ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法 冨田恵一

詞と曲は同時に

フェイゲンは言う。「いつも、詞と曲は同時に作らなきゃいけないと思っていたし、少なくとも、どんな詞にするかのアイディアくらいはないといけないと思ってた。だからボクらの詞は、いつもなんらかの形で曲に合わせてあった」「曲が先にできていて、しかるべき歌詞を書く場合も、先に歌詞があって、曲をつける場合もある」「ウォルターとぼくで歌詞を書いていて、なんらかの効果がほしくなったら、僕はその内容を強調する手を考えるし、逆に、歌詞のカウンターをねらうこともある」「作品になりそうなテーマがまず決まって、そのテーマに沿って歌詞が出来上がる場合もあるし、曲と言葉を同時に作っていくこともある。ただ基本的には歌詞を先に書き上げてから、曲作りに入る方がうまくいくことが多いね。というか、クオリティの高い楽曲を歌詞なしで作り上げるのは難しいと思うんだ」

ゲイリー・カッツ

[以下、SD=スティーリー・ダン]

端的に言えばカッツはA&R=ディレクター的義務を負っていたと考えられ(略)

[音楽的にはSDのセルフ・プロデュースであり]

では、なぜカッツがプロデューサーなのだろうか?

(略)

カッツの役割についていくつか証言がある。まずはミュージシャンの選定である。 《Nightfly》 に関するインタヴューでフェイゲンは「どのミュージシャンを使うかは、曲を書きあげた後でゲイリーとふたりで相談の上決める」と述べている。 またジェフ・ポーカロは「ゲイリー・カッツだったらアーティストを本当に知り抜いていて、その人のために働く。 その人の音楽と、いろんなミュージシャンを知っているから、そのセッションにぴったりのミュージシャンが誰だかすぐわかる」と述べ、カッツの仕事ぶりを賞賛している。

(略)

 また「ベッカーとフェイゲンがミュージシャンの働きに満足しない時、彼らはゲイリー・カッツに嫌な役を頼んだ。そういうときはたいてい休憩をとって近くのレストランにカッツを呼び出し、そのミュージシャンに対するそっけない評価を述べた後、自分たちがスタジオに戻る前に引き取らせておいてほしいと頼んだ」ということらしい。

(略)

 またパラノイアックなアーティスト(もちろんSDもだ)を担当する場合に、A&Rが最も望まれる仕事をカッツもこなしている。

「自分もベッカーもシャイでプレイヤーたちに話し掛けることが苦手だったので、カッツが代わりに世間話をしてミュージシャンたちの気持ちを和ませてくれてた」とフェイゲンは語っている。

(略)

カッツは「僕らはスティーリー・ダンのセッションをコマーシャル録りのような気楽な雰囲気にしようとしていた」と述べている

(略)

[《Meanwhile》で]10ccのふたり、エリック・スチュアートとグレアム・グールドマンは「スティーリー・ダンやフェイゲンのソロ作での素晴らしいプロデュース・ワークの再現を期待してカッツを呼んだ」らしいが[当てが外れ](略)

彼らは「あまり音楽的な人じゃない」「ほとんど何もしてくれない」と続けるが、カッ・タイプのプロデューサーが格段音楽的である必要もなく、何もしないことが《Meanwhile》制作現場ではベストだと判断したのではないか。ポーカロはこうも言っている。「(カッツは)レコード作りも、いくつもある方法の中からその人に合うものを選ぶ」。アーティストが自らをコントロールの中枢に置きたがるタイプ(スチュアートもこのタイプに分類される)の場合は、それに適したやり方があり、もちろんその場合にプロデューサーが前面に出ては、制作は軋轢ばかりで進行しない。 《Meanwhile》での何もしないに近いスタンスは正しい選択だ。とは言っても、参加ミュージシャンは一部のイギリス勢を除き、カッツのファースト・コール人脈で固められているから、やるべき仕事は適切になされているのだ。そしてカッツであれば、10ccふたりが望むサウンドを自分たちのみでなく、第三者の補助に求めていると知った時点で、的確なアレンジャーをブッキングするのも難しいことではなかったはずだ。 しかし10ccは(略)素直にカッツに相談[せず](略)カッツからもどんどんアイディアが被せられ〝共同で編曲していくようなタイプのプロデューサー〟をイメージしたまま、作業を続けていったのだと推測できる。

(略)

 一方で、「スティーリー・ダンは、フェイゲンとベッカー、そしてプロデュースのゲイリー・カッツによるユニット」(略)「私の言うスティーリー・ダンドナルド・フェイゲンウォルター・ベッカー、ゲイリー・カッツの3人を指します」といったように、カッツをSDサウンドに欠かせない存在であると評する発言も散見される。

ロジャー・ニコルズ

 SD=フェイゲン作品におけるエンジニアと言えば慣例のようにロジャー・ニコルズが挙げられるが、一般的にミキシング・エンジニアが話題にされるのとは違い、 ニコルズは特殊な立場にある。(略)

《Nightfly》でミックスを担当したのはエリオット・シャイナーであり、トラッキング(録音)もシャイナー、オーヴァーダブ・エンジニアとしてはダニエル・レイザラスがクレジットされている。(略)

[しかし]チーフ・エンジニアとしてロジャー・ニコルズが先頭にクレジットされているのだ。他の録音作品ではほとんど見かけないクレジット方法である。ロジャー・ニコルズに関するこの例外的な肩書きはSD後期から見られる。《Royal Scam》まではわかりやすくエンジニア、ミックス・ダウン・エンジニアとしてクレジットされているが、《Aja》《Gaucho》ではエグゼクティヴ・エンジニア(略)

[《Aja》の]ミックスはニューヨークのA&Rスタジオで行なわれ、「そこにいるエンジニアのエリオット・シャイナーが好きだったから「ペグ」を除いて全曲をそこでミックスしたんだ」とのフェイゲンの発言から、やはり《Aja》でもミックスはシャイナー中心だったことがわかる。

(略)

 ロジャー・ニコルズは70年にABCスタジオのハウス・エンジニアとしてキャリアをスタートさせた。SDふたりがまだ専属ライターだった頃、他アーティスト用のデモ作りの作業をニコルズとともにし、親しくなったようだ。 そしてファースト・アルバム 《Can'tBy A Thrill》の録音に際してはSDふたりがニコルズを希望し、ニコルズのスケジュールが開くのを待って録音を始めたほど、信頼をよせていた。

(略)

 ニコルズのミックスはハイファイでバランスがよく、フラットな印象だ。 (略)

ニコルズは新しいテクノロジーに対してかなり貪欲なのだ。(略)レコーディング・エンジニアのそれを遥かに超え、コンピューターのプログラムを書き、サンプラーを制作するに至る。それが本書にて頻出する Wendel(Ⅰ、Ⅱ)だ。

 

 一方のエリオット・シャイナーは67年にフィル・ラモーンのアシスタントとしてキャリアをスタートさせる。SD史のみを見ると、シャイナーをニコルズのアシスタント的立場と認識してしまうが、キャリアはほぼ同等かシャイナーの方が長い。

(略)

ニコルズに比べてよりグルーヴ構築に長けている印象がある。「もともとがドラマーからスタートした私にとって、ドラムスの音色がどうあるかは常に重要な課題でした。ドラムスの音色によって、レコードの持つ色彩感が決まると思えるからです」とシャイナーは言う。

(略)

フェイゲンは《Aja》について「僕たちが参考にしていたのはロック・サウンドじゃなくて、ルディ・ヴァン・ゲルダーがやっていた五十年代のサウンド。つまり五十年代に彼が手掛けていた一連のプレスティージ・レーベルの音さ」と語っている。(略)その質感とサウンド構築にはニコルズよりもシャイナーが適任であり、その後の作品でもミックスの大部分はシャイナーが担当する。

(略)

一貫してニコルズがエグゼクティヴ、チーフと冠せられ、エンジニアリングの中心であることを表記され続けた理由は何か?

(略)

「彼の音楽への興味は、病的なほどにレコードの雑音を憎むところから始まっていた。スタジオで働けば、音楽が完全な音として聴こえる秒速15インチの2トラックのテープ・コピーを持ち帰ることができる。彼の目的はそれだったのだ」との記述もある。

(略)

 あくまでもハイファイを目的とし、自らの音楽性を付加することのないニコルズは、SDとの相性という点でベストだったに違いない。

(略)

ニコルズはエンジニアというよりも、"オーディオ・コンサルティングを担当するSDのメンバー"といった存在になったのではないか。

(略)

 2000年の《Two Against Nature》リリースに関したインタヴューでニコルズは、SDのレコーディングが長期間に及ぶため混乱してしまうと言い、「それならばエリオットにつまみを操作してもらい、こっちはゆったりと曲の流れを思い出しながら、またドナルドとウォルターがどういったものを好むか、考えながら聴く方がずっといい」と述べている。 これは 《Aja》以降のニコルズのスタンスを端的に述べた発言だ。

(略)

《Gaucho》では辛うじてオーヴァーダブにクレジットがあるが、《Nightfly》ではトラッキングにもオーヴァーダブにもニコルズの名前はない。これは Wendel II の開発と、セッション中もその取り扱いに集中していたからであろう。

(略)

ニコルズがシャイナーやシュミット等を採用した理由に、彼らに共通するエンジニアリングの方向、クオリティがある。ニコルズはシャイナーの録った音は自分が録ったかのように感じると述べ、「私はイコライジングは嫌いです」と述べている。シュミットは「私がレコーディングをする時は、ベストの状態を録音し、なるべくEQを使いません」と言い、シュネイは「コントロール・ルーム側ですべてを解決しようとせず、まずスタジオ側にできることはないかを考えてみることが重要です」と言うのだ。

 トラッキングに関しての彼らの発言に共通しているのは、巧い演奏者が奏するよい音のする楽器を、よい音のする場所に配置、適切で最もよい音が録れるマイクを、最もよい音がする場所に立てて適切なレベルで録音しろ、ということである。

空白の10年

[80年代後半、MV全盛の音楽界に苦言を呈し、インタヴュアーに「驚くくらいの正統派なんだね」と言われた際、フェイゲンはこう答えた]

「ボクの姿勢は、エンターテイメント的な価値もあり、かつ中身もある音楽を作る必要性と関わっているように思えるんだな。ボクはいつもこう思ってたんだ。つまり、スティーリー・ダンの曲はその両方を組み合わせようとしていて、ボクたちはそういった視点でやっていた。そして、それはリスナーとの共同作業であった、とね。みんな自分の想像力を働かせなきゃいけなかったんだ。だから、君の言う通りさ。ボクは全くの正統派」

(略)

フェイゲンの音楽のように複雑な表現や技術を必要とし、かつエモーションで連続性を保つ構造ではなおさらである。しかもそれをオーヴァーダビングで制作するのだから、熟達と充分なエネルギーを発揮できるコンディション(環境、精神的、肉体的な状態や年齢)の足並みが揃うことが重要になる。その点でも、 そして 《Nightfly》のコンセプトを表現するという点でも、制作時のフェイゲンはギリギリでその範囲内にいたようだ。

「アルバムの最終ミックスを行っていた時、僕はおかしな気分に襲われた。そしてその気分はさらに異様な気分へと変わっていったが、それは仕事や愛や過去や死すべき運命といったことによるものだった。僕が次にアルバムを完成させたのは1993年になってからだった。なので、これは誰にでも起こることだが、僕の中から若者らしさが消えてしまう前に『ナイトフライ』を作っておいて良かったと思う」

 空白の10年に関して、後にフェイゲンはミドルエイジ・クライシスとの関係を語り、その原因は80年代のムードと密接な関係があったことも語っている。80年代という時代が疲弊したフェイゲンにとってさらなる重荷になっていたことは想像に難くない。

 

サウンド・マン ロック名盤の誕生秘話 その4

前回の続き。

重ね録りの弊害

 それから20年の間に建てられたスタジオは例外なく、ミュージシャンおよびその楽器を他と完全に分離するデザインを取り入れていた。そしてこれが、数を増す一方のトラックにオーヴァーダブを行なえる能力と併せて、重ね録りという慣例を生む種になった。つまり、ひとつずつばらばらに録っていくやり方だ。かつてはスタジオといえば既存の建物を改築したものばかりで、各部屋の音響はそれぞれのエンジニアが現場で試行錯誤の末に生み出したものだった。これに対し、新手のデザイナーたちはエンジニアを介して完璧な音響環境を創り出した気でいたのだろうが、結果的に性格も個性もない部屋ばかりに、音楽性とは無縁のところばかりになってしまった。すべてを一時に録るしかなかった時代に始めた者として、わたしはミュージシャン同士が演奏する際の相互作用の重要性を忘れたことがない。これはごく微妙なこともあるし、基本的にはそばで他人が奏でているものに対する意識下での感情的反応でしかないのだが、そのミュージシャンはこの時、自らのプレイで他者に同様の影響を与えてもいる。しかし、既存のトラックに自身のパートをオーヴァーダブする場合、こうした相互的反応は起こりえない。後から演奏を加えるミュージシャンは、自分が重ねているものから影響を受けるだけだ。録音機材は本来、楽曲の演奏を捉えることを意図して作られたものだった。だが今や、機材が音楽の作り方と演奏のされ方に影響を及ぼしている。

ピート・タウンゼント『ライフハウス』

 1971年1月、LAから帰国してみると、ピート・タウンゼントから手紙が届いていた。彼が考えている次のプロジェクト、『ライフハウス』と題する映画およびサントラ盤の制作に、もし良ければ手を貸してくれないだろうか、と書いてあった。(略)

 この招待状をどれだけ待ちわびていたことか。彼らのことは、まだザ・ハイ・ナンバーズと称していた最初期から知っていた。 わたしのバンド、ザ・プレジデンツと同じクラブによく出ていたし、時に一緒になることもあった。結果、両バンドが互いを認め合う関係が築かれ、わたしはピートと友好関係を築いた。だから数年後、彼らがザ・フーとして、革新的サウンドを携えてシェル・タルミーと共にIBCに現われ、わたしがエンジニア役を任されたときの驚きと喜びはご想像が付くと思う。

(略)

わたしは正直に、台本に書かれている物語が自分には理解できないと白状した。続いていかにも決まり悪そうに、ひとりまたひとりと、部屋にいた全員が同じことを口にした。

(略)

話し合いの末、その映画はバンドの食指を動かすものではないことが判明し、企画をボツにし、アルバムに専念するということで決まった。映画があろうがなかろうが、どの案も曲として独り立ちできると思われたからだ。

 実際、ピートが送ってきたそのデモはどれも驚愕だった。そこらのデモとはものが違っていて、想像力を働かせる必要はないに等しかった。素晴らしい曲の数々。美しい録音に、凝ったアレンジ、そしてシンセサイザーの革新的使用を含む見事な楽器構成。彼がシンセサイザーをかくも効果的に使ったことは言うまでもなく、 この黎明期に早くもそれを巧みに組み込む術を見出していた事実には、いまだに感嘆させられる。ピートは自宅にスタジオを有しており、当時からすでに極めて優れたエンジニアだった。 ザ・フーと仕事をさせてもらった期間中、わたしは最初から最後までピートのデモを前にしておびえていた。オリジナルと同等かそれ以上のサウンドを作れと、常に挑まれている気がしてならなかったからだ。彼のデモ録音の構成要素をこっそり頂いては、バンドが演奏するトラックに使うこともしばしばだった。

『フーズ・ネクスト』

 この前年、1970年にストーンズは、ミック・ジャガーニューベリーに近い田舎に構える別荘でレコーディングを始めた。その頃にはストーンズ・トラックが完全に稼働できる状態になっており、わたしはそれを用いて、その大邸宅、通称スターグローヴズの広大なヴィクトリア様式の玄関ホールで、「スティッキー・フィンガーズ」に入ることになるトラックをいくつか録った。その後、ピート・タウンゼントと話をしていた際、そのセッションが順調に運んだ旨を伝えたところ、ならば「フーズ・ネクスト」のレコーディングはそこで始めようじゃないか、という話になった。

 初日、まずは“無法の世界”に取り組んだ。悪くない出だしだった。ピートの許しを得て、わたしは彼がくれたデモのシンセサイザー・トラックに手を加えて少々長過ぎた尺を縮め、録音に臨むバンドに向けて流した。彼らは非凡な技術力をもってそれと寸分違わぬ見事なパフォーマンスを繰り広げ、3人は頭から終わりまで一定のテンポを維持するシンセに微塵もずれることなく付いて行った。無論、ロジャー・ダルトリーの強力至極なヴォーカルもバンドが放つエネルギーにまったく引けを取っておらず、最後は驚愕の咆吼で全体を締めくくった。

 今でもこの胸に鮮明に残っている記憶がある。トラックの中で腰を下ろし、スピーカーから飛び出てくるものがわたしの髪に分け目をつくるなか、大量のアドレナリンが全身の血管を駆け巡っている感覚だ。長年この稼業を続けてきたが、まさしくぶっ飛んだことが何度かあり、そのたびにわたしは、今耳にしているものは、たんに商業的成功を超越するだけじゃない、大衆音楽の進化におけるひとつの道標になるに違いないと確信していたのだが、これもまたそんな記憶のひとつだ。

イーグルス

そのアーティストが自分に合うかどうかは最初の数小節を聴けばたいていわかり、合わない場合は演奏している残りの時間ずっと、相手をむっとさせることなく、可能な限り体よくお断わりするにはどう言ったらいいだろうかと、そればかり考えていた。だが往々にして、そういうバンドにはわたしの言葉を悪い方に取り、口汚く罵ってくる者がいるもので、結局こちらがどう言おうが、わたしにとっても残りのメンバーにとっても、まったくもってきまりの悪い状況に陥るのが常だった。からっぽの部屋の真ん中にぽつんと座り、自分ひとりだけのための演奏を、われはこの世のセンスを知り尽くした権威者なり、といった顔で聴かねばならない状況は、最悪と言う以外にない。

(略)

やったのはカヴァー集で、チャック・ベリーのロックンロール的なものばかり。(略)サウンドに特別光るものはなく、後に彼らを有名にするあの美しいヴォーカル・ハーモニーの印象もなかった。しかも、ステージでのたたずまいもこれといった個性に欠けていたし、ぎこちなさまで感じさせるものだったから、わたしは追いかける価値なしと確信し、ロンドンに戻った。

(略)

デヴィッド・ゲフィンは諦めることなく、君は最高の状況でイーグルスを見ていないからだ、と言って譲らなかった。デヴィッドにあまりにうるさく言われて、わたしは仕方なしにLAに戻り、バンドのリハーサルを見ることにしたわけだが、今となれば、彼のその粘りには感謝の言葉しかない。

 午前中いっぱい、ヴァレーのどこかのリハーサル場で過ごした。彼らが演奏したのはわたしがアスペンで聴いたのと同じ曲目で、結果も前回とまったく同じだった。ところが、昼食休憩を取ることにし、皆で建物を出ようかというときだった。誰かが言った、「ちょっと待った、めしの前にグリンにもう一曲、〝哀しみの我等〟だけ聴いてもらおうぜ」。それはランディ・マイズナーがリードを歌い、他の3人がハーモニーを付けるバラードだった。(略)

そのハーモニーは天からの贈り物だった。あまりのことに、わたしは唖然となった。4人とも優れたリード・シンガーで、それぞれがまったく異なる声を有していた。その四声が合わさると、この上なく美しいサウンドを創り出すのだった。

 昼食休憩は取らなかったと記憶している。その日の残りは、彼らが持ってきた素材の吟味に費やし、そうするうちにますます明らかになったのだが、彼らはわたしが当初与えた評価をはるかに凌ぐ、腕の立つミュージシャンの融合体だった。バーニーとグレンのギターの対比は清新で、ランディとドンが供するリズムは、4人全員が安心して腰を下ろしていられる、堅牢でなおかつ融通のきくものだった。

 わたしはすっかり改心し、彼らとアルバムを作れる期待感に胸を高鳴らせると同時に、バンドの潜在力をもっと早くに見て取れなかった自分の力不足を情けなく思っていた。

(略)

すぐさまイングランドに戻り、翌日にオリンピックでイーグルスとアルバム作りを始めた。

1973年、「ならず者」、「オン・ザ・ボーダー」

 リンダ・ロンシュタットがタイトル曲〝ならず者〟をカヴァーして特大ヒットをものにしたのだが、どういうわけか、イーグルス版はアルバムの一曲に甘んじたままだった、理由は神のみぞ知るだ。いや、暗い話ばかりではない、〝テキーラ・サンライズ〟と〝アウトロー・マン〟といういずれ劣らぬシングルは生まれたし、アルバムは最終的に数百万枚を売り上げてくれた。(略)

 だがバンドは幻滅した。作り終えたときは絶賛していた者たちが皆、手のひらを返したように、売上不振を、期待していた頂上に一気に昇れなかったことを、一部わたしのせいにした。ここで新たな教訓がまたひとつ。レコードが売れたのはアーティストのおかげ。売れないのはプロデューサーのせい。(略)

 というわけで、1973年9月下旬、3作目「オン・ザ・ボーダー」に取り組むべく、 オリンピックで久しぶりに顔を合わせたときにはもう、プロデューサーのわたしに対する不満がくすぶっていた。グレン・フライはスタジオ内でドラッグもアルコールも禁じるわたしの方針に苛立ちをますます募らせていたし、ランディ・マイズナーにはサウンドが不満だと言われた。 わけを教えてくれと言うと、電波の入りの悪い、雑音が混じるラジオでイーグルスの曲を聴いた際に、音がさえなかったからだという。 てっきり冗談かと思ったのだが、彼は真剣そのものだった。(略)

 グレンとドンはもっとハードなロック・サウンドを欲していたが、わたしに言わせれば、当時のイーグルスはどう考えてもいわゆるロック・バンドではなく、というわけでわたしの中に、彼らの十八番だと個人的に信じて疑わないものに執着する気があったのは認める。 わたしはあくまで、美しいヴォーカル・ハーモニーとカントリー・ロック的アプローチにこだわっていた。今回、彼らは新たな素材をほとんど用意して来ておらず、しかも見るからにまるでまとまりのない集団になっていた。

(略)

 こういう路線こそが彼らにふさわしいとわたしが思う一曲が〝我が愛の至上〟だ。同曲はイーグルス初の全米1位に輝いたのだから、わたしの見方はあながち間違いではなかったと思う。けれど4週間後、わたしたちは嫌な軋み音を上げて急停車してしまい、にっちもさっちもいかなくなったため、小休止を取ることを決めた。 わたしとしてはあくまで、曲を書くための時間を与えたつもりだった。が、彼らは新たなマネージャーと共に、プロデューサーを替えるという思いを胸に、アメリカへと帰って行った。

 今にして思えば、彼らが下したその決断はまったくもって正しかった。わたしは実際、目指すものに向かおうとする彼らの前に立ちはだかっていた。プロデューサーにとって最も重要なのは、アーテイストの望みに手を貸し、後押しをしてやることであり、邪魔をすることじゃない。代わりにビル・シムジクを選んだ彼らの判断には、お見事としか言えない。(略)

強力なドラッグにまみれ、メンバー同士が激しくいがみ合う、鼻持ちならないほど尊大なバンドと数百時間もスタジオにこもるなどというのは、どう考えても無理な話だ。ビルに大いなる幸運を祈りつつ、わたしは喜んでバトンを手渡した。

スモール・フェイセス

〝イチクー・パーク〟についてはフェージングの使用が取りざたされるようになり、それをわたしの手柄とする向きもあるようだが、実を言うとあの手法を見つけたのは当時のアシスタントだったジョージ・チカンツで、スタジオに入ったわたしに実演して聴かせてくれた。わたしは素晴らしいと思い、それでその日の午後に録った曲で使った。それたがたまたま〝イチクー・パーク〟だっただけで、LSDの歌だったのは偶然の一致なのだろうけれど、ともかく聴いてもらえればその効果の程に納得していただけると思う。

(略)

[69年、ジョニー・アリデイのアルバム録音]

わたしはスモール・フェイセスを推し、 ギターにピーター・フランプトンを加えた。ジョニーは現金払いをモットーにしていたし、スモール・フェイセスの面々は小遣いを稼ぎ、フランスの首都を数日間楽しめるその機会に飛びついたのだった。

 ところが、悲しいかな、このセッションで彼らは意見を激しく対立させ、その修復はついにきかず、バンドの命運はそこで尽きてしまった。スティーヴはピーター・フランプトンとハンブル・パイを組んだ。(略)

 一方、ロニー・レイン、ケニー・ジョーンズ、イアン・マクレガンの3人はロンドンに戻り、ロニ・ウッドおよびロッド・スチュワートフェイセズの結成に向けて動きだした。

 どちらのバンドからも、時期は異なるが、プロデュースを頼まれることになった。

(略)

 フェイセズを手がけたのは、1971年後半、3作目「馬の耳に念仏」が初めてだった。(略)ロッドとは60年代に何度か会ったことがあり、あの声には昔から大いに敬意を抱いていたのだが、ヴォーカリストとしての真価を知るに至ったのは、彼がフェイセズに入ってからのことだ。バンドのプレイ・スタイルが、かの自作曲群とひとつになることで、ロッドにあつらえたかのようにぴたりと合い、彼の歌の良さを最大限に引き出していた。

(略)

 次作「ウー・ラ・ラ」に至る頃にはしかし、状況ががらりと変わっていた。ロッドは世界各国で首位に輝いた〝マギー・メイ〟を武器に、ソロ・アーティストとして巨大な成功を収めている最中で、バンドに対する関心を急速になくしつつあり、制作中のアルバムに対する興味が日を追うごとに冷めていっているのがはっきりと伝わってきた。(略)

アルバムが完成したときは、皆がほっとしていたんじゃないかと思う。

 それから間もなく、彼らは解散した。実際、必然の結果だった。 「ウー・ラ・ラ」を販促する全米ツアー後、まずはロニー・レインがバンドを抜けた。(略)

[ひどく落ち込み途方に暮れているロニーに]何か曲はないかと尋ねると、いくつかあるという。そこで彼を元気づけようと、ちょうどスケジュールが空いていたから、週の後半に一緒にオリンピックに入ってそれを録ろうじゃないか、と伝えた。その結果がシングル〝ハウ・カム?〟で、数週間後に発売されると全英チャートの首位に上り詰めた。これでロニーは少し元気を取り戻してくれた。その日のためにわたしが集めたリズム・セクション――ベニー・ギャラガー、グレアム・ライル、ブルース・ロウランズ、そしてフィドル奏者のチャーリー・ハート――はそのままロニーのもとに残り、彼のバンド、スリム・チャンスとなり(略)全英巡りの旅に出て行き、巨大なサーカスのテントを移動式の会場として使った。

ストーンズとの別れ

1974年11月のある日、わたしが[ロン・ウッドの家を]ふらりと訪ねて行くと、キッチンでミック・ジャガーと一緒になった。彼とわたしは少し前にロンドンでフェイセズのライヴを観ており、彼らが繰り広げた強力なショウにミックは激しく感心していた。

 ミックは紅茶をすすりながら、ストーンズはちょっとした苦境に陥っていると明かした。彼らはアラン・クラインと縁を切ろうとしているところで、交渉をすすめるなかで、クラインにもう1枚アルバムを作る契約になっていることが判明した。そこで彼らはクラインとの契約期間中に残した全録音を洗い直し、何らかの理由でボツにした素材を集めてアルバムに仕立て上げ、その義務を果たすことに決めた、ということだった。

 しばらく前にストーンズとの仕事は止めていたが、彼らが使おうと考えている素材はすべてわたしが録ったもので、そこでミックと、思うにキースは、わたしに頼むことにしたのだろう。少しの間だけ元の鞘に戻り、ニューヨークに数日ほど行って、後に「ブラック・ボックス」として知られることになるものにまとめ上げてくれないか、ということだった。

(略)

 それから数日間、わたしたちはするべき仕事をバリバリとこなし、何時間もかけてマルチトラック・テープを洗い直していった。どのアルバムにも入らなかったのには、それなりの理由があった。どれもこれも失敗に終わった、粗削りな素案そのまま、と言っていいものばかりだった。

 ただ、ミックとの時間が楽しかったことは認めるしかない。(略)

 ある晩、ホテルのバーに飲みに行った際、また一緒にやることを考えてくれないか、とミックに言われた。この会話は以前から何度も繰り返しており、ほぼ毎回、どうしようもないほど醜い結果に終わっていた。これまでエンジニアとして大量の時間を君たちに差し出してきた、 だからこれからはプロデューサーとして認めてくれる、印税を払ってくれるということなら、続けてもいい、と言い張るわたしに対し、ミックはあくまで印税は払わないの一点張りで、わたしのことをよりによって売女呼ばわりして、両者は決別、という具合だった。

(略)

[結局]わたしは彼とキースとの共同プロデュースという条件で、依頼を受けることにした。

(略)

[『ブラック・アンド・ブルー』セッション]

[進まぬセッションの刺激にと、アムステルダムに来ていたリトル・フィートのライヴに誘い、全員衝撃を受ける]

 わたしの策略はしかし、ストーンズ・セッションには目に見える影響を及ぼさなかった。ミックとキースがその場を利用して、ミック・テイラーの後釜に据えるギタリストのオーディションをすると決めたのも痛かった。そのせいでレコーディングに費やすはずだった莫大な時間が無駄にされることになった

(略)

 10日目、キースとひと悶着あり、後にも先にもそれ一度きりなのだが、わたしはまたも憤然としてその場を去った。数時間後、ホテルをチェックアウトするべくフロントに向かう途中、ミックの部屋に寄った。ミックがそうしてくれと言ったからで、最後の別れを言いたいのだという。行くと、ドアが開いたままになっていて、バスルームに来てくれと言われ、そこで彼と最後の会話を交わした。 わたしと彼はありとあらゆる艱難辛苦を乗り越え、巨大な成功が彼らにもたらしたすべてを余すところなく共に経験してきた仲だった。 わたしは自分の妻や子供たちといるよりもはるかに多くの時間を彼らと過ごしてきたし、当時最高のロックンロール創造の瞬間をいくつか、この目で見るという特権にも恵まれてきたわけだが、その最後の瞬間、ミックは入浴中、わたしは戸口にコート姿で突っ立ち、足下にはスーツケース。お互いにまだ若い頃、十数年も前に始まった仕事関係の締めくくりだというのに。

 それ以来、キースとはごくたまに会うけれど、そのたびに彼はわたしを温かく迎えてくれる、ロッテルダムでの一件はとっくに忘れているのだろう。ふたりの心の底におそらく、共通の友人ステュを失ったことに対する語られざる深い悲しみがあって、それが仲を取り持ってくれているのだと思う。 

ザ・クラッシュ『コンバット・ロック』

 ザ・クラッシュとの仕事は、CBSロンドンの当時のA&R長で、スティーヴ・ウィンウッドの兄、"マフ"を介してやって来た。(略)

アルバムの制作はジョー・ストラマーとミック・ジョーンズが順番に手がけることになっているのだけれど、今回は少々意見の相違があり、彼らはニューヨークでスタジオをふたつ、2週間押さえ、各人が最初から最後まで別々に、相手の干渉を受けることなくミックスをすることになった、ということだった。(略)

送られてきたものはマフの眼鏡に到底適うものではなかった。(略)

正直に言わせてもらうと、わたしはクラッシュのファンじゃなかった。いや、もっと言うと、彼らに限らず、当時存在していたパンク・バンドはどれも好きじゃなかった。

(略)

どうせ非音楽的なばか騒ぎの酷い代物に決まっている、わたしには理解も共感もできないものなのだろうと、高を括っていた。すべてを聴き終えた頃にはしかし、嬉しい驚きを感じていた。確かにやりたい放題ではある、けれど彼らはじつに賢いアーティストであることが、そしてその音源には優れたアルバムにできるものが十二分に詰まっていることがわかった。

(略)

彼らはわざわざウエスト・サセックスのわたしの自宅まで来てくれた。(略)

ミック・ジョーンズは来なかった。後にわかるのだが、彼はそもそもこの案にまったく興味がなかったのだ。

(略)

わたしはジョーとすぐさま意気投合した。彼はわたしが出した提案をどれも快く受け入れてくれた(略)

2枚組ではなく1枚にまとめたほうが、はるかに強力な作品になる気がしていた。そうした提案はすべて、大いなる情熱をもってジョーに歓迎されたから、わたしは自信を深め、 ミックスだけでなくサウンドやアレンジに関しても、思いついたどんなアイディアも片っ端から試してみることにした。(略)

午後7時頃、コントロールルームの扉が開いた。入ってきたのは何と、不機嫌そうな顔のミック・ジョーンズだった。(略)

ミックは黙って座ったままで、わたしが感想を尋ねると、いくつか自分の手で変えたいところがあると、ぼそりと言った。そこで丁重に伝えた。これはどれもわたしがやったものだから、非常に残念だ。もしも今朝10時に皆と一緒にお越しいただいていたなら、君の意見は尊重され、支持されていたと思う。(略)

彼は来たときよりもなおいっそう不機嫌な様子で帰って行った。

 翌朝、わたしは(略)ジョーに電話で言った。君との仕事は非常に楽しかったのだけれど、君の友人に対する配慮が足りなかった、このまま続けるのが最善だとは思わない。数時間後、マフから電話があり、ミック・ジョーンズは悪かったと言っている、この先セッションには関わらない、この件についてはジョーに全権を預けると約束した、と伝えられた。というわけで、わたしはジョーと再度合流し、それから数日間、彼のヴォーカルをいくつか再録し、残りのミックスを仕上げる作業を満喫した。ジョーとの時間がどれほど楽しいものだったか、言葉では伝えきれない。彼の誠実さは、わたしがこれまで出会ったなかで間違いなく指折りだ。 才気煥発で、見るからに自らの成功に微塵も酔っていなかった。誠に素敵な、才能に溢れる男。 2002年12月、彼の他界は音楽社会にとって多大な損失だった。

(略)

ミックにしてみれば、相当量の時間と労力を投資した作品を手放すのは、至極受け入れがたいことだったに違いない。(略)にもかかわらず、彼は寛大にもわたしに任せてくれたし、ほとぼりが冷める頃には、少なくともある程度は結果に満足してくれていたように思う。それを知ったのは次に会ったときのことで、ミックはすこぶる上機嫌だった。

 数カ月後、わたしは米ツアー中のザ・フーのライヴ・アルバムを録っていた。いくつかのギグでクラッシュが前座を務めることになり、せっかく機材が揃っているのだから、うちらのステージも録ってくれないか、と彼らに頼まれた。 わたしは快諾し、ニューヨークはシェイ・スタジアムとロサンゼルスはコロシアムのライヴを録った。覚えているのは、溢れんばかりの狂騒的エネルギーと、サウンドがさえなかったことだけで、ベーシストはひとり、どこか別の非音楽的惑星にいるかのようだった。わたしの見解では、使えるものは何もなかったのだが、クラッシュ・ファンの飽くことなき食欲を満たすべく、所属レコード会社がそのいくつかを世に出したことは知っている。

 幸運にも、ジョーとはその後も友人関係を続けることができて、彼はアートスクール時代からの旧友タイモン・ドッグのアルバムを作る際に、わたしのスタジオに戻って来てくれた。悲しいかな、それが彼との最後になった。

サウンド・マン ロック名盤の誕生秘話 その3

前回の続き。

69年ビートルズ

[68年12月ポールから電話]

全曲書き下ろしたものをTV番組用に、観客を入れて生で演奏するとともに、アルバムとして出そうと考えている。(略)一緒に作ってくれるかな?わたしは宝くじに当たった気分だった。

(略)

 メンバーがぽつぽつと現われた。まずはポール、次がリンゴ、続いてジョージ、最後にジョンとヨーコ。全員が一堂に会するのは久しぶりらしく、親睦を図る当意即妙のやり取りが交わされ、だんだんと互いの存在に慣れていき、ある程度落ち着いたところで、プロジェクトに関する具体的な話に入った。ひとつだけ、軽い違和感を覚えたのがヨーコの存在だった。(略)彼女はジョンと同じ椅子に座ったまま動こうとせず、時には残りの3人の誰かが投げかけてくる質問に、ジョンに代わって答えていた。ジョンはそれに心から満足している様子(略)

わたしはどうにも据わりの悪い思いでいた。他の人々の気持ちも推して知るべしだろう。(略)

最初の曲に取りかかり、何度か通しでやった後、ポールが不意にわたしを振り向き、イントロはどうしたらいいかな、と聞いてきた。あまりの衝撃に、わたしは卒倒しそうになった。エンジニアとして雇われただけだと思って来たのに、たった今、リハのしょっぱなから、アレンジに関する意見を求められたのだ。 わたしはあらん限りの迅速性と自信をもって答え、イントロに関する案を提示すると、彼らはそれを気に入ってくれ、それを機にリハーサルが始動した。よそ者をあっという間に、いとも簡単に受け入れてくれたことに、わたしは感激していた。

(略)

『Recording The Beatles』にはわたしが呼ばれた理由について、映画関係の仕事に携るのに欠かせない組合員証を持っていたから、と示唆されている。この本に載っているわたしの関与に関する情報の大部分がそうなのだが、これもでたらめもいいところだ。わたしは音楽家組合以外のどこにも属したことがない。

(略)

ポールが抱いていた案は、船いっぱいにビートルズ・ファンを乗せてチュニジアのどこかにある古代に建てられた屋外円形劇場に連れて行き、そこでステージをするというものだった。だがそれは他の3人の好みと特には合わず、なかでもリンゴはとりわけ不服そうで、何よりも食べ物のことを気にしている様子だった。2日目、メンバー間の緊張状態が臨界点に達した。われわれスタッフ一同は大慌てで外に出て、4人だけで意見の相違を解決してもらうことにした。

(略)

 今でもよく覚えている、あの寒い灰色の午後、わたしはトウィッケナムの殺風景なサウンドステージの外で、番組ライン・プロデューサーのデニスと腰を下ろし、祈っていた。世界最大の成功を収めたバンドのプロジェクトに起用されたという高揚感が、どうかたったの2日で、激しいブレーキ音と共に急停止してしまわないように、と。

 何が起きたのかについて、わたしは詳しく語る立場にないが、よく知られているとおり、ジョージがバンドを後にし、数日後に説得されて戻った。

 この件に片が付くや、わたしたちは仕事を再開した。すべてすぐに水に流されて、何事もなかったかのような雰囲気だった。ひとつだけ目に見えて変わった点はヨーコで、相変わらずたいていスタジオに来てはいたものの、ジョンの椅子に一緒に座ることはなくなった。

(略)

不意に、ただごととは思えないけたたましいノイズが耳に飛び込んできた。誰かが猫を踏んづけたかのような騒音だ。機材のどこかに異常が発生したのかもしれない。わたしは慌てふためき(略)目を凝らした。(略)

頭から黒い袋をすっぽり被った小柄な人物で、袋からマイクのコードが伸びていた。どうやらそれはヨーコで、自分も演奏に貢献しようと思い立ったらしかった。

マジック・アレックス、ルーフトップ・コンサート、「サムシング」

海外行きという発案に伴う当初の興奮も、リンゴがどうにも気に入らないと宣言してから冷めていき、ジョンとジョージからも異論が出なかったことで、結局、廃案となった。

 これでちょっとした問題が発生した。それはつまり、TV番組にするというポールの原案の破棄を意味したからだ。

(略)

 ビートルズはサヴィル・ロウに立つ自社ビルの地下にスタジオを作らせており(略)わたしはジョージ・ハリスンに連れられて様子を見に行くことになった。

(略)

アップル・エレクトロニクス社の長がヤニ・アレクシス・マルダスという男で、ジョン・レノンはマジック・アレックスと呼んでいたが、わたしに言わせれば、いかさまアレックスに他ならなかった。わたしはアレックスと1967年のストーンズ欧州ツアー中に会っていた。彼はある日、ギグの場にふらりと現われると、ミックにライトショウの案を売りつけた。(略)ごくごく平凡なディスコ・ライトとしか言えない代物で(略)良く言えば妄想に取り憑かれている、悪く言えば紛うことなき詐欺師というのが、わたしの到達した結論だった。ただ、弁が立ったのは確かで、その数年前にビートルズを言いくるめ、自分は電子工学の天才であると彼らに信じ込ませていた。だが実際のところ、元同居人で、マリアンヌ・フェイスフルの最初の夫にしてアート・ギャラリーの主人、ジョン・ダンバーによれば、けちなTV修理工でしかなかった。

 ブライアン・ジョーンズは1965年、ギリシャから英国に来て間もなかったアレックスと知り合い、ダンバーのギャラリーに展示されていた彼の『ナッシング・ボックス』に深い感銘を受けていたジョン・レノンに紹介した。文字どおり、不規則に点滅する明かりが付いただけのただの小箱を、ジョンはLSDによる酩酊状態でその場に座り込み、じっと見つめていたらしい。

(略)

 アレックスはその後、史上最高の画期的スタジオを作れるとジョージに請け合った、72トラックのレコーダーを設計・製作できるとまで言い切ったらしい。まだ8トラックが最大だった時代の話だ。

(略)

アレックスがレコーディングというものをほとんど、いや何も知らないことは明らかだった。コンソール卓は1930年代のバック・ロジャーズのSF映画から持ってきたのではないかと思うような年代物。

(略)

わたしが思わず噴き出し、げらげらと大笑いしたときも、ジョージから偏見は良くないとたしなめられた。(略)

けれど結局、関係者全員に、そしてジョージにとっては至極無念なことに、彼らがぼったくられ、そこの設備一式がわたしの第一印象どおり、悪い冗談以外の何ものでもないことが程なくして判明した。

 ジョージ・マーティンが救済に駆けつけてくれて、アビイ・ロードから機材を借り受ける手はずを整え、それを運び、設置してくれたのが、かの名人デイヴ・ハリーズだった。

(略)

数日後、ビリー・プレストンがふらりと顔を出し、即座に参加を求められ、エレクトリック・ピアノの前に座った。結果的に、これが何とも素敵な、思いがけぬ贈り物になった。ビリーとビートルズは、ハンブルクはスター・クラブ時代からの旧知の仲で、皆が再会を喜んでいた。

(略)

 サヴィル・ロウでは、世界一有名な4人のミュージシャンが自ら書いた曲に磨きをかけ、納得のいくものに仕上げていく様子を目の前で見させてもらえた。エンジニア冥利に尽きると思っていたし、その気持ちは日を追うごとにますます強くなっていった。しかもこの時の彼らは「サージェント・ペパーズ」で広く知られることとなった信じられないほど複雑かつ革新的な制作手法を離れ、これ以上ないほどシンプルな編成でそれを行なっていたのだから、なおさらだ。

(略)

リンゴから不意に、屋上に行ったことはあるかと聞かれた。ロンドンのウェスト・エンドが見渡せて、良い眺めなのだという。(略)

[壮観な景色を見てわたしは]口にした。大人数を相手にやりたいと思っているなら、この屋上でウェスト・エンド全域に向けてやったらどうだろう。下に降りてその案を皆に伝えたところ、短い話し合いの末、それでいくことに決まった。

(略)

 ある日の午前中、他の3人がスタジオに現われる前にジョージから、今日は終わった後、少し残ってくれないかな、デモを録って欲しいんだ、と頼まれた。ひとつ自分で書いた曲があるのだけれど、みんなの前ではやりたくないと言う。(略)

[それが「サムシング」]だった。これはすごい、彼の最高傑作なんじゃないか、と思ったのを覚えている。歌い終えたジョージがコントロール・ルームに入って来て、プレイバックを聴き、どう思うか尋ねてきた。自信がないようだった。素晴らしい、絶対にみんなにも聴かせたほうがいいよ、とわたしは伝えた。これはあくまでも推測だが、ジョンとポールの陰で生きてきた結果、自信をくじかれていたのだろう。

グリン・ジョンズ版「レット・イット・ビー」

 1969年5月1日、ジョンとポールから電話があり、話があるからアビイ・ロードに来てくれないかと言われた。コントロール・ルームに入ると、そこにはうず高く積まれたマルチトラック・テープの山ができていた。聞けば、1月に君が出してくれたアルバム案を再検討した結果、君に任せることにした、サヴィル・ロウで収めた全録音をミックスしてひとつにまとめて欲しい、という。考えただけで興奮してきて、いつから一緒に始められるのかと、勢い込んで尋ねた。ふたりの答えは、君の案なのだから、君ひとりでやってもらって一向に構わない、だった。全幅の信頼を置いてもらえたと思い、その時は有頂天だったのだが、間もなく気づくことになった。彼らがこのプロジェクトに対する興味を失っていたというのが、真の理由だった。

 ともかく、わたしはオリンピックのミックス・ルームに直行し、それから3晩を費やしてアルバムを編集し、翌日のオリンピックでのセッションでそれを4人に聴いてもらった。

 わたしはもともとエンジニアという扱いであり、それで十分に満足していたし、その気持ちはジョージ・マーティンが制作に携わらないと知ったときも変わらなかった。(略)彼が関わらないと知った当初は、正直、かなりの気後れを感じたのをよく覚えている。

(略)

何とも微妙な立場にいるわたしを気づかい、サヴィル・ロウに移る前、ジョージは親切にも昼食に誘い出し、大丈夫、君はいい仕事をしている、何の問題もない、私の足を踏みつけて気分を害するようなことは何もしていないよと、優しい言葉をかけてくれた。 何と素敵な紳士なのだろう。

 自分版「レット・イット・ビー」のミックス済みマスターを渡した後、私はアルバムに制作者クレジットを載せてもらえないだろうかと、メンバー各人に尋ねて回った。 欲しいのはクレジットだけで、印税は要らないという点も、はっきりと伝えた。 ポール、ジョージ、リンゴの3人に異存はなかったのだが、ジョンはいぶかしみ、どうして印税が要らないのか、意味がわからないと言われた。わたしの説明はこうだった。君たちの地位を考えれば、僕の関与がどんな形であれ、アルバムの売り上げに影響を及ぼすことはない。だから今回の僕の仕事にはクレジットが分相応だと思うし、それだけでも今後のキャリアにとって十二分にプラスになるはずだから。 ジョンの答えはついにもらえなかった。

 蓋を開けてみればしかし、どんな答えであろうが、関係なかった。バンド解散後、ジョンはそのテープ群をフィル・スペクターに渡したからで、スペクターはそこら中にへどをまき散らし、あのアルバムをいまだかつて聴いたことがないほど甘ったるいシロップ漬けの糞みたいな代物に一変させてしまった。(略)

わたし版の“ゲット・バック"/“ドント・レット・ミー・ダウン"は一応、シングルとして1969年4月に発売された。

オールマン・ブラザーズ、ディラン

リハーサル中のオールマン・ブラザーズを見たものの、まだアルバムを作れる状態ではない気がした。まだ最初期の話だ。 潜在力は明らかに見て取れたものの、少々粗削りだった。どういうわけか、彼らはドラマーをふたり使うことにしていた。簡単にものにできる芸当ではないし、実際、ふたりでどう叩き合うのか、いまだ模索している最中だった。そのせいだろう、リズム・セクションはぎこちなく、安定感に欠けており、それでわたしは見送ることにした。その晩はデュアン・オールマンの自宅にお邪魔し、彼とすぐさま意気投合して、音楽やミュージシャンについて明け方近くまで大いに語らい、楽しい時を過ごした。デュアンは驚異的なギタリストであると同時に、人間的にも魅力的な男だった。

 続いて、ヤン・ウェナーと共にニューヨークに飛んだ。 機上、彼は先頃ボブ・ディランに行なったインタビューの原稿をまとめていた。その記事はヤンにしかできない離れ業だった、ディランは数年来インタビューを受けていなかったからだ。

 ニューヨークに着き、手荷物受取所を抜けて歩いて行ったわたしの目に飛び込んできたのは、何とディランその人だった。柱に寄りかかって人間観察をしていた。 ヤンが歩み寄って話しかけるなか、わたしは荷物を拾い上げ、迎えのリムジンを見つけようと外に出た。ディランとは面識がなかったし、話の邪魔をしたくなかったからだ。ところが、ヤンに肩をトントンと叩かれたので振り向くと、そこにかの偉人が立っていた。わたしにわざわざ挨拶に来てくれたのだ。彼はわたしが録り終えたばかりのビートルズのアルバムについて尋ね、長年にわたるストーンズとの仕事についてお褒めの言葉をくれた。興奮したわたしはお返しに、彼の仕事にわたしたち皆がどれほど影響を受けているのか、一気にまくし立てた。すると、ディランが言った。ビートルズストーンズと一緒にアルバムを作ってみるのも面白いと思っているんだけど、彼らが興味を示すかどうか、確かめてもらえないかな?

 わたしは度肝を抜かれた。(略)イングランドに戻るとすぐにわたしは各人に電話を入れ、賛同か否か確かめて回った。キースとジョージはふたりとも、非現実的に過ぎるけれど、そうはいってもディランの大ファンだからやってもいい。リンゴとチャーリーとビルは、他のみんながその気ならばいいんじゃないか。 ジョンはきっぱりノーとは言わなかったものの、さほど引かれない様子。 ポールとミックはいずれも、冗談じゃないという返事だった。

 今でもよく、 もしも実現していたらどうなっただろう、と思うことがある。いずれにせよ、一筋縄で行かなかったのは間違いないだろうが。

(略)

 ラガーディア空港での邂逅から6週間後、わたしはついにディランと仕事をするに至った。彼の最初のプロデューサー、ボブ・ジョンストンから、ワイト島音楽祭でのステージを生で録って欲しいと頼まれたのだ。ディランは当時ザ・バンドを引き連れていた。彼らの1作目「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」はわたしの音楽的嗜好に莫大な影響を与えた作品であり、それだけに楽しみで仕方なかった。

 ギグの前の晩、わたしは招待を受け、彼らが島に借りていた大邸宅のボールルームでのリハーサルに行った。この晩のことは一生忘れない。その広々とした、豪華絢爛なボールルームでたったひとり(略)翌日に予定されていた大半の曲のパフォーマンスを、そしてそれをほぼ完璧にまで磨き上げる過程を見るという恩恵に与かったのだ。ただ、コンサート自体はそれほど良くなかった。1時間もしないうちに、ディラン氏は癇癪を起こして、さっさとステージを降りてしまった。

(略)

次に会ったのは1984年、当時彼をマネジメントしていたビル・グレアムからライヴ盤「リアル・ライヴ」の制作を任されたときのことで、ディランはツアーでヨーロッパに来ていた。バンドにはミック・テイラーとイアン・マクレガンがいて、ふたりに会うのは久しぶりだった。ストーンズ在籍時代に諸々の経験をしていただけに、ミックと顔を合わせるのは少々気が重かったのだが、再会してみていい意味で驚いた。まるで別人のように更生していたからだ。

(略)

 諸々を終えてディランはアメリカに帰り、わたしは自宅に戻り、全コンサートの録音をラフ・ミックスして彼に送った。(略)いざ話し合ってみると、曲については意見が一致したものの、パフォーマンスについての見解がまったくもって違うことが判明した。ディランはどのテイクもことごとく最悪の例をこともなげに選んできたのだ。試験か何かの類だったのだろうか、答えは永遠にわからない(略)

ディランは極めて感じが良く、意見に進んで耳を傾けてくれ、最後にはわたしが推すテイク群を使うことで納得してくれた。

 自宅スタジオでミックスを終え、それを持ってLAに向かい、マスタリング・ラボのダグ・サックスとマスタリングに入った。(略)

 ボブはLAに住んでいたから、一応礼儀として、もし良かったら来ませんか、と声をかけた。すると驚いたことに、マスタリング・セッションに出たことがなかったらしく、ぜひ見させてくれ、という言葉が返ってきた。ディランは最後まで残り、わたしが車まで歩いて見送りに行った際には、握手をして感謝の言葉までくれた。その車はよく覚えている、見たこともないほどおんぼろの古いキャデラックのオープンで、ボディは錆びだらけ、残っている塗装は皆無に等しいという代物だったからだ。笑みを浮かべ、さっと片手を挙げると、ボブはハリウッド・ブルヴァードを西に向かい、午後の陽射しの中に消えていった。そして悲しいかな、以来、彼とは一度も会っていない。

ハウリン・ウルフ

 1970年は、元旦のリンゴ宅でのパーティで幕を開けた。(略)別の部屋から響いてくるドラムの音を耳にし(略)見に行くと、キース・ムーンがリンゴの4才になる息子ザックに手ほどきをしてやっていた。キースはザックの憧れの存在で、名付け親でもあった。

(略)

1月の第1週はアビイ・ロードとオリンピックで「レット・イット・ビー」の仕上げと、ジョージ・ハリスンとのビリー・プレストンのアルバム作りに明け暮れた。

(略)

3月末に地元に戻り、ローリング・ストーンズと夜通し続きの苛酷極まりない数週間を過ごし、さらに(略)ハンブル・パイの[A&Mでの]1枚目に向けた最初期のセッションをいくつか手がけた。

(略)

 続いて、チェス・レコードから電話があり、ブルース界の伝説ハウリン・ウルフがオリンピックスタジオでいくつかセッションをするから、エンジニアを務めてくれないか、と頼まれた。

(略)

チェスから来た男[ノーマン・デイロン]がいかにしてレコード・プロデューサーになったのか、わたしには理解できない。そいつはあらゆるレベルにおいて、徹頭徹尾無能であることが判明した。死んだ魚かと思うほど糞面白くない男で、ブルースのことが微塵もわかっていないことが、すぐさま明白となった。

 精一杯売れ線を狙ったのだろう、そのプロデューサーはリズム・セクションにリンゴ・スターとクラウス・フォアマンを押さえていた。いや、ふたりとも優れたミュージシャンではあるし、個人的にも大好きだが、どんなに頑張っても、彼らにブルースがわかるはずもなかった。そもそも、ふたりがなぜこの依頼を受けたのかがわたしには理解できない。特にリンゴは初日、何が何だかがさっぱりわからないから教えてくれ、頼むから俺とクラウスが残りのセッションから外れられるように手を貸してくれ、と言ってわたしに泣きついてきたのだから、なおさらだ。だからそのプロデューサーにそれとなく伝えた、あのふたりを入れたのは間違いです、自分ならたぶんビル・ワイマンとチャーリーワッツを口説いてステュと一緒に呼んで、残りのセッションで弾かせられますよ。

(略)

ステュとチャーリーと同じく、ビルもかの偉人と対面し、一緒にやれる機会にすっかり興奮し、すべてを放り出して車に飛び乗った。というわけで、リンゴとクラウスはお役ご免となった。

(略)

 ウルフは大男で、胴回りは樽ほどもあり、巨大な手から伸びる十指は、ギターなどとてもではないが弾けないだろうと思うほど太かった。喋る声も野太く、さながら喉の奥に砕いたガラスを数ポンド流し込まれたかのような響きだった。ミュージシャンたちがスタジオで曲を覚えている間、彼はコントロール・ルームに座り、わたしにさまざまな逸話を語り、自らが書いた歌詞についてあれこれと説明してくれた。ただ、お恥ずかしい限りなのだが、実のところ、何を言っているのか大部分は理解できなかった、訛りがきつ過ぎて、わたしにはほぼ意味不明だったからだ。わたしはすっかり魅了され、うっとりとして隣に腰を下ろしたまま、わかっていないことはおくびにも出さず、彼の言葉を必死で解釈しようと努めつつ、もう一度繰り返してくれと言って、失礼な奴だと思われることだけは許されないと、固く肝に銘じていた。ウルフは文字どおり心優しき巨人で、わたしはその面前にいられることのありがたみを深く噛みしめていた。

 ただ、ウルフ本人は自分が一体なぜそこにいるのか、まったくわかっていない様子で、それが何とも悲しかった。エリック・クラプトンのことは知っていたかもしれないが、それも誰かから聞いたからでしかなかった。他のミュージシャンのことは誰ひとり知らないようだった。一体全体何が起きているのか、皆目見当もつかないまま、商業的目的で所属レーベルに利用され、操られているとしか、わたしには見えなかった。彼は高齢で、混乱し、万全の体調ではなかった。

 とはいえ、至上の瞬間もあった。“リトル・レッド・ルースター”を始めようかというときのことだ。(略)

 ミュージシャンたちが通しでやり始めると、ウルフはそれを止め、コントロール・ルームに入り、段ボール製のくたびれ果てたギターケースを開け、古めかしい、同じくくたびれ果てたFホールのアコースティック・ギターを取り出した。

 ギターを手にしてスタジオに戻ると、彼はエリックの真向かいにどっかと腰を下ろし、目をまっすぐに見据えて言った。「こいつの弾き方を教えてやろう。俺が死んだら、誰かにちゃんとやってもらわんといかんからな」

 何が起きようとしているのかに気づくが早いか、わたしはレコーダーのもとへと走って録音ボタンを押し、畏敬の念に打ち震える、王位を狙う若者に老師が教え授ける様子を録った。あの場にいた全員にとって、それはまるで壮大な叙事詩を見ているかのごとき瞬間だった。

次回に続く。