前回の続き。
神がブギ・マンだとしたら 長谷川博一
[相倉久人『都市のブルース』新訳はこれ→
(略)
――(略)"浅川マキは特定の時代の愛玩物ではなくて、実にモダンなシンガーである"というのが僕の仮説なんです。(略)
ブルースについても日本ではずいぶん大きな勘違いをされてると思うんですよ。(略)自分の苦しみを舐めてもらうためのものだとか(略)
ブルースの湿り気だけを愛好するというのも片手落ちだなあと思ってしまうんですけどね。
浅川 ええ。ただ私がブルースについて語るには、言葉にできないし僭越という思いもあります。相倉久人さんの『都市のブルース』。あの本は今読んでも改めて想いを深くしますしね。確かな歴史の中で黒人の辛い環境というのはずっと続いていて、今もまた状況としてはますます複雑なものになっていますよね。でも少なくとも六〇年代までを語るならば、辛いがゆえに辛いとうたうのはブルースではなかった。逆にちょっと短絡化した言い方をすると、辛いがゆえに明るく表現するのがブルースのように私は感じましたね。
(略)
マヘリア・ジャクソンの黒人霊歌やゴスペルを聞いてもらうとわかりますが、"神様はいるよ。辛くても、いつかはきっと自由になれるさ!"とうたうと、聞き手が彼女の歌の深さゆえに(略)
訳もなく心を打たれた。そんな希有な歌手でしたね。
(略)
マヘリア・ジャクソンは悲しみ悲しみとしてうたうことは一〇〇%なかったと思います。ですから"悲しいのよ、私"と訴えるのがブルースだと誤解している日本人が多いとしたら残念ですよね。確かに、いかにも悲しそうにうたえば伝わりやすくて売れます。でも私は、それはちょっと違うんじゃないかと感じます。
(略)
――(略)ただ、初期の頃の曲というのはどうでしょう。デビュー・アルバムの《浅川マキの世界》を聞くと、どこか日本ふうに演出されたブルースの世界がやっぱりあって(略)"辛いことを辛いとうたわない"という世界は少し薄められている気もしますが。
浅川 いえ。でも〈夜が明けたら〉をもう一度聞いてみていただきたいんですけど、あの曲は確かにマイナーですよね。だけど私は絶対に暗くうたっていませんよ。むしろ特別な感情を入れずにうたっています。確かに"切符を一枚用意してちょうだい"という詞の一節があります。でも言葉とは裏腹に、ちっとも期待していない歌い方、闇に向かって、誰もいないところへと放り投げるわけです。
(略)
それからブルースについてもう一ついうと、一二小節の形式がブルースの基本だと考えてる人も多いでしょうけれど、本当はそうじゃないみたいですね。これは今、私と一緒にライヴでドラムを叩いてるセシル・モンローという黒人のドラマーから聞いた話なんですけれど。彼は「ブルース・コードの流れの中で、その場で即興で言葉を乗せていくのが本当の黒人のブルースだ」といってました。
(略)
だからキッチリー二小節にしてポピュラーになっていったのは、黒人たちがそんな形式を作ってその中でより自由に楽しんで、それはまた快感だったということなのかもしれない。
(略)
南部の黒人たちに昔から伝わっている歌を記録として録ったレコードを聞くと、たった一曲、女のアカペラで入っている物売りの声なんかは、もう"歌"に聞こえますね。それは物哀しさが自然に響く……遠いところでね。
(略)
ですから今ブルースをうたうのなら、うたう人の日常、そして歌い手が感じている世の中……非日常の域までとは欲張らなくても、そんなことを一二小節の快感のコード進行の中でもっと自由に歌手が自分の言葉で乗せていくのもいいし、いいたいことを歌にするといい。"このコーヒー、ちょっと苦いけど、その苦味が非常に……"といって、でもそれ以上は何もいわなくてもいい。あとはお客さんの感性とイマジネーションにまかせれば、想いは個々に広がって(略)そんなふうにして続けていきたいですね。でも日本のブルースだと、"それでどうしたんだ"というところまでいい切らないと話が収まらないと思われてるフシがありますよね。これは今、日本でカラオケでうたわれている作品についてもひどく傾向化している。いえ、ますますそうなっていく気がして怖いなあ。本当は日本人がブルースだといってうたうなら、自分の中で一度咀嚼して出したものをブルースと呼んでほしいんですよね。だから私がもしも客席にいるとしたら、聞き手の想いを自由に広げてくれるような、逆に客としての私の日常や非日常、極端にいえば私自身のレベルまでもがあぶり出されるのだろう、というようなものをね。もし、そういうふうにやってくれる歌手に出会ったら、私はドキドキしてライヴに出かけたい。この数年、ずっとその想いが重なっていますね。ええ。ブルース本来の自由自在な感覚を、もっと日本語の歌でも味わいたいですよね。
(略)
パティ・ラベルの場合は、下からだんだんに声を持ち上げないと黒人霊歌やゴスペルをうたってるという実感が持てないのか、あまり私は......。(略)
ああしないと声が出ないのかも。マヘリア・ジャクソンは、クラシックの名歌手としても歴代の一〇本の指に入る人でしょうしね。いい声が、音程を探ることなくパッとすぐ出ます。
(略)
――(略)たいがいの歌手はミキサー卓のメーターが大きく振れないとボーカルが聞こえてこないのに、マキさんの場合はメーターがそんなに振れなくても声が聞こえてくる。
(略)
浅川 (略)吉野金次さんが二〇年もTD(トラックダウン)をしてきて、「やはり浅川マキの声と音程には謎が多くて、そこが面白い」と。あと、近藤等則さんからは「アタマから声を探らずにドンと出る人なんてほとんどいない。だからマキさんとつき合ってるんだ」といわれたことがありますね。
(略)
[歌い方を]勉強したことは一度もないです。すべて自己流ですね。とはいえ(略)
[小林亜星作曲〈東京挽歌〉]の時に「なんだ、ミミズが這いずってるような歌い方じゃないか」といわれて、演歌の先生につけられて、森進一さんみたいな歌い方を習わされたんですね。(略)無理してうたって五日間で声が枯れた憶えがあります。
(略)クラシックの唱法も一度だけ習ったことがあります。(略)一緒に暮らしていたクラシックの学校を出ている男に勧められて、ベル・カント唱法だったか何かを習いに行ったんです。教室には芸大の生徒さんがいっぱいいましたね。
(略)
――(略)日本語で歌をうたう時は、マキさんはどこに気を配りますか。
浅川 私は、日本語がゆっくりと聞こえてくるのが好きです。それはアップテンポでも同じ。(略)ただそうすると日本語は、音楽的にはシンコペーションに乗せ辛い。しかし、やはりこの時代も含めてリズムの心地よさを考えた時、日本語をシンコペーションでうたいます。この際、いっちゃおうかな(笑)。ジャズ演奏者もそうなんですけど、シンコペーションをシンコペーションと観客にわかりやすくプレイすると、俗にいえばお客さんは喜ぶしウケることは確かなんですよね。でもたとえば今、私とご一緒してくださってるピアニストの渋谷毅さんね。同じ仲間たちからは尊敬されてますけど、実は一〇何年も一緒にライヴを共にして、私もそのシンコペーション……まったく、どこがどうなっているのかわからない(笑)。多分、前者の方たちは"シンコペーションが堅い"。そして渋谷さんは"シンコペーションが、より自由自在"なんでしょうね。私見で恐縮ですが。
(略)
――(略)言葉を探す時にマキさんが気をつけていることはなんですか。
(略)
浅川 何もないですよ。(略)
演奏者にフリーでやってもらったものに「今、詞をつけてくるからね」と、スタジオで書いたりしてますから(笑)。(略)
詞をその場で書いてからうたってみると、「あれ?なんでここにただダラダラと書いてあるものがこんなにちゃんとハマっちゃうの?」と録りのミキサーの方に驚かれて。
(略)
東芝の方が苦笑して「またデタラメを書いて......」と怒られちゃうんですね。去年はレコードの作り方について厳しく批判されましてね、それで私は一年間死にました。
(略)
[〈アメリカの夜〉]
――(略)歌詞の中には先ほどおっしゃったように、サングラス、午後の陽射し、ブルーのフィルター。それから"僕を真正面から見て欲しい"というフレーズもあります。(略)
浅川 (略)運命なのかもしれないと思うんですが、私がレコーディングしようとする時に実際に目を悪くしてしまったんですね。左目が網膜剥離になって(略)次から次と目から血が流れてきました。歌にしたサングラスはそれまでは基本的に私はかけないできたんですが、その日から急に必要になりました。
(略)レコーディングだけじゃなくライヴも控えていましてね。「先生、私はすごく幸せな人生だったし、もう片目ぐらいはいらないから早く出してください」と主治医に話したんですがダメだといわれました。(略)"左目はいらない"という念書も一応書いてスタジオの間隙をぬって治療を続けていたら、幸いにも成功して視力は上がってきましたけどね。
でも、その時には不思議な体験をしましたね。陽のあたるところで患った方の目を閉じていると、ものすごくキレイな色が見えてくるんです。まさしくサイケデリックで万華鏡、アンディ・ウォーホルもビックリの世界です。あれほどきれいな色や柄の体験というのは、シラフじゃなくても生涯味わえないものかもしれませんね。治療中も先生の前で思わず「わあ、キレイ!」と声を上げましたね。
(略)
――(略)アルバム《アンダーグランド》で今度はファンク色の強いサウンドをバックにうたっていますね。このアルバムではファンクをやろうという、はっきりした意志を持っていたんですか?
浅川 いいえ。(略)
セシルを通してベーシストのボビー・ワトソンと知り合いましてね。何度か私のアルバムに参加してもらってたら、彼は「レコーディングにドラマーを連れて来る」と急にいったんです。(略)そして次の日にギタリストも連れて来たんです。それがちょうどライオネル・リッチーのツアーで来日していた(略)ギターのトニー・メイデンとドラマーのリッキー・ローソンでした。
(略)
――(略)バンドのリーダーはボビーですか?
浅川 ええ、ボビーです。(略)片言の日本語でこういうんですよ。「ワタシにマ・カ・セ・ナ・サーイ!」って(笑)。ですからあのアルバムの曲のキーなんて、私は未だによく知らないです。ボビーが指示を出して演奏が始まりましたから。
ただこの時の演奏も「私がうたっていないとできないから、なんでもいいから声を出してほしい」と、彼らはまずそういいました。特にノリと声質が知りたいのでしょうね。それでバンドの音がパアーッと出ると、"ああ、こういう感じか"というのをつかんで即興のメロディをその場でうたっちゃうわけです。それから私はコンソールのところに戻って来て、ディレクター・チェアに座って今度はバアーッと詞を書くわけですよ。
(略)この日の彼らは、決して高いギャラではないのに生き生きと演奏していましたね。
(略)
一曲につき、一人三万円です。
――ルーファスに三万円!いい話です(笑)。
浅川 私はライヴにしろレコーディングにしろ、必ず終わったその日にギャランティを払うんです。(略)この日はいくらなんでも……ということで、みんなの財布から現金をかき集めて、一人について一万円ずつ多く、ほんの気持ちですがお支払いしました。もちろんボビーの一声で彼らは来てくれたのですから、つまり"お車代"(笑)。私にしてみればラッキーな、ということですよね。
(略)
――(略)じゃあ、これを最後の質問にします。今までのご自分の人生を一曲のブルースとして考えてタイトルをつけてみてくれませんか。
浅川 "ちょっと長い関係のブルース"。
これは何年か前にレコーディングした曲のタイトルなんですけど、何やら未熟な自分への自覚と、そしてまた、いろんな人たち、出来事。それらを想ってね。吉野金次さんがコンソールから振り向いて、「ちょっと長い関係のブルース」と呟くようにおっしゃって。微妙な温かい笑い顔が美しかった。そんなことを今、ふと想い出しましたね。
――(略)歌い手としての生涯をいつか終える時、マキさんは最後にどんな歌をうたうでしょうかね。
浅川 でも、私の最高の"歌"は、沈黙の中にあるのかもしれません。
『きれいな歌に会いにゆく』(長谷川博一著、一九九三年、大栄出版)
関係者インタビュー 山本幸三郎
(略)
〈蠍座〉でマキが再デビューするということで、改めてまた依頼されてね(略)
寺山さんから詞をまとめて渡されてね。すべてこのステージ用に書かれたオリジナルで、十二曲くらいあったのかな(略)
寺山さんの詞は言葉が多くて小節に収まらなかったりするんだけど、寺山さんはこちらが言っても一字一句変える人じゃないから、「そこはあんたがなんとかしなくちゃ」と逆に言われちゃってね。
(略)
詞が寺山さんですからね、そのイメージで曲つけていくと、大体あんな感じになりますよ。「かもめ」は何か投げやりな感じで歌うような曲調でとか、「ふしあわせという名の猫」はしんみりした感じだからマイナー・メロディーにしようとか(略)
芝居の音として考えると、自然にメロディーは浮かんできます。
(略)
当時、ぼくが担当していたシャンソンの歌手がいて、それがシャルル・アズナブールが来日したとき「かもめ」を聴かせたらしいんだ。そしたら、「これがいままで聴いた日本の歌で一番いい」って言ったんだって。これはうれしかった。
(略)
二枚目の『Maki Ⅱ』になる頃は、マキは自分詞も曲も作るようになったけど、独特の曲作りで面白かったですよ。
(略)
そのうち、ぼくや寺山さんの世界とは違う方に行きたいと思ったのかな(略)
自然に縁がなくなってきたけど。
(略)
亀渕友香
(略)
歌手デビューする前の浅川マキのことを知っているのは、もう私ぐらいかもしれませんね。(略)
私は最初米軍キャンプでうたっていたんですが(略)六五年頃でしたか(略)[〈銀巴里〉の]二階に〈銀巴里ジャズ〉というのがあったんです。でも、ここもジャズのプロしか出演できないということで、どうしようかなと思っていたら、近くに〈エポック〉という喫茶店というか、ライブハウスのようなところがありまして。そこはオーディションで、どんな歌手でも受け入れてくれるというので、受けたらOKになって、そこにいたのが浅川マキだったんです。もう一人、上条恒彦さんもいて、それで私を入れた三人でグループみたいになりまして、いつも笈田敏夫さん、丸山明宏さん、ラテン歌手の宝とも子さんの前座(略)でうたっていたんです。
(略)
同じステージで歌ったこともありますよ、労音の舞台で。三人とも黒人の音楽が好きでしたから。上条さんが「出発の歌」でヒットした頃に出したファースト・ソロ・アルバムには、その頃のレパートリーが半分くらい入っています。労働歌というか、そうワーク・ソングですね。
私はマリア・ジャクソンとか、オデッタとかに心酔していましたし、私たち三人は、黒人の歌、ブルースとゴスペルとかが好きでうたってました
(略)
あるときマキがやってきて、「亀ちゃん、R&B好きよね?」「もう大好きよ」「今度、リッキーさんという人がバンドやるんだけど入ったら?きっとアレサ・フランクリン歌えるよ」「じゃあ行くわよ」と、それでリッキーさんのところに入ったんです。だから、〈リッキーと960ポンド〉のきっかけはマキなんです。
(略)
その頃の私のレパートリーは、「Sometime I Feel Like A Motherless Child」「エーメン」、マキもうたっていた「ゴーダウン・モーゼ」、「ジェリコの戦い」とか、オデッタでは「We Shall Overcome」ですね。
ニーナ・シモンのこともよく話しましたね。「ジン・ハウス・ブルース」「トラブル・イン・マイ・マインド」はマキもあとでカバーしています。
みんな言ってますけど、このカバーのセンスも良かったですね。
(略)
そういった古い曲の訳詞もかなりのもので、しゃべり言葉で書くところとか、マキ独自の世界は当時から下地があったんですね。
(略)
ずっとマキとは数少ない歌仲間として、いつも一緒でした。私の父がマキのことを好きで、自宅に遊びにくると、「あの人はなかなか色っぽい人だね」って言ってました。いつもなごやかな感じで、一般的なイメージでは暗い無口な感じかもしれませんが、素顔はよく笑う、人なつっこい人で、気に入ると朝まで話し込むという。
(略)
私が三十歳くらいからジャズを始めまして(略)渋谷毅さんと出会って、この人ならいろいろと学べるなと。マキにも「渋谷さんっていいわよ」って話をしてたんです。「もう最高で、セロニアス・モンクみたいで、歌をよく聴いてくれるし、言葉をとにかく聴いてるし、空間がたくさんあるし、あんないいミュージシャンそんなにいないわよ」って。そしたら、あるとき、ふらっとマキがきて、それから二人で独自の音楽を作る世界に入っていったんだと思います。
(略)
当時、歌の友達は私ぐらいだったですけど、「隙間のないくらいきちっとしている歌は、たぶん面白くないよね、どうやって言葉の言い方を変えていくか、削っていくかという作業をしていかなくちゃね」って、そういう歌のことはいつも話してました
(略)
誰も信じないかも知れないけど、マキは美空ひばりさんの歌がすごくうまくて、その通りうたえる人なんです。「美空ひばりはこういう風にうたうけど、私はこういう風にうたうのよ。そこが美空ひばりの美空ひばりたる所以なんだけど、そうじゃない風にしないと面白くない」って。マキのルーツは演歌ですよ。
マキとの話はいつも歌と男の話ばかりで、でも人の悪口は言わない人でした。その代わり批評をするんです、しっかりとね。それで悪口と批評は違うって言ってましたよ(笑)。非常に辛らつなことも言うし。話が止まらなくて、一日中でも話しているような人でした。
(略)
可愛いくて、明るい、それで少し怖い(笑)。それと足のきれいな人でしたね。(略)
あの衣装になってからは、誰も見たことがないでしょうけど。〈エポック〉の頃はミニスカートで歌ってましたからね。
(略)
電話で話していても話し足りなくて、お互いに「これから行くから」ってことになるんです。それで、マキのところに行ったときは、帰りに必ずタクシー代を手渡すんですよ。そんな仲じゃないから「いらないわよ」っていくら言っても、絶対に受け取らせるという人でした。古風というか、義理堅いところがあって。
(略)
研ナオコさんとか、日吉ミミさんとか、山崎ハコさんとかいろんな方が、彼女の歌に惹かれて、ああいうムードで、ちょっと引いた歌い方で歌ってますが、日本では珍しい存在の歌手でしたから、当時の女性シンガーに与えた影響は大きいと思いますね。
(略)
マキのああいう世界はただ好きなだけでは表現できないですから。(略)
いつも私たち言ってました、「生活だよね。生活していて、その生活から〈歌〉ってのはできるから、何かを削るしかないよね」って。
(略)
最後のレコードが九八年ですか。その頃「もうレコード出せなくなっちゃった」って言ってましたよ。CD時代の音がどうもしっくりこなかったというか、合わなかったみたいですね。音にこだわる人だから
(略)
私もボイストレーナーとして、いろいろな人と出会ってきましたが、歌がうまいとかというのでなく、その歌手の持っている世界観ということでいえばマキとナミ(南正人)ですね。いまだにその世界観が好きです。マキの声は深みがあってね。またあのあごがいいんですよ、深い声が出るから。わざと浅くしてみたり、低い声も巧みでね。
いま、ナミのところでギターを弾いているのが昔マキとやっていた荻原信義ですけど、私のところでも弾いてもらっています。(略)
喜多条忠
[68年頃丸山明宏を観たい彼女と〈銀巴里〉へ、前座のマキに魅入られ]
一人で〈銀巴里〉に聴きに行くようになったんです。当時から「奇妙な果実」はうたってましたね。
(略)
うたっている最中にノートを広げて、詩とか、何か書き物をしたりしていたんです。(略)ある日、マキが客席の近くまできて「何書いているの?」って聞くんです。「マキさんの歌を聴いていると、いろいろと言葉が浮かんでくるんです」って言って書いたものを見せると、あの口調で「やるわね、学生さん」って言われまして(笑)。
それから、プロデューサーの寺本さんを紹介されて、寺本さんが当時、毎月一回開いていた詩とか音楽の勉強会のような集まりに参加するようになったんです。当時そこにいたのは、田村仁、南正人、松山猛、早川義夫と曲を書いていた相沢靖子、りりィはまだいなかったですね、作曲家の中村泰二さんもいたかな。まだ南こうせつたちと知り合う前です。
(略)
[マキは]〈銀巴里〉では伴奏はピアノだけで、ほとんどアカペラ風にうたっていましたね。
(略)
七二年頃でしたか、日劇ミュージックホールに出ていて(略)ストリップの幕間(略)
マキのファンだった演出家の丸尾長顕さんがうたう場をはめ込んだんですね。(略)
ストリップの客以外はぼくだけだったと思います。観客はそういうのを観にきているんじゃないけど、一応ちゃんと聴いていましたね。マキの歌は、初期はマヘリア・ジャクソン、ビリー・ホリデイの曲をうたっていたこともあって、その影響は受けていますが、ベーシックなフィーリングはやはり演歌だったと思います。美空ひばりも大好きで、プライベートな時間によくうたってました。
(略)
共演するミュージシャンがいつも豪華メンバーで、ギャラを支払うと自分の分はほとんど残らないということをいつも繰り返していたんです。
(略)
営業的な意味では回りのスタッフは大変で、すごく苦労されたと思いますよ。頑固ですが、良く言えば一種の完全主義者ですから、自分が嫌だと思ったことは絶対にやらない、ちょっと常識では考えられないくらい意思の強い人で、写真一枚撮るときでも、田村氏(田村仁)以外には撮らせません。その代わり、主旨に納得すればどんな遠くの大学祭でも、どんな少人数のところでも行く。ギャラが少なくてもかまわないという。
(略)
こういう話をすると、ちょっと一緒に仕事をするのは大変だと思いがちですが(略)意外と若いスタッフには仕事を教えて、長い目で見守っているという面もあったんです。
(略)
マキほど自分の力で自分の伝説を守り切った人はいませんね。稀有な存在だと思います実際に共演したミュージシャンたちも勉強させられたって言ってますね。歌手としてのアイデンティティーを絶対曲げなかったし、そのために努力、感覚、エネルギーを注いだ女、それが浅川マキです。
(略)
誰もが指摘するように、マキの訳詩はたいしたもので、言葉の使い方に関して、ほかの人がマネできないものを持っていました。シャンソンの訳詩の第一人者はなかにし礼さんですが、ブルース、ゴスペルの訳詩の第一人者は間違いなくマキです。訳詩というのはただ訳すだけではなくて、自分の中に取り入れて、こなれた日本人的な言葉にしなければならない。しかも自分で歌うわけですから、パーフェクトな訳詩です。「朝日楼」(「朝日のあたる家」)とかそうですね。カバーの選曲も絶妙で、当時、そういう話題でマキと話していると楽しかったですね。
(略)
とにかく読み取りの才能は凄かったですね。「夜が明けたら」の歌詞の感覚の一部は、ラングストン・ヒューズの詩に近いとぼくが言うと、すぐその詩集を買ってきて読んでました。
(略)
九條今日子
(テラヤマ・ワールド代表取締役)
寺山が最初にマキに会ったのは、寺本さんから「ちょっと面白い歌手がいるから観にきてくれないか」って言われて〈銀巴里〉に行ったときです。
(略)
「夜が明けたら」を聴いたとたん、寺山は電流が走っちゃったみたいで、それでのめり込み始めたんです。
マキも寺山も性格がすごくよく似てるんです。言葉を大事にする歌手って、あの頃そんなにいなかったでしょ。寺山は(略)すごい音痴なんですけど聴くのが好きで、耳がいいんです。詩人ですから(略)詩から入るんですよね。
(略)
寺山にとって、カルメン・マキと浅川マキでは全然違った素質だったと思うんです。自分で作詞作曲する歌手なんて、その頃あまりいませんでしたでしょ。だから、迂闊に詞を書けないなという気もしてたと思うんです。
寺山はマキのことを「彼女詩人だね」って、会った直後に言ったんです。相手が詩人だから、マキに書く詞は気合いが入って、詞では負けないと思ってたでしょう。
詞の言葉も二人でやり合うわけですよ。寺山はそんなにうるさい人じゃないんです。(略)
マキがうたいにくい部分があったんでしょう、「寺山さん、この詩は良くない。私だったらこう書く」というような丁々発止がしょっちゅうあってね、「でも俺の方が正しいんだ。このまま歌え」って。マキは次のコンサートから自分で変えちゃったりしてね。そのくらい頑固なのよ。
(略)
映画の撮影のときも「こんな場所でなんかうたうのは嫌だ」とか、楯突けるのはマキぐらいしかいなかったんです。ほかはみんなイエスマンですから。そういうことも面白がる人なんですよ、寺山は。マキには一目置いていたと思いますね。
(略)
「ふしあわせという名の猫」って曲がありますけど、寺山はほんとにその名前の猫を飼ってたんです。「ふしあわせ」って名前つけて、怒ったのよ私(笑)。
(略)
マキに最後に会ったのは九年前(二〇〇一年)でした。三沢の寺山修司記念館にマキを呼んだんですね。(略)
寺本ちゃんに電話したら「たいへんだぞ、マキを呼ぶのは。行くかどうかもわかんない。機嫌が良ければ行くだろうけど」って言うわけね。ダメかなって思って電話したら「行く行く」って、機嫌良く来てくれて。(略)田舎の記念館だから予算がなくて「マキね、ほんとはバックのミュージシャンを連れてきてくれればいいんだけども、そういう予算ないの。無理かも知れないけど、真昼の野外劇場でアカペラでうたってくれない?」って言ったんですよ。「あ、いいよ」って。寺本さんも自費で来て下さって。それで、真夏(八月五日)の、みんな汗かきながら見てる野外劇場で、アカペラでうたってくれたんです。これがまた良くてね。「夜が明けたら」とか「かもめ」とか。真っ黒の洋服で、いつものあのスタイルでうたうでしょ。みんなシーンとして感動してました。
彼女のすごさっていうのは、寺山もそうだったけど、言葉をたくさん持ってるのね。歌と歌の合間に寺山との思い出とか、そういうのをほんとしんみり話すんですよ。そしてまた歌に行くみたいな。
(略)
つのだひろ
マキさんと最初にあったのは(略)当時、加藤登紀子さんのバックをやってまして、加藤さんの、まだシャンソンの時代です。そこにマキさんが楽屋に来たんです。マキさんの最初のLPが出た頃
(略)
二枚目のLPに参加したのも、プロデューサーからではなくマキさんから直接です。
(略)
ストローベリー・パスからフライド・エッグを結成する、その間にあたる時期です。
(略)
リハーサルというのは初めから音資料というのはなくて、本人が憶えてきてうたうというかたちですね。たとえばピアノの白井を事前に自宅に呼んで、「こういう歌なのよ」ってまずコードを採らせるわけですよ。これをもとに、「とりあえずレコーディングやってみればわかるから」っていきなりやり始めるんです。レコーディングのアレンジだって前から決まっているわけじゃなくて、どうなるかはその場でビルド・アップしていく(略)アレンジャーっていたことがないですから。
本多俊之の頃になってからは、本多俊之がアレンジしてましたけど、ぼくたちの頃はヘッド・アレンジ(略)
だから、この時期のものはレコードにアレンジのクレジットはないはずです。書いてないということは、ぼくら全員がアレンジャーということです(笑)。
後半、一番面白かったのは、ステージでマキさんが出てきてうたって、次の曲に行くときに(略)いきなり曲目を言ってうたいだすという、結構スリリングな展開でしたね。そういうところをマキさんが狙っていたようなフシもありますね。ハプニング的なもので何か面白いものが出てきたらいいんじゃないかと。実際、ライブ・アルバムも多いですから。
マキさんもジャズ・ミュージシャンの中で生きてきた人ですから、その辺は心得てましてね、曲の途中にサインというか、そっとアイ・コンタクトを送るんですよ。それですぐ合わせられないと、マキさんのバックはできないですよ。
(略)
後年フリー・ジャズ的な世界に行ってしまってからぼくは関わっていないんですが、浅川マキのように歌える人はこの世の中にいないですよ。いまさら言っても遅いんですけど、それは失ってみて、つくづくそう思います。
(略)
一番面白かったのは、〈アケタの店〉だったと思いますが、ぼくと本多俊之と浅川マキの組み合わせがあって、コード楽器はなくて、メロディ楽器とリズム楽器しかないんです。それで、いろんな曲をやりましたけど。それで本多俊之が言うんですよ、「これは楽だ」って、コードがないから全然関係ない音階を吹いても成立するからね!って言ってました。歌的にもアヴァンギャルドの方向に行っていて、詩を読むような。八〇年後半ですかね!
(略)
共演したミュージシャンにとってはいい思い出ばかりだと思います。非常にミュージシャンを立ててくれる人で、MCでも、律儀に必ず一人づつちゃんと名前を呼んで紹介するしね。待遇も良かったし、ギャラの支払いもちゃんとしていました。「私なんかお金なくてもいいのよ」って言ってましたけど。だから、マキさんから直接話がきて断るミュージシャンっていなかったんじゃないですか。それぞれバンドのリーダー格のメンバーばかりなんですけど、本人からオファーがきたら、すぐ参加したいと思わせる人でしたね。
(略)
いまの歌手の歌になんの感動もないのは、ただ声が出ているだけだからですよ。でも声は歌じゃない。(略)
本当に人の心を打つ何かを出すということは、とてつもなく難しいことですよ
(略)
ケーキが声だとすると、その上にクリームかチョコレートがトッピングされるのかどうか、それによってケーキ自体が違うものになるじゃないですか。でも、今みんな声を出しているだけ、みんな白いケーキだけなんです。ただの流行だけで、ほかに何もない。でも中を切ってみたらこんなものまで仕込んでいたんだ、何か懐かしいと思ったらこんなものまで入っていた、ちゃんと別のものが、そういう含有物が必要なんですね。この含有物がないとただの声なんです。そして、浅川マキはその含有物をちゃんと持っていたんです。
一つは彼女の人生だっただろうし、聴いてきた音楽だったかも知れないし、彼女が住んでいた世界だったかも知れない。そういうものがしっかり含有物として声の中にあって、それが歌になって、聴いている人の耳や心にずっと沁み込んでいったんだと思っているんです。
歌というのは本来そういうもので、誰も浅川マキのようにうたえないというのは、それこそが〈浅川マキという人間〉の証明でもあるし、本当の歌手だということです。誰がマネしても同じようにならない。しょせんマネだから本物じゃない。人生がない。人生や雰囲気をマネているだけで、浅川マキには誰もなれない。
(略)
浅川マキのようになりたいと思っていた人はたくさんいますよ。ちあきなおみがそうです。でも〈浅川マキとい人生〉とは違うんです。
(略)
後年、音響をやっていた柴田(徹)が、何年か前に亡くなったのがすごくこたえてたみたいで、その後よくその話をしていましたね。
(略)
(二〇一〇年十月二十九日 西片で)
萩原信義
バンドを組んでいた大学三、四年の七一年頃に、TBSラジオで土曜の夕方に生放送されていた「ヤングタウン東京」という、桂三枝司会の番組がありまして(略)
そのハウス・バンドのオーディションを受けて、採用されたんです。
(略)
浅川マキさんがゲストで出たことがあったんです。曲は覚えていませんリハでは良かったんですけど、本番ではド演歌みたいになって散々な出来で。
その前後かな、同じバンドの杉浦(芳博)と楽屋でニール・ヤングをやってましたら、マキさんとマネージャーがやってきたんです。それが最初の出会いですね。
(略)
後日いきなり電話がかかってきて、実は二枚目のアルバムの最後に新宿の花園神社でライブ録音すると、「〈朝日のあたる家〉だけど、知ってる?」って言われて(略)杉浦と二人で参加しました。
(略)
まだb5も分からない頃ですからね。(略)[今田勝、稲葉国光は]大御所ですからね、共演というよりとても緊張したことを覚えています。(略)
そんな俺たちを起用するマキさんもすごいですよね。「あなたのギターの音には色がある」と言われて。つのだひろと会ったのもこのときが最初です。
(略)
「ガソリン・アレイ」も知らなくて、レコードを渡されて「これを覚えてきて」って感じでした。(略)
ロッド・ステュワートが好きだったですね、特にあの声が。この紀伊国屋のライブのジャケットにマイクがあるでしょう、これマキさん専用のマイクで、ちゃんとマイクに"浅川マキ"って彫り込んであるんです。人に貸さない専用の58のマイク、これしか使わなかったですね。
コンサートは学祭が多くて、沖縄から北海道まで、三年くらいで日本全国行きましたね。毎月、多いときで十回くらい、少ない月でも三、四回は必ずありました。当時、大卒初任給が四万円の頃で、ギャラが毎月だいたい八万くらいでしたから、その面ではとても良かったと思います。
ツアーの合間はレコーディングのリハとか、東芝と一年に一枚という取り決めがあったようで、レコーディングはだいたい一カ月くらいでした。
(略)
四枚目の『ブルー・スピリット・ブルース』は、「これはほとんど、フィーチャリング萩原信義って感じで、あなたのために出したのよ」ってマキさんに言われました。
(略)
「ケンタウロスの子守唄」という山下洋輔さんの作った曲があるんですが、その楽譜を見せられたとき、b5だらけのコードなので、「こんなのちょっと弾けません」って言ったら、山下さんから、「まあ、いいんだ、この音だけ入れれば、だいたいでいいから」と言われたのを覚えています。
(略)
「流れを渡る」のときに、内田勘太郎が参加してますが、この頃ぼくはちょっとスランプでね、ずっとやっていたかち、ちょっとクサってきちゃった頃なんです。
いつも同じ曲をやってきたから、ギターが決まりすぎてくるというか、クサっちゃったんです。変な言い方ですけど。ギターも鳴らなくなって。
(略)
そこで勘太郎を入れて(略)俺を少し激励しようという意図もあったのかも知れません。勘太郎は憂歌団で人気、実力とも抜群の頃でしたから。
(略)
『寂しい日々』が最後になりましたが、当時ぼくももう三十でね、自分から辞めるって言ったんです。辞めさせてくれって。そのあと悶々として、「もう一度やらせてくれないか」って電話したら、マキさんから「あんた何言ってんのよ、もう終わったものは終わったのよ」と言われて。
終わったというのは、マキさんの中でも何かが終わったんでしょうね。違う方向に行くというのもあっただろうし。その頃俺は生彩を欠いてましたから、次に乗っかれなかったんですね。マキさんはもっと音楽的に自由になりたいと思っていたから。
(略)
マキさんというのは素晴らしい人でした。とにかく、いろいろなことを教えてくれましたね。いつか「ノブ、いいフレーズは三回続けて弾いていいからね。三回まで、四回目はダメよ」って言われました。マキさんはいろんなミュージシャンと共演していますが、譜面というより、頭の中で、すでにある種の音が鳴っているんでしょうね。だからそれに合わない人とは一緒にできない。そういう意味ではミュージシャンの起用の仕方は絶妙だったですね。この曲だったら、この人を呼んでこようと。あと「タイム感」というのか、小節の中の間合いについてはかなり聞かされました。歌はこうだけど、演奏は少し遅れてこうとか、自分の中で独特の音楽観があるというか。
素顔は、暗いとか陰気とかいうことは全然なくて、よくしゃべる陽気な人ですよ。麻雀大好きだし、長谷川きよしさんもよく来てて、そのときはぼくも呼ばれてずいぶんやりました。
(略)亡くなってから昔のレコードをこの間聴いたんですが、やっぱりいいですね。自分のフレーズも意外にいいんで安心しました(笑)。ギターはヤマハですけど。友達から一万五千円で買ったものですが、これが一番いいんです。弦もモラレスという三百円の安いコンパウンドですけど、この柔らかい音がいいんですよ。いろんなギターを、高いのも買ったけど、やはりヤマハです。だから、マキさんの当時のライブもレコードも全部ヤマハです。
(二〇一〇年十月十五日 府中で)
山下洋輔
(略)
初共演となる「奇妙な果実」の伴奏をしないかという話は、確か当時東芝EMIのディレクターの渋谷森久さんから来たんですよ。
(略)
マキ自身がぼくを指名したということではなかったと思いますね。
(略)
「奇妙な果実」は、色々な意味でジャズマンにとって怖い曲ですよね。下手に手を出せないです。ですからあれは、ぼくにとっても大冒険だった。"歌伴"らしくやっても仕方がないので、そのときできることを全力でやるしかなかった。それを浅川マキは"許して"自分も自分の世界を歌い切った。すごい包容力を感じました。「すごい奴だ」と認めることができた。それから付き合いが始まったんですね。
マキの詞に曲をつけるということが始まりました。マキがもたらしてくれた初めての経験ですね。楽しんでやれましたよ。「港町」と「あんな女ははじめてのブルース」は最後までうたってくれていたようですね。
その後、だんだんとマキの方がフリー・ジャズに接近してきてくれました。それ風の曲を紹介したこともあります。七四年からぼくはヨーロッパに行き始めたんですけど、向こうのミュージシャンと知り合っていくうちに、マーク・レヴィンっていう活動家みたいな音楽家の曲に出会った。「ナイロン・カバーリング」っていうんですけど、これが面白くて、何を考えたんだかマキにこの曲を紹介して「日本語の詞をつけてうたってみたら?」なんて勧めた。あとにも先にも初めてのことです。
(略)
そのあと『ONE』ですね。完全にフリー・ジャズになっていくんですけど、結局、何をやっても浅川マキだというところがすごいんで、この現象はぼくも参考にしているところです(笑)。
(略)
マキはそのあとますます過激になっていったんですね。近藤等則だけをバックにうたったりしてね。詩の朗読みたいになっていったでしょう。フリー・ジャズっていうのは本当はこういうもんだってことを言っているみたいでしたね、原点を見つめたと言いますか。
(略)
浅川マキという歌手は、当然ながら〈浅川マキの世界〉というものを完璧に表現し続けていました。それがすごい磁力を持っていて、共演者も聴き手もあっという間に虜にされてしまいます。本当に不思議な表現力です。"深い"っていう言葉は非常に曖昧かもしれないけど、やはり深いんですね。(略)
「一音を深く掘り下げる音楽家になりたい」という意味のことを言っていたという記憶がある。それをぼくが覚えてるんでしょう。このように、あの人の言葉の影響もすごいんです。柏原卓だったかな、「マキと話していると読み合いになる」って言うんです。時には互いの存在をかけた会話になっちゃう。言い合いでも闘いでもないんだけど、すごく深いところで言葉を交わしているってことに自然になるんです。マキは言葉にもまた独特の思想があったようですね。
(略)
電話は芸術品でしたね。最近は年に一、二度ぐらいだったかな。だいたい一時間ですね。こういう用でかけてきたというテーマはあるんです。でもそれを言いながら、バーっとインプロビゼーションが始まって、昔の話になったり、人物評をやったり、思想の開陳になったりする。どうなるんだろうと思っていると、すっと最初のテーマに戻って「じゃあよろしくね」って終わる。これでピッタリ一時間、名人芸ですよ(笑)。質問すると三十分延びる。口を挟むと十五分延びる(笑)。じっと黙って聞いているのがコツなんです。この経験は、ずっとあとにニューヨークのセシル・テイラー先生のお宅でお話を聞いたときとそっくりで、すごく役立ちました!(笑)。
(略)
歌うときの環境へのこだわりはすごいですよ。共演者の人選から始まって、控室にも及ぶ。〈ピットイン〉の楽屋の電球を全部とり替えちゃうんですからね。おユキさんの差配で暗い青色の電球にしてしまう。
音響でも有名な話がありますよね。普通、歌手が「どういう音」にしたいかを言うときに「ここの何ヘルツの音をちょっと上げて」とか「引っ込めて」とか言うと「お、なかなかできるな」とスタッフは思うんですね。ところがマキはあるとき「私の声をもう少し紫色にしてちょうだい」って言ったというんです。しかし、この世に「なんだよ、紫色の音とは」と言って怒れる人はいないんです。マキがそう言うんだからそうしなくてはならない。紫色の音にしなければならないんです(笑)。
(二〇一〇年十月十四日 渋谷で)
渋谷毅
(略)
渋谷 (略)最初に会ったのは吉祥寺の〈曼荼羅〉。そこで亀渕友香さんとぼくとベースは川端民生さんでドラムは誰だか忘れちゃった、その四人でやっていて、そこにマキさんが来たわけ。(略)終わってから紹介されたの。
――そのときは友だちである亀渕さんのライブを聴きに来たんですか?
渋谷 どうやらぼくを聴きに来たらしいんだけどね。
――やっぱり亀渕さんから渋谷さんのことを聞いたんですかね?
渋谷 そうなんじゃないかな。亀渕さんと仲が良かったからね。(略)
三、四ヶ月くらい後だったか、その京大西部講堂を頼まれた。「渋谷さん、誰かベースの人ともう一人連れてきて」といわれたから川端さんとトロンボーンの粉川忠範さんの三人で行った。その頃マキさんは自分のバンドがあったんだよね。ベースが吉田建、ドラムがつのだひろ、ギターが萩原信義でキーボードが白井幹夫。(略)ロックっぼい感じだったから、もしかしたらそのあたりからジャズの感じでやりたかったのかな。
(略)
その一年くらい後かな、マキさんはそのバンドを解散して、それからはいろんな人を呼んでやるようになった。ジャズの人だけじゃなくてロックやフォークの人たちもよく来ていた。めんたんぴんっていうバンドがあるんだけど、そこのメンバーもいた。同じ石川県だから、むかしから知ってたみたいね。
(略)
――初めてマキさんの歌を聴いたときはどういう印象を受けましたか?
渋谷 よくわからなかった。いま、むかしの歌を聴くとよくわかるというか、「ああ、マキさんも若い頃があったんだ」って思う。むかしのアルバムを聴くと、感じはあんまり変わっていないけど、声が若々しい。当時はね、そんな風には思わなかったんだけど。
――なんだか明るくて、のびのびしていますよね。なんであんなに「暗い」というイメージで語られてしまうのかよくわからないくらい。
渋谷 本当にそうだよね。明るい。
(略)
[オイルショック後]あんまり仕事がなくなってきたんだよね。世代交代みたいなものがあったのかもしれないけど。それで暇になってきたから〈ロブロイ〉なんかに行ってまたピアノを弾き始めて、そこで亀渕さんと知り合ってライブをやっていたマキさんが聴きに来たというわけだね。よくそんなぼくを見つけてくれたと思う。
(略)
[オイルショック前、柳田ヒロと]毎日のように一緒に飲んでいた。当時彼は岡林信康のバックをしていて、今度コンサートがあるからって聴きに行ったら、すごくよかった。七一年か七二年か。とにかく気に入って、柳田ヒロがキーボードを弾いている『俺らいちぬけた』と、それから高田渡の『ごあいさつ』とはっぴいえんどの一枚目、その三枚を買って、どれもすごくよくて毎日その三枚を聴いていた。それを聴いていてフォークの人とかが好きになったんだよね。
(略)
フォークっていったら森山良子くらいしか知らなかったから。それで、岡林とかを聴いたら「ああ、こういうものがフォークっていうんだな。森山良子のはフォークじゃない」という風になっちゃった。で、ちょうどぼくの事務所が東京セントラルアパートにあって、同じ建物の中にURCレコードがあったの。そこへ行って、はっぴいえんどの二枚目とか買ったりしていた。
(略)
こういうロックやフォークの人たちと仕事がしたいなあって思っていたら、はっぴいえんどが解散したという話を聞いた。解散したから暇だろうと思って、何回かコマーシャルの録音をお願いしたことがある。あと、渡さんにうたってもらったりとか。大瀧詠一さんにもうたってもらったなあ。
――何のCMだったんですか?
渋谷 何だったかなあ、忘れちゃった。
(略)
――ライブやレコーディングなど、現場でのマキさんは結構厳しいというかこだわる部分があったりしたんですか?
渋谷 厳しいとか、そんなことはないけどね。あの人は準備の段階が大変で、別にそんなことどうでもいいじゃないっていうようなことがあんまりどうでもよくないらしいんだよね。
(略)PAのほんのちょっとしたこととか、照明にしてもそうなんだけど、なんというか、なかなか具体的には言えないんだけどね。音の全体というか、自分がうたっている全体の聞こえ方、見え方、そういうことをすごく大事にしていた。〈ピットイン〉なんかでも楽器の位置はもちろんだけど、客席の椅子の位置まで自分で決めていた。ちょっと椅子を曲げて並べたりしてね。均等に並べると絶対にあの人はダメだった。ちょっと曲がっているのを誰かが直そうとしたら「ダメ!動かしちゃ!」っていってね。どこへ行ってもそうだった。
(略)
――演奏に関してはどうでしたか?
渋谷 特にリハーサルというのもあんまりやらないし、ちょっとした行き方とか、この曲とこの曲は続けてやるとかその程度のことをするだけで、「あとはお任せよ」って言ってたなあ。で、本番の時はどうなってもかまわない。予定は作っておくんだけど、でも、当人だって本番どうなるかわからないし、人が変な風になってもそんなことは全然問題にしなかった。
(略)
亡くなってしまったんだけど、ずっとマキさんのPAをしていた柴田徹さんという人がいてね。ものすごく優秀な人で、感覚的なところで素人というか、PAの専門家だったらどうしても今までの知識とか経験とかでこなしてしまうようなところを、いつも第一歩からやっていくんだよね。そこが素晴らしい。PAって音を電気的に処理するわけだからいい音になりようがないんだけど、柴田さんがやるとPAのない状態よりも自分のピアノとか周りの音が美しく聞こえるんだよね。そんなことは彼以外に経験がない。柴田さんの存在はマキさんにとっものすごく大きかったと思う。彼が亡くなったときはマキさんもずいぶんがっかりしたんじゃないかな。
――以前『ぐるり』のインタビューで「最近のマキさんはさらに良くなってきていて、うたっているようなしゃべっているような、そんな自由な感じがとてもいい」というようなことを言っていましたね。渋谷 そうそう。歌をうたっている状態から普通にしゃべる、普通にしゃべるのも、まったく普通にしゃべるのと普通にしゃべるようにしゃべるというのがあるじゃない。そういうのがいつも行ったりきたりしている、そんな感じなんだよね。聴いていると、どこが作ったものでどこが作ってないものなのかわからないんだよね。なんか、他の歌い手とは別の次元の人だね。普通は歌があって、それをうたっていますという感じがするものなんだけど、マキさんの場合は歌をうたっていますという感じがしない。歌とマキさんというものが一体化しているような感じがする。やっぱり、音楽はそういう風にならないと面白くないんじゃないかと思う。
(略)
あと、一緒にやるミュージシャンにとってマキさんという人はすごく貴重な存在なんだよね。マキさんと一緒にやると自分がすごく活きるわけ。たとえば、ぼくと一緒にやるとぼくがすごく活きる。それは近藤等則さんも言っていたし、この間山下洋輔さんに会ったときにちょっと話したら「そうそう、そうなんだよな」って言っていた。みんなそういうことは感じていたんだね。だから、マキさんと一緒にやるのはすごく楽しいという言い方はおかしいけど、すごく嬉しいんだよね。
(略)
――浅川マキさんの一番印象に残っている姿はどんなものですか?
渋谷 やっぱり歌をうたっているときが一番かな。あとね、ライブが始まる前の控え室なんかではすごくよくしゃべるんだよね。緊張しているせいもあるんだろうけど。だから、始まる前は黙っていることはなかった。
(略)









