戦後日本の国家保守主義――内務・自治官僚の軌跡

戦後日本の国家保守主義――内務・自治官僚の軌跡

戦後日本の国家保守主義――内務・自治官僚の軌跡

 

 はじめに

国家保守主義が規定する国家ー社会関係には(略)ふたつの位相が指摘できる。第一の位相は、いわば「国家主義的な保守」(略)国家を全ての権威のよりどころとし、その規定する価値秩序に社会を従属させる(まつろわす)ことを内実とする保守主義である。

(略)

戦後において、このような国家の権威の回復は内務・自治官僚ら保守エリートにとっての至上命題であった。(略)

国威の回復と発揚のため、彼らは戦後、内閣官房内閣法制局宮内庁防衛庁など国家の中枢を再構築し、オリンピックや万博などを切り盛りしたのであった。

 第二の位相は、いわば「保守的な国家」ともいうべき側面であり、ここで観念される「権威ある国家」は、同時にあくまでも前近代的儒教的道徳観に裏打ちされた国家なのである。天皇制と家族国家観を基調とした「忠孝一致」や「愛国奉公」の「国民道徳」の意味するところを突き詰めれば、秩序の維持や近代化にかかわる負担や責任を、国家ではなく社会に肩代わりさせることだと言える。教育勅語の説くように、あるべき国民の姿は、国家に忠誠を誓い従属するだけではなく、国家のお荷物にならぬよう国家の意志を自ら進んで追求するのである。

(略)

さらに、とりわけ一九八〇年代以降、新自由主義が世界的な隆盛を迎えると、政財官界の保守統治エリートは、「強くて小さな国家」が社会に押しつける「自己責任論」にある種の親和性を見出し、新自由主義経済がもたらす社会的コストやリスクにかかわる責任を放棄し、自己利益の追求に奔走し(略)天下り先となる準国家機関のさらなる増殖に乗り出していくのであった。

 戦後地方自治行政をリードした旧内務官僚

内務省解体によって直ちに「戦後」が始まったわけではない。(略)どのような形態を取ろうとも地方自治行政は依然として旧内務官僚たちによって担われた

(略)

 例えば、内務省解体後の一九四八年、内事局の官房自治課長を務めていた小林與三次がGHQからにらまれたとき、一時的に「退避」することになったのは、旧内務省土木局の後身にあたる建設省であった。小林は占領が終わるまでの間、建設省で文書課長という枢要なポストにあり、一九五二年八月に自治庁行政部長に返り咲いた。この四年間の「亡命」期間に、本来であれば小林が占めたであろうポストを地方自治庁で担ったのは、旧内務省系のピンチヒッターたちであった。

(略)

内務省の復活を企てるさまざまな案が浮上しつづけた一九六〇年代初めまで、内務省から分割された省庁が相互に助け合うことは珍しくなかった。例えば、総理庁官房自治課と地方財政委員会の統合によって一九四九年に地方自治庁が設立されると、旧内務省地方局系の自治官僚は、旧内務省警保局系の警察官僚が新人を採用するのを事実上代行して手助けした。というのも、GHQによる内務省の解体と警察の民主化・分権化の結果、泣く子も黙るばかりの権威を誇った警保局は、その名も中途半端な国家地方警察本部に成り下がっていたからである。(略)一九五四年の警察庁設立によって警察行政の再中央集権化がほぼ完全に成し遂げられるまで、エリート警察官僚の採用は困難を極めた。(略)

その代わり、地方自治庁が高級官僚を採用し、入庁後まもなく警察行政に配置換えするということがおこなわれた。

(略)

 戦前の内務省は官界随一といえるほどの威光と影響力を誇った。そのため、内務官僚は内務省そのものに止まらず、他のさまざまな省庁で重要ポストを占めていた。(略)

一九三八年に内務省衛生局や社会局などを分離し、他省の部局と統合するかたちで厚生省が設置された後も、その幹部人事は採用から異動まで内務省が一括しておこないつづけたということもあった。また、内務省は文部省をも事実上支配下においていた。

 内務省の解体によって、そうした内務官僚の特権は大きな打撃を受けるところとなったが、同時に戦後の官庁機構改革は、彼らに新たなチャンスを与えた側面もあった。

 

 GHQの当初の野心的な公務員制度改革の構想では、人事院を新たに設置し、強力な権限を付与するはずであった。(略)

現実にはこの改革は限定的なものに終わり、人事院自体も大きな役割は与えられなかった。そして皮肉なことに、人事院内務省を追い出したかっこうになっていたにもかかわらず、その追い出されたはずの内務官僚たちの多くが人事院の上層部を占め、同じ建物に戻ってくるところとなった。

(略)

 人事院と並んでGHQによる国家官僚制改革の目玉であった行政管理庁もまた、占領が終わるとたちまち旧内務官僚の強い影響下におかれた。(略)

[84年に統合された]総務庁でも足場を保ち、二〇〇一年に総務庁自治省と統合されて総務省が誕生するまでの間に、二名の総務庁事務次官を輩出した。

 総理府もまた、ゆうに一九七〇年代後半まで内務省出身者によって牛耳られていたと言っても過言ではない。

(略)

 やや意外な感もあるが、自治官僚出身者は防衛庁にも一定の食い込みを見せてきた。(略)

とりわけ自衛隊在日米軍施設のおかれる地方自治体との折衝を担う防衛施設庁に複数の自治官僚がキャリアを築いたのは味深い。

 最後の内務省地方局長であった林敬三は、もともと防衛はおろか警察のバックグラウンドさえ持ち合わせていなかったが、一九五〇年に警察予備隊が創設されるや、いわゆる制服組トップにあたる総隊総監に就任した。二年後に保安庁が発足すると第一幕僚長となり、さらに一九五四年の防衛庁の設置とともに自衛隊統合幕僚会議議長となったのである。

(略)

[林に続いて四名の自治官僚が防衛施設庁長官に、うち三名は]

局長レベルの官職は防衛分野でしか経験していないにもかかわらず、自治省天下りポストを用意した

(略)

このことは、防衛庁のいわゆる背広組が他省庁出身の混成部隊の色彩が強く、また独自の天下り先をあまり多く保持していないことと(略)

[出先で出世した高級官僚に相応の待遇をしたい自治省側の思惑もあった] 

皇室への接近

 [戦前は内務官僚が宮内省トップを独占していなかった]

繰り返すが、宮内庁長官・次長ポストをめぐる内務省とその後継官庁の占有は、奇妙なことに、内務省が廃止された後につくられた戦後の慣行なのである。ここで重要なのは、この戦後の新しい「伝統」が、すでに存在しない内務省にいわば後づけで「国家のなかの国家」としての威光を付与する働きを持ち、このことがまたひるがえって、今度は内務省解体によって生まれた後継官庁に一定の権威を与えるという効果を生み出しているという事実である。

(略)

一九七〇年代半ばから後半にかけて潮目の変化があったことが理解できる。その時期まで、とりわけ宇佐美毅と瓜生順良という、ともに比較的低い官職から宮内庁に転じた内務官僚二名の長い任期の間は、民主化された皇室と人間化された天皇への移行とその定着が何よりもの課題であった。(略)

しかしその後、富田朝彦を第一号として、次官級ポストを経験した高級官僚が相次いで宮内庁長官・次長に就任するようになった。これは、保守統治エリートがふたたびよりあからさまに皇室に接近していったことと時を同じくしている。

 内閣官房副長官

旧内務官僚の嫡流としての自治官僚は、内閣法制局においても重要な一角を占めてきた。

(略)

[法制局は廃止され法務庁]に移管された。GHQは、法制局が内務省に牛耳られていたと考えており、そのため佐藤達夫法制局長官ともう一名の職員のほかは誰も法務庁への異動を許されなかった。

(略)

こんにちでは事実上トップ官僚ポストとみなされている内閣官房副長官(略)

その重要性にもかかわらず、ポスト自体の歴史は浅く、戦後一九四五年九月に初めて設けられたにすぎない。

(略)

政務担当の官房副長官は若手政治家の登竜門とみなされてきたが(略)総理大臣と官庁の間に立ち、最高レベルでの調整機能を担うこともあり、やがて官界トップのポストとしての地位を築いたのであった。しかしこんにちに至るまで、こうした官房副長官の役割分担や出身区別はあくまで慣行にもとづくものであって、何ら法的な根拠を持つものではないことは留意しておきたい。

(略)

 敗戦直後にこのポストが設けられると、しばしば政治的野心を持った官僚が国政に出馬する足がかりとされた。

(略)

 以上見てきたように、戦後の民主化改革とその一環としての内務省の解体にもかかわらず、人的には旧内務官僚、組織的には旧内務省系官庁を通じて、戦後も内務省は隠然たる存在感を示しつづけた。それどころか、占領期の野心的な公務員制度改革の試みを象徴する新しい国家機構としての人事院と行政管理庁(のちの総務庁)が、ともに瞬く間に旧内務官僚の強い影響下におかれるところとなったのは皮肉と言うほかない。これらのほか、戦後もう少し後になって設置された総理府本府、またその外局であった防衛庁沖縄開発庁国土庁においても、旧内務官僚の後を継いだ自治官僚たちが一定のプレゼンスを保つところとなった。

(略)

内閣法制局長官ポストについては、旧内務省系官庁を代表するかたちで自治官僚が大蔵・通産・法務官僚と順番に分け合う慣例が確立したが、宮内庁長官ポストは、占領統治が終わるとまもなく内務省とその後継官庁が独占的に人材を供給することが慣行化した。

 日本善行会

実際、林敬三の退官後の主な職歴を見ると、内務省廃止後も彼のような旧内務官僚が生きつづけていた間は、ある意味で内務省もまた生きつづけていたことがよくわかる。というのも、林が退官後占めた諸々のポストは、内務省の所掌した主な政策分野をほぼ全てカバーしているからである。地方局(自治省)では自治医科大学明るい選挙推進協会、そして重要な政府審議会である地方制度調査会などがあり、土木局(建設省)では日本住宅公団、衛生局(厚生省)では日本赤十字社、警保局(警察庁)では警察協会、東京都公安委員会という具合である。さらに興味深いのは、戦後、林は宮内庁防衛庁に勤務し、直接的には内務省の後継官庁のいずれにも在籍しなかったにもかかわらず、これらの省庁管轄の重要な準国家機関にトップ待遇で天下り先を得たという事実である。

 林と比べたとき、鈴木俊一は唯一首都高速道路公団総裁ポストが(略)用意されたことがあるのみで、旧内務官僚といっても、基本的に地方自治行政一本やりで過ごした戦後のキャリアを反映するように、自治省所管の特殊法人公営企業金融公庫総裁や東京都知事など、退官後の職歴は自治省管轄内が中心となっている。

(略)

[二人がともに会長を務めた日本善行会とは]

善行会(のちに日本善行会に改称)はもともと一九三七年、伊藤辰男という当時まだ二〇代の青年により銀座で任意団体として立ち上げられたものである。

[「青少年の健全育成」のため善行を奨励しようと]

善行児童の月刊誌の刊行のほか、「街をきれいにする運動」として京橋界隈の小学生を集めて近所の清掃と心身の鍛錬をおこなったこと、また「女子向上塾」として将来の良母の育成を目指して職業婦人に音楽や礼儀作法などを教えた(略)

善行会が称えた「善行」というのは、当時の超国家主義者たちが推奨していた価値観と完全に一致しており、会の活動資金もまた、軍国主義の推進に大きな役割を果たした関係者から供給されていたのである。

(略)

[善行会の月刊誌「まこと」には]

天皇と皇国への私心なき奉仕と忠誠が最重要主題として誌面にあふれており、これは「今後の青少年の教育には個人主義清算せしめて全体主義で行かなければならないと思ひます」という伊藤個人の強い信念に善行会の活動が依拠していたからにほかならない。「善行会は良い心掛の子供達の集まりです。日本は世界中で最も正しい国であります。皆さん日本の子供達は大きくなつたらば、日本の国をもつと良い、もつと強い国にして、正しい事を世界中の人に知らして上げなければならない大事なつとめを持つてをります。それには子供の時からその用意が必要です」と入会への呼びかけ文は記している

(略)

[「町をきれいにする運動」も実際は]皇居外苑楠木正成像の下に集まっての宮城奉拝のことであった。清掃がおこなわれることは確かにあったが、主眼は忠君愛国の精神を子供たちに植えつけることで、清掃されるのは決まって上野の西郷隆盛像であったり麻布の横川省三記念公園であったりした。(略)

実は常に国民精神総動員運動の一歩先を行っていたのである。そのため、一九四一年に大日本青少年団が全国的に組織され、生徒や学生の総動員が強化されると、善行会は将来の母親としての若い勤労女子の愛国教育に重点を移したようである。

(略)

終戦・占領で[会長の]一条実孝公爵が公職追放されると、伊藤は今度は東京都と旧内務官僚に近づき、善行会はまずは都内で一定の影響力と権威を獲得し、やがて全国規模へと成長を遂げていったのである。伊藤の戦後の活動は、戦災者救済バザー、むだづかいをやめよう運動、清掃美化運動などから再出発した。

(略)

 善行会は一九五一年より「善行表彰」を開始した。これはやがて戦後の善行会にとって中心的な活動になっていく。表彰活動以外では、蚊とハエをなくす運動、水を大切にする運動、ヒロポン禍撲滅運動、親切運動、社会生活を明るくする運動、車内を明るくする運動、時間を守る運動、花いっぱい運動など(略)

いかにも内務省的な人民教化と社会統制の思想をにじませた運動を展開してきた。これらの運動はいずれもおよそ草の根の市民運動と呼べるようなものではなく、旧内務官僚ネットワークや東京都に直結した善行会の上層部が多くの場合ほかの類似団体と合同で推し進めたものであり、善行会独自の組織の本格的な形成は善行表彰の受賞者を中心に支部づくりが始まった一九五〇年代後半以降のことであった。

(略)

 一九六五年に善行会は社団法人として東京都所管から国(総理府)所管へと移行(略)

全国組織へと本格的な成長を遂げていくことになるわけだが、一九六七年に保守陣営が都知事選に敗北し、美濃部亮吉の率いる革新都政が誕生したことを考えると、善行会が東京都への依存から脱し国レベルへと「出世」していったのは、偶然とはいえ絶妙なタイミングであったと言わざるをえない。(略)

 伊藤の没後も善行会はますます旧内務官僚たちとの結びつきを強め、また準国家機関としての色彩を濃くしていった。(略)

[73]年には日本善行会と名称を改め、一九七四年からは総理府による総務長官表彰の推薦団体としての指定を受けるまでになった。

(略)

善行会の表彰制度は、国家の栄典制度を補完するものと言えるだろう。国が、官僚、経営者、学者、芸術家などごく一部のエリートを叙勲するのに対して、善行会は、市井のごく普通の人びと(略)

国家の栄典制度が直接対象としない、より「底辺」に近い人びとの顕彰を下請けしているというのが実態に近いのではないか。

(略)

一九九八年より善行会は、自治省傘下の日本宝くじ協会から補助金を受けるようになり、それにより収入に助成金の占める割合は従来の五%から二五%まで跳ね上がった

次回に続く。

哲学者マクルーハン その2

前回の続き。 

哲学者マクルーハン 知の抗争史としてのメディア論 (講談社選書メチエ)

哲学者マクルーハン 知の抗争史としてのメディア論 (講談社選書メチエ)

  • 作者:中澤 豊
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/10/12
  • メディア: 単行本
 

ソクラテスこそ詭弁家か

 プラトンは、『国家』においては詩人を激しく排撃する一方(略)対話篇に多くのソフィストたちを登場させたが、それらはあくまで敵対者プラトンの目をとおした「ソフィスト像」である。

(略)

ゴルギアス』、『プロタゴラス』など初期対話篇には、ソクラテスが相手のソフィストを矛盾に追い込み論駁する姿が描かれている。ソクラテスは、予め相手が得意とする長広舌を封じて自分の土俵である一問一答方式で対話することに同意させる。そして自分は無知を装って(略)、誘導尋問のような質問を重ねながら、「善」「美」「正義」といった語のもつ多義性、あいまいさに乗じて自分が企図した前提に巧みに誘導すると、後は演繹的な論法で相手を矛盾に追い込んでいく。それも相手の知を否定するだけで自分の知は一切語らない。

 真理を悟らせる「産婆術」と称して、狭いアテナイ市内で辺りかまわず識者をつかまえてこんなトリックまがいの問答を繰り返していたら、論駁された人の恨みを買うのは必然である。実際、ゴルギアスとの対話に同席したポロスには、「ゴルギアスさんの話が矛盾するように、自分で話の筋を運んでおきながら、してやったりと喜んでいるのはずいぶん失礼なやり方ですね」と呆れられている。他のソフィストとの対話篇も、論駁されたソフィストが自分の無知を悟り納得した状況とは程遠く、何れも気まずい終わり方をしている。問答法は、相手を屈服させることはできるにしても心服させることはできない、まさに論争のための技術である。

 後期対話篇で、プラトンは同じ一問一答の争論術を問答法とは区別して批判したが、ソクラテスの時代、両者は同じに見えていたのだろう。 ソクラテスがまだ壮年の頃の前四二三年、すでに喜劇作家のソフィストアリストパネスは『雲』という作品で、口先で人を騙し、弱論を強弁する術を教授する「ソフィストソクラテス」の姿を面白おかしく描いている。

(略)

ソフィスト仲間でもソクラテスの「詭弁度」は他を圧倒していたのである。ソクラテスの問答法をまねて争論術に走る者もいたというから、アテナイ支配層にとっては、若者に詭弁の言語遊戯を教えるソクラテスギリシャの口誦の伝統を破壊する危険人物に映ったことだろう。

(略)

 いずれにしても、ソフィストの「詭弁家」の悪名は長広舌派ソフィストから生じたものではなく、もともとソクラテスの問答法(ディアレクティケー)から派生した言語遊戯にまつわる評判から生じたものである。しかし、ソクラテスの衣鉢を継いだプラトンは、「無知の知」と「知を愛する者(フィロソフォス)」という新しいコンセプトを掲げてソフィストから離れ、イメージの刷新を図った。

 「対話篇」に再登場したソクラテスソフィストではなくフィロソフォス(哲学者)となって、ライバルの長広舌派ソフィストに対して「真実よりも真実らしいものを信じ込ませる似非教師」との批判を開始した。さらに後期になると、「ソフィストにも長広舌を用いる者と短い議論で相手を矛盾に追い込む者の二通りの人間がいるが、どちらも人を説得するために真実よりも真実らしいもの、見かけだけのものに誘導する同じ系統に属する種族である」(『ソピステス』)と決めつけた。このレッテル貼りによって、長広舌派ソフィストと詭弁家の悪名がつきつつあった争論家ソフィストはいっしょくたにされ、「雄弁家であり詭弁家」とする混乱したイメージをソフィスト側にもたせることになった。

 他派ソフィストを批判することで新しい存在として立ち現れてきたフィロソフォス(哲学者)は、アルファベット・リテラシーの心性が身についた文字教養人であり、書くことに長けていた。

(略)

 書いたものをほとんど残さずプラトンに反論できない口誦教養人のソフィストたちを弁護するならば、ソフィストにとって言葉は人間の本質に属することであり、雄弁の術と知恵は不可分であった。それゆえソフィストにとって、教えるという知の相互作用は書くという手段では達成できないと考えていたはずだ。彼らが書いたものを残さなかったのはそういうことであろう。

(略)

 ソクラテスは書いたものは何も残していない。ソクラテスは口誦文化と書字文化の狭間に生きた人間であった。ハヴロックはこう書いている。「ソクラテスも口承神話に堅く縛りつけられたままであり、われわれの知るかぎり一言も書かず、市場での意見の交換を活用したが、それにもかかわらず、ある技巧──つまり、彼が知らなかったにしても、書かれたことばにおいてのみ完全に達成可能となり、そして現に、書かれたことばが存在することによって可能となりはじめたような技巧──にかかわっていたのである」(「プラトン序説」)。

(略)

 プラトンソフィストの論争は、主張内容をめぐってのものではなく、「方法」をめぐってのものだった。プラトンは、ソフィストの方法(ソフィスト術)を侮ってはおらず、むしろその修辞の力、変容の力に「畏れ」を抱いていた。 

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)

 

 『ノヴム・オルガヌム

 エリックは、父マーシャルが『メディアの法則』をまとめるため、仕事に没頭する様子をこう書いている。

 

本書をまとめるための数年間、父は何度もベーコンやヴィーコの著作を読み返した。それはまるで同僚に助言を求めているかのようだった。(略)

父は、ベーコンとヴィーコおよびその他の文法学者たちが、自分と同じ道を歩んだ(あるいは彼らと同じ道を自分が歩んだ)ことを知った。彼らはみな文学教育のツールを用いて、この世界とそこに住むわれわれ自身の役割を理解しようと全霊を傾けたのである。

 

 ベーコンは、近代科学を創設した哲学者(弁証学者)と思われているが、トリヴィウムの分類でいえば哲学者(弁証学者)ではなく文法学者であった。彼が『ノヴム・オルガヌム(新機関)』で目指したものは古代の知恵の回復、即ちアリストテレスに始まる弁証学的方法(オルガノン)を革新し、「自然という書物」を読み解くための古代の学習と技術を回復させることであった。ベーコンの著作には、プラトンアリストテレスを頂点とする伝統的哲学やスコラ哲学への激しい非難が溢れている。ベーコンは『学問の進歩』の中で(略)

弁論術の役割を評価する一方、プラトンが、弁論術を料理術のように「快楽の術」と考え排除したことは、はなはだしく不当であると非難した。(略)

欠点だらけの帰納法を用いて精神を油断させ、資料から分離した抽象的な形相を求めることに満足し、自然哲学には関心をもたず、ただ哲学者という栄誉ある称号を保持したに過ぎないと論難している(『フランシス・ベイコン研究』)。

 アリストテレスについてはもっと手厳しい。ベーコンは、『ノヴム・オルガヌム』の中で、アリストテレスが「自分勝手に新しい学術語を作り、伝統に敬意を払うことなく古人の知恵をすべて破壊するためだけに過去の作家を引用していること、一般命題を構成するにあたり経験に諮らず、自分で勝手に決定したために経験を歪めてしまっていること、自分以外の他の諸哲学を敵意ある論駁によって薙ぎ倒した後に、個々のことをてきぱきと決めつけ一切を絶対化したために、彼の後継者たちはそれ自体を目的にしてしまったこと」を厳しく批判しているのである。

 とくにベーコンが批判したのは、理論の美しさに酔って人間生活に何ら貢献していない演繹論理学、すなわち「大前提が真で、小前提が真であれば、結論は必ず真となる」という定言三段論法的論証形式である。

 

すべての人間は死ぬ(大前提)

ソクラテスは人間である(小前提)

ゆえにソクラテスは死ぬ(結論)

 

 こうした論証においては、じつは結論は前提に織り込まれており、導き出される結論は前提の内容を上回ることはない。「死すべき人間であるソクラテスは死ぬ」と言っているだけで何ら新しい知識を生産していない。演繹ができることは、前提のなかにすでに暗示されているがまだ「証明」されていない事実を明らかにしていくことだけである。前提から下に向かって下降するだけの数学的な論法なので説得と論争には向いている。その場合でも、問題は疑う余地のない真なる前提をいかに設定できるかという点にある。前提が誤っていればすべては崩壊する。

(略)

 弁証学者が理性にのみ明証性を求めたのに対して、文法学者は経験と知覚を重視し、一切の先入見を排除して対象に肉薄した。文法学者にとって、世界とは理解するものと理解されるものの数学的なマッチングではなく、認識が作り出す過程(メイキング)、即ち発見と創造である。

(略)

 ベーコンはレトリックの伝統のうえに、新しい科学的方法を構築しようとしていた。そして、ベーコンが伝統に則って「発見」を知性の技術の一番目に置いたと同様に、マクルーハンもまた、最初に来るものは「発見」でなければならなかった。

 

私は探偵である。私は探索する。私は視点をもたない。私は一箇所にとどまらない。われわれの文化においては、一つの固定した場所に止まっている限りは歓迎すべき者と見なされる。だがいったん周辺に動き出し境界を横切り始めると、不届き者と見なされ、非難の格好の的となる。

(略)

ジャック・エリュールは、プロパガンダは「対話」が止むとき始まる、と言っている。私はメディアに問い返し、探検という冒険に旅立つ。

 

(略)

 「視点とは、構造的認識を記録するのに失敗した結果生じたものである」とマクルーハンは言う。視点をもつ、説明するとは、早々に価値判断を下し、下に向かって下降するだけの演繹的、直線的な道を歩むことである。それは脇道のないトンネルのようなもので「発見」とは無縁の道である。マクルーハンは判断を保留して、議論のための素材(論点)の収集を続けながら、隠れていた「地」(暗黙知)が浮かび上がってくるのを待っていた。先に紹介したドラッカーとの対話による「発見」の逸話はまさにそれである。

 弁証学は「発見」には関心を持たず「判断」、つまり論証を専らとした。一方、キケロ以来の弁論術の伝統ではその両方とも有用であるとして探求するが、自然の順序として「判断」よりも「発見」が先行するのである。 

新しい学(上) (中公文庫)

新しい学(上) (中公文庫)

 

ヴィーコ『新しい学』

 ベーコンの『ノヴム・オルガヌム』から一世紀近くたった一七二五年に、修辞学者ヴィーコは、『新しい学』のなかでこう主張した。

(略)

この社会は確実に人間によって造られたものであるから、その原理は我々の人間精神そのものの変化様態のなかに求めることができ、またそうでなくてはならないことである。

(略)

 ヴィーコはもともとデカルト主義者であったが、ベーコンの経験主義に接して四〇歳を過ぎてからデカルトの批判を開始した。(略)

ガリレオデカルトが、自然のなかに「数学の言葉」を見出そうとしていたのに対して、ヴィーコは人間の「精神の語彙集」に第二の自然(文明)を解明する手がかりを見つけようとした。何故なら、新しいテキスト(文明)は人間がつくった社会的な人工物であり、人間の感受性の変化、言葉の変化はその結果であるから。

(略)

デカルトは、歴史的伝承や経験、知覚に基づく認識は歪曲や捏造が紛れ込んだ蓋然的なものであるとして否定したが、ヴィーコは、歴史的認識のなかに正統性を認め、人間、社会、歴史の研究においては「真実らしいもの」すなわち蓋然性も考慮されなければならないと主張した。真理とは、長い期間にわたって多くの人が積み重ねたものにより漸次的に明らかになってくるものであり、数学的に、理性的に一挙に明らかになるものではない。ヴィーコは人類すべてに共通する判断力「共通感覚(常識)」に真理を求めたのである。

(略)

中村雄二郎は、デカルトが言語から感覚や想像力を含む部分を排除し、言語をもっぱら概念や理性にかかわるものとすることで共通感覚を喪失してしまったことを指摘する一方、弁論術の特容が常識との結びつきにあることをキケロの言葉を引きながら指摘している。キケロは次のように記した。

 

他の学術の研究対象は幽遠にして深奥な源泉から汲み出されるのに対して、弁論の理法のすべては、言わば衆人環視のもとに置かれ、万人共通のある種の慣習、一般民衆の言辞や言説に関わるものであり、したがって、他の学術にあっては、門外漢の感覚や知性の及ばないはるか遠くかけ離れたものであればあるほど卓越したものと見なされるのに対して、弁論の分野にあっては、大衆の言論から乖離し、万人の常識に基づく慣行から逸脱することは、まさしく最大の過失と見なされる。(『弁論家について (上)』)

 

 かつてソフィストたちは、プラトンから「弁論術は、聴衆に対して“善”よりも“快”に訴え、真実よりも真実らしいものを信じ込ませる単なる迎合である」と批判された。だが見方を変えれば、名門出エリートのプラトンは大衆の常識を信じておらず、彼らを裁判や政治に参加させる民主政に批判的なのである。プラトンの理想は、あくまで「哲人王」による統治なのである。

 一方、ソフィストには、歴史の中で培われた世俗的知恵、大衆の常識に対する信頼があった。大衆が使う言葉には、豊かな想像力に結びつきうる活力が秘められている。今日のポピュリズム批判の原型とも言えるプラトンソフィストへの批判に対してソフィストが反論した記録はないが、反論したとすればヴィーコデカルト批判と同じようなものであったろう。

(略)

知識は賢慮とは次の点において相違している。すなわち、知識において秀でているのは、自然の数多くある現象がそこに引き戻されるところの単一の原因を探究する人々であるのに対し、賢慮において卓越しているのは、ある一つの行為のできるだけ数多くの原因を探り出して、どれが本当の原因であるかを推測する人々であるということである。……学識はあるが賢慮を欠いている者たちは最高の真理から出発して最低の真理を統制しようとするが、これに対して、知恵ある人は最低の真理から出発して最高の真理に向かうのである。……一般的真理からまっすぐにもろもろの個別的真理に降りてゆこうとする、学識はあるが賢慮を欠いている者たちは、実生活の曲がりくねった道を何が何でもまっすぐに突き進んでゆこうとして、道そのものを打ち壊してしまう。ところが、実生活において行うべきことがらのさまざまな紆余曲折と不確実を経て永遠の真理を目指す知恵ある人々は、まっすぐに進むことはできないので回り道をし、そして、時が経つにつれておのずと利益をもたらしてくれるであろうようなうまい考えを案出する。……一つは哲学であって、このほうは知恵のある者たちにおいて彼らの心の動揺を適度に抑えることによって、そこから徳が出てくるようにおもんぱかるのであり、またいま一つは雄弁であって、このほうは民衆のうちに彼らの心の動揺をむしろ燃え上がらせることによって彼らを徳の義務を果たすようしむけてゆくのである。しかし今日では──と学識ある人々は反論するかもしれない──国家の形態はもはや自由な国民においては雄弁が支配しえないようなかたちでできあがっているのではないか、と。確かに、ありがたいことにも、今日では君主たちはわれわれを言葉によってではなく法律によって統治している。しかし、これらの国家自体の内部にあっても、広範かつ多彩で燃えたつようなしゃべり方において傑出した弁論家たちが、法廷や議会、そしてまた神聖なる説教の場において、国家にとって最高に有益であり、また言語にとって最大に光栄なことにも、光り輝いているのが見られる。(『学問の方法』)

レトリック復権の企て

 ヴィーコは(略)グーテンベルク以降、哲学の下位に甘んじてきた「レトリック」の復権を企てていた。そして、レトリックの伝統のなかで語られていた「一見ばらばらに見えるもの、異種のものの間に媒介項を見出し、両者を関連づける知性の能力」をインゲニウムと呼んで、近代合理主義科学のもたらした要素還元主義を脱して教育の全体性回復を唱えたのである。

(略)

 雄弁・修辞によって、各々の専門領域はうまく対応し合い、関連づけられ、知識を総体としてとらえられるようになる。この異種のものを関連づける理性の力こそ、帰納法思考であり、アナロジー思考であり、隠喩思考である。

(略)

 ルネサンス期の人文主義者は、雄弁と叡智の結合を説いたキケロを模範とし、古典レトリックの復興を通じた人間形成を理想としたが、レトリックの知には共通感覚(常識)への信頼がある。マクルーハンがあれほど共通感覚にこだわった理由もこれで分かろう。マクルーハンはエレクトロニクス時代の人文主義者であった。視覚の独走によって失われていた五感の相互作用が電気技術によって回復され、想像力の基盤である共通感覚がもどってくることを熱望していたのである。

専門家 

マクルーハンは、「専門家と言うものは、小さな誤りを決して犯さないが、すごい誤りに向かって進んでいくものである」と皮肉った。

南伸坊による竹村健一分析

結論とか知識を伝えるのであれば、印刷媒体が一番適しているが、テレビ討論などにはプロセスがあるだけで結論がないのである。テレビの視聴者は、討論の結論が何だったか、など気にしない。

(略)

TV出演をして分かった事というのは、つまり、なぜ竹村健一が人気者になったか、なぜ竹村健一をTVでロンバクできる知識人があらわれないのか、という事なのだった。竹村健一をやりこめる役で登場する知識人は、TVというメディアを、体得していない、つまりたまにしかTVに登場しない人か、登場しても本当のところTVをしていない人達だったからなのである。TVというのは、内容を伝えるメディアではないのだ。人間が映ってしまった時に、TVはその人間の言葉ではなく、所作や表情を伝えるメディアになる。こういうことは、10年前に、マーシャル・マクルーハンという人が言って、大旋風というのを巻き起こしちゃったりしたことなのだった。そうして、そのマクルーハンの最初の紹介者が竹村健一だったのである。彼はそれを、学問としてではなく応用技術として身につけたのだった。マクルーハンを一等利用したのは、竹村健一だったのだと思う。……竹村健一をTVで批評するとしたら、タモリのように、つまり竹村健一の所作を浮き彫りにするしかない。しかしそれは、竹村健一を糾弾するのではなくて、視聴者に、あんた方はこれを見ているんだよと、わからせる以外にないのだ。竹村健一は別に大衆をダマしたり、体制の手先になってインチキをしてるワケじゃない。インテリが批判する論理に拮抗する論理を、持っているワケじゃないのだ。持っているのはTVに対する対し方だけなのだ。竹村健一はおそらく、自分のしゃべっていることを信じている。意識的に視聴者をダマそうなどと思っていない。つまり、いってみれば正直な、単なる善人なのであります。

 現代のソフィスト

 古代ギリシャソフィストたちの依拠していた口誦のソフトウェアは、新しく登場したアルファベットのソフトウェアに取って代わられた。ソフィストたちが教育の指導的立場から追放されてしまってから二〇〇〇年を経た二〇世紀後半、ギリシャの口誦の伝統を引き継ぐ一人のソフィストがカナダ・トロントに突如現れた。彼には、グーテンベルク以来五〇〇年間権威を誇ってきた文字文化のソフトウェアが、新しく登場した電気のソフトウェアに取って代わられることが見えていた。文字文化のソフトウェアの上に成り立つあらゆる制度、習慣、権威が大混乱をきたすことが分かっていた。歴史の中に消えたソフィストは、芸術家や詩人に仮装し、生きながらえてきたが、いまや教育の主導権を取り戻すまたとないチャンスが到来したのである。

 プラトンソフィストに浴びせた批判は、二三〇〇年後、マクルーハンが他の学者・批評家から受けた批判そのものである。

 ソフィストの弁論術がプラトンに批判されたように、マクルーハンの比喩とアフォリズム論述形式もまた、論理的でない、体系的でないと批判された。

(略)

 ソフィストゴルギアスは、ソクラテスに誘導されて得意の長広舌を封じられ、一問一答によって論駁されてしまったが、マクルーハンは、ゴルギアスの愚を犯さず、何を言われても隠喩に満ちた長広舌を貫いた。

 

哲学者マクルーハン 知の抗争史としてのメディア論

 

哲学者マクルーハン 知の抗争史としてのメディア論 (講談社選書メチエ)

哲学者マクルーハン 知の抗争史としてのメディア論 (講談社選書メチエ)

  • 作者:中澤 豊
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/10/12
  • メディア: 単行本
 

 竹村健一マクルーハン理解

[竹村健一マクルーハンを誤った解釈で日本に紹介したという解説を読んで、竹村本は価値なしと思い込んでいたが]

マクルハーニズムを通じて「日本文化」を再発見することこそ、マクルーハンを読む意義のはずである。まだ邦訳が一冊も出ていない段階でそれをやった竹村の功績は強調してもし過ぎることはない。日本におけるマクルーハン旋風は、竹村が半分以上吹かしていたことは間違いない。

(略)

 まず、竹村のマクルーハン理解から始めることにしよう。竹村は、本の冒頭マクルーハンの経歴を紹介する中で、マクルーハンカトリック系の学校ばかりで教えていたことに触れ、こう書いている。

 

彼のような斬新な発想をする男が、キリスト教でも古いほうのカソリシズムに改宗しているのはおかしいと思われようが、壮大荘厳な教会の中でのミサを体験した方なら、それがマクルーハンのいう「深いところでのコミュニケーション体験」であることがおわかりだろう。プロテスタント教会には見られぬ祭壇の深い美しさ、香のにおい、着飾った僧の動き、響きわたる声──人間の全感覚をゆり動かす荘厳なミサである。説教にしてもプロテスタントのものと大いに異なる。いわゆるインテリとして、頭で客観視する態度ではまったく理解できない祈禱文が朗読される。そのなかに没入する気持ちになってはじめて全体験が可能となるのである。

(略)

 この一節だけで、竹村がマクルーハン理解の本質を捉えていることが分かるのだが、さらに、「結局マクルーハンは、あらゆる問題をとらえてオールナイトの討論会をやっている男として考えるのがいいのかもしれない。けっして結論は出ないが、興味あるヒントがつぎつぎと飛び出してくる。彼によって私たちは新しい道を開かれ、古くからある問題を新しい方法で見ることができるのである」と、実に的確な指摘が続く。マクルーハン理解は「方法の問題」であることがすでにこの時期に竹村は分かっていた。そしてマクルーハン理解の最重要ワード「インヴォルヴメント」についてこう語る。

 

すなわち、いままでの理論は「論理的であり、分析的で」あったのに、彼は「詩的に、直観的に」理論を展開したのである。日本にはこういうインボルブメントを要求する理論方式──たとえば禅や茶道の本があったのに、西欧型になってしまった現代の知識人は、その中へ入ってゆくことができず、「客観的批評」しかくだせなかった。まったく違ったメディアで語っている男に対して、従来の(別種の)メディアで答えて何になるだろうか。(略)彼らがマクルーハンと対話できないのも理の当然である。

(略)

 マクルーハンは、「共産主義とはサービスである。電話はサービスである。電気世界はすべてサービスであり共産主義である」と言って学生たちをポカーンとさせた。そして「なぜならだれもそれを所有しないからだ」と続けた。こうした次元の違うものを比較して強引に結びつけるのがマクルーハンなのだが、竹村はこのマクルーハン流の隠喩(メタファー)を十分に理解できる思考方法の持ち主だった。竹村は、隠喩を理解するのは活字人間ではなく、むしろ本をあまり読まない人がマクルーハンを理解できる、と言っているがまさにその通りなのである。隠喩を理解するのは知識ではなく経験なのである。

I・A・リチャーズの影響

[1934年、ケンブリッジへ]

その後のマクルーハンの軌跡を決定づけることになるI・A・リチャーズに出会えたことである。

 リチャーズは、意味論の研究者、新批評(ニュー・クリティシズム)の提唱者として知られる著名な文芸批評家である。(略)

[当時]文学研究の分野ではI・A・リチャーズの影響は絶大だった。リチャーズがマクルーハンに与えた影響について、マクルーハンと親交の深かったイギリスの批評家ジョン・ウェインは、「もしマニトバ大学卒業後、ケンブリッジでなくてオックスフォードに行っていたならマクルーハンの仕事の全軌跡は全く違ったものになっていただろう」と言っている。というのも、当時オックスフォードの英文学部には、中世研究のC・S・ルイス、熟達の伝記作家D・セシル、シェイクスピア演劇法の研究者N・コーギルの三人の最高の知性がいて、三人はいずれも読者、聴衆を、基本的に作品の作用が及ぼされる素材として扱っていた。すなわち、偉大な文学作品の豊かさによって彼らが分かる場所へ導かれ、指導され、案内されるべき対象として読者を見ていた。

 オックスフォードの批評家は、作者を歴史上の時代の中に固定し、時の歪曲によって引き起こされた誤謬を正すために研究したが、哲学(倫理学)を学び、その後、読む行為に伴う認知プロセスに興味を抱いて文学に転じたリチャーズ(略)は、何よりもまず読み手の心理状態に関心があった。

(略)

 『意味の意味』には「言語の思考に及ぼす影響と象徴学の研究」という副題がついているが、象徴すなわち暗示的な効果の研究が「意味」の理解には欠かせないとリチャーズは考えていた。学生には、詩や小説の作者の名前を隠して純粋にテクストとして読解させ、批評させる分析的作業をやらせた。そうすることで、読み手は作者の意図や伝記的事実、作品の時代背景から離れ、純粋にテクストが生み出す効果に注意を向けることができる。意味は作品に内在するものではなく、読み手がテクストから再生する経験にあるというのがリチャーズの考えであった。すなわち、「何を」だけではなく、「どのように」受け止めるかの知覚能力、およびその知覚への影響の研究に取り組む環境がそこにあった。リチャーズは、詩の解釈にあたって詩の「形式」がもたらす心理作用についてこう書いている。

 

ほとんどすべての詩において、言葉の音と感じが、つまり詩篇の内容に対してそれの形式としばしば呼ばれるものがまず作用しはじめ、そしてそののちにいっそう明らかに把握される言葉の意味はこの事実によって微妙な影響を受ける。

 

 このリチャーズの、詩の「形式」が読者に及ぼす心理作用への注目が、後の「メディアはメッセージである」につながっていくことを予感させる一文だが、いずれにしてもリチャーズ流のこうした読者の心理状態に重きを置いたテクスト解釈が、もともと作者匿名の広告や大衆文化に向かうと読者、視聴者側の感受性が極端に誇張されて、「ユーザーがコンテンツである」、「米国のテレビ番組もカナダ人が観ればカナダの番組だ」といった、後のマクルーハンの言葉になるのである。

『探求』 、エドマンド・カーペンター

[52年急ぎ応募したフォード財団助成金で二年間四万四〇〇〇ドル獲得、これで雑誌『探求 Explorations』発行]

『探求』の編集の中心になったのは、文化人類学エドマンド・カーペンターである。(略)[トロント大学マクルーハンと]意気投合し、共同研究を始めた。カーペンターは、『探求』の共同編集者として紹介されることが多いが、実際は、一号から六号までの編集長はカーペンター一人であり、マクルーハンは(略)共同編集者の立場であった。

 カーペンターは、活力と才能あふれる編集者だった。(略)デザイン、レイアウト、印刷なども非の打ち所がなく、雑誌が平凡なものにならなかったのはカーペンターがいたからであると評価されている。七号と八号はマクルーハンとの共同編集長になっているが、『探求』の編集は、間違いなくカーペンターが仕切っていた。

(略)

カーペンターの人類学的、社会科学的なアプローチが、メディア論を「論」らしくした。マクルーハンは「論」は嫌いだったので、メディア論を辛うじて学術的な「論」にしたのはカーペンターの功績である。

 カーペンターの「メディア論」への貢献があまり語られることがないのは、マクルーハン理論の中にカーペンターの研究成果がうまく統合されてしまい、カーペンターが言ったこともマクルーハンの言葉として世の中に流布してしまったということがあろう。

ドラッカーとの交流

[1940年頃学会で無名のマクルーハンを知り興味を持ったドラッカーは自宅に招待]

彼は、いつも自分の考えていることだけに夢中になってはいたものの、楽しい客だった。しかし、二〇年以上に及ぶ付き合いの中で、一度たりとも、私が何をしているのかを尋ねたこともなければ、私の説明を聞いたこともなかったと思う。彼もまた、彼自身のことについては一度も話したことはなかった。いつも、彼は考えていることについて話した。いつも、妙なことばかり考えていた。彼は実によくわが家に立ち寄った。ほとんどあるいはまったく予告なしに、訪ねてきた。そして、ある夏の風と雷の真夜中の一時、彼はニュージャージーの私たちの家の呼び鈴を鳴らした。びしょ濡れの彼がにこにこ立っていた。

(略)

すぐに彼は考えていることを話し始めた。朝食まで話し続けた。彼がわが家に立ち寄って彼に見えるものについて話をしたのは、この夜が最後となった。あの一九六〇年代初めの六月の夜、ついに彼は啓示を受けたのだった。あの夜、彼は自分が話し続けてきたものの全貌を目にしたのだった。それを告げたくてわが家に駆けつけたのだった。その夜彼が語ったことは、彼の最も重要にして明晰かつユニークな著作、『グーテンベルクの銀河系』として世に出た。

(略)

あの嵐の夜、マクルーハンは約束の地を見つけたのだった。その後はもう聞き手は必要としなかった。(『傍観者の時代』)

カトリックへの改宗と隠喩

 マクルーハンは、宗教が「隠喩的体験」であることが分かっていた。プロテスタントが排斥した契約、秘跡、宗教的儀式、歌、音楽、教会建築の装飾、聖職者の祭服、そうした宗教的儀式と伝統のすべてが神の存在を語る隠喩なのである。

(略)

プロテスタントは信仰を理論あるいは概念であると考えた。そのプロテスタントの合理精神は、マクルーハンが最も嫌悪する「文学や芸術分野への不寛容」となって現れた。

 カトリック教会はプロテスタントが捨て去った古代文化、即ち「レトリックの知」の保護者・伝達者であった。マクルーハンカトリック教会へのアプローチは、そのまま電子メディア環境を理解する方法となった。それはマクルーハンが好んで使う「インヴォルヴメント」ということである。信仰とは客観的に理性的に理解するものではなく、全人格的な体験、インヴォルヴメントでなければならない。マクルーハン現代社会の理解の方法も同じであると考え、そのことを説明するとき、エドガー・アラン・ポーの『メエルシュトレエム(大渦巻)に呑まれて』をしばしば引用している。(略)

渦巻きにインヴォルヴされたとき、水夫は全感覚を使って、しかも楽しみながら渦巻きを知ろうとした。そうすることで渦巻きから逃れる流れを発見できた。マクルーハンは、信仰体験から学んだ知覚の働かせ方を現代社会の理解に当てはめていた。メディア社会という「自然の書物」と聖書という「書かれた書物」を並置させ、知覚を使って「知る」ことに努めたのである。

写本は「聴触覚メディア」

 宗教世界と世俗社会は、現代先進諸国では完全に分断されている。それを我々は近代と呼んでいる。(略)

中世においては、両者は地続きでもっと渾然一体となって社会の中で共存していた。現代からみれば、中世社会は迷信と宗教的儀式に縛られた不自由な時代に見える。だが、社会が世俗と宗教に今ほど分断されていなかったという意味では統合された社会であった。

 今日の両者の分離を招いたものは、政教分離令のような法律や諸制度ではなく、世俗社会における「隠喩」の喪失である。印刷文化の合理精神が日常から隠喩を奪った。印刷本以前には写本があったが、美しい装飾や図像が施された写本は近代の印刷本とはまったく違うメディアであった。写本の図像は、修辞学や口誦の文化が知識を管理するために必要とする記憶術に結びついていたが、正確に反復できる印刷の視覚的な特性は、知識を管理するために図像に頼ることを減らし、正確な言葉づかいによる科学的な記述を促した。

 マクルーハンは、『グーテンベルクの銀河系』で、写本文化が会話的であったこと、古代・中世を通して「読むこと」は、音読を、ときには誦詠すら意味していたことを、資料を示しながら詳細に説明している。

(略)

『告白』には、師のアンブロシウスの読書生活についての次のような記述がある。

 

彼が読書していたときには、その目はページを追い、心は意味をさぐっていましたが、声と舌とは休んでいました。

 

 アウグスティヌスがこう書くほど、黙読は異例なことで、この不思議な人物の読書風景を一目見ようと見学者すら出る始末だったのである。写本は一人読むものではなく、聴衆を前に声に出して歌うようにして読むものであった。文章にも精密な描写はなく、書かれていないところは読み手が身振り(ジェスチャー)で補う「聴触覚メディア」であった。それゆえ、写本は声の文化に内在する隠喩的な想像力を奪いはしなかった。それが印刷本によって、声から文字への媒体(メディア)の転換が起きた。聴覚的な動的世界は視覚的な静的世界に翻訳され、文学から、日常から、修辞的機能が失われていった。 

プラトン序説

プラトン序説

 

 プラトンが攻撃するロ誦の伝統

 プラトン解釈者たちは、プラトンの詩人に対する主張を額面どおり受け取るのをためらい、プラトンが攻撃したのは本物の詩人ではなく二等、三等の詩人であるとか、批判は本気ではないなど、現代の好みに合わせていろいろと釈明せざるを得なかった。ハヴロックは、このプラトンの詩人への激しい攻撃についてまったく新しい解釈を提示した。すなわち、プラトンの詩人への攻撃は、古代ギリシャの口誦的な精神状態に対する新興のアルファベット・リテラシー教養人プラトンの攻撃であったというのである。

 詩人は声にせよ所作にせよ、誰かに似せてせりふを語る。その時詩人はその人をミメーシス(模倣)し、その人になりきっている。その時、聴衆もまた詩人の朗誦の魔術のとりこになり、詩人と一体化(ミメーシス)する。プラトンが攻撃したのは、そうした理性を失わせるギリシャの口誦の伝統(教育制度)であった。

(略)

ハヴロックは、ギリシャ人の「詩を記憶する並外れた能力は、客観性の完全な喪失を犠牲にしてしか得られなかった」と述べている。

 プラトンはそうしたミメーシスがもたらす心理状態を「劣ったもの」、「イデアを遠ざけるもの」として攻撃しているのである。

(略)

 文化史家のワイリー・サイファーは(略)『文学とテクノロジー』で、プラトンらアルファベット識字人間がミメーシスの心性を失っていく様を次のように説明している。

 

ホメーロス風の詩は元来、聞き手が一個人としての自意識などほとんどもたず、物語られる事件と自分を全く同一化するような儀式的場において語られ、歌われたものであることに疑問の余地はないように思われる。この種のミメシスは舞踏への参加にも似た協同体的経験、「流行病」性のメセクシスであった。しかし、アルファベットを用いたテクストの出現によって、この感情移入的状態は禁じられ、読者はそこから自らを孤立させ、それを距離をおいて見つめるといった文学を与えられることになる。彼は読みながら考える。そこで批評能力が活動しはじめる。読者自身の自我意識が介入してくれば、本来の聴覚的=運動神経的反応は美的判断によって、ある程度封じられる。たとえば読者はこう自問する。この人物の行ないは筋が通っているだろうか、このエピソードはありうべきことであろうかと。こうなれば、読者はもはや自分が読んでいるもの合体することはない。

 

 『国家』が書かれた目的は、ギリシャの教育制度を独占してきた詩人たちから、その支配権をプラトンら「哲学者」が奪いとることにあった。

(略)

 プラトンが攻撃のターゲットにしているのは、詩人が語っている内容ではない。詩人のコミュニケーション様式そのものである。彼が批判しているのは詩人という「メディア形式」による効果(メッセージ)なのである。プラトンイデアとは、ギリシャ社会を脱部族化するために、口誦の伝統のなかに記憶された知恵のエンサイクロペディアを、書かれた言葉によって視覚的に組織化し、カテゴリー分けした知識に配列し直すことであった。

次回に続く。

 

文学とテクノロジー (高山宏セレクション〈異貌の人文学〉)

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