作曲の科学 美しい音楽を生み出す「理論」と「法則」

語られるレベルがまちまちなので、そこらへんでアマレビューでは文句が出ている模様。

クラシック畑でマリンバにをやる人がどのようなことを考えているのかがわかる。

作曲の科学 美しい音楽を生み出す「理論」と「法則」 (ブルーバックス)

作曲の科学 美しい音楽を生み出す「理論」と「法則」 (ブルーバックス)

 

アフリカンリズムを学ぶ

 20代のはじめに、クラシック音楽の学業をいったん脇に置いて、アフリカンリズムを吸収するために1年間、ブルキナファソに修業に出かけました。(略)

 アフリカの人たちの音楽のあり方やとらえ方は、私の出身畑である西洋音楽とはまったく違います。村祭りや儀式などで楽器を弾く機会がたくさんありますが、彼らはそういうときに楽器を通して奏者に“自由に語らせる”スタイルを取ります。グループでの演奏中、必ずどこかでソロとして弾くタイミングが回ってくるのです。

 そのソロパートを聴いて、「彼には独りよがりな傾向があるな」とか「あの人は注意深く正確に、他人の音に耳を傾けているな」とか、「この人は権力志向が強いな」「度胸があるな」といった、個々の奏者の才能や深層心理、性質や演奏傾向を読み取ります。

(略)

 アフリカのローカルコミュニティでは、この手法でそれぞれに社会的な役割をもたせることで適材適所の人員配置を実践し、コミュニティが崩壊するのを防いでいます。音楽を演奏するという行為には、それだけ人の個性が反映されるということなのです。

(略)

アフリカ音楽のもつ本質を身をもって体験した私は、西洋音楽とは異なる音のとらえ方を体の奥深くに刻みつけて戻ってきました。そのような経験をベースに、曲を書くようになったのです。

 具体的には、西洋音楽の素養がある音楽家には複雑に聞こえるアフリカ系のリズムをベースにして、メロディを書き進めます。たとえば8分の5拍子などがそうですが、西洋音楽で一般的な「強拍と弱拍」の強制的な“しばり”から解放された次元でメロディを作ることが可能になります。強弱拍のしばりがはずれると、既存のリズムにあてはめることができずに、独特の浮遊感が生まれます。どこが始まりでどこが終わりなのか、境界線がわからなくなり、アフリカ音楽らしさを出すこともなく、鳥になったような自由な音空間ができあがります。

 「和声」と「和音」

 ちなみに、「和声」と「和音」はよく似た言葉ですが、同じものではありません。ちょっとややこしいですが、和声と言う大きな概念や学問領域の中に、和音と言う具体的な音の並びがある、と理解してください。つまり、和声は和音の上位概念です。

 メロディと和声の関係

 実際の演奏において、横軸=メロディと、縦軸=和声は、どのような関係にあるのでしょうか?

(略)

 9世紀末ごろには、主たるメロディに付加的な声を加えた複数の声部から成る音楽が登場しました。いわば、合唱の原形です。

(略)
 時代がさらに下って11~12 世紀ごろになると、楽器が出せる音程や演奏技術が向上し、複数のメロディラインをもつ音楽が登場してきます。

(略)

 ポリフォニーは、中世中期からルネサンス時代にかけて、特に盛んになりました。

(略)

 ポリフォニーの代表格として最も耳馴染みのある楽曲は、「グレゴリオ聖歌」を基にしたオルガヌムでしょう。

(略)

グレゴリオ聖歌を基にしたオルガヌムを構成するシンプルな二つの声部の、上下に開きのあるメロディを実際に聴いてみると、ところどころで「お? いい感じ」「響きがきれい!」と、耳が反応する箇所があると思います。和声=ハーモニーは、このような経験の積み重ねによって、少しずつ生まれていきました。

 ただし、ポリフォニーが生まれたばかりの中世期にはまだ、メロディを追いかける横軸の響きのほうが重要視されていました。音楽はまず、横軸から発達し、そこに縦軸の要素が加わることで進化してきたのです。

 そして、和声(ハーモニー)に先駆けて登場した縦軸=かけ算が、「対位法」です。

対位法

対位法(counterpoint)の語源は、ラテン語の「punctus contra punctum」で、現代語に訳すと「音符対音符」という意味になります。その言葉が示すように、対位法の美学は複数の声部(メロディ)を同時に聴かせるところにあり、和音を中心に構成した音楽作りである和声法と並んで、重要な作曲法の位置を占めています。

 17世紀以降に台頭してくる和声法は、対位法よりも歴史が新しく、連続する和音に沿って一つのメロディが書かれていくしくみです。一方の対位法は、複数のメロディが独立して存在し、それぞれに独自のポジションを確立しながらも、ときにはそれらを重ね合わせて複雑な音色やリズム構成を聴かせることに特徴があります。

 今でこそ、「主旋律としてのメロディ」と、「それを副次的に支える伴奏」の概念がそれぞれに確立しているため、この一つを聴き分けることはかんたんになっていますが、10世紀ころまでは伴奏どころかメロディを複数重ねるという概念さえ存在せず、声部は単独のメロディだけでした(=モノフォニー)。その一つのメロディが良ければ良い音楽とされるほど、単純な話だったのです。

(略)

ポリフォニーで複数のメロディを重ねるアイディアが登場すると、こんどは音どうしが変にぶつかり合って耳障りな音にならないようなルール作りを始めるわけですが、それが対位法なのです。

 そして、16世紀末にバロック音楽時代が到来して初めて、「伴奏」という概念が登場します。

 対位法で作られた曲には伴奏が存在しないため、メロディが等しく美しいのが特徴です。そして、いくつものメロディを重ねていくうちに、少しずつ「音の重なりの定番」ができあがっていきます。

 この「音の重なりの定番」が、やがて和音の“素”となり、和声法という新たな曲の構造が登場するきっかけを与えるのです。

(略)

かつてのモノフォニーの時代には、音楽にとってメロディを追いかける「横軸の響き」が、唯一の重要ポイントでした。そして、ポリフォニーが登場したばかりの時代においてもなお、メロディを追いかける横軸の響きが重視されていましたが、対位法が少しずつメジャーになるにつれて「縦軸の響き」、つまり、音符と音符の重なり具合に作曲家の注意が向かうようになっていきます。

 対位法の登場によって、縦軸の響きの新たな可能性を見出しはじめた音楽は、数々の対位法の定番を作り上げていきます。しかし、いったん対位法が隆盛を極めると、やがていつも同じ音の重なりばかりとなって発展性のない状態に立ちいたり(略)[飽きが生じ]「新しい縦軸の響き」の時代へ、すなわち、対位法から和声法へと移っていくように促したのです。

「ジャズの父」ドビュッシー

 そのような雰囲気のなかで19世紀には、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』や、ドビュッシーの「牧神の午後への協奏曲」などに代表されるように、「不協和音をわざと入れてやれ!」とばかりに和声学を無視した曲構成が展開ます。

 さらに、20世紀に登場したストラヴィンスキーの『春の祭典』やバルトークの「弦楽四重奏曲第4番」など、和声学を崩壊させた曲作りが世の中に発表されていき、いわゆる現代音楽の時代の幕開けとなるのです。

 特にドビュッシーは、「ジャズの父」とよばれるほどに、音楽に新たな和声の切り口を提案しました。そして、そのドビュッシーの影響を強く受けたモダンジャズを代表するピアニスト、ビル・エヴァンスが「和音の転回」という手法を駆使しはじめたことで、モダンジャズはいよいよ盛んになっていくのです(略)。

 ジャズの世界で不協和音が積極的に使われるようになる前夜、じつはクラシックの作曲家たちによる革新が先行しておこなわれていたという事実には興味深いものがあります。

和声学の影響を受けた伝統音楽からポップスやロック

 それでは、21世紀の現在、私たちが日々、耳にしているポップスやロックミュージックは、いったいどんな理論に基づ作曲されているのでしょうか?

 意外に思われるかもしれませんが、かつてクラシックの巨匠たちが「もう飽きた!」と一蹴した、あのラモーによって18世紀に確立された和声学に基づいているのです。

(略)

 一周回って元通りのような、ちょっとふしぎな現象が、なぜ生じているのでしょうか?

 じつは、文化的な背景がきちんとあります。18世紀に確立された和声学は、当時のクラシック音楽のみならず、さまざまな民族音楽にも影響を与えました。(略)

 やがて、ヨーロッパ各地の伝統民族音楽(略)が、和声学の影響を受けて変化していきました。その過程では、民族音楽において使用されていた民族楽器が、18世紀以降に誕生した新しい楽器に置き換えられていく、ということも起こりました。

(略)

 現代のロックミュージックやポップスは、良くも悪くも和声学の影響を多大に受けた伝統音楽から派生した枝葉の先に位置づけられます。

 「音符がすべて」ではない

 かつて私がジャズの作曲を教わっていた先生の一人に「楽譜に書かれている音符がすべて」という考え方の人がいました。「音符こそが最上級」なのだから、たとえ演奏する楽器の種類が入れ替わってもなんら問題はない、というのです。

 私は、この考えにまったく反対です。

 たとえば、「ドミソ」の長和音を例にとって説明してみましょう。この長和音を、ピアノやマリンバなどの単体の楽器や、あるいはクラリネット3本のように一つの種類の楽器でそれぞれ演奏する場合と、ドの音はファゴット、ミはオーボエ、ソはフルートのように、一音ずつ担当を与えて演奏する場合とでは、まったく別の音色を与えることができます。

(略)

 極端にいえば、各楽器の位置が変わるだけでも全体の音色が変化してしまいます。楽器の選択や配置もまた、音楽における重要な「かけ算」の一つなのです。

(略)

 実際に、ある2つの特定の楽器のために書いたデュオ曲を違う楽器に入れ替えて演奏してみたら、すごくつまらないおかしな曲になった経験があります。有名なピアノ曲を別の楽器用に編曲して演奏したら間が抜けて聞こえたなどと言うケースも、珍しくありません。

 「減4度」の音程

「減4度」の音程もあるのかな?

(略)

 結論をいえば、もちろんあります。たとえば、ドとミが減4度の音程です。

「あれっ!?」と驚いた人は、かなり音程に馴染んできていますね。そうです、ドとミは、先に登場した「長3度」の開きと同じです。

 減4度と長3度が同じ……、いったい、どういうことでしようか?

 ここが、音楽理論の(屁)理屈っぽいところなのですが、「減4度」という言葉を聞いたとき、作曲家の頭の中では「ドとファb」に変換しているのです。ファbなんていう音は、実際の鍵盤上には存在しません。平均律のピアノでその場所にあるのは、普通のミです。でも、理論上は、これがファbなのです。ややこしいですね。

 

和算 江戸の数学文化 小川束

和算-江戸の数学文化 (中公選書 114)

和算-江戸の数学文化 (中公選書 114)

  • 作者:小川 束
  • 発売日: 2021/01/07
  • メディア: 単行本
 

西洋数学と日本の数学

 三角関数や対数の移入にもかかわらず、近世においては、中国書であれオランダ書であれ、そこから得られる西洋数学の知識、技術は日本の数学とは必ずしも濃密な関係を持たず、日本の数学に大きな影響をを与えることはなかった。これは中国の数学が近世初期の日本の数学に劇的に影響を与えたことを考えれば、意外といえば意外である。数学は時代と地域によらず一つの学問であって、洋の東西を問わず、その発展に資するものがあればこれを受け入れて、それぞれの数学を発展させるものであるとわれわれは考えている。しかし近世日本数学の実際の成り行きはそのようにならなかった。

(略)

 近世日本の数学は、その歴史のごく初期から解くべき問題――たとえば平面幾何、立体幾何の問題――が一貫して存在し、また『発微算法演段諺解』以降、中国数学の伝統を敷衍した教科書が整備されていた。平面幾何や立体幾何の問題は容易なものから難解なものまで際限なく作成でき、その多くはステレオタイプであるものの、なかには興味深いものもある。また、それを解く方法としては三平方の定理(ピタゴラスの定理)以下、多くの公式があり、一九世紀には『算法助術』(一八四一年)のような公式集も刊行された。手持ちの技術で解くことのできない問題が眼前に提出されれば新しい道具の開発あるいは導入が求められるが、そのような事態はほとんどなかった。近世日本の数学は手持ちの道具で十分対応できるいわば閉じた世界――しかも豊かな世界――であった。

 西洋の数学を受容するためにはアルファベット、アラビア数字の他、種々の記号を理解しなくてはならない。西洋の文献が横書きであることも心理的なハードルを高くしていたかもしれない。まったく異なる様式を、どのような効果があるか不明なまま学ぶことは大きなエネルギーを要する作業である。近世日本の数学は問題意識においてる技法においても、必要十分な程度に成熟して閉じた世界を形作っており、ことさら外国からの新知識の導入を必要としなかった。一言でいえば、すでに堅固なパラダイムが確立していた。

 確かに安島は対数を冪乗の計算を簡単にするものと述べているが、それは一般に計算の小技として受け止められるにとどまり、西洋の数学の汎用性、応用性に積極的に注目することはなかったように見える。明治になって西洋数学が導入されたとき、数学者あるいは趣味として数学を楽しんでいた者の多くは、西洋の数学を日本の数学よりも一段水準が低いと感じた。それは複雑な図形を見慣れていた者の自然な印象であり、近世日本の数学が閉じた世界を形成していた一つの証である。

 もう一つ注目すべきことは、近世日本の数学が社会における現実問題とはほぼ無関係に発展したことである。近世日本においては物理学に代表される数理科学がほとんど発展せず、その基礎として数学の発展が要請されることはなかった。

記号法

意外なことに、江戸時代の数学者は記号をほとんど発明しなかった。式に名前をつけることは自然に行われたが、数学的概念に記号を与えるとか、計算手続きを記号化するといったことはなかったのである。彼らの用いた記号は中国伝来の算木を模した記号とそれを拡張した関孝和によるいわゆる傍書法くらいで、それ以外にはほとんど発明しなかったといってよい。しかしすでに述べたように、彼らにとってはそれで十分であった。

 見方を変えてみると、江戸時代の数学の歴史が示しているのは「記号化する」という精神活動が数学にとって必ずしも必然的な、自明なことではないということである。

(略)

ともかく、数学の一般化とともに、記述の簡潔さも意識されるようになった。端的にいえば、中国の伝統である文章による表現を少なくし、かわりに傍書法などの数式による表現を多用するようになったのである。

(略)

さて、問題の一般化と記述の簡潔化が進められた一方で、巷間では問題の難問化が進んだ。

(略)

そのことを批判した一人が藤田貞資で、彼は『精要算法』(一七八一年)の序で、数学には「用の用」「無用の用」「無用の無用」の三種があるとした。用の用とは商売、貸借、度量衡、建築、国政、時刻など、人間社会に有益なすべての数学を指す。一方、無用の用とはそれ自身は社会にとって急を要する数学ではないが、学んでおけば役に立つこともあるもので、これに対して無用の無用というのは、複雑さを最大の評価基準とするような、問題のための問題のことをいう。

(略)

藤田は次のように述べている。

 

近年の数学書を見ると、問題に点、線が複雑に交じり合い、式の係数は複雑である。これらの問題は数に迷って理に暗く、現実を捨てて虚構に遊び、商売、貸借のような問題のなかにも優れた数学者でさえ悩ませる問題があることを知らず、それらを卑しいものとみなし、自らの奇怪な研究を示すことで人に誇るための材料にすぎず、実に世のなかに無用なものである。

 

 藤田がこのような批判をせざるを得ないほどに、当時「無用の無用」の問題が氾濫していたともいえる。

荻生徂徠と松永良弼

日常生活においては『塵劫記』とその傍系の書物群が必要な計算知識を提供し、社会の基盤として定着しており、社会もそれ以上の数学の技術を特には要請しなかったのである。たとえば暦術においては中国を経由して輸入された球面三角法など数学者の登場する場面もあったが、改暦研究において数学者が中心に位置していたとはいい難い。また、たとえば土木のための計算や確率など、日常からの課題の提出を受けて数学が発展する可能性はあり得たが、歴史はそのような展開を見せなかった。

 一般論として、素朴な計算技術の段階を過ぎると、数学が社会に有用性を発揮する場面は抽象的になり、日常からは眼に見えなくなる。その一方で、数学の有用性は格段に高まる。いちじるしく科学技術が進歩した現代においても、社会における数学の有用性を明確に説明できる者はむしろ少数であろう。高度な数学が社会に役立つということは、言葉でいうほど自明ではないのである。

 数学者でない荻生徂徠は社会的な側面から数学の現状を「世に無用」と批判し、一方、数学者の松永良弼は数学内部の問題として、数学は個別の難問の累積を廃して、むしろ組織的な理論の構築をめざすべきであると主張した。徂徠と松永の発言は、数学の本質を巡ってわれわれの興味を喚起する。

数学の三階層

 江戸時代の人々にとって、数学、あるいは数学にかかわる者は大きく分けて三つの階層に分かれていた。

 第一に、『塵劫記』などに代表される初等的、日用的な数学と、それを学んで日常生活に数学を生かしていた人々がいる。ここでいう数学は日常生活における計算のために必須の数学で、いわゆる「読み書きそろばん」というときの「そろばん」に位置づけられるものである。人々はこれらの数学を家庭、寺子屋などで往来物と呼ばれる教科書によって学び、役人は検地や税の徴収などに、一般の人々は商業活動やそれぞれの専門職に要求される計算に役立てたのである。

 第二に、趣味としての数学と、師匠に入門してそれを嗜む人々である。もともと近世日本の数学の契機となった中国の朱世傑による『算学啓蒙』にも単なる日用を超えた問題があり、また『塵劫記』の遺題以降、平面幾何の問題を中心として、日用とは無縁な数学の問題が巷間に見られる状況になると、数学の応用よりも数学自体に興味、関心を持つ者が多く現れてきた。これらの者は互いに問題を提出し、算額を神社に掲額するなどして数学を楽しんだ。正月には師匠に付け届けをすることもあった。俳句を趣味として嗜むのと同じ感覚で数学を学んだのである。

 第三に、もう一段階上の数学がある。これはいわゆる数学の教科書を出版するような師匠クラス の者の数学である。(略)

趣味として数学を学ぶ者にとっては個別の問題作成とその解法がすべてであるのに対して、これら教科書の著者は一定の数学観を有し、それを具体的な問題の列挙によって主張した。さらなる新しい発想により新規の技法の開発を企てる者、あるいは漢訳された西洋数学や西洋数学に関心を持つ者も稀ではあるが現れた。これらの専門的著作は多くの場合、刊行されずに自筆の稿本が写される形、すなわち写本として広まった。近世、日本の数学において数学的業績を残し、歴史に名を残したのは、この第三の階層の者である。

 多極と少極

法道寺の変形法は直感的であった。その変形は、今日では反転法として厳密に正当化されるものである。もちろん法道寺は反転法など知らなかったが、それでもある種の直感によって正しい結果を得たといえる。

 

『関流方円理』

 半径を無限に大きくするという法道寺の着想に関して、著者も書かれた年代も不明の『関流方円理』という本の冒頭を紹介しておこう。

 

 一 方円極数多少

 多極とは多いことが限りなく遂に極限に至っていることをいう。円はいかに大きくとも丸さを失うことはない。しかし多極に至ってはその円周は遂に一直線をなす。そこで多極の状態では形はあるがこれを測ることができない。それゆえ虚と名付ける。

 地は大きな球で海、陸ともにどちらも球面である。ゆえに地上を行くときはずっと円周であるが、平で直線上を行くようである。このように里数が有限の地球ですら円は直線に等しいのである。

 一 少極とは少ないことが限りなく遂に極限に至っていることをいう。すなわち少極に至っては見ても形がなく、象徴となるものもない。ゆえに少極は空とする。

 数学の方法としての証明

 数学は壮大な論理体系をもつ学問である。そしてその論理体系を支えているのは厳密な証明である。しかし、数学がそのように厳密な証明を伴って記述されるようになったのは西洋でいえばフランス革命以降のことである。それまでは互いの理解度に応じ議論がなされていた。ところが、フランスでは革命以降、大量のテクノクラートを養成する必要にせまられ、効率的な数学の教授法が求められた。その要請に応えるには、教室で数学を体系的に、厳密な証明を用いて展開するのが一番簡単な方法である。こうして厳密な証明をもつ数学が標準となった。

 これに対して近世日本では、明治維新を迎えるまでついにそのような厳密な記述はなかった。もちろん、証明なしに数学を記述することはできない。証明の厳密さにはさまざまな水準があることに注意せねばならない。

 たとえば、建部賢弘の円周率計算には厳密な意味での証明はない。建部は数値を並べて、そこに一定の規則性を見出し、結果を帰納的に推測した。

(略)

実際に建部は正しい結論――それも当時の世界におけるトップクラスの結論――を得た。建部にとってはこのような帰納法的推論は証明といってもよかった。そして実は建部だけでなく、近世日本の数学においては一般にこのような帰納的な推論が証明として機能した。

 多くの日本人が楽しんだ平面幾何や立体幾何には解くべき問題が無尽蔵にあり、これらの大量の問題はいくつかのブラックボックスとしての公式と膨大な計算によって解かれた。公式の適用と計算とは厳密になされなければならない。そうしないと問題の解答が得られないからである。このような場面では近世日本の数学者、あるいは数学を楽しんだ人々はきわめて正確であった。

 ところで、帰納的推論に基づいてなされる言明には当然誤りも生じる。実際、第二章で触れたように、関孝和は連立高次方程式から未知数を消去する方法として、今日の行列式における斜乗を拡張したが、それは四次以下の場合には正しかったものの、五次の場合は誤っていた。関は次数が小さい場合から一般の場合を帰納的に推論したのであるが、誤っていたのである。しかし、この誤りも間もなく正された。こうした状況は、たとえばコンピュータのプログラムに含まれていた誤りが発見され、修正されるのと類似している。

算額 

 算額は数学の問題を解いて神社などに奉納した絵馬のようなものである。神への感謝、掲額者の喧伝など、いろいろな意味があったと思われる。江戸時代には二五〇〇枚以上の算額が掲額され、数学の愛好家は互いに見学して問題を解いたり、それをヒントに新たな算額を作ったりした。神社は数学の発表の場であった。旅をしながら算額を記録した者もあった。

(略)

現存する最古の算額は一六八三年のものであるから、二〇〇年以上にわたって算額奉納が行われたことになる。このような習慣は世界に例がなく、日本独自の文化現象として注目されるべきものである。

(略)

 いつ、どのようにして算額奉納の習慣が始まったのかは不明である。しかし一旦算額奉納の習慣が定着してからは、数学の塾に入門した門人にとって、個人で、または同門の門人とともに算額を奉納することは一つの目標であった。仮に神社の大祭の日などに奉納することとなれば、晴れがましい気分になったであろう。もちろん師匠の了解を得てから奉納までには、額の作成代、師匠への謝礼、神社での祈禱、祝詞などの謝礼としての初穂料など、種々の費用がかかる。経済的に余裕があれば一人または少人数で奉納できるが、そうでなければもっと大勢で金を出し合って奉納したであろう。一枚の算額に一〇人の問題が掲載されているような算額は、仲間意識ということ以上に金銭的な問題もあったのかもしれない。

(略)

算額天明の頃から急激に増え始め、一八〇〇年から一八〇九年にピークを迎えた

自分で問題を作ることの楽しさ 

[江戸時代]数学の塾の門人となった者は皆、数学を楽しみとした。

(略)

[能力の差は]さしたる問題ではなかった。塾では学ぶべき項目の順序は定められていても、それぞれの達成すべき年限は定められていなかったからである。(略)

つまり落ちこぼれなど存在しなかった。(略)

[現代の学生は]早く解答を得ることが重要だと思っている。 江戸時代には早く解答できる者はもちろん尊敬されたにはちがいないが、遅くても計算の過程を楽しめればそれでよかった。江戸時代に複雑な計算を必要とする問題が好まれたのはこのためでもあった。楽しむ時間は長い方がよいのである。

 現代数学は数学者とそうでない者の間でイメージに大きな隔たりがある。例えば高校生にとって数学は与えられた問題を解く科目であって、公式というルールを覚え、それを適用して与えられた問題を解く一種の(必ずしも楽しくない)ゲームに過ぎない場合が多い。答があるとわかっている問題を解くのであるから、これは受動的な活動で、目標はあくまでも出題者の用意した答えにたどり着くことなのである。これは大人の場合も同じで、小学校から高校までの一二年間を振り返ったとき、一回も自分で数学の問題を作ったことのない者が大半であろう。

 それに対して江戸時代には、数学の塾に入門する者は皆、自分で問題を作りそれを解くのが目的であり、問題作りを目指さずに塾に入門する者など皆無だった。彼らは書物や師匠、先輩の門人から学んだ後、いよいよ自分で作る。平面幾何の問題を作るのはまず師匠や門人仲間に見せるためである。さらに機会に恵まれれば、算額として神社に奉納して不特定多数の者に見せるのであるから、図形が美しく、線分の長さなどの数値がなるべく単純で、さらに答も単純な数値になることが望ましい。計算の詳細を書かないのは、これが見る者に対する挑戦だからである。となると計算過程は複雑でもよい。むしろ複雑な計算過程を経て最後に得られる答が単純なものが賞資の対象であったろう。そのような問題を作成するのは実はなかなか難しい。いろいろな試行錯誤を重ね、時間を費やしたに違いない。また、自分の出した答が誤っていれば恥をかくことになるから、何度も計算をくり返し、考え方に誤りがないか確認し、実際に答を問題に当てはめて確認するなど、慎重になったと思われる。

 近年、中学生や高校生を対象にした算額コンクールや授業のなかでの算額作成などが試みられている。いくつかの平面幾何の例を見せると、中学生でも高校生でも思い思いに問題を考え出す。そこにはそれぞれの生徒の感性や個性が如実に現れる。

(略)

 たとえ作った問題が簡単なものであれ、このような経験を積むことができた生徒は非常に幸せである。数学は本来、問題を作ることと問題を解くことから成り立っている。

(略)

大半の人々が数学を単に与えられた問題を早く解くだけのものと思っている現在と異なり、江戸時代の人々は自分で問題を作り、自分でそれを解くことに喜びを感じ、それを楽しんだ。

 

中平卓馬論 江澤健一郎


中平卓馬論

中平卓馬論

 

美学的写真vs匿名的記録写真

近代日本では、西洋芸術(たとえばシュルレアリスム)を技術的に模倣することによって、内実なき表現模倣を行ってきた。このような系譜にある表現写真は、写真作品を媒介として、既存の観念と価値観を表現しようとするあまり、写真の根源的機能、つまり「物の記録」という機能を軽視してしまう。その最悪の例が、この展覧会では大きく取り上げられなかった戦争期の表現写真である。プロパガンダ写真からアマチュア写真にいたるまで、それらは大部分が美しき表現写真であり、つまり戦争美学、聖戦遂行というスローガンの表現に堕していた。そしてその麗しき表現世界においては、戦場の悲惨さ、苦しい銃後の生活は記録されず、忘却されていく。むしろこのような美学的写真は、その忘却のために存在していたとも言えるだろう。中平は、そのような表現写真の系譜に対して、まず歴史の匿名的な記録として、たとえば田本研造撮影と推定されていた北海道開拓写真を挙げる。

 田本は、開拓の進行によって変貌していく北海道の光景を、開拓使の依頼で職人的に記録していた。彼の写真には、新しく切り開かれた「日本の」北海道が記録されると同時に、必然的に失われゆく北海道が記録されている。中平は、そこに表現性や作家性を排した記録写真の原型を見いだしたのだろう。しかし、このように田本の写真を純粋記録写真とみなす観点は、現在では素朴すぎるとも言える。たとえば、田本のプリントを収めた台紙には、ときには「田本研造製」あるいは「K.TAMOTO」という署名が記されていて、この写真家が、けっして匿名性の写真家ではなく、作家性を意識した人物であることがうかがわれる。

記録論

40ページ

『デザイン』(一九六九年一月号)に掲載した「リアリティ復権」において、彼は短いながらも記録論を提示していた。

 そこで中平は、写真は記録に徹すべきであり、撮影主体にとって内面的なものの表白(表現)であってはならない、と説く。そして写真は、既存の言葉、世界の既成の意味を図解するのではなく、命名を拒否するなにものか、真の現実を捉えるべきであると説く。それらの写真は現実の断片にすぎず、それが提示するのは「特殊な」「限定づきの」現実にほかならないが、写真家はそれを積み上げ、構成することによって世界を再構成しようと試みる。そうして一枚一枚の写真は、「一つの疑問形の現実」として露わになるのだ。こうして中平は、「現実を記録する写真」という命題を前景化しながら、同時にその反作用として「写真家の消滅」、写真の無名性を要請する。

(略)

 だが、先ほど論じたように、当時の中平の写真は、撮影者の行為性を「アレ・ブレ・ボケ」として刻印した写真であり、そのような実践は、ここで彼が要請した「写真家の消滅」という命題と論理的に矛盾せざるをえない。しかし、中平にとって、この二つの要素は両立不可能ではなく、彼はそれらを連動した問題として理論的に考察していく。 

記憶喪失の男が写真を選別する 

中平は、それをこう語る。

 

たしかに膨大にひろがる世界の中で、写真家は眼前に生起する多くのものを"なぜだかわからないいろいろな理由から"、選択し、選別しそれを自らと他者に向かって提出してゆく。乞食同然の記憶喪失の男がていねいに一枚の写真を選別してゆくように写真家もまたある一瞬をまたある事物のある側面を他から切り離して切り取ってゆく。それもまさしくなぜだかわからないいろいろな理由からなのだ。(略)

この時〈記録〉はまず第一に自らが生きていることの間接証拠となり(なぜ間接かと言えば、それは自分にも何故だかわからないからだ)、同時に記録が必ず何かについての記録であるとすればそれはその対応において必然的に世界の〈記録〉となってゆかなければならないだろう。

自己批判、風景から物質へ

自分の撮影行為によって風景を生成変化へと導き、写真化する。そして同時に、写真を自己の生の間接記録とすることによって、自分自身が記録写真に生成変化していく。そこに現れるのは、そのような二重の生成変化である。

 しかし中平は、だんだんと自己の撮影スタイルに疑念を抱くようになり、苛烈な自己批判を行うようになった。そうして彼は、風景から物質へと向かう。

(略)

中平は、『プロヴォーク』が戦略的に採用したアレ・ブレ・ボケという方法が、瞬く間に公認の写真ボキャブラリーと化して、内実を欠いた装飾となる危険を感じていた。

(略)

[大量に流通する広告写真]に現れる手ブレは、自分たちの方法がもはや形骸化している証左であった。

バルト、コノテーション、トラウマ的写真

コノテーションとは、シニフィアンシニフィエによって形成される記号(記録写真)がシニフィアンとなり、別のシニフィ工を意味する事態を指す。たとえば、四月に生えるタケノコの写真と小学校入学式の写真が併置されるか、タケノコの写真に「すくすく育つ子供たち」というキャプションが付けば、その写真は育ちゆく人間の子供の比喩となり、それを同時に共示するだろう。この時期、バルトの写真論の主眼は、デノテーションではなくむしろコノテーションの分析にあった。たとえば彼は、「写真のメッセージ」においてさまざまなコノテーションの方式を分類していて、松永事件の新聞写真のような、複数の写真がシークエンス化されてコノテーション化されるケースも分析している。

 それでは、純粋なデノテーションとしての写真はありえないのか。バルトはその可能性をひとつだけ指摘していた。それは、「トラウマ的写真」、あるいは「ショック写真」である。つまり、その写真を知覚した瞬間に、知覚者が茫然自失して、言語の手前、言葉を失う状態になる写真である。

(略)

文字通りにトラウマ的な写真は稀である。なぜなら、写真においてトラウマは、その光景が現実に生じた、という確信に完全に従属しているからである。つまり、写真家がそこにいたはずだ(これがデノテーションの神話的な定義である)。そのように仮定するなら(実をいえば、これはすでにコノテーションになるのだが)、トラウマ的写真(「現場で」捉えた火災、難破、大惨事、暴力的な死)は、それについてはなにも語ることがない写真である。ショック写真は、構造的に無意味である。

(略)

この定義は、かつて中平が山端庸介の記録写真、原爆投下直後の長崎を撮影した写真に見いだした性質と重なる。

「記録という幻影」

中平は、記録写真がコノテーション化されて、逆に現実を覆い隠す幻影になる危険性を批判していた。

(略)

中平の方法であったアレ・ブレ・ボケもまた、対象世界の輪郭を溶解させて、さらにはその世界と対峙する者(撮影者や鑑賞者)が世界と結ぶ関係も溶解させて、不鮮明に曖昧化する危険性がある。それは、現実を見つめないための手立てとなるのだ。そうしてアレ・ブレ・ボケ写真もまた、記録から幻影になし崩し的に零落して、異質性や他性を覆い隠す「イメージ」、スクリーンと化す危険に陥っていた。国鉄の「ディスカバー・ジャパン」の広告は、中平にとってまさにその最たる例であった。そこでブレて曖昧になった美しき田畑のイメージは、悪臭がする肥だめの存在、農村の過疎化、貧困といった問題を覆い隠す遮蔽膜になるのだ。

 こうして問われているのは、単なるコノテーションの問題だけではない。意識産業の営為を批判する中平が問いに付すのは、われわれを取り巻くイメージ環境の権力構造であり、彼が要請するのは、その風景を引き裂くことである。われわれに見えるもの、われわれが意識産業によって見せられているものは、あらかじめフレーミングされ、選択されている。われわれはその可視性の限界内で与えられた映像を現実として受容して、それを現実として信じているが、しかしフレーム外に除去された現実は見えなくなり、そもそもなかったことにされ、忘却されていく。松永事件の捏造に貢献した『読売新聞』の二枚の写真、そのあいだの繋辞を消し去れば、そこに現れるのはフレーム外であり、そこに松永氏の無実が存在しているが、意識産業はそれをなきものにしようとするのだ。

 事物の視線

中平は「事物の視線」を論じる。

 

私にとってもはや〈イメージ〉は乗り越えられるべき対象である。私から発し、一方的に世界へ到達するものと仮定され、そのことによって世界を歪曲し、世界を私の思い通りに染めあげるこのイメージは、いま、私の中で否定される。世界と私は、一方的な私の視線によって繋がっているのではない。事物、物の視線によって私もまた存在しているのだ。

 

 「私」と世界の関係は、「私」が世界を捕獲する眼差しだけによって、一方的に成立しているのではない。「私」は同時に世界によって、他者によって、事物、物質によって見つめられているのであり、われわれはそのような視線の交差配列のなかで存在しているのだ。だがわれわれは、自らの能動的な主体性を過信して、自分から見ていると思い込むことによって、見つめられていることを忘却する。しかし、中平がかまえるカメラのレンズは、私的な眼差しではなく、それとは偏差をはらむ目ならざるものであり、機械の目、中性的な目を世界へ向かって開いている。それゆえにカメラは、世界を私物化することなく受け取ることができるのだ。

(略)

 中平は、『なぜ、植物図鑑か』を刊行した年に、ウジューヌ・アジェ論を『アサヒカメラ』に寄稿しているが、その題名は「ユジェーヌ・アッジェ――都市への視線あるいは都市からの視線」であった。(略)

中平は、都市に視線を向けるアジェの写真に、逆に「都市からの視線」を見いだしていた。そして彼は、それと関連して自分自身の病的体験を告白している。彼は当時、睡眠薬を常用していたが、その副作用で恒常的な知覚異常を患い、入院することになった。その症状は、距離感を喪失した幻覚として現れる。幻覚といっても、非現実的な幻影を幻視するのではなく、日常的な事物のイメージが、自己と対象を隔てる距離を喪失した姿で現れるのである。そのため、能動的に事物を見る行為が、その事物が眼球に直接突き刺さってくる受動的な視覚体験、幻覚と等しくなってしまった。これは極端な病的症例であるが、しかし中平は、そもそも「見る」ということは、事物が自分に突き刺さってくる出来事、つまり見られる出来事を反転した言い回しではないか、と自問している。

 そうして中平は、自分自身の視覚体験から出発しながら、アジェの写真を分析する。アジェは、一見なんの変哲もないパリの光景を撮影したが、(略)

それは、「私」による情緒化、人間化、「意味化」が欠落したイメージとして、異化されたイメージとして現れる。アジェは、長めの露光時間が必要な旧式カメラを用いていたため、多くの場合、彼の写真には街路で動く人々の姿が写っていない、それらの写真は夢で見るような無人の街、犯人が立ち去った「犯行現場」(ベンヤミン)のようなイメージとなっている

決闘写真論

映像論集『なぜ、植物図鑑か』を刊行後、同じ年に、それまでの写真と決別するためだろうか、彼は逗子海岸で多くの自作ネガとプリントを焼却してしまった。この衝撃的な出来事は、後にあるエッセイで回想されている。

(略)

「白黒のプリントの束にも火がつき、一枚一枚大きく反りかえり、またたくまに燃え上がっていった。そのたびごとに記憶が喚びさまされた。生々しかった。いつ、どこで、どのようにして撮った写真なのか、燃え上がる一瞬にすべてが細かすぎるほど鮮明に思い出された。(略)そのひとつひとつ、それにまつわる人間関係がいま目の前で燃えてゆく。灰になってゆく。関係がひずみ、反りかえり、パッと燃え上がり、消えてゆく。何のためにノートを焼き、あれこれ書きちらした文字を焼き、写真を焼いているのか、いまになってようやくわかったような気がした。これから先、何をやってゆくのか、まったくわからなかった。ただもう二度と写真を撮ることはあるまいと思った。記憶の収集家にはなるまいと思った」。こうして語り手は、写真を焼き尽くし、「記憶」を消尽しようとする。

 そうしてネガとプリントを焼却した中平は、植物図鑑という概念から出発して、写真家として試行錯誤を実践した。だが、その新たなる撮影行為の試みは困難をはらみ、彼は写真を撮れないスランプにも陥ったとされる。

(略)

 そうしたなかで中平は、撮影者としてではなく、写真批評家として大きな仕事を成し遂げる。彼は、篠山紀信の求めに応じて、『アサヒカメラ』で一九七六年一月号から連載を担当した。篠山は、中平が書いたウジェーヌ・アジェ論とウォーカー・エヴァンズ論を読んで感銘を受け、自分のことを書いて欲しいと希望していた。その連載は、「決闘写真論」と題され、毎月掲載される篠山紀信の写真に対して、批評家中平卓馬が文章で決闘をするという形で発表された。

(略)

 当時の中平にとって、アジェとエヴァンズは、「事物の視線」を捉え、「あるがままの事物」を撮影した特権的な写真家であった。そして、意外なことに中平は、篠山紀信に図鑑的な写真の実現者を見いだす。彼は、篠山の写真を初めて見た頃は、自分とは対極的なその技巧性に興味を抱けなかったという。しかし、『オレレ・オララ』を見た瞬間、彼の篠山観は一変した。リオのカーニバルを撮影したそれらの写真には、貧しき人々を貧しき人々として表象するような観念の図式、思考の図式、文化の遠近法が欠落していた。それらの写真は、富める者も貧しき者も、誰もが法外極まる生に身を委ねて生きている姿を記録していた。中平にとって、それを撮影した篠山は私的な「表現者」ではなく、現実をあるがままに受容し、自分は語らずに現実に語らせる「工作者(オルガナイザー)」として現れたのである。

図鑑的写真

 図鑑的写真は明瞭であり、事物の微細な細部を克明に記録して提示する。中平は、アレ・ブレ・ボケ写真とは対極的な性質、アジェや篠山が撮る写真の明瞭さを強調していた。

(略)

無数の剥製、天使像、人形の首、植木鉢……。それらは、まるで夢で見るように明瞭であるが、同時に脈絡がなく、謎である。だからこそ、不安を抱かせる。それらの事物は、意味作用の網の目から抽出され、断片化され、事物そのものとなり、それぞれが図鑑の図版のように同一空間に併置されている。そして、篠山紀信の写真もまた、同様の図鑑的性質を示していた。とりわけ中平は、篠山のパンフォーカスに注目している。

(略)

中平は、篠山が住居を撮った「家」の一枚、蔵を住居にしたと思しき家の写真を分析する。画面手前では、蔵の扉が開け放たれていて、その入り口から畳敷の居間が見える。そこにはコタツがあって、一人の男性が座っている。その奥には開いた襖があり、収納型の階段、その奥に開いた障子、衝立、再び障子、というように奥行きが広がっている。一見、コタツにいる男性が写真の中心かと思われるが、画面全体にピントが合っているため、すべてが等価になり、この写真を見つめる視線は、焦点を定めることができずにさまよい続けるほかない。さらに、この写真には複数のフレームが共存している。入り口、襖、障子……。まるで一枚の写真のなかに複数の写真が共存しているかのようだ。さらに、その篠山の写真は、他の写真と並置されて、よりいっそう図鑑的に複数化していく。

「ブレボケ」写真の作成法

第1章 註10

[中平は]「ブレボケ」写真の作成法について以下のように説明している。(略)

比較的遅いシャッター・スピードでも、強引に、あるいは気軽にシャッターを押す。像は「ブレ」る。暗室作業も簡単である。高温のフィルム現像液での長時間現像、のりにのったネガをさらに四号ぐらいの硬調の印画紙に焼き付ける。むろん焼き付けの露光時間は、普通考えられるようなものではない。三十分から、ときには一時間もの露光。でき上がった写真の粒子は荒れ、像は当然〈ボケ〉てくる。まあこんな具合である。それさえわかれば、だれでも〈ブレボケ〉派だ」(中平卓馬「身振りとしての映像――ブレボケは様式ではなかった」『アサヒカメラ』一九七六年三月号

(略)

だからといって、中平がこれをそのまま実践していたとは限らないだろう。柳本尚規は、自分が立ち会った中平の現像作業を回想しながら、高温現像液の使用を否定している。「たしかに当時の中平さんの写真の美しさの源はその粒子のきちんとした並びにあった。だからこそ粒子が不揃いにならないよう、フィルム現像にはひときわ気を使った。高温の現像液を使うことなどは論外」(柳本尚規「中平卓馬をめぐる30年目の日記」

(略)

高梨豊は、それとは異なる証言をしている。「『プロヴォーク』の時に一緒だった中平卓馬森山大道はフィルムを煮たりしていましたね(笑)。現像液の温度を上げて増感現像していたんですよ」(高梨豊『ライカな眼』