レッド・ツェッペリン オーラル・ヒストリー その3

前回の続き。

衣装

ジョン・ポール・ジョーンズ (略)

実際にステージに上がるまでは、お互いが着ているものについて絶対にコメントしない、というのがツェッペリンの伝統の一部でね。だから時には3人がジーンズなのに、一人だけ白いスーツということもあった。それでキラキラ光る衣装を探してくるようになったんだ。私があのポンポン(飾り玉)が付いている笑えるジャケットを着たのは、ペイジの竜柄のスーツを作った連中がライトバンに服をどっさり積んでやって来たことがあって、その時にあのジャケットを見つけて、「おい、こいつは間違いなく楽しそうだな……」という話になったからだった。

ベンジー・レフェブル (略)

歌がないパートになると、ジミーはジョンジーをボンゾに近寄らせなかった。肝心なのは彼とボンゾだったんだ。ジミーはずっとドラム・セットの前に立っていた。彼はボンゾに指示を出して、どっちに向かうかを彼に伝えていたんだ。ジョンジーはただそこに立っているだけで、彼らの後ろから付いていく感じでね。あれができたのは、彼が本当に素晴らしいミュージシャンで、どんなことにも対応できたからだ。

 あの音楽のエネルギー(の源)はジミーとボンゾだった。あの頃のツェッペリンの何かの映像を見てみると、バスドラの前にいるジミーが身体を使ってボンゾに合図を送っているのが分かるだろう。また、ボンゾのタイムキープはそれこそ非の打ち所がなかったから、お陰でジミーはなにかとんでもない方向に行ったとしても、テンポはしっかり保つことができたんだ。ミュージシャンとしてのジミーとボンゾの間のテレパシーは、ドラッグの摂取レベルにまで及んでいたように私は思う。つまり、「どこまでラリッたら、ちゃんと演奏できなくなるんだろう?」っていうね。

(略)

ジル・コーリガン=デブリン ロバートのあのよく知られている青いブラウスに関するいきさつがちょっと面白いのよ。あれはただその辺に置いてあったブラウスで、ある女の子が私にそれにラインストーンを付けるやり方を見せてくれたのね。そうしたらビープがどこかの工場に行って、ラインストーンを山ほど手に入れてきたの。私たちは飛行機の中で座りながらそれをあらゆるものに縫い付けた。その後、コリイという女の子がシカゴのザ・ドレイクにやって来て、たくさんの惑星が描かれているジミー用のスーツを持ち込んだの。それとポンポンが付いているジョン・ポールのジャケットも一緒にね。

総括:終焉へ

 1973年終盤、1年にわたりグルーピーとドラッグとプライベート・ジェットのもやの中を航行してきたレッド・ツェッペリンは、自分たちの音楽によって解き放たれた狂気の有様を振り返っていた。(略)子どもたちと過ごす充実した時間を切望するジョン・ポール・ジョーンズは、グループ脱退の意志をピーター・グラントに突きつけていた。

 この内省の時期から生まれたのが、『フィジカル・グラフィティ』(略)であり、そしてスワン・ソング・レーベルだった。

(略)

75年アメリカ・ツアーは規模が更に巨大化していたが、一方で、その代償としてペイジの体調維持がますます難しくなり、"獣"ボンゾの酒癖もいっそう悪化してしまう。ツアーのクライマックスとなったロンドンのアールズ・コートにおける1週間におよぶ公演で、ツェッペリンは自分たちが到達できる限界まで自らを高めた。だがそこからすべてがほころび始める。

 まず、ロードス島でロバートとモウリーンが交通事故に遭遇。モウリーンは瀕死の重傷を負い、またロバートは数カ月間、松葉杖生活を余儀なくされる。(略)

[重税を逃れバンドはロスへ逃亡]

LAでうつ状態になったペイジは、常にカーテンを閉じたままヘロインに浸り切る。ようやく4人が再結集し(略)『プレゼンス』を制作した時には、もはや彼らの内面で燃えていた炎は完全に消えてしまったように見えた。(略)

[ピーター・グラントとリチャード・コールがヤクにはまり]

ツェッペリン帝国の監視体制は極度の機能不全に陥る。バッド・カンパニーを除けば、スワン・ソング傘下のアーティストたちは宙ぶらりんのまま放置され、レーベルのロンドン・オフィスはこそ泥かそれ以下の人間の巣窟と化してしまった。

(略)

ペイジは、ドラッグと並行して足を突っ込んだオカルト趣味のせいで苦境に陥っていた。

(略)

 1977年のアメリカ・ツアー(略)被害妄想があらゆる人間にはびこる一方で、グラントの右腕はそれまでのリチャードコールではなく、精神異常者のジョニー・ビンドンに代わっていた。

 こうした問題のすべてが、7月のある週末に悲惨な形で一気に表面化する。コカインでがんじがらめになったグラントとビンドンが、オークランドにてプロモーターであるビル・グレアムの部下を殴り殺す寸前の騒ぎを起こしてしまったのだ。更にはその2日後、プラントの息子のカラックがブラック・カントリーで(略)ウイルス感染により死去する。

 一連の出来事により、「ツェッペリンも、もはやこれまでか」と思われた。しかし、同じミッドランド出身のボンゾがプラントをなだめすかし、なんとか彼をバンドへと連れ戻す。

(略)

 だが、そのアメリカ・ツアーが実現することはなかった。(略)

ボンゾが自分自身の吐瀉物でのどを詰まらせ、死亡。その1週間後、"レッド・ツェッペリンは終わった"ことが発表された。

(略)

ジミー・ペイジ 最後のツアーから戻った時の私は、自分がどこにいるのかすら分からなかった。自分がどこに行くつもりなのかも。(略)とにかくもう……、私は完全に、どうしようもないくらいにからっぽだった。

(略)

ピーター・グラント ある日の午後、(ジョン・ポール・ジョーンズが)私の家を訪ねてきて言ったんだ。「もうたくさんだ」と。そして、「ウィンチェスター聖堂の聖歌隊指揮者になる」とね。

ジョン・ポール・ジョーンズ とにかくもうツアーはうんざりだった。私がピーターの家に行って、「この状況が変わらない限り、もう辞める」と言ったのは確かだ。家族にとても大きなプレッシャーがかかっていたんだ。

フィジカル・グラフィティ

ジョン・ポール・ジョーンズ 私がふとクラビネットで〈トランプルド・アンダー・フット〉を演奏し始めたら、(ジョンが)あのドスンという重みのあるドラムでそれに加わってきたんだ。そのフィーリングは最高だった。彼は曲のビートの前でも後ろでも、必要に応じて、演奏することができた。〈トランプルド・アンダー・フット〉には、いばって歩くような雰囲気があった。あれはバンドにとっても、それまでとは違うタイプの曲だったな。

ジョン・ボーナム ジョン・ポールとジミーがリフをやり始めたんだけれど、そのあと自分たちにはちょっとソウルっぽすぎるなということになった。そこで少しばかり変えてみたら、私にとっては最高になったんだ。ドラマーにとってあれは最高のリズムだった。とにかくペースがちょうど良い感じで、こっちはフィルをたくさん入れられたからね。

ジミー・ペイジ 『フィジカル・グラフィティ』には今の人たちにはできないようなあらゆる類のことが詰まっている――私たちにはできたんだけどね。私たちはいつも前向きな姿勢でコンスタントに仕事をしていて、しかも、良い音楽を作ること以外の目的なんて何もなかった。(略)

ロン・ネヴィソン ジミーは本当に仕事熱心だった。彼はよくモバイル・トラックの中に入ってきて、録音済みのすべてを聞いていた。当時の私は、彼は自分のギターが気に入らないんだと思っていた。でもその後、彼は今私がやっていることをやっていたんだな、と気付いた。つまり、ドラムの音をがっしりとさせるため、ギターを控え目にするっていうね。

 私にとってツェッペリン全体の何が肝かというと、実はあのギターについていくジョン・ボーナムなんだ。彼はギターのリフを拝借して、それをドラミングの一部にすることができた。〈シック・アゲイン〉や何かを聞けば、彼がリフに耳を傾け、そしてそれをドラミングに取り込んでいるのが分かるだろう。単に4分の4拍子を続けながらベース奏者と一緒にリズムを刻むんじゃなくて、その代わりに、彼はギター奏者に合わせていたんだ。

フィル・カーロ ジミーがオリンピックのエンジニアのキース・ハーウッドと一緒にフラットに来た時があってね。二人は〈カシミール〉をやり終えたばかりで、ジミーはあの曲のありとあらゆる部分に心底から興奮していた。それまでに手がけたどの曲よりも、あの曲には満足しているように見えたよ。

バッド・カンパニー

 エイブ・ホック スワン・ソングは基本的には、ジミーに(ツェッペリンの)カタログの所有権を与えるためのものだった。スワン・ソングは彼らのマスター・テープの直接かつ第一所有者で、基本的にはそれをアトランティックに貸与する契約になっていた。

(略)

フィル・カーロ ある日、クライヴ・クールソンが私のフラットにやって来て言ったんだ。「今、バンドを作っているところなんだ。バンド名はバッド・カンパニーになる(略)このバンドはとんでもなくでかくなるぜ」とね。クライヴはサイモン・カークと一緒にその計画全体をまとめ上げた。

(略)

サム・アイザー クライヴはそれまでジミーのローディーだったんだ。彼は聡明な男で本当に立派な奴だった。あの時彼は人生を賭けるチャンスを嗅ぎ付けたんだよ。

(略)

ユニティ・マクリーン クライヴはバッド・カンパニーに誰も近づかせなかった。バッド・カンパニーは彼のバンドであり、彼の秘蔵っ子だったのよ。誰かが何かをやろうとすると、彼はすぐに「お前は何をやっているんだ?なぜお前は邪魔をするんだ?」と突っかかっていた。彼は自分のご主人様から学んだのね。

ベンジー・レフェブル (略)ポール・ロジャース(略)はいつもケンカ腰のつまらない奴だったけどね。

デジリー・カーク(サイモン・カークの元妻) ポールはプリマドンナ気取りだった。バンドの他のメンバーの準備ができている時でもポールの気分が不安定な日には、全員が彼を待つことになった。それに彼は気性が本当に荒かった。彼が自分の奥さんの顔を殴って前歯をへし折ったのを見たことがあるわ。そうしたことのすべてはウイスキーが原因だった。

(略)

ベンジー・レフェブル バッド・カンパニーはどうやったってツェッペリンのようにビッグになれるはずがなかったけれど、それでも本人たちは必死でそうなりたがっていたし、その可能性はあると考えていた。(略)

クライヴはピーターになりたがっていたが、しかし、そのチャンスはゼロだった。彼は人々がピーターに対し示している敬意がうらやましかったんだと思う。(略)

グラントの歩んだ道を後追いした彼は、残念ながら、間違ったことばかりを学んでしまっていた。

リチャード・コール

グレン・ヒューズ コールは私の人生で出会った中で誰よりも恐ろしい人間だった。(略)

「お前をつぶしてやるぞ!」と言っている時の彼はまるで、「オレがお前を殺しても、誰にも気付かれやしないんだからな」と言っているかのようだった。

ジャニーン・セイファー リチャードは育ちが悪かったのかって?(略)

とにかく彼の態度は、「くたばれ、この野郎」という感じだったのよ。(略)

でも彼をクビにしてバンドが知らない別の人間を雇うなんてことは考えられなかったし、そんなことは不可能だった。

マリリン・コール 私たちはプレイボーイ・クラブで結婚して、ピーターがすべての費用を払ったの。(略)

私はリチャードにどのくらい稼いでいるのかを訊いたの。それで彼の答えを聞いた私は、「なんですって?」と言った。「それで私は大丈夫だけれど、リッチ、あなたはどうやって暮らしていくの?」と。彼らは誰よりもケチな人間だった。リチャードはピーターを崇拝していた。ピーターは彼の父親であり神であり指導者だった。そしてそこに足を踏み入れたのが私だった。

ジャック・カームズ ツェッペリンの人間たちは、リチャードが別の人間に雇われることなんてありえないと思っていたはずだ。でも、エリック・クラプトンの461オーシャン・ブールバード・ツアーの際、私は彼をツアー・マネージャーに起用したんだ。

マリリン・コール ロバート・スティグウッドは、エリックを隠居生活から引きずり出すために、リチャードにツェッペリンの1年分の報酬の3倍を提示したのよ。2ヵ月間の仕事に対してね。リッチは私に、「ううん、でもオレは彼らから離れられないから」と言った。それで言ってやったのよ。「あんた、一体どういうつもりなの?これを断ったら、もうお終いよ」と。愛しきリチャードには、自尊心というもののかけらすらなかった。

(略)

リチャード・コール 報酬はツェッペリンが私に支払っていた額より圧倒的に多かった。100倍くらいあったかな。8週間で1万6000ドルとかそのくらいだった。アーメットに相談すると彼は、「やるべきだ」と言ってね。決断の前にピーターに電話をかけて、「オレがやった仕事すべての報酬として、スワン・ソングの一部をオレにくれるつもりはあるか?」と訊いた。彼がノーと答えたので私は言ったんだ。「そうか、じゃあオレは明日の朝から離れるよ」と。

ジャック・カームズ あの頃のリチャードは相変わらずしょっちゅうドラッグをやっていて、一方のクラプトンはそれから抜け出そうとしていた。だからリチャードは微妙なバランスの上を歩かなければならなかった。

(略)

クラプトンのツアーには、本人がカムバックの途中段階にあったために、ある種の弱々しさが伴っていた。でも彼は良い仕事をした。ツアーを成功させるため、プロとして十分な仕事をしたんだ。

リチャード・コール 信じてもらいたいんだけど、アーメットはずる賢い年寄りのクソ野郎だったんだ。(略)彼が、「来年、ツェッペリンがまたツアーをやるのを知っているよな」と言うので私が、「その話は聞いている」と答えると、「お前はやるんだよな」と言うんだ。「いいや、奴らなんかどうでもいいさ」と答えると、「お前はやらなくちゃいけない。お前以外に誰がやるんだ?」と言うんだよ。彼がピーターに話をしたのかどうかは知らないけれど、でもその後ジミーとロバートがパングボウンまで私に会いに来たんだ。

マリリン・コール ジミーとロバートとピーターが私たちのあばら屋に来たのよ。それまで一度もそんなことはなかったのにね。リチャードはもちろん女王を歓待するみたいに彼らを出迎えた。(略)

結局彼らはリチャードの給料を4倍にして、ジャガーを一台彼にあげて、経費用口座の金額も大幅に増やした。

(略)

クリス・チャールズワース あの目に見えない不快感は本当に無用だった。彼らは世界最大のロックバンドだったんだ。彼らはストーンズとフーよりも人気があった。(略)

そういう立場にあったバンドの中で、ああした潜在的な暴力が付いて回ったバンドは他にはなかった。(略)

フーの場合、酷いギグの後に控え室で口論はあったけれど(略)相手を威嚇するようなそういうネガティブな雰囲気とはまったく違っていた。ツェッペリンはまるで自分たちこそ相手を支配する法律のように振る舞っていた。ギャングを周辺に置いて自分たちを守っていたし、望むことならほとんどすべてやることができた――殺人以外はね。

(略)

ダニー・ゴールドバーグ (略)リチャード・コールに逆らわないのは当然のことだったが(略)誰よりも暴力沙汰を起こしやすかったのは酔っぱらった時のボーナムだ。(略)その彼をなだめるのがリチャードの仕事だった。

凶暴ボーナム

ニック・ケント ボーナムはコカインをやることで更に飲めるようになっていた。

(略)

みんな彼がヘロインにハマるのを心配していた。「何があっても、彼にヘロインだけはやらせるな。彼ならいっぺんに全部吸って、オーヴァードーズしてしまうからな」と。

(略)

ジョン・ボーナム(1975年の発言) 以前より悪くなっている――いつも酷い気分なんだ。いったんロックンロールを始めてしまえば問題ないんだけどね。(略)

酷い演奏をしてしまうことが不安なんだ。バンドの全員が同じさ。(略)

デイヴ・ノースオーヴァー リモに乗ってギグの会場から帰ってくる時、誰もが疲れて切っているのにボンゾだけは極度の興奮状態にあった。彼が静かにベッドに向かうなんてありえなかった。彼は明るくなるまで絶対に眠らなかったよ。

ジョン・ポール・ジョーンズ ボンゾが飲むのには理由があった。家から離れていることが大嫌いだったんだ。(略)それに飛行機での移動をかなり怖がっていた。

(略)

ジャニーン・セイファー 個人的にボンゾに恐怖を感じたことは一度もなかったわ。彼はまるでお人形のようで、誰よりも優しい人間の一人だと思っていた。パットが一緒に付いていない時は、可哀想なくらい不幸だった。あまり聡明ではなく、知的な方でもなかった。バンドの4人の中で踏ん張る力が一番弱かったのが彼ね。彼はドラムを叩くのが好きで、奥さんを愛していた。でも彼女がそばにいない時には、完全にたがが外れてしまっていた。

マリリン・コール ボンゾにはグルーピーの存在がうっとうしかったのよ。彼はそういう女の子たちを、「あの腐った売女」と呼んでいた。彼は彼女たちを受け入れることができなくて、その存在自体に怒りを感じていたわ。

クリス・チャールズワース (略)[機内で酩酊から目覚めたボンゾが]キャビンアテンダントを暴行しようとしたんだ。文字通り、後ろから馬乗りになってね。その瞬間まで私たち全員が楽しく過ごしていたのにさ。ジョーンズがオルガンを弾いて、みんながそれに合わせて歌ったりして、楽しく飲んでいたんだ。でもボーナムの登場と(略)行為によって突然雰囲気が変わった。

(略)

ニック・ケント ボーナムとコールよりも振る舞いが酷い人間には人生で一度も会ったことがない。一度、彼らが何の理由もなく男を叩きのめして、その後その男の顔に金を放り投げていったのを見たことがある。プラントがボンゾのことを"最高の変人だ"と言っているのを聞いた時は吐き気がしたね。なぜって、彼はまるで『わらの犬』から抜け出してきたかのような、統合失調症の獣だったんだから。

(略)

デイヴ・ノースオーヴァー ハイアット・ハウスで私のスイートはジョンのスイートの下だったんだ。それでドアをックする音がして、開けてみたらそこにキース・ムーンがいた。(略)

[ボンゾが部屋に入れてくれないから、外からよじ登ると言い]

キースがバルコニーの上に立って、私は彼の足首を握った。彼が、「よし、上げろ!」と言った時私は、「もし私が手を離したら世界中でニュースになるだろうし、オレの命はないな」、などと考えていた。でも彼は上手くバルコニーをよじ上ってジョンのスイートに突入したんだ。ジョンは驚きおののいて、トイレにすべてを流してしまった。そうしたら次に私の部屋に電話がかかってきてね。「もっとブツを手配してくれ」と頼まれた。

 どういう理由か知らないけれど、ジョンはあの部屋に小型のアップライトピアノを用意させていて(略)ドカン、ガラガラ、という音がして(略)ガッシャーンというでっかい音がそれに続いた。彼らはそのピアノをバルコニーから落っことしたんだ。下に停まっていたリモ直撃まで、あと3mくらいだったな。

グレン・ヒューズ (略)ジョンがポケットからコカインのでかい塊を取り出してさ。彼はそれを両手に全部乗っけると、そのままそれを顔面で受け止めたんだ。私たちはぼろぼろ崩れ落ちるそのコカインの粉を受け止めてね。

(略)

ベンジー・レフェブル あれほど大量のコカインなんて見たこともなかった。あの道に踏み出してしまうと、決してこれで十分ということがなくなって、常にもう少しだけ更に多く欲しくなるんだ。

ニック・ケント ハリウッドには数えきれないくらいコカインのディーラーがたくさんいて、バンドにはタダでコークをくれていた。なぜって、彼らは、「先週のフォーラムでのツェッペリンを見たか?実はね、彼らは"オレの"コカインでハイになっていたんだ」って言いたかったんだよ。

(略)

ベンジー・レフェブル (略)1973年は疑いの余地なく最高に素晴らしくて楽しい年だった。1975年のツアーでは、それとは逆に、ジミーがあまりにやり過ぎてしまって、演奏できないほどだった。

(略)

ピーター・クリフトン ピーター(・グラント)はとにかくジミーを愛していて、彼に対しては信じられないくらい優しかった。(略)

ピーターが突然飛び上がって、慌てて部屋から出ていった(略)キャロル・ブラウンに、「どうしたんだ?」と訊くと彼女は、「ジミーがドアに指を挟んだ」と教えてくれた。あれはまるでサッカーチームの監督とそのお気に入りの選手のようだった。ジミーは壊れやすい天才だった。彼には白く光り輝くような美しさと、無力感が同居していた。

対等になったロバート・プラント

ベベ・ビュエル ロバートのことは最後まで良く分からなかったけれど、でも私にとっての彼はいつも優しくて、本当にラヴ&ピースな感じだった。彼はお気に入りの女の子一人と籠っちゃったら、二度と姿を見かけなくなるタイプだった。彼はどこに行っても、自分の"家族"をまた作ろうとしていた。

(略)

マリリン・コール (略)ジミーとピーターとリチャード(略)はいつも"パーシー"の後ろで彼のことをからかっていた。もしかしたら彼らは単に嫉妬していただけかもしれないけれど、でも彼はスケープゴートだったのよ。ブロンドの髪で、ちょっとしたブラウスを着てたフロントマンの彼がね。(略)

彼は他の面々よりも自分に確信があって、そういうことに対処できるだけの寛容さがあったのかもしれない。彼は、あの神秘とか魔法とかの話には巻き込まれなかった。彼がコカインの山の前に座っていることなんてなかったわ。彼は家に帰っていたもの。一方でピーターとジミーはお互いに対してもっと深くかかわっていた。

マイケル・デ・バレス ロバートには乱闘騒ぎの上空を飛んでいける白い羽根があったんだ。彼はその上を飛んで、それを見て微笑んだり、笑ったりしていた。彼には運転手は必要なかったし、召使いも必要なかった。彼とジミーの違いは、彼の場合、一歩外に出て状況の全体を観察できたという点だね。彼は超越的なものの見方をしていた。

(略)

ダニー・ゴールドバーグ (略)最初の頃、ジミーは実質的に人間関係を完全に支配していた。彼はグループの創設者にして、レコードのプロデューサーであり、また、作曲者でもあり、グループのメンタル面の中心だった。そして基本的にはある程度のところまでロバートのことも支配していた。ただし、ロバートには彼自身の人生と自分がやるべきことがあった。二人の関係でより強かったのはジミーの方だ。なにかについて意見が分かれることがあっても、もしジミーがそれを強く主張すれば、ロバートはそれに同調していた。

 でも時が進むにつれ、ロバートも歳を重ねてどんどん自立していって、そしてついに今ではロバートの方が強くなったんだ。明らかに彼の方が成功しているしね。でも、私としては、ツェッペリンの最後の方では、ロバートは自分はジミーと同格だと断言できるくらいの自信を手にしていたと思う。

ニック・ケント プラントは自分のことは自分で仕切りたいタイプの人間だった。彼に関して重要だったのは、アメリカにおいてほんの短期間のうちに彼がセックス・シンボルになったということだ。(略)

確かにペイジはレッド・ツェッペリンのリーダーだった(略)

でも、プラントがあそこまで人気になると――彼はロックのバイキングの王子だった――突如としてジミーは彼にあれをしろこれをしろと指図できなくなったんだ。例の、「オレがヤードバーズにいた頃、お前はまだウェスト・ブロムウィッチで道路を直していたんだ」というそういう態度ができなくなったんだ。プラントもそのことを認識していたし、突然、周囲の人間も彼をグランそれまでとは別の形で扱うようになった。ピーター・グラントももはや彼に指図はできなくなった。なぜって、もしプラントに何か気に入らないことがあれば、彼はそれについて言葉にするようになっていたからね。しかも、もしも更に状況が悪くなれば、プラントはバンドから抜けることだってできたんだ。

(略)

ジャニーン・セイファー ジョン・ポールは信じられないくい聡明で、いつだって4人の中では一番大人で、他の3人からは切り離された存在だった。

(略)

マリリン・コール ジョンジーは最後まで、レッド・ツェッペリンの一員にはあんまり見えなかったわね。彼はまるでロック・ミュージシャンに囲まれたクラシックのミュージシャンみたいだった。

ジャニーン・セイファー 音楽面でジミーとぶつかるのはジョン・ポールだった。バンド内でそんなことをするのは彼しかいなかった。彼はよく、「いや、それは響きがよくないな」ということを言っていた。その場合、彼ら二人は少なくともそれについて話し合っていた。ジミーは彼に対しては横柄じゃなかった――ほとんどの人間に対してはそうだったけれどね。

ロードス島での事故

ベンジー・レフェブル ロバートが生きている世界は、ロードス島での交通事故の瞬間から、すべてが変わり始めたんだ。ああいった身体的な(ダメージを負う)経験をした時というのは、"自分は何者か?"とか"自分は何をやっているのか"といったことを考えざるをえなくなる。27歳だったらまだどんなケガからだって回復できると思うかもしれないが、でも、彼はそうはならなかった。今でも彼は腕を完全には動かすことができないんだ。

(略)

ガイズ病院に運び込まれた時、モウリーンは臨床的には死んでいた。

(略)

オーブリー・パウエル ロバートと私の友人としての関係は、彼が車椅子や松葉杖の生活を送っていた時に本当に強固なものになったんだ。彼が(それまでの生活から)距離を置きつつあることがはっきり見て取れたね。女装する日々は過去のものになっていた。(略)彼は自分の人生に起こったことに関して、少しばかり恐怖を感じていたと思う。

『狂熱のライヴ』、パンク登場

ミック・ファレン あの映画を見に行ったんだけれど、あらゆるナンセンスが頭に入り込んでくるみたいな感じだったな。ギャングとかクロウリーとかイギリスの精霊とかさ。楽しめるものじゃなかったし、支離滅裂だった。彼らに対して少しばかり残っていた共感がすべて消え去ったのもあの時だった。

(略)

私は本気で彼らがパンクロックを作り出したんだと思っている。なぜならあれこそ正に、「このクソみたいなのをやめろ!」っていう話だったからさ。あの頃の音楽はどんどん簡潔になり始めていた。ピストルズからロックパイルに至るまでのすべてが、一点に向かって引き戻されていたんだ。ロックンロールは突如として再び人間サイズになったんだ。(略)

パンク・バンドはフーに敬意を示す必要があったけれど、それは彼らが必死になってフーから盗んでいたからだった。それと、パティ・スミスキース・リチャーズのTシャツを着ていたしね。でもパンクはゼップからは何も盗まなかった。

(略)

ラット・スケイビーズ (略)彼らの長ったらしい曲はどれもまったく好きになれなかった。〈幻惑されて〉は私をブルース嫌いにしただけだったしさ。でも彼らにも本当にクールな短いリフを使ったロック・ソングがあって、そういう曲はポジティブなエネルギーを振りまきながら突っ走って行く感じがした。1975年には、私たちも〈コミュニケイション・ブレイクダウン〉にはパンクのエネルギーがある、と認めていたかもしれないな。(略)

 1976年になると、ツェッペリンのようなバンドが好きだったことがあるなんて、絶対に口にできなかった。

(略)

ポール・シムノン レッド・ツェッペリン?オレに彼らの音楽を聞く必要なんてない。オレがやらなくちゃいけないのは、どれでもいいから彼らのアルバムのジャケットを見て、吐きたい気分になることだけだ。

(略)

アラン・カラン 音楽業界で誰かと話すと、そのほとんどは"くたばれ、レッド・ツェッペリン"という態度だったね。(略)

でも(略)ツェッペリンの面々はよくオフィスに来ては、「セックス・ピストルズのニュー・シングルは本当に最高だ」とか言っていたんだ。

ダン・トレーシー(テレビジョン・パーソナリティーズ) 私たちの最初のシングルは私がスワン・ソングで働いて貯めた金で作ったんだ。867枚刷ったけれど、それが私たちの予算の精一杯だった。ある日私がオフィスで『サウンズ』に載っていた私たちのシングルの記事を読んでいると、そこにジミーが入ってきてね。彼は、「お前、自分のバンドを持っているんだろ?お前はパンクスか?」と言った。私はすべてを――録音もマスタリングもラベルの印刷も――自分たちでやっていることを説明したら、彼はかなり興味深げだった。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ パンクを初めて聞いた時は好きになれなかったな。(略)自分が初めて組んだバンドのギタリストがソロに挑戦した時のことを思い出したよ。ただし、パンクは確かにもやもやした雰囲気を吹き飛ばしてくれたし、お陰で私たちは自分たちの物事の進め方に目を向けることにもなった。自分たちがなっていた姿がどんなものなのかを確認するためにね。

(略)

BP・ファロン 私はダムドを見に、ロキシーにロバートとジミーとボンゾを連れて行った。彼らはみんなあれを気に入っていた。というのも、ダムドの音楽は彼らがそれまで聞いてきたものを凝縮したようなものだったからね。つまり、アーカンサスから生まれたワイルドで粗野なロカビリーってやつだ。

(略)

ラット・スケイビーズ 私たちがステージに出る直前にジェイクが入って来て言ったんだ。「レッド・ツェッペリンが今入ってきたぞ」とね。それでステージで演奏しながら彼らを探したら、会場の後ろの方にあの長髪のシルエットが見えた。

ジョン・ライドン ロバート・プラントロキシーに行った時、彼は5人くらいの取り巻きを連れていた。バンドの半分とその他の連中さ。全部で20人くらいいたな。彼らは隅っこに陣取って、それで気取った態度で通り過ぎる人たちに悪態をついていた。まるで"オレたちは特別な存在だ"と言わんばかりにね。

(略)

ラット・スケイビーズ ロバートと話したのを覚えているよ。その後で、年寄りのヒッピーと話したっていうだけでマーク・ペリーから散々なことを言われたけどね。「なんのためにあのマンコ野郎と話してたんだ?本来オレたちは彼を蹴飛ばしてやるべきだろ?」とね。

『プレゼンス』

ジミー・ペイジ 『プレゼンス』はグループに定住する場所がなくて、ジプシーみたいに過ごしていた時に録音したアルバムだ。拠点もなし、帰れる家もなし、だった。自分に関係があることと言えば、新しい地平線とスーツケースだけっていうね。そのせいで、とにかく移動が多くて、とんがった気持ちになっていた。そういう状況に自分が置かれていることに対するネガティヴな感情でいっぱいだったんだ。

ジョン・ポール・ジョーンズ (略)バンドは時間通りに約束の場所に現れる人間と、そうじゃない人間に二分されていた。もちろん、最終的には私たち全員が集まって、あのアルバムを作ったわけだどね。でも初期の頃ほどお互いに対してオープンな感じじゃなかった。

(略)

あの時の私たちは(略)「いや、ちょっと待てよ。オレたちは必要以上にバラバラになってきているな」と思い始めていた。

エイブ・ホック (略)ロバートは杖をつきながらひょこひょこ歩いていたけれど、ベッドに横になっていることが多かった。彼は新作のために歌詞を書いていたんだけれど、その"新作"とやらはいつまでたっても作れそうになかった。なぜって、ジミーが目覚めていなかったんだ。

(略)

ロバート・プラント 〈アキレス最後の戦い〉は、暴走したプログレッシヴ・ロックみたいで素晴らしかった。私たちがあれを書いた時のことを覚えているけれど、あれは本当に美しい曲だった。あの曲はモロッコに戻って、それでまた大切なものを取り戻すことがテーマだった。曲は素晴らしかったし、あれをライヴでやった時は信じられないくらい良かったことが何度かあった

(略)

エイブ・ホック ある日、ジミーの目が覚めて、髪をくしゃくしゃにしながらスタジオに入って、それでギターをいじり始めたんだ。その音が建物全体に響き渡って、みんなに伝わった――"彼がスタジオの中にいる"ということがね。ジョンジーとボンゾは気が狂ったみたいに地下に走って降りて行った。彼らは一緒に演奏して、食べ物を持ってこさせて、そしてその17日後、私たちの手には、でき上がったこのレコードがあったんだ。

(略)

単なる見物人の目にとってすら驚くべき光景だった。なぜって、一見するとただのジャム・セッションに見えていたのに、実はそうじゃなかったからさ。あれはすべてがしっかり練り上げられたもので、どの曲も細かな部分に至るまでしっかり考え抜かれていた。しかも、歌詞~ブリッジ~歌詞という構成じゃないのに、あの曲を聞いた後は歩きながらハミングしたり歌詞を口ずさんだりできたんだ。あれはそれまで目にしたことのある何よりも奇妙なものだった。

ジミー・ペイジ みんなが、「ああ、ジミーは調子が良くないんだな」と言う時期があった。(略)でも私が事実として知っているのは、『プレゼンス』の録音と仕上げとミックスが3週間で行われたということだ。しかもそれは意図的だったんだ。あれこれいじり回してしまわないようにね。

ティーヴ・ウェイス

ピーター・グラント スワン・ソングに関して私が後悔しているのは、あれをまともに経営できる人間を連れて来なかったことだ。(略)

エイブ・ホックでは上手くいかなかった(略)

もしも最初からアランを起用していたなら(略)上手くいっていたんじゃないかと私は思う。結局彼もスティーヴ・ウェイスのエゴと衝突してしまったけどね。

アラン・カラン スティーヴはニューヨークでただ一人のイタリアン・マフィアのユダヤのホモだった。それと、あの組織の中で唯一、麻薬常習者じゃなかったのが彼だったと思う。彼はあの集団におけるサリエリだった。とにかく物事を妨害するのが彼だった(略)

ウェイスのエゴはピーターとジミーを悩ませていた――アトランティックに対しツェッペリンを利用してふざけたまねをしたりしてね。

(略)

ユニティ・マクリーン スティーヴはとても賢い人間だった。とても人当たりが良くて、とても格好良かった。謎に満ちた人で、たぶんあのレーベルのすべての活動の陰のブレインだったんだと思う。

(略)

サム・アイザー スティーヴは嫌な奴でね。食事に招待したいな、なんて思える人間じゃなかった。彼はエゴイスティックで、情緒不安定で、他人を何かといじめる男だった。

(略)

ニック・ケント ペイジはウェイスに我慢ならなかった。彼はいつも、「クソッたれのスティーヴ・ウェイスはここで何をやっているんだ?」と言っていた。レッド・ツェッペリンの世界で陰の実力者気取りでいる彼を彼らは好きじゃなかったんだ。

ジェイク・リヴィエラ

ユニティ・マクリーン よくデイヴ・エドモンズのマネージャーのジェイク・リヴィエラに会いに行くことがあったの。彼は誰よりも皮肉屋で付き合い難い男だった。彼はピーターが大嫌いだった。デイヴがあんな風に扱われていたせいで、とにかくピーターを毛嫌いしていた。

(略)

数多くのパンク・バンドがツェッペリンに対し突きつけていたあの敵対心は、ジェイクから派生したものなんじゃないかなって私は思うの。

(略)

アラン・カラン ジェイクに関して不運だったのは、彼自身がピーターと張り合わなければならない、と思っていた点だ。「オレはピーター・グラントと同じくらい重要な人間だ」といった感じでね。ある意味、ピーターはとてもまったりした人間なのに、ジェイクの場合、やって来くるとやたらに偉そうな態度をするんだよ。

サム・アイザー ジェイクは史上最高の怒れる男だった。あれは、彼対スワン・ソング、彼対世界という構図だったんだ。でも時にはそういうのも必要なんだよ。デイヴ・エドモンズにはそれが必要だった。なぜなら、彼は基本的に他人に食い物にされていたからね。

ジェイク・リヴィエラ ユニティをはじめとするあの辺の人たちはみんな良い人だったよ。でも彼らには何もできなかった。彼らは手足を縛られた状態でいつもピーターとジミーを待っているんだ。アラン・カランは良い奴だったけれど、無力だった。私はスティッフ・レコードの出身だったしね。あそこでは、もし気に入ったアーティストがいれば、パスウェイ・スタジオに行って録音して、次の日にはレコードを出すことだってできた。でもスワン・ソングでは、デイヴのアルバムが1ヵ月も発売延期になったりするんだ。それも、ジミーがジャケットのデイヴの髪にエアブラシで悪魔の絵柄を追加するためだけのためにね。

ユニティ・マクリーン デイヴに関してピーターはとにかく投げやりだったし、あれは悲劇だった。だから、ジェイクがあれほど腹を立てていたのも私には理解できたわ。

ジェイク・リヴィエラ (略)

私は28歳で、そして世界の頂点に立ち、"自分はちやほやされている"といううぬぼれがあった。そして[ピーターから]電話がかかってきたんだ。(略)

私は、「ああ、こんにちは。グラントさん」と下手に出た。すると、「やあ、ジェイク。オレたちはちょっと話をしないといけないと思ってね」と言ってきた。私は打ち合わせのためにホースランジズに呼び出された。

(略)

ニックはピーターを死ぬほど恐れていたな。アーメットとジェリー・ウェクスラーは良い人たちだったが、ただし、スティーヴ・ウェイスはとにかく信用ならない生き物だった。

(略)

エドモンズを契約から抜け出させるために(略)何でもやる覚悟だった。

 [迎えの]リチャード・コール[は](略)運転手付きのロールスロイスで登場した。私は、「これは脅しだ。でも、ジェットコースターに乗りたいのなら、料金を払わなければならない」と思った。

(略)

ホースランジズにクルマで入って行った時は、「なんだってオレはデイヴ・エドモンズのクソ野郎のためにこんなことをしているんだ?」と思ったね。

(略)

1時間待った頃、ロンが戻ってきて、「彼はまだ準備中だ」と言った。それからさらに1時間半待った私はなんとか冷静でいようとがんばった。

 そして遂に日本のゆかたみたいなのを着たピーターが現れた。140キロ近い体をした飢えた、そして明らかに不愉快そうな男だった。彼は座るなりコカイン入りの大きな茶色の瓶を取り出した。そして、「どうも、ミスター・パンクロックさんよ。お前さんはちょいとばかり自分が賢いと思っているみたいだな、ん?」と言った。私は、「自分はかなり頭が良い方だと思いますけど、でもせいぜいあなたと同程度ですよ、ピーター」と返した。

 彼は、「フィル・カーソンから聞いているが、お前さんは知らないふりをして他人のものを漁る奴だそうだな」と続けた。(略)

 彼が、「オレたちはロックパイルと契約したい」と言ったので私は、「それは良い話だけれど、でも、残念なことにコロンビアは絶対にニック・ロウを契約から解放しないでしょうね」と答えた。ピーターとのやり取りは2時間続いたんだけれど、話しの基本は、「私は若くて、震えています。私は20年前のあなたです」ということだった。私は、「あなたは私のヒーローです。私はスワン・ソングと同じくらいクールなレーベルを作りたいと思っています。デイヴ・エドモンズはバカ野郎で、あなたは面倒な話はご免ですよね。ですからどうか彼のことは私に預けてもらって、あとはご自分のお仕事をやってください」と話した。

 彼は、「お前はオレたち全員を過去の遺物だと思っているのか?」と言った。私は、「いえ、とんでもない。ジミーとロバートはダムドを2回見に来ましたが、あれには敬意以外の何も感じていません。私はただのイーストコウト出身のモッズです。自分には小さなレコード・レーベルがあり、そしてこれはそんな私にとって大きなチャンスなのです」と答えてこう続けた。「もし私たちがこれをやらなかったら、ロックパイルなんてものは存在しなくなりますし、あなたはデイヴと一緒に袋小路にはまることになります」と。私は淡々とこちらの理由を並べていった。すると驚いたことにピーターがこう言ったんだ。「良いだろう。お前が気に入った。お前にそれをやらせてやるよ」と。私たちは握手して、それで私はその場から離れた。あの時の私は興奮のあまりあそこの堀をジャンプして飛び越えることだってできそうな気持ちだったよ。

ユニティ・マクリーン すべては一番上にいる人間から始まるのよ。人に対し攻撃的な態度を取るのが大好きなのはどれも下っ端の連中で、みんな、「そうだ、やるんだ。オレがお前に金を払ってやる。最悪を尽くせ」と命令されるのが好きなのよね。

エド・ビックネル もしも何かの責任者が完全に脳みそのくさった迷惑な奴だった場合、そいつの下にいる全員も結局くさった奴らになってしまうんだ。

(略)

オーブリー・パウエル 私がスワン・ソングに行くと、出迎えたリチャードがこう言うんだ。「おい、おマンコ野郎、一体お前は何が欲しくて来たんだ?」。それで私が、「ロバートとの打ち合わせに来ただけだよ」と答えると彼は、「お前はあの長髪の間抜けと一体何を話したいっていうんだ?」と言ってね。あれはもう、とにかく狂気のエネルギーで満たされた場所だった。

ジェイク・リヴィエラ 彼らがどこからあの連中を掘り出してきたのか、私には見当もつかない。彼らはまるで未開の原人みたいだった。マグネットと呼ばれていた男がいたんだけれど、彼は一言話すたびに汚い言葉を挟むんだよ。(略)

私がちょっとイライラした態度を見せると、「オレに偉そうな口を利くんじゃねえぞ、このおマンコ野郎!」と言われた。私は、「こんなクソみたいな状況はオレには無用だな」と思った。デイヴも自分がそうした状況に囚われの身だと知っていた。ただし、彼はロバート・プラントからどれほど自分が素晴らしいのかという話を聞くのがとにかく好きだったんだ。

(略)

ユニティ・マクリーン ジョニー・ビンドンはフラムのアイルランド人の大家族の生まれで、私が思うに、子どもの頃、かなり酷い扱いを受けたんでしょうね。(略)

[ピーター達は]自分たちが地獄にいるとんでもない生き物の鎖をほどいて世に放ってしまったことを理解していたとは思えない。

(略)

ベンジー・レフェブル ビフォ(=ビンドン)がオフィスに入ってくる時や、彼と一緒にウォーター・ラットに行く時はいつも本当に怖かった。でも、ある程度までは信じられないくらい面白くもあったんだ。

アラン・カラン 彼らが初めて殺しの脅迫を受け取った時がツェッペリンの大きな転換点だったと私は強く思う。(略)

ビンドンのような人間(略)ならもし何かまずい状況になった時でも、自分たちの代わりに銃弾を身体で受け止めてくれるだろう、という考えがあったんだ。

(略)

マリリン・コール ピーターは絶望的なくらい孤独だったわ。(略)そこにビフォが登場したのよ。(略)とにかく頭が切れたし、人を楽しませるのが上手かったのよ。突然自分のイチモツをさらけ出す彼とはまったく別の面もあった。(略)シェイクスピアを暗唱したりしたのよ。しかもとても流暢にね。ただし彼は非常に不快で危険な人間でもあった――精神異常者なのかと思うくらいにね。

(略)

パメラ・デ・バレス  彼らは間違った人間ばかり採用していた。ストーンズがオルタモントでヘルズ・エンジェルスを雇ったみたいにね。

(略)

BP・ファロン ビンドンは酷かった。私たちが存在していたのはああいうことのためじゃなかった

次回に続く。

 

[関連記事]

グラントとリヴィエラのにらみ合い

kingfish.hatenablog.com

 

レッド・ツェッペリン オーラル・ヒストリー その2

前回の続き。

ピーターとジミー、ヤードバーズ

マリリン・コール ピーター・グラントはジミーにこれ以上ないほどの敬意の念を抱いていたわ。彼にとってジミーは本当に特別な息子、選ばれた若者だった。ジミーは神だったのよ。

エイブ・ホック ピーターは生涯にわたり、ジミーを愛していたと思う。ジミーはまるで彼の養子同然だったし、彼ら全員の中でジミーが一番策略に長けていたと思う。ジミーのやり方が、そのままその他すべてのやり方になっていた。

ヘレン・グラント 父がジミーについて悪口を言っているのなんて、本当に一度も聞いたことがないわ。父はとことん彼に入れ込んでいた。"ジミーが望むことは何でも(かまわない)"といった感じだったと思う。

マイケル・デ・バレス ピーターは心からジミーを愛していたし、ジミーが望まないことはとにかくなんであれ受け入れなかった。そしてそこから生まれたのが、"レッド・ツェッペリンを近寄り難い存在にする”というアイディアだった。

(略)

リチャード・コール ジミーはヤードバーズという名称を引き継ぐつもりでいて、スティーヴ・マリオットや、他にはベースにジョン・エントウィッスル、ドラムにはキース・ムーンのような感じの人間を集めると話していた。基本的なアイディアとして、新バンドはヤードバーズよりもヘヴィな感じにするつもりだったんだ。ジェフ・ベック・グループをお手本にした可能性もあると思う。でも彼はフーやジミ・ヘンドリックスにも目を向けていたからね。

(略)

ジミー・ペイジ (略)そのバンドがどの方向に進んでいくのか、私には分かっていた。ヤードバーズアメリカに足を運んでいたから、何がどういう状況なのかは正確に分かっていたしね。自分がどういうスタイルのヴォーカリストを探し求めているのかについても、はっきりした考えがあった。

(略)

オーブリー・"ポー"・パウエル (略)レッド・ツェッペリンを始めたのはジミーとピーター・グラントだ。(略)ピーターには強い影響力があり、ジミーには才能と、ツェッペリンを作るための先見性が備わっていた。

(略)

クリス・ドレヤ ジミーは「他の人間よりも最終的に絶対金持ちになってやる」と、そう思っていたんだ。(略)一番最初の頃、彼の態度には、「お前は今、オレを見下しているが、いつかはっきりと見せつけてやる」という姿勢がはっきりと表れていた。そして彼は本当にそれを実現したんだ。(略)

とにかくとことんまで成功したがっていた。全員に「くたばれ」って言えるようにね。

リチャード・コール ピーターは最高のギタリスト(略)ベックとペイジを抱えていた。でも、ジミーはジェフと比べると遥かに意欲的だったね。ジェフは素晴らしいギタリストだけれど(略)少し不安定だった。(略)"ショーはやらない"と決めてしまったら、彼は決してやらなかった。(略)

ロッド・スチュワート ベックがシンガーを必要としていて、それで私が彼のシンガーになったそれだけのことさ。すべてが彼自身のギターのためにお膳立てされていた。

(略)

ニック・ケント ロッドからピーター・グラントに関するゾッとする話を聞かされたことがある。(略)グラントに自分の名前をバンド名に入れたいと言ったらしいんだ。"ザ・ジェフ・ベック・グループ・ウィズ・ロッド・スチュワート"みたいにね。するとむっとしたグラントから、こう言われたそうだ。「よく聞け、お前は単なる取るに足らないホモ野郎だ。ミッキーからお前について警告されていた。彼は最初からお前をこのグループに入れたくなかった。お前を加入させたがったのはジェフだけだ。お前ともう一人、あの無能のマンコ野郎のロニー・ウッドをな!」

(略)

マーク・ロンドン ピーターがツェッペリンを始めた頃、ジェフ・ベックアメリカで一晩で7500ドル稼いでいた。もしピーターから離れていなかったなら、彼はもっと稼げていたと私は思うね。

アラン・カラン ジェフはいつだって自分の頭の中で聞こえている音を鳴らすことができた。でも、彼は自分が文化というものに対しどんな影響を与えているのかについて、何ら洞察力を持っていなかった。彼は純粋なギター奏者だったんだ。一方でジミーは深みと明晰さと目的意識といったものと共に自分を表現する方法を身に付け、そしてそれによって彼以外の人間全員を凌駕することができたんだ。

(略)

リチャード・コール なぜジェフはリーダーになりたくなかったかというと、それは、自分以外の誰かの責任を負いたくなかったからだった。ジミーはそれとは全然違っていた。ピーターもジミーの場合、「オレたちがこれからやるのはこれで、そしてオレたちはそれに取り掛かって、それをやるしかないんだ」という感じだと分かっていた。

(略)

テリー・リード(ピーター・ジェイ&ザ・ジェイウォーカーズのシンガー、ソロとしてミッキー・モストと契約した) ジミーはあるバンドを作ろうとしていて、それで彼が、私をそのバンドのシンガーにしたいと言ってきたんだ。私は言った。「それはどういうバンドだい?」とね。でもバンドなんて存在していなかった。彼は単に、"やるかもしれない案"をあれこれ練っていただけだった。彼はスティーヴ・ウィンウッドにも、スティーヴ・マリオットにも声をかけていた。とにかく特定のタイプのシンガーが欲しかったんだね。

(略)

私は本当に光栄に思って、それで言ったんだ。「私がストーンズとのツアーから戻ったらやってみよう」とね。でもジミーが言うんだ。「いや、オレは今、やりたいんだ」と。それで私はバンド・オブ・ジョイのロバートとジョンを見た時のことを思い出したんだ。そこで私は(略)「あの二人をチェックしておくべきだ」と言った。ロバートだけじゃなくて、二人をね。

(略)

ジミー・ペイジ (略)オブス・トゥイードルか……。彼らはバーミンガム郊外にある教員養成大学で演奏していた。12人ほどの観客相手にね。(略)

ロバートは素晴らしかった。あの晩の彼を聞き、そして彼からもらったデモを聞いた私は、彼の声がずば抜けて素晴らしいことと、非常に個性的な声質だということに気付いた。

(略)

ロバート・プラント (略)私は、ジョンを探して(略)こう言った。「いいか、お前は絶対にヤードバーズに加入しなくちゃいけない」とね。でも、既にアメリカのポップの歴史の中に埋没していたその名前以外に、彼を説得できる材料なんて何もなかった。(略)

[ボーナムはティム・ローズの下で良い仕事にありつけていたため、話には乗らず]

マック・プール (略)「バンド・オブ・ジョイであれだけ数多くのギグをやって結局誰にも注目されずに終わったのに、何のためにティムから離れてプランティ(訳注=プラントのこと)と一緒にならなくちゃいけないんだ?」ということだったんだ。

(略)

[ところが]数週間後に二人をラム・ランナーで見かけたんだ。それで私がジョンに、「まさか、そのバンドに入ったんじゃないよな?」と訊くと、彼は、「そうだ」と言うじゃないか。(略)「前金をもらった」(略)一人頭3000ポンドだって言うんだよ!そこからは本当に別次元の話になっていった。だって、それまで誰もそんな大金を手にしたことなんてなかったからね。突如としてジョンはジャガーと最新のステレオを手に入れた。

ジョン・ポール・ジョーンズ

クリス・ドレヤ 胸に重苦しさを感じつつあった。私はジョン・ポール・ジョーンズではなく、ジム・マッカーティージョン・ボーナムではなかったんだ。

(略)

あの時点でのベーシストとしての彼は、ギタリストとしてのジミーより優れていた。そして言うまでもなく、彼は音楽というものを理解していた。彼があのバンドに加入するのを邪魔するなんて、私にはできるはずがなかった。しかも、彼は誰よりも良い奴なんだ。

(略)

ヘンリー・スミス レッド・ツェッペリンにいるミュージシャン全員の中で、ジョンジーは恐らく一番過小評価されている存在だろうね。彼はジミーに、曲の他のパートのことで頭を悩ますことなく自分がやりたいことをやれる環境を与えたんだ。

(略)

アラン・カラン 当初、彼らはキーボード奏者にキース・エマーソンを据えるつもりでいたんだ。そうしたらジョンジーがこう言った。「いや、キーボードはオレがやる」。それで他のみんなが言った。「だったら、他の楽器も全部やってもらうことになるけど」とね。だから彼はヴァイオリンまで学んだはずだ。

(略)

マギー・ベル (略)ピーターがジミーにこう言った時、私も彼のオフィスにいたのよ。「ジミー、君がリーダーだ。君が楽器を演奏する。君の頭の中には音楽がある。私はあらゆるくだらない面倒なことを君から遠ざけることができるし、このバンドを正しい方向へ導くことができる」と。

(略)

フィル・カーソン ロバートは"歩く音楽の一覧表"みたいだった。彼はジョン・ポールよりもブルースやロックンロールのルーツに精通していた。ジミーと同レベルだったのは間違いない。だから音楽作りに取り組む時の彼は知的なレベルでは誰にも負けなかった。

ジョン・ポール・ジョーンズ 私の父はジャズ・ミュージシャンで、それで私はビッグ・ビル・ブルーンジーやサニー・テリーやブラウニー・マギーのような音楽を聞くようになったんだ。でも、ブルースについて彼ら以上のものは何も知らなかった。デルタ・ブルースについては大して知らなかったんだ。関心があったのはマディ・ウォーターズなどの都会的なブルースだった。もっと古い時代のブルース・ミュージシャンたちを発見したのは、ツェッペリンを通じてだった。

(略)

ヘンリー・スミス 彼はいつもとても冷静でもの静かだった。(略)

ジェフ・ベックはまるで高校生のいじめっ子みたいだった。でもジミーはまったくそういうんじゃなかった。

(略)

ロバート・プラント ペイジとジョーンズはもちろん(私の)友人となった。でも、ボンゾのような"仲間"ではなかった。なぜって、(ボンゾと私は)あの年齢で一緒に始めて、いろいろなことを体験していたからね。そのギャップは最後まで完全には埋まらなかった。

(略)

ジミー・ペイジ アーティスティックな面のコントロールは自分が握りたいと思っていた。彼らと一緒にどんなことをやりたいのか、私には正確に分かっていたからね。実際のところ、アトランティックに交渉に行く前に、ファースト・アルバムの録音を完成させ、そのすべての費用を負担したのは私だった。ファースト・アルバムは全体でほんの30時間で録音したんだ。それが事実だ。私はそれを知っている。なぜなら、私がその請求書を支払ったんだからね。

(略)

グリン・ジョンズ 私にとってレッド・ツェッペリンはそれ以外のどんなバンドともまったく違っていた。あれは完全に新しい章の幕開けだったんだ。(略)

クリームとは全然違っていた。ツェッペリンのアレンジは洗練されていたからね。それが鍵だったんだ。フリー・フォームな要素なんて一つもなかった。すべてが細心の注意でアレンジされていた。とにかく抜群の腕前のアレンジャーたちの手によってね。(略)ストーンズは1枚のアルバムを作るのに9ヵ月かけていたが、彼らは9日かけただけだった。ミキシングを含めてだよ。彼らはスタジオ代を節約しようとしていたのかって?その可能性は高いね。

(略)

彼らは本当にしっかりリハーサルしていて、やる曲はすべて練習済みで、自分たちが何をやっているのかも分かっていた。だから彼らの――そして多分ジミーの――お陰で仕事の半分は終わっていたんだ。その賛辞を受け取るべき人間は確かにジミーだった。しかし、彼らがスタジオに入ってからは、私がかなりあのレコードの制作に貢献した。疑念の余地はないね。

(略)

ボーナムは驚異的なドラマーだったが、ベース奏者にとってはとても気楽な相手ではなかった。でも、ジョン・ポールはあらゆるタイプのドラマーと演奏した経験があったから、彼は音の捉え方を知っていたんだ。複雑な部分まで、恐らくは無意識にね。

ジョン・ポール・ジョーンズ 私はすぐさま彼のドラミングの音楽性を認識した。ジョンはたとえば〈ユー・シュック・ミー〉のようなスロウな曲では、とことんストレートなビートを続けた。最大の理由は、それが彼には"できた"からだろうね。あれができる人間はそんなに多くないんだ。速いテンポで演奏できる奴は大勢いるが、しかし、ゆっくりとしかもグルーヴを出しながら演奏することほど難しいものはない。でも、私たちは二人ともそれができたんだ。しかも、お互いにそのことを認識していた。ああしたビートにもたれかかれるのは喜びでもあった。単にそれに乗っかるだけでいいっていうのはね。とことんまで集中しなければならなかったけれど、でも、同時にとことんまでリラックスできたんだ。同じリズムでも、私たちは常に"どうやって演奏するのか"の選択肢を持っていた。そのことが演奏を音楽的に面白くてエキサイティングなものにしていたんだ。

(略)

レッド・ツェッペリンでダンスすることだってできるはずだ。私たちが経験していた黒人音楽はブルースだけじゃなかった。ジョンと私はどちらもソウルとファンクが好きだったし、私はジャズもお気に入りだった。セッション・ミュージシャンとして、私はあらゆる類のモータウンのカヴァーをやったけれど、その理由は、あのスタイルでの演奏の仕方を知っている人間が私しかいなかったからだ。

エディ・クレイマー その分野ではジョンジーが先頭にいたと思う。なぜなら、彼はデトロイトのベース奏者やフィラデルフィアのベース奏者がやっていることをすべて吸収済みだったからね。

クリス・ドレヤ 調子が良い晩のクリームは素晴らしかったが、とんでもなくボロボロのことも時折あった。ツェッペリンには、"構築物"という感覚が伴っていた。

(略)

マック・プール 音楽面で言えば、彼ら4人のうち、ジョン・ポール・ジョーンズこそが唯一無二の人間だったと思う。〈幻惑されて〉での彼のベースラインはシンプルかもしれないが、しかし、曲のムードに関する彼の考え方はとても音楽的で、それのお陰であの曲が成立しているんだ。ジミーは素晴らしいギタリストだが、しかし、あのバンドにジョーンズがいなかったなら――あの土台がなかったなら――意味の無いバンドになっていただろう。

ジョン・ポール・ジョーンズ 本当に正直に言えば、ツェッペリンの初期の楽曲の作曲者クレジットに関して、もっと多くの注意を払っておくべきだったと思っている。あの頃は、「確かにそれを書いたのは私だが、単なるアレンジの一部だからね」とかそんなようなことを言うだけで、あとは勝手にやらせていたんだ。

(略)

すべての曲に"ペイジ/プラント"とクレジットされているのを目にすると、たとえば"レノン/マッカートニー"のような状況のように思えるかもしれない。つまり、その二人がすべてを書いていて、ジョンと私はジミーとロバートから教えてもらう(略)だけ、のようにね。でもそれはあまりにも現実とかけ離れている、馬鹿げた認識だ。(略)

アトランティックと契約

テリー・マニング クリス・ブラックウェルは、ツェッペリンと契約して彼らをアイランドに連れて来る寸前までいっていた。彼はツェッペリン裁量権と制作権を認めていたが、そうしたのはそれが彼の信念だったからだ。ピーターはその後、そのアイランドの条件をアトランティックとの交渉のテコに使って(略)同じ内容の契約でより多くの金を手にしたんだ。

(略)

クリス・ブラックウェル (略)あの交渉は合意の握手までいっていたんだ。(略)

で、本当のことを言うとね、彼らと契約しなくて私は喜んでいるんだ。なぜなら、アイランドの私たちにとってあれは上手くいきっこなかったからね。暗すぎだった。私の手に負えるはずがなかったんだ。

(略)

グリン・ジョンズ ピーターはニューヨークに行き、アトランティックと契約をまとめ、戻って来てバンドとミーティングをした。私の推測でしかないが、彼はバンドの面々に(契約の)金額と分割方法と印税がどうなるかについて話をしたはずだ。(略)話が私と私の取り分に関することになった時、ジミーがこう言ったんだろう。「いや、彼はこれをプロデュースはしていないし、彼が印税を受け取ることはない」と。

(略)

ジミー・ペイジ (グリンは)プロデューサーのクレジットを上手く自分のものにしようとした。私は言ったんだ。「それはない。このバンドをまとめたのは私だし、彼らをスタジオに入れて、録音作業全体を指揮したのも私だ。私には自分のギターのサウンドというものがある。いいかい、君に望めるものなんてこれっぽっちもないんだ」と。

グリン・ジョンズ あれ以降、ジミーは彼自身が関わったものに関して非常に奇異な態度を取ることで知られるようになった。彼はとにかくすべての物事の貢献を自分のものにして、どんなことであれ自分以外の誰かを貢献者として認めることは決してないんだ。

(略)

クリス・ドレヤ ニューヨークに引っ越す前に、自分のスタジオでツェッペリンの最初のフォト・セッションを行った。謝礼は21ギニーだったと思う。(略)ヤードバーズの名前を使い続けることに対し私が口を挟んでこないよう、私の機嫌を取りたかったのだと考えている。数年後、何か変な理由でジミーが私に連絡してきて、彼がその名称を所有していることを証明する紙切れを持っている、と伝えてきた。

(略)

エド・ビックネル (略)ギター・ソロがちょっと長かったが、でも、バンドのエネルギーと、特にあのリズム・セクションがね。あれにはとにかく吹っ飛ばされたよ。それで私はこう思ったんだ。「このグループをブッキングしないとな」と。それで私は彼らを正式にジェスロ・タルのサポートに据えた。100ポンドでね。タルは400ポンドだった。でも私はニュー・ヤードバーズと契約したはずだったのに、公演する段階になると、彼らはレッド・ツェッペリンになっていた。ピーターは契約書の"ニュー・ヤードバーズ"という部分を横線で消して、"レッド・ツェッペリン"と書き直した。"レッド"は"LEAD"だった。そして"ジミー・ペイジ"と署名した。でも彼らがそのショーをやることはなかった。なぜなら、その代わりに彼らはアメリカに行ってしまったからね。

(略)

クリス・ウェルチ (略)私がその新バンドの名前をメモすると、ジミーがそのスペルを直した。「L-E-A-Dじゃなくて、L-E-Dだ」とね。

(略)

ロバート・プラント (略)ジミーとジョンジーに関しては年功序列があった。彼らの方がより大人で世慣れしていた。一方でボンゾと私はどちらも自分勝手だったね、実際は。私たちをディナーに招待してくれた人のクルマのホイールキャップを盗んだりしていたんだから。

(略)

ガイ・プラット 私が80年代後半にジミーと一緒に演奏していた頃、彼はツェッペリン海賊盤を全部聞いていた。彼はいつもどこのギグでどんな演奏をしたのかに関心を持っていた。すべてが毎晩違っていて、とにかく新しいアレンジで演奏していたんだ。ジミーは、「ああそうだ、それはあれをやり始めた時だった……」ということをよく話していた。

ジミーは両性具有の完璧な英国ロック・スター

ベベ・ビュエル ラジオではレッド・ツェッペリンはかからなかった。でも学校の教室で男の子たちが彼らについて話すのが聞こえてくるのよ。たいていの場合、最初にバンドの良さを理解するのは女の子たちの方だったけれど(略)自分のガールフレンドにビートルズのどのメンバーが好きかと訊くような感じじゃなかった。男性ホルモンで突き動かされていたのよ。(略)男の子たちがあれを聞くと、みんな極端に横柄になって、自信満々になったってことは知っているわ。

ヤーン・ユヘルスズキ (略)男たちは彼らのようになりたいと思い、女たちはそんな彼らと一緒にいたいと思った。人々はかつて、「ステージでのヘンドリックスは、彼を見ているあらゆる女性をレイプされているような気持ちにした」と言い(略)ツェッペリンはそういう女性軽視を自分たちのために都合良く利用した。彼らの音楽はセックスだったけれど、セックスを超えたものでもあった。

(略)

ベベ・ビュエル 私の仲間うちでは誰一人プラントのことを気にしていなかった。とにかくペイジとボーナムだったのよ。ヘンドリックスとクラプトンも魅力的だったけれど、でも、ペイジとボーナムには滅多に目にできないほどの素晴らしく個性的な音楽の才能があった。

ヤーン・ユヘルスズキ ペイジには、どこか壊れやすい、お人形みたいな部分があった。もちろんその後の彼のことを考えてみると、彼が威圧的じゃなかったなんて想像することすら、かなり甘い認識ね。だけどあれは、あどけない目をしたイギリス的な男っぽさというものを私たちに思い出させてくれて、それにみんなが反応していたんだと私は思う。アメリカのティーンエイジャーにとってあの頃の彼はイギリスの男性の美しさの典型みたいな存在だった。ペイジの魅力はあの謎めいた部分にあったんだけれど、ロバートはもっと大柄で、ある意味、アメリカの男性っぽかった。彼の魅力はもっと分かりやすかったのよ。

(略)

パメラ・デ・バレス ジミーは青白い肌に紅い唇をした完璧な英国ロック・スターだった。女性にとって、両性具有というのは、あたかも自分自身を抱きしめるようなものなの。そこには――たとえ実際には危険を伴うものだとしても――安全だという感覚がある。両性具有の彼らは女性というものを理解しているのよ。だから口紅を共有できたりもする。同じ整髪用品を使っておめかししたり、同じ服を着たりもできる。ジミーは街を離れる時、それまで着ていた服を私にくれるんだけど、それが私にピッタリなのよ。それに彼は女性関係にちゃんとロマンチックな部分も用意していた。彼は恋愛関係のあらゆる部分に気を配っていたから、だから彼には心底夢中になってしまうのよ。彼は自分がやっていることを完璧に把握していた。感覚や感情やあらゆる物事を操作することに信じられないくらい長けていた。今あれを思うとかなりサディスティックだって思うけれど、でも、彼は私たちにおとぎ話を信じてもらいたかったのよ。

(略)

『Ⅱ』

エディ・クレイマー (略)週末の2日間であのアルバムをミックスした。結果はご覧の通りだね。あれは素晴らしいサウンドのレコードだし、その後の数年間の彼らの基準になった。そうなった要因は、A&Rスタジオでいっぺんにミックスしたからだ。その音がどう聞こえるべきかについて、ジミーには非常に明確なヴィジョンがあった。

(略)

ブラッド・トリンスキ みんながジミーのギターの音はバカでかいと思っている。でも実際はどちらかと言うと小さい方で、そしてそのお陰でドラムとベースがのびのびと本物らしい音を鳴らすことができたんだ。そうした部分を最高のものにして現代的な音を作るとなると、オタクっぽい技術的な細かい話になるんだけどね。『ベック・オラ』や当時の他のジェフ・ベックのレコードをかけてみればいい。どれも酷い音だよ。次にツェッペリンの最初の2枚をかけてみると、どちらもまるで先週録音したみたいな音がする。聞き手を引き込むのは、制作時のそうした圧倒的な音質とスケールの大きさなんだ。それに、ギターの音の多様性がもたらす実際の音の美しさだね。

ヘンリー・スミス ボンゾは今もってドラムを楽器のように演奏できる数少ないドラマーの一人だ。彼は単に音を出すためにドラムを叩いていたんじゃない。彼が一人で叩いているのを聞くと、彼自身が自分がやっていることに魅了されているのが分かる。彼はリズム&ブルースのリックをたくさんロックに持ち込んだ。当時それは誰もやっていないことだった。

(略)

サイモン・カーク 私はもう45年ほどドラムを叩いているが、今に至るまで、彼がやったドラミングの幾つかのやり方はまったく見当が付かない。

テリー・マニング ボンゾはジーン・クルーパが大好きでね。私の考えで言うと、ボンゾは誰よりもハードなジャズを演奏していたんだよ。それまでのドラマーがやったのと同じくらいシンプルな形でね。彼は実際のところ、ロック・ドラマーのような叩き方はしていなかった。叩き方が巧妙だったんだ(略)

強く叩きつつ、抜群のタイミングの感覚があった。彼は自分独自のテンポを設定していて、残りの連中はそれに従うしかなかったんだ。彼は全体のサウンドとプロダクションの中で占める割合が比較的大きくて、他のどのバンドのどのドラマーよりもそのバンドの印象に大きく貢献していた。彼は常にドラムを重要な存在たらしめていたんだ。

 ジミーが私に言ったことがある。「オレたちのテンポの感覚は違うんだ。一般大衆や他のミュージシャンたちがオレたちのやっていることを理解したり、それに追い付いてくることは決してないだろう」とね。

盗作騒動

マリー・ディクソン (略)娘のシャーリーが(略)〈胸いっぱいの愛を〉(略)が、私の夫の歌である〈ユー・ニード・ラヴ〉とまったく同じものだと確信した。

(略)

夫は、彼らが〈ブリング・イット・オン・ホーム〉を録音したことを大いに喜んでいたけれど、でもそれほど知られていない別の曲をもう一つ使っていたなんて、そしてそれに新しいタイトルを付けていたなんて、まったく知らなかったわ。

ドン・スノウドン(ウィリー・ディクソンの伝記の著者) (略)彼のマネージメントの人間たちもマディのヴァージョンの〈ユー・ニード・ラヴ〉を聞いたことはなかったから、その関連性に気付かなかった。そもそも、〈ユー・ニード・ラヴ〉を知っている人間すら、ほとんどいなかったんだ。あの曲はアメリカでは60年代初期のチェスのシングルにしか収録されていなかったからね。

(略)

 スモール・フェイセズのヴァージョンのクレジットは"マリオット/レイン"だったが、そのサウンドはオルガンを含めほとんどマディの曲と同じだった。プラントはそのマリオットのヴォーカル・スタイルをコピーして踏み台に使ったんだ。

(略)

ティーヴ・マリオット (略)ヤードバーズと一緒にギグをしたことがあって、そこにはロバートもいた。そうしたらジミー・ペイジが私たちがやった曲について訊いてきた。「〈ユー・ニード・ラヴィン〉だ。マディ・ウォーターズの曲さ」と私は答えた。実際それはその通りだった。(略)私たちが解散した後、彼らはあの曲を頂戴して、それで作り直したんだ。上手くいくといいね、ってやつだな。あの曲に目を付けていたのはパーシーだけだった。彼は同じように歌い、フレーズ回しも同じだった。最後の歌の止め方も同じだったんだ。彼らは単にあれに別のリズムを付けただけさ。

ロバート・プラント ペイジのリフはペイジのリフだった。何よりも先にそれがあったんだ。私はちょっと思っただけさ。「さて、オレは何を歌おうか?」とね。それだけのことだった。頂戴したものに対しては、今は喜んで支払うよ。当時はどうすべきかについてかなり話し合いがあった。でも時間的にも影響としても相当に遠く離れていたからね……。まあ、捕まるのは成功した時だけ、ということさ。

ジェフ・ベック 見て見ぬふりっていうのは、当時はたくさんあった。リズムを変えたり、アプローチの角度を変えれば、それはそいつのものだった。私たちは自分たちがやっていることに対しほんのわずかしか支払われていなかったし、自分以外の人間のことなんてどうでもよかった。

エド・ビックネル ミック・ジャガーのよく知られた発言に、「オレたち(のレパートリー)には"チェスのベスト"があった」というのがある。ある意味、彼らはすべてをつまみ食いして、しかもそれに何も支払っていなかったんだ。同じことがツェッペリンにも言えた。

(略)

ロバート・プラント 頭を下げて自分の仕事に邁進して、あとは何も言わないことさ。ハハハ!ロバート・パーマー著の『ディープ・ブルーズ』を読めば、私たちは他の誰もがやっていることをやっただけだと分かるだろう。ロバート・ジョンソンが〈プリーチング・ブルーズ〉をやっていた時、彼は実際のところ、サン・ハウスの〈プリーチング・ブルーズ〉を取り上げて、それを改作していたんだ。

(略)

ニック・ケント チャーリー・マレイといった人々は、レッド・ツェッペリンが好きじゃなくて、自分の古い時代のブルース・ヒーローたちから彼らが曲を盗んでいることに対し、モラルの面で憤りを感じていた。彼はブルースが非常に適応性の高い形式であり、それを自分風にする一つのやり方が必ずしも不適切で罰当たりな行為ではないことを受け入れていなかった。

マリー・ディクソン ウィリーは(略)自分が適切な見返りを得られなかったという思いを抱えたまま亡くなったのよ。恐らく皆さんはどこかで、それは700万ドルだったといった話を読んだことがあるでしょうけど、実際にはそんなことはまったくなくってね。100万ドルどころか、それに近いものですらなかったわ。ウィリーにとっては大きな落胆だった。でも彼は言ったわ。誰かに対し腹を立てている暇はない、と。彼は誰かを恨んだりはしなかった。彼はとても幸せな人間としてこの世を去ったと、私は信じているの。(略)

ルーピー

フィル・カーロ (略)グルーピー全体の規模はとてつもなかったよ。ちゃんとした奴らは――ペニー、ザ・フライング・ガーター・ガールズ、リトル・ロック出身のスイート・コーニー、ゲイル・マコーマックとかは――出会う人々の中でも最高に良い人たちだった。彼女たちのことは完全に信頼できたし、彼女たちはこちらのことにも気を配ってくれた。彼女たちとは毎年顔を合わせていたし、お互いへの敬意もあった。フライング・ガーター・ガールズのリーダーだったペニー・レインが私にこう言ったのを覚えている。「これって変てこよね。私たちのところには、アメリカ中の女の子たちから履歴書付きの入会申込書が届くのよ」。それはまるで会社のビジネスのようだった。

コニー・ハムジイ (略)グルーピーのそもそもの始まりはシナトラよ。権力と性的魅力は常に女を引きつけてきた。ティーンエイジャーだったら、絶対にチアリーダーか、学校のバンドか、あるいはフットボールのチームに入るもんだったけれど、私のような人間はそのどの型にもハマらなかった。それで私はグルーピーになることに決めたの。(略)

ミス・パメラが、いわば最初のグルーピーだった。彼女が先頭になってバター・クイーンやその後のシンシア・プラスター・キャスターのために道を切り開いて、その後私が彼女たちの道程をいわば後追いしたわけね。私は本物になりたかったし、もしそれをやるんだったら、半端な気持ちではやりたくなかった。自分にできる限りの、一番大きな存在になりたかった。そのためにどれだけ多くの人間とやらなくちゃいけないとしてもね。

(略)

ジャック・カームズ (略)バター・クイーンはなんだか売春宿の女経営者みたいで(略)バーバラ・コープがバター・クイーンの本名だった。彼女自身もグルーピーの一人だったけれど、ただし、彼女は全員の仕切り役で、やるべきことを女の子たちに指示していた。(略)

ブロン・イ・アー、新しい時代の始まり

ジョン・ポール・ジョーンズ (略)かなりの回数イングランドをツアーして、ハードに仕事をしたが、メディアの連中はほとんど私たちに関心を持たなかった。(略)

"アメリカではビッグだが、イングランドでは違う"という感じだったな。(略)

初めて"オレたちはここにいるぞ"みたいなショーをやれたのは、アルバート・ホールだったと思う。

(略)

ロバート・プラント DVDであのアルバート・ホールの映像を見た時は、とにかくショックだった。あのちょっと可愛くて、恥ずかしがり屋の部分と言うかな、ナイーヴな側面や、"オレたちはここで何をしているんだ?"という当惑した気持ち、バンドが新鮮だったこととかが目で見て分かったからね。ロック・シンガーにお決まりの型のようなものがまだ何も私の中にしみ込んでいなかったんだ。(略)私はとにかく必死で歌って、演奏して、当時最も素晴らしいミュージシャン3人の間を縫うように歩いていただけだった。私はちょっと色っぽさのあるウブな恥ずかしがり屋で、純情ぶった態度をして……、実際のところ、ちょっときまりが悪かったね。

リチャード・ウイリアムズ (略)ロバートにインタヴューしたんだ。バッファロー・スプリングフィールドやフライング・ブリトー・ブラザーズなど、彼が大好きな西海岸の音楽について話した。その時の原稿の中で私は、「このヘヴィなグループのシンガーでありながら、かれは実は良質な音楽が好きなんだ……」と書いた。

(略)

[ピーター・グラントを後ろに従えたジミーがやって来て言った]

「キミはオレのバンドを壊そうとしているのか?」と。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ ジミーとロバートの友情が大きく育まれたのは、ツアーをしていない時に彼らが一緒に旅をしていたからだ。ジョンと私が自分たちの家族のところに戻る一方で、彼らは曲作りか何かをやっていたんだ。

(略)

ロバート・プラント (ブロン・イ・アーは)山のそばにあって、電気も何もなかった。たいていは雨が降っていたな。私たちには美しい女性が一緒だった。彼と私に一人ずつね。

(略)

クライヴ・クルソン(ツェッペリンのローディー(略)

小川から水を汲んで来て、それをホット・プレートの上で温めて洗い物に使った。風呂は一週間に一度、マキンレスにあるオウェン・グレンダワー・パブでだった。

(略)

ジミー・ペイジ ある日のこと、私たちは長い散歩を終えてコテッジに戻ろうとしていた。その時の私はギターを一本抱えていた。渓谷を降りて来るのがけっこう大変で、それで私たちは立ち止まってその場に座ったんだ。私が(〈ザッツ・ザ・ウェイ〉の)あの旋律を奏でると、ロバートがすぐさま何かの歌詞を歌い出してね。私たちはテープレコーダーも持っていた。

ロバート・プラント ウェールズの山々に向けて出発した時、ジミーと私が抱えていた命題は、なにはともあれ、"自分たちはどんな野望を持っているのか?""そしてそれらすべてはどこへ向かっているのか?""自分たちは世界とそのあらゆるものを支配したいのか?"ということだった。

 私たちはストーンズビートルズや誰かのことなど、まるで気にしてはいなかった。私たちはただウェールズへ行き、ある丘のそばで暮らし、一連の曲を書き、歩き、話し、考え、そして聖杯を隠したとされる大修道院に向かった。

(略)

あの体験が私たちに本当に多くのエネルギーを与えてくれた。なぜなら、私たちは本当に何かに近づいていたからね。私の気持ちはとても軽やかで幸福だった。あれはすべての新しい時代の始まりだった。1970年、あの時、あの年齢にして……。そこには、私がそれまでに目にした中でも最も大きな青空が広がっていた。

(略)

ロバート・プラント (略)私の周辺にいた知り合いの人間は、かなり刺激的な奴らだった。彼らはアフガニスタンに行って(略)インドへ行き、そしてヴァンにカーペットとマリファナを満載にして戻って来た。

(略)

その頃になると私たちはフェアポートとインクレディブル・ストリング・バンドの連中とかなり仲良くなっていたんだ。それからロイ・ハーパーもその場にいた。(略)

フェアポートとストリング・バンドの原点は、私たちが本当に気に入っていたものと同じだった。それでツェッペリンも自分たちなりのやり方でああした分野に移行していったんだよ。あれは一つには虚勢だったが、もう一つにはこの上ないエクスタシーでもあった――〈ユー・シュック・ミー〉から〈ザッツ・ザ・ウェイ〉への移行はね。実際、ブルースに基づいた要素を取り入れなくても、みんなに受け入れてもらえるようなメロディを紡げるくらい、私はリラックスしていた。

ヘッドリィ・グランジ

アンディ・ジョンズ 私がストーンズのモバイルを使うことを提案したんだ。あれはヨーロッパで最初のモバイルだった。ミック・ジャガーの邸宅に行くことも提案した。(略)

私が「モバイルのトラックが週1000ポンド、ミックの家が週1000ポンドだ」と答えるとペイジーは、「ミック・ジャガーに1週間で1000ポンドもオレは払わない。もっと良い場所をどこかに見つけてくる」と言った。それで彼はハンプシャーにあるあの古い邸宅を見つけてきて、それで私たちはそこへ行ったんだ。

(略)

リチャード・コール ヘッドリィ・グランジはピーターの秘書のキャロル・ブラウンが見つけてきんだ。

(略)

 すこし湿った感じがして寒々としていたな。ジミーの部屋は一番上だったが、あの部屋は取り憑かれていたよ。間違いなくね。彼らは考えられる中でどこよりも最悪な場所で録音したんだ。ジミーが心の中で、「外の環境を可能な限り不快にすれば、みんなさっさと仕事に取り掛かるだろう」と思っていたのかどうかは私には分からないけどね。

アンディ・ジョンズ ペイジーはそれまで聞いたこともないようなアイディアを思いつくんだ。あの頃の彼はとにかく細かな部分の調整に熱心で、しかもそれが本当に良い結果を生んでいた。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ (略)

ジミーはいつもそばにアコースティック・ギターを置いておいて、いろいろなアイディアをアコースティックで弾くことがしばしばあった。(略)

 アメリカ・ツアー中にマンドリンを購入していた私は、その時にはもうそれを使い始めていた。(略)それに、たぶんあの頃の私たちは以前にも増してジョニ・ミッチェルをよく聞くようになっていたと思うし、他には、そう、フェアポートのような人たちもね。私が最初にマンドリンの曲を学んだのは、『リージ・アンド・リーフ』(訳注=フェアポート・コンヴェンションの1969年のアルバム)からだったと思う。文字通り、私はヘッドリィの暖炉のそばに座って、あのレコードから音を拾って、弾き方を覚えようとしたんだ。「よし、オレたちはヘヴィなものはやったから、今度はソフトな方向に目を向けよう」などというのでは決してなかった。

ジョニ・ミッチェル レッド・ツェッペリンは私の音楽を好きだと言ったけれど、あれは勇気のいる発言だったわ。ほかの人間ならそんなこと認めようとしなかったのに。私の市場は女性で、長年私の支持層の大半は黒人だった。でもストレートな白人男性は私の音楽に問題を感じていた。彼らは私の所にやって来てはよくこう言ったわ。「私のガールフレンドはあなたの音楽がとにかく好きでね」と。まるで、ターゲット層が間違っているとでも言わんばかりだった。

ロイ・ハーパー (略)

〈ザッツ・ザ・ウェイ〉はおそらくロバートが自分自身を発見した曲だろう。本当に彼自身が自分で曲を書くようになった頃の最初の曲だ。あのアルバムを一歩引いた場所から眺めてみれば、あれこそが彼らの実質的なファースト・アルバムのように感じるはずだ。(略)

〈貴方を愛しつづけて〉

アンディ・ジョンズ アイランドとオリンピックで『レッド・ツェッペリンⅢ』を完成させた。オリンピックでは、素晴らしいミキサーが使えてね。その機材がとにかく良い仕事をしてくれた。あの録音作業には少々怖じ気ずいた。というのも、彼らはとにかくデカい音で演奏したからさ。ああした狭い空間では音圧が高まっていって、他の周波数帯域の音が上手く響かなくなるんだ。

ディグビー・スミス (略)ツェッペリンは『Ⅲ』と『Ⅳ』の制作の際、ベイジング・ストリートにあるアイランドのスタジオ1を多用した。あのスタジオは巨大で、70人編成のオーケストラだって入れることができた。サウンドは大きな洞窟のような感じで、リヴァーブとライヴ感が十分だった。(略)

問題はそのライヴ感をコントロールすることで、そのためにアンディはサウンドをかなり圧縮したんだ。彼がコントロール・デスクの前にいる時は、いつだってすべてが更に大きく、ラウドになっていった。興奮のレベルが上昇していったんだ。彼が作り出せるサウンドの質と、彼の仕事の速さに、私は本当に感銘を受けた。彼から滲み出る自信がバンドにも伝わっていた。ジョージ・マーティンが5人目のビートルだというなら、あの時のアンディは5人目のツェッペリンだった。

(略)

〈貴方を愛しつづけて〉のヴォーカルはほとんど1テイクだったはずだ。あれはしびれるようなパフォーマンスだったな。スタジオのエンジニアとしては、ディストーションを考慮して音量レベルに注意し、リヴァーヴの量とEQを適切に保つよう目を配るのが仕事だが(略)時には自分が録音をしていることを本当に忘れてしまって、別世界に突き抜けてしまうこともある。スタジオの中で繰り広げられているパフォーマンスのためだけに、自分が存在しているような感じになるんだ。あの曲を聞くと、私はすぐにあの場所に引き戻される。まるで初めてあれが演奏されたときのような気持ちになるんだ。スタジオの中に自分がいて、あらゆる息づかいが聞こえてくる……、今でも魔法のような感じがするんだよ。

ロバート・プラント 歌詞の各段落の最後だけれど、あそこの曲の進行は自然にそうなったものではない。ただの2小節というよりは、もう少ししゃれたものになっているし、そしてあの盛り上がる部分が、あの曲をすごく堂々とした感情に訴えかけるものにしている。誰があれをやったのか、どういう成り行きであれが生まれたのかは分からないけれど、でも、歌詞の各段落のあの部分に到達すると、音楽的にも感情的にも、演奏にそうした高ぶりが投影されているために曲に品位が加わり、そしてそれは何か誇りすら感じられるものになる。(だから)聞いている人はその音の中にいるだけで、胸に熱いものが込み上げてくるんだよ。(略)

『Ⅳ』

ジミー・ペイジ たぶん、ブロン・イ・アー滞在で生じた小さなさな火花が、「モバイル・トラックと一緒にヘッドリィ・グランジに戻って、あそこに籠ろう。そしてそこから何が生まれて来るか見てみよう」という一言に繋がったんだろうな。あの邸宅での滞在から生まれたのが、4枚目のアルバムだった。

(略)

規律正しく生活して、仕事にしっかり取り組むという意味ではあれは本当に良かったよ。ヘッドリィでたくさんの曲ができたのはそれが理由だと思う。たとえば〈カリフォルニア〉と〈限りなき戦い〉はあそこでできたものだ。

アンディ・ジョンズ ミュージシャンとして(略)彼らはとても仕事が速かった。(略)一晩で3曲か4曲仕上げるんだ。ジミーとジョン・ポールはかつて(略)"最高のセッション・ミュージシャンだったからね。

(略)

ジミー・ペイジ 3枚目、4枚目、5枚目のアルバムのために集まった時は、いつも誰彼かまわず、「どんな曲を持ってる?」という話をしていた。まあ正直に言えば、ジョンジーが何かもっていないかなと思ってね。

ジョン・ポール・ジョーンズ ペイジと一緒に当時のマディ・ウォーターズのアルバム『エレクトリック・マディ』を聞いていたのを覚えている。その中のある曲にとりとめもなく長く続くリフがあってね。それでそういう曲を書くというアイディアを私は本当に気に入ってしまったんだ。まっすぐ伸びていく旅みたいなリフをさ。

(略)

アンディ・ジョンズ 〈レヴィー・ブレイクス〉は2テイクくらいやった。サウンドの音圧がだんだん上がっていってね。あの連中とやるときはいつもそうだった。

(略)

ドラム・キットを台車に乗せて、広々としたロビーに運んだ。天井の高さは少なくとも25フィート(約7.6メートル)あったな。そうしたら本当に良い音になった。(略)「ボンゾ、こっちでこれを聞いてみろ!」と言うと、「こいつはすげえな」と彼が言った。「押し込むような力がある音だ」とね。

ロバート・プラント 〈レヴィー・ブレイクス〉はとてつもなく大きな一歩だった。ジョン・ボーナム以外の誰もあんな性的なグルーヴは作り出せなかった。ずいぶん大勢が挑戦したけどね。

(略)

デイヴ・ペグ サンディ・デニーとジミーは学校時代からの大の友人だった。サンディはアート・スクールにいた当時からジミーを知っていた。

アンディ・ジョンズ ロバートが言ったんだ。「サンディに来てもらって、〈限りなき戦い〉を歌ってもらうぞ」とね。素晴らしいアイディアだと私は思った。もちろん彼女はぴったりだった。

(略)

ロバート・プラント サンディと一緒に歌うのは最高だったよ。サンディと私は友人だったし、〈限りなき戦い〉で彼女に歌ってもらうよう頼むのはごくごく当たり前の成り行きだった。ナイーヴさと大人っぽく見せようとする態度が両方見えていたとしても――私はまだ23歳だった――二人の声と演奏が一つになっていたから、それがそのマイナス面を埋め合わせてくれた。

ディグビー・スミス (略)

 〈天国への階段〉のドラムのサウンドの70%は、ボーナムの頭上4~5フィートに備え付けられたベイヤーM500リボン・マイクで録ったものだ。ジョンジーはキーボード・ベース、ジミーはアコースティック・ギターを演奏した。彼はベージュ色のバッフル4枚に囲まれていて、ほとんど姿が見えなかった。ガイド・ヴォーカルすらなかったと思う。複雑な構成の曲で、2~3の小曲を一つにまとめたものだった。どこかに1回目のテイクを録音した2インチのテープがあるはずだ。あれは凄かった。最初から最後まで一つもミスがなくてね。アンディが全員をコントロール・ルームに呼んで、プレイバックを聞かせた。音量を暴力的なレベルまで上げてさ。ボーナムとジョーンズとロバートは3人とも、これで決まりだ、と同意した。「オレたちはやったな」とね。でも唯一、ジミーが無言だった。ボーナムが彼の方を向いて、「何が問題なんだ?」と訊いた。ペイジは何も悪くないと言ったんだけれど、ボーナムは「いや、何かがまずい。それは何だ?」と続けた。「いや、何もおかしなところはない」「じゃあ、このテイクで決まりなのか、違うのか?」「これで大丈夫だよ」「これで大丈夫?つまり、オレたちにもう一度やってもらいたいのか?」

(略)

機材の箱の所に座って、なかなかスタジオに入ってこなかった彼の姿を覚えている。彼は腹の中が煮えくりかえっていたんだ。そしてようやく戻って来た彼は、自分のドラムからとんでもない音を叩き出した。全部のメーターの針がレッドゾーンまで行っていた。そして彼らはまたコントロール・ルームに戻って来て全編のプレイバックを聞いた。そうしたらさっきよりもう少しだけ切迫感が加わっていた。ボーナムはペイジにちょっと彼を抱擁するような態度で、「お前が正しかった」と言った。

 私たちはジョン・ポールの3トラックをオーヴァーダブした。ギター・ソロの録音では、ヘッドフォンの代わりに巨大な再生用モニターを用意した。ホイール付きの大きなオレンジ色のロックウッド・キャビネットを幾つかね。そいつはペイジと同じくらいの大きさがあった。彼はその1台に煙草をくわえながらもたれかかっていた。リード・ギターは3テイク録って、その3テイクを編集してソロを完成させた。

(略)

そのソロの後、ロバートがスタジオに入って、ヴォーカルを収録した。1テイクか、あるいは2テイクだったな。

(略)

ロス・ハルフィン ジミーが数年前に私に言った。「いつもエンジニアを変えるのは、誰かに"彼らがレッド・ツェッペリンサウンドだ"と言わせたくないからだ。オレこそがレッド・ツェッペリンサウンドなんだからね」と。大事な部分が分かってるよね。事実、彼こそがレッド・ツェッペリンサウンドなんだ。どのツェッペリンのアルバム(略)

もまるで今朝録音したみたいに聞こえる。そしてあれは100%ジミーなんだ。

アンディ・ジョンズ 最終的に私が不愉快だったのは、ジミーが"事実上エレクトリック・ギターを発明したのは自分で、樹々にとまっている鳥たちだって撃ち落とせる"みたいに公言していたことだ。彼はいつも私がやった仕事を自分のものにした。「アンディはただあそこにいただけで、何もしていない。私がすべてをやった」と言ってね。私は、「おいおい、曲を書いて、それを演奏したのがあなたなのに、そのくらいのことすら私の功績にしないんですか?」と思ったよ。

ジミー・ペイジ (メディアは)3作目の後になるまで、ほとんど私を無視していた。私たちがあれだけのことを成し遂げた後ですら、メディアは"単なる誇大広告"と見なしていた。4作目が無題になったのはそれが理由だ。

(略)

次回に続く。

 

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レッド・ツェッペリン オーラル・ヒストリー

ブルース、エプソム、ベック

ロイ・ハーパー スキッフルはサザン・カントリー・ブルースとノーザン・アーバン・ブルースから派生した音楽だった。私たちは特にその二つを区別はしていなかったな。でも、より本格的なスタイルは、サザン・カントリー・ブルースの方だと自分では思っていた。50年代半ばには、耳ってものが付いてる11~14歳の自尊心があるガキなら、みんな同じことをやっていたよ。

キース・アルサム(60~70年代序盤の「NME」の記者) エルヴィスから派生したのがスキッフルで、その音楽の中心にあったのはフォークとレッドベリーとビッグ・ビル・ブルーンジーだった。だからあの頃、音楽に関連する情報はどれもブルースへと向かう道を指し示し始めていたんだ。

(略)

クリス・ウェルチ(1964年~80年代中盤の「メロディ・メイカー」の記者) ロニー・ドネガンの〈ロック・アイランド・ライン〉をラジオで聞いた時はかなりの衝撃だった。あんな風に土着的というか飾りのない本物の音楽を聞いたことなんて一度もなかったからね。あれがアメリカのフォークとブルースへの入り口になったんだ。

(略)

クリス・ドレヤ(ヤードバーズのリズム・ギタリスト、ベーシスト) ペイジがスキッフルに取り組んだのは、取っ付きやすかったからだ。安上がりだったからね。学校のコンサートでやれる類のものだったんだよ。

ジミー・ペイジ あれは一つの過程というかね、まずはスキッフルがやっていることに自分でも触れてみて、そこから更に深く知るようになると、少しずつ、自分の趣向が変わっていって成長していくっていう感じだった。ドネガンにはブルースとかレッドベリーが含まれていたけれど、でも当時のオレたちはそんなことはまったく意識していなかった。それでエルヴィスが大成功を続ける日々が到来したんだけれど、でも、彼はアーサー"ビッグ・ボーイ"クルーダップやスリーピー・ジョン・エステイスの曲を歌っていることを隠したりはしなかった。

(略)

キース・アルサム エプソムは郊外の静かな競馬の町だ。町中が本当に賑わうのは、ダービーの日だけだった。(略)

ジミー・ペイジ あの頃のエプソムはまだ戦後の陰気な配給の毎日だった。ところが11~12歳の時に、ラジオを通じてそういうのを吹き飛ばす事態が起こったんだ。テレビでも幾つかいい番組をやっていたな。クリフ・リチャードやトニー・シェリダンが出演する『オー・ボーイ!』とかね。でもロニー・ドネガンこそが、自分たちと共通する何か情熱みたいなものを感じられる最初の人物だった。

グリン・ジョンズ (略)ジミーはエプソムの端に住んでいて、私はその反対側に住んでいた。初めて彼に出会ったのは聖マーチン教区教会のユース・クラブでだったな。(略)彼が、アコースティック・ギターを弾いた光景は絶対に忘れないだろう。(略)

"あの地域の水に何か入っていたんじゃないのか?"とすら思うけど、分からないな。とにかく不可思議だった。イギリス最高のロック・ギタリストであるクラプトン、ベック、ペイジが全員あの狭い地域から登場したなんてね。

クリス・ドレヤ ホワイト・ブルースがこの上品なイングランド南部の地域で発展したなんて、本当におかしな話さ。サービトンに住んでいるのに、ハウリン・ウルフだなんて、それって一体なんなのかね。

(略)

ニック・ケント(70~80年代の『NME』記者) ジミーはとにかく、とことんミドル・クラスだった。彼以外の全員が「ファック!」と言う時でも、彼は「ゴッシュ!」だったしね。

(略)

ジェフ・ベック (略)[姉が言った。エプソム・アート・スクールに]お前と同じように変な形のギター持ってる子がいたよ」。それで私が「そいつはどこにいる?オレをそいつの所まで連れて行ってくれ!」(略)

ジミーがギターを弾いてくれたんだ。〈ノット・フェイド・アウェイ〉をね。あの時のことは決して忘れなかったよ。

ジミー・ペイジ むしろ「リッキー・ネルソンの〈マイ・ベイブ〉弾ける?」みたいな感じだったんだ。それでお互いがあの曲のソロをやってみたんだ。ジェイムズ・バートンのソロが重要な曲だったからね。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ 父は、レコード・プレーヤーを購入すると、私をお使いに行かせて、ジェリー・リー・ルイスエヴァリー・ブラザーズ、リトル・リチャード、レイ・チャールズのレコードを買ってこさせた。オルガンを始めたのはレイ・チャールズの影響だ。あの頃はジミー・スミスを散々聞いたけど、でも父はジミー・スミスが好きじゃなかった。「何も面白いところがない。単に鍵盤を行ったり来たりしているだけじゃないか!」と言ってね。

(略)

キース・アルサム トラッド・ジャズがちょっと退屈になってきていて、ブリティッシュ・ブルースの"ゴッド・ファーザー"的存在のクリス・バーバーのような人たちが少し別のことをやり始めていた。じゃあ"ファーザー"は誰かというと、それは明らかにアレクシス・コーナーだった。

(略)

ビル・ワイマン まずスキッフルに、続いてブルースに対し、その土台となるものを提供したクリスは、事実上、その次に登場したもの、つまり英国ロック・シーンの創始者だった。

ジェフ・ベック 私にとって衝撃だったレコードは、マディ・ウォーターズのEPだ。そのうちの1曲が〈ユー・シュック・ミー〉で、レッド・ツェッペリンと私はそれぞれがファースト・アルバムでそれを拝借した。

ジミー・ペイジ アコースティック・ギターを本当に上手く弾けるギタリストは何人かいたが、でも彼らは(エレクトリックに)上手く移行できなかった。(略)でも、マディはあのスタイルを築き上げて、そして彼の存在そのものをきっちりと形にすることができた。(略)10代のガキだった私は、彼の曲に体の芯まで揺さぶられた。

(略)

ジェフ・ベック スチュ(イアン・スチュワート)が、あの当時サリーとリッチモンドで起こっていたことの要だったのは間違いない。彼こそミスター・ブルースだった。彼といると、それ以外の音楽が好きでいる自分に罪悪感を感じてしまうんだ。

グリン・ジョンズ ストーンズを聞いたとき、私はそれをどんちゃん騒ぎのように感じた。当時のポップスはかなり陳腐でダサかったから、みんなちょっとフラストレーションを感じていた。(略)あれはとにかく生々しくて粗野で野太い音だった。神経質な部分なんて一つもなかった。

ロング・ジョン・ボルドリー(ブルース・インコーポレイテッド(略)のシンガー) 私たちは、ブルースは絶対にアコースティックな音楽だと思っていた。そこへマディ・ウォーターズがエレキとでかいアンプを抱えてイギリスにやって来たんだ。ずいぶんたくさんの人が、「ああ冒涜だ。酷い、酷すぎる。彼はブルースを売り払うつもりだ」、なんて言っていたね。でもシリル・デイヴィスとアレクシス・コーナーと私は、それを目にして「ううむ、これは興味深い」と思っていた。それで自分たちでもやり始めたんだ。

(略)

キース・リチャーズ あの頃はオレたちがやっていることとトラッド・ジャズの間にかなりの緊張感があった。トラッドはいわばロンドンのクラブ・シーン全体の代表だったしな。(略)思うに、彼らは突如として寒々しい冬がやって来ると気付いたんだろう。

(略)

マリー・ディクソン(ウイリー・ディクソンの未亡人) ウイリーがヨーロッパへ行ったのは、アメリカではブルースが死に絶えつつあると彼が感じていたからだった。夫は私に言った。「自分の音楽がもう少しあれこれビジネスにならないか確かめるために、海外に行ってくる」と。夫はブルースをイングランドとヨーロッパにもっと広めたいと思っていた。痩せたイギリス人の若者たちが自分の音楽を学ぶことに何も反対はしていなかったわ。

(略)

ジミー・ペイジ シリル・デイヴィスはあの頃アレクシス・コーナーから離れたばかりだった。彼の影響でみんながエレクトリック・ハーモニカに注目するようになったんだ。彼から彼のバンドに加入しないかって誘われて、それで実際に少しの間、彼らと演奏したことがあった。あのバンドが、スクリーミング・ロード・サッチのバンドの核になったんだ。ニール・クリスチャンは私がシリル・デイヴィスと一緒にやっていきたいのだと感じていたと思う。でも、私は本当に正直に、続けるつもりはない、と彼に言ってあったんだ。なぜいつも自分の体調が悪くなるのか、理解できなかったな。

(略)

クリス・ウェルチ 1964年に『メロディ・メイカー』で仕事を始めた私が、最初にインタヴューをしてくるよう頼まれたバンドがヤードバーズだった。(略)

彼らは当時一番エキサイティングなロック・バンドのように見えた。ストーンズはもっとルーズで、それよりもヤードバーズには遥かに大きな興奮を感じたね。頭がおかしくなった学生みたいな、半狂乱的なエネルギーがあったんだ。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ 小規模なホワイトR&Bムーヴメントがあって、それがバラバラに成長していって、そうしてストーンズヤードバーズという形になったんだ。彼らはみんなチャック・ベリーとチェスの面々がお気に入りだった。正に"ブルース馬鹿"だったんだ。音楽シーンとしては、彼らは別に珍しい存在でも何でもなかった。あの連中の誰ひとりとしてそんなんじゃなかったんだ。ヤードバーズは、「おやおや、これはまったく」という感じで、R&Bというよりはパンクだった。それはそれで良かったけれど、でも彼らの〈リトル・レッド・ルースター〉の演奏を聞いていると、「いやはや、頼むから止めてくれ」と言いたくなったよ。

セッションマン、ジミー・ペイジジョン・ポール・ジョーンズ

ジミー・ペイジ ある時点で演奏するのを少し止めて、2年くらいアート・カレッジに通ったんだ。自作曲よりもブルースの演奏に集中していた。それでそのアート・カレッジに続いて、マーキー・クラブとシリル・デイヴィスが登場して(略)色々な動きが起こり始めていて、それでまたやる気が戻ってきた。木曜日の夜になると出掛けていって、よくクラブの幕間のバンドとジャムっていた。

(略)

マーキーで誰かが近寄ってきて、こう言ったんだ。「レコードで演奏してみないか?」。それで私は、「もちろん」と答えた。それが私にとっての初めての正式なセッションだった。カーター=ルイス&ザ・サザナーズのセッションだった。それは〈ユア・ママズ・アウト・オブ・タウン〉というレコードで、チャート入りもした。

グリン・ジョンズ (略)

私は可能な限り常にジミーを起用した。彼は至って普通のもの静かな、好感の持てる若者だったし、もちろん、とてつもなく才能豊かだった。(略)

フレンドリーになって、やがて私のコンヴァーチブルEタイプでセッションから彼の家まで送るようになった。(略)クルマの後ろにはストーンズが最初に使ったヴォックスPAを半分にした奴と4トラックのカセット・デッキを積んでいた。(略)彼が演奏する何かのコード進行に合わせて、エンジンの音を変えるっていう遊びをやったものさ。とても楽しかったな。

(略)

ビッグ・ジム・サリヴァン(60~70年代のセッション・ギタリスト) (略)彼は私を"ビッグ・ジム"と呼び、私は彼を"リトル・ジム"と呼んでいた。実際に、ジムに(楽譜の)読み方を教えたのは私だ。もし曲がカントリーだったら私がやり、ロックだったら彼がやる――それが大雑把なルールだった。

(略)

アンドリュー・ルーグ・オールダム ジョン・ボルドウィンという名の若手アレンジャーのことは知っていた。でも私としては、自分のアレンジャーには、ボルドウィンよりももっとアーティスティックな名字を名乗ってもらいたくてね。(略)その頃、ロバート・スタックの新作映画が公開され(略)彼の役名がジョン・ポール・ジョーンズだったんだ。(略)その名前には何か良い響きがあってずっと気に入っていた。それでジョンに電話をして(略)「今後はボルドウィンという名前で返事をするな。今からお前はジョン・ポール・ジョーンズだ」とね。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ 誰だったかがやって来て、こう頼まれたんだ。「アレンジはできる?」。(略)私はすぐさま外に出て、フォーサイズが出しているオーケストレーションの本を買って、各楽器のパートの書き方が説明してあるページを探した。ああ、あれは酷い出来だった。音域が低すぎて、ごちゃごちゃした感じになってしまってね。

エディ・クレイマー (略)

あれは60人編成のオーケストラで、彼がすべての楽譜とアレンジを手がけた。しかも素晴らしいアレンジだった。(略)

大人数のオーケストラをベースを振り回しながら指揮したんだ。彼は本当にクールだった。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ メンバーはいつも(略)ビッグ・ジム・サリヴァンとリトル・ジムと私、それにドラマーはボビー・グレアムかクレム・カッティーニのどちらかだった。グループ・セッションではソロも弾いたけれど、それ以外の場合、ジミーはいつもリズム・ギター担当だった。というのも、彼は楽譜がそれほど読めなかったからね。

(略)

ジミーはいつも録音作業に関心を持っていた。当時の私たちは、ある意味、その点でオタクだったね。セッションの最後になると大半のミュージシャンはくつろぎながらゴルフ雑誌を読んでいたけれど、私たちはいつもコントロール・ルームに入っていった。プレイバックを聞いたり、エンジニアやプロデューサーの仕事ぶりを観察するためにね。

エディ・クレイマー 1963年、ロンドンのパイで仕事をしていた私は、キンクスを録音していた。(略)ペイジがやって来て、オーヴァーダブをしたんだ。シェル・タルミーのためのセッションだった。(略)

その次のペイジの記憶は、1967年のオリンピックでのことだ。(略)ミッキー・モストがドノヴァンのためにセッションを予約して、私がそのエンジニアを務めた。ジミーがスタジオ内でオーヴァーダブをする一方で、スタジオに入るセッション・ミュージシャンの中ではジョン・ポール・ジョーンズの存在がとにかく大きかった。彼は常に出たり入ったりしていた。

ジミー・ペイジ スタジオ付きのプロデューサーとのセッションはかなり無味乾燥なものだった。要するに経費が大事になるからね。シェル・タルミーのような人は、とにかくグループのプロデュースに専念していて、たとえばドラムがちょっと締まりのない個所やギターが今一なせいで弱い部分を補強するのが彼らの仕事だった。

(略)

キム・フォウリー ジミーは、誰もが探し求めていたセッションの天才だった。(略)"1テイクで決めるとんでもない神童”だった。彼がミュージシャンとして素晴らしかったのは、彼には"(他人の音を)聴く"能力あったからだ。多くのミュージシャンは人の音なんか聞いていなかった。

(略)

ハーヴェイ・リスバーグ(ハーマンズ・ハーミッツのマネージャー) ジョン・ポールは事実上、ミッキー・モストの右腕だった。初期のハーマンズ・ハーミッツの曲はすべて彼がアレンジした。(略)他にルルとドノヴァンもいた。彼は本当にもの静かで、かなり内向的で、真面目だった。彼の存在にほとんど気付かないくらいにね。

(略)

アンディ・ジョンズ (略)

[兄のグリンが]イアン・スチュワートと一緒に暮らしていてね。すると突然、ドアをノックする音が聞こえてきたので見てみたら、口が血まみれになったジミーがそこにいたんだ。グリンが、「おい、一体何があった?」と訊くと、ジミーは、「電車から降りようとしていた時にさ、あの3人が襲いかかってきたんだ」と答えた。グリンが、「ドン・アーデンか?」と訊くと、「まあな。先週オレは誰かにドンのことを散々に言ってやったんだ。奴らはそれがあんまり気に入らなかったんだろうな」。その後、ジミーがピーター・グラントと一緒になったのはそれが理由だ。ジミーは本当にこてんぱにやられたからね。

(略)

ジミー・ペイジ イミディエイトと関わるようになって、色々なものをプロデュースした。ジョン・メイオールの〈ウィッチドクター〉と〈テレフォン・ブルース〉は65年の終わり頃にやった。エリック(・クラプトン)と仲良くなって(略)自宅でちょっとばかり録音もした。イミディエイトは私がテープを持っていることを嗅ぎ付けて(略)所有権は彼らにあると言ってきた。というのも、私は彼らに雇われていたからね。私は、どれも単なるブルースのパターンのヴァリエーションだから発売はできない、と反論した。でも最終的にそれは、別の楽器を幾つかかぶせて世に出ることになった。ライナーノーツには私のクレジットが載っていたけれど、でも、作曲作業には私はまったく関わっていない。スチュがピアノで、ミック・ジャガーが少しハープを吹いて、ビル・ワイマンがベース、そしてチャーリー・ワッツがドラムだった。

アラン・カラン 偉大なギタリストのほとんどは、エレクトリックで凄いか、アコースティックで凄いかのどちらかだ。でもジムはその両方で同じくらい凄かった。(略)

あるセッションでプロデューサーから、「それをエレキじゃなくて、アコースティックでできないかな?」と言われたことがあって(略)「どうも上手くできなかった」と感じた彼は、家に戻ってから2ヵ月間、アコースティックを練習したというんだ。

ジャッキー・デシャノン アビイ・ロードにあるEMIスタジオで録音した(略)1日で4曲よ。(略)〈ドント・ターン・ユア・バック・オン・ミー・ベイブ〉なんかをね。(略)曲はアコースティック・ギターで書いていたから、あのリフは私のレコードの屋台骨のようなものだった。それでスタジオで誰がアコースティックが一番上手いか訊いてみたら、みんながジミー・ペイジの名を挙げた。(略)

私のセッションは彼がアート・スクールに行く日と重なっていると分かって(略)彼の学校が終わるのを待たなければならなかった。「彼は相当上手くないと困ることになるわねえ」と言ったりしてね。私がジミーに曲を演奏してみせたところ、じっと聞いていた彼は、それを完璧に演奏してみせたの。本当に感情のこもった、技術的にも素晴らしい演奏で、その瞬間に彼がどんなに素晴らしいアーティストかは私にも分かったわ。(略)

マリアンヌ・フェイスフル ホテルの私の隣の部屋でジミーとジャッキーが熱々の関係になっていたわ。彼は60年代の私のセッションのほぼすべてで弾いているけれど、当時の彼はかなり退屈だった。これは彼が一時どこかに姿を消して、その後、面白いことになる前の話だけど。あのホテルの部屋でやっていたことがどんどん面白くなっていってたんじゃないかしらね。トニー・カルダーが二人に言ったわ。「あの部屋でお互いの脳みそを吸い出す行為が終わったらすぐに、マリアンヌにも1曲書いてくれよな」ってね。

ジミー・ペイジ 二人で何曲か書いたな。それはマリアンヌとP・J・プロビーとエスザー・フィリップスがやることになって、あとは有色人のアーティストの誰かにも……。(略)

キム・フォウリー 1965年初頭のある日、私がハリウッドのコンチネンタル・ハイアット・ホテルで一人で朝食をとっていたら、そこにジミーがよろよろ現れた。「どうしたんだ?」と訊くと彼は、「ジャッキーからちょっと一緒に過ごそうと誘われたんだ。そうしたら彼女から拘束された」と言ってね。私が「具体的に彼女は何をしたんだ?」と訊いても、彼は答えなかった。まあそれが何であれ、彼は自分の意志に反して拘束されていたみたいだった。

(略)

それはトラウマになるような類のものだったと思っているように、私には見えたな。もしかしたらジミーはナイーヴだったのかもしれない。あるいは、史上最高の役者だった可能性もあるけどね。

(略)

キース・アルサム (略)他の人間――たとえばエリック・クラプトンとか――がずっと先を行っていたことに彼が苛立っていたのは明白だった。グループの一員でいるという状況がかなり羨ましかったんだと思う。

(略)

クリス・ドレヤ あの頃のジミーがどのくらいもらっていたのかは知らない。たぶんかなりの金額だったと思う。でも彼がスタジオを窮屈に感じるまでになっていたのは間違いない。(略)

彼はたぶん、「自分が死んでも、誰もオレが何者だったのか分からないままだろうな。オレもステージに立ちたい」と思っていたと思う。

(略)

ジミー・ペイジ スタックス・レコードの影響で、音楽に管楽器やオーケストラを使う機会が多くなったんだ。それでギターは流行遅れになって、時折ちょっとリフが入るだけになった。フランスでのロックンロールのセッションに行くまで、自分がどれほど錆び付いていたのか気付かなかった。その時は上手く弾けなくてね。これは足を洗う潮時だなと思って、それで実際にそうしたんだ。

クレム・カッティーニ チャーリー・カッツがジムにこう言ったのを覚えている――「愚かな少年よ、君は上々のキャリアを諦めようとしているんだぞ」。

ブラック・カントリー

マック・プール(ミドランズのドラマー、ジョン・ボーナムの友人) ブラック・カントリーというのはあらゆる類のクソみたいなものが集まった場所さ。もし特定の時間に夕食を始めなかったなら、テーブルの上のあちこちで皿が飛び跳ねることになる――プレス機がそれほど遠くない場所で稼動しているからね。(略)

炎の上に巨大なオーヴンがあって、変な奴が巨大な鉄の塊をハンマーで打ち付けているんだ。しかもそれが1日24時間ずっと続く。溶鉱炉があちこちにあって、どれの口も開いていて、溶けた鉄が白くなっている。そして皮のエプロンをした歯が1本もない男たちがそこにいる。彼らは35歳なのに60歳に見えるんだよ。

(略)

グレン・ヒューズ ミッドランズにはツェッペリンの半分とパープルの二人に、ジューダス・プリースト、ロイ・ウッド、ジェフ・リンがいる。私としては、間違いなくブラック・カントリーやブラミー・ミッドランズ・サウンドと呼べるものがあると思っている。シンガーならウィンウッドであれ、プラントであれ、私であれ、ロブ・ハルフォードであれね。あるいはレンガ職人のオーラが漂う、巨大なサウンドの代名詞的ドラマーだったボーナムにしてもさ。

(略)

ニック・ケント 60年代のマンチェスターにはハーマンズハーミッツとホリーズがいた。バーミンガムにはスティーヴ・ウィンウッドデニー・レイン、ムーディー・ブルース、その他たくさんいた。1967年にムーヴを見たことがある人なら、彼らが史上最高のグループの一つだったと知っているはずだ。

(略)

ジム・シンプソン(ビッグ・ベア・レコーズの創設者、バーミンガムの音楽シーンの生き字引) この土地から何が登場したのか、人々は覚えていないんだ。それはたぶん彼らがあまりにも早い時期にロンドンに行ってしまったからかもしれない。(略)

かなりの数のバンドがロンドンへと下り、本当に陳腐なレコードを作った。(略)ここで成功したミュージシャンはかなり短期間のうちに町を出て行ったものさ。

(略)

私たちが抱えたいたバンドはタフで粗野で(略)つまらないリヴァプールの連中みたいに、身だしなみを整えてヒット・チャートを狙うことなんてなかった。(略)一種の間違った謙虚さがあるんだ。「さあステージに上がって、もう少しゴミみたいな演奏をしようぜ」というね。

(略)

ロビー・ブラント (略)あれはモッズが始まった頃だったけれど――あれ自体が音楽の革命だった――私たちは全員がブルースにハマっていた。

デイヴ・ペグ(フェアポート・コンヴェンションのベーシスト) シャドウズが神で、私たちはみんな彼らのレコードを聞いて演奏の仕方を学んだんだ。ただし、シャドウズから、たとえばバディ・ホリーへの移行もかなり短期間で起こった。突如として、私たちはあのつまらないのを二度と演奏しなくなったんだ。突然15歳になり、そしてR&Bとブルースにハマり、それで決まりだった。あれは本当に短期間の出来事だった。

ロバート・プラント ブルースの場合、コピーするだけじゃなく、実際に自分を表現することができた。自分なりのものを、曲に込めることができたんだ。ブルースを歌い始めるようになって初めて私は音楽を自分の内面にあるもの、たとえば希望とか恐れなどを表現する媒介として使えるようになったんだ。

エド・ビックネル(ダイアー・ストレイツの元マネージャー) ロバートは私が出会った白人の中で黒人ブルースの知識が一番豊富な人間だ。一度、彼と一緒にブルースのクイズに参加したことがあったんだけれど、最後にブルースの元祖と言えるシンガーの名前を答える競争になったんだ。そうしたら彼が"ブラインド・ペグ-レッグ・ルーザー”と答えてね。その時点で私たちは全員ギヴアップすることになった。

ロバート・プラント 私は常々、例の"悪魔がオレの女をさらっていった"みたいなのが大好きだったんだ。たまたまブルースのヒーローになった連中のこともね。私にとって最高の1日の始め方っていうのは、説明とかとにかく何もない状態で、サン・ハウスを聞くことなんだ。

(略)

ポール・ロッキー(バンド・オブ・ジョイのベーシスト) ロバートはね、当時はまだ18とか19だったけれど、その存在感はみんなを圧倒していた。彼がパーティーに入ってくると、女の子全員が突っ立ったまま、「まあ……」となるんだ。みんないつもロバートの虜になってしまうんだ。私の妻でさえそうだったんだ!女の子はみんなうっとりして、おまけに男たちもそうだった。別の意味でだけどね。

ジョン・ボーナム

ロバート・プラント 16歳の頃は、オールドヒルにあるプラザ・ボールルームで歌っていた。そうしたらそこにかなり傲慢な感じの奴がいて、お高くとまった態度で立ったまま私をじっと見ていたんだ。そうしたら彼はこう言った。「君はかなりいい線行っている。だけど、私のようなドラマーがいれば、もっともっと良くなる」とね。(略)

それがジョン・ボーナムと言葉を交わした最初の瞬間だった。

(略)

デビー・ボーナム(ジョン・ボーナムの妹) ジョンはジーン・クルーパとバディ・リッチに影響されていた。それっていうのは、母と父はいつも彼らのバンド(のレコード)を家の中でかけていたからなの。父と母はトミー・ドーシー・バンドとグレン・ミラーとハリー・ジェイムズとフランク・シナトラがお気に入りだった。ジョンがいつも車庫でかけていたのもそれだった。

(略)

ロイ・カー 彼はああいったパワフルなジャズ・ドラマーが好きだった。(略)

ボンゾはドラムを単に力任せに叩くのではなく、そこからちゃんとした音を引き出そうとしていた。

ジョン・ボーナム 『ベニー・グッドマン物語』の中で、クルーパが一番前に出てくるんだ。彼はそれまでの誰よりもドラムを大きな音で叩いた――しかも遥かに上手くね。クルーパが登場するまでは、誰もドラムのことはそんなに気にかけたりしなかった。

ビル・ハーヴェイ(ブルー・スター・トリオの元ドラマー。1962年暮れにボーナムにその座を奪われた) ジョンは適応力が抜群だった。その上、彼は独学だったんだけれど、そのこと自体が大きな違いを生んでいた。というのも、彼は音を拾えるんだよね。だから大してリハーサルをする必要がないんだ。あの段階で彼が一つ飛び抜けていたのが、キック・ドラムの技術だった。あれにはみんな本当に唖然としたね。彼のあのバスドラを使った三連打には。一度彼にそのやり方を訊いたんだ。(略)

「(略)オレはね、バスドラのペダルから革製のストラップを外して、その代わりに自転車のチェーンを取り付けたんだ」。(略)あれを最初にやったのは彼だったんだ。

ロバート・プラント

ロバート・プラント 17歳の時、その後に私の子どもたちの母親になる女性と付き合い始めた。彼女はイースト・インディアン地区に住んでいたから、私は常時インドの映画音楽に囲まれていた。保守的な耳にとってインド楽器のぐるぐる回る旋律や、複数のヴォーカルがインストのセクションから飛び出してくる音楽はまったく魅力的じゃなかった。私にとってあれは、どれもかなり官能的で、そうした類の誘惑を感じるものだった。それとそこから5ブロック先がジャマイカ人のコミュニティになっていて、仕事がない時はよくそこをぶらぶらして、ヤギのシチューを食べながらスカのレコードを聞いていたよ。

ケヴィン・ガモンド モウリーンはインド人のかなりの大家族の中で育った(略)

綺麗な娘で、早い段階からロバートにカレーやスパイスの趣向を植え付けていた。あの家族とのああした繋がりは彼にとってとても重要なことで、今でも彼の生活の一部になっている。

(略)

ロバート・プラント 初期のバンド・オブ・ジョイはオーティス・クレイへのトリビュート・バンドとして、ヴァーノン・ギャレットなんかの曲を演奏していたんだ。あのバンドの何人かはストリングビーツと演奏したことがあったな。(略)西インド諸島のバンドで、最終的にはあれがスティール・パルスになったはずだ。

(略)

 私はとにかくサンフランシスコに行って、あそこの連中に加わりたかった。ジャック・キャサディやジャニス・ジョプリンと一緒にいたかったんだ。(略)

あそこではある種の神話が作られつつあり、社会の変革が進みつつあった。そして音楽がそれらすべての触媒になっていた。ニール・ヤングに関して言うと、〈オン・ザ・ウェイ・ホーム〉や〈エクスペクティング・トゥ・フライ〉はとにかくスペーシーなのに、とても曖昧でもあった。私はブラック・カントリー出身で、苦悩するカナダ人の蠍座ではなかったから、ああした曲はどれもピンと来なかったけどね。でも、とにかく私はあの場所に自分も加わろうとしていたんだ。

(略)

長い間、バンドのやる気を削ぐような役立たずなプロモーターとエージェントしかいなくて(略)キンクスの曲かヒット・チャートの曲を一晩中演奏させるのが常だった。

(略)

ハリー・シャピロ(アレクシス・コーナーの自伝の著者) 1968年序盤にアレクシス・コーナーがロバートをデュオの一人に据えたのは、自分のキャリアがもうどうにもならなくなったプラントがずっと落ち込んでいたからだった。彼はアレクシスに、「20歳までに成功できなかったら、辞める」と言っていた。彼のその誕生日は8月に迫っていた。

(略)

ジョン・オグデン ロバートは野心的で、少しばかりけんかもしていた。成功するためにあらゆることを試みていたな。オブス・トゥイードル在籍時の彼は、ジミー・ペイジに救済されるまで、ずっと足踏み状態だったと思う。

ヤードバーズジェフ・ベック

サイモン・ネピア=ベル (略)ポール・サミュエル=スミスが脱退したらジェフが言ったんだ。「このグループにジミー・ペイジを入れたい」とね。(略)

ジェフにこう言った。「君はこのグループの天才ギタリストだ。同じくらい腕の良い奴を連れてくるなんて、君は頭がおかしい」と。でもベックはあくまでその案を主張した。それに、ペイジはベースを弾く前提だったからね。

ビッグ・ジム・サリヴァン ジムがヤードバーズを試していた頃、私は彼とかなり話し込んだ。彼はセッションの世界から抜け出せることをかなり喜んでいたと思う。(略)「クルマを2台持っていて、庭師もいる。これ以上のものを必要な奴なんているのか?」と思っていた。バンドを始めるのはリスクが伴うと思ったんだ。

ジミー・ペイジ ギタリストとしての自分は干涸びてしまったんだ。リズム・ギターを散々やったけれど、本当に退屈で、しかもそのせいで練習時間がほとんどなくなってしまった。(略)ヤードバーズでは、後ろに突っ立ってむっつりした顔をするだけじゃなく、もっと大きな貢献をしたいと思う。ベースを演奏しているからといって、存在感がない、というわけじゃないからね。

ジェフ・ベック ジミーは、みんな知っての通り、ベース奏者じゃなかった。でも、私が彼をバンドに連れてこれる唯一の方法が、ベースを担当すること(略)だった。そしてだんだんと――1週間以内だったと思うけどリード・ギター同士でバトルさせることを話し合うようになった。それでジミーをギターに据えるため、クリス・ドレヤをベースに移したんだ。

ジミー・ペイジ サンフランシスコでギグをやらなくちゃいけなかったんだ。(略)でもジェフが参加できなくてね。それでその晩は私がリード・ギターを担当し、クリスがベースを演奏した。(略)結果は上々で、その後もそのままの担当になった。それでジェフが戻って来た時もそのままで、それ以降はリード・ギタリストが二人になった。

(略)

私たちが一緒にデュアル・リードをやっていた時、そこには何か本当に特別なものを手にできる可能性があった。

 (略)

ジェフ・ベック サイモン・ネピア=ベルが映画『欲望』の話を持って来たんだ。あれは彼の素晴らしい手柄だった。「ようし、それでお前が新マネージャーなわけだけど、何かあるのかな?」と訊くと、「3000ポンドでアントニオーニの映画に出るっているのはどうだ?」と言うんだ。ホフナーのギターを3日間ぶちかまして、最高の体験ができた。

BP・ファロン 私は『欲望』のエキストラの一人だったんだ。ドラッグをきめてヤードバーズを見てる仕事で、1日10ポンドだった。当時のジミーを目の前にすると、マイルス・デイヴィスセルジュ・ゲンズブールと同じようなクールな感覚を彼に感じずにはいられなかった。撮影中の彼はずっともの静かに座っていたね。一方のジェフ・ベックミック・ジャガーがどれほど酷いシンガーなのかと、ずっと悪態をつきまくっていた。(略)

ジミー・ペイジ 私がヤードバーズに加入した頃には、ジェフが仕事を放棄するとか、そういうことはもうなかったな。まあ、2回くらいはあったけどね。調子が悪い日の彼は、観客に八つ当たりしていた。あれはちょっと変な感じだった。

ジューン・ハリス・バルサロナ(略) ショーのためにデトロイトにいた。(略)突然、彼が「行かない」と言い出したの。(略)あれはヒステリックな感じだった。ジェフは成功を受け止めることができなかったのよ。

ジェフ・ベック 私はLAに戻り、しばらくプールのそばでぶらぶらして、その後、ヤードバーズも終わりかなと思いながら家に帰ったんだ。でも、ペイジが好調で、みんなが彼について騒ぎ始めていた。だからバンドの方は問題なかったんだ。

クリス・ドレヤ ジミーはあのままバンドで成功したいと思っていた。私たちがディック・クラークのツアーから撤退した時、「4ピースで続けよう」と言ったのも彼だ。あの形態で続けたいと思っていたのは彼ただ一人だった。

(略)

ジミー・ペイジ サイモン・ネピア=ベルが電話で伝えて来たんだ。「ミッキー・モストにヤードバーズの所有権を売るつもりだ」とね。私は、彼ら3人、つまりネピア=ベルとモストとベックで話をでっち上げたに違いないと思った。そうやってベックがソロ・キャリアを築けるようにしたんだ。ある意味、〈ベックス・ボレロ〉のレコーディングで彼は既にその一歩を踏み出していたんだけどね。

ミッキー・モスト ジェフはツアーの半分くらいの時に、「もうヤードバーズに居たくない」と決めたんだ。ほんの15分ほど、彼はポップ・スターになりたいと思った。そしてロサンゼルスから戻って来た彼の身なりはまるでポップ・スターだった。私はニューヨークから戻ったばかりで、手元に〈ハイ・ホー・シルヴァー・ライニング〉という曲があった。それを彼に聞かせたんだ。そして次に気付いてみると、私たちはスタジオの中にいて、そしてそれがヒットになった。あの見事なチェロのアレンジを手がけたのはジョン・ポール・ジョーンズだ。

アンディ・ジョンズ ジョン・ポールはしっかりと練習と研鑽を重ねたミュージシャンで、初見で演奏ができた。彼は信じられないくらい(楽譜の理解が)速かった。

(略)

彼はストーンズの『サタニック・マジェスティーズ』のアレンジを手がけた。彼は言ったよ。「オレはこれから2~3年でがっぽり稼いで、お前にはオレだと分からないくらいになってやる」と。私は、「ああ、そうかい」と答えた。そして確かに彼は2年のうちに100万ポンド稼いでいた。

ピーター・グラント

マルコム・マクラーレン ピーター・グラントはありえなくらい下の階層の出身だった。ロンドンの裏通りから這い上がった彼は、人生を変える術を求めていた。ロックンロールの世界に入ることが、その最善の選択肢だったんだ。

(略)

ピーター・グラント 私は自分を誇りに思っている。(略)非嫡出子として生まれたわけだが、30年代後半という時代においてそれはむちゃくちゃなことだった。父が誰なのかは知らなかった。(略)

グロリア・グラント(ピーター・グラントの元妻) ピーターはいつだって自分の子ども時代については口を閉ざしていた。「ああ、オレは非嫡出子だ。それでこの話は終わりだ」と言ってね。

(略)

ロイ・カー ドン・アーデンは最悪な人間だった。彼は自分のことをアル・カポネだと思っていた。(略)

エド・ビックネル 時折、ドンは面倒な問題を片付けるためにピーターを相手の所へ行かせていた。たとえば、ロバート・スティグウッドが彼のバンドを引き抜こうとしたときとかね。昔、一度ピーターに訊いたことがある。「スティグウッドの足首を掴んで窓の外に彼を逆さまにぶらぶらさせたのは本当かい?」とね。彼は、「いや、オレは単に彼に外の景色を見せてやっただけだ」と言っていた。

ローレンス・マイヤーズ ドン・アーデンの「オレがそのドンだ。私は悪党だぜ」という態度がピーターに強い影響を与えて、それでピーターは自分の体躯をそれと同じような形で利用するようになったのだと思う。「オレは図体はデカイぞ。お前さんはオレとは面倒を起こしたいとは思わないはずだ」というね。ただし、彼が誰かに暴力を振るったという話は私自身は一度も聞いたことがない。

ミッキー・モスト 私たちが相手を威嚇する昔ながらの手法を少しばかり使ったことは認める。でも、ピストルを使った奴は一人もいなかった。ピーターがギャングと関わっていたとは思わない。実際のところ、彼は心優しい男だった。(略)どちらかといえば、彼がやっていたのは空威張りだったね。

(略)

クリス・ドレヤ ミッキー・モストは本当に礼儀正しい男だったが、その反対側に座っていた男は相手を握りこぶし一つでぺしゃんこにできそうな感じだった。

(略)

エド・ビックネル 60年代中盤まで、音楽ビジネス界の人間というのは、娯楽産業の末端の連中だったんだ。連中はゲイか、あるいはイースト・エンドの強情な変わり者のどちらかだった。その後、クリサリスのクリス・ライトやテリー・エリスといった大卒の人間の第一波が登場した。(略)

そして芸能に関する人々の考え方に変化が訪れた。一番大きかったのは、ポップ・ミュージックは2年で終わりになる、という人々の考え方が変わったことだった。ピーターは学問的な面の教養はなかったものの、彼はドン・アーデンのやり方から次第に離れ、アーティストがすべてであり、すべてはそこから生み出されるのだという考え方に変わっていった。これについて彼はかなり熱心だった。

(略)

アニ・イヴィル ピーターは、何が何でもアメリカをツアーしなくちゃいけないということに気付いていた。プレミア・タレント(プロモーター)のフランク・バルサロナは、それがバンドをプレイクさせる手法だと知っていた。

(略)

ティーヴ・ヴァン・ザント (略)フランクは史上初のロックンロール・エージェンシーを開業したんだ。名称は"プレミア・タレント"だった。彼はアメリカを幾つかの区域に分割した。なんか聞いたことがある話だよな……。そしてそれを飢えている新顔たちに分担させたんだ。ラリー・マギッドはフィラデルフィア、ジャック・ボラーはワシントン、ドン・ロウはボストン、それとビル・グレアムがサンフランシスコ

(略)

つまり、彼は古い盗人たちを全員追放して、代わりに新顔の若い盗人たちを配置したってことさ。

アニ・イヴィル そのプロモーターたちはその仕組みから金を得ていた。全員がそれで稼いだのよ。フランクがよく言っていたわ。「鍋は一つだけで、全員にそこから支払わなければならない」とね。

ミッキー・モスト

ヘンリー・スミス ジェフがバンドを去った時(略)みんな、これがヤードバーズ最後のツアーだということは当初から知っていたんだけれども、それは同時に(略)

ジミー・ペイジにとってはお披露目パーティーだったんだ。60年代にはほとんどの人が知りもしなかったセッション・ミュージシャンの彼のためのね。

 同時に、ヤードバーズ内には二つの派閥ができていた。片方は、ジム・マッカーティとキース・レルフとクリス・ドレヤで、もう一派はジミー・ペイジとリチャード・コールとピーター・グラントだった。(略)

[ツアー・バスの中で]レルフとマッカーティが近寄って来て、「オレたちはヤードバーズが終わったら新しいバンドを始める。オレたちと一緒にやらないか?」と言ったんだ。そうしたら次にペイジーが近寄って来て、言った。「これの後、オレは新しいバンドを始める。で、君にはオレと一緒に働いてもらいたいんだ」とね。

 その時点でジミーは、"ベース奏者は確保済み"だと分かっていた。つまり、ジョン・ポール・ジョーンズだ。私が思うに、恐らく彼はジョンジー本人に話をする前に(略)奥さんのモーに既に話をしていたんだね。彼女の方が本人より先に、「ええ、彼はやるわ」と言っていたと思う。

(略)

ジェフ・ベック (ミッキーは)プログレッシヴ・ロックに関して起こっていることを理解していなかった。(略)関心があったのはいつだってぶつ切りの曲で、ルルとかドノヴァンとか、簡単なやつだった。(略)「それは音が大きすぎる。もっとアコースティック・ギターが欲しいな。ドノヴァンはもっと大きな音、君はもっとソフトな音だ」とか言うんだよ。

クリス・ドレヤ (略)ミッキーとやったあのセッションから生まれた唯一まともなものは、実質的にジミーがプロデュースを手がけたやつだけだ。そうなったのはミッキーがアルバム作りにまったく興味がなくて、それで『リトル・ゲームス』の制作を私たちだけに任せたからだった。

(略)

クリス・ドレヤ ミッキーは最後まで分かっていなかった。でも、彼にはその必要がなかったんだ。なぜなら、彼は諸々のシングルで素晴らしく成功していたからね。彼はとにかくキャッチーなものを見抜く眼力に優れていた。(略)彼はミュージシャンという人間と仲良くなれなかったんだ。彼が共鳴できたのはセッション・ミュージシャンたちと、それに音楽をパッケージにする方法だけだった。

次回に続く。