フェンダーVSギブソン その3

前回の続き。

フェンダーのイギリス上陸

 母国のチャートにおけるバディ・ホリーの活躍は短命だった。〈ザットル・ビー・ザ・デイ〉と〈ペギー・スー〉(略)大きなヒットはこの2曲のみに終わった。ところがイギリスでは、バディのシングルはまぎれもない大ヒットを記録した――最初のこの2曲だけでなく、続く〈メイビー・ベイビー〉や〈レイヴ・オン〉といった、アメリカではそれほど受けなかった曲もである。1958年初めにロンドンにやってきたときのバディは、大物とみなされていた。大西洋を渡ってくることのできた真のロックンローラーとして、(ビル・ヘイリーに次いで)2番目という扱いだった。

(略)

バディのイギリスツアーにおける注目すべき瞬間は、3月2日の日曜日に訪れた。クリケッツとして、「ヴァル・パーネルズ・サンデー・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディウム」に出演したのである。イギリス版の「エドサリヴァン・ショー」

(略)

ステージに立ったバディには自信がみなぎっていて(略)オオカミのような高い声を出すとストラトキャスターを攻め立て(略)弦を叩いた。(略)
クリケッツは3人編成になっていた(略)

彼らにあった機材はごく控えめなもの――アコースティックのダブルベース、スタンダードなドラムキット、そしてスピーカーを4発備えたフェンダーのアンプとつないだストラトキャスター(略)にもかかわらず、彼らが出す音量は聞き手がすぐには忘れられないほどの大きさに達した。イギリスの大所帯のジャズ管弦楽団でリーダーを務めるロニー・キーン(略)「あの瞬間」と、キーンが思い出して言う。「自分のようなミュージシャンはもう終わりだと気づいたよ。これが未来の姿なんだとね。彼らにはパワーはほとんどなかった。あったのは会場のマイクロフォンとあの小さなアンプだけ……確かあのベースはアンプにつながれてもいなかったと思う。それでいて彼らは、13人からなるうちの管弦楽団と同じくらいの大きな音を出すことができていたんだ」
(略)

 ストラトキャスターはイギリスにはほとんど入ってきていなかったため、バディ本人に次ぐ花形とみなされた。(略)宇宙時代を示す輪郭(略)にぎやかな音を聞かせるピックアップ(略)

戦争の恐怖以降に生まれた最初の世代が、演奏するバディを映すテレビを歓喜の眼差しで見ていた。(略)エリック・クラプトン少年にとっては、フェンダーのギターは宇宙からやってきたもののように見えた。未来からもたらされた、可能性を秘めた輝きだった。(略)

 その同じ夜、リヴァプール郊外のウールトンでは、17歳で近眼のジョン・レノンが粒子の粗いテレビ画面にかじりつくようにしながら(略)和音のリフを弾くバディの様子をじっと見つめていた。

(略)

イギリスでのコンサートツアーを依頼されたとき、マディ・ウォーターズのキャリアはかつてのピークからは大きく落ちていた。(略)

チャック・ベリーが〈メイベリン〉で世間に姿を現し、エルヴィスとビル・ヘイリーは国民的な大スターになった。マディのレコードの売上は落ちて、持ち直すことはなかった。黒人の若い聞き手は次第に、マディの音楽をスローで田舎っぽく、時代遅れで少しみっともないとまで思うようになっていった。1958年になる頃には、マディはスケジュールが埋まる仕事なら、シカゴ界隈でほとんどどんなものでも受け、出演料が安くても仕方なく演奏するときさえあった。

 ただ、マディの人気の低下については、イギリスまで伝わっていなかった。イギリスはフォークとジャズが大流行している最中で、これはマディを招いたバンドリーダーのクリス・バーバーが主導した面もあった。(略)イギリスの白人学生やリベラルな知識人[は](略)マディがシカゴへ出てくる前に作ったようなフォークブルースのレコードを高く評価していた。(略)

 マディはイギリスへ向けて出発する2ヵ月前に、ギターを学び直す必要があることに気づいた。彼は1955年頃からステージでの演奏をやめていたが、これは左手をひどく怪我したためで、それ以来一度も手に取っていなかったのだ。(略)ロックンロールの台頭後は、自分の音楽に対する自信をやや失っていた。イギリスツアーでは、伴奏者はピアニストだけとなることから、彼がギターを弾く必要があった。(略)持っていたレス・ポールは盗まれたか、その重さにうんざりしただけなのかもしれないが、結局彼がイギリスへ持っていったのは白いフェンダーテレキャスターだった。

(略)

セント・パンクラス・タウンホールにやってきた多くの者が予想していたのは、オーバーオールを着てゆっくりとした口調で歌う、ボロボロのアコースティック・ギターを抱えた貧しい小作人の姿だったようだ。

 しかし、実際に彼らが目にしたのは、パリッとしたスーツを着た都会のやり手の人物が、薄くて白いフェンダーのギターからとてつもない音量をひねり出す姿だった。マディがテレキャスターで最初のコードを爪弾いてアンプの音を調整するや、ある有名な評論家とその取り巻きは、全員が立ち上がって出ていった。

(略)

 アメリカのブルース・ミュージシャンも以前にイギリスをツアーしており、アンプとつないだホロウボディのギターを使った者もいた。だが、マディがフェンダーのソリッドボディを用いて弾いたエレクトリック・ブルースは、まったく異なる体験をもたらした。

(略)


大きなアンプから揺らめくように放たれた、巻きついてくるブルーノートの音の終わりにより、マディは観客を夢中にさせていた。(略)左手の小指に短い黄銅管をはめて出した音は不気味で、強く人情味ある(略)声のうしろで歌われる、歪んだ電子的な声を悲しげに響かせていた。


(略)ジャズやフォークの純粋主義者の中には、エレクトリック・ギターを営利目的のR&Bの象徴と見た者がいた。表現された強大な力に激しくいらついただけの者もいた。(略)イギリス人たちから当初に浴びせられた厳しい非難に傷ついて、同地でのツアーを進めるうちに、アンプの音量を徐々に下げていった。

 ところが、この批判にもかかわらず、もしくはそのせいかもしれないが、イギリス公演はほぼすべて完売となった。この2週間のうちに、マディは自分の音楽が(略)大西洋の反対側で、耳の肥えた聴衆を得たのを目の当たりにしたのだ。そのことに気づくや、彼は元気を取り戻した。「2ヵ月ほど前まではギターを弾いてなかったけど、これからは弾き続けるよ」と、彼はトニー・スタンディッシュに語っている。「休むのはもう終わりさ――次に休むときは、俺が終わったときだよ」。マディはそれまでに弾いたエレクトリック・ギターをすべて手放していたが、イギリスで使ったテレキャスターは生涯使い続けることになる。のちには赤く塗り直して、ネックも太くした。

 このツアーが終わる頃には、あまりにも温かい反応を得られていたため、マディはイギリスに戻ってくる計画を立てると告げた。「やっとわかったのさ(略)イギリスの人たちがソフトなギターと昔のブルースを好きなことがね」。ただ、すでに彼自身の手によって、その部分は変わり始めていた。[観客の中からアニマルズやストーンズが結成される]

ディック・デイル、どうしてそんなに大きな音で~

ビング・クロスビーが、1960年に「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙にこう寄稿している。「ロックンロールが2小節聞こえてきたら、ダイヤルに手を伸ばしているのだ。(略)そして、どうやら私の考えは正しかったらしい。ロックンロールは役割を終えたようなのだから」。(略)何か別のものが音楽の流行りとして取って代わる――それはもしかしたら、自分が好きなスローで静かなバラードかもしれない――と、クロスビーは続けている。

(略)
[除隊したエルヴィスは]不良から感傷的に歌う流行歌手へと変わっていた。リトル・リチャードは引退して聖職につくと発表した。ジェリー・リー・ルイスは13歳のいとこと結婚していること――しかもその子が3番目の妻であることを――イギリスツアー中に報道陣に明かして、上流社会から自ら消えた。(略)

[バディ・ホリーリッチー・ヴァレンスらが飛行機事故死](略)

ロックンロールの流行の始まりに手を貸したDJのアラン・フリードが、ペイオラ・スキャンダル(略)翌月には、未成年の女の子を州境を越えて連れ出したとして、チャック・ベリーが逮捕され[3年間の法廷闘争後](略)有罪判決を受けて服役した。

 つまり(略)クロスビーの主張には、それなりの根拠があったのだ。

(略)

 それでも南カリフォルニアでは、元々のロックンロールから派生した特殊な系統が、中流階級ティーンエイジャーの間で生き延びていた。(略)

デュアン・エディの〈レベル・ラウザー〉が、特徴としてグレッチのホロウボディのギターによる金属的な反響音以外はほとんど聞かせず、"ブワーン[twang]"という音を考え出して、非の打ち所のないクールさを放った。同じ58年のリンク・レイによる〈ランブル〉はさらに荒々しく、バリバリと苦しげな音を強調していたが、これはレイがアンプのスピーカーに穴を開けて得たものだった。

(略)

 ディック・デイルはLAに移ってきたことで、ハンク・ウィリアムス志望からエルヴィス・プレスリー志望へと進化(略)モンローの映画『恋をしましょう』でエルヴィスを演じる端役まで与えられた。だが、デイルによる初期のロカビリーのレコードは鳴かず飛ばず

(略)

[50年代後半オレンジ郡へ]

エレクトリック・ギターでフォークとカントリー音楽を弾くようになると、ファンが少しついた。(略)

60年7月から、ディック・デイル&ザ・デルトーンズはランデブー・ボールルームにおいて、毎週木・金・土曜の夜8時から真夜中までステージに立った。地元の高校生の間で噂が広まるや、観客は数週間で数十人から数百人へと膨れ上がった。

(略)

フォークナンバーはより力強い曲、それもロックのインストゥルメンタルに取って代わられ(略)デイルのギターは激しいリズムに負けじとリードメロディーを大いに響かせ(略)

ついにはアンプに問題が生じてきた。火が出るようになったのだ。

(略)

彼の望みは、自分のストラトから、最高に厚みがある低くて太い音、腹に響くほど可能なかぎり重厚な低音を出すことだった。

(略)

[デイルとレオは]夜遅くに電話をしては技術的な新しいアイデアを出し合い、レオの家のリビングでくつろぎ、マーティ・ロビンスのカントリーのレコードを聞いたりした。(略)

[レオは助手のタバレスと]改良点を考え出し、開発中だったアンプの新製品の強化版を組み立てた。デイルは1960年には毎週木曜の午後に研究室に立ち寄ると、レオがテストに用いた新しい回路とスピーカーを並べた壁を試した。コンクリート製の研究室内では、彼のギターは機関銃のように響いた。(略)

[翌週デイルが戻って来ると]

アンプはコンデンサが焼けついたかスピーカーコーンが破れたか、もしくはその両方という状態になっていた。望みの音は得られなかったという彼の感想にも変化はなかった。「レオには何度も訊かれたよ。『どうしてそんなに大きな音で演奏する必要があるんだ?』とね」(略)彼が壊したというアンプの数が40個か50個ほどになったところで、タバレスがついにレオに提案した。この問題を本当に理解するには、デイルが実際に弾いているところを見にいかなくては、と。
(略)

デイルは自分のギターをいじめ、叩き、切り刻み(略)鋼鉄の咆哮、電気の釘の嵐(略)ランデブーにいる3000人の若者はひとり残らず、身も心も完全に虜になったかのようだった。(略)

レオがタバレスの方を向いた。「ディックが言おうとしていることが、ようやくわかったよ」(略)

ジェームズ・B・ランシング(JBL)社に15インチスピーカーを新たに発注し(略)自社のキャビネットに取りつけ(略)

デイルに言った。「君こそショーマンだ。これは君のアンプだよ」

 それが、フェンダー社がひとりのミュージシャンのニーズに応えるために特別に作った、初のアンプだった。このフェンダー・ショーマンは、いわゆるスタックというものの最初のひとつで(略)ロックンロールがロックへと進化していくなかで普及した、そびえ立つようなアンプの配置方法である。(略)

 それでもデイルにとっては、まだ物足りなかった。(略)音を吸収する3000人の肉体でいっぱいのランデブーでは、デイルが望む低くて太い音にはならなかったのだ。その新しいJBLのスピーカーをもってしても、彼の演奏には耐えられなかった。JBLのスピーカーコーンを両手で抱えたタバレスが、デイルが弾くダンダンダンという演奏により、ついにはコーン紙の端が剥がれるほどの奇妙な歪みが引き出されるのを見て驚いたのを、デイルは覚えていた。デイルはレオに、もっとパワーが欲しいこと、そしてキャビネットには15インチのスピーカーを1発ではなく、2発望むことを伝えた。

 ある日の午後、レオとデイルは研究室でショーマンの微調整を行っていた。(略)

[レオが]スピーカーグリルに耳を当てて、何か気に入らないうなり、それにきしみが聞こえないかと耳を澄ました。(略)アンプにつながれていたギターに何かが当たったとき、音量が目いっぱい上げられた状態のアンプのスピーカーに、レオの耳はつけられていたままだった。(略)ストラトキャスターが85ワットで金属質の強烈な爆音をもたらし(略)レオは鼓膜が破れるのを感じた。(略)

レオは片目だけで生きていけるようにはなっていた。それが今度は、片耳だけで楽器の開発をしていかねばならなくなったのだ。

 それでも彼はやり抜いた。(略)高出力トランスと改造したJBLの15インチスピーカー2発をキャビネットに収めた(略)通常のショーマンモデルはフェンダーのカタログに記載されたが、レオが名づけたこの"ディック・デイル・ショーマン"は載らなかった。

 このアンプは見事に機能した。(略)1年もしないうちに、デイルのステージは南カリフォルニア界隈で伝説的なものとなった。(略)

 デイルのステージを観ることは一種の通過儀礼となった。(略)高校生の歌手にしてソングライターのブライアン・ウィルソン(略)はそのステージのパワー、それにギターのヘビーさに圧倒された。

(略)

サーフィンをカッコいいと思っている者にとって、デイルのインストゥルメンタルは波乗りという爽快な気分になれる体験を捉えているように感じられた。

 デイル自身は、オレンジ郡に移って少ししたときにサーフィンを覚えていた。長くて強いその手足は長さ9フィートというホビー社のサーフボードを難なく操れたうえ、色黒の肌と整った体躯は、海に出て波に乗り、太陽を浴びて輝くと、実に神々しく見えた。

(略)

 デイルは、自らの圧倒的な音量と催眠術をかけるようなインストゥルメンタルのリズムによって、海が持つとてつもないパワーを再現することを狙いとしていた。(略)

リズムセクションの波を縦横に動くという彼のリードギターの動きには、波乗りをしているサーファーの音が聞こえるも同然だった。この新しい音"サーフミュージック"と知られるようになってきたものでは、エレクトリック・ギターはもはや伴奏でも脇役でもなかった。張り合う歌手さえ存在していなかった。(略)しかも、レオとデイルによるさらなる協力関係のあとには、エレクトリック・ギター自体がウェットな感じの音を出し始めたのである。

サーフミュージックの流行

 アコースティック・ギターは自然な豊かさを生み出す。スティール・ギターはほぼ永遠に響く。(略)

 だが、アンプを通してそのまま出されたエレクトリック・ギターの音は平板なことも多い。この楽器の最初期から、何か要素を加えて、説得力あるリードボイスになれる個性を持たせる必要があると、ミュージシャンは感じていた――ディストーションのようなもの、もしくはエコーが。

(略)

教会オルガンのエコーこそ、ディック・デイルが求めたものだった。デイルはレオ・フェンダーに、自分のハモンドオルガンには、音にちょっとした震えと多くのサステインを加える、人工的な残響(リバーブ)をもたらすボタンがあると話した。このハモンドオルガンの残響は、オルガン内に組み込まれた、スプリングがある金属の小部屋によって作り出されていた。(略)

レオは、ハモンドのリバーブタンクを取り出すと、個別の箱の中に据えてみた。デイルがそこに自分の声を通す。すると、急に「エルヴィスのような声で歌うことができた」という。次はほとんど冗談でのことだったが、デイルが自分のストラトキャスターをそのリバーブを通して弾いてみた。彼もレオもすぐに気づいたが、かなり驚きのものを発見する。常に存在する身を切るようなストラトのシャープなエッジが、金属製の湿った洞窟内を漂っている感じになったのだ。弦をかき鳴らすと、いつもは刺すように尖っているのに、角が取れて丸くなり、コードが浮かんでいるようだった。デイルの鋭いエレクトリック・ギターが、落ち着いた色合いの染みへと変化していた。リバーブのウェットな雰囲気によってストラトのシャープさがぼやけたことで、水中で光るナイフのように、スリリングなものが同時に存在していたのだ。

 デイルがこの音を自分のステージに望んだため、レオは1961年に初となるフェンダー・リバーブ・ユニットを、ディック・デイル&ザ・デルトーンズに進呈した。(略)

デイルのフォロワーたちの多くも(略)この新しい装置によってストラトキャスターの音が変わるのを耳にするや、彼らも欲しがった。

 そのようなグループのひとつがシャンティーズだった。(略)

サンタアナ高校の友人たちが集まっただけのグループで、気軽に演奏活動をしていたにすぎなかったが、その年にフェンダー・リバーブを使って、独特の雰囲気を持つメロウなシングル曲〈パイプライン〉をレコーディング(略)国内で100万枚以上を売り上げ、サーフミュージックで最も成功した曲となった。

(略)

[ディック・デイルのおかげでサーフバンドの羨望の的だったが]

〈パイプライン〉の成功後は、ほぼ必須のものに変わった。今やサーフミュージックといえば、まずはフェンダーのアンプを通したフェンダーのギターのシャープさと明瞭さ、続いてフェンダー・リバーブによる水中のような残響と、それが熱を持った際に出るポップノイズやヒスノイズのことになったのである。水中のナイフのようなその特徴を持つのは、レオが手掛けたものだけだった。

(略)

 1957年頃には、フェンダーは鮮やかな"フィエスタ"レッドという色を、ギターに施し始めた。楽器をイタリアのスポーツカーのような色に塗るというアイデアは斬新すぎて、ドン・ランドールの販売チームは当初、それを笑い飛ばした。ところが、ジョージ・フラートンが工具店で初めて混ぜ合わせて得たフィエスタレッドは、若いミュージシャンたちの間で大人気となった。フェンダーはすぐさま、デトロイトの自動車メーカーによる色合いと同じギターを売り出した。レイクプラシッドブルー、ファイヤーミストシルバー、シーフォームグリーン、キャンディアップルレッドメタリック、バーガンディミストである。

 同社の楽器のクロームメッキのパーツは派手な車の各部品を反映していたうえ、レオによるソリッドボディのエレクトリック・ギターの新モデルは、そういった車の流線型のシルエットにも似合いそうだった。ジャズマスターのボディはアメーバ状の丸みのある形をしていて、1958年に流行った車のテールフィンに合っていた。これはジャズギターとしては成功しなかったものの、サーフロッカーたちは好んだ。

(略)

[ギブソンやグレッチは大人のミュージシャンに売り込んでいたが、フェンダー社]

がターゲットとしたのは若者だった。というのも、楽器店でレッスンを受け(略)買ってほしいと親に頼むのは、若いプレーヤーたちだからである。

(略)

スケボーをしている若者がストラトキャスターをかき鳴らしているもの、ロングボードで波乗りしているサーファーがコードを爪弾いているものなど[に](略)要を得たキャプション――"手放せない関係"をつけて雑誌広告とした。そのメッセージは明瞭で、フェンダーは誰が弾いてもOKということである。フェンダーのギターはプロ用の道具ではなく、レジャー用のアクセサリーだと。

(略)

 この当時のバンドを写した写真やレコードのジャケットは、それ自体がフェンダー社の広告にも見える

(略)

 ドン・ランドールは1955年に、商品を100万ドル以上売り上げたことで興奮していた。それがサーフィンの熱狂が頂点に達した68年には、フェンダー社の純売上高はわずか3ヵ月間で220万ドルを突破したのである。ある調査によると、フェンダーは同年のエレクトリック・ギターの国内市場で26パーセントを占めていて、11パーセントだったギブソン社を圧倒したという。それでも、サーフィン熱はいつまでも続くものではなかった。

(略)

サーフロックはまぎれもなく上流中産階級的でもあり、その主役はビーチへ行く車もフェンダー・ショーマンのような機材を買う金も持っているティーンだった(同アンプの60年当初の売出価格は天文学的ともいえる550ドルで、現在の4000ドル以上に相当)。

(略)

 デイル自身は、大手のキャピトル・レコードと契約してからも、自分の音楽を全国的に流行らせることには、あまり関心がなかった。彼はツアーに出るよりも地元にいて、サーフボードや外国産の猫、スポーツカー、それにガールフレンドたちを相手にするほうを好んでいた。

(略)

[こうしてカリフォルニア・ドリームを大きく異なる形で売り込むのは、ビーチ・ボーイズとなった]

彼らはオレンジ郡では本物とは見られなかった。

 国の残りの人たち、つまりディック・デイルのギターのモチーフが(略)波乗り体験そのものだとはわからない聞き手にとっては、明るく響き渡るビーチ・ボーイズの歌声は、南カリフォルニアのライフスタイルをはるかに魅力的に宣伝するものだった。そこにあったのは海の音だけでなく、海についての言葉であり、それに伴われるとされるロマンスと改造車についての言葉だったのだ。

(略)

レス・ポール・モデルの失敗

[サーフロック全盛の頃]
レス・ポールとメリー・フォードは懐メロ路線を突き進み、州の農産物品評会、米軍基地、警察官のダンスパーティー、二流のナイトクラブなどで演奏活動を続けていた。(略)

 キャピトル・レコードはレスとメリーを1958年に手放したが、コロムビアがふたりを拾い上げ、ロック嫌いのプロデューサーのミッチ・ミラーが、このデュオにまともな大人をターゲットとしたリリースを連発する手助けをした。

(略)

[本当の家庭生活を送りたいメリーは]レスに強いて、1958年4月に新生児の女の子を受け入れ(略)翌年10月(略)男の子を生む。(略)夫妻は子どもたちが小さい間は仕事を減らして、マスコミからは「隠居」と言われた。

(略)

[61年レコード宣伝のため]定期的な巡業を再開した。(略)メリーは、子どもたちと離れるのをいやがった。(略)

 レスが人前で見せる優しさは、プライベートでは姿を消すことが多かった。(略)メリーに演奏と巡業の続行を強いていて、もしそれが果たせないのなら、自分はほかの女を見つけて巡業に出ると脅した。(略)

 この争いの最中の1961年に、レスとギブソン社との契約が更新時期を迎えた。同社はレスのことをまだ手放したくなかったものの、会社としてはレス・ポール・モデル自体を失敗とみなしていた。(略)[フェンダーに比べると木目調の格調高い楽器]は古臭く見えた。テッド・マッカーティと弦楽器製作者はかなり斬新なデザインをいくつか試していた。フライングV、[稲妻型の]エクスプローラー(略)両者が発表された58年というのは、高級車のキャデラック・エルドラドに長さ2フィートの金属製のテールフィンがついていたときだった。市場ではどちらのギターも惨敗に終わった。

 これらと同年に売り出された、かなり従来型をしたモデルは、すぐさま人気を博す。ギブソンによるES-335はセミホロウで、アコースティックの薄いボディには、ハウリングを抑えて、レス・ポール・モデル並みのリッチなサステインをもたらすソリッドブロックが埋め込まれていたが、はるかに軽量だった。このギターは、ジャズ、カントリー、ブルース、それに少数のロックンロールのミュージシャンの間で人気となった(略)冷え込んでいたギブソンを代表するソリッドボディ――重くて安定性に欠けるレス・ポール・モデル――の売上を苦しめた。

 そこで1960年に、ギブソンはとうとう見切りをつけると、まったく新しいギターを作って、それにレス・ポールの名を冠した。これは"ソリッドギター"を意味するSGの名の方で知られるようになる(略)

かつては自社の優秀さに自信を持っていたギブソンの弦楽器製作者が、(ボディの形と軽量という点における)快適さこそ最も重要というフェンダーの信念に屈したわけである。

(略)

 レスはこのギター――新たな"レス・ポール・モデル"と銘打たれたもの――を、ある日の楽器店で初めて目にしたという。「形が気に入らなかった(略)あの鋭いホーンでなら、人が自殺できるよ。ボディはあまりに薄いし……ネックは細すぎて、ボディとのつなげ方も気に入らなかった。木が十分になかったから」。だが、この木の少なさこそがポイントのひとつだった。SGの重さはわずかに7ポンドほどだったのだ。一方で、レスはギブソンと契約を交わしていたことから、自分の名を冠したそのギターを弾く義務を依然として負っていた。そのため、1960年代初頭の宣伝写真には、真新しい赤と白のギブソンSGを抱えたレスとメリーが写っている。その細くて尖ったギターは、ふたりが浮かべた作り笑いと同様に、場違いで奇妙に見えた。

 ある夜、シカゴのホテルでレスと口論になったメリーは(略)家族の温かい抱擁を求めてLA行きの飛行機に飛び乗った。(略)

レスはメリーに対して、もし離婚を考えているなら、子どもの親権は自分が手にして、彼女には一銭も渡さないと告げたという。(略)

メリーは約14年連れ添った夫に対する裁判別居を申し立て、虐待および扶養不履行でレスポールを訴えた。

(略)

レスは反訴を提起し、メリーが"ほかの男たちと……隠すことなく公然とつきあって"いて、さらには彼と知り合う前にも不貞行為を働いていたという、広く噂された訴えを主張した。

(略)

2週間後、ジョン・F・ケネディ大統領がダラスで暗殺されて、戦後に残っていた純真さがアメリカから失われた。

(略)

[メリーは50万ドルで調停に応じた]

ふたりのステージでは彼女こそ声であり顔だった(略)

彼女がいなくてもレスは立派なサイドマンに(略)革命的なギタリストになったかもしれない。だが、ポップスターには絶対になれなかったと思われる。

 レスとの離婚でメリーが望んだ唯一のもの――子どもの親権――を、彼女は手にできなかった。パサデナ出身の茶目っ気ある牧師の娘だった彼女は(略)夫と争ううちに、次第にアルコール依存症鬱病に陥っていく。(略)

レスはギブソン社とのエンドースメント契約は更新しないことにしたが、その契約を交わすと、今後の収入の一部をメリーに要求されるかもという懸念があったほかに、自分の名前が冠された新モデルがどうしても気に入らなかったからでもあった。この契約が切れると、ギブソンはその薄いギターをSGと改名する。オリジナルのカラマズー製で、ソリッドボディでシングル・カッタウェイの分厚いギターは、楽器店の店頭からはじきに姿を消して、質屋の棚を飾るようになった。この時点でレスに関するあらゆるもの楽曲、楽器、ステージーは、忘却の彼方へ向かいつつあるようだった。

(略)

孤独な天才技術者レオ・フェンダー

(略)

レオが何人かの従業員と一緒に技術的な問題に取り組んでいたときだった。「あの人はみんながしゃべっている内容に、ずっと耳を傾けているんです。『実は、これが問題で、これこれがこういうわけで』といった話に。すると彼が部品か何かを持ち上げて、それを直してしまうんです。あっという間に解決するので、誰もが口をぽかんと開けて立ちつくすのですが、彼は何かをひけらかそうとしたわけではありません。『ただ、理解できただけなんだ。みんなの話を聞いていたら、わかったんだよ』といった感じなんです」

 それでも、ほとんどの従業員にとってレオ・フェンダーとは、工場の第6棟をすべて占める研究開発用の研究室にいる、孤独な天才だった。伝説の人物であり、存在しないも同然だった。ある日のこと(略)

[台車に箱を積んだ17歳の新人が年上の従業員とぶつかりそうに]

「そんなにたくさん積まなかったら、もう少しうまいこと運べるんじゃないのかね?」(略)
「俺よりうまくできると思うんなら、あんたが運べばいいじゃないか」と、シモーニは言い返した。相手の男は頭をかいただけで、立ち去った。シモーニが第1棟にたどり着くと、そこの係の人ににらまれた。「お前、やらかしたな」

「なんのこと?」(略)

「お前がさっき、ひどい口を利いた相手が誰か、知らないのか?あれがレオ・フェンダーだよ!」(略)

多くが似たような経験をしていて、自分たちのうしろでうろうろしている物静かな人が、すべての製品にその名が記されている人物と知って、ハッと驚くのだ。

(略)

 1963年、フェンダー社にわずかにいる販売員で、年間の稼ぎが3万5000ドル――現在の27万ドル以上に相当――に達しない者はひとりもいなかった。ある者は3年以上も連続で10万ドルを稼いでいて、そのほとんどが手数料だった。57年以降、同社は販売員を新規で採用していなかったが、その間の売上はおよそ600パーセント増を記録していた。(略)

屋内のスペースが足りなかったため、アンプの完成品を入れた出荷用の木箱は建物の外に積み置かれ(略)フラートンの乾いた日差しにさらされた。(略)

多くの製品で14~16週に及ぶ受注残が生じ、これは推定で150万ドル分にも達した。工場で製造できる見込み以上のアンプやギターの注文を受けないよう、ランドールは販売員に指示しなければならなかった。

(略)

アコースティック部門を始めたが、その楽器の設計を行うのはリッケンバッカー社でホロウボディのエレクトリック・ギターを手掛けていたロジャー・ロスマイズルというドイツ人の弦楽器製作者で、同部門には工場が必要だった。レオは何年間か、ハロルド・ローズという仲間の職人による実験にも興味を持っていた。エレクトリック・ピアノの製造である。その技術は非常に複雑で、レオとハロルド以外のほぼ全員がうまくいかないと思っていたが、それでもレオは投資した。このプロジェクトにもスペースが必要だった。

(略)

[自分が好きなC&Wはすたれ]大きな音でギターを弾くディック・デイルのフォロワーたちを見ても、レオには自分の居場所ではないように思えた。その世界の構築に手は貸しても、自分の居場所はどこにも見当たらなかった。

 激しい不安にたびたび見舞われて苦しんでいたレオは(略)ふたつの結論に達した。ひとつは、真空管が(略)トランジスタに取って代わられたように、自ら学んだ電気に関する技術も、じきに用済みになるといこと。

 もうひとつは、レンサ球菌感染症と、ほかにもいくつか抱えていると感じる健康上の問題から、自分の命はそれほど長くないということである。

(略)

 レオはランドールに、自分が所有しているフェンダーの会社の半分を彼に売り渡すと告げたのだ――それも100万ドルで。

 ランドールは唖然とし、驚きのあまり返事ができなかった。

(略)

ジミ・ヘンドリックス

チトリン・サーキット(略)ジミはすぐに、サイドマンとしての自分の決まったパターンに、派手な動きを盛り込み始めた。ギターを背中に回して弾く、歯を使って弾く、ギターをファックしているような動きをする、両膝をついてソロの演奏を行う、高音を出す際に最前列の女性たちに向けて舌を素早く動かしてみせる、などなど。(略)ジミを雇った者たちは、あまりいい顔をしなかったが。

 「5日間は問題ないんだ」と(略)ソロモン・バークは振り返った。「それが次のショーになると、彼は曲とは関係のない激しい動きを始めるんだよ」。バークは結局、巡業中の南部の道端に、ジミを置き去りにすることになる。

 リトル・リチャードとのツアーでは、ジミは一度、フリル付きのシャツを着てステージに立ち、スターから怒声を浴びせられた。「リトル・リチャードは俺だぞ!(略)かわいい格好をしていいのは俺だけなんだ!」
(略)

問題だったのは、彼がステージの"端にいられない"ことだった。どこだろうと、彼が立つところがセンターになったから。

フェンダー・ベースがキャロル・ケイにもたらした成功

(略)サーフロックかポップス――のレコーディングに、キャロル並みの腕を持つジャズ畑出身のミュージシャンを使うのは、アリ塚を壊すのに核弾頭を用いるようなものだった。キャロルがいちばん好きなビバップというジャズのスタイルは、ほかには見られないほど頭も指も使った。(略)

1963年までに(略)キャロルが名声を得てきた何百ものジャズクラブは、店じまいをしたか(略)ロッククラブへと姿を変えていた。(略)

 3時間のレコーディング・セッションに対するその年の最低賃金は66ドル(略)

自分の嫌いな音楽を演奏することで、キャロルはいい稼ぎを得ていた

(略)

 プロデューサーは、キャロルが車のトランクに入れている、改造されたダンエレクトロの6弦のベースギターを扱えることは知っていた。ただ、1963年のその日にレコーディングに現れなかったのは、フェンダー・プレシジョンベースを弾く人物だった。(略)借りてきたプレシジョンベースが彼女の前に置かれると、自分でうまくできそうだと思うメロディーを弾いてみるように言われた。その楽器に張られているのは6本の細い弦ではなく4本の太い弦で、ネックはエレクトリック・ギターやダンエレクトロのベースのものよりも格段に長かった。キャロルがそれまでに一度も弾いたことがないものである。(略)

このセッション後、キャロルはハリウッドにある楽器店(略)へ行くと、自分用にフェンダー・プレシジョンベースを2本買い求めた。そしてまっすぐ家に帰って、練習を始めた。

(略)
キャピトルでのセッションが始まると、そのエレキの4弦がスタジオのアンサンブルにおいて重要な位置にあり、またとない機会を自分に差し出していることに、彼女は気づいた。そのフェンダー・ベースは、ドラムの純然たる衝撃音を、グループ内のほかのあらゆるメロディー要素と結びつけていたのだ。(略)レオ・フェンダーが手掛けた斬新なエレクトリック・ベースを弾いているうちに、彼女は"バスの運転手"と自ら思うものになっていた――ドラマー以外の全員が従うべきプレーヤーという存在に。

(略)

[さらに]進むルートも自ら選べるようになり、ジャズにおいて自ら考えついた流れるようなメロディーを利用できたのだ。

 キャロルが運転手役となって舵を取るメリットは、彼女がフェンダーの4弦と初めて出会ってから数ヵ月後にレコーディングした(略)オージェイズによる〈リップスティック・トレイセス〉の冒頭部分で明らかである。彼女が弾くプレシジョンベースは激しく躍動して、曲を先へ進める低音域へと弾性エネルギーを押し込んでいく。彼女とアール・パーマーのドラムがしっかり組み合わさり、両者は混ざり合うかのように、ひとつの重厚なビートになる。キャロルが重いピックで弾くことで、その電気楽器はリズムに存在するあらゆる繊細さを目立たせていく。パーマーによるキックとスネアドアラムが彼女のベースの進行を強調し、キャロルも彼のつなぎを強調しながら、ふたりして攻撃的なグルーヴを切り出していくのだ。

(略)

低音域で"バス"を動かしながら、当時の単純な流行歌内に複雑なルートを考え出すことで、スタジオでのかつてのギター演奏では得られなかった喜びが、自分自身にもたらされたのだ。

(略)

彼女は地元の音楽家組合の名簿にある記載を変更して、ギターだけでなく"フェンダー・ベース"の欄にも自分の名前を加えた(略)

 じきにキャロルは、LAの多くのプロデューサーがレコーディング・セッションで最初に声をかけるベース奏者となった。仲間のベーシストがテレビ番組で音楽監督をするために現場を去ると、彼女にはますます仕事が舞い込んだ。キャロルは1964年には、3時間のセッションで104ドを稼ぐようになった。ガソリンが1ガロン[約3・8リットル]で30セント、彼女のローンの支払いが月に233ドルだった当時では、天文学的な金額である。

(略)

ビートルズリッケンバッカーを使わせ続けろ!

そのバンドはアメリカではまだ存在をほとんど知られておらず(略)

イギリスのティーンエイジャーの間で新たなものが流行っていると、訝しげに伝えていた。(略)

彼らが体の前に抱えていたのが、ホールが手掛けているリッケンバッカーのエレクトリック・ギターだった

(略)

 12月末になると、モリスはさらに興奮した様子で伝えてきた。「リッケンバッカーのギターのメーカーとしてビートルズのマネージャーにコンタクトを取り、彼らの来るアメリカ訪問の際に、ある程度の宣伝を展開すると申し出たら、素晴らしいことになるでしょう」(略)3日後には、キャピトル・レコードがついにシングル〈抱きしめたい〉を発売し、大々的な宣伝キャンペーンを同時に打って、アメリカでビートルマニアが始まった。

(略)

 ホールは[「フェンダーの宣伝係にはご注意ください」という]販売代理店の助言に従って、ビートルズがNYを訪れる際に、マネージャーのブライアン・エプスタインと会う約束を取りつけた。(略)「[この面会のことは]誰にも漏らさないように」と、ホールはバックナーに伝えている。「彼らがNYに来たときに私も現地にいることは、ライバルたちには知られたくないから」

(略)

 アメリカのティーンたちは、「エドサリヴァン・ショー」でストラトキャスターやプレシジョンベースは見かけていたし、ギブソンについては親が持っているジャズのレコードのジャケットで目にしていた。だが、このビートルズが腕に抱えているものはいったい?ポール・マッカートニーがかき鳴らしているのはビオラの形をしたエレクトリック・ベースで、ドイツのヘフナーという会社のものだった。その夜のジョージ・ハリスンが選んだのはリッケンバッカーではなく、NYのグレッチ社製のカントリー・ジェントルマンというギターだった(略)

ビートルズが3分間でアメリカを制覇した際にその楽器に気づいたランドールは、体が震えたに違いない。(略)

レノンが大西洋の向こうから持ってきて、アメリカの音楽を変えることになるギターは、リッケンバッカーのモデル325だったのだ。ランドールは、彼とレオの元パートナーが手掛けた楽器が、ビートルズのリードギタリストの肩で揺れるのを、指をくわえて見ていることしかできなかった。

(略)

 一方で舞台裏にいたホール自身は、NYのサヴォイホテルのスイートルームでミニチュア版の見本市をセッティングして、ビートルズとの顔合わせの準備をやきもきしながら進めていた。彼は、グループ側が求めるものは、ほとんどどんなものでも提供するつもりだった。

(略)

 サヴォイに到着したビートルズのメンバーの前にはリッケンバッカーの各モデルが並べられていて、楽器を実演するためにホールが連れてきたプロミュージシャンのトゥーツ・シールマンスもいた。(略)

ポール・マッカートニーはエレクトリック・ベースを試してみた(略)自分のヘフナーと比べて重すぎると感じたのか、それともホールが用意したのが(略)右利き用だったのか。いずれにしろ(略)マッカートニーはリッケンバッカーの4弦は見送った。

 ホールが用意していたギターのうちの1本は実験的なニューモデルだった。(略)

セミホロウで12弦のエレクトリック・ギターで、光り輝く薄い赤色で仕上げが施されていた――まだ市場に出ていないリッケンバッカーの試作品だったのだ。

 自分のバンドメンバーが12弦ギターに興味があると知っていたレノンが、ハリスンに試させたいと口にした。だが言うまでもなく、インフルエンザにかかったハリスンはその場にいなかった。(略)全員が――ホール、ビートルズ、エプスタイン、さらにはおそらくシールマンスまでもが――コートを羽織ってセントラルパークを抜け、プラザホテルのハリスンの部屋へ向かったのである。

(略)

ハリスンが試作品のリッケンバッカーの12弦でちょうどコードを試しにかき鳴らしていると(略)ラジオ局が、彼の部屋に電話をかけてきた。(略)何をしているのかとDJが尋ねる。彼は新しいギターを試しているところだと、生放送で答えた。電話の向こう側から、そのギターは気に入ったかと訊く声が飛んだ。「ああ」と、ハリスンはそっけなく答えた。「リッケンバッカーだから」。彼のために買い上げましょうとラジオ局が申し出るも、ハリスンには無償で提供すると、ホールは言い張った。

 この当時のレノンは(略)ハンブルク時代から擦り切れるほどかき鳴らしてきた、1958年製のリッケンバッカー・モデル325を頼りにしていた。(略)ホールはレノンに(略)新品の黒のモデル325で、3個のピックアップと白いピックガードがついたもの[の提供を申し出](略)マイアミにいる当月中に、彼の元に届けられることになった。(略)

[大満足のホール]でさえも理解できていなかったと思われるのが、自ら成し遂げたことの大きさだった。レノンが手にする新しいモデル325は、グループのその後のキャリアにおいて長らく共にあり、彼が深く関わるギターとなる。ハリスンも赤い12弦をすぐさま使い始めることになって(略)新曲〈ア・ハード・デイズ・ナイト〉の印象的なオープニングコード(およびそれに続くあらゆるコード)を弾いたのだ。

 したがって、ビートルズと過ごしたほんの1、2時間で、F・C・ホールは(略)ビートルズリッケンバッカーの関係が何十年も続くようにしたのである。まもなく、リッケンバッカーのロンドンの販売代理店は、自社モデルの一部を"ビートル・バッカー"として宣伝(略)ビートルマニアの波に[乗り](略)リッケンバッカーの小さな工場を大々的に拡張することとなる。(略)

フェンダー社、ビートルズから不評を買う

半年後にレオが提示した金額は、150万ドルになっていた。(略)1963年8月にはこの数字は200万ドルにまで上がっていた。

 買い手にとっては、実にお買い得だったことだろう。というのもフェンダー社はじきに、四半期ごとの商品の売上が200万ドルを記録して、毎年の税引前利益が100万ドル以上になるのだから。だがランドールは、今回のような形でレオの権利を買い取ることには大いに慎重だった。(略)レオとの関係は問題を抱えていたが、ランドールはパートナーをだますようなことはしたくなかった。「私がもし今買い上げたら、来年の今頃は、あなたは私に奪われたと言うでしょう(略)あなたは私を憎むことになる」

 その一方でランドールは、フェンダーの会社はレオの考えよりもはるかに価値があるのではとも思っていた。そこで彼は外部の企業による買収を進めてみることにした。

(略)

[ビートルズへの]働きかけには、フェンダー社にとって異例のものが含まれていた。現金である。

 「これは巨額でした。それだけは言えますね」と、ランドール(略)

ほかの情報源によると、フェンダー社の申し出額は1万ドルだったという――1964年には、シボレー・コルベットの新車を2台買えるほどの金額だ。言うまでもなく、ビートルズはこの金に加えて、フェンダーの機材を望むだけいくらでも無償で手に入れられるのである。(略)

 ランドールがビートルズに会いになぜ自ら足を運ばず、広告ディレクターのジム・ウィリアムズを行かせたのかははっきりしない。(略)[大事な取引時には]ランドールは自身の率直さと魅力を自ら持ち込んで、それでたいていうまく事が運んでいたのに。

 そのウィリアムズはというと、目も当てられない状態となった(略)[緊張をほぐすため一杯ひっかけ]スタジアムに赴いたときにはできあがっていて、ビジネス的に許される気安さ以上の態度を取ってしまったらしい。[さらに金額を提示したことが不作法と取られ、エプスタインにすら会えず]

(略)

ビートルズ側の回答はシンプルで、"メンバーはこれまでの機材でうまくいっていので、このまま使い続ける"という内容だった(略)

ビートルズは彼らの機材を使ってこそいなかったが、その製品のことは好意的に見ていた。その会社が不作法な感じで申し出たことで、同社自体が横柄かつ焦っているように見えてしまったのである。

(略)

CBSフェンダー社売却

フェンダー社の買収に本格的な関心を最初に寄せたのは、オハイオ州のピアノとオルガンの大手メーカー、D・H・ボールドウィン社だった。(略)

1964年の7月までにボールドウィン側が出した数字は[1000万ドル](略)

(略)

[エレクトリック・ギター市場参入が目的のため]

アコースティック・ギターエレクトリック・ピアノの事業は望んでいなかった。だがランドールは、両事業にレオが投資した費用の4万ドルほどは、少なくとも同社が彼に与えるべきと主張した。

(略)

[話を詰めるころには、CBSも買収話に参入]

クライヴ・デイヴィスはその夏の間、成長を続けるCBS帝国にフェンダー社を加えるのは得策なのか、またCBSはこのカリフォルニアの会社を適正価格で手に入れられるのかを見極めようとした。

[外部コンサルタントフェンダー社評価依頼]

担当者がフェンダー社を訪れて、部長や販売員らと面談し、カタログを調べたり鋭い質問を投げかけたりしても、フラートンの工場でもサンタアナの販売会社でも、自分たちを雇っている会社の所有者が近々変わるかもと思った者はひとりもいなかった。

(略)

 1964年の秋、アーサー・D・リトルのコンサルタントたちが、フェンダー社の過去、現在、未来の分析に加えて、エレクトリック・ギター業界全体の評価をまとめた、40ページに及ぶ報告書を発表した。(略)

「まぎれもなく、フェンダー社の名前は業界内で非常に高く評価されている」と、報告書は記している。(略)フェンダーに対して初めから有利な点を持っている競合他社はあるかとの問いは、次のひと言で結論づけている――「ない」。(略)

フェンダーのアンプは、蹴られても落とされても、揺らされても熱を持つ事態になっても、優れた性能を変わらずに発揮し続ける」と説明している。改善すべき点はないとする一方で、コンサルタントたちは同社に大卒の技術者がいないことに仰天し、「ほぼすべての工学技術の才能はフェンダー氏本人に集中している」と知って驚いている。会社全体に正規教育が欠けていると、彼らは見て取ったのだ。全国に散らばるフェンダー社の販売員9名については(略)「我々が話を聞いた販売員たちに見苦しさはなく、意見をはっきり述べて、販売に関する熱意とやる気に実に満ちていた一方で、社会的な洗練さの面では、やや粗さも見られた。大学の学位を持っている者は、たとえいたとしてもごくわずかである。彼らは自分たちが従事している種類の職業には非常に向いているようで、仕事ぶりは確かにいい」

 ほかにもコンサルタントたちにとって衝撃だったのが、レオとランドール(略)上級幹部に加えて、販売員が手にする「かなり高額の給与」だった。注目すべきことには、このコンサルタントとの面談の際に、ホワイトとランドールは、販売会社と工場の関係が機能不全に陥っていることを徹底して隠したらしいのである。(略)

ランドールはコンサルタントたちに気に入られていた(略)

報告書では、ふたつの条件を設けてCBSフェンダー社の買収を勧めていたが、その条件とは妥当な価格であることと、「仕事に熱意を注ぐランドールを確保すること」だった。このフェンダ・セールス社の社長は、マーケティング活動には不可欠な存在であるうえ、社員から「強い忠誠心」を得ていると見られたのだ。(略)

 一方で、独習で技術を得て、片方の目が悪く、今や片方の耳も悪くなっている(略)レオ・フェンダーについては(略)「新製品において"正しい進め方"となる、比較的些細な設計上の特徴に早くから気づくという、やり手で現実的な考案者の才能がある」[としつつも](略)

1964年のフェンダー社には合っていないと、かなり正確に見ていた。「(略)彼は明らかに成長志向の人間ではない。一方でランドール氏の方は、拡大が続く活動範囲を大いに満喫している」(略)

新製品の開発については、「(略)フェンダー氏並みの積極的関心と創造性を確保することが、非常に望ましい」[が](略)CBSの技術者なら、ヒットする電気楽器の新製品を自分たちで設計して売り出すことは間違いなく可能だとほのめかしている。

(略)

ブリティッシュ・インヴェイジョン(略)が、アメリカのティーンの間にエレクトリック・ギターに対する興味を急増させたため、ランドールはその新たな状況を最大限に利用した。(略)ボールドウィンCBSの双方と交渉を進めていた際に、注文はできるだけすべて受けるよう販売員に指示(略)工場の受注残がさらに増えたことで、NYとオハイオの双方の交渉担当者は莫大な利益が得られると思い描き、ランドールの見ている前で、とりわけCBSからのオファーの額はどんどん増えていった。(略)

[結局、CBSとの]契約の総額は1300万ドルに達した(略)

そして――重要なことに――アコースティック・ギターおよびフェンダー=ローズのエレクトリック・ピアノの両部門が入っていた。(略)

ランドールはCBSの新部門フェンダー・ミュージカル・インストゥルメントの副社長兼本部長としてとどまることになり、5万ドルの給料(ボーナス付き)とNYの役員室が与えられ(略)レオは設計顧問として5年間雇われるが、競合する仕事は10年間はできないことになった。(略)トタン造りの小屋2棟とラジオパーツの卸問屋からスタートしたフェンダー社が、可能性を秘めたCBSの新部門にまで成長を遂げたのだ。

(略)

 CBSによる買収は1965年1月5日に公式発表され(略)

 レオとエスターのフェンダー夫妻あてには、573万5000ドル[当時の日本円で約20億円]という小切手番号8339がコロムビア・レコード販売会社から振り出された。レオはそれを受け取りに、わざわざNYへ出向く気になれなかったので、ドン・ランドールがひとりで赴き、彼の小切手と自分の分(526万5000ドル)を、それぞれの銀行口座に預け入れた。追加となる200万ドルについては第三者預託とされ、2年後に分配される予定だった。
(略)

 販売会社と工場には[問い合わせの電話が殺到したが](略)答えを知っている者はひとりもいなかった。(略)

 するととうとう、工場内の放送設備からレオの鼻声が響いてきた。「みなさんに重要なお知らせがあります。みなさんが耳にした噂は事実です」(略)レオはこれまでの経緯を自ら説明して、従業員の間に広がる不安を鎮めようとした。みなさんが仕事を失うことにはなりませんので、心配は無用です彼はそう告げた。「私もこのまま、ここにいますので」

 このように請け合われても、従業員はショックに包まれた。

(略)

AP通信の記事は、こう問いかけた。「価値が高いのはどちらか――ギター工場か、それともニューヨーク・ヤンキースの経営権か?」。

[CBSは1120万ドルでヤンキースの株の8割を獲得していた]

(略)

自身のライフワーク、わが子ともいえる存在、それに何より自らの名前を、レオは東海岸の一大企業に引き渡そうとしていた。

(略)

学位を持たない元商品補充係のドン・ランドールは(略)ウッドパネルが張りめぐらされたマンハッタンの会議室で果てしなく続く会議に出て、アイビーリーグのエゴが渦巻く中で話し合いをしながらも、バランスシートには出てこない細部にはまったく関心を示さないコングロマリットの実情を目の当たりにすることになる。

(略)

自分の素晴らしい上司で、このフラートン全体に広がる土地の所有者が、正面ゲートから出ていくのをホワイトが目にする最後の夜となるのだ。

「君がいなかったら、どうなっていたことか」と、レオが声をかけた。(略)

レオは返事を待つことなく、アクセルを踏んで駐車場を永遠にあとにした。(略)

[工場長の]ホワイトはすすり泣きながら、レオの車が見えなくなるまで、いつまでも見送り続けた。

次回に続く。

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フェンダーVSギブソン その2

前回の続き。

何も手を打たないと、フェンダーがこの世を支配するだろう

 1951年の春、フェンダー社の新しいギターのエンドースメント契約にふさわしい人物には(略)レス・ポール以上の者はいなかった。ポップスターのレスの手にフェンダーテレキャスターを持たせられれば、国内での大幅な売上と支持が保証されるに等しい(略)

「土曜の夜にLAへ行って、レス・ポールと話した」と、ランドールは1951年6月21日付の同僚への手紙に書いている。「1週間ほど試してもらえるよう、ギターとアンプを預けてきた。(略)」(略)

レスに渡したのは、薄い色合いのブロンド・フィニッシュでピックアップが2個ついたテレキャスターだった。名称のデカールはなく、ネックに"5-10-51"[1951年5月10日"の意]という日付が刻まれていた。(略)

レオからのメモがついていて、"[このギターを]よく見て、検討してほしい"と書かれていたという。(略)

目的はビジネス面だけではなかったのかもしれない。レオは、自分が取り組んできたものを、よき競争相手に見せたいと思っていた(略)

レス、レオ、ポール・ビグスビーが、かつてレスの家の中庭で昼下がりに話し合っていた内容は、テレキャスターにしっかりと見事に反映され(略)実用に即して設計され、手頃な価格がつけられて、全国の楽器店で入手できる商品となっていたのだ。彼らはみな同じ問題に取り組んできたが、それを解決したのは自分だと、レオは思っていた(略)

「これが私の進む方向だ」。その頃にレオにそう言われたと、レスは記憶している。「一緒にやってみないか?」

 フェンダー社と手を組むのが賢明かもと、レスも思った。(略)

 それからレスは(略)ギブソン社との長期に及ぶ断続的な関係について検討を始めた。(略)

重要なのは、レスがレオのテレキャスターをあまり気に入らなかったことだ。その音が、彼にはブライトでシャープすぎたのである。デザインも、あまりに平凡かつ単純で、魅力に乏しかった。

(略)

「レオに話したんだ。『すまないが、知っているように、私はギブソンと長年にわたって素晴らしい関係を築いてきた。相手は世界最大の楽器会社のひとつだから、立場を改める前に、彼らともう一度ギター作りをしてみたいんだよ』と」。

(略)

 だがレスがしたことは、エンドースメント契約の辞退だけではなかった。レオによる画期的な成果を利用することにしたのだ。それが両者の関係を永遠に変えることになる。レスの話では、彼はフェンダーのソリッドボディを、自分が望む種類のギターをギブソンに作らせる手段として利用しようとしたという。テレキャスターを詳しく調べたレスは、ギブソンの親会社の社長であるモーリス・H・バーリンに連絡して、そのギターのことを話した。(略)

「このソリッドボディギターはとても重要なものになるでしょう」。レスはバーリンにそう告げた。「もしあなたが何も手を打たないと、フェンダーがこの世を支配することになります

 

 レスは知らなかったが、ギブソン社は(略)対抗する商品に、すでに取りかかっていた。1950年の楽器見本市で展示されたフェンダーエスクワイアを目にするや(略)ソリッドボディのエレクトリック・ギターの開発を早急に始めるよう、社員に命じていたのだ。
(略)

弦楽器製作という高等技術を駆使する経験豊富な職人[達には](略)

カリフォルニアの無名企業が板から作り出したギター[と競合することに](略)ある種の反感が生じた。「甲高い音を出す木の厚板を作るのに、多くの技術は必要ないと思った」と、マッカーティは振り返っている。ギブソンがソリッドボディギターを作るのなら、自分たちの基準を満たしたものを作るまでだった。

(略)

[フェンダーが]レスのエンドースメント契約を求めてからわずか数ヵ月後の1951年の秋に、マッカーティは[レスとメリーを訪問]

(略)

自社の設計者が大変苦労して作り上げた試作品を取り出した。それがギブソン流のソリッドボディギターで、シングル・カッタウェイの典型的な丸みを帯びた形をしていた。優雅さには議論の余地がなく、同社のホロウボディのエレクトリック・ギターにあるシングルコイル・ピックアップがふたつついており、マホガニー材の厚いボディはメイプルのカーブド・トップで覆われている。マホガニーのネックはそのボディに対して、ボルト留めではなく接着剤で慎重にくっつけられていた。このギターをアンプにつなぐと、豊かでパワフルな音が出た。ピックアップのスイッチとトーンのつまみを調節することで、ウォームでよく響く音から、ブライトでクリアな音へ変えられるという反応が得られた。

 このソリッドボディの試作品はレス自身が手掛けたものではなく、完全にギブソン社の設計者たちが作り出したものではあったが(略)[伝統に沿った斬新なものという点で]レス・ポール本人との重大な類似があった。

(略)

フェンダーテレキャスターであれば、鋭い高音にブワーンという音、さらにはうなるような音も出せるかもしれないが、気分を害する人も間違いなく出てくるだろう。

(略)

ギブソン社のモデルが不快な音や不安定な音を出すことは、ほとんどなかった。フェンダーにあるような突飛さも好戦性もまったく持たない、ソリッドボディのエレクトリック・ギターだったのだ。テンガロンハットやほこりっぽい安酒場向けではなく、タキシードやビロードのカーテンがある劇場向けのギターだった。(略)
ギブソンの試作品を爪弾くレス。上の階でくつろいでいるメリーに対して、彼が喜びに満ちた声で呼びかけた。「彼らは僕たちにものすごく近づいているよ(略)僕たちは彼らと一緒にやるべきだと思うね」

(略)

 1800年代末まで遡るギブソン社のギターの歴史を通じて、名前を冠したシグネチャーモデルを与えられたプレーヤーはふたりしかおらず、レス・ポールが三人目となることに決まった。(略)そのソリッドボディのエレクトリック・ギターを"レス・ポール・モデル"と呼び、それが売れるたびにレスに使用料を払うのである。さらには、技術革新で知られるレスの評判を利用して、そのギターを設計したのはレス本人だと、同社は主張することになるのだ。

 レスはお返しに自身の意見やアドバイスギブソン側に伝えることになり、これはこの試作品に対してちょっとした改良がいくつか行われる可能性を意味した。彼はまた、他社のギターを人前で使ってはならず、この約束が破られると、ギブソンからの支払いが得られなくなる恐れがあった。この最後の点に関しては同社の幹部はかなり本気で、ギブソンデカールをレスに大量に送りつけたほどだった。レスのクランカーに貼って、エピフォンのマークを隠すのだ。

ベースをギターと同じように目立たせる

[工場に出入りするギタリスト達からダブルベースへの不満を聞かされたレオの]

頭の中で大きなアイデアが形成されつつあった(略)

ベースをギターと同じ形で作れば、多くの問題を解決できると。水平方向に設計すれば、ギタリストなら当然、すぐに慣れるだろうし、弾き手は自由に動き回ることができる(略)音響用の巨大な空洞さえ不要になり、薄くて軽く、それでいて弾き手が望む大きな音を出すことが可能になる。

(略)

 1952年の晩春もしくは初夏の晩(略)

[ライオネル・ハンプトンのビッグバンドを目の前にしたレナード・フェザー]

 そのギター――ハンプトンの友人で、「ダウンビート」誌で評論家を長年務めるフェザーが気になったのが、それだった。ステージ上にはギターが2本あり(略)「そのバンドはどこかおかしく」(略)大きくかさばるダブルベースの茶色い姿が[ない](略)

「それでいて(略)ベースの音は聞こえていた」。(略)

「奇妙な形のボディ」には角(略)がふたつあり、黄色で仕上げがされたボディの片側にはモダンな黒い塊がある。(略)

あまりに気になったので、バンドが次の休憩に入ったときにリーダーに尋ねてみた。
あれがうちのエレクトリック・ベースさ(略)もう何ヵ月も使ってるよ!」

(略)

次の出番で、フェザーがしっかり耳を傾けると、ダブルベースのものとほとんど変わらずウォームでメロウという、「その楽器の低くて響き渡る音色の特性」に気づいた。ドッグハウスでより大きな音を出すには弦を強く叩くしかなく、それでも出るのは破裂するような鋭い音だけである。それがこの楽器の場合は、音量つまみを上げれば、実際にベース音が大きくなるのだ。その結果は、フェザーが満足げに記したように、「うねる引き波のごとく、バンドの土台全体を突き抜けた」のだった。
(略)

「ダウンビート」誌1952年7月号の特集記事で、この薄いエレクトリック・ベースは「楽器における大革新」になりうると、彼は断言している。

(略)

 この楽器がプレシジョンベースと呼ばれることになる。正確とはレオが選んだ名前で、"フレットがついていて、どの音がどこから出るのか推測する必要がないから"だった。

(略)

 当時のランドールの言及に関して、ひとつの点は正しかった。ベースをギターのように弾くことに、人々が慣れるのは大変だったのである。翌1952年の夏にシカゴで行われた楽器見本市において、ランドールが販売員と共にプレシジョンベースを披露したところ、かなりの嘲笑を浴びせられた。

(略)

[見た目は]板状のテレキャスター以上に風変わりだった。(略)[水平にバランスを取るため]ボディには、ネック上に大きくかぶさるように湾曲したふたつのホーンが設けられ(略)改造車のホットロッドの側面に描かれた炎の先端のようだった。

(略)

フェンダー社で最も独創的な創作物となっただけでなく、最も議論を呼ぶものとなったのだ。(略)

"ええ、これでもベースなんです"と、その写真のキャプションライターが皮肉を飛ばしている。同じくその場にいた販売員のチャーリー・ヘイズは、のちにこう振り返った。「レオがソリッドボディのギターを世に出したときに、彼は頭がどうかしたのかと確信を持てなかった人たちは、今回の件で確信しました。彼の頭は本当にどうかしてしまったと。エレクトリック・ベースを思いついたんですから。そんなものを考え出すなんて、頭がおかしくなきゃできないと、彼らも納得したんですよ」

 「ダウンビート」誌に掲載されたレナード・フェザーの興奮した反応は例外だったのだ。1952年に、その細長いフェンダーのエレクトリック・ベースのよさがわかる人は、ほとんどいなかったのである。

 

 シカゴの同じ見本市の通路の先では(略)ギブソン社が新しいソリッドボディのエレクトリック・ギターを発表していた。(略)

レオ・フェンダーテレキャスターが大衆車のフォルクスワーゲンだったとすると、ギブソンレス・ポールは高級車のキャデラックだった。

(略)

レスはこの楽器の開発にはほとんどノータッチで、自ら考え出したブリッジを追加して(これは製造時のミスにより、最初期のモデルでは邪魔になった)、ゴールド・フィニッシュを強く求めただけだ。だが彼が誤りだと訂正しなかったことにより(略)数十年にわたって(略)ソリッドボディのエレクトリック・ギターを、彼ひとりが"発明した"と[された]

(略)

フェンダー社の上を目指して、より高い価格で販売したのは、ギブソン社だけだった。アメリカで最も評価の高いこのギターメーカーが、完全なエレクトリックの6弦というアイデアを認めたのだ。シカゴの会場でこのことを知ったライバルたちは激怒した。「テッド、どうしてこんなことができるんだ?」と、フレッド・グレッチはギブソンのテッド・マッカーティに文句を言った。「今や、帯ノコと加工装置を持っていれば、誰だってギターを作れる。フェンダーが売っているのはその程度のものなんだぞ」。グレッチはマッカーティに対して、もし他社がレオに続いてソリッドボディのギターを作っていなかったら、この流行は廃れていただろうと言い張った。(略)

[それに対しマッカーティは]

ソリッドボディのエレクトリック・ギターは、たとえギブソンやグレッチといった会社が無視しても、なくなりはしない。フェンダーを上回るもので対抗することが唯一の選択肢なのだ。

 「彼はマーケットに切り込んでいる(略)だから我々は彼に挑戦するのだ」

マディ・ウォーターズ、〈ロケット88〉

[その頃]3マイルほど離れたシカゴの黒人地区で、革命的な変化が始まっていた。

(略)

 1943年のこと、マディ・ウォーターズは南部のミシシッピからの列車を降りた数日後に、姉に言われた。「あんたがやってる古いタイプのブルースは、もう誰も聞かないよ。このシカゴではね」。当時人気だったのは、サックスとピアノが率いる、おしゃれでアップテンポなスイングジャズだった。30歳だったマディは、人生のほとんどをミシシッピ州クラークスデール近くの綿のプランテーションで過ごしてきて(略)工場で金を稼ぐために、思い切って北部へ出てきたのだ。それでもシカゴでは、南部時代から知っていたビッグ・ビル・ブルーンジーなどの年上のブルース歌手と交流を続け(略)

マディのおじは、甥がシカゴまで持ってきた簡素なアコースティック・ギターを見て笑った(略)騒々しいシカゴでは役に立たないだろうと(略)エレクトリック・ギターを買い与えた。ピックアップがついた安価なホロウボディを。(略)

1948年(略)革命的な出来事が実際に始まった。(略)

マディのギターはボリュームが目いっぱいまで上げられていたため、アンプから出る音は歪み、バチバチという音がドラマーのスローなシャッフルに続いた。マディはバースを歌い終えると、小指にはめた金属のパイプをギターの弦の上に滑らせて、物悲しい、うめくような音を出した。彼によるそのスライド奏法は(略)歌詞にある痛みを映し出しており、弦をこすりながらクライマックスへと向かっていた。

(略)

かつてはカントリーブルースの定番だった〈アイ・フィール・ライク・ゴーイング・ホーム〉というこの曲が(略)混沌とした北部の都市へやってきた黒人たちにとって、今や電気で表された哀歌となっていたのだ。

(略)

「なんだ?あいつはなんて言ってるんだ?」と、コントロールルームにいたユダヤ人のクラブオーナー、レナード・チェスが声を上げた。(略)

「こんなもの、いったい誰が買うんだ?」(略)

3000枚プレスした(略)レコード盤は、金曜日にシカゴ中の売店や美容院に配られると、翌日の午後までには1枚残らずなくなっていた。人々が我先にと飛びついたため、マディでさえ手にできたのはたった1枚だった。

(略)

 さらなるヒットが続き、1950年代初めまでには、マディのエレクトリック・ミュージックはシカゴに対して強い影響力を放っていた。「マディ・ウォーターズ・ブルースという名前までつけられていたよ」と、同時代の人が覚えていた。

(略)

 1951年の春(略)キングス・オブ・リズムというバンドを率いるピアノ奏者のアイク・ターナー(略)サックス担当のジャッキー・ブレンストンがアップテンポなR&Bのヒット曲〈キャデラック・ブギ〉の歌詞を書き直した(略)〈ロケット88〉(略)

スタジオのオーナーであるサム・フィリップスという人物の協力を得て、アレンジはその場で考え出した。
(略)

 問題がひとつあった。途中でパンクしたタイヤを交換しようと車を止めたときに(略)ギターアンプが車のトランクから落ちて、スピーカーコーンが割れてしまったのだ。(略)フィリップスは(略)スピーカーコーンの割れた部分に紙を丸めたものを詰め(略)

驚いたことに、それを通したエレクトリック・ギターの音はかなりいい感じに聞こえた。低いうなりと歪みがあり、感情が横溢していたのだ。
(略)

[〈ロケット88〉はR&Bチャート1位に]

 白人は、"人種[レイス]レコード"やR&Bは(略)絶対に聞かなかったが、それが急に聞くようになった。流行に敏感な白人の10代が、〈ロケット88〉やそれに似たものを大いに求めたのだ。(略)

フィラデルフィアの白人DJでバンドリーダーのビル・ヘイリーは、方向性をすっかり改めることにして、ボブ・ウィルスふうのウエスタンスイングからR&Bへと転向した。一方で、メンフィスのスタジオで〈ロケット88〉をレコード化したサム・フィリップスは、白人歌手がこの種の音楽を試みた場合に手にできるかもしれない成功の大きさについて、考えをめぐらせ始めていた。

おしどり夫婦の光と影

 1953年を迎える頃には、レスとメリーは自分たちの名声から距離を置きたくても、それはかなわなくなっていた。(略)外国のホテルに偽名で泊まっても見つかって追いかけられるのだ。(略)同年にリリースされた〈アイム・シッティング・オン・トップ・オブ・ザ・ワールド〉は50万枚以上を売り上げて、13作連続のヒットとなった。

 天文学的な売上を記録したレコード、ギブソン社とのエンドースメント契約、コンサートによる収益、さらには200万ドル相当というリステリンとの3年契約により、レスとメリーは信じられないほど裕福になっていった。

(略)

1953年の春の夕刻[ラジオから流れてきた、アニタ・オデイの〈ヴァイア・コン・ディオス〉](略)

 実はこの曲は、以前にキャピトルがふたりにレコーディングするよう頼んでいたものだった。(略)レスとメリーによるバージョン(略)をリリースすると(略)チャートで1位に輝き(略)〈ハウ・ハイ・ザ・ムーン〉をも上回る大ヒット(略)

世界中でヒットして1500万枚以上もの売上を記録し、テレビからもラジオからもジュークボックスからも、レスとメリーは逃れられなくなった。興奮に包まれて、このままの勢いで進み続けることを望むレスに対し、疲れ果てたメリーは何よりも休息を求めていた。レスの伝記作家によると、彼女は夫のことを"奴隷監視人"とひそかに呼ぶようになったという。(略)

[レスは世界中で]最も人気がある重要なエレクトリギターのプレーヤーとなっていた

(略)

彼はギターをはるかに注目に値するものにもした(略)

それまでは太刀打ちできなかったサックスやトランペットといった楽器と互角に渡り合える存在へと、ギターを変えたのである。長らく目立たなかった音が、今や前面に出られるまでになったのだ。

(略)

ギターの売上は大幅に伸びた。レスとメリーが地方にあるギブソンの販売業者を宣伝で訪れると、サインやジャムセッションを望むファンで、店はあふれ返ったものだった。(略)

レスがギタリストの中でトップに立ったのと同様に、ギブソンもギターメーカーの中でトップに立った。

フェンダー社の対抗策

[テレキャスターが]業界トップのギブソン社の怒りを呼び起こしてしまったため、適切な対応を考えつかなければ(略)フェンダーは葬られかねなかった。(略)

かつての友情関係は、今やライバル関係になっていた。フラートンにいる者は誰もが、レス・ポール・モデルを自分たちの存亡に関わる脅威と見ていた。

(略)

 ほかの製品もさまざまな形でフェンダーを苦しめていた。ポール・ビグスビーは1952年に、レバーを押すことで弦のピッチを下向きに微妙に変えられる、エレクトリック・ギター用のブリッジを売り始めた。(略)

レス・ポールはビグスビーのヴィブラートを大いに気に入り、これを使い始めた。マール・トラヴィスも手に入れて、そのうちに多くのミュージシャンが――フェンダーの工場に顔を出していた面々も含めて――欲しがった。そこで53年、ビグスビーはフェンダーテレキャスター用のヴィブラートを発売する。(略)

 ビグスビーとレオの関係は概ね良好だった。ビグスビーは、レオがテレキャスター用に自分のアイデアをいくつか借用したことは、あまり気にしなかったようである。彼はオーダーメイドのソリッドボディギターの注文に対処できなくなると、フラートンまで行ってレオから買うようにと、顧客に言ったほどだった。それが、テレキャスター用のヴィブラートを彼が作ったことにより、双方の間に新たな競争心が引き起こされた。

(略)

ミュージシャンたちはレオに対して問題点を指摘し続けていた。(略)単に美的感覚に関するものもあれば、厄介なほど技術的なものもあった。ボブ・ウィルス[達は](略)

テレキャスターのボディは薄くて地味だと不満を漏らしていた。(略)

[ビル・カーソンはチューニングの狂いと]

ボディの角が尖っているのも嫌っていた(略)何時間も抱えると、その角が弾き手の胸に食い込んで痛いのだ。(略)

[ついに]自ら行動に出ることにした。(略)胸が当たるボディの部分を弓ノコで切り取り、前腕が当たるトップ下の角も少し切り落として、端を斜めにした。さらには、イントネーション調整用に各ストリングサドルを前後に動かせるよう、ブリッジもさいの目に切った。こうして切り刻まれたギターは、当然ながら「あまり素敵なものではなかった」が、スタジオでの使用に問題は生じなかった。使い心地はよかったし、チューニングも正確に行えた。レオは、自分のギターが弾き手からひどい扱いをされるのをいやがった[が](略)カーソンが手を加えたものを目にすると、彼もその意図を理解した。

(略)

オハイオ生まれでやせこけて神経質、多くの人から冷たいと――反社会的とまで――みなされる性格だった(略)フォレスト・ホワイトは、1948年に初めてレオと会ったときはアマチュアのギタリストでインダストリアル・マネージャーだった。(略)

工場長として会社に加わると、工場作業の組織化に着手し(略)

ギタリストのジミー・ブライアントが缶ビールを飲みながら工場に顔を出したときは(略)会社の方針を遵守して、フェンダー社とエンドースメント契約を交わしているこの人物を、無情にも工場から追い出した。(略)

自らをレオの右腕とみなしていたが、ジョージ・フラートンの方も1948年からそう思っていた。(略)ふたりはすぐに衝突した。

(略)

 ビル・カーソンの希望は、4つか5つのピックアップと、それぞれの弦のイントネーション調整を可能にするブリッジ。ドン・ランドールとチャーリー・ヘイズが求めたのは、ビグスビーのものに負けないヴィブラート・ユニット。何人かの"モルモット"は、弾き手の胴への負荷を減らすために一部が切り落とされたボディ(略)を望んだ。

 レオは弾き手の膝の上でバランスを保つ重さのギターを、ジョージ・フラートンは、ケーブルを傷つけずにギターを床の上に置くことができる、アンプケーブル用の埋め込み式のジャックを求めた。ランドールの望みはサンバースト・フィニッシュ

(略)

 カーソンが望んだヘッドストックは、ビグスビーによるマール・トラヴィスのギターにあるものに似ていて、さらに角度が増していた。

(略)

 これらの要望を受けて、レオは製図に取りかかった。

バディ・ホリーが手にした快適なギター

 町の白人地区では、カントリーミュージックが畑の土ぼこりのように空気中に漂っていた。

(略)

バディのバンドがエルヴィスの前座を何度か務めると、ふたりは親しくなり、エルヴィスのサウンドもスキャンダラスな自由の感覚も、受け継がれていった。「俺たちはヒルビリーだったけど、コットンクラブ以降はエルヴィスのようなロッカーになった」と、バンド仲間のソニー・カーティスが語っている。エルヴィスの見事なふるまいを目の当たりにして、バディの中で新たなエネルギーが解き放たれていった。

(略)

まもなくキングとなる人物の思わせぶりな腰振りとは違っていたが、それでも眼鏡をかけてやせこけた若者にしては、エネルギーを激しく示すものだった。それからギターだ。(略)

ゴールドトップのギブソンレス・ポール(略)裕福ではない家庭の10代が所有するには非常に優れたもの(略)52年モデルという、ギブソンがシリアルナンバーを入れ始める前のもので、欠陥のあった元々のブリッジはまだ直されていなかった。

(略)

ギターを下取りに出すことに決めたのは、重すぎるがゆえだったようである。彼のやせた体は、9ポンドと重たいそのギブソンに音を上げていた

(略)

[ストラトキャスター]の方がはるかに快適そうで、魅力的な未来ふうのモデルであり、ちょうど市場に出たばかりだったのである。

(略)

 だが、ポール・ビグスビーが(略)このギターの写真を目にしたときに感じたのは(略)激しい怒りだった。(略)壁が揺れるほど響き渡る声で、レオ・フェンダーのことを罵った。「あの野郎、俺から盗みやがった!」。

(略)

 ダブル・カッタウェイの体に合ったボディは別にして、ストラトキャスターで最も目立つ特徴が"トレモロ・アクション"レバーである。(略)"手首をひと振りするだけで、生のトレモロ・アクションが得られます完璧なピッチで!"と、雑誌の広告はかまびすしかった。これはビグスビーが最初に設計したトゥルー・ヴィブラートよりも優れていたため、ストラトでは標準装備となった。したがって、ビグスビー[の製品は無意味になった]

(略)

[さらに]ビグスビーは、ストラトキャスターのヘッドストックが、自分が1948年以降のすべてのスタンダード・ギターに採り入れてきた形を完全に真似ていると見て取った。その斜めになったラインにより、ペグはすべて上部に、丸みを帯びた飾りは端に、流れるような曲線は下縁に、それぞれ位置していた。ストラトでは、ビグスビーによるものとは各部がほんのわずかに変えられていたが、その類似はまぎれもなかった。[ビグスビーは訴訟を進めようとしたが](略)

ヴィブラート・システムについては特許を取っていたものの、ヘッドストックの形状については商標を登録していなかったらしい。

(略)

[レオは]ストラトキャスターのヘッドストックの形状は、NYのメトロポリタン美術館で彼が見たクロアチアの古い楽器から借用したもの[と主張](略)

 レオは生涯にわたって、ビグスビーを真似ていないと主張した。(略)

[だが]ビグスビーのデザインを借用したのは明らかである。フェンダー社で"モルモット"だったビル・カーソンは、ビグスビーのギターをレオに見せて、そのヘッドストックの形状をテレキャスターの後継機に組み込んでほしいと頼んだという主張までしている。「レオに言いました。ビグスビーのギターのような、大きくて変わったヘッドストックが望みだと」と、彼は自伝に記している。「結果として最終的な形状は、まぎれもなくビグスビーのギターの見た目になっていたのです」

チャック・ベリー

[出産のため休業したレスとメリーだったが、早産の女児は4日で死亡、悲しみを癒やすためヨーロッパヘ。55年に帰国した二人は音楽界がロック一色になっていることに衝撃を受ける]

エドサリヴァンが、幕の前で肩をすくめると(略)「では、テキサス州ラボック出身のクリケッツが」――と、馬鹿にしたようにうなずきながら(略)言う「ヒット曲を含めてお送りします」。(略)画面に現れたのは、しわくちゃの黒いスーツに蝶ネクタイという格好の華奢な若い男(略)T・S・エリオットふうの眼鏡をかけている。

(略)

笑顔を見せるバディは蝶ネクタイをしており、エルヴィス・プレスリーのような流れ者とは違う。もし家に娘を迎えに来たら、パーティーへ一緒に行かせる可能性も十分にあるだろう。その一方で、体の動かし方は怪しげだし、声が割れたり震わせたりする物欲しげな歌い方は(略)よからぬ経験があることを示していた。(略)

混乱する感じを助長したのが、バディが肩から下げている奇妙な楽器で、ロックンロールのバンドと共に全国放送のテレビに映ったのは、このときが初めてだった。

(略)

ボディは横からホーンが2本突き出ている感じで、ジェット機の翼か炎の先端のようだった。

(略)

チャック・ベリーは、歌ってソロを弾くというロックンロールのスーパースターの原型を作り上げた。(略)ギブソンのホロウボディを筋骨たくましい肩から下げ(略)R&Bのバンドリーダーの役目をロックンロールの領域へと持ち込み、その過程で独創的なギター弾きの天才となったのである。

(略)

 ベリーの楽曲はマディのものとは違っていて、10代をターゲットにしてテンポを上げた、さまざまなスタイル――ルイ・ジョーダンのジャズふうのジャンプブルース、エレクトリック・シカゴ・ブルースのグラインドシャッフル、さらにはボブ・ウィルスによる大きな音のウエスタンスイングを混ぜ合わせたものだった。

(略)

チャック・ベリーは、黒人である自分の声が白人の感じになるように訓練して、白人の聞き手の警戒心を解いた。(略)自伝で説明しているように、白人っぽい硬さを増した発声で歌えるよう自ら鍛えた。

(略)

彼の歌声はヒルビリーとして十分に通用したため、人種分離州で図らずも白人専用クラブにブッキングされたこともあった。

(略)

 ベリーの登場の数年後に有名になったバディ・ホリー(略)

ベリーは偉大な革新者だったが、バディはある意味でより現代的だった(略)

ほかのロックンローラーで、ストラトキャスターはおろか、ソリッドボディのギターを使った者さえわずかだった。(略)

バディのように、ソリッドボディのギターで将来を形作った者は、初期のロックンローラーにはひとりもいなかった。バディと彼のストラトの魅力に誰よりも気づいたのは、イギリスのティーンたちだった。

レオとランドールの対立、フェンダー社の急成長

(略)

フェンダー社の楽器を販売するフェンダー・セールス社の共同所有者のF・C・ホールが、LAのエレクトロ・ストリング工場を最近買収したのだ。リッケンバッカーのエレクトリック・ギターとアンプ(略)を扱う伝統メーカーである。レオとヘイズは、ホールが地元のライバル企業を入手したことに激怒した。ホールが(略)両掛けしているように見えたからだ。リッケンバッカーがホールを通じて、フェンダーのギターとアンプの販売数を知ることになる点を、レオはとりわけいやがった。

(略)

[フェンダー・セールス社副社長チャーリー・ヘイズが飲酒運転の対向車に追突され死亡]

 ヘイズの死に、ドン・ランドールは打ちのめされた。(略)ふたりの友情関係は販売目標や製品発表をはるかに上回るもの、個人的なものだった。(略)

会社全体が大きく揺れた。フェンダー社は、最も有能で名の知れた販売員というだけでなく、音楽業界の有名人である執行役員を失ったのだ。(略)

社交的な販売会社の社長と内向的な考案者とのパイプ役だった重要な存在が失われてしまった。ヘイズは双方の立場がわかり(略)どちらからも確かな敬意を集めていた。(略)

しかも、ヘイズが一緒のときでさえ、ランドールとレオの関係は緊張感に満ちていた。

(略)
ランドールとレオは、フェンダー・セールス社の所有権を自分たちの間で強固なものにするべく、ヘイズの未亡人が所有することになった同社の株だけでなく、ホールの持ち株も買い上げることにした。

 もちろんホールに売る気はなかった。だが、ランドールとレオには有利な手立てがあった。ホールが所有しているのは、楽器を販売するフェンダー・セールス社の株だけだった(略)

「君が我々に売るか、我々が君に売るかのどちらかだと、ホールには告げた」(略)

ホールが株を手放すのを拒んだとしても、レオは別の販売代理店を通じて自分の楽器を別名で売るまでだった。(略)

4万5000ドルというはした金(略)および貸しつけた1万ドルの返済で、ホールはしぶしぶながらも、フェンダー・セールス社の株の半分をランドールとレオに売り渡した。数年後であれば、このような展開は考えられなかっただろう。だが1955年の時点では、エレクトリック・ギターの商売がどれほど金になるのかは、誰にも見通せていなかったのだ。

[追放されたホールはリッケンバッカーをより強力な競合企業にすることに]

(略)

工場の経営は主にホワイトが行っていたため、レオは研究室に引きこもって(略)新製品や新たな特徴の開発にいそしんだ。会社の命運を心から気にかけているのは自分たちだけであり、ランドールはゴルフの試合や飛行機を飛ばす新たな趣味にうつつを抜かしている――レオはそう思い始めた。(略)
ランドールとレオの間にある溝は(略)会社の売上の増加と共に(略)広がり続けた。

(略)

フェンダーの音の主な特徴はその心地よさで、濃く豊かに、なぜか爽やかな感じがあった。同社のアンプが出す音は、より澄んでいて歪みがなく、市場のほかの製品には出せないものだった。(略)どの音も(略)スピーカーから殴りかかってくる感じがあった。この音の特徴が(略)無数の競合他社に真似られる(少なくとも模倣される)ことになるのである。

(略)

売れないレス・ポール・モデル

 1950年代のロックンロールにおけるギブソンレス・ポール・モデルの黄金期は(略)カール・パーキンスがゴールドトップを使って[弾いた56年の大ヒット]〈ブルー・スエード・シューズ〉(略)

ひずみを好むサム・フィリップスによるレコーディングでも、パーキンスが用いたレス・ポールは、うなりも叫びも吠えもしなかった。それどころか、美しい快適な音で、無秩序な反抗ではなく冷静な気高さをもたらしていた。

(略)

50年代末までは、ギブソンレス・ポール・モデルに対して定期的に改良を行っても、暗い現実を覆い隠すことはできなかった。この楽器はまったくもって鳴かず飛ばずだったのだ。
(略)

50年代半ばに、社長のテッド・マッカーティの指示を受けて、セス・ラヴァーというギブソンのエンジニアが、アンプとつないでもノイズのハムが一切出ないピックアップを開発する。(略)

磁気コイルを2個組み合わせ(略)逆極性でハムを打ち消し合っていた。その利点は静かさだけではなかった。シングルコイルによる耳を刺すような特徴的な音に代わって、魅力的なことに、低くて太い、パンチがある力強い音を出したのである。

(略)

ギブソンは翌1958年に、レス・ポールが大いに気に入っていたゴールドトップに見切りをつけ(略)美しいチェリー・サンバースト・フィニッシュを施したギターを売り出す。(略)

新しいハムバッキング・ピックアップとチェリー・フィニッシュをもってしても、レス・ポール・モデルの売上減を食い止めることはほとんどできなかった。

(略)

[それでも]会社が危機にさらされることはなかった。ギブソンはエレクトリック・ギターの全メーカーの中で、依然としてトップの市場シェアを保っていたからである。だが、重要度が増していたのはソリッドボディのみであり、アメリカでトップを走る会社にとって、レス・ポール・モデルは弱点となっていた。

(略)

1958年にバディのストラトが巡業先で盗まれると(略)新しいギター2本とアンプを[無料提供](略)それがフェンダー社の典型的な取り決めだった。ドン・ランドールは、アーティストに金を払って自社製品を使わせることは決してなかったが、名のあるパフォーマーが希望した場合には、彼らが無償で手にできるよう手配した

(略)

[ランドールが考える]重要なミュージシャンとは、バディ・メリルのような人物だった。レス・ポールふうのカントリージャズのスタイルで、テレビの音楽番組「ローレンス・ウェルク・ショー」に出て演奏を披露していた、品のいい若者である。(略)

フェンダー社は、雑誌の広告にバディ・ホリーの名は一度も出さなかった。多くの大人と同じく(略)ロックンロール・ミュージックは一時的な流行にすぎないと確信して[いたため]

次回に続く。

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フェンダーVSギブソン 音楽の未来を変えた挑戦者たち

レオ・フェンダーレス・ポール

(略)

未知なる新しい音の世界を生み出せたのだ。
聞き手の聴覚体験を変化させているテクノロジーを、どこよりももたらしてきた会社があった。

 安価で丈夫な楽器をアマチュアにもプロにも等しく提供して、エレクトリック・ギターをどこにでも存在するレジャー用のアクセサリーとした企業(略)

 競合他社は、そのフェンダー・エレクトリック・インストゥルメント社が作り出す製品を長いこと馬鹿にしていたが、この南カリフォルニアの新興企業には、他社にない強みがあった(略)独習の職人の存在である。さえない作業着に年中身を包み、起きている間は自分の研究室で設計や製造に没頭することを好むクラレンス・レオニダス・フェンダーは、ポピュラー音楽にエレクトリック革命をもたらした楽器を完全なものにするべく、根を詰めて絶え間なく働いた一方で、自身は楽器をひとつも弾けなかった。

(略)

 ストライプの半袖シャツ姿のビーチ・ボーイズは、身だしなみも品もよく見え(略)純真な若者のようだった。『ビート・パレード』を締めくくったのは(略)あからさまな敵意という表情をしたイギリスの5人組だった。(略)小さなソリッドボディのそのギターはうなるような音をしてみせ、押し寄せる低くて太い音は、ビーチ・ボーイズフェンダーのギターから発せられた、か細い光線状のものとは、これ以上ないほど違っていた。(略)

ビーチ・ボーイズが体現していたのは、10代の恋物語や楽しい気晴らし旅行としてのロックンロールのライフスタイル(略)そのあとに登場したローリング・ストーンズは、ロックを肉欲の幻想(略)にしていた。(略)

その違いを際立たせていたのが、ロンドンの中古楽器店で見つけた(略)強烈な音を生み出す秘密兵器(略)ギブソン社によって作られた、レス・ポールの名を冠したギターである。(略)イギリス人ロッカーたちのおかげで、このレス・ポール・モデルはまもなくして再浮上を果たすと、フェンダー社のギターの最大の仲間にしてライバルになる(略)

 レオ・フェンダーが物静かで人前に出ないタイプだったのに対して、レス・ポール自身は人として目立って華やかで、声高に発言する、みなに知られた存在だった。優れたミュージシャンで才能ある技術者、人気者にしておどけ者、話し上手の努力家で、ポップスチャートのトップに立つことを望んでいた。(略)演奏を始めた当初から、レスは既存のギターを十分ではないと見ていた(略)大きくてサステインがいつまでも消えない、完全にエレクトリックなギターの音(略)

 その純然たる音(略)を探し求めた結果、レス・ポールはカリフォルニアにたどり着いて、同じ問題に関心を持つ独習の職人レオ・フェンダーと慎重な友人関係を結ぶに至る。このふたりは一緒に実験を行って、音楽の未来を切り開き始めた。(略)

[だが]斬新なデザインがとうとう現実のものになるとふたりの友情関係は破綻してライバルになったのだ。

(略)

レスの生い立ち、自作のログ

1915年6月9日にレスター・ポルスファスとして生まれたレスは、誕生当初から母親に溺愛され、甘やかされて育てられた。8歳でハーモニカを手にすると、それを熱湯に浸せば音がよくなることを偶然にも発見した。子どもの頃は、母親のエヴリンの自動ピアノや電話機、蓄音機、果ては電気のスイッチまで、よくバラバラにしては再び組み立てたものだった。(略)

10代半ばを迎える頃には、組んだばかりのバンドでリーダーを務め(略)[夜には]酒場へ潜り込み、老練なミュージシャンを探し出してはコードやリックを覚えた。

(略)

14歳のときに(略)バーベキュースタンドの未舗装の駐車場で、ひとりでよく演奏を披露し(略)[自称"レッド・ホット・レッド"は]かなりのチップを稼いでいた。(略)

ある昼下がり(略)[給仕から渡されたメモに書かれていたのは]曲のリクエストでもなければお褒めの言葉でもなく、レスの声とハーモニカは聞こえるのに、ギターの音は聞こえないというお客からの苦情だった。(略)

[父の自動車修理工場から]ラジオと蓄音機のセットの中身を拝借(略)[母親のラジオにマイクをつなぎ、]蓄音機のレコード針をギターの表板に差し込んだ(略)レコード針のワイヤーを父親のラジオにつなげた。(略)

レスの声とハーモニカは一方のスピーカーから響き、ギターは荒々しく濁っていながらも、それまでよりも大きな音でもう一方のスピーカーから鳴ったのだ。これにより店のお客も、レッド・ホット・レッド[レスの自称]によるあらゆる音を聞くことができた。(略)客は大いに沸いて、その午後のチップは3倍になった(略)のちにこう語った――「エレクトリック・ギターはカネになる」。

(略)
1940年までには、電気を使って音量を上げるギターを、多くの会社が販売していた。NYでは、レスはギブソン社のモデルを愛用した。(略)

[だがレスはその音に]深く失望した。

 1940年にエレクトリック・ギターとして通っていたものは、実際のところはひとつの点を除いて、あらゆる面でアコースティック楽器だった。レスが使っていたギブソンES-150は厚みのあるホロウボディで、ほかのアコースティック楽器と同じく、音を響かせるF型のホールが表板にあった。(略)アンプの音を大きく上げすぎると、アンプから出る音がギターのボディ内で反響し(略)ハウリングを起こしてしまい、演奏が損なわれるのである。

 レスが本当に求めていたもの(略)とは、完全なエレクトリック・ギターから出される完全な電気の音だった。(略)スティール弦からの明瞭な電気信号のみが(略)望むほど大きな音になるというもの(略)を自ら作り始めたのである。

 厚さと幅が4インチ、長さが約2フィートというパインの粗い厚板(略)の端に、余ったエピフォンのギターネックを接着剤でくっつけた(彼は同社の工場主を説得して、この実験に協力させていた)。中央部分には、自作のエレクトリック・ピックアップ(略)彼はこれを、"丸太"を意味する"ログ"と呼んだ。(略)

[大きな音は出たが、客の受けはなし。見た目のせいかと]

エピフォンの工場へ行くと、古いアコースティック・ギターのボディを半分に切って、その両サイドを翼のようにログに取りつけてみた。(略)

[再度バーで演奏]観客は「目を見開いて聞いていた」(略)ログよりもはるかにいい音を出すソリッドボディのギターは作れないかと(略)レスは考え始めた。

(略)

1941年5月の蒸し暑い昼下がり(略)アパートの地下室で、ミュージシャン仲間とくつろいでいた。大汗をかいている彼がエレクトリック・ギターと金属製のマイクスタンドを同時に触ったところ(略)体内を電流が駆け抜けた。レスが助けを求めて叫び声を上げる(略)一同がマイクスタンドを蹴り飛ばしたときには、レスの両手からは感覚がすっかりなくなっていた。電気の衝撃によって筋肉が裂けたのだ。彼は何週間も入院するはめになり(略)ギターを弾くことのできないギタリストになっていた。
(略)

[ギブソン社にソリッドボディを売り込むレス26歳、ギブソン上層部は苦笑で却下]

ギターのいちばんいいところは、響孔からにじみ出てくる、豊かで軽快な音色ではないか。それを完全に取り去るなど、愚の骨頂である。
(略)

その後10年近くにわたって、彼らその姿勢を改めることはなかった。

(略)

天才技術者、レオ・フェンダー

1909年8月10日に、クラレンス・レオニダス・フェンダーが生まれた(略)

[10歳のレオは車の下へ潜り込み底面を観察]

自ら描いた絵を母親に見せた。ハリエットは、その絵を見るや驚いた。10歳のわが子が車の底面を細かく正確に描いていて、さまざまなパーツの外観のみならず、それぞれの機能や関係性まで捉えていたからだ。(略)

まもなくして、彼は自身のライフワークと結びつくテクノロジーを知った(略)ラジオである。

(略)

高校生になる頃には、アマチュアの周波数で送信を行える免許を取得(略)学友たちの間では、壊れたラジオはどんなものでも直せる腕前と、細かい機械的分析を長々と行うことで知られていた。(略)

電子技術も工学技術も、正式な訓練を受けたことは一度もなかった。むしろ、彼はそれらを自然と理解していた

(略)

単純なアコースティック・ギターを作っても、それを弾いたりチューニングを行ったりはできるようにはならず、主に技術上の対象物や振動を生み出す道具と見ていた。彼は一度もギターを弾けるようにはならなかったが、のちに本人が説明したところによると、彼がその楽器を好きなのは、弦によって生じる倍音の正確なパターンだという。ほかの人には音楽が聞こえていたが、レオには物理的性質が聞こえていたのだ。

(略)

レスとコリーン・サマーズ

[22歳のギター弾き&歌手コリーン・サマーズは田舎者の庭師みたいなレス・ポールにがっかり]

レスが目にしたのは、期待のこもった褐色の瞳と相手を圧倒するような笑みで、地元で何人もの求婚者を悲しませてきた、才能豊かな若い女性の姿だった。(略)サマーズは(略)ラジオ番組内でトリオ編成のサンシャイン・ガールズを率いており、南カリフォルニア周辺で人気を集めていた。

 その声と経験から、レスは企画していたヒルビリーのラジオ番組には、サマーズが格好の引き立て役になると考えた。彼の見た目には失望したサマーズの方も、出演依頼にはすぐに応じた。

(略)

レスは1943年にシカゴからハリウッドに出てきた(略)ほぼ同時に徴兵されるも、米軍ラジオ放送用のレコード制作というおいしい仕事を、いつものように言葉巧みに手に入れ(略)ハリウッドの半数と顔なじみになった。そして1年後には、うまく話をつけて除隊になると(略)[憧れの]ビング・クロスビー本人とついに出会うことができたうえ、彼を魅了した。
1945年7月(略)[二人は]〈久し振りね〉という気だるいバラードをレコーディング(略)[中盤16小節分]響き渡るエレクトリック・ギター(略)生涯で最高のソロのひとつ(略)[10月リリース、ロングセラーに]

驚異的な成功を受け、恩を感じたクロスビーはレスを説得して、自宅のガレージを個人所有のレコーディング・スタジオへ改築する手助けをすると共に、見事なレコーディングを行う才能を持つ素晴らしいギタリストがいるという評判を広めた。クロスビーの後ろ盾を得たことで、レスの家の裏庭を訪れる人の流れは引きも切らなくなった。その中には、歌うカウボーイのジーン・オートリー、コメディアンのW・C・フィールズ、ジャズ界の大物アート・テイタムといった有名人も含まれていた。(略)

1940年代のハリウッドでは、民間のレコーディング・スタジオは官僚的で旧態依然とした企業が運営しており、どの時間を予約しようが極めて高額なうえ、制限が厳しかった。(略)

ごく普通の家の裏庭に個人が所有するスタジオがある誰でもどの時間でも、(少なくとも初回は)無料でレコーディングを行える場所があるというのは画期的だった。

(略)

[言い寄るレスを]サマーズはきっぱりとはねつけた(略)魅力的とは思わなかったし、当然ながら言い寄る男には事欠かなかったからだ。16歳になったときから、地元の男の子たちはサマーズのことを熱心に追いかけていて、彼女の方も注目されるのを楽しんでいた。22歳になっていた彼女は、すでに結婚を二度していたが、最初の結婚はほぼすぐに無効となり、2度目の結婚も彼女が演奏活動をやめるのを拒んだため、離婚に終わった。

(略)

[既婚者のレスは若く美しいカントリーシンガーと恋に落ちる]

ジーン・オートリーのバックで歌うコリーン・サマーズと区別するため、レスはこの22歳の共演者を"メリー・ルー"と名づけた。

レオとレスの出会い

レオがそれを友人のクレイトン"ドク"カウフマンと共に作ったのは、1943年のことだ。(略)4年後、フラートンのカウボーイ・ギタリストたちは(略)その黒いギターを求めるようになった。それは一点しか置いてなかった。作りがみすぼらしくて売れなかったからだ。それでもレオがそれを貸し出すと、毎週末に貸し出される事態が何ヵ月か続いた。

 レオとドクはかつての試験台を、エレクトリック・スティール・ギター――テーブルのような平面上で、弦の上に金属の棒を走らせて演奏し、カントリーやハワイアンの音楽に主に使われるもの――ではなく、スタンダード、つまり"スパニッシュ"ギターへと作り上げていた。素手で爪弾き、胸に抱えて持ち、はるかに幅広い使われ方をされるタイプに。(略)そのボディには音響用の中空がなかった。堅い木の厚板に弦とエレクトリック・ピックアップがついているだけ(略)ふたりはスティール・ギターの作り方しか知らず、スティール・ギターは堅いものだったからである。こうして要は偶然により(略)異端のギターを作り上げたのだ。その堅いボディのおかげで、このラジオ店の黒いギターは誰もが望む大きな音、バンドの中にあっても埋もれないほどの大きな音を出すことができ、しかもハウリングは起こさなかった。
(略)

[46年借金負担を恐れカウフマンが離脱]

 レオは自分の楽器を流通させるべく、新たなパートナーに頼ることにした。フランシス・ケアリー(F・C)・ホールとドン・ランドール(略)ラジオパーツの卸売業のオーナーと支配人(略)レオはフェンダー社の電気楽器の設計と製造(略)ホールのラジオ&テレビ機器会社がそれらのマーケティングと販売を行った。(略)[実際の業務は]28歳の元店員で野心家のドン・ランドールに任された。

(略)

 5000セットのスティール・ギターとアンプというホールによる初回注文に応じるため、レオはライフルの銃床用だったクルミ(ウォルナット)で満載の貨車を1両買い求めた。(略)時間をかけて組み立てていくうちに、木の板は劣化したうえ、シロアリがついてしまった。(略)販売員が(略)実演を楽器店で行ったところ、そのボディからシロアリがはっきり顔をのぞかせたという。(略)

[木材が湿っていたため回路腐食やひび割れが発生]

[ラジオ修理工のレオは]製造や木工技術の実地の経験もないまま、木製の楽器を作る工場を経営していた。(略)

注文が減ってきていたため、レオには債権者から身を隠して、工場の操業を断続的に止めるより仕方がなかった。(略)恥を忍んでF・C・ホールにすでに二度借金をしていた。(略)

[いよいよ切羽詰まった時に有能な販売員チャーリー・ヘイズが提案]

スタンダード(当時の呼び名で"スパニッシュ")・エレクトリック・ギターを作ってみてはと。(略)エレクトリック・スティール・ギターとアンプというフェンダー社の製品ラインを補完する、理想となるものだった。(略)

一方でハリウッドでは、ギターの名手になっても望んだ名声は得られないという気づきに、レス・ポールが向き合っていた。[自分の母親さえ息子と他人の演奏の区別がつかず](略)ギターの妙技を新たにマスターしても、すぐに誰かに真似される事態が続いていた。そこでレスは考え方を改めることにした。自身の優れた演奏能力、目標とする完全なエレクトリック・ギターの音色、そして理想とする斬新なレコーディングの新技術を組み合わせた、まったく新しいサウンドという一大プロジェクトだ。(略)
"サウンド・オン・サウンド"(略)いくつもの異なる録音を次々に重ねるというものである。(略)

レスのガレージスタジオにはミュージシャンが集まっていた。(略)ホアキン・マーフィーというスティール・ギターの名手[が素晴らしいアンプを作ってくれた男を連れてきた](略)

レスより6歳年上で、頭頂部がはげかけていたが、その人ははっきりとした発音でレオ・フェンダーと名乗った。ふたりはすぐさま、話し合うべきことが山ほどあると気づいた。

 どちらも音楽が大好きで、かつてはラジオのマニアであり、増幅された音の性質に他に例を見ないほど夢中になっていた。

(略)

「レオは、演奏している人の音を聞くと、自分のすべきことがわかるという人だった。これは賢くなければできないよ(略)彼は自分のギターアンプの音に耳を傾けては、それをどう変えたいと思ったかとミュージシャンに尋ねていた。(略)ギターに関しても同じことをやっていたよ」

 そうして、そこから友情関係は競争になっていく。(略)

両者が追い求めていたもの、それは音楽の未来の音だった。「レオはうちの裏庭にいて、例のギターを見ていたよ」――ログのことだ――「何年もね」と、レスが思い返す。「そしてこう言うんだ。『あれは僕がなんとかするよ』って」

 だがそのうちに、彼らはもうひとりの人物と出会うことになる。

ポール・ビグスビー

[レオが連れてきたのは同様にスティール・ギターを作っていたポール・アデルバート・ビグスビー]
どちらも自分の設計の方が優れていると信じていて、相手のものについてはたいして気にしていなかった。(略)

 1899年にイリノイ州に生まれたポール・ビグスビーは、レオより10歳、レスより15歳も年上だったため、当然ながら人生観に違いはあった。(略)

LAで彼が身につけたのが、鋳型の原型製作(略)[そのうえ鋳型も作れ]細かい機械部品の設計も製作も両方こなせたことから、自分は「なんだって」作れると豪語しており、それは誇張ではなかった。(略)

伝統的な技巧、ズレのない接合、板の仕上げにこだわるビグスビーは、売れた数ではなく、自身の最終製品の完璧な品質を、自らの成功の目安とした。レオ・フェンダーが完全な製品ライン(略)を大量市場になると見込んだところに投入したのに対して、ビグスビーは定評あるプロだけが手を出せるスティール・ギターを注文生産した。1本作るのに、1ヵ月かそれ以上を要した。1947年に、彼はある複雑なモデルに750ドルという値をつけたが、これは当時の新車のシボレーの半分の価格で、現在なら8000ドルに相当する。(略)
[レス・ポール家に集ったカントリーウエスタンのサイドマン集団に3人は]質問を浴びせた。この音の印象は?こっちを試してみるのは?このアンプにはもっとシャープさが必要かな?もっと響かせる?もう少し調和させる?これならガツンとくる?
(略)

[それから3人は]細かい点を話し合った。音響技師だけが気にかけるような、周波数の均一化、スピーカーの種類、キャビネットの大きさのことを。さらにはピックアップに用いるマグネットの種類、ピックアップをギターに取りつける場所、そのような細部がギターのトーンを変えることについても。(略)
音楽がより大きな音を得て激しさを増し、アコースティック楽器の限界に挑んでいることははっきりしていた。(略)

作られるのを待っている状態のまったく新たな道具が存在するという意識が、彼らにはあった。(略)

新しい設計を最初に完成させるのは3人の中の誰なのか(略)

熟練したギタリストはレスだけで、レオは電気関係に強く、ビグスビーは名人級の職人だ。(略)

 口火を切ったのはビグスビーだった。彼がレスのところに新しいピックアップ(略)を持っていくと、レスは自分のメインのギターのひとつにそれを取りつけ(略)気に入ったので、これについては秘密にしようとした。誰かがカメラを取り出すたびに、右手で覆って隠したのだ。が、それもうまくいかなかった。(略)

[マール・トラヴィスチェット・アトキンスらも所望]

(略)

 その年の平日の午前に、決定的な展開があった。(略)

[マール・トラヴィスがビグスビーに]

「なんでも作れるって言ったよな?」(略)

「なんだってな」と、ビグスビーが吠えるように答える。

「俺が絵に描いたギターでもか?」

「もちろんだ!描いてみろよ!」

 そこでトラヴィスはKXLAの台本の紙を手に取ると、新しいギターのデザインを描きだした。(略)

彼が望んだのは、スタンダード・アコースティック・ギターのボディとは長さも幅もほぼ同じながら、厚みをかなり減らしたエレクトリック・ギターだった。ボディはスティール・ギターに似ていた――ほぼソリッドでサウンドホールがない――が、厚みは1インチ半ほどしかなかった。そして、エレクトリック・ピックアップひとつと飾り立てたバイオリンふうのテールピース、ほかにも装飾的な細部で仕上げるというものである。(略)

クランカー、〈ラヴァー〉

レオ・フェンダーとポール・ビグスビーとのやり取りに興奮したレス・ポールは、NY時代に作ったログのギターを使うことはほとんどやめて、実験的な新しい楽器を使っていた。(略)

エピフォンのホロウボディを改造した3本のギターで、それぞれの背面には工場で開けられた穴があり、おかげでピックアップやその他のパーツを容易に交換できた。レスが名づけた"おんぼろ"を意味するその"クランカー"には、ボディから飛び出たボルト、ハウリングを抑えるためにサウンドホールを塞いだ黒テープ、それに音響の振動を制限するために弦の下に据えた金属板があった。(略)

アルミ板と古いギターのネックから作り出したのが、もうひとつのプロジェクトの"ヘッドレス・モンスター"だった。アルミ板を曲げてギターのボディになるようアメーバ状の塊にし、それにネックをボルトで留めたのだ。弦を張る方向を通常とは逆向きにしたため、このギターにはペグのついたヘッドストックは存在しなかった――ヘッドの部分が何もなく、ネックが途中ですっぱり切れていた。こうしてできたのが、ピックアップがひとつあって、ヘッドのないエレクトリック・ギターで、ボディは金属の薄板からなり、音響特性というものはまったく存在しなかった。「火星から来たもののようだったよ」と、ある友人が振り返っている。

 それでも、その音は素晴らしかった。レスのバンド仲間だったジミー・アトキンスは、「それまでに作り出されたものの中で、間違いなく最高にクリアな音質を持つ楽器」と述べている(略)。「見た目は弦を張ったフライパンのようだったけどね」。このヘッドレス・モンスターはスタジオでは大いに活躍したが、活躍の場はそこにかぎられていた。ステージ上では照明の熱により、アルミのボディが膨張して弦のチューニングが狂い、非常に頼りない楽器になってしまうことに、レスが気づいたのだ。彼は(略)ギターには木製のボディさえ必要ないことを証明したが、ログの場合と同様に、自分が望むギターを見い出すまでには至らなかった。(略)

1947年後半[レスは別の突飛な実験を行った](略)

1本のギターが基準ピッチでアウトラインのコードをかき鳴らすのに対して、スピードアップした数え切れないほどの層がリードメロディーを繰り出し、輝くような小さな音を降り注がせ(略)目もくらむような音の渦を形成した。(略)

〈ラヴァー〉に対する反応を目の当たりにしたレスは、この曲はリリースすべきものと見て取った。提携先のデッカ・レコードには、あまりに過激な出来栄えとみなされたことから、彼はキャピトル・レコードにかけ合うことにする。わずか5年で国内最大手のレーベルのひとつになった、LAの新興企業だ。(略)

スピードアップされたエレクトリック・ギターの波がぶつかり合うのを驚きの表情で聞くや、コンクリングはその場でこの曲のリリースに同意した。(略)

これによりレス・ポールは、もはやただのサイドマンではなくなった。今やアーティストとして、ソロのレコード契約を手にしたのだ。(略)

[若い愛人を連れ実家に向かったレスは風邪で朦朧となりつつ吹雪のオクラホマへ]
うとうとしていると、メリーの叫び声が耳に入った。ハッとして体を起こしたところ、氷に覆われた橋の上でビュイックが横滑り(略)木製のガードレールを突き破り、20フィートほど下の峡谷へと落ちていった(略)後部座席のスピーカーが車の幌を突き破ると同時に、ふたりも投げ出された。(略)

事故によって電話線が切れたため、当局は現場を見つけることができた。(略)メリーは(略)骨盤にひびが入ったほかは、かすり傷程度だった。一方でレスの方は脾臓が破裂して鼻骨が折れたうえ、鎖骨と肋骨6本、それに骨盤にひびが入っていた。(略)

最もダメージが大きかったのが彼の右腕(略)肘を含めて3箇所が砕けていたのだ。肩から先は切断しなくてはならないかもと、医師たちは考えていた。

レオ、ビグスビーのギターを分析

ステージに上がったマール・トラヴィスがそのケースを開けて取り出したものに、レオの目は釘付けになった。それはスタンダード・ギター[だが、厚みは4センチ、サウンドホールの代わりに磁気ピックアップ](略)完全にエレクトリックだったのだ。

(略)

レオはチャンスを逃さずにトラヴィスに近づくや、その"新奇なギター"について尋ねた。トラヴィスは(略)その楽器の長所を並べ立てた――音が大きい、見た目が美しい、薄くて演奏しやすい。ボディがほぼソリッドウッドであるため、弦はスティール・ギターのものと同じように鳴り響くという。ヘッドストックには華麗な書体で、"ビグスビー"という名前が記されていた。(略)

スタンダード・ギターでより大きな音を出すようにする唯一の方法とは、完全にエレキ化して、サウンドホールや音響用の大きな空洞を排除すること――ギターをギターたらしめてきた大部分のものを捨て去ることだったのだ。ビグスビーはすでにそのような斬新なものを作っていたようである。だが、果たしてどの程度機能するものなのか?(略)

[トラヴィスに頼み込み、次の土曜まで借りることに]

レオは――こういう出来事があったことを生涯にわたって否定するものの――その夜、セダンのベンチシートにその薄いケースを載せて、フラートンへと帰った。
(略)

ビグスビーのギターは魅力に満ちていた――レオにとっては、危険極まりないほど。(略)彼はそのギターを作業場へ持ち帰って、電気信号を流してオシロスコープで見たくてたまらなかった。(略)

 運がいいことに、このときのレオには生産面と設計面の両方において、助けになる人物がいた。(略)ジョージ・フラートン(略)レオより14歳年下で、腕の立つギタリスト(略)

電子工学、機械学、木工技術は理解していて、イラストレーターで画家でもあり、ギターは演奏も作ることもできた。(略)

保証期間内に送り返されてきた何百ものスティール・ギターとアンプの改造に向けた作業をふたりで始めて、着実な前進を果たしていく。1948年の晩冬にその作業をついに終えると、レオとジョージは廃棄するスティール・ギターのボディやアンプキャビネットの山に工場裏で火をつけて、フェンダー社の失敗といえるものの証拠をすべて灰にしたのだった。(略)

ジョージ・フラートンはその後46年にわたって(略)製造、設計、検査を行い、さらにはレオと世間との橋渡し役もこなすのだ。

(略)

 レオとジョージは薄ら寒い夜に工場で、最も基本的な疑問に向き合っていた。(略)

音響用のボディが本当に不要なら(略)いったい何が必要なのだろう?(略)

新たに作り上げることになるこのギター(略)エレクトリック・ピックアップを取りつけることで生じる、核心的な問題を解決するものになるはずだった。つまりハウリングである。レオとジョージの主な目標は、演奏を台無しにしてしまう甲高い音や、うなるような音を生じさせずに、演奏者に大きな音を出させることだった。

(略)

ギブソンのような大手は、低価格の単純モデルから高級な贅沢品まで幅広い商品を提供できたが、レオが望んだのは、フェンダーのギターを平均的なセミプロの人の手が届く価格で売ること(略)要は、音が大きくて、丈夫で、安価なものである。

(略)

ビグスビーが作ったギターを借りて調べたときと同じように(略)

レオはリッケンバッカーの方法を借用して、ネックとボディはボルトで留めるだけにした。これは労力が最低限で済むうえ、ネックを取り替える必要が生じても、演奏者自身が5分で行うことができた。この方法が当時の一般的な美意識に反していることなど、レオは気にならなかった。この方が著しく実用的だったからだ。(略)

レス・ポール、右腕を失いかける

 オクラホマシティの病院のベッドで横になったレス・ポールは、死線をさまよっていた。(略)事故の記事には、レスは助からないかもとあった。肺炎に苦しみ(略)咳き込んでは悲鳴を上げた。(略)命は助かるという見立てにはなっていたものの、ギターを弾く能力は失われる恐れがあった。(略)
[メリー・ルーは数週で回復し、ジーン・オートリーとの巡業に出た、キャピトルは1948年2月23日に〈ラヴァー〉を発売、B面は同じく未来的なインストゥルメンタル〈ブラジル〉](略)

評論家連中は褒めちぎった。「ポールはギターによるワンマンバンドになった。個別にレコーディングした6本のギターを重ねている(略)その効果たるや絶大かつ見事だ」。しかも、これは〈ブラジル〉についての評だった。〈ラヴァー〉そのものについては(略)「いやはや、これはやりすぎだ……あまりに見事な技術ゆえ、滑稽なほどである」。国中のDJが両曲を1日に何度もかけ始めた。(略)

[だが]何もかも、レスにとっては無意味だった。(略)右腕はかろうじてくっついている状態であり、食べることも眠ることもままならなかったのだから。惨めな思い細心の注意を払って築き上げてきた人生が、演奏で使う右腕のように、あちこちでバラバラになっていた。(略)長期に及ぶのが確実な回復期間中に、キャピトルが自分をどのように扱うのかも不明だ。キャリアは先がまったく見通せなくなったうえ、治療費はかさむばかり。(略)

パフォーマーとしてようやく自力で有名になったのに、それをまったく享受できなかった。(略)

[2ヶ月後、LAの病院へ転院]

[腕を残すべきか廊下で口論になった]ふたりの医師はレスの病室に入ってくると、この選択肢を彼に突きつけた。肘を再建する危険な試みか、右腕を完全に切り落とす手術か。(略)

右脚から移植する一片の骨と7本のネジで固定された金属板で、肘を再建するというものだった。医師が腕を固定すると、レスは二度と肘を曲げられなくなるかもしれなかったが、肩と指に柔軟性が戻る可能性はあった。そうなるのがいちばんいいケースだった。

 手術を始める前に、腕を固定する角度について、医師たちがレスの希望を訊いてきた。「へその方に向けてくれればいい。そうしたら演奏できるから」と、彼は答えた。

(略)

回復の見込みが大いに出てきて、かなり楽観的になったレスは(略)この小休止期間を活用し(略)電子工学関係の手引書や哲学書に目を通しては、深く考えをめぐらせた。(略)

[ジャズ演奏だけの]自分たちのあとでアンドリュース・シスターズが出て歌い始めるや、観客は沸きに沸くんだ。(略)

[〈ラヴァー〉の未来的な目新しさも、いつかは薄れてしまう]

[メリー・ルーはヒルビリー歌手で"取るに足りない"と思っていた]

彼が求めていたのはもっとパワフルな女性ボーカルで、ローズマリー・クルーニードリス・デイ、ケイ・スターのような人物だった。

 指に感覚が戻ってくると、レスは独学でギターを覚え直した。これはクイーンズで感電したあとに試みたことがあったが、今回の方がはるかに大変だった。胸部をぐるりと石膏で固められていて、ギターを体に寄せて持つことさえかなわなかったのだから。そこで、ギタースタンドを改良して、その上にギターを載せることにした。それからまもなくのことと思われるが、その取り組みを多少なりとも軽減させるものを持って、ポール・ビグスビーが現れた。(略)
[ソリッドボディのエレクトリック・ギター]

 レスはその後長いこと、この楽器については何も知らないと発言することになる。自分のために作られたビグスビーのギターが存在すると、長くて有益なギブソン社との関係が大いにややこしくなるからだ。ただビグスビーは、自分の作ったギターの型紙には演奏者の名前を入れていた。数十年後のこと、ギター研究者の一団が古い楽器工場の片づけを行った際(略)ビグスビー本人の筆跡によるレスの名前が入った型紙[を発見](略)

レスに見せたところ、彼もとうとう認めた。「ビグスビーが、自分で作ったその小さなギターを持ってきた(略)それを少しいじったあとは、ギターの山へと放り込んだよ。あまりに小さくて、弾くのが難しかったから」

(略)
 指先に敏捷性が戻ってきて、右肘がずっと曲がったままという状態に慣れると、レスは新曲をいくつかレコーディング(略)治療費のせいで、破産寸前に陥っていたからだ。(略)

[メリー・ルーの件もあり、妻は子供を連れ実家へ]

レスはハリウッドの家にメリーを住まわせた。(略)友人は、その変わり身の早さにあきれたという。「4週間後のことでした」

レス&メリーの誕生

[事故から1年半、49年夏、二人は舞台に立つ]
レスには、観客がメリーを気に入ったことはすぐにわかった。激しく恋をしているこのふたりには当然ながら輝きが満ちていたうえ、お互いに繰り出す愛情のこもった冗談は、真似ようとしてもできないものだった。(略)

レスは地元の電話帳をめくって、彼女のために新しい芸名を探し(略)メリー・フォードにすると決めた。(略)

レスはNBCをうまく言いくるめてラジオ番組を持たせてもらい(略)ふたりは1回15分の出番で週給150ドルを得たが、これは借金せずに生活できるぎりぎりの金額だった。

 その夏のある日、レスの古い友人のビング・クロスビーが車のトランクに贈り物を積んで、ハリウッドのレスの家にやってきた。その贈り物とは[レスには手が出ない]録音機アンペックス・モデル300で、その後何十年にもわたってレコーディング・スタジオに標準装備される機材の初期のものだ。(略)

元々の録音へッドに第2の録音ヘッドを追加するだけで、多重録音、つまり"サウンド・オン・サウンド"が可能になることに、レスはすぐさま気づいた。(略)

しかも持ち運びが可能であるため、レスとメリーはNBCの毎週の番組を巡業先で録音できるのだ。(略)

シカゴのブルー・ノートで出演(略)服装に関しても騒ぎを招いた。(略)スーツやタキシード姿でステージに立った時代に(略)

「スポーツシャツ、アイロンがかけられていないズボン、アーガイル柄の靴下、それにローファーという格好のレス(略)魅力的なブロンドで、歌を歌ってセカンドギタリストをこなすメリー・フォードも、同じくらいに砕けた格好だった」。

1949年12月28日に[二人は結婚]

ビグスビーを真似たフェンダー試作品

[49年秋フェンダー試作品を手にしたジミー・ブライアント]

アンプのボリュームをひりひりするほどまで上げて、そのフェンダーのギターの細いネック上で流れるように弾き始めた(略)稲妻のごとき速弾きで、それは彼がフィドルによるブレークダウンの演奏から身につけたものだった。(略)

フェンダーのギターが出す音はブライトで鋭く、低音と高音が強調され、それに中音域がか細く響いていた。(略)

ブライアントとその試作品のギターは、あっという間にその夜のメインの出し物と化し(略)

[観客の]反応は、エレクトリック・ギターがパワフルなボリュームと優れたトーンをもたらしさえすれば、ギターそのものは丈夫かつシンプルで平凡なものでいいというレオの考えの正しさを証明したのだ。

(略)

 レオがこの試作品のギターを南カリフォルニアで見せて回っていたとき、注意深く見ていた者は、ポール・ビグスビーがマール・トラヴィスのために作ったギターとの類似に気づいた。どちらのギターもボディの寸法がほぼ同じだったうえ(略)指がハイフレットに届くようにボディの一部にカッタウェイが施されていたからだ。レオが競争相手のものを真似ただけと思った者もいた。「フェンダーのギターを設計したのは私で、最初の1本を作ったのはビグスビーだよ」と、トラヴィスは後年に語っている。事実、レオがビグスビーから真似たという証拠は、その後も現れ続けるのだ。

(略)

 ただ、ビグスビーのギターが昔ながらの職人技を体現していたのに対して、レオの試作品は大量生産の時代に適応していた。(略)ビグスビーは、トランプの模様のような指板のインレイから、手作業で何時間もかけたネックジョイントまで、細部にこだわっていた。一方でラジオの修理工だったレオは、パインの木の塊ふたつを接着させると角は取って丸め、メイプルの板から切ったネックをボルトで留めたのち、クロームメッキとプラスチックで仕上げを施していた。これは伝統的なデザインからモダニズムへの大きな飛躍であり(略)

ビグスビーによるトラヴィスのギターが(略)6弦の楽器界における高級車のロールス・ロイスだったのに対して、レオが作ったのは大衆車のフォルクスワーゲンだった。彼には、ごく普通のギターの方が極上品よりも売れるとわかっていたし、売る必要もあった。(略)[レオは]ネックジョイントの滑らかさに自らのプライドを注ぐような職人ではなかった(略)信号の明瞭さ、回路の構成(略)ギターネックの取り替えやすさによって自らを評価していた。

(略)

ビグスビーが(略)[注文品の完成を知らせると]ジミー・ブライアントは約束を反故にして、レオ・フェンダーとちょうど契約を交わしたところだから、そのギターはもう不要だと告げた。これにはビグスビーも激怒した。(略)ブライアントの名前を残らず削り取ると(略)黒いピックガードで覆って(略)ほかのミュージシャンに売り払った。

エスクワイア、ブロードキャスターテレキャスター

[50年夏NAMMフェンダー社は新製品"エスクワイア"をお披露目]

極西部のマイナー企業が奇妙奇天烈なものを作り出したとして、話題を集めた。(略)

弾きやすく、耐久性があり、修理も可能で、ハウリングを起こすことなく非常に大きな音を出せるという代物だった。

 競合他社は(略)"カヌーのパドル"や"弦付き便座"などと(略)馬鹿にした。(略)フレッド・グレッチは、「あれは絶対に売れないよ」と、同僚に話している。(略)

東部や中西部の会社は(略)ヨーロッパのギター作りの伝統に忠実に沿ってギターを作っていた。(略)

このカリフォルニアの小企業がしたように、木の板にネックをボルトで留めて、そうしてできたものをギターと呼ぶのは、異端に等しいことだった。それは大量生産品であり、職人技ではなかった。

 ランドールがミュージシャンたちにエスクワイアを見せると、彼らは興奮し、画期的と思う者までいた(略)[一方で]ひとつしかないリアピックアップが物寂しく貧弱に見えたのだ。「見た目は実に魅力的ですが、リズム面ではとてもいい楽器とはまだいえません」(略)このピックアップは(略)バックのコード演奏には、音があまりにシャープになりすぎたのだ。

 ある友人は、ランドールにこうも指摘した。補強されていないエスクワイアのメイプルのネックは、きつく巻かれた弦による圧力で反りやすいと。(略)

ランドールは見本市の会場で、ギブソン社がネックの内部に調節可能な金属棒を加えることで、反りを未然に防ぐ方法を考え出していたことさらには、その設計に関する同社の特許がちょうど切れたことを知る。「このことについては慎重に検討すべきだと、心から思います」と、ランドールはホールに伝えた。「欠陥品を売り出しては、自分たちに多大な被害を与えかねません」

(略)

「あなたはスパニッシュ・ギターの現状の深刻さをわかっていないように思います。すぐに何か手を打たないと、非常に悪い評判が立ってしまうでしょう。

(略)

 1950年6月28日、ハンサムで自信たっぷりなギタリストのジミー・ブライアントが、キャピトル・レコードでの初のレコーディング(略)

[といってもセッション・ミュージシャンとしてだが]

レオ・フェンダーによる新しいエレクトリック・ギターの音を捉えた、最初のレコーディング・セッションとなった(略)

テネシー・アーニー・フォードとケイ・スターが[デュエットするバックで](略)

スピーディー・ウエストはスティール・ギターから音を叩き出し、ジミー・ブライアントはフェンダーのギターで明るく澄んだフレーズを奏でた。

(略)

「例のスパニッシュ・ギターの出荷がすぐにも始められることを望みます」と(略)販売員デイヴ・ドライヴァーが、1950年8月15日にF・C・ホールにあてて書き記している。(略)

[しかし]レオ・フェンダーがその設計にいまだに納得していなかったため、フラートンの工場では大量生産を行えていなかった。

 わずかな数の見本は世に出ていた。レオは(略)デイル・ハイアットに対して、自身が"二級品"と呼ぶものを売ることを認めていた。(略)

[ハイアットは製品をトラックに山と積むと、バーや安酒場に立ち寄りながら、カリフォルニアのセントラルバレーを北へ]

バンドのギタリストはエスクワイアを気に入り、ステージ上で使い始めた。だが数分後、そのギターは急に音が出なくなった――ピックアップがなぜか信号を送らなくなったのだ。ハイアットには故障の原因がまったくわからなかったので、トラックまで戻り、別のエスクワイアを持ってきた。30分後、バンドがステージに出て曲を演奏している最中に、そのギターも音が出なくなった。(略)「[観客が]言い出すんですよ。『みなさん、また取りに行きましたよ。あの人はいったい何本持ってるんでしょうね』って」(略)幸いにして、ハイアットが持ち込んだ3本目のエスクワイアは、その晩の最後まで持ちこたえた。ギタリストは感心していた――エスクワイアの信頼性が微妙であることも気にならなかったようである。(略)
 この件を耳にしたレオは、エスクワイアの配線を短くしたら、信号が完全には切れずに減少するだけだと確かめた。彼はジミー・ブライアントの助けを借りて、ブリッジ近くのリアピックアップによって生じる単独の甲高いトーンとは別に、エスクワイアにさらなるトーンをもたらす第2のピックアップにも取りかかった。ジミーは自らをカウボーイ・ジャズマンと考えており、ほとんどのジャズプレーヤーと同じように、気品あるホロウボディのギターを高く評価していた。それもギブソン社のものを特に評価していて、ネック近くに置かれたフロントピックアップから生じる、ウォームでメロウなトーンがあったからである。レオが自作のフロントピックアップを試すと、ギブソンで最も見事なホロウボディのスーパー400の音に負けないよう、ジミーも彼を促した。そのギターの軽快さや温かみをエスクワイアで作り出すのは無理だったが、それでもレオは、高信号を遮断するフロントピックアップ用にクロームメッキの金属カバーを設計して、それを真似てみた。この第2のピックアップによってさらにメロウになった音は、フェンダー社のギターに斬新な特徴をもたらしたため、その年のレコーディング・セッションや公演では、ジミーはこれを大いに利用した。

(略)

 レオと工場の従業員はその秋の大半を、いわゆるトラスロッドの設計とそれを取りつける方法の検討に費やした。ジョージ・フラートンの父親で屈強な体格のフレッド(略)はネックの裏側に溝を設けて、そこにロッドを差し込み、細長いウォルナット材で覆うという方法を考え出した。こうしてフェンダー社のギターに、独特の視覚的特徴が新たに加わった。黄色いメイプルのネックの裏側を走る、茶色い木の"スカンク・ストライプ"である。

 1951年が明ける頃には、レオは自らのスタンダード・エレクトリック・ギターにようやく納得した。2個のピックアップ、すべてのペグが片側についた印象的な非対称のヘッドストック、光り輝くクロームメッキの各パーツと、フェンダーエスクワイアは劇的な変化を遂げていた。木の厚板だったギターがプロ品質の楽器となったことから、ランドールは前年にお披露目した旧モデルと区別する、新たな名称が必要だと感じ(略)"ブロードキャスター(Broadcaster)"と名づけることにする。このモデルが成功するには、どのみち主として電波に乗せることになるからだ。

(略)

[広告を見たグレッチ社から同社の主力ドラム製品の名称だとクレームの電報]

先の電報を受け取るや、フラートンにいた何者かが――おそらくはレオ本人が――ヘッドストックにあったデカールから"ブロードキャスター"のレタリングを削り取り(略)細字の筆記体で"フェンダー"とだけ記されたギターが、工場から出荷された。

[3日後、当時登場したてのテレビにインスパイアされ、ランドールは"テレキャスター"という名称をひらめく]

"ブロードキャスター"よりも新しくて鋭さがあり、時代にもより合っているうえ、テレパシーの感じが[あり](略)信じられないほどの弾きやすさをほのめかしていた

レス、ついにチャート1位獲得

[パティ・ペイジ〈テネシー・ワルツ〉が大ヒット]

この曲では、彼女の声が何層にもわたって多重録音されていた――レスが、自分から借用された、もしくは盗まれたと感じた技術である。彼とメリーは同曲の自分たちのバージョンをすぐさまリリースし、51年の初めにポップスチャートで第6位を記録した。(略)[批判を]レスは気にもしなかった(略)ギタリストとしての自らの評判とメリーの美声をもってしても、自分たちは相変わらず二流とみなされていると、強く意識していたためである。

 トップへ駆け上がるべく、レスはメリーを説得して、彼女が嫌った曲(略)いやになるほど繰り返しの多い〈モッキン・バード・ヒル〉[をリリース、チャート2位に](略)

 この成功に勇気を得たレスは、何ヵ月も放置されていた曲のリリースをキャピトルに迫った。

[A&R担当ジム・コンクリングは、既にカバーが何十と並び、どれも売れ行きが悪いと断固拒否]

"ジャズ界の国歌"とでもいうべきスタンダードナンバー〈ハウ・ハイ・ザ・ムーン〉(略)レスがクランカーのギターを激しく明瞭に爪弾き、重なり合うメリーの歌声は落ち着きある輝きをもたらしていた。

(略)

とうとう1951年の初めにチャンスが訪れる。コンクリングがコロムビア・レコードの社長に就任するためキャピトルを去ることになり(略)態度を軟化させたのだ。この曲の売れ行きが悪くても、自分の問題にはならないというわけである。

(略)

1ヵ月とかからずに、最も重要な「ビルボード」誌のポップスチャートで1位になり、その地位を9週連続でキープしたのである。ラジオでもジュークボックスでもどこでも流れて、ポップス以外のマーケットでも人気を博した。(略)リリースされた瞬間から、レスとメリーの人生は永遠に変わったのである。

 10月までの約半年間のレコードセールスは400万枚以上、1951年の年間合計では600万枚に達した。〈ハウ・ハイ・ザ・ムーン〉が1位の座についたとき、その前にリリースされた〈モッキン・バード・ヒル〉も、そのすぐ下の2位まで上昇していた。

(略)

レスとメリーが会得した秘訣とは、自分たちにあるすべての技をひとつにまとめること――レスのエレクトリック・ギターによるモダンで明瞭な音、メリーによるヒルビリーの感じが漠然とある快い趣の声、そしてサウンド・オン・サウンドのレコード技術による魅力あふれるテクスチュアを。観客には最新のものという衝撃を与える一方で、重要なことだが、口ずさみやすいという核の部分は変えなかった。

次回に続く。