ニック・ロウの人生と音楽 その2

前回の続き。

 

 

デビュー・アルバム、ジム・フォード

音楽的な影響という点で言えば、その前年、メンバーたちの家のターンテーブルにずっとデビュー・アルバムが乗っかっていたという、クロスビー・スティルス&ナッシュを大いに感じさせる。ニック、ボブ、ブリンズリーの三人は本家の鉄壁3部ハーモニーをほとんどマスターしていたし、ニックのリード・ヴォーカルはブルージーに歌う時のデヴィッド・クロスビーをほうふつとさせる。

(略)

「レディ・コンスタント」(略)はウッドストック以降のカリフォルニアの空気に対するクレヴァーなパロディだとも言えなくない。ただし、書いたのは(略)ケント州に住む、まじめでひたむきな20歳の若者なのだ。

(略)

5月初め、ニックたちは謎多きアメリカ人ソングライター、ジム・フォードに紹介される。(略)

 「デイヴ・ロビンソンが募金活動でアメリカに行ってたんだ」とニックは言う。「その時、リバティ・レコードのサイ・ワロンカーからジム・フォードのことを聞かされたらしい。『バンドに投資するので、見返りにジム・フォードと組め。一筋縄じゃ行かない天才だが、長髪のおまえならあいつと通じ合えるだろう』と。

(略)

カウボーイ・ハットにピンク色のサングラス(略)丸い爪先のカウボーイブーツの男。(略)いろんな意味でフォードは本物だった。(略)浮世離れしてて、ものすごいカリスマ性があった。3千ドルもするギターを1本携えてやって来たんだ。(略)ところが本人はギターなんてほとんど弾けなくて、それでもそれをかまえてジャーンってやるだけですごくかっこいいのさ。ジム・フォードみたいに弾くやつは初めてだったよ」

 「彼の方は僕らにまったく感心しないながらも、最大限の努力をしてくれてたんだと思う。一緒に〈ジュ・ジュ・マン〉を録音したんじゃなかったかな。

(略)

だいぶ作り話も多かったけど、これは本当かなって信じたのが、ボビー・ジェントリーと一緒に住んでたっていう話だ。当時RCAの電話交換手だった彼女が〈オード・トゥ・ビリー・ジョー〉をジムから盗んだって言うんだ。確かにあれは典型的なジム・フォード・ソングだ。その後のボビー・ジェントリーの作品と照らし合わせるとつじつまは合う。ジムの書く曲は基本ブルースなんだが、そこに"隠し小節"が数小節分プラスされてるんだ。

(略)

ジム・フォードの曲から受けた影響は僕にとって大きかった。ダン・ペン、スプーナー・オールダム、ジョー・サウスなんかと並び、パズルを完成するのに必要な最後のピースだったね」

 フェイムプッシャーズ本体は財政状況が火の車だった。(略)デイヴ・ロビンソンは、残されたわずかな現金を持って(略)田舎に大きい家を見つける。(略)

かつて私立女子校の別館だった建物はロビンソンとバンド、ブリンズリーの家族全員が住むのに十分なうえに、リハーサル室、寝室、犬舎、小さなオフィスのスペースもある。

「まるでお城だった。(略)僕らの分のベッドがなかったんで床に寝てたよ」

(略)

[エリル・ホルト談]

「コミューンだったわ。畑があって、奥さんやガールフレンドたちが野菜を育ててた。みんなが真っ裸で歩き回ってる時期もあったわ。すぐにそれはなくなったけど。私は厚手のセーターを着てたわよ」

(略)

リバティ・レーベルのもう一人のシンガー、P.J.プロビーとのレコーディングが行なわれることになった。(略)

 ニックはこう記憶する。「マーティン・デイヴィスから言われんだ。『P.J.プロビーはもう終わったも同然だが、個人的には素晴らしいアーティストだと思うんで(略)何か新しいアイディアでも出してもらおうと思ってる。(略)君たちはカントリー・ロッカーだし、どうだい?』ってね。驚いたなんてもんじゃない。プロビーこそ真のポップ・スターだと思ってたからさ。

(略)

まず、ローディが膨大な数のギターを持ってやって来た。全部プロビーのだ。考え得るすべてのタイプのギターがあった。プラス、打楽器が数箱分。思ったよ、『すげえな、こりゃあ真剣だぞ、あちらは』って。2時間後、カウボーイ・ハットのプロビーが来た。腕に絡みついてたのは女優のアンガラッド・リースだ。とびきりの美人さ。見るからに、私は嫌々来てるのよっていう様子でね

(略)

問題が発覚した。なんと送った曲をプロビーはまったく聞いてなかったんだ。

(略)

[それでも彼は]いい演奏をしてくれたよ」

 

 

イアン・ゴム加入、『ディスパイト・イット・オール』

[2ndアルバム]

デビュー・アルバムを特徴付けていたCS&N風サウンドは、ヴァン・モリソンサウンドに取って代わった。

(略)

 『ディスパイト・イット・オール』をさらに彩るのは、何度もオーヴァーダブで録られたシュウォーツが弾くギターだ。これをライヴで再現するには、もう一人ギタリストが必要だということになり、得意のメロディ・メイカー紙に求人広告が掲載された。

(略)

『ディスパイト・イット・オール』の完成を間近に控えた1970年8月、イアン・ゴムはブリンズリー・シュウォーツに加入した。彼がバンドにもたらしたのは、ポップスとエレクトロニックに関する詳しい知識と、ドライヴァーを使いこなす手先の器用さだった。

野心と音量を捨てる、LSD体験="シルヴァー・ピストル"

 崇拝するザ・バンドの音楽ルーツを遡るうちに、ブリンズリー・シュウォーツはかつてのカントリー・ロックから、未知のリズム&ブルースに心奪われるようになる。ローリング・ストーン誌が紹介する「今アメリカで起こっている音楽」のチェックも怠らなかった。輸入した最新盤をロンドンに受け取りに行くのはデイヴ・ロビンソンの役目だ。「デイヴのおかげでたくさん聴いたよ。トレイシー・ネルソン、エリア・コード615、クローヴァー......」とニックは言う。「アメリカから帰ってくるたび、どっさりとレコードを持って来てくれた。リトル・フィートのファーストの時も『街中、この噂でもちきりだったんだ。まだ僕も聴いてないんだよ』ってね。デイヴにはものすごい借りがある。世の中の動向に常に敏感だったし、たくさんの新しい音楽を紹介してもらった。ヒップな人脈もあり、言ってみりゃ"種を蒔くべき、豊かな土壌を持っていた"ってことかな。彼の貢献は見過ごすわけにいかないよ」

 5人組となったブリンズリー・シュウォーツは、寝ても覚めても音楽漬けの生活を送り、独自のスタイルを築き始めていた。イギリス中のほとんどのバンドが巨大なアンプを積み上げ、耳をつんざく大音量を鳴らしていた時、彼らは探せる限り最も小さなアンプを手に入れると、音量をなんと"下げた"のだ。

「ブリンズリーたちほど小さな音で演奏するバンドを聴いたことがなかった」[ローディ談]

(略)

 バンドが野心と音量を捨て、内向的になるにつれ、クリエイティヴ面の要であるニックには、それにふさわしい新曲を書かねばというプレッシャーがのしかかった。(略)LSDを思う存分摂取しながら、ニックは初めて迫り来る神経衰弱を体験した。

(略)

「暴れたり取り乱すわけじゃなかったんだが、言葉が出なくてね。完璧にイッちゃってたんだ。イアン・ゴムだけが事情が飲み込めずにいた。あいつのような分別がある人間がグループにいてくれたのは良いことだったよ」

(略)

やがてステージにも影響を及ぼし始める。突然、曲の途中で別の曲に変えてしまったり、演奏の手を止めてしまうこともあった。(略)

「驚いて見回すと、ニックは両手を挙げてベースは宙ぶらりん。『ニック、弾けよ!』と焦って叫んだが、あいつったら『いいんだよ、僕なしでも最高だから!』とか言ってるんだ」

(略)

前年、一緒にセッションをして以来、型破りなケンタッキー人、ジム・フォードはニックが大好きなソングライターになっていた。中でも好きだったのが「36インチズ・ハイ」だ。大きな白馬にまたがった兵士、ひるがえる軍旗、銀色のピストルといった歌詞から描かれるアメリ南北戦争のイメージ。(略)ニックはなぜかこの謎めいた曲に惹かれ、LSD体験のことを"シルヴァー・ピストルする"と表現するようになる。

 「あれは最悪のトリップ・ソングだった(略)あの頃の僕はひどい時期だった」

ローディのマルコム・アディソンも「ニックが人差し指を銃みたいに頭にあて『銀色のピストルでこの脳みそをぶっ飛ばす』と歌うのをよく見た」と言う。

(略)

[ドイツでのショウのあと、アモン・デュールⅡのメンバーの家に招かれ]

ガランとした空っぽの部屋を見て回るうちに、ガラスのアクセサリー・ケースが目に入った。中には銀色のピストルが2丁。「それが決定打だったね」とシュウォーツは言う。「その時すでにあいつは正気を失いかけてたんだ」

 バンドがイギリスへの帰途に着く頃、ニックの心は完全にどこかに行ってしまっていた。(略)

「(略)僕が運転してて、他の連中は夢の中。僕はニックに言った。『もう無理だよ。これ以上持ちこたえられないと思う』。ニックが答えた。『僕もさ。いっそあの木に激突しちゃえば?』。一瞬考えちゃったよ。(略)」

エッグス・オーヴァー・イージー経由でパブ・ロック

[その頃]アメリカからエッグス・オーヴァー・イージーというバンドがイギリスにやって来た。(略)

[契約問題が解決するまでぶらぶらしてろと言われ、ジャズの生演奏を行なっている近くのパブ『タリー・ホー』に自分たちを売り込んだ]

「もちろんさ、演奏するのはジャズだよ」(略)

[たまたまそれを観たデイヴ・ロビンソン]

オハラは当時を振り返る。「とにかくバンドに会ってくれないかと言われ(略)デイヴは僕らがクローヴァーをほうふつとさせると言ってた。ブリンズリーたちの印象?グレイトフル・デッドの影響を受けてるなってことと、ザ・バンドが好きだったってこと。彼らにとって僕らは本物のアメリカ人だった。こちらにしてみればごく当たり前のアメリカン・カルチャーに、彼らは夢中だったからね」

(略)

[ニック談]

「(略)翌日『タリー・ホー』に出かけたよ。客はまばらだったが、エッグス・オーヴァー・イージーの演奏は最高だった。(略)

すごく小さな音で演奏するんだ。当時としては珍しい小型のアンプを使ってた。偶然だけど、僕らも似たようなことをやってたから、エッグスがやってるのを見て、これで良かったんだと思えたよ。それに彼らはカヴァー曲をさらっとやっちゃうんだ。例えば〈ブラウン・シュガー〉とか。チャートに入ったばかりの曲をカヴァーする発想はそれまでなくて、すごくかっこいいと思ったよ。ルックスもまるで見習い僧のようで良かったね」

(略)

のちにマネージャーとなるダイ・デイヴィスは(略)当時のニックの様子を覚えていた。「エッグスには100を超えるレパートリーがあるんだと敬うように語ってた。オリジナルは50曲、カヴァーも50曲以上、客からのどんなリクエストにもエッグスは応えるんだ、すごいよ、生のジュークボックスだってね。それでブリンズリーたちもパブでやると決めたんだよ。デイヴ・ロビンソンがけしかける形で、ニックが決め、残りの連中もそれに従った。(略)」

(略)

 生まれつつあったパブ・ロック・シーンを牽引する中心的人物に、ニックはまさになろうとしていた。

LSD地獄から離脱

LSDはついに僕を変えてしまっていた。もしバンドの連中がいなかったら、どうなっていただろう。(略)体じゅうシラミだらけ、淋病を患い、狂ったヒッピーのなれの果てさ。正直、もうまともには戻れない、回復はしないと思ってた。同じ目に遭った人間を何人も知っていたから分かるんだ。(略)唯一受けた治療はロボに連れていかれたサム・ハットのところでだ。

(略)

「彼のところに行ったのは淋病にかかってしまったからだ。(略)すり鉢とすりこぎで何かの粉をすり潰すと小袋に詰めて渡された。偽薬だったとしても気持ちは落ち着いたよ。サム・ハットに救われたんだ。その後はアルコールを飲むようになった。(略)LSDの地獄を見た者にとって、酒はいい解毒剤なのさ」

 シラミからも解放され、きれいにとかした髪で自信を取り戻したニック率いるブリンズリーシュウォーツは、1972年1月18日、『タリー・ホー』のステージに初めて立った。まるで自分の庭のようにしっくりと。

(略)

[同時に]サード・アルバム『シルヴァー・ピストル』をリリース。(略)

ニックのソングライティングが一気に開花している(略)

どの曲からも感じられるザ・バンドの影響。(略)

大きな影響を与えたもう一つのグループが、クローヴァーだ。アレックス・コールが歌う「ミスター・ムーン」を聴けば、この時期のニックの歌い方にどれほどの影響があったかが分かるだろう。イギリス人で、ここまで"アメリカーナ"とのちに呼ばれる音楽ジャンルに心酔していたミュージシャンはそういまい。

 ただし『シルヴァー・ピストル』が店頭に並ぶ頃には、ブリンズリー・シュウォーツはもうそこにはいなかった。(略)ロックンロールやリズム&ブルースのルーツへとさらに近付き、"酒場から起きた革命"のリーダーという新たな肩書きにふさわしい道を歩み始めていたのだ。

 

デイヴ・エドモンズ登場

[1972年4月]バンドはウェールズ人ロッカー兼レコード・プロデューサー、デイヴ・エドモンズと出会う。

[マーティン・ベルモント談]

 「エドモンズに関する神話の数と言ったら(略)モンマスにでっかい邸宅を構え、ドラッグをやりたい放題。愛車ジャガーで田舎道を時速90マイルでぶっ飛ばす時は、鎮静剤のメタカロンとウィスキーでキメてから。後部席にはケースから出した裸のギブソン335。スタジオでは耳がおかしくなりそうな大音量でプレイバックを聴き返す。イコライザーを上げすぎて、そこにいた人間のズボンがカサカサと音をたてた、などとね」

 「エドモンズは本当にクールだった」とニックも言う。「僕らが帰り支度をするのと入れ違いでスタジオにやってきて、夜中にレコーディングをしてたよ。(略)酒のボトルやバッグを大量に抱えてスタジオに入って行き、そのまま朝まで作業をし、あのすごいノイズを作り出す。

(略)

彼が僕らのスタジオに来て、しばらく曲を聴いたあと、自分がちょっとやってもいいか?と言ったんだ。プロデューサーとしてそこにいたデイヴ・ロビンソンの顔が一瞬険しくなったけど、僕は面白いんじゃないかと思い頼むことにした。(略)

エドモンズがレヴォックス社のミキサーをちょこっと弄り、エコーのエフェクトをかけた途端、音が弾み出した。鉛みたいだったサウンドが、あっという間に生き生きとグルーヴし始めたんだ。

(略)

[デイヴ・ロビンソンは認めず]エコーはすべて消し、元通りの平凡で陳腐な音に戻した。でも実は思っていた。次にプロデュースを任すのはエドモンズかもなと。彼なら僕らをうまくまとめてくれると思った。本当はすぐにでも彼に頼みたかったんだ」

(略)

イアン・ゴムが作曲した爽やかなナンバー「イッツ・ビーン・ソー・ロング」で始まる『ナーヴァス・オン・ザ・ロード』全編を彩るサウンドはあくまでもシンプルだ。プロデュース不足と思えなくもないにも関わらず、ニックが書く曲にはそれに耐え得る強さがある。シャッフルする「サレンダー・トゥ・ザ・リズム」、懇願するような心の痛みを歌うナンバー「ドント・ルーズ・ユア・グリップ・オン・ラヴ」、LSD克服後のニックの精神状態を歌うタイトル曲はとりわけそうだ。ボブ・アンドリュースとニック・ロウが共作した『僕らはやれるだけで幸せなんだ』とまるで初心に戻って自分たちの使命を歌うかのような「ハッピー・ドゥイング・ホワット・ウィアー・ドゥイング」は、ラヴィン・スプーンフルの「ジャグ・バンド・ミュージック」にも似た、ミニマルなギター・ソロが光る曲だ。「あれはミニマリスト的アプローチの極みだ」とニックは言う。「攻めの姿勢でね。ソロは哀れなくらい情けないものにしようぜと。どんだけ薄っぺらにしても足りないくらいだった」

(略)

[72年5月、グレイトフル・デッドの前座としての演奏を見ていたのが17歳のデクラン・マクマナス]

(略)

「要は、パブ・ロックはそれ以前からあったものを、もう一度盛り上げようぜということだったんだ」とダイ・デイヴィスは言う。「デイブ・ロビンソンとニック・ロウがそれを哲学化したのさ。(略)」

 

 

レイ・デイヴィス激怒

キンクスとは一度だけ一緒になった。1972年6月9日、『ケンブリッジ・コーン・エクスチェンジ』でのこと。(略)

PAトラブルでどうにもならずステージを降りたキンクス

「僕とゴムは、こりゃあバンドに一言お悔やみを言わなきゃと暗闇の中、客の間を手探りで進んだ。(略)

なんとか楽屋にたどり着くと、暗い中、サウンドのことで揉めてる声が聞こえた。さぁ、ここで一つバンドにありがちな話をするよ。どんなバンドにも、メンバーだけにしか分からない楽屋オチっていうのがあるじゃないか。僕らにも一つあってね。昔、前座を務めたあるバンドのマネージャーが、自分のバンドのことを『うちんとこのボーイズが』って呼んでたんだよ、電話口で。『会場を見たんだが』とそいつは言った。『あれじゃあ間違いなく、うちんとこのボーイズは不服だ。(略)絶対おかんむりだ!』。この言い方に僕らウケちゃってさ(略)とんでもない汚い会場だった時はまねさせてもらってた。(略)

そんなわけで(略)ゴムが一言『あれじゃあ間違いなく、うちんとこのボーイズはおかんむりだ』と例のやつを言ったんだ。僕らとしてはキンクスの気持ちを代弁してるつもりだった。(略)僕も念を押すように繰り返した。その時さ。猛獣が猛進してくるような音がして、家具が吹っ飛ばされ風を感じた。背後から伸びてきた2本の手が僕の喉元を絞め上げた。(略)

馬乗りになったそいつの言葉が聞こえてきた。『うちんとこのボーイズがおかんむりだって?どれだけおかんむりか教えてやろうじゃないか!』。僕はラリったまんまだ。(略)

見上げると、口角から泡を飛ばし鬼の形相で見下ろす僕の幼き日のヒーロー、レイ・デイヴィスがそこにいた。

(略)

この話にはオチがあってね。何年も経ったある晩、レイ・デイヴィスから自宅に電話があったんだ。弟デイヴのプロデュースの依頼だった。『不可能じゃないよ、レイ。でも僕ら、実は前に会ったことがあるって知ってた?』。当然のことながら彼は覚えていない。もしかしたらどこかのパーティで?と尋ねる彼に『ま、そんなようなもんかな』と僕はほのめかした。『ケンブリッジの「コーン・エクスチェンジ」、そう聞いてなんか思い出さない?』。そのことは彼の記憶から完全に消えてたみたいだよ」

 

 「パブ・ロックっていうのは、ミドルクラスの元モッズたちが、一度はヒッピーのアンダーグラウンド・シーンを体験するも、これは自分の趣味じゃないと感じ、再編成して出来たものだ」とニックはかつて語っている。まさにそんな一人が60年代を代表するモッズ・グループ、ジ・アクションを経て、英国ヒッピー・アンサンブルのマイティ・ベイビーを組んだ、ギタリストのアラン"バム"キングだろう。(略)

[新グループ、エースのヒット曲「ハウ・ロング」]を書き歌っていたのが、ニックの未来のコラボレーター、ポール・キャラックだ。

(略)

マイティ・ベイビーのもう一人のギタリスト、マーティン・ストーンは(略)チリ・ウィリ&ザ・レッド・ホット・ペッパーズを結成。(略)

[ローディからマネージャーに昇格したのが、相手に面と向かって『ファック・ユー!』と言える男、アンドリュー・ジェイクマン]

"ジェイク・リヴィエラ"としてニック・ロウのマネージメントを仕切ることになる男が静かに誕生しつつあったのだ。

 

 

『プリーズ・ドント・エヴァー・チェンジ』

[73年初頭、ニックはLSD幻覚から回復するも、バンドにフラストレーション]

「自分たちのやっていることは古臭すぎるって思い始めたんだ。ギルバート・オサリバンの〈ゲット・ダウン〉をやりたいと提案した[が、他のメンバーが拒否、大喧嘩に](略)」

 ミドル・オブ・ザ・ロードなポップ・ソングという意外性でレースから一歩抜け出したい願いは叶わず(略)リーダーでいることへの興味が薄れてきた。

(略)

[5枚目『プリーズ・ドント・エヴァー・チェンジ』録音中]

井の中の蛙でいるのはそれはそれで楽しかった。(略)パブ・ロック・シーンの愛すべき人気者でいることに価値がないわけではない。でもそれ以上にはなれなかった。これは僕個人の考えだけど、バンドに自分たちでレコードを作らせたことが間違いの原因だったと思う。なんの知識もないくせに、自分たちで曲を書き自分たちでプロデュース。さらにはマルチトラック・レコーディングがちょうど出てきたとこだった。この三つの要素が合わさって、ひどいレコードしか残ってないんだ。パブ・ロックに優れたレガシーが残っていない原因はそこさ」

(略)

[予期せぬ大きなチャンス、ウイングスUKツアー前座が決定]

デイヴ・ロビンソンは毎夜ステージをチェックしながら、一貫したマッカートニーのプロフェッショナリズムと、夜毎良くなる一方のウイングスのパフォーマンスを参考にしようとした。そのことをバンドに告げ、上を目指すべきだとハッパをかけたが、ニックたちはパブでやることで満足しているようだったという。

(略)

ツアー後間もなく(略)マネージメント業務はデイヴ・ロビンソンからダイ・デイヴィスの手に移ることになる。

(略)

[11月『オールド・グレイ・ホイッスル・テスト』出演。ニックが]

頭部の毛をツンツンとさせたモッズ風スタイルを初披露(略)

「あれには頭にきた」とイアン・ゴムは言う。「おかげでまだ長髪だった僕らはまるで年寄りヒッピーさ

(略)

次なるアルバムのレコーディングで、プロデュースを依頼されたのはデイヴ・エドモンズだった。ブリンズリー・シュウォーツはザ・バンドの影響を強く受け、"リアルさを守ること"にこだわっていた(略)それが彼らの初期のレコードを単調に聞こえさせていたとも。プロデュースしすぎていないサウンドに聞こえさせるには、それなりのレコーディングの仕方がある。ザ・バンドもそうやって録ったのだ、とエドモンズは彼らに言って聞かせた。こうして、新たなプロデュースの価値観が反映されたアルバムが出来上がっていった。

(略)

完成した『ニュー・フェイヴァリッツ・オブ・ブリンズリー・シュウォーツ』は彼らとしては最も洗練されたアルバムだった。

(略)

「(ホワッツ・ソー・ファニー・バウト)ピース、ラヴ・アンド・アンダースタンディング」(略)が書けたことが、駆け出しソングライターに及ぼした影響は「地震級に大きかった」とニックはその後語っている。「〈……の何がそんなにおかしいって言うんだい?〉というタイトルが思い浮かんだ時、自分の運の良さに自分でもびっくりした。これは絶対いい曲が書けると分かったんだ」

(略)

「最初は冗談ソングにすぎなかった。でもどこかから声がしたんだ、この曲には一粒ほどの知恵の種がある。台無しにするな、シンプルなままにしておけ、あまり利口ぶりすぎるなとね。(略)

この曲は恐らく初めて、まともに、自分らしいオリジナルなアイディアで書けた曲だった。だからあまり頑張りすぎるなと誰かに言われた気がしたのさ。それに従って良かったと思ってる。でなかったら、あの曲は死んでた。ブリンズリー・シュウォーツが死んだ時点で。いや、あいつがってことじゃなくて、グループの方が(笑)」

(略)

しかし悲しいかな、ブリンズリーの6枚目にして最高傑作は、またしても大いにコケてしまうのだった。

 ミキシング作業を終えるや否や、そろそろ"スタジオ焼けした肌"を外気にさらさねばとデイヴ・エドモンズは考えた。(略)ツアーにはもう5年近く出ていない。(略)彼らは理想のバック・バンドだった。6月、十数ヶ所のライヴ会場が『ニュー・フェイヴァリッツ・ツアー』のために押さえられた。ところが、パブロック・バンドの雄たちを脅かす思わぬだ。脅威が、オープニング・アクトのドクター・フィールグッドというバンドによってもたらされたのだ。

(略)

獰猛なライヴ・パフォーマンス(略)圧倒的な存在感(略)音楽情勢そのものを著しく変える流れとなり(略)パブ・ロック・バンドは終焉を迎えることになる。

 「毎晩、ドクター・フィールグッドがいいとこを全部持っていくもんだから、デイヴ・エドモンズはまじで病んでしまって。ブリストルでは『手が動かない』と言い、ステージに出たがらなかった。(略)いずれにせよ、フィールグッドはすごかった。やる前から無効試合さ。あいつらに比べたら、僕らは街をぶらぶら歩いてるおじさんみたいだったよ」

 

 

憧れのザ・バンド来訪

[9月憧れのザ・バンドが訪英]

電話を取ったのはブリンズリーだった。「ワーナー・ブラザーズのマーティン・スミスがかけてきてね(略)『ザ・バンドがそっちに行ってリハーサルをしてもかまわないかな?』と。僕はてっきり『バンドが』と言われたのかと思った。そしたら『違う違う、ザ・バンドだよ!』って。しかも今からすぐ行くって言うじゃないか。

(略)

大慌てで準備が始まった。「ビリーがサンドイッチを作り」とマーティン・ベルモントは言う。「ニックがリハーサル用の部屋に掃除機をかけ始めた。(略)」

 まずザ・バンドの機材が到着し、それに続いてリムジンが横付けされた。「すると等身大パネルかと思うような5人が車から降りて来たんだ」とアンドリュース。

 「僕らはザ・バンドを崇拝してたから」とニックも言う。「彼らが本当に来るなんて信じられなかった。(略)

ギターは自分たちのを持って来ていた。ガースのロウリー・オルガンが持ち込まれ、アンプとドラムは僕らのを使っていた。暖かな気持ちのいい夜だったよ。邪魔をしないように、僕らは遠巻きに彼らを見ていた。全部で1時間か2時間くらいだったかな。(略)ガースが弾くロウリーはまるで天国から鳴る音みたいだった。(略)僕らはオルガンに寄りかかりながらうっとりと聴いていた。ついにボブが抑えきれなくなって、『これは夢だ。どれだけあなたが素晴らしいか、分からないかもしれないが』というようなことを言っちゃったんだ。好きさ余っての一言だった。でも悲しいかな、ガースがそれでビビっちゃったんだよ。『そろそろ行かないと』そう言うと、そそくさと帰り仕度を始めた。見知らぬガキからどれだけ素晴らしいかと言われ、戸惑っていづらくなったんだろう。残念な話だ。そのことでボブはみんなから散々に言われたけど、もしあいつが言ってなかったら、きっと僕が言っていただろうからね」

(略)

イアン・ゴムはリチャード・マニュエルが飲んでいたオレンジ・リカーの空ビンを、ロビー・ロバートソンに憧れ、彼のリックの一つや二つでも弾けるようになれればと思い続けてきたブリンズリーはギター・シールドを。「僕はさ、ずっとロバートソンみたいに弾きたいと何年もやってきたんだ」とブリンズリーは言う。「なのに、僕のアンプ(略)にシールドが差し込まれ、音が出た瞬間、それはロビー・ロバートソンのサウンドだった。本当に悔しかったよ」

 

 

『イッツ・オール・オーヴァー・ナウ』

『ニュー・フェイヴァリッツ〜』が売れなかったことを受けて、ブリンズリー・シュウォーツはユナイテッド・アーティストからの移籍も考えた。(略)

おかしな話ではあるが、グループの欲求不満が募るほどにブリンズリー・シュウォーツのロンドン・パブ・シーンでの人気は高騰し、客足を抑えるためにあれこれと名前を変えねばならないほどだったのだ。その一つ、"レグ・ロウ&ジ・エレクトリシャンズ"も、その正体を知るのは最も熱心なファンのみだった。(略)

これまでのアルバムの制作費を少しでも回収しようと、ユナイテッド・アーティストはビートルズのカヴァーをさせる。(略)「恋する二人」と「テル・ミー・ホワイ」をカップリングしたシングルが、ライムライト名義でリリースされた。

(略)

 ヒット作[あわよくばアメリカ受けするかもしれないアルバム]を作る最後の試みで連れてこられたのが、アメリカ人プロデューサー、スティーヴ・ヴェロッカ

(略)

セッションのマスター・テープは長く紛失したと思われていたが、2017年『イッツ・オール・オーヴァー・ナウ』としてようやく日の目を見る。

(略)

「恋するふたり」。ニック自身、これを書いた時は片方の耳でハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツの「愛の幻想」を聴いていたのさと告白している。

ドクター・フィールグッドがチリ・ウィリに引導

 1974年秋の時点で、まだチリ・ウィリ&ザ・レッド・ホット・ペッパーズのマネージャーだったアンドリュー"ジェイク"ジェイクマンだが、それ以外の時間はブリンズリー・シュウォーツの運営に関わることになる。

(略)

 グループが解散しそうなことを知り、ニック・ロウとイアン・ゴムがハウス・ソングライター兼プロダクション・チームとして、ユナイテッド・アーティストに残るかもしれないと吹き込んだのはレーベルのマネージング・ディレクター、マーティン・デイヴィスだった。その折に、二人のマネージャーにならないかとジェイクマンに提案したのだ。

 「ジェイクは先が読める男だった」とゴムは言う。「でもうまいことを言って相手を言いくるめるところや、ニック一人だけに的を絞ってるところが僕は嫌いだった。(略)だから僕は断ったんだ。(略)でもニックはそういうのも含め、派手なことが大好きだったからね」

 「『最高じゃないか!』と思ったよ。『こいつは他人のことなんてかまわないやつだ』、そう思えたからね」とニックは言う。「ジェイクとはすぐに気が合った。僕よりもずっと世間を知ってたし経験もあった。そこに惹かれたんだ。

(略)

 1975年1月、ジェイクマンは"ノーティ・リズム・ツアー"でチリ・ウィリ&ザ・レッド・ホット・ペッパーズを大きく売り出そうと考える。ところがココモとドクター・フィールグッドが前座のUKツアーで、狙いは大きく外れ、むしろチリ・ウィリの命を縮めてしまうことになる。

 ドクター・フィールグッドは支配的とも言える勢いで、全国レベルにブレイクしつつあった。元祖パブ・ロック・バンドがもはや窓際族であることは、ジェイクが一早く気付いていたことだ。ドクター・フィールグッドこそ、UKロックンロールを大きく変える力であり、何も彼らを止められない。そう踏んだジェイクの読みは正しかったことになる。さらにジェイクの読みが正しかったのは、ニック・ロウという天才には、10分おきに尻を叩いてくれる誰かが必要だということだ。それはニック本人も分かっていた。そしてこの時から二人は固い絆で結ばれたのだ。それから40年という長きに渡り、二人は友人兼ビジネス・パートナーであり続けた。

解散

[3月]ブリンズリーズのフェアウェル・ショウは感極まる一夜となった。(略)

ニックは半分皮肉を込めて、あらゆる曲を"ヒット・シングル"と紹介した。(略)

ブリンズリーにしてみれば、その日はここ数年来のベスト・ギグ。このままバンドを続けられるのではないかと淡い希望も抱いていたのだが、ニックにはこれが限界だった。新しい音楽はすぐそこまで来ている。(略)

「(略)間違いなくボブとブリンズリーはぶ然としてた。いや、彼らからすれば当然だろうよ。そうさせるような態度を僕が取ったんだから。ジェイクと付き合い始め(略)バンドとしてのブリンズリーがなんだか古臭く思えてきた。それで先を急いじゃったんだ。でもそのやり方は良くなかった。恥ずかしい話だが、途中でいろんなことを放棄して逃げ出してしまった。そして気付いた、住む場所がないって。震え上がったよ。[姉のフラットに転がり込む](略)」

(略)

キャリアウーマンの姉は平日は早く就寝した。ところが弟はそれと入れ違いに、歩いてすぐのパブ『ナッシュヴィル』から戻ってくるのだ。何人ものミュージシャンの友達を引き連れて。(略)"顔にクリームを塗って"寝る用意をしていた姉は部屋から出て文句を言う。

(略)

[ペニー談]

「(略)彼らはマリファナも吸っていた。(略)通りの向こうでも分かるくらい臭ってたわ。ニックは汚いベッドルームに何時間もこもったまま、レヴォックスのテープレコーダーで曲を書いてたわ」

(略)

ニックは言う。「姉貴のだんなが言うには、ぼくの姉はイギリス音楽界きってのミュージシャンたちに罵声を浴びせかけてたことになる。イアン・デューリーエルヴィス・コステロ、グレアム・パーカー……毎晩、彼らに怒鳴り散らしてたのさ。『いい加減、あんたたち、帰ってよ!』って」

(略)

解散を受け、ユナイテッド・アーティストは契約オプションを行使し、ニックをジェイムス・テイラージョン・セバスチャンのような、ちょっと変わった、デニムが似合うライト・ロック系アーティストとして、ソロで売り出すことも考えた。

(略)

[しかし実際のニックは]短髪にソフト帽をちょこんと乗っけ、ロンドンのホットなスポットに繰り出す遊び人ソングライター。こざっぱりした三つ揃いのスーツのポケットにデモ・テープを忍ばせ、かつてのティン・パン・アレーの敏腕作曲家よろしく「お探しのいい曲がありますよ」と売り込むのだ。

契約解除狙いで「憧れのベイ・シティ・ローラーズ

[UAがニックを切ってくれることを願って、ジェイクは「憧れのベイ・シティ・ローラーズ」を制作するも、UAは気に入りリリース]

ウォンブルズ(イギリスの子供番組)一連のヒットで知られる(略)マイク・バットの曲にありそうな(略)とびきりコマーシャルなノヴェルティ・ソング。

(略)

「ヒット番組の熱心なリスナーだった僕としては、無意識にウォンブルズのサウンドをまねようとしてたんだと思う。(略)

友達同士、『ほら、分かるよね?』と目配せし合い、肘をつつき合ってるような感じ。(略)徹底的にやりきれば(略)逆に問題ないっていう発想さ

(略)

自分でも自分の書いた曲を聴き、どこかで聴いたことがあるなって思うことがある。それは"曲っていうのは2ヴァース、コーラス、ミドル8で書くもんだ、しかもなるべく少ないコード進行で"という時代に僕が育ってきたからさ。今考えると、70年代のヒットメイカーたちの曲はどれもすごかった。でも本人たちがそれほど真剣にやってなかったんだ。やろうと思えば、もっと反体制的なことも出来たのになと思う。あのローラーズ企画も今となれば、なんてことはないのかもしれないが、当時としては驚きだったよ、こういうことをやっていいのかって。あんなとんでもないレコードを作っておちょくるなんてさ。僕は楽しんでやっていたけど、それはあえて分かったうえでやってたことなんだ。僕の契約を切るために」

(略)

どっちに転んでも損のない話だった。もしヒットすれば、いくらあってもかまわない現金が手に入る。コケればユナイテッド・アーティストの契約から解放され、もっと条件の良い他社との契約を探せるかもしれない。結果がどうであれ、ニックの名前は表には出てこない。

(略)

[「憧れの~」は日本でヒット、UAは契約を切るどころか、続くシングルを要求したので、契約を切られるのに十分な駄作シングルを作る羽目に]

魔法の粉をふりかけすぎなければ、見事にコケること間違いなしのナンバー。(略)デイヴ・エドモンズを指名し"ヒットにならない曲"を作ることに専念した。(略)

狙い通り。「レッツ・ゴー・トゥ・ザ・ディスコ」は1年間のお蔵入りとなり、ついにユナイテッド・アーティストはニックとの契約を切ったのだった。

次回に続く。

恋するふたり ニック・ロウの人生と音楽

フセインからジャガーを貰った父

 1956年は、リトル・リチャードの「トゥッティ・フルッティ」で華々しく幕を開けた。(略)ニックは(略)母親がぎょっとしていたのを覚えているという。「確かにそれまでで彼女が経験した、最も"黒い"経験だったからね」

 一方、[父]ドレインにとってその年は、ロックンロールの誕生以上に、怒濤の1年として記憶に残ったはずだ。(略)

10月にはスエズ危機はついに武力衝突へと発展し、第二次中東戦争が勃発。(略)

ヨルダンでは若きフセイン一世が国王となり、イギリスの干渉を一切受けない独立国家への道を模索し始める。1948年の協定により、アラブ軍団治安部隊の訓練と協力を条件に、国内に英国空軍基地を残したことで、自分がイギリスの操り人形だと国民に思われるのを嫌ったフセイン一世は1956年3月、アラブ軍団の英国人指揮官ジョン・バゴット・グラブ中将(略)を解雇。フセイン支持派からは歓迎されたが、地域の平静は保たねばならない。イギリスは暗殺などテロリストの攻撃から国王の身を守る名目で、英国空軍の派遣を申し出た。(略)

前年11月に空軍省から英国空軍に戻っていたジェフリー・ドレイン・ロウ大佐が現場に配属されていた。(略)ドレインは誇らしげだった。彼の率いる部隊がこれからフセイン国王の身辺警護を監督するのだ。

 「父が先に行き、落ち着いた頃に遅れて、母と僕が行く」(略)

 1956年春、パットとニックはドレインのいるヨルダンに渡る。しかし[姉]ペニーはイギリスの寄宿学校に送られた。

(略)

「(略)あの年齢でヨルダンに住めたのはすごく良い経験だったよ。英国統治ギリギリ最後の良き時代。お城のような豪邸に住み、召使いたちが何から何までやってくれた。(略)

 フセイン一世は国家の安定のため、サンドハースト王立陸軍士官学校から大急ぎでヨルダンに呼び戻されて国王になった人だ。(略)父親代わりに若い国王を監視するのが親父の仕事だった。(略)

 国王が来る日がいつも楽しみだった。彼の車は前後を装甲車に護衛されてやってくるんだ。アラブ軍の兵士は僕を装甲車に乗せてくれて、機関銃を触らせてくれた。(略)

母は、王様はサンドハーストでポークソーセージとハムサンドイッチの味を覚えてしまったから、うちに来てたのよって言うんだ、イスラムの教えでは豚肉は食べられないから。ソーセージ・サンドが目的だったってわけさ(略)

 飛ぶ飛行機が少ない日曜の午後はスポーツカー倶楽部が開かれていた。(略)

滑走路でタイムを競うレースが開かれていた。(略)

フセイン国王もガンメタルグレーに輝く、跳ね上げドアのメルセデスベンツ300SLを何台も連ねて、美女を従えてやって来てたよ。まるでモンテカルロさ、想像つくだろ?当然、みんなして彼を優勝させるわけだけど、実際、運転はなかなかうまかったよ。

(略)

 その年、ジャガーDタイプが3年連続でル・マン24時間レースで優勝したんだ。ジャガー社は最新のXK140をフセインにプレゼントした。(略)

 ところがだ。フセインは愛車メルセデス300SLほど、それが気に入らなかった。そこで大使館、軍、政府関係者、援助隊員など、当時国内にいた外国人全員を集めて大抽選会を開いたんだ。景品は時代の先端を行く最高級品。ステレオ装置、グルンディッヒ社オープンリール、ゴールドのキッチンワゴン、電気トースター。そして1等賞が例のジャガー。当てたのは年配の軍看護師3名だったが、彼女たちは車はいらないと辞退した。そしてこの先の記憶はちょっと曖昧なんだが(略)

 ある晩、聞き慣れた装甲車のガタガタという音が聞こえた。(略)そのあとをフセインが運転する真っ赤なジャガー(略)

親父に会いに家の中に行くと10分くらいして出てきて、今度は乗ってきたのと別の車で帰ってったんだ。ジャガーはうちに置きっ放しさ。

(略)

日曜午後の倶楽部用の車を持ってなかった父にフセインジャガーをくれたんだ。父を慕ってたというのもあるだろう。あとは父がジャガーを運転すれば、滑走路でのレースに"ちょっと趣味のいい"対戦相手が出来ると思ったからさ。ジャガーメルセデスのタイムトライアルをよくやったが、父が勝つこともあれば、そうでないこともあった。ジャガーのモーターはそりゃあすごかったからね。(略)」

(略)

ニックは、父親に迷惑をかけてはならないという責任を感じていた。「(略)母からも"あなたが軽はずみな行動を取ったら、どれだけお父さんに迷惑がかかると思う?"と言われていたしね。でも空軍の子供であることが僕はとても好きだった。(略)」

 スエズ危機が緊迫の度合いを増す中、軍人の家族はヨルダンを離れることになり、1956年10月30日、ニックとパットもイギリスに帰国する。

テネシー・アーニー・フォード

長い目で見れば、ニックを音楽の道に進ませるきっかけを作ったのは、亡き夫とともに舞台に立っていた祖母が買い与えたプラスチック製ウクレレだ。だが、より深く音楽を学ぼうとニックに思わせたのは、当時ラジオで流行っていたクルーナー歌手(略)を聴かせ、簡単なコードを教えてくれた母パットの影響だ。(略)

しばらくして、ペギー・リー、アニタ・オデイといったジャズの香り漂うシンガーの10インチLPが出るようになる。ニックはこれらのレコードが大好きで、何度も聴き返しては、アクセントを効かせたリズムやビッグバンド・サウンドを肌で覚えていった。もう1枚、母のコレクションの中で、ニックを特に夢中にさせたのが「ショットガン・ブギー」や「ファットバック・ルイジアナ、U.S.A.」などが入ったテネシー・アーニー・フォードの10インチLPだ。

 「〈シックスティーン・トンズ〉が出たあとか前か、はっきり覚えてないんだが、それがカントリー&ウエスタンだとは知る由もなくて、とにかくとても変わってるなと思った。カリフォルニア風カントリー&ウエスタンとジャズの要素が混ざり合った最高の音楽だったね。今でも好きだよ」

(略)時を同じくして、全英ヒット・チャートはロニー・ドネガンとエルヴィス・プレスリーのダブルの衝撃に揺れていた。

(略)

ハンク・マーヴィンも、ジョン・レノンも、ヴァン・モリソンも、誰もがロニー・ドネガンに憧れた。(略)

「今思うと、幼くしてロニーの影響を受けたことは幸運だった。彼にはアティテュードがあった。どちらかと言うとブサ男で、アイドルなんかじゃなかった。でも7歳の僕から見ても、デニス・ロティス(略)なんかより、ずっとクールだったよ」

 

 1957年までには、中東における英国空軍の新本部はキプロスに移った。(略)

 5月16日、ヨルダンを発ったドレインは"王様からもらった車"を従え、キプロスの首都ニコシアに到着するが、2週間後にはイギリスに一時帰国する。(略)大英帝国勲章を受勲したのだ。(略)[父の]航空日誌には、サウスエンドからマルタ経由でキプロスに"パットとニッキー"も一緒に飛んだと記録されている。

 スエズ危機以来、アクロティリに建設されたばかりの英国空軍基地はエジプト軍の爆撃の恐怖にさらされていた。

(略)

[父の顔を見て、ゲートを上げた新兵を『身分証明書を提出させるべきだろう』と説教していたその時、爆発音。ゲリラが爆撃機数機を爆破。これにより出世は妨げられ]

44歳にしてドレインの仕事人生は終わったかのようだった。

ショーン・タイラとドイツ空軍基地にて

 キプロスで暮らしていた時、ニックはついに本物のウクレレバンジョーを両親から買ってもらう。(略)コード・マスターの名で知られる、便利なアクセサリーも付録で付いてきた。バンジョーのネック部分に装着し、数字の書かれたボタンを押せば、そのコードの弦が押され、コードを指で押さえたのと同じになる。(略)これは左利きのニックには助かった。(略)しかしいかんせん、見た目がカッコ悪い。一緒に付いてきたタブ譜を解読するのにもそう時間はかからなかった。ほどなくして、ニックはコード・マスターなしで楽器に取り組むようになる。母もギターの基本的なコードは弾けた。だが、なぜか6弦のうち4弦しか使わなかった。

 「太い2弦のことを忘れちゃうんだよ。でも二人しておかまいなしにロニー・ドネガンの曲を弾いていた。(略)

ロニーの〈フランキー・アンド・ジョニー〉はまるでジェームス・ブラウンそのものだった!BBCの英国軍放送ラジオで聴ける音楽の中で一番ロックンロールに近かったのがロニー・ドネガンだったね」

 英国空軍関係者の家族がみんなそうだったように、ニックの家族も各地を転々とした。「12歳くらいまで、父は警察から追われているのだと思ってたわ」とペニーは笑う。

(略)

[ウッドブリッジに進学]

[全英1位、シャドウズ「アパッチ」]

イギリスでエレクトリック・ギターがバカ売れしたのは、ひとえにこの曲のおかげだと言われている。

 シャドウズに倣えとばかりに、イギリス中の学校という学校にビート・グループが誕生した。

(略)

学校がクリスマス休暇に入ると、ニックは両親に会いにドイツまで飛んでいたことを覚えている。(略)

「ショーン・タイラと二人で小型の双発に乗りこんだこともあった。機内では郵便袋の山に囲まれてた。楽しかったよ。ショーンの父親は陸軍人(略)」

ショーン・タイラは[後に](略)ダックス・デラックスを結成。ニックと同じスティッフ・レコードと契約した。

 ラインダーレン滞在中、ニックと3歳年上のショーンはスキッフル・グループを組み(略)ザ・フォー・ジャスト・メンと名乗り、空軍基地内の『ティーンエイジャーズ・クラブ』で演奏した。

 「ニックは本来ならクラブに入れない年齢だった(略)でもあいつは背が高いから年上に見えた。それで父親のサングラスをかけ、誰にもとがめられずに忍び込んだのさ。〈漕げよマイケル〉を最低4回は演奏してたんじゃないかな」

ウッドブリッジ退学

[62年秋、ウッドブリッジにブリンズリー・シュウォーツとバリー・ランドマンが転入。ブリンズリーが結成したデモクラッツにバリーがドラムで加入]

「(略)で、いつしかニックも加わるように(略)残念ながらバンドにバンジョーの入る余地はない。それで、ニック自身がベースをやると言い出した(略)でも実はベースを持ってなかった!(略)」

 伝説が伝えるところによれば、ニックは(略)ジョンソン先生の工作の授業で(略)近未来的な造形のVOX社のファントムをまねて、ベースを作ったというのだ。(略)[50年後、ニックは]インタビューでこう告白している。「そういうのが得意なやつに頼み込んで、工作室で作ってもらったんだ。チューニングにはペンチが必要だったが、弾くことは出来たよ」

(略)

 1963年が明けて数週間(略)シャドウズの(略)[ギター・サウンドが]たった一夜にして、ビートルズの歌声に取って代わったのだ。(略)ロックンロール時代の髪型は、だらりと垂れた前髪に変わった。

(略)

1964年になるとストーンズの影響で、R&B一色となるが、ニックはストーンズよりはやや知名度では落ちるが、その年にデビュー・アルバムを発表したダウンライナーズ・セクトがお気に入りだった。「あのレコードに関してなら、隅から隅まで知ってたよ(略)彼らからボ・ディドリーの曲を学んだんだ。黒のタートルネックセーターもね」

(略)

 1965年夏、ジェームス・ブラウンオーティス・レディングウィルソン・ピケットといったソウル・ミュージックが大西洋を越えてやって来た。(略)

[バリー・ランドマン談]「ブリンズリーと僕はまだシャドウズとかビートルズ(略)が好きだった。それに比べ、ニックの好みはもう少し先を行ってて、恐らく僕らの中では最初にスタックスとかタムラ・モータウンを聴き始めてたよ」

(略)

 ウッドブリッジは学業の優秀さを競う者が通うというよりは、金持ちの劣等生が社会に出る前にてっとり早く通う学校だった。

(略)

 最終学期の終了を待たずに、ニコラス・ドレイン・ロウはウッドブリッジから事実上、退学させられた。(略)試験を受けても全科目で落第点。唯一、英語だけが良かったのは、言葉が好きで、作り話をするのが好きなことと関係していたのかもしれない。勉強では落ちこぼれだったが、なぜか生徒と教師に好かれる人気者で、ニックのおかげで学校生活が楽しかったと証言する者は多い。

(略)

ドレインが亡くなって、書類を見てたら僕の成績表が出てきて驚いた。言葉は違えど、書かれてることは『この子は絶望的です。これ以上、私どもには出来ることはありません。どうか授業料の無駄遣いをされないように』と、どれも同じ。父はその忠告をずっと無視してきたんだよ。結局、16歳でなんの資格もないまま、僕は学校を辞めたんだ」

(略)

 サラットで暮らしていた頃のニックは典型的なぐうたらティーンエイジャーだった。床に寝転がり、ラジオ付きレコード・プレーヤーのスピーカーに耳を押し当て『エキサイティング・ウィルソン・ピケット』を大音量で聴く。

キッピントン・ロッジに加入

[カシオ・カレッジ英語科を卒業。有名ブロードキャスターの息子とウッドブリッジで同級生だったコネで、ミドルセックス・アドヴァタイザー紙で編集助手に。映画評の仕事で試写会に出かけ、出されたジン&トニックで酔いつぶれ、起きた時に試写は終了]

"ハービーが何も見えぬままホテルのプールに飛び込んでいくシーンが描くパラダイムの、なんと深く、ニュアンスに富むことか、かくかくしかじか"それが僕の初めての、そして唯一のジャーナリストへの挑戦だった。そんな時、ブリンズリーが電話をしてきたのは」

 

 1965年にウッドブリッジを出たのち、ブリンズリー・シュウォーツは(略)スキナーズ校に進学[バンド結成](略)1967年、バンド名をキッピントン・ロッジと改名。由来はケント州セブンオークス近くにあった、ブリンズリーが両親と住む家の名称だ。父親ウィムが数学教師を、母親ジョーンが寮母を務める地元プレップ・スクールが所有する"キッピントン・ロッジ”は、リハーサル用のスペースと、ブリンズリーのミュージシャン友達を含め、大勢のゲストが泊まれるだけの広さを誇っていた

(略)

キース・ウェストのシングル「エグザープト・フロム・ア・ティーンエイジ・オペラ」のヒットで乗りに乗って[いたマーク・ウィルツがキッピントン・ロッジのデモを気に入り、パーロフォンと契約](略)

ウィルツは弟子であるキース・ウェストと共作した「シャイ・ボーイ」をやることを提案。(略)

ブリンズリー作「レディ・オン・ア・バイシクル」をB面に1967年10月リリース

(略)

ステイタス・クォーマーマレード、ザ・ハードといった"マーキー系のグループ"と肩を並べることになる。誰もがバカでかいのサテンのブラウスに、ポスト・モッズ風盛り髪で、サイケなポップを演奏していた時代。

(略)

派手さの解毒剤として(略)重い一石を投じたのが、パワー・トリオの元祖、クリームだ。(略)ブリンズリーとバリーは、その演奏技術にノックアウトされた。キッピントン・ロッジもこれからはもっとシリアスなバンドへ方向転換すべきだ。しかしベーシストのデイヴ・コッタムはそうは思わず、音楽的ポリシーの不一致を理由に脱退。ベーシストの座が空いてしまった。そこでブリンズリーの頭に真っ先に思い浮かんだのがニックだった。

(略)

 ニック加入前にレコーディングされたセカンド・シングル「ルーモアーズ」は失敗に終わった。続くサード・シングルに選ばれたのはバリーが書いた「テル・ミー・ア・ストーリー」。この時のレコーディングでは(略)メンバー自ら演奏していることから、彼らはパーロフォンに実力を認めさせたということになる。(略)

1968年当時のレコーディングや宣伝写真を見る限り、見た目はザ・ハードを思わせるポスト・サイケデリックポップ・グループといったところだ。オーケストラを効かせたサウンドに、ニックのアンディ・ボウン風ヘアスタイルでマーケットを意識してみたものの、キッピントン・ロッジにはティーンに受ける要素がなかった。続くシングル「トゥモロー、トゥデイ」も不発に終わり、ハモンドオルガンの月賦を払えなくなったバリーは1969年初め、ポップ・ハーモニー・バンド、ヴァニティ・フェアから誘われバンドを脱退する。

 バリーの後任は、メロディ・メイカー紙の募集告知を見て応募してきたヨークシャー生まれのオルガン奏者ボブ・アンドリュースに決まった。R&Bとソウルが得意なボブの音楽性はグループのサウンドを強化させた。

(略)

最後となるシングルをリリース。ボブのハモンド・オルガンを前面にフィーチャーした、ビートルズの「イン・マイ・ライフ」のカヴァーだった。B面はニック・ロウの記念すべき、レコードでの初ヴォーカル、初ソングライティングとなる「アイ・キャン・シー・ハー・フェイス」だ。ニックのリード・ヴォーカルはトラフィックスティーヴ・ウィンウッドをほうふつとさせたが、シングルは大コケした。

(略)

ストーンズの有名なハイド・パーク無料コンサートが行なわれた1969年7月5日(略)『マーキー』でヴィレッジというオルガン・トリオの前座を務めていた。その時だ。

(略)

「ニックが演奏中に感電しちゃったのよ」とエリルは言う。「突然ステージに倒れ、もがき苦しんでたわ。配線を間違ったことが原因だったみたい」

 ニックもこう言う。「片手は弦の上に置いていた。で、もう片方の手をマイクに伸ばし、『調子はどうだい、ロンドン?』と挨拶するのと同時にマイクを握った。その瞬間だ。電気が体じゅうを一気に走った。見てた人の話では、4フィート以上吹っ飛び、ステージ逆サイドにあったアンプに激突し、床でピクピクと痙攣したまま、ベースとマイクを握りしめた指を開けなかったらしい。僕は横たわりながら、何が起きたか全部覚えていた。(略)目は開いているのに何も見えない。(略)聞こえるのはブーンという唸る電子音のような音だけ。(略)『これってまずいよな?(略)すごい衝撃だ……おまえの心臓はもう長くは持たない』と僕の中で会話は続いた。『(略)まあ、でもいい思いも十分しただろ。少なくとも《マーキー》のステージの上で死ねるんだからさ』(略)

 一方、店内は大パニックさ。怒鳴り声が飛び交い、女の子たちは泣き叫び、ステージでは電源を切ろうと、アンプの裏にある配線盤を探すのに右往左往だ。僕の手にはマイクが握られたままだったが、当然金属には触るなって誰もが遠巻きにしてる。それでボブ・アンドリュースがスタンドめがけて、思いっきり蹴りを入れたんだ。それがうまくいってね。なのにボブは気付かず、もう一度蹴りあげた。スタンドじゃなくて僕の胸の辺りを。でもあとで病院で言われたのは、その衝撃で心臓が動き始め、僕は一命を取り止めたということだった。(略)

手はひどい火傷を負ったが、生きてるってだけでうれしくてすぐに退院したよ。(略)

『マーキー』の店主から予定通りセカンド・セットをやるか?と聞かれ、もちろんやった。『お待たせしました。死の淵から生還したラザロです!』。ギャラは予定の半分だったけどね」

(略)

翌月(略)4週間『マーゲート』の専属バンドの仕事を引き受け(略)

[ドラマーのピート・ホエールは最終日でクビと決定]

地元に戻る車中、誰もピートにそのことを言い出せずにいた。するとその時ピートが言ったのだ。「このバンドにいられるのは最高だね。将来が楽しみだ」(略)

全員が気まずさを感じていた時、ニックが突然口を開いた。「ごめんよ、ピート。でもおまえはもうグループの一員じゃない」。黙りこくってしまったピートだったが、10分ほどしてこう言った。「いいよ、気にするな。それでも将来は明るいって思ってるからさ!」

 すでに新しいドラマー候補のビリー・ランキンとは話がついていた。(略)

バンドは将来に疑問を感じ始めていた。このまま僕ら、売れないシングルが何枚かあるだけ、という借金を負ったEMIのマイナー・アクトで終わってしまうのだろうか。60年代はそろそろ終わろうとしていた。イギリスのライヴ・シーンを取り巻く状況は大きく変わり、台頭するカレッジ・サーキットの比重が重くなっていた。

ブリンズリー・シュウォーツに改名

[米ではCCR、英ではプログレが台頭、キッピントン・ロッジを含めた通なファンに影響を与えたのが、ザ・バンドの1stだった]

 「あとはクロスビー・スティルス&ナッシュ。ファースト・アルバムが大好きで、スツールに座るあのスタイルをまねたんだ。ブリンズリーの家で、みんなでステレオで聴いたのを覚えてる。スピーカー2台で聴く彼らは格別だったよ。時代は変わってきてる、そう僕らも感じてたんだ」

 グループには新しい名前とイメージが必要だった。ブリンズリー・シュウォーツはその時のことをこう語る。「全員、次に会う時までに名前を考えてこよう、そしてその中から一つを選ぼうと決めたんだ。ところが集まった日、みんなからもう名前は決まったと言われたんだ。"ブリンズリー・シュウォーツ"だって。反対したよ。でもいつの間にか、丸め込まれてしまってたんだ」

(略)

メロディ・メイカー紙の求人広告欄(略)

「当方、若い進歩的なマネージメント会社。曲も書けて、自分の楽器を持っている若いグループを募集中」

(略)

27歳のデイヴ・ロビンソンが、パートナーである(略)フェイムプッシャーズ・リミテッドのオフィスだった。1942年生まれ、ダブリン出身のロビンソンはジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのツアー・マネージャー(略)を経て、ロック界の"次なるセンセーション"を探していた。(略)ブリンズリー・シュウォーツを気に入った一番の理由は、彼らがバンを持っていると言っていたから。あとは、とりわけベース奏者がソングライターとして有望そうだったからだ。(略)

[会社を立ち上げたのは]二人の若い起業家、スティーヴン・ワーウィックと、謎の男エディ・モルトンだ。ワーウィックは初期のジェームス・ボンド映画も手がけた元音響編集者。一方のモルトンの正体は実のところはよく分からない。銀行融資担当者を出し抜くため、いくつもの変名を巧妙に使い分けていたようだ。

(略)

ロビンソンはブリンズリーたちにこんな思いを伝えていた。自分が探してるのは、曲が書けてまじめによく働き、フェイムプッシャーズのコネを上手に使って、やがて成功するグループだ。あまりアグレッシヴに売ろうとするのは間違ってる。ハイプ(誇大な宣伝)を仕掛けると、それに応えるのが難しくなるからね。(略)彼の予想を超える、とんでもない展開がこの先待ち受けているとは、ロビンソンは知る由もなかったのだ。

(略)

バンドはジレンマの狭間にいた。(略)手堅い道を選んで生き残るか、新しい道を選んで飢えるか。ニックの気持ちは決まっていた。お子様向けのラジオ番組に出るのはもう十分だった。もっとアンダーグラウンドなクラブや大学でやりたかったのだ。「ヒッピーみたいなことをしたいわけじゃなかったが(略)女子大生のすらっとキレイな脚を見た時、それも悪くないなと思ったんだ」

(略)

[オリンピック・スタジオを押さえ、プロデューサーにはミッキー・モスト。しかし、音は完成せず、モストは辞退、経費はかさむ一方]

ロビンソンは、ゆっくりとバンドを育てたいという考えはあまりに理想主義的すぎるのかもしれないと思うようになっていた。

(略)

[レコード契約を決めるには、名のある会場でお披露目だ!PR担当が提案]

「世界で一番ビッグで最高の会場はどこだ?ロックンロールのメッカはどこだ?マスコミがいっぱい集まるところは?」

「そりゃニューヨークの『フィルモア・イースト』だ」。ロビンソンが言い切った。(略)

「そのうち、小型飛行機をチャーターしよう。いや大きいのがいい。そこにジャーナリストを乗っけて行くんだ、とドンドン話はでかくなっていった。

(略)

 まったく無名の、未経験のイギリスのグループをニューヨークでデビューさせる。そのあまりの無謀さに全員の士気はむしろ上がった。

(略)

 アイルランド航空との交渉はわりと楽だった。飛行機いっぱいのジャーナリストを乗せて大西洋を横断することのパブリシティ効果は先方にとっても悪くない話だったようで、たった7千ポンドでニューヨークまでの往復チャーター機を借りることが出来た。ただし『フィルモア』のブッキングはそう容易ではなかった。

(略)

[売り込みにビル・グレアムは]

「いいか、デイヴ。おまえがサンフランシスコに来た時はいつでもいい、俺んところに来いよ」(略)

[即、ロビンソンは空港に向かい、翌日の早朝、サンフランシスコ到着]

得意の話術で攻め立てた。

「ビル、このギグを何がなんでも実現させたいんだ。マスコミの人間はブリンズリー・シュウォーツを"正しい場所"で観たいんだ」

(略)

[グレアムの了承を取り付け]

「4月の週末『フィルモア・イースト』だ。ヴァン・モリソンとクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスが出る。ブリンズリー・シュウォーツが前座だ」[とUAに売り込み]

(略)

ユナイテッド・アーティストの業務部長マーティン・デイヴィスに呼び出され、契約の条件を提示された。ニューヨークでのプロモーションと、アルバムがすぐにでもリリースできる状況を考え、前払金2万2千ポンドと8%の印税ではどうか?

史上最も"大ゴケした"プロモーション作戦

サン紙は「モンスターのための視察」と大々的に書き立てた。(略)「ポップス史上、最もお金のかかったお披露目パーティが開かれるのは、誰もそのレコードはおろか、それ以外でも聞いたことがない、イギリス人の4人組ポップ・バンドだ。そんな彼らを"70年代のモンスター・グループ"とパトロンたちは呼ぶ」

(略)

「僕らに知らされたのは、すべて決まったあとだった」とニックは言う。「こんなおいしい話はなかったよ。『フィルモア』に行けて有名になれるだなんてさ。(略)アメリカに経つ2日前に演奏してたのは、ガウハーストの公民館だぜ。わけ分かんなかった。ただ分かったのは、でっかい飛行機で北米に行って、グルーピーがわんさかいるクラブにたどり着きたいってことだけだったよ」

(略)

[アメリカ大使館で労働許可が届いていないのでビザは発給出来ないと言われ]

いったんカナダに観光客を装って入国してしまえば、あとはニューヨークまで飛んで、リハに取りかかれる。「トロントでは見た目だけで嫌な顔をされたよ」とニックは言う。「全員長髪。長髪イコール犯罪者だったからね。(略)

男が怒鳴りつけてきた。『貴様ら、どういうつもりだ。騙そうってったってそうはいくか。ここには何百万ドルもする高性能のコンピューターがあるんだ、おまえらのようなやつらをチェックするためにな。アメリカに入国したいって?おあいにく様だ!』そう言ってパスポートを投げ捨てた。(略)

[デイヴがニューヨークの大物に]電話をかけ、裏から手を回してくれないかと頼んでいた。1日のみのビザは切れてたから、国外退去になるのが怖くてホテルから一歩も出られない。(略)どうにか話がつき、大使館でパスポートを受け取れると言われた。ところがその日は航空管制官ストライキで、どの空港でも飛行機が離陸の順番待ちで列をなしていると新聞が伝えていた。(略)日本人パイロットが操縦する小型飛行機を借り、トロントからニューヨークに向かったんだ。書類審査で国境の手前のバッファローに降りた時は気が気じゃなかった。大丈夫だ、パスポートにはビザのハンコも押してあると自分たちに言い聞かせて。(略)結局、誰もパスポートを見もしなかったよ」

(略)

フィルモア』に着き、事態の深刻さを初めて知った。あらかじめ僕ら(つまりマネージメントが見栄を張って)用意させていたのは最新ハイテク機材だ。(略)フィード・バック音を響かせ、鎮座するフェンダー・デュアル・ショウマンのアンプ。だが、肝心の扱い方を誰も知らなかったんだ」

(略)

[ジャーナリストの搭乗機は遅延トラブル、ようやく離陸すると、最大の空中ドラッグ・パーティー無法状態。到着すると、公演まで1時間もない]

オートバイの護衛警官に先導された22台のリムジンは、猛スピードで街を飛ばした

(略)

17時間の悪夢の末、ヘロヘロになってたどり着いた(略)ジャーナリストが座席に着くと同時に、ブリンズリー・シュウォーツがステージに歩み出た。

(略)

[チャーリー・ジレット談]

「残念ながら、ブリンズリー・シュウォーツのライヴにはまるで良いところはなかった。宣伝に見合う演奏だったなら、すべてのことは素晴らしくもバカげたスタントだと思えただろうけど、ギグ自体がっかりだったんだ」

(略)

まばらな拍手に送られたブリンズリー・シュウォーツがステージを降りるのを見届けたイギリスからの派遣団の大半は、これで義務は果たしたとばかりに会場を出ると、夜のニューヨークへと消えていった。会場内では、先ほどまでの前座バンドの弱々しい演奏の余韻がヴァン・モリソンと、ツアーで鍛え抜かれたバンドのプロ魂によって、一瞬にしてかき消されていた。

 「ヴァン・モリソンは圧巻だった」とニックは言う。「ちょうど『ムーンダンス』が出たばかりで、レコーディングのバンドを率いてた。あんなすごいライヴを観たのは初めてだったよ。(略)

そして自分たちがどれほど大きな間違いを犯してしまったのかって、どんどん怖くなってきてしまったんだ」

(略)

 ロンドンに帰る機内は、行きとはうって変わって白けた空気だった。ブリンズリーのメンバーは肩身の狭い思いでメディアの人間の間に座らせられた。

(略)

[帰国後]

印刷機のカタカタと回る音とともに、近代エンタテイメント史上最も"大ゴケした"プロモーション作戦の一部始終が語られることになる。

(略)

帰国1週間後、僕らはウォーダー・ストリートに集まり、ドキュメンタリー映画のラッシュを観た。その頃にはNMEやメロディ・メイカーのライヴ評が出ていて、どれもが僕らの無能なアホっぷりを書きたてていた。多感で世間知らずな若造の心を砕くには十分だった。試写室に入って行くと、みんなが振り返ってこちらを見るんだ(略)さらに悪いことに、フライトアテンダントにちょっかい出してる身内のボンヤリした映像ばかりが編集されてる。いい物笑いの種だったよ。

(略)

皮肉だったのは、メディアの鼻つまみ者になったおかげで、ブリンズリー・シュウォーツはショウビズ的慣習に一切背を向け、音楽だけに没頭出来るようになった

次回に続く。

ジョン・レノン 音楽と思想を語る インタビュー1964-80

〈バースデイ〉

[1968年12月 学生によるインタビュー]

(略)

クロス グループ用の曲はどのように書いているのですか?

レノン 実は『ペパー』以降は、一緒に書いてはいないんだ。

(略)

 インドでは少しは一緒に書いた。でもこのアルバム[『ホワイト・アルバム』]では、一緒に書いた曲は一番少ない。(略)

それでも僕らは何らかの方法で、思いつく限りの共同作業は行った。何もないところからでも一節を――例えば〈バースデイ〉は、何もない状態からスタジオで書き上げたんだ。「こんな風にやろう」と言って、それでできたんだよ。(略)

『ゲット・バック』、モーグ、〈レボリューション〉

[聞き手:ハワード・スミス 1969年12月 ラジオ・インタビュー]

(略)

レノン ビートルズのアルバムは一月に出る。(略)そのあとはビートルズの映画だ。

スミス ビートルズのアルバムとは、どういうものです?オリジナルのもので?新作ですか?

レノン そう、『ゲット・バック』[のちの『レット・イット・ビー』]さ。

(略)

変わったアルバムなんだ。未完成で仕上がらなかった。テレビ番組か何かをするという意図で始めたものが、ずるずると続いていったんだ。ポールが僕らを急き立てていたけど、僕らは本当はやりたいとは思っていなかった。その気がなかったからアルバムは完成せず、曲も仕上がらなかった。そんな状態のものを出すわけだけど、僕たちがぶつぶつ言ったりおしゃべりしたり、昔のロックを歌ったりと色々と騒いだりしているんだよ。

オノ あれにはとてもいい、ちょっとした即興の感じがあるわね。

レノン うん、スーツを脱いだビートルズさ。

スミス 誰の曲を入れるかというのは、どのように決めているんですか?ジョージも曲作りをしているようですが。

レノン 僕たちは競うように作っていくんだ。それで昔は、ポールと僕が勝っていた。そこが問題でね。というのも、僕たち四人が再び揃ったビートルズの製品が今後出るかどうかは、僕個人としてはわからないんだ。僕たちはそういった決断をいつもしているけど、それが難しくなってきている。昔はポールと僕がほとんどの曲を書いていて、ジョージは多作じゃなかったから。彼にはある程度までは働きかけたんだ。僕らは無意識のうちに、自分たちのためにアルバムを作るということになっていたと言える。それが今、彼は多作になった。そこで、僕ら三人が自分たちを一四曲に詰め込もうとしているから、そうなるとちょっと……自分の曲を選ぶものだからね。

オノ それぞれが三〇曲ぐらい抱えているかしら。

レノン だから、半年はかかる二枚組のアルバムを、毎回出すことに?アルバムをひとつ出すだけで、自分の人生の半年を要するわけだ。それが理由で、僕はプラスティック・オノ・バンドを始めた――自分のものを別に作るためにね。アルバムに自分の曲を二曲入れるのを待っていられないし、それは他のメンバーにも言えることだから。

(略)

スミス 今現在、特にお気に入りのものは?

(略)

レノン 特にはいないね。最近聴いたのがジョニー・ウィンターだった。ツインギターの音が出ているようないい曲があって、驚かされたよ。リー・ドーシーのレコードも素敵だった。[太い声で]「これから僕がすることはすべて、ファンキーになる」[訳注:〈エヴリシング・アイ・ドゥ・ゴナ・ビー・ファンキー〉の一節]。

(略)

スミス 他の三人のパートナーとアルバムを実際に作っていないときは、メンバーとはどの程度会っていますか?

レノン オフィスでは――アップルのオフィスでは――たいてい互いに袖を振り合っているよ。いつも誰かひとりは、別の階で自分の人生の計画を立てているけどね。その場合は、こっちから会いに行くことが多い。それとか、リンゴの映画のプレミア上映があれば、顔を出す――そんな感じさ。ジョージが新居をどこにするかによるんだよ。もし近くなら、彼とはもっと会うことになるだろうからね。

 ジョージとはもっと顔を合わせることになる気がしている。彼はミュージシャンとよくつるんでいるけど、僕は特にどのドラマーが上手とかということを知らないから、いつもジョージを使って[誰かを見つけてもらって]いるんだ。そもそも彼が、エリック[・クラプトン]やクラウス[・フォアマン]、アラン・ホワイトを見つけてくれたようにね。僕はほとんどの場合、誰が誰だかわかっていないんだ。だから普段は、彼と会うことが多いんだよ。

(略)

スミス 『アビイ・ロード』で使われたモーグですが……あれはどういったいきさつで?

(略)

レノン ジョージがアメリカにいたときに注文していて、それを持ち帰ったから、僕たちでできるだけ使ってみたんだ。彼は何曲かで使ったよ――〈マックスウェル[ズ・シルヴァー・ハンマー]〉〈アイ・ウォント・ユー〉でね。(略)

他にどの曲で使ったかはちょっと思い出せないけど、何曲かでは使った。〈マックスウェル〉はそうだったと思う[トランペットの音を出す]。あれは本当にすごい機械だから、僕には扱えない。ジョージがマスターするだろうけど、一生かかるかもね。

(略)

個人的には、自分で扱えない楽器には煩わされたくないんだ(笑)。僕はギターでできるものが好きだから。ギターが五〇〇本あるほうがいいよ。

スミス ビートルズの音楽はどこへ向かっていくと見ていますか?今から三カ月後に、あなた方四人全員がレコーディングスタジオに戻ったと想像してみてください。何が見えますか?

レノン 想像できないよ、まったくね。ビートルズの音楽として考えてはいないから。「ビートルズ」の名前で出せるものだけが、ビートルズの音楽だからね。誰かの音楽がどこへ向かうのかということに限界はないし、ビートルズは『ペパー』以降はちょっと長らく活動してこなかったから、かなり慌てることになるだろう。そのタイミングで、僕が彼らに無理な注文をするのさ(笑)。

スミス 他の三人のパートナーの間には、そのような意識が共通してあると?

レノン 僕たちはみんな違うから、どの程度までやるかについては、それぞれが異なる考えを持っている。僕が「できるだけ先まで」と言っても、他のメンバーが何と言うかはわからない。(略)全員が同じように考えているわけじゃないんだ。だから個々に音楽を作っているんだよ。二枚組アルバムの『ザ・ビートルズ』にあるように、〈レボリューション9〉は僕が興味を持っている曲だ。これを彼らに押しつけなきゃならなかったのさ。

オノ それでも彼らは少し削ったわね。あなたがレコーディングした、いい部分があったけど。

レノン あんな風にやっていきたいんだよ。オフビートのものがいまだに好きだから。

(略)

スミス あなたが〈レボリューション9〉を、他の三人にいわば押しつけなくてはならなかったとのことですが、レコーディングセッションで実際にどのように進んだのか、興味があります。押しつけたというのは、どういう意味なのでしょう?

(略)

レノン (略)僕が作業をしていたら、ジョージとリンゴが邪魔をしてテープを取り上げて、何もかも削っていったから、それをやるしかなかったんだ。だから僕はまるで……これは僕の被害妄想かもしれないけど、僕はまるで、彼らやビートルズの商品に、その曲を押しつけたように感じたんだよ。

オノ あなたが最後の瞬間に言った言葉を覚えているわ。

「これはちょっと短くしなきゃならない。なぜなら――」

レノン そう、そんな感じだった。僕はどうしても――。

オノ 釣り合いを考えたら、スペースなどを取りすぎてしまうからと――。

レノン それで思ったんだ。「クソくらえ。俺がやりたくなったら、別にやってやる。迷惑はかけないさ――」とね。で、他のメンバーが休暇を取っている間に、〈レボリューション[1]〉を始めたんだ――アルバムに収録されている〈レボリューション[1]〉をね。それと僕は、〈レボリューション9〉をB面として発表したかった。これは本当にメンバーがさせてくれなかったけど。

スミス そういったときは、どうするんです?みんなで揃って腰を下ろして、意見を戦わせるんですか?

レノン みんなが休暇から戻ってきたところで、僕が「実はこの曲をビートルズの次のシングルとして出したいんだ」と告げた。すると彼らは「これはシングルにはならない」と言ってきたから、僕は「そうかい、わかったよ」と答えて、〈レボリューション[1]〉をやり直していたら、〈ヘイ・ジュード〉が出来上がってきた。だから僕は何とかこの曲を〈ヘイ・ジュード〉のB面にしたけど、本当に伝えたかったのはそのメッセージだったんだ。歌じゃなくて、メッセージだったんだよ。だから、書いたままに近いものを出したて……考えたそのままのものを出したいから。

スミス そのメッセージというのは?

レノン 非暴力さ。あの曲には腹を立てた人が多かったけど、僕はそのことを言っていたんだ。

(略)

フォークソングとフォークミュージック

[1971年1月21日 レノン宅]

(略)

『レット・イット・ビー』がリリースされてからおよそ四カ月後――レノンは(略)『ジョンの魂』のレコーディングを始める。

(略)

 一〇月末にアルバム作りを終えたレノンはその三カ月後にオノを交えて、ジョージ王朝様式の自宅でタリク・アリとロビン・ブラックバーンと顔を合わせた。どちらもイギリスの著述家兼政治活動家で、アリが編集を務める左翼新聞『レッド・モール』には、このやり取りを大幅に要約したものが間もなく掲載された。ここに収録したのは元々の長いインタビュー

(略)

レノンは、革命家や社会主義者、さらには共産主義者イデオロギーについてまで、他によく知られているインタビューよりもかなり率直に語っている。

 このときのやり取りにレノンは刺激を受け(略)

「このインタビューの翌日に、彼が電話してきた」という。「そして、とても楽しかったので、この運動のための歌を書いたと言い、続けて歌詞を歌ってくれた――それが〈パワー・トゥ・ザ・ピープル〉だった」

(略)

レノン 初めの頃の僕たちには、アメリカ人の真似をしているという意識が強くあった。でも、その音楽を掘り下げていくと、白人によるカントリー&ウエスタンと黒人によるアフリカンなロックンロールが半々だとわかった。しかもカントリーの大半は、基本的にはイングランドからのもので――どれも鉄道の歌だったんだ。スコットランドアイルランドのものも間違いなくあった。基本的なフォークソングはヨーロッパからのものだった。つまりは文化交流にすぎなかったんだよ。

 それで人々がアメリカへ渡ると、曲をアメリカ風にして、鉄道で働くことを歌い、黒人は綿花畑で働くことを歌った。でも代表的な歌はどれも……ディランの代表的な歌の多くと同じで、スコットランドアイルランドイングランドフォークソングなんだ。だから僕たちも気分が晴れて、その部分を深く追求した。ただ、僕にとってもっと興味深かったのは黒人の歌だった。よりシンプルだったからね。それに、「ケツを振れ、サオを揺すれ」と歌っているような感じで、それは本当に画期的だったんだよ。

(略)

子どもの頃の僕たちは、フォークソングには反対だった。どれも中流階級的だったから――ジャズと同じでね。大きなスカーフを巻いた大学生が、ビールを片手に気取った感じでフォークソングを歌っているというものだった。[歌い出す]「ニューカッスルの鉱山で働いた」とかいったクソをね(笑)。それに、本物のフォークシンガーもほとんどいなくて……僕が好きだったのは[アイルランドのソングライターの]ドミニク・ビーアンで、リヴァプールにもフォークソングの伝統はかなり息づいていたし、カンリー&ウエスタンもあった。ただカントリー&ウエスタンには、カウボーイの手あかがべったりとついていたけどね。それがフォークソングだと、そのほとんどは中流階級の若者が、実に甘い声で歌っているというものだったんだ。

 本物の労働者が歌っている、とても古いレコードは少し聴いたことがあるし、今でもテレビではそういった曲を歌うアイルランド人を時々見かけるけど――毎日働き、そのような曲を歌うためにパブへ行く本物の人たちで――彼らのパワーたるや素晴らしくて、僕も少し興味を持ち始めた。でも階級に関する僕自身の偏見では、フォークソングというのはBBCでいつもやっている甘い声のもので、フォークミュージックとは無関係なものだった。古い伝統を続けさせるためにクラシックを再現しているみたいだったんだ。バレエなんかのように、ひどく退屈で……現在のフォークソングは、アメリカを真似ようというものではあっても、ロックンロールだった。その点は最終的には重要じゃなかったけどね。当時の僕たちは自分たちで曲を書いていて、そこは変わったわけだから。

アーバン・ブルース

レノン アーバン・ブルースなどの大半のものは、主にセックスのことや、女をめぐって通りでする喧嘩についてだった。フィールド・ソングは主に自分たちの苦しみを表すだけだった。僕はそこが好きでね。彼らは自分たちのことを知的に表現できなかったから、自分たちに起きていることはごくわずかな言葉で言わなくちゃならなかった。それこそが本物の自己表現だったんだ。(略)

元々は田畑でのものだったのが、人々がシカゴなどに移るにしたがって、アーバン・ブルースへと発展していった。自分たち個人の苦しみを表現する点は変わらなかったけど、黒人全般についてではなくて、解決策は与えられないというものだった。常に「神がお助けくださる」という内容でね。(略)

それだから、答えは与えられなかったと、僕は思っていて……。

(略)

人ができる最初のことは、自分の立場を明らかにすることで、彼らが歌でやったのがそれだ。そして次にできることは、自分と同じように考えている人を見つけることであり、そうするとこれがグループになって、それが今では発展を見せている。さらにごく最近になって始まったのが、戦争や黒人やあらゆる種類の革命について歌うことだ。ニーナ・シモンのような人たちを除いてね。ただほとんどの黒人は、[コメディアンで政治活動家の]ディック・グレゴリーが言ったように、いまだに踊っているだけなんだよ。

 それでも今は、大きな変化が起きている。[一九七〇年に〈黒い戦争〉がヒットした]エドウィン・スターなどがさらにレコードを出して、黒人の立場や黒人は美しいなどといったことを表明していて、大きな変化になっているからね。それもこのほんの二年間で起きたことだよ。こうして今は、彼らは自分たちの考えを完全にしっかりと表明し、「苦しいんだ」と言うだけではなく、その境遇について意見を述べているという段階に到達した。「自分たちは苦しんでいる。その理由はこれこれだ」と言っているんだ。

曲作りの方法

[「ディック・キャヴェット・ショー」1971年9月24日放送]

(略)

客席の男性 曲作りの方法と、最初に始めた頃から自分の曲がどう上達したと思うかを訊きたいです。

(略)

レノン 方法はたくさんある。思いつく限りの組み合わせでね。ピアノに向かって座り、曲を書きながら歌詞を生み出すこともあれば、ギターを弾きながらということもある。ギターのコードをいじりながらという場合もね。組み合わせは色々さ。ひらめきによるものが、たいていは一番だけどね。思ってもいないときに頭に浮かぶ感じで、そのあとはすべてを一気に書き上げることになるから。

(略)

最初の頃のポールと僕は、イギリス版のゴフィン&キングになりたいと思っていてね。(略)

ポップソングを書いていった。若者向けのバブルガムのようなポップソングだったけど、それが現実だった。それからは、脳の片方で『絵本ジョン・レノンセンス』や『らりるれレノン』といった本を書き、もう片方でポップソングを量産したんだよ。

 そのあとで、ディランが出てきたり、何人かの興味深い人たちに会ったり耳にしたりするうちに、急に自分が馬鹿なことをしていると気づいた。曲作りや歌詞に全エネルギーを注ぐべきだとね。だから、自分にある作曲能力は完全に曲に注いだ。すると歌詞はよくなり、歌詞の構成も上達して、それらがメロディと同じくらいに重要なものとなったんだよ。

(略)

客席の男性 今のほうが、音楽はよく聴きますか?もしそうなら、何を?

(略)

レノン たぶん、ほとんどのアーティストと同じで、他の人の音楽を聴く時間は少なくなってきている。(略)

自分の音楽を聴くよりも作るほうに時間をかけているよ。それこそが僕が打ち込んでいることだから。当然ながら、ヨーコのような人は好きだよ。ザッパとか何人かも。ドクター・ジョンもね。(略)

自分の好きなタイプのレコードというものはある。僕はいまだにロックンロールのファンなんだ。初期のプレスリージェリー・リー・ルイスといった人たちのね。僕が本当に好きな音楽がロックンロールなのさ。すごい音楽なんだよ。

(略)

売れる前は「生のいい音楽」、ロックは終わってると言われた

[聞き手:ハワード・スミス レノン宅 1972年1月23日 WPLJ-FM放送]

(略)

レノン 僕が一番懐かしく思うのは、グループで集まったり演奏したりすることだね。(略)エレファンツ・メモリーと(略)一緒に演奏したりとか、リハーサルとかちょっとふざけたりするだけで、キャヴァーンでの初期の頃が思い出されるんだよ。しっかりしたグループを組めたのは、実によかった。彼ら[エレファンツ・メモリー]自体がグループという点もよかったし、一緒にやれて本当に楽しかったからね。

 だから、それを懐かしく思うんだ――グループで一緒にやるということがね。でもビートルズの場合は、ツアーをやめてからはグループらしさが薄れてしまい、そのうちに集まるのもレコーディングのときだけになった。つまりレコーディングセッションが、ほとんどリハーサルでもあったんだ。要は、レコーディングセッションで演奏をすべて行っていたわけなんだよ。それには時にうんざりした。運動選手のようなもので腕が鈍らないように、常にやり続けないといけないからね。それなのに僕らは一ヵ月のオフのあとにスタジオ入りしたら、いきなり再び正確さを求められた。リラックスして一緒に演奏できるまでには、数日はかかるものだよ。そういうわけで、晩年のビートルズは音楽的には一緒ではなかったけど、技術はたくさん学んだ。いいレコードは作ることができた一方で、音楽的には初期の頃のようには一緒ではなかった。僕らの誰もが懐かしく思っているのがその部分だね。

 もし君が僕らの誰かと一緒になったら(略)――ジョージとリンゴとポールのことで、ポールは先週はこっちにいたけど――僕らが過去について話すときは、内容は決まって成功する前のことなんだ。(略)

僕らはいつだって、キャヴァーンやリヴァプールダンスホールのことを話しているよ。自分たちが音楽的に本当に熱心だった頃のことだからね。それとハンブルクだ。それ以降のことは話題にしないけど、それは僕たちにとって音楽が存在するのをやめてしまったからなんだよ。ダンスホールを離れて劇場へ移った僕たちが、それまでは一時間とか二時間の演奏をやっていたのに、二〇分程度のショーをしなければならなくなって、生の音楽が存在するのをやめたんだ。

 つまりは、急にすべてを二〇分で終わらせなければならなくなったのさ。しかもその二〇分間で、ヒット曲をすべてやらなくちゃならない。さらには、ひと晩で二回の公演を行う。劇場には三千人しか入らないからね。こうして、生の音楽が葬られていった。僕らが話すときというのは、言ったように、成功する前のことなんだよ。自分たちが生のいい音楽を作っていた頃だからね。

(略)

 君が見つけた海賊盤のような感じなんだよ。デッカのオーディションと、〈[アイム・ゴナ・]シット・ライト・ダウン・アンド・クライ〉が入っているやつさ。僕たちがまだ音楽的に一緒だった頃のものでね。初期の感じが耳にできるし、録音状態はあまりよくないけど、力強さがあって、音楽面では力を合わせて演奏している。それに、ハンブルクダンスホールでやっていた感じに、よく似ているんだ。

(略)

〈ラヴ・ミー・ドゥ〉(略)をポールが書き始めたのは、一五歳ぐらいのときのはずだ。それから何年かかけてみんなで仕上げて、レコーディングした。思い切って自分たちでやってみた最初の曲だったよ。他人の名曲はそれまでにたくさんやっていたけどね。

(略)

リヴァプールハンブルク時代に自分たちの曲を披露し始めたんだ。他人の名曲ばかりをやっていたから、かなり衝撃的なことだったね。レイ・チャールズや[リトル・]リチャードなんかをやっていたんだから。それがステージに上がるや、いきなり〈ラヴ・ミー・ドゥ〉を歌い始めるというのは、ちょっと大変だった。僕らはみんな、自分たちの曲のことを少し湿っぽいように感じていたから。でも徐々にそれまでのスタイルを崩していって、自分たちの曲をやってみることにしたんだ。

スミス 話に出た、そのデッカのテープですが(略)オーディションを受けたときのものですね。

レノン 落とされたやつだよ。僕も聴いてみた。あの当時じゃなかったら、僕なら落としていないね。いい音を出してるし、最後の部分は特にいい。あの頃は……あんな風な音楽をやっている人は皆無だったから。

スミス 当時はみんな、かなりがっかりしましたか?(略)

レノン ああ、きつかったよ。(略)

これでもう終わりだと、みんな本当に思ったものだよ。

(略)

オノ 向こうにしてみたら、音が斬新すぎたとか、そういうことだったのかしら?

レノン ブルース的すぎるとか、ロックンロール色が強いというのが常套句で、「もう終わったものだ」とは、よく言われたね。(略)

僕が初めてロックに興味を持った頃や、プレスリーの〈ハートブレイクホテル〉がイギリスで出てからの半年の間には、ロックは今に終わると何かと言われていた。「あとを継ぐのはカリプソか?」なんて、当時はよく言われていたんだ。ハンブルクでもドイツの会社のオーディションをいくつか受けたけど、ロックやブルースはやめて、他のものに専念したほうがいいと言われたよ。ロックは終わったと思われていたからね。でも、彼らは間違っていた。ロックは死んだって、いまだに言われているけどね。

(略)

スミス ポールと会ってどうでしたか?(略)久々のことだったでしょうに。

レノン 長い間で久々だったかな?そうか、電話ではよく話していたから、実際には会っていないということを忘れていたんだと思う。特に問題はなかったよ。話したのは主に仕事のことだったけどね。すべてを済ませたいと、お互いに思っていたから。

(略)

 彼らが基本的に望んでいるのは、僕らが望んでいるのものなんだ。(略)

とにかく、ポールと僕、そしてリンダとヨーコは、くだらないことはやめると決めたのさ。

オノ (略)リンダと私との間に、口論は一度もありませんでした。(略)そういうことはまったくなかったんです。(略)

セッションなんかがあったときは、ぶらぶら待ちながら仲良くたくさんおしゃべりする、ふたりの女の子という感じだったんです。彼女が不満を露わにした唯一の機会が、アラン・クレインが現れたときでした。

(略)

スミス では、大きな争い事は一度もなかったわけで?

オノ ええ、一度もね。

レノン 大きな争い事なんて、実際のところは多くなかったんだ。言い争いはあったけど、それは主に弁護士が絡んだ言い争いや……マスコミに出された声明とかでね。

〈ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン〉

レノン (略)[ラジオのボリュームを上げる]ああ、これはいい!この曲は絶対にかからないんだ。〈ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン〉だよ。

オノ あら、私もこの曲は大好きだわ。彼がこの曲を作っていた日のことを覚えているんです。私たちがケンウッドにいたときで。この曲はケンウッドで作っていたわよね。

レノン うん、そうだった。[聴きながら]この部分が好きなんだよ。(略)

これはドラッグについての曲だなんて言われたけど、そうじゃないんだ。[歌う]「シュート、シュート!」

(略)

 わざと大げさに表現しただけなんだよ。この曲は、ある意味ではロックンロールのすべてを網羅していると思ったんだ。様々な面をね。

オノ コラージュ――これはコラージュだったのよ。

レノン (略)あの二枚組のアルバムを作っていたときに、ジョージ・マーティンがスタジオに持ってきた銃の雑誌にあった言葉なんだ。その最初のページに「幸せとは温かい銃のことである」と書かれていて、発砲直後の銃の写真があり、[銃口から]煙が出ていたんだよ。それで思ったんだ。「人物を撃ったばかりの熱い銃が幸せだなんて、どうかしている」とね。だからこの曲を書いたのさ。

 前半は、[歌う]「彼女はあまり寂しがる子じゃない」とあるように、僕がヨーコと初めて会ったぐらいのときの彼女とかすかにつながるものを書いていた。そういったものは曲の一部分でしかないけど、別々の曲にあったそういうものをすべて組み込んでひとつにまとめて、小さな模型のように作り上げた結果――。

オノ だからコラージュなのよ。

レノン そう、コラージュだ。『ペパー』のようなアルバムのコラージュじゃなくて、一曲の中ですべてを行ったんだよ。それにロックの様々なスタイルを踏まえているし、ヘロインなどではなくて銃についての曲でもある。当時の僕は、ヘロインのことはまったくわかっていなかったからね。見たことがなかったし、手を出したり常用したりしている人もひとりも知らなかったんだ。

(略)

オノ 歌詞にある「女子修道院長」というのは――。

レノン マザー・スペリアーとは君のことだったんだ。(略)いつものように車の中で何かぶつぶつと文句を言っていたから、僕が「ああ、マザー・スペリアーがまた先走っている」と言ったんだ。彼女はいつだって一歩先走んじているからね。

(略)

〈ホワッド・アイ・セイ〉

[聞き手:デニス・エルサス 1974年9月28日 WNEW-FM放送]

(略)

エルサス ここにあるのはジョージによるニューアルバムで――。

レノン スプリンターだ[編注:ジョージ・ハリスンがプロデュースを行った二人組のボーカルグループ]。

エルサス 新しいレーベルで、ジョージのダーク・ホースです。

レノン そう、ダーク・ホースだ!なかなか良さそうなレーベルだろ?

エルサス これは……彼らとは会っておられるので?あとの三人とはお会いに?

レノン ポールとジョージ、ポールとリンゴとは、今年はよく会ってるよ。彼らがこっちに来ていたからね。ポールは一ヵ月ほど前にこっちに来たから、僕らがまだ三八歳程度だった頃の思い出話にふけりながら、ボジョレーワインを飲み交わす夜を何度か過ごした。それからリンゴともよく会ったけど、彼はこっちでレコーディングしていたからね。(略)僕は自分のアルバムの最中にひと休みすると、足を運んで彼のニューアルバム用に書いた曲をやったんだ。それからカリブー[ランチ]へ行って、エルトン・ジョンと〈ルーシー・イン・ザ・スカイ〉を歌い、戻ってくると自分のアルバムを仕上げた。だから……ポールとリンゴには会っている。ジョージとは会っていないけど、彼は一〇月にリハーサルで来るから、そのときは会いに行くつもりさ。

エルサス 関係は友好的なもので?

レノン そうさ、とても熱烈で温かみのあるものだよ!

(略)

ひとつの部屋に何とか三人が揃ったことはあったけどね。あれはポールとリンゴ、そして僕だった。夏のことで、ハリーのアルバムの最中だったよ。

(略)

一緒にやる可能性は常にあるんだ。だって、お互いに顔を合わせたら、そんな気分になりがちだからね。ただ、一緒にツアーをするとかといった自分たちの姿は想像できない。そんなことは話題にしたこともないんだ。レコードを作る姿は想像できるけどね。

(略)

 今夜、[クラブの]ジョイント・イン・ザ・ウッズには、誰が出ると思う?今日はレディースナイト――いや、この言い方は気に入らないかな。ウィメンズナイトだ。刺激的な八人編成で女性だけのグループのアイシス(略)女性は全員、入場料が半額だ。これはいい、ボウイなら入れるよ[笑うエルサス]。(略)

金曜はT・レックスで、これはいいバンドだ。彼はちょっと――彼のレコードも何枚か買ってね――気苦労のあまり太ってきているけど。一〇月四日の金曜はマーサ・リーヴス。彼女はすごいよ。

(略)

天気はやるかい?

エルサス お任せします。

レノン 度数は変化している。おや、この数字はいいぞ。気温は六九度だって[大きく息をする]。(略)湿度は九〇パーセント。ナンバーナインで、これもいい。(略)

南東の風が吹いていて、風力は六。どれも六と九だ――深い、これはとても深いよ。

(略)以上、UPIでした。

(略)

 別のアメリカ人のレコードにしよう。こっちにいる僕の知り合いが、誰も耳にしたことがないようなものをね。リッチー・バレットの〈サム・アザー・ガイ〉だ。はるか昔の六一年に、キャヴァーンだかでかなりひどい声でこの曲を歌っている、ビートルズの変な海賊盤があるんだよ。この曲も僕は、「〈ホワッド・アイ・セイ〉の息子」とか「〈ウォッチ・ユア・ステップ〉の息子」、「リックの息子」と呼んでいて(略)

イントロが〈インスタント・カーマ〉に少し似ていることに気づくと思うよ。

[リッチー・バレットによる〈サム・アザー・ガイ〉に続いて、レイ・チャールズによる〈ホワッド・アイ・セイ〉のライヴバージョンがかけられる]

レノン (略)知る限りでは、僕が聴いた中でエレクトリック・ピアノを初めて取り入れたレコードなんだよ。それに〈ホワッド・アイ・セイ〉は、あらゆるギターリックのレコードの嚆矢だったように思うね。僕らは誰もエレクトリック・ピアノを持ってなかったから、みんなギターでこの低音を出そうとしたものさ。それにこれ以前は、リトル・リチャードのロックンロールのレコードにあるようなリックがほとんどすべてだった。〈ルシール〉にあるようなリックで、サックスの部分とギターで奏でているところだ。それが〈ホワッド・アイ・セイ〉がまったく違うことを始めて、これが現在でも続いているんだよ。僕が言うべきことは以上さ!

(略)

プロデュースするなら、シングルが好き

[聞き手:ピート・ハミル 1975年2月 レノン宅]

(略)

――リチャード・ペリーはあなたについて、超一流のプロデューサーではあるが、かなり急ぎすぎのようだとも言っています。

 「それは事実だね(笑)」

――ですが、言われているところでは、ビートルズのレコードを作る際には、あなたは念入りにゆっくり進めていたとのことですが。

 「いや、僕が念入りにゆっくり進めたということはなかったよ。僕が〈アイ・アム・ザ・ウォルラス〉を作ったときのスピードは、〈真夜中を突っ走れ〉をプロデュースしたときと変わらなかった。(略)

自分の才能を時に邪魔立てするような性質があるとすると、すぐにやらないとあっという間に飽きてしまうという部分だね。それでも、〈アイ・アム・ザ・ウォルラス〉は素晴らしい出来に聴こえるし、〈ストロベリー・フィールズ〉はビッグ・プロダクションに感じられる。ただ僕は、できるだけ素早くやるんだ。それも、感覚と、行き先を見失うことなくね。個人的に一番長く時間をかけたのは〈レボリューション9〉で、これはテープループなどといったものを多用した抽象的な曲だった。それでも一度のセッションでやり終えたよ。けど、その批判は受け入れるし、自分で自分に対する批判もある。ただ、念入りにやりすぎるあまり、飽きてしまうということにはしたくないんだ。けれども僕も[息をつく]、もう少し考えるべきなんだろう。たぶんね。でもその一方で、リチャード・ペリーのような人に対する僕の批判としては、彼はすごいけど、彼も念入りにやりすぎるというものになるだろう。あまりに巧みだから、僕はその中間あたりを狙いたいけどね。僕には、完全に自分だけでプロデュースを行った自身のアルバムは、二枚しかない。それでもそのたびに、気づくことはある。僕はプロデュース業を学んでいるところなのさ。この業界にはかなり長くいて、ジョージ・マーティンポール・マッカートニージョージ・ハリスン、その他のみんなの力を借りて、自分の曲をプロデュースしたことがあってもね。自分の曲は自分で責任を持つ。でも、自分だけでプロデュースするというのは僕はほとんどやってこなかった。自分に欠けているものをいつも知ることになるから、逃げ出したくなるんだよ」

――どなたかプロデュースをしてみたいという人はいますか?例えばディランとか?

 「ディランなら面白そうだね。彼は『血の轍』というすごいアルバムを作ったから。けど僕は、バックの役回りにはまだ関心がないんだよ。彼のプロデュースはうまくできるだろうけどね。それと、プレスリーだ。エルヴィスをよみがえらせてみたいよただ、彼のことをあまりに怖がってしまって、自分にできるかどうかわからないけどね。それでも、是非ともやってみたい。ディランならできるけど、プレスリーとなると緊張するね。(略)

プレスリー相手にやることは、自分ではわかっている。ロックンロールのアルバムを作るのさ。ディランの場合は素材は必要ない。ちゃんとしたバックをつけるだけでいいんだから。だから、ボブ、もしこれを読んでいたら、いいかい……」

(略)

――最近はどのようなグループをお聴きに?

 「僕はいまだに[シングル]レコードの人間でね。腰を据えてアルバムを通して聴くことができるという人は、この世界には僕も含めていないよ。ひとりもね。同じ声が続くのは……誰にも耐えられないから。ロックンロールのファンだった一五歳の頃ですら、通して聴いたアルバムはほとんどなかった。僕の敬愛したエルヴィスとか、カール・パーキンスやリトル・リチャードでもね。飛ばして次に移るという曲が、いつも何曲かあったよ。というわけで、じっと座ってアーティストのアルバムを通して聴くということはしないんだ。友人のものじゃない限りはね。レコードは好きだよ。〈シェイムシェイムシェイム〉は気に入っている。シャーリーとその仲間のね。ディスコ関係でも好きなものはある。いいものさ。僕は個々のレコードが好きなんだ。去年、僕が好きだった曲のひとつは、ビリー・スワンの〈アイ・キャン・ヘルプ〉だった。往年のエルヴィスを本気で真似たレコードだよ。僕はシングルが好きなんだ。ジュークボックスの音楽がね。それに興奮したクチだったから、それが今でも好きなのさ」(略)

フィル・スペクターとの顛末、『心の壁、愛の橋』

[聞き手:フランシス・ショーンバーガー 一九七五年三月、ニューヨーク]

(略)

 この当時のレノンは、よりを戻したヨーコ・オノと暮らしていて、彼女の妊娠についても知っていたはずだ(略)

レノンは、このあとに入る五年間の隠遁生活について既に検討していたようで、現時点で一番心が安らぐものを訊かれて、「静けさ、それにピアノ」と答えている。

 ショーンバーガーは、彼女の滞在先だったニューヨークのパークレーン・ホテルに単身で現れたレノンについて、「驚くほど上機嫌でした」と語っている。レノンは、一月末にリリースされたリンゴ・スターの曲〈ノー・ノーー・ソング〉を口ずさんでいたという。

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ショーンバーガー オールディーズのアルバムについてですが、なぜオールディーズばかりをやったのですか?

レノン これは七三年にフィル・スペクターと始めたものでね。僕は『マインド・ゲームス』を終えたところだったけど、そのアルバムは僕にとっては、異常なまでに政治に熱狂した自分と、ミュージシャンに戻った自分との間に位置する、中間的なレコードだったんだ。両方を足して二で割ったみたいなね。僕は本当に心理戦をやっていた。まさにマインド・ゲームスだった。深く考えようとするばかりで……「どうして楽しむことができないんだ?」と。僕の考えでは、音楽で楽しむとは歌うことだった。どんなものだろうと歌うのさ。それに僕がスタジオで歌うときというのは、自分の個人的な深い曲は歌っていなくて――いつもロックンロールを歌っていた。だからそこから始めたというわけなんだよ。

 そこで考えた。自分には何をすべきかがわかっている。スタジオでテイクの合間にいつも歌っている歌で、ロックンロールのアルバムを作ろう。でも、プロデューサーなんてやりたくない。フィル・スペクターと組もう。彼とは前に組んだことがあるから、とね。彼ならプロデュースできると説き伏せるまで、三週間かかったよ……『イマジン』などのように、僕が権限を絶対に手放さないような共同プロデュースにはならないと。だからこう言ったんだ。「君がやるんだ。僕はただ、ロニー・スペクターとかシフォンズとか、誰でもいいけど、その存在でいたいだけなんだよ。僕はその場に座って歌うだけ。君がテープに録るまでは、始めもしない。チェックも何もやらないバスドラムだとか、僕の好きなドラムも……君の好きなようにやれるんだ。僕は歌うことに徹するよ」とね。それで、最初は見事に進んだ。あの場にいたフィル・スペクターは、僕が任せた以上のことをやってのけていた。生演奏する二八人のミュージシャンを完全にコントロールしていたんだ。僕にとってそれは(略)六〇年代初期のスペクターのセッションを見ているような感じだった。彼は本当にすごかったよ。

 ところがこれが、常軌を逸してきたと思ったら、ついには駄目になった。崩壊したんだ……みんな酔いつぶれたんだよ。ほんのふたりほどを除いてね。飲んだくれて大混乱と化したんだ。しかも、彼はテープを持って姿を消して、僕はそれを手に入れることができなかった。彼が自宅にしまい込んだからね。それから、彼がワーナー・ブラザーズかどこかを通じて、密かにセッション代を払っていたこともわかった。これは、僕がまったくあずかり知らないことだった。僕のセッション代はすべてEMIかキャピトルが出しているから、僕はそんなことを考えたこともないんだよ。こうして、セッションが頓挫しただけでなく、テープも失ってしまって……楽しむつもりが、まったく楽しいものではなくなったんだ。それだから僕は、ロサンゼルスで何カ月もぶらぶらと過ごした。彼が穴蔵から出てくるのを待ちながらね。

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そのうちに、僕もうんざりした。飲んだくれることにうんざりして、落ち込んだ。僕はスタジオにテープを置いていくことはない。未発表の作品なんてないんだ。頭がどうかなりそうだったよ。そこで心を決めると――ハリー・ニルソンとはしょっちゅう酔っ払っていたから酔ったある朝に、彼にこう言ったんだ。「自分たちで何かやろうじゃないか。問題を起こす代わりに。(略)何か建設的なことをしよう」と。この「建設的なこと」というのが、「よし、ハリーのアルバムを作ろう」というものになったんだ。僕はそれで構わなかった。自分のアルバムは作りたくなかったし、そんな気分じゃなかったからね。(略)

みんなで――リンゴ、ハリー・ニルソン、クラウス・フォアマンと――一緒に暮らして、何とかしてキース・ムーンもそこに加えようとね。この素晴らしいアイデアを僕が考えたのさ。みんなで一緒に暮らして、一緒に作業をしてもらおうと。

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ところが最初のセッションのあとにハリーが僕のところにやって来て、声も何もまったく出ないと言ったんだ。「どうしたんだよ?」と訊いても、彼は本当に声が出なかった。あれが心理的なものだったのか何なのかはわからない。そういう面も少しはあったんだろう。ということで僕は、声の出ない優れた歌手と、飲んだくれた変人だらけの家を抱えたわけなんだ。だから僕は途中で、急に酔いが覚めたんだよ。責任者は僕だ、プロデューサーなんだから!とね。しっかりしなくちゃならなかったから、しっかりした。僕がきちんとしなければならなかったし、みんなも僕のことをそのように見ていたから……すぐに僕は孤立せざるを得なかった。距離を置くために、寝室に閉じこもったよ。そうしてこのアルバムを仕上げると、僕は[ニューヨークに]戻って『心の壁、愛の橋』に取り掛かったんだ。そのときには、僕はすっかりまともになっていた。酔っ払った人の姿を目にするだけで、しゃんとするには十分なのさ。

 『心の壁、愛の橋』に取り掛かる前日にある取引が成立して、フィルがテープを送り返してきた。例のロックンロールのやつをね。レコーディングしていたものは八曲ほどあった。八ヶ月かけてだよ!このときは彼の相手はできなかったから、自分で『心の壁、愛の橋』を仕上げた。それからその八曲に取り掛かった――聴きたいとも思わなかったけどね。そのうちの四曲ほどは救うことができたけど、残りは……調子外れもいいとこで……ひどいものだった。あんなものは使えないよ。二八人のミュージシャンが調子外れの演奏を繰り広げているんだから!使えるものだけを救い出したけど、僕の気持ちは沈んでいった。僕に何ができる?EP盤を作るか?アメリカにEP盤はない。一曲ずつ出していくか?シングルになる質があるのかも、僕には十分な確信がなかった。問題ない曲もあったけど、自信を持てなかったんだ。

 そこで、五日間でさらに一〇曲をレコーディングして、それをひとつにまとめてみた――それで出来上がりさ。楽しもうとして始めたものが、最後には……最後には楽しいものになったけどね。その五日間のセッションは大いに楽しめたから。ひと晩に二曲か三曲だけやって、いっぺんにはやらなかった。リラックスした状態でロックしたよ。楽しいものとして始まり、それが地獄になったけど、最後は楽しいものとして終わった。なかなかの展開だったね。レノンとスペクターによる名盤という期待があったのに、初めてのことだけど、あやうく出せないということになりかねなかった。それで、人に聴かせてみた。関係者じゃない人たちにね。それと、関係者じゃなくて、何も耳にしていないレコード会社にも。すると彼らは、「問題ない。気に入った」と言ってくれた。友人たちも気に入ってくれた。問題ない、悪くないよと。気に入ってくれた曲もあったんだ。みんな、以上が顛末だよ……。

歌詞の書き方、ジュリアン

ショーンバーガー では、現在のあなたの計画は?一九七五年には?

レノン 七五年は生き長らえること――それが僕のモットーさ。よくわからないけど、かなりいい感じには思えている。七四年は最悪だった。ひどいのひと言だよ。七四年は三年間にも感じられて……そのごく一部は、七五年まで持ち越された。けど今はいい感じだし、いいものが書けている。つまりハッピーなのさ。

ショーンバーガー 書くというのはどのようにされているのでしょう?気分が乗ったときに書くのですか?頭の中はいつも書くことを考えているわけで?

レノン 僕は常にその気分でね。一番いいものは、たいてい衝動的に出てくる。もしくは、ひらめきさ。そのことを考える必要は特にないんだ。ただ、常に書いてはいる。僕は頭の片隅に(略)しまい込んでいるんだ。歌詞とかアイデアをね。僕が何も書いていないときは、ほとんどない。書いているという意識は、自分にはないけどね。さあ座って書こうという意図的な時間というものはないんだ。

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僕が先延ばしにするものは多くない。時々忘れたせいであとに残るものもあるけど、それも思い出して、一部を使うんだ。

ショーンバーガー 歌詞はどのように書くので?

レノン 紙切れに書き殴るだけさ。それを重ねるように置いておいて、それがかなり興味深い感じのものになってきたら、タイプライターで打ち出してみる。そのタイプの段階でも、手を加えることはある。打ちながら変えていくんだ。タイプライターに向かうときというのは、三度目の下書きというのが普通でね。簡単に仕上がるかどうかによるんだ。「書きながらタイプする」というようにできた曲ならいいけど、一般的な曲なら、さらに何度かタイプすることになる。ただ、最終版となるのはレコーディングしたときのものなんだ。僕はぎりぎりまで、いつも単語をひとつかふたつ、変えるから。

ショーンバーガー 歌詞が先で、それから曲ということですか?

レノン 普通はね。そのほうがいいんだよ。自分でもね。曲の部分は、簡単ともいえるんだ。僕はエルトン・ジョンをうらやましく思うことがある。バーニー・トーピンが大量の歌詞を送ってくるから、彼はすべての曲を五日間で書き上げるんだ。それは僕にもできる。けど僕は、あまりに自己中心的だから、他人の歌詞は使えないんだ。そこが問題でね。つまり、僕自身の欠点なんだよ。僕は黒人音楽もディスコミュージックもいまだに好きで……〈シェイムシェイムシェイム〉とか〈ロック・ユア・ベイビー〉を書けるんだったら、どんな犠牲も惜しまない。ただ、それが僕にはできないことなんだ。言葉にこだわりすぎるから、〈ロック・ユア・ベイビー〉は書けないんだよ。できたらなとは思うけどね。僕は知性もないのに、知的すぎるのさ。自分のことは作家のように感じているんだよ。だから曲の部分は簡単なんだ。音というのはあらゆるところにあるんだからね。

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[ジュリアンの話題になり]

ショーンバーガー 一一歳の男の子にとって、父親がジョン・レノンというのはどんなものなのでしょう?

レノン 生き地獄に違いないよ。

ショーンバーガー そのことをあなたに言ってきますか?

レノン それはない。彼自身がビートルズのファンだから。だって、当然だろ?彼は僕よりもポールのことが好きだと思うんだ……ポールが父親だったらなと、彼が思っているという変な感覚があるんだよ。でも残念ながら、彼にいるのは僕だ(略)

彼は賢い子で、音楽が好きなんだ。特に勧めもしなかったけど、もう学校でバンドを組んでいる。ただ、歌うのはロックンロールさ。先生が僕の年代だからね。だからその人が彼らに、〈ロング・トール・サリー〉とかビートルズの曲をいくつか教えているんだ。息子はバリー・ホワイトやギルバート・オサリヴァンが好きでね。クイーンも好きなんだけど、僕はまだ聴けていない。(略)

 電話したら、「クイーンは聴いた?」って言われたから、「いや、それは何だい?」と答えた。名前は聞いたことがあった。あの人は見たことがあって……ピアノを弾くヒトラーのような人に……あれはスパークスだね?スパークスアメリカのテレビで見たんだ。それで電話したときに、「スパークスは見たかい?ピアノを弾いてるヒトラーみたいな人を?」と訊いたら、「ううん。悪くないけどね。で、クイーンは見た?」って言うから、「クイーンって?」と答えると、教えてくれる。彼の年齢層は音楽に詳しくて……僕が一一歳の頃は、音楽は意識していたけど、それほどじゃなかったのに。

(略)

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