ボブ・ディラン 指名手配 その4

前回の続き。 

謎の人物、ノーマン・レーベン

 ノーマン・レーベンは、ボブ・ディランの人生に大きな影響を与えた人物のひとりだ。ディランは、70年代中頃、自分の作曲の才能をよみがえらせてくれたのはノーマン・レーベンだ、と語った。ディランはまた、ノーマンから教わったことや、彼の影響は自分の人生に対する考え方を変え、それによって妻のサラは自分を理解できなくなり、結果としてふたりの結婚生活が破綻した、ともほのめかしている。

(略)

 ディランが初めてレーベンについて語ったのは、1978年、自分の映画『レナルド&クララ』の宣伝のために行った数多くのインタヴューの中だった。ただし、しばらくの間ディランは、彼の名前を明言しようとはしなかった。「彼のような男はいない。彼の名前を言うのは避けよう。彼は本当に特別な人だから、彼を探し出したりして欲しくない」

(略)

ディランがノーマンの家のドアをたたいたのは1974年の春のことだった。

 「絵を描きたいんだね?」と彼は言った。(略)「じゃあ、君がここにくるだけの価値があるかどうか、君に何ができるか見てみよう」と彼は言った。そして、ぼくの前に花瓶を置き「この花瓶が見えるだろう?」と言った。彼は花瓶をそこに30秒ほど置いた後、その花瓶を持ち去ってぼくに「あの花瓶の絵を描いてみろ」と言った。ぼくは描きはじめたが、その花瓶について何も思い出せなかった。ぼくは花瓶を眺めていたが、理解はしていなかったのだ。そして、ぼくが描いた絵を見て彼は「OK。ここにきてもいい」と言った。さらに、ぼくは13色の絵の具をそろえるように言われた。ぼくはそこに絵を描きに行ったわけではなく、どんなところか知りたくて行っただけだったが、結果は、たぶん2か月くらいそこに通って絵を描いていた。彼は驚嘆すべき人物だった……

(略)

 ぼくは変わった。あの日以来家に帰っても、妻はぼくを理解できなくなっていた。ぼくたちの結婚生活が破綻しはじめたのはあの時からだった。彼女はぼくが話すことも、ぼくが考えていることもわからなかったし、ぼくもそれを説明するのは不可能だった。

(略)

 そのクラスには、フロリダからきた金持ちの老婦人、非番の警官、バスの運転手、弁護士といった連中がいっしょに集まっていた。あらゆる人間がいたんだ。

(略)

 ノーマンは技術的なことよりむしろ抽象的なことに興味を持っていたようだった。彼はさまざまな方法で表現することが可能と思われる究極のリアリティについて教えていた。

(略)

 ぼくは何人ものマジシャンに会ったことがあるが、彼はそうしたマジシャンたちよりもパワフルだった。彼はじっと相手を見つめただけで、その人がいったい何者であるかを言い当てることができる。(略)

もし自分自身を明らかにしたいと思うのであれば、彼の元に通い、自分で自分自身を見つけるように努力しなければならない。それをやるのは自分自身なのだ。彼はただ何かガイドのような役割を果たすだけだ...…

 ディランのいうノーマンという神秘的な男がノーマン・レーベンであることを、私が突き止めたのはそれから少し後のことだった。彼は1901年にロシアで生まれ、3歳で家族と共にアメリカに渡り、14歳の頃に永住権を得た。ノーマンの父親は著名なイディッシュ語作家、シャローム・アレイヘム(1859~1916年)だ。彼はティヴィエというキャラクターを生み出した作家として現在でも知られている。ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』はこのティヴィエの物語が原作だ。ノーマン・レーベンのスタジオで過ごした2か月間で、ディランに現れたもっとも顕著な変化は作詞の方法だった。

 ディランは1966年7月9日のオートバイ事故の後(略)もはやこれまでのように自由に書けなくなったと語っている。

 あの事故以来、ぼくは多少記憶喪失になった。文字通りにでも、抽象的にでも、きみの好きなようにとってもらっていいが、とにかく、ぼくは記憶喪失になった。それまでぼくが無意識でやってきたことを、意識してやろうとするととても長い時間がかかるようになった。

(略)

例えば《Highway 61 Revisited》の歌詞も忘れてしまった。つまり、机に向かって意識してあの歌詞を書こうとしてもできないんだ。記憶がばらばらになってしまっていた。

(略)

ディランはアルバム《John Wesley Harding》と《Nashville Skyline》を次のような試みだと表現している。

 

……ぼくが行くべきところだと思っていたところまで導いてくれる何かをつかもうとした。でも、どこにも行けなかった。ただ下に落ちて行くばかりだった……ぼくはもう何もできなくなったと確信した。

(略)

 彼は、以前ぼくが無意識に感じていたことを意識的にできる方法で、ぼくの心と手と目をいっしょにしてくれた。

 

 ノーマンとの時間はディランの精神を新たに方向づけ、新しいいくつかの曲を書かせることになった。それらの曲は、今でも傑作と称賛されている《Blood On The Tracks》に収録されている。

 

 このアルバムが今までのものととはかなり違うことを誰もが認めるだろう。何が違うかというと、歌詞にひとつの法則があることと、また時間の概念がないことだ。

(略)

[以前とはちがい]ぼくは意識して歌を書いた……時間というものを打ち砕いた、つまり、時間の概念がない、太陽光線を虫めがねで集めたような高密度に凝縮された歌を書こうとした。意識的に書くことが肝心だった。それを初めて《Blood On The Tracks》で実践した。技術を学んだので、ぼくにはどうすればよいかわかっていた。事実、それを教えてくれる先生がいた…

(略)

 

[ディランは]時間の概念について、単に「過去と現在と未来が同時に存在する」だけではなく、「すべてが同じに存在する」ように努力したと語っている。そして、これはノーマンから習ったことのひとつだとジョナサン・コットに話している。ノーマンは次のように、教えていた。

 

 昨日も今日も明日も、すべて同じ部屋の中にあると考えてみよ。そうすれば、何が起こるか想像できないことは何もなくなる。

 

(略)

彼はさらに「歌は書き直されるべきだ」と続けている。実際、ディランは常にこのアルバムの歌を書き直している。〈Simple Twist Of Fate〉や〈Tangled Up In Blue〉は何度も何度も書き変えられている。

(略)

 

 ぼくは絵画のような歌を書こうとした。つまり、絵画のように一部分だけを見ることもできるし、全体を見ることもできるような歌だ。〈Tangled Up In Blue〉でそれを試みた。時間の概念と、登場人物が第一人称から第三人称に変化する方法を試みた結果、聞き手には三人称の人物が話しているのか、あるいは一人称の人物が話しているのか、明確にわからない。しかし、全体を眺めるときには、そんなことはどうでもよくなる。

 

(略)

ディランは『レナルド&クララ』を作る際にも同じ手法を用いようとした。

(略)

 

 映画自体が時間の概念を作りだし、維持するのだ。映画とはそうあるべきものだ。映画が時間の概念を捕え、その中で呼吸をする。そうすることで時間を止めるんだ。例えば、セザンヌの絵を見ながら、その絵の中である時間、自分を忘れてしまうようなものだ。もちろん、息はしている。そして、時間が過ぎていっても、そのことに気づかない。呪文をかけられたようになってしまう。

 (略)

 ぼくは理解し、掌握しなければならないと思っていたものを、初めて手中に収めることができたのは《Blood On The Tracks》を作った時だった。しかし、掌握したと確信できた時には、《Blood On The Tracks》は完璧なものではなくなってしまっていた。同じように《Desire》も完璧ではなかった。ぼくが今後目指そうとしていた音楽にもっとも近いものにできあがったのは《Street-Legal》だ。このアルバムは時間の幻覚と関わっている。つまり、歌に不可欠なものは時間の幻覚だ。そのことをノーマンは知っていた。そして、ぼくもそれを取り戻すことができた……

パティ・スミス

 1975年、私とバンドがレコード会社と契約を交わした直後、私たちがアザー・エンドで演奏した時にボブがやって来た。彼がいることはわかっていたわ。(略)

彼は才能とスピードと刺激にあふれていた。しかも、すべてが本物だった。

(略)

ちょうどハイスクールの廊下で男の子に会った時のような、10代の頃の感じに似ていた。2人の間でエネルギーが衝突したようだった。……2台の青色のサンダーバードが正面衝突したような感じだった。(略)

彼に会った直後、私はとてもナーバスになり、別の部屋に移ったの。すると、彼も私の後についてきて、私に何か言ったのよ。私はさらに別の部屋に移った。すると、また彼もついてきて、今度は私を抱き締めた。その時、誰かがわたしたちを写真に撮った。それは今までずっと壁の花のような人生を送ってきた私にとって最高の瞬間だった。

(略)

私はとても哀れな女の子だった。ボブはそのことを知っていた。彼は私のことを知っていたので、〈Wallflower〉(壁の花)という歌を書いたの。わかるでしょう。彼は私のことを調べていた。私が彼のことを調べた以上に!

 当時、彼は過渡期にいた(略)

かつて、ディランは60年代の王だった。それも絶対的な王だった。エルヴィス・プレスリーが持っていた王の茨の冠が、ディランに手渡され、ロックンロールの王座の後継者となった。私にとって、ディランは常にロックンロールの代表だった。彼をフォークシンガーとか詩人とか何とか思ったことは一度もなかった。彼はエルヴィス・プレスリー以来最もセクシーな男性だと私は考えていた。頭の中で描いた理想の男性だったの。

(略)

あの夜は彼が客席にいたのでとても刺激を受け、即興で〈Bob Dylan's 114th Dream Of Captain Ahab〉という歌を歌った。もちろん彼の〈Bob Dylan's 115th Dreams〉という歌から思いついた歌だったけど、ディランにはまったく新しい歌に聞こえたようだった。私はステージから「この歌の出所を思い出すべきよ」と叫んだ。でもディランはバンドのすばらしさに夢中になりはじめていたようだった。

(略)

[バンドは]私の歌に合わせて、あるいは私を駆り立てるように演奏を続けていた。彼が不可能と思っていたことを、私とバンドが繰り広げたのです。彼はそれを見て、「ぼくもずっとひとつのグループとだけいっしょにやっていればよかった。ずっと同じメンバーといっしょにやっていれば、互いに隅々まで知り尽くすことができただろう」と後で言ったわ。

 彼はしばしばそのクラブに出入りするようになった。(略)

そして、ある夜、ボブはステージに上がるようになり、集まっていた連中とセッションを始めたの。彼がロブ・ストーナーや、ボビー・ニューワースといった連中に興味を示しはじめたのを私は見ていました。ボビーとディランが再びいっしょに歌うのを見るのは最高だった。ボビーはディランの一番悪い面を見事に引っ張りだすの。そして、この悪い面こそ、私たちがもっとも好きだと感じる彼の一面でした。そうするうちに、ディランはこのローリング・サンダーを形作っていった。彼は即興で歌うことを考えていた。言葉の面で自分を広げようとしていた。

(略)

 私以外の全員がそのローリング・サンダーへの参加を頼まれた。(略)
[ボブにバーに誘われて行くと]

それは誰かの誕生日のパーティで、彼らはそこでローリング・サンダーのことを発表するつもりだったのです。

 彼の発表の仕方はとても奇妙だった。まず、彼とジョーン・バエズがいっしょに、私の大好きなディランの歌のひとつ〈One Too Many Mornings〉を歌った。(略)

いろんな人たちが次々とステージに上がりました。ボビー・ニューワースが歌い、ジャック・エリオットが歌い、ジム・マッギンはあの馬の歌を歌い、ベット・ミドラーも歌った。彼女の出来はあまりよくなかった。

(略)

ステージに上がるとエリック・アンダーセンがいて、私は彼に「後ろでEのコードを弾き続けて」と頼んだ。そして私は詩を朗読することにした。私はボブを見ていると、兄弟姉妹についての詩が浮かんだ。でも、そう思っているうちに、私はサム・シェパードのことを考えはじめていた。私の意識の中に彼がいたのです。(略)すっかり夢中になってストーリーを続け、体制の欲と腐敗によって別れていく兄弟姉妹の詩にした。なかなかの出来栄えで、みんな気に入ってくれた。

(略)

ディランはいろんな面を持っていて(略)上品で優しい性格の人間に変わったわけではなく、実に嫌な奴なのよ。でも、それは本物の嫌な奴になるためではなく、彼の芸術のためには重要な要素だと私は思っているわ。そして、あの夜のディランは本当に嫌な奴だった。フィル・オウクスは怒り狂っていました。かわいそうなフィル・オウクス……私には信じられなかったけど、ボブは絶対にフィル・オウクスに話しかけようとしなかったの。ふたりはまるで……部屋の真ん中に首吊りの縄があって、その周囲をぐるぐる回わりながら、互いにどちらかを捕まえて、首吊りの縄にかけてやろうとしているみたいでした。

(略)

ディランがいろんな歌を歌っていたけど、私はもっとロックして欲しいと思った。だから私は「どうしてアコースティック・ギターなの?」と言ったの。すると、彼は別の部屋に消えてしまった。そして代わりに、やり手の弁護士やボディガード、スタッフたちが私を取り囲んだ。まるでマフィアみたいだった。その時私はなぜディランがジョーイ・ガロに興味を持って歌まで書いたのかわかったわ。

(略)

[弁護士に連れていかれた]部屋にはディランが立っていた。彼はすごく偉そうに見えた。そして、弁護士が「ボブは今度ローリング・サンダー・レヴューをやろうとしているんだけど、彼は君にも参加して欲しいと思っている」と言った。そして、ディランも「ウーン、そう。君のキャリアにもとてもいいことだと思うよ。人前にいっぱい出られるんだから」と言ったの。彼がそんなことを私に言うなんて大笑いだと私は思った。そして、私は「どういうこと?人前に出られるですって? 私はいまでも充分に出てるわよ。ロックの下に隠れてたから見つけられなかったんでしょう。みんな私が充分に活動してることを知ってるわ。いい、あなたは1億5千万人もの人を連れてこのツアーをするんでしょう。私のために席を開ける必要なんかないのよ。私はあなたを駆り立てたいだけよ。完全にクレージーになるまでね。あなたといっしょにやりたいことは、あなたをクレージーにすることだけよ。あなたを駆り立てて、あなたがみんなを言葉で切りつけたり、エレクトリック・ギターで最高のソロを弾かせたり、とにかく、最高のあなたを見たいだけなの。古いフォークソングを焼直したり、カントリー風のハーモニーなんかで歌って欲しくないの。私はあなたとカントリー風のハーモニーを歌うなんて全然興味ないわ。確かにあのバーでは歌ったわ。でも、あれはカントリーのお店だったからよ」と言った。

 彼は私の言った意味を理解した。私は彼から得るべきものはすべて得ていた。長い間、彼は私を触発し続けてくれた。私はそろそろ立場を逆転する時だと感じた。そこで、私は「ひとつだけ教えてあげるわ。こぶしを使うのよ」と言った。彼はいつも手をぶらりと下げたまま歌っていた。彼はギターを持たずに立って歌う時、手をどうしたらよいか知らなかった。私は「マイクをつかむの。こぶしを使うの。あなたはハリケーン・カーターというボクサーの歌を歌っているじゃない。だったらこぶしを使うのよ!客とボクシングをするのよ。

(略)

あなたはクールの父なのよ。だから、直立不動でクールを装うんじゃなくて、今という時とともに動いてクールに見せてよ」と言ったの。(略)

「いい、私は12年間もあなたのまねをしてきたわ。あなたも少しくらいのまねをしてもいいはずよ」と言った。すると、彼はただ笑ってた。

(略)

 とにかく、ライバル意識を捨てきれない部分が、彼をローリング・サンダーに駆り立てた。サムはいっしょに行ったが、私は行かなかった。サムが私の役割をした。サムはディランを駆り立てて向上させ、ケルアックの墓に彼を連れていき、彼に悪魔払いをさせ、とても陽気に浮かれ騒がせはじめた。そして、ディランも開発された。肺とサングラス、つまり、言葉と目が窓口となった。しかし、すぐにまたその窓を閉ざしてしまった。サムは「もしあなたがつまらないフォーク風の歌ばっかりやろうと思っているのなら、ぼくは別れる」と言った。そして、サムは離れた。

(略)

 ディランは、このようにとてもクレージーな人間です。(略)

ディランの強さがうまく現れるのはロックンロールの純粋表現主義に徹した場合だけだ、ということを伝えたかったのです。私の目に映るディランは、ビラを撒いたり、旗を掲げている男ではなく、マシンガンを持った男なのです。

 次回に続く。

ボブ・ディラン 指名手配 その3

 前回の続き。

ニューポート、1965年

 ジョー・ボイドは現在ロンドンでハンニバル・レコードを経営している。(略)

1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルのプロダクション・マネージャーをしていた人物だ。観客は本当にディランのステージにブーイングを浴びせたのだろうか?

(略)

 

まず当時のアメリカン・フォーク・シーンを占めていたふたつの主流について説明しなければならない。つまり、ボストン派とニューヨーク派のことだ。ボストン派は基本的に民族音楽に近いもので、古いブルースやカントリー・ミュージックブルーグラスといった伝統的な音楽をいかによみがえらせるかということに興味を持っていた。たとえばエリック・フォン・シュミットや、クエスキン・ジャグ・バンドを結成したジェフ・マルダー、ジム・クエスキン、ビル・キース、ジム・ルーニーといった人たちだ。

 反対にニューヨーク派は政治色が強かった。ニューヨーク派は、50年代に人気を博したピート・シーガーやザ・ウィーバーズ、さらに、レッドベリー、ビッグ・ビル・ブルーンジーウディ・ガスリー、シスコ・ヒューストンたちの後を継ぐ、あるいは彼らの影響を受けて当時のフォーク・シーンに登場してきた人たちだった。

 その違いをもっと漫画的な表現で極端に言うと、ボストン派は、1930年代のミシシッピの農園で歌われていたような黒人たちのサウンドをそのままに再現しようとし、ニューヨーク派は同じ歌を、普通の人がスペイン市民戦争の歌やカウボーイソングを歌うのと同じスタイルで歌おうとしたということだ。つまり、人々の兄弟愛を高め、一般大衆がより歌いやすいようにしたというわけだ。

 言い換えれば、それはピート・シーガーの考え方だった。そして、ボストン派もニューヨーク派も互いにそれぞれの考え方に対して大きな疑問を抱き合っていた。ボストンのコーヒーハウスはまったくニューヨークの人間は受け入れなかった。彼らに対して懐疑的だった。ボストン派はボストンこそフォークミュージックの中心だと感じていた。そのためニューヨークからやってきた若僧、つまりボブ・ディランについても批判の声を投げかけはじめていた。

(略)

 ディランは既にシンガーたちの間でカリスマ性みたいなものを持っていて、ニューヨークでは誰もが知っている人物だった。それに、当時もハーヴァード・スクウェアの女王として君臨していたジョーン・バエズがディランにとても興味があり、彼にいかに夢中になっているかずっと語っていた。

(略)

ディランがベッドの上で〈A Hard Rain's A-Gonna Fall〉 を歌っていた。それを聴いた私は完全に圧倒された。信じられないほど力に満ちた演奏で、それまでの乏しい知識に基づく彼に対する疑念など吹き飛んでしまい、大ファンになってしまった。

(略)

 

 彼に初めて会った時の印象はどんな感じでしたか?

 

 みんなから聞いてる通りだった。背はあまり高くなく、痩せていて、皮肉っぽく、風変わりで、閉鎖的な感じだった。つまり、自分が知らない人間に対してはあまり友好的ではなく、温かくもなく、打ち解けない性格の男だった。

(略)

62年、63年のフェスティヴァルは会場にいた。そして、いつも音響が悪いと感じていた。(略)だから65年のフェスティヴァルの時に「わかった、もし私にステージをまかせてもらえるのなら、今年は絶対いいサウンドを聴かせるぞ」と私は公言し、運営委員会にかけあいに行った。

(略)

[運営委員会]メンバーはピーター・ヤーロー、セオドア・バイケル、アラン・ロマックス[等の](略)フォークミュージックの旧体制の人たちだった。

(略)

64年のフェスティヴァルはディランがニューポートの王だった。私は会場にいなかったが、一言で言えばニューヨーク・フォークシーンの夢を極めたものだった、ということはわかった。ディランはある意味で、彼らの祈りに答えた。マッカーシーに象徴される年代を人々はもがきながら歩んできたが、ようやくウディ・ガスリーの外套を着て、プロテストソングや政治的な主張を持った歌を歌い、ヒットチャートの第1位に曲を送り込む男が現れたというわけだった。そして、何千人という白人の中流階層の若者たちがその夏、南部ミシシッピーの選挙人登録集会に集まり、ヴェトナム戦争に反対し、人種差別に抗議した……実にエキサイティングな時代だった。ディランはその中心にいた。それを目撃し、その中に自分も入って、それに参加するということはすばらしく工キサイティングなことであり、ディランはその旋風となった。

 そして、明らかにディランを真似たようなソニー&シェールの歌う〈I Got You Babe〉、ディラン自身が歌う〈Like A Rolling Stone〉、ザ・バーズの歌う〈Mr. Tambourine Man〉がラジオで流れていた時期に、65年のフォーク・フェスティヴァルが行われた。確実に何かが起こりそうだった。すべてが大きく変わりつつあった。

(略)

フェスティヴァルの開催日までに、古臭い偏狭なフォーク差別主義やねたみは、ディランとビートルズが夏の楽天主義と地平線の彼方に吹き飛ばしてしまっていた。

(略)

ニューポートでのディランに、大きな期待が集まっていた。

(略)

ブルージーンズにワークシャツでハメルンの笛吹きとなるべく大勢を引き連れてフェスティヴァルにやって来た64年とは違い、65年のディランはまるでお忍びといった感じでやって来た。(略)

ニューワース、クーパー、ディランの(略)3人ともブルージーンズではなく、思い出せないような変わったズボンをはいていた。そして、全員がサングラスをかけていた。全体のイメージが何もかも違っていた。彼らはとても排他的で秘密主義だった。

 すべての出演者は、昼間、本会場の周りに何か所か設置されたワークショップと呼ばれる小さなステージで短い演奏をすることになっていた。当然、ディランもソングライターズ・ワークショップで歌うことになっていた。他にもブルース、ブルーグラスバンジョー、カントリー・フィドルといったワークショップがあり、同じ時間にそれぞれの場所で演奏が行われた。そして、昨年、一昨年ともそれぞれのワークショップに観客が適当に分散していた。ところが、65年はソングライターズ・ワークショップに観客がどっと押し寄せ、他のワークショップを圧倒してしまった。その結果、みんなが文句を言いはじめた。「ディランが出演するソングライターズ・ワークショップを中止にしろ。でないと、隣のバンジョー・ワークショプの連中が怒鳴りこんでくるぞ!」(略)

運営委員会の幹部たちは次第に緊張しはじめた。

(略)

彼らはマリファナを吸う連中などに対して、パラノイアのようにまったく否定的だった。そして、すべてに対してとても神経質になっていた。そして、ディランの登場、彼の態度、そしてワークショップで彼が歌った歌など、すべてが彼らの不安を増大させた。

 ディランのマネージャーのアルバートグロスマンは彼らの敵意の的となっていた。彼は幹部連中の間ではまったく人気がなかった。(略)

グロスマンはとてもクールな男で、そのクールさがよけいに人々をいらだたせていた。

 そして、その日の最後のブルース・ワークショップでついに事件が起きた。ピーター・ヤーローは以前からポール・バターフィールド・バンドをフェスティヴァルの出演者に加えるように働きかけていた。(略)

しかし、委員会の中のロマックスは、明らかにバターフィールド・ブルース・バンドの出演に抵抗を示していた。彼は白人がブルースを演奏すること自体に反対を示していた。(略)

何か彼らの望まないものが盛り上がってきており、それが自分たちの利害に反するものだということはわかっていた。

(略)

 バターフィールド・ブルース・バンドのクールさ、ヒップさ、白人若造がサングラスをかけたギャングのような恰好は、明らかに彼らが嫌っていた風潮を作り上げている要素の一部だった。そして、ブルース・ワークショップで彼らを紹介する立場に立たされたロマックスが非常に恩きせがましい言い方で彼らを紹介した。(略)

ロマックスは、グロスマンと口論となった。(略)

大柄なふたりの男が泥の中を転がりながら殴り合いをはじめた。

(略)

[ロマックスは緊急の委員会を招集しグロスマン追放を決定]

理由は、グロスマンが出演者にドラッグを渡していること、アラン・ロマックスを殴ったこと、その他にも周囲にとても悪い影響を振り撒いているというものだった。

(略)

投票権を持たない相談役だったジョージ・ウェインが、ここで口をはさんだ。「(略)もし、グロスマンを追い出すというのなら、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリー、バフィ・セントメリーも会場からいなくなってもいいという覚悟はできているんでしょうね」と。

(略)

[委員たちは]結局グロスマンの締め出しを諦めたが、もちろん腹の虫はおさまらなかった。

(略)

ディランがこれまでの彼を超える何かをやろうとしているのはわかっていた。噂ではディランはホテルで秘密のリハーサルをしていたということだった。だからこそ、ディランもサウンドチェックが必要だったのだろう……

(略)

ディランはバターフィールド・バンドとキーボードのアル・クーパーと共にやってきた。ぼくたちはステージを彼らの望む通りにセッティングした。それはバターフィールドのセッティングと同じだった。そして、彼らは演奏をはじめた。もちろん、すごい!の一言だった。その場にいた誰もが、これは重大な瞬間だと思った。それは実にエキサイティングな演奏で、疑問の余地などまったくなかった。

(略)

私が「何曲やりますか?」と聞くと、バターフィールド、ブルームフィールド、ディランの3人は互いに顔を見合わせて「そうだなあ、3曲しか覚えてないから、その3曲をやろう」と言った。私が「でも、観客はもっと歌ってほしいと思いますが」と言うと、ディランは「ぼくたちがやれるのはそれで全部だ。だから、それだけしか歌わない」と答えた。彼はかなり不機嫌になっていた。

 とにかく、コンサートははじまった。(略)

〈Maggie's Farm〉の最初の音が掻き鳴らされた。現在の基準からすれば決して大きな音ではなかったが、当時の基準からすると、それまで誰も聴いたことのないような大音響だった。

 ヴォリューム。そう、ヴォリュームが問題だった。歌った歌が問題だったというだけではなく、また、ディランがエレクトリック・バンドと演奏したことが問題だったというだけでなく、実際は、あれは、そう、ヴォリュームがすべてをもたらし、あの伝説化した事件に発展したのだ。この事件全体の中で、私がひとつだけ重要だと思うことは、ミキシングにポール・ロスチャイルドを起用したことだ。彼を起用した結果、古臭い感覚のミキサーに台無しにされることなく、パワーあふれる、大胆なミックスで、本物のロックンロールを聴くことができたのだ。

(略)

ウォール・オブ・サウンドだ。わかるだろう。音が壁のように、観客にものすごいパワーで襲いかかった。本当に座席の背に叩きつけられるような感じだった。(略)

私は「これはすごい」と思いながら、もう夢中で聴いていた。

 するとその時、誰かにひじを引っ張られ「バックステージに行け。話があるってさ」と言われた。私がバックステージに行くと、そこにはシーガーとロマックスがいた。そしてセオドア・バイケルか誰かが叫んだ。「あの音は大きすぎる!もっと小さくしろ! めちゃめちゃに大きすぎる!あんなのは許せない、耐えがたい大きさだ!」と。彼らは明らかに気が動転していた。完全に慌てていた。「でも、私には音量を調節できません。ミキシングは観客席の中央でやってるんです」と言うと、ロマックスが「どうすればそこへ行けるんだ。教えろ。おれが行く!」と言い出した。

[のらりくらり話をかわしていると](略)

彼は「いいか、君が行け、君なら行ける、行き方を知ってるんだから。そこへ行って言うんだ。委員会がヴォリュームを下げることを命合したって」

 私は「OK」と言ってミキシングの場所に行った。(略)その時点では確か2曲目がはじまったところだった。グロスマンとニューワース、ヤーロー、ロスチャイルドはそろってサウンド・デスクの前に座って、にやにやしながら、完全に悦に入っていた。観客も興奮していた。

(略)

ある者はブーイングで、ある者は声をあげていた。どちらなのか、ほとんど区別できなかった。

(略)

私がロマックスのメッセージを伝えると、ピーター・ヤーローは「アラン・ロマックスに言ってくれ」と中指を突き出した。(略)「アランに、フェスティヴァルの委員会の意思は十分にサウンド・ミキシングに伝わっているし、われわれはすべてを完全にコントロールしながら進めている。そして、われわれはヴォリュームは正しいレベルにあると判断していると伝えてくれ」と言った。

 そこで私は再びフェンスを越えてバックステージに戻ったが、その時駐車場の方に向かって小さくなっていくピート・シーガーの背中が見えた。私はロマックスとバイケルに、口から泡を飛ばしながらヤーローの言葉を伝え、ふたりは罵り、歯ぎしりするだけだった。この頃にはほとんどステージは終わりかけていた。そしてヤーローが私の後からバックステージにやってきた。たぶん彼は事前にディランと話しをして、「3曲だけでステージを終わらせるわけにはいかない。後で、アコースティックで何曲かうたわなければならない」と打ち合わせ済みだったのだろう。

(略)

ヤーローがステージに上がろうとしていた時、彼らは急に演奏をやめた。

 すると、ものすごい叫声が観客の中から沸きおこった。(略)私は賛否両論に二分されていたように思った。(略)

ヤーローがステージに上がって、少し戸惑いながら(略)

観客に呼びかけた。「もういいだろう、みんな。ボブ・ディランを聴こうじゃないか。彼にもう一度ここに戻ってもらおうじゃないか!」と。しかし、ボブ・ディランはすでにバックステージにもいなかった。ディランはテントに隠れてしまっていた。(略)

ようやくディランはアコースティック・ギターを抱えてよろめくようにステージに戻り〈Mr. Tambourine Man〉を歌いはじめた。

 彼は2曲歌った。人々からは称賛と歓声が上がった。そして彼の後、サウスカロライナの島から来た黒人のゴスペル・シンガー、ザ・ムーヴィング・スター・シンガーズが堂々としたステージを見せ、小休憩となった。休想の後は(略)

擦り切れた、退屈な、古臭い、いわゆるフォークの、左翼的な、わかると思うが、ああいう歌が最後のピーター・ポール&マリーまで延々と続いた。

(略)

そしてすべてが終わった…(略)

あの事件が起こった時、道が分かれたのだ。 

NASHVILLE SKYLINE

NASHVILLE SKYLINE

  • アーティスト:DYLAN, BOB
  • 発売日: 2004/03/29
  • メディア: CD
 

ディランを撮る 

写真家エリオット・ランディの作品は、ザ・バンドの《The Band》、ヴァン・モリソンの《Moondance》、ボブ・ディランの《Nashville Skyline》のアルバムカバーで有名だ。(略)

 

《Nashville Skyline》の写真は4日間くらいで、たぶん違ったショットを2回に分けて撮ったと思う。(略)コンセプトが決まっていなかったので、ただシャッターを切った。それがうまくいった!(略)

彼は写真を撮られるのが不快な様子で、ぼくも彼を撮るのが不快で、互いにそれが作用し合っていた。それでもひたすら我慢強く作業を続けた結果、最高にすばらしい瞬間を撮ることができた。その時撮った一連の写真はどれも退屈で馬鹿みたいだったけど、あの写真だけは魔術のように際立っていた。

 あの写真を撮ったいきさつを教えてもらえますか。

 ある午後、ぼくは彼の家へ行き、家の前や裏で写真を撮り、その後ぶらぶらと歩き回っていたんだ。彼の家の裏に広がる森を抜けて歩いていると、ちょうど雨が振り出し、地面に水たまりができた。……それに《Nashville Skyline》で彼が着ているジャケットは、《Blonde On Blonde》と《John Wesley Harding》で着ていたものと同じで、彼が脱ごうとしている帽子も《John Wesley Harding》と同じものだった。彼がいつも持っていたかったちょっとしたお守りのようなものじゃないかなとぼくは想像した。

(略)

家を出る時彼が「この帽子を持っていこう、前のアルバムでもかぶっていたんだ」と言ってたから。その時彼がふと思いついてぼくに言った。「下から撮ってくれないか」と。ぼくが屈み込もうと地面を見ると(略)

ぬかるみが目に入ったが、気にもとめずに低い姿勢をとった。(略)これだと思うアングルを見つけた。その時、彼が「この帽子をかぶった方がいいと思うか?」とぼくに聞いた。ぼくは写真を撮り続けながら「わからない」と答えた。彼はクスリを飲んでいたので笑い続けていた。わかるだろう。だからまた、繰り返し「この間の抜けた帽子をかぶった方がいいかな?」と言った。だから、ぼくたちは帽子について冗談を言い合っているような感じだったんだ。

 私がこの写真を見た時、彼がハローと挨拶をしているように見えたのですが。

 あの写真は彼の自信に満ちた笑顔なんだ。とてもいい表情で、にこやかに笑って、彼の本能があふれている。ぼくたちは別に何も考えてはいなかった。ただおもしろがってただけなんだ。出来上がった写真を見ると、すごくいい写真だった。写真に写っている彼は実に愛すべき男で、そう写真全体に愛が輝いているようだった。興味深いことは、出来上がった一連の写真を見ながら、彼があの写真を選んだことだ。彼はあの写真を見た瞬間「これにしよう!」と言った。

(略)

ぼくは自分が有名になりそうだと初めてわかったのは、《Music From Big Pink》のアルバムでディランの名前の隣にぼくの名前が載ることを知った時だった。ディランがカバーの絵を描いて、ぼくの写真がジャケットの内側に使われるということだった。つまり、アルバムのクレジットに書かれたディランの名前をみんなが見るだろう、そしてその隣にはぼくの名前がクレジットされているんだと思った。しかし、ぼくたちの名前がよく似ていたので、アルファベットを入れ換えただけだったから、みんなぼくという人物は実在してなくて、ディランの変名だとおもってしまった!

 あなたは彼と彼の子供たちの写真も撮っていますね。(略)

 あれはまったく個人的な写真なんだ。(略)彼はウッドストックで初めて住んだ古いバードクリフの家から引っ越して、もっと大きな、日当たりのよい家を手にれた。そして、彼はぼくに自分の絵を写真に撮ってほしいと言ってきた。(略)

彼から撮影を頼まれない限り、彼の家にカメラを持って行くことはなかった。ぼくは彼に撮影を押しつけはしなかった。(略)

いつも彼の要請で撮影していた。ぼくは人物写真を撮るのが恥ずかしかった。彼らのプライヴァシーに干渉したくはなかった。(略)

彼はカメラに興味を持っていたけれど、あまりうまくはなかった。でも彼は画家としては実にすばらしかった。本当に、また、優れた彫刻家でもあった。

(略)

[《Music From Big Pink》、ジャケ写ではたいしたことないが]オリジナルには肝をつぶしたよ。(略)《Self Portrait》のジャケットのオリジナルもそうだった。彼の画家としての腕は見事で、ヴァン・ゴッホに似ていた。同じような筆のタッチだった。

次回に続く。

ボブ・ディラン 指名手配 その2

 前回の続き。

 

 

回想  『ドント・ルック・バック』

 D・A・ペネンベイカーは著名なドキュメンタリー映画作家のひとりだ。彼は1965年にボブ・ディランのイギリス・ツアーを自ら制作した映画『ドント・ルック・バック』に収め、1966年にはディランが制作した映画『イート・ザ・ドキュメント』のためにヨーロッパ・ツアーのボブを撮影している。

(略)

[『ドント・ルック・バック』製作のきっかけは?]

 アルバートグロスマンとディランは、サラがライフ誌でぼくたちといっしょに働いていた関係で、ぼくたちにアプローチをしてきたのだ。(略)

ぼくは資金の問題が持ち上がってくるとは思わなかった。彼はおそらく、ぼくたちのサイドでディランの映画製作費用を集められると踏んでいたらしい。ぼくたちも最初はできると思っていた。だからコロンビア・レコーズに行って「資金を用立てる用意はあるのかい?」と尋ねた時、「発売予定のディランのレコードが2枚ほどある。それを担当する男に会わせよう」と言われたのには多少驚いた。下の階に連れて行かれて担当者に会い、ぼくは「この映画で儲けようと思っているわけではない。でも、経費――イギリス往復費用――だけでも払ってもらえれば、フィルムとその他一切を用立てて映画を完成させる。映画が完成すれば最終的には経費も賄えるだろう。5000ドル出してくれれば映画の権利の半分を提供してもいい」と説明した。しかし、彼らの答えはノーだった。

 なかなか売るのが大変だとわかったぼくは、『60 Minutes』というTV番組を制作しようとしていた友人に声をかけた。アイク・クライネーマンというその友人は「わかった、(フィルムの)何フィートかぼくが買おう、500ドルか600ドル分。もしいいものだったらな」と言った。ぼくは「それはいい」と答えたが、ここでも映画を売るのは容易じゃないことを思いしらされた。そしてその次も、ぼくらのフィルムはどれも簡単には売れなかった。

 

 それであなたがすべての製作費用を負担したのですか?

 

 映画にかかった費用はすべてぼくたちが用立てた。アルバートグロスマンはまったく出さなかった。

(略)

最初に入ってくるだろう10万ドルくらいから埋め合わせればいいという考えで、映画制作の契約を決めた。何かの紙切れ、たしかどこかのメニューの下に書いて、握手をして終わったんだ。正式な交渉の場はなかったと思う。ディランとぼくは握手をして、それだけだった。

 後でこの映画が劇場公開するとわかった時、グロスマンは劇場公開されるとはまったく考えてなかったようだった。大金を手に入れられるかもしもれないと考えていた彼は、別にワーナー映画にディランの映画を作らせようと思っていたらしいんだが、ディランはそれを望んでいなかったようだった。とにかく、グロスマンはぼくのフィルムを正式な映画として考えてなかったようだ。正式な映画と考えるにはあまりにもひどいホーム・ムービー的だと考えていたんだ。しかし、映画公開のポスターを見た彼は不満そうな顔で事務所に入ってきて「あれはすばらしいポスターだが、何をやろうというんだ?」と言った。ぼくは「ああ、アルバート、もちろん公開するんだ。了解済みのことだし、パートナーじゃないか。今さらやめろと言っても無理だよ」と答えた。すると彼は「ああ、でもきみが自分で公開するとは考えていなかった。ぼくに配給させてくれるものと思っていた」と言うんだ。ぼくは「それはできないよ」と言い返した。グロスマンは、『ドント・ルック・バック』がディランをつぶしてしまうと感じたんだろう。

 

 ディランが映画を撮ろうと思った動機は何だったと思いますか?

 

 ぼくにはわからない。それにそんなことを探っても何の意味もないと思う。ジェーン・フォンダケネディといった連中がぼくにフィルムを撮らせたのは、画像の中に何かおもしろいものが見つかると思ったからだろう。ディランも同じじゃないかな。彼は、ぼくたちの映画を2本ほど見ていて、それが他とは違って、一風変わっているってことを少し知っていたんだ。(略)

彼は何もかも新しい方法でやりたかったんだ。

(略)

それに(略)この映画はそんなに金がかからないと判断したのだろう。実際、彼は何の負担もしなくてよかったんだから。さらに、グロスマンがディランにこの映画製作の契約をすれば、フィルムの一部を海外での宣伝に使えると説明したのだと思う。

(略)

歌詞を書いたプラカードを持って撮影した場面は、〈Subterranean Homesick Blues〉のテレビ・プロモーション用だった。プラカードを持つことはディランのアイデアで、ロンドン滞在中に3回撮り直した。最初は公園で、次は屋上で、最後はサヴォイ・ホテルの裏通りで撮影した。最近そこを訪れたが、そこは依然としてうす汚い通りで、まだあの時と同じ足場も残っていた!とにかく、公園で撮影した時は、撮影の途中で逮捕されたんだ。フィルムにも、ちょうどディランが最後のカードを掲げようとしていた時に警官がやってきて捕えられたのが映っている

(略)

プラカードを書くのはみんなが手伝ってくれた。ジョーン・バエズも書いてくれたし、ドノヴァンは何枚も書いてくれた。ドノヴァンは画家としての才能もあると思わないか?

(略)

最後のシーンは、ぼくにとっては信じられないほど完璧なシーンのひとつだ。ミスなんか許されない瞬間だった。現場にいて、周囲の動いているすべてのものを撮らなけりゃならない。どうしてとか、どうやってなんて考えもしないで、ただ撮るだけだ。すべて自分だけの責任だった。あの最後のシーンは、アルバート・ホールに向かうタクシーの中でフレッドがもうひとりのフォークシンガー、ドノヴァンについて話し始めた時だ。ボブが「彼のやってることはどうなんだい?」と尋ねると、フレッドはドノヴァンをこき下ろした。しかしディランは一言も言わず、ただ窓の外を見ているだけだった。

 いいだろう!実にいい!たった1ショットだけだけどね。何も編集をする必要などないんだ。それがすべてを語ってくれている。ああいうのがぼくにとってドキュメンタリー・フィルムを撮影している時の最高の瞬間なんだ。

(略)

 

 アルバートグロスマンがティト・バーンズと交渉しているシーンは、彼らの仕事の現場がよくわかりますね。

 

 ふたりともそんな風には思っていない!しばらく後にアルバートは、クラブなんかであのシーンの彼がいかに下品に見えるかと女の子たちに言い寄られてもうこりごりだと言ってたよ。(略)一方、ティトはぼくに手紙をくれて、「1分間もアルバートといっしょに写ってた」自分が映画スターみたいに思えたって書いてよこした。役者に演技させても、なかなかあれ以上愉快に演じられないだろう。

(略)

 

 映画全体で、ディランがカメラを直視したのはただ1回だと思うのですが……

 

 みんなでホテルマンを部屋から追い出すところかい?

 

 ええ、アシスタントに、にやけたマネージャーのところへ行けと言ってる場面です。

 

 にやけたマネージャーね、そいつはいい!実際はもう一か所あるんだ。ディランがアラン・プライスとプレイしてるときだ。ディランがアニマルズとこれからもプレイするのかとアランに聞いた場面だ。アランが「いや、あれはたまたまだったんだ」と答えると、ディランはブルースのコードを弾き始めた。その直後、ディランはぼくが撮影しているのを怒ったような目で見たんだ。でもぼくは少しもかまわなかった。彼の視線をまともにとらえた場面のひとつだった。そして彼は視線をそらした。でもディランが時折見せる不快な表情をとらえたと思う。

ドノヴァン

 映画の中でドノヴァンを待っていた時の緊張は、あれは本物だったのですか?

 

 ああ、ドノヴァンが何者かぼくたちは知らなかった。ディランがしかけた冗談のひとつだったんだ。アルバートグロスマンは「今やビートルズは終わり、代わって新しいフォークシンガーが登場した。ドノヴァンだ!」と言ってたからね。

(略)

 ドノヴァンがドアをノックして入ってきた。彼はまだ少年だった。ぼくたち3人はテーブルを囲んでたんだけど、誰がディランかわからない。それで彼はにが笑いした。

(略)

[あなたに聴いてもらいたくて作ってきたとドノヴァンが歌い出した歌がモロ〈Mr. Tambourine Man〉のメロディーで、2番の途中でディランが笑いだしてしまう]

「まあ、そのメロディーは……確かに、ぼくのクレジットになっているメロディー全部をぼくが書いたわけじゃないが、でもそのメロディーはぼくが本当に書いたんだ!」と。するとドノヴァンはびっくりして言った。「えっ、知らなかった! 古いフォークソングだと思っていました!」と。ディランは「続けて、いいよ続けてくれ!」と言ったけれど、さすがにドノヴァンは「いいえ、とんでもない。これ以上歌えません」とその曲を止めた。彼は二度とあの曲を歌わなかったとぼくは思う。

ジョーン・バエズ

 当時のジョーン・バエズとの関係についてお聞きしてもいいですか?バエズ自身のコメントとして、彼女はとても疎外されていて、ディランからもひどい対応をされたと言っていますし、それに映画の中でも、例えばディランとニューワースがシースルーのブラウスを着ている彼女を、そんなもの着るもんじゃないってからかっていますよね。本当に悪意があったわけでもないでしょうが……

 

(略)

かつてナンバー・ワンかナンバー・ツーだった者が4番目か5番目にランクダウンしたとしたら、それは大きな衝撃だろう。つまりそういうことだったんだ。ディランには別の女がいた。サラという女がね。バエズはそれを知ってたんだ。その時期は、彼女の人生にとって苦しい時だったと思う。なぜだかわからないけれど、おそらく感情的に彼女は自分の人生がめちゃめちゃにされたように思っていたんだろう。本当のところ、ディランは彼女をツアーに招かなかったはずなんだが、グロスマンに「いっしょに来れば」と言われてやってきた彼女は、自分が招かざる客であったことに気づいたんだ。それで彼女は傷ついたのさ、つまり、もはや女王様じゃなくなったんだってね。バエズはディランと連れ立っていたかったけど、ディランはかかわりたくないと思ったんだけど、彼女もそれを察していたはずさ。そのことはバエズも気がついたと思う。でもやはり、あの場にいたかったんだろう。なぜって彼女はディランを愛していたからね。それに彼の音楽が彼女にはとてもエキサイティングだったのさ。その時のディランの音楽じゃなくて、これから彼がやろうとしている音楽がね。彼女はきっとそれをわかってたんだろう。彼はすべての古いものから抜け出しそうとしていた。それは彼女もやりたかったことだった。彼女は非常にロックンロールのアルバムをやりたがっていた。ぼくは彼女には同情してたんだ。彼女が好きだったからね。その後、彼女と映画を作ろうとしたけど、誰も興味を示してくれなかった。

 

 私はディランがジョーン・バエズといっしょにホテルの部屋で、ハンク・ウィリアムズの歌を歌っているシーンが好きなんですが、その夜彼はどれくらい歌っていたか覚えていますか?

 

 ああ、かなり歌ったよ。フィルムも相当撮ったんだ。バエズと彼はすごくいいデュエットをやったんだ。それを使おうと思ったんだけど、少し長すぎてね。「いいニュースはゆっくり伝わり、悪いニュースは山火事のように広まる」という歌を知ってるかい? すばらしい歌だったよ。ふたりはそれをいっしょに歌ったんだ。

 

 もしやここに、そのフィルムはありませんよね?

 

 たぶんあるんじゃないかな。ディランも見たし、みんな積み上げてあるよ。もし許可が得られたら喜んで見せてあげたいんだが。

アルバートグロスマン

 アルバートグロスマンは、ずっとぼくのいい友人のひとりで、ぼくはずっとそう思ってるんだ。だから彼が亡くなる数か月前まで、よく彼とを話していた。アルバートがある意味で敵だとかそんなことは思ったこともないし、アルバートとボブの関係が次第に敵対関係になっていたのは知っていたけどね。あれは最悪だった。アルバートはディランの素質をごく初期の頃から見抜いていた数少ない人間のひとりだったし、曖昧な言葉でごまかしたり、変に妥協もしたりせずに、彼とつきあっていた。彼はディランを古臭いテレビのショウ番組に出すことも、コロンビア・レコーズが他のアーティストたちにさせているようなくだらないこともさせなかった。ぼくは、ディラン自身も初期の頃はアルバートのように守ってくれる人が必要だったと思う。そうしなければ、ディランもわき道にそれてしまったかもしれない。まあ、アルバートがいなくても(略)おそらく最終的には有名になったと思うけど。つまり、われわれが知っているような売出し方法ではなく、ディランは自分自身の力で、ディランと同じ立場にいる者がこれまでほとんどできなかったこと、自分を失わずに生き残ることを成し遂げたのだ。

サラについて

彼女はいつも隠れていたいと考えているタイプの女性だった。実際には、彼女とサリー・グロスマンは友だちで、ヴィレッジでいっしょの部屋に住んでいた。それ以前のサラは一時期バニーガールをしていて、ヴィクター・ラウンズと暮らしていた。つまり、彼女はサラ・ラウンズという名前だった。しかし、ディランが彼女を彼からいわば奪ったというわけだ。彼女はとても美しい女性で、目を見張るほどの美人だった。性格はすごく変わっていて、健康食品に凝っていたりして、何か神秘的な生活をしていた。

(略)

サラは見た目はそんな感じだったけれど、内面はとても興味を引かれる女性だった。かなりの間、彼女はぼくたちの仲間に入って雑誌の仕事をしていた。ぼくたちはライフ誌の仕事をしていた。ぼくはダウンタウンにスタジオを持っていて、彼女はアップタウンにある事務所を担当していた。だから1963年の仕事はすべて彼女とぼくがこなしたんだ。それから彼女は仕事をやめ、妊娠して、子供を生んだ。ぼくがライフ誌の仕事を辞めた1964年7月まで彼女がいたかどうかは覚えていない。ぼくは個人的に彼女を雇おうとしたんだ。彼女もライフ誌の仕事を辞めたがっていたから。でもぼくにはその余裕がなかった。それで彼女はいなくなり、ヴィレッジのいわゆる神秘的な人たちの中に入ってしまった。時折会うことはあったけどもう久しく彼女とは会ってない。しかし、彼女はぼくが『ドント・ルック・バック』を最初に見せたひとりだった。その後、本当に長い間会ってない。 

ディランとウォーホル

 ジェラルド・マランガは、60年代中頃のアンディ・ウォーホルのファクトリーにおいて中心的な役割を果たしていた人物だ。

(略)

 イーディ・セジウィックはディランに興味があり、ディランもイーディに関心を示していた。

(略)
彼女は新しいボーイフレンドのディランのために、ボーイフレンドだったアンディと別れたのではない。そういうことではなかった。彼女はとても美人で独自の個性を持っていたが、結局ディランとはいっしょになれなかった。基本的に彼女には才能がなかった。彼女はボブと一緒にレコーディングすることを夢見ていたが、イーディはとてもそんな声ではなく、歌えなかった。彼女はただ何か別の興奮するような出来事を求めていただけだった。彼女とアンディの仲が終わったのは、アンディが彼女に金を与えなかったからだ。

(略)

彼女は自分にはより良い世界があるはずだと考え、また、彼女とディランの間の主なコネクションであったボビー・ニューワースにも励まされて、アンディの元を去った。その後、もちろんディランとの仲も共演も実現せず、結局彼女はボビー・ニューワースのガールフレンドになった。

(略)

 

 イーディとドラッグのことはどうでしょう?

 

 ひどい話だ。イーディ・セジウィックの伝記が出版された時、アンディは気が狂いそうだった。本当にうんざりしていた。イーディがウォーホルにかかわっていた期間、イーディは強いドラッグを常用していなかったし、アンディも同様だった。(略)

ディランとかかわるようになってから、イーディは次々と強いドラッグをやるようになり麻薬に溺れていったのだ。

(略)

 

ディランのスクリーン・テストはどういうふうに行われたのですか?

(略)

15分か20分くらいの間だった。(略)

3分間、動かずに黙っていただけで、フィルムにすると100フィートだった。ディランはたばこを吸っていた。撮影はボーレックスのカメラで、ディランはサングラスをかけたままカメラを見つめていた。(略)

フィルムは近代美術館 (MOMA)の目録に載っている。私は同じ日に撮影したディランの白黒フィルムの他にカラーフィルムも持っている。メモ用に撮ったフィルムだ。

(略)

 

 シルバー・エルヴィスの絵は、ディランがスクリーン・テストに応じた報酬だったのですか?

 

 ディランは以前からあの絵が欲しいと言っていた。アンディは少し迷っていたが、あの絵をディランに贈った。おそらく自分の映画に、これもおそらくイーディの相手役として出て欲しいという希望があったからだろう。しかし、もちろん実現しなかった。私はアンディの性格をよく知っていたし、アンディが自分のアートにとても執着する人間だったことを考えると、あの絵をディランに贈ったことはつらかったと思う。

(略)

ボビーとボブがあの絵をステーションワゴンの屋根にくくりつけているのを目撃したんだ。ビニールで包んであったが、絵の上にロープをかけていた。絵がそんなふうに扱われているのを見た時は妙な気分だった。あの絵をあんな風に扱ったのはおそらくディランだけだろう。アンディもまさかディランがあんな風に扱うとは思ってもいなかった。何て言えばいいのか、つまりディランの態度はかなりずうずうしいものだった。

 次回に続く。