ファンクはつらいよ その3

前回の続き。

《Motor Booty Affair》

俺にとって《Motor Booty Affair》は、ビートルズの絶頂期のようなものだった。最も野心的かつ多彩で、今でも再発見されるに相応しいアルバムの最右翼だ。

(略)

野心的なサウンドや多彩なスタイルだけでなく、プロジェクト全体に広がるユーモア、コミカルな自己認識も似ていたと思う。そうなると、ビートルズに例えれば、このアルバムは俺たちにとっての《Sgt. Pepper's》ではなく、《Yellow Submarine》なのかもしれない。俺が思うに、映画『イエロー・サブマリン』は、ビートルズのレコード同様、文化的な常識を覆した。大人のテーマと所感を子ども向けに料理し、ナンセンスを極めた記念碑的作品だった。映画の中に登場する怪物は、海にいる魚を吸い込むと、次は海底全体を吸い込み、さらには自分自身まで吸い込んでしまう。《Motor Booty Affair》に生息しているのも、この手の生き物で、そこには滑稽な闇がある。このアルバムで、俺たちは皆、俺たちなりのイエロー・サブマリンに住んでいたのだった。

LSDの再来

一九七九年の暮れ、リムジン運転手の女性とコカインをやっていると、彼女が俺の方を振り向き、「これ、試してみて」と言った。その手に握られていたのは、フリーベース(クラック)のパイプだ。俺はパイプを受け取り、試してみた。パイプを吸った瞬間、LSDの再来だと思った。あまりに心地良く強力で、まるで射精したかのような気分になった。最初の恍惚が終わると、一刻も早くまた吸いたいと思った。しかし、最初に感じた恍惚を再び味わうために、どれほどの時間をかけることになるか、そしてそのために、どれほどの代償を払うことになるか、当時の俺には知る由もなかった――わかるはずもなかったのだ。

音楽ジャンル〈ファンク〉の確立

《Uncle Jam Wants You》の本質は、生き延びるために必死で闘っている音楽のリスナーを募集するポスターだった。俺たちは、ディスコに完全屈服することなしに、ダンス・ミュージックを生かし続けようとしていた。

(略)

 俺たちは戦時体制に突入していた。(略)〈(Not Just)Knee Deep〉が大ヒット・シングルになると思っていたものの[ワーナーには宣伝する気がなかった]

(略)

俺たちがファンク・バンドを出せば出すほど、他のレーベルやプロデューサーも、俺たちのサウンドに似たファンク・バンドを作った。それはそれで良かった――模倣は最大の賛辞なのだから――しかし、俺たちは大きな目標を見据えていた。陳列棚のスペースについて考えていたのだ。俺たちは当時、ソウルやR&Bとは別に、ファンクのスペースをレコード店に設けたいと話していた。俺たちの構想は、ひとつの音楽ジャンルとしてファンクを独立させ、そのジャンルを埋め尽くす、というものだった。(略)[だが]ワーナーは主に、俺たちの影響力を制限することにしか興味がなかったようだ。彼らは、モータウンのようなレーベルの誕生を危惧しており、Pファンクは、この種の問題を引き起こす最有力候補だった。こうした考えには先例がある。七十年代前半、メジャー・レーベルは、自社の利益の大部分をブラック・ミュージックが稼いでいることに気づいた。コロムビア・レコード・グループは、モータウンのような企業にこうした利益が流れる理由を解明しようと、ハーヴァード・ビジネス・スクールに研究を依頼した。この研究結果は、長い間出回っていた。そしてこれは、ブラック・ミュージック企業の動きを止めるための作戦帳となった。

(略)

 一方が上がると、他方が下がる。時折、パーラメントファンカデリックの関係はシーソーのように感じられた。パーラメントが《Mothership Connection》から《Motor Booty Affair》まで好調を維持した一方、ファンカデリックは《Motor Booty Affair》と同時期にリリースされた《One Nation Under a Groove》で、一気に飛躍した。当時、俺はパーラメントのアルバム一枚につき、六十万ドルから七十万ドルの前払金を手にしていた。大半のソウル・アルバムよりも多額で、ポップ・アルバムに匹敵する額だ。それでも、ニュー・アルバムの制作に着手すると、波が引いていくような気がしてきた。これが音楽業界のシステムだ。計画的に流行を発生させ、衰退させる。レコード・ビジネスは、そうやって運営されている。これは、他のビジネスでも同じことだ。

スライ・ストーンデヴィッド・ラフィン

 一九七九年のクリスマス頃(略)俺は農場を買った。(略)その冬、俺はスライ・ストーンと親交を深めた。(略)

これまで、スライと俺が顔を合わせたのは、通りがかりやツアー中の楽屋だけだった。一緒にツアーをしていた時ですら、友人として一対一で膝を突き合わせて話したことはなかった。しかし、ニューヨークではきちんと話をする時間があり、即座に意気投合した。俺たちは、同様の関心を持ちながらも、異なった世界観を持ち、同様の技能を持ちながらも、異なった歴史を持っていた。音楽から政治、ドラッグ、さらにはスターダムという奇妙かつ歪んだ心理状態に至るまで、あらゆることを語り合った。俺が駆け出しの頃、スラィは世界の頂点を極めていた――彼はアイドルであり、アイコンだった。そして、ポップ・ミュージック界にとどまらず、世界に燦然と輝く光のひとつだった――しかし、七十年代はPファンクとその他のアーティストの時代となり、スラィは若干衰えを見せた。とはいっても、彼自身の凄さは相変わらずだったため、むしろ音楽市場が彼から遠ざかったのだろう。いずれにせよ、彼は勢いを失い、その状況からカムバックする自信を欠いていた。彼は、世間に鼻っ柱をへし折られたと自覚しており、そのことばかり与えていた。パーティの最中、スラィは俺に問いかけた。「なあ、お前の仲間うちで、俺がもう大スターじゃないって、俺をからかえるヤツは誰だ?」。

「そう考えてるヤツはあまりいないなあ」と俺は答えた。

(略)

そして、スライが農場にやってきた。彼は常に、何らかの苦境に陥っていた。この時は、コネチカットの売人から逃げていたはずだ。一時、誘拐されていたなんて話すら耳にしたこともある。俺は彼に、好きなだけ泊まっていいぞと言った。結局、彼は一年滞在した。朝は一緒に魚を釣り、それからハイになり、昼食を取り、さらにパーティを続ける、という暮らしをしていたものだ。少なくとも、一緒にいた時間の半分はハイになっていたが、レコーディングもしていた。この時にレコーディングした音源は、途轍もないものだった。スラィは何もせず座っている時でも、いきなり目を開けて、誰も考えついたことのないような才気溢れる歌詞を口に出し、こちらを驚かせることがあった。スライとレコードを作るのは初めてだったが、俺は感銘を受けると同時に、謙虚な気持ちになった。あんなにも多彩な個性が奇妙に入り混じった人物に、俺は出会ったことがない。彼は底抜けに面白く、無頓着でワイルドだと思えば、細かいところにまでこだわりを見せた。そしてアレンジとプロデュースにかけては天下一品の腕を持っていた。

(略)

ある日の午後、家にいるには天気があまりに良かったので、スライと俺はドライヴに出かけた。五分ほどして、スライがこう提案した。「デヴィッドを誘おう」。デヴィッドとは、テンプテーションズのリード・シンガーだったデヴィッド・ラフィンのことだ。(略)

俺たちはドラッグ・ディーラーの家へと向かった。到着直前、俺は現金を持っているのかとスライに尋ねた。彼に持ちあわせはなかった。スライがデヴィッドの方を見ると、デヴィッドも肩をすくめた。現金を持たずにドラッグ・ディーラーの家を訪ねるというのはよくあることで、だからこそ、信用を築くことが大切だった。家の前に車を停めると、俺たちはスライを交渉役として中に送り込んだ。彼は如才なく、最高に口が達者だ。(略)「ツケでいいぞ」と売人は言った。「都合してやるよ。 今忙しいから、ちょっと待っててくれ」。俺たちは、外のポーチに座り、良い天気の中くつろいでいた。(略)

「待ってんのが問題なんだよ。イライラしねえか?」とデヴィッドは言った。(略)「なんでこんな扱い、許してるんだよ?」。

(略)

「何が望みなんだよ?テンプテーションズ並みに速く動けってワケか?」と俺は言った。

(略)

 何百回となくドラッグを買ってきた俺だが、あの時のことをよく考える。 あの日、最終的にデヴィッドを救ったのは――そしておそらく、あの時期の俺たち全員を救ったのは――金欠という状況だった。皮肉なことだが、真実だ。クラックは、とにかく金がかかる。だからこそ、人はクラックに支配される。そしてクラックは、人をジャングルへと陥れる。

(略)

 それから間もなくして(略)ホール&オーツは、デヴィッドとエディ・ケンドリックスを迎えて《Live at the Apollo》をレコーディングし、大ヒットを記録した。(略)

しかし、これがデヴィッドを破滅させた。再び金を手にした彼は、捕食者の標的となったのだ。(略)死因は薬物の過剰摂取と伝えられている。

スライの狂気、「スターになってもいいか?」

 スライのようになりたいと思う者は大勢いた。例えばリック・ジェイムズ。彼がやったことの半分以上は、スライの間接的な模倣だ。しかし、あの種のクールさを醸し出せるのは、マイルス・ディヴィスとスライのふたりしか存在しない。

(略)

「クレイジー」は偉大さの必須条件だ。しかし、本当にクレイジーである必要はない。俺はクレイジーに振る舞うが、実際のところはかなり正気に近い。しかし、スライは演技などしていなかった。彼は自身の才能を信じていただけでなく、自身の偉大さも信じていた。そして、彼は大半の場合、極めて好人物だったが、金とドラッグが絡むと平気で人を利用した。もちろん、彼はあまりに頭が切れたため、人を騙そうとはしなかった。単刀直入に利用してもいいかと相手に尋ねるのだ。ドラッグを買いたい時――おそらくドラッグ・ディーラーや女性の前で格好つけたかったのだろう――彼なりの尋ね方があった。彼は「スターになってもいいか?」と言うのだった。

 彼に金を貸したら、返ってこないかもしれない。それを覚悟しなければならなかった。スライに金を貸すということは、金をあげるということで、こちらも、彼と同じことを彼にやり返さなければならなかった。俺は「わかったよ。でも来週は俺がスターだからな」と言っては彼を笑わせたものだ。

(略)

[車椅子に乗った女性から「いい加減、しっかりしないとね」と言われたスライ]

 しかし、その女性は間違ってはいなかった。スライはいい加減、しっかりしなければならなかったのだ。特にライヴに関してはそうだった。スライのパフォーマンスで、観客が盛り上がらないことも多く、彼はステージに出るのを拒むことすらあった。実のところ、彼は何かやるよう指示されるだけで、必ず正反対のことをやった。気の乗らない彼をステージに上げるためには、殺すぐらいしか方法はなかった。

 俺はスライとほとんど真逆だった。マディソン・スクエア・ガーデンで『Motor Booty Tour』の初演が中止の危機に晒された時、俺はスカスカになったクルーを率い、最小限のメンバーでショウを敢行した。スライは、あまりに実直な俺をよくからかった。「ジョージには、リトル・ワンがたくさんいるんだ」といつも言っていた。

(略)

俺は、不満を間違えた方向にぶちまけることはなかった。興行主が理不尽でも、観客に八つ当たりはしなかった。スライは俺のそんなところに感心していた。彼も冷静でいたいとは思っていたが、それができなかった。しかし、マイルス同様、特別域にいて、誰よりも高いレヴェルにいた。ふたりの才能はあまりに圧倒的で、欠点も見逃された。彼らは何をやっても許されたのだ。

 スライと俺は、ドラッグの使い方も違っていた。俺はドラッグで有名だったが(略)その使い方は常に地味だった。これは子どもの頃から同じだ。他の少年たちは本物の不良だった。しかし俺は、皆で店を強盗するとなっても、警察が現れる前に必ず現場を離れた。そんなことで捕まったら、父親にお仕置きされるからだ。そして考えてみると、俺は実際に強盗を働く必要などないことに気づいた。強盗をやろうとしているヤツらと一緒にいるところを見られればいいだけだ。ドラッグも同じだった。俺はハイになったが、決して中毒にならないよう心していた。俺は翌日も働けるよう、妥当な時間に眠りにつきたかった。それに、ドラッグに骨の髄までしゃぶられながらも、さらにドラッグを求めるなんて、我慢できなかった。

キャピトル・レコードと契約

 俺はドラッグに耽溺し、身を落とした。(略)レコード会社はPファンクを牽制すべく力の限りを尽くし、俺はドラッグに溺れていたせいで、それを阻止することもできなかった。当時、最高のアドバイスを必要としている時に俺が頼ったのは、ネニ・モンテスだった。彼と縁を切ることはできなかった。(略)気がつくと、仕事が全くなくなっていた。

(略)

 どん底の状態にあった時、テッド・カリアーという男が、ネニに仕事の話を持ってきた。テッドはキャピトル・レコードのブラック・ミュージック部門を率いており、俺とブーツィーにプロデュースしてほしいバンドがいるという話だった。バンドの名前はイグゼイヴィア。(略)彼らは、俺たちが任務を遂行できるか確信を持てなかったため、俺たちを綿密に監視するという条件を出したのだ。俺たちは直球のファンク・レコード〈Work That Sucker to Death〉を書き、同曲はキャピトルにとって大きなヒットとなった(略)

 しかし、イグゼイヴィアのシングルとは名ばかりだ。曲の真っ只中で、俺がブーツィーに呼びかけている声が聞こえるはずだ。PファンクのパーカッションにPファンクのギター、PファンクのチャントにPファンクのエネルギー。これは、生粋のPファンクだ。

(略)

〈Work That Sucker to Death〉のヒットのおかげで、数カ月のうちにキャピトルとのソロ契約が決まった。

(略)

誰かがマイルス・デイヴィスの名前を出すと、テッドは「そいつは誰だ?」と尋ねた。俺たちは笑ったが、彼がふざけているわけではないとわかると、笑いも途絶えた。キャピトル・レコードのブラック・ミュージック部門でトップを務める男が、マイルス・デイヴィスを知らないとは。車を降りた後、スライは俺の方を振り返ると、こう言った。「おい、あの野郎、ナメきってやがるな」。

 確かにそうかもしれなかったが、それでも俺は契約を結ぶ必要があった。こうして俺は、キャピトルとアルバム四枚契約を交わした。いつものごとく、曲は準備できている。俺はふたつのプロダクション・グループを使ってレコーディングを行っていた。ひとつのグループは、ジュニー・モリソンが率いていた。(略)俺がジュニーと作った楽曲は、《One Nation Under a Groove》と《Electric Spanking of War Babies》用にレコーディングした楽曲の延長線上にあったが、装飾やサウンド・エフェクトをさらに凝らしていた―――八十年代は、鮮やかな色彩と派手なニューウェイヴの全盛期だったのだ。

(略)

ジュニーと仕事をしをていない時、俺はゲイリー・シャイダーとデヴィッド・スプラッドリーとレコーディングしていた。(略)

おかしな話だが、スタジオにやってきた俺が、ふたりの働く姿を見て、取り残された気分になることもあった。(略)

あまりにも酩酊していたところに、ドラッグも切れかけていたため、ふたりが俺なしでプロジェクトを進めているのではないかという被害妄想に陥った。(略)クラックをやると、こんなザマになるのだ。(略)監督は俺だと言わんばかりの態度を取り、「俺はここにヴォーカルをいれるからな」と事務的な口調を装った。(略)

[パーカッションだけのトラックにフリースタイルの語り口調で自由連想駄洒落のオンパレード]

 そう、これは有名な犬の話

 自分の尻尾を追いかける犬は、そのうち目を回す

レッド・ホット・チリ・ペッパーズ

 トミー・ボーイ・レコードの創始者、トミー・シルヴァーマンは、ニュー・ミュージック・セミナーというミュージック・カンファレンスをスタートし、一九八四年に俺をスピーカーとして招待した。(略)

セミナーの後、ある若者が俺のところにやってきて、自己紹介した。

(略)

[ZEP]がブルースを取り入れたように、イギリスのグループがファンクを地球のポップ・ミュージックへと変化させるだろう(略)この若者は、俺の見解に反論した。彼の見解は、俺が彼のバンドのアルバムをプロデュースすれば、そうした状況は避けられる、というものだった。彼は、アンソニーと名乗った。そして彼のグループは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズといった。俺は彼と握手を交わし、準備ができたら俺の農場に来るよう言った。それから約二カ月後、バンドが俺の農場を訪れた。

(略)

息子のトレイシーがロサンゼルスにいて、成長著しいファンク・シーンや、フィッシュボーンのようなバンドについての噂を聞いていたのだ。ペッパーズも同じサークルにいた。ファンもついており、ミュージシャンシップもカリスマも備えていた。

 俺は次第に、アンソニーの持論が正しいのではないかと思うようになった。アメリカ出身のペッパーズが、ファンクを大衆に届けるグループになりえると思いはじめたのだ。レコード会社は、ファンクを真のメインストリームへと持ち込めるよう、白人グループと契約したがっているようだった。

(略)

 ペッパーズは白人の若者だったため、政治的な意見を率直に述べることもできた。年長のソウルやファンクのバンドなら、それは許されなかっただろう。この頃、俺はラジオ・アーティストとして自らのイメージ・チェンジを図っていたため、アンソニーが言っているようなことを自分でも言えるとは思えなかった。ファンカデリックがデビューした当時の若い俺ならば、そういった発言ができたかもしれない。しかし時代は変わった。 年を重ね、チャートにも入っていた俺には、バンドメイトやファンに対する責任も負っていた。俺が率直な政治的発言ができる時代は、終わりを告げた。

(略)

俺はペッパーズが大好きだった。彼らとは最高に楽しんだ。まるで、ファンカデリックに新加入した若手メンバーからエネルギーをもらっていた七十年代前半のようだった。俺は間違いなく、メンター、教師、父親代わりといった存在だった。俺は自分の経験を洗いざらい語り、彼らが自分なりの結論を出せるよう計らった。そして、ニュージャージーのバーバーショップで語っていたのと同じジョークを彼らにも語った。

 その後、彼らは行いを改めたが、ヘロインに嵌っていたのと全く同じように、まっとうな生き方に嵌った。彼らは、度を越えた健康志向になったのだ。九十年代半ば、俺たちはドイツでペッパーズと再会したが、彼らはジュースやら豆腐やら生乳やら、健康食品に凝りまくっていた。ビースティ・ボーイズも同じだ。俺たちとツアーをしていた頃の彼らは、この上なくワイルドだったが、後年は仏教徒の僧侶をツアーに同行させていた。

ヒップホップ

 《R&B Skeletons in the Closet》は、俺がヒップホップと真っ向から向き合った最初の作品だった。《Uncle Jam Wants You》をリリースした直後から、俺はヒップホップを意識していた。特にニューヨーク・エリアでは、子どもたちがラジカセを持ち寄り、バックグラウンド・ミュージックに合わせてラップしはじめていた。ヒップホップはジャマイカのトースティングと若干の繋がりがあり、ダズンズとも結びついていた。ダズンズとは、俺が物心ついた頃から子どもたちが遊び場でやっていた、コミカルな悪口合戦だ。俺はラッパーたちのエネルギーが好きだった。また、彼らが単純な音楽と複雑な言葉遊びを組み合わせるところも好きだった。さらに、ターンテーブルは楽器だという考え方も気に入っていた。

(略)

そして、ヒップホップはファンクの生命線でもあった。音楽は年々変化していた。変化を受け入れなければ、変化に背を向けられてしまうものだ。ラップがヒップホップへと成長すると、既存の曲の基盤を使い、ソウルやファンクをサンプリングすることで、新しい曲を作るという、さらなる要素が加わった。ヒップホップは、俺たちに復活のチャンスを与えてくれた。ヒップホップのサンプリング以外に、どこで自分の曲が聴けるってんだ?ケイテルの懐メロ・コンピレーションぐらいしかないだろう?初期のラップはPファンクから派生したが、それは好都合だった。

(略)

 その後、ラップから多額の金銭が発生したが、それでも俺が注視していたのは、ラップの独創的な側面だ。(略)

時折、ヒップホップというジャンルは、天才を輩出し、俺は耳をそばだたせた。はっきりと覚えている最初の出来事は一九八七年、誰かにエリック・B&ラキムの〈Follow the Leader〉を聴かされた時だ。その時点までに、俺は多くのラッパーを聴いていたが、あのレコードを聴いて、全く身動きが取れなくなった。まさに、「何じゃこりゃ?」な瞬間だった。クールなフロウに乗せたあのレコードのリリックは、俺がニューヨークで何年も前に聞いたファイヴ・パーセント・ネイションの説教のようだった。ファイヴ・パーセンターがチャントする時、彼らは知識を加える。ラキムはあの声の抑揚を完璧にマスターしていた。そして彼の言葉には、多彩な意味が幾重にも込められていた。彼の言葉はストリートかつ詩的で、機知と思慮に富んでいた。俺はあのレコードを聴いて、自分は音楽業界で何も成し遂げてはいなかったと感じ、「俺も一からやり直さなきゃ」と思った。しかし、最高の気分だった。まるで、引退していたボクサーが復帰するかのような気分だ。指先から興奮が溢れ出さんばかりだった。

 最初から俺の心を掴んだもうひとつのヒップホップ・グループは、パブリック・エナミーだ。サウンドは、上向きに融合すれば音楽になり、下向きに分解されれば混沌になる。そして音楽と混沌は、同じ線上にある。〈Bring the Noise〉を聴いた時、彼らがそれを理解していることがわかった。自分が作っているものが騒音だと認めているということは、すでに音楽の作り方を完全に理解する過程にいるということだ。彼らには、ヴォーカルと音響があった。彼らは冒頭から「ベース、どれだけ低く出せる?」と言っている。Pファンクで俺たちは、いつもギターを低くチューニングし、できる限り深いヴァイブレーションが出せるようバーニーのシンセサイザーを設定していた。また、彼らにはコンセプトがあった。「俺は銃など持ったことがないって、ヤツらに言ってもいいか?」という台詞は、犯罪者はいかに作り上げられ、社会は自らを守るために、いかに敵を特定するかを語る、トップレヴェルの思考だ。さらに彼らの感性は、Pファンクを成功に導いた感性と共通点を持っていた。パブリック・エナミーはコンセプト・アルバムを作り、傘下にアーティストを擁していた。そして最重要なのは、自分たちの商品が深刻になりすぎることなく、それでも真面目に受け入れられるよう、その取り扱い方法を心得ていたことだ。

プリンス

 八十年代半ば、本物のファンクをやっていたスターは数少なかったが、その中で最高に格好良かったのはプリンスだ。

 彼はPファンクを熟知しており、俺たちと同じ手法もいくつか試していた。二バンド形式のバランスを信じており、それを自分なりの解釈で行うと、レヴォリューションとザ・タイムを対抗させた。また、ザ・ファミリー、シーラ・E、ジル・ジョーンズといったアーティストのソングライティングとプロデュースも行っていた。さらに、声のピッチを上げたプリンスの分身的なキャラクター、カミールは、スター・チャイルドを若干彷彿とさせた。

(略)

[デビューを控えたプリンスに]ワーナー幹部が《Ahh… The Name Is Bootsy, Baby》をかけると、プリンスは身を凍らせたそうだ。このままではリリースできないと、彼は自分のアルバムを持ち帰り、さらに八カ月をかけてアルバムを完成させたという。

 ワーナー・ブラザーズのモー・オースティンによれば、プリンスは俺を称賛し、エルヴィス、ジェイムズ・ブラウンと肩を並べるアーティストだと言っていたそうだ。

 八十年代前半、俺もプリンスに感服していた。《Dirty Mind》や《1999》の後に、その思いはますます強まった。(略)俺たちがファンカデリックでやっていたことを、ロックやニューウェーヴでアップデートしていることがわかったのだ。特に《1999》は、ピッチを上下させたヴォーカルや、大衆向けのシングルと斬新な実験曲の混合、さらにはジャケットに至るまで、俺たちと共通点があった。

(略)

 俺が《Cinderella Theory》制作のためにミネアポリスを訪れた時、プリン スは挨拶をしにスタジオに立ち寄ったが、レコーディングにはあまり顔を見せなかった。俺がきちんと仕事を終えられるよう、最適な状況を与えようと努めてくれたのだ。プリンスと一対一で接触するのは、大半が深夜だった。俺がひとりホテルでハイになっていると、プリンスから電話を受け、自宅に招待されるのだった。こうして、彼の家で一緒に話をしたものだ。

 俺は昔から陰謀に興味を持っていた。(略)当時、陰謀論者が惚れ込んでいた本がある。ミルトン・ウィリアム・クーパーの『Behold a Pale Horse』だ。俺は、あの本を大声でプリンスに読み聞かせた。ただし、大真面目にではなく、半分ふざけながら読んでいた。俺は陰謀を信じていたが、陰謀を信じてしまうと、何も信じられないという状況を引き起こす――だから、俺は「陰謀」というよりも、「陰謀論」を信じていた、といった方が正しいだろう。

(略)

 プリンスは俺の朗読を聞きながら、質問することもあれば、冗談を言うこともあった。彼があの本についてどう思っていたのか、はっきりとはわからない。俺はプリンスの前ではドラッグをやらなかった。彼に敬意を払いたかったからだ。クラックを吸いたくなったら、俺はパイプを持ってトイレに行き、そこでクラックをやった。プリンスはドラッグをやらないと常に言っていた。確かに俺も、彼がドラッグをやる姿を見たことはない。だが、少なくともコーヒーぐらいはキメていたはずだ。俺が知る限り、午前五時半に寝て、午前八時に元気溌刺で起きられるヤツなど、プリンス以外いない。

サンプリング使用料

[デ・ラ・ソウルのデビュー・アルバムが大ヒット]トミー・ボーイは(略)十万ドルを支払った。当時の俺たちは、この支払いが原盤使用に対するものなのか、音楽出版権に関するものなのか、よくわかっていなかった。まだ何のルールも定まっておらず、サンプルに関する勘定方法もきちんと理解されていなかったのだ。

 他のラップ・アクトも、俺たちに金を支払ってきた。

(略)

 俺たちは、新しいシステムの活用方法を模索しているところだったが、アーメンはすでに一歩先んじていた。(略)彼の戦略とは、もっと訴訟を起こすことだった。彼はパブリック・エナミーを訴えた。(略)三百万ドルというとんでもない額が請求された。アーメンの秘書だったジェーン・ペトラーは MTVに出演し、俺の代理としての訴訟だと説明していたが、それは事実無根だ。俺はチャック・Dフレイヴァー・フレイヴとともにMTVに出演し、サンプル使用に異存はないと話した。これにより、訴訟は取り下げられた。

(略)

アーティストが俺たちの楽曲をサンプリングし、そのレコードが大して売れなければ、アーティストも俺たちに大金を支払う必要はない。しかし、そのレコードが五十万枚から百万枚の売上を記録した場合、使用料は五万ドルとなり、百万枚以上の売上の場合は、十万ドルとなる。俺はそんなことを大雑把に考えていた。もちろん、もっと細かい計算方法もあっただろう。それならそれで、俺は受け入れたと思う。俺が受け入れられなかったのは、全てを裁判に訴え、お役所や悪意と結びつけることだった。

(略)

[MCハマーのサンプル使用料を回収]する過程で、俺たちはワーナーが俺たちのカタログの所有権を主張していたことがわかった。また、アーメンが《Mothership Connection》収録の楽曲だけでなく、パーラメントファンカデリック、さらには俺の名前が登場する全楽曲の音楽出版権を主張していることもわかった。俺たちがさらに書類を調べると、ワーナー側に緊張が走った。彼らは、その場での回答を控え、後で折り返すと言った。その後、ワーナーはアーチーに電話をかけてきたが、彼らは喧嘩腰だったうえ、木で鼻を括るような態度をとった。しかし、過去の記録をしらみ潰しに探していくと、どうやらワーナー・ミュージックは、チャペル・パブリッシングを買い取ることで、俺たちのカタログを取得したようだった。そして、チャペル・パブリッシングの楽曲には、ポリグラムとリックズ・ミュージックの楽曲も含まれていた(略)しかし、契約書の様々な条項を調ベても、ポリグラムは俺たちのカタログを売却する権限など持っていなかった。俺たちは、カタログがどのように売却されたのかをポリグラムに問い合わせた。するとポリグラムは、俺の委任状を取得して著作権をレーベルに譲渡し、それをワーナー・ブラザーズに売却したと答えた。奇妙な行為がまかり通る、奇妙な時代だった。

 サンプリングの法的問題にまつわる金銭水準を大幅に引き上げたアルバムは、ドクター・ドレーの《The Chronic》だ。

(略)

[アーメン]は手当たり次第に訴えを起こしただけでなく、和解内容を誠実に公表しなかったため、アーティストを萎縮させた。ネニはアーメンに異議を唱えたが、ネニ自身も自分が所有しているカタログについて、正直に話そうとはしなかった。そしてふたりは、裁判所でカタログの管理を巡り、争いを始めるのだった。

 一方で俺は、自分が知る唯一の方法で事態を収拾しようとした。(略)一九九三年、俺は《Sample Some of Disc, Sample Some of DAT》と題した三枚組ディスクをリリースした。同作は、Pファンクのレコードから抽出したキーボードの旋律やホーン のパート、ギターのリフやドラムのブレイクなどを数百ほど収録している。これは、楽曲使用料を回避したサンプリング・キットだった。アーティストがこの中のサンプルを使用する場合は、俺たちが作った料金表に基づき、代金を請求するという手筈になっていた。自分の収入源が脅かされるため、アーメンはこの作品に激怒し(略)無許可のサンプルを集めた作品だと主張したのだ。

(略)

 ヒップホップがPファンクに与えた影響について、俺は複雑な感情を抱いている。ヒップホップのおかげで、Pファンクの音楽が再び耳目を集めた。それは間違いない。しかしそのせいで、全てに再び値札がついてしまった。つまり、俺から金を巻き上げることに強い関心を持っていた人々が、再び大挙して押し寄せたというわけだ。(略)

俺が弁護士を雇って調査を依頼するたび、その弁護士は寝返り、反対側から俺に手を振るのだった。ドラッグさえやっていなければ、道を踏み外さずに済んだだろうか?それはわからない。

(略)

 今日に至るまで、俺はレコード会社からきちんとした支払いを受けていない。しかし、問題はラッパーにあるわけではない。

(略)

 ラッパーは皆、俺が個人的に彼らを訴えたことがなく、今後もそれは起こりえないということを知っている。

マスター・テープ

 プライマル・スクリームとの仕事中、俺はいつものように音楽業界誌を読んでいた。すると、ファンカデリックのアルバムの広告が出ていた。《Hardcore Jollies》、《One Nation Under aGroove》、《Uncle Jam Wants You》、《Electric Spanking of War Babies》の四枚だ。四枚ともワーナー・ブラザーズのアルバムで(略)どういうわけか、今度はプライオリティ・レコードから再リリースされることになっていた。なぜワーナーがきちんと保管していない?俺はネニに電話をかけたが、彼は俺が驚いていることに驚いていた。ネニは、自身が主宰するテルセール・ムンドのもと、俺に代わって四枚の原盤を管理していると言った。しかし、彼が原盤の譲渡について話せば話すほど、俺には覚えのないことに思えてきた。ネニは嘘をついている。俺もアーメンもそう思った。そしてネニとアーメンは、原盤の所有権について闘いはじめた。

 振り返って考えると、この事件にきちんと注意を払い、綿密な調査をすべきだったと思う。俺のエネルギーは、《Hey Man… Smell My Finger》の興奮と、ワーナー・ブラザーズの宣伝不足による苛立ちに費やされていた。また、クラックでもエネルギーを浪費していた。次のクラックをいつ手にできるのか、もしクラックが入手できない場合には、どんな困難が襲いかかるのかをるのかを心配しながら、俺はジャンキーにありがちな行動を取っていた。しかし、じっくり腰を落ち着けてプライオリティから再リリースされたアルバムの状況を考えることができた時でも、事態は曖昧で不透明だった。確かに、マスター・テープは俺が持っていた。

(略)

[どうやら]プライオリティが使ったのはマスター・テープではなく、ワーナー・ブラザーズの元社員の妻が同社からレコードを盗んで作ったデジタル・テープだった。アナログ盤からデジタル・テープを作ったアルバムもあったようだ。プライオリティから再リリースされた作品を聴いてみるといい。右トラックの音量が異様に大きいのがわかるはずだ。

《Dope Dogs》

俺はニュー・アルバム《Dope Dogs》の制作に着手した。俺はこの頃までに、ヒップホップを大量に聴いており、いくつかのスタイルには、特に強く感化された。俺はボム・スクワッドがパブリック・エナミーで作っていた音楽が大好きだったため、昔のPファン ク・レコードをサンプルして、彼らと同じことを自分でもやりはじめた。ただし、有名なサンプルは使用しないよう努めた――すでに他のアーティストが使い尽くしていたからだ。こうして俺は、アウトテイクやレア・トラック、ライヴ・トラックからサンプリングを行った。俺は最も手のかかる方法で、アルバムを自らプロデュースした。三、四秒のループを曲の最初から最後まで流した後、ループの中で使用しないパートをミュートしたのだ。もっと洗練された方法でソース楽曲を扱うこともできただろう――ボム・スクワッドは外科的に曲を切り刻むと、最大のインパクトを与えたい箇所にそのサンプルを乗せ、その過程で、オリジナル楽曲を変化させることもあった――しかし、俺にはそれをやるスキルもなければ、興味もなかった。俺はむしろ、ピクサーがやっていることなど理解できない、昔気質のディズニーのアニメーターに近かった。手作業しなければ気がすまなかったのだ。

(略)

 俺はループを作ると、ブラックバード・マックナイトを呼び、ループの上からギターを弾かせ、そこにバーニーのオルガンを乗せた。(略)他のミュージシャンもスタジオにやってくると、同じことをやった。こうして、現代から過去に敬意を示したというわけだ。

 

ファンクはつらいよ その2

前回の続き。

ジミ・ヘンドリックススライ・ストーン

 俺たちのインスピレーションの大半は、ロックン・ロール、とりわけロックに革命を起こしていた黒人アーティストを深く吸収することによってもたらされた。最大のインスピレーションとなったのは、もちろんジミ・ヘンドリックスだ。

(略)

[ジミの1stは]壮大で革新的だった。四十七年後の今でさえ、完全理解が困難なほどの先見的な特質を持っており、それはまるで、宇宙からメッセージが発せられているかのようだった。ジミと共演する機会はなかったが(略)

[チェンバース・ブラザーズのパーティで遭遇]

俺たちは圧倒された。彼は内気でソウルフル、控えめながらも実に魅力的だった。

 ジミが最初の雷鳴だとすれば、二番目の雷鳴はスライ・ストーンだ。(略)

彼は、クラブで何年もギグをしてきたアーティストのように、洗練されたR&Bを作ることもできれば、最高にハードなロック・バンドのように、サイケデリックな演奏もできた。ジミ・ヘンドリックスはロンドンで新たなサウンドを見出したが、スライはサンフランシスコで同じ事をやっていた。

(略)

スライには全てを吸収する能力があった。スライは、ビートルズと同じことができた唯一のアーティストだ。ビートルズには四人いたが、彼はひとりでそれをやってのけていた。初期のスライは、俺に多大な影響を与えた。彼は何年も俺に影響を与え続けていたが、後に俺のコラボレーターとなり、音楽的パートナーとなった。

ファンカデリック

ソウル・サーキットだけでなく、未知の領域だったロックン・ロールの会場でも公演を行った。黒人アーティストの中で、俺たちのような音楽をやっている者はいなかった。〈Time Has Come Today〉を一九六八年の秋に大ヒットさせたチェンバース・ブラザーズのようなバンドは、チャートを賑わしていたが、その音楽は極めてポップだった。(略)

ウォーは、素晴らしいサウンドを作っていたが、その中にはラテン音楽やジャズまで入っており、ストレートなロックではなかった。天才のスライですら、主にポップの領域で活動しており、大抵の場合はチャート・ヒットを狙っていた。

 俺たちはロックへと一直線に突き進み、大きく開花した。最初から、俺たちのステージはクレイジーだった。ファンカデリックがスタイルを確立する前、俺たちはウェスト・ヴィレッジ流に着飾りはじめていた。(略)

〈Music for My Mother〉がヒットした後のツアーでは、バカげていればいるほど良いとばかりに、とことん奇抜な格好をした。俺たちは、小道具を売る店に足を運び、アヒルの足や、鶏の頭を買った。つばの大きなアーミッシュ調の帽子もあった。そして俺は、ステージ上でおむつを履きはじめ、ある時はホテルのタオル、またある時はアメリカの国旗を使っておむつを作っていた。しかし、ステージ衣装で最も過激だったのは、バンドの全員が奇抜な格好をしていたわけではないという点だ。数人はそうだったが、カルヴィンのようなメンバーは、未だにスーツを着ていた。観客側から俺たちを見ると、あらゆる要素が衝突していた。想像できる限りのあらゆるスタイル、さらには予想外のスタイルまでが、一度にぶつかりあっていたのだ。

(略)

バンドには、ヘンドリックス並みの爆音で演奏できるギタリストが二、三人おり、バーニーは、キング・クリムゾンさながらにクラシック調の彩りを添えていた。

(略)

あまりに広いジャンルで公演をブッキングしていたため、俺たちは次第に、観客の層に合わせて演奏することを覚えた。観客が最新のダンスに興味を持つティーンエイジャーの場合は、アップテンポで曲を演奏する。新しい考え方にまだ馴染むことができない黒人が大半を占める観客を前に、ジャッキー・ウィルソンやチャック・ジャクソンの前座として演奏する時には、ラジオ向けの長さで曲を演奏し、〈Testify〉に遡った他、〈Gypsy Woman〉や〈Knock on Wood〉のカバーをやる。また、フィルモアのような会場の場合は、観客にミュージシャンが多いこともあるため、エディやバーニーにソロの腕前を披露させるといった調子。最も寛大だったのは、グレイトフル・デッドのようなバンドのファンで(略)俺たちが情熱を傾けて演奏さえすれば、白いTシャツでステージに上がっていてもかまわなかった。

インヴィクタスと契約

こうした背景の中、ファンカデリックは変貌する文化の寵児となった。デトロイトでは、俺たちはスライよりも人気があった。デトロイトでの俺たちは、ビートルズさながらで、誰もが前途有望だと認めるヒップなバンドだった。俺たちがトゥエンティ・グランドで公演をすると、観客の中にはジーンズとミンクのコートに身を包んだモータウンの人々が大勢いた。俺は下着もつけずにシーツ一枚の姿で、ステージから彼らのテーブル に歩み寄ると、ドリンクを頭からかぶって、彼らをからかったものだ。当時の俺は、坊主刈りにした頭に、ペニスと星の絵を描いていた。王様が道化師を面白がるように、モータウンの人々も楽しんでいた。俺が公演中、ベリー・ゴーディダイアナ・ロスに小便をひっかけたという噂もあったが、それは坊主頭にかけたワインが流れて、シーツにこぼれ落ちていただけだ。

 俺たちはヒッピーで、ヒップだった。その理由のひとつは、ビジネスの経済的側面の変化を理解していたことにある。サム・クックの時代、R&Bシンガーにとって最大の野望は、コパカバーナ公演や、ラスヴェガスの大クラブでの公演で、それが想像しうる最高地点だった。しかし、ロック・バンドは皆、マディソン・スクエア・ガーデンを満員にしている。なぜ俺たちはローリング・ストーンズになれない?なぜ俺たちはクリームになれない?肌の色の違いだけならば、それは俺たちにとって問題にはならなかった。俺たちは、最高に格好良い曲と、最高に騒々しいギターにと、最高のシンガーを擁していたのだから。

(略)

 反体制という地位を確立し、それが利益を生みはじめると、体制側の人間が、新たな投資を狙って近づいてくる。(略)

[ホーランド=ドジャー=ホーランドがホット・ワックスとインヴィクタスを立ち上げるためにモータウンを去ると、ジェフリー・ボーエンも一緒に退職]

ファンカデリックのシングルがヒットしはじめ、デトロイトとその周辺でナンバー・ワンを獲得すると、ジェフリーはすぐさま俺に連絡してきた。「ザ・パーラメンツを再始動して、ポップ・アルバムを作ろう」と。

(略)

俺はインヴィクタスよりもホット・ワックスと契約したかった。というのも、ホット・ワックスは、業界でも屈指の独創性を持つニール・ボガートが運営していたからだ。彼と運命をともにすれば、俺たちは成功する。俺はそう確信していた。しかし、インヴィクタスはキャピトルが配給しており、キャピトルは白人ロック・アクトを多数擁し、ブラック・ポップ・バンドの獲得にも熱心だったため、俺たちはインヴィクタスに配置された。ほとんど間髪を入れずに、俺たちはザ・パーラメンツからパーラメントへと改名した。

(略)

 インヴィクタスでのアルバム制作は、まるでコメディのようだった。モータウンでは、ベリー・ゴーディ(略)が出社すると、「会長がお見えになりました」とアナウンスが流れた。モータウンの出世頭だったホーランド = ドジャー= ホーランドは、新レーベルを設立すると、自らを手の届かない存在に祭り上げ、エディ・ホーランドがベリー・ゴーディの役を担った。エディは、同室している者にも直接話しかけず、ジェフリーを通して意思を伝えた。彼は権威的に振る舞い、傲慢な印象を与えたが、俺はあまり気にしていなかった。どちらにせよ、俺たちは反逆者だ。彼の偉そうな言動は、俺たちのサイケデリックな言動と同様、生きるための戦略であると、俺は悟っていた。(略)

実のところ、俺は表向きのイメージよりも遥かに控えめで、冷静で、慎重な人物だ。だからこそ、クレイジーなスタイルを貫徹することができた。

アシッドで痔、商業化されたドラッグ

 《Osmium》の(略)ジャケット写真の撮影は、最も鮮烈な思い出のひとつだ。撮影はトロントで行われた。俺はシーツだけを身にまとい、各メンバーはヒッピー風に着飾った。最も思い出深いのは、俺たちが当時、とてつもない量のアシッドをやっていたことだ。(略)肉を食べてアシッドをやると、肉にも幻覚が見えるようになる。まるで生きているかのように、肉が脈動しているように見えるのだ。あれは恐ろしかった。しかし、さらに酷かったのが、俺たちの胃の荒れっぷりだ。アシッド (酸)とは言いえて妙で、LSDは酸性だった。LSDは、消化器官を刺激し、尻も破裂させる。俺たちは当時、常人の想像を超える時間をトイレで過ごした。誰もが痔主だった。

(略)

酷く暑い日で、塩気のある汗が、皆の尻の穴に入った。阿呆どもは、赤ん坊のように泣いていた。さらに、花園には蜂がいた。あの撮影がスチール写真ではなく映画だったら、皆が恐れおののきながら、蜂に尻込みしたり、蜂を叩いたりしている姿が見られただろう。

(略)

六十年代の理想主義(略)は、ほぼ完璧な形で成熟した後、発酵しはじめた。ウッドストックが終焉だった。ウッドストックがドラッグにどんな影響を与えたかを見ればわかる。ドラッグが社会に循環する方法が変わったのだ。長年の間、ドラッグはコミューンで行われていた。ドラッグは、友達と共有するものだった。誰かがテーブルの真ん中に金を置くと、二人、三人と金を出し、四人目がその金を全て拾い上げて、皆のためにマリファナを買いに行った。誰も販売については語らなかった。販売について語られなかったため、誰もドラッグを商品と見なしてはいなかった。そのため、粗悪品や劣悪なサービスといった問題もなかった。しかしそれから、突如としてドラッグは産業となり、全てが百八十度変わってしまった。品質が大きな問題となった。

(略)

ドラッグが商業目的となると、ドラッグの良さが即座に失われた。しばらくすると、少しでも利益を増やそうと奮闘する小事業主が何千人も誕生し、彼らは利益のためなら人々に毒を盛ることすら厭わなかった。こうして、LSDの中にストリキニーネが混入されはじめた。また、娯楽用ドラッグにPCP (フェンサイクリジン)が混入された。(略)

 同じことがセックスでも起こった。フリー・ラヴが素晴らしい時期もあった。人々は無邪気に恋に落ち、セックスすることについても何ら問題はなかった。この状況は永遠に続くものではなく、ゆくゆくは誰もが仕事に戻り、結婚をして家庭を持つと、皆がわかっていた。フリー・ラヴは、素晴らしい思想だったが、それも音を立てて崩れ去った。七十年代初頭から、より恐ろしく致命的な性病が、忍び寄りはじめたのだ。

 これら全ては、社会的な運動があくまで表面的なものに留まり、権力構造には何ら変化を与えないようにするための方策だった。ピース・アンド・ラヴのメッセージは、心の底から誠実に発せられない限り、陳腐極まりない。そして一時的に、このメッセージは心の底から誠実に発せられていた。戦争は終わろうとしていた。若者文化は、耳を傾けられようとしていた。女性は尊重されようとしていた。しかし、車輪が回りはじめたことに気づいたお偉方は、その車輪を止めようと、介入したのだった。俺は今日に至っても、国務省が文化戦争終結の動きに一枚噛んでいたはずだと思っている。

《Free Your Mind》《Maggot Brain》

[ファンカデリック2ndを制作]

一方、俺はプロテスト・ソングとは別の方向に進んだ。俺には、社会的・心理的な事柄、特にその中でも生、死、社会統制といった最もシリアスな考えには、可笑しさがあるように思えた。そして、そこに留まり、喜劇と悲劇、現実と非現実の間のスペースに漂うと、一種の知恵のようなものが生まれてきたのだ。

 誰よりもこれに長けていたのは、もちろんビートルズボブ・ディランだ。だからこそ、彼らはこの時代を生き延びただけでなく、その後に起こったあらゆることの基調を定めた。しかし、代弁者としての重圧がのしかかりはじめ、ファンや記者が深遠な思想を探しはじめると、彼らはこうした重圧や期待をかわせるだけの鋭い直感を持っていたため、わざと突飛なことを言った。

 彼らは、ナンセンスから芸術を創り出した。ジョン・レノンが、ビートルズはキリストよりも有名だと言って騒ぎを起こした時も、彼は社会問題の代弁者に祭り上げられないよう、皮肉を込めて横柄にナンセンスな発言をしたのだった。彼は人々に捕まらないよう、掴みどころのない発言をした。それは彼の作品にも入り込み、〈I Am the Walrus〉のような曲にもはっきりと見て取れた。この曲が深遠なのは、誰もが浅薄であることを歌っていたからだろうか?あるいは、深遠であるという考えを物笑いの種にしていたのだろうか?それとも、人々の心をより大きく開こうとしていただけなのだろうか?ボブ・ディランも同じだった。しかし、俺が彼の流儀を理解するまでには少々時間がかかった。最初は、彼がことのほか正直に思えた。ギターを手に、鼻にかかった声で、愛と政治について歌う、ひとりの男。しかし、彼のインタヴューを見はじめると、とりわけ彼が吟遊詩人モードから抜け出した時に、彼の本質をより明確に理解できた。

(略)

また俺は、精力的に読書をした。ブラック・パンサーの本、小説、三文小説、アンダーグラウンド・コミックの他、ヒッピー時代の名作と現在考えられているベストセラーは全て読んだ。当時、特に大きな影響力を誇った本の中に、エーリッヒ・フォン・デニケンの『未来の記憶 (Chariots of the Gods)』がある。誰もがこの本を持っていた。デニケンは、ピラミッドからミステリー・サークルに至るまで、人類の歴史で最大の功績は、宇宙人が成し遂げたものであるという理論を掲げていた。

(略)

こうしたシリアスな知恵、歴史的陰謀すれすれの興味深い理論の全てが、俺の頭の中で融合した。もしくは、これらがアシッドの中で溶解したといった方が正しいだろう。《Free Your Mind..and Your Ass Will Follow》の大半は、LSDを使って制作された。ギターのサウンドやプロダクションを聴き、歌詞や曲のタイトルを見れば、それがわかるはずだ。

 またここから、本当の意味でブラック・ミュージックの新段階が始まった。

(略)

一九七〇年の夏、マーヴィン・ゲイはスタジオに入り、《What's Going On》の制作を開始した。さらに同年、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが、《What's Going On》のアンサー・アルバムともいえる《There's a Riot Goin' On》のレコーディングを開始した。《Free Your Mind》は、この新トレンドに先んじてリリースされた。

 俺もマーヴィンやスライと同様の責任を感じてはいたが、彼らとは対処の仕方が異なった。俺は皆とアシッドでハイになっていたから、テープを回し、バンドが演奏を始めると、歌詞やモノローグ、スローガンを即興で作りはじめた。

(略)

 《Free Your Mind》がリリースされたちょうどその頃、ジミ・ヘンドリックスが死んだ。これで明らかに一時代が終わった。一九六九年五月、彼はトロントにやってきて、逮捕されていた。荷物検査の際、荷物からドラッグが見つかったそうだ。しかし俺は、こっそりドラッグを仕掛けられたのだろうと思った。すぐ見つかる場所にドラッグを持つバカなどいないだろう?だから彼の訃報を聞いた時にも、俺は彼が殺されたのだと考えた。俺が思うに、彼が作っていた音楽は体制側にとってあまりにも大きな脅威となっていたのだろう。

(略)

スタジオで可能なこと、レーベルがリリースできる音楽には限界があった。しかし、《Free Your Mind》のようなレコードでは、スタジオ技術が俺の頭の中で流れるサウンドに追いつき、俺はとうとう、重く歪んだ奇妙なレコードを制作できるようになった。

(略)

俺は、スタジオをクリエイティヴな実験室として使い、サイケデリック時代のエネルギー全てを保存しようと試みた。ヒッピー文化の衰退、インナー・シティの腐敗、合法および違法な意識拡張といった外部的な現象と、内部的な状況が一体となったのが、一九七〇年終盤だ。この頃、俺たちはデトロイトのユナイテッド・サウンドに戻り、ファンカデリックのサード・アルバム《Maggot Brain》をレコーディングした。

(略)

これが不朽の名曲となったのは、曲が続く十分間の大半で聞かれるエディ・ヘイゼル のギター・ソロのおかげだ。もちろん、このソロをレコーディングした時のことは覚えている。決して忘れることはないだろう。

 エディと俺はスタジオで、恐ろしいほどハイになっていたが、自分たちの感情に意識を集中させていた。バンドはジャム・セッションをしていた。彼好みのスロウなグルーヴで、俺たちは彼のソロを始めようとしていた。彼が演奏を始める前に、俺はこう言った。母親が亡くなったかのように演奏してみろ。その日を想像し、どんな気持ちになるか、どのようにその悲しみを消化し、ギターを通じて心情の全てを表現するか?

(略)

エディは、バンドの演奏する昔ながらのスロウなジャムに乗り、ソロを弾いた。俺はトラックから他の楽器を全て取り除き、エコープレックスを四、五回かけた。こうして、演奏の面でもサウンド・エフェクトの面でも、曲全体に不気味な雰囲気が加わった。曲の冒頭にカサカサという雑音が入っているが、これは蛆虫が頭で湧いている音なのか、と尋ねられることがある。しかし、そうだとは答えられない。俺はただ、何か奇抜で新しいことをやろうとしていただけだ。画期的なエフェクトは、こうして誕生することが多かった。この数年前に、スライ&ザ・ファミリー・ストーン は〈Sex Machine〉という曲をレコーディングしていたが、スライのヴォーカルは、電子的処理を施されたかのように聞こえた。しかし実際のところ、彼は紙で覆ったトイレットペーパーの芯に向かって歌い、その声をワウワウ・ペダルに通していただけだ。また、モータウンでは、コーラの箱を踏みつけて、パーカッションの音を出していた。一方で俺は、ミキシング・ボードでエフェクトをかけながら、そのエフェクトでどんな雰囲気が出るかをモニターし続けた。

《Cosmic Slop》

 《Cosmic Slop》は、風変わりなソングライティングで政治的な曲を書くことができるという一例だ。

(略)

 俺たちが進化する中で、ブラック・ミュージックのアイコンたちは過渡期にあった。ジェイムズ・ブラウンにとっては、納得のいかない時代だった。彼は以前と同じように活動していたが、シングルに力を入れていた。ところが、シングルの市場は衰退していた。この時期の彼の作品で、アルバム全篇を通じて素晴らしかったのは、一九七二年にリリースされたアポロでのライヴ盤だけだ。ステージ上の彼は、四十代になっても相変わらず圧倒的だった。そして俺は、数多くのバンドが、彼と同じエネルギーを取り入れようと試み、全キャリアを賭ける姿を目にした。他のバンドは、バッファローのダイク&ザ・ブレイザーズ、ワシントンDCのチャック・ブラウン、ニューオーリンズミーターズと、局地的なスターだった。

 俺はこうしたバンド全ての活動を追っていたが、より広い客層にアピールすることに関心があったため、レッド・ツェッペリンザ・フージミ・ヘンドリックスといったロック・アーティストのことも念頭に置いていた。《Cosmic Slop》のレコーデ ィング中、俺は絶えずジミのことを考えていた。彼の音楽がどこからスタートし、どれほど遠くまで進んだかについて思いを巡らせていたのだ。実際、彼は《Electric Ladyland》で宇宙へと行ってしまったため、《Band of Gypsies》では地球に戻ってこなければならなかった。後者は傑作だったが、より保守的で、コンテンポラリーなR&Bを彼なりに解釈した作品だ。ジミだけではなかった。エリック・クラプトンも、クリームから戻ってくると、伝統的なロックン・ロールを作りはじめ、これがルーツ・ミュージックへと変化した。スライも宇宙にいたが、長居はできなかった。

〈Let's Take It to the Stage〉ステージで勝負だ

当時は常にバンド間で対抗意識があり、俺たちが売れはじめると、競争はますます熾烈になった。グループは、お互いに嫉妬しはじめた。アース・ウィンド&ファイアーとジョイント・コンサートをしたことがあったが、彼らは俺たちの演奏を阻んだほどだった。〈Let's Take It to the Stage〉とは、「俺たちは口論も喧嘩もしない――ステージで勝負しよう」という意味だ。借りを返すために、俺たちは他のバンドにバカげた名前をつけた。ジェイムズ・ブラウンは、ゴッドファーザーではなくゴッドマザー。ルーファスには、スルーファス。そして、アース・ホット・エア&ノー・ファイアーなんて名前もつけた。ファンカデリックは、頻繁にこれをやるようになった。他のポップ・カルチャーについて語り、競争相手を陽気に口撃する。十五年後に、ヒップホップ界で人気となることをやっていたのだ。

 ある日、俺たちはロサンゼルスのハリウッド・サウンドで、ロック・ギターを前面に出した〈Get Off Your Ass and Jam〉をレコーディングしていた。エディ・ヘイゼルは不在で、この曲でギタリストを務めたマイケル・ハンプトンは、リズム・ギターのために組み合わせたピグノーズのスタック・アンプを試していた。俺たちがテイクをひとつ終えて休憩していると、ヘロイン中毒のホワイト・キッドがスタジオに迷い込んできた。(略)演奏するから現金を融通してくれないかと尋ねてきた。「ソロができる曲はないか?二十五ドルくれれば弾くよ」(略)

準備をし、トラックをスタートすると、彼はまるで憑かれたかのようにギターを弾きはじめた。曲の全篇で、これまでのロックン・ロールを網羅したかのような演奏をし、曲が終わっても、演奏を止めなかった。俺たちは皆、驚いて目を丸くしながら、「すげえな」と声を上げた。二十五ドルの約束だったが、俺は五十ドルを渡した。それほど気に入ったのだ。彼は金をポケットに入れて立ち去った。それだけのことだった。トラックを聴きかえすと、俺はさらに感銘を受けた。〈Get Off Your Ass and Jam〉は、最高に格好の良い曲だった。(略)他の曲でも起用したいと思い、俺はこの男を探したが、彼は姿を消し、再び姿を現すことはなかった。連絡も来なかった。この曲で彼がクレジットされていないのは、彼が一体誰だったのか、俺たちにも全くわからないからだ。

エアロスミス

 Pファンクのステージ設備は、エアロスミスが一九七六年に使い終えたもののお下がりだった。俺たちとエアロスミスには、間接的な関わりがあった。バーニーは、チャビー&ザ・ターンパイクスでジョーイ・クレイマーと一緒に演奏していたし、俺たちとエアロスミスは一時期、マネージャーが一緒だったこともある。奇妙な話だが、俺は彼らをファンク・バンドと見なしていいた。〈Rag Doll〉のような後年の曲からもわかるように、彼らはリズムに合わせて、緩やかに演奏していた。彼らの他にこれができたロック・バンドは、レッド・ツェッペリンだけだ。しかし、レッド・ツェッペリンがそういった演奏をしたのはステージの上だけで、スタジオではエフェクトを駆使し、複雑な音楽を作っていた。

 そして宇宙船――これは、俺の期待以上の出来だった。五十年代後半から六十年代前半のアメ車に、児童公園にある遊具と巨大な昆虫を混ぜたような外観で、見事だった。宇宙船の底部から手品師のキャビネットのようなブラック・ボックスに入ると、エレベーターが上昇する。スモークが激しく焚かれて照明が眩く光る中、俺は階段の頂上から登場するのだ。宇宙船は壮観だった。ソウル・ミュージックでは、お目にかかれない代物だった――さらにいうなら、ロックン・ロール でも前代未聞だった。それはまるで、趣向を凝らしたブロードウェイのミュージカルのよう、もしくは、数十年後のラスヴェガスのショウのようだった。

興行主とラジオDJ

 俺たちは、他にも革新を起こした。従来のシステムは、興行主とラジオDJが金銭的な責任と利益を分かち合っていた。ラジオDJは、コンサートを主催してはいけないことになっていたが、俺たちは、そのシステムを出し抜く方法を彼らに教えた。彼らの妻に興行主の免許を取らせたのだ。(略)

これによりラジオDJは力を与えられ、俺たちと喜んで仕事をするようになった。

(略)

 それでも問題は生じるもので、ちょっとした論争が起こった。俺たちがマザーシップとツアーを始め、そのライヴの観客動員数が多いことが明らかになると、公平性が欠如していると嘆きはじめる人々が現れた。彼らの考える公平性の欠如とは、主に人種の話だった。アトランタのある集団は、俺たちが黒人興行主を使っていないという理由で、俺たちのショウで抗議行動をしようと、公民権運動家のホセア・ウィリアムズを雇った。(略)

[調査にやってきたホセアに]彼が知らなかったことを話した。俺たちは大きなアリーナやスタジアムで公演をするようになると、チケット一枚につき二十五セントをユナイテッド・ニグロ・カレッジ・ファンド (黒人大学連合基金)に寄付するようになり、それを何年も続けていたのだ。また、コンサートには何万人もの観客が動員されるため、金額も大きくなっていた。ホセア・ウィリアムズはその事実を知ると、ブリーフケースを閉じて立ち去った。「ここには何もない」。彼はそう言った。

 それでも、粗探しは終わらなかった。白人の興行主は逆の面で憤慨していた。俺たちが抗議隊のプレッシャーに屈し、黒人の興行主しか雇わなくなるのではないかと心配していたのだ。全員をなだめ、それと同時に自分たちのやりたいことをそのまま続けるために、俺たちはダリル・ブルックスとキャロル・カーケンドールを雇い入れた。ワシントンDCでタイガー・フラワーという会社を経営していた黒人男性と白人女性だ。

(略)

[キャピタル・センターの]周りで抗議行動をしていた男性と話をつけた。Pファンクに抗議したところで何の得にもならないことがわかると、彼は今後、抗議者が出た時の対応を手伝うと申し出てくれた。政治同盟のほとんど全てが、結局はこんなふうになる。敵対する人物はいるかもしれないが、なだめて仲間に引き入れることもできるのだ。誰もがパンを持ち、好みの面にバターを塗りたがる。全ては、これに気づくかどうかの問題なのだ。

 その後、九十年代に、マイケル・ジャクソンの父であるジョー・ジャクソンの家で首脳会談が行われた。ジャネット・ジャクソンは白人の興行主ばかり使っていると怒りを買い、ボイコットの話まで出ていた。俺たちはミーティングに到着して話を少し聞くと、アーチー・アイヴィーが登壇し、意見を述べた。「俺たちもこれに賛同したい。俺たちはもちろん、ブラック・ビジネスの味方だからな。しかし、この部屋を見回してみても、お前らのうちの半数が、俺たちにきちんと金を払ってないじゃないか。これじゃあ、ジャネットに反対したり、彼女の選択の自由を否定したりする気にはなれないな」。

ファンク、カサブランカ、ドラッグ天国

突如として、ファンクはメインストリームのポップ・ミュージックな会話にも登場するようになった。限られた規模ではあるが、以前もこれと同じことが起こった。スライがクロスオーヴァーし、ポップ界のスターとなった時だ。しかし、スライは先駆者であると同時に天才で、彼自身が独自のジャンルだった。実際のところ、七十年代には誰もファンクにはなりたくなかった。少なくとも、ファンクとは呼ばれたがらず、誰もがポップやクロスオーヴァーになりたかった。その理由は、ジャンルによって予算が決まったからだ。イギリスのロック・グループはアメリカに進出すると、予算を増やした。しかし、黒人アーティストの場合、予算は比較的少なかった。《Mothership Connection》と《The Clones of Dr. Funkenstein》では妥当な前払金を手にしたが、ロック・バンドには遠く及ばなかった。俺たちは黒人アーティスト向けの予算を“ジュニア・バジェット”と呼んでいた。

 《The Clones of Dr. Funkenstein》の後、金回りは良くなった。俺たちは、チャートの常連であることが証明されたのだ。パーラメントの次作で、ファンク人気はさらに高まるだろう、と誰もが考えていた。 しかし、この新たな環境を活かすことのできないバンドも存在した。例えばオハイオ・プレイヤーズは、俺の大好きなバンドだ。ずば抜けた才能に恵まれ、ホットなグルーヴと、見事なライヴ演奏の手腕を有していた。しかし彼らは、バンドの成長期に大観衆の前で定期的に演奏していなかったため、大ヒットを放ってレコード制作のために多額の金をもらうようになっても、より大きな会場での演奏に適応することができなかった。(略)

俺たちと一緒にヒューストンのサミットでコンサートをした時、彼らは小さなコラム型スピーカーを持ってやってきた。振ると反響するようなスピーカーだ。彼らは、会場がどれだけ大きくてもそのスピーカーを使うと言い張ったが、それはまるで、アリーナの中央に高校の体育館を置くようなものだった。

 俺たちは、他のバンドに対してある程度のライヴァル意識を持っていた。少なくとも、常に周囲を見回し、ライヴァルの動向を意識していた。当時、俺たち以外で最大の黒人グループは、アース・ウィンド&ファイアーだったが、活動内容は大きく異なっていた。彼らは早い時点でハードなファンクを諦め、クロスオーヴァー・ポップへと鞍替えしていた。しかし、 それでも俺たちのマザーシップを作ったジュールズ・フ ッシャーを雇い入れると、ステージで使うピラミッドをデザインさせていた。その他には、キャメオやリック・ジェイムズなど、俺たちと一緒にツアーすることもあった新進アーティストや、ファンク・バンドとして再出発したバーケイズのようなヴェテランのソウル・グループがいた。

 そんな俺たちにも、ライヴァルのいない場所がひとつあった。カサブランカの内部だ。カサブランカには、モータウンのような社内プロデューサーはいなかった。ジョルジオ・モロダードナ・サマーをプロデュースし、ケニー・カーナーとリッチー・ワイズはキッスをプロデュースし、俺たちは俺たちでプロデュースした。このように、重複がなかったため、モータウンのような競争はなかった。その代わり、他のアーティストは同僚のようだった。社内で偶然顔を合わせる機会もあったが、俺たちはお互いを祝福し、キッスがハードロック、ドナがディスコを制覇する様を感嘆しながら見守っていた。こんなことができる環境が整ったのは、主にニールのおかげだろう。彼はあまりに行動が速く、頭も切れたため、彼についてこられるレーベルなど存在しなかった。また、セシル・ホームズからジーン・レッドに至るまで、レコード・ビジネスについて業界内でも屈指の知識を誇るヴェテランを擁しており、社内基盤も整っていた。

 クリエイティヴな面でも、財政的な面でも、あらゆる面において、カサブランカは真の成功例に思えた。あらゆる面の中には、もちろんドラッグも含まれる。カサブランカは、ドラッグ天国だった。コカインを鼻から吸引しながら、電話の応答をしていたほどだ。しかし、当時は特におかしな行動でもなかった。 あの頃、コカインは日常の摂取物だった。ハリウッドもやっていた。ウォール街もやっていた。市井の人々もやっていた。レコード会社の重役と昼食に行けば、食事の途中で重役はポケットからコカインの瓶を取り出し、テーブルに瓶の中味を出して吸引していたものだ。昼食の席でも、全く公の場でもそうだった。

(略)

ミュージシャンの大半は常時マリファナを吸っており、そのうちの少数はヘロインやエンジェルダストのようなハード・ドラッグをやっていた。最高のドラッグは、クエイルードだった。これはコカインと並んで、カサブランカの皆がやっていたが、セックス用のドラッグだ。あのドラッグをやると、セックスがしたくなる。幸運にも、クエイルードで一晩過ごせる時には、まさしくセックスで夜を明かすことになった。若くて美人の秘書やバックアップ・シンガーと親密になるだけでなく、不細工だと思っていた女でも、クエイルードを飲めばすぐに股間が疼きはじめ、そんなことは全く気にならなくなるのだ。(略)すぐさま勃起できたし、勃起せずに射精することもできた。女性陣もクエイルードを大いに気に入っており、「714」と印刷された小さな錠剤で、楽しい時間は約束される。しかし、クエィルードは忽然と姿を消し、どこにも見あたらなくなった。一時的にレモンと呼ばれるメキシコ産の代替品が出回ったこともあったが、本物のクエイルードの効果には及ばない。俺にはどうしても、政府がクエイルードを消したとしか思えない。あそこまで効果のあるものは、消えてなくなるものなのだ。

(略)

ロックン・ローラーは、ショウの後に気分を鎮めたり、思考を拡張したり、もしくは女と楽しむためにクエイルードを愛用した。しかしちょうどその頃、ディスコが台頭しはじめる(略)

俺がすぐさま気づいたのが、ディスコ・ピープルはファンキー・ピープルとタイプが違うということだ。ファンキー・ピープルは貧しい人が多い一方、ディスコ・ピープルは金持ちのパーティ愛好家だった。異性愛者もいたが、多くが同性愛者で、大半が物質主義者だった。金持ちがパーティすると、退廃的になる。あまりにも金があり、欲しいものは何でも買える。あまりにも多くの物を手に入れすぎて鈍感になり、ドラッグやセックスでは満足なハイを味わえなくなるため、特別待遇を受けることでハイになるのだ。

 ディスコの台頭で、俺はそんなことを感じはじめた。パーティ会場には、メルセデスランボルギーニが四台並んで停まっていた。また、ドラッグをやっている金持ちは、あらゆる意味で注文が多いことに気づかされた。彼らは最高のセックスとドラッグを要求し、一刻も待ってはいられなかった。彼らはポッパーのようなドラッグを好んでいた。俺たちもバーバーショップ時代にポッパーを試したことがある。当時は処方箋なしで購入できたのだ。ポッパーとは心臓用の薬、アミル・ニトライトだった。このドラッグの作用を知らずに試せば、自分がおかしくなったと思うことだろう。汗をかき、毛穴が開き、三十秒ほど爆発的な快感が訪れる。ディスコ・ピープルはこれをセックス用のドラッグとして使っていたが、ポッパーにはクエイルードのようなクールさやセクシーさはなかった。激しくて、少し危険。手早いセックスのためのドラッグだ。

 俺の本質は未だヒッピーだったため、ディスコに興味を引かれることはなかったが、ディスコに楽しませてもらうこともあった。

(略)

 ドラッグは問題だったが、問題だと思わなければ、問題にはならなかった。同じことがセックスにもいえた。当時、自分は性的倒錯者なのではないか、セックス中毒なのではないか、と誰もが心配しはじめ、高額な精神科医に通いはじめていた。それがハリウッドの流行だったのだ。何か異常なところはないものかと願いながら、誰もが精神科医にかかっていた。俺自身も、セックスを専門とするハリウッドの精神科医のもとに通った。ソングライティングの助けになるかもしれないと、女医と会話をして情報交換をしていたのだが、蓋を開けてみると、どんな患者よりもこの女医が一番の色情狂だった。彼女は異常な状況や環境に精通しており、誰かが特に異常な話をすると、その話で興奮を味わっていた。彼女の名前は教えられない。患者と医師の守秘義務というやつだ。

次回に続く。

ファンクはつらいよ ジョージ・クリントン自伝

パーラメンツ、フィル・スペクター、マンボ

俺の勤労意識が父親譲りだとすると、俺の音楽愛は母親譲りだ。父親は教会に通い、趣味でゴスペルを歌っていたが、四六時中働いていたため、本格的に音楽活動をする機会はなかった。(略)父親は、日曜歌手だったのだ。一方、母親は大の音楽好きだった。彼女は家で一日中音楽をかけ、一緒に歌っていた。(略)

母親はイースト・オレンジで、ワーウィック牧師が所有する食料品店の隣に住んでいた。ワーウィック牧師は、プルマン式寝台車のポーターから料理人を経て、ゴスペル・レコードのプロモーターとなった人物だ。彼はディオンヌ・ワーウィックの父親でもあった。俺たちが母親のもとを訪れると、ワーウィック家の子どもたちはいつも近所で遊んでいて、ディオンヌだけでなく、シシー、ディー・ディー、家族全員と知り合いになった。

(略)

パッツィー・ホルトという少女をリード・シンガーに配した(略)ブルー・ベルズも好きだった。(略)パッツィーは当時から極めて力強い声を持っていた。後にローレンス・バラードの後釜としてスプリームスに加入したシンディ・バードソングも、ブルー・ベルズに在籍していた。数年後、パッツィーがパティ・ラベルに改名し、俺がヘアドレッサーになると、俺は彼女のヘアを担当することになる。

(略)

俺の名前に因んだストリート、クリントン・アヴェニュー(略)はエセックス・レコーズというレコード店があり、俺は放課後、同店の清掃係として働いていた。当時、レコードの返品はあまり一般的ではなかった――売れなかったレコードは、レーベルに返品されず、店の裏のゴミ箱に捨てられていたのだ――(略)

俺はそのうちの数枚を自分のものにし、白人のドゥワップ・グループや、白人ロッカーのレコードは、学校に持って行って売っていた。こうして俺は一時期、マディソン・ジュニア・ハイスクールのレコード王となった。

そして、『アメリカン・バンドスタンド』が始まると、突如としてアーティストの容姿を確認する手段ができた――驚いたことに、アーティストの中には白人もいた。しかし、五十年代半ばは、誰もアーティストの人種など知らず、気にしてもいなかった。自分の心を動かす音楽で踊り、自分をより大きく感じさせてくれる音楽を手に入れていたのだ。リトル・リチャードは、俺が白人の生徒に売っていたレコードの中に入っていた。俺は一枚につき十五セントを稼いでいた。ジェリー・リー・ルイス(略)も、人々の心を動かしたアーティストだ。俺のお気に入りでもあった。(略)

ジェリー・リーは本当にファンキー、阿呆かと思うほどファンキーだった。彼はノってくると、最高の演奏をした。

(略)

 フランキー・ライモンは、マイケル・ジャクソンだった。本物のマイケル・ジャクソンが登場する十五年前のことだ。幼いフランキーは、未来からやってきたかのような子どもで、誰もが忘れることのできない声とステージ上の存在感があった。(略)

一九五五年頃、フランキーはティーンエイジャーズという新たなグループで〈Why Do Fools Fall in Love〉をリリースしたが、これは俺の世代の目を覚ます曲だった。考えてみると、彼はマイケル・ジャクソン以上の存在だったかもしれない。おそらく彼は、エルヴィス・プレスリーマイケル・ジャクソンを合わせてひとつにしたような人物だったのだろう。

(略)

フランキーは俺よりもほんの少し年下だったが、ほぼ同い年だった。

(略)

俺たちは十四歳で、音楽をやることで何を得られるか――格好良いと思われ、女子に好かれ、学校のソーシャル・ライフで主役になること――を即座に悟った。東海岸全体のあらゆる学校で、同じ現象が起こっていたはずだ。ティーンエイジャーズがヒットすると、必然的に誰もが歌った。誰もが、歌だけに専念した。

 重要なのはヴォーカル・アクト。プラターズサム・クックといった類の人々だ。バンドで演奏する者など、皆無だった――ジャズは古すぎる。俺たちもジャズを聴いてはいたし、ありがたいとも思っていたが、ジャズはきちんと理解できない時代遅れな音楽だった。実際、俺の住む地域で訓練を受けたミュージシャンとなると、俺もウェイン・ショーターと、ラリー・ヤング・ジュニアのふたりしか知らなかった。

(略)

[ウェイン]の名が売れてきたと評判になりはじめた頃ですら、その奇妙さは相変わらずだった。彼が練習する音がよく聞こえてきたが、俺たちには全く理解不能だった。あのホーンも、俺たちには破裂音にしか聞こえなかった。

(略)

ヴォーカル・グループの大半は、鳥、車、煙草から名前を取っていた。俺は煙草の銘柄を選んだが、喫煙者ではなかった。というのも八歳の頃、煙草を吸っているのを父親に見つかり、キャメルを一箱吸わされて以来、煙草が苦手になったのだ。(略)

それでも、危険かつ大人の香りがする煙草は、シンボルとして格好が良いと思った。パーラメントは人気ブランドだったため、俺たちはザ・パーラメンツとなった。

(略)

俺はスモーキー・ロビンソンのスタイルに、プーキー・ハドソンの趣を混ぜてみた。セカンド・リードだったファジーハスキンズは、ウィルソン・ピケットのように荒々しく、ブルージーな抑揚をつけて歌うソウルフルなテナー。カルヴィン・サイモンはデヴィッド・ラフィンのようで、グレイディ・トーマスは低中音を担当した。そして、最も低い声を持つレイ・デイヴィスは、ベース・バリトンだった。

(略)

五十年代後半、俺はコルピックスのソングライターとしてニューヨークに出入りするようにはなった。

(略)

 俺は自分の書いている曲に注意を払っていたが、他の人々が書く曲にも気を配っていた。また、メロディーや歌詞だけでなく、曲の売り込み方法にも興味をそそられていた。

(略)

 フィル・スペクターを例に挙げてみよう。彼は、ビルボードやキャッシュボックスといった音楽誌で、全面広告枠を購入するという手法を取った。一ページあたり二千ドルはしただろう。当時としては大金だ。(略)

俺を仰天させたのは、買い取ったページの使い方だった。彼はページの真ん中に小さな点を置いただけで、あとは空白のまま残したのだ。第一週目は、小さな点と、下部に自身のフィレス・レコードのロゴを配しただけだった。翌週には、点が大きくなり、その翌週には、さらに点が大きくなった。まるで世界で最も遅いアニメのように、同じ時間、同じ場所に登場した点は、最終的にはフィルがリリースする新しいレコードの絵柄となった。この手法を使うには、先見の明と資金力、そして大きな自信と創造力、さらには度胸が必要だ。俺にとって、マーケティング・コンセプトは、音楽そのものと肩を並べるほどに重要だった。

(略)

音楽に対する人々の反応を理解するという点に限れば、もうひとつ俺に大きな影響を与えたのが、音楽とダンスとしてのマンボだった。五十年代、マンボは俺たちのディスコのようなものだった。誰もがお洒落をし、スーツを着て、マンボ・シーンへと繰り出した。現在、テレビで流行っているダンス・コンテストのように、一般人がダンスフロアで実力を発揮すると、一躍有名人になった。マンボは、世界の共通言語だった。マンボは、ギャングの喧嘩すら止めた。踊りの上手い美女は、ギャングの境界を越えて、ダンス・パートナーを見つけることができた。

(略)

実のところ、未だ叶えられていない俺の野望のひとつは、ラテン音楽の巨匠、ティト・プエンテの名曲〈Coco Seco〉をレコーディングすることである。(略)原曲を忠実にカバーし、大声で歌い上げるつもりだ。

 街を観察し、あらゆる音楽を聴き、ブリル・ビルディングに通う。これが、俺にとっての大学教育だった。六十年代前半のある時期、陸軍から戻り、ヒット曲を探していたエルヴィスが、新曲を選びにやってくるという噂が流れた。(略)

[落ちぶれていたオーティス・ブラックウェルが一番手で〈Return to Sender〉をプレゼンすると]他のソングライティング・チームは全て、各々のファイルを閉じて帰宅した。

 他の人々が皆、作った曲を引っ込めざるをえない曲を作る。俺はこの考えを気に入った。また、俺はデトロイトにあるモータウンの動向にも大いに注目していた。こうして俺は、頭の中でシンガーからソングライターへと転向した。五十年代後半から六十年代前半まで、他人に曲を書いたり、自分のシングルをリリースしようと奮闘したり、曲作りの技術を学んだりと、俺はできる限りのことをやっていた。

(略)

もう少しというところでいつも、俺たちは成功を逃していた。六十年代前半に大ヒットを出していたら、どうなっていただろう?俺は時々考える。

フラフープ工場、バーバーショップ

情熱で金は稼げなかった。とりわけ、俺は養う家族のいた身だ。(略)自分は今、成功と失敗の分かれ道にいる。そう感じていたものの、無一文も同然だった。靴に穴が開いているどころか、靴の穴に穴が開いているぐらいの困窮ぶりだった。そんな時、フラフープ工場が街にやってきた。一九五九年のある日、リチャード・ナーとアーサー・メリンというカリフォルニア出身の男ふたりは、あるアイデアを思いついた(正確には、ふたりだけではないのだが)。彼らはワムオー社の創立者で、四十年代後半に設立された同社は、トリネコの木からスリングショット(パチンコ)を作っていた。社名は、パチンコ玉がターゲットに命中する音に由来している。約十年後、スリングショットでは立ち行かなくなり、同社は新製品を探しはじめた。

ある夜、ディナー・パーティで、オーストラリア出身の男が(略)オーストラリアの遊びの話をした。子どもたちが竹製の輪を腰でグルグル回して運動するというものだ。ワムオー社のふたりは、これならアメリカの子どもたちにも流行るかもしれないと(略)明るい色で彩られた大きなフラフープの製造方法をすぐさま開発した。

(略)

爆発的な人気を博した。四百万ものフラフープが、四カ月で売れた。(略)

こうして一九五九年、ほぼ一夜にして、ニュージャージー州の俺の自宅近くに工場が建てられた。これより少し前、俺はアウトローズというギャングにいた――ここでいう「ギャング」とは、一緒につるむ男の集まりを意味するにすぎない――そして俺たちは皆、フラフープ工場へ行って仕事を得た。(略)

幸運にも、アウトローズはフラフープを手早く製造する方法を発見した。六歳から八歳ぐらいの子どもたちなら、フラフープの製造工程を楽しむだろうと読み、彼らを取り込んだのだ。フラフープは、長いプラスチックの一片から作り出された。プラスチックの両端を持ち、それを真ん中で合わせたら、フラフープの出来上がり!子どもたちはフラフープ作りを大いに楽しんだため、アウトローズはタイムカードを押したら、仕事は子どもたちに任せ、後で戻ってくるだけだった。あまりにも多くの子どもたちが工場で作業したため、製造過剰になり、俺たちは製造ペースに対応するため、二番目の倉庫を借りる必要に駆られたほどだ。その時、組合が俺たちのやっていることを嗅ぎつけ、俺たちの「子ども十字軍」を閉鎖しにやってきた。しかし、俺たちは組合も追い出した。規制など御免だった。年かさの組合員が数人、フラフープをホチキスで留める作業のために残ったが、これは子どもには危険な作業だと判断してのことで、それ以外は、アウトローズの子どもフラフープ工場は魔法のように功を奏した。

(略)

じきにワムオー社は、ドイツのフランクフルトに工場を移転し、俺はまた職にあぶれた。

(略)

バーバーショップでの仕事だ。(略)床を掃き、店主のために店の戸締りをし、ちょっとした商売を学ぶといった地味なものだ。(略)

俺はいくつかのヘアスタイルを得意としていた。そのうちのひとつがクオ・ヴァディス――サイドは短く刈り込み、トップを高くする、きりっと引き締まった髪型だ。

(略)

バーバーショップで働きはじめてまもなく、ミスター・ホワイトが死んだ。俺は一番多くの顧客を抱えていたため、店を引き継いだ。他の床屋は椅子を使う場所代を俺に支払い、彼らが一ドル稼ぐたびに、俺はその中から二十五セントを徴収した。俺は店をシルク・パレスと改名すると、カーテンを使って優雅な雰囲気を添え、洗練された店にした。バーバーショップは繁盛し、椅子は常に埋まり、棚には商品が取り揃えられた。

(略)

当時、ブラック・ヘアの中ではストレートが流行していたため、俺たちはストレート・パーマを多く手がけていた。 シンガーからピンプ、牧師に至るまで、ストレート・パーマをかけたがった。

ドラッグ、偽札120万ドル

 五十年代半ば、ドラッグはそこまで流行っていなかった。もちろん、マリファナは常に人気だったが、五十年代が終わる頃、大きな変化が起こった。ドラッグの種類が変わったのだ。 変化は、ギャングの没落後に起こった。これに伴い、路上での凶悪犯罪が急増した――殴り合いだけではない。特に仲の良かった俺の友人は、ショットガンで殺されてしまった。ギャング時代が終わる頃、ヘロインが登場した。ヘロインは、瞬く間に流行した。俺の妻の兄弟ふたりはヘヴィーウェイト級ボクサーで、どちらもヘロインで刑務所に送られた。ヘロインは、とりわけ若年層に蔓延した。ダイナーや校庭、映画館に入れば、 ヘロインをやっている者たちを目にした。地元の陸上チームは、世界屈指の速さを誇ったが、酷い有様だった。リレー選手のうち二、三人がヘロインをやっており、競技前の準備中に、ひざまずいてハイになっていたのだ。誰かが大きな声をかけなけれいば、立ち上がらないほどだった。七十代の老人も、ティーンエイジャーも、ヘロインをやっていた。

(略)

信じられないほどの蔓延ぶりだった。俺たちは、「昨日は誰が死んだ?」と訊いて、人々を苛立たせていた。この問いが、朝の挨拶だったのだ。

 ヘロインをやっていない人々ですら、いかにもヘロインをやっているといった表情を練習していた。(略)

ハイに振る舞うことが、粋だとされていたため、ヘロインをやっていようがいまいが、誰もがヘロインのやり方を知っていた。ヘロイン中毒者は、寝ている時でも、起きている振りをする。皆がそれを真似していた。

(略)

 ある日、俺が客の髪を仕上げていると、ジャージー・シティから来た痩せっぽちのホワイト・キッズふたりが店に入ってきた。(略)

ふたりは、怯えた調子で少し世間話をすると、カウンターに箱を置き、中身を見せた。道理で怯えていたわけだ。箱の中には、二十ドルの偽札が、百二十万ドルほど入っていた。(略)

俺たちは彼らの話を聞くと、偽札全てを二千ドルで買い取った。(略)

 紙幣は明るい緑のインクで印刷されたピン札だった。使い古した風情を出そうと、俺たちは札束をコーヒーに浸した。その後は、札束を平らにならし、バーバーショップの裏の壁に貼りつけた。(略)

実際に、この偽札は流通した。俺たちは地元で、そして旅先で偽札を使った。俺は、三千ドルもする新しい椅子を床屋に備えつけた。ニューヨークのレコーディング・スタジオ代も、この札で賄った。ミュージシャンには偽札だと告げながら、二百ドルの代わりに千ドルを支払った。彼らは気にも留めない様子だった。連邦政府紙幣に対する信頼は絶大なのだ。たとえそれが本物でなくても。

 この頃、街ではドラッグがらみの大量逮捕が行われていた。(略)

[サム]は、店に入り浸っては、皆と楽しくやっていた常連だった。(略)

ある朝、五時半頃だろうか、俺たちは店内で、偽札をコーヒーに浸し、くしゃくしゃに丸め、平らにして干すという一連の作業をしていた。するとそこに、州警察の制服を着たサムが現れた。(略)彼は、覆面警官として任務を行っていたのだ。彼はその日、店に留まると、三十人ほどをドラッグ使用のかどで逮捕した。(略)

彼は俺たちには甘かった。というのも、俺たちが近所の子どもたちにしていたことを認めていたからだ。俺たちは、子どもたちの好きなように音楽を聴かせ、彼らに安全な場所を提供していた。サムは床屋全員を見回したが、壁に貼りつけてある偽札を見上げることはなかった。しかし、見上げまいとするその姿勢は逆に、どの眼差しよりも緊張感に溢れていた。「賢者へ一言」と彼は言った。「この界隈で、怪しい金が出回っていると聞いた。俺がその金について何か知っている人物だったとしたら、その金を処分するだろうな」。そして彼は、帽子を取って挨拶し、出て行った。その瞬間、俺は関係者に電話をかけ、金を処分しろと命じた。「こっちには持ってくるなよ。もう要らないからな」。残金はたくさんあった。二十万ドルぐらいだろうか。俺たちは、いわゆる再販経路を通じて、その金を処分した。

 それから二、三年経った頃だろうか。新聞を読んでいると、通貨偽造の罪で刑務所に入っていた老人の記事を見つけた。その老人は、孫たちがジャージー・シティで印刷版と大量の偽札を見つけ、それを持ち去ったと話していた。

スモーキー・ロビンソンの凄さ

 五十年代が終わる頃、ドゥワップを愛する者たちは皆、ドゥワップの衰退を察知していた。ドゥワップが消えていく様を見るのは悲しかったが、同時に楽しみな気分にもなっていた。俺たちは、次なる大ブームを待ち構えていたのだ。

(略)

 モータウンは、他のレーベルとは全く違っていた。社長は、ベリー・ゴーディ

(略)

モータウンの出す曲全てに俺は魅了された。しかし、レーベルをさらなる高みへと引き上げたのは、スモーキー・ロビンソンだ。(略)

 スモーキーに対して俺が抱いていた感情は、愛を超えたものだった。俺は、彼を研究対象としたのだ。彼は化け物のようなソングライター、当代随一のソングライターだった。彼は、フックや言葉遊びを山と用意していたが、どういうわけか一曲の中で全ての帳尻を合わせることができた。彼は、途轍もないシンガーでもあった。そして、途轍もないグループを持っていた。モータウン初期、ミラクルズは誰をも魅了した。

(略)

俺を虜にしたのは、多彩なアーティストとの仕事ぶりである。彼は、しかるべき曲を提供し、特定の方向へとイメージ作りをすることで、すでに地位を確立したグループをさらにレヴェルアップすることができた。スモーキーは、変幻自在の男、魔術師だった。彼は、他のアーティストが必要とするものを見極め、それを与え、後ろに控えると、自身のヴィジョンが実現する様を眺めていたのだ。

(略)

スモーキーがテンプスを手がけると、グループは一段レヴェルアップした。スモーキーが彼らに〈My Girl〉を提供すると、たちまちテンプスは首位を独走した。(略)

次にスモーキーはマーヴィン・ゲイと組むと、マーヴィンでも同じことをやってのけた。スモーキーには、並外れた能力が備わっていた。他人の芸術性を見定めると、そこを集中して強化し、アーティストが独力では発揮しきれていなかった芸術性を開花させるという能力だ。これは、俺が学んだ教訓の中でも特に大切なことだっった。また、もうひとつ重要な教訓となったのは、曲を書いている時、ひとつの感情だけに囚われてはいけない、というものだ。彼女に別れを告げられて傷ついた、この世界に失望しているなど、自分の感情を告白することだけを目的としてはいけない。(略)

自分の中にある感情の全てを表現したら、様々な文脈でこうした感情を正確に表現できるシンガーやミュージシャンを複数見つける。どんな時でも、思考や感情はいくらでも浮かんでくる。こうした思考や感情の全てを世に出すことが、ソングライティングの目的だ。スモーキー・ロビンソンは、それを俺に教えてくれた。

デトロイトのピンプ文化

デトロイトを理解できるようになると、俺はデトロイトに対し、ニュージャージーに次ぐ第二の故郷のような思いを抱きはじめた。だからといって、カルチャー・ショックがなかったわけではない。かなり大きなショックもあった。俺は中西部で、ピンプ文化に遭遇するようにでなった。東海岸でもピンプの姿は目にしていたが、ニュージャージーでは暗黙の存在だった。ピンプは、独自の流儀、さらにはある種の威厳を持ち、独自の生き方をしていた――ずっと後のことになるが、俺たちはサー・ノウズというキャラクターを創った時初めて、ニューヨーカーのピンプ文化に対する考えを知った。しかし、デトロイトのピンプ文化は生々しいものだった。少女たちは十二歳でピンプを選ぶか、もしくはピンプに選ばれた。逃れるチャンスがほとんどないようなファーム・システムがあり、売春は大々的で、えげつなかった。モータウンと自動車メーカーを擁していたデトロイト。野暮と洗練が奇妙に混在していたため、そのスタイルは半歩遅れていた。デトロイトでは、皆が髪をプロセスし、ストレートにしていたが、しっかりとセットされてはいなかった。ヘイスティングス・ストリートを流すピンプが乗っていたのは、デュース・アンド・ア・クオーター (225)――これは、ビューイック・エレクトラ・225のことで、この名前は、車全体の長さが二百二十五インチ(約五・七メートル)だったことに由来している。デトロイトでは最高級とされていた車だが、キャデラック・エルドラドが最低条件とされていたニューヨークなら、一笑に付されていただろう。そして、服装も野暮だった。デトロイトのピンプは、既製のスーツを着ていたが、ニューヨークでは、ピンプ稼業に手を染めるなら、既製のスーツなど買ってはいられない。東海岸では、小学校の頃から服をオーダーメイドし、そのお下がりを年少者にあげていたのだ。しかし、デトロイトは既製服。モータウンのアーティストですら、既製服を買っていた。

 それでも、モータウンのグループが野暮だったというわけではない。一番ルックスが良く、お洒落だったのはフォー・トップ スだ。彼らは、既製服を着るというデトロイトのライフスタイルの中で、異彩を放っていた。デトロイト以外の土地に幾度となく行っていたためだ。

(略)

[63年にデトロイトに]帰ってきた時には、すっかり洗練されていた。(略)終演後も綺麗な別のスーツに着替えない限り、会場を出ようとしないタイプの男たちだった。ドアの外で、女性が六人待っていようが、彼らは気にしなかった。(略)

ダイナ・ワシントンとラスヴェガス・ツアーを行い、そのスタイルでリスペクトされた。

サム・クック

 当時の音楽シーンは、モータウンの独壇場だった。俺は、モータウンに畏怖の念を抱いていたのが、モータウンとは並走していた――つまり、同じトラックでは走っていなかった。そして年を追うごとに、俺たちとの違い、そして距離はより明確になっていった。また、俺には別の生活もあった。地元ニュージャージーの シルク・パレスだ。店の経営は順調で、繁盛していた。アーニー、ウルフギャング、グライムズをはじめとする床屋たちは、俺がいない間、店を守っていた。

(略)

[店にあった]ジュークボックスのおかげで、俺たちはあらゆる地域のR&Bシーン、ソウル・シーンを聴くことができた。(略)フィリー・サウンドもあれば、シカゴにはオリオールズ、デルズ、デュケイズがいた。注意深く耳を傾け、ラベルに載っているライターやプロデューサーのクレジットを読んでいれば、セントルイス出身のグループと、クリーヴランド出身のグループの区別をつけられるようになった。

 移動中でも、俺は音楽にどっぷり浸かっていた。(略)俺は毎日バスで仕事に通っていた。バスにラジオがついていることもあったが、ラジオがない時でも、バスが街を走っていれば、家や店の軒街先から大音量でラジオが聞こえてきた。毎日、俺はアーバン・ネットワークを聴いていたというわけだ。

(略)

あらゆる種類の音楽が、俺たちに流れてきた。(略)もちろん、俺たちの嗜好はソウルに根差していたが、ソウルとは一度に多くのことを意味した。俺たちは、当時王位に君臨していたバート・バカラックについても熟知していた。彼が、同じ地元出身のディオンヌ・ワーウィックと仕事していたからだ。顔見知りがたちまちビッグになる姿を見るのは、心温まるものだった。俺たちはまた、カーティス・メイフィールドについても熟知していた。彼はまるで、ひとりモータウンといった趣だった――インプレッションズで見事なゴスペル・サウンドを作り、自身のソングライティングに対しても、極めて強い意識を持っていた。

(略)

 しかし、少なくともしばらくの間、最大のスターだったのは、サム・クックだ。彼は俺のバーバーショップに一、二回来たことがある。実物の彼はクールなピンプ風情で、とにかく洗練されており、静かな自信を湛えていた。もちろん、彼は二枚目だったため、女性からも大いにモテていたし、自分のやることについて、全てを掌握しているようだった。俺は彼のビジネスセンスに敬服していた。サムはあらゆる意味で、先駆者だった。クロスオーヴァー・ヒットを出し、ソングライティングを自ら仕切り、SARという自身のレーベルを興してヴァレンティノズやシムズ・ツインズといったグループを売り込んでいた。(略)

[彼の死について]今でも腑に落ちない。あの頃のサムは、アーティストとして、ビジネスマンとして、大きなことを成し遂げようとする一歩手前だった。 もしかすると、それを阻みたい人々がいたのかもしれない。俺が確実に知っているのは、バーバーショップにいた俺たちが受けた衝撃の大きさだ。あらゆる場所にいた音楽ファンが、大きな衝撃を受けていただろう。俺たちは一日中、呆然としていた。その一年前に起こったジョン ・F・ケネディの暗殺と似ていた。

ディラン、ビートルズストーンズ、ジミー・ミラー

 世界が変わっていた。(略)新世代の白人ロックンローラーが台頭しはじめていた。ヒルビリー・ミュージックをロカビリーへ更新していた五十年代的な意味では、彼らはロックンローラーではなかった。六十年代のロックンローラーは、フォーク、ブリティッシュ・ブルース・ロック、クラシックの素養を持ったミュージシャンなど、多方向からやってきたのだ。ボブ・ディランを例に挙げてみよう。最初は彼の歌声を好きになれなかった。しかし、彼がキャラクターを作り上げており、自由に何かをしようとしていることは、即座にわかったため、その意味では彼の声を気に入った。A地点からスタートしても、B地点以外の場所に行けるというのは、若いアーティストにとって開放的な考えだった。

(略)

[ビートルズ]はチャック・ベリーサウンドをよりメインストリーム向けにしており、ある意味ではビーチ・ボーイズのようだった。しかし彼らは、疑う余地のないソングライティングのスキルを持っていた。ビートルズで俺が最も気に入ったのは、そのファッションでも絶叫するファンでもなく、彼らがアメリカのリズム・アンド・ブルースに大きな敬意を持っていたという事実だ。俺は、この部分で大半のイギリスのグループを正当だと判断した。

(略)

もうひとつの人気バンドは、いうまでもなくローリング・ストーンズだ。彼らはアメリカのブルースを深く愛していたが、俺には当初、それがわからず、痩せこけたイギリスの若者が、ジェィムズ・ブラウンの物真似をしているようにしか見えなかった。しかしもちろん、その印象は後に覆され、俺は意見を変えた。海の向こうからやってきたイギリスのグループが、ブラック・アメリカンの音楽を心から愛し、畏敬の念と不遜さを持ってブラック・アメリカンの音楽を扱う過程で、新しい音楽を作り出している。俺はほどなくしてそれに気づいた。それから数年後、ラジオでエリック・クラプトンロバート・ジョンソンについて話しているのを聞き、俺は恥ずかしくなった。〈Crossroads Blues〉や〈Sweet Home Chicago〉など、彼の楽曲の大半を知っていたが、彼の生涯はおろか、名前すら知らなかったのだ。アメリカにいる黒人男が、何千マイルも離れたところにいる白人男からブルース・ミュージックを学ぶなんて、ありえないだろう?しかし、当時はそんな状況だった。俺たちは、建設的にお互いの音楽を吸収していた――彼らが俺たちの音楽を取り込み、それをリメイクし、俺たちに返す。そして俺たちも、彼らの音楽を取り込み、それをリメイクし、彼らに返していた。ブリティッシュ・ロックの初期段階に深く関わっていた人物のひとりが、この原則の生きた手本だ。彼の名前はジミー・ミラー。ブルックリン出身で、俺がニューヨークで曲を書きはじめた当初、短期間ではあったが彼がライティング・パートナーだった。ジミーと俺は、一九五九年にふたりでレコードをプロデュースしたが、(略)[レーベルは、俺たちをクレジットに入れなかった]傷ついたジミーはロンドンへと渡ると、〈Gimme Some Lovin'〉や〈I'm a Man〉など、スペンサー・ディヴィスのごく初期のレコードに携わった。彼はスティーヴ・ウィンウッドとともにトラフィックへと移り、最初の二枚のアルバムをプロデュースした。俺は彼のキャリアを追い、六十年代後半、彼がローリング・ストーンズとも仕事をしていることを知って驚いた。

(略)

〈Honkey Tonk Women〉の冒頭でカウベルを鳴らしているのも彼だ。ジミーがストーンズと仕事をしていることを知り、俺は嬉しく思ったが、ストーンズに対する俺の印象も変わった。これで間違いなく、ストーンズが自分たちの音楽をアメリカのサウンドに根差そうとしていたことがわかったのだ。

ファンクの初期型、〈Testify〉のヒット

俺たちは、メロディーに厳しく、一糸乱れぬフックを持ったモータウンの伝統を受け継いでいたが、こうした音楽がロックン・ロールと交わると、そのフィーリングを延々と長引かせることが可能であることに気づい"た。(略)

これがファンクの初期型だった。そして俺にとって、レイ・チャールズは最もファンキーな人物のひとりだった。というのも、彼はどんな曲をどれだけ長く演奏しても、パワーを落とすことなく曲を魅力的に仕上げたからだ。翌日、俺はコーラスに合わせて歌詞を書いた。「友人、詮索好きな友人たちは/俺に何が起こったのかと問いただす/変化、変化が起こっているのさ/それは明らかなこと」。(略)

ヴァースの作り方に関して、俺に大きな影響を与えたのはフォー・トップスだ。〈Standing in the Shadows〉や〈Reach Out〉といった曲は、ボブ・ディランのソウル的模倣といった類のものだった――やや一本調子にヴォーカルを引き延ばすヴァースから、大きなコーラスで盛り上がりを見せるのだ。

(略)

[〈Testify〉がヒット]

 突如として、全てが一変した。(略)俺たちはもはや、成功を目指して足掻くヴェテラン・ドゥワップ・バンドではなかった。アメリカ最新のヒットメーカーとなったのだ。あっという間に曲がヒットしたため、俺たちはその事実を理解し、消化する時間すらなかった。

次回に続く。