- 巻末の訳者あとがきを先に
- ディランから電話
- 関連性をもたせる必要はない
- ミック・ロンソン
- ユダヤ人女性たちの麻雀大会
- ロックンロール天国
- Tボーン・バーネット
- 墓の上で歌う
- ディランは自分自身を発明した
- ペダル・スティールのいたずら
- 名高いカーテン・トリック
- ジョニ・ミッチェル
- 秘密会議
ジョニ・ミッチェル「コヨーテ」はローリング・サンダー・レヴュー参加中のサム・シェパードとの不倫を描いたもので、なおかつツアー中、ジョニはコカインにはまっていた、と今頃知りました。"prisoner of the white lines"って、そっちの意味もかかってたのね。というわけで、ジョニのことが何か書いてあるかなと、この本を読んでみました。
巻末の訳者あとがきを先に
(略)ボブ・ディランはプリマスをかわきりにアメリカ東部とカナダの小さな街をまわるローリング・サンダー・レヴューというツアーをおこなった。(略)
一九七五年十月三十日から十二月八日までの第一期と、一九七六年にはいってから五月までの第二期のふたつの時期にわけておこなわれており、サム・シェパードは、その第一期のツアーに参加している。ツアーと並行して撮影される映画のためだった。
(略)
一九七五年の夏、ディランはジャック・レヴィといくつかの歌を共作した。ローリング・サンダー・レヴューでも、レヴィの果たした役割は大きかった。『オー、カルカッタ』などで知られる、オフ・オフ・ブロードウェイの舞台演出家であるレヴィは、六〇年代後半からサム・シェパードの作品を演出していて、彼とは親しい関係にあった。映画の計画をしているディランにサム・シェパードの名を教え、彼の詩を読ませたのも、レヴィだった。
サム・シェパードがローリング・サンダー・レヴューの一員となったのは、映画の脚本を書くためだった。(略)撮影もおこなったようだが、いずれもうまくいかなかった。とちゅうで即興のシーンを書くこともあったが、ディランと意見があわずに採用されないということもあったらしい。(略)定評の確立した劇作家でありながら、なかなかその力を発揮することができず、本来は書くのが仕事でありながら、いくつかのシーンを即興で演じることに甘んじている。そういう状況に、彼はしだいにやりきれなくなっていったようだ。
この九十八編の文章には、そうした複雑な思いを基調にして、ローリング・サンダー・レヴューというツアーやその人物たち、そしてアメリカという土地のさまざまな断片が切りとられている。
(略)
ただ事実を綴ったものではないことを書いておいたほうがよいだろう。(略)
コンサートの模様を書いている箇所についても、記憶の混乱のせいか、それとも作為的にだろうか、曲目から見て、ふたつのコンサートをひとつにまとめて書いている感じがする。散々ないわれかたをしているラリー・スローマンの話も、スローマン本人によるものとだいぶちがっている。シェパードはスローマンのことを書きながら、自分のことを書いていたのではないか、自分の一部をスローマンという形で表現したのではないかとも思える。そういうところには、あきらかに作家としての手法が感じられ、おそらくは、そういう形で表現するほうが、よりよく真実を語ることができたのだろう。
(略)
ローリング・サンダー・レヴューと題したこのツアーは、いわゆるロック・ツアーとはまったくちがうものだった。この一行は、さまざまな個性が集まった大きな集団だった。
(略)
ジョニ・ミッチェルや、本書には出てこないがロビー・ロバートスンが登場した日もあった。コンサートでは、もちろんディランが中心ではあったが、エリオット、ニューワース、バエズ、マッギン、さらにはストーナー、バーネット、ソールズ、ブレイクリーもヴォーカルをとって歌った。ディランがニューワースやバエズとデュエットした歌もあった。つまり、このコンサートは、ディランひとりではなく、ディランを中心に大勢のミュージシャンが共同してひとつのステージをつくりあげるという性質のものだった。しかも、最後のマディスン・スクエア・ガーデンをのぞいて、すべて収容人員が数千人という小さな会場、ステージは通常のコンサートのスポット照明ではなく、全体に明るい照明があたってリヴィングルームのような感じだったという(略)
しかも、訪れる街、コンサートの場所は、ぎりぎりまで発表されなかったし、興行の運営もアマチュア的なやりかたでおこなわれた。
(略)
それは、原点に立ちもどろうとする試みだったのだといわれている。大昔、旅まわりの一座が歌って踊って、人々と直接ふれあうことができたように、小さい会場で、大勢の人間とともにステージに立つことで、疲弊したロック・コンサートという場を、撥剌とした相互作用(略)の場、自然発生的な創造の場としてつくりなおす、あるいは発見しなおす試みだったのだ。たしかに、このツアーの前におこなわれたザ・バンドとの全米アリーナ・ツアーについて(商業的には成功をおさめたツアーだったが)、ディランはのちに不満足感を表明している。
(略)
全員が新しい試みに興奮し、エネルギーに満ちあふれていた。(略)
まもなく迎える建国二百年記念日に沸いていたアメリカの、それも建国ゆかりの東部の街をまわるというアイデアも、原点に立ちもどり、アメリカを、自分を再発見するという意味がこめられていたのかもしれない。しかし、こうした画期的な、ロマンティックであるともいえる試みは、採算面や運営の面ではうまく行かず、一九七六年の第二期ツアーとなるとこの方針は揺らいでくる。会場はアリーナ規模となり、また第二期の終盤では、ディラン自身の熱意も薄れてきたようだった。
(略)
このツアーの様子をつたえるものとしては、ボブ・ディランのライヴ・アルバム《Hard Rain》(第二期ツアーの演奏)、映像としては映画『レナルド&クララ』(第一期ツアー)、テレビ・スペシャルとして放映された『ハード・レイン』、TVスペシャル用に最初に収録されたが、ボツになったクリアウォーターでの演奏の模様を映したもの(ともに第二期ツアー)がある。この三種の映像のヴィデオは、公式に発売されているわけではなく、ブートレグ・テープという形で出まわっている。
第一期のツアーは、原点に立ちもどり、その場でエネルギーが発生するというすばらしいものになった。そしてもうひとつ、この第一期ツアーをユニークなものにしたのが、映画だった。並行して映画の撮影がおこなわれているということが、ツアーの雰囲気をさらに興奮に満ちたものにすると同時に、多忙さや混乱さをつけくわえたのだ。この映画には、上記のコンサートの人員のほか、デイヴィッド・ブルー、ロニー・ホーキンズらのミュージシャン、詩人のアン・ウォルドマン、さらにはハリー・ディーン・スタントンなどの俳優たちが出演している。サム・シェパードもすこしだけ映っている(それが監督のテレンス・マリックの目に止まったのがきっかけとなって、一九七八年の映画『天国の日々』に出演することが決まったという)。
(略)
『レナルド&クララ』はアメリカではまったく評価されなかった。しかし、ヨーロッパではかなり評価され、のちにはテレビで放映されたりもした。アメリカでの不評の理由は、それが従来の映画という概念からはまったくかけはなれていたせいだった。
(略)実験映画、あるいは映像作品というものに理解がない、いいかえれば、映画に対する固定観念が大きいためだった。
(略)
『レナルド&クララ』は、ふつうの映画とはまったくちがう方法でつくられていた。撮影の場面では、何らかの場、状況が設定されたあと、役を演じる者たちは決められた台詞を語るのではなく、大まかな方向とキーとなる用語をあたえられ、それを自分のことばで即興で語る方法がとられたという。したがって、役の台詞を語っていながら、実際は自分のことを語っていることになる。サム・シェパードが、それにどの程度関わっていたのかはよくわからない。撮影が進むにつれて、映画が分裂して、何をやっているのかわからないとサムが書いている箇所がある。それもおそらく、そういった変わった方法のせいだったろう。ディランをのぞく全員が行く手を見失っているような状態だったのではないだろうか。
しかし、この映画が変わっていたのはそれだけではなかった。ディランは撮影したすべての映像(コンサートの映像もふくめて)を、テーマ別、基調となる色別などさまざまに分類してインデックスをつけ、それを彼にしかわからないやりかたで再び構成した。そこでは、たくさんの映画の通常の論理が破られていた。たとえば、できごとの前後関係は無視されていたし、別の場面の音がかぶせられた場面や、バックの音楽が大きすぎて台詞がほとんど聞こえない場面があった。また、ひとつの役をふたりの人物が演じていることもあった。この映画をどのように評価すべきなのか、いまのところわたしにはわからない。ただし、それを断片的に楽しむことができる。演奏の場面はもちろんだが、ほかにもいくつかおもしろいところがある。しかし、わたしも、映画に対する固定観念に縛られているようだ。知らないうちに、この場面はどういう意味があるのか、登場してくる人物に、シンボルにどのような意味があるのかなどと考えてしまう。ただひとついえるのは、ディランは音楽をつくるように映画をつくろうとしたのではないかということだ。わたしには、登場人物、度々登場するシンボル、テーマが、ギターやドラムなどの楽器、あるいはそういう楽器がつくるリフのようにあつかわれているように思える。そう、音楽を聞くときには、ストーリーがどうのこうの、意味がどうのこうのとは考えない。ただ感じるままに感じとる。意味を考えるのではなく、意味を(それがあるとすれば)感じとる。きっと、この映画も、そういうふうに見るべきなのだろう。
(略)
ディランは最初から映画をこうしたものにしようという気持ちでいたようだ。本書の初めのほうで、サム・シェパードがディランと初めてあうところがある。そのとき、ディランは彼に「関連性をもたせる必要はない」と語っている。また、もうひとつ、ポール・ウィリアムズが書いているところによると、ディランが映画をつくりたいと思いはじめたのは、一九六六年ツアーのドキュメント映画《Eat the Document》を編集したとき(略)材料となる映像に大いに不満を持ったという。そしてこの映画のときには、最初からたくさん材料を集めようという意図があったようだ。
(略)
ローリング・サンダー・レヴューのあと、一九七八年のツアーではディランはふたたびアーナ・ツアーをおこなう
(略)
ディランはライヴで演奏することを愛し、それが自分にとってはいちばんたいせつなことだと考えるアーティストだ。レコードをつくるのは、そのためだと発言したこともある。そして同時に、彼にはつねに、自分はこうやりたい、こうやらなければならないというものがある。それは、人がどのような期待を持っているかということとは関係がない。(略)
ディランの場合はそういう妥協を自分に許さないことが多く、その結果コンサートが戦いの場となることが多かった。少年ころ初めて人の前で音楽を演奏したとき、大きな音を出しすぎて電源を切られたのに、それでも演奏をつづけた話。一九六六年のイギリス・ツアーの、エレクトリック演奏に対する敵意のなかでのコンサート。一九七九年のゴスペル・ツアーに対する非難。とくにアリゾナ州テンピのコンサートは、つたえきくかぎりではまるで喧嘩のようだ。しかし、それでも彼は演奏をつづける。そこには、アーティストとしての自分がなすべきことを追求し、人々の期待の奴隷になることを拒否する真摯な姿勢が感じられる。しかも、彼は直感的に、その行動をとる。このローリング・サンダー・レヴューもまた、既成のロック・ツアーに反抗する場であった。そのディランは一九八八年からネヴァー・エンディング・ツアー(終わりのないツアー)という名のツアーをはじめ、現在もそれをつづけている。(略)
できるかぎり大きな会場を避け、いっさいの趣向を排して、少ない人数の基本的な構成のバンドをバックにして、自然な演奏をおこなっている。一九九二年にわたしが見たパンテージ・シアターの収容人員は二千人ほどだった。
(略)
一九九三年夏 菅野彰子
ディランから電話
ジョニー・ダークが運転している。(略)
「ディランはもう、六〇年代にやったみたいなことをやってくれそうにはないな」ふいにジョニーがいう。「(略)ディランの時代はもう終わったんだと思う」(略)
ディランのことは遠いまぼろしのように思える。
(略)
「ディランはいまでもいい歌を作るが、昔のようじゃないってことだ。『みんなストーンするべきだ』がジュークボックスにちゃんとあったんだ。(略)チーズバーガーを食いながら、おおっぴらな場所であの歌を聞けるなんて信じられなかった」
(略)
[家に戻ると]テーブルの上に緑色のメモがある。「ディランから電話あり――かけなおすとのこと」
(略)
電話をしてみるが、ディランはいない。かわりに、電話は秘書、弁護士、会社重役へとまわされる。
(略)
「(略)ご説明いたします。ボブは秘密の北東部ツアーを計画しています。彼はそれをローリング・サンダー――ローリング・サンダー・レヴューと呼んでいます
(略)
彼はツアーの映画を撮ろうとしていて、脚本家を探しているんです」
(略)
「たいへんにプレッシャーの大きい状況になります。プレッシャーのなかでの仕事には慣れておられますね?」
「ええ、ええ、だいじょうぶです。(略)」
「けっこうです。いつ出発できますか?」
結局、こういうことなんだ。ディランが呼べば、人はすべてを捨ててとんでいく。セイレンの魔力にひきよせられるように。(略)
ルー・ケンプ
商売は魚屋。ロックンロール業界で作戦を展開していないときには、アラスカで鮭の缶詰製造業に専念する。ローリング・サンダーの運営を指揮するために招かれた、ディランのミネソタ時代の幼友達。(略)
関連性をもたせる必要はない
マンハッタンのミッドタウンの夜。
(略)
インド香の強烈な甘いにおいがたちこめている。大きな青いノートにメモをとっている魔術師マーリンのようなアレン・ギンズバーグ
(略)
ボビー・ニューワースが六〇年代の昔のよしみでぼくに挨拶する。
(略)
ジョーン・バエズがなつかしいブガルーを踊る。彼女の姿はすばらしい。ぼくはいままで彼女をセクシーだと思ったことはないが、いまは確実にセクシーだ。
(略)
奥の部屋にはいると、そこに彼がいる。(略)
彼は青い。(略)目から着ているものまで、何もかもが青だ。彼が最初にぼくにいったことば。(略)「関連性をもたせる必要はない。ほんとうのところ、関連性のないほうがいい」ぼくは(略)生半可な「シュールレアリズム」のようなものを想像しはじめる。
(略)
彼のうしろでは、ハリケーン・カーターの歌の共作者のレヴィが受話器を口に押しつけて、名誉毀損で訴えられるかもしれないという歌詞について、弁護士と激しくやりあっている。
(略)
「『天井桟敷の人々』を見たことがあるか?」と彼は訊く。見るには見たが、遠い昔のことだとぼくは答える。(略)「それでは『ピアニストを撃て』は?」
「ええ、それも見ました。ああいう種類の映画をつくりたいのですか?」
「そんなところだ」彼は向きをかえ、自分の足を見てうなずく。このとき初めて、ぼくは彼の沈黙の才能を実体験する。すき間を埋めようとはせず、ことばをちゅうぶらりんのまま空中に放りだし、こちらの頭のなかでそれが再生されるのを待つ。ぼくは、ホテルのバスルームでランブリン・ジャックのシーンを撮影する計画があることを話す。一瞬、ディランの顔が明るくなる。
「ぼくは、この街を出るまで待たなくてはならない。いまはただ、ここからぬけだしたい。旅に出たなら、映画のことをもっと考えられるだろう。いまはただ、ここを出るのを待っている」
ミック・ロンソン
イギリスのギターヒーロー。すべての母親が娘に近づくなと忠告するタイプの男。山火事のようにローリング・サンダーを襲った「化粧熱」の中心的煽動者。バン、バン!
ユダヤ人女性たちの麻雀大会
マサチューセッツ州ファーマスのシークレスト・ホテル。(略)中年をすぎた大勢のユダヤ人女性が(略)白熱したマージャン大会のまっ最中(略)
ホテルの支配人が「アメリカ最高の詩人アレン・ギンズバーグ氏!」による特別な詩の朗読があると発表
(略)
母親たちの反応は、アレンの朗読が進むにつれて、忍耐強い黙認から当惑したしのび笑いへ、率直な嫌悪へと変わる。アレンの低いうなりのようにひきのばされる母音のサウンドが、ますます悲しげに、ますます執拗になる。ディランはうしろのほうで壁にもたれてすわり、目を帽子で隠して静かに聞いている。ぼくはプロテスタントの環境に育ち、そのせいでここの空気には理解できないものがあるが、それが爆発に近づいているのはわかる。世代にまつわる何か、母親にまつわる何か、ユダヤ人であることにまつわる何か、ユダヤ人として大きくなることにまつわる何か、「カディシュ」にまつわる何か、祈りにまつわる何か、あるいはアメリカにまつわるといってもいい何か、詩人と詩人のことばづかいにまつわる何か、とりわけ生まれついた宗教の外側に、ひとつの人格を創造したディランにまつわる何かがある。放浪する詩人としての自分を自分でつくりあげ、そしていま自分の起源、自分が継承したものに対面してすわっているディラン。それらの起源を自分のなかに受けいれ、それを対極の場所へ運び、東洋神秘主義、ヘルズ・エンジェルズの瞑想、LSD、政治、ことばの音楽から成る奇妙な混合体につくりかえたギンズバーグ。婦人たちはつづけて聞いている。海辺のリゾートホテルにとじこめられて。逃げだすためにやってきた場所で、彼女たちはとじこめられている。アレンはさらにつづける。(略)
壮大な詩が「癌」の箇所からフィナーレに進むと、婦人たちは顔をしかめる。詩が終わると、意外にも拍手が起こる。アレンは彼女たちに礼をいって壇をおり、早足で去る。ジョーン・バエズが紹介され、安堵の歓迎を受ける。彼女はアカペラで「揺れるよ、幌馬車」を歌い、婦人たちは熱狂する。天才児のデイヴィッド・マンスフィールドが小公子のように見える姿で、フィドルを持って壇に上がり、クラシック・ヴァイオリンのテクニックでみんなを感動させる。彼の表情は変わることがない。バンドといっしょにすばらしいスライド・ギターのリフをひいているときにも、表情はおなじだ。それは、聞いている表情。自分の音楽にこめられたものに懸命に耳を傾ける表情。彼は確実に第一級のミュージシャンだ。そして大型爆弾が登場する。ディランが舞台に上がり、長いあいだ中流階級好みの三〇年代、四〇年代のビッグバンド・サウンドを演奏するためだけに使われてきたおんぼろの古いアップライトピアノに近づく。彼はすわり、細い指を鍵盤に突きさし、激しい調子で「運命のひとひねり」をひく。これこそディランの本領。彼はこれで場に火を放つ。五分もたたないうちに、会場は熱い炎に包まれる。ご婦人たちは飛びはねて、コルセットのなかでからだを揺する。ピアノ全体が揺れて、木製の舞台からころがり落ちそうになる。ディランのカウボーイブーツの踵が床にくいこむ。ロジャー・マッギンがギターをかかえて現われ、ニューワース、それにバンドの全員がくわわって、やがて会場の空気の分子のすべてが爆発する。これこそ、ディランの真の魔法。すこしのあいだ、彼の歌詞づくりの才能のことを忘れ、彼が持つこの変容のエネルギーに目をむけよう。ついさっきまで、この場所には緊張と戸惑いがみなぎっていたが、彼がそれを追いはらった。部屋に熱っぽい高揚した感覚を吹きこんだ。人を行きどまりに追いやるエネルギーではなく、勇気と希望と、そしてとりわけ生命力を人々のなかからひきだす種類のエネルギー。
ロックンロール天国
(略)ストーナーのお気に入りはジーン・ヴィンセント、Tボーンのはバディ・ホリー。(略)
ぼくたちは「ロックンロール天国」のシーンを撮影する。(略)
Tボーンが扮する「バディ・ホリー」が登場し、自分がヒーローと仰ぐジーン・ヴィンセントがさきに到着しているのを知って、ショックを受ける。
(略)
ここから、おもしろい実験映画的な試みがはじまる。練りあげられた脚本、あるいは撮影のシナリオといったようなものをつくるという考えは、もうなくなっている。ミュージシャンたちには、あき時間をつかって台詞をおぼえて自分を参らせる気などまったくないのが明白だからだ。彼らはリハーサルをするかコンサートをするかジャムをするかして夜をすごし、朝の六時か七時には宿を出発する。ふたり以上のミュージシャンを同時にカメラの前に立たせることもむずかしい。だからぼくたちは、大ざっぱな設定だけを決め、あとは即興のシーンを撮ることに決めた。このときには、一行の全員が、Tボーンとストーナーがこの場面を撮影しているのを聞きつけて、集まってくる。突然、バエズが赤いかつらをかぶり、ホットパンツにブーツという姿で、口いっぱいにガムをほおばって現われる。ジーン・ヴィンセントに熱をあげるグルーピーに扮している。ニューワースは、鞄にいいものを詰めこんだドラッグ・ディーラーみたいななりではいってくる。彼はいくつもの壜をあけ、ビタミン剤をべランダにまく。「あなたのために催眠剤をお持ちしました。ハンクのお好みです。こっちの袋はカリフォルニア式トリップ剤です」そこいらじゅうに錠剤が飛びちっている。場面はますます白熱し、登場人物の動きが激しくなり、やがてハンディカメラが追いきれなくなる。たくさんのことがいちどきに起こりすぎている。砂浜で午前中の散歩をしていた年配の男女が、事態に目を丸くする。泳いでいた人たちが、何ごとかたしかめようとしずくをたらしながらやってくる。シーンの指揮をとることも、カメラのアングルを調整するために動きを止めることもできない。いっときに吹きだしたマルクス・ブラザーズ的なもの。何をする術もなく、ただ流れにまかせ、いま感じているすてきなものを伝えるよい映像がフィルムにおさまっていることを願うしかない。やっとすべてが静まり、極彩色のビタミン剤と赤いかつらとドライヤーという痕跡を日のあたるなかに残して、全員が昼食にむかう。
Tボーン・バーネット
気のきいたことばとは無縁のTボーン・バーネットがぼくのうしろをうろついている。彼には独特の狂った感じがある。ツアーの一行のなかでは彼だけが、自分の暗く激しい面をうまく抑えていないように見える。彼が恐ろしい人間だというのではない。ただひどく変わっている。ぼくは、ディランが吹きあれる竜巻のように「激しい雨が降る」を歌っているリハーサル場に顔をむけ、前かがみに籐椅子に坐っている。Tボーンは十フィートごとにUターンをし、ぼくのうしろを往復する。トニー・ラマのカウボーイブーツの踵を百八十度回転させてかがみこみ、顎をぼくの首のすぐそばに持ってくる。ぼくは動かない。ロワー・イーストサイドで強盗にあったような気分だが、彼のことばに耳をかたむける。テキサス訛りが耳の骨を押しつける。「あの人のおかげで、おれは誇らしい気分がする。最初のスーパースターだ。彼はおれに生きる理由をあたえてくれた。いまはもう、一日に十回撃たれたっていいぐらいの気分だ」Tボーンはもう一度むきをかえ、暗闇に消える。
墓の上で歌う
墓の上で歌う 十月、ロウエル
アレンはケルアックのお気に入りのシェイクスピアの一節を引用する。「わたしのいない冬がどのようであったか……わたしがどのような寒さを味わったことか、どのような暗い日々を見たことか!なつかしい十二月の荒廃がいたるところにある!」彼が死んだのは年の終わり近くだった。裸の木々、吹きだまった枯れ葉の毛布。ディランとギンズバーグは脚を組んで地面にすわり、草になかば埋もれた大理石の小さな墓碑にむきあう。「タイ・ジャン(リトル・ジャック)、ジョン・L・ケルアック、一九二二年三月十二日生、一九六九年十月二十一日没。彼は生を全うせり。妻、ステラ、一九一八年十一月十一日生」ディランはマーティンのチューニングをし、ギンズバーグは小さな靴箱型のハーモニウムから芝生にひろがる音を出す。やがてふたりが交替で一番ずつ演奏するうちに、スローなブルースが形をとりはじめ、そしてアレンが即興の詩を語りはじめる。大地に、空に、この日に、ジャックに、人生に、音楽に、虫たちに、埋められた骨に、旅に、アメリカ合衆国に捧げる即興詩だ。ぼくは正面からふたりを見ようとする。ふたりがどういう人物であるか、ふたりが何であるかを考えず、ただ自分の前にいるふたりを見ようとする。彼らが、心に目的を秘めた単純な男たちに見える。ふたりはたがいに対立し、それでも調和している。生き生きと、死者と生者に歌を捧げている。木の下の大地、いくつもの骨の上の地面にすわりこみ、聞こえてくるものを聞いている。
ディランは自分自身を発明した
ディランは自分自身を発明した。彼は何もないところから自分をつくりあげた。自分のまわりにあったもの、そして自分のなかにあったものから、自分をつくった。たいせつなのは、彼がどういう人間かを知ることではなく、そのままの彼を受けいれることだ。どちらにしたって彼はきみをとりこにする。だったら、受けいれるほうがいい。自分を発明した人間は彼が最初ではないが、ディランを発明したのは彼が最初だ。彼の前に、それをしたものはいなかった。彼のあとにもいない。人が自分の外側に、飛行機や貨物列車みたいに何かをつくりあげたときに、何が起こるのか?みんなが、その人のありのままの姿を見るようになる。それまでに見たことがないから不思議なものとして見られるが、それは受けいれられ、その過程でみんなの人生を変える。みんなは、それがどんなものなのか、どんなものでないのかをつきとめるのに長い時間をかけたりはしない。みんなは、それをつかって自分の冒険をする。
ペダル・スティールのいたずら
バンドがのんびりしたカントリー曲をやっている。リハーサルとは呼べない。なぜなら、みんながこれをとても楽しんでいるから。ディランは古いひじかけ椅子にすわり、レバーソーセージを噛んで遠くからバンドをながめる。コードチェンジにあわせて首をふっている。ある者はすわって食べ物を口に入れ、ある者は高額の金を賭けてコンピューター・ピンポンをやっている。(略)
ふいにディランが立ちあがり、レバーソーセージをおき、すたすたとひく者のいないスライドギターのところへ行く。椅子にまたがり、舌をのぞかせて、重たいクロム製のバーを持ちあげ、曲にあう音と音階を探そうとする何人かがふりかえるが、だれもあまり期待していない。ハワイアンギターはディランの得意とするところでない。バンドは演奏をつづけ、ディランは音を探しつづけるが、音は高すぎたり低すぎたりする。バンドがやっている演奏全体をぶちこわさないよう、音量は下げてある。ディランは背を大きくまげてスティール弦をのぞきこむ。修理工が小さな外国製の車からエンジンをとりだそうとするかのように、すきまのどこかに何かがあるのを見ようとするかのように。約十分間、熱心にそれをつづける。いまにも彼が天才的なひらめきで、すべてを発見しそうに思える。しかし実際には、彼は大きく息を吐いて背をうしろへそらし、音量を上げ、でたらめのジョン・ケージ的な音を放つ。バンドはすこしも騒がず、それにあわせる。ディランの手は弦の上をすべり、もういっぽうの手は遠くにある冷えた中華料理をつつくように弦をピックする。ニューイングランドのジャズ・ジャンバラヤ・ロックンロールが耳をつんざく唸りをあげるなかで、ピンポン・ゲームがつづく。
名高いカーテン・トリック
(略)[第一部が終わり]幕が下りて、休憩にはいる。(略)
[15分の休憩後]突然、場内の明かりが暗くなる。客は歓声をあげる(略)二本のアコースティック・ギターの音が聞こえる。どこから聞こえてくるのだろう?(略)
幕はおりたままだ。やがてだれが歌っているかがわかる。まぎれもなくディランだ。しかし女性はだれなのか?そして客は一瞬のひらめきでそれを理解する。
(略)
あの高くて女らしい声がディランのバックで歌っている。ただ歌うのではなく、ディランとひとつの声になっている。マーティン・ルーサー・キング、ワシントンDC、一九六四年、ケネディ、バーミンハムの光景、あの十年間のさまざまなイメージの洪水が、「風に吹かれて」のことばにのって押しよせる。幕がゆっくりとあがり、ふたりが現われる。アメリカという壮大な詩の右手と左手のようなディランとバエズが現われる。そのまま聴衆は心を深くとらえられる。感情が大きく轟き、ディランとバエズの歌声は聞こえない。拍手の洪水のなかで、ふたりはパントマイムをする。バエズの姿はすばらしい。黒いヴェルヴェットの上着を着たスポーツ選手のようで、メキシコ系の漆黒の髪をフォーク時代よりずっと短くカットしている。ほかのだれもおよばないほど完璧に、ディランとひとつになっているように見える。まるで、前にその横に立ったことがあるから、彼の動きのすべてがわかるのだというように。彼女の場合は、ディランの口許をみつめなくても、突然ことばの区切りかたを変える歌いかたについていける。彼女はそれをからだのどこかで知っている。
ジョニ・ミッチェル
ただステージに出ていく人、ギターひとつとベレー帽とことばのコラージュの歴史だけを携えて、ステージに出ていく人がいる。どのときも、場内は山火事のように熱い煙をあげる。ジョニ・ミッチェルはステージに立ち、すでにチューニングしてあるギターをあわせるふりをして、みんなが静かになるのを待つ。会場がこんなに沸くのは、彼女の参加を知らなかった聴衆がおどろいて喜んでいることも理由のひとつだが、もっと大きな理由がある――それは、彼女が歌うことばのひとつひとつに、みんなが耳を傾けているという事実だ。彼女の音楽はすさまじいという種類のものではないが、そのことばのあつかいかたは超人的だ。「わたしの頭は困惑と強い、強い、強い渇きでいっぱい」彼女はユニークなジャズ構成に歌詞とリズム・パターンを合体させ、それで大衆の耳に噛みつくことに成功しているように思える。
秘密会議
(略)
ぼくは暗いダイニング・ルームでルー・ケンプひとりを相手に「映画を軌道に乗せるために何が必要か」に関する秘密会議をしている。彼の考えは、コッポラかオーソン・ウェルズを呼んできて、撮影のすべてをまかせることだ。「わたしたちは大物をねらっているんだ。わかるかね」わかりはするが、ぼくは賛成できない。
[関連記事]