まちモジ 日本の看板文字はなぜ丸ゴシックが多いのか?

 著者が世界各国で収集した看板のカラー写真がメインなのですが、途中に挟まれた文章の面白いところを引用。

まちモジ 日本の看板文字はなぜ丸ゴシックが多いのか?

まちモジ 日本の看板文字はなぜ丸ゴシックが多いのか?

 

 看板の職人さんに、たずねてみた

[以下、本では図版付きで説明している文章なので伝わりづらいですが]

縦画1本 を平筆で書くとき[普通は枠を取り中を塗り込むが、看板屋には下書きの時間もないし]シャッターなどでは鉛筆の正確な下書きはほとんど不可能だからです。

 次から、熟練した職人さんがとる、効率の良い方法です。

[図版による解説。角ゴシックだと6回の筆入れのところが、丸ゴシックだと4回もしくは2回ですむ]

 丸ゴシックには、早くできる理由がもうひとつあります。字の形が簡単なのです。角ゴシックでは、「口」の縦画の一番下の部分が下の横画より下に伸びますが、丸ゴシックでは下の部分が丸く単純な形です。

 角ゴシックでは10回の手間が必要とされるところ、丸ゴシックでは6回ですみます。

 30センチ未満の小さめの字の場合は、「ゴシック筆」と呼ばれる、穂先の長い丸い筆にペンキをたっぷり含ませて書くだけで丸ゴシックになります。角を整える手間は不要です。

(略)

やっぱり角ゴシックは一度線を引いたあとに角を出す作業が入ってくるので、手間が多いです。特に、ハライの先端の切り口の角度は勝負どころです。この「交」の字は、熟練の腕のおかげで一発で良い角度で収まっていますが、あと少しでも鋭角になってしまったら落ち着かず、鈍角にしたら重苦しい印象になるところです。それに比べて丸ゴシックは、筆を止めたところが自然に丸くなり、効率が良いのが見ていてもわかります。ただし、丸ゴシックも、初心者に簡単にできるわけではなく、すべての先端の丸みが統一感を持つように書くのは難しいんだそうです。
 上林さんに言わせると角ゴシックは丸ゴシックよりも「見える」そうですが、一方で、彼はこう言います。「多くの文字を書くときは、角ゴシックをスッキリと並べるのは至難の技です。どないしても、ざわついた感じになることが多いのです。丸(ゴシック)にすると、そういった感じにはなりにくい」。太い字になればなるほど、ハライの先端の切り口がはっきり見えてくるから「ざわついた感じ」になるのかもしれません。角ゴシックの先端の処理は難しく、彼は「見習いに理解させるのは至難の技で、とうとう一人の後継者も育てることができなかった」と言っています。

(略)

カッティングシートが一般的になってから、角ゴシックが増えてきたように感じます。誰でも簡単にデジタルフォントの文字を使うことができるようになって、筆書きの技術の習得の必要はなくなりました。カッティングシートを貼るのにかかる時間は、角ゴシックでも丸ゴシックでも同じです。

(略)
平看板の製作は、カッティングシートやインクジェットプリンタを使ったほうが耐久性も高く、早く仕上がることもあります。そのかわり寿司屋や料理屋の仕事のときは、手書きの方が貧弱にならなくて良いし、シャッターに書く場合、壁面に大きく文字を入れる場合も書き文字が適しているというように、手書きの良さを活かせるところはまだあります。
 上林さんと板倉さんは、自分たちのことを「手書きができる最後の世代」と言っています。事実、「屋外広告美術士ペイント仕上げ二級」の資格を取ったあと、その資格を審査できる人がいなくなり、一級を取りたくとも取れなくなってしまったのです。

(略)

丸ゴシックが選ばれてきた理由は、遠目でも読めること、オフィシャルに見えること、そして手で書くときに効率が良いこと、の3つがバランスよくそろっていたからではないでしょうか。

 フォントって、こうやってつくってるんだ

 よく「フォントをつくるときって、最初にどの文字からつくるんですか?」とたずねられます。考えてみたら、いつも違う文字から始めている気がします。小文字aからのときもあるし、大文字Hこときもあるし、数文字をいっぺんにスケッチして単語の塊から始めることも多いです。それに、最初につくる字が何かっていうのは、そんなに大事じゃない。かりに、「じゃあ小文字aからつくろう」と思っても、「はいaが完成、次はb、そしてc」という順序にはならなくて、数文字のグループをつくっては直して、の繰り返しです。

(略)
 Akko制作の段階で実際にボツにした例があるので、それをもとに、制作プロセスを再現してみます。いつもだいたい次のページのような手順でつくっています。

[図版につけられた説明文]

1.a をつくる。(略)

2.次は a の右上の形が似ているから n をつくる

3.そして n の左の縦棒をのばして h をつくる

4.a、n を参考にしながら o をつくってみる

5.(略)o の右半分をコピーして、 h の左縦棒とあわせて b をつくる

6.b を回転させて q

7.q を利用して d

8.b を利用して p

9.全体のバランスを見て、a の右下の角の丸みがおかしいことに気づく

10.一度できたはずだった a をつくり直す

11. b の左下角を a に合わせてつくり直す(略)

12.それにあわせて qdp をつくり直す

(略)

書体デザインというのは、「大文字と小文字・数字の形ができたから終わり!」じゃなくて、スペーシング調整がうまくいった状態で初めて完成です。

(略)

私は、文字のデザインにかけた時間と同じくらいスペーシングの調整に使います。

(略)

本文書体をデザインする書体デザイナーに必要なのは、ひらめきはもちろん、そこから先、気の遠くなるような修整の繰り返しをするためのマラソンランナーのような持久力。また、小さなノイズみたいなもの、読者がほんの一瞬だけ戸惑ってしまうような部分をすばやく感じ取る能力。自分のアイデアに酔いしれてしまわないように、突き放すように自分のフォントのあら探しをする、鋭い批判的な眼も必要です。

 ドレスコード

 (略)たとえば「Monotype」みたいな会社の名前や、人名、固有名詞は、最初の一文字だけ大文字で、あとは小文字です。BMWIBMなど略称の場合は、固有名詞の単語の頭文字だから大文字だけになる。じゃあ、そのロゴが「MONOTYPE」みたいに大文字で組まれている場合に本文の文章中で社名の扱いをどうするか。日本では、ロゴにならって大文字で組まれることが多いようです。(略)
 でも、文章中でそれは避けた方が賢明です。大文字だけで文章や単語を組んである部分が文中から飛び出て、気になってしょうがないんです。

(略)

 書体についての小ネタを集めた本『Just My Type』を読んだときにも、仕事上の問い合わせに対して大文字で組んだ文章を送信したのがもとで解雇され、裁判を起こして一騒動になった人の実話が載っていました。著者が書いているとおり、「(略)大文字だけの文章は、誰かを嫌って叫んでいるみたいに見える」をその人は無視してしまった。気をつけていれば避けられた騒動です。

(略)

欧文組版ルールの本『New Hart’s Rules』(通称「オックスフォード・ルール」)を見ると、こう書いてある。(略)
 「電子メールや掲示板で大文字を過度に使うと、相手に不快感を与える(怒鳴っていると受け取られる)。ウェブサイトでは、大文字の単語は読みづらいことがあり、強調を表すには色を使うのが良い」

(略)
『The Chicago Manual of Style』(通称「シカゴ・ルール」)では、こうです。(略)
 「強調を表すために単語や語句をすべて大文字にするのは、まず適切ではない」

(略)

 もちろん、それを逆手にとって、小説などでわざと大文字を使って声の強さを演出することもあります。あのベストセラー、『ハリー・ポッターと賢者の石』の中の一場面。

(略)

手紙を渡してくれないバーノンおじさんに対してのハリーの怒りが爆発して、
″I WANT MY LETTER!″ he shouted.
 と叫ぶ。明らかに音量が違っている感じ、字面からもびんびん伝わってきてますよね。

(略)

ロゴが大文字で組んである欧米の企業サイトでは、どうやって表記していると思いますか?見え方にきちんと気を遣っている会社は、普通に大文字と小文字で組んでいます。日本の中では「大文字に!」って厳しく言われるところを、さらっとスルーしています。(略)

 [関連記事] kingfish.hatenablog.com 

kingfish.hatenablog.com 

日本プラモデル六〇年史 小林昇

 

日本プラモデル六〇年史 (文春新書)

日本プラモデル六〇年史 (文春新書)

 

 マルサン

[アメリカ出張の際にプラモを仕入れてきた柴田幹雄は開発を命じられる] 

後にプラスチックモデルを作るにはモックアップと呼ばれる木型が必要だとわかるのだが、その時はとりあえず手許にあるラベール社のノーチラスをそのまま石膏で型取りして、雌型の基を作ることにした。(略)[そこから]切削工具で金型に直接彫っていくのだ。いわゆるデッドコピーである。[当然著作権侵害]

[金型製作で150~200万かかるのにひと月の売上が15万と苦戦。そんなときフジ日曜午前10時の30分枠の話が。宣伝費はひと月250万。勝負をかけて『陸と海と空』を開始すると番組終了後デパートの売り場に子供が殺到。4点でスタートしたラインナップが最終的に40点に]

オリジナルの商品以外に、アメリカのモノグラムのキットをデッドコピーしたりして品数を揃えた。

戦記物ブーム

[『0戦太郎』から続々]

 なぜこの時期、これだけ戦記物がブームになったのか(略)

昭和二七年のサンフランシスコ講和条約の発効により(略)GHQの施政下では認められなかった太平洋戦争中の様々な情報が溢れ、それが少年雑誌にも反映したという説がある。

(略)

零戦や隼などのキットは(略)大いに売れたのである。

 少年週刊誌とプラスチックモデルは密接に関連しあいながら、ともに成長していくことになる。

 動くことへのこだわり

動くことへの製作者側のこだわりはかなり強いものがあった。ニチモの江田信太郎は最初の伊号潜水艦を作るにあたり、「ゴム動力ではあるが、動くものにしたい」という強い意志があったと後年述べている。(略)

 この特色は欧米のプラスチックモデルには無かった日本独自のものだった。(略)

 日本のプラスチックモデルが開発と同時に「動く」という方向へ向かったのは、ひとつにはマブチモーターの存在が大きく影響している。

(略)

神林久雄は山田模型で伊号400の「自動浮沈装置」という仕掛けを開発し、特許を取得した。 

 驚愕のマルサン倒産

  怪獣ブームで我が世の春を謳歌していた筈のマルサンが昭和四三年[倒産](略)スロットレーシングのブームの際に、過剰な設備投資をして、それが負担になっていたとされる。(略)

ウルトラセブン』の放映も終了(略)怪獣ブームの終了を見越して[次々と版権はとったが当たらず](略)

工場は当時プラスチック玩具に参入しようとしていた学研に居ぬきで譲渡され、[金型の一部はニチモへ、ノーチラスは童友社へ]

ミニ四駆

[RCカーの成功で勢いづいたタミヤ、社是でアニメキャラモデルを禁じていたため、低学年を対象にした簡単に組み立てられるミニ四駆を開発、しかし惨敗。田宮社長は]

アニメ作家の大塚康生に意見を求めた。大塚からは「真面目すぎる、スケール的に忠実な実車は子どもにとって必要ない。もっとデフォルメされた、子どもの視線に合わせたモデル作りをしなさい」とアドバイスを受けたという。

 その路線で開発された「コミカルミニ四駆シリーズ」(略)

大塚がデザインして六〇年七月に発売された「ワイルドウィリスJr.」はヒットとなったが、まだシリーズ全体を底上げしていくには程遠かった。

(略)

[子供の要望を取り入れたスピード主眼のレーサーミニ四駆が「コロコロ~」とのメディアミックスもあり大ブームに]

田宮俊作氏インタビュー

 入社すると同時に私は一人で企画部という部署を作り、新商品の開発に取り掛かりました。(略)

この頃の主力は木製の艦船模型です。(略)

艦船模型をスケール(縮尺)で統一するべきだと主張したのですが、専務と大激論になったことを覚えています。専務は、模型は箱のサイズに合わせればいい、スケールなど気にしなくていいというのです。私がねばってねばって、とうとう専務が折れてくれました。懐かしい思い出です。

(略)
[最初にプラモを買った時は]

「えっ、こんなの模型じゃない」と思いましたね。(略)どの部品も表面がつるつるとしてきれいで、角も見事な曲線が付いている。木製模型というのは、材木をある程度おおまかに切った部品しか入っていません。それを自分でカンナやカンナヤスリで削って、形を出していく。プラスチックモデルではそんな加工が必要ない。つまり模型を作る人が手を出す余地がほとんどない。部品を接着剤で付けるだけ。だからこんなの模型じゃないと思ったわけです。
 そう思ったのはちょっと嫉妬心があったのかもしれません。木製模型とは段違いの完成度でしたから。これは時代の流れが変わるぞという思いがしましたね。

(略)

[パンサータンクを作る時に]

マブチモーターと単二乾電池が入る大きさということで設計していくと、偶然1/35のサイズになった。それからずっと1/35です。

(略)

 実はプラモデルは実物を単純に縮小しても、それらしく見えないのです。それなりのデフォルメを加えなくてはいけない。車だったら少し車高を低くするとか、飛行機ならばエンジンカウリングから風防にかかる部分を少し強調するとか。そういう工夫があって、零戦はそれなりによく出来たと思って発売しました。
 すると発売間もなく、日本航空界の泰斗である木村秀政[から銀座の料亭に呼び出され、恐る恐る出向くと](略)

木村さんの他に龍角散本舗の藤井康男社長、木村屋パンの木村泰造社長がいらっしゃって、「田宮さん、よく素晴らしい零戦を作ってくださいました」とお褒めの言葉を頂戴しました。藤井さんも木村さんも根っからのプラモデル好きとして知られていました。

(略)

[サーキットカー大ブーム]

日本のメーカーも続々と参入しました。でも見ていると、日本製のキットの多くがアメリカのものの真似だったり、ひどいものではデッドコピーまでありました。(略)[国産プラモ発売]から七、八年経つのにまだこんなことをやっている。それには落胆しましたね。
 それでタミヤでは「時間がかかってもいいから、アメリカ製に負けないようなオリジナルなものを作ろう」と企画部員にはっぱをかけました。

(略)

アメリカ製に勝つには、コーナリングの性能を良くすることだという考えに辿り着き、当時カメラに使われていたボールベアリングを車軸に採用し、後輪にコイルスプリングのサスペンションを使用しました。シャーシは敢えて重い真鍮を使い、安定性を出すようにしました。(略)

[こうして発売されたタミヤ製が速さで圧倒し]アメリカ製のキットは消えていきました。[しかし、間もなくブーム終焉] 

ジョン・ケージ伝 その3

 前回の続き。

ジョン・ケージ伝―新たな挑戦の軌跡

ジョン・ケージ伝―新たな挑戦の軌跡

 

デュシャン

 一九六五年の末、ケージはマルセル・デュシャンと喜ばしい友情関係を始めた。

(略)

[70代半ばの]デュシャンは結婚し、アメリカ国民となった。妻のアレクシーナ――ティーニーとして知られていた――は(略)以前はアンリ・マティスの息子と結婚していた。

(略)

[チェスを教えてもらうために週に一、二度会うように]

ケージは夫妻に乾燥キノコをあげた。(略)

デュシャンはふざけて、ケージのチェコスロヴァキア・キノコ協会の新しい会員証にサインした。(略)

[ケージはそれを]現代上演芸術財団に寄付した。財団はそれを五〇〇ドルで売った。

(略)

「我々はいい仲間なんです。精神的に共感していますし、同じように物事を見ています」と[デュシャン]

(略)

 ケージはいつもデュシャンの手法と関心に同意していたわけではない。彼は《音楽的誤植》におけるデュシャンの偶然性の使用は、どちらかというと面白みに欠けると思った。「私にとって興味のないことがあまりにもたくさん起こりすぎるんです。たとえば紙片がくっついてしまうこととか、帽子を揺する動作とか」。カダケスでのあるとき、デュシャンは彼とティーニーと一緒にサルバドール・ダリを訪問するようケージを説得した。ダリは近くのポート・リガのくっつき合った一群の漁師小屋に住んでいた。ケージはダリの絵画が嫌いで、絵と同様に個人的に画家も嫌っていた。ダリは彼らに巨大な絵を見せたが、ケージはそれを「下品で情けない」と思った。そしてこの芸術家はしゃべりにしゃべった。「まるで王様でもあるかのようだ」とケージは言った。彼はデュシャンがなぜダリを崇拝するのか、理解できないと思った。

(略)

 ケージはチェスを魅力的だと思い、やがて真剣にゲームをするようになった。しかし、レッスンを「ただの口実」として使っていた時期には、「チェスをやっているのではなくて、ただマルセルと一緒にいたんです」と言っていた。デュシャンもそのことは感じていたらしい。というのは、ケージがあまり熱心にやらないので、不機嫌になることがあったからだ。

(略)

[ケージがバカな負け方をしたとき]デュシャンは「怒り狂って」、「勝ちたいと思ったことはないのか?」と怒鳴り、部屋から出て行ってしまった。

六〇歳 

 六〇歳に近づくと、ケージはしばしば疲労感を訴えるようになった――「一〇年前のようには体調がよくないんです」。書き物をするときには、眼鏡をかけなくてはならず、「眼鏡を外したときにはコウモリみたいに目が見えなくなって」しまった。またさまざまな痛みや傷に苦しんだ――圧迫神経、敗血症、ものもらい、流感、足の血行の低下、背中の筋肉の痙撃(「四つ足で這い回らなくちゃなりませんでした」)、皮膚炎、そして最悪にも「関節炎!痛みがどんどん増している――滑稽なくらいだ」。

(略)

ある友人がペヨーテを試してみるように勧めた。かつてケージはカリフォルニアで二本のマリファナ煙草を吸い、ハシシも一服吸ったことがあった。しかし彼には何の効き目もなかった。「麻薬が私に興味を持ってくれないんです」と彼は言った。

(略)

健康のために庭をつくり始めた――「私のはじめての庭!」と彼は叫んだ。「ハーブ、トマト、レタス、にんじん、ズッキーニ」。また引き続きキノコを採集し、料理した。サスカチュアンでキノコ狩りをしていたときには、森のなかで迷子になった。助けを求める声は人の耳に届かず、彼は一人そこで一夜を過ごし、ジープ、犬、ヘリコプターを含む五〇人の捜索隊によって見つけ出された。
 ケージ自身が食生活以上に変わった。それまではいつもオーソドックスな服装をして、ヒゲを剃り、スーツとネクタイで公の場に登場していた。「私の全体的なイメージは、黒のスーツに白のワイシャツ、黒のネクタイ、短い角刈りでした」。いまや彼は色あせしたブルーのジーンズとデニムのワークシャツ、ときにはデニムのワークジャケットを着るようになった。櫛を入れていない黒っぽい髪が耳にかかり、肩まで延びていた。唇の輪郭は、たっぷりとはやした灰色の口ひげと胸骨まで垂れた灰色のあごひげの陰から、やっと見えるほどだ。二人の老人がつくったスペイン製の安もののズック靴を履くようになっていた。

(略)

『シカゴ・デイリー・ニュース』紙では、「ブルージーンのグル」、『アート・フォーラム』誌では、「ヒッピーの農夫」みたいだと言われた。

 「メソスティック」

 七〇年代の早い時期に、ケージはその関心を作曲から著述へ[移した。内容も、音楽についての出版から]

詩やフィクション、そして言葉そのものに移っていた。

 この移行は、彼自身が「メソスティック」と呼ぶ、語彙を編集した詩の考案によって特徴づけられる。

[各行の一文字を大文字にして縦読みを導入]

(略)

 驚くべきことに、ケージはチャンス・オペレーションを彼の文章にも適用した。進行中のシリーズ『日記、いかに世界を改良するか(かえって事態が悪化するだけ)』では、『易経』を使って、一回について何個の単語を使うかを決定し、毎日どれだけの量の日記を書くかを決めた。

(略)
芭蕉の俳句の翻訳を試みた。標準的な翻訳は次のようなものである。「The leaf of some unknown tree sticking on the mushroom(知らぬ木の葉がキノコにくっついている)[松茸や知らぬ木の葉のへばり付く]」。ケージはこの翻訳を次のように再構成した。「That that's unknown brings mushroom and leaf together(知らぬものがキノコと木の葉を結びつけ)」。しかし、彼は自分がつくったより禅風のヴァージョンを好んだ。「What leaf? What mushroom?(何の木の葉か?何のキノコか?)」。彼はまたドイツ語、スペイン語、その他の言語からも翻訳を行なった。というか、より正確に言えば、ディック・ヒギンズが「類似音翻訳」と呼ぶもの、すなわち何らかの外国語による詩を音の類似した英語に直して疑似翻訳したものを、いじくっていた。

チェス

[デュシャンとの付き合いで始めたが]

一〇年後、彼は磁石つきのチェスのセットを持ち歩いていた。(略)

ボビー・フィッシャーの良き指導者でもあるジョン・コリンズのレッスンを受け始めた。「ボビー・フィッシャーの先生なんです!」とケージは語気を強めて言った。

自然食療法

[65歳]いまなお関節炎に悩まされ、手首が膨らみ、親指が曲がっていた。歯を痛めたせいで、右目に影響が出ていた。(略)敗血症のため、左足のつま先を動かすことができ[ず、身体を傾けて歩くように]

(略)

[74年、占星術師]は「私の食生活を変えさせる型破りな医者」によって助けられると予言した。この話はケージの隣人のオノ・ヨーコがある日、車で彼のそばを通りかかったときから始まる。彼の手首が膨れ、歩行に困難をきたしているのを見て、彼女は車を止めて彼と話をし、シズコ・ヤマモトという日本人の医者にみてもらうようにと強く言った。ケージが「マッサージ師、栄養土」と呼ぶこの人は、ケージに毎週指圧を行ない、厳格な自然食療法を行なわせた。それは、「自然の穀類、野菜、木の実と種をとり、果物、レモン、アヴォカド、チーズ、ワイン、肉はとってはならないが、魚と鶏肉は稀にとっていい」というものだった。「ショック状態」に陥ったケージは、最初この療法はとても難しくてできないと思った。(略)

ヤマモトはまた、ケージが水と砂糖のとりすぎで肥満になっていると言い、癌になると警告して彼を脅した。
 ケージはヤマモトの助言と警告を真剣に受け入れた。すると彼の健康はたちまち改善に向かった。(略)すぐに体重は一四ポンド減った。ヤマモトにみてもらってから一ヶ月後、つま先は動くようになり、以前膨れていた手首はもう腫れなくなった。目の痛みは消えた。乳製品、砂糖、肉をやめたおかげだと、彼は思った。彼のとる基本的な食事は玄米大豆になり、それに調理した野菜やワカメの入ったみそ汁がついた。そうするように言われたわけではなかったが、ハーブやスパイス、レモン汁を使って、うまみを増した。ときにはごま油でキノコを炒め、たまり醤油を加えた。「ありがたいことに、キノコはOKなんだ」。砂糖が入っているのでワインは止めたが、ウォッカ、ウィスキー、ときにはビール――つまり穀物からつくられる飲み物――を飲んだ。しかし体重がふたたび増え始めると、ビールも止めた。あるとき彼は毎月最後の数日間、絶食することに決めた。
 ケージは深鍋、平鍋、その他の道具を買って、自然食の調理法を極め始めた。「私はいまや日本人っぽい自然食の料理人です。そしてそれを楽しんでいます!」。友人たちも手伝った。(略)

ジョン・レノンも自然食の料理本を六冊送ってきた。

石への情熱 

 一九七二年の『キノコの本』のフランス語訳の表紙をデザインしてほしいと頼まれたときに、ケージの石への情熱は始まった。(略)

一五個の小さな岩の輪郭線を示した表紙をつくることにした。二〇年前に訪れた京都の寺院、龍安寺の岩と砂の庭に置かれた岩がこの数だったのである。彼はすぐに世界中の石を集めるようになった。

(略)

[15個の小さな石の]形態を印刷しようとして、彼はドライポイントで石の周りをぐるりと描いたが、結果は面白くなかった。「すると、複数性に訴えるという考えが浮かびました。一五個の石のそれぞれの周りを、一五回描くのです」(略)

見てすぐに面白く、長い間見ていると、だんだんと面白さが増していき、前には気づかなかった何かが次々と現れてくる――と彼は思った。
 次の二年間にわたって、ケージはこの一五個の石で、少なくとも三種類の異なる版画のシリーズを生み出した。(略)

このシリーズの次の各々の版画ごとに、彼は石の周りを描く回数を増やしていった。(略)最後の版画で、彼は回数をRの三乗にした。すなわち一五×一五×一五ないし三三七五回である。輪郭線は長方形の画面を、暗いィバラのように絡み合った円の網で埋め尽くした。

(略)

 ケージは石への関心を音楽としても実現した。彼は自分が音の上での対応物、すなわちドローンを楽しみ始めているのに気がついていた。「植物が私を石に導いてくれました。そしてその石が今度は私を、防犯ベルのような固定した音に導いてくれるのかもしれません。実際に防犯ベルの音を私は楽しみ始めています」と彼は思いをめぐらせながら述べている。屋外の騒々しい交通の音を楽しむことに加えて、屋内の冷蔵庫や加湿器の変化のないブーンという音を聴くのが楽しみになった。屋外と屋内のノイズを一緒に聴くと、「彫刻みたいな、あるいは空間を明確にする」働きがある、と彼は述べた。
 この種の耳の楽しみの徴候は、ある時期のケージに現れて、いくつかの方向から強まっていった。ソローが電線のドローンをそれまでに聞いたいちばん美しい音楽だと思ったことを、彼は知った。感覚を持つものも持たないものも、あらゆる存在が宇宙の中心にあるという仏教の考えは、自然の一部として「すべての音は注目に値する」ことをケージに示唆した。ラ・モンテ・ヤングのおかげで、彼は長くて動かない、揺らめく単一音に関心を持った。また彼はマルセル・デュシャンの「音楽の彫刻」という概念を意識していた。「音楽の彫刻」とは、ケージの定義によると、「空間のさまざまな地点から生じる、変化しない音」を理論的に構造化したものである。いま彼が興味を持っているのは、「連続した音、日常の環境にあるドローン、そして音響彫刻というアイディア」だ

(略)

ソロは石を表し、伴奏は熊手でならされた庭を表す。ケージは石の輪郭を一部だけ描き、曲線をひとつもしくはそれ以上のソロの楽器で演奏させて、音がひとつのピッチから次へと滑らかにグリッサンドで移るようにした。オーケストラがソロの伴奏をする場合は、各メンバーは単一音を選び、演奏全体に渡ってドローンで演奏する。打楽器だけがソロの伴奏をする場合は、ひじょうに不規則なリズムで拍を刻む。「私は人間の知性がリズム・パターンを分析できるようになってほしくないのです」とケージは説明した。そうして生まれた、むせび泣くようなグリッサンドと、断続的に金属にぶつかる木の音とのコラージュは、重々しく不気味な美しさを醸し出す。
 長く続くドローンのノイズをさらに探求して、ケージはデュシャン風の音響彫刻と龍安寺のドローン音楽の電子版もつくった。

 ジャズとロック

[ サン・ラと共演した]ときには、それほど溶け込んだわけではなかった。ジャズは嫌いではなかったが、またけっして好きだというわけでもなかった。そのわけは、ジャズの規則的なビートと即興の使用にあった。

(略)

コルトレーンの〈至上の愛〉の録音を聴いたときに、彼はこうコメントした――「この音楽にはまったく興味がわきません」。
 しかしながら、ケージはジャズの世界ではよく知られており、そこでもいくらか評価されていた。

(略)

[ケージはVUの]ジョン・ケイルに会い、彼に感銘を与えた。実際、ロックが音楽シーンに登場したとき、ケージはジャズよりもロックの方が好ましいと思った。「ジャズは線的な形式です。ロックはそうではない。すべてが混在しています――素晴らしい」と説明した。ケージはまた、ロックの爆発するような大きな音量が大いに規則的なビートをぼやけさせ、またロック・ミュージシャンがさかんに電子機材を用いていることを好ましく思っていた。ところがジャズは「その伝統にこだわっています」と彼は言う。

(略)

コニー・アイランドでは、エジプトのキルトを身につけ、胸をはだけたアシスタントが舞台上でサン・ラの先に立ち、大きなエジプト十字と煙をあげるお香を入れた聖杯を運んでいった。袖を銀で飾った紫色のチュニックを着て、肉付きのいいサイケデリックな外見をし、髪も下顎の髭もオレンジ色に染めたサン・ラが、それに続く。彼はヤマハのデジタル・シンセサイザーの前に座り、推進力のあるジャズのドラミング、激しいトランペットのリフ、段階的な爆発音を耳障りな電子音で混ぜ合わせて解き放った。

 服装も音楽もまったく対照的に、デニムを着たケージは、自らの音によるテクストのひとつ、おそらくは『空っぽの言葉』の第三のレクチャーを朗読した。彼が穏やかにゴロゴロと喉を鴫らし、うめき声をあげ、シラブルを混ぜ合わせたテクストを朗唱する間、聴衆は敬意を表して、静かにしていた。(略)

ケージとサン・ラが舞台で共演したのはたった一度だけで、それも短い間だった。しかし最後に、慈善公演の聴衆は大きな歓声と口笛、拍手で二人を讃えた。

(略)

サン・ラはかつて「書かれていようと話されようと言葉は音楽だ」と書いたことがある。彼自身とケージの違いがどのようなものであれ、彼は二人の実験が対のものだと考えていた。「私たちはともに同じことについて、つまりある意味で、幸福について語っているのです」と彼は言った。

思いがけないことに、ケージは裕福になろうとしていた 

アートサーヴィスはケージの数多くのコンサートや講演のために、引き続き契約や旅行の手続きを行なっていた。コンサートや講演で、ケージがもらう報酬はよくなっていた。たとえば一九八五年には、バックネル大学で演奏をし、二日間に渡ってクラスを教えた報酬として四五〇〇ドルを、サン・アントニオでの講演と演奏で五〇〇〇ドル、カナダのアルバータの美術学校に一週間滞在して六〇〇〇ドル――加えて旅費と必要経費――を受けとった。(略)
 ケージの数多くのスコアのうちいくつかはよく売れた。彼の楽譜の専属の出版社、C・F・ペータースとは、好ましい関係を保っていた。

(略)

 ケージの七〇歳を祝って、ぺータースは『ジョン・ケージ読本』を出版した。

(略)

 演奏料とスコアの販売に加えて、ケージは録音についても、利益の得られる新しい販路を見つけた。それは一九八三年に、ニューヨークの通信販売で「モード」と呼ばれるレコード会社からやってきた。モードは輸入ものや見つけるのが難しいレーベルを専門に扱っていた。そのオーナーで二六歳のブライアン・ブラント(略)はケージの音楽のすべての録音とリリースに着手したのである。