ヒップの極意 ドナルド・フェイゲン・その2

前回の続き。 

ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS

ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS

 

ヴィレッジ・ヴァンガード 

 ニューヨークのジャズ・クラブに通いはじめたのは12、3歳のころのことで、最初はマイクとジャックという年上のいとこがいっしょだったが、その後、ひとりで行くようになった。バードランドのマチネーで、偉大なるソニー・ペインをドラムスに擁する無敵のカウント・ベイシー・バンドを観たこともある。バンドが一丸となってあの13度のコードをくり出すと、顔にふわっと風を感じた。

 

 その昔、ジャズ・クラブは都会的なロマンス、自由恋愛のヒップスター主義、そしてエキゾティックな黒人によるディオニソス的な儀式を意味する神秘的な場所だった

(略)

郊外暮らしの少年だったわたしは、しばしばニュージャージー・ターンパイクでバスに乗り、荒れ地のような工業地帯を横断した。マンハッタン島を勝ち取るには、そこを通りぬける必要があったのだ。(略)

カフェ・ホワ?やカフェ・ビザールでは、観光客がエスプレッソをちびちび飲んでいた。ブリーカーとマクドゥーガルの角にあるフィガロズ・コーヒー・ショップで、わたしはバーガーを注文し、黒のレオタード姿で腰をふりふり店内を練り歩く、優美な仏頂面のウェイトレスをながめながら、自分の心臓の鼓動音を聞いた。メニューの題辞には「ビートがエリートと出会うところ」とあった。

 60年代のはじめ、すでにアメリカご用達のダンス・ミュージックの座をロックンロールに奪われてしまったジャズは、新たな危機に直面していた。バップとクール・ジャズに一瞬だけ色目を使っていた大学生たちが、「フォーク」 ミュージックを正式な熱狂の対象に定めたのだ。とっつきの悪いパーカー以降のジャズと異なり、ギターをベースにしたルーツ・ミュージックは来る者を拒まず、アイロニーとも無縁だった。そしてほとんどだれでも、なんらかの形態で演奏することができた。さらに大恐慌時代の左翼讃歌は、初期公民権運動の公式な音楽にたやすく転用が可能だった。ディラン、タリアーズ、ジュディ・コリンズ、リッチー・ヘイヴンスおよびその同類たちを売りものにした新しいクラブが、業界の大きなシェアを獲得しつつあった。それでも最後の輝かしさをまとったジャズを聞こうと思ったら、依然としてヴィレッジに勝る場所はなかった。

 ヴィレッジ・ヴァンガードの客席では、わたしが最年少だった。(略)

ちっぽけなステージに神々が立っていた。(略)

マイルス・デイヴィスソニー・ロリンズジョン・コルトレーンはまだいずれも若々しく、怖いもの知らずで、創造力のピークにあった。一度顔を覚えると、経営者のマックス・ゴードンはわたしをドラム・キットのとなりの特等席に座らせ、気がぬけたバーのコークをおごってくれた。カヴァー・チャージは、だいたい7ドルぐらいだった。

 お気に入りのひとりがベーシスト/作曲家のチャールズ・ミンガスで、いつも悪魔的なドラマーのダニー・リッチモンドを連れていた。リッチモンドがあの3拍子を叩きだすと、シズル・シンバルの振動が決まってわたしのグラスをテーブルの端に動かし、そのたびにまんなかに押しもどす羽目になった。ミンガスがアップテンポの曲の途中で演奏の手を止め、人種、政治、不正を働くレコード会社、そして白人、黒人双方の偽善について、レクチャーしはじめたこともある。この大嵐のようなアーティストのステージを観ていると、音楽以外の出来事も、音楽そのものと同じくらいエキサイティングに思えてきた。ただ、とりわけ荒れ模様だった夜のひとつで、ミンガスがバーの前に座っていた老コールマン・ホーキンスを「アンクル・トムめ!」と怒鳴りつけはじめたときは、さすがに縮み上がってしまったことを正直に認めよう。ホークは世に倦んだような笑みを浮かべ、なにもいわずにグラスを飲み干した。出番を終えたピアニストのジャキ・バイアードに「すばらしかったです」と声をかけると、ジャキがわたしのテーブルに座り、音楽に関する質問にこころよく答えてくれたこともあった。

 当時のニューヨークを代表するクラブだったヴァンガードには、真剣なファンと観光客の両方が集まってきた。

(略)

ヴァンガードで見ることができたミュージシャンのなかでもとりわけ衝撃的だったふたりは、いずれもジャズの父祖的存在で、30年代に入ってもなお現役で活動していた。アール・“ファーザー”・ハインズ(略)

ウィリー・“ザ・ライオン”・スミス(略)

20年代、30年代のウィリーは、ハーレムの「ストライド」 ピアノを発展させた達人中の達人だった。60年代に入っても相変わらずシャープで力強く、上に傾けたダービー帽、牛乳瓶のようなメガネと、噛みしめたシガーもそのままに、大恐慌時代のレント・パーティーから現代にまっすぐ歩いて来たような印象を与えた。彼は自分のステージを、ある種ジャズ史のセミナーと化し、自分のレパートリーと、ハーレムの音楽生活、演奏合戦、ギャング、そしてジェイムズ・P・ジョンソン、ファッツ・ウォーラー、ラッキー・ロバーツ、ユービー・ブレイクといった同時代のプレイヤーたちのスタイルを決定づけていたニュアンスに関するしゃべりを交互に披露した。また秘蔵っ子だったデューク・エリントンには特別な愛情を示し、その作品をふんだんにプレイした。

(略)

そのほら話にも引きこまれたが、ほんとうのお楽しみがはじまるのは彼がスタンウェイをいたぶり、驚異的な左手で機関車のようにリズムをくり出しながら、右手では繊細なメロディを奏ではじめたときだった。自分ヴァージョンの〈キャロライナ・シャウト〉をぶちかますと、ウィリーは決まって「さあ、今のがみんなのいう……むちゃくちゃいいってやつだ」とコメントした。けれどもたとえば自作曲の〈エコーズ・オブ・スプリング〉をやるときのように、リリカルさを発揮することもあった。

(略)

[マイクのない時代に]鍛えられたタフなアフリカ系アメリカ人エンターテイナー、たとえばウィリー、アール・ハインズコールマン・ホーキンス、エリントンのバンドといった男たちについてもうひとこといいそえると連中は本気ででっかい音が出せた!

 ヴァンガードビル・エヴァンスは、いつだって最高だった。彼のスタジオ・レコーディングしか知らない人は、ライヴという場で「アガる」曲をやっていたときの彼が、どれだけエネルギッシュで、ファンキーな攻め手だったかがわかっていない。

(略)

あの当時ですら、写真でおなじみのあのポーズをくずすことはめったになく、腰で身体をふたつに折ると(略)頭をピアノのなかに突っこんでいた。70年代の末ごろになると、わたしはこのきわめつけのモダニストが、右手のラインに、駆け足気味の、奇妙なシャッフルを取り入れているのに気づいた。それはあたかも彼があえて、ウィリー・スミスの時代にまでさかのぼる、骨董品的なリズムのスタイルに逆行しようとしているかのようだった。あれはいったい、なにがねらいだったのだろう?

 ほんもののファンや本気のヒップスターなら、3丁目のアヴェニューBとCのあいだにあったスラッグス・バーを覚えているはずだ。(略)客席にわたししかいない夜もあり(略)たっぷりクスリの入った常連客がふたり、テーブルに突っ伏していたりした。定期的に出演していたのは、シダー・ウォルトンジャッキー・マクリーンアート・ファーマージミー・コブといった面々で、1972年には[リー・モーガンが射殺された]

(略)

 1965年ごろ、フォーク/ロック・クラブのカフェ・ア・ゴー・ゴーが、月曜の夜に限ってジャズをフィーチャーするようになる。そこではたまたま街に居合わせたトップ・プレイヤーたちが、ジャム・セッションをくり広げていた。(略)

セットはまず、リズム・セクションだけ──ピアノのウィントン・ケリー、ベースのポール・チェンバース、ドラムのウィリー・ボボーではじまった。夜が深まるにつれて、ほかのプレイヤーたち──テナーのハンク・モブリー、ヴァイブのデイヴ・パイク、そしてたしか、トロンボーンのカーテス・フラー──もぽつりぽつりと参加しはじめた。休みぬきで2時間以上、スタンダードとブルースをネタにジャムりつづけたモブリーとケリーは、まさに怪物だった──ハードにスウィングしながら、その場で曲をつくっていく。最高としかいいようがなかったし、その場にいられるだけで幸運だということもわかっていた。

(略)

 80年代に入ると、ジャズ・シーンはかつてなく「ヘルシー」になって復活を遂げた。(略)

ある夜、わたしは数人の友だちを連れて、ウディ・アレンが毎週月曜の夜に出ていたマイケルズ・パブにピアノ・トリオを観に行った。雰囲気は堅苦しく、案内役はぶっきらぼうだった──そこにはロマンのかけらもなかった。

 われわれはステージがはじまる前に退散した。スラッグスを返せ!

ジャズDJ

 わたしの記憶だと、モート・フェガのラジオ番組「ジャズ・アンリミテッド」は深夜0時にはじまり、朝の5時か6時に終わっていた。両親の怒りを免れるために、わたしはラジオをシーツの下に引っぱりこみ、たいていはエンディング・テーマの前に、いつしか眠りこんでいた。

 

 (略)「ナイトフライ」のキャラクターは、決して特定のジャズDJがモデルだったわけではない。だがそこには実在するラジオ・パーソナリティの要素がいくつかミックスされている。60年代のはじめには、パワフルなマンハッタンのラジオ局が何局も、ハード・バップをメトロポリタン・エリア全域にとどろかせていた。探す場所さえ知っていれば、1日24時間、最高のジャズ漬けになることも可能だった。

 学校が終わると急いで帰宅し、みごとなまでに衒学的だったリヴァーサイド・レディオのエド・ビーチを聞いた。(略)

彼は古典的な俳優の声と口調でリスナーを引きこみながら、レコーディングの詳細について語り、ウィットに富んだこぼ れ話を披露する。よく覚えているのは、小編成のグループをバックにした40年代、50年代のジョニー・ホッジスの作品だけをかける回があったことだ。(略)

エドは仲間のマニアだけを相手にしていた──半可通はお呼びじゃない。

(略)

深夜12時をすぎると、WADOにダイヤルを合わせるだけで、いつもキング・プレジャーがうたう、DJ“シンフォニー・シド”・トーリンのイカしたテーマソングを聞くことができた。

(略)

 金曜の夜も、シドはバードランド(「世界のジャズ・コーナー」!)から中継放送をやっていた。わたしは部屋の扉を閉めて、あの小さなゼニスのテーブル・ラジオから、ベイシーやミンガスのライヴ・ミュージックを鳴り響かせた。

(略)

 わたしがいちばんひいきにしていたのは、WEVD局のオールナイトDJ、モート・フェガだった。うなり声でジャズ通ぶりをひけらかすシンフォニー・シドのスタイルが(略)ケネディ時代になるといくぶんずれて聞こえていたのに対し、モートはいっさいそうした仮面をまとわなかった。リラックスしていて、知識が豊富で、ずばりものをいうクールな男──だれもがこんなおじさんがいたら、と願うような男だった。わたしは音楽そのものと同じくらい、モートの曲間のコメントを楽しみにしていた。

(略)

 当時はジャズ・ファンのよくいう巨人たちが、この地球上を歩いていた。(略)モートはその全員──マイルスやモンクやロリンズやミンガスやコルトレーンビル・エヴァンスやら──をプレイしていた。けれども彼には彼独自の、さほど知られない個人的なお気に入りがいた。そのひとりがオリヴァー・ネルソンで、彼の精緻な《ブルースの真実》が広く知られるようになったのは、モートの力によるところが大だった。

(略)

レイ・チャールズ

 2004年にレイ・チャールズが亡くなったとき、われわれの知っていたアメリカ文化は終焉を迎えた。聖なるものと俗なるもの──ベーシックなカントリー・ブルース、クラブ・ブルース、カントリー&ウエスタン・ミュージック、黒人ゴスペル、チャーリー・パーカービバップ、そしてアメリカン・スタンダードの正典──の要素を錬金術のごとく合体させることで、ブラザー・レイは、少なくとも音楽に関する限り、心身の問題を解決した男だった。

 レイが最初にお手本にしたのは、ナット・コールの洗練された人気トリオと、とりわけチャールズ・ブラウンだった。ごく短い物真似の時期をへて、彼はブラウンの気取ったクラブふうの唱法を払拭し、コールのシカゴ的なクールさと、黒人バプティスト教会の熱狂を合体させた、自信にあふれる、独自の肉体性を見つけ出した。(略)

レイはクロゼットの奥からソウルを引っぱりだしたのである。

 広く知られている通り、レイは1954年1月8日のレコーディング・セッションでゴスペル・ナンバーをハイジャックし、本人がよくいっていたように「神と女を入れ替えた」。その結果生まれた〈アイ・ガット・ア・ウーマン〉──そしてそのあとにつづく(略)数多くの曲──は、第2次世界大戦後のこの国を苦しめていた、感情に対するおぞましい神経症的な抑圧からひとつの世代を救い出した。

(略)

 レイ・チャールズ効果が波及したのは、ポピュラー音楽の世界に限らなかった。レイのビッグ・バンドと小編成バンド(略)は、50年代のジャズが取った方向性──フランス人評論家のアンドレ・オディールが「ファンキーでハード・バップな退行」と呼んでクサした動きに、多大な影響をおよぼした。ホレース・シルヴァー、カウント・ベイシーの“アトミック”・バンド、チャールズ・ミンガスブルーノートのファンキーなアーティスト全員──彼らはみんな、レイ・チャールズに借りがあった。レイが1948年にシアトルに移ってきたとき、クインシー・ジョーンはその地に住むティーンエイジャーだった。

 

「姿をあらわしたレイは、16歳ぐらい(略)で……まるで神様のようだった!アパートもあったし、レコード・プレイヤーもあったし、ガールフレンドもいて、スーツも2、3着持っていた。(略)

わたしはただそのそばにいて、「きみが16歳だなんて信じられないよ。もうなんだって揃ってるじゃないか」といっていたわけさ。なにしろ彼はまるで……頭の切れる大人のようだったから。アレンジのやり方も、なんだって知っていた。そして彼は……アレンジのやり方や音符のことを、点字で教えてくれたんだ。音符とはなんなのかをね。なにしろ彼にはわかっていたから」

 

(略)より武闘的な70年代(略)[JBやスライの]ファンク・ブームに乗ろうとするレイのこころみは、中途半端なものだった。新しい黒人のサウンドは、より冷たく、より直接的で、実のところ、より細分化したビートを基盤にしていた。ジェイムズ・ブラウンアイザック・ヘイズ、そしてバリー・ホワイトはいずれも、女性を喜ばせることよりも、遺体のパーツを集めることに関心がありそうな見てくれをしていた。(略)

下降期に入ってからも、レイの作品はつねに新世代のそれより賢明で、繊細だった。それは大人のための音楽だった。

 とはいえわたしやある世代の郊外型ベイビーブーマーにとって、レイは「欲望の先生」だった(略)

悪魔とアイク・ターナー

マディ・ウォーターズはクラークスデイルで育てられた。ジョン・リー・フッカーサム・クックはそこで生まれ育った。アイク・ターナーもまた、クラークスデイルっ子だった。1930年代の深南部でのことだ。

(略)

ティーンエイジャーになるころには、アイクはピアノでブギーを叩きだし、まさしくデルタ的な音を鳴らすギターを弾くことができた。(略)

[とはいえ際立つ腕前でもなく]

アイクが秀でていたのは、リーダーシップの部分だった──コンセプトをつくり、お膳立てをして、それを実行に移すこと。

(略)

[ティナとの]幕切れとともに、彼の名前は主として「妻を殴るコカイン中毒の誇大妄想的な黒人男」のコミカルな代名詞となってしまうのだが──すでにアイクは半ダースほどの分野で成功を収めていた。彼はDJであり、執拗なタレント・スカウトであり、アレンジャー(サム・フィリップスのサン・レコードでも仕事をしていた)であり、バンドリーダー(自身のグループ、キングス・オブ・リズムを率いていた)であり、セッション・プレイヤー(B・B、ハウリン・ウルフエルモア・ジェイムズほか、数多くのアーティストとレコーディングをしている)でもあった。彼を雇っていたのは、モダーン・レコードのビハリ兄弟、シカゴのチェス兄弟、そして一連のタフなクラブ・オーナーたち。彼らは無駄金を使うことをなによりも嫌っていた。アイクは時間通りにセッションにあらわれ、ライヴをブッキングし、バンドのスーツがプレスされていることをたしかめ、いつでもプレイできる状態で彼らを次の町に送り出さなければならなかった。お膳立てだ!

 アイクはことを起こせる男だった。たとえば(略)〈ロケット88〉がある。アイクと彼のキングス・オブ・リズムが1951年にレコーディングしたこの曲を、チェス・レコードはジャッキー・ブレントン&ヒズ・デルタ・キャッツ名義で(略)リリースした。音楽評論家の多くはこれを、R&Bからロックンロールへの飛躍を遂げた史上初のレコードと見なしているようだが、それはおそらくギタリストのウィリー・キザートが使っていたオンボロのアンプが、彼のサウンドをたまさか歪ませていたおかげだろう。けれども曲を引っぱっているのは、アイクのエネルギッシュなピアノだ。〈ロケット88〉はR&Bチャートの首位を獲得し、まちがいなくリトル・リチャードとジェリー・リー・ルイスも、しっかり聞きこんでいた。

 翌年、ビハリ兄弟の命でメンフィスに向かった彼は、ブルースマンのロスコー・ゴードンをスカウトする。アイクはゴードンの〈ノー・モア・ドッギン〉という曲を気に入り、セッションには彼のバンドを参加させた。(略)

〈ノー・モア・ドッギン〉はその年、チャートを2位まで上昇する。ロスコー・ゴードンのピアノ・スタイル──とりわけ、そのレコードでの──はディープなシャッフルで、アップビートに強くアクセントを置いたブギーの変種だった。ほとんどスカのように聞こえたとしても、それは決して偶然ではない。このレコードはしばしば、ジャマイカで生まれたスカのリズムのひな型と見なされているからだ──そこからロック・ステディが生まれ、さらにはレゲエが生まれたのである。アイクが盗もうとしたのも無理はない。

(略)

わたしはアイクがティナ&ジ・アイケッツのためにつくった初期のシングルがみんな大好きだ(略)

いちばん好きなのは、ジ・アイケッツの〈アイム・ブルー(ザ・ゴング・ゴング・ソング)〉だ。リード・ヴォーカルを取るドロレス・ジョンソンは、「すごい」という使用過多のフレーズがまさにしっくり来る歌声を聞かせる。定形化した透明セルの無接点シーケンスを思わせるこの曲は、アイクによる至上の傑作だ

(略)

1965年にアイクは、レヴューのセカンド・ギタリストとして若きジミ・ヘンドリクスを雇い入れるが、大変な目立ちたがり屋だったせいでやむなく解雇する。ジミは線の内側に留まっていられるタイプではなかったのだ。

(略)

アイクとティナはストーンズの前座を務め(略)白人層にも大人気を博した。彼らは今やスーパースターとなり、ドル札がどっと流れこんできた。

(略)

アイクは年を追うごとによりハイになり、と同時により嫌なやつになっていた。(略)

 1976年にティナが去ると、すでにセックスとドラッグとロックンロールでズタズタにされていたアイクは、とうとうバラバラになってしまった。(略)

ティナとともにロックンロール・ホール・オブ・フェイム入りを果たしたという報せが届いたとき、彼はまだ獄中にいた。

(略)

[ティナの自伝や映画で]DVの象徴的存在となったアイクは、必死で復帰への道を探りはじめた。彼はキングス・オブ・リズムを再結成し、自分でも「Takin' Back My Name(汚名返上)」と題する本を出した。(「たしかに、ティナをひっぱたいたことはある。(略)ケンカはしたし、なにも考えずにパンチを浴びせたことも何度かあった。(略)でも一度も叩きのめしたことはない。(略)オレの母親がされても気にならない範囲のことしかティナにはしたことがないんだ」)。アイクは明らかにこの問題の本質をつかみそこね、カムバックのライヴでは、それっぽい衣裳を着せたティナの代用品たちに、彼女の曲をうたわせていた。どうやら彼には依然として、彼女が出て行った理由が理解できていないらしかった。

(略)

69年の卒業生

(略)

 ご存じの通り、ハイスクールでのわたしは、決して社交的なタイプではなかった。わたしはニュージャージーの田舎にできた真新しいエリアに暮らす、数少ないユダヤ人のひとりだった。さらに、ラジオでジョニー・ソマーズの〈内気なジョニー〉がかかったらどうしようと怖れるあまり、ほかの子の車に乗るのを嫌がる、内向的なジャズ・スノッブでもあった(ただしシャングリラズのメアリー・ワイスには秘かな恋心を抱いていた)。(略)

ハイスクール時代の大半を家ですごし、同級生たちがみんなスポーツのイヴェントに出たり、ガソリンスタンドで盗みを働いたりしているあいだに(略)、「サタデイ・レヴュー」(定期購読していた)のページをめくったり、プリンストンの地下書店から盗んできた分厚いドーヴァー社のペーパーバックを読んだり、ピアノの前に座ってレッド・ガーランドのレコードからフレーズをコピーしたりしていた。酒も煙草もやらなかった。

(略)

平たくいうとわたしは最上級のオタクであり、悲しいほど孤独だった。

 肉体に自信のないわたしは、女性にも奥手だった。プロムや卒業パーティーの類はすべてすっ飛ばしていた。実際にデートをするということを考えただけで嫌気がさしてきたし、同時にそれは、わたしの勇気の限界を超えてもいた。

(略)

1967年のある午後、わたしはキャンパス内で音楽クラブの役割を果たしていた森のなかの薄汚れた小屋、レッド・バルーンに足を運んだ。近づくにつれ、だれかがなかで適当に弾いている、エレクトリックなブルース・ギターが聞こえてきた。(略)本物のブルースのタッチとフィーリングがあり、説得力のあるヴィブラートを響かせていた。ファットでメロウな音を生み出すために、彼のアンプは手を加えられ、アルバート・キングっぽいサステインを程よく出すのにちょうどいい音量まで上げられていた。なかでクランベリー・レッドのエピフォンを弾いていたのは、人を寄せつけない感じのメガネをかけた少年で、この彼こそが以後40年間にわたり、わたしのパートナーにしてバンドメイトとなる男だったのである。

 ウォルター・ベッカーとわたしには、共通の趣味が多かった──ジャズ、ブルース、あらゆる種類のポピュラー音楽、ナボコフと当時は「ブラック・ユーモア」一派と呼ばれていた作家たち、サイエンス・フィクションだのなんだの。

(略)

われわれの趣味はとてもよく似ていて、マイルス・デイヴィスからマザーズ・オブ・インヴェンションにまでおよび(略)新(ローラ・ニーロ)旧(ハウリン・ウルフ)の刺激的な音楽を、はじめてわたしに教えてくれたのもウォルターだった。

 われわれは主にマナーのロビーにあった小さな居間のアップライト・ピアノで、曲と歌詞を共作しはじめた。どちらかが馬鹿馬鹿しいアイデアを思いつくと、ふたりでそれをつっつきまわし、その作業はわれわれが笑いすぎて引きつけを起こし、やめるしかなくなるまでつづけられた。ファンキーなグルーヴ、ジャズのコード、そしてトム・レーラーと「青白い炎」の中間に位置するような感性を持つ歌詞の組み合わせが、どういうわけかわれわれを死ぬほど爆笑させたのだ。むろん、その時点でわれわれがやっていたことは、後年の仕事に比べるとかなり粗雑なものだったが、楽しさの点では決して劣っていなかった。

次回に続く。

ヒップの極意 ドナルド・フェイゲン

 

ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS

ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS

 

ヘンリー・マンシーニのデラックスな無規範状態 

  アメリカの父親としては第2世代に属する父が(略)郊外で社会的地位の上昇を目指そうと決めたのは、たしかわたしが8歳ぐらいのときだったと思う。(略)

[ニュージャージーのケンドールパーク]

兄弟のようによく似たランチ・スタイルの家が何百軒も建ち並ぶ、1957年ごろの典型的な住宅造成地である。造成地はまだあまり造成されていなかった。わたしは不満だった。

 おがくずがまだ宙を舞っていた。

(略)

月曜の夜9時になると、わたしたちは「ピーター・ガン」を観た。

(略)

サスペンスあふれる、高度に様式化されたじらしが終わると、われわれはピアノの一番低いオクターヴで倍加され、やさぐれたサーフ・ギターで3倍にされた、ノリのいいベースのブギー・オスティナート、ずっとくり返され、決して変わることのない小節に胸を躍らせたものだ。

(略)

画面にはタイトルのアニメーション。工セ抽象表現主義のカンヴァスをバックに、なにかをぶちまけたような、謎めいたパターンが脈動する。(略)

アクション・ペインティングされたタイトルは、番組がブレイク・エドワーズによってつくられ、音楽はヘンリー・マンシーニが手がけている、とわれわれに伝えていた。

(略)

緊張感あふれるヴィジュアルでエドワーズがアップデートしたチャンドラーふうの探偵小説には、その画づらに見合うクールなサウンドトラックが必要とされたが、それと同じ年にオーソン・ウェルズの「黒い罠」の音楽を手がけたマンシーニは、この番組のなんたるかを完全に理解しているようだった――なによりもスタイル。それ以外はとくに重要じゃない。

(略)

わたしは両親が与えてくれる安楽さと簡便さの境界から踏み出すことなく、ガンのアウトサイダー的な立場に感情移入し、即興的なライフスタイルにあこがれることができた。それとは逆にエドワーズのカメラ・アイは、当時の贅沢品やレジャー用品に世俗的な興味を示し、スカンディナヴィアの家具、鉢植えのパームツリー、淡い色の羽目板、そして光沢のあるシャークフィンのコンヴァーティブルに焦点を当てている。それらは実のところ、両親が羨望する品々でもあったのだが、大さじいっぱいの疎外感と危険で暗く彩られていた。

(略)

当時はウエストコースト・ジャズ(つまるところは、白人のバップ)が、ビート、つま先の開いたサンダル、精神分析とワンパッケージで大学生たちに提供されていた。落ち着いたパーラー・ジャズをプレイする白人バッパーは、その黒人版よりも売りやすかった。

(略)

西海岸にはとても才能のあるプレイヤーが大勢いたので、ぬけ目のないマンシーニはそんな彼らをスタジオに呼んで、「ピーター・ガン」のスコアをレコーディングした。ピアノを弾いたのは、のちに映画音楽の巨人となるジョン・ウィリアムズ。スタジオ・バンドのメンバーにはほかに、トランペッターのピート・カンドリ、テッドとディックのナッシュ兄弟、ギタリストのボブ・ペイン、ドラマーのジャック・スパーリング、ヴィブラホン奏者のラリー・バンカーがいた。彼が用いた作風は、大部分がギル・エヴァンスほかの進歩的なアレンジャーに由来し、ところどころにリズム&ブルースが散りばめられていた。彼はクール一派とも共通する、音数の少ない、従来とは異なるアレンジを用いた──フレンチホルン、ヴィブラホン、エレキ・ギター、そしてマンシーニの十八番だった、アルトとめったに使われないベースの両方を擁する、とても活動的なフルートのセクション。

(略)

「ピーター・ガン」シリーズとそのスピンオフ番組「ついてる男(ミスター・ラッキー)」の集めたマンシーニのアルバムは、いずれも莫大な売り上げを記録し、わたしも誇らしげに購入したひとりだった。収録曲には〈ドリームズヴィル〉や〈プロファウンド・ガス〉といったタイトルがついていた。それを聞いたことがきっかけで、わたしはもっとジャズや、ジャズ的な生活の音楽以外の所産について知りたいと思うようになった。マンハッタンから放送される深夜のジャズDJを聞き、トップ・プレイヤーのライヴ写真が満載されていた「ダウンビート」誌を定期購読した。ケルアックの小説も、何冊か読破をこころみた。

 こうしたヒップといんちきの断片をもとに、わたしはクールのディズニーランドとでも呼ぶべきものを頭のなかで築きあげた。

(略)

広大な防音スタジオに集まるミュージシャンたちの姿。男たちは半円になって、ブーム・スタンドに載せられた2本の巨大なRCAマイクを取り囲む。ロールカラーつきの2トーンシャツを着こんだ者もいれば、ハワイふうの装束に角縁の眼鏡姿の連中もいる。(略)

だれもがポールモールか、それ以外のフィルターがない強い煙草を吸っている。ハンク・マンシーニパート譜を手渡す。メンバーが譜面をざっと見ると、音の分厚い膜が送り出されて、部屋のなかを漂う。ガラスの向こうでは、卓をあやつるエンジニアたちがうんうんとうなずいている。

(略)

 次にヘンリー・マンシーニの名前を見たのは、やはりわれらがブレイク・エドワーズが監督する映画『ティファニーで朝食を』のクレジット・ロールでだった。わたしは13歳で、そろそろ色気づいていた。(略)

[ホリー]が、早朝、5番街であのタクシーを降りる場面では、彼女をストローで吸ってやりたくなったものだ。
 同年代の人間にこの映画の話をすると、決まって昔の恋人を思い出しているかのように一風変わった、痛々しい笑みが彼ないしは彼女の顔をよぎる。カポーティの原作にある毒をぬいた、典型的なハリウッドの失敗作だのなんだのとこの映画をくさす連中ですら、思わず目を潤ませたり、胸を波打たせたり、ときおり至福/苦痛に身体を震わせたりしてしまうのだ。

(略)

エドワーズはこの都会的なロマンスにうってつけの監督となっていたが、ほんとうに光っていたのは彼の刎頚の友、ハンクだった。もしかするとわれわれは、とうの昔に〈ムーン・リヴァー〉を過量摂取してしまったのかもしれないが、あのオープニングでプレイされるハーモニカ・ヴァージョンは、いまだに効力を失っていない。

(略)

 最終的には妥当さと真正さを求めるあまり(略)、わたしは最高にすばらしいジャズ──エリントン、マイルス、ミンガス、モンク──ですらお上品で性的におとなしく思えてしまう段階に入り、ブルースやソウル・ミュージックやボブ・ディランに傾倒するようになった。わたしはポップ・アートやティモシー・リアリーがハーヴァードで進めていた実験に関する文章を読みはじめた。キッチン・シンク派のイギリス映画もよく観に行った。ヒップの言語は変わりつつあった。

 ブレイク・エドワーズも彼なりに、こうした意識の変化に敏感だった。慇懃無礼なピーター・ガンは、クールであろうとするものの、世間がそれを許してくれないクルーゾー警部に進化していた。(略)

自分自身のヒーローをコケにしはじめたとき、エドワーズはきっと、次に来るものを予感していたにちがいない。自己イメージと性的なアイデンティティは、次第にほころびを見せはじめた。

(略)

ピンク・パンサー』シリーズの音楽に関していうと、それは贅をこらしたクールさのパロディになっていた──信じられないほど不気味でクールなせいで、逆に笑えてしまう音楽に。

 郊外を離れて大学に進んだ65年の時点ですでに、マンシーニはレトロな趣味のように思えていた。かりに彼について考えることがあったとしても、せいぜいジャズを一般に広めた人物とか、信頼できるハリウッドのプロといったイメージを思い浮かべる程度。寮生仲間のなかにはきっと、アメリカの土着的な芸術形態を吸い上げ、パッケージ化して大量消費させる「文化産業」の狡猾なエージェントと見なしていた者もいたはずだ。そういう見方はしていなかったわたしの目にも、同年代末のハンクは、御しがたいスクエアとしか映らなかった。

(略)

しばらくのあいだ、マンシーニと彼の若きライヴァル、バート・バカラック(マンシーニとジャズの関係は、そのまま彼とソウル・ミュージックの関係に置き換えられた)は、ボサノヴァ戦争に係りきりになっているかに見えた

(略)

 最近のわたしはピアノの前に座ると、ふとした拍子に「ピーター・ガン」の曲やスウィートなバップ・ナンバーや〈酒とバラの日々〉(コード進行がすばらしい)、いや、時には〈ムーン・リヴァー〉を弾いていることすらある。そして1500もの似たような屋根の上を沈んでいく晩夏の太陽やわたしの家族やバップ・グラスやホリー・ゴライトリーについて、アメリカという場所で孤独になることや、あの気取った音楽がかくも数多くの事柄とどうつながっているのかについて、思いを馳せはじめるのだ。

皮質・視床停止──SFで育つ

[12歳で読んだSF傑作選に収録されていたフィリップ・K・ディックの「父さんもどき」は]もっと個人的なレヴェルでわたしに影響をおよぼした。(略)

両親が引っ越しを決めた「ケンドールパーク」という土地は、活気にあふれるわたしたち家族から生気を吸い取り、家を心のないゾンビだらけの穴蔵に変えてしまう、呪われた荒れ地だということなどを指摘した。残念ながら、わたしの抗議はいっさい聞き入れられなかった。(略)
鼻持ちならない本の虫だった息子は、この引っ越しを大いなる裏切りと見なした。実のところ、わたしはこれが、両親を少しずつ「両親そっくり」に変えていくプロセスの一段階にすぎないのではないかと考えはじめていたのだ……。

(略)

主婦としての母親は、決してひかえめとはいえないマディソン街の売りこみ屋たちにとって格好の標的となり、冷戦時代に売り出された品々のすべてを熱狂的に買い求めた。家からはいつもレモンを配合したワックスのにおいがした。(略)

 それ以上に気に障ったのが、主流派のアメリカ社会に同化し、溶けこもうとする両親の熱意だった。なにしろ第2世代、第3世代のアメリカ系ユダヤ人たるふたりはすでに、ほぼその目標を叶えていたのだ。外見にしても、とくにユダヤ人らしいところはなかった。(略)

[父は子供時代に]父親のペンキ店が地元のナチに焼き落とされるという事件が起こり、これが戦時体験のトラウマと相まって、彼はユダヤ人としてのアイデンティティに、複雑な気持ちを抱くようになっていた。

(略)

 当時のわたしはまず、ピアノ、コンテンポラリーなジャズ、そしてジェット戦闘機のプラモづくりに逃げ道を求めた。けれどもいちばんよくやっていたのは、読書だった――百科事典、小説、伝記、歴史、そしてとくにSFだ。(略)わたしはA・E・ヴァン・ヴォークトの『非Aの世界』という小説に「父さんもどき」 の解毒剤を見いだした

(略)

[『非Aの世界』のあらすじ紹介が続いて]

目を覚ますと、彼は金星の森にいる。肉体、つまりオリジナルのクローンは、ピカピカの新品だ。これまでのところ、彼は殺害され、新しい身体で復活し、別の星に移送されていた。だが心配はいらない。すべては許容範囲なのだから──精神と肉体を協調させる「一般意味論」のテクニックに磨きをかけてきたおかげで、ゴッセンはいっさいのトラウマを感じなくなっている。ごく短い「皮質・視床停止」さえ取れば、次の奇天烈なプロットのひねりを受け入れられる状態になるのだ。

 「停止」の期間中、非Aのエリートはそれ以前の文化的なプログラミングをすべて打ち捨て、客観的な立場から、新たな感覚データを処理することができる。最終的に読者は、ゴッセンが実はミュータントであることを知る。彼は人類の進化におけるブレイクスルーであり、宇宙のチェス・プレイヤーたちが、「一般意味論」人種を一掃して宇宙を乗っ取ろうともくろむ銀河系の陰謀家を打倒するために操っていた、「予備脳」を持つ超存在なのだ。子どもたち、わかったかな?

 ワオ、とわたしは思った。こいつはすばらしい。この「皮質・視床停止」というやつは、両親もどき、教師もどき、それに人生もどき全般に対する、心理的な防御になってくれるのではないか。なんならギルバート・ゴッセンのように、善良なミュータントとなって、銀河系全域にはびこる悪の力と闘うこともできるだろう。でもトレーニングはどうすればいい? 「一般意味論協会」などというものは存在しなかった。それはあくまでもA・E・ヴァン・ヴォークトの想像力の産物でしかなかったのだ。

 ちがうぞ、ドニーくん。ちょっとばかりリサーチしていれば、ケンドールパークから車で数時間のところにあるコネティカット州リトルロックの田舎屋敷内に、「一般意味論協会」が実在することがわかっただろう。どうやらヴァン・ヴォークトは自分の小説を使って、彼が最大の知的情熱を注いでいた対象の解説をこころみていたようだ──粋なポーランド人貴族、アルフレッド・コージブスキー伯爵が著した分厚い書物『Science and Sanity (科学と正気)』のなかで縷々述べられている「一般意味論」というシステムである。

 第1次世界大戦中、ポーランド軍で軍務に就いたコージブスキーは、その後、人々はもっとおたがいと上手くやっていく術を見いだすべきだと考えた。(略)

伯爵は人間関係における問題をすべて、意味論における問題に集約させた

(略)

 コージブスキーは大脳皮質、すなわち合理的思考をつかさどる脳の一部と、感情の所在地である視床(ヴァン・ヴォークトの「皮質・視床停止」もそこに由来する)を調整する方法はないものかと考えた。手はじめにまず人は、まわりの世界を把握し、評価するやり方を変えなければならない。アリストテレス的なロジック──たとえばイエス/ノー、白/黒などの二元的思考──よりも、伯爵は主観的な感情によって調節される──ただし支配はされない──多値的で多元的な思考を好んだ。つまりコージブスキーは、おい、クールに行こうぜといっていたわけだ。「カリカリするんじゃない。ほら、非Aだ!」

(略)

人は不健康なエゴを最小限に留め、競争ではなく協働の精神の下、広い心で情報を処理できるように再教育される必要があると伯爵は考えた。彼は数々の学習テクニックを提案していたが、もっとも重要な道具のひとつは、一部にセミナーであり、一部にグループ・セラピーでもあるディスカッション・グループだった。

(略)

「アスタウンディング・サイエンス・フィクション」誌の編集長を務めるジョン・W・キャンベル、そのヴィジョンで「SFの黄金時代」を導いた男は、超人という階級を社会的ヒエラルキーのトップに置くニーチェ的な概念に取り憑かれていた。コージブスキーの本を読んだキャンベルは、「超変異」を現出させる最初のステップとして、非Aのトレーニングを思い描き、ロバート・ハインラインレスター・デル・レイ、L・スプレイグ・ディ・キャンプ、そしてヴァン・ヴォークトといった子飼いの作家たちに、このコンセプトを活かした作品を書くことを強く勧めた。(略)

L・ロン・ハバードは(略)伯爵のアイデアのなかから、よりとっつきやすいものを選び出し、ごくごく基本的なフロイトを混ぜこんで、『ダイアネティックス』を書き上げたのだ。カリスマ的なハバードに折伏されて、彼とは古い知り合いだったヴァン・ヴォークトも、1950年にはダイアネティックスのカリフォルニア支部長になっている。ふたりのパルプ作家が決裂したのは、売り上げ数字の減少に動揺したハバードが、ハードルを下げる目的で、サイエントロジーという空想的なSF宗教を考案したことがきっかけだった。

 数多い善意の心理学者たちが、一般意味論に対する恩義を認めている

(略)

『Science and Sanity』が知識層のあいだで大ヒットを記録すると、伯爵は1938年、シカゴに一般意味論協会を設立する(略)1939年におこなわれた夏の連続講義には(略)ハーヴァード大在学中のウィリアム・S・バロウズも出席していた。バロウズが自分の信徒に説く中心的なコンセプトの一部──言語はウィルスだという考えや、「あるものが何であるかをあらわす“である”」および「二者択一」問題に関する定番ネタ──は、まちがいなく一般意味論に端を発している。というわけで、バロウズJ・G・バラードウィリアム・ギブソン両方のアイドルだったという事実に目を向ければ、非Aの影響を、3世代にわたる偉大なSF作家たちに見いだすことが可能になるのだ。

(略)

反権威的な皮肉屋のフレデリック・ポールとC・M・コーンブルースのように、ミュータントのユートピアというジョン・キャンベルの夢にくみしないSF作家も何人かいた。フィリップ・K・ディックは50年代のはじめに、原子戦争後のミュータントにまつわる短編──完璧な存在が、実は人類にとってまったく無益だったというもの──をキャンベルに売ろうとしたが、キャンベルは頑として受け入れなかった。ディックのコメントは──


この作品の主題は、ミュータントがわれわれ普通人にとって危険だということである。ジョン・W・キャンベルが嘆き悲しんだ考え方だ。われわれは、むしろ彼らを指導者と見るべきらしい。しかしも、彼らがわれわれをどんなふうに見るか、それがわたしはいつも気になる。つまり、彼らはわれわれを指導したがらないのではないか。ひょっとすると、超進化した彼らの高邁なレベルからすると、われわれは指導に値しないのではないか。とにかく、たとえ彼らがわれわれの指導を承知してくれたとしても、その行先がどこなのか、それが不安だ。この不安は、シャワー室という標識がついているのに実はそうでなかった部屋と、なにか関係があるのかもしれない。(浅倉久志訳)


 果たしてキャンベルはディックの小説を、「無価値なばかりか、イカれている」と考えた。逆にディックはヴァン・ヴォークトを愛読していたにもかかわらず、そのうちにキャンベルと腹心のハインラインを、頭のイカれた危ない右翼と見なすようになった。

次回に続く。

 

非Aの世界【新版】 (創元SF文庫)

非Aの世界【新版】 (創元SF文庫)

 
思考と行動における言語

思考と行動における言語

 

 

ブライアン・ウイルソン自叙伝・その4

前回の続き。 

ブライアン・ウイルソン自叙伝―ビーチボーイズ光と影

ブライアン・ウイルソン自叙伝―ビーチボーイズ光と影

 

 被害妄想

最も気味が悪かったのは、最後に楽器がすさまじい音を立て、パチパチという音がくすぶる部分だった。プレイ・バックを聴きながら、僕は異様で気味の悪いその音楽に狼狽しはじめていた。

(略)

 次の日、レコーディング・セッションの夜、スタジオの隣のビルが全焼したことを告げられた。数日後、セッション以来、ロサンゼルスで火災が異常に多発していたということも知った。それこそ僕が恐れていたことだった。僕はプラス(陽)のスピリチュアルな音楽のかわりに、マイナス(陰)の源、不吉なバイブレーションを放つ、非常に強力な火事の音楽を作ってしまったのだ。公表するには危険すぎると僕は判断した。およそ2分の〈ファイア〉のテープは、いまもキャピトルの地下室に眠っている。

(略)

当時、僕は自分の作ったものに異常に脅え、ほとんどのテープを抹殺した。

(略)

僕が、マリリンと僕の寝室の隣にあるダイアンの寝室に忍びこんだ時、彼女は抵抗しなかった。(略)そのことで誰かが苦しむということは、僕の頭にはなかった。僕は「スマイル」が完成していないということだけを懸念していた。

(略)

僕は映画『セカンズ』を見て、身震いしながら家に帰った。

(略)

スクリーンから、“ハロー、ミスター・ウイルソン”という声がしたんだ(略)フィル・スペクターなんだ。本当に僕を追いかけているんだ」

(略)

「何もかもが映画の中に出てきたんだ」(略)「僕の全人生がだ。誕生と死と復活だ。全部だ。ビーチさえ出てきたんだ。ビーチの何もかもが。スクリーンに僕の人生のすべてが映しだされたんだ。

(略)

ただ僕を動揺させるためだけに、スペクターがコロンビア・ピクチャーズにこの映画を作らせたんだ。君たちにはどうしてわからないんだ?

(略)

 1966年12月初旬、キャピトルは『スマイル』のアルバム・カバーを印刷し、ビルボード誌に『ペット・サウンズ』の待望の続編として広告を出した。 

 崩壊 

バン・ダイクの反応はもっと冷ややかなものだった。大きな砂場の真ん中に置かれたグランド・ピアノに僕が座っているのを一瞥した瞬間、嫌悪をむき出しにした。彼にとっては、それは幼稚で責任感のない、吐き気を催す光景にすぎなかった。

(略)

1967年、新年を迎えた。僕はキャピトルに、前に言ったように15日以前にはアルバムは渡せないと繰り返した。実際、ほとんど進んでいなかった。覚醒剤を使いすぎて、以前のような集中力がなくなっていた。曲をまとめることができなくなっていた。(略)

僕はフラストレーションから、バン・ダイクに問題の責めを負わせようとした。「やめてほしいな」、彼がきっぱり言った。「僕は君と曲を作ることに没頭している。だが部屋に腰を据えることができないんだったら、この作業は進められない」

(略)

2月初旬、すでに何度も具現化していた〈ヒーローズ・アンド・ビレインズ〉を、僕は最優先した。(略)だが、もはや僕を信頼していないビーチ・ボーイズとのセッションはとても辛く、僕は毎週、占星術師のジェネベリンにメンバーの運勢を見てもらい、助言を求めはじめた。もし僕が性格的にもっと強かったら、辞めると言って、彼らにアルバムを作らせていただろう。実際アンダールは、ソロ・アルバムとして「スマイル」を作るよう勧めていた。しかし、僕はそれほど強くはなかった。メンバーは、チャンスがあれば、その音楽と歌詞を引き裂こうとした。

 サポートが欲しかった僕は、〈ヒーローズ・アンド・ビレインズ〉のセッションの前にバン・ダイクに助けを求めた。〈ファイア〉の一件以来、彼はスタジオにくることを拒否していた。しかし、今回僕は、彼に特別に来て欲しいと嘆願した。(略)

メンバーはそっけない態度で彼を迎えた。彼らはバン・ダイクをかく乱者の1人と見ていた。

(略)

マイクは、その曲が西部へのタイム・トリップに関する曲だとは承知していた。「だが、“Over and over the crow cries, uncover the corn field"ってのは、どういう意味なんだ?」、彼が言った。バン・ダイクは、一瞬考えた。彼は侮辱だと感じたが、顔に出さないようこらえた。「崇高な詩はそういうものだと思うよ」、彼が答えた。(略)

オレに言わせたらたわごとだ。ちんぷんかんぷんもいいとこだ」、「マイク、君が文字どおりの解釈を求めているのなら」、バン・ダイクが穏やかに言った。「まったく率直に言って、意味は説明できないということだ」、「説明できない!」、マイクは驚いて、ため息まじりに言った。そして他のメンバーを見た、「(略)奴はこの詩の意味が説明できないんだ。それでも、オレたちはこの曲を歌うってわけか? ブライアン、どういうことだ?つまり、わざとビーチ・ボーイズを破滅させようとしているのか?」。僕は打ちひしがれてスタジオを出た。

  セッションは終わった。(略)

僕は外交的手腕を期待して彼を呼び出したが、彼は自分の殻に閉じこもった。干渉することが自分の本分ではないと彼は考えた。僕はまったく1人で防備のすべがなく、自分とメンバーのビジョンを融合させることができなかった。(略)

「僕たちは切腹したんじゃないかな」、帰途、バン・ダイクが言った。「後は屍を引きずり出すだけだな」。1967年2月下旬に、バン・ダイクと僕は別れた。3月に彼は戻ってきたが、1か月後、ワーナー・ブラザーズが彼にソロ・アーティストとしての契約を申し出た時、再び去っていった。

(略)

4月に〈ベジタブルズ〉に取りかかった。(略)

ポール・マッカートニーはガールフレンド、ジェーン・アッシャーに会うためにフランク・シナトラのリアー・ジェットに乗ってロサンゼルスに来ていた。(略)

ポールがスタジオに姿を見せた時、マリリンは緊張していた。白いスーツと赤い革靴を身につけたポールは、絵に描いたように格好よかった。

(略)

[スタジオには]さまざまな野菜があふれていた。(略)

ポールはその野菜を見て驚いた。「インスピレーションなんだ」、僕が説明した。「いま〈ベジタブルズ〉っていう曲を作っているんだ。だから雰囲気を出すために野菜の山を置いてるんだ」。(略)

[ポールとは]とても気が合った。そこにライバル意識はなかった。「ペット・サウンズ」がどれだけ好きかということを彼は言った。

 コカイン

その男は僕をバスルームに連れていき、ポケットから小さな小瓶を取り出した。その中にはコカインがぎっしり詰まっていた。それをスプーンで少量すくいあげると、僕に吸うよう指示した。僕は吸い、もう一方の鼻孔でも同じことをくり返した。瞬時に二度吸引した。パウダーのロケットが、鼻から鼻腔を通って脳を直撃するのを感じた。僕はダニーにほほえんだ。数秒の間に鬱な気分は吹き飛び、陶酔感にひたっていた。頭の中にはたったひとつのことしかなかった。もっと吸いたい、もっとコカインが吸いたい。その男がもう一度スプーンですくっている時、ダニーはそっと立ち去り、スリー・ドッグ・ナイトと共にステージに上がった。二度目の快感に酔った僕は、ショーのことを忘れ、「ウイスキー」を出て町をドライブした。翌日の午後、コカインの入手先をダニーに聞いて初めて買った。その晩、また買った。次の夜もまた買った。その高揚感で、僕は苦痛から解放され、現実から逃避し、安らぎを感じた。傑作を書き終えた時に似た自信と、無敵だという気持ちが湧き上がってきた。ピアノに座り、失敗作になるかもしれないと気をもむ時だけは例外だったが。僕は仕事に関わらなくても創作したような気分になれ、かつて曲を書いていた時のような一途さでコカインにのめりこんだ。その後5年間、そんなふうだった。

 売却

父はシー・オブ・チューンズを70万ドルで売るつもりだった。70万ドル? 曲をただで渡すようなものだ。現在そのカタログは、2000万ドル以上の評価を受けている。しかし僕にとっては、それは金で買える類いのものではなかった。それは僕の赤ん坊だった。僕の肉体だった。魂だった。そしていま、それはもう僕のものではなかった。

(略)

父は最後の一撃を試みた。(略)「オレの代償を見ろ」、僕の顔に義眼を押しつけてわめいた。「これを見ろ、ブライアン、見ろ!」。(略)

「オレが背負ってきたこのいまいましい目の穴を見ろ」、父が叫んだ。「おまえのためにこういうことになったんだ、ブライアン。おまえのためにだ」。父はさらに僕の顔に義眼を押しつけた。頬につるつるした感触を感じて、吐き気がした。(略)

僕は幼児のように床をこぶしで叩き、蹴飛ばし、大声で泣き叫んだ、「なんでこんなことをするんだ? どうして、どうして、なんでなんだ?」

「やあ、ブライアン・ウイルソンだ」 

[1984年夏]社会復帰と再順応に取り組んで1年以上が経っていた。
 僕は地元公演のためにビーチ・ボーイズに合流(略)

僕は、数日間で、いままでになかった社交術を身につけていた。ランディが、要点を絞って僕を指導した。僕はそれまで、人の目を見て話をすることは決してなかった。いま僕は、「やあ、こんにちは。ブライアン・ウイルソンです」という練習をしていた。ランディが教えた会話の糸口を暗記した。お名前は? どこにお住まいです? 何をなさってるんです?

(略)

僕がステージ裏につながる階段に近づくと、若い太り過ぎの女の子が頬を輝かせながら、晴れやかに微笑んで僕のほうにやってきた。僕は練習どおり手を差し出して、「やあ、ブライアン・ウイルソンだ」と言った。すると、その女の子は、突然その場で立ちすくんだ。微笑みは消えて、ショックが表情に表れていた。僕は、何かまずいことをしたのだろうか。「お父さん!(略)私がわからないの? カーニーよ!」。カーニーが言い終える前に、僕は自分の失態がわかった。あわてふためいて、汗びっしょりになった。娘だった。そして、僕は気づきさえしなかった!

(略)

「ブライアン」、ランディが沈黙を破って言った、「カーニーとウェンディに父親として感じていることを伝えてほしい」。

(略)

 僕は、16歳のカーニーと14歳のウェンディに目を向けた。彼女たちの泉のように深い大きな瞳は、何か大きなことを期待して僕を見ていた。その瞬間、激情が走った。僕は父のことを考えた。父が、この混乱の根源だった。父が僕を台なしにしたのだ。 僕は、娘たちは父のことを知っているのだろうかと思った。

(略)

僕は、和解したいと思った。だが、何を言えばいいのか、まったくわからなかった。(略)

おそらく彼女たちは、僕に腕を広げて、心を開き、抱きしめてほしいと思っていただろう。僕には、それができなかった。

(略)

「きっと、おまえたち2人はもうわかっていると思うが(略)父さんは、あまりいい父親じゃない。(略)おまえたちを愛しているよ、父さんなりに。そして、おまえたちをサポートする。金銭的にも気持ちの上でも。

(略)

「というのは、僕の父さんが決していい父親ではなかったからだ。だから、いい父親のあるべき姿というものが、今後、僕にわかるかどうかわからないんだ。おまえたちに対しては、僕の父親みたいな父さんにはなりたくないんだ。すまない。いい父親でなくて、すまないと思う。(略)

もし、ありようというものがわかっていたら、いい父親になっていただろう。なりたくてこんな父親になったわけじゃないんだ。だけど、 いい父親にはなれない。言いたいことは、本当にそれだけだ。おまえたちを愛しているよ、そして、それをおまえたちに証明する。そのうち、おまえたちに曲を書こう」、僕は、消耗した。

 娘たちは、2人とも黙って立っていた。ショックを受けて、じっとしていた。

セカンド・アルバム

ランディと僕が、ワーナーの上層部にセカンド・アルバムのミックス前のバージョンを聴かせた時、セイモア・ステインとレニー・ワロンカーの反応は、例の調子だった。音楽を聴く前から、彼らは気乗りしていない様子だった。(略)

「曲は、いいんだ」、ワロンカーが言った。「歌詞が実に不快だ。耐えられんよ」、「だけど、僕は気に入ってるんだ。すばらしいと思っている。僕のありのままの気持ちを語ってるんだ」、「やり直してもらいたいんだ。歌詞を全部やり直す必要があると思うがね。特に、この曲が嫌いだ」。彼は、歌詞シートを引っかき回した、「君たちが言うところの〈ブライアン〉という曲だ。これは、痛ましい」。

(略)

怯えるようになっていた、ずっと僕は

疎外感を味わいながら、誰も気づかってはくれなかった

母も弟も

父から受けた大きな痛手を

音楽が僕の恩寵

すばらしい明日への切符

(略)

「これは、こたえる。聴くに耐えん」、ワロンカーが吐き捨てるように言った。「現実は、もっとひどかった」、僕が答えた。「それにこの〈スマート・ガールズ〉をアルバムに入れようなんてことは考えてもほしくないな」、ワロンカーが続けた。彼が、僕のラップ・ソングを気に入らないだろうとは思っていた。(略)

〈スマート・ガールズ〉は、頭の弱い金髪美人という固定観念を守った昔のビーチ・ボーイズの曲すべての、ユーモラスなパロディとして書いた女性支持のラップ・ソングで、僕にとっては大きな冒険だった。

(略)

僕たちは、ただラップ・ソングの文脈で、ひとつの主張をして、同時に僕の過去を笑い飛ばそうとしただけだった。