と言った。

(略)

『フューチャー・ショック』に入っているサウンドの多くは、シンセサイザー――ほとんどのリスナーはそう思っていた――ではなく、DSTと彼のターンテーブルによって生み出されたものだ。

(略)

[デイヴィッドは新しい音に拒否反応を示したが、前向きにアルバムを売ろうとコロンビア幹部に立ち向かってくれた]

 デイヴィッドによれば、コロンビアは『フューチャー・ショック』の発売をあと一歩で拒否するところだったという。

[実際、販促プライオリティ・リストの上位に置かず、MVは自分で作れと言ってきた。トニーがゴドレイ&クレームの名を挙げ、ポリスのMVを作ってると言った]

「〈アラウンド・ユア・フィンガー〉と〈見つめていたい〉」だ」

「どちらもおれの好きなビデオだ!」と私は言った。それはほんとうだった。私は十三歳になったジェシカの影響で、よくビデオを見るようになっていた。

[MTVが黒人をパージしていることを知っていたので、ケヴィン・ゴドレイに]

「どんなビデオを作るかはすべて君たちに任せる。でも、ひとつだけリクエストがある。おれは黒人臭さを表に出したビデオにしたくない。デュラン・デュランやポリスのビデオのようなものに仕上げたいんだ」(略)

[出来上がったビデオはピンと来なかったがトニーは大喜び。コロンビアの若い社員にも大ウケ]

そのときの私は、たぶん私のアヴァンギャルドな音楽についてよく分からないと感じた人々と同じような気持ちだったのだと思う。みんながあまりに興奮するので、自分だけが仲間外れになったような気がした。

(略)

『フューチャー・ショック』は史上四番目に売れたジャズ・レコードになった。そして〈ロックイット〉の成功がきっかけでヒップホップはメジャーな音楽スタイルになった。皮肉なことに、私は今日に至るもヒップホップ・ミュージックについてあまりよく知らない。扉を開けるのを手助けできたことで私は満足している。

 コカイン

ある日の午後、自宅の階段を下りているとき、奇妙な症状に襲われた。心臓の動悸がやたらに速くなり、めまいがして、それまで感じたことがないほど気分が悪くなった。

(略)

往診してもらった医者[に](略)私は正直に打ち明けた。「コカインのやりすぎかもしれない」。

(略)

私はコカインをやりすぎ、いまや心底から伝えていた。そんな状態になったことなど一度もなかったからだ。

 LAやニューヨークの音楽シーンで、コカインを吸うことは酒を飲むことと同じようにありふれた行為だった。人々の家のコーヒー・テーブルには、まるで前菜のようにコカインが用意されており、バーやクラブでも自由に手に入った。多くのミュージシャンはコカインの吸引をそれほど重大なことだとは考えていなかった。ヘロインはそうではなかった。ヘロインははるかに中毒性が強く、体を蝕んだ。(略)

 私はそれほど大量のコカインはやらなかった。たいていは楽しむために、ときには夜遅くまで起きて作曲することができるように、折にふれて適量をたしなむ程度だった。しかし、その時期の数日間、作曲の締切日が近づいているため、いつもより量が増えていた。(略)

[ノーマン・ジュイソン監督『ソルジャー・ストーリー』のスコアのため]

 自宅のスタジオで何時間も過ごしたが、音楽のアイデアは湧いてこなかった。井戸が枯渇したように感じ、フラストレーションが募った。そして締切日が近づくにつれ、眠気を追い払うため明け方にコカインを吸うようになった。(略)

 ノーマン・ジュイソンや音楽編集者のエルゼ・ブラングステッドに会ったとき、彼らは私の様子がおかしいことに気がついていたと思う。私はコカインの力を借りて目を覚ましていた。問題なのは、そうやって起きていても仕事がはかどらないことだった。コカインをやっているときの私は本来の自分ではなかった――だから曲を書くことができなかった。私は問題を解決しようとしながら、実際はそれを引き伸ばしていた。

『ラウンド・ミッドナイト』

 映画のなかでもっとも重要な曲のひとつであり、私がぜひとも完璧な歌詞をつけたいと思っていたのが〈チャンズ・ソング〉だった。

(略)

五〇年代のミュージシャンが娘に捧げて書き、何世代も生き続ける曲なのだ。イントルメンタル・ナンバーとしても演奏できるし、歌詞をつけてヴォーカル・ナンバーとしても歌える曲にしたかった。

(略)

[スティーヴィー・ワンダーに歌詞を書いてもらったが]

残念ながら、歌詞を映画のなかに織り込むにはタイミングが遅すぎた。(略)

 映画のなかでスティーヴィの歌詞を使えなかったことは心残りだったが、後年、ダイアン・リーヴスをはじめ何人かの歌手やプレイヤーがこの曲をレコーディングした。だから、ベルトランの望んだとおり、この曲は生き続けていることになる。

 ベルトランの方針に沿い、音楽は生でレコーディングされることになった。カメラが回り、私たちが演じるわけだが、そのためには多少の工夫が必要だった。メイク係と衣装係が私たちを一九五〇年代のミュージシャン風に仕立て上げた。私たちはスタジオにセットされた“クラブ”のステージに上がった。その時代の雰囲気を正確に再現するため、私たちは当時のマイクロフォンを使った。だが古いマイクは性能がよくないので、録音技師がそれらを分解し、なかの装置を現代のものと取り換えた。こうして私たちは音質を損なうことなく、望みどおりの設定で撮影することができた。

(略)

 ある日のこと、撮影のため九時間にわたって演奏が続き、みな疲れ果てていた。撮影を終えようとしていたとき、誰かが私を脇に呼んで「チェットが来ている」と言った。(略)
[数週間前にチェット・ベイカーに出演を]依頼はしたが、やって来る可能性は低いだろうと思っていた。

(略)

私はどうやってみんなにもう一度やる気を出させようかと考えた。(略)

「みんな、ちょっと聞いてくれ。なんと、あのチェット・ベイカーが来てくれたんだ! いまならやれる。彼と一緒に録音しよう!」と言った。

(略)

[譜面を配り]カウントをとろうとしたとき、チェットが譜面を読めないことを思い出した。“しまった!”。彼に恥をかかせたくない。どうしたらいいだろう?(略)

そのときチェットが言った。「最初にみんなで演奏してくれないか? おれはそれを聴いているから」(略)

〈フェア・ウェザー〉は意表を突くコード・チェンジが織り込まれた入り組んだバラードで、一度聴いただけですぐに演奏できるようなものではなかった。しかしチェットはそれをやってのけた。続くテイクで彼はコードに即した音やフレーズを紡ぎ出し、陰影豊かに歌い、美しいトランペット・ソロを披露した。そのころ彼は五十代の後半にさしかかっており、健康的にはベストの状態ではなかった――それから三年後に彼は亡くなった。それでも彼は、その日、類い稀な才能を私たち全員に見せつけたのだった。 

ハービー・ハンコック自伝 その5

前回の続き。

  移籍 

[ワーナーでの三枚はマスを獲得できず、放り出されて価値を落とす前に移籍しようとデイヴィッドが画策]

 ブルース・ランドヴァルはコロンビア・レコードの副社長であり、幸運なことに大のジャズ・ファンだった。彼は社長のクライヴ・デイヴィスに私と契約することを提案した。(略)

[移籍を伝えられ]ワーナーはほっとしたのではないかと思う。彼らはファンクとジャズとロックが合体した新しい音楽から手を引きたがっているように見えた。事実、彼らは同じころに[アース・ウィンド&ファイアーとも契約解除](略)

それから間もなくして、彼らはこの二つのバンドを手放したことを後悔することになる。

 コロンビアからの第一作『セクスタント』[売れるつもりで色々やったが結果は出ず]

(略)

 そんなとき、思いがけない音楽からインスピレーションを得た。ポインター・シスターズの音楽だった。

 ファンクへの転身

[デイヴィッド・ルービンソンがマネージャーをやっていたので、エムワンディシの前座に起用。楽しさあふれる30分のショウは客をノックアウト。メンバーの一人はローラースケートでステージを走り回った]

 彼女たちが人々にもたらした興奮を見て、私の頭のなかは裏返しになった。

(略)

新しい方向性について考え始めた私は、デイヴィッドに「おれもあんなふうに人々に受け入れられたい」と言った。

[この方針がバンドに亀裂を生み、メンバーからギャラアップの要求が。メンバー達はバンドがハービーの持ち出しで維持されていることを知らなかった](略)

 しかしエムワンディシが解散した直接の原因は金銭的な問題にあったのではない。けっきょくのところ、それは音楽だった。

[ピーク時にはスピリチャルな感覚があったが]

エムワンディシとしての意識が消えたとき(略)私たちの音楽に喜びはなく、演奏しているものはただの騒音になってしまった。

純粋なファンクをやりたい 

[エムワンディシ解散後の展開に悩む日々]

“自分は音楽的に何をやりたいのか?”この問いに対する答え見つけるため、心を解放し、御本尊の前で何時間も過ごした。

 そしてある日、唱題しているときに曲が聴こえてきた。

(略)格好いいファンキーなグルーヴ――〈サンキュー〉“Thank You” の歌詞の一節だった。(略)

とつぜん脳裏に私がスライ・ストーンのバンドに飛び入りで参加し、ファンキー・ミュージックを演奏しているイメージが浮かんだ。私は心がときめいた。(略)

[自分の音楽的エリート意識がファンクを下に見ていること認識し自問自答]

ファンクはジャズと関連があるし、黒人の体験全体と結びついている。私は自分自身の偏見(略)と向き合い、それを打ち破らなければならない。

 それがファンク・バンドをスタートさせようと決心した瞬間だった。

 ファンクへの転換は私にとって大きな賭けだった。(略)

[一度だけ]六〇年代にブルーノートと契約していたとき、ファンキー・チューンをレコーディングしたのだ。しかしそれは無残な結果に終わった。私のアプローチは中途半端で、出来上がったサウンドにはまとまりがなかった。けっきょく、そのレコードは発売されなかった。これから作るレコードはジャズとファンクを融合させたものにしたくなかった――純粋なファンクをやりたかった。

『ヘッド・ハンターズ』の成功 

ストレートなファンク・バンドとしてスタートしようと考えていた。だが一九七三年夏、五人で一緒に演奏し始めると(略)ジャズとファンクのあいだのグレー・ゾーンに入り込んでいた。最初のうちは、なんとかファンクに引き戻そうとした。しかし間もなく、統御するよりも音楽が語りかけるものを聴いたほうがいいということに気がついた。

(略)

私たちはエムワンディシよりもっと軽くて心地よい、音楽ゲームに興じたり、リズムとともに遊んだりするような方向に進もうとしていた。

(略)

 私たちは一緒にアイデアを練った。私は自分が書いたベース・ラインをミニモーグシンセサイザーで演奏した。ポール・ジャクソンはベースの高音を使って伴奏した。バンドにはギタリストがいなかった。(略)クラヴィネットでギターのようなサウンドを出せるからギターはなくてもいいと考えたのだ。(略)

私はスティーヴィ・ワンダーや(略)バーニー・ウォーレルがクラヴィネットを演奏しているのを聴き、そのサウンドに魅せられていた。(略)

それがおそらく、私たちがストレートなファンク・サウンドからはみ出すようになった理由のひとつだと思う。

(略)

ベース・ラインを書き上げたあと、私はデイヴィッド・ルービンソンにそれを聴かせた。いまや彼はプロデューサーでありマネージャーであるにとどまらず、ドラマーでもあった。そのラインを聴いた彼は「少しシンコペーションを加えたらどうかな」と言った。それは小さな手直しだったが、曲の全体的な雰囲気を変えることになった。(略)

この曲はのちに〈カメレオン〉と改名された。

(略)

[ハーヴィ・メイソンが〈ウォーターメロン・マン〉の新録音を提案]

アレンジにストップ・タイム[訳注: ソロイストの背後でバンドが一斉に伴奏を止める技法] の要素を組み込んだら面白いんじゃないか、と彼は語った。(略)

アフリカ音楽を中心とした民族音楽学で博士号を得たビル・サマーズがもうひとつのアイデアを思いついた。(略)

[ヒンデウフーというアフリカのピグミー族の音楽スタイルを取り入れては]

「よし、やろう」と私はビルに言った。彼はまずビールのボトルに水を注ぎ込んだ。そして自分の声によってサウンド・パターンを作った。次にボトルの口を吹いて別の音を生み出し、さらにまた声による別のパターンを作った。じつに格好いいサウンド・パターンだった。そのサウンドがフォークウェイズのレコードとそっくり同じではなく、ビル独自の創造的なひねりが加えられているところも気に入った。彼はさらにビールのボトルでそのパターンにカウンターメロディをオーヴァーダビングした。それが〈ウォーターメロン・マン〉のニュー・ヴァージョンのイントロになった。

 新しいレコードのための曲を仕上げているうちに、私たちは新しいタイプのバンドへと変貌していった。ジャズ・ファンクフュージョン・バンドだ。そんな方向に進むつもりはまったくなかった。音楽が私たちを導いた先がそこだったのだ。私の心は躍った。(略)

[数週間かけ]ベイ・エリア周辺地区のジャズ・クラブで新曲を披露した。さらにダンス・クラブなどの大衆的な店にも出演し、あらゆる種類の客の前で演奏した。(略)客はみな音楽のグルーヴを満喫していた。

(略)
[レコードタイトルに悩みつつ唱題していると]

とつぜん“ヘッド・ハンターズ”という言葉が浮かんだ。(略)ジャングル、知的、セックスという三つのニュアンスをすべて含んだ、完璧なタイトルだった。

(略)

[デイヴィッド回想]

 

(略)レコード会社の連中の反応は鈍かった。好反応を示したのはアルバイトで仕事しているカレッジの学生だけだった。R&B担当グループも白人のジャズ担当者もそれにかかわりたくないと思っているのは明らかだった。まったく情けないかぎりだ。音楽業界は既存のジャンルにあてはまらないものをどのように扱ったらいいのか分からないのだ。(略)

 

 レコードが発売されて数週間後、デイヴィッドから電話があった。

「やあ、ハービー」と彼は言った。「簡単な質問を出すぞ。今週、『ヘッド・ハンターズ』が何枚売れたと思う?」「分からないよ」と私は答えた。「千枚とか二千枚ぐらいかい?」。売り上げはたぶん『クロッシングズ』や『セクスタント』と似たような数字だろうと思っていた。

「はずれ」と彼は言った。「七万八千枚だ」。唖然として、一瞬、言葉が出なかった。(略)

「こりゃ間違いなくプラチナ・レコードになるぞ」とデイヴィッドは言った。

(略)

 長きにわたる試練を経て、ようやく新しいリスナーと結びつくことができた。

 VSOPクインテット

[76年春ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル出演依頼。『ヘッド・ハンターズ』のヒットでランクが上がったのだから、これまでのギャラで受けるべきじゃないとデイヴィッド。かといってジョージ・ウィーンのような大物の依頼を断るのも懸命ではない]

「ジョージが絶対に受け入れられないような提案をしよう」と彼は言った。(略)

デイヴィッドはジョージに電話し、「ハービー・ハンコック回顧プログラムをやらないか?」と言った。

(略)
ジョージはノーと言うはずだった。彼はそれまで、デューク・エリントンジョン・コルトレーンチャーリー・パーカー、マイルスを含め、どんなジャズ・アーティストの回顧プログラムも組んだことがなかった。(略)私はまだ三十代であり、音楽としてはそれほど大きな広がりをもっていなかった。

 唯一の誤算はジョージがイエスと言ったことだった。彼はその提案に飛びついた。彼がとりわけ気に入ったのは、三つのバンドが登場するというアイデアだった。最初がマイルス・デイヴィスクインテットの再結集、二番目がエムワンディシ・バンドの復活、三番目が現在のヘッドハンターズという構成である。

(略)

問題なのはマイルスが参加を了承するかどうかだった。

(略)

[マイルスに電話し頼むと]驚いたことに、彼はイエスと答えた。ウェイン、ロン、トニーと再び演奏できることを喜んでいるようだった。

(略)

[他の]メンバーから出演の約束を取りつけたあと、私は再確認のためマイルスに電話した。

「ハービー」と彼は言った。「考えていたんだが、おれがサイドマンのために演奏するっていうのが、どうもなあ。おれのサイドマンだったおまえのイヴェントに参加するのは、ちょっと引っかかるんだよ」。(略)

落胆はしたが、彼の言うことは理解できた。私はすでにマイルスの代わりを依頼するトランペッターを決めていた。フレディ・ハバードだ。

(略)

マイルスがいない以上、とうぜんながらそのグループをマイルス・デイヴィスクインテットと呼ぶことはできない。どんなグループ名にすればいいだろう?いろんなアイデアを検討した結果、私たちはVSOPという名前を思いついた。私は二重の意味が込められているタイトルが好きだった。(略)まずこれはコニャックの格付けを示す言葉であり(Very Superior Old Pale = とても優れた古くて澄んだ)、一定期間熟成された原酒から作られるブランデーを指している。

 そしてVSOPは“Very Special One-time Performance”(一夜かぎりの特別公演)の略語でもある。

初めてのパソコン

 一九七九年、ブライアンと私はパーソナル・コンピューターを手に入れるときが来たと判断した。すべてがデジタルの方向に進んでいた。

(略)

[キース・ロフストロムに意見を訊くと]

「アップルⅡにしろ。インターフェースがうまくできているし、基本設計が公開されている。それにスロットが設けられているから、いろんな周辺機器とつなぐことができる」と言った。

(略)

[同時に購入した]モデムにはザ・ソースという会社のサブスクリプションが付随していた。ブライアンはモデムを使い、ダイヤルアップでネットワークに接続した。

「オーケー、次は何だ?」と、数字や文字が表示されている黒い画面を見ながら私は訊いた。ブライアンは説明のページをめくり、“チャット”機能に接続する方法を調べ始めた。彼は私のために説明書の指示を読み上げた。私がコマンドを打ち込むと他のユーザーにつながった。「やあ」と画面に入力すると、知らない誰かから、同じく「やあ」という返事が来た。

「私はアップルⅡを買ったばかりです。これは私が初めてやるチャットです」と入力した。すると先方は「おめでとう! 私の名前はフリッツです」と打ち返してきた。

(略)

チャットを続けた。フリッツは私の職業が何なのかと訊いてきた。私はピアニストだと答えた。「レコードをもっていますか?」と訊かれたので、「はい、二十枚ほどあります。ところであなたの仕事は何ですか?」と打った。

 彼は「ビールを造っています――あなたがレコードを作っているのと同じように。たくさんのビールです。じつのところ、私はアンカー・ビール醸造会社のオーナーです」と書いてきた。

 私はびっくりした。あのアンカー・スチーム・ビールのオーナーとコンピューターを通じて会話しているのだ。サンフランシスコで画面に向かっている彼とロサンジェルスのスタジオで座っている私が知り合いになった――まるでSF小説のようだった。私は驚異の念に打たれて興奮していた。するとブライアンが真面目な顔つきでこう言った。「なんてことだ、ハービー。もしすべてデジタルでレコーディングするようになったら、そしておれたちがコンピューターによってデジタルで情報をやり取りできるようになったら、それが何を意味するか分かるかい?いずれおれたちはコンピューターを通じて音楽を売るようになるってことなんだよ」。一九七九年という時点で、ブライアンはすでに将来を正確に予測していたのだ。

 十六ビットのマスター・コンピューター

この新しい機械を使って、どのように音楽を作ればいいのだろう?

 当初、私はおもに作曲のために使おうと思っていた。コンピューターにはオーディオ装置が入っているので、音を記憶させれば音楽を再生することができると考えたのだ。(略)

コンピューターにはプログラミングのマニュアルが付属されていた。ブライアンはそれを読んで独学で学ぼうと決心した。

 彼はコズミック・キーボードというソフトウェアを作成した。歌詞、コード、使われるすべての楽器名、どのようにつなぐか、どんなケーブルが必要か、どんなセッティングにするか、どんなプログラムを使えばいいかといった、曲の情報に関するページを作ってコンピューターに記憶させるためのソフトウェアだった。彼の目的は、コンピューターによって、曲に関するすべてのデータを追跡できる、図表を備えたシステムを作ることにあった。それは前代未聞のアイデアだった。

(略)

ブライアンはさらに野心的な計画を抱いていた。セットアップに時間がかかりすぎると感じていた彼は、プロセスをスピードアップするため独自に十六ビットのマスター・コンピューターを作ろうと考えた。

(略)

彼はプログラミングの本と格闘し、プログラムを作り始めた。それはさながらアップルⅡプラスのハッキングだった。

(略)

彼は十六ビットのマスター・コンピューターを完成させただけでなく、シンセサイザーのキーボードにディスク・ドライヴを取り付け、キース・ロフストロムと一緒に音楽のための自動パッチ・パネルを作った。彼の発明や改良は私の曲作りに大いに役立った。一九七九年から八一年にかけて、私は六枚のアルバム(略)を発売した。

(略)

[79年のVSOP日本ツアー]田園コロシアムで行われるコンサートはライヴ・レコーディングされることになっていた。会場で準備しているとき、ソニーの名録音エンジニア、鈴木智雄がやって来て私に話しかけた。「私たちが開発した極秘の製品があります」と彼は言い、直径三インチの銀色のディスクが入った小さなケースを見せてくれた。

(略)

「ハービーさん、私たちは今日のコンサートをオーディオ・テープではなくデジタル装置でレコーディングするんです。それから私たちはミニ・コンパクト・ディスクというものを作製します」と言った。

(略)

 私のエレクトロニクス好きを知っていたソニーは、この新しいテクノロジーを使って行なう初めてのライヴ・レコーディングという名誉を私のバンドに与えたいと考えた。

フェアライト登場 

 一九七〇年代末期(略)スティーヴィ・ワンダーと私はある意味で競合する間柄になった。二人とも新しい種類のシンセサイザーを探し求め(略)

新しく格好いい製品が出れば、私たちはどちらもそれを手に入れる最初の男になろうとした。

(略)

[79年、フェアライト登場]

ワン・セットで二五〇〇〇ドルという値段であり、私に払える許容範囲を超えていた。そこで、これに興味をもつであろう(略)クインシー・ジョーンズとジョーディ・ホーメル[に声をかけた](略)

ジョーディは有名な食品会社ホーメル・フーズの直系の跡取りであり、創業家の遺産を相続したが、彼の情熱は音楽を作曲することに傾けられ[『名犬ラッシー』『逃亡者』『名犬リンチンチン』などの音楽を手掛けた](略)

[デモ終了後、値段を聞いたクインシーは首を振ったが]

ヒッピーのような格好のジョーディは、オーヴァーオールのポケットに手を突っ込み、札束を取り出した。「二台買おう」と彼は言った。[フェアライトの]代理人の両目は顔から飛び出しそうなほど丸くなった。

 私はそのときはフェアライトを買わなかったが、あとで二台購入した。

次回に続く。

ハービー・ハンコック自伝 その4

前回の続き。

エレクトリック・ピアノ   

[『マイルス・イン・ザ・スカイ』を仕上げるためスタジオに行くと、マイルスが「あれを弾け」とフェンダー・ローズの方を顎でしゃくった]

私はあまり愉快ではなかった。“こんなおもちゃを、ほんとうに弾けって言うのか?”と思った。それに歩み寄り、スイッチを入れてコードを弾いてみた。すると、驚いたことに、そのサウンドをクールだと感じた。アコースティック・ピアノの深みとまろやかさはなかったが、その響きは思っていたより美しかった。しばらく弾いたあと、試しにヴォリュームを目いっぱい上げてみようと思った。コードを弾くと大きな音が出た。とっさに頭に浮かんだのは、このエレクトリック・ピアノを弾けば、トニーは私がソロをとるとき、思いきり激しく演奏できるようになるな、ということだった。

(略)

エレクトリック・ピアノだと、鍵盤を軽く押さえるだけで、いくらでも大きな音を出すことができる(略)それまで見向きもしなかったこの楽器を演奏するのが、がぜん面白くなった。

(略)

 それより数年前、私はトニー・ウィリアムスにドイツの前衛音楽作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンのことを教えてもらい、電子音楽を聴き始めた。トニーは長年にわたって私の音楽的地平を広げてくれた。アルバン・ベルクジョン・ケージパウルヒンデミットなどを聴くようになったのも彼の影響だった。私はいつも彼に「いま何を聴いているんだ?」と訊いていた。(略)

 〈少年の歌〉において、シュトックハウゼンは正弦波とクリック音を使い、目くるめくような電子的情景を生み出している。初めてこれを聴いたとき、すっかり魅了されてしまった。

(略)

一九六六年のある夜、私はヴィレッジ・ヴァンガードにトリオで出演していた。[休憩の時、クラシック演奏家が会いたいと言っていると言われ名を訊ねると](略)

その男は「カールハインツ・シュトックハウゼン」と答えた。

 私は興奮し、わくわくしながら階段を駆け下りた。(略)私は彼に、あなたの作品の大ファンだと告げた。彼は「私はいま、いろんな国の国家を使った作品を書いている。ついては、アメリカの国家を演奏してもらえないだろうか?」と言った。

[当然やりたかったが忙しくて断念] 

ビル・コスビー

一九六九年の夏、ツアーを行ない、セクステットの運営に関するさまざまな雑事をこなし、コマーシャル・ソングやこれから入るであろう映画スコアの依頼にも対処しなければいけない私には、仕事を手助けしてくれる人物が必要だった。そこでビル・コスビーに電話をかけた。

 

 初めてビルに会ったのは、一九六三年の春、ヴィレッジ・ゲイトでジュディ・ヘンスキの伴奏をしているときだった。熱心なジャズ・ファンだったビルは、すでにマイルスが私をバンドに雇うという話を耳にしていた。ライヴのあと、彼は楽屋に訪ねてきて祝ってくれた。「やったな!」と、私の背中を叩きながら彼は言った。「心からおめでとうと言わせてもらうよ。おれもいつかはそんなふうにチャンスをつかみたいもんだ」。そのころビルは全米を回ってスタンダップ・コメディのショウをやっていた(略)が彼はまだ成功する機会には恵まれていなかった。

 それから二年後(略)交差点に立っていると、赤いメルセデス・ベンツ三〇〇SLが停まり、ガルウィング・ドアが跳ね上がった。驚いたことに、なかからビル・コスビーが満面の笑みを浮かべて降りてきた。

「やあ!」と私は言った。「誰の車だい?」

「おれのだよ!」(略)

[TVドラマ『アイ・スパイ』で黒人として初めて主演に抜擢。二年の間に]

ビルはトゥナイト・ショウに出演し、ワーナー・ブラザーズからコメディ・アルバムを発売し、テレビ・ドラマの主役の座を手にした。彼は大きな成功を収めたのだ。

 ビルの成功はそれだけでは終わらなかった。一九六九年春、私がセクステットでツアーをするころには、彼は「アイ・スパイ」により三つのエミー賞、コメディ・アルバムにより四つのグラミー賞を受賞していた。(略)

[雑誌インタビューで]ビルがマネジメント会社をもっていることを知った――そして私は心底からマネージャーを必要としていた。

 というわけで、私は彼に電話した。(略)ジャズが好きなので面倒を見てくれるだろうと思っていた。ところが、彼はそれとは別のアイデアをもっていた。(略)

「おれがいま制作しているアニメのスペシャル番組のために曲を書いてほしいんだ。フィラデルフィアの少年、ファット・アルバートの物語だ」。ためらう理由などどこにもなかった。

(略)

[R&Bタイプがよかろうと、JBタイプのレコードを15枚ほど買い研究し、曲を書き、『ファット・アルバート・ロタンダ』を録音] 

Fat Albert Rotunda

Fat Albert Rotunda

  • アーティスト:Hancock, Herbie
  • 発売日: 2001/02/13
  • メディア: CD
 

エムワンディシ

シェリーズ・マン・ホールはハリウッドにあったクラブだ。(略)一九七〇年の春、私たちのセクステットはここで二晩ライヴを行なった。

 そのころのセクステットのドラマーはトゥーティ・ヒースだった。(略)トゥーティの甥、ジェームス・フォアマンが私たちに会うためクラブに現れた。当時二十三歳のジェームスはサックス奏者ジミー・ヒースの息子で、ミュージシャンであり、曲も書いていた。だが彼の最大の関心は黒人の地位向上運動にあった。彼は戦闘的な黒人ナショナリスト・グループ、USオーガニゼーションのメンバーだった。USオーガニゼーションはブラック・パンサー党と覇を競っていたグループであり、マウラナ・カレンガとマルコムXの従兄弟ハキム・ジャマルによって率いられていた。ジェームスは先ごろ本名を奴隷の名前 だとして捨て去り、いまはスワヒリ語でエムトゥーメと名乗っていた。

 その夜、私たちがサウンド・チェックをしている最中、エムトゥーメは、黒人の歴史を理解していない、アメリカの黒人としての理念を深めようとしていない、と私たちを非難した。「あんたたちは自分の伝統に敬意を払っていない」と彼は言った。「態度を明確にしなければならない。いまこそ立ち上がるときだ」

(略)

 エムトゥーメは叔父のトゥーティにスワヒリ語の名前をつけてやると言った。すると私や他のバンド・メンバーは「おれたちもスワヒリ語の名前がほしい」と言い出した。(略)

トゥーティはクーンバという名前で“創造性”を意味した。バスターには“熟達したプレイヤー”という意味のエムチェザジという名が与えられた。私の名前はエムワンディシになった。“コンポーザー”または“ライター”を意味する言葉だった。

 それ以来、バンドの性格は変化し始めた。正式には、私たちはいぜんとしてハービー・ハンコックセクステットだったが、間もなく人々からエムワンディシ・バンドと称されるようになった。そして、お互いをスワヒリ語の名前で呼び合い、しだいに黒人らしさを強調するシンボルを身にまとうようになった。

 スピリチュアルな体験

 マイルスのバンドにいたときと同様、薬物を摂って演奏するのはきわめてハイ・リスクだということが分かっていた。(略)

[70年夏ライヴに出かける前についLSDを一粒口に]

強力なトリップが始まる前にクラブに着くことを祈りながら通りに出た。しかしベイ・ブリッジに差し掛かったとき、汗をかき始めた。私はひたすら“くそっ、この橋はなんて長いんだ”と思っていた。

(略)

 どうにかクラブにたどり着き(略)[入店した]とたん、色と光に圧倒された。

(略)

私たち六人はあらゆる方向に拡散する音のモンタージュを創り出した。LSDをやると、ときおりスケールをアルペジオで演奏し、最後に短いトリルが入るような音が聴こえる。私はそれをLSDが走る音だと考えている。その夜も、他のメンバーがエキサイティングなプレイを繰り広げているあいだ、ずっとその音が聴こえていた。(略)

 セクステットを旗上げした当初から、私は“コントロールされた自由” における“コントロール” を緩めたいと願っていた。自分を解放し、ジャズ音楽のアヴァンギャルド的な側面を追求したいと思っていた。

(略)

一九七〇年十一月に行なった驚くべきライヴがまさにそうだった。

(略)

[ジェリーという男が数霊術でメンバー三人とエンジニアの誕生日が29日云々で「429」がバンドのマジックナンバーに、以来]至るところでその数字を見かけるようになった。[部屋番号、時計、買い物の金額](略)

私たちは興奮し、四、二、九の数字をあしらったロゴまでつくった。何か非現実的なことがバンドのなかで起こっていた。みんながそれを感じていた。

(略)

[ロンドン・ハウス出演二週目]

 セカンド・セットはもっと素晴らしかった。一糸乱れず波長が合い、もはや私たちが音楽を演奏しているのではなく、音楽が私たちを演奏しているように感じ始めた。天のどこかから降りてきた音楽が私たちを通して鳴り響いているかのようだった。メンバー全員がどこか別の次元にいた。しかし、それはまだその夜の最高の到達点ではなかった。サード・セットときたら……その演奏は超自然的だった。

 サード・セットが始まり、私は演奏している自分の指を見た。驚いたことに、指は勝手に動いていた。私が動かしているのではなく、指が自分の意志で演奏していたのだ。それでも、私の指が演奏することはすべて、バスターの演奏、ベニーの演奏、ビリーの演奏と完璧に結びついていた。音楽に深く入り込むにつれ、私たちはひとつの大きな脈動する生き物になった。すべてのメンバーが私になり、私が彼らのすべてになった。まるで私たちそれぞれがお互いの内部にいるかのようだった。そのように感じたのは、後にも先にもそのときだけだ。じつに奥深い、スピリチュアルな体験だった。(略)

[演奏を続け]そのセットが終わったとき、クラブは完全な静寂に包まれた。誰も微動だにしなかった。私は陶酔感に満たされ、空中を漂っているように感じた。そして、とつぜん拍手が沸き起こった。(略)

 ピアノの椅子から立ち上がろうとしたが、脚の感覚がなかった。見下ろすと、床は十フィート下にあった。ほんとうの話だ。体が浮遊していたのだ。その夜はドラッグもやっていなかったし、酒も飲んでいなかった――バンドのみんなもそうだった。私は言葉を発することができなかったし、何が起こったのか理解できなかった。(略)

 全員が楽屋に戻り、呆然と顔を見合わせた。「何が起こったんだ?」と誰かが言ったが、誰もその問いに答えることができなかった。

(略)

 私は客が失神したことに気づかなかった。バンドが空中浮遊するのを見たと言った人物は私たちの友人ジェリーだった。

(略)

私たちはさらに二週間そこで演奏した。そのような超現実的な体験することは二度となかったが、音楽はより自由になり、奇抜になっていった。

シンセサイザー導入 

[72年初頭]デイヴィッド・ルービンソンが「最近ロック・ミュージックではみんなシンセサイザーという新しい楽器を使っている。あんたも使ってみたらどう?」と提案した。

(略)

 バンドはすでにファズ・ワウ・ペダルや、電子楽器につけてテープ・エコーを創り出すエコープレックスなどのエフェクターを使っていた。(略)またエレクトリック・ピアノにもいろいろなユニットを取り付けていた。

(略)

[MIT]のエンジニアから「これをピアノにつなげば音の波形が変わるよ」と、箱を手渡されたこともあった。(略)

私はローズの上部を外して、ケーブル、ワウ・ペダル、エコープレックスを取り付けた。そのため、見た目はなんとなくフランケンシュタイン風のピアノになった。それでもかまわなかった――望みどおりの音が出るのであれば(略)

[だがローズ・ピアノを発明したハロルド・ローズは]

「ハービー、おれのピアノに何てことをしたんだ。まるで解体されたみたいだ」と言った。私は笑いながら「エフェクターにつなぐためには、こうするしかなかったんだ」と言った。それでも彼はおぞましげにピアノを見ているので、「インプットやアウトプットを簡単にできるようなピアノを開発したらどうだい」と付け加えた。(略)その後発表されたローズの新しいヴァージョンにはプラグの差込み口が付いており、さまざまなユニットに手軽につなぐことができるようになった。

 [72年当時の]シンセサイザーの複雑さはエレクトリック・ピアノの比ではなかった。(略)

[プログラム保存できないし]サイズが巨大で、スタジオの壁全体を占めるほどだった。セットアップに時間がかかり、もち運ぶことは不可能だった。しかしシンセサイザーは他の楽器では出せない音を生み出すことができた。(略)

デイヴィッドは「地元にシンセサイザーを演奏する男がいる。彼を呼ぼう」と言った。こうして私はパトリック・グリーソンと出会った。

 パットは、エムワンディシのレコーディングに参加するメンバーとしては、きわめて異色だった。彼は白人のヒッピーであり、ジャズやファンクで育った男ではなかった。音楽教育を受けたこともなく、その代わりに十八世紀のイギリス文学で博士号を取っていた。音楽的な能力はないし、バンドで演奏した経験もない(略)

[だが]さまざまなロック・バンドのためにシンセサイザーのプラグラミングを何度もやっていた。

(略)

私は彼を質問攻めにした。グリネルで工学を学んでいたので、彼の言葉を理解することができた。(略)

シンセサイザーのことを学べば学ぶほど、この楽器をエムワンディシのサウンドの一部としていつまでも使い続けたいと思うようになった。

 『クロッシングズ』

[完成した『クロッシングス』は万人向けとはいえず、ワーナー幹部たちは不満を漏らすだろうと読んだマネージャーのデイヴィッド・ルービンソンは販促責任者とのミーティングで黙ってあるテープを聴かせ感想を求めた]

 彼らは口々に、素晴らしい曲だ――だけど、いったいどうやってこれを売ればいいんだ、と言った。彼らはこのレコードも、『エムワンディシ』と同様、注目されないままに終わり、商業的成功には至らないのではないかと考えていた。

「じつは、いま聴いてもらったのはハービーの新作ではありません」とデイヴィッドは言った。「現在チャートで九位になっているマイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』のB面です」。その策略は見事に功を奏した。『ビッチェズ・ブリュー』がベストセラーになっているのに、この種の音楽は売れないなどと誰が言えるだろう?(略)

続いてデイヴィッドは『クロッシングズ』を抜粋して彼らに聴かせた。彼らは売るために努力することを約束した。しかしデイヴィッドはすでに、これがワーナー・ブラザーズから発売されるエムワンディシの最後のレコードになるだろうと予測していた。

 [さて宗教の話である。ちょっとでも茶化すとたちまち信者の怒りのコメントが到来するので適当にぼかしております。ウェイン・ショーターの場合、家族に外堀埋められてご愁傷さまという感じだったけど、ハービーの場合、理路整然と入信してて、もう何も言えねえ。とにかく布教活動に最適な文章が続出であります]

[凄い演奏したバスター・ウィリアムスを捉まえ]

「あのパワーはどこから来たんだ?あんなふうにベースを演奏させるものが何であれ、おれにもそれを分けてもらいたいよ」と言った。
 彼の目は明るく輝いており、まるで内部から光を発しているようだった。「ハービー、いずれあんたに話そうと思っていたんだが、おれは題目を唱えているんだ」と彼は言った。そして彼は最近実践し始めた仏法の教義について語り出した。(略)

[半年前にも彼の妹が楽屋で詠唱したことがあった]

 私たちはみな彼女の姿をうっとりしながら見つめていた。そのサウンドとリズムは耳に快く響いた。私はああ、これは確かにクールだな。と思った。一度も聴いたことのないリズムだった。バンドのみんなはいつも新しいサウンドを探し求めていた。それは間違いなく一風変わった新しいサウンドであり、ある種の催眠的な効果を及ぼした。

(略)

 バスターは翌日の夜に行なわれる仏法の会合に参加するよう私を誘った。私は行くよと言った。その現象についてもっと突き詰めたいと思った。

  *  *  *

 私は若いころから自分をスピリチュアルな人間だと見なしていた。(略)教会に通う習慣は身につかなかった。だが私はいつもさまざまな宗教に興味を抱いていた。西洋の宗教的な伝統のなかに自分の求めているものを見出すことができなかった私は、七〇年代に入り、当時の多くのアメリカ人と同じく、東洋の宗教を探求し始めた。

 私だけでなく、バンドの全員がそうだった。とりわけロンドン・ハウスでこの世のものとは思えないような体験をしたあとは、急激にのめり込むようになった。時間があるとき、私たちは旅先の街で本屋に行き、超越瞑想イスラム教のスーフィズム、東洋の神秘主義、さらにはオカルト思想まで、宗教に関するいろいろな本を読んだ。あの夜にステージ上で得た感覚をもう一度呼び起こすことができるかどうか、みんな知りたいと思っていた。

(略)

 多くの本を読み漁ったが、それによって得るのはいつも答えではなく疑問だった。私が読んだ本のほとんどは、普通の人間が理解するには難しすぎるように思われた。(略)

[バスターが教えてくれた教義は]自分が抱いていた信念と大に共鳴するのを感じた。

(略)

 しかし、ある種の言葉を唱えることによって実際に何かが起こるものなのかどうか、確信がもてなかった。(略)

もし仏法が頭からそれを信じろと教えているのなら、私にはついていけない気がした。

「ああ、それは問題ないよ」とバスターは言った。「信じていてもいなくても“南無妙法蓮華経”と唱えれば効力があるんだ」

 何だって?それは私の知っているどの宗教の考え方とも違っていた。他の宗教は教えを盲目的に信じることから成り立っていた。それをあからさまに強要する宗教もあった。だが仏法はそうではなかった。それは科学に似ていた。重力の法則は、それを信じるか否かにかかわらず、この世界を律している。熱力学も然りだ。宗教が自然の法則より弱くていいのだろうか?それより強いものであるべきではないのか?だとすれば、なぜ宗教はそれを信じなければ効力は現れないと説かなければならないのだろうか?

 バスターは続けて「いいかい。信じるか信じないかに関係なく恵みがもたらされるんだ。だから、とにかく試してみても損はないよ」と言った。私は完全に納得できた。人間は自分の運命を創り出す能力をもっているとする仏法の教えが気に入った。

(略)

 私はもうひとつの質問をバスターにぶつけてみた。「仏法徒になるためには、何か自分が信じていることを止めなきゃならないのかい?」

「いや」と彼は答えた。「どんなことでも、すでに自分が信じていることを止める必要はない。これを実践すれば真実はおのずから明らかになるはずだ」。題目を唱えることが、自分のやりたいことを達成する手助けをしてくれるのだ、と彼は語った。

(略)

 試してみるだけの価値はあると思った。私はいつもライヴで音楽と一体になるための方法を模索していた。仏法がそんな私を助けてくれるのなら、すぐにでも入信したかった。

(略)

バスターは「自分のためと同時に他人のためにも実践するのだ」と語った。仏法は慈悲の実践なのだ。それは他人を尊敬し、思いやるためのものであり、他人を苦しみから解放するためのものでもある。

(略)

それまで他人をどうしたら助けられるかということなど、あまり考えたことがなかった。私は悪人ではなかったが、とくに同情心が篤い人間でもなかった。多くの時間を音楽に費やしてきたし、音楽がすべてだった。しかし、他者への思いやりと他人の人生をより良くするための手助けについて語るバスターの言葉は、私の心を強く動かした。

 七歳のころから、音楽は私の人生のなかで関心事の第一位を占めていた。おまえは何者だと問われたなら、ためらうことなく「私はミュージシャンだ」と答えただろう。だが仏法を実践するにつれ、新たな認識が私のなかで芽生え始めた。自分と他人との隔たりが取り払われ、自分は何よりもまず人間なのだと考えるようになった。

 私は音楽をそれまでとは違った視点で見るようになった。以前の私は音楽そのもののために演奏しており、焦点は、曲、ハーモニー、リズム、メロディに当てられていた。けれどもその後の私は、音楽を通じて日常生活におけるさまざまな問題に取り組むという、より大きな目的のためにミュージシャンとしての能力を活かす方法を探り始めた。

(略)

仏法を実践し始めたころ、ライヴで演奏する音楽は、おもに一握りの熱心な先端的ジャズ・ファン向けのものだった。どうすれば音楽の新しい方向性を受け入れてもらうための道を切り拓き、リスナーの幅を広げることができるだろうか?私はそう考えながら唱題に励んだ。

次回に続く。