ビートルズのおかげです:ザ・ワイルド・ワンズ風雲録 加瀬邦彦

「ビートルズに会えないのならやめさせてもらいます!」

(略)

 当時のことに詳しい人は、今でも「ビートルズの前座でブルージーンズも出演していたのに、なぜやめたの?」と聞く。そう、確かに(略)出演が決まったときは飛び上がらんばかりに喜んだ。(略)

ところがである(略)ビートルズに事故でも起きたら国際的問題になるということで(略)僕たちはステージが終わるとすぐ楽屋に入れられ[ビートルズが武道館を出たあとようやく解放と聞かされ]

(略)

「やめる!俺はブルージーンズをやめて、客席からビートルズを見るよ。みんなには迷惑かけるけど、八ちゃん、俺はやめる。もう決めた」

(略)

――話がちょっと複雑になるけれど、実はそのときのブルージーンズはいつ解散してもおかしくない状態だったのである。(略)

[ビートルズ来日三か月前、メンバーを召集した寺内タケシ]

「俺は今『寺内企画』という会社を作っている。このまま渡辺プロダクションにいては、俺が考えているブルージーンズに変えることは無理だ。ということは、みんなの将来も保証できないということだ。新しく作る会社に移れば、みんなの将来も保証するし、給料も一人二万円はアップする。はじめは仕事も減るだろうが、スポンサーがちゃんとついているから安心してくれ。悪いようにはしない。さあ、時間がないから一人一人来るか来ないか言ってくれ」(略)

[皆がイエスと答え、加瀬の番]

「やめさせてもらいます!」(略)

次の瞬間、ダーンとテーブルを叩く音と同時に寺さんは立ち上がった。

「この話はなかったことにする」

そう一言いってから、さっと店を出て行ってしまった。

(略)

[他のメンバーから責められ]

「みんなに言わなかったけど、俺は半年ぐらい前からやめたいと思っていたんだ。ビートルズみたいに、自分たちで作詞作曲して、歌と演奏ができるグループを作りたいんだよ」

「それじゃあ、俺たちでビートルズみたいにやろうよ」

八ちゃんがいつになく積極的に発言した。

「いや、このブルージーンズはエレキの演奏で人気が出たグループだよ。〈津軽じょんがら節〉や〈運命〉のギターをいくらコピーして真似しても、所詮、それは寺さんのオリジナルだ。生意気なようだけど、俺は自分のオリジナルを作りたいんだよ」

(略)

[クレージーキャッツ映画の撮影に寺内が何時間も遅刻、ようやく現れると]

「加瀬以外のメンバーはここに集まってくれ」

(略)

数分後、その輪が解けて、[マネージャーの]ガンさんが僕のところに来た。

「寺さんは今日でやめるそうです」(略)

「結核になったそうです」

「結核?だって、昨日だってあんなに元気だったじゃないの?」

「今朝、医者に行ったら、そう言われたそうです。(略)今も他のメンバーに『俺は結核になったからやめる。あとはみんな渡辺プロに残ってがんばってくれ』と話したのです」

(略)

[翌日渡辺プロにメンバーは召集され]

「みんなも知っていると思うが、寺内が病気になったということでやめることになった」

ギョロッとした目でみんなを見まわしながら、松下部長が威圧感のある声で切り出した。

「今後のスケジュールは詰まっているし(略)ビートルズの前座の仕事はとりわけ重要だ。だから、今解散するわけにはいかない。寺内がいなくてもブルージーンズは健在というところを見せるのだ。

 加瀬、今日からお前がリーダーだ。そしてみんなでバックアップしろ。いいか、わかったな!」

シーンとする会議室。

「僕にはできません。僕は一度やめるといったし、ほとんどの人が僕より先輩なので無理です。ビートルズ公演まではやりますが、そのあとやめさせてもらいます」

「やめてどうするんだ?」(略)

「まだ何も考えていません」

「加瀬は俺と一緒にバンドを作ります」

突然、内田裕也氏が言った。

「本当か、加瀬?」

(略)

 確かに、その一か月ほど前だったか、内田裕也氏から、「加瀬、そのうち一緒にバンドをやろうぜ」と飲みに行ったときに言われたことはあったが、その後、具体的な話は何もなかった。

「何も決めていません」

「加瀬、コノヤロー!」

立ち上がる裕也氏。

「ヤメロ!」

怒鳴る松下部長。険悪な雰囲気になってきた。

「とにかく、今解散するわけにはいかないのだ。お前たちだって今解散したら困るだろう。みんなで助け合ってこのピンチを乗り切るのだ。わかったな」

[モヤモヤしたまま五月の日劇ウエスタン・カーニバルは寺内抜きで強行突破]

 ――しかし、その直後にあの話を聞いてしまったのである。たとえビートルズの共演者であっても[接触はできない](略)楽屋に入れて鍵をかけるというあのおそるべき宣告である。

 その結果(略)同じステージを踏むことをあきらめ、武道館の客席からビートルズを見ることにしたのである。

僕たちをKOしたイギリスの無名バンド

[ビートルズ、ストーンズの影響は大きかったが]

実は間近で僕たちに衝撃を与えたのは(略)六四年の秋に来日した[無名の]「リバプール・ファイブ」というグループだった。(略)

[来日時には主催者に「リバプール・ビートルズ」と改名される程度のバンド]

 日本では敵なしと思っていた僕たちが先にステージで演奏した。(略)ベンチャーズやアストロノウツ(略)と共演していた僕たちは(略)完全に彼らを見下していた。

(略)

「どうだ、参ったか!日本にも[エレキを使った]こんなにすごいグループがあるのだぞ」と、優越感を感じながらステージを終えた。

(略)

[彼らが]自分たちの楽器のセッティングを始めた。(略)

僕は寺さんに、「あいつらバンドボーイもいないんですね。かわいそうに。僕たちのステージを見て、おそらく日本に来たことを後悔しているでしょうね」と言った。

 寺さんも、「もっとあいつらをビビらせるように、ステージの正面に行って見てやろうぜ」と言う。

寺さんと二人でステージの正面の席に座った。(略)

五人が手を振りながらステージに登場した。

 なーんだ、ユニフォームもヘアースタイルもビートルズの物真似じゃないか。

(略)

 ジャーン!!!(略)

 僕と寺さんは最初の音で、プラスチックの椅子からひっくり返ってしまった。

 な、なんだ!!!この音は?このサウンドは?(略)

今までに聞いたこともないサウンド、音の厚さ。(略)

演奏が終わるやいなや、二人はステージに駆け上がった。

 どうしてあんなサウンドになるのか?何が違うのか?大きなからだで髭を生やしたマネージャーはさっきとは逆転して、どうだ驚いたか!的な顔で、アンプやキーボードをチェックしている僕たちをニヤニヤしながら見ている。

(略)

「寺さん、見てよ。ベースアンプのスピーカー。こんなに大きいのを使っているんだ。おまけにスピーカーの前にマイクを立てて、会場のスピーカーから音を出している」

「加瀬、見てみろ。ビンソンのエコーチェンバーをボーカルに使ってるぞ。ピアノもエレキピアノだ。ホーナーって書いてあるぞ」

(略)

 三日間続いたこのコンサートをスパイダースのムッシュかまやつさんや、プロのミュージシャンが噂を聞きつけて、連日、大勢やって来た。(略)

 さっそく、僕たちはヤマハに依頼して、ボーカル用のアンプ、エコーチェンバー、各メンバー一人一人にマイクとマイクスタンド、キーボードの八ちゃん用にエレキピアノなどなど、少しでも彼らに近づこうと、まず機材を揃えた。

 今までは、歌手は楽器を持たず歌うだけ、楽器を持つ人たちは演奏するだけだったが、彼らの影響で楽器を演奏しながら歌う、そう、ビートルズに一歩近づいた気分になってきた。

 そのころから、僕はエレキの演奏を中心にしたグループより、自分たちで作った曲を、 自分たちで演奏しながら歌うグループに傾倒していったのだ。

(略)

[加瀬メモ]

リバプール・ファイブは(略)ロンドン出身で、当初は Steve Laine Combo という名前で活動。一九六四年にドイツにわたり、Blues Sounds という名前で、ハンブルグやスイスなどでライブ活動をしていた。ちなみに、その後、彼らは日本で新宿『ACB』に約一か月出演していた。また、彼らが日本に持ってきた楽器にAKGのマイクとVOXのアンプなどがあった。

ここがグループサウンズの出発点

(略)

 俺たちで歌えるような曲を作ろう。歌謡曲ではない日本のポップスを。

(略)

 曲はすぐにできたが、詞ができない。ビートルズは作曲も作詞もできるのになあ。

(略)

[海外曲に訳詞をつけていた]人のなかでも、僕が気に入っていた人がいた。安井かずみ。この人の詞は今までの日本人の作詞家にはなかったポップな感性があると僕は思っていた。

 渡辺プロダクションのなかに渡辺音楽出版という会社があって、そこの社員の楊さんという中国の人が、安井かずみさんと懇意にしていると聞いていたので、お願いに行った。(略)

「加瀬、お前、十年早いよ。彼女は、今、売れている作詞家だよ。お前はまだヒット曲もないじゃないか」(略)

「そこを何とか、楊さんの力でお願いしますよ」

「無理だと思うけど、一応聞いてやるよ」

[テープと譜面を渡した 一週間後]

「シャボン玉ホリデー」のVTRを撮っているスタジオに顔を出した楊さんが、「詞が上がってきたよ」と言って、僕に封筒を渡した。

「〈ユア・ベイビー〉作詞、安井かずみ」と書いてある

(略)

 ジャズ喫茶で歌うと、結構、反応がいい。ブルージーンズを担当していたキングレコードのディレクターが聞きにきて、

「加瀬君、これはシングルレコードで出そうよ。なかなか新鮮だよ」

「本当ですか?でも、誰に歌わせるんですか?」

「君たちで歌うんだよ」(略)

「僕たち、歌はド素人ですよ」

(略)

歌を入れるために一本のマイクを五人で取り囲んだが、照れているのか自信がないからなのか、みんなマイクからだんだん離れていって、ディレクターから、「大丈夫、大丈夫。自信を持ってもっとマイクに近づいて。なかなかいいよ」と、何度も言われた。

(略)

特に寺さんのファルセットがよく、この人、こんな声も出せるんだ、とこのときはじめて知った。

 一九六五年八月に〈ユア・ベイビー〉は発売され(略)発売一か月後にフジテレビの「ヒットパレード」に十八位で登場した。(略)[インスト演奏や歌手]のバックなどでは出演していたが、自分たちが演奏して歌うとは。しかも自作曲を。

(略)

 おそらく、グループがオリジナルを自分たちで演奏しながら歌うのは日本ではじめてのことだったと思う。(略)

[テレビを見た作詞家志望の人が曲をつけてくれと〈ノーノーボーイ〉を持ち込んできた]

「悪いけど、まだ詞にメロディーをつけたことはないので、誰か他の人に作曲してもらったらどうですか。そうだ、かまやつひろしさんがいいよ」

 かまやつさんも、まだそのころは作曲をしていなかったと思うけど、何となくそんな言葉が口から出た。

(略)

 しばらくして、ジャズ喫茶でかまやつさんに会った。

「加瀬、〈ノーノーボーイ〉っていう曲を作ったから聞いてくれないか。詞は少し変えたけど」(略)

「かまやつさん。これいいね!僕が作曲しなくてよかった。こんなふうにはきっと作れなかったと思うよ」

「本当にそう思う?」

と上目づかいに僕を見た。(略)

[1ヶ月後の正月かくし芸大会の楽屋]

隣りにブルーコメッツの井上大ちゃんが座った。

「ねえねえ、加瀬が作曲した曲がヒットパレードのチャートに入って来たんだって?」(略)

「俺も作曲しようかな」(略)

 そして井上大ちゃんが作曲したのが、〈青い瞳〉という歌だった。(略)

そして売れたのだ。歌謡曲、演歌の間をすり抜けるようにして。

 ブルーコメッツも、ブルージーンズと同じように(略)[歌手の]バック演奏をしていた。(略)

半年ぐらいの間に、ブルージーンズ、スパイダース、ブルーコメッツにオリジナル曲第一弾が生まれたのである。

 まだグループサウンズ、GSという言葉はなかったのだが、日本の音楽も確実に変化し始めた。

(略)

ブルージーンズはやめたけど……

(略)

[最終回のステージ、内田裕也が話を振ってくれず]

 そのままステージは終わってしまった。僕のファンも結構来ていたのに。三年間も一緒にやってきたのに。最後の言葉もちゃんと決めていたのに。なぜ?どうして?

 以前、他のメンバーがやめたときは、本人が挨拶をし、僕たちも一人一人送る言葉などをしゃべった。けれど、今回は最後まで内田氏の口から「今日で加瀬はブルージーンズをやめます」の発言はなかった。きっと、僕の身勝手なやめ方に内田氏のハラワタが煮えくり返っていたのだろう。

(略)

[数日後、会社に呼び出され]

おそるおそる渡辺プロの会議室で待っていると、ニコニコしながら入ってくる松下部長。(略)

「おい、加瀬。これから何をするか決めているのか?」

「一年くらい休学してアメリカにでも行って来ようと思っているのですけれど」

「やめとけ。外国に行って、そんなに簡単に音楽でメシが食えるものじゃないぞ。今までと同じ給料を出すから渡辺プロに残れ」

「仕事もしていないのに給料をくれるのですか?」

「そうだ。社長がそう言ったのだ。お前の作曲に期待しているのだと俺は思う。だからアメリカなどに行くなよ。わかったな!」

(略)

何もしないで渡辺プロダクションから給料をもらっているのも悪いから、早くグループを結成しなくてはと思い、どんなグループにするか、自分なりにコンセプトを考えてみた。

 

1 ビートルズと同じ四人編成。

2 全員ボーカルとコーラスができる。

3 まだプロの世界に毒されていないフレッシュな人。

4 僕より若い人。できれば十代。

5 アイビーファッションが似合い、清潔感のある人。

6 人に好感を持たせる人間性。

7 音楽的には、アメリカン・ポップス、リバプールサウンドが好きであること。

8 山より海が好きな人。

 

 自分のカラーに合っていて、今の日本にないグループを組むとしたら、こんなところかな、と思った。

(略)

[現在の音楽状況で]どのようなグループを新たに誕生させたらよいのか?

 そうだ!フォークロックだ。

 見た感じは、大学のキャンパスでギターを抱え、反戦歌ではなくソフトなフォークソングを歌っている大学生のイメージ。サウンドは(略)バーズやママス&パパス。曲調は加山雄三氏の海の香りのするメロディーと詞。それに、もちろんビートルズのテイストを加えて。

(略)

 さあ、コンセプトも決まったし、これからメンバー探しだ。

メンバー探し、植田芳暁

[まず知人の「平凡パンチ」記者にメンバー公募の記事を書いてもらう。

ヤマハにブルージーンズ・カスタムを作ってもらった縁があったので、渋谷店に行き猛プッシュ]

「それではモニターということで、ギターを加瀬さんに提供しましょう」

「ありがとうございます。あとベースとエレキギターをもう一本、ドラムセット一式、シンバルもお願いいたします。(略)あっ、大事な物を忘れていた、最近ヤマハで出したギター・アンプ二台とベース・アンプ一台。そのくらいかな?」

「ちょっと待ってください。ようするに新しいバンドの楽器全部ということですか?」

「そういうことになりますね。僕は全部ヤマハの楽器で揃えたいのです。まだそういうバンドはないでしょ」

「確かにありません。ですが、これだけの楽器を提供するには、私の一存ではできません」(略)

[浜松の本社の上司にも猛プッシュ]

「わかりました。それではご希望の楽器は全部提供しますから、はじめだけでなく末長くヤマハの楽器を使ってくださいよ」

 それから三十五年。僕は今でもヤマハのギターを使っている。

 渋谷の店長もやれやれという感じで、カタログから僕の希望する楽器を選ばせてくれた。お金のことを心配せずに物を選べるというのは、実に豊かな気分にしてくれるとつくづく思った。(略)

「近々、メンバー全員連れてきてくださいよ」

「そうしたいのですが、まだ一人も決まっていないんですよ」

 店長は、こいつ、大丈夫かな?というような顔をして、

「それではメンバーが決定した時点で、楽器をお渡ししましょう」

 僕が楽器詐欺をするとでも思ったのかもしれない。そんなことはないか。

(略)

[エレベーターを待つ間に店長が]

 「加瀬さん、ヤマハの『ウイス』というサークルをご存知ですか?

(略)

確か、三十~四十グループぐらいあると聞いています

(略)

池袋のヤマハ店が中心となってやっていますから、連絡してみたらどうですか。(略)」

(略)

[早速池袋へ]

「加瀬さんは特にどんなタイプのミュージシャンを探しているのですか?」

「(略)一番むずかしいのは、ドラムを叩きながら歌う人です。(略)ウイスにそういう人はいませんかね?」(略)

「アメリカンスクールの生徒が作っているバンドがあって(略)外人のギターが結構うまいですよ(略)ドラマーは日本人で(略)結構個性的なドラムを叩きます。歌は?どうだったかなあ。(略)

[川崎駅前ダンスホール]のジャックスという専属バンドで、アルバイトみたいな形で叩いているそうですよ」

(略)

[早速視察]

ステージも終わりかな、と思ったとき、ビートルズの〈ロックン・ロール・ミュージック〉。何とドラマーが叩きながら歌っている。顎を突き出し、ちょっと苦しそうな感じだが、ややハスキーな声で、英語も英語らしく聞こえる。(略)まだ垢抜けしてないが、真面目そうな男だ。(略)ドラムの叩き方も個性がある。

「ガンさん、どうかね?磨けば光りそうじゃない?」

「歌いながらドラムを叩いても、そんなにリズムは狂わなかったですね」

(略)

[ドラマーと面談]

 突然、歩調をゆるめて歌うドラマーが言った。真剣な表情だった。(略)

「僕の本名は大串安広ですが、大串というのは焼鳥とかウナギ屋のイメージなので、ミュージシャンの芸名には合わないと思って、名前を変えたいのです(略)

植田芳暁という名前にしたいのです」(略)

「植田芳暁って名前は、自分で考えたの?姓名判断で調べたの?」

「いえ、僕の友人の名前をもらったんです」

鳥塚繁樹

[メンバー探しを依頼してあったファンの立教女子学生から電話]

「(略)[先輩に]加瀬さんの話をしたら、『ビートルズが好きで、そういったバンドをやりたい、と言っていたやつが確か二年生にいたよ。彼は今カントリーのバンドにいると思うよ』と言われたんです(略)

(略)

『甘い声で、見た感じは、そうだなぁ、ジャニーズにいるあおい輝彦にちょっと似ているかな』と言ったので(略)迷ったのですけど、思いきって電話しました。(略)」

(略)

店内を見回すと、こちらを見て会釈する目がギョロッとした青年が座っていた。(略)

「鳥塚繁樹です。はじめまして」と折り目正しく言った。

(略)

条件の5「アイビーファッションが似合い、清潔感のある人」にピッタリだ。

(略)

「カントリーをやってるんだって?」

「(略)最近はそれだけでは盛り上がらないので、ビートルズの曲もやってます、先日地方のステージのときには加山雄三さんの〈君といつまでも〉をやったら受けましたよ」

(略)

 彼は立教大学の二年生で十九歳。

(略)

まずは歌を聞いてみなくては始まらない。(略)

 有楽町駅に近い(略)松井ビルの五階が渡辺プロ、四階が渡辺音楽出版である。(略)渡辺音楽出版と書いてあるドアを開けようとしたら(略)

「おう、加瀬じゃないか。何しに来たんだ?」

「あれ!加山さん。(略)」 ビックリして、何を言っていいかわからず、ただ声を出していた。何しろ、当時、人気絶頂の加山雄三さんだ。やたらに眩しかった。

「俺は新曲の打ち合わせに来たんだよ。じゃ、またな」

(略)

わずか数秒の間だった。一緒にいた鳥塚は、目をパチクリ(略)

彼にしてみれば、先輩にうむを言わさず指示され、二日後に僕に会っていろいろな話を聞かされたあげく、二時間後に加山さんにバッタリ会ったわけで、まるでジェットコースターでお化け屋敷を通過したような気分だっただろう。

(略)

「それでは、〈500マイル〉を歌います」(略)

確かに甘い声だ。なかなかいいぞ。歌うドラマーとは違う声質だけど、そのほうがグループのレパートリーが広がって、かえっていいかもしれない。(略)

ビートルズの〈ガール〉(略)

英語の発音も丁寧で、きちっと歌っている。

(略)

 三人で柴田先生の弾くピアノのうしろに並んで、アー、オー、と発声練習

(略)

「この前、加瀬君が言っていた〈夢のカリフォルニア〉のレコードを買ったよ(略)

まだこういう曲を日本で歌っているグループはいないから面白いね。(略)三人の音域がわかったから、コーラスアレンジを今日からでも始めるよ

(略)

この曲のなかで、サスフォーというコードを使っているんだ。ジャズでは使っているけど、ポップスではまだ聞いたことがないなあ。加瀬君、知ってる?」

「いや、知りません」

(略)

[平凡パンチ募集でゲットしたベースと合同練習後]

鳥塚が、ボソッと言った。

「あのベースマンとは、僕は一緒にやっていけないと思います」

 ずいぶんハッキリ言うなあ、と思った。当然聞こえているはずの植田は何の反応も示さない。ということは、先日、僕の家でミーティングしたあと、二人でそのことを話し合ったのかもしれない。

 僕は「どうして?」と聞き返さず、「彼のことは俺も今考慮中なんだよ」と言ったので、その話題はそれ以上発展しなかった。

 実際、今日の練習でみんなとシックリいかない雰囲気があったのは確かだ。しかし、他にベースを弾いて歌う人の当てはなかった。

 話は三日後に来日するビートルズのことになった。僕は東芝レコードのディレクターからチケットをもらったが、鳥塚は抽選で当たったらしい。

(略)

[遂に、ビートルズ公演]

 ジョンのギターからロックンロール・ミュージックは始まった。サウンド的には(略)リバプール・ファイブのほうが衝撃的だった。コーラスのバランスなどもよくないが、そんなことは問題でない。

 本物のビートルズが目の前で演奏して、歌っているのだ。しかもポールなどは、こっちを向いて手を振ってくれているではないか。

 よい音はレコードで聞けばいい。これはライブだ。

(略)

あっという間の三十分だった。しばし放心状態の僕。見たぞ。聞いたぞ。

(略)

 よっし、やるぞ!僕も自分のグループを作って、自分たちで作った曲を歌うぞ!

合宿の前日に決まったメンバー三号(島英二) 

(略)

 武道館のステージの余韻に浸りながら、夢はふくらみ(略)

 合宿だ!合宿をしよう。(略)

[友達の父親が『伊東園ホテル』大株主、昼間空いている地下のバーが練習場]

広い和室一間を朝晩食事つきで、なんと一人八百円。もちろん温泉は二十四時間いつでも入れる。

(略)

平凡パンチ募集ベースマンには連絡しかねていた[ところに、後輩から電話](略)

「加瀬さんに言われて探したんですけど、一人だけいました。(略)エレキギターが弾けて、容姿は加山雄三さんにちょっと似た感じなんですよ」

(略)

[渋谷駅前『ユーハイム』で待ち合わせ]

「はじめまして。島雄一です。こっちが弟の英二です」(略)

バンドのコンセプトを話し、兄の雄一君が僕にいろいろ質問した。その間、弟の英二君は下を向いて黙っている。(略)

[翌々日の練習日]

「あれ、お兄さんは?」(略)

「今日は一人で来ました」

「お兄さん、来ないの?」

「兄はドラムをやっていて、ギターは僕なんです」

(略)

彼はブルージーンズのファンだったので、僕に会って緊張して一言も話せなかったとのこと。

(略)

ベースを渡された島はキョトンとしている。(略)

 そうだ。まだ彼にベースをやってくれとは言っていなかったのだ。

「(略)ベースはギターより弦が二本少ないから、ギターが弾ければできるよ。とにかくやってみろよ」

(略)

二時間の練習が終わるころには、僕は決めていた。(略)パンチ募集ベースマンはカットしよう。明日からの合宿にはこの島英二を連れて行こう。

(略)

[合宿]二日目。朝の発声練習をやってから、楽器を使っての本格的な練習が始まった。東京での練習で、ある程度覚悟はしていたが、やはりひどい。(略)

 夕食前に、大浴場のエンジェル風呂に浸りながら、やはり考えが甘かった(略)力が抜けていく自分を感じていた。

(略)

 あっという間に一週間がたってしまい、渡辺プロダクションの池田マネージャーと渡辺音楽出版の楊さんが様子を見に来た。(略)

[いろいろ言い訳をし予防線を張ってから演奏]

池田マネージャーがようやく言った。

「まだ音がまとまるまで時間はかかると思うけど、新鮮だよ。あとひと月ぐらい、このメンバーでやってみて、それからどうするか決めればいいんじゃないの」

僕も同じように思っていたのでホッとした。

(略)

[以前、バンドを作るか、就職するかを加山に相談した際]

「加瀬、芸能界はそんなに甘いもんじゃないぞ。でも本気でやる気があるのなら、一生続けるつもりでやってみろ。俺の影響で音楽をやるようになったんだから、俺にも責任がある。新しいグループを作るんなら、名前を考えてやろう。(略)」

(略)

[ということで、合宿後、メンバーを横に、加山に電話]

「オー、加瀬か。ちゃんと考えたぞ(略)

ザ・ワイルド・ワンズ」 (略)

「どういう意味ですか?」(略)

「自然児という意味だよ。アメリカでもジェームス・ディーンみたいなカッコいい男をワイルド・ワンズというんだ。どっちかというと、お前も生まれてきたまんまの自然児だよ。ハハハハハ……」

(略)

三人ともキョトンとしている。「へーっ、いい名前ですね」とは誰も言わない。僕もまだピンと来ていない。(略)

[何度か声に出して、次第にピンと来るように]

「それにしても、何で加瀬さんはそんなに加山さんと親しいのですか?」

「そうか、まだみんなに加山さんとの出会いと、僕が音楽を始めるようになったきっかけを話していなかったね」

すべては湘南・茅ヶ崎から始まった

 一九五七年の秋(略)東京から(略)茅ヶ崎に引っ越した。僕は慶應高校の一年生だった。家のまわりは畑だし(略)すごい田舎に来てしまったと思った。

(略)

[湘南電車で通学、藤沢駅でセーラー服の女子高校生が二人乗車、ひとりは]

今まで僕が見た女性のなかでは一番と思えるほどのかわいさだ。とりわけ目がよかった。ハーフではないと思うが、ちょっと日本人離れした顔立ち。胸がドキドキした。 彼女たちも茅ヶ崎駅で下車し、僕と同じ自転車を預けている所に入って行くではないか。

(略)

彼女たちは真っ直ぐに行く。 あとについて行く勇気もなく、左に曲がった。

(略)

同じことの繰り返しが五日間続いた。[そして冬休みに](略)

声をかけて、名前だけでも聞けばよかったな。彼女も絶対に意識していたはずだ。

(略)

[先輩から上原謙宅のクリスマス・パーティに誘われ]

家から歩いて七、八分の所にある上原謙さんのお宅に向かった。(略)

大きな門の横にある木戸が開いた。(略)あの少女がそこに立っている。相手もビッ クリした顔で僕を見た。ほんの数秒間だが、時間が止まった。

(略)

ガレージの裏の建物(略)三十坪ほどの広さで、床はフローリング、壁には大きな鏡が取りつけられていて、バレエの練習のときに使うバーがついている。(略)

 女性たちはペチコートを下にはいた落下傘スカート。まるで映画で見るアメリカの若者のパーティ会場といった雰囲気だ。

(略)

彼女もペチコートでブルーの水玉の落下傘スカート。袖の短い白いブラウス。薄く化粧をしている。セーラー服のときよりずっとおとなに見え、何か圧倒される。

(略)

「それじゃあ君の名前は上原っていうんだ。下の名前は?」

「やぁね、上原は父親の芸名よ。本名は池端。池端章子です。あなたは?」

(略)

「私は湘南白百合高校の一年で、兄はあなたの先輩で慶應大学の二年生よ。今紹介するわね」

(略)

 四年先輩だとめっぽうおとなに見え、それ以上話すことはできなかった。

 まさかこのとき、二年半後に加山雄三という芸名で芸能界にデビューするなど、本人も思っていなかっただろうし、僕もこの出会いが自分の人生を決める重要なターニングポイントになるとは、思ってもみなかった。

(略)

 冬休みも終わり、学校の帰りにまた湘南電車で彼女たちと一緒になり

(略)

「この前、プレスリーが好きと言っていたでしょ?私の家にレコードがたくさんあるから、今度の日曜でも遊びに来れば」

(略)

プレスリー、パット・ブーン、ニール・セダカなど僕の大好きなレコードが一杯。

 音響設備も素晴らしく(略)今まで聞いたこともないいい音がスピーカーから溢れてきた。

 窓の外には茅ヶ崎の海、その先に烏帽子岩が見える。時間がたつのも忘れてレコードを聞き、彼女からジルバのレッスンを受けていると、お母さんがお手伝いさんと一緒に、紅茶とクッキーを持って来てくれた。

(略)

[夕方]

勝手口に置いてきた自転車の所に行くと、なんとボロボロだった僕の自転車がすっかり綺麗になっているではないか。錆もなくなっているし、垂れ下がっていた電気のコードも綺麗に巻かれている。

 そのとき、うしろから声がした。

「あまり汚なかったから、直しておいてあげたよ」

 振り返った僕の目に映ったのは、キャップを被って微笑んでいる人。あっ!上原謙さんだ。

 僕のおふくろからもさんざん聞かされていた世紀の二枚目俳優だ。

(略)

 休日にゆっくりと書斎でクラシックのレコードを聞いていたかったのに、娘のボーイフレンドに占領されて、仕方なく僕の自転車を直してくれていたのかもしれない。

(略)

「物は大切にしなくてはダメだよ。錆止めも塗っておいたし、ライトもつくようにしておいたよ。ハイ、お大事に。ハハハハ……」

(略)

[二月、彼女からプレゼントを渡され]

「なぁに、これ。誕生日は来月だよ」

「今日は何日か知ってる?」

「えーと、二月十四日だろ」

「だから、わからないの?」

「クリスマスと誕生日以外にプレゼントもらえる日なんてあるの?」

「知らないかもしれないと思って、そのなかにあるカードに書いておいたから、家に帰って見てね」

(略)

女の子からのプレゼントは生まれてはじめてだ(略)

 赤いリボンをとき、白い包装紙を開けると、真白い毛糸で編んだハイソックスが出てきた。

(略)

〈今日は一年で一度だけ、女性が好きな男性にプレゼントできるバレンタインデーです。はじめて編んだので見た目はよくありませんが、気持ちはこもっています。スキーのときにでも履いてください。AKIKO。〉

(略)

赤いカードを何度も読み返した。プレスリーの〈ラヴィング・ユー〉を口ずさみながら。

(略)

 彼女のお兄さんが慶應の同窓生と作っているバンド、カントリー・クロップス(略)を見て、はじめて 楽器に興味を持つようになった。そして音楽をやる楽しみを知った。

 彼女のお兄さんは、ギター、ドラム、ベース、ピアノと何でもこなせたが、このグループでやるときは、ボーカルとアコースティック・ギターだった。

 プレスリーの曲はそっくりに歌うし、見ていてもカッコよかった。(略)

プールで泳いでも速いし、海に潜っても、僕がサザエをようやく一個取ってくると、お兄さんは一回潜って三、四個は持って上がってくる。スキーも(略)片足を上げて一回転するアクロバットスキーなどを披露する。(略)

自分で丁寧に設計図を描いてカヌーやモーターボートを作ってしまうのだ。

(略)

 いつの間にか僕のヒーローになっていった。

「僕にギターを教えてください」

(略)

 高校卒業も近づいたころ、渋谷駅の売店の週刊誌に目をやると「上原謙の息子、東宝に決定」とあった。やった!

 僕のヒーローはこれで、大勢の人々のヒーローになる。目頭が熱くなった。

次回に続く。

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一人盆踊り 友川カズキ

基本は過去に発表した文章なのですが、最後の方の語り下ろしによる海外ツアー話が面白かったので紹介。

欧米七カ国・一人盆踊り出たとこ勝負

 どういう因果か、五十歳を過ぎた頃から海外からのライブオファーがポロポロ来るようになったんですよ。初めは「ほう、外国ね」という感じで。特段、感じ入るものもなかったんですけどね。(略)

当時の所属レーベルのオーナーから「実は友川さんのCDは外国からの注文が多いんです」とは聞いていて。しかし、一体何考えて私みたいな面倒な者をわざわざ呼ぼうというのか。そもそもどうやって私のような無名歌手に辿り着いたのか。疑問符だらけでしたし、「まぁ、ギャラさえいいなら、ちょっくら行ってみっか」程度の気持でしかなかったんです。

 最初はスコットランドかな。仕事はもちろん、海外に行くこと自体が初めてのことでしたし、生涯行く機会はないと思ってましたから。

(略)

初めて降り立ったヒースロー空港で、いきなり大トラブル。(略)就労ビザの取得と発送が遅れて、私たちの手元には主催者からFAXで送られてきたコピーしかなかったんです。そしたら、入国審査で「原本じゃなきゃダメだ」と言われちゃったらしくて。

(略)

[物販用CDを見せても]全然信用してくれない。遂に(略)ギター出してその場で歌おうとしたら、大関君に「かえって面倒なことになるので、やめてください!」って制止されちゃって。(略)

 小一時間もかかって、乗り継ぎ便の出発間際になって、ようやくOKが出て。二人で空港の中を猛然と走って(略)着席した瞬間に離陸ですよ。(略)

グラスゴー空港に着いたら着いたで、迎えに来ているはずの現地スタッフが来てなくて。

(略)

[一時間遅刻した]男が全然悪びれないというか、謝るでもなし、やたらニコニコして「ハロー」とか言っちゃって。こっちも日本だったら軽く悪態つくところなんですが、「やっと来たか」という安堵感が先行して、怒る気にもならなくて。そもそも怒鳴りたくても、英語喋れないし。

 ライブ開催地のスターリングは田舎っぽい感じのする街で、会場は古い建物でした。そのイベントには私以外にも灰野敬二とか、日本のミュージシャンが何組か出演してました。お客さんは二百人くらい入っていたかな。

 招聘に尽力してくれたのは、アラン・カミングスさんという日本文化の研究者の方です。今はロンドン大学で先生をしているそうですが、それまでも私の歌詞を英訳してCDのブックレットに載せてくれたりしていたんですね。で、ステージでも初めはアランさんが曲間で私の歌について説明めいたことを喋ってくれていたんだけど、その「間」がどうにもシラーッとしてね。途中からアランさんに「もういいです」って言って、あとは歌だけバーって歌って。出番は短かったし、どうにか勢いで乗り切った感じでしたね。

 これは、ある意味で凄く勉強になった。というのは、日本では曲間のMCであることないことベラベラ喋ってますけど、必ずしも必要ないんだな、と。つまり、ライブに関して言えば、言葉が通じなくて何とかなるもんだと。とりあえず主催者に軽く紹介さえしてもらえればね、あとは勢いで。ただやっぱり、「つかみ」は必要。それは現地の言葉を喋れる人に頼るしかない。いきなり俺の歌を聴かされても、お客は追い剥ぎに遭ったようなもんでしょうから。その辺の塩梅っていうのかな、この時の経験が後の海外公演でも活きてると思うんですけどね。

 自分ではあまり手応えはなかったんですが、アフターパーティーでお客さんたちに「良かったよ」みたいなこと言われて、ついついのぼせちゃって。

(略)

 

 初めて海外に行ってみて感じたのは、「ああ、もっと若い時に来るべきだったなぁ」ということ。(略)動いていると、ボンヤリとでも体の中に生まれてくるものってあるのよ。言葉じゃなくても。それが大事なんですよね。(略)

二度目の海外ツアー以降、できるだけ息子たちを帯同するようになったのも、そういう実体験からなんです。

 つまり、外国に立つと、とんでもなく「見えて」くるんですね、自分が。意識せずとも自分を俯瞰で見ている感じがするの。日本にいると、どこまで行っても所詮ニッポンだから。立脚点に大差ないのよ。言葉は通じるし、食い物だって大きくは変わらないし。風景だったり、季節感だったりが多少違うだけで、全く「異」なるものを知る、皮膚が裏返るような感覚を味わうというのは、外国に行ってみないと、まずない。

 だから、私も齢五十を過ぎて、遅まきながら「自分とは何なんだろう?」とか、「日本って何なんだろう?」みたいなことを考えたりもしたんだね。ボンヤリと。

 融通が利かない、ということも実に新鮮でしたね。日本国内であれば、仮にトラブルやアクシデントがあっても、心のどこかで「なんとかなる」って思ってるし、実際どうにかなる。(略)「どうしたらいいかわからない」ということはまずないから。

(略)

自分が変わったんだね、どこかで。「また何かコトを起こしたい」みたいな。

 よく暇さえあれば外国ばっかり行ってる人いるでしょ?私にはあれが不思議だったんだけど、その時ちょっとわかった気がした。感覚として。自分が収まりきらないのよ。もっともっと危なっかしい場所に立ちたいっていう、妙な感じですよね。不安が楽しくなってくるのよ。言葉が通じない快感、っていうか。喫茶店でコーヒーひとつ注文するのもドキドキするし、「刺されるかもしれないど」「燃やされるかもしれないど」っていう変なワクワク感があるわけですよ。

 それもやっぱり、表現者の端くれだっていう自意識が、良い悪いを別にして、自分のなかにあるからなんですね。危なっかしい場所を自分自身で作り出すのはかなり才能が要るから。実はそれはステージに一番あるんだけどね。「暗黙の了解」が通じないという緊張感。外国に行くと、簡単にそれが実感できるのよ。

(略)

 

 次に海外に行くことになったのが、その三年後。フランス、ベルギー、スイスの一一都市を二週間くらいの日程で車で回るというツアーでしたね。

 これはね、辛かった。本当に辛かった。

 そもそも日程を詰め込み過ぎたということが大前提としてあって。ある程度まとま った収入を得るには、そうしなければならないという事情もあったんですけどね。

 段取りをしてくれたのはミッシェルというフランス人の男性で、当時は郵便局員をしてました。彼が長期休暇を取って、ブッキングから宿泊の手配、ワゴン車の運転まで全部一人でやってくれて。高速道路を十時間くらいぶっ続けで走行したりもしました。彼一人で三人分くらい頑張ってた感じするよね。彼が偉いのは、私たちの前で疲れた様子を一切見せないのよ。ある意味、日本人より日本人的な人でしたね。

 だから、私も疲れた顔は見せられなくて。日本に帰って来てから二週間寝込みましたけどね。さすがにこの時は、「このままどこかに行きたい」とは思わなかった。とにかく眠いし、日本食が恋しくて。

 食べ物が合わない辛さを本格的に味わったのが、この欧州ツアーでした。(略)とにかくなにもかもが口に合わなくて。パンは不味くはないけど飽きるし、ステーキはタイヤみたいだし、エスカルゴはただひたすらションベン臭いし。

 飢餓感というより、もはや絶望感。途中からジャケットの内ポケットに醬油の小瓶を入れて、何にでもかけて、無理やり胃に流し込んでましたが、何を食べても何かが足りないわけ。塩分だったり、汁っ気だったり。米が食いたいし、あとはやっぱり味噌汁ね。(略)[三上寛、灰野敬二が]日本からインスタントの味噌汁を持ち込んでて。有り難そうに食べてるのを見て、「何を味噌汁ごときを大層に……」と鼻で笑ってたんだけど、なんのなんの。私も時間の問題でしたね。とにかく、日本のダシの感じが欲しくてたまらなくて。

 唯一、ストラスブールの街で見つけたスパゲッティ屋だけは美味くて、大盛りを頼んで同行の若いスタッフたちと奪い合って食べたのを覚えてます。

 ライブの集客も、入ったり入らなかったりで。リヨンの船の中でやったコンサートは十人足らずしかお客がいませんでしたよ。全然テンション上がらなくて、参っちゃいました。

(略)

 宿泊場所も民泊だったり、ライブ会場だったりで、必ずしも歓迎されてない感じもしたな。

(略)

帰国の途上、経由地の仁川空港の食堂で辛いラーメンみたいなやつをみんなで食べたんだけど、これも激しい奪い合いになりました。汁が美味くて美味くて。軽く泣きました。

 このヨーロッパの旅があったからこそ、ある程度の免疫ができたというか、海外でも少々のことではひるまなくなりましたね。まず食事には一切期待しなくなったし。とはいえ、毎回それなりにダメージは受けるんですけれども。

 二度目のイギリス公演、この時はグラスゴーとロンドンでライブをしたんですが、やはり食では何度かひどい目に遭いました。

(略)

フィッシュ・アンド・チップスってやつも、臭くてねぇ。油が臭くて。やっぱり、イギリスは住めないなと思いました。言葉はもとより、舌だけはね。この歳になると、どうにも慣れませんね。

(略)

 このイギリスツアーでは、もうひとつ、忘れられない出逢いがありました。(略)リオネルっていうフランス人のファンとの交流ね。(略)

外見的なインパクトが凄くて。太ってて、禿げてて、なんか遠目にもハァハァ言ってるし。(略)私の周りによくいがちな、全く人の話聞かないタイプ。こちらが全然英語わからないのに、ずーっと何か喋っててね。(略)訊いたら仕事はしてないらしくて、「世界一明るい無職」って感じで。「ちょっと危ないなぁ」と警戒しつつも、LPやらCDやら、私のグッズはほとんど揃えて持って来てるし、どうも邪険には扱えなくて。

 ライブもほとんど一人で彼が盛り上げてくれてね。もうキャンキャン言っちゃって、周りの観客も巻き込んでさ。私は「聴いてる方も表現者だ」って常々言ってますが、まさに彼のやってることは自爆テロ。それって表現の本質でもあるのよ。

(略)

 ロンドン公演は(略)観客がみんな真剣に聴いてくれてる感じがして。結構人も入ったんですが、シーンとして聴いてくれましたね。グラスゴーもそうでしたが、物販のCDが開演前からメチャクチャ売れたりして。びっくりしましたね。「ほう、何気に需要あるんだな」と思って。

(略)

 

 さらに近年になって、ウクライナ、ドイツ、そしてアメリカと旅して回りました。ウクライナはいろいろと衝撃的でしたね。(略)[空港の]入国審査の係員が軍服を着た人たちで。(略)キエフは思いの外大都市だったんですけど(略)道沿いに志願兵の募集看板が林立してたりしてね。つまりは、「有事」なんだな、と。

 キエフでの食事は結構美味しくて、とにかく何にせよ値段が安いの。(略)タバコなんかも日本の五分の一くらいか。(略)主催者が用意してくれたホテルもやたら豪華で(略)

一番衝撃だったのは、とにかく女性が綺麗なのよ。ホテルの食堂のウェイトレスにしろ、道ゆく女学生にしろ、いちいち映画女優みたいでね。(略)世界中の美人を集めました、っていう感じで。

(略)

会場は冷戦時代に国立のフィルムセンターだったらしいんだけど、巨大な廃墟みたいなところでね。行って見たら、主催者が既に四百人も予約が入ってるって言うのよ。

(略)「本当に入るのかしら」って(略)信じられなくて。

 実際、開場が近づいても客足はまばら。開演前になってようやく、ゾロゾロと人の群れが会場に入って来たのよ。「四百人って、本当なんだなぁ」ってね。(略)[開演前にバルコニーで]タバコ吸ってたら、ロシアから何十時間もかけて観に来たっていう夫婦に声かけられてね。「ワルツ」が大好きだって言って、リクエストしてくれて。「よぉし、この人のために歌おう」ってね、凄い激励になった。他にもやけに雰囲気のある老女に黄色い花束をプレゼントされたり、不思議なひとときでしたね。

 会場が広い分、あるいは散漫な雰囲気になるんじゃないかと危惧したりもしていたんですが、これも杞憂でした。みんな黙って聴いてて、一曲終わるごとにちゃんと拍手してくれて。アンコールも三回くらいあったしね。曲もある程度知ってる感じがして、「どうしてだろう?」と思ったんだけど(略)主催者の男性は『花々の過失』という私のドキュメンタリー映画を撮ったヴィンセント・ムーンと知り合いだったんです。ヴィンセントの影響力というのは凄くて、四百人も集まったのも彼の映像の力によるところが大きかった。私はあの映画はあまり気に入ってませんけど、実際そういうこともあるんだな。

 同時にやはり、「一歩外に出れば戦争真っ只中」という切迫した空気も街や人に感じましたし、打ち上げで連れて行かれたバーでの若者たちの弾け方などを見てもね。 どこか「今を楽しむ」切実さのようなものがあって、そういう意味でもウクライナは特別な感じがしましたね。なにもかもが、只事じゃないんだぞ、っていう。

(略)

 

[ドイツのレバークーゼンは]ライブ会場の屋根裏に宿泊施設が付いていて、ここも快適でしたね。

(略)

あのリオネルが来ていたんですね。(略)相変わらずニコニコしてて、無駄に恰幅が良くて。ただ服装はボロボロで、靴には穴が空いてました。懐かしい一方で、「ああ、本当に無職だったんだな」と思ってね。実際、なけなしの金を使って、フランスから高速バスで来たというんです。とりあえず再会のハグを交わして、中に入ってもらって、一緒に朝食を食べました。そしたら食うわ食うわ。なんかパンの種類がどうのこうの、文句っぽいことも言ってるんですが、とにかく遠慮とか卑屈めいた感じは一切なくて。貧乏旅行の極意を垣間見た感じでね、妙に清々しくて。

 その後、会場からケルンまでは電車で数十分の距離でしたので、膨大なピカソのコレクションがあるという「ルートヴィッヒ美術館」に出かけました。リオネルは見るからに金ないし、みんなで少しずつカンパしてあげて。電車の中でも嬉しそうにずーっと大関君に話しかけてましたよ。

(略)

 この美術館がまた、素晴らしくて。スケールといい、所蔵している作品の質量といい、日本の美術館とはやはり桁違いでした。警備もやたら開放的で、日本みたいにケチケチしてなくて、みんな普通に写真撮ってるし。要するに、「事業」っぽくないのよ。良い絵画がいっぱいありましたが、やはりピカソは群を抜いていた。ピカソ展は渋谷の文化村でも観たことはあったんですが、その時とは全然印象が違いましたね。ちょっとした習作的なものにも「恐ろしい才気だな」と思わせるものが沢山あって、逆にダリの大きな作品なんかは全く見劣りしちゃってね。これはモノが違う、と。ナマで観て比べてみると、あからさまなんですね。

(略)

 肝心のライブは四十人くらいしか入らなくてね。音響も良くなくて、テンションを無理やり作るしかなかった。「まぁ、こんなもんか」と。ちょっと、ウクライナとの落差は凄かったですけども。

 ただ、ライブ後に外でビール呑んでたら、これまた面白い男に引っかかってさ。パブロという名の青年で、独学で日本映画を研究してるっていうんですよ。メチャクチャ博識で、大河内傳次郎とか、片岡千恵蔵とか、嵐寛寿郎とか、古い日本映画のスターの名前がスラスラ出てくるの。小児麻痺かなんかの後遺症で、独特のしゃがれ声なんだけど、その声で勝新太郎の座頭市のモノマネしてさ。これが似てるのよ。私の歌もよく知っていてね。一生懸命、好きな曲のタイトルを並べてくれたりして。(略)

だいぶ経ってからいきなり、「私はゲーテのひ孫です」とか言いだして。いやいや、ゲーテって、アナタ。(略)パブロ、また逢いたいなあ。

 あともう一人、ライブ後に興奮して、なんやらスタッフにまくし立てているヒゲのおじさんが居てね。(略)「あなたは日本のヴォルフ・ビエルマンだ」って言ってるんだね。東ドイツの反体制歌手なんだけど、実はかなり昔に羽仁五郎さんから「あなたはビエルマンに似ている」と言われたことがあって。スタッフがそのことを伝えたら、彼もさらに感激しちゃって、なぜかガッツポーズなんかしちゃって。可笑しかったな。

 そういうコミュニケーションって、日本だとあるようであまりないから。

(略)

 

一昨年ですか、遂にアメリカに行くことになって。ニューヨークとロサンゼルスです。実は前から何度かオファーがあったんだけど、ずっと断ってたの。なぜなら、アメリカが嫌いだから。世界の警察ヅラしてるのが許せなくて。

(略)

 いざ行ってみたら、これが非常に楽しくてね。今までの海外ツアーで一番楽しかったんじゃないかと思うくらい。何と言っても、ライブがうまく行ったしね。

 ニューヨークのライブ会場はチェルシー地区っていう、画廊がいっぱいあるところの、でっかいギャラリー。壁には現代美術っぽい作品が展示されていて、お客さんもアート系というか、尖った雰囲気の若者が多かった。何者かになろうとしている(略)「たった一人になれる」人たち。個人であることを怖がってないの。(略)凄く良い緊張感があった。「イエスかノーか、はっきり言うよ」という空気がね。それぞれがちゃんとリスクを背負って、その場にいるというのが伝わってきた。だから私も、「目にモノ見せてやろう」って、気合い入りましたよ。

(略)

アンコールでは「生きてるって言ってみろ」を歌ったんですけど、ちょっと異常な反応で。(略)久々にゾクッと来た。

 ニューヨークでは(略)チャイナタウンでインスタントラーメンの「サッポロ一番みそ」を大量に入手して、毎日食べてまし たね。これさえあれば何も怖くないから。

(略)

 「ニューヨーク近代美術館」も行って良かったな。マティスの「ダンス」という作品が、想像以上に素晴らしくて。あの適当さ。自由さ。塗り残しも多いし、足の指の一部なんか明らかに描き損ねてるじゃないかっていう。(略)そこに何とも言えない凄みがある。前にも図録では観たことがあったんですが、いや、実物を観て圧倒されました。

(略)

ニューヨークでは、人間はどこまでも個人対個人で良いんだということを、いろんな意味で痛感した日々でした。

 ロサンゼルスも別の意味で面白かった。時間の流れ方の違いみたいなものも含めて。

(略)

 ライブ会場はニューヨークとは打って変わって、いかにも老舗っぽいライブハウス。お客さんは若者中心に百五十人くらい集まってくれて、全体にノリが良いというか。意外に静かな曲の反応が良かったって、スタッフが言ってましたけど、自分ではよくわかりません。

(略)

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マッコリ・老酒・高梁酒お茶の子さいさいアジア紀行

 ここ十年くらいの間に、アジアでも三カ国ほど呼ばれて歌いに行きました。韓国、中国が各一回と、台湾が二回ですね。アジアが楽なのは、近いのもあるけど、何と言っても食い物ですよ。しつこいようですが、舌だけは変わりようがないですから。

 

 韓国は(略)朝から晩までマッコリ三昧でしたよ。もともと、どぶろくは大好きだしね。マッコリは呑み口も良いし、次の日に残らないのよ。焼肉も安くて美味しいし、食に関しては何も言うことありませんでしたね。あまり嬉しくて、ライブのMCでも通訳を介してマッコリの話ばっかりしたもんですから、アンコールの時にお客さんのおばさんが気を利かせてステージにボトルを何本か届けてくれました。

(略)

 中国は北京のライブハウスの招聘を受けて行ったんですが、確かに食事は良かった。北京ダックなんか全然好きじゃなかったのに(略)開眼しちゃってね。あれは皮だけ食うもんだと思ってましたが、肉そのものも美味いんですね。その辺の屋台でおそるおそる食べた、何が入ってるかわからないカレー鍋みたいのも美味しくて。

(略)

お客さんも若者が多くてね。スタンディングで、ぎゅうぎゅう詰めだったんだけど、一挙手一投足を目に焼き付けようっていうね。ちょっと怖い感じの集中力と緊張感を感じました。ライブ前、向こうの老酒みたいなものを飲んでて結構酔っていたんですが、ステージに立ったら一気に覚めましたね。ライブの内容はあまり記憶してないんですが、あの張り詰めた雰囲気はしっかり覚えています。

 台湾に関してはね、ちょっと一口には語り尽くせない色んな想い、ありますね。

(略)

 私と台湾との繋がりは、俊仁という向こうで高校の数学の先生をやっている若者が、可愛い奥さんを連れて私の日本でのライブを観にきたことから始まるんです。(略)国内各地でのイベントに遊びに来てくれて。酒酌み交わして、私のスタッフともすっかり打ち解けてね。

 彼が「日本に行くと歓迎してくれるよ」って言ったかどうか知りませんが、やがて台湾の若者たちが次々と私のライブを観に来るようになって。写真家とか、映像作家とか、ミュージシャンとか、大学院生とか。アンテナ張って生きてる感じの人たちなんだけど、みんな明るくて、素直でね。慣れてくるとスタッフの家に泊めてあげて、私も川崎で安くて美味いステーキをご馳走してあげたり、パチスロを教えてあげたり。

 なかでも、王さんっていう男性は、俊仁夫妻と並んで何度も日本に来てくれて。彼は台北で小さい中古レコード屋を経営していて、やがて俊仁と二人で私のファンサイ トを作ったそうなんですよ。俊仁が歌詞を中国語に訳して掲載したり、日本での交流を綴ったりね。そのうちに、この二人が中心になって私の現地ライブを画策し始めて。(略)何年がかりかで遂に実現に至ったんですよ。すぐに「来てくれ」って言わない、謙虚さというか、生真面目さというかも、好感が持てましたね。

 

 初回からもう大歓待してくれて。食べるにしても呑むにしても、私たちに一切金を払わさせないんですよ。申し訳なくてね。でも、彼らは負担とも思っていない感じなの。いや、実際は大変だったんだろうけど、それをこちらに全然感じさせないんです。その辺りも、見事だな、と。

 残念ながら、最初はあのハッカクという香辛料がどうもダメで。やっぱり食べ物は合わないなぁ、と。ただ、高梁酒っていう現地のお酒が美味くてね。かなりキツイ酒なんだけど、独特の旨味とキレがあって、ハマっちゃって。(略)毎日酒盛りよ。

(略)

最近はハッカクも克服しましたし、台湾ならいつ行っても大丈夫かなと。

(略)

 文化の違いといえば、初回の滞在時に俊仁の結婚式に出たのも忘れられない出来事ですね。(略)みんなで大型バスに乗って、台北から数時間かけて彼の地元の嘉義市というところに行って。参加してみて、「カルチャー・ショックってこういうことか」と思いましたね。

 まず、みんな普段着なんですね。王さんなんかサンダル履きだった。俊仁の実家の近くの路上を百メートルくらい封鎖して、でっかいアーケードが設置してあって、その中でひたすら飲み食いするの。会費も安いし、しみったれた挨拶とかセレモニーじみたことは一切なくて。トラックの荷台にしつらえたスピーカーからずっと大音量で音楽が掛かってて、半裸のポールダンサーのお姉さんが踊ってるのよ。まさに祝祭って感じでさ。ストレートに「祝おう」っていう空気があってね。つまり、それって「豊か」なのよ。日本の結婚式って、チマチマしてて変に湿っぽいでしょ?なんか葬式みたいでさ。

 それで、宴もたけなわという段になって、そのムチムチしたポールダンサーが各テーブルを回ってお酌かなんかし始めたのよ。(略)マネージャーの大関君に抱きついてね。異様に巨大なオッパイに無理やり顔を埋めさせちゃって。周囲で大歓声が上がりました。次いで別のスタッフにも同じことし始めてさ。全部、俊仁の差し金だったんだけど。

(略)

 台北ライブのお客さんは二回とも二百五十人くらい集まりましたね。やたら盛り上がっちゃって。あれだけ人が入って、反応が良ければ、やっている方もラクなのよ。無理やりテンション作る必要がないしね。お客さんが自然と「場」を作ってくれるか

 いちいち歓声が凄いんだけど、みんな、俊仁や王さんの熱に浮かされてるのがわか るの。私にじゃなくて、現地スタッフの熱量に巻き込まれてるのよ。だから、その辺りだね、歌ってて良かったな、と思うのは。多分、お客さんは歌の内容とかよくわかっていないと思うんだけどね。俊仁が何曲か中国語に訳して印刷したパンフレットを配布してくれてましたけど、そもそも歌詞の意味なんかどうでもいいんだし。

 言葉にすると嘘臭いんだ。言葉じゃなくて、生きてる気概とかテンションみたいなものこそが伝わるの。彼らが私の歌を聴きにくるのも、自分自身を欲しがっている、彼ら自身を欲しがってるからなの。そこに私は感銘を受けるんですよ。

 王さんというのは実に懐の深い男で(略)「磁場」があるんだけれど、あくまでも、それぞれなのよ。(略)誰も徒党を組んでない。(略)バラバラの良さ。お互い認め合ってるんだよ、「違い」を。それぞれが良い意味で生意気でね。

 大体ね、「みんなで一緒に頑張る」のは、村の消防団だけでいいの。日本人は得てして「団体」になっちゃうのよ。たった四、五人集まっただけでもすぐ新興宗教みたいになっちゃう。それがつまらないんだよ。台湾の人たちを見ていると、強くそう思う。私も彼らから凄いエネルギーもらってますよ。

 そうそう、彼らとは別に、厳さんという上海出身の若い女性も、同時期によく日本でのライブを観に来るようになって。台湾にも来てましたね。彼女は日本語も英語もペラペラで、いつも単独行動なの。正真正銘の才女なんだけど、外見は背の高い可愛らしい小学生みたいで。毎回、何の前触れもなくやって来て、いつの間にか打ち上げに参加してて、その辺にちょこんと座ってて。「あ、また来てくれたんだ」って、こっちも嬉しい以前に驚いちゃうんだけど、あの身軽さ、行動力には感服させられる。一度、秋田の郷里でやったライブにも来てくれてね。台湾の連中とも一緒にバスケットボールやったことありますよ。彼女は運動神経も良いし、オドオドしてない。余計な躊躇がないんだな。

 いつだったか(略)ジョン・ライドンの自伝をプレゼントしてくれたりもしたな。「厳さんはもう読んだの?」って訊いたら、「はい、英語の原著で読みました」って言われて。(略)先日も滞在先のイギリスから絵ハガキが届いてね。丁寧な字で、「私は一人ぼっちですが、絵描きにはなれません」って、私の「一人ぼっちは絵描きになる」という曲の歌詞を引用した挨拶が日本語で綴ってあって。また元気に旅してるんだなぁと思って、嬉しかったね。

 彼、彼女らと一緒に居ると、変な言い方ですけど、何かしら「恩義」を感じるのよ。なんか、有り難いなぁ、と思ってね。私、本来そういう謙虚なタイプじゃないんだけど。まず、よく来たな、と。リスクを背負ってね。かと言って、恩着せがましい感じは全然なくて、いつでもフラッと現れて、いつでも楽しそうなのよ。言葉だってよくわからないだろうに、私の歌を真剣に聴いてくれて。

 「音楽は国境を越える」って、よく言うでしょ?あんな嘘くさい言葉は大嫌いだけど、そういうことじゃなくてね。「そういう人もいるんだなぁ」って、彼らの姿を見ていると認めざるを得ないのよ。国籍とか全然関係ないんだな、って。

 そういう生き方を目の前にポーンと投げ出されると、感動するわけ。

(略)

自分がたいして行ったこともない異国で、自分の歌がいろんな人に聴かれていると思うと、変な感動を覚えるんですね。

(略)

[関連記事]

kingfish.hatenablog.com

 

神保町「ガロ編集室」界隈 その2

前回の続き。

赤瀬川原平と『漫画主義』

 赤瀬川原平さんとはじめて会ったのは一九六四年である。ハイレッド・センターの活動としてのドロッピングや銀座清掃などのパフォーマンスを奇異なものとしてながめていた。(略)

[赤瀬川を紹介してくれた]川仁宏さんは今泉省彦さんと『形象』という美術関係の同人誌を出していた。

 その雑誌を携わっていた業界紙で紹介してほしいという要請だった。

(略)

[千円札裁判]を契機に赤瀬川、石子順造、川仁さんらと頻繁に会うことになった。(略)

三十代半ばの石子さんは、大手企業を退職し、評論一本に生活を賭けようとしていた。

(略)

[著者が青林堂へと転職]

赤瀬川さんも川仁さんも石子さんも、もともと白土三平のマンガに関心を持っていたため(略)『ガロ』編集部に物珍し気にやってきた。

(略)

『ガロ』にはさっそく石子さんの「水木しげる論」が掲載されることになる。

 川仁さんの勤め先である現代思潮社は、青林堂から歩いて六、七分のところなので、昼の休み時間にときどき顔を出した。新しく美術の学校(美学校)を今泉省彦さんと開設する計画があるので協力してほしいとのことだった。

(略)

「水木しげる・つげ義春マンガ教場」を設けたいとのこと[で水木プロ訪問](略)

「面白そうですね、いいですよ、ねえつげさん?」と、隣でペンを握るつげさんに声をかけた。つげさんは「僕は無理です」とそっけない。水木さんは「一緒にやってみましょうよ、なんとかなると思うんですよ」と再び声をかけるのだが、つげさんは「教えるなんてことできないし、生徒の前でなんて恥ずかしい」とにべもない。そして、「水木さんだけでいいんじゃないですか」。(略)

[川仁が]「では、水木さんおひとりでどうでしょう?」と提案した。すると水木さんは「いや、つげさんと一緒ではないのでしたらやめます」。結局、企画倒れに終わってしまったが、川仁さんは二人に会えただけで収穫だったようだ。

(略)

 六七年の三月に『漫画主義』が創刊された。

(略)

表紙は創刊号から一二号まで赤瀬川さんが担当された。(略)

「(略)表紙は赤チャンに頼んじゃったけどいいよね?」と得意満面だった。石子さんの独断だったが、誰も反対しなかった。いや、赤瀬川さんが引き受けてくれたことに感謝した。

(略)

石子順造伝説

石子さんは一九二八年、東京生まれだ。(略)

東大でマルクス経済学を学んでいた頃に、反戦闘争にも関わったらしいのだが、詳細はわからないままだ。(略)[「石子順造の世界展」を]担当した学芸員の方が、手を尽くして石子さんの履歴を調べ上げたのだけれど、やはりはっきりしないのである。私自身も石子さんから過去のことを耳にしたことはあるが、それらがすべて事実であるのかどうか疑わしいところがある。資産家の家で育ったのは事実らしい。母親を幼少のときに失ったのもウソではないようだ。あやふやなのは、十代後半から二十代半ばにかけてである。遺品の中に東大在学中の学生証が遺されていたから、これは本当のことだ。

(略)

 七七年に亡くなられたあと、親しい仲間で石子さんの過去を語り合ったのだが、だれも正確な来歴は知らなかった。戦争中は軽井沢の別荘に疎開していたらしい、医学部にも在籍していたらしい、五〇年代前半の共産党による火炎瓶闘争のころ逮捕されたらしい、そのために実家から勘当されたらしい、と「らしい」ばかりで真実に近づけない。長男である石子さんは、本来多くの資産に恵まれた家督を継ぐはずだったのだろうが、いとも簡単に絶縁を受け入れたようだ。

「祖母が入院したとき見舞いに行ったらさ、親戚連中に「おぼっちゃま」と呼ばれてまいったよなあ、冗談じゃないんだよ、もう三十過ぎなんだぜ」と大笑いしたことがある。たぶん、それは真実だ。

 静岡の狭い平屋の家で通夜をすませた翌朝、黒塗りの高級乗用車が二台、小さな玄関先に停まった。黒いベールで整えた人たちが焼香に訪れた。そのとき、これまでの石子さんの話が「話半分」でなかったことを知った。(略)つげ義春さんの話では、石子さんの先祖の墓は「ばかでかい」そうである(のちに家族が静岡の小さな寺に改葬)。

(略)

長井さんがしみじみと言った。「余裕だね、欲がまったくないんだね、生まれ育ちがいいということなんだろうなあ」(略)長井さんもそれなりの資産のある家に生まれ育った。スーツは英国製、時計はロレックス、靴はイタリア製とこだわった。その長井さんと比べると石子さんは身につけるものにほとんど無関心だった。

(略)

 あるとき赤瀬川原平さんが「小説に書きたいくらいの不思議な人物だよね。しかし、経歴もさっぱりわからないし書きにくいなあ。知識人であんなに楽しい人はほかにいないよね」と。

 執筆活動をはじめて、わずか十年で世を去った。

(略)

最後に長期入院したとき、つげ義春さんの見舞いを楽しみにしていたと聞いた。石子さんにとってつげさんがベッドのそばにいることがどれほど安心であったことか。たぶん、石子さんにとってつげさんは、よき聞き手であるよりも、心を解放してくれる菩薩であったのであろうし、つげさんのまえではいつまでも無邪気な少年でいられたのであろう。

幻燈社と『うた絵本赤色エレジー』

(略)

六九年になると、林静一さんは、「赤」シリーズという作品で、ストーリーを排した作品を手がけた。

(略)

私は、林さんに画集のための一枚絵を描いてみないかとたずねた。彼は即座に承諾し、制作にかかった。(略)三ヶ月ほどして、最初の十数枚が出来上がったとき、私は正直いって戦慄した。

 林さんの描く少女像は、あまりにはかなげであった。それは、竹久夢二の描く甘美さとは異質のものだった。呪詛を含んでいるといっていいのか、抒情性の究極にまで迫ろうかというほどに鋭くつきささってくるものが感じられた。

 私は、かねてから夢二ファンであった。だから、資質的に共通するように思えた林さんに画集を依頼したのである。その時点では驚くべきことに、林さんは、夢二の絵も存在も知らなかった。(略)

夢二も及ばない地平へと突出していた。林静一の世界には、夢二にない緊張感がみなぎっていた。

(略)

『紅犯花』の書名で幻燈社からの第二弾として七〇年三月に刊行した。(略)

[青林堂から出したかったが]

『ガロ』のマンガだけを主体に運営したい、と難色を示されたので、やむなく、それまでためこんだ預金をすべてはたいて本の製作費に充てたのである。

(略)

 前後するが、幻燈社の最初の出版物は『つげ義春初期短篇集』だ。貸本『迷路』に発表されたつげ作品をまとめて青林堂で刊行したいと願い出たのだが、却下されたので自費出版の形をとることにした。

(略)

ある日、見知らぬ青年から手紙と音曲テープが届けられた。テープには「赤色エレジー」と「清怨夜曲」の二曲が収められていた。(略)幻燈社から自分のレコードを出してもらえないか、という要請だった。(略)林静一さんと相談しながら、マンガとは別に描き下ろした「赤色エレジー」のぬり絵やメンコを付録につけることにし、ドーナツ盤レコードの入った当時としてはわりと豪華な『うた絵本 赤色エレジー』が完成した。

 ご存知のように歌い手は、あのあがた森魚さんである。

(略)

 林さんの評判をさらに高めたのは、そのあとで『ガロ』に連載した「赤色エレジー」だった。(略)寺山修司さんが注目し、林さんも、あちこちの雑誌でひっぱりだこだった(略)

再び無い金をはたいて林さんの画集『儚夢』を幻燈社で出した。この頃の林さんの絵は、抒情とかリリシズムという観念をこえて、哀しみや不安の極北を暗示するほどの冴えをみせていたように思う。

 ところで、私自身は、『ガロ』の行方に一抹の不安を抱いていた。というのも、白土さんの「カムイ伝」の第一部の終了と同時に、私にとっては未知の雰囲気が漂いはじめたからだ。それは、"七〇年"が終わったということを意味していたのかもしれない。

(略)

 一九七二年四月、『夜行』が創刊された。つげ義春、林静一、つげ忠男、鈴木翁二、古川益三さんらが描き下ろしの力作を寄せてくれた。

加藤泰監督と林静一の邂逅

[65年『明治侠客伝 三代目襲名』で加藤泰を知り]

山根貞男と会うと、いつでも加藤映画の話でもちきりであった。まるで「私たちの映画」のようにである。(略)

林静一さんは同時上映の大島渚の映画を観に行ったのだが、『男の顔は履歴書』に圧倒されてしまって大島映画のことをよく覚えていないという。そして、「加藤映画はすごいけど二度と観たくない、きついからね、戦中派の美意識と認識をおっかぶせてくるような感じがした」というのだった。

 つげ義春の「ねじ式」が発表された六八年に加藤泰は『みな殺しの霊歌』を撮り、六九年に『緋牡丹博徒 花札勝負』を撮った。ともに加藤泰の研ぎ澄まされた美意識だけでなく、その人の思想や理念を伝えるような作品だった。

 山根さんと顔を合わせると「加藤泰の本を出したい」と語り合った。(略)

幻燈社から自費出版で制作することにし[山根、林の三人で加藤宅でインタビュー](略)

『紅犯花』を前もって加藤監督には送り届けてあり、本の装幀は林さんにということも伝えてあった。

(略)

四時間休むことなくインタビューは続いた。

「明日の月曜からまた撮影が進みます。よろしかったら撮影所に来られませんか?」(略)

午前二時、三時まで興奮の渦の中にあった。「藤純子くんにもインタビューの時間をとってもらえるように話しておきます」と加藤さんが言ったからだ。(略)私たちは、「どうしようどうしよう」とまるで少年のように困惑し、そして狂喜した。

 翌日、太秦の東映撮影所の門をくぐった。(略)緋牡丹のお竜が敵対するヤクザとの立ち回りを演じていた。

(略)

インタビューにこれまで監督が綴ったエッセイを網羅し、私たちの「加藤泰論」で構成したいと伝えると、加藤さんは、「これまでの作品すべての記録と回想」を締め切りまでに書き下ろすという。さらに、子どものころの思い出を短い文章で書くので、それを林画伯(加藤さんの呼び方)のイメージで一枚絵にしてはどうか、とあった。

(略)

七〇年六月に『遊俠一匹 加藤泰の世界』は完成した。林画伯の絢爛たる装幀の貼箱入り、布張り上製本、三〇〇ページを超えた豪華な本に仕上げた。

 現在ではもうこのような本は作れない。意気込みとは恐ろしいものである。製作費を気にせずにいっきに進めた。製作資金などまるでなかった。製版・印刷・製本屋さんには口約束だけで依頼した。不安がなくはなかったが、それも杞憂に終わった。意外と好評だったからである。ある著名な映画評論家が我が家を訪ね、「ちょうどフランスに行くので向こうで加藤泰監督を紹介したい」と何冊かを購入された。

(略)

第二弾、第三弾と「加藤泰の世界」を続けたいと申し出ると、「そんなことして大丈夫ですか」と心配された。

(略)

七七年に『江戸川乱歩の陰獣』を撮影する直前に加藤さんから連絡があり、「林画伯にお願いしたいことがあるので大船の撮影所に来られたし」とあった。(略)

加藤さんは、久しぶりに会う林さんに「緊縛画」を依頼した。そして、美しい少女の緊縛画二点が映画館の大きなスクリーンに映し出されたのである。

(略)

加藤監督は、撮影に当たって、事前に出演俳優、カメラマン、助監督、美術、大道具といった全スタッフにコピーされた絵コンテを手渡す。B5一ページの用紙に六、七コマが鉛筆で書き込まれる。コマの中には登場人物の表情や動き、背景となる事物等々のカットが続く。(略)ただの説明とは異なり、 監督の美意識を伝えるもののように思える。各コマの右には登場人物のセリフなど細かい指示が加えられる。

 もちろん、撮影現場で絵コンテにはない演出に急遽変更されることがないではない。『お竜参上』のアクションシーンで、若山富三郎が「監督、こんなのはどうでしょう?」と自らアクションシーンを演じてみせる。監督は、「ほう、おもしろいですなあ」とニコニコして見ていた。しかし、テストを繰り返したあと、監督は「最初のに戻りましょう」と絵コンテの動きを指示した。ある意味、絵コンテが「すべて」であるのかもしれない。

 『人生劇場』は(略)任侠ものに馴染んでいない松竹としてはいわば大実験である。全スタッフは、加藤泰の東映任侠映画を撮影所で何作も観て、加藤泰の美意識を探る。暴風雨でのアクションシーンは加藤泰の特色である。(略)

「まだ東映の雨や嵐に追いついていないなあ」と、監督は指示をまったく出さず、パイプを手にしてニコニコ顔だ。五回、六回と暴風雨がテストされ、「よろしいですな」と監督からOKが出る。そこからようやく渡哲也や田宮二郎をはじめとする俳優陣のすさまじい乱闘劇となる。その乱闘も絵コンテ通りなのだ。

(略)

『宮本武蔵』で三条大橋を人々が行き来するシーンがある。テスト段階で監督が何人かの大部屋俳優を呼び止め、「橋を渡ってどちらへ行かれます?」と質問。「向こうへ」。「向こうって、京都の町中ですか、それとも大坂ですか?お仕事は?」「はあ、とくに聞いておりません」「風呂敷包みを担がれていますから、あなたは大坂に向かうのかもしれませんね。とすると陽が落ちないうちに急がないとね」「はい、わかりました」。次のテストで、行き来する人々全員が俄然生き生きと動き出す。

(略)

『炎のごとく』(略)では、ある中堅俳優が途中から消えた。主演の菅原文太に次ぐ重要な役柄だったが、撮影が夜遅くまでかかったため、彼はテレビドラマの出演に間に合わないと怒った。監督はおだやかに「そうですか、わかりました。あなたが映画以上にテレビがお好きなら仕方がありません。どうぞお帰りください」と応じた。まだいくつも出演シーンが残されていたが、監督はその役を作品から削除した。

(略)

石井輝男監督は会うたびにつげ作品の「素晴らしさ」「美しさ」を口にした。つげさんと監督の自宅に招待されたとき、監督は自らつげさんに手製のコーヒーをいれた。監督はつげ作品の全部を映画化したいとまで語った。あの作品、この作品とつげさんを前にして作品から受けた感動をニコニコしながら語り続けた。「青春っていうものはつげさんのマンガに描かれた通りですよね」。監督は七十歳に近かったが、そこにはまるで少年のような純真さが感じられた。

(略)

[「無頼平野」の]撮影現場を手伝っていた見知らぬ青年に突然声をかけられた。つげファンでもあった山口周さんだ。(略)

しばらくして、彼はオモチャ会社のタカラに就職したようだった。そして、タカラが『ガロ』の権利を獲得した、と彼から聞かされた。「もし、いま休刊している『ガロ』をタカラで再刊することになるようだったら僕も参加したいなあ(略)再びつげさん兄弟にマンガを描いてもらえたら本当に素晴らしいことですよね」(略)

だが、そううまく事は運ばなかったようだ。

 やがて山口さんは、親しくしていた(略)「ハンバート ハンバート」のふたりに乞われて音楽事務所を設立。代表に納まり、一生懸命仕事に励んでいたが、四十三歳の若さで病没された。

(略)

水木しげるサンを偲ぶ

 水木しげるのマンガに出会ったのは一九六三年である。(略)

 白土三平の貸本マンガを探し出すついでに水木マンガをも探し出すことになった。その頃、都内の貸本屋には『鬼太郎夜話』『人魂を飼う男』『怪奇鮮血の目』『霧の中のジョニー』『河童の三平』『悪魔くん』などがまだ多く並んでいた。それは水木作品が貸本屋でまったく人気のないことを物語っている。白土マンガやさいとう・たかを、佐藤まさあきのマンガは貸本屋で「売らないよ」と断わられたが、水木マンガはどれも一冊五〇円か一〇〇円で譲ってもらえた。(略)

『漫画主義』という同人誌を始めた六七年頃になっても水木マンガはまったく顧みられなかった。

(略)

書評新聞に勤めていたとき、山根貞男と一緒に水木さんを訪ねた。(略)講談社児童まんが賞受賞の記事を書くためである。(略)

翌日、江戸川橋の会社に突然本人が現れた(略)「どんな内容の記事か?」とのこと。ともに水木ファンであるから心配しないで、と説得したが、なかなか帰ろうとしない。記事が掲載されて受賞が取り消されるのでは、と不安がった。(略)

水木さんを帰したあと、私たちは水木しげるへのオマージュとも読める評論を書いた。(略)

 ところがである。浜松町にあった印刷所で紙面の校正に追われているとき(略)校正室の入り口に水木さんが直立不動で突っ立っていた。「どうされました?」と聞くと、「記事読ませてください!」と強く言い放った。こちらが主体で書いた内容であるから書き直しはない、と告げると、ともかく読ませてほしいという。ゲラ刷りを渡すと、部屋の隅っこで目を通していた。山根の「シュールレアリズムと水木マンガ」は読み応えがあるが、水木さんは心細そうに「大丈夫でしょうか?」と不安な表情をみせた。

「大丈夫!受賞が取り消されることはありませんよ」と説諭しても、校正室から出ようとしない。(略)浜松町駅まで(略)の真っ暗な路地を歩きながら、「本当に大丈夫でしょうか」と沈鬱な面持ちで繰り返した。しかし、目白の椿山荘での授賞式の夜、水木さんは白土さんや佐藤まさあきさんらとご機嫌だった。「このたびはおめでとうございます」と声をかけると、「オーっ」とこちらの顔を見るなり「わっはっはっは」と豪快に笑った。

(略)

数ヶ月後に私は『ガロ』に転職したわけだが、水木さんは「ほう」と驚くこともなかった。そして、「おたくの大好きなつげさんがそこにいますよ」と隣りでマンガを手伝っているつげ義春さんを紹介された。

 こうして、それから五年と数ヶ月のあいだ毎月のように水木さんと顔を合わすことになる。ある日、青林堂に電話があり、「つげさんが突然いなくなったのですが知りませんか?」という。水木宅に急行すると「つげさん、憂鬱そうな顔をしてました。女にふられたんですかね。自殺でもするんじゃないですかね」と険しい表情。だが、その険しさには楽しんでいるふしがないではない。「きっと旅行ですよ」というと、「旅行!そうですか、じゃ自殺しないですか、ハハハハ」。水木さんは得体の知れないつげさんが大好きなのである。

 つげさんが九州へ蒸発したときも、「マンガやめるといってます。すぐ来て下さい」と電話が入る。水木さんは応接間で「ここでゆっくり二人で話して下さい」というと仕事場に引っ込んだ。つげさんは、マンガをやめてどこか遠くで暮らしたい、という。決心は変わりそうにない。一時間、二時間と話し込んだ。途中、水木さんが心配そうに顔を出したが、何も言わずに仕事場に戻った。つげさんは、もうここに戻ることはない、という。それを水木さんに報告すると、水木さんは「そうですか」と悲しげに肩を落とした。

 つげさんは二週間して九州から青林堂に帰ってきた。即座に水木さんに電話した。「戻ってきましたか、よかった」とすっかり安心した様子だった。つげさんは、すぐに調布に戻るのは恥ずかしいのか、神保町の和風旅館に泊まることにした。水木さんにとってつげさんは仕事上ではなくてはならない大切な助っ人だった。が、それよりもつげさんの人柄にひと一倍の関心を抱いていたのだ。

 つげさんが結婚すると、水木さんの仕事をアパートの自宅でするようになり、水木宅に顔を出すことが少なくなった。

 しかし、水木宅とつげ宅は歩いて二十分の距離だ。水木さんは会うたびに「つげさんどうしてます?」と尋ねた。「奥さんと旅行に出てます」と答えると、「どこに行きましたか?」と根掘り葉掘りである。つげさんが「無能の人」を描き継いでいる頃、「つげさんまだ貧乏してますか?多摩川の石を売ってまで?」と聞く。あれは作品ですからと伝えると、「苦労してるなあと思っとったんですよ、創作ですか、そんならよかった」とにっこりした。

(略)

 つげさんはマンガ家として出発して十年以上の経験がある。(略)したがって、水木プロでは、アシスタントという立場ではなく、れっきとした「助っ人」である。水木さんが下描きしたラフなコンテをしっかりとペンで定着させる。主要な登場人物の表情もしぐさもである。水木さんとどこが異なるのか判定できないほどである。つげさんが語ったことがある。「水木さんに期待されたのだから、そのときはぼくが水木さんにならなければいけない。プロというのはそういうことなんでしょうね。似ているとか、そっくりだとかそういうことではなくて、僕が水木さんなんだから」と。

 そして、つげさんのすぐあとに池上遼一さんが参加(略)水木プロは怖いものなし、という感じでもあった。

(略)

辰巳ヨシヒロ追憶

 辰巳さんと最初にお会いしたのは、一九六六年の終わり頃だったと思う。(略)六六年の秋には辰巳さんの実兄である桜井昌一さんとすでに面識があった。

(略)

辰巳さんも第一プロという貸本マンガの出版社を興していた。桜井さんは、すでに実作から離れていた

(略)

桜井さんは私より六、七歳も年長(略)「冒険ダン吉」や「のらくろ」(略)で育った世代だからか、マンガは「愉快でなくてはいけない」「楽しくなくてはいけない」が基本だった。したがって、『ガロ』につげ忠男が登場したときには全面否定だった。

(略)

実弟の辰巳さんは、「劇画」の命名者であり、マンガにリアリズムを取り込もうとした一番手である。(略)つげ忠男作品に見られるリアリズムの先駆者といっても過言ではない。(略)桜井さんは弁明するだろう。「弟のはハードボイルドであり、犯罪ものがテーマだからね」と。つまり(略)犯罪ものは娯楽であるけれども、つげ忠男作品のように「思想性」を持ち込んではならない、と

(略)

七〇年代初めの『ガロ』に発表した辰巳作品からはつげ忠男を意識した作風が感じられた。貸本マンガ時代につげ忠男は辰巳さんの作風に影響を受けたと思われるのだが、こんどは辰巳さんがつげ忠男の影響を受けたと言えないこともなかった。たぶん、つげ忠男が下層の労働者ややくざを主人公としてとりあげたとき、辰巳さんは少なくない衝撃を受けたのだろう。

 つげ忠男が六八年に『ガロ』に登場するまで、辰巳さんは第一プロで青春ものなど を手がけていた。それは貸本マンガの凋落を意味していた。高度経済成長のなかで辰巳さんや佐藤まさあきらのハードボイルドは見向きもされなくなっていた。青春もので起死回生をはかろうとしていたのかもしれない。でも、それは本心ではなかったのだろう。なまぬるい社会状況を侮蔑する忠男の作風に辰巳さんが共感したと想像できなくはない。

(略)

青林堂から歩いて五分の近さだったこともあり、昼の休憩時間にしばしば[第一プロを]訪ねた。辰巳さんは、いつも笑顔で出迎えた。作画中のこともあったが、手を休め「いいんですよ」といって向き直った。

(略)

辰巳さんは桜井さんのような軽快なおしゃべりは好まないようだった。他の作家の批判を口にすることはまったくなかった。たまに「義春さんはお元気ですか?」と尋ねるくらいだ。つげ義春が『ガロ』に次々と作品を発表しているときも、作品に触れようとはしなかった。そして、私にもつげ兄弟の作品についての読後感を聞こうとしなかった。林静一や佐々木マキの新人作品についてもである。(略)

辰巳さんとの会話がじつに少なかったという印象が強い。たぶん、辰巳さんが数歩距離を置いていたのだろう。それは、現役の作家としての立場であったかもしれない。いわば『ガロ』的な作風との距離のとり方ということである。

(略)

鈴木清順監督の思い出

(略)
日活を不当解雇されたあとしばらくして、幾冊もの『ガロ』を風呂敷に包んで調布のご自宅を訪ねた。住まいは木造平屋の古びた都営住宅だった。いわゆる戦後に建てられた狭い庭つきの「文化住宅」である。間取りは六畳と四畳半と三畳。そこにパートナーの静さんと「ネコ」という名の貫禄のある猫と暮らしていた。(略)

[『紅犯花』を絶賛していた伝え聞き]『ガロ』誌上で林さんとの対談を、と希望したのである。「大和屋さんや田中陽造さんが『ガロ』を面白い、面白いと薦めるのでぼくも読んでました」とのこと。林さんと一緒に住まいを訪ね、対談が実現したのは一九七〇年である。以後、『ガロ』での連載エッセイを依頼したため、続けて清順宅を訪ねることになる(イラストは林さんが担当した)。

 静さんは、家計を支えるために新宿歌舞伎町のバー「かくれんぼ」でママとして働いていた。夕方、清順さんの運転する車で静さんをバーに送り届けるまでのひとときをよもやま話で過ごした。日活を解雇されたあと、中古のライトバンに寝具を詰め込み全国放浪の旅に出たという。雑種の大きな愛犬も一緒で、海岸や河原での野宿の連続だったそうだ。「あの頃がいちばん楽しかったわね」と静さんが言うと、「うん、そうだね」と清順さんがニコニコした。(略)

静さんの従弟であるH氏が(略)清順さんと静さんの馴れ初めを聞かせてくれた。「静ちゃんほどの美人は東京といえどもなかなかいないよね。静ちゃんと銀座に出かけたことがあるんだ。あまりの美しさに歩いているひと全部が静ちゃんを振り返るんだね。それがまた僕の自慢だったんだ。(略)」。

(略)

 毎日のように魚屋が桶を担いで狭い玄関口に魚を届けた。「ネコ」の食事のためである。バーが休みの日「夕飯食べてかない?」と声をかけられた。四角い卓袱台にアジと煮物が並んだ。あとはご飯とみそ汁である。「ネコ」と一緒のおかずで夕食を楽しんだ。

(略)

私には数々の清順映画よりも、正直にいえば戦中派の象徴的存在として受け止めたい気持ちが強い。

(略)

北冬書房が催した小さな集まりにいつも快く参加された。秋山清、石子順造、赤瀬川原平さんらが同席のこともあった。あるとき、秋山さんが「行こか戻ろか北極光の下を」と「さすらいの唄」を歌い、続けて清順さんが「流れ流れて落ち行く先は」と「流浪の旅」を歌った。二人が朗々と歌い上げたあとが続かない。年齢的に石子さんの番である。「無理だよう」と石子さんが尻込みした。すると、清順さんが「石子さん、歌ひとつ歌えなくてどうするんです」とからかった。それを受けて、かわぐちかいじさんが「監督の『けんかえれじい』の「昭和維新の歌」を歌います」といって見事に続けた。

(略)

清順さんを中心に、つげさん、林さん、鈴木翁二さん、古川益三さんがそろってのサイン会を上野で開いたことがある。その縁もあって、清順さんが、あるテレビ局の旅行番組として、大和屋さんとつげさんの三人での九州への温泉旅行を企画した。(略)つげさんは、撮影スタッフがたくさんいるのは……、と断られた。(略)楽しみにしていた清順さんは、「仕方ないね」と残念そうだった。 やがて調布の「文化住宅」は取り壊しになり、清順さん夫妻は東大島に転居した。五階の部屋からは清らかな江戸川が見下ろせた。ときどき漁師が投網をうっていた。清順さんと静さんは、ベランダに籠を置き、パンくずを入れた。スズメやホオジロやウグイスがよくやってきた。

(略)

中国戦線やインパール作戦でいくたびも地獄を味わった西河監督は、同じ戦争体験者である後輩の清順さんのことを心配したようだ。清順さんが日活を解雇されたあと、「鈴木清順問題共闘会議」のデモなどにも積極的に参加した。「清順映画はまともな映画じゃないけど、でもなかなか魅せるからなあ」と西河さんは笑った。

(略)

[昭和天皇が死去]

清順さんは朝日新聞社から依頼されて感想を綴ったそうだ。だが、紙面には掲載されなかった。つまり没扱いである。「うらみつらみしかないからねえ、憎悪だけだよね。それを書いたんだ。まあいいや、ちゃんと原稿料はおくってきたからね」。

(略)

長井さんとの五年余り

(略)

『少年倶楽部』体験が原点の長井さんのマンガ観は、ユーモアが第一(略)白土さんは例外中の例外であるようで、マンガに「笑い」を多く求めた。

(略)

新人マンガ家の作品を採用するさいに、お互いが遠慮がちになった。いつしか、長井さんは長井さんの好む作品を採用し、私は私で採用するという不文律ができあがっていた。それは『ガロ』のバランスをとるという意味にもつながるのだろう。

(略)

  私の入社当時の発行部数はなんとか経営を支えられる状態であったのだが、二年ほどして三倍増となった。(略)「カムイ伝」が注目された結果である。(略)

[発行部数八万部は公称で、実売数は]四万八〇〇〇部だった。(略)

[返品は二割]全盛期といえる。だからつげ兄弟をはじめレギュラーの作家にも原稿料が支払われた。(略)

[「カムイ伝」終了で]少しずつ売れ行きが減少していっていたけれども、七一年の半ばにあっても、実売数は三万五〇〇〇部を数えられた。それだけの売れ行きがあれば十分だと私は思っていたのである。

(略)

「事件」が起こった。

 作品を読んだ長井さんが、「これ載せますか?」と私に問うた。私には意味がつかめなかった。「ねじ式」を掲載することはつげさんと私の間では了解済みだった。ただ、内容については長井さんに伝えてなかった。「これ、時期尚早だと思うんですが」と困惑した表情をみせた。「いえ、大丈夫ですよ。いい作品だと思います」と応酬した。長井さんは「う〜ん、大丈夫かねえ」となんどか繰り返した。私は、再び「大丈夫です」と応え、「増刊号に間に合わせないといけませんから」と屁理屈を口にすると、原稿を茶封筒に入れると白山にある写植屋へと急いだ。

 この日以来、長井さんはつげ作品に触れることは一度もなかった。なぜ、長井さんが「ねじ式」を評価しなかったかは、マンガ観の違いもあるだろうけれど、それだけではないようだった。長井さんは、戦後の混乱期の出版で、法律にふれるような事態に遭遇し、かなり痛い目にあったのだそうだ。「ねじ式」に描かれた女医さんのシー ンが思い出したくない過去を思い出させたのかもしれない。「時期尚早」という言葉には、そのような意味が含まれていたのだろう。

 じつは、「ねじ式」が発表されてもすぐには反応がなかった。いや、多方面から「あれはマンガではない」という批判と非難が寄せられたのである。ということは、長井さんの時期尚早ではないかという判断もそれほど間違っていたことにはならない。まだまだマンガは「笑い」を基本にした子どもの読みものという観念が支配的だったのである。評価しているのは、石子順造さんや山根貞男さんなどこれまでにつげ義春作品にこだわっていた一部の人であった。

 しかし、発表から半年とたたないうちに、横尾忠則さんや唐十郎さんをはじめとして、詩人や演劇、映画関係の人々が「ねじ式」を絶賛し始めた。いわば、文学や表現にかかわる人たちがマンガ界より先に評価したということになる。そして、「ねじ式」の登場によって、マンガ表現は一挙に拡大した。

(略)

[「カムイ伝」終了]に加えて、毎号のように精力的に問題作を描き継いだつげ義春さんも休息にはいった。

 長井さんは「困った、困った」を連発していた。つげさんの休筆に「あれだけの才能があるのにもったいないよねぇ、ホントに困った人だなあ」と嘆息することしきりである。私自身は、つげ忠男を中軸に佐々木マキ、林静一、鈴木翁二、安部慎一と、若手執筆陣で切り抜ける心算であったのだが、長井さんの不安は尋常ではなく、大手の雑誌で活躍する有名マンガ家たちに救いを求めているようだった。

 そうしたある日、つげ忠男さんが「荒唐無稽譚」を持参した。窮乏にあえぐ労働者や一般市民が暴徒化し、手に手に武器を持ち宮城に突入[機動隊と衝突](略)民衆は死体の山を築き全滅する。最後に石垣の上に立ち、手に持った帽子を高く掲げた男の後ろ姿が描かれた。この作品は、たぶん深沢七郎の「風流夢譚」をヒントに構想されたのだろうと思うが、じつにつげ忠男作品らしい作品であった。(略)

[読み終えた長井は]「このラストの人物は削除して下さい」とだけ言った。三週間ほど前に長井さんには退職を願い出ていた。長井さんは理由も聞かずに了承された。(略)「ねじ式」では猥褻物陳列罪を懸念し、「荒唐無稽譚」では不敬罪を懸念したのかもしれないと思った。それは「大正」に生まれ「昭和」の日中戦争下に青春をおくった長井さんの価値判断だったのだろう。

(略)

『夜行』創刊のいきさつ

 私は、青林堂を退職するひと月ほど前に、長井さんから「お互い足をひっぱるのはよくないからね」といわれたことばの意味を、今日まで測りかねていた。

(略)

["苦難の時代"に不安を抱いた長井は]他雑誌で活躍していた作家に助けを求めたのだと思う。そして、商売を無視するかのごとく、より『ガロ』的(求心的)であろうとした私の態度に長井さんは不信感をつのらせたのかもしれない。

 私は私で長井さん周辺の文化人・読者グループからなる"外人部隊"の参加によって大きく旋回していく『ガロ』を茫然と見送る以外になかった。

(略)

 私が主宰する北冬書房から七二年、『夜行』を創刊した。つげ義春が、二年ぶりに力作を発表した。林静一、つげ忠男、鈴木翁二、古川益三、棚瀬哲夫らも全力投球をおしまなかった。大手取次の扱いをうけなかったが、三〇〇〇部を売り切った。『ガロ』の定価の三倍であったにもかかわらず――。

(略)

長井さんと懇意にしていた石子順造さんは、「長井さんが『夜行』をみて、もっても一年だろうね、といってたよ」といった。その口ぶりのなかに、石子さんも同意見だという感じがこもっていた。じつは、私も、もって二年か三年か、と予測していたのだ。(略)しかし、『夜行』は、わずかな読者に支えられて今日まできた。

(略)

 八〇年代の初め頃であったか、菅野修さんが結婚式を盛岡で挙げられたとき、長井さんが「一緒に行きませんか?新幹線の切符の手配はぼくの方でしますから」と電話をしてきた。その頃、長井さんと私は疎遠になったままだったので、ちょっとびっくりした。

 新幹線の中で長井さんはウィスキーの小ビンをチビチビやりながら三時間、話しまくった。(略)"面白主義"の扱いに苦慮している様子だった。私は、返事に窮した。なぜなら、"面白主義"に象徴される『ガロ』の急転回を望んだのは、ほかならぬ長井さん自身ではないか、と思っていたからだ。

 結婚式の前夜、菅野さんが長井さんと私を料理屋に招いた。(略)長井さんは、酔いにまかせ(略)「高野さんの方が正しかったのかもしれないね」といい出す始末であった。私も困ったが、菅野さんはもっと困っていた。

「正しい正しくないの問題ではないと思うんです。ぼくはあくまで趣味的人間ですから。長井さんとぼくとでは立場が違います」と私がいい、菅野さんは、「『ガロ』がないとぼくたちの発表の場がないんです。お互いに頑張りましょうよ!」と、必死に盛り上げようとしていた。

 菅野作品は、最初『ガロ』でボツ扱いとなり、「『夜行』にもっていったら」とまでいわれたそうだ。『夜行』が数編を採用したあとで、『ガロ』でも採用となった。長井さんの名誉のために言いそえると、先の菅野さんの扱いは長井さんではない。料理屋 での「菅野君にも色々と迷惑をかけてしまったねえ」との長井さんの発言は、そのあたりの事情をも物語っていた。

 湊谷夢吉、伊藤重夫、斎藤種魚、高橋太、新谷成唯ら『夜行』の作家たちは、残らず『ガロ』のボツ組である。それは、『ガロ』と『夜行』とが、異質であることの証しを意味するのかもしれない。

 

 だから長井さん!あの新幹線の中で、長井さんから「誰も劇画のことなんか考えてくれないんだよ」という弱音など耳にしたくはなかったのです。

つげ義春作品の内と外

(略)
「旅年譜」からも理解されるが、最初のころは、貸本時代の仲間である同世代の立石慎太郎青年との二人旅である。オートバイのときもあれば、軽自家用車利用のときもあったようだ。(略)

 立石さんとは旅の感覚だけでなく、美意識全体も共有できたようで、秘境を求めての旅となる。お互いが、柳田國男や宮本常一の愛読者でもあったのだろう。

(略)

ただ、行く先々で喧嘩が頻発したという。目的地までは楽しい旅だが、そのあとどうするかという段になると、こだわりの強い二人は、わずかに好みが食い違う。結果、途中で離れ離れになり、一人で帰ることも多かったという。そんな話をつげ夫人のマキさんが「本当にバカみたい、でも、ひと月もするとまた二人で出かけようとなるの。そしてまた喧嘩して別々に帰ってくる」といって大笑いした。

 つげさんは、『アサヒグラフ』や『ポエム』等の雑誌取材で二人や三人の旅を続けていたことがある。初対面のひとたちと大丈夫なのか、と心配にはなったが、それらは仕事ということで、なんとか耐えられたのかもしれない。どの取材旅行だったか忘れたが、帰京するなり、同行者の強引さに「疲れた」を連発していた。

(略)

テレビコマーシャルの出演依頼があった。十和田湖の奥入瀬での撮影である。有名メーカーなので、つげ家にとっては考えられないような出演料だろう。夫人によれば「家一軒建てられる」とのことだった。しかし、これも断った。

(略)

東北縦断の「ひとり旅」は、ある意味、決定的であった(略)登山靴をはいたまま上野駅から直行し、数日かけて巡った東北の温泉の素晴らしさやそのときに目撃した風物について明け方近くまで語り継いだ。

 つげさんの語り口は、常に穏やかだ。感動した風景、感激した温泉を伝えるときも静かな語り口である。そこには誇張がない。見て感じたことを丁寧に言葉にする。聞く側にとっては、その体験話がすでに一遍の物語として聞こえてくる。(略)

本当の「話上手」というのは、つげさんのような人を指すのではないかと思っている。

(略)

マキさんと知り合ってからの旅は、充実していたのではないかと思える。たぶん、夫人がつげさんの美意識をよく理解していたからだろう。「ひなびた温泉」「粗末な木賃宿」「無名の遍路道」「忘れられた街道」といった辺境の土地に夫人も大いなる関心を抱いた。

(略)

マキ夫人が存在しなかったら、そこまで旅をし続けただろうかと思うことがある。なぜなら、夫人が一九九九年に病没して以後、つげさんは旅から遠ざかってしまったからだ。

(略)

つげさんによれば、解体する過程で、そのカメラがどのような構造になっているかが判明するのだという。そして、壊れた個所もその作業の途中でチェックできるという。

 部品が足りないときはほかの壊れたカメラを再利用するという。どこで修理の技術を習ったのかと聞くと、独学とのこと。道具は、ハサミとピンセットと各種のドライバーである。

(略)

つげさんは、この二年ほどをピント商会の売買で食いつないでいたのである。 (略)

「苗字を漢字にしてあるからだれひとりマンガ家の自分だとは気づかなかったので安心だった。知られたら、やっぱりちょっと恥ずかしいものね」。ところが、ある日、わたしのところに赤瀬川原平さんから電話があった。(略)カメラ売買の雑誌に「ピント商会 柘植義春」という小さな広告が掲載されているとのこと。「もしかしてつげさんじゃないかと思いますが」と問われた。(略)本人だと答えると、「やっぱりそうでしたか。でも、つげさんも誰にも知らせずになさっていると思いますのでぼくも内緒にしておきます。つげさんにもこの電話のことは伝えないでください」となった。

(略)

つげ義春の「創作術」

[執筆前にストーリーを聞かせてもらうようになったのは]

「峠の犬」「海辺の叙景」「紅い花」あたりから

(略)

つげさんはコーヒーを飲みながら(略)文庫本の大きさのノート(略)に目をやりながらストーリーを話し出した。それは、執筆にあたってのつげさんなりの確認作業のようなものであったに違いない。

(略)

三十年ほど前(略)「マンガ作法」のような文章を一冊分書いてみたいと語ったことがある。(略)[手塚、石森の]とは異質の方向を目指しているように思えた。

(略)

あるシーンが思い浮かぶと、それを小さなノートに鉛筆で記す。その数行のメモから発して、ストーリーを組み立てながら、メモ帳に粗筋を書き込んでいく。あらたに浮かんだいくつかのシーンも付け加えられ、次第にストーリーが完成に近づき、さらに推敲が繰り返される。

 そのあたりで、登場人物の体型や顔、そして衣服等がスケッチされる。ケント紙に二〇、三〇と主人公をはじめとする人物の表情が描き出されることもある。キャラクターが定着するまでの積み重ねが、つげさんらしい慎重さを物語る。

 そのあと、わら半紙を四分の一に切り裂いて、そこに鉛筆でコマ割りがなされる。人物のセリフやナレーションなども書き入れられるが、人物の顔や形はきわめて粗雑なコンテ風であって、表情すらうかがえない。この段階では、むしろストーリー展開やセリフに重点が置かれているように見える。

(略)

コマの移動や改稿による絵コンテがふたつ、三つと生まれること(略)を経てほぼ作品の骨格は決定的となる。こんどはわら半紙半裁、つまり『ガロ』と同じB5の大きさに、同じく鉛筆でコマ割りがなされる。ひとつふたつ空白のコマが認められたりするが、本人によれば、「そこだけ定まったイメージにいたらない」からだそうだ。

 最終ページは、最初に作品のイメージが浮かんだときに、どのような画像で物語を 締めくくるかは出来上がっているようだった。つげさんは、ときに自らを「職人」みたいなもの、という言い方をすることがある。鉛筆で下書きされた原稿用紙を準備し、ペンを手にしたら一気に終わりまで描き進めるからだ。(略)ペンはラフな下書きの上に迷いもなく悠然とリアルな画像を生み出す。

 「ペン入れは難しいことじゃない、話は最終ページまで出来上がっているのだから、あとは職人として描けばいいんですよね」

(略)

ペン入れ前に「完成した」という感触を持つのは、そういう意味なのだろう。

[2~30ページの作品で]発想からおおよそ一ヶ月くらいの時間だろうか。

(略)

これまでにいくつもの物語が描かれずに終わった。

(略)

 九〇年代になって、四〇ページほどの中編作のストーリーを語ったことがある。東京下町の貧しい人々が登場する物語である。実話とのことだった。最初から最後まで、 絶望的な救いようのない哀しい話だ。

(略)

 ラストシーンをよく記憶している。(略)どっしりした阿弥陀仏が一ページ大に描かれる。「みな哀れな運命を背負って死んでいったけ ど、でもね、阿弥陀様があの世で必ず救ってくれると思うんですよ。じゃあないと余りに可哀想すぎますから」と。

(略)

巻末対談 つげ正助と語る「つげ義春」

つげ [父との記憶は]二、三歳で流山から調布の多摩川団地に転居して以降ですね。父の自転車の前に乗せられて多摩川や調布市内を散歩についていったことはよく記憶しています。父の気が赴くままに古道具屋に立ち寄ったり、古本屋もよくのぞいたりしていました。

(略)

骨董的な関心は、母(藤原マキ)のほうが強く(略)私は父親っ子でしたから、もっぱら父に連れられての散歩がほとんどでした。

(略)

カメラを買ったり修理している間は、神経症の症状が和らぐそうです。母から家族で外食しようと言われてもなかなか腰を上げないのに、新宿のカメラ店から出物があると聞くと、迅速に駆けつけたり。行動力の落差がすごいです。

(略)

[ファミコンを買ったら]

ゲームに興味なんか無かった父がそれに関心をもちまして(略)

私がつまらないと思っていた「ボンバーマン」や「倉庫番」を父は私以上に好んでしまい(略)大人や学校の先生はゲーム自体に反対していた時代でしたので、おかしな父だなと思いました(笑)。「倉庫番」にいたっては、私や友人は難しすぎてほとんどできませんでしたが、父は完全にはまって、父だけがクリアしてしまいました。ゲーム内で使えるアイテムもあえて使わずに、自分の力だけで解いていましたからすごいと思いました。

(略)

常々、「石と生物の区別なんてないんじゃないか、何が無機物で生物かは人間が決めたことだから」という持論でした

(略)

もともとスピリチュアルなことへは無関心だったと思いますが、そのうち本気で言い出していることに気づいたんですね。

(略)

ただのオカルト的志向でなくて、宇宙論等についても哲学や宗教的な観点で究極まで解明しようとしてしまいますから、これはただものじゃないと思うと同時に、そうした境地は父の作品にもどこか通じあっているのではないかと思うようになりました。「芸術、科学、宗教、いずれも目指すところは同じなのではないか」と父はよく話していましたね。

(略)

[父のマンガは]小学生はもちろん、中学生になっても読ませてくれなかったです。(略)意識的に読むようになったのはやっと高校生になってからでした。(略)

読んでも、よくわからないというのが正直な感想でした。

(略)

[母の「絵日記」は]

小さな子どもでしたから、自分が絵に出てくるのを単純に楽しんで見ていましたね。
(略)

[「無能の人」は]

実際の自分たちとはまったくちがうのに、みなさんに現実と誤解されるので、おかしいとは思いました(笑)。でも、誤解されても無理もないとも思います。家族構成や団地住まいという設定だけでなく、多摩川の近所の光景も現実にもとづいていますから。

(略)

[困ったことは]

最近になっても「正助さん、喘息はよくなったんですか」とか聞かれます(笑)。私は喘息ではないのにマンガの中の「三助」は喘息でしたから。

(略)

[両親の]口論の原因のほとんどが(略)私のしつけについての食い違いが発端だったようです。(略)

[母はスパルタ式で真冬に薄着で鍛えたがるが、父がセーターを着せ]

それを見とがめた母が脱がせる、父がまた着せる、そんなことの繰り返しで、喧嘩が始まってしまうんです。

(略)

母は学校教育を否定しませんが、父は出世や社会的成功(略)に無頓着ですから、双方が相いれず、どちらの価値観を信じていいのか、子どもにとっては大変でした。父は父で、母と反対に度がすぎるくらい過保護ですし、そのいっぽうで、世俗的な価値や尺度を基本的に否定しますので、それも困ったことです。

(略)

以前は私の運転するクルマでなんとなくドライブしたりして遠出することもあったのですが。父は昔からなぜかジープ型の車が好きなのでその影響もありRV車に乗っていました。逆にセダン型はあまり好きではないようですね。(略)パジェロやランドクルーザーも良いねと話していたこともあったのですが、高くて買えませんでした(笑)。

(略)

[創作]意欲自体はあると言っていますが、気力や体力がついてこないようですね。「なんで描かないの」と聞くと、「自分みたいなマンガを描かせてくれる雑誌がない。(略)少年誌では描けないし、「無能の人」を連載し、最後の作品「別離」を発表した『ばく』ももうないし......」というばかりです。『ばく』が休刊してからもう三十年以上経っているのに……。普通に考えれば『ビッグコミック』等の大人向け媒体があるのに、なぜ父はすぐに少年誌をもちだして「描くところがない」というのか、そこが不思議でなりません。

(略)

最近、古くからの読者から貸本時代の原稿を厚意で寄贈いただいたんです。それで、お礼をしなくちゃ、ということで、約十年ぶりくらいに色紙を描いたんですね。ものの二時間くらいで完成した絵の出来は見事でした。(略)やればできるのに、と思ってしまいました。それでも、画材などを準備しはじめてから取り掛かるまでに一ヶ月くらいかかりましたから、能力というより気分の問題が大きいのでしょうか。

(略)

[数年前家電量販店で]ペンでお絵描きできるタブレットの玩具をみつけた父は、その場ですごい速さで何か描いたんです。それが、見たこともないようなプロレスラーのような新キャラクターなんですね。どうしたんだろうと(笑)。

(略)

 (二〇二〇年十二月二日収録)

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