丸山眞男話文集 1

  1936年頃に書かれたメモなのだけど、切迫感があまりないことにビックリ。

丸山眞男話文集 1

丸山眞男話文集 1

 

現状維持と現状打破(1936年頃)

A 一九三六年もどうやら無事に終るね。
B 「危機」もとうとうものにならなかった訳だね。
A だが何だか拍子抜けの感があるなあ。
B よせやい。拍子抜けで結構ぢやないか。
A だけど、満州事変を契機とする連盟脱退、ワシントン条約廃棄、軍縮会議脱退に我々人民がしよつちう聞かされたことは、これら「壮挙」の反動は一九三五、六年にいちどきに襲つて来るぞよ。この危機を突破するためには「国民粥をすゝつても」国防の完成に努めにやいかんといふ御託宣ぢやなかつたかしら。だから我々人民はもうあと三、四年の辛抱といふので、日本の御台所の半分を軍事費にまわした挙句が、粥をすゝるどころか東北の方ぢや木の芽やわらまでかじる始末。だのにイギリスもアメリカも一向攻めて来さうもないし、今年の春ごろからは露満国境でポンポン銃声がしたが、これも「もの」にならず、昨今の日支紛争だって、一時は駆逐艦まで急行してあはやと思つたけれど、その後は日本よりもかへつて支那の方がはり切つてる位で(略)
B それも軍部に言はせれば、軍備を充実したからこそ危機を回避しえたといふことになるぜ。

(略)

いままでの軍備は「応急的、彌縫的」なもので、これからいよいよ「本格的」軍拡が始まるってわけだ。

(略)

B 「両者〔軍備の充実と庶政一新〕のため必要とする経費は国民臥薪嘗胆するともこれを捻出するのが絶対に必要であり云々」とある。
A (略)庶政一新のためには莫大な経費を必要とする。その経費は国民の臥薪嘗胆によって捻出される――これぢや国民生活を安定させるために国民生活を不安定にするってことになるぜ、いつまでたってもどうどうめぐりだ。(略)
庶政一新といふと威勢がいゝけれど、結局軍備充実の別名にすぎなくなるね。それが果たして軍部・新官僚あたりの「革新勢力」の意図なのかしら。

(略)
B (略)いま日本の資本主義がもともとあまり強固でない自由主義との結びつきを清算して、名実ともに統制主義への転換を遂げようとしてゐる。さうしていはゆる革新勢力はこの資本の自由主義脱皮のプロモーターとして登場したわけだ。
A ぢや彼等はちつとも「革新」の名に値しないぢやないか。
B 社会的・経済的に見ればまさにその通りだ。にも拘らず彼等は政治的には革新的風貌を帯びる。こゝが面白いしかし複雑なところだ。

(略)

B (略)今迄の日本のファシストを見渡したところ、大衆にアピールし、大衆を利用する政治的手腕をもつて居そうなのはどうも一人もないね。なくて幸だが。だがもし適当な指導者を得れば、さうした勢力は、一般に楽観している程無力なものぢやない。

(略)

さういふ点で社会大衆党の指導幹部ともあらうものが、現状維持と現状打破といふ愚にもつかない非科学的な観念に捉はれて、「革新勢力」と提携しようとしてゐるのは全くどうかと思ふ。いまは骨抜きになつた既成政党なんかを相手にわめいてゐるときぢやない。(略)

無産政党はむしろ既成政党の自由主義的分子を糾合して、危機にある政治的自由を擁護すべきだ。総選挙景気に有頂天になつてゐるけれども、上述した様な大衆的なファッショ政党が出来れば、忽ちお株をとられちまふことは火を見るよりも明かだ。いまから、かうした現状打破派とはつきりけじめをつけるために社大党は「デモクラシー」の旗を真先にかゝげなければならない。

(略) 

二十四年目に語る被爆体験(69年)

参謀は、塔を背にして海の方を見ていたのですね。
 私たちは、塔の方を向いてコの字型に整列しています。私は、ちょうど塔に向いていました。
 訓話を聞いていたところ、突然目の前が、目がくらむほどの閃光がしました。閃光がしたと同時に、私がおぼえているのは、二間ぐらい先に立っている参謀の軍帽がプーッと飛びました、上へ。ピューと飛びましたね。それで、ハッと思った途端に、もう整列していた兵隊は、算を乱して走り出していたのです。(略)

 私が、おぼえているのは、要するに、ピカピカッと目がくらむような、文字通りピカピカですね。(略)[雷の電光の]猛烈な奴ですね。横に、こうピカピカッと来たんです。

(略)

無我夢中で、大きな音が聞こえたような気もするし、何か背中に圧力を感じたような記憶があるのですが、熱いという感じはおぼえていないんです。
 今でも不思議なんですけど、壕からはい出したら、短剣の革がぼろぼろで、半分以上切れているんです。革というのは、丈夫なもんですからね。

(略)

 ピカドンとは、本当によく言ったものですね。誰が言い始めたのかな。(略)

もう。八日にはピカドンピカドンと言ってました。
(略)

後から考えて、僕たち、よく助かったという気がして……。
 長崎はちょっと外れたんですよね、あれの予定地点と。ここだって予定地点から、ちょっと外れりゃ

(略)

[65年の八月一五日記念国民集会で話したのが]ほとんど初めてです。原爆体験を公に話したのは。

(略)

 何か、あまり語りたくない。それが、いっぺん話してしまうと、こういう風にね。おかしなもんでね。割合気軽に。(略)

 アメリカへ行って、原爆に遭った話をすると、途端にみんな真剣になりますよね。寄って来ますよ。(略)相当右翼的な人でも、原爆の話をすると、イチコロですね。(略)

 原爆について、日本がどんな強い主張をしても(略)反駁しませんね。かなりやってみましたけれども。日本人が、そう発言するのは、もっともだということは共通の認識ですね。だから、その点については、まだ自己主張が足りないのでしょうね。

(略)

[被爆のことを『現代政治の思想と行動』英語版の]カバーにまで書かれると、思わなかった。

(略)

[ピカっと来た後]

壕から、ぞろぞろ顔中泥だらけになって、はい上がってみたのです。(略)
 そこで、初めて、きのこ雲を見たわけですね。ちょうど司令塔の真後ろから上がっているような。(略)

「何だ、何だ、あの辺にガスタンクがあったかな」と、そういう感じなのですね。(略)

話にならないほど巨大な、それがゆっくりゆっくり、ちょうど立ちのぼっているわけですね。
 そして、上へ行っては、スゥーッと横に開いていくのです。横に開く、きのこ雲のつけ根のところが、プラチナの白銀色に輝いていましたね。悪魔の光という感じですね。雲は、ほとんど黒っぽい。
 それと同時に驚いたのは、司令部の建物の窓という窓が(略)ピーンと全部開いちゃって、そして、ガラスは、もう一つもない。

(略)

食堂の炊事のおばさんが、顔を血だらけにして、担架で運ばれていました。

(略)

 僕が部屋に入ったときには、目だけ出して顔中包帯をしていました。「F中佐、どうされましたか」と聞くと「うーん、日本も、早くいい爆弾をつくるんだなあ」と、それだけ言いました。

(略)

そのころから、もう市民が流れ込んできました。一五分後ぐらいじゃあないですか。(略)その市民の姿を見て、またまた仰天したわけです。
 着物はぼろぼろ。女の人はパーマがめちゃくちゃになって、頭にガラスの破片がささっているものですから、血が垂れているのですね、顔にね。お岩ですよ。
 夏ですし、着物がやぶれていますから、女の人は毛布に体を隠して、放心したような格好で(略)あとからあとから入って来て(略)海辺までずっと広場なんですけれども、ここがいっぱいになったのです、見る間に。

 それで、真夏でしょう。背中の皮が剥けているのに、上から太陽がさんさんと照りつける。うーんうーんと唸っているのは、セミのね、セミの声といっちゃ悪いのですけれども、異様な声ですよ。
 それで、薬とか何とか言って大騒ぎしたのはおぼえています。何しろ火傷の薬なんていうのは、何人分もないのですからね。呉の海軍の飛行機で薬を落としてもらったり。

(略)
六日一日何をしていたのかというのは、全くおぼえてないのです。悲惨な、広場がいっぱい埋まった光景を見たというのが、最後の記憶です。記憶喪失になっちゃったんですね。
(略)

夜になって、広島市内中の火で真っ赤に。ちょうど東京の大空襲のように、あるいは関東大震災のを思い出しましたけれどもね。その日は、そのまま過ぎたのです。(略)

[翌日は]兵隊に総動員がかかって、死体片付け、市内の清掃。(略)

[留守番で残れと言われたので]

 その日一日、兵隊が、生々しい死体を片付け、破壊の後片付けをやったところは全く知らないのです。僕が出たときには、少なくとも通り、大通り、つまり電車通りはきれいに清掃されていました。

(略)
帰ってきた兵隊の話を……あの兵隊の中からも、相当放射能に当たって発病した人いるんじゃないでしょうか。直後ですから。(略)

兵隊は、もう絶対の被爆者、実にみじめだったでしょう。ほとんど放置されていた。(略)

[留守番の間、偶然]短波をいじったら、トルーマンの放送が入ってきたんです。(略)プレジデント・トルーマンの放送がある、と。トルーマンの声が入ってきて「歴史上最初の原子爆弾を投下した」(略)
 その後、(トルーマンは)原子爆弾の製造・実験の由来を話しました。

(略)

とりあえず、爆弾は原子爆弾だという放送があったことをメモにすぐ書いて、参謀室に持っていったのをおぼえています。

(略)

参謀にあげたら、「そうかな」って言っていましたけれども、知らなかったですね。ピンとこないのですね。

(略)

仁科さんは、すぐ飛んで来たようにおぼえているのですがね。(略)

私は廊下で会ってパッと敬礼したのをおぼえています。そして、仁科さんは、現地を視察して、原子爆弾だということを、さらに確認して(略)

中心部の一定の範囲に(略)縄をはって、立入禁止だったのですね。今から思えば、さすがに仁科さんですけれども、本当に縄をはったのです。放射能のことを意識されたのだと思います。

(略)

[九日、報道班長の中尉と一緒に外出]

二五万というのは、兵隊入れたら、確実になるんですよね。(略)[七万五千というのは]兵隊を入れていないんですね。

(略)

「宇品橋」[本当は御幸橋]の上に立っていた人は、即死したそうです。爆風というのは、川をパーッと一瞬に伝わってくるのですよ。何も障害物がないですからね。(略)

やられるのは三つですね。熱風、放射能、光線です。

(略)

[終戦の喜びは15日の母の訃報で吹っ飛び]

 そういうショックでもって、原爆それ自身のことを、私に考えさせなかったということがあるんじゃないかと、今から(すれば)思うのです。

 それと、人間というものは、悲惨とか、むごたらしい光景というのに無限に深い不感症になる。本当に怖いという気がします。すぐ慣れてしまう。

(略)

背中がペロッとはげたような人は案外生きていて、そして、腕に小さなダンゴぐらいの火傷を負った人が三週間ぐらいで死んだりした。そうすると、全く予測つかない。

(略)

 最後といえば、敗戦の八月一五日の詔勅の後の動向ね。僕は、司令部にいたから、いろんな将校の動向を知っているでしょう。すごかったです。えらい勢いで、絶対降伏しない、と言っていました。もう血走っていましたよ。将校にはみんな拳銃が配られましてね。地下に潜って抗戦する。非常に不穏な空気。
 呉からも飛行機が飛んで来て、ビラをまいてね。「共に断固、最後までアメリカと戦おう」というビラをまいておるんです。だから、宮様が専属機で飛んで来ました。
 こっちは、非常にうれしくてしようがないんですけどね、戦争が終わってね。うっかりうれしそうな顔を見せようものなら、ぶった切られちゃう。ドスを提げて歩いているようなもんで、みんな。
 酒井中尉はインテリだけに、動向を聞かせてくれるんです。「丸山、形勢不穏だぞ。おれたちにはピストルが配られた。兵隊には、何も聞かせない。どうも不穏で、やるらしい。こんなとこで死んじゃばかばかしい」「どうしたらいいですか」「じゃあ、ポツダム言言を、みんなに宣伝して聞かせよう。それじゃあ、お前、兵隊の方をやれ。おれは将校のほうをやる」と。

(略)
強硬なグループには、「韓信の股潜り」ということでいこう。(略)国力を蓄えてからアメリカに復讐する。ここのところは隠忍自重する、という風にいこう」と。
 こっちの一番軟弱な兵隊の方には、ポツダム宣言の「兵隊は、みんな家へ帰って平和な産業を営ませる」という、これも読んで聞かせる、というような手筈も決めて。それ二日ばかりやりましたよ。

(略)

[その効果があり]将校なんかは「おい、戦争犯罪なんていうのは、どの程度なんだ。まぁ、少佐は大丈夫だろうな」なんて動揺し始めていました。

(略)

[参謀に呼ばれ恐る恐る行くと]

「ご承知のようなことになったので、ご苦労だけど、満州事変以後の日本の政治史を、おれに講義してくれないか」と言うんですよ。「その講義については、かなり言論の自由を許す。軍閥という言葉もいい」と。「一週間講義をしてもらう。

(略)

一番やっぱり天皇を心配していましたよ。(略)

民主制というのは独裁制に対する反論で、君主制に対する反論ではない。(略)

共和制で独裁制のところもあれば、君主制で民主的な国もある。

 だから「ポツダム宣言は「日本は民主主義の国になれ」と言っているので、君主制は廃止しろ、とは言っていないんだ」と、そういう説明をしたら、「安心したよ」って。

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町村「自治」と明治国家 中西 啓太

町村「自治」と明治国家 (山川歴史モノグラフ)

町村「自治」と明治国家 (山川歴史モノグラフ)

 

町村自治 

[町村自治の問題点]

国が要請する政策・事務を、町村自らの費用負担によって実施することが「自治」とされていた。それにもかかわらず、財源の確保においては国庫が優先されたため、町村は限られた財源で行政に取り組まなければならなかった。つまり、行財政両面にわたって国家から地方へと負担が転嫁される構造となっていたのである。

(略)

[江戸時代の自治との違い]

村請制と呼ばれる年貢納入システムを担う単位であった。(略)納入責任は村に負わされており、個別の村民の納入量を領主側が把握するわけではなく、各人への割り当てや納入不能となった者の分の補填などは、生産実態を知る村側の運営に委ねられていた。 (略)

[石高が次第に実態から乖離したため、明治政府は地租改正を実施]

個人単位に納税責任を負わせる税制へと移行し、村請制は解体されたのである。

(略)

[村落共同体は]小農の経営を成り立たせることや形式的な平等を原則とする特徴があり、そのために、単純に村民が共同するだけでなく相互に規制する機能を有した。

(略)

[町村制では]町村に、「社会全体」の利益を実現するために行財政を展開し、個々人の生活に対しては間接的に支えるという役割が担わされたのである。これは、近世期のような、個々の村民の生活・生産が維持できるように直接的に支える、という個別利害に密着した役割とは異なる位置づけであった。

(略)

村落共同体と対比すると個別住民との距離がとられ、無機質で均質な単位となった町村が、日本全国を隈なく埋め尽くし、それぞれの領域内の行財政を分担するという制度に落着したのであった。(略)

[先に挙げた]問題点を踏まえると、この制度そのものが大きな負担を地域社会にもたらし、新たな不安定要因となる危険性も想定できる。

第五章 企業に対する府県の課税と税の分割

 企業をはじめとする商工業への課税は、明治前期以来地方財源であったが(略)明治三〇年施行の営業税法により国税化されると、付加税を賦課することしかできなくなってしまった。地方側の課税の自由度が低下したことになる。

(略)

[企業側は]所在する複数の地方自治体から多重課税を受けることを警戒していた。

(略)

[営業税法施行以前]商工業がまだ未成熟という判断もあり(略)府県の財源となっていた。

(略)

[明治二〇年]井上馨が県知事に営業税導入について極秘に下問しており、現在残されている県知事側の意見は、営業税の国税化に賛成していた。その理由は、農業者が過重な税負担をしている一方で、商業者の負担は軽いという業種間の公平性や、各地で税の基準がバラバラであるという地域間の公平性を問題視したためであった。こうした背景もあり、日清戦後において国家財政が膨張したことと、全国的課税に耐え得る水準まで商工業が発展したと判断されたことから[営業税法施行]

(略)

[以前は]それぞれの府県で管内に所在する店舗や工場へ独自に課税していたのに対し、営業税国税化後は、複数の府県に支店や工場をなどを置く企業は一括納税を行うようになった。[納税地以外の府県が付加税を賦課できなくなり問題に]

(略)

 [日本鉄道の場合]

 さて、「順序」に従い、九月初頭には日本鉄道の停車場がある各県から東京府へ、分割歩合案発議依頼が相次いで送付された。複数の県は先述の合意通り、分割標準は従業者・収入金額・営業距離としたいと述べていた。しかし茨城県だけは、なるべく分割標準は本税の課税標準と同じにすべきで、資本金を営業拠点ごとに振り分けるのは困難なので収入金を代わりにするべきだ、と営業距離を標準に用いないことを主張した。(略)

[結局]茨城県も合意し、内務・大蔵省からの修正も無く日本鉄道の税分割歩合は許可された。(略)

営業距離を分割歩合に加えた場合、歩合が目立って減少するのは東京府のみで、ほとんどの県は微増する。つまり、この時点で東京府は、財源の確保よりも適切な課税の実現を志向したと言えるだろう。

(略)
制度は当初から十全に機能したのではなく、府県間の調整の繰り返し、あるいは内務省との連絡を通じて、システムが構築されていったのである。これは、税務について全国大の整合性を高めていく過程でもあった。

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音職人・行方洋一の仕事 伝説のエンジニアが語る日本ポップス録音史

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初録音

レコード会社として本当に駆け出しだった東芝音工は、自社スタジオを所有していなかった。そこで初期は、主に博報堂の[CM録音用の]「麹町スタジオ」をレンタルして録音を行っていたのだ。

[録音テクニックが盗まれるのを恐れて同業者の出入りが少ない所をという理由もあった]

(略)

 多田さんは最小限のEQとリバーブだけで完璧なバランスで音作り

(略)

[入社から一年、ようやく初録音。パラダイス・キングという]東芝のスターバンドを前にしてペーペーの僕がやり直しのお願いなんかできないから、ものすごく緊張した。(略)

 何度かバンドに演奏してもらってマイキングを調整していく。ここでしくじると、うまく音が録れないばかりか、位相がぐちゃぐちゃになる恐れもあった。
 録音本番も、後ろに付いた多田さんが「あせるな、あせるな」とささやいてくれたおかげで、少しは落ち着いたけど、初めて卓を前に座った僕はガチガチ。そんな僕を横目に彼は、曲とオーケストラの演奏を完璧に頭に入れていて、「次はトランペットのソロが来るぞ」となんて指示を出してくれる。
 それに合わせてボリュウムを上げ下げすることしばし、気がついたらレコーディングは終了していた。

(略)

 この時代に細かいEQはないから、音量のバランス感こそ命だった。これがエンジニアの仕事なのか……ただ音を録ればいいわけではなく、音楽を知らないと務まらないと身をもってわかった。

ジェリー藤尾「遠くへ行きたい」

[ジェリーがハンドマイクを所望]

「この歌詞は特別だし、歌うのが難しい。だからじっくり心を込めて曲の世界に入るために、スタジオのなかを歩きながら歌いたい」と言うのだ。

(略)

出だしの「知~らな~い」の「知」は、低音かつ音量が小さいのでマイクで拾いづらく、ボリュウムを調整して少し持ち上げた。いわば手動コンプレッサーだ。(略)

[アウトボードなど皆無の時代]

自分の手でコントロールできるのがエンジニア冥利につきるとも言えた。

坂本九見上げてごらん夜の星を

[坂本の弱点は低音。見上げての「見」がうまく出せない]

 歌い出しが決まらない九さんは、どんどんヴォーカルマイクに近づいて、なんとかして「レ」を出そうとしている。(略)

 マイクというのは、近づけば近づくほど低音が強調される「近接効果」が起こってしまう。(略)それは野太いだけで輪郭のはっきりしない胴間声。(略)[ブレスも入り]エンジニア泣かせのマイクの使い方でしかない。(略)

[駆け出しの著者にそれを指摘できるわけもなく、妙案を思いつく。周りの音を混ぜたいと嘘をついて、オフにしたヴォーカルマイクから10センチ後ろに「本当」のマイクをセッティング]

追加したマイクの音量を最初の「レ」にぴったり合わせてグッと上げる。

 すると近接効果のない、クリアな低い「レ」から始まる「見~上~げて~」 が聴こえてきたのだ。

弘田三枝子「ビー・マイ・ベイビー」

デカく録りたければバスドラムの目の前にマイクを置けばいいのだ。(略)

 たぶん、こんな録り方をしたのは僕が初めてだったのだろう。[ドラムの]石川晶さんも「ナメさん、すごくいいね!」と喜んでくれた

[だが、一般家庭の安いプレーヤーで針飛び続出、発売3日で全回収で大目玉](略)

[ローカットした再発盤は]自分の納得したサウンドとはほど遠く、がっかりした。だから初回プレスとそれ以降とでは、バスドラムの音量が全然違う。

爆音バンド、ブルージーンズ

 ブルージーンズは当時としては珍しく、レコーディングに使うアンプとスピーカーは自前のものを持ち込んでいた。それもとんでもなく大きなシロモノで、初めて見たときは驚いた。

 寺内さん用のスピーカーには38cmのウーファーが4発入っていたし、ベースの石橋四郎さんのスピーカーは冷蔵庫並みの大きさのキャビネットで音もデカい。(略)

[キャビネットの共振予防に]ボウヤがキャビネットの上に重石代わりに座っていた。(略)

[階下のスタジオから大音量にクレーム]

ブルージーンズはそれぐらいラウドなロックバンドだったわけだ。

尾藤イサオ「悲しき願い」

 [ブルーコメッツの]ジャッキーさんが叩く音はものすごくでかくて、何度も音量を下げて演奏してほしいとお願いした記憶がある。

 後年、東芝が赤坂にスタジオを作ったときに、天井から大きなパラソルをドラムの真上にぶら下げた。それも、元をただせばジャッキーさんのドラムの回り込みを抑える手段だったものが、赤坂スタジオ定番のセッティングになった。

(略)

 〈悲しき願い〉を録音したあとくらいに、僕は3点ステレオにプラスαして音像を広げるテクニックも思いついた。それは1本のマイクをパラレルに分岐して2つのチャンネルに入力するというもの。マイクの本数は変えずにチャンネル数を稼ぐことによって、音像の隙間を埋めることができたのだ。
 技術が進歩して、やっとステレオらしい音場感を演出できるようになったのは、67年あたりからだったと思う。日本でもパンポッドが開発されて左右スピーカーの間で細かなバランスが取れるようになり、ようやくステレオ音像のマジックを存分に生かすことができた。

 「音屋会」

[当時会社は技術に関し秘密主義、酒を飲むことも禁じられていたが、技術向上のため他社エンジニアと交流]

 岡ちん[コロムビアの岡田則男]も会社から「何で東芝の奴と付き合っているんだ」と、まるでスパイかのように言われていたようだ。(略)

[こうして「音屋会」が発足、のちに「日本ミキサー協会」へと発展]

 おかげで最新機材の情報もすぐに入ってくるようになった。誰かが新しい機材を買ったと聞いたら、「ちょっと見せてよ」と夜中だろうが見学に行って、その場で触らせてもらうほど打ち解けた付き合いだった。

[地位向上を求め、エンジニア名がクレジットされるようにしたりも]

不良社員

 1970年代になると、僕は社内外を駆け回って精力的に仕事をこなすようになっていた。入社から10年(略)

 会社の自分の席に座っているようなことはほとんどなくて、社員でもない自分の弟子の若者を引き連れて歩く完全な「不良社員」。(略)
「ナメさんの席には、いつも見知らぬ若者が座っていた」と苦笑いされたものだ。弟子に僕の留守番までさせていたんだから。

(略)

[他社の]アルバイトのことはみんな知っていたんだけど、そんな無茶苦茶も大目に見てくれるよい時代だったな。

奥村チヨ

 チヨさんの歌は不思議だ。声質も独特だが、作曲家のメロディによって歌い方をがらっと変えていく。演歌っぽくしたいとか、ポップソングにしたいとか、作曲家や編曲家の意図を汲んで本当に変幻自在に歌うことができるので、録音側もそれに合わせて聴かせどころを変えていた。
 たとえば色っぽい〈恋の奴隷〉などでは「アッ」っと歌うと、色っぽく「アアッ」と残響が大きく聴こえるようにズラす録音テクニックも思いついた。テープレコーダーで半拍遅らせたリバーブを作ってかぶせているのだけど、それであの「あなたごのみのぉ~」が生まれたのだ。

マヒナスターズ

 マヒナは本当にうまいバンドだった。世間ではコーラス・グループと認識されている節のある彼らだが、ステージで鍛えられたミュージシャンとしての腕前は本物だ。

安西マリア「涙の太陽」と「行方式ジェットマシーン」

[その歌唱力を誤魔化すため、BS&T『血と汗と涙』で使われたエフェクターを使うことに]
 だが日本には当時輸入されてもいないし、使っている人も皆無。オーディオのプロ用の輸入品を扱う坂田商会でさえ、いくら探してもそんな機材はないと言うほどだ。たしかに『血と汗と涙』の解説書には「ジェットマシーンというエフェクターを使用した」と書いてあるのに……。(略)
 そこで僕は自己流で日本初のジェットマシーンを作ることにした。(略)
 その構造はこうだ。4台のテープレコーダーを用意して、1台を送り出し専用にして、間にエフェクト用としてレコーダーを2台挟み、4台目をマスター・レコーダーにする。

 2台目のレコーダーのキャプスタン・モーターの周波数を49Hzから51Hzに変えてテープの回転数をコントロール、人工的に揺れ幅の大きいワウフラッターを作る。それを2台目のLチャンネルと一緒にパラレルで回した3台目のLチャンネルを、合わせて4台目のレコーダーにダビングすると、ショワーっというかっこいいフェイズシフトをかけることができた。

(略)

[74年初頭ポリドールの前田欣一郎(前欽)がジュリーの曲で使いたいから貸してくれと深夜にやってきた]

僕が突然4台のレコーダーをスタンバイして「行方式ジェットマシーン」をお披露目したものだから、前欽も「本物のジェットマシーンはないのかぁ!?」とびっくり。

(略)

 結局いまに至るまで、僕はジェットマシーンというエフェクターにお目にかかれていない。でも、みんな「あの音」が欲しかったみたいだ。

小川知子「ゆうべの秘密」

[風邪による不調で吐息風の歌い方になったが]

歌詞の世界観ともマッチした、影のあるはかなげな歌が賞賛されて曲はヒット

アニソン

 [アルバイトでやったアニメ主題歌は、「スーパージェッター」「ぼくらのパーマン」「おれは怪物くんだ」、自社の仕事では「コメットさん」、『忍風カムイ外伝』「忍びのテーマ」、そして『サザエさん』。フジから現場を仕切ってと依頼があり、作曲は著者が筒美京平を推薦。筒美と相談して歌は由紀さおり(当時はまだ安田章子)にしたが都合がつかず、ディレクターが]

「上手なシャンソン歌手がいるんですけど」と紹介してくれたのが宇野ゆう子

(略)

 挿入歌も僕が録音を担当していて、(略)<カツオくん(星を見上げて)>はとってもいい曲で当時から気に入っていた。

(略)

だけど、エンジニアとしてはちょっと悔しいこともある。オープニングで使われているのが、明らかにテープ編集を失敗したバージョンだからだ。

(略)

[マスターからコピーしたテープが]

無理やり短くつながれてしまったおかげで、編集されたエンディング部分からピッチがズレてしまったのだ。1/4音ほどピッチが低くなった影響で、音色もこもり気味になっている。

 「ウルトラセブンの歌」

[コーラスの三番目の「セブン」尾崎紀世彦]

 ベルトの後ろに手ぬぐいぶらさげたバンカラな風体の[冬木透]先生(略)子供がトチると「ごつん」と容赦ないゲンコツ(略)

[「セブン」連呼パート]子供たちだけで歌うと「セッ、セッ、セッ」と聴こえてしまう。どうしても「ブン」を大きく発音できないので、ワンダースが「ブン」だけを少し大きめに歌ってくれて、OKテイクが完成した。

(略)

[そのあとには、『柔道一直線』主題歌] 

わざとノンエコーにすることで木琴の音がリアルに録れている。

(略)

[生録が趣味の著者、羽田に初飛来のボーイング747の離着陸も録音。『アテンションプリーズ』の話が来た時はしめたとばかりに秘蔵の音を投入]

 サミー・デイヴィス・ジュニア

[松崎しげるの仮歌を入れたテープを携えLAへ]

まずはテストで歌ってみようか」と言うや、松崎さんそっくりにモノマネして歌い始めたのだ。あまりの見事さに全員大笑い。それで一気に緊張も解けて、コミュニケーションもバッチリになった。
 録音中も彼の職人技を目の当たりにする。クレッシェンドのときにレベルが振り切れないよう、自らマイクと口元の距離を調節していて、それがことごとくちょうどいい音量。僕がフェーダーをいじる必要がほとんないくらい、マイクの使い方がずば抜けてうまい人だった。
 「シナトラは1回しか歌わないんだぜ」なんて言いつつも、歌い直しに応じてくれて、通しで3回ほど歌ってもらって録音は無事に終了となった。 

(略)

[観光でベガスへ行くと言うと紹介状を書いてくれ、ステージ真ん前のVIP席でジャクソン5を堪能できた]

 太田裕美

 デビュー曲の〈雨だれ〉はモウリスタジオで録音している。でも僕は当時モウリが使っていたクォードエイトのコンソールの音が好きじゃなくて、ミックスダウンは別の場所でやらせてもらった。
 それがAMS(赤坂ミュージック・スタジオ)の2スタで、ここのスチューダーのコンソールはややハイ上がりで独特の音がした。
 僕は特にこのコンソールに入っていたEQをとても気に入っていた。女性ヴォーカルに色気をプラスするのにぴったりのイコライジングカーブを持っていたからだ。

(略)

[「木綿のハンカチーフ」が大ヒット。手違いでアルバイトの変名「上村英二」ではなく本名でクレジットされてしまい、会社に届くオリコンの名前を黒塗り]

3週目にはもう面倒くさくなって、出版元のオリコン社に電話して僕の名前を削除して欲しいと頼み込んだ。でも「決まりだから載せる」の一点張りで、しかたなく黒塗り作戦を最後までやった

4チャンネル・ステレオ

[4チャンネル再生は浸透しなかった]

 レコード自体は、4チャンネル・ステレオ盤は通常のステレオ盤としても聴けるコンパチブル仕様だった。エンジニアの立場からは、2チャン・ミックスと4チャン・ミックスを作らなければならないので、結構大変な仕事だった。
 コンパチ仕様にはいい面があって、ステレオで聴いても通常盤よりも、左右スピーカーの外まで広がるようなイメージで聴くことができた。「4チャンネル・レコードは音がいい」と言われるのはこのためだ。

(略)
4チャンネル・ステレオの開発はオーディオ・録音業界によい影響をもたらしてくれた。その研究過程において、ステレオ録音、再生機器の性能が向上する技術が生まれたからだ。
 こうした可能性は、僕がのちに「プロユース・シリーズ」でレコード盤自体の性能を上げることを考えるきっかけにもなる。

(略)

録音には当時新しく開発された超高感度な2インチテープ(略)

 リミッターはほとんど使わなかったので、急峻なピークや立ち上がりも均していない。[カッティングにこだわり]

(略)

 僕はこのグルーヴガードこそ、物理的にレコードの音質を阻害していると考えた。(略)[薄くて柔らかいレコードは針圧で]わずかに内周にむかってたわんでしまう。すると針と音溝が正しく垂直に接地できず、歪みの原因となる。(略)

 だからグルーヴガード[レコード縁の盛り上がり]を廃止して、レーベル部分から外周まで完全にフラットなレコードを作ってもらった。レコードの材料もレジンを基材に配合を見直すことで、硬くて摩耗に強く、静電気が起こりづらい、専用の盤を開発してもらった。

 特別な盤にすると、工場では完全な別ラインを用意して生産しなくてはならない。(略)

 こうしたイレギュラーなことに会社ぐるみで対応してくれた背景には、東芝音工時代からのトレードマーク「赤盤(エバークリーン・レコード)」の存在が小さくなかっただろう。
 赤盤は「レコード界の技術革命」や「永久にちりやほこりのつかないレコード」なんて言われていて、高品質なレコード盤が作れることは東芝の誇りだったからだ。
 ちなみに、赤盤とは原材料の塩化ビニールに帯電防止剤を混ぜたもので、通常の黒盤との識別のためにわざと赤く着色していた。その赤色は当時の川口工場にいた柿沼さんという職人さんしか配合できなかった。柿沼さんが70年代半ばに東芝を退職してしまったので同じものを作ることができなくなった、という裏話もある。

開業したてのディズニーランド

[シンデレラ城前イベントの音楽監督]

 一週間くらいしかやらなかったけど、ディズニーランドの細かな規則には閉口した。ヒゲを剃るか、スーツを着るかどちらかにしろと言われ(略)初日、裏口から帰らなければならないところを表門から出たら、翌日「入退場者の数が合わなかったのはあなたのせいか」と怒られた。

2002年の中国

 いちばん驚いたのは、立ち寄った北京のレコード店で、正規盤と海賊盤が普通に並んでいるのを見たときだ。

 中身はもちろん、ジャケットもコピーして同じものが売られていて、海賊盤は正規盤の5分の1くらいの値段。それでもレコード会社からはお咎めはない様子。

 哲民君に訊くと、中国ではCDはあくまで宣伝ツールであり、たとえ海賊盤でも中国全土にCDが行き渡れば、地方公演の際にお客さんが入る。いわば宣伝を海賊盤業者がやってくれているわけで、むしろ歓迎しているかのような口ぶりだった。

リマスタリングの難しさ

 加えて、旧譜のリマスタリングエ程でアナログテープ再生時のアジマス調整が忘れられがちなことも、ここで声を大にして伝えたい。前にも触れたが、アジマスとはテープレコーダーの再生ヘッドとテープリボンが接触する角度のこと。この調整が不十分だと再生時に位相の乱れが起きてしまう。

 テープからデジタイズされた音源を聴いてみると、CDとして流通しているものでも、アジマス調整が不十分なままのデータが少なくない。コンピューターに取り込んで波形を確認すれば一目瞭然で、これはデジタイズしたあとでも容易に修正が可能だ。
 その調整のためにも、僕はウェーブラボ社の専用ソフトが手放せない。

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