インドとビートルズ シタール、ドラッグ&メディテーション

マハリシを揶揄したシャンカル

 一九六八年三月クアラルンプールをツアー中(略)

ラヴィ・シャンカル(略)『ビートルズからグル呼ばわりされ続けるのには怒りを覚える。これは搾取だ』と、彼は先週当地の記者に語った」

(略)

 スカンヤ・シャンカルは、亡くなった夫がマハリシを密かに揶揄していたと明かす。「彼は物真似が上手で、よくマハリシのしゃべり方や、あの有名な笑いを真似て、みんなを笑いの渦に巻き込んでいました」(略)

マハリシが、超越瞑想を西洋に売ることにより世界に一大帝国を築いた事実に、夫が時々驚きの表情を見せていたとも言う。「シタールに無駄な時間をかけないで、聖職者の長衣を着ればよかったと、冗談を言っていました。『ああいった偽のグルになれば、はるかに少ない労力ではるかに多い金を得ることができただろうよ』と彼は私に言いました」。(略)

インドの本当の文化と宗教に対して無知で無垢な西洋人を利用しているに過ぎないと、夫は感じていたとスカンヤは言う。

LSD体験、バーズのシタール指南

『ヘルプ!4人はアイドル』は、隠しおおせない人種差別に基づくステレオタイプのオンパレードだ(略)

インドの文化や伝統をほとんど理解することなく、グロテスクなほどに偏ったプリズムを通してこの国を描いている。(略)レスターは血に飢えた宗教カルトと狂ったヨーギーの国として、インドをしつこく映画に登場させる。

(略)

ラジャハマ・レストランのセットで演奏する(略)モティハールの抱えたシタールに突然ジョージが興味を示したことが、彼の人生と、おそらく他のメンバーの人生を変えることになるのだ。

(略)

[ディランによるマリファナの洗礼]から六ヶ月して『ヘルプ!4人はアイドル』を撮影する頃には、ビートルズはすっかりマリファナに夢中になっていた。(略)

ジョンによれば、彼らは朝食からポットを吸い始め、昼食の頃には完全に酩酊状態になり、そこから先はほとんど何もできなかったそうだ。

(略)

[シタール発見の数日前、ジョン&ジョージ夫妻とのスワッピングを目論む歯科医夫妻にLSDを盛られ]

2組のビートルズカップルは、あわててフラットから逃げ出した。

(略)

クラブに着く頃にはすっかりハイになっていたジョージは、最初に恍惚状態に陥る。

 

 (略)突然、これ以上ないくらいに素晴らしい感覚が襲ってきた。今まで生きてきて感じた最高の気分を、全て集めて濃縮したような感覚だった。信じられなかったよ。恋に落ちたんだ――特定の人や物ではなく、全てと。全部完璧で、照明も完璧。店内を回って、そこにいる全く知らない人々に、どれだけ愛しているか伝えたい衝動にかられたよ。

 

 しかし彼はまた、突然感情に変化が現れたことを思い出してこう言う「ナイトクラブに直接爆弾が放り込まれ、屋根が吹き飛んだみたいだった」。

(略)

 パティは途中でリージェント・ストリート沿いの窓ガラスを割りたい衝動にかられ、ジョージを先頭になんとかディスコティークにたどり着くと、みんな狂ったように笑った。

 最後は、早朝になってジョージが鬼のように集中力を出してミニを運転し(それでもカタツムリのようなスピードで)、バンガロー様式の自宅にみんなを連れて帰った。

 ジョンもまた、幻覚に畏敬の念を抱き、この時のLSD体験を「恐ろしくも素晴らしい」と語っている。(略)ジョージの家が巨大な潜水艦になり、他のみんなが寝床に向かうなか、自分の操縦する潜水艦は、ぐるぐると回りながら家の周りを囲む木製のフェンスを超え、空中を駆け上った。

 シンシアにとって、LSDとの遭遇はもっと気味の悪いものだった。(略)

 

 (略)壁が動き、植物がしゃべり、人間が人食い鬼のように見え、時間は止まることができ、とても恐ろしい体験でした。何もコントロールできず、何が起きているか、次に何が起こるのか分からない状態が、すごく嫌でした。

 

(略)

ジョージは、経験したことのない「深さと明瞭さ」を体験したと主張する。

 

 「(略)一二時間に及んだ幻覚トリップは、「目が開かれ、人生で大切なことは『自分は何者だ?』『私はどこに行くのだ?』『どこからやって来たか?』と自問することで、その他全てのたわごとは、たわごとに過ぎないと気づくこと」

 

(略)

[パティ談]

「ジョージは、なぜ自分がこれほどまでの選ばれし有名人と成功者になったのか、取り憑かれたように考えていました。運命の介入がなければ、リヴァプールで単純労働をしながらありきたりな生活を送っていたことを、彼は知っていたのです。自分のなかの何が原因で、他の人と違う道を歩むことになったのか、ジョージは必死で探していました。これらのことを起こしたのは、どのような神の霊なのか、彼は本気で知りたがっていました」

(略)

[シェイ・スタジアムの後、五日間の休み、ザ・ザ・ガボールの邸宅を借りパーティ]

(略)

[ゲストはバーズ、ジョーン・バエズピーター・フォンダ他]

[ジョージ談]

 ジョンと僕は、ポールとリンゴがアシッドをやらないとだめだと思ったんだ――そうでないともうお互い分かり合えなくなっていた。(略)アシッドはジョンと僕を大きく変えたからね。(略)ニューヨークで手に入れたのはアルミで包んだ角砂糖で、LAにたどり着くまでツアー中ずっと持ち歩いた。

 

 周到に計画し手間をかけたにも関わらず、ポールはLSDを頑なに拒む。他のメンバーと違い、彼は本能的に薬物を敬遠する傾向にあった。(略)

[リラックスできるマリファナ]に比べ、前触れもなく激しく気分が上昇するLSDを彼は怖がった。

(略)

 リンゴはといえば、ためらうことなくLSDを染みこませた角砂糖を口に入れた。(略)ニール・アスピノールとマル・エヴァンスが、この特権グループに入るためにLSDを受け入れる。まあリンゴは、そういう役目をいつでも負わされていたわけだが。(略)ディランがビートルズマリファナを紹介した時も、ジョンはモルモットとしてリンゴに最初にジョイントを吸うよう命令した。

(略)

ピーター・フォンダもまたハイになっており、子供の頃に誤って自分を銃で撃ち、一瞬心臓が止まった経験から、LSDによる臨死体験に詳しいと、うっかり自慢してしまう。フォンダはビートルズの目の前に裸の腹を突き出して弾傷を見せ、死についてべらべらと喋り続け、彼らをうんざりさせる。その時のLSD体験をぼんやりとしか覚えていないビートルズであったが、このハリウッド俳優がどれだけ嫌な奴だったかは、しっかり記憶に残った。

(略)

ジョージは魂が肉体から離れる不思議な光景を思い出しながら、次のように語る。

 

 気がつくと、「離れる」んだ。どこかに行き、それから、どしん!と、自分の体に戻る。見回すと、ちょうどジョンが同じことをやっているのが見えた。並んでしばらく離れ、それからボーン!(略)

 

「ポールはすごく疎外感を抱いていた。僕らは意地悪に『俺たちはやってるけど、お前はやってない!』と言っていたからな」と、ジョンは振り返る。

(略)

 ジョンもまた(略)ジョーン・バエズと、微妙な状態になる。(略)

彼女によればその寝室には、「小型のプールくらいの大きさ」のベッドがあった。

(略)

[バエズ談]

私は寝て、夜中になってジョンが入って来た。たぶん彼は、こんな風に義務感を感じていたのかも「僕が誘ったし、彼女はスターだし、どうしよう」。それでジョンは、情熱のかけらも無い感じでモーションをかけてきた。私は言った「ジョン、ねえ、私もあなたと同じくらい疲れてる。私のためにやろうと思わなくていいよ」そしたら彼は、こう言った(リヴァプール訛りで)「ええ、ほんと?待って、ほっとしたよ!ほらだって、僕だってもう下でフック[ファックが訛ったもの]して来たかもしれないだろ?」。(略)2人で大笑いして、それから眠りに落ちた。

(略)

パーティのさなか、ヒンドゥスターニー古典音楽が話題に上る。(略)ジョージがバッハから引用した、いかしたリフを弾いた直後、クロスビーがそれに触発され、ラヴィ・シャンカルの音楽から拝惜して自分のレパートリーにしているリフを披露した。シタールについて言及されるのをジョージが聞き、ジョンもまた興味を示す。この時点では2人ともヒンドゥスターニー古典音楽の話を一度も聞いたことがなく、その第一人者であるラヴィ・シャンカルも全く知らなかった。

(略)

クロスビーとマッギンが、ラヴィ・シャンカルを「音楽の天才」、シタールを「魔法の楽器」と褒めそやしたことで、ビートルズは興味をそそられる。バーズはレコーディング中のラヴィ・シャンカルにワールド・パシフィック・スタジオで出会い(バーズも同じスタジオで録音していた)、シタールの巨匠の素晴らしさに圧倒された。マッギンは12弦ギターを弾いていたので、18弦から21弦まであるシタールの演奏が、いかに難しいか把握できたのである。彼はラヴィ・シャンカルを見て覚えた、インドのラーガに不可欠なチョーキングの技法と、節のインプロヴィゼーションをギターで実演してみせる。

(略)

[後年マッギンは]ビートルズインド音楽の話には熱心だったのに、話題が宗教に及ぶと興味をなくしたと(略)語っている。

ラバー・ソウル

 ロンドンに戻ると、ジョージは(略)ラヴィ・シャンカルのレコードを数枚買い、時間があれば熱心に聴いた。彼はまた、インドのアンティーク雑貨店、インディア・クラフト(略)に行き、極初歩的なシタールを購入し、シタールを絶対にマスターすると決心する。彼がシタールを一九六五年秋、ビートルズのニューアルバム『ラバー・ソウル』のレコーディングに使ったのは、実際に上手く弾けるようになるだいぶ前――それどころか、指導者の下でちゃんとしたレッスンをまだ受けてもいない頃だった。

(略)

[『ラバー・ソウル』には]アシッド・トリップが与えた衝撃が、手に取るように分かりやすく作品に表れているのだ。例えば、"Day Tripper"でジョンは、後に彼が「週末だけのヒッピー」と呼ぶ、トリッパーを装いながらも幻覚剤の効果をフルに楽しむ勇気の無い人々を揶揄することに、残酷な快感を得ている。同曲では、"a prick teaser"――後に不適切な表現を改めて、"a big teaser"になる――と嫌みを言われる女の子が出てきて、数ヶ月前に発売されたローリング・ストーンズの"Can't Get No Satisfaction"との共通点が見いだされ、面白い。ビートルズと同じようにハードなロックに進化する、筆頭ライバルのストーンズと、直接対決する気満々だったことが分かる。“Nowhere Man"でジョンは、自分の身に起こった変化について、もっと真面目で素直な告白をしている。著名な音楽評論家のイアン・マクドナルドは(略)『レヴォリューション・イン・ザ・ヘッド』で、この曲を「自分とかけ離れた人物と、"太っちょエルヴィス"期にあった自分自身――ブライアン・エプスタインの決めたパブリック・イメージを演じるため現実から切り離され、何部屋もあるウェイブリッジの豪邸で隠居するうち迷子になり、夫婦関係も冷え切り、押し寄せるドラッグの波により着実にアイデンティティの境界線が崩されている自分の両方を観察した曲」と記述する。

(略)

 興味深いのは、ジョージではなくジョンが最初に、ジョージが数ヶ月前に買った新しいシタールを"Norwegian Wood"で弾くよう勧めた点だ。(略)

 

 「ジョージがシタールを持ってたから、彼に僕の書いた曲の『ディーディドゥリーディーディー、ディドゥリーディーディー』の部分を弾いてくれと頼んだ。まだシタールをそんなに触ってなかったから、弾けるか自信が無かったみたいだけど、挑戦する気になってくれた」

(略)

ジョージの腕前はまだまだで、シタール自体の品質もひどいものだった。音響技術者にとっても[悪夢で](略)

シタールはリミッティングの問題を引き起こした。鋭い波形により、満足な音質を出す前にVUメーターの針が赤に振れてしまった」

(略)

[裕福なマイソール家に生まれたアンガディは父の命でイギリスへ]

一九四三年、裕福なイギリス人実業家の娘であるパトリシアと結婚。(略)三年後にパトリシアが相続した遺産でアジアン・ミュージック・サークルを設立。(略)

六〇年代半ば、ジョージのシタールの弦が切れた頃には、アンガディ夫妻はシタールの巨匠と親しい間柄になり、シャンカルがロンドンにいる間は、必ず夫妻を訪ねるようになっていた。

 アンガディとパトリシアの2人は、換えのシタールの弦を渡すため自らスタジオに足を運び、“Norwegian Wood"のレコーディング・セッションを見守った。(略)

[これが]ジョージがシタールに真面目に取り組み、ロンドン在住のインド人音楽家と知り合いになり、遂にはマエストロ、パンディット・ラヴィ・シャンカルとの対面を果たす足がかりとなった。さらにシャンカルとの関係により、ジョージはインドとその文化に計り知れないほど没頭していくのである。

ポール、遂にLSD体験

 一九六六年前半に3度目のアシッド・トリップを決行したジョンは、それ以降二年ほど定期的にLSDを摂取し、それはリシケシュに行くまで続く。ここで重要なのは、彼が身体的な体験と並行して、LSDにより誘発される内的視覚を土台にした文化、アート、及び人生観の推進を求めるイデオロギーを受けことだ。もはやドラッグの力を借りて頭のなかで遊ぶようなレベルではなくなっていた。皮肉なことにまだLSDを受け入れていない唯一のビートルであるポールが、ジョンをロンドンの新しくてヒップなインディカにれて行き、ジョンは『チベット死者の書:サイケデリック・バージョン』を発見することになる。(略)

どうもジョンは、本屋でその本を全部読み終えてしまったようだ。(略)

ジョンはすっかり感心してしまった。彼は遂に、ジョージと一緒にロンドンとビバリーヒルズで体験した実験を、知的な枠組みで捉えることができたのだ。

 (略)

東洋の神秘主義にはまるようになり、ジョンとジョージの関係はより特別なものに発展した。ポールでさえも、ジョージの存在感がバンド内で大きくなったのを認め(略)[ジョージの曲が]『リボルバー』には3曲収録(略)

また、ポールを驚かせたのは、ジョンの曲"She Said Sha Said"でポールが演奏するのを、ジョンがきっぱりと断ったことだ。ビバリーヒルズでの2度目のアシッド・トリップの最中にピーター・フォンダと出会ったことを歌にした曲なので、ジョンはポールの代わりにジョージを選んだというわけだ。それから間もなくしてポールは、LSDに対する懸念を振り払い、初のアシッド体験をする。(略)

一九六六年、友人のタラ・ブラウン(略)がトイレで吸い取り紙に吸わせたLSDを摂取しているのを見かけたポールは、口にしないかと誘われる。

(略)

 「やりたくなかったんだよ。他の多くの人同様、先延ばしにしていたんだけど、同調圧力がすごくて。バンド内に至っては、同調圧力というよりも恐怖圧力だった。友人からのプレッシャーと違って、3倍の力で『なあお前、メンバーみんなアシッドやったんだぞ。何ぐずぐずしてんだ?理由は何だ?どうかしてるぞ』ってプレッシャーかけてくるからね。(略)いつかやるなら今しかないと思って『いいよ、やろう』と言い、みんなでやった」

ラヴィ・シャンカル

 ジョージが最初に会った頃のラヴィ・シャンカルは、キャリアの頂点にいた。(略)

一九五〇年代半ば頃には、インドの文化大使として無数のコンサートをヨーロッパやアメリカ合衆国で行い、シタールの名手として世界で絶賛されていた。(略)

一九五六年には、ロサンゼルスのジャズ・レーベル、ワールド・パシフィック・レコードからアルバムが続々と録音・リリースされる。『スリー・ラーガズ』で始まったそのシリーズは、ジャズ界隈で好評を得ただけでなく、アメリカのフォーク・ミュージックに影響を与えることになる。

(略)

幼少期の彼は、母親と一緒に(略)ミドルクラスのベンガル人家庭で育つ。(略)

パリのフランス語の学校に入学。程なくしてインド舞踊団の一員として、ヨーロッパやアメリカ中を旅することになる。一八歳になり突然、中央インドの人里離れた村で、エキセントリックな天才音楽家ババ・アラウディン・カーンの下でシタールを学ぶことを決め、帰郷。カーンの一番弟子としてインドや海外で観客の心をつかみながら、著名人になっていく。

(略)

シャンカルに強い影響を与えた特別な人物は、3人いる。(略)

遠く離れて住む父シャーム・シャンカル・チャウダリーの強い影響下で育つ。父親はすさまじく幅広い才能と能力を持ち、サンスクリット学者であり、ヴェーダ語の詠唱に長けたヨーギーであり、政治家、弁護士、哲学者でもあった。(略)権力を持つ大臣からマハーラージャ、そしてロンドンの主要な法廷弁護士と枢密院のメンバーになり、オックフォード大学で哲学の学位、ジュネーブ大学で政治学の学位を取得した。父親よりも直接影響をラヴィ・シャンカルに与えたのは、長兄ウダイ・シャンカルである。彼は、二〇世紀前半に西洋にインド舞踊を広めた先駆者であった。ラヴィ・シャンカルの3人目の良き指導者は、彼の音楽のグルであったババ・アラウディン・カーンだ。

(略)

 シャンカルが最初に父親に会ったのは八歳の時、父が母を捨てロンドンのイギリス人女性と一緒になって大分経ってからだ。(略)

バナーラスにある街で一番の高級ホテルで、末の息子を待っていた。完璧に仕立てられたスリー・ピースのスーツを着た父親は、3人の白人女性と朝食を取っており、少年シャンカルは生まれて初めて白人を目にする。(略)女性達の香水と父のコロンに香りに少年は圧倒された。(略)

父の身につけた西洋スタイルとの出会いに怖じ気づきながらも、わくわくしたラヴィ・シャンカルは、田舎じみたミドルクラスの我が家に戻る。母親は、夫の不在と遠い国での不貞、お金の無い状態が長く続いていることにより(略)よく泣いていた。

 奇跡が起こり、数年もしないうちにシャンカルは、西洋の文化の中心地に移り住む。その頃には海外で著名な舞踊家になっていたウダイ・シャンカルが、母親と弟たちを含む家族全員を、パリに移住させることにしたのだ。(略)

伝説のロシア人バレリーナ、アンナ・パブロワに見いだされ(略)一緒にインド神話に基づき振り付けされた演目を踊るようになる。彼が独立して自身のインド舞踊団を結成する頃、西洋では、東洋のエキゾチックな文化に対する興味が高まっていた。

(略)

少年ラヴィ・シャンカルは、弱冠一二歳で兄のバレエ団に採用され(略)音楽とダンスの習得に類い希な才能を見せ(略)すぐにツアーに参加するようになる。これによりシャンカルは、世界中の面白い人々に出会い、新しい経験をするようになった。

(略)

バレエ団の何でも屋でいることに飽き、最も好きなシタールをちゃんと習得しようと、一八歳の時にインドに戻る決意をする。時は一九三〇年代半ば、ヒトラーの登場により、迫り来るヨーロッパの紛争の暗雲が(略)帰郷の理由の1つかもしれない。しかし最大の目的は、敬愛し崇拝するインドの最も革新的なサロード奏者で、ヒンドゥスターニー古典音楽の指導者であるアラウディン・カーンであった。

(略)

中央インドの人里離れた村、マイハールでの厳しい訓練が始まった。ゴキブリや蜘蛛、時にさそりやヘビの出る狭くみすぼらしい部屋に、シャンカルは滞在しなければならなかった。朝から晩までシタール習得に邁進した彼は、ラーガを完璧に演奏するために、シタールに伴うヴォーカルや他の楽器のトレーニングにも没頭した。

(略)

シャンカルの父は、ロンドンの裏道で不可解な殺人の犠牲者となり、それから間もなくして、母が悲しみの中で世を去った。(略)カーンと彼の妻は、この若い弟子の養父母になった。彼らの結びつきを一層強くしたのは、シャンカルと[カーンの娘]アンナプルナの結婚だ。彼は二一歳、彼女はまだ一四歳であった。

(略)

 ラヴィ・シャンカルがまず若いビートルに伝えたこと――シタールの演奏は西洋の古典音楽におけるヴァイオリンやチェロを学ぶのと同じで(略)ギターとは大きく異なる――から、彼が西洋のポップ・ミュージックを見下していることが透けて見えて面白い。シャンカルがロックにシタールを導入することを快く思っていなかったことも明らかだ。(略)"Norwegian Wood"におけるジョージの試みにも感心しなかったようだ。公の場では、この画期的な曲を「おかしな音を奏でる」とはねつけるに留まったシャンカルであったが、ジョージと2人の時はもっと辛辣だったようだ。(略)

ジョージが、ピーター・セラーズ風のインド訛りで、ラヴィ・シャンカルの言葉を再現した。『何てことでしょう。ここでお弾きになっているものは何ですか、ジョージ?(略)失礼を承知で言わせていただければ、何かこう、ぞっとするような、ビヨーンとした、ラジオ・ボンベイで聞く粉石けんの宣伝のようなあれです』

(略)

ビートルズの音楽も好きではなかったようで(略)

 ジョージと会ってから、私はビートルズの音楽に興味が湧きました。彼らの歌声には、あまり惹かれませんでした。彼らはほとんどの場合、高いファルセットで歌っていたからです。それ以来ずっと、その流行は続いているようですが。彼らの歌う言葉を理解するのにも、何とも大変な思いをしました!

(略)

アルン・バーラト・ラームは、ラヴィ・シャンカルがジョージに対して、教師というよりも息子を溺愛する父親のように接しているように感じた。(略)

[シャンカルの妻スカンヤ談]

「彼らの感情の上での結びつきは、共通の音楽の趣味や知的な意見交換といった次元を超えた、もっと強いものでした。頻繁に手を繋いだり抱き合ったりする2人を見るのは、感動的でした。(略)実の息子シュボの間のぎこちない関係とは、非常に対照的でした。(略)」(略)

シャンカルは、父親に畏敬の念を抱いていたにも関わらず、遠く離れて暮らす親子の関係は、親しくもなければ、満足いくものでもなかった。シャンカルはまた、別れる原因となった夫婦間の醜い諍いが、シュボを苦しめたことに対する罪悪感に駆られていた。(略)シタールの巨匠は、子供に関わらないことへの償いとして、シュボに金銭や高価な贈り物をあげたが、父と子の関係は、敵対とまではいかなくとも、冷たいままであった。それにひきかえ、息子と一歳しか違わないビートルが、子供のように自分を信じ、頼ってくれるのは、シャンカルをとてつもなく喜ばせたに違いない。

(略)

[ジョージ談]

 初めてインド音楽を聴いた時、まるでもうそれを知っているかのように感じた。(略)

 ジョージを妊娠中、母のルイーズは毎週放送されるラジオ・インディアをよく聴いていた。(略)

 毎週日曜日になると、彼女はシタールやタブラの奏でる神秘的なサウンドにチューニングを合わせた。エキゾチックな音楽が、お腹の赤ん坊に安らぎと落ち着きをもたらすことを望んで。

(略)

[インド旅の]ハイライトとなったのは、シャンカルのスピリチュアル・グルであるタット・ババを訪れた時だ。(略)

シャンカルの人生にグルが登場したのは、シャンカルが経済的にも精神的にも危機に陥っていた二八歳の時だ。当時の彼は、過度の野心を持ち、音楽事業に金を注ぎ続けた結果、破産しかけていた。さらに不幸なことに、結婚生活もうまくいかず、始まったばかりのカマラとの関係も、彼女をあわてて嫁がせた家族により妨害されていた。(略)神経をすり減らし、街を通る郊外電車の1つに飛び込んで命を絶つことに決める。(略)粗布でできた衣を着ておかしな身なりをした、ヒンドゥー僧のような男が玄関に突然やって来て、トイレを貸してくれと言う。ヒンドゥー僧は、シャンカルが手にしているシタールに気づき、演奏するよう頼む。トランス状態に陥ったかのように言葉に従ったシャンカルは、数時間演奏した後で、その夜ジョードプルの王子のために開かれるリサイタルに間に合わず、気前よくもらえるはずだった出演料も手に入らなくなったことに気づく。落胆するシャンカルにタット・ババは、その晩の出演料はもらえなくとも、これからお金がもっと入るようになり、人生ももっと良くなると告げる。シャンカルの驚くことに、それから間もなくして、奇跡的にデリーのオール・インディア・ラジオで実入りのいい仕事にありつくことができ、妻との問題だらけの関係も、一時的に改善する。それ以来、粗布をまとったヒンドゥー僧は、彼のスピリチュアルな指導者となる。

 ジョージとパティにとって、聖者に会いに行くのは感動的な体験だった。「(略)ラヴィが、グルの前では完全にヘりくだっているのを見て、目を疑いました。(略)」とパティ(略)

 シャンカルの頼みでビートル夫妻に恵みを授けたタット・ババは、それだけでなく、カルマの概念と、前世での行いにより、生まれ変わりを通して、人間の魂が肉体を変えて何度も生まれることを、2人に短く講義した。

(略)

新しい生活への扉をシャンカルが開いてくれたことは、ジョージにとって、過去との完全な決別を意味していた。インドから帰って数週間後(略)クワイエット・ビートルは、容赦なく気持ちをぶちまける。

 

 僕ら、休んで考える時間を持てたから、色んなことを見直すことができた。結局四年間、僕らはみんなが望むことをやってきた。これからは自分たちがやりたいことをやる。振り返ってみると、今までやって来たことは、全部ゴミのようなことだった。

 

 一緒にインタビューを受けていたジョンが、仲間が「ちょっと無遠慮になっている」とあわてて付け加えたが、ジョージの言葉は、全て本心から出たものだった。

マニラでの恐怖体験

一九六六年の夏に世界を回った際、思いがけなく受けたショックの数々がなければ、ビートルズがあれほどかたくなにステージ上での演奏を拒むことはなかったであろう。(略)

エプスタインは、自分がまだボーイズの役に立つことを証明しようと(略)できる限りツアーに出るよう仕向けた。

 日本とフィリピン、初めてアジアを回るツアーは、ドイツでスタートした。ミュンヘン、エッセン、ハンブルグの3都市は、何事もなく回れたが、退屈なままに終わる。ビートルズは叫ぶファンにも動じず、つまらなそうに演奏した。(略)

ファンがひどい目に遭うのを嫌う彼らは、ドイツで地元警察がファンを手荒く扱ったことを知り、驚愕する。ミュンヘンでは、ルールを守らないファンが、ゴム製の警棒で警官にひどく殴られ、エッセンの観客は、催涙ガスを浴びせられ、警察犬をけしかけられた。

 以前よく行っていたハンブルグも、ボーイズのやる気に火を付けることはできなかった。(略)ツアーに同行していたブラウンは、次のように記す。

 

 ハンブルグが公演地として選ばれたのは、ノスタルジアのためだけだ。(略)[だが]かつて彼らが演奏したバーやクラブ(ほんの四年前だ)は潰れてしまって、スター・クラブも板が打ち付けてあった。夜は妖しい魅力に溢れる場所だったのに、日の光の下では、安っぽく古びて見えた。

(略)

 ツアーで訪れる先々で、退屈な記者会見に臨む苦行もあった。会見での質問は、回を重ねるごとにありきたりで中身のないものになっていった。

(略)

[フィリピン到着]

手配された車がホテルに向けて空港を出るよりも前に、アロハシャツを着て、いかつい体格をしたギャングのような見た目の警備員が、ビートルズを拉致したのだ。何が起こっているのか分からぬまま、ビートルズは、マネジメント・チームや滑走路に置きっぱなしの荷物から離されてしまう。(略)[鞄の中のマリファナで]違法薬物所持で逮捕されるのではないかと、彼らはパニックに陥る。

 「(略)あんなに威張り散らされるのは初めてで、礼儀も何も無かった。どこに行っても(略)熱狂していたけど、いつでも敬意はあった。僕らはショービズの有名人だから。でもマニラは、飛行機を降りた瞬間からネガティブな雰囲気が漂っていて、少し怖かった」と、数年後にジョージは語っている。

 ビートルズはまずフィリピン海軍の本部に連れて行かれて、形式的な記者会見を行い、その後でマニラ湾に停泊する豪華ヨットに乗せられる。(略)

[マニラの実業家が]ビートルズとパーティをしようと企てたのだ。

 「とても蒸し暑くて、蚊だらけで、汗をびっしょりかきながら僕らは怖くて震えていた。ビートルズ結成以来、初めてニール、マルとブライアン・エプスタインから切り離された。僕らのスタッフが1人もいなかっただけじゃなく、僕らのいるキャビンの周りのデッキを、銃を持つ警官が列を作って取り囲んでいた。うんざりすることばかりで、みんな暗くなっていた。こんな国に来なきゃ良かったと思ったよ。パスすれば良かった」。

(略)

 マネージャーたちがヨットからボーイズを助け出した頃には、すっかり精神的なトラウマを負い、肉体的に疲れ果てていた彼らであったが、検査を受けないままスーツケースが戻って来て、マリファナも無事だったと聞いて元気になる。地上に戻れたことに感謝し、マニラ・ホテルのスイートルームで、昼食まで爆睡する。だが、ビートルズが安らかに眠る間、彼らの知らないところで、それまでよりもなお一層厳しい試練が沸き起ころうとしていた

(略)

[イメルダ夫人の]招待状はビートルズがまだ日本滞在中に届き、過激派右翼の脅迫による混乱やパニックに巻き込まれ、ビートルズもエプスタインも、その存在を知らされないままだった。

 マルコス夫妻は(略)政権の座に着いたばかり(略)以降数十年にわたりフィリピンを独裁支配し、その悪名が世界に轟くことになる。

(略)

マルコス夫人は、セレブリティの世界に対する憧れが強く(略)海外から国を訪れる芸能人は、例外なく彼女のパーティに参加することになっていた。逆にビートルズとエプスタインはといえば、海外ツアー中は、政府や大使の主催するフォーマルな歓迎会に絶対に出席しないことを決めていた。

(略)

ファーストレディは当然ビートルズが来るものと思っていて、多くのマニラの新聞が既に、歓迎会の開催を報道していた。ビートルズ一行のなかに、地元の新聞をわざわざ読もうとする者はいなかったのだが。

(略)

「[ホテルにやってきた]高官たちは、冷たく言い放った『これはただの要請ではない。通達がここにある。(略)』」。(略)

エプスタインは従うことを拒否し、ビートルズを説得することも断る。

 仮にあの時点で全員が前向きに素早く行動していれば、予定時間にボーイズは宮殿に到着し、惨事を免れることができただろう

(略)

数分もしないうちに英国大使のオフィスからエプスタインに電話がかかってきて、ファーストレディの願いにビートルズが応じない場合、非常に危険な橋を渡ることになり、マニラでビートルズの受ける「支援と保護」は、大統領の一存にかかっていると忠告される。(略)それでもエプスタインは頑として譲らず

(略)

数時間してもバンドは現れず、目撃者によれば、マルコス夫人は、怒りで青くなり、ハーハー言いながら出て行ってしまう。泣き出す子供たちもいた。個人的な侮辱と受け取ったマルコスの子供たちの発するファブ・フォーに対する怒りの声は、次第に大きな合唱になっていった。「ビートルズに飛びかかって、あいつらの髪の毛を切ってやる!(略)」と、八歳のボンボンが金切り声を上げた。

(略)

「次の日の朝、ホテルのドアを激しくノックする音で目覚めると、外は大混乱に陥っていた。(略)

 僕らは目を見開いてテレビを観ていた。信じられない思いだった。大統領官邸訪問をすっぽかす自分たちを、テレビで観ていたんだから」と、ジョージは振り返る。

 ファーストレディを侮辱した罪で、マニラのテレビ局がビートルズを公然と非難し始め、エプスタインは、手に負えないほど事態が悪化したことに気づく。彼は急いでテレビ出演し、直接の謝罪を試みる。(略)[だが]宮殿からの要請で、突然放送が中断されてしまう。ファーストレディからの宣戦布告だ。

 マネジメント・チームの誰も、いかに深刻な状況であるかビートルズに伝えず、彼らはそのまま、その日のコンサートに向かう。初めの午後のコンサートは事故も無く終演したが、夜に行われた2回目のコンサートでは、嵐を予感させるような不吉な兆候がみられた。(略)

 

 2回目のコンサートの最後に、ホテルまで護送してくれるはずだった警察が撤退して、我々の車列の後ろの門が封鎖された。乗り込んだリムジンは身動きが取れなくなり、12人、というより20人はいたヤクザ者のグループが、脅すように窓ガラス越しに体当たりして来て、リムジンを前後に揺らし、ビートルズに向かって暴言を叫んでいた(略)ようやく門が開いて、我々は猛スピードで逃げ去った。

 

 朝になり、ビートルズのマネジメント・チームが朝食をオーダーしようとすると、驚くことに断られてしまう。「もうルーム・サービスは提供できません。あなた方は、我々のリーダーを侮辱したのですから」と、ウェイターが無愛想に告げる。大急ぎで荷物を持ちロビーに降りると、ホテルのポーターだけでなく、警察や付き添いの警備員まで消えたことが分かり、全員愕然とする。

(略)

追い打ちをかけるように(略)フィリピン内国歳入庁の担当者がエプスタインのもとを訪れ、開催されたコンサートの所得税として、八万ドルに及ぶ大金を要求。地元のプロモーターとの契約書には、ビートルズのツアーで発生する税金は、全てプロモーターが支払うと明記されていたにも関わらず、だ。

(略)

ジョンは、フィリピン人ジャーナリストに皮肉を言う「フィリピンについて学ばなくちゃいけないことが、いくつかある。まずは、どうやってここから出るか、からだ」。この言葉が驚くほど未来を予言したものであることは、すぐに判明する。

(略)

[マニラ空港に到着すると]

エスカレーターは止められ、ポーターも利用できず、ボーイズとマネジメント・チーム、及び技術クルーは、楽器やアンプ、大型機材を自分たちで運ばなければならなかった。怒ったフィリピン人の集団が空港内に集まり(中には銃や警棒、こん棒を振り回すものもいた)、凄みを利かせながらビートルズ一行ににじり寄り、事態は深刻を極める。

 ビートルズの一団は、暴徒の攻撃を浴びるしか他になく、エプスタインは顔面をパンチされ、股間を蹴られる。あばら骨に蹴りを入れられ、転倒したエヴァンスは、片方の足が流血した状態で、足をひきずりながら、飛行機を目指して滑走路を移動。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの周りをチームが身を挺して守ったので、ボーイズは直に一撃を食らうことなく脱出できたが、すんでの所だった。

(略)

空に浮かんだ機体から見下ろすと、滑走路で彼らに向かって拳を振り上げる群衆が見えた。(略)穏やかなリンゴでさえも、「人生で一番嫌な体験だった…牢屋に入れられるかと思った」と当時を振り返る。

(略)

 ビートルズとスタッフの数人は、ツアーを推し進めて来たエプスタインが、これほどの惨事を起こしてしまったことにも苛立ちを抑えられずにいた。激しい怒りに燃えたチーム・マネージャーの1人が、マニラのコンサートの集金にしくじったことを機内でエプスタインに詰め寄り、一触即発の状態になる。どっちにしろ、しばらくツアーをしたくないと思っていたビートルズは、海外で公式なコンサートをするのはもうごめんで、次のアメリカ公演を最後にツアーをやめたいと、エプスタインに伝える口実ができた。「どうせ誰も音なんか聞こえないんだから。もうお断りだよ。ツアーはこれでおしまいだ」とションが宣言するのを、ブラウンは覚えている。

 ボーイズを身体的な危険にさらしたことで自責の念に駆られ、彼らから責められることにも深く傷ついたエプスタインは、大きな不安に襲われて神経衰弱になり、全身にひどいじんましんができてしまう。

キリスト発言

自分の手からビートルズが離れていくのではないかとパニックに陥り(略)アメリカ公演に全ての望みを掛ける(略)[が、ジョンのキリスト発言で]無残にも打ち砕かれてしまう。(略)

元の記事を書いたのは、ビートルズと仲の良いジャーナリストのモーリーン・クリーヴで(略)後にジョンは、彼女と短い間浮気していたことを認めることになる。ジョンを好ましい人物として親密な感じで描いた記事に含まれる(略)ほんの一部を切り取ったのが、件の発言だった。(略)

キリスト教はなくなる。あれは、消えて小さくなる。反論してもしょうがないよ。僕は正しいし、正しいことは証明されるはずだ。今じゃ僕らの方が、キリストよりも人気がある。どっちが先になくなるか――ロックンロールか、キリスト教か。キリストはまあいい奴だったけど、弟子はまぬけで凡人だった。あいつらがねじ曲げたから、僕は嫌になった」。

(略)

ボーイズを再び危険にさらすことに恐れおののいたエプスタインは、ツアーのキャンセルを真剣に考え始め(略)弁護士のナット・ワイスに、ツアーを直前にキャンセルした場合に発生する損失を算出してもらう。一〇〇万ドル以上になると告げられ、取り乱したエプスタインは、自分のポケットマネーから出そうとするが、ジョンが自分で謝罪すれば米国ツアーを断行できると、弁護士に説得される。

(略)

 ブラウンによれば、ブライアンが強引に説得を重ねた結果、少なくとも記者会見で発言の意図を説明することに、ジョンは同意する。

 アメリカに着陸してすぐにジョンは、メディアに向けて、長くてやや説得力に欠けた、彼の基準からすれば必要以上に下手に出た謝罪を表明。ビートルズの広報担当バロウによれば(略)ジョンは、公衆の面前で辱めを受けたことで、人目の無い所で崩れ落ちるようにすすり泣いていたそうだ。「彼は実際に手に顔をうずめて泣いていました」「ジョンは、『どんなことでもするよ…言われたとおりにする。僕が言ったことのせいで、このツアー全部がキャンセルになったら、みんなに顔向けできない』と言った」と、ブラウンは記す。

(略)

 各地の都市や小さな街で散発的に公開たき火が行われ、クー・クラックス・クランによる反対運動の儀式も止まなかった(略)

シンシナティでは(略)ローディのエヴァンスが(略)土砂降りのなか、濡れたアンプを電源につなごうとして、ステージ上を1m近く吹っ飛ばされるほどの強い電気ショックを食らったのだ。コンサートは突然のキャンセルを余儀なくされたが(略)ツアーをするようになって以来、初めての経験だった。ビートルズが、もし雨の中で演奏をしていたら、メンバーの1人が感電死していた可能性は十分ある。

(略)

決定的な事件は、バイブル・ベルトの真ん中(略)メンフィスのミッドサウス・コロシアムで起こる。(略)

2回目の公演の途中、ジョンが全力で "If I Needed Someone" を始めた時、銃声のように大きな音がして、眩しい光に包まれる。ジョンが撃たれたのではないかと恐れた他のメンバーは、凍り付く。ジョン自身は、このような状況下でもできるだけ平静を装うとしていた(略)爆発音は銃声ではなく、誰かが客席から投げこんだチェリー・ボムと呼ばれるかんしゃく玉の音であることが分かった。(略)人を殺すような威力は無かったが、ビートルズを震え上がらせるには、十分だった。メンフィスでのチェリー・ボム騒動は、ビートルズの神経に最後の一撃を与え、永遠に彼らがツアー用機材をしまい込むことに繋がった。

(略)

後にリンゴは、なぜ全米ツアーの終わりにひどく幻滅した思いを抱いたのか、彼らしく淡々と説明している。

 

 一九六六年になると、公演旅行がすごく退屈なものになって、自分にとっては終わりにしたい気持ちになった。演奏を聴いている観客なんていなかった。最初はそれでも良かったけど、演奏がどんどんひどくなって。僕がビートルズに加入したのは、彼らがリヴァプールで一番上手いバンドだったからだ。いつでも、上手いプレイヤーと演奏したい気持ちがあった。結局、理由はそういうことだよ。僕らは何よりもまず、ミュージシャン(略)だった。巨大でばかげた台の上に乗せられるためにやっていた訳じゃない。(略)僕らはっきり分かったんだよ。もう意味が無いから、早いとこツアーを終わらせた方がいいと。

 

(略)

 バンド内でおそらく最もツアー後にトラウマを抱えたのはジョージで(略)ラスト・コンサートを終えて、ロサンゼルスに戻る機内で、既に彼はバンドをやめるつもりになっていたのだ。「やれやれ、やっと終わった。もう僕はビートルズじゃない」と、彼はエプスタインにドラマチックに宣言した。(略)二度とツアーしないことを厳粛に誓うエプスタインにより、ジョージはバンドを脱退しないよう説得される。

(略)

 ジョージの情熱が向けられた先は、無論インドだった。

(略)

[一方ジョンは暇を持て余し面白半分で『ジョン・レノンの 僕の戦争』に出演]

(略)

 ロンドンに戻っても、依然として自分やビートルズの向かうべき道を見つけられなかったジョンは、不安から逃れるために、LSDに依存する。(略)

ブラウンによれば、「(略)いつも同様、ジョンはやり過ぎて、アシッドをほぼ毎日摂取した。本人の自白によれば、彼は何千回もトリップしたそうだ」。

(略)

惨事続きだった直近の海外ツアーや、ビートルズが人前で演奏をしないと決めたことへのショックから、エプスタインは神経衰弱に陥る。ジョンがサイケデリックのもやのなかに逃げ込む回数が増えたのは、エプスタインに対する心配も一因だった。エプスタインは、世捨て人のようにドラッグとアルコールに狂っていた。悪いことに、彼のボーイフレンドが、卑猥な写真を盾に評判に傷を付けるぞと、エプスタインを脅迫した。(略)九月の終わり、エプスタインは、睡眠薬を過剰摂取して、全てを終わらせようとする。幸いなことに、大事に至る前に(略)発見され、病院で胃の洗浄を行い回復した。エプスタインの書いた遺書は、スキャンダルを引き起こさないように隠蔽されたが、エプスタインと特に親しかったジョンは、大きなショックを受けた。

次回に続く。

象の記憶 日本のポップ音楽で世界に衝撃を与えたプロデューサー

フラメンコの衝撃、ホセ・フェリシアーノ

〈ヴィレッジ・ゲイト〉に、ある日、テイジとともに出かけた。(略)

 最初に出てきたのは、ハービー・マン(略)次は、ランバート・ヘンドリックス&ロス(略)神業的スキャット・コーラスを披露した。

 そして、いよいよ(略)ソニー・ロリンズ・バンドが登場し、最前衛の音楽で聴衆を熱狂させた。

 これで終わりかと思ったら、ガット・ギターを持った小太りのおじさんが大トリとして登場した。(略)ギターを弾き始めた瞬間、これまでに聴いたことのない強烈な音楽が溢れ出てきたのだ。僕だけでなく、満場の聴衆もその音楽に唖然として聴き入った。一曲目の演奏が終わると、会場が一瞬静まりかえった。そして次の瞬間、全員が立ち上がり凄まじい拍手が起こった。

 たった一本のガット・ギターから、どうしてあのような迫力とリズム、華麗な音色が出てくるのか、とても信じられないものであった。

 おじさんは、涼しい顔で驚異的なテクニックを披露し、怒濤の如く華麗な音楽を演奏した。このおじさんこそが前述したサビカスだ。(略)

世界中の民族音楽に詳しいテイジは、「今のは、スペイン・ジプシーの音楽で、フラメンコというものだ」と教えてくれた。

(略)

どこかに教えてくれるギタリストがいないかと調べたが見つからない。(略)

グリニッジ・ヴィレッジのブリーカー・ストリートという有名な道を歩いていたら、あれ以来耳にこびりついているフラメンコ・ギターの音が、通り沿いの小さなカフェのなかから聴こえてきた。(略)

[演奏していた青年に教えてくれと言うと、彼の先生を紹介してくれた]

フラメンコ音楽には楽譜というものがない。教則本も存在しない。ホアン先生に習い始めてびっくりしたのは、先生がいきなり曲を弾いて「それ、やってみろ!」という、その指導方法だった。(略)

先生の弾く曲に使われるテクニックについてひとつずつ聞いていくと、ロスケアード、アルペジオピカードトレモロ、アルサプアなどと呼ばれるテクニックを複合的に使っていることが判明した。

(略)

 僕は、来る日も来る日も、毎日十時間はこれらのテクニックを身につけるために練習を続けた。

(略)

カフェを三軒持っている、ジャックというルーマニア移民で、百九十センチは優にある大男のボスがいた。(略)

[日本贔屓と聞いて交渉]

「そうか、お前は日本人か!(略)俺は、オーヤマ先生の弟子で、空手をやっていて黒帯だ。(略)

[空手と剣道、どちらが強いかと議論になり、対決し、見事勝利]

「お前はたいしたもんだ!空手のほうが強いはずなのに、剣道が勝つこともあるんだな!」(略)

それ以来、大の仲良しになり、僕はジャックのカフェのひとつでフラメンコ・ギター演奏のライブをやらせてもらうことになった。(略)見物客の多い週末などは、演奏後に灰皿を回すと三十〜四十ドルくらいの実入りがあったものだ。忘れもしないのは、同じカフェに出演していた仲間のミュージシャンに盲目のパーカッショニストがいて、ひとりでコンガを叩きながら独特の小節を利かせた歌を唱っていたことだ。耳がおそろしく敏感で、僕がギターを持って店に入っていくと足音だけで判断し「ハーイ!ショー」と声をかけてきたものである。こいつは僕のフラメンコ・ギターに興味をもったらしくどこからかギターを調達してきて、暇があると「弾き方を教えろ」というのでしばらく手ほどきをしたら、見る見るうちに弾きこなすようになり、右手の奏法にフラメンコ的ストロークを駆使したギター弾き語りで個性的な歌を唱うようになった。

 この人物が、のちにドアーズの「ライト・マイ・ファイア」のカバーで大スターとなったホセ・フェリシアーノである。

(略)

アパートからすぐのウエスト・サード・ストリートにスペイン料理のレストランがあり、なんとその店はサビカスの行きつけだったのである。(略)

サビカスは、その人間性と圧倒的なギターのスキルでニューヨーク在住のジプシー・アーティストたちのドンのような存在であり、レストランはフラメンコ・アーティストたちの溜まり場になっていた。僕は(略)いつのまにかサビカス本人とも親しくなり、隙を見つけては超絶テクニックの一端を本人から直接伝授してもらったのである。

(略)

ある日テイジが「最近ガスライト・カフェで歌っている若いシンガーが素晴らしい!一緒に観に行こう!」と言うので聴きに出かけると、すでに人気者だったらしくカフェは満員。ハーモニカを首からさげ、ギターを抱えて登場したその青年は、ボブ・ディランという名であった。(略)

また、奇妙なバンドがカフェ・ビザールでデビューするというので見物に行くと、八人編成くらいの大勢のメンバーがまるで仮装行列の如き格好で登場し、ロックバンドらしき楽器を持っているのは三人ぐらいで、ほかのやつらは錫杖のようなものでたまに床を打ったり、なにも持たずにたまに喚いたりするだけなのだ。奇天烈で珍妙なパフォーマンスに飽きてしまい途中で退散したのだが、それが、フランク・ザッパマザーズ・オブ・インヴェンションの初舞台だったのだ。

 

本場スペインへ

前衛劇『六人を乗せた馬車』[に](略)音楽監督兼作曲家、そして演奏家として参加することになったテイジが、楽団のメンバーとして僕を誘ってくれたのだ。

(略)

[オフ・ブロードウェイ賞でベスト・プロダクション賞を取り]

アメリカ縦断のキャンパス劇場公演が決まってしまった。

(略)

[さらにヨーロッパ公演も決定。ダブリン公演までの期間、ひとりフラメンコの本場、スペインへ]

 ギタリスタたちは六人ほどいたが、椅子を持ってきてお互いにチューニングを合わせてから、ショウの前の、腕、指ほぐしのためだろう、アドリブでいろいろなフラメンコの代表曲を弾き始めた。ブレリアス、ソレア、シギリアス、アレグリアスなどである。

 フラメンコの場合、曲といっても譜面に書かれたものを指すのではなく、ひとつの名前が付けられた曲様式と呼んだほうが正しい。様式は、リズム、コンパス(一フレーズの長さが決めてあり、そのなかのアクセントの形が決められている)、コード(主題和音)とその変化、の三要素が様式の骨幹を形成している。たとえば最も重要な代表曲「ソレア」は、リズムは三拍子で、十二拍でコンパスを形成する。アクセントは、三拍目、六拍目、八拍目、十拍目、十二拍目と決められている。基本和音は三コードであり、アドリブの遊びもそのなかで行われるので、様式をまず覚えてしまえば演奏するのも聴くのも楽しめる仕掛けになっている。

 誤解のないようにお伝えしたいのは、あくまでこれは基本様式であり、そこから始まって多様な形のものが発生していることを記しておく。

(略)

 さて、ギタリスタたちの素晴らしいアドリブ演奏がいよいよ熱を帯びてきた頃合いに、そばでパルマ(手拍子)をしていたカンタオール(歌い手)が歌い始めた。すると、ギタリスタたちはその演奏の役割を歌の伴奏にパッと切り替える。歌終わりを見計らい、今度はギターがソロを引き取る。一人が独特のファルセタ(フレーズ)を弾くと、別のギタリスタがそこに加担してファルセタを盛り上げていく。カンタオールはじっとそのファルセタを聴き、ノリのよいファルセタが聴こえると「オレー!」と合いの手を入れる。そしてまたカンオールが歌いだすのだ。そこへ、美しいコスチュームを着たバイラオラ[女性の踊り手]が参加してパルマとパソ(足拍子)でさらに盛り上げる。ギターと歌とパルマとパソが渾然一体となって曲はどんどんクレッシェンドしていき、最高潮のそのとき、鮮やかにピタっとキメる。

(略)

「ハポネサは中国人ではない。ハポン(日本)という別の国だ」

「そうか、初めて会った。ではなぜそのハポネサがここに来たのだ?」

「フラメンコ・ギターの習得のためだ」

(略)

「(略)ハポネサがフラメンコを弾けるとは思えない。弾いてみろ!」(略)

サビカスから伝授されたファルセタを交えた一曲を弾き出すと、かなり驚いた様子で、「おーい!ここにいるハポネサという東洋人がちゃんとフラメンコを弾いてるぜ!観に来いよ!」と仲間に知らせた。(略)

軽く一曲を弾き終わると、かなり感心した様子で皆が「オーレー!」とニコニコしながら拍手してくれた。「なかなか、やるな。ちゃんとフラメンコしているぜ、いまのはサビカスのファルセタが入っていたな。どこで教わった?」と今度はギタリスタが訊いてきた。「ニューヨークでサビカス本人から伝授された」「本当か!それは、すごい!お前はサビカスに会ったのか?」と言う。フランコ政権を嫌ってスペインから亡命してしまったサビカスは、スペインのジプシーたちの憧れの存在であることがあらためて確認された。「もっとほかの曲も弾いてみろ」と言うので、弾き始めるとそのギタリスタが一緒にアドリブで参加してきて、僕を取り囲んでのジャムセッションがおっ始まってしまった。

(略)

 その日からほとんど毎夜〈コラル・デ・ラ・モレリア〉へ通い、裏口入店して彼らジプシー・アルティスタたちと親交を深め、ギタリスタからはいろいろなファルセタを教わることができた。

(略)

[4年の海外遊学を終え1964年帰国]

知り合いの映画スター・菅原謙次の妹がフラメンコダンサー小松原庸子であることを知り、彼女のレッスンのギター伴奏をすることを頼まれた。ある日、練習しているスタジオに行くと、そこにもう一人の日本人女性フラメンコダンサーがいた。その踊り手のフラメンコを見て僕は衝撃を受けた。しなやかで情熱的な動き、歯切れの良いリズムの取り方、素晴らしいものだった。彼女が、天才フラメンコダンサー・長嶺ヤス子である。

 僕は彼女の舞踊家としての素晴らしさに魅了され、彼女のほうもギタリストとして本場スペインでの経験のある僕の存在が大切になった。僕らはコンビを組み、いくつかのレパートリーを仕上げた。いつのまにかエージェントが付き、東京じゅうの高級ナイトクラブや大型キャバレーに出演するようになったのだ。(略)

[東京ヒルトンからも出演依頼]

ジョーン・バエズが東京ヒルトンに滞在しスターヒルに食事をしに来たのだ。食事とともにショウを観たジョーン・バエズは、僕たちのフラメンコをいたく気に入り、ショウのあとに僕をテーブルへ招いてくれた。彼女としては、なぜ日本人が本格的フラメンコを演奏することができるのか、不思議だったようである。

福澤幸雄・享年二十五歳

ファッション・モデルの松田和子と幸雄が恋に落ちた。(略)幸雄よりも七歳年上で日本人モデルとして初めてパリのオート・クチュールで活躍した人物である。松田和子がキャンティで食事をしていたある日、幸雄が突然そのテーブルに座り込んで話始めたらしい。(略)二人が出会ってほどなくして、幸雄は松田和子の家に出入りするようになった。

 

 一九六九年二月、松田和子は彼女のアパートでうたた寝をしてる幸雄を起こした。前夜に僕ら兄弟やかまやつひろし等とカードゲームに夜中まで興じていた幸雄は、かなり疲れていた様子だったらしい。幸雄は彼女をアパートに残しレース場に向かうため車で出かけた。

「あの朝……私が幸雄を起こさなければ……」

 彼女がトヨタのテスト・コースでの幸雄の事故死を知ったのは、その日の午後である。

バークレイレコード、〈ALFA〉、「マイ・ウェイ

[父を訪ねてきた]エディ・バークレイというその人物は[ダリダ、シャルル・アズナブールを擁する]〈バークレイレコード〉というフランス有数のレコード会社の社長だった。(略)

[キングレコードからフランス制作のレコードが販売されていたが]

日本のマーケットを視察したエディ・バークレイは日本での独自のレコードプロデュースを思い立ったのだ。著作権管理などが整備されている日本のマーケットの将来性を感じたのだろう。(略)

[著者に専属プロデューサーの依頼]

 こうして僕と加橋かつみの運命的なパリ行きが決まった。

 この一九六九年のパリで僕はロックミュージカル『ヘアー』に出会うことになる。

(略)

[売れっ子作曲家になっていた村井邦彦から国際電話]

「ショーちゃんがいるなら僕もパリに行ってみよう」(略)

行動力溢れる村井邦彦のパリへの最初の旅が、その後の彼と僕とのさまざまな音楽プロジェクトの始まりになった。

(略)

現在日本で最も売れている作曲家であり音楽出版社の社長であると吹聴[すると](略)エディ・バークレイは村井邦彦をバークレイ傘下の音楽出版社エディションバークレイに紹介してくれた。

(略)

[音楽出版社とのビジネスミーティング前日]

「ショーちゃん明日のミーティングのために僕の会社の名前を考えようよ!」

「エッ?会社の名前はまだないの?」(略)

イプシロンというのはどうかな?」

「なにそれ」

「アルファ、ベータ、イプシロン

「それなら一番初めのアルファにしちゃったら?」

(略)

 後日談としてこの時僕はアルファのスペルを〈ALFA〉と書いたのだ。すっかり信用した村井邦彦は日本に帰国してから会社を登録する際そのまま〈ALFA〉にしてしまった。あとで調べたら実はアルファの正式のスペルは〈ALPHA〉だったのだ。

(略)

ヒット曲がたくさん生まれてレコード会社にまで発展した後はかえって〈ALFA〉のほうがかっこよく見えるのが不思議だ。

(略)

[村井の商談中、オフィスの廊下をウロウロしていると]

ギターを弾き、歌っている青年を発見(略)その歌は、夕暮れのような哀愁を感じさせながらも、メロディーは力強く、すぐに魅了されてしまった。

 そこで僕は、商談真っ最中のオフィスに割り込み、ジルベール・マルアニにその青年のことをたずねた。ジャック・ルヴォーという名の青年であり、歌っているのはきっと「コムダビチュード」という曲だが、まだ歌詞ができていないのだと教えてくれた。僕は村井邦彦に、是が非でもその曲の出版権をもらうべきだと伝えた。ジルベール・マルアニに相談すると、出版権を無料で渡してくれるという。そしてなんと、「ポール・アンカが作詞することになるかもしれないがまあ、ハリウッドのことだから少々眉唾だけどね」と、笑いながら話すのである。

(略)

[帰国後]村井邦彦はすぐに音楽出版社〈アルファミュージック〉を設立(略)

[ある日]ラジオからその曲が聞こえてきて、驚いた。フランク・シナトラが歌っているのである。しかもその曲はすでに全米ヒットチャートの一位を独占状態だという。ポール・アンカが詞を作り、曲名は「マイ・ウェイ」になっていた。こうして、僕と村井が発見した「マイ・ウェイ」はいろいろな意味でアルファミュージックの貴重な財産となった。

マッシュルーム・レーベル、ユーミン

 話は一九七〇年に戻る。

 ヘアーの公演が終わり音楽制作を再開した僕は、友人のミッキー・カーチス内田裕也、そして京都のイベントプロデューサー・木村英輝たちとともにレコードレーベル創立の構想を練っていた。(略)

当時流行していたドラッグ・カルチャーや、幻覚作用のあるキノコ、マジックマッシュルームの話題になった。

 「それを食べると、ずいぶんハイになれるらしいよ」

 なんて話をしているそばで、ミッキーの当時の奥さんが真っ赤なマッシュルームのイラストを描いていた。それを気に入った僕らは「これをレーベルマークにして、名前はマッシュルーム・レーベルにしよう」と決めたのだ。

(略)

[四人とも経営資質はないので村井邦彦に相談]

村井は大いに面白がり、仲間になってくれるという。村井邦彦が、ものすごい行動力、そして交渉力の持ち主であることは承知していたけれど、コロムビアレコードに掛け合って、すぐに制作費二千万円を調達してきたことには驚いた。

(略)

村井邦彦の発想による(略)気の合うミュージシャン同士でセッションをしながら音楽をつくりあげていく[という制作方法でスタート](略)

[しかし、セールスはふるわず、ついにはアルファのオフィスの片隅、机ひとつの会社に。風前の灯から、突然の奇跡、「学生街の喫茶店」が100万枚の大ヒット]

(略)

[ユーミンのアルバム売上は3万枚]投資を回収するにはほど遠い(略)

なんとかしなければと(略)テレビ番組とのタイアップ[を試みた](略) 

「ここに、二百万という大金を費やして制作した楽曲がある。これをタダで使わせてやる代わりに、ドラマの始めと終わりにこの曲を流して、クレジットを入れてくれ」

(略)

「あの日にかえりたい」は、本邦初のテレビドラマ・タイアップに[なり大ブレーク](略)三枚のアルバムは、このシングルのヒットに連動して凄まじい勢いで売れ始めた。

 

デヴィッド・サンボーン

 一九七八年(略)僕のアイデア深町純を連れてふたりでニューヨークへ乗り込んだ。当時のニューヨークのトップ・ミュージシャンを多数キャスティングした夢のようなアルバム創りである。

(略)

デヴィッド・サンボーンは幼いころの小児麻痺でまっすぐサックスをくわえることができず、唇の端でくわえて吹くユニークなサックス奏者だった。(略)

ソロを入れる番になったのだが、肝心のサンボーンが見当たらない。(略)

リチャード・ティーがこっそり僕を呼ぶのだ。「ショー。俺に心当たりがあるから、だまってついてこい!」と言う。

 巨漢のティーについて行くと、なんとトイレに入っていった。(略)足が見えるトイレのドアを怪力のティーが蹴破ると、そこに、なにかの麻薬で泡を吹いてくたばっているサンボーンがいた。そのサンボーンを、ティーがかついでスタジオに連れていった。そのまますぐに、一番メインのサンボーンのソロパートを録音することになったのだが、さすがに今の今までくたばっていたので、まずはバックトラックを流して練習をしようと言うと、なんとサンボーンは、いいから即録音しろとのことである。

 言われるままにすぐ録音に入って驚いた!見事に一発OKの演奏だったのだ。

(略)

スティーヴ・ガッドの逸話もある。(略)自由に叩いてもらって(略)マイクの確認作業をしていたところ、不思議なカウベルという打楽器の音が入ってくる。(略)エンジニアとともにこっそりスタジオに入りスティーヴの様子を見に行くと驚いた。なんとスティーヴは右手に二本のスティックをはさんで持ち、タムタムのビートの隙間に目にも止まらないタイミングでカウベルを鳴らしていた。

(略)

[『オン・ザ・ムーブ』発売]

彼らを日本に招聘してコンサートを行い、ライブアルバム『深町純&ニューヨーク・オールスター・ライヴ』を録音(略)

このとき来日した(略)マイク・マイニエッリというヴィヴラフォンの名手には(略)吉田美奈子の『モノクローム』に参加してもらった。(略)「トルネード」という楽曲が気に入ったマイニエッリは、延々と演奏をやめなかったというエピソードがある。

イエロー・マジック・オーケストラ

 一九七八年、僕の企画事務所であるシロ・プランニング[で](略)村井邦彦と話をしていると細野晴臣がやってきた。〈イエロー・マジック・オーケストラ〉という新しいプロジェクトを構想しているという。ニューミュージック系のセッションミュージシャンの親分である細野がオーケストラというのだから、僕たちはてっきり大勢のミュージシャンを集めて演奏するのだろうと想像した。

 村井邦彦は「細野に全部任せる!」と言って細かいことは気にしていない様子だった。

 数か月後、村井邦彦から[困った声音の]電話が来た。(略)

彼がかけたテープから聞こえてきたのは「ピッ、ボッ、ブー」といった調子の奇妙な電子音だった。

(略)

 ラジオは、どこの局でも扱ってもらえなかった。当時のラジオ局の番組編成では音楽はすべてジャンル分けされていたのだが、YMOの音楽はどれにも当てはまらず、またサウンドが奇抜すぎるということで断られてしまう。

(略)

 そんな状況で思いついたのが一九七八年十二月に新宿紀伊国屋ホールで催した〈アルファ・フュージョン・フェスティバル〉というイベントだ。(略)

[アルファには、渡辺香津美カシオペアがいるし]

A&Mレコードに協力を依頼すれば出演者には困らないだろう。それらのフュージョン・アーティストのあいだにジャンル不明のYMOを出演させて、なんとかプロモーションできないだろうかという苦し紛れの戦略を実行することにした。

 

[米国からはニール・ラーセンの出演が決定]

プロデューサーであるトミー・リピューマの滞在するホテルオークラへ、上等なシャンパンを幾本か持っていき、しこたま飲ませた。(略)

 半分酩酊状態で紀伊国屋ホールに到着したトミー・リピューマは、YMOの演奏が始まると、ノリノリだ。

「これはユニークで面白い!アメリカでリリースしよう!」

 なんて口走っている。おっ、と思ってさっそく村井邦彦に連絡。村井はすぐにA&Mの会長であるジェリー・モスに電話して、「日本でトミーがこう言ってるから、アメリカでのリリース、よろしく頼むよ!」と勢いよく伝え、ジェリー・モスはなんだかよくわからないうちに「OK」と答えたらしい。

 

 強引な交渉だな、とばかり思われてもいけないので、出来事の背景にあるA&Mレコードとの信頼関係について記しておこう。(略)

[キングが代理店だった時は、カーペンターズしかヒットがなかったが]

アルファレコードがディストリビューターになってからは、A&Mの作品が本邦で次々にヒットすることになる。(略)ハーブ・アルパートの「ライズ」というトランペット作品は、当時博報堂の敏腕ADであった村口伸一のアイデアで、キリン・シーグラムロバートブラウンのテレビコマーシャルの音楽に採用され(略)大成功(略)[クインシー・ジョーンズ愛のコリーダ」]は、ディスコへのプロモーションで大ヒットさせた。

 後日アメリカのA&M本社に赴いたとき、クインシー・ジョーンズハーブ・アルパートから「日本のアルファと契約してよかった。なかなかやるな!」と大いに感謝された。

(略)

 アメリカに帰ったトミー・リピューマは、酒の酔いも覚め果てて頭を抱えていたらしい。(略)「いったいこれをどうやって売れというのだ!」と。そこへたまたま〈チューブス〉(略)のマネージャーがやってきて、聞こえてくる音に興味を示してきた。トミーから日本のユニークなバンドだと説明を受けるとますます気に入った様子で「今年の夏に行うチューブスの三夜連続コンサートに出演させたい!」と言う。(略)費用はアルファ持ちという話である。(略)[機材運搬に]多くの予算を必要とする。

 アルファレコードの社運を賭けるプロジェクトになった。

(略)

僕がメンバーに提案したのは、アメリカ人が日本人に対して抱いている典型的なイメージを逆手にとって日本のアイデンティティとして表現しようというものであった。日本人は無口で無表情だと思われているのだから「曲間に拍手をもらってもニコリともせず、お辞儀もせず、無表情のまま怒涛の如く演奏を続けよう」と言った。メンバーは「そりゃ楽でいいですね」などと言っていた。また(略)制服を着用するイメージをもっているだろう、と考えたので、ファッションセンスのある高橋幸宏に相談してユニフォームを作ってもらうことにした。

(略)

 アメリカでは、メインアクトの演奏をより印象付けて聴かせるために、メインアクトが登場するまでは演奏ボリュームをしぼるということが慣習的に行われているのだが、YMOのようなインストゥルメンタル・グループの舞台でこれをやられては致命的だ。そこで、舞台監督のマット・リーチに千ドルの賄賂を握らせて、さらに「わざわざ日本から来た、ジェリー・モス肝いりのバンドなんだ。しっかり音を出さないと、ジェリー・モスが怒るぞ!ショウ・ビジネス界に出入りできなくなるぞ!」と念を押した。

 

 そしていよいよYMOの演奏が始まると、なんと一曲目から大喝采スタンディングオベーション。会場の熱気は三曲目あたりでピークに達し、そのまま最後の曲まで盛り上がり続けた。非の打ちどころのない大成功であった。

 ロサンゼルスの夏の野外コンサートで集まる観客のほとんどは、マリファナか酒での酩酊状態であり、東京でのトミー・リピューマと同じ状態だったのだろう。

 現地には日本から音楽専門誌約十社の記者を連れていった。「A&Mのスター・アーティストをインタビューできるぞ!」と伝えていたのだが、それを目的に参加した彼らも、YMOの熱狂を目前にして(略)「日の丸ガンバレ」気分で一斉にYMOの記事を書き日本に送った。二日目と三日目には急遽ビデオ撮影班を編成し、記録した映像を日本に持ち帰らせた。それをさっそく村井邦彦NHKに売り込むと、日本人が大活躍しているという明るいニュースに喜んだ。NHKは十五分ほどの特集放送をした。(略)

これが日本中にYMOブームをまき起すことになった。

(略)

YMO一行はアメリカ各地でのライブ・ハウスでのプロモーション・ツアーを行った。

 僕はその途中、日本でのアルバムの販売状況を確認するために東京の村井邦彦に電話をかけた。村井は例によって至極呑気な間延びした口調で「なんか知らないけどライブのテレビ放映効果で売れ始めちゃってるみたいだよ。デイリー・セールが五桁だってさ!」

「ふーん……そうなんだ」

 ツアーで疲れていたためか、具体的な数字をイメージせずに聞き流していたのだが、冷静に考えると、一日五桁というのはとんでもない数字である。

 日本では空前のYMOブームが起きていたのだ。

 そんなことは露知らぬまま、アメリカのドサ回りを終えた僕たちは日本に帰国した。

(略)

[二度目の世界ツアー、出発を前に渋る坂本龍一。ツアーを中止にするわけもいかず]

「ツアーが終わったあと、ソロアルバムを制作しよう」と提案し、ようやく坂本はツアーへの参加を承知した。

(略)

 テレビの司会者が細野晴臣にフランス語でなにやら[質問](略)

細野は大マジメな顔で、

「ざるそば食べたい」(略)

司会者もマジメな顔でフランス語の質問を続ける。

「こんどは天プラそば食べたい」

二十一世紀のヒットと佐藤博

 出所時に僕を待っていてくれたのが現在の妻・陽子である。(略)

娘の煌子が生まれ、おだやかに暮らしていたある日、昔のフラメンコ・ギターの仲間である三谷真言が訪ねてきて(略)

紹介してきたのが大郷剛(略)彼が、レコードデビューをさせたくて夢見ていたのが〈ソルジャ(SoulJa)〉というラップ・アーティストであった。(略)

ラップという音楽があまり好きではなかったのだが、大郷剛が目をキラキラさせて熱心に話すので取り掛かってみることにした。

 そしてまず、昔のフラメンコ・ギター仲間でテレビ東京ミュージックの社長・太田修平に企画を相談し、太田がユニバーサル・ミュージックの会長・石坂敬一にその話をしたところ、「ショーちゃんは昔から知っている。時々大ヒットを創るから、スタッフに伝えるよ」ということで太田の計らいでユニバーサル・ミュージックに行くことに(略)各レーベルのトップが揃って待っていた。

「知っているだろうが、プロデューサーの川添さんだ。この人は必ずヒットを創るから、言うことを聞くように」

 石坂敬一の鶴の一声でアルバム制作が決定した。(略)

 時を同じくして[佐藤博が自宅を訪れ](略)

 「川添さん!僕は現在、情けないことに経済難民なんですよ。家賃が三か月払えずにいて、追い出されそうなんです。自宅にスタジオがあるので出て行くわけにはいかないんです」「よし、わかった。なんとか仕事を作るよ!」というわけで、佐藤博をソルジャのレコーディングのサウンド・クリエイターに起用することにした。

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ジョニー・マー自伝 その3

前回の続き。

僕とモリッシー、テープ奪還計画、解雇

 アルバムを作り終えてしまった僕らは何かやることはないかと探し始めた。ラフ・トレードとの争議によってアルバムは宙ぶらりん(略)

僕とモリッシーはレアな60年代や70年代のシングル盤を探しにレコード店詣でをすることにした。かつて一度でも持っていた、もしくは一度でも好きだったレコードなら何でも探し出そう、と2人の協定を結んだ。それは楽しい時間だった。僕らは面白いことをいっぱいして、たくさん笑った。様々な狂気から離れ、本当の自分たちに戻れる、こういうほっとする時間をどれほど心待ちにしたことか。週末にはブライトン近くをぶらつき、モーカムまで足を伸ばした。そんな時、2人で語り合ったバンドに描く夢があったから、僕らの関係は誰をも寄せ付けないものになったのだ。

(略)

ある晩のことだ。決めた。フィルに運転してもらい、マンチェスターからサリーまで、マスターテープを盗みに行く。バンドにアルバムを所有することが許されないのだとしたら、それは誰のものにもなるべきではない。スタジオに押し入り、僕が『ザ・クイーン・イズ・デッド』を自由にする。朝1時半頃、マンチェスターを発つと雪が降り始めた。雪程度で計画を思いとどまらされるわけもない。インディーズの正義を貫くためだ。(略)ようやくスタジオに着いたのは、東の空が白む頃。(略)

スタジオを抜け、テープが保管してあるパントリーを開けた。棚の上に僕らのテープがあるのを確認した時、背後で明かりがつき、家主の1人ティムが立っていた。(略)

「ジョニーじゃないか。何をしてるんだ、ここで?」と彼は言った。

「やあ、ティム」。僕は努めて明るく答えた。(略)「僕らのテープを取りに来たんだ」(略)

ティムは(略)テープは渡せない、と言った。法的な争いに巻き込まれたくない、というのもあっただろうが、一番の理由は請求したスタジオ料金が未納だからだと言う。もっともな話だ。

(略)

 ラフ・トレードとは、僕らがもう1枚アルバムを彼らのところから出すことで決着がついた。

(略)

[問題は]アンディの状況だった。(略)

最悪の事態を迎えたのは、あるライヴの途中に彼が〈悪夢〉を見てしまった時だ。(略)

[解雇]を告げる役目は僕に回って来たが、それで正しかったのだろう。

(略)

僕らは抱き合って泣いた。ベースを手に玄関から出ていく彼の後ろ姿を見送った時の気分は、それまで経験したどんな気分より最低だった。

(略)

彼の代わりになれる人間がいるとしたら、クレイグ・ギャノンしかいない。見知らぬ外部者をオーディションするなど、考えられない。

(略)

朝、呼び鈴が鳴り、出てみるとアンディだった。ヘロイン所持で逮捕されたというのだ。(略)

この最悪の状況をどうするか(略)アンディをバンドに戻す。それが一番だと全員が感じていた。

(略)

クレイグを2人目のギタリストにすることにした。(略)僕にとっては、レコードで弾いた別のギター・パートをライヴでも演奏できるようになり、音楽的に解放された気分だった。

(略)

アルバムがリリースされ(略)プレスと向き合わねばならないモリッシー(略)がロンドンの(略)オスカー・ワイルドゆかりのフラットに引っ越すと言い出した。(略)マンチェスターに戻ったことで手に入れた僕らの自治アイデンティティ(略)が犠牲になろうとしている(略)プロモーションのため、テレビ局や写真撮影でしか顔を合わせない生活へと。(略)その時初めて、僕とパートナーのバンドに対するヴィジョンの食い違いに、僕は不安を覚えていた。

(略)

[ロンドンではホテル住まいをしていたが、カースティ・マッコール所有のフラットに住むことに。ある晩、カースティから電話]

「あなたと話したいっていう人がいるんで代わるわね」(略)

「よお、ジョニー……キースだ(略)今、手元に何本か生ギターはあるか?」と僕のヒーローが僕に聞いてきた。

(略)

間もなく、年代もののベントレーがやって来た。僕をキース・リチャーズが待つカースティの館に送り届けるために。(略)

カースティも一緒に、まるで昔からずっと一緒にやってきたかのようにロックンロール・ソングを演奏した。

『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』、脱退

 『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』を作るにあたって、僕はこれまでよりもオーヴァーダブを用いず、余白をサウンドで埋め尽くすことがないようにしよう、と決めた。そう考えたのは、新たに手に入れた自信と、旋風を巻き起こしたいという思いからだ。あとは、ビートルズの『ホワイト・アルバム』から感じた〈一旦休止〉そして〈未解決な何か〉という空気。もっとキーボードを使うべく、自宅に借り物のエミュレーターを置き、"Orchestrazia Ardwick"のサウンドを作った。そしてデヴィッド・ボウイの『ロウ』を改めて好きになったのをきっかけに、"サムバディ・ラヴド・ミー"のシンセのイントロを作った。シンセで曲を書くことで広がった可能性は、新作の1曲目はギターを一切使わないキーボードだけの曲にするぞ、と僕に思わせてくれた。僕以外、誰も気にしなかったとしても、僕には大事な問題なのだ。これまでにない新しい試みをしながら前進していると思えることが。

(略)

 ようやくバンドが納得するマネージャーが見つかり、ザ・スミスを取り巻くビジネス状況は良くなっているように見えた。ケン・フリードマンはサンフランシスコのライヴ・シーンでビル・グレアムとも仕事をしていた野心的カリフォルニア人。僕が彼を知ったのは、モリッシーの紹介だった。彼が関わるようになり、物事はあっという間に解決し始めた。僕らが弁護士費用に莫大な金を費やしていたこと、そしてザ・スミスほどのビッグ・バンドがすべて自分たちで賄い、電話番さえ置いていないことにケンは呆れていた。そこでケンはまず会計士を雇った。(略)

何はともあれ、ようやく僕らのビジネス面を見てくれる人間が現れたのだ。決して誰かの言いなりになるタイプではなく、僕らに敬意を払ってくれるマネージャーが。

(略)

『ストレンジウェイズ』の最高の瞬間は“サムバディ・ラヴド・ミー"。ツアー・バスの後部席、ちょっと寂しい気分の時に思い浮かんだリフを中心に書き上げた曲だが、完成した時、これまでで最も高い感情レヴェルに達せたと思った。(略)僕らの人生のドラマそのものの音がした。

 『ストレンジウェイズ』を作っていた時期は僕にとっては明るい時期だった。衝突事故を機に、ようやく僕も目から鱗が落ちたようだった。(略)

すべてはうまく行っていた。

 ところがレコーディングの中盤、突然、それを変える出来事があった。残りのメンバーが密かに手を組み、新しいマネージャー派は僕1人になってしまったのだ。

(略)

僕が良いマネージメントに求めるものを、彼らはそれは介入だ、自分たちのコントロールを手放すことだ、と言った。(略)

こうして生まれた新たな対立はまるで支配ゲームのようになり

(略)

["ショップリフターズ"のビデオ撮影現場にモリッシーが現れず]

1分時間が過ぎるごとに莫大な金が無駄になっている(略)

僕はモリッシーの家のドアをどんどんと叩いていた。(略)僕は叫んでいた。「こんなことしないでくれ!」。でももう僕らは味方同士でもなければ、友達でもないようだった。

(略)

 3人の回答は無気力で、無愛想だった。結局は〈僕〉対〈彼ら〉のままだった。もう3人の間では話がついていたようで、新たなスポークスマンになったらしいマイクが、バンドはスタジオで新曲のレコーディングをするつもりだと言った。信じられなかった。ついこの間、新しいアルバムを完成し、まだ何ヶ月も経っていないのだ。僕は休暇を取りたいと言っているのに。

(略)

凍りついた雰囲気。彼らは間違いなく、何かが面白くないのだ。でもそれが何なのか、僕にはわからない。(略)バンド内には明らかに新たな力関係が生じていた。そしてどうやら服従すべきは僕のようなのだ。

 それで皆が満足するなら、と僕はスタジオに入ることに同意

(略)

マイクが僕のところに来て言った。「カヴァー曲をやる。シラ・ブラックの曲だ」(略)

僕はシラ・ブラックのカヴァーなんてやりたくないし、それをマイクから告げられたくなかった。そんなの許さない。僕は頭に来始めていた。バンドに対する僕のひたむきさを彼らが試すような真似をしたこと自体、僕には受け入れがたかった。だってこのバンドを最初に作ったのはこの僕なんだぜ!

(略)

 そんな中でもモリッシーと僕は1曲、"アイ・キープ・マイン・ヒドゥン"という新曲を書き上げ、さらにもう1曲、カヴァーを試みた。エルヴィス・プレスリーの"ア・フール・サッチ・アズ・アイ"だ。それは文字どおりに絶望的で、何テイクか録音したものの、ボツになった。(略)

[2曲を完成させ、ヴァカンスへ。そして帰国]

残りの3人もマンチェスターに戻っていた。そうやって数分と離れていない距離にいながら、ザ・スミスの誰からも連絡がないのは実に奇妙なものだ。

(略)

ザ・スミスのパブリシティ・エージェントのパット・ベリスから電話があった。彼女が言うには、プレスが僕がバンドを抜けたという噂を聞きつけたのだという。どうしたい?と彼女は出し抜けに聞いてきた。何か変じゃないか?なぜ僕が彼女に、バンドに、もしくはそれ以外の誰かに対して、解散とやらの公式発言をさせられなきゃならないんだ?2日後、僕がザ・スミスを脱退、と新聞は書き立てた。広報担当者がたまたま捉えた、僕だけがしかめっ面で残りの3人が笑顔というおあつらえ向きの写真と共に。(略)

僕の気持ちはただ「ファック・ユー」だけだった。事実を直視し、僕はザ・スミスを脱退する、と発表した。

(略)

僕らの別離はバンドの終焉というだけでなく、とても親しかった友情、特に僕とモリッシーの友情の終焉を意味していた。最後の最後まで、メディアを通じて、彼とやり合う気はなかった。

(略)

解散した時、僕はまだ23歳、アンジーは22歳。気付けばまた2人に戻っていた。

ポール・マッカートニー

[パリでトーキング・ヘッズ『ネイキッド』録音に参加]

 イギリスに戻ると、ザ・スミスの解散ドラマに誰もが夢中になっていた。僕は〈民衆の最大の敵〉になった気分だった。(略)

僕はザ・スミスのことが大嫌いな野心家。つまり、ザ・スミスという金の卵を産むガチョウを殺しておきながら、トーキング・ヘッズやブライアン・フェリーとプレイし、その墓前を汚した恥知らずなのだ。

(略)

ポール・マッカートニーのマネージャーが、ポールと一緒にやる気はないかと打診してきた。(略)古いロックンロール・ソングのリストがファクシミリで送られてきた。(略)エディ・コクランの"トゥエンティ・フライト・ロック"とリトル・リチャードの"ロング・トール・サリー”は知っていた。バディ・ホリーエルヴィス・プレスリーの何曲ずつかも知っていた。次の週、街はずれのリハーサル・スタジオに行くと(略)僕はダントツの最年少だったので、死ぬほど緊張しまくっていた。

(略)

ポールとリンダがやって来た。僕にとっては世紀の一瞬(略)

僕はリンダのファンでもあった。ガキの頃から、彼女のファンだったのだ。菜食主義にこだわり続ける彼女を尊敬していたし、『ザ・クイーン・イズ・デッド』で彼女に何かをしてもらえないだろうか、と実は頼んだことがあるくらい、彼女の生き方をロール・モデルとしていたのだ。(略)

2人ともフレンドリーで気さくだった。ポールは音を作りながら、トーキング・ヘッズとの仕事はどうだった?と聞いてくれた。

(略)

彼がベースを手にした瞬間、どれほどさまになるかということだ。楽器は完全に彼の一部となる。ポールがアンプを前にブーン!と1音、ベースを鳴らした時の、耳を突き破るような音(略)それはこれまでに聴いたベース・サウンドの中で最高の、そして最もデカイ一音だった。

(略)

「やばい!今、僕の目の前で歌ってるのはポール・マッカートニーなんだぜ!

(略)

しばらくしてポールに"アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア"は知っているか?と尋ねられた時、僕はポーカーフェイスで「ああ、知ってると思いますよ」と答えた。すると事もなげに、彼は言うのだ。ハーモニーを歌ってみるかい?僕の頭の中では叫び声が聞こえていた。「つまり、ジョン・レノンが歌ってたパートを歌うってこと?ボクガジョンレノンノパートヲウタウッテコトデスカ?!」。

(略)

休憩時間、ポールとリンダは僕の近況を知りたがった。リンダはすごく良い人で、おかしくて、魅力的で、僕が最近どうしているのか、知りたがってくれた。ザ・スミスの解散についても聞かれ、僕はどこに行ってもそのことから逃れられないようで辛い、と正直に答えた。彼女は真剣に耳を傾けてくれ、ポールも頷いていた。そのあとはよくあるミュージシャン同士の話になったが、そんな時、ポールは「ああ、ビートルズも日本でそんな感じだった」とか「ああ、僕たちにもそういうことがあったよ」と、ごく自然なことのように言うのだった。

(略)

今こそ彼に意見を求める一生に一度のチャンスかもしれない。

(略)

僕はここ最近に起きた出来事の基本的なディテールを今いちど、彼に説明した。そして息を凝らし、ポール・マッカートニーからの見識ある一言を待った。彼は無言のまま。僕は待つ。さらに無言。するとポールはこう言った。「それが君にとってのバンドなんだよ」。それだけ。「それが君にとってのバンドなんだよ」。僕はその後、自分が逆の立場で、ミュージシャン仲間からそれぞれのバンドの悩みや苦境に関する話を聞かされることもあった(略)が、結局これに勝る言葉はなかった。

プリテンダーズ、スプリングスティーン

 みんなそうだと思うけど、僕も昔からのプリテンダーズ・ファンだ。

(略)

[離脱したロビー・マッキントッシュの代役を頼まれ]

ザ・スミスの解散にまつわるドラマと(略)イギリスの重苦しい空気からのがれられる[と了承、クリッシー宅を訪問]

(略)

〈私はギターを3分で覚えた〉と書かれたTシャツを着た、僕が思い描いていた通りの女性。(略)

 ツアーは(略)U2ヨシュア・ツリー・ツアー〉のオープニング・アクト

(略)

 プリテンダーズはロック・ミュージック・ファンなら誰でも大好きなバンドだ。税関の職員に職業は?どのバンドにいる?と尋ねられ、「ザ・プリテンダーズ」と答えた時の彼らの満面の笑みときたら。プリテンダーズが大好きだという人たちの中には超有名人たちも大勢いて、僕も何人かに紹介された。ロスでの2日間ともにやってきたジャック・ニコルソンはずっと楽屋にいた。クリッシーからはボブ・ディランに紹介された。その晩、ディナーに友人も招待したから、とクリッシーに言われ、僕は待っていた。するとベルが鳴った。ドアを開けるとそこにいたのはブルース・スプリングスティーンだ。僕、アンジー、クリッシーでブルースの運転するフォルクスワーゲン・ビートルにぎゅうぎゅう詰めになって向かった店では、食事をしながら、ほとんどずっと60年代のガレージ・バンドの話をしていたような気がする。楽しい人だった。売れたコンサート・チケットはそのファンとの1対1の契約書なんだ、という彼の哲学を聞けたのは光栄なことだったし、その言葉を僕は一生忘れないだろう。

(略)

クリッシーとは、ボブ・マーリー・トリビュート・コンサートでジャマイカにも一緒に行った。ジャマイカではグレース・ジョーンズやウェイラーズのメンバーらと〈地元の習慣〉に僕らも倣った。(略)僕はあまりにレイドバックしてしまい、ボブ・マーリーが一体全体どうやって〈ゲット・アップ、スタンド・アップ〉なんていう歌詞を書き、ましてやそれを行動に移せたんだろうか?と真剣に考えたくらいだ。

バーナード・サムナー、デニス・ホッパー、ザ・ザ

 サンフランシスコでニュー・オーダーとエコー&ザ・バニーメンのライヴ後、バーナード・サムナーと会うことになった。僕はデニス・ホッパー主演映画〈カラーズ 天使の消えた街〉のプロデューサーからサントラの依頼を受け、カリフォルニアを訪れていた。バーナードと会うのは、マンチェスターザ・スミスニュー・オーダーが出演した〈フェスティヴァル・オブ・ザ・テンス・サマー〉以来だ。

(略)

バーナードも人生の転換期を迎えていた。何かグループのフォーマットを越えたところで、これまでと違うことがやりたい。彼がそう思った時、僕はそれがやれるフリーな人間だったわけだ。

 僕らはまるでつい昨日別れたかのように話し始めた。一緒に曲を書かないかと切り出したのはバーナードの方だった。僕は良いねと答えた。(略)

曲の作り方やアプローチは異なるかもしれないが、感性は一緒だ。何てったって、同じところから出て来ているんだ、僕らは。

(略)

[サントラ録音]

ハービー・ハンコックがプロデュースにあたり、僕はロバート・デュヴァル演じる警官が運転するパトカーのシーンに合わせてギターを弾いていた。立ったまま弾いていた僕の首元に誰かの気配と息遣いがした。見るとそれはデニス・ホッパーで、僕の顔のすぐ横に顔をくっつけるようにして、こう囁いたのだ。「サツみたいな音にしろ、サツみたいに弾け」。僕がギターを弾き続ける中、彼はうろうろと歩き回りながら、スクリーンに映し出されるアクションをじっと見つめたかと思うと、僕の様子をチェックし、またスクリーンを見つめた。僕はこれまでやったことがないような方法で、うめき声やサイレンの音を呼び起こそうとした。そのシーンが終わり、2フィートほど離れたところから彼の視線を感じていた。顔を見ると完全に無表情のまま、何も言わない。するとパッと目も眩むほどの謎めいた笑顔を見せたかと思うと、こう言ったのだ。「お前が気に入った、ジョニー」

 ザ・スミスを辞めたあと、僕には先のことは一切わからなかった。(略)

まさかポール・マッカートニーデニス・ホッパートーキング・ヘッズから電話がかかってこようとは思ってもみなかった。ただギターが弾ければそれで良いと思っていたのだ(略)セッションをやるのは、声がかかるのがどれも面白そうで最高な誘いだったからだ。僕は人とレコードを作るのが好きだ。(略)今はこのままセッションを続けよう。それが僕に一番向いている。今はバンドに所属したくないのだ。少なくとも今は。そう思っていた僕の気持ちを変えることになったのはマット・ジョンソンとの再会、そしてザ・ザに参加しないか、という彼の誘いだった。

(略)

彼は『インフェクテッド』のあと、新しい段階に入ろうとしているところ(略)

今後、お互いがまったく違う方向に進んで行ってしまう前に、80年に2人で交わしたあの〈協定〉を守ってくれたというわけだ。僕らはブリクストン・アカデミーでのイギー・ポップのコンサートのあとに会おうと約束した。終演後のイギーの楽屋で、新生ザ・ザを作りたいというマットの計画に僕が耳を傾けていると、目ざとくイギーが近づいてきた。(略)「お前ら何か一緒にやるのか?やるべきだよ」。偉大なるイギー・ポップ本人のお墨付きをもらったのだ。これ以上、幸先の良いスタートがあるだろうか。

(略)

ロンドンでザ・ザの仕事をやり、北に戻ったならニュー・オーダーの仕事がない時間でバーナードと何かをやる(略)

[プロジェクト名未定のままミーティング]

バーナードは部屋を見回し、エアコンに書かれた〈エレクトロニック〉というブランド名を指さして言った。「エレクトロニックだよ、僕ら」

(略)

ザ・スミスは再結成するのか?」、そして「ニュー・オーダーは解散するのか?」といつまで僕らはプレスに聞かれ続けることになるのか。バーナードも僕も、正直考えたくもなかったのだ。

(略)

バーナードが1週間ほど留守にしていたその日曜の午後も僕はスタジオで、古いソウルのレコードからサンプリングしたベース音をいじっていた。しばらくするとすごく良いなと思えるサウンドができ上がったので、ドラム・ビートをプログラミングしてみた。リズム・トラックに合わせるともう完璧なサウンドができ上がり、どんなギターを乗せるべきかが直ちにわかった。そこで12弦アコースティック・ギターでコードを弾き、ストリング・アレンジを加え、気づけばこれまで書いたどんな曲とも違う、聴いたこともないようなインストゥルメンタル・ トラックが完成していた。

(略)

「この新しいデモ、どう思う?」(略)

バーナードが言った。「こう呼ぼうぜ。"ゲット・ザ・メッセージ"だ」

(略)

[アメリカではワーナーと契約]

その夜、ワーナーの東海岸トップの人間から電話があり、モリッシーと会うのだが、かつてのパートナーとよりを戻すことを考えないかと言われたのだ。僕が丁寧に断ると、彼は言った。「考え直した方がエレクトロニックのためにもなると思うよ」。どんな思惑があってそんな電話をしてきたのかは結局わからずじまいだった

(略)

[マットの弟ユージーンが24歳で死去]

[『ダスク』の]中でも最もパワフルな感情をもって訴えてきた曲は"愛は死よりも強し"だ。「僕と 僕の友人で 哀悼の冷たい光の中を歩いていた」という冒頭の一行で歌われるのは、ユージーンの死後、ロンドンの街をマットと歩いた時のこと。 マットの歌に合わせ、僕はハーモニカを吹き、気づけば頬を涙が伝っていた。

オアシス、カール・バルト

僕はすぐに[マネージャーの]マーカスに伝えた。「オアシスが金曜日にやる。絶対来なきゃだめだ」。

(略)

[アラン・マッギーから]レコード契約を持ちかけられたという。ノエルは契約したいが、バンドにはマネージャーがいないので、僕の意見を聞きたいというのだ。これはマーカスに連絡を取っても問題ないだろうか?とノエルが僕に気を遣っているのだな、と理解した僕は言った。「君らとマーカスは一緒にやるべきだよ」。

(略)

僕はノエルに、もし1つだけアドバイスさせてもらえるなら、とにかく曲を書き続けることだよと言った。何曲も、何曲も。たとえどんなに他のことがすべて揃っても、曲がなければ仕事にならない。僕の知る限り、それが最も賢明なやり方だ。

(略)

もう1つノエルに言ったのは、予備のギターを買えということだった。曲間のチューニングにものすごい時間がかかっていたからだ。「そう言われても、俺にはあのエピフォンしかない」受話器を置き、しばらく考えた末、スタジオに置いてある自分のギター群を見回した。そして決めた。ザ・スミスで"パニック"と"ロンドン"をレコーディングした時に使った、かつてはピート・タウンゼントのものだった1960年レスポールにしよう、と。それをケースに入れると、その足でノエルの家まで行き「ほら、これを使えよ」とケースごと渡した。

(略)

オアシスの初めてのレコードがリリースされ、その注目度は瞬く間に彼らを全国区にした。僕があげたギターの話をリアムがいろんなところで話すのを目にしたし、あれで書いた初めての曲が"リヴ・フォーエヴァー"だったとも語っていた。実際、オアシスのライヴで彼があのギターを弾いているのを見た時、あれは彼の元にあるべきギターなのだ、と思えた。

(略)

初の全英ツアーが半分進んだあたりで、切羽詰まった声の電話がかかってきた。ニューカッスルでのライヴのステージ上、バンドと客の間でもめ事が起こり、僕がノエルにあげたレスポールが壊されたというのだ。「で、どうしてほしいの?」と僕は聞いた。

「替わりに貸してもらえるギターはないかな?」

 僕は持っているギターを見回し、思った。ザ・スミスザ・フーのもとにあった60年代のレス・ポールを弾くのに慣れていたのなら、ぼろギターでも大丈夫だろう。そこで『クイーン・イズ・デッド』で使った黒の70年代のレス・ポールをケースに入れると、ニューカッスルに送りつけた。こんなメモを添えて。「前のよりは重量もサウンドも少し重めだ。うまいこと、ぶん回すことができるなら、敵の頭くらい簡単にぶっ飛ばせるよ。愛を込めて、ジョニー」

(略)

エレクトロニックのセカンド・アルバムに、カール・バルトスを招いてはどうか。(略)

プログラムされた音楽ファイルが最新モデムラインで送られてきて、それに僕らが演奏を重ねてやりとりすることになるとか、そんな風に僕らは予想していた。ところがデュッセルドルフで僕らの前に現われたのは(略)おしゃれなファッションに身を包んだ現役ミュージシャン。屋外カフェでアイスクリームを食べながら、僕らは話をし、どういうプロセスでレコーディングを進めたいか?とカールに尋ねた。すると驚くことに彼の答えは「簡単さ。楽器を持って丸くなって座って演奏しよう」だった。(略)スタジオを見学し、クラフトワークがレコードで出していたサウンドの作り方を目の前で再現してもらった。カールが何気なしに弾く"コンピューター・ラヴ"や"アウトバーン"や"ヨーロッパ特急"に、バーナード・サムナーの開いた口が閉じなかったことは言うまでもない。

 新たなエレクトロニックのアルバムのレコーディングが始まり、カールが僕の家に住み込むことになった。(略)

カールとの作業を通じて、僕は直接多くのことを学んだ。ドイツの作曲家や哲学者について、ドイツにおけるカウンターカルチャー誕生後のミュージシャンの動向について。

バート・ヤンシュ

 僕がバート・ヤンシュと会った時、彼は長く表舞台から姿を消していた。(略)80~90年代を通じ、人知れずひっそりとライヴを行ない、レコードも出し続けていた。だが音楽シーン、とりわけメディアからは気付かれることもなく、批評家の検証に晒される必要もなく、バートのキャリアは続いていた。僕が僕になるための成長期、彼の存在はとてつもなく大きかった。ジミー・ペイジニール・ヤングもバーナード・バトラーもそうだったと言うだろう。他にもどれほどのギタリストの大群がそこに加わることか。いつの時代も、僕の書く曲にはバートからの影響があった。ザ・スミスの"アンハッピー・バースデイ"も"バック・トゥ・ジ・オールド・ハウス"も、彼のスタイルをそのまま借りたと言って良い。

 その頃、僕はバーナード・バトラーと親しくなった。彼とは本当に気が合った。バート・ヤンシュがクラウチ・エンドにあるパブ地下の小さな会場でライヴをやるから観に行こうとバーナードに誘われ、2人で行くことにした。

(略)

終演後、バートがギターを片付けているのを横目で見ながら、バーナードが僕に言った。「彼のところに行って話してくれば?」

「何だって?」

「行くんだよ」。(略)「は な し て く れ ば ?」(略)

僕は言われた通り、近づいた。長年、僕の想像の中で謎めいた存在だった、その男に。そしてぼそぼそっと言った。「やあ、バート、ちょっと良いですか?」

 片付けていた手を止め、バートは顔を上げ、僕を見た。「何だ?」。いかめしい顔で。

 「僕はジョニー・マーって言いまして。えっと、僕ギターを弾くんです。あの、す、すごく良いライヴでした。で、僕はあなたの大ファンで……」

 その時点でバーナードが助け舟を出してくれた。実は彼はバートと一度会っていて、顔見知りだったのだ。突然、しどろもどろになってしまった友人と、その友人のヒーローが直接話せる機会を作ろうという、バーナードの粋な計らいだったわけだ。そんなグダグダな初顔合わせを経て、僕とバートはすぐに親しくなった。奥さんのローレンと暮らすキルバーンの彼の家を訪ね、一緒にギターを弾いたこともあった。バートというと、無口で無愛想だと思われがちだが、それは正しくない。正しく言えば、彼はどうでも良い話には興味がないのだ。でもたくさんのことに関して、言うべきことはたくさん持っていた。かつてフランスをヒッチハイクした時のこと、ギターやギタリストに夢中だったエジンバラでの青年期のこと、60年代初め、気づけばロンドンのビートニク・シーンの中心にいた時のことなど、彼は雄弁に語ってくれた。僕から質問することもあった。最初に聞いたのは、かつてペンタングルでサイケデリックとフォークを融合させた音楽を演奏していた頃、いわゆる〈ヘヴィ〉だとされたバンドをどう思っていたのか、ということだ。そんなやつらは取るに足らない、ポーズだけの軽い連中だと思っていたのだろうか?僕がそう思っていたのと同じように。するとバートはにっこりと笑った。そんな質問をされたのは初めてだよ、と言う。紅茶のカップを手に取り、笑みを浮かべたまま言った。「君はどう思う?」

カースティ・マッコールの死

カースティ・マッコールの死を教えてくれたのは(略)ニュースで知るよりは自分から聞いた方が良いだろう、と連絡をくれた友人のマットだった。

(略)

船舶侵入禁止区域に猛スピードで侵入してきた金持ちの豪商が所有するモーターボートに巻き込まれたのだという。最後に彼女がしたのは、息子たちを必死で押し避け、かろうじて2人の命を救うこと。(略)

カースティとは少し前に話したばかりだった。思い出されるのは、その時の陽気な会話、そして彼女の幸せな暮らしぶり。パートナーのジェイムズを愛し、長年悩まされていたステージ恐怖症もついに克服し、ライヴを行なうこと、ステージで歌うことを心から楽しんでいたのだ。ジェイムズだけでなく、ファンも自分を愛してくれている、と彼女自身が感じていることがわかり、友人として僕も嬉しかった。(略)

いつももっと一緒に曲を書こうという話をしていたし、2人で作ったレコードはどれも僕の自信作だ。ザ・スミス時代、彼女は自分の家に僕を住まわせてくれて、僕が嫌な人間になりそうな時は注意してくれる真の友人だった。彼女の死は僕を打ちのめした。

(略)

カースティは実に魅力的な人間だった。僕らを家に招き、大好きなレコードに合わせて踊って歌っていた時の楽しそうな姿を僕は永遠に忘れない。(略)

彼女と知り会えた僕は何と恵まれていたことだろう。彼女が死んだと言われても(略)まだ僕とカースティの関係は終わりじゃない、そう思えたのだ。

 

モデスト・マウス

 モデスト・マウスとの先行きはまったくわからなかったが、とりあえずポートランドに飛んだ。人から見れば常軌を逸した行動だっただろうか。自分のアルバムを作ろうと思っていた矢先、荷物をまとめ、4千マイル離れた街で、会ったこともないバンドと何かをやるだなんて。

(略)

 ホテルにチェックンし、荷物を解いていると、アイザックがやって来た。そのまま彼の家に行き、すぐに曲作りに取りかかることにした。

(略)

 僕ら2人、向き合うように座った。アイザックが最大音量で鳴らしているのは普通のアンプの3倍はある大型フェンダー・スーパー・シックスのアンプだ。しかも僕の方に向けられている。僕の普通サイズのフェンダー・デラックスじゃ、到底かないっこない。そこで僕は彼が予備で持っていたスーパー・シックスにつないだ。これでおあいこだ。その時、埃をかぶった黒のフェンダージャガーがギター・スタンドに立てかけられているのを見つけた。そのルックスに惹かれ、僕はアイザックに頼み、それを弾くことにした。アイザックの横にワインの大瓶が置かれ、スタンバイOK演奏が始まった。最大音量レヴェルでの接近戦だ。20分後、僕らは興奮状態の中、即興でリフの応酬を続けていた。ジャム・セッションが進むにつれ、時差ぼけのせいもあり、僕の頭はもうろうとし、何が現実なのかわからなくなり始めていた。アイザックは1940年代の飛行帽をかぶり、ゴーグルをかけている。

(略)

「何かリフはない?」。そんな彼の単刀直入な物言いが好きだった。余計なことは一切なし。実際、僕にはずっとモロッコで弾いていたファンキーで痙攣的なリフがあったので、それを弾き始めた。フェンダージャガーにはそのリフを放たせる何かがあったのだ。アイザックはマイクを掴むと、何もないところから歌い始めた。「それはそうなるべきだった そうなったかもしれない 君が思うよりひどく ダッシュボードは溶けてしまったが ラジオはまだ生きている」。彼の口からは、車がバラバラになりながら山を転げ落ちていく様が描かれるヴァースがスラスラと飛び出す。車はバラバラ、でも、心配は無用。だって、ラジオは生きているから。飛行帽とゴーグルのアイザックは1曲丸々、その場で歌い切った。気に入った。こんな風に次々とヴァースを歌うやつを見たことがない。「フロントガラスは粉々だけど 新鮮な空気が良いよね」だなんて。

(略)

「他にもあるかな、リフは?」とアイザックに聞かれ、温めていたリフに僕らは怯むことなく頭から突っ込んでいった。彼の口からはさらなる歌詞が飛び出す。「僕らにはすべてがある 僕らにはすべてがある 波が砕け散るように星の中に飛び込もう」。午前3時。この時点で僕は連続28時間寝てなかった。"ウィヴ・ゴット・エヴリシング"はすごく良い曲のように思えた。

リマスター化を機に、モリッシーと再会

 ビジネスとしてのザ・スミスは、断続的ながら常に背後でアイドリング状態を続けていた。1992年、モリッシーと僕は倒産の危機を迎えていたラフ・トレードからカタログを救出するため、アドバイスに従い、ワーナーに売却する契約にサインした。

(略)

唯一の収入源であるザ・スミスのレコード売上を借金の返済に充てることで何とかやってきていたが、長い期間、レーベル内の他のバンドには一銭の印税も支払われていなかったのだ。選択の余地はなく、他に手段もなく、モリッシーと僕は大慌ての契約を交わした。これでワーナーからカタログがリリースされることになり、管財人に没収されるのだけは免れる。決して最良の条件の契約ではなかったが、音楽を僕らが知る人たちに届けられる。

 ザ・スミスのカタログを手にしたワーナーがまずやったのは、すべてのアルバムのCDリイシュー、つまりリマスター化だった。

(略)

 僕はザ・スミスのレコードのマスタリングには常に同席していた。プロデューサーとして、それは当然の職務だと思ってきた。というか、自分が精魂込めて作ったレコードのサウンドを他人にいじくり回されるなど、もってのほかだからだ。

(略)

ザ・スミスの不幸は、この90年代のカタログCDリマスター化の際、僕に意見を求めてもらえなかったことにある。僕の知らないところでマスタリング・エンジニアがランダムに調整を加えたものが、アルバムとしてリリースされ、それは僕がレコードを作った時に聴いていたものとはまったく別物だった。こんなサウンドじゃないとわかっていながら、それが世に出てしまうことのフラストレーションと落胆は大きく、何が何でもあるべき姿に戻してみせると僕は思った。ワーナーと何度も話し合ったものの、その当時まだ続行中だったモリッシーとマイク・ジョイスの裁判の一件が事態をより複雑にしていた。奮闘の末、やっとの思いで僕とモリッシーとワーナーは合意に至った。僕がザ・スミスのマスターテープを一度引き取り、すべてのレコードを一流マスタリング・エンジニアとともに、あるべき形にマスターし直す。それできっぱりとケリをつけるのだ。

 ザ・スミスのカタログ全曲を聴き直し、1曲ずつ作業していくのは、本当に好きじゃなきゃできない仕事だ。僕はまず"ハンド・イン・グローヴ"から始め、年代順に作業を進めた。ギター・パートはもちろん、ベースのどの1音も、シンバルのクラッシュに至るまで、僕はすべて知り尽くしている。それでもレコードを解析しながら、改めて驚かされずにはいられなかった。アンサンブルとしてのバンドのうまさと、それをやっていた時、どれほど自分たちが若かったのかということに。本来、僕の仕事はなれる限りテクニカルに、当時のスタジオで鳴っていたのと寸分違わぬサウンドにレコードを復元することだ。でもあれらの曲が作られた時、どんな1音にも、言葉にも、僕らなりの意図や感情が込められていた。それが嫌ってほどわかるだけに、すべてが思い出されてしまうのだ。レコードに再び向き合い、僕は改めてバンドが誇らしくて、思わずモリッシーとアンディにメールを打った。〈本当に聴こえてくるんだよ、込められた愛が〉。どちらからも嬉しい返事が返ってきた。

 ワーナーとの交渉が続くことで、当然、モリッシーと僕はそれまでになく連絡を密にするようになった。(略)

数マイルと離れていない場所にお互いいるのだ。近くのパブで会おう、ということになった。元ソングライティング・パートナーとの嬉しい再会。最後に会ったのは10年かそれ以上前。話は山ほどあった。彼の近況に僕も興味があったし、共に経験したアメリカでの生活を比較しあったりした。(略)ライヴの話やツアー先で訪れた街のこと、何が好きで何が嫌いか、と話は尽きない。私生活や家族の近況、昔話を少し、それと僕らが初めてシェリーの家の下宿部屋で会った時、僕が〈バンドにこうなってほしいというリスト〉で書いていた願いがいかに現実になったか、という話をした。(略)

会話はディープな方向へと進んでいた。過ぎてしまったことではあるものの、いかに僕らの関係が外部の世界に取り込まれて、たいがい悪い方向に向かってしまったか、ということをモリッシーが話し始めた。僕も、彼も、ミュージシャンとしての人生のほとんどをお互いの存在によって定義づけられてきた。だから、モリッシーがそれを口にしてくれたのはありがたかった。なぜなら、それが真実だからだ。

(略)

そして話題はついに〈例のこと〉になった。何年も前から、マスコミはザ・スミスが再結成目前だという噂を流していたが、それが真実だったことは一度もない。僕から再結成を求めたことも、そう願ったこともなかった。最近もまた噂になっているがその出所はどこなのか?という話をしながら、2人がそれを話題にしていることのおかしさを感じていた。モリッシーといられるのはやはり良かった。その時だ。ほんの一瞬、僕らはバンド再結成の可能性について話したのだ。正しい意図があるなら再結成もあり得ると思えた。そうなったら素晴らしい。

(略)

僕らはハグをし合い、別れた。それから数日間のやりとりで、僕らはもう一度会おうと約束をした。モリッシーとまた連絡が取れるようになったことが心から嬉しくて、ザ・スミスとしてコンサートをやるかもしれないと、ザ・クリブスにも話したほどだった。その4日間、再結成は現実のものになりそうだった。

(略)

僕はザ・クリブスとメキシコに発った。するとそこでプッツリと返事が来なくなった。僕らの音信もここまで。これまでどおり、これからもそうだと思えるとおりの状態に戻ってしまった。

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