ローリング・サンダー航海日誌:ディランが町にやってきた サム・シェパード

ジョニ・ミッチェル「コヨーテ」はローリング・サンダー・レヴュー参加中のサム・シェパードとの不倫を描いたもので、なおかつツアー中、ジョニはコカインにはまっていた、と今頃知りました。"prisoner of the white lines"って、そっちの意味もかかってたのね。というわけで、ジョニのことが何か書いてあるかなと、この本を読んでみました。

巻末の訳者あとがきを先に

(略)ボブ・ディランプリマスをかわきりにアメリカ東部とカナダの小さな街をまわるローリング・サンダー・レヴューというツアーをおこなった。(略)

一九七五年十月三十日から十二月八日までの第一期と、一九七六年にはいってから五月までの第二期のふたつの時期にわけておこなわれており、サム・シェパードは、その第一期のツアーに参加している。ツアーと並行して撮影される映画のためだった。

(略)

一九七五年の夏、ディランはジャック・レヴィといくつかの歌を共作した。ローリング・サンダー・レヴューでも、レヴィの果たした役割は大きかった。『オー、カルカッタ』などで知られる、オフ・オフ・ブロードウェイの舞台演出家であるレヴィは、六〇年代後半からサム・シェパードの作品を演出していて、彼とは親しい関係にあった。映画の計画をしているディランにサム・シェパードの名を教え、彼の詩を読ませたのも、レヴィだった。

 サム・シェパードがローリング・サンダー・レヴューの一員となったのは、映画の脚本を書くためだった。(略)撮影もおこなったようだが、いずれもうまくいかなかった。とちゅうで即興のシーンを書くこともあったが、ディランと意見があわずに採用されないということもあったらしい。(略)定評の確立した劇作家でありながら、なかなかその力を発揮することができず、本来は書くのが仕事でありながら、いくつかのシーンを即興で演じることに甘んじている。そういう状況に、彼はしだいにやりきれなくなっていったようだ。

 この九十八編の文章には、そうした複雑な思いを基調にして、ローリング・サンダー・レヴューというツアーやその人物たち、そしてアメリカという土地のさまざまな断片が切りとられている。

(略)

ただ事実を綴ったものではないことを書いておいたほうがよいだろう。(略)

コンサートの模様を書いている箇所についても、記憶の混乱のせいか、それとも作為的にだろうか、曲目から見て、ふたつのコンサートをひとつにまとめて書いている感じがする。散々ないわれかたをしているラリー・スローマンの話も、スローマン本人によるものとだいぶちがっている。シェパードはスローマンのことを書きながら、自分のことを書いていたのではないか、自分の一部をスローマンという形で表現したのではないかとも思える。そういうところには、あきらかに作家としての手法が感じられ、おそらくは、そういう形で表現するほうが、よりよく真実を語ることができたのだろう。

(略)

 ローリング・サンダー・レヴューと題したこのツアーは、いわゆるロック・ツアーとはまったくちがうものだった。この一行は、さまざまな個性が集まった大きな集団だった。

(略)

ジョニ・ミッチェルや、本書には出てこないがロビー・ロバートスンが登場した日もあった。コンサートでは、もちろんディランが中心ではあったが、エリオット、ニューワース、バエズ、マッギン、さらにはストーナー、バーネット、ソールズ、ブレイクリーもヴォーカルをとって歌った。ディランがニューワースやバエズとデュエットした歌もあった。つまり、このコンサートは、ディランひとりではなく、ディランを中心に大勢のミュージシャンが共同してひとつのステージをつくりあげるという性質のものだった。しかも、最後のマディスン・スクエア・ガーデンをのぞいて、すべて収容人員が数千人という小さな会場、ステージは通常のコンサートのスポット照明ではなく、全体に明るい照明があたってリヴィングルームのような感じだったという(略)

しかも、訪れる街、コンサートの場所は、ぎりぎりまで発表されなかったし、興行の運営もアマチュア的なやりかたでおこなわれた。

(略)

それは、原点に立ちもどろうとする試みだったのだといわれている。大昔、旅まわりの一座が歌って踊って、人々と直接ふれあうことができたように、小さい会場で、大勢の人間とともにステージに立つことで、疲弊したロック・コンサートという場を、撥剌とした相互作用(略)の場、自然発生的な創造の場としてつくりなおす、あるいは発見しなおす試みだったのだ。たしかに、このツアーの前におこなわれたザ・バンドとの全米アリーナ・ツアーについて(商業的には成功をおさめたツアーだったが)、ディランはのちに不満足感を表明している。

(略)

全員が新しい試みに興奮し、エネルギーに満ちあふれていた。(略)

まもなく迎える建国二百年記念日に沸いていたアメリカの、それも建国ゆかりの東部の街をまわるというアイデアも、原点に立ちもどり、アメリカを、自分を再発見するという意味がこめられていたのかもしれない。しかし、こうした画期的な、ロマンティックであるともいえる試みは、採算面や運営の面ではうまく行かず、一九七六年の第二期ツアーとなるとこの方針は揺らいでくる。会場はアリーナ規模となり、また第二期の終盤では、ディラン自身の熱意も薄れてきたようだった。

(略)

 このツアーの様子をつたえるものとしては、ボブ・ディランのライヴ・アルバム《Hard Rain》(第二期ツアーの演奏)、映像としては映画『レナルド&クララ』(第一期ツアー)、テレビ・スペシャルとして放映された『ハード・レイン』、TVスペシャル用に最初に収録されたが、ボツになったクリアウォーターでの演奏の模様を映したもの(ともに第二期ツアー)がある。この三種の映像のヴィデオは、公式に発売されているわけではなく、ブートレグ・テープという形で出まわっている。

 第一期のツアーは、原点に立ちもどり、その場でエネルギーが発生するというすばらしいものになった。そしてもうひとつ、この第一期ツアーをユニークなものにしたのが、映画だった。並行して映画の撮影がおこなわれているということが、ツアーの雰囲気をさらに興奮に満ちたものにすると同時に、多忙さや混乱さをつけくわえたのだ。この映画には、上記のコンサートの人員のほか、デイヴィッド・ブルー、ロニー・ホーキンズらのミュージシャン、詩人のアン・ウォルドマン、さらにはハリー・ディーン・スタントンなどの俳優たちが出演している。サム・シェパードもすこしだけ映っている(それが監督のテレンス・マリックの目に止まったのがきっかけとなって、一九七八年の映画『天国の日々』に出演することが決まったという)。

(略)

『レナルド&クララ』はアメリカではまったく評価されなかった。しかし、ヨーロッパではかなり評価され、のちにはテレビで放映されたりもした。アメリカでの不評の理由は、それが従来の映画という概念からはまったくかけはなれていたせいだった。

(略)実験映画、あるいは映像作品というものに理解がない、いいかえれば、映画に対する固定観念が大きいためだった。

(略)

『レナルド&クララ』は、ふつうの映画とはまったくちがう方法でつくられていた。撮影の場面では、何らかの場、状況が設定されたあと、役を演じる者たちは決められた台詞を語るのではなく、大まかな方向とキーとなる用語をあたえられ、それを自分のことばで即興で語る方法がとられたという。したがって、役の台詞を語っていながら、実際は自分のことを語っていることになる。サム・シェパードが、それにどの程度関わっていたのかはよくわからない。撮影が進むにつれて、映画が分裂して、何をやっているのかわからないとサムが書いている箇所がある。それもおそらく、そういった変わった方法のせいだったろう。ディランをのぞく全員が行く手を見失っているような状態だったのではないだろうか。

 しかし、この映画が変わっていたのはそれだけではなかった。ディランは撮影したすべての映像(コンサートの映像もふくめて)を、テーマ別、基調となる色別などさまざまに分類してインデックスをつけ、それを彼にしかわからないやりかたで再び構成した。そこでは、たくさんの映画の通常の論理が破られていた。たとえば、できごとの前後関係は無視されていたし、別の場面の音がかぶせられた場面や、バックの音楽が大きすぎて台詞がほとんど聞こえない場面があった。また、ひとつの役をふたりの人物が演じていることもあった。この映画をどのように評価すべきなのか、いまのところわたしにはわからない。ただし、それを断片的に楽しむことができる。演奏の場面はもちろんだが、ほかにもいくつかおもしろいところがある。しかし、わたしも、映画に対する固定観念に縛られているようだ。知らないうちに、この場面はどういう意味があるのか、登場してくる人物に、シンボルにどのような意味があるのかなどと考えてしまう。ただひとついえるのは、ディランは音楽をつくるように映画をつくろうとしたのではないかということだ。わたしには、登場人物、度々登場するシンボル、テーマが、ギターやドラムなどの楽器、あるいはそういう楽器がつくるリフのようにあつかわれているように思える。そう、音楽を聞くときには、ストーリーがどうのこうの、意味がどうのこうのとは考えない。ただ感じるままに感じとる。意味を考えるのではなく、意味を(それがあるとすれば)感じとる。きっと、この映画も、そういうふうに見るべきなのだろう。

(略)

 ディランは最初から映画をこうしたものにしようという気持ちでいたようだ。本書の初めのほうで、サム・シェパードがディランと初めてあうところがある。そのとき、ディランは彼に「関連性をもたせる必要はない」と語っている。また、もうひとつ、ポール・ウィリアムズが書いているところによると、ディランが映画をつくりたいと思いはじめたのは、一九六六年ツアーのドキュメント映画《Eat the Document》を編集したとき(略)材料となる映像に大いに不満を持ったという。そしてこの映画のときには、最初からたくさん材料を集めようという意図があったようだ。

(略)

 ローリング・サンダー・レヴューのあと、一九七八年のツアーではディランはふたたびアーナ・ツアーをおこなう

(略)

 ディランはライヴで演奏することを愛し、それが自分にとってはいちばんたいせつなことだと考えるアーティストだ。レコードをつくるのは、そのためだと発言したこともある。そして同時に、彼にはつねに、自分はこうやりたい、こうやらなければならないというものがある。それは、人がどのような期待を持っているかということとは関係がない。(略)

ディランの場合はそういう妥協を自分に許さないことが多く、その結果コンサートが戦いの場となることが多かった。少年ころ初めて人の前で音楽を演奏したとき、大きな音を出しすぎて電源を切られたのに、それでも演奏をつづけた話。一九六六年のイギリス・ツアーの、エレクトリック演奏に対する敵意のなかでのコンサート。一九七九年のゴスペル・ツアーに対する非難。とくにアリゾナ州テンピのコンサートは、つたえきくかぎりではまるで喧嘩のようだ。しかし、それでも彼は演奏をつづける。そこには、アーティストとしての自分がなすべきことを追求し、人々の期待の奴隷になることを拒否する真摯な姿勢が感じられる。しかも、彼は直感的に、その行動をとる。このローリング・サンダー・レヴューもまた、既成のロック・ツアーに反抗する場であった。そのディランは一九八八年からネヴァー・エンディング・ツアー(終わりのないツアー)という名のツアーをはじめ、現在もそれをつづけている。(略)

できるかぎり大きな会場を避け、いっさいの趣向を排して、少ない人数の基本的な構成のバンドをバックにして、自然な演奏をおこなっている。一九九二年にわたしが見たパンテージ・シアターの収容人員は二千人ほどだった。

(略)

一九九三年夏 菅野彰

ディランから電話

 ジョニー・ダークが運転している。(略)

「ディランはもう、六〇年代にやったみたいなことをやってくれそうにはないな」ふいにジョニーがいう。「(略)ディランの時代はもう終わったんだと思う」(略)

ディランのことは遠いまぼろしのように思える。

(略)

「ディランはいまでもいい歌を作るが、昔のようじゃないってことだ。『みんなストーンするべきだ』がジュークボックスにちゃんとあったんだ。(略)チーズバーガーを食いながら、おおっぴらな場所であの歌を聞けるなんて信じられなかった」

(略)

[家に戻ると]テーブルの上に緑色のメモがある。「ディランから電話あり――かけなおすとのこと」

(略)

電話をしてみるが、ディランはいない。かわりに、電話は秘書、弁護士、会社重役へとまわされる。

(略)

「(略)ご説明いたします。ボブは秘密の北東部ツアーを計画しています。彼はそれをローリング・サンダー――ローリング・サンダー・レヴューと呼んでいます

(略)

彼はツアーの映画を撮ろうとしていて、脚本家を探しているんです」

(略)

「たいへんにプレッシャーの大きい状況になります。プレッシャーのなかでの仕事には慣れておられますね?」

「ええ、ええ、だいじょうぶです。(略)」

「けっこうです。いつ出発できますか?」

 結局、こういうことなんだ。ディランが呼べば、人はすべてを捨ててとんでいく。セイレンの魔力にひきよせられるように。(略)

ルー・ケンプ

 商売は魚屋。ロックンロール業界で作戦を展開していないときには、アラスカで鮭の缶詰製造業に専念する。ローリング・サンダーの運営を指揮するために招かれた、ディランのミネソタ時代の幼友達。(略)

関連性をもたせる必要はない

 マンハッタンのミッドタウンの夜。

(略)

インド香の強烈な甘いにおいがたちこめている。大きな青いノートにメモをとっている魔術師マーリンのようなアレン・ギンズバーグ

(略)

ボビー・ニューワースが六〇年代の昔のよしみでぼくに挨拶する。

(略)

ジョーン・バエズがなつかしいブガルーを踊る。彼女の姿はすばらしい。ぼくはいままで彼女をセクシーだと思ったことはないが、いまは確実にセクシーだ。

(略)

奥の部屋にはいると、そこに彼がいる。(略)

彼は青い。(略)目から着ているものまで、何もかもが青だ。彼が最初にぼくにいったことば。(略)「関連性をもたせる必要はない。ほんとうのところ、関連性のないほうがいい」ぼくは(略)生半可な「シュールレアリズム」のようなものを想像しはじめる。

(略)

彼のうしろでは、ハリケーン・カーターの歌の共作者のレヴィが受話器を口に押しつけて、名誉毀損で訴えられるかもしれないという歌詞について、弁護士と激しくやりあっている。

(略)

「『天井桟敷の人々』を見たことがあるか?」と彼は訊く。見るには見たが、遠い昔のことだとぼくは答える。(略)「それでは『ピアニストを撃て』は?」

「ええ、それも見ました。ああいう種類の映画をつくりたいのですか?」

「そんなところだ」彼は向きをかえ、自分の足を見てうなずく。このとき初めて、ぼくは彼の沈黙の才能を実体験する。すき間を埋めようとはせず、ことばをちゅうぶらりんのまま空中に放りだし、こちらの頭のなかでそれが再生されるのを待つ。ぼくは、ホテルのバスルームでランブリン・ジャックのシーンを撮影する計画があることを話す。一瞬、ディランの顔が明るくなる。

「ぼくは、この街を出るまで待たなくてはならない。いまはただ、ここからぬけだしたい。旅に出たなら、映画のことをもっと考えられるだろう。いまはただ、ここを出るのを待っている」

ミック・ロンソン

イギリスのギターヒーロー。すべての母親が娘に近づくなと忠告するタイプの男。山火事のようにローリング・サンダーを襲った「化粧熱」の中心的煽動者。バン、バン!

ユダヤ人女性たちの麻雀大会

 マサチューセッツ州ファーマスのシークレスト・ホテル。(略)中年をすぎた大勢のユダヤ人女性が(略)白熱したマージャン大会のまっ最中(略)

ホテルの支配人が「アメリカ最高の詩人アレン・ギンズバーグ氏!」による特別な詩の朗読があると発表

(略)

母親たちの反応は、アレンの朗読が進むにつれて、忍耐強い黙認から当惑したしのび笑いへ、率直な嫌悪へと変わる。アレンの低いうなりのようにひきのばされる母音のサウンドが、ますます悲しげに、ますます執拗になる。ディランはうしろのほうで壁にもたれてすわり、目を帽子で隠して静かに聞いている。ぼくはプロテスタントの環境に育ち、そのせいでここの空気には理解できないものがあるが、それが爆発に近づいているのはわかる。世代にまつわる何か、母親にまつわる何か、ユダヤ人であることにまつわる何か、ユダヤ人として大きくなることにまつわる何か、「カディシュ」にまつわる何か、祈りにまつわる何か、あるいはアメリカにまつわるといってもいい何か、詩人と詩人のことばづかいにまつわる何か、とりわけ生まれついた宗教の外側に、ひとつの人格を創造したディランにまつわる何かがある。放浪する詩人としての自分を自分でつくりあげ、そしていま自分の起源、自分が継承したものに対面してすわっているディラン。それらの起源を自分のなかに受けいれ、それを対極の場所へ運び、東洋神秘主義、ヘルズ・エンジェルズの瞑想、LSD、政治、ことばの音楽から成る奇妙な混合体につくりかえたギンズバーグ。婦人たちはつづけて聞いている。海辺のリゾートホテルにとじこめられて。逃げだすためにやってきた場所で、彼女たちはとじこめられている。アレンはさらにつづける。(略)

壮大な詩が「癌」の箇所からフィナーレに進むと、婦人たちは顔をしかめる。詩が終わると、意外にも拍手が起こる。アレンは彼女たちに礼をいって壇をおり、早足で去る。ジョーン・バエズが紹介され、安堵の歓迎を受ける。彼女はアカペラで「揺れるよ、幌馬車」を歌い、婦人たちは熱狂する。天才児のデイヴィッド・マンスフィールドが小公子のように見える姿で、フィドルを持って壇に上がり、クラシック・ヴァイオリンのテクニックでみんなを感動させる。彼の表情は変わることがない。バンドといっしょにすばらしいスライド・ギターのリフをひいているときにも、表情はおなじだ。それは、聞いている表情。自分の音楽にこめられたものに懸命に耳を傾ける表情。彼は確実に第一級のミュージシャンだ。そして大型爆弾が登場する。ディランが舞台に上がり、長いあいだ中流階級好みの三〇年代、四〇年代のビッグバンド・サウンドを演奏するためだけに使われてきたおんぼろの古いアップライトピアノに近づく。彼はすわり、細い指を鍵盤に突きさし、激しい調子で「運命のひとひねり」をひく。これこそディランの本領。彼はこれで場に火を放つ。五分もたたないうちに、会場は熱い炎に包まれる。ご婦人たちは飛びはねて、コルセットのなかでからだを揺する。ピアノ全体が揺れて、木製の舞台からころがり落ちそうになる。ディランのカウボーイブーツの踵が床にくいこむ。ロジャー・マッギンがギターをかかえて現われ、ニューワース、それにバンドの全員がくわわって、やがて会場の空気の分子のすべてが爆発する。これこそ、ディランの真の魔法。すこしのあいだ、彼の歌詞づくりの才能のことを忘れ、彼が持つこの変容のエネルギーに目をむけよう。ついさっきまで、この場所には緊張と戸惑いがみなぎっていたが、彼がそれを追いはらった。部屋に熱っぽい高揚した感覚を吹きこんだ。人を行きどまりに追いやるエネルギーではなく、勇気と希望と、そしてとりわけ生命力を人々のなかからひきだす種類のエネルギー。

ロックンロール天国

(略)ストーナーのお気に入りはジーン・ヴィンセント、Tボーンのはバディ・ホリー。(略)

ぼくたちは「ロックンロール天国」のシーンを撮影する。(略)

Tボーンが扮する「バディ・ホリー」が登場し、自分がヒーローと仰ぐジーン・ヴィンセントがさきに到着しているのを知って、ショックを受ける。

(略)

 ここから、おもしろい実験映画的な試みがはじまる。練りあげられた脚本、あるいは撮影のシナリオといったようなものをつくるという考えは、もうなくなっている。ミュージシャンたちには、あき時間をつかって台詞をおぼえて自分を参らせる気などまったくないのが明白だからだ。彼らはリハーサルをするかコンサートをするかジャムをするかして夜をすごし、朝の六時か七時には宿を出発する。ふたり以上のミュージシャンを同時にカメラの前に立たせることもむずかしい。だからぼくたちは、大ざっぱな設定だけを決め、あとは即興のシーンを撮ることに決めた。このときには、一行の全員が、Tボーンとストーナーがこの場面を撮影しているのを聞きつけて、集まってくる。突然、バエズが赤いかつらをかぶり、ホットパンツにブーツという姿で、口いっぱいにガムをほおばって現われる。ジーン・ヴィンセントに熱をあげるグルーピーに扮している。ニューワースは、鞄にいいものを詰めこんだドラッグ・ディーラーみたいななりではいってくる。彼はいくつもの壜をあけ、ビタミン剤をべランダにまく。「あなたのために催眠剤をお持ちしました。ハンクのお好みです。こっちの袋はカリフォルニア式トリップ剤です」そこいらじゅうに錠剤が飛びちっている。場面はますます白熱し、登場人物の動きが激しくなり、やがてハンディカメラが追いきれなくなる。たくさんのことがいちどきに起こりすぎている。砂浜で午前中の散歩をしていた年配の男女が、事態に目を丸くする。泳いでいた人たちが、何ごとかたしかめようとしずくをたらしながらやってくる。シーンの指揮をとることも、カメラのアングルを調整するために動きを止めることもできない。いっときに吹きだしたマルクス・ブラザーズ的なもの。何をする術もなく、ただ流れにまかせ、いま感じているすてきなものを伝えるよい映像がフィルムにおさまっていることを願うしかない。やっとすべてが静まり、極彩色のビタミン剤と赤いかつらとドライヤーという痕跡を日のあたるなかに残して、全員が昼食にむかう。

Tボーン・バーネット

 気のきいたことばとは無縁のTボーン・バーネットがぼくのうしろをうろついている。彼には独特の狂った感じがある。ツアーの一行のなかでは彼だけが、自分の暗く激しい面をうまく抑えていないように見える。彼が恐ろしい人間だというのではない。ただひどく変わっている。ぼくは、ディランが吹きあれる竜巻のように「激しい雨が降る」を歌っているリハーサル場に顔をむけ、前かがみに籐椅子に坐っている。Tボーンは十フィートごとにUターンをし、ぼくのうしろを往復する。トニー・ラマのカウボーイブーツの踵を百八十度回転させてかがみこみ、顎をぼくの首のすぐそばに持ってくる。ぼくは動かない。ロワー・イーストサイドで強盗にあったような気分だが、彼のことばに耳をかたむける。テキサス訛りが耳の骨を押しつける。「あの人のおかげで、おれは誇らしい気分がする。最初のスーパースターだ。彼はおれに生きる理由をあたえてくれた。いまはもう、一日に十回撃たれたっていいぐらいの気分だ」Tボーンはもう一度むきをかえ、暗闇に消える。

墓の上で歌う

墓の上で歌う 十月、ロウエル

 アレンはケルアックのお気に入りのシェイクスピアの一節を引用する。「わたしのいない冬がどのようであったか……わたしがどのような寒さを味わったことか、どのような暗い日々を見たことか!なつかしい十二月の荒廃がいたるところにある!」彼が死んだのは年の終わり近くだった。裸の木々、吹きだまった枯れ葉の毛布。ディランとギンズバーグは脚を組んで地面にすわり、草になかば埋もれた大理石の小さな墓碑にむきあう。「タイ・ジャン(リトル・ジャック)、ジョン・L・ケルアック、一九二二年三月十二日生、一九六九年十月二十一日没。彼は生を全うせり。妻、ステラ、一九一八年十一月十一日生」ディランはマーティンのチューニングをし、ギンズバーグは小さな靴箱型のハーモニウムから芝生にひろがる音を出す。やがてふたりが交替で一番ずつ演奏するうちに、スローなブルースが形をとりはじめ、そしてアレンが即興の詩を語りはじめる。大地に、空に、この日に、ジャックに、人生に、音楽に、虫たちに、埋められた骨に、旅に、アメリカ合衆国に捧げる即興詩だ。ぼくは正面からふたりを見ようとする。ふたりがどういう人物であるか、ふたりが何であるかを考えず、ただ自分の前にいるふたりを見ようとする。彼らが、心に目的を秘めた単純な男たちに見える。ふたりはたがいに対立し、それでも調和している。生き生きと、死者と生者に歌を捧げている。木の下の大地、いくつもの骨の上の地面にすわりこみ、聞こえてくるものを聞いている。

ディランは自分自身を発明した

 ディランは自分自身を発明した。彼は何もないところから自分をつくりあげた。自分のまわりにあったもの、そして自分のなかにあったものから、自分をつくった。たいせつなのは、彼がどういう人間かを知ることではなく、そのままの彼を受けいれることだ。どちらにしたって彼はきみをとりこにする。だったら、受けいれるほうがいい。自分を発明した人間は彼が最初ではないが、ディランを発明したのは彼が最初だ。彼の前に、それをしたものはいなかった。彼のあとにもいない。人が自分の外側に、飛行機や貨物列車みたいに何かをつくりあげたときに、何が起こるのか?みんなが、その人のありのままの姿を見るようになる。それまでに見たことがないから不思議なものとして見られるが、それは受けいれられ、その過程でみんなの人生を変える。みんなは、それがどんなものなのか、どんなものでないのかをつきとめるのに長い時間をかけたりはしない。みんなは、それをつかって自分の冒険をする。

ペダル・スティールのいたずら

 バンドがのんびりしたカントリー曲をやっている。リハーサルとは呼べない。なぜなら、みんながこれをとても楽しんでいるから。ディランは古いひじかけ椅子にすわり、レバーソーセージを噛んで遠くからバンドをながめる。コードチェンジにあわせて首をふっている。ある者はすわって食べ物を口に入れ、ある者は高額の金を賭けてコンピューター・ピンポンをやっている。(略)

ふいにディランが立ちあがり、レバーソーセージをおき、すたすたとひく者のいないスライドギターのところへ行く。椅子にまたがり、舌をのぞかせて、重たいクロム製のバーを持ちあげ、曲にあう音と音階を探そうとする何人かがふりかえるが、だれもあまり期待していない。ハワイアンギターはディランの得意とするところでない。バンドは演奏をつづけ、ディランは音を探しつづけるが、音は高すぎたり低すぎたりする。バンドがやっている演奏全体をぶちこわさないよう、音量は下げてある。ディランは背を大きくまげてスティール弦をのぞきこむ。修理工が小さな外国製の車からエンジンをとりだそうとするかのように、すきまのどこかに何かがあるのを見ようとするかのように。約十分間、熱心にそれをつづける。いまにも彼が天才的なひらめきで、すべてを発見しそうに思える。しかし実際には、彼は大きく息を吐いて背をうしろへそらし、音量を上げ、でたらめのジョン・ケージ的な音を放つ。バンドはすこしも騒がず、それにあわせる。ディランの手は弦の上をすべり、もういっぽうの手は遠くにある冷えた中華料理をつつくように弦をピックする。ニューイングランドのジャズ・ジャンバラヤ・ロックンロールが耳をつんざく唸りをあげるなかで、ピンポン・ゲームがつづく。

名高いカーテン・トリック

(略)[第一部が終わり]幕が下りて、休憩にはいる。(略)

[15分の休憩後]突然、場内の明かりが暗くなる。客は歓声をあげる(略)二本のアコースティック・ギターの音が聞こえる。どこから聞こえてくるのだろう?(略)

幕はおりたままだ。やがてだれが歌っているかがわかる。まぎれもなくディランだ。しかし女性はだれなのか?そして客は一瞬のひらめきでそれを理解する。

(略)

あの高くて女らしい声がディランのバックで歌っている。ただ歌うのではなく、ディランとひとつの声になっている。マーティン・ルーサー・キング、ワシントンDC、一九六四年、ケネディ、バーミンハムの光景、あの十年間のさまざまなイメージの洪水が、「風に吹かれて」のことばにのって押しよせる。幕がゆっくりとあがり、ふたりが現われる。アメリカという壮大な詩の右手と左手のようなディランとバエズが現われる。そのまま聴衆は心を深くとらえられる。感情が大きく轟き、ディランとバエズの歌声は聞こえない。拍手の洪水のなかで、ふたりはパントマイムをする。バエズの姿はすばらしい。黒いヴェルヴェットの上着を着たスポーツ選手のようで、メキシコ系の漆黒の髪をフォーク時代よりずっと短くカットしている。ほかのだれもおよばないほど完璧に、ディランとひとつになっているように見える。まるで、前にその横に立ったことがあるから、彼の動きのすべてがわかるのだというように。彼女の場合は、ディランの口許をみつめなくても、突然ことばの区切りかたを変える歌いかたについていける。彼女はそれをからだのどこかで知っている。

ジョニ・ミッチェル

 ただステージに出ていく人、ギターひとつとベレー帽とことばのコラージュの歴史だけを携えて、ステージに出ていく人がいる。どのときも、場内は山火事のように熱い煙をあげる。ジョニ・ミッチェルはステージに立ち、すでにチューニングしてあるギターをあわせるふりをして、みんなが静かになるのを待つ。会場がこんなに沸くのは、彼女の参加を知らなかった聴衆がおどろいて喜んでいることも理由のひとつだが、もっと大きな理由がある――それは、彼女が歌うことばのひとつひとつに、みんなが耳を傾けているという事実だ。彼女の音楽はすさまじいという種類のものではないが、そのことばのあつかいかたは超人的だ。「わたしの頭は困惑と強い、強い、強い渇きでいっぱい」彼女はユニークなジャズ構成に歌詞とリズム・パターンを合体させ、それで大衆の耳に噛みつくことに成功しているように思える。

秘密会議

(略)

 ぼくは暗いダイニング・ルームでルー・ケンプひとりを相手に「映画を軌道に乗せるために何が必要か」に関する秘密会議をしている。彼の考えは、コッポラかオーソン・ウェルズを呼んできて、撮影のすべてをまかせることだ。「わたしたちは大物をねらっているんだ。わかるかね」わかりはするが、ぼくは賛成できない。

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ザ・ソングライターズ 佐野元春

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松本隆が「1969年のドラッグレース」は大瀧への別れの手紙と語る一方で、大瀧詠一は『「まだ終わりじゃない」というようなことを彼は言いたかったんじゃないですか。僕は終わるつもりだったんですけどね。』。

松本隆

松本 当時は、とにかくロックのビートには日本語は合わないと言われていて、じゃあ英語で歌うか、どうしようかと考えていた。それで、はっぴいえんどの前身である"エイプリル・フール"というバンドをやっていた時は、細野さんたちに押し切られる形で英語でやっていた。でも結局、英語でやるとオリジナルなのにオリジナルじゃないような、他人の音楽みたいに感じられて「これで本当にいいのかな?」とずっと疑問に思っていた。だから次にやるバンドでは日本語でやりたいと思い、細野さんと話していったんだけど、彼のなかではやっぱり英語で歌っていないとワールドワイドになれないという気持ちが強くて。でも、日本でも有名じゃないのに、どうしていきなり海外で有名になることを目指さないといけないのか、順番としてはまず日本じゃないか、と。そこで「ジョン・レノンだったらどうするだろう?」と想像した時、ジョン・レノンだったら英語以外ではつくらないだろうと思った。だからやっぱり日本語でやったほうがいい、日本語を通して自分が何を表現したいのかということを、音楽と詞のなかに含めたほうがいいんじゃないかという結論に至った。それが僕の論理。

――わかります。そうすると、はっぴいえんどという実験の場において日本語を試そうという提案をしたのは松本さんだったという理解でいいのでしょうか。当時、大瀧さんはどうだったのですか?

松本 大瀧さんも英語でやりたがっていたね。(略)

当時は、練習なんてせずにずっとみんなで会議ばかりしていて(略)

どういう形でオリジナルをつくったらいいのか。僕は、日本語はロックに合わないといっても、これまでに実例がないわけだから、やらずに諦めるのはダメだと思っていた。やってみて玉砕するならしょうがないけど、まずは一度戦ってみようと。そういうことをみんなに言っていた気がする。みんなは松本に騙されたと思っていたかもしれないけど、そもそも僕に詞を書けと言ったのは細野晴臣だから。

(略)

[はっぴえんどは、詞先、メロ先どっち?]

松本 当時はメロディ先行ということはなかった。曲から先につくっていくというシステムをつくったのは、僕が想像するに、たぶん筒美京平さんだと思う。欧米でも詞が先だと、当時デイヴィッド・フォスターに言われたことがある。(略)

だから、詞を先につくるというやり方にみんなも早く戻したほうがいいと僕は思う。

(略)

最初に詞を書いて、喫茶店なんかでメンバーに配るんだけど、すぐにパッと曲がつく時もあるし、煮詰まっちゃう時もある。すると、大瀧さんと細野さんが詞を交換して曲を考えたりしていた。一番揉めたのは「風をあつめて」と「暗闇坂むささび変化」かな。「風をあつめて」は、元々は「手紙」という歌だったんだけど、その歌詞のなかで"風をあつめて"という部分だけが残ったの。

(略)

自分には予知能力があるんじゃないかと思っていて。「風をあつめて」で描いているのは今の芝浦あたりの風景なんだけど、当時は倉庫ぐらいしかない、何もない場所だった。そこに今は"摩天楼"が建ち並び、"海を渡る露面電車"、つまり「ゆりかもめ」が走っている。現在の風景に歌詞がフィットしている。

(略)

[『NIAGARA TRIANGLE』をめぐって]

松本 大瀧パートの作詞をやったんだけど、あの時の僕は半分壊れていたというか。(略)『A LONG VACATION』が当たって、寺尾聰さんの『ルビーの指環』が当たって……ちよっと自分の身体がもたなくなってきていた。(略)自分が何かの中心になってしまったという感覚があった。でも僕は基本的にはサブカルチャーの人だから(略)いきなり自分が真ん中になってしまうと、すごく居心地が悪かった。

(略)

[Vol.2に]「白い港」という曲があるけれど、あの歌詞は壊れているよね。(略)

ああ、壊れた時の僕だな、と思う。

(略)

――松本&大瀧コラボレーションというのは『EACH TIME』を最後に止まっていますが、いつかこの先はあるのでしょうか。

松本 ないと思う。だから「1969年のドラッグレース」は、別れの手紙だね。そういうことを僕は時々やる。ピリオドを打つ自分がいて、それを受け取る人に歌わせる。屈折しているけれど。

――大瀧さんはそのことを知っているんですか。

松本 たぶん感じていると思う。でも、嫌だったら拒否するから。当然でしょうね。松本の歌を歌ったということは、僕の気持ちを了解したということだと思う。

(略)

松本 はっぴえんどは、量を最初から切り捨てていた。だからファンサービスも一切ゼロで、幕が上がるとつまらなそうに演奏をしていく。自分たちだけが透明なドームのなかにいるような感覚というのかな。だからなのか、楽屋で吉田拓郎が怖くて話かけられなかったというぐらい。(略)

だから受けなくて当たり前だったんだけど、最後の頃は世の中に受け入れられはじめちゃったから、居心地が悪かった。

(略)

松本 細野さんからも最初は「歌謡曲は嫌だ」と、「なんでそんな馬鹿らしいことを松本はやってるんだ。いつまで続けるんだ」みたいなことも言われたんだけど、頼んだら書いてくれた。イモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」が最初かな。細野さんも歌謡曲はどう書いたらいいかわからないから、シングルを買ってきて聴いてみたと言っていたね。

(略)

松本 ヘミングウェイなんかそうだけどね。あの人は虚無的だよね。僕はそこまでは行かないけれども、ニヒリズムというのはまだ浅い段階のような気がする。本当に深くなると、能に近いんだよね。(略)

日本の能はすごく良いところに行っていると思う。(略)

人間が何かを表現する時というのは、何かを動かさないと表現ができない。だから人間は目と口と耳で何かを表現しようとする。泣いたりわめいたり、テレビドラマだったら顔をアップで撮る。つまり、顔でほとんど表現する。(略)

能の何がすごいかというと、表現において重要な顔を仮面でまず閉じてしまう。仮面があると音がこもるから声での表現も制限されるし、もちろん視線や表情でも表現できない。その上、重い衣裳をつけるから動きも制限される。(略)

様々なことが制限された状態で、"悲しい"ということを表現できたとしたら、その表現は自然と深いものになる。

(略)

松本 僕は逆で、[ソングライティングにおいて]技術は忘れたほうがいいと思う。スキルは高ければ高いほどいいし、語彙も人の何十倍も知っているほうがよりアドバンテージとなる。でも覚えたあとは忘れてしまいなさい、という意味。ハウツーで書けることは人間の心理のなかでもものすごく浅いことだと思う。昔の人は心で書きなさいとか言うけれど、それも抽象的だから、いっそのこと忘れてしまいなさいと僕は言う。

――しかし、松本さんは商業音楽のフィールドのなかで常に売れる音楽と向き合ってきた。そして何が売れるかというのは……。

松本 良いものが売れる。

――それはご自身の技術ではないと言い切れますか?

松本 たぶん僕のスキルは高いよ。自分で言ったらいけないかもしれないけど。語彙も豊富だけれども、いつも真っ白。その真っ白なところが僕のいいところだと思う。(略)

ハウツーはすべて忘れる。以前「作詞の通信講座をやれば年収十億になりますよ」と誘われたことがあるけど、そんなのやりたくないし、人に教えられるものでもない。自分の才能を磨き続けるしかない。

―――(略)松本さんは誰のために詞を書いているのでしょうか。

松本 みんなのため。

――聴き手のため?

松本 聴き手とも限定したくない。だってパチンコ屋で流れるかもしれないし、ストリップ劇場で流れるかもしれない。僕が書いた詞を様々な場面で耳にするすべての人たちのため。

(略)

矢野顕子

――(略)矢野さんの曲によく出てくる言葉のひとつに"HOME"があります。(略)

僕の大好きな曲「Home Sweet Home」、ここでは〈壊した家を出たくせに 今 私達は新しい家をつくる〉。(略)

矢野 それ、とってもいい質問ですね。「Home Sweet Home」の、〈たとえ ひとりきりになったとしても Home Sweet Home〉。あれね、わたしの神髄かも。神髄とは言わないか。正直なとこかな。つまり"ホーム"というのは、家族ではないんです。家に帰ったら誰かが待っていて、カレーの匂いがして――というものにはわたしは価値を見出してないんですね。自分が自分であること、それを確立する場所というのかな。それは自我じゃないし、「俺をわかってくれよ」とか、「わたしってさ」とか、そういうのでもない。本当に人間としての"わたし"がちゃんといられる場所。すべての人がそれをひとつずつ持ってこそ、そういう人が集まったら家族になる。理想はね。でもこれは、わたし、日本人には最も難しいコンセプトかなと思うんです。どうしても全部なし崩し的に、女性は結婚して、子供ができて、そのうちおばちゃんになって……みたいな、自分自身は何者であるかということをあまり考えなくてもひとまずは生きていける社会なので。でも、そういう人たちの集まりでは本当のコミュニケーションというのは難しいかもしれない。人と人とが一対一で対峙していくことをしなくても生きられるこの日本という国には、わたしは暮らすのが難しいかもと思っちゃう。

(略)

鈴木慶一

――(略)[「スカンピン」]を書いた時の景色など、何か思い起こされるものはありますか。

鈴木 この曲のエンディングの部分、〈スカンピン スカンピン 俺達は〉は、はちみつぱいの時にもうできていたんです。(略)前半部分がまったくできていなくて。はちみつぱいは七四年の末に解散するんだけど、最後のコンサートで今言ったエンディングのリフだけで歌ったんです。そして、はちみつぱいが終わった。(略)

本来はちみつぱいでやろうと思っていたんだけど間に合わなかった。でもちゃんと曲にしたいと思い、一番、二番、サビを約一年かけてつくり、録音までこぎつけた。(略)

レコーディングしたのは銀座の音響ハウスだったね。この曲のイントロはフィラデルフィア・ソウル的なスタイリッシュなものにしたくて、白井良明に本物のシタールを弾いてもらったんだけど、それだと物足りなくて、エレキシタールをレンタルしてその音も入れたんです。数年前に白井にそのことを話したら、「まったく知らなかった。自分が弾いた音は消したの?」とひどく怒られましたね。白井のシタールにエレキシタールの音を重ねたわけだから、ちゃんと使ったんだけど。

――その「スカンピン」を収録した『火の玉ボーイ』が、"鈴木慶一ムーンライダース"のファーストアルバムということですね。

鈴木 そこが結構微妙なんです。最初はソロアルバムとしてつくっていたんです。普通はアルバムの発売前にジャケットのデザインもチェックするものなんだけど、なぜか自分でチェックしなかったんだよね。それで完成したレコードを見たら"鈴木慶一ムーンライダース"と書いてあったの。だから非常に曖昧な始まりだったんです、ムーンライダーズは。でもそれもいいかなと思って。自分がいつ音楽を始めたのか、いつプロフェッショナルになったのかも私は思い出せない。なんとなく「これは楽しいことだな」と思いながら始まって今に至っているような感覚だから、『火の玉ボーイ』がソロなのかバンドなのかも非常に曖昧なんです。(略)

曽我部恵一

――(略)[「あじさい」は]曽我部作品のなかでも僕は特に叙情を感じる歌詞です。この曲はどんな時にできたのでしょうか。

曽我部 僕が小学生ぐらいの時に亡くなったおじいちゃんの書斎に、いつだったか入ってみたことがあったんです。すると昔の日本の文学作品が本棚にたくさん並んでいて、そのなかから永井荷風の本をなんとなく手に取って読んでみたらとても素敵で。その本に描かれていた日本の大正や昭和初期の文学の叙情性や世界観を、ポール・ウェラーがやっていたスタイル・カウンシルサウンドを意識したスタイリッシュなソウルミュージックとミックスしたらどうなるだろう、と思いつくったのがこの曲です。

(略)

――「夏の夜の夢」(略)の歌詞はどんなことを思い書いていったのでしょうか。

曽我部 これは街の空気感の描写ですね。着想の元になったのはブルース・スプリングスティーンの『Born to Run』というアルバムです。言葉が本当にいっぱい詰め込まれていて、ひとつひとつでは意味を成さないんだけども、それらの集合体が時代の断面図として見えてくる表現が英詞の音楽では割と多くて。そういう手法で現代の東京という都会の夜を切り取ってみたいと思ったんです。

(略)

まず最初に〈舞台裏でさみしそうに唸るエレクトリックギター〉という一行目を書くわけです。それで韻も踏まなくちゃいけないので、次の行は最後に韻がくるように〈足元に星くず敷きつめて歌う夢を見た〉と書いてみる。そうするとなんとなくストーリーができてくる。それで三行目から〈朝が意識を取り戻すまでの短い今/青く輝く闇を抜ける長い旅に出た〉と続き、本格的にストーリーが始まっていく。そこから歌詞を書き継いでいくわけですけど、その間に飲み物を買いにコンビニに行ったり、散歩したり、食事しながら続きを考えていきます。(略)

この曲はそういうふうに三日ぐらい生活しながらつくっていった歌詞です。

なかにし礼

――そもそもなかにしさんがシャンソンを選んだ理由は何だったのでしょうか。

なかにし レオ・フェレの歌詩にもあるように、シャンソンには"詩人の魂"が満ちていると思ったんです。詩人の魂とは一体何なのかというと、人間は瑣末な欲望や事情、習慣、伝統、あるいは偏見といった様々なものが満ち満ちた世の中で暮らしているけども、そういったものに自分の心を売ることなく、空の上からそんな世界を俯瞰し、人間というものを歌い切っていくのだという意志のようなもの。それがレオ・フェレの曲にはあると思います。そんな彼のことをジルベール・ベコーエディット・ピアフ、ジャック・ブレルといった人たちは神のように仰ぎ、戦前から戦後までの十年、二十年といった間に様々なシャンソンの傑作を生んでいったんだと思います。

――なかにしさんがシャンソンの訳詩をやられていたのは一九五七年から一九六三年の間。二十五歳に至るまでに千曲ほど訳されたということですが。

(略)

なかにし 僕がまずシャンソンから学んだことは、訳詩をする上では原詩を理解することも必要だけども、先ほども話したように詩人の魂をまずは理解するべきだということ。そこを意識して毎日のように訳詩に取り組んでいました。(略)

もうひとつ学んだことがあります。日本の文化及び芸能の主流をなしている七五調というものがあります。これは日本人の情緒を捉える上では欠かせないものなんだけども、シャンソンのメロディに日本語を乗せていく作業を繰り返したことで、七五調の言葉でなくても日本人の心を動かすことはできるんだと知った。それはとても大きな経験でしたね。

――なるほど。では技術的な点ではどうでしょう。(略)

なかにし (略)歌は何のために歌われるのか、なぜこの歌が生まれたのか、ということが重要なのだとシャンソンから学んだのだと思います。訳詩をしながら、"なぜ歌が生まれるのか"ということを日々探り続けていったというか。日常生活のことでもいいし、終わってしまった恋愛のことやダメになってしまった世の中のことでもいいんだけど、それらに対してささやかながらも自分の魂が叫ばずにはいられない"Non!"という一言。その一言さえあれば歌は生まれるんじゃないか。そんなことを考えながら訳詩をしていました。

(略)

[石原裕次郎との出会い]

なかにし シャンソンの訳詩でお金を稼げるようになったのが昭和三十八年、大学三年生の頃。その時に若くて美しい子に目がくらんで結婚し、新婚旅行で下田のとあるホテルに行ったんですね。そうしたらそこで偶然にも大スターの石原裕次郎さんが『太平洋ひとりぼっち』という映画の撮影をしていたんです。撮影後に彼がホテルのロビーでお酒を飲んでいるところに我々新婚夫婦もちょうど出ていったら(略)

[裕次郎に呼ばれ]

退屈しのぎにロビーにいる新婚カップルのコンテストをやっていて、君たちが一番格好いい(略)「君たちがグランプリだから乾杯しようや」ということで、一緒にお酒を飲むことになったんです。(略)

「君は何の商売をして食っているんだ?」と訊かれたので、「シャンソンの訳詩で食べてます」と答えると、「あんなの訳して面白いか?」と言うので、「いや、面白いですよ」と。(略)

石原さんが「日本人なら日本の歌を書いてみなよ。俺がすぐに歌うわけにはいかないけど、とにかく応援するから」と言ってくれて。それで握手をして別れたんだけど、それ以降、ずっと石原さんの言葉が心に残っていて、どうもシャンソンの訳詩にも身が入らないんです。それでオリジナルの歌を書いてみたいなという思いが芽生えてきた

(略)

日本の歌謡曲がこれまで歌っていない何か特別なものをつくらなくてはいけないと思いながら必死でつくっていき、完成したものをテープに入れて石原プロモーションに持っていったんです。

(略)

[石原は不在で、専務が]「お預かりしましょう」と言ってくれて。それから一年ぐらい経った頃に、「お待たせしました。先日お預かりしたなかにしさんが作詩作曲なさった曲を、うちのタレントでレコーディングすることになりました」という電話をもらい(略)僕がテープに吹き込んだへなちょこな曲にしっかりとしたアレンジがついて、プロの歌手が歌うという場面を初めて味わい、その瞬間「歌を書くことはやめられそうにないな」と思いましたね。

(略)

「涙と雨にぬれて」は最初、石原プロダクションの裕圭子さんとロス・インディオスが歌ってくれて、そこそこ売れたんです。その後すぐに和田弘とマヒナスターズ、さらに田代美代子さんが歌いたいと言ってくれて、それが四十万枚のヒット曲になった。

(略)

――「涙と雨にぬれて」をきっかけに六〇年代半ばから一九七〇年にかけて、なかにしさんは二百八十以上の曲の作詞を手掛けていくことになります。(略)

なかにしさんが詩人としてこの時代[安保、ベトナム反戦五月革命etc]に何を思い創作に向かっていたのか、そこにとても興味があります。

(略)

なかにしも ちろんそうした気持ちは自分のなかにはあったけども、その頃は日本の歌謡界に大きな変化が起きた時期でもあったんです。それまでの歌謡曲西條八十古賀政男服部良一といった専属作家が各レコード会社で作品を書き、それを歌手が歌うということが主流だった。しかし、そうした先生方がつくる作品と時代の間にズレが生じてきて、停滞し始める。そこに外国からビートルズをはじめとした様々な音楽が入ってきたわけです。(略)

そうした音楽が当時の若者たちに受け入れられてヒットする(略)歌謡曲は、戦後の予定調和のなかで完結していく決まりきった物語のなかでしか歌がつくられていないわけなので、どんどん押しやられていく。そこにさらに反戦というエネルギーを持った若者たちの歌も登場してきた。そこで、外国から入ってくる歌に匹敵するようなパワーを持った歌を書いてくれよというレコード会社からの要望も踏まえて、我々のような若いフリーの作家が歌をつくることを頼まれるわけです。ですから、我々も先ほどおっしゃられたようなベトナム戦争などの社会情勢の影響や、それによって生じる作用も受けながら曲を書いていきました。つまり、日本語で書いてはいるけども、当時世界で流行っていたヒット曲と同じ精神性を持ってつくっていた。(略)

その時代において我々が書いた歌はしっかりと若者たちに歓迎されていたという手応えはある。欧米のビート音楽から強い影響を受け、音楽的なところだけでなく、歌詩の面でも僕らはとても影響を受けていた。それをデモという形で表現するのではなく、歌を書くことが自分の表現なわけですから、そのフィールドでできることをやっていたんです。

(略)

当時の僕らは、歌詩の舞台設定が時代劇や波止場で、自分の心を託すモチーフがカモメや風であるというような、日本人特有の情緒を七五調で書くことで完結する音楽表現に大変な不満を持っていたんです。たとえば、西條八十という詩人は自分で詩を書く時には自由律で書くのに、歌の歌詩を書く時には七五調になる。つまり、歌というのは七五調でないと人の心に届かないという偏見、間違った考え方、あるいはそうした定説とでもいうようなものがあった。それはある意味では大衆をバカにしているようなことだし、別の角度から見れば、大衆の心を掴むためにはそういう手法しかないんだと迎合していたとも解釈できる。そうしてつくられた音楽が主流だった時代の終わりに我々が登場し、"和製ポップス"と呼ばれるようになり、レコード界を席捲していくことになった。

(略)

それまでの歌謡曲では主人公が自分のことを"私"と言ったり、誰かのことを"あなた"と言うことがほぼなかったんです。"あの子"みたいな言い回しはあったかもしれないけども、"私"と"あなた"という人間が対峙して会話を交わすような場面は歌謡曲では描かれてこなかった。そうした描写を僕らの世代から始めたというのはひとつ画期的なことだったと思います。(略)

経済が成長し、外にある鉄の階段をカンカンカンと上って部屋に行くようなアパートでの生活が可能になった。それは歌の歌詩に変化をもたらしたひとつのきっかけだったと思います。戦後に出た灰田勝彦の「東京の屋根の下」(略)〈東京の屋根の下に住む若い僕等はしあわせもの/日比谷は恋のプロムナード〉と歌われている。つまりみんな行くところがなくて街中を歩いていたんです。黒澤明の『素晴らしき日曜日』に出てくる恋人たちも恋を語りながら街を歩いている。みんなどこにも行くところがなかったわけです。でも戦後から時間が経ち、アパート生活が可能になってくると、恋人たちは同棲生活を始める。一対一で対面する場面が生まれたことが、歌の世界そのものを変えていったように僕は感じた。当時は、小さなアパートのなかで"私"と"あなた"である恋人同士が、どれぐらいの大きさの声で会話をしているのかということまで考えながら歌詩を書いていた記憶があります。

(略)

[デューク・エイセス「ハルピン1945年」]

なかにし (略)僕の考え方の核には"異邦人意識"というものがあります。(略)[旧満州で生まれ]そこで戦争を体験し(略)避難民生活をし(略)父を失い、戦争の翌年の秋に日本に引き揚げてきたんです。祖国である日本で暮らし始め、自分が旧満州の生まれであることを忘れようとしても、周りがそうさせてくれない(略)「満州満州」と呼ばれるわけです。(略)

僕は早く日本人に同化したいし、愛されたいという思いを抱いていたんだけども(略)[日本人の]仲間意識、同族意識満州から帰ってきた僕らに冷たく向けられる。(略)

満州で暮らしたことで中国人のことも理解したし、自分が日本人であることも理解した。つまり国境を越えても人間同士がいかに変わらぬものであり、また変わってはいけないものであるかを理解したわけです。ずっと日本にいた人が経験し得ないようなことを僕は若い頃にたっぷりと経験し、生きていることに感謝し、日本に戻った。そこで冷たくされたことによって、僕は逆に鍛えられたと思う。

(略)

――(略)[なかにしさんの]歌のなかに登場する男性女性に共通しているのは、流浪の魂、さすらう者の憂いのようなものだと僕は感じました。

(略)

なかにし (略)それ以外の歌は書けないだろうと思います。歌を書く時にはいろんな注文に応じて書いていきますが、書く瞬間からは自分自身との対決になるわけで、そうなったら人様の意見なんて実はもう関係ない。少しでも誰かの意見なんかが入ってきた瞬間、歌そのものが汚れてしまう。結局、自分自身がこの世界のなかでどのように言葉を集め、それを取捨選択し作品をつくり上げていくのかというと、そこらじゅうをさまよっているような"異邦人意識"が重要になってくる。

(略)

――(略)なかにしさんは「99パーセントの技術と、1パーセントのインスピレーションで歌はできるんだ」とおっしゃっていました。

(略)

なかにし (略)理性や情熱でもって99パーセントまで仕上げることは、練習すれば誰にでもできると思う。今書けと言われても、僕と佐野さんは書ける。(略)

だけど1パーセントの閃きが今ここで出てくるかというとそれは難しい。じゃあその1パーセントの閃きはどうすれば生まれるのか。

(略)

とにかく自分の知性を拡大し、集中して持続させる。その運動を続けることができていると、ある瞬間、自分が自分であることを忘れ、男であることや女であることも忘れ、両性具有の存在となり、それが無限に続く感覚になる。何億万年前から僕らの命は続いているわけですよね。そんな命の尊さや不思議さの上に今自分がここにいる。そして自分が存在する宇宙は無限に広がっている。そうした場所にいることに貴重な価値があり、それは最高のことなんだと思えた瞬間に、偏見や習慣、伝統、雑事、事情、家族などあらゆるものが全部消え、空気が希薄になり、緊張感がありつつ非常に透明な自分になる。そこでインスピレーションというものが生まれてくるのだと思います。

(略)

[自身の歌の影響力について]

なかにし 歌を聴いた瞬間に買いに行こうと思わせることができるかどうか。

(略)

その歌が人々の心にどのように入り込み、どんな卵を産みつけるかはわからないけども、もし自分が書いた歌が有精卵であれば、世の中にはびこる無精卵の歌とは違い、必ず聴き手の命、血や肉となり何かしらの影響を与えるはずです。そうしたことへの祈りのような思いが自分に歌を書かせているんだと思う。

(略)

――(略)なかにしさんの書く歌には男女にまつわる官能的な物語が多いですよね。代表的な曲として「時には娼婦のように」があります。この曲では男女の性愛について、モラルなんてくそ食らえといった感じで書かれています。(略)こうした表現に行きついた強い理由というものがあるからこそ生まれた歌だと思うのですが。

なかにし 従来の歌謡曲に対する改革派であった僕らは和製ポップスと呼ばれていたわけですが、そこに吉田拓郎が旗を振って、井上陽水小室等らを引き連れて登場してきた。

(略)

吉田拓郎率いる青年革命党は日本回帰を掲げた。(略)「旅の宿」「我が良き友よ」、さだまさしの「関白宣言」、どれも日本の風景ですよね。もういっぺん日本人の感性と日本の風景の美しさ、日本情緒を取り戻そうとしていた。そんなミュージシャンたちが登場したことで、和製ポップスの時代は終わったと僕は思ったんです。

(略)

日本回帰の運動が主流になっていくのであれば、僕の仕事はひとつ終わったんだなと。そんな時に吉田拓郎が僕のところに来て言ったんです。「フォーライフでレコードを一枚つくってくれないか。ただし条件がある。作詩作曲して自分で歌ってほしい」と。それでシンガーソングライターの真似をして『マッチ箱の火事』というアルバムをつくった。その一曲目に「時には娼婦のように」を入れたんです。そうしたら有線放送で話題になり、チャートにも入るようになってきて、これはシングルを切らなきゃダメだということになった。僕もオーケーは出したんだけど、歌手になる自信はなかったので、黒沢年男に夜中に電話をかけて「歌わないか?」と聞いたら、やる、と。それで二枚同時発売になったんです。でも発売後すぐにNHKテレビ朝日で放送禁止措置が取られて。(略)

面白かったのは、NHKからラジオで「時には娼婦のように」の歌詩を朗読してほしいと依頼されたこと。歌となるとこの表現は引っかかるけども、歌詩だけを見ればこれは純粋詩だから許容範囲なんだと。

(略)

――(略)曲のアイデアが浮かんだら一気に書くのか、あるいはゆっくりと仕上げていくのか。いかがですか?

なかにし よく面白い言葉が浮かんだらメモをするとか言いますけど、僕はそういうことは一切しません。僕の作詩法はアクションペインティングに近いんです。たとえば今日歌を書くとなったら、今ここで僕が書くべき歌は一体どんなものなのだろうということが大問題なわけです。そこでは人のことなど関係なくて、ここまで生きてきて、そして今ここにいる自分が紡ぎ出す言葉とは一体何なのか。そこに僕は一番興味を抱くし、そこから始めるのが好きです。まるで占い師みたいだけれど、部屋のカーテンを閉め、お香を焚いたりして書いていく。(略)[日常の]雑念からどうやって逃れていくのかが表現者であろうとする時には重要なことになります(略)

自室に籠もり、ブルックナーをバーンとかけて書く。ベートーヴェンモーツァルト(略)はまだまだ地上の人間世界の歓喜なんですよ。でもブルックナーの音楽には宇宙や神々の喜びや興奮、敬虔さ、神秘といったものが音に満ちているんです。そういう音楽をかけると僕の脳のなかが回転し始める。気になる女の子のことや誰かと口論したこと、うるさい女房のことなんかの一切合切を忘れて、違う世界に自分が浮遊し始める。まずそれが脳を動かし始めるために一、二時間ぐらいかけてやる準備運動です。そこから、今自分が書きたい歌、言葉は何なのかを突き詰めていく。

(略)

今の自分の心の動きのようなものが作品に反映されないんだったら、こんな仕事は辞めたほうがいいと思う。だって僕らはただの歌書きではないから。

(略)

今自分が書いてることが楽しくてしょうがない、自分にとって重要なんだと思えばこそ、この仕事をやっている意味がある。

(略)

わざわざブルックナーをかけて、何者からも束縛されず自分を解放し、そこで初めて僕が何を言うのかを考える。結局つくるのは歌謡曲であり、それはつまり人様に愛される歌を書くということなんだけども、詩人の魂をそこまで純化しなければ物を書いてはいけない。僕はそう思っています。

(略)

――自分としてはこれは傑作だと思うのに、なぜみんなわかってくれないんだ、といった曲はないですか。

なかにし それがないんですよ。よく作家仲間から、もう少し歌手が良ければ、作曲が良ければ、なんてぼやきを聞くこともあるんだけど、それは言い訳に過ぎないんです。自分が良い歌詩を書けば、必ず良い曲が付き、良いアレンジがなされ、歌手が上手に歌いヒットする。そういう原則があると思っているし、自分が書いた良い歌詩に良い曲が付かないなんて経験もないですから。それに僕はかなり冷静に自分の歌詩を見ているので、これはダメだなというのはわかります。(略)

大瀧詠一

――ボーカルダビングで思い出すのが、一九八二年の『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』に「彼女はデリケート」という曲で参加させていただいた時のことです。自分では完璧だなと、大瀧さんも気に入ってくれるはずだと思ったボーカルをスタジオに持っていくと、それを聴いた大瀧さんに「うーん。佐野くんもう一回やり直してみようか」と言われ、スタジオに放り込まれ、歌い直すことになった。僕がどんなふうに歌えばいいか考えあぐねていると、大瀧さんから「佐野くん、エディ・コクランだよ」という一言をいただいた。それで歌ってみたらテイク1かテイク2で大瀧さんからOKが出たんですね。でも、自分としてはちょっと不本意だったんです。最初に持っていったのは二時間も三時間もかけて完璧にピッチもコントロールしたダブルボーカルで録ったものだったのに、大瀧さんがOKを出したのはなんだかチャラッと歌ったようなテイクで。「これでいいのかな?」と当時は思っていました。

大瀧 佐野くんが持ってきてくれたのは、ものすごくかっちりしたバージョンだったんですよね。(略)あのテンポでかっちり歌うと、"彼女"の年齢層がすごく高く感じたのよ。喩えるなら丸の内のOLのような感じがした。

(略)

レディーっぽい女性に思えたので、やっぱりガールにしたほうがいいのではないかと思った。それでエディ・コクランの名前を出したんだと思う。さらに言うと、僕はエディ・コクランのなかでも「Somethin' Else」という曲が好きなの。この曲はアメリカ本国ではあまりヒットしてないんだけど、イギリスのチャートではヒットしたんです。つまりイギリス人にとってのエディ・コクラン像なんだよね。当然日本でもヒットはしていない。(略)

ポール・マッカートニーエリック・クラプトンが何かのライブで「Somethin' Else」を歌ったんですよ。それを観た時に、すごくイギリス人が好むロックンロールだなという感じがしたの。それで僕はアメリカンロックよりもイギリスのロックを佐野くんに感じていたので、エディ・コクランのなかでも「Somethin' Else」のような感じで歌ってもらいたいと思っていた。(略)

「Somethin' Else」ではハイハットを開いてジャジャジャジャッとやっているんだけど、それが当時はものすごく斬新で。ドラマーはリトル・リチャードのバックをやっていたアール・パーマーという人なんです。エディ・コクランもきっとリトル・リチャードのようなサウンドが欲しくて、「Summertime Blues」も「C'mon Everybody」も彼にドラムを任せたんじゃないかな。「Somethin' Else」を聴けばわかると思うんだけど、こういう歌は一、二回歌ったぐらいのほうがいいの。

(略)

――当時はメインストリームの歌謡曲の音があり、大瀧さんたち新世代がつくろうとしていたオルタナティブな音があった。その音の違いは何かというと、録音にある。それに気づいた最初の世代が大瀧さんや細野さんだったのだと思います。

(略)

ソロ作品をレコーディングする際に吉野金次さんというエンジニアが求めたのはどんなものだったのでしょうか。

大瀧 吉野さんはドラムなんかは自分でチューニングしますからね。それからリミッターも自分で小さいポータブル型のを持ってきて音づくりをしていく。マイキングに関しても、マイクの種類をいろいろ研究していた人だったので、我々と話がすごく合ったね。(略)

「指切り」という曲がソロにあるんだけど、あれは一回歌ったきりなんです。つまりリハーサルのボーカルなのよ。とりあえずこんな歌ですよ、というガイドのつもりで一回歌ったら、吉野さんが「これはいい」と言うわけ。それで、「でも今のはガイドボーカルなんだけど」と言ったんだけど、「いや、絶対これだ。これをOKにしてくれなきゃ降りる」とまで言ったんだよね。

(略)

――僕らの世代がはっぴいえんどを聴いて思ったことは(略)「颱風」などは、英語の音韻を日本語の音韻に置き換えて歌詞を書き、歌うということをしている。そうしたことを初めてやったのが大瀧さんたちの世代だと僕は思っているんですけども、そこは意識的にやられていましたか。

大瀧 意識的にやりました。それ以前の人たちの音楽を聴いてみるとね、"漢字"で歌っているんですよ。(略)

だから全部、音に分解したんですよ。僕の歌詞カードは全部ローマ字になっているとよく言われたんだけど。

――(略)「颱風」は〈四辺は俄かにかき曇り 窓の簾を洌たい風が ぐらぐらゆさぶる〉という情景から始まります。

大瀧 たとえばフォークソングなんかだと、その歌詞を普通に文章のように歌うと思うんだけども、それの何が面白いのか、と。つまりそれは誰かが既にやっているし、誰でもやることだから、誰もやらないことはないかと考えたんです。それで文節を切るというくだらないアイデアを思いついた。(略)

〈四辺は俄かにかき曇り〉のところであれば、"あたりはにわかに"と続くのではなく、"あたりはに"で止め、次は"わかにか"で止めたわけ。バカだよね。

(略)

文節を切ることについては後に気づいたことがあって、英語で歌う人のなかにもそういう歌い方をする人がいたんです。エルヴィスがカバーした「A Fool Such As I」という曲には〈Don't be angry with me / Should I cry〉というラインがあるんです。その歌詞を、オリジナルのハンク・スノーは"ドンビーアングリーウィズミー"と歌っているんだけど、エルヴィスは"ドンビーアン"で切ってるの。(略)

エルヴィスの新しさはそこにあったんじゃないかとも思う。

(略)

――「ザ・ソングライターズ」で松本隆さんをゲストに迎えた時、大瀧さんの八四年のム『EACH TIME』収録の「1969年のドラッグレース」の歌詞は大瀧さんに贈ったものだとおっしゃっていたんです。大瀧さんもそう思われますか?

大瀧 六九年に細野さんと僕と松本くんの三人で軽井沢から旅をしたんです。彼はその時の思い出をあの歌詞にしたんだと思います。

(略)

それから十五年ぐらい経ったのが八四年、『EACH TIME』の時期。そこで、「まだ終わりじゃない」というようなことを彼は言いたかったんじゃないですか。僕は終わるつもりだったんですけどね。

(略)

大瀧 (略)「あつさのせい」という曲をつくった頃は、「アッと驚く為五郎」という曲が流行ってたんです。それで、"アッ"と言うと人は"と驚く為五郎"というふうに頭に浮かぶだろうと。そこで僕の曲では"あ"の次に"つさでのぼせ上がった"と来たらみんなガクッと来るだろうなと。そういう狙いでつくりました。

(略)

――(略)[『大瀧詠一』収録「びんぼう」]"び"と"ぼ"は濁音で、これがロックのリズムに乗ると韻律を感じます。(略)

大瀧 (略)ジム・リーブスの歌に"びんぼう"という言葉の響きに似た歌があるんです。(略)ホーボーのような旅して歩いてる人たちの歌なんだよね。それでこっちは「びんぼう」にしたら面白いなと。たったそれだけ。意味性なんて何もないですよ。(略)

――〈宝クジ買って10時 あたって余った 金がザクザク だけど びんぼう どうしてもびんぼうびんぼう びんぼう ひまだらけ〉。

大瀧 "宝クジ(9時)"だから"10時"にしただけですよ。

――しかしここで韻律を踏んでいるわけですよね。

大瀧 言えばね。

――当時、このようにライミングしている歌詞というのはそれほど多くはなかったと思うのですが。

大瀧 それはライミングと言えるの?ダジャレだよ、ただの。

(略)

――(略)大瀧さんはこの三枚目のアルバムをどのように評価しますか。

大瀧 ロサンゼルスの音がする、という感じですかね。(略)

『HAPPY END』を録ったエンジニアのウェイン・デイリーは直前にデイヴ・メイスンの『Head keeper』というアルバムのエンジニアもしていたらしく、僕が「田舎道」を歌ったら、「デイヴ・メイスンにそっくりだ」とか言っていました。お世辞なのか皮肉なのかわからないですけど。その時にウェイン・デイリーのレコーディングの仕方を僕は垣間見た感じでしたね。(略)

ピアノは全部閉じてあるとかね。ドラムも全部セッティングして釘で打ってあるというスタイルです。他にも録音のやり方や、ミックスはヘッドホンでやってからその後で大きなスピーカーで出すとか、そういうスタイルを学びました。そういえばアル・シュミットが彼の師匠なんだそうです。

(略)

ドラムセットがもうスタジオにあるの。こちらが持っていったのはスネアぐらいじゃないですかね。だから、あそこのスタジオ特有のドラムの音になっていたのかもしれないですね。

(略)

[『A LONG VACATION』]

大瀧 このアルバムの制作では、八〇年代にはもう行われていなかったレコーディング方法を採ったんです。「君は天然色」、「Velvet Motel」、「カナリア諸島にて」、「恋するカレン」、「FUN×4」の五曲は、2チャンネルでの一発録りです。「スピーチ・バルーン」や「雨のウェンズデイ」などは普通のマルチ録音なんですけど。そういうふうにいろんな録り方の曲が散りばめられてることが、ひょっとしたら聴き飽きることのない理由かもしれないと思いました。でも、2チャンネルで一発録りをするというのは確信犯でしたね。

(略)

個別の音がクリアに聴こえるものはバラードなんかにはいいんですけど、やっぱりロックンロールは一気にやらなきゃダメですよ。「君は天然色」は後半、上原"ユカリ"裕のドラムがノってきてバンド全体の音が大きくなっていくんです。アコースティックギターの音なんかは最初はすごく小さいんだけど、周りの演奏の盛り上がりにつられるようにしてアコースティックの連中もかき鳴らし方に力が入ってくるわけです。そういう必然感も録音したかったという気持ちがあって、一発録りにしたんです。そこも何度聴いても飽きない音だと思ってもらえる要因かもしれないね。

(略)

――(略)僕が不思議に思っていることがあります。(略)八〇年代当時ではフィル・スペクターのレコーディング現場の様子は書物などの資料でしか知り得なかったと思うのですが。

大瀧 (略)全部想像です。僕はアメリカではフィル・スペクター、イギリスではジョー・ミークというプロデューサーが好きで、「さらばシベリア鉄道」はジョー・ミークへのトリビュートソングなんですけど(略)

最近、彼のスタジオでの作業を記録したビデオが出たんです。それを観てみたら、福生で僕がやっていたのと同じようなことをしていた。ブースとエンジニアルームの間にガラスの仕切りもないから、演奏者に何か指示する時はいちいち二重扉を開けて行き、また戻ってエンジニアリングをする。彼のスタジオも八畳ぐらいの狭いところだったんです。(略)

ベース、ドラムの音の代わりにバスタブに入って、全員で足でドーンドーンドーンと鳴らしたりしていた。(略)

多羅尾伴内楽團で四人にブーツ履かせて、木の板を踏ませたことがありましたけど、みんな同じようなことをやっているんですよね。でも実際にビデオで観た時は驚きました。(略)

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規則より思いやりが大事な場所で 物理学者はいかに世界を見ているか

ブラックホール Ⅱ:無が発生する熱

ホーキングは、何も落ちていかない穏やかなブラックホールもやはり熱を持っていることを示した。ブラックホール自体が熱いのだ。

 誰も、その熱を観測したことはない。弱すぎて、どんな望遠鏡を使っても拾うことができず、わたしたちが目にしているブラックホールの場合は、間断なく落下し続ける物質のすさまじい熱に紛れてしまう。現時点ではホーキングの予測はあくまで理論上のもので、実験で確認されているわけではない。だが彼の計算はさまざまな方法で追試され、常に同じ結果が得られている。そして科学界は、その結論には説得力があると考えている。つまり十中八九、黒い穴はそれほど黒くない。穏やかな熱源なのだ。もしもまったく星のない天空の真ん中にブラックホールがぽつんと一つだけあったなら、黒くはなく、ぼんやりと光を放つ小さな球のように見えるだろう。

 これには誰もが驚いた。(略)ブラックホールからは何も逃げ出せないはずだ。となると、熱はどのようにしてブラックホールから放出されるのか。

 その鍵は、ホーキングの計算に量子力学が含まれている、という点にある。ブラックホールに入ることはできても決して出て行けないという予測は、アインシュタイン一般相対性理論だけに基づいているのだが、この理論は、量子現象を無視した不完全なものなのだ。ホーキングの計算のおかげで、アインシュタインの理論だけでは限定的な記述しかできなかった現象をよりよく理解することができるようになり、ブラックホールから何かが――かすかな熱が――逃げ出していることが明らかになったのだ。

 ブラックホールの熱には、ブラックホールそのものを記述する一般相対性理論と、量子理論が関係している。(略)ブラックホールの熱を手がかりにすれば、二つの理論をうまく組み合わせる方法がわかるかもしれない。つまりこの熱は、二〇世紀の二大物理理論の統合という課題を解決するすべての試みに対する理論的な尺度なのだ。ブラックホールは、天空に実際に存在する驚くべき天体であるだけでなく、わたしたちの空間や時間や量子を巡る着想を理論的に検証するための実験室でもある。

(略)

いったい何がブラックホールの表面に熱が生じるような大騒ぎを引き起こしているのか――そこには何も存在しないのだが……。

 一つ考えられるのが、基本的な空間の量子がこの熱を生みだしている、という答えだ。(略)きわめて強い重力が、ブラックホールの表面にまるで巨大アンプのように作用して、空間の基本粒子のきわめて小さな身震いを曝いてみせる。ブラックホールの熱はいかなる物質の熱でもなく、重力によって増幅された空っぽな空間そのものの熱――つまり、無が元来持っている熱量――なのだ。(略)

ブラックホール Ⅲ:中心の謎

(略)

一つの小さな問いが残されている。「でも、あそこに見えるブラックホールに落ちていっているものは、いったいどこに行っちゃうの?」。

 話はここからややこしくなる。アインシュタインの理論は、ブラックホールの内側も数学的に正確かつ優美に記述する記述する。つまり、ブラックホールに落ちたものが辿るべき経路を指し示すのだ。物質はどんどんスピードを増しながら落ちていって、ついに中央の点に到達する。そしてそれから……そこからは、アインシュタインの方程式がいっさい意味をなさなくなる。もはや何も語ることなく、日の光を浴びた雪のように溶けてしまう。変数の値は無限になり、すべて意味を失う。なんてこった!

(略)

 この問いの答えへと向かう路は、今までのところどれもかなり挑戦的だ。ひょっとすると、その物質はたとえば別の宇宙に現れるのかもしれない。ひょっとすると、わたしたちのこの宇宙自体が、その前にあった宇宙に開いたブラックホールから現れたのかもしれない。ひょっとすると、ブラックホールの真ん中ではすべてが融け合って確率の雲となり、そこではもはや時空も物質も意味を成さなくなるのかもしれない。あるいは、ひょっとするとブラックホールが熱を放っているのは、何千億年もの時間をかけて、中に入ったものがどういうわけか熱に変わるからなのかもしれない。

 わたしが所属するマルセイユの研究グループでは(略)もっと単純で理に適ったシナリオの可能性を探っている。そのシナリオによると、物質は減速して、中心に達する前に止まる。とことん凝縮したためにすさまじい圧力が生じて、最終的な崩壊は阻止される。これは、ちょうど電子が原子のなかに落ち込むのを防ぐ「圧力」のようなもので、ある種の量子現象なのだ。物質は落ちるのをやめて、とほうもなく密で極端に小さい星のようなもの――「プランク・スター」――になる。そして、こういう場合につきもののことが起きる。つまり、跳ね返るのだ

 プランク・スターは、床に落とされたボールのように跳ね返る。ボールのように、落ちてきた軌跡に沿って元に戻り、時間は巻き戻され、かくして黒い穴そのものが(専門用語でいう「トンネル効果」によって)正反対の白い穴になる。

 ホワイトホールだって?なんだ、それは?(略)わたしが持っている大学の教科書には、「そんなものは現実の世界に存在しない」と書かれている……何一つ入れないが、いろいろな物が出てくる空間領域だ。いうなれば、時間を巻き戻したブラックホール、破裂する穴なのだ。

 でもそれならなぜ、物質がブラックホールに落ちるところは見えても、すぐさま跳ね返ってくるところは見えないのか。答えは――ここがこの問題の決定的なポイントなのだが――時間の相対性にある。時間は、どこでも同じ速度で流れているわけではない。海抜ゼロメートルの場所では、すべての物理現象が山の上よりゆっくり進む。低いところ――つまり重力が強いところほど、時間はゆっくり流れる。ブラックホールの内部では重力がひじょうに強く、したがって時間の流れはきわめて遅くなる。すぐそばで見ている人には(略)落ちたものがすぐに跳ね返るのが見える。ところが外にいる人にとってはすべての動きが減速する。とほうもなく緩慢になるのだ。物が消えて無くなるのが見えてから、とんでもなく長い時間が過ぎる。外から見ていると、何百万年ものあいだ、すべてが凍り付いたように固まっている。まさに天空のブラックホールがわたしたちの目には静止して見えるのと同じように。

 だが、とほうもない時間といっても無限ではない。だからわたしたちが十分長い間待っていれば、物質が出てくるのを見ることができる。結局のところブラックホールは、つぶれては跳ね返る恒星でしかないのだ――外から見ると、きわめてゆっくりした動きではあるが。

 このようなことは、アインシュタインの理論ではあり得ない。だがそれをいえば、アインシュタインの理論は量子効果を考えに入れていない。量子力学があるからこそ、物質はこの暗い罠から逃げ出すことができるのだ。

(略)

ここまでの話をすべて繋ぎ合わせると……太陽のような(略)大きな恒星がすべての水素を使い果たして燃え尽きると(略)自重でつぶれ(略)ブラックホールができて、そこに落ち込む。太陽くらいの大きさ(略)の星なら、直径が一キロ半くらいのブラックホールになる。(略)

さらに内側にどんどん深く進み、途方もなく圧縮されたあげく(略)跳ね返って破裂しはじめる。(略)巨大な重力場によって時間が猛烈に引き延ばされているので、物質が再び外に現れる頃には、宇宙のそのほかの場所では何百億年もの時間が過ぎている。(略)

ナボコフの青い蝶

(略)ナボコフ自身は、まったく別の分野で名を馳せたいと思っていた。「蝶を見つけて」と題するその詩は、こんなふうに始まっている。「蝶を見つけ、名前を付ける。(略)一匹の虫の名付け親、その最初の記述者に。ほかには何の名誉もいらない」。蝶こそが、彼の情熱だった。「ロリータ」が書かれたのは、毎年ナボコフアメリカで行っていた西への旅――貪欲に蝶を追い求める旅――の最中のことだった。

(略)

数年前に、もっとも権威ある科学雑誌の一つ、「ロンドン王立協会紀要」に、ナボコフのもっとも大胆な仮説が裏付けられた、という記事が載った(略)彼の名は、科学の年代記に永遠に残るだろう。「青いイカルス」(略)ことイカルスヒメシジミが渡りを行うことを最初に理解した人物として。ナボコフは、まさにこのような名声を求めていた。

(略)

[ナボコフは]これらの蝶がアジアで進化し、一千万年の間に五つの波となってベーリング海峡を越えて北米大陸に到着した、という説を一九四五年に発表したのである。しかし当時は誰もまともに取り合わなかった。(略)だが、ナボコフは正しかった。現代のDNAシーケンシングの技術によって、この種の系統を辿ることが可能になり、彼の仮説が正しかったことが裏付けられたのだ。

(略)

子どもの頃は、よく蝶を追いかけたものだった。きわめて裕福なロシア貴族の長男として幸せな幼少期を過ごし、八歳の時に政治的な理由で父が投獄されたときは、幼いナボコフがその独房に一頭の蝶を届けたという。一家はロシア革命で財産を失うと、ヨーロッパに逃げたが、やがて父は殺されてしまう。その数年後ナボコフは、二作目の小説で得た金を使ってピレネー山脈に赴き、蝶を採集した。

 しかしナチスが権力を握ったために、ヨーロッパからも逃げざるを得なくなった。昆虫学への情熱はアメリカでも衰えることなく、やがて腕の良い在野の研究家、さまざまな種の蝶を描写できる人物として認められるようになった。ナボコフ自身も、余暇に昆虫を採集する十九世紀貴族という絶滅寸前の種の最後の標本だったのだが......。

(略)

アインシュタインのたくさんの間違い

 アルベルト・アインシュタインが二〇世紀最大の科学者の一人であることは、間違いない。(略)

 じつは、彼ほどたくさん間違えた科学者は稀なのだ。あんなにしょっちゅう考えを変えた科学者も、めったにいない。

(略)

 いくつか例を挙げてみる(略)ジョルジュ・ルメートル師は、アインシュタイン自身の理論を用いてこの事実を突き止めると、その発見をアインシュタインに伝えた。これに対してアインシュタインは、そんな考えは愚にもつかない、と反論したが、三〇年代に宇宙が実際に膨張していることが観察されたので、結局は前言を撤回することになった。アインシュタインの理論からはもう一つ、ブラックホールが存在する、という結論が得られる。ところが彼はこのテーマに関する誤った論文を何本かまとめ、宇宙はブラックホールの縁で終わっていると主張した。重力波の存在もアインシュタインの理論から導かれる結論の一つで(略)アインシュタインは、はじめはこれらの波が存在すると述べていたが、じきに存在しないといいはじめた。自身の理論の解釈を間違えたのだ。それからさらに考えを変えて、正反対の、重力波が存在する、という正しい結論を受け入れることにした。

 特殊相対性理論をまとめたとき、アインシュタインは「時空」という概念を使っていなかった。「時空」というのは、いわば時間と空間を含む四次元連続体の概念で、じつはヘルマン・ミンコフスキーに由来する。彼が、この概念を用いてアインシュタインの理論を書き直したのだ。この書き直しを知ったアインシュタインは、数学のせいで自分の理論が無駄に複雑にされた、と主張した。ところがすぐに一八〇度考えを変え、まさにこの時空の概念を用いて一般相対性理論をまとめたのだった。

 アインシュタインは、物理学における数学の役割に関する考えも一生のうちに何度も変えて、互いに矛盾するさまざまな着想を支持した。

 自身の主要な業績である一般相対性理論の正しい方程式に辿り着く前に、すでに何本かの論文を発表していたのだが、それらはすべて間違っており、それぞれに異なる誤った方程式が示されていた。しかも、この理論はシンメトリーではないはずだ、とする複雑で詳細な論文まで発表した。……後になって、そのシンメトリーを自身の理論の基礎に据えることになったのだが!

 晩年には、なんとかして重力と電磁気を統一する理論をまとめようと粘ったが、じつは電磁気学がより大きな理論(電弱統一理論)の一部であることには気づいていなかった(この事実は、アインシュタインの死のすぐ後に判明した)。したがって、重力と電磁気を統一せんとするアインシュタインの企てはまったくの的外れだった。

 アインシュタインは、量子力学を巡る大論争でも繰り返しその立場を変えた。最初は、この理論は自家撞着していると主張した。その後、矛盾がないという考えは受け入れたうえで、不完全な理論であって自然のすべてを記述するものではない、と主張することにした。

 一般相対性理論に関しては長い間、物質が存在しなければその方程式は解を持ち得ない、したがって、重力場は物質に依存しているはずだ、と確信していた。ところがウィレム・ド・ジッターをはじめとする人々が、それが間違いだと明確に示したことから、結局は、重力場自体が自律的な実在であって物質とは無関係に存在する、と解釈するようになった。

 現代宇宙論の基礎となった一九一七年の非凡な仕事では、宇宙が三次元球面であり得ることを理解して、今では実証済みの宇宙定数を導入したが、ここで、物理界に鳴り響くとんでもない間違いを犯した。宇宙は時間とともに変化するはずがない、というのである。そしてさらにもう一つ、数学においても特大の間違いをやってのけた。自身の導いた解は不安定で現実の宇宙を記述し得ない、ということに気づかなかったのだ。その結果、この論文は革命的で重要な新しい着想と多数の深刻な間違いが奇妙に入り交じったものとなった。

 これらすべての間違いや意見の変遷によって、アインシュタインに対するわたしたちの敬愛の念は目減りするだろうか。とんでもない!むしろその逆だ。思うにこれらの過ちはわたしたちに、知性の本質に関する何かを教えてくれる。知性とは、自分の意見を頑なに堅持することではない。喜んで変化し、それらの意見を捨てる覚悟が必要なのだ。

 この世界を理解するには、間違いを恐れずに着想を検証する勇気、自分の意見を絶えず更新してよりよく機能させようとする勇気が必要だ。

 誰よりも多く間違ったアインシュタインはまた、誰よりもよく自然を理解することができたアインシュタインでもあって、じつはこれらは互いを補い合う、同じ一つの深い知性にとって不可欠な側面なのだ。大胆に考えて、勇敢にリスクを取り、広く受け入れられている考えを――たとえそれが自分の考えでも――決して信じ込まないこと。

 間違える勇気、一度ならず何回でも自分の考えを変える勇気があれば、発見できる。理解に至ることができるのだ。

 正しいかどうかが重要なのではない。理解しようとすることが重要なのだ。

錬金術ニュートン

 一九三六年にサザビーズで、アイザック・ニュートン卿の未発表文書のコレクションが競売にかけられた。落札価格は低かった―――たったの九千ポンド。同じシーズンに落札されたルーベンスレンブラントの作品各一枚についた十四万ポンドという値と比べれば、じつに微々たるものだ。ニュートンの文書を落札した人物の一人に、著名な経済学者ジョン・メイナード・ケインズがいた。ニュートンを大いに尊敬していたのだ。ケインズはすぐに、落札した文書のかなりの部分が、およそニュートンが関心を持つとは思えないある主題に関するものなのに気がついた。錬金術だ。そこでケインズは、ニュートン錬金術に関する未発表の文書をすべて入手しようとした。そしてじきに、この偉大な科学者が錬金術というテーマに、「ほんの一時興味をそそられて、ちょいと手を出した」だけではなかったことに気がついた。錬金術へのニュートンの関心は生涯続いていた。そしてケインズは、「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく、最後の魔術師だった」と結論した。

 ケインズは一九四六年に、自身が所蔵するニュートンの未発表文書をケンブリッジ大学に寄贈した。

(略)

大方の歴史家たちはこの問題に近寄らないことにした。

(略)

 ニュートンが科学から逸脱したこのような錬金術研究を推し進めたのは、早熟で精神が脆弱だったからだ、という説がある。

(略)

 じつはもっとずっと単純なことだ、とわたしは思っている。

 鍵となるのは、錬金術に関するこれらの文書をニュートンがいっさい発表しなかった、という事実だ。これらの文書を見ると、ニュートン錬金術に対する関心がひじょうに広かったことがわかるが、それらは一つも公にされていない。発表されなかったのは、イギリスでは十五世紀には早くも錬金術が違法とされていたからだ、というのがこれまでの解釈だった。しかし、錬金術を禁ずる法律は一六八九年にはすでに廃止されていた。それに、もしもニュートンが法律や慣習に逆らうことをそこまで恐れていたら、あのニュートンにはなっていなかったはずだ。ニュートンは時には、途方もない究極の知識をあれこれ拾い集めて独り占めしてさらに強い力を得ようとする悪魔的な人物として描かれてきた。しかし、ニュートンは実際に途方もない発見をしたのであって、決してそれらを独り占めしようとはしなかった。事実、『プリンキピア』をはじめとする偉大な著書でそれらの知識を公開している。そしてそこに載っている力学方程式は、今でもエンジニアたちが飛行機や建物を作るときに使われている。成人後のニュートンは名をあげて、広く尊敬を集めた。じっさい、当代一の科学機関、英国王立協会の会長になったくらいで、知的な世界はニュートンの成果を待ち望んでいた。では、なぜ錬金術を巡る活動の結果をまったく公表しなかったのか。

 答えはきわめて単純だ。(略)納得いく結果が一つも得られなかったからだ。そう考えると、すべての謎が解ける。今では簡単に、錬金術の理論的・実験的な基礎があまりに脆弱だった、というこなれた歴史的判断に寄りかかることができる。だが十七世紀には、そのような判断を下すのは簡単なことではなかった。錬金術は広く実践され、多くの人々が研究しており、ニュートンも本気で、そこに真の知が含まれているかどうかを理解しようとした。もしも錬金術のなかに、自身が推し進める合理的で実験的な研究手法を用いた精査に耐えるものが見つかっていたら、ニュートンは間違いなくその結果を発表していたはずだ。

(略)

 それはそもそも空しい望みだったのか。始める前に放棄すべき計画だったのか。いいや、それどころか、錬金術が提起した種々の重要な問題や、展開したかなりの数の手法は――とりわけさまざまな化学物質の別の化学物質への変化に関する問いや手法は――じきに化学という新たな分野を生み出すことになった。ニュートン自身は錬金術から化学へと向かう決定的な一歩を踏み出すには至らなかったが、次世代の科学者たち――たとえばラヴォワジエ――が、その役割を引き継いだのだ。

 インディアナ大学がウェブで公開している文書からも、このことは明らかだ。そこで使われている言語は、比喩やほのめかし、不明確な言い回しに奇妙な記号など、確かに典型的な錬金術の言葉であるが、述べられている手順の多くは単純な化学反応でしかない。たとえばニュートンは、「硫酸塩の油」(硫酸のこと)、硬い水(硝酸のこと)と「塩の魂」(塩酸のこと)の製造について述べていて、その指示に従えば、これらの物質を合成できる。ニュートンがこの試みに「チミストリー(chymistry)[chemistryとは一字違い]」という名前を付けたのも、いかにも暗示的だ。ルネサンス以降の後期錬金術は、着想を実験で確認することに強くこだわった。すでに、近代化学のほうに向かい始めていたのである。ニュートンは、錬金術の処方の混沌とした瘴気のなかから(「ニュートン的な」意味での)近代科学が生まれようとしていることに気づき、産婆になろうとしていた。そのために膨大な時間を費やしたが、結局は混乱を解きほぐす糸口を見つけることができなかったので、何も公にしなかったのだ。

 ニュートンの奇妙な情熱と探求の対象となったのは、錬金術だけではなかった。その手稿からはもう一つ、さらに面白そうなテーマが浮かび上がってくる。彼は、聖書の年代記を復元することに膨大な労力を費やしていた。あの聖なる書に記された出来事の正確な日付を突き止めようとしていたのである。手稿から見る限り、ここでもたいした成果は得られなかった。じつは科学の父は、この世界がほんの数千年前に始まったと考えていたのだ。ニュートンはなぜこの作業に没頭したのか。

(略)

近代の歴史家が重要な仕事をする際には、ありとあらゆる資料を考慮に入れて、各々の信頼性を評価し、得られた情報が妥当かどうかを判断する必要がある。そうやって資料を評価し、それぞれの重みを勘案しながら統合することで、もっとも理に適った復元が可能になる。量を用いて歴史を記述するこの方法は、じつはニュートンの聖書年代記を巡る仕事に端を発している。ここでもニュートンのやり方はきわめて近代的で、自分の手元にある不完全で信頼性もまちまちな大量の資料に基づいて、古代史の日付を合理的に復元する方法を探った。そして、後に重要になる概念や方法をはじめて導入したのだが、自分にとって満足いく結果が得られなかったので、結局何も発表しなかった。

 これら二つの例はいずれも、従来の合理主義的なニュートンという描像から外れていない。それどころかむしろ逆で、この偉大な科学者は、真に科学的な問題に取り組んでいたのだ。ニュートンが、検証されていない伝統や権威や魔法と優れた科学を混同した形跡はいっさいない。それどころか彼は先を見通すことができる近代の科学者であって、優れた判断力を持って科学の新しい分野に向き合い、明確で重要な結果が得られればそれを発表し、得られなければ何も発表しなかった。ニュートンは有能な、きわめて有能な人物だったが――限界はあったのだ。他のみんなと同じように。

 思うに、ニュートンの天才たる所以は、まさにこれらの限界を深く認識していた点にある。自分が何を知らないのか、その限界を知っていた。そしてこれこそが、彼がその誕生を後押しした科学の基本なのだ。

チャーチルと科学

 ウィンストン・チャーチルははじめて科学顧問というポストを設立した英国首相である。彼は、電波天文学の父バーナード・ラヴェルをはじめとする科学者と定期的に顔を合わせていて、彼らと話すのが大好きだった。公的な資金を使って研究や望遠鏡の製造や実験室の開設を後押しした結果、第二次世界大戦後の科学のいくつかの重要な発展が――分子遺伝学から、X線を使った結晶学に至るまで――もたらされた。戦争中は、チャーチルが英国での研究支援を断固として推し進めたおかげでレーダーや暗号学が開発され、軍事活動における成功に決定的な役割を果たした。

 チャーチルその人にも、決して広範とはいえないが、しっかりした科学の素養があった。若い頃はダーウィンの『種の起源』を読み、物理学の入門書を学んでいた。(略)さらに、並々ならぬ関心を持って科学の発展をフォローし、一九二〇年代から三〇年代には科学に関する啓蒙記事まで書いている。

(略)

 アメリカの天体物理学者であり作家でもあるマリオ・リヴィオは「ネイチャー」誌の記事のなかで、一九三九年にチャーチルが書いた――そして五〇年代に手を入れた――未公開の文書を紹介している。チャーチルはその文書で、今日の科学とも大いに関わりがある問題を論じていた。この宇宙の何処か別の場所――地球に似た惑星――に生命が存在する可能性を巡る問題だ。彼の分析は驚くほど明晰で、科学的な概念を操るずば抜けた力を持っていたことがわかる。チャーチルは(略)地球上の生命に似た形の生命が他の惑星で進化するのに必要ないくつかの要素を突き止めた。母星からの距離が、水が液体でいられるようなごく狭い幅の温度を保てる範囲にあること。そしてもう一つ、十分に濃い大気を維持できるだけの質量があること。

 そして、特に印象的な一節が続く。チャーチルはまず、惑星系の形成に関する当時もっとも信頼されていた理論――二つの恒星が接近することで惑星系ができるという説――では、この条件が満たされる可能性はきわめて小さくなり、生命もめったに存在しなくなる、と述べる。そのうえで、この結論が正しいかどうかは、恒星の接近による惑星系の生成という理論が妥当か否かにかかっていて、必ずしもこの理論が正しいとは限らない、と指摘するのだ。この偉大な政治家には、自分の知り得た科学的知識がどれくらい重要なのかを判断する力だけでなく、どこまで不確かなのか、その限界を察知する鋭い感覚があった。やがて恒星の近接接近(ないし近接通過)の理論は間違っていたことが明らかになり、今では惑星は別の仕組みで(小さな欠片がぎゅっと集まって)できたことがわかっている。チャーチルの主たる結論は、今日わたしたちが得ている結論に近い。

 

 星雲(銀河)は何十億もあって、それぞれに何億もの太陽が含まれているのだから、生命が存在しうる惑星を含む星雲がたくさんある可能性は高い。

 

 それに続くコメントは、わたしにいわせれば、英国精神を完璧に捉えたものだ。

 

 わたしにすれば、われわれの文明の成功にきわめて強い印象を受けているわけではない。したがってこの広大な宇宙の中で、命があって思考するものが存在する唯一の片隅を代表しているのは自分たちなのだとか、自分たちこそがこの広大な空間と時間のなかで精神的肉体的にもっとも高いレベルに進化しているのだ、とは思えない。

 

 チャーチルには明らかに、科学の限界が見えていた。彼は一九五八年に、「この世界には科学者が必要だ」と記している。さらに、「しかし、科学者のために世界が必要なのではない」としたうえで、「もしもわれわれが科学によって持ち得たあらゆる方策を以てしても、この世界の飢餓に打ち勝つことができないのであれば、わたしたち全員が責められるべきだ」と書き添えている。しかし彼は深いところで、科学的な思考が人間性にとって中心的な役割を果たすことに気づいていた。政治がそれを支えることの重要性、科学に耳を傾けて、科学を使うことの重要性を痛感していた。そして何よりも、科学的な思考を行うことで、事実に基づく政治的な決定が可能になる、という大きな利点に気づいていた。(略)

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