ジョージ・オーウェル その2

 

カタロニア讃歌』  

われわれは希望が無気力やシニシズムよりもふつうである社会にいた。「同志」という言葉が、たいていの国でのようにまやかしの言葉でなく、本当の同志的連帯を意味するコミュニティにいたのだ。そこでは平等の空気が吸われていた。今日、社会主義と平等の結びつきを否定するのが流行っているのを私はよく知っている。世界各国で、政党御用評論家や口先達者のろくでもない学者先生たちが、寄ってたかって、社会主義とは独占欲を手つかずで残しておいたままの計画的な国家資本主義であることを「証明」するのにやっきとなっている。けれども、幸いなことに、そんなものとはまったく異なる社会主義のヴィジョンも存在するのだ。(略)

社会主義の「神秘」とは、平等の理念である。大多数の人びとにとって、社会主義とは、階級のない社会を意味する。そうでなかったらなにも意味しない。民兵隊での数カ月が私にとって価値があったのは、まさしくこの点においてである。スペインの民兵隊こそ、それが存続していたあいだは、階級なき社会の小宇宙とでもいうべきものだったのだから。(第七章)

 

 『カタロニア讃歌』の明るいトーンの所以がここに示されている。(略)「希望が無気力やシニシズムよりもふつうである社会、人間の人間らしさ」が損なわれずにある社会が現実にありうるのだという発見が、スペインで得たかけがえのない収穫であった。バルセロナに到着してまもなくイタリア人の民兵とかわした握手(略)、待避壕の焚火のなかに「冗談」で手榴弾を投げ込んだ部下の少年、あだ名が付いた不発弾、「バター付きトースト」のプロパガンダ、夜明けに歌いだすアンダルシア人の歩哨(略)

「冬の寒さや、ぼろぼろの民兵服や、スペイン人の卵形の顔や、モールス信号のような機関銃の銃声や、汚い皿でがつがつかきこんだビーン・シチュー」などを想起しつつ、彼はこう書く。「[戦場でのさまざまな労苦が]起こっているときは堪えがたいものだった。けれども、そこはいまや、私の心が草を食む良き牧草地となっている。(略)私は、記憶のなかで、思い出すにも値しないと思えるほど些細な出来事を、ふたたび生きなおす」

(略)

カタロニア讃歌』の最終段落は、スペイン内戦で辛酸をなめたオーウェルが、英国ののどかな(のどかすぎる)田園風景と都市ロンドンを換喩的な表現で記述してから、「英国はすべてが深い、深い眠りについている。その眠りから私たちがようやく覚めることになるのは、爆弾の轟音によって跳び起きるときなのではないかと、私は時々心配になる」と結んでいる。

 イギリスを巻き込む二つ目の大戦争の予感を語るところでオーウェルは筆を擱いている。

『ライオンと一角獣』 、愛国心

本書の狙いは、「ブリッツ(空襲)」のさなかで民主的社会主義者として「イギリス革命」を説き、イギリスの将来について、基幹産業の国有化、所得制限(富裕層への規制)、貴族院の廃止、教育制度改革(階級的差別のない教育制度の確立)、インド植民地の解放など、社会主義体制の樹立に向けた提言をおこなうことであった。その革命を導く重要な力としてオーウェルは「愛国心」を持ち出している。「革命」と「愛国心」は一見ミスマッチで、いまの日本語の一般的な語感からすると「愛国心」は極右、あるいは歴史修正主義者の振りかざす用語であるように思える(略)

オーウェルはそうした否定的な意味合いは「ナショナリズム」という語に負わせて、両者を対照的に使い分けている。(略)

パトリオティズム」が「特定の場所と特定の生活様式への献身」を意味する防御的な概念であるのに対して、「ナショナリズム」はつねに権力欲と結びついた攻撃的な概念としてとらえる。「すべてのナショナリストの不変の目標は、より大きな権力、より大きな威信を獲得すること、それもけっして自分自身のためではなく、彼が自分自身の個性を没入させることを選んだ国なりなんなりの単位のために獲得すること」なのである。(略)

愛国心保守主義とは無関係で、むしろ保守主義とは反対のものである。なぜならそれは、つねに変化しながらも、なんとなくおなじものだと感じられているものへの献身なのだから。それは過去と未来をつなぐ橋である。真の革命家が国家主義者であったためしはない」。

(略)

鶴見俊輔が解説するように、「パトリオティズム」とは「時の政府にたいする服従」を意味するものではなく、日本語ではむしろ「郷土愛」という言葉のほうが近い。「おさない時からおなじ土地にそだち、そこでおなじ言葉をつかって一緒にくらしてきたものの間にうまれる親しみが、人間を底の方から支えるという思想」(略)にほかならないからだ。

戦況ニュース解説、検閲

 BBCの上層部はオーウェルの手腕を認め、もっと長く勤務をつづけさせたかったのだが、本人は嫌気がさして二年で辞めた。(略)

「私が辞表を出すのは、なんの結果ももたらさないことをするのに私自身の時間と公金を浪費しているのだとここしばらく痛感しているからです。現下の政治情勢ではイギリスのプロパガンダをインドに向けて放送するのは絶望的な仕事だと考えます。

(略) 

右で説明しているような英政府によるインド向けプロパガンダ放送の無益さという理由に加えて、官僚的な機構になじめなかったのが大きかったのだろう。おそらくいちばん耐え難かったのは検閲であった。情報省の厳しい管理下で放送前に台本は二度の念入りな検閲を受けねばならなかった。一九四三年六月には新米の検閲係がオーウェルの原稿をチェックし忘れて、そのまま放送してしまう「放送事故」が起き、陸軍省や情報省からBBC会長に苦情が寄せられた。その後はオーウェル専門の「スイッチ検閲係」が張り付くことになった。検閲済みの台本から逸脱したらスイッチを切って生放送を中断する係である。また情報操作に不本意ながら手を染めざるをえなかった。戦略的な必要から、同僚がおこなう事実の歪曲を黙認しただけでなく、日本軍がソ連侵攻を計画中だとする情報を嘘と知りながら流すこともしている。

 とはいえ、BBC勤務はオーウェルにとって無益な日々でしかなかったとは言えない。(略)

[『動物農場』『一九八四年』]の世界に深く関わる経験をBBCで得たというのは決定的であろう。ドイツに対抗する情報戦に直接したことによって、近代にマスメディアが果たす重要な役割をリアルに認識したのだし、日常的にうけた検閲は出版・表現の自由をめぐる考察を深めたはずである。さらに(略)[「ベイシック・イングリッシュ」]にオーウェルは戦前から関心をもっていたが、一九四三年秋にチャーチルの指示でBBCでのその導入が検討され、同僚のウィリアム・エンプソンがその任についた。『一九八四年』の「ニュースピーク」は、全体主義体制が自己保全のために「ベイシック・イングリッシュ」の原理を盗用した場合にどうなるか、そのネガティヴな帰結を極限まで推し進めたものと言っていいだろう。(略)

BBCの食堂も「真理省」内の寒々しい食堂の描写におそらく生かされている。

(略)

[20歳の鶴見俊輔はジャワ島で海軍軍属として連合国のラジオを聴取し情報をまとめていた際に、オーウェルの放送も聴き]

「他の放送にくらべて、平明であり、単純に世界の情勢をつたえ」ていることに印象づけられた。

(略)

 のちに鶴見は日本におけるオーウェルの仕事の紹介者のひとりとなった。

 『動物農場

[同盟国とスターリンを批判していることが時局に合わないとどこからも断られ、話を聞きつけたフレドリック・ウォーバーグが原稿を読み、出版を了承。紙不足の影響もあり]

ようやく刊行されたのが一九四五年八月一七日、日本がポツダム宣言を受諾して降伏した三日後のことだった。

 初版四五〇〇部はたちまち売り切れた。紙不足のためすぐには増刷できず、同年一一月にようやく二刷一万部が出た。米国版は四六年八月に初版五万部が刊行され、会員制のブック・クラブである「月間優良図書クラブ」の推薦図書に選定されて二刷五〇万部が刷られた。

(略)

 『動物農場』は、ソヴィエト批判のテーマであることが障壁となって出版まで一年半もかかり、結果としてちょうど終戦時での出版となった。これはイギリス(および西側諸国)の対ソ関係で潮目が変わる時期だった。商業的に見れば絶妙なタイミングで、出版社にとっても著者にとっても大成功という。ことにはなる。じっさい、一九四六年になってオーウェルは作家人生のなかで初めて金に困らない境遇となった。だが、そのタイミングは、まもなく本格化する冷戦の文脈のなかに置かれて、西側の資本主義陣営からソヴィエト共産主義を叩く「反ソ・反共」の作品というふうに読解の幅を狭めてしまうことにつながり、オーウェルのそれまでの仕事を知らない読者層から色眼鏡で見られる結果を招いた。なによりも米政府が『動物農場』と『一九八四年』を積極的に冷戦プロパガンダに利用していったのである。 このように利用されるのはオーウェルの本意ではなかった。

「復讐は苦し」 

[ドイツ降伏後の現地取材によるエッセイ「復讐は苦し」で]

ドイツ南部の捕虜収容所で目撃した出来事について書いている。(略)[案内人]のユダヤ人が、いまや囚人となったナチス親衛隊員を見つける。(略)強制収容所の責任者として拷問や処刑に関与していたと思われる男で、案内人は「この豚野郎」と男を罵り、さんざん蹴り飛ばす。(略)

その復讐行為(略)も無理からぬことではある、そうオーウェルは思いつつも、蹴られている男の様子を見ると、挙動不審で明らかに精神を病んでいる。ナチの拷問者として怪物だったのが、縮んで哀れな姿になり、いま必要なのは処罰というよりも、なんらかの精神的治療であるのは明らかだ。そういう相手に復讐行為をしても本当は愉快ではないだろうとオーウェルは内心で思う。「復讐というのは人が無力であるときに、無力であるからこそ果たしたいと思う行為である。無力感が取り除かれるやいなや、そうした欲求も雲散霧消してしまう。(略)怪物の処罰はそれが可能になったときにはもうそうする魅力がなくなってしまうようだ。

(略)

 もうひとつの思い出としてオーウェルはベルギー人の記者とともに、連合軍によって破壊されたシュトゥットガルトの町中に入っていったときのことをおなじエッセイで語っている。

(略)

[転がっていたドイツ兵の死体に]ライラックの花束が供えられている。(略)

連れのベルギー人記者は死体を見るのはこれが初めてだとオーウェルに打ち明ける。そしてそれまで「ドイツ野郎」に過酷であったのに、そこで「哀れな死骸」を見たあとはドイツ人に対する記者の態度は軟化する。

(略)

これを発表した頃、イギリス国内の世論はドイツに対する過酷な講和条件を支持しており、多くの国民がいわば復讐に燃えていた。そうした読者に対して復讐の「苦さ」を強調する、味わい深いエッセイである。

「文学の禁圧」 

 「文学の禁圧」(『ポレミック」一九四六年一月)は、全体主義体制のなかで文学的営為は可能か否かという問題を扱っている。「社会の支配層が全体主義化するのは、その構造がはなはだしく人為的になるとき、すなわち支配階級がその機能を失いながらも武力や欺瞞によってまんまと権力にしがみつくとき」であるとオーウェルは指摘する。「そのような社会は、どれだけ長続きしようとも、寛容な社会にも知的安定を得た社会にもなれない。事実を忠実に記録し、感情を誠実に述べることが文学創作には求められるのであるが、全体主義社会はそのいずれも許容できない」。じっさい、全体主義は「過去のたえざる改変」を、ひいては「客観的事実の存在そのものへの不信」を要求するだろう。『一九八四年』の重要な主題がここに論述されている。

 おなじ論考で著者は大衆を馴致して政治刷新への芽を摘む仕掛けとしての文化産業にも言及している。全体主義体制では「低級な扇情的小説のたぐいは残るかもしれない。人間の積極的な精神を極力削減した一種の流れ作業方式でそれは生産される」のではないか。「機械に本を書かせることも工夫次第では不可能ではないだろう。一種の機械的工程が映画やラジオ、広告や宣伝、また低級なジャーナリズムで使われているのがすでに見て取れる」。その究極のかたちとして、『一九八四年』の真理省内部の虚構局という「プロール向けの文学、音楽、演劇、娯楽全般」を扱う部局において、「スポーツと犯罪と星占いの記事ばかりのくだらない新聞、扇情的な五セント小説、セックスばかりの映画、そして作詞機 という名の万華鏡のような特殊な機械でひたすら自動的につくられるセンチメンタルな歌謡曲」が恒常的に製造・散布されるさまをオーウェルは描きだすことになる。 

ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌

 

 船旅の思い出

 エリック・ブレアをのせたスクリュー汽船ヘレフォードシャー号は一九二二年一〇月二七日にリヴァプールを出港、途中マルセイユコロンボに寄港し、四週間後にラングーン(ヤンゴン)に到着した。インド生まれとはいえ、一歳でイギリスに移っているのでその記憶はなく、マルセイユでフランスの地を踏んだのが、物心ついてから初めての海外経験だった。一等船室の乗客であったブレアはこの航海で長く記憶に残る見聞をしている。

(略)

四十がらみの年季の入った白人の操舵手で、豊かなブロンドの口ひげをたくわえ、前腕も金色の毛で覆われている。豪華客船で乗客の命を預かるこの操舵手の働く姿をブレア青年は神のごとく仰ぎ見ていた。ところがある日、甲板上でその操舵手が、半分食べかけのカスタードプリンが入った皿をこそこそと持ち帰っていく姿を目撃する。乗客の食卓で出た食べ残しを給仕長がこっそり与えたものであるのが見てとれた。二〇年以上たっているのにそのときに感じた衝撃を忘れられないと彼は書いている。「この出来事をあらゆる角度から見るにはしばらくの時間が必要だった。だが職務と報酬との落差をこのように突然見せつけられて、つまり高度の特殊技能を備えていて、われわれの生命を文字どおり手中に握っている人間が、われわれの食卓から喜んで残飯をくすねるさまを見せつけられて――五、六冊の社会主義パンフレットから得られる以上のものを私は教えられたのだといったら、大袈裟すぎると思われるだろうか」

困窮

 「物書き」としてのエリック・ブレアの初めてのエッセイはパリ滞在中の一九二八年一〇月に発表された。

(略)

 ジャーナリズムの仕事がいくつか新聞・雑誌に掲載されたとはいえ、本を出したいと思ってもスムーズにはいかない。パリ滞在中の一九二九年六月には二六歳になった。同世代の何人かはすでに文壇で注目を浴びる作家となっている。イーヴリン・ウォーはD・G・ロセッティ伝と最初の小説『大転落』を一九二八年に立て続けに刊行していた。シリル・コナリーも文芸批評家として頭角をあらわしていた。パブリック・スクールからオクスフォードやケンブリッジへという進路を辿った者たちと、英領ビルマで埋もれていた自分とのハンディキャップを痛感していたのではあるまいか。『葉蘭をそよがせよ』(一九三六)で主人公のゴードン・コムストックが店員を務める貸本屋古書店で、「イートンからケンブリッジへ、ケンブリッジから文芸誌へと、かくも優雅に滑り込んでいった、金のある若い畜生どもがものした無難な画家や無難な詩人についてのお高くとまったお上品な本」が書棚の好位置に並んでいるのをいまいましい思いで眺めている様子(第一章)は、ハンディを負ってなかなか芽が出ないブレア自身の鬱積した感情をよくあらわしているといえるだろう。じっさい、彼が本を出すまでにはさらに四年の期間を要するのである。

命名ジョージ・オーウェル

 先ほど引いたムーア宛の手紙で『パリ・ロンドン放浪記』の「匿名での刊行」を希望する旨が記されていた。じっさい、一九三三年一月にこれがゴランツ社から刊行された際に初めて「ジョージ・オーウェル」の名前を用いることになった。ただし評論や書評についてはしばらく本名のエリック・ブレアを使いつづけている。

(略)

ムーア宛の手紙のなかで、ペンネームの候補をいくつか挙げている。浮浪生活をしていたときにはP・S・バートンを使っていた。だがこれがふさわしい名前でないなら、ケネス・マイルズ、ジョージ・オーウェル、H・ルイス・オールウェイズのいずれかでどうかと問い、「このなかではどれかといえばジョージ・オーウェルが気に入っています」と言い添えている。結局これでジョージ・オーウェル名が決まったのだった。

 本名を捨てることについてリチャード・リースはオーウェル本人からこんな話を聞いたことを伝えている。すなわち、自分の出版物に本名が印刷されているのを見ると不安な気持ちになる。なぜなら「だれかがその名前を切り取ってそれにある種の黒魔術をかけないともかぎらないではないか」と言ったそうである。そういう迷信的なところがあったので(なにしろこのころ幽霊を見たと信じていた)(略)

リースはまた、ブレアという苗字がもつ「スコットランド的な響き」を嫌っていて、イプスウィッチを流れるオーウェル川が「イースト・アングリア的な連想」をもつことからこれを選択したと推測している。

(略)

 ともあれ、『パリ・ロンドン放浪記』が「自慢できるものではない」からというのが筆名を用いることにした直接の理由だった。ただでさえ息子のドロップアウトと「奇行」が町の噂となっていたところに、実名でこれを出せば両親の重んじる上層中流階級の体面(リスペクタビリティ)を決定的に損なうことになる――そんな体面など守るに値しないと思っていたにちがいなくても、親子関係をさらに悪化させない現実的な配慮が働いたわけである。「ジョージ・オーウェル」――それはおそらく練りに練った命名というものではなかった。それにもかかわらず、その名は、とりわけ苗字の「オーウェル」は、その後(一九五〇年以降)、形容詞「オーウェル的」(Orwellian)とともに、等身大の、生身の人物の生涯をはるかに超えて、ひとつの文化的アイコンと化し、世界規模でそれが増殖されることになる。本人も、周囲のだれも、そうなるとは予想だにしなかったことであろう。

 かくして「ジョージ・オーウェル」の最初の本『パリ・ロンドン放浪記』は一九三二年の暮れに初一五〇〇部が刷り上がり店頭に並んだ(略)

書評は概ね好評で(略)一月のうちに二刷五〇〇部、三刷一〇〇〇部と増刷され、著者に自信と希望を与えるものだった。もっとも、売れたのはそこまでで、本当に広く読まれるようになるのは一九四〇年にペンギン文庫のペーパーバック版として復刊され、五万五〇〇〇部が売れてからのことだった。

(略)

 オーウェルは『ビルマの日々』を一九三一年秋に書きだし(略)

仕上がった旨をムーアに知らせることができたのは一九三三年一一月のことだった。なお、オーウェルは三三年九月からロンドン西の郊外にあるアクスブリッジのフレイズ・コレッジの講師となっていた。生徒数は二〇〇人、教員が一六人で、前任校よりも規模が大きな学校で、フランス語を教えた。学務にかなりの時間を取られたが、時間をみつけて執筆にあたった。

『ウィガン波止場への道』 

 ヴィクター・ゴランツはこの年の五月に『レフト・ブック・クラブ』を発足させている。(略)

[会員は2万8000人に急増]

本の長さを問わず毎月の選書(略)が一冊二シリング六ペンスの低価格で会員に頒布されるというのが売りだった。ゴランツの予想を超えてこの読書クラブは大成功を収めたのである。

 一九三六年一一月、オーウェルは『ウィガン波止場への道』の完成を急いだ。スペインに行くことを決めたからである。

(略)

『ウィガン』の第二部の自伝的記述をまじえた既存左翼への歯に衣着せない批判は、ゴランツおよび他の委員(ストレイチーとラスキ)には承服しがたいもので、これが選書にするのに二の足を踏ませるものであったのは想像に難くない。だが第一部の北イングランドルポルタージュはゴランツには捨てがたいものだった。結局

(略)

ゴランツ自身が序文を寄せ、あらかじめ第二部での既存左翼への批判に対して反批判をおこなうという措置が執られた

カタロニア讃歌

[初版1500部、それすらオーウェルが没した1950年時点で売れ残っていた]

 じっさい、このルポルタージュでは笑いを取る表現は枚挙にいとまがない。

(略)

 この時期にファシストが発射した砲弾はひどい代物だった。(略)

四発に一発は不発弾だった。(略)真鍮の信管を拾った者がいて、そこには一九一七年製と刻印されていた。ファシスト軍の大砲は型も口径もわが軍とおなじだったので、しばしば、不発弾を修繕して撃ちかえした。伝えられるところでは、特別にあだ名の付けられた古い砲弾があって、けっして炸裂することなく、敵味方のあいだを行き来していたそうである。(第五章)

 

 両軍の宣伝合戦の話もある。銃器の代わりにメガホンを使って敵の塹壕に向けて叫び合いをした。政府軍側からファシスト軍に向けて、「ファシストの弱虫野郎め」とやると、逆の側からは「スペイン万歳!フランコ万歳!」などと返ってきたりする。(略)

「国際資本主義の単なる傭兵になるな」とか、「君とおなじ階級を相手に戦うな」といったたぐいの「革命精神」にあふれたもの(略)

はある程度効果があり、ファシスト軍から脱走者がぽつぽつと出てきたという。そうした敵軍への資金文句のなかには、革命的スローガンなど交えずに、こちらの食糧がいかにすばらしいかと説く誇大宣伝もあった。

(略)

 

「バター付きのトーストだぞう!」彼の声がさびしい谷間にこだまするのが聞こえる。「われわれは、いま、こっちに座っていて、バター付きのトーストを食っているんだぞう! おーいしい、バター付きのトーストだぞう!」彼だって、われわれと同様に、もう何週間も、何カ月も、バターなんぞにお目にかかったことがないに決まっている。けれども、凍てつく夜に、バター付きトーストの知らせを聞けば、たいていのファシスト兵たちがよだれを流したことだろう。なにしろその話が嘘だとわかっている私でさえ、よだれを流していたのだから。(第四章)

喉を撃ち抜かれる

爆発の中心にいるような感覚だった。(略)痛みはなく、電極にふれて感電したときのような、激しい衝撃だけだった。(略)

殺されたと思ったのは二分間ぐらいのことにちがいない。(略)

最初に考えたのは、ありきたりだが、妻のことだった。つぎに考えたのは、この世を去らなければならないことへの激しい憤慨の念だった。なんだかんだ言ってもかなりよくなじんだこの世界なのだ。

(略)

こんな重傷を負いながらもオーウェルは死を免れた。ある医者からは弾丸が「一ミリばかり」動脈を外れたと言われる。声帯をやられたので声はもうもどらないだろうとも言われる(のちに回復するが)。

「医者も看護婦も実習生も仲間の患者も、このとき会ったみんながみんな、首を撃ち抜かれて生きながらえるとは、なんと幸運な人なんだ、と私にかならず言うのだった。そもそも初めから弾丸に当たらないほうがずっと幸運だろうと私は思わずにはいられなかった」とオーウェルは独特の笑いを取る調子で負傷の顛末を語る章を結んでいる。

スペイン脱出

[オーウェルが入隊したPOUMは亡命中のトロツキーに共鳴しており]

ソ連にとってファシスト軍に劣らず、あるいはむしろファシスト軍以上に危険で、「粛清」に値する対象とみなされたのである。(略)

[POUM党首アンドレウ・ニンは拷問の末、惨殺。戦友ボブ・スマイリーも国境で逮捕され獄死]

「スマイリーの死は私には簡単に許せることではない。ここに勇敢で才能ある青年がいた。ここに来てファシズムと戦うためにグラスゴー大学での学業を投げ捨て、私がこの目で見たとおり、申し分のない勇気と意志をもって前線での任務をまっとうした。そんな彼に連中がやれたことといったら、牢屋に投げ込んで、捨てられた動物のように死なせてしまうことだけだった」(「カタロニア讃歌」第一二章)。

(略)

オーウェル夫妻の身も危なかった。(略)

[後年明らかになった文書では]

「狂信的なトロツキスト」であり、「ILPとPOUMをとりもつ諜報員」だとされている。ふたりが捕縛されれば、スマイリーと同様にバルセロナで獄死したか処刑されていた可能性はかなり高かったのである。(略)

皮肉にも(略)富裕層らしい服装と上層階級の英語発音が役にたった。(略)

外国人の「不審者」を調べるためにふたりの刑事が乗り込んできたとき、食堂車にいた彼らは、ことさらにブルジョワらしい態度を示していたので、簡単に見逃された。(略)

繰り返すが、オーウェルたちを捕えようとしたのは、内戦で敵対したファシスト軍ではない。(略)ソ連の援助を受けた共和国政府の主流派によってだったのである。まさに「裏切られた革命」を身をもって経験したのであり

(略)

カタロニア讃歌』を書いた直接の動機は(略)

彼らを弾圧したコミュニスト側と、その公式見解を鵜呑みにすることで弾圧に加担したジャーナリズムに反論し抗議をおこなうことだった。

(略)

スターリンの独裁体制下のソ連共産党が、敵対するファシズム勢力と、装いは異なるが同質性を有する全体主義体制であることを、オーウェルは、共産党による非スターリン主義系組織の弾圧、粛清の現場に立ち会うことで察知した。

(略)

この経験はすべて「貴重な実地教育」だった。「全体主義プロパガンダが、民主主義の国々の進歩的な人びとの考え方をいかにやすやすと支配してしまえるか、それを私は思い知った」(「『動物農場ウクライナ語版への序文」)。その抑圧的な雰囲気をオーウェルはこう伝える。「当時バルセロナにいた人なら(略)

だれであれ、恐怖、猜疑心、憎悪、検閲された新聞、囚人であふれる監獄、食料を求めての長い行列、徘徊する武装兵の一団――こういったものから生み出されたあのひどい雰囲気を忘れないだろう」

次回に続く。

レノンコンパニオン 60篇のレノン論

 

 ジョンよ永遠に ロイド・ローズ(1985) 

 レノンが父と心得ていたジョージ・スミスは、彼に居心地のいい中流家庭を提供してくれた牛乳屋だった。スミスは彼に読み書きを教え、彼が初めて吹くハーモニカを買い与え、厳格なミミの目を盗んでは彼を甘やかしていた。彼はレノンが一四歳のときに世を去っている。

(略)

レノンの人生においては忘れ去られた存在とはいえ、父親のいない少年に彼が及ぼした影響は甚大なものだったに違いない。

 さすがというべきか、フィリップ・ノーマンは《Shout!》の冒頭に、姉の生まれたばかりの赤ん坊を抱き上げようと、空襲にさらされたリヴァプールの街を病院へと疾走してゆくミミ・スミスの物語を据えた。「『男の子、男の子よ。待ちに待った男の子なんだわ』と思わずにはいられませんでした」。「ジョンを見たが最後」と彼女はハンター・デイヴィスに語った。「私は永久に彼の虜となってしまったんです」。

(略)

ミミがすべての愛情を甥に注ぐなかで、伯父のジョージは脇に押しやられ、伝統的なファミリー・ドラマのようなレノンの少年期の体験が、父親代わりの人物から母親代わりの人物を勝ち取るという結果をもたらしたとも言える

無意識の世界 

 コールマンによれば、彼は八つか九つの頃、ミミ・スミスのキッチンに入り込んで、神様を見たと言ったという。何をやっていたのか彼女が尋ねたところ、彼はこう答えた。「うん、暖炉のそばで座ってただけだよ」。幼い頃に見たこの宗教的な幻は、神秘的な含みとあいまって、きわめて特異な青年期の体験の前兆となった。死の直前にデイヴィッド・シェフが試みたプレイボーイ誌のインタヴューのなかで、レノンは少年期から青年期に及ぶ過敏な感受性について、幾分長めに語っている。「僕にとって、シュールレアリズムは現実なのさ。サイケデリックな夢想も僕にとっては現実だし、ずっとそうだったよ。一二、一三と鏡に映った自分を見つめていると…… 文字通り、アルファ波の世界へと引き込まれていったものさ……そして、自分の顔の幻像が変化して、壮大で完全なものになっていくのを見ていたんだ。僕はトランス状態に入り、両眼は大きくなってゆき、部屋は消え失せてしまうんだよ」。

(略)

 確かに彼は、きわめて深く無意識の世界と親しみ、またそれに依存していたように思える。(略)

彼の曲は、あたかも彼の心の海辺に打ち上げられた、幾重にも渦を巻いたそれ自体で完全なる姿を誇る美しい貝のようだった。〈Across the Universe〉や〈Nowhere Man〉を作った頃について、彼はシェフに「霊媒のように、取りつかれた」ようだったと語っている。

 音楽のコンセプト

「ジョンの音楽のコンセプトはとても興味深いものです」と、ジョージ・マーティンはデイヴィスに語った。「ラヴェルの『ダフニスとクロエ』を弾いて聞かせたことがありましてね。彼は、メロディーのラインが長すぎてついて行けないやって言うんです。音楽っていうのは、短いものをこしらえて、それからつなぎ合わせていくものだと思ってると言ってましたよ」。

芸術かぶれのテディ・ボーイ マイク・エヴァンス

(略)

 過去と現在とを問わず、イギリスは最も階級意識の強い国家である。皮肉なことに、戦後の平等主義が生んだ社会の“均質化”は、伝統的な格差をより際立たせるとともに、新たな格差をもたらすしか用をなさなかった。一九四四年に定められた教育法は、“戦争の落とし子”の世代に関するかぎり、階級事情にふたつの直接的な影響を及ぼした。伝統的な中学校に入学するための11歳試験に実力本位制度が導入されたことは、労働階級の背景を持つ子どもたちが、初めて高等教育の本流に数多く入り込んでくることを意味していた。だが、この制度が破壊に寄与した生まれながらの階級という障壁は、知能に左右されるという階級の価値体系にとって代わられてしまったのだ。労働階級や、中産階級でも貧しい部類に属する家庭に育った子どもたちは、11歳になると、彼らの出自などにはほとんどお構いなく、有望株と落ちこぼれ、すなわち成功の可能性に恵まれた者と最後通牒を突きつけられた者に分類されてしまうようになった。ちょうど彼らの父親が、工業地帯の人生と田舎で作業に従事する人生とを振り分けられたように(このシステムでもうひとつ異常な点は、こうした学校制度のアパルトヘイトも上流階級には強固な拘束力を持っておらず、国家レベルでの変革も、袖の下に動かされる教育については触れずじまいだったことである)。

 “公立中学”に通っているか、“ただの中学”に通っているかというアイデンティティがもたらすプレッシャーは甚だ強く、ジョン・レノンが一〇代だった一九五〇年代の中盤には、そこかしこで芽を吹いていた新鮮な若者文化の面でも、くっきりと一線が画されている状態だった。グラマー・スクールの文化は“スマート”な傾向にあった――彼らの出身が労働階級で固められていればなおさらである。彼らは“ガリ勉”であり、一九五〇年代の半ばでは、ジャズにのめり込んでいそうな子どもたちだった。校庭では、ザ・グーンズが最も崇拝されていた。フォークとスキッフルが蔓延していた。反核運動は、最も大規模な支持母体を見つけたのだ。五〇年代の末には、グラマー・スクールは最先端を行っていた大学とともに、(フリート・ストリートの助けを借りて)ビートニクたちを生み出すにいたっていた。

 一方、セカンダリー・スクールは、プロレタリアの一〇代を代表しており、こちらも芸術的というよりは経済的な動機ゆえに、文化におけるアイデンティティを獲得していた。それはアカデミックでもなければ文学的でもなく、基本的には芸術と敵対するものであり、その中心はロックンロールを取り巻くスタイルと音楽に定められていた。

 より高度な教育機関――大学、教員養成所、美術学校――は、グラマー・スクールを卒業した大衆の子孫たちの前に開かれていた。だが、そうした機関の大部分が入学について特定の学問的基準を設けていたのに対して、美術学校の進学システムははるかに杜撰なものだった。学問のうえでは大した成功を収められなかったジョン・レノンの場合も、事情はまるで同じだった。知的な面での才能にも恵まれていながら、彼は試験に入っている科目に憤慨してこれを受けつけず、0級さえひとつも取らずに終わってしまった――彼が本当の才能を披露したと教師も認めた国語と美術の二科目でさえ、0級を取っていないのだ。学校時代、特に最後の二年間の彼はトラブルメイカーないし教室のジョーカーという異名をとっており、その関心といえば、もっぱら組み始めたばかりのスキッフルのグループとか、彼の特別な漫画新聞「ザ・デイリー・ハウル」に向けられていた。この新聞は、彼が自分で描いた教師たちのカリカチュアが売り物となっていた。クォーリー・バンクの校長は、まるでわがままなレノンの役割を見つけてやることに絶望したかのように、彼が書きためた豊富な漫画を、リヴァプール美術学校に入学を請願する際の資料の中心とすることを提案した。地方の美術学校の場合、基礎的な中級課程なら、カット画の成績だけでも入れてもらえたのだ。このようにして、たまたま芸術的な才能を発揮した“アカデミックでない”学生たち、すなわち広範囲にわたる芸術家予備軍に門戸が開かれていた。

 大戦後、徴兵制度によって一八歳の男子全員に兵役が課せられるようになると、高等教育は召集を逃れたい利口な少年たちの吹き溜りとなった。学生の大部分が、やすやすと兵役を免除されたのだ。一九五九年に徴兵制が廃止されてからも、カレッジはキャリア志向の少年たちだけでなく、いまだに一、二年の“誠実なおつとめ”にビクついている者たちの心も惹きつづけていた。美術学校が芸術好きの少年たちに提供していたのは、大人としての責務を回避するチャンスとともに、技術的な習練と美術学校生特有のボヘミア風ライフスタイルの双方を楽しめるチャンスだった。多くの少年たちにとって、後者のほうがはるかに魅力的だったことは当然である。

 こうした緊張感や、たとえようのない文化的な重圧ないし影響の中から、新たな反逆者が登場してきた。一方では、ダッフル・コートに身を包んで、パイプをくゆらすジャズ・ファン[や]

(略)

[保守的な国粋主義者な]悪ガキたちのことでもない。(略)[その]派手な暴れっぷりにしても、もはや一九五〇年代の末には田舎のジュークボックスでしか耳にできないような音楽(初期のエルヴィス、バディ・ホリー、リトル・リチャード)の受け売りという有様だったのだ。ちょうどこの時期に美術学校を席捲していたものは、一〇代の不満を体現したこれらのモデルの、強力な混合物だった。グラマー・スクールに存在した社会のるつぼから、さまざまな文化の参考書の寄せ集めというべきものが生まれてきたのである。高台の裏通りで育った少年たちは、ピカソよりもパルプ・マガジンのコミックスのほうに興味があった。郊外のロマンチストたちは、“アメリカン・ビート”派の新進ライターたちに首ったけだった。そして、そうしたいたる所で、ロックンロールとそれに油を注いだイギリスのスキッフルの影響が広く浸透していたのだ。その結果が、まだ一七歳だったジョン・レノンが典型となり、また先駆者のひとりともなった種族として現われた――美術学校のテディ・ボーイである。

 レノンはすでにクォーリー・バンクでも、オール・バックをグリースで固め、許容限度まで細くしたズボンをはき、細いネクタイを締めて、「テディ・ボーイのはしくれ」という風情で、美術学校ではまるで腫れた親指のように目立っていた。

(略)

こうした学生たちは、突如としてロンドンにあるRCAやスレイドなどの大学院研究科課程に登場し、労働階級の(あるいは地方の)アクセントで騒ぎ、まるでマッチョのバイク野郎のように闊歩し、下品な言葉を連発し、通りすがりの喧嘩に割り込み、教官たちを脅かし、女の子たちのほとんどにちょっかいを出していた。だが、さかのぼって一九五七年、レノンがリヴァプールの中級課程に出現した当時は、彼の度胸の座ったスタイルと粗暴な振る舞いは、ほとんど例のないものだった。ほとんどということで、まったくというわけではないが。

 ジョンよりひとつ上の学年には、準テディ・ボーイとでもいうべき学生がもうひとりいて、イメージという点だけについて言えば、レノンは必然的にこの男に惹かれていた。この人物こそ、ステュアート・サトクリフである。

(略)

新学期を控えた夏休み中に、プレスコット・グラマー・スクールを去るのとほとんど時を同じくして、サトクリフは自分のいかにも学生っぽい“ダサい”髪型(誰もがそう表現していた)と、“ガリ勉”メガネを、彼のヒーローだった死後間もないジェイムズ・ディーンに似るように変え始めていた。一年後、若きジョン・レノンが後輩として馳せ参じてくる頃には、もうサトクリフはスリムなズボンをはき、サンダルを愛用し、前髪を後ろになでつけてサングラスをかけるという、甚だ個性的なポーズを取るにいたっていた。

(略)

 だが、ジョンの内部で熱狂をかき立てていたものは、サトクリフのスタイルへのこだわりや、ヴィジュアルに対する姿勢であり、これらは彼が自身のどこかに感じ取っていたものだった。彼らは何時間も話し込み、ステュアートは心酔している画家たちや(彼はカレッジの画学生の間では期待の星と目されていた)、ジェイムズ・ディーンや、人生一般のことについて熱っぽく語った。ジョンのほうは、ややこしい言葉遊びが生み出すユーモアや辛辣なウィットを交えて、ロックンロールの世界に向けた野望をまくし立てていた。

(略)

 サトクリフはロックンロールが大好きだった。そして彼は、ジョンが持って生まれたダイナミズムの中に、ロックンロールのミュージシャンになるというロマンティックな夢想を抱いたのである。この夢想は、実際に演奏するという、誰もが心のなかで育みそうなイメージに根差したものだった。だから、ジョンがスキッフルのグループから様変わりしたロック・バンドでの地位を提供するや、彼は一も二もなく参加したのである。

(略)

五九年頃の、モヘアやラメで飾ったようなポップスは、彼らには無縁だったのである。結成当初から、彼らは“クール”なロックを取り上げていた。髪型が明らかにアメリカの一〇代に範をとったものであっても、身なりは当時の他のグループよりもダークで繊細なものだった。黒いタートル・ネックのセーターに濃紺のジーンズをはき、白いスニーカーという案配である。

 (略)

ビートニクや美術学校生とちがって、テディ・ボーイは反知性、ひいては反芸術を恥じることなく標榜していた。美術学校生のためのパブ「イエ・クラック」でハッタリ屋たちを楽しませていたレノンは、舌なめずりせんばかりに、こうした立場を取っていた。彼は一度ならず、「アヴァンギャルドってのは、フランス語でナンセンスって意味だぜ」と公言していた。 

ヨーコ・オノとので出会い ジョン・ジョーンズ

(略)

ヨーコ・オノの記事を初めて目にしたのは、アート・シーンへの近道になりそうな芸術イヴェントを探すためのヴィレッジの新聞だったと思う。夜明けに屋上で起こすという“ハプニング”を見るために、暗いうちから起き出したことを記憶している。目ざす家は見つかったものの、なかなかドアをノックすることができない。

(略)

 こんな時のコツを心得ている芸術好きがやって来るのを街角で待ってみたが、誰も現われず、私はベッドへと引き返したのだった。後で教えられたことには、ドアさえ押し開けば階段が屋上へと私を誘い、朝日の最初の光線がテーブルについたヨーコ・オノの姿を照らし出すさまを見られたのだという。卓上には似たような石ころが列を作り、それぞれに五セント、五〇セント、五ドル、五〇ドル、五〇〇ドル、五〇〇〇ドルと値を付けられていた……。明らかにこんな疑問が呈されていた。「ほとんど同じ石ころなのに、なぜこれほど値段が違うのか?」。買うことで価値が決まる、というのが答だった。五セント払ったなら、それは五セントの石ころになる。五〇〇〇ドル払ったものなら、それは五〇〇〇ドルの石ころになるのだ。芸術とはわれわれが芸術と呼べるもののことだという、デュシャンが度々発した宣言をディーラーたちが台無しにしてしまったような、市場における芸術に対する鋭い見方が示されていた。だが、この宣言がヨーコ自身のものであったことも察しがつく。当時、彼女の心に去来していたテーマは、物事とは私たちがそれをどう考えているかということに過ぎず、「すべては心の中にある」ということを断言することにあったのだ。(略)

 このジャンルでは、すでにヨーコは代表者としての確固たる地位を築いていた。一九六一年にはカーネギー・ホールでコンサートを開き、ジョン・ケージと日本を回ってもいたし、たびたびニューヨークに登場してもいた。

 初めて実際にヨーコを見たのは、アラン・カプロウが床に何か(新聞紙?)を撒き散らし、それから掃除するというパフォーマンスが入っていたプログラムでのことだった(略)

シャーロット・ムーアマンも出演していたが、彼女はかつて、弾いているチェロ以外は何も身に着けずに公衆の面前で演奏したという一件で、警察と悶着を起こしていた。多分これは、ヨーコが観客を引っ張り上げ、ハサミで自分のドレスを切り刻ませた際のことと思われる。観客は、多少を問わず思うままに切り取ることができた。特にこの作品については、当時の私も“意味”をはかりかねた。引用符を付したのは、“意味”などはハプニングにとって必要な特徴ではないことがわかったからである。

(略)

 だが、ヨーコの創作の多くには一九六〇年代版の“モラル”とでもいうべきものが備わっていた。ドレス・カットにしても、もっと謎めいたものに感じられはしたものの、相当ドラマティックなサスペンスを生み出していたのだ。観客はまず、「よし、自分で頼んだんだからな」とでもいうような比較的冗談めいた反応を示し、若い男たちは進み出て彼女をどうしても裸にしたいという姿勢を露わにした。だが、有志たちがついにハサミを手にして、いざ切ろうと構える段になると、状況の奇妙さ――及び、公開レイプをするのだという強烈で金縛りになるような思い――ゆえに、彼らはどうにもハサミを入れられなくなってしまったのである。私の記憶では、彼らは冗談でごまかしてから、一、二センチ切り取るか、飾りボタンを取るにとどまっていた。観客のなかに生じた秘かな想いは、残忍かつ乱暴でエロティックな夢想から、起きようとしていることへの不安感に姿を変え、ハサミを持った有志に対するリアルな敵意へと集中していった(略)

そして、それこそがポイントだったのである。刺激としてはごく小さなものなのに、観客は、ずっと手の込んだ芝居が喚起しようと躍起になっている同情や不安といった多彩な心の動きを体験している自分に気づいていたのだ。

 申し込んだ記憶はないのだが、私はヨーコにインタヴューを行ない、彼女は幼い頃の体験がどのように最近の創作に結びついているかを語った。たとえば、袋に入って来客から隠れることもあったという。ネオ・ダダ集団の“フラクサス”についても触れていた。

(略)

ヨーコの作品リストを取り寄せ、一巻のテープを購入した。結局、そこには何も録音されていないことがわかった。誤解したのかも知れない。そこで、リストを読み返してみると、私は次のようなものを買ったのかも知れないことに気がついた。「夜明けに降る雪のサウンド・テープ……。一インチ二五セント。Aタイプ=インドの雪 B=京の雪 C=エイオスの雪」。もう一度聞いてみても、私のテープがどこの雪なのか、もはや知るよしもなかった。

 同じリストでは、「自分だけの短所を目立たせる」ラシャ製の特注下着を買うこともできた。「コインを入れると涙を流して泣く…… 三〇〇〇ドル」というクライング・マシーンもあった。そして、「コインを入れても何も起こらない」スカイ・マシーンはその半値だった。

 ハプニングを自演する要領を印刷した一組のカードも持っている。一日にひとつずつ、二週間つづけるのだ。「一日め、二日め、三日め=呼吸しなさい……一〇日め=夢のなかを、できる限り遠くまで泳ぎなさい」。ビートルズの曲名さながらである。一九六六年、ロンドンのインディカ・ギャラリーでヨーコ・オノに出会ったさいに、自分に通じる精神を感じ取ったという、再三披露されたジョン・レノンの主張もわかろうというものだ。それが、世間体を気にしたエプスタインによる拘束にすでに苛立ちを感じていた彼の、異端で空想的な面にしっくりきたという。

 一九六四年、ヨーコは《Grapefluit》という“作品集”を刊行した。彼女は私にその一冊を送ってくれた。このタイトルは、グレープフルーツがレモンとオレンジをかけ合わせてできたもので、人間と自然の共同作業の賜物であることをヨーコが理解していたからこそ選ばれたものである。

(略)

何気なく本を開いてみると、「地図の断片。道に迷うために地図を描く」と書いてあった。

 ヨーコの指示には、自分がもらいたいものを誰かにプレゼントするというものもあったため、彼女が夕食に招いてくれた際、私は彼女にヴィレッジで買った本を贈った。古くて作りもしっかりしていたが、文字は印刷されておらず、楽しい穴のパターンがページを突き通したものだった。

(略)

 イギリスに戻って一年ほど経った頃、彼女と夫のトニーがアート・カレッジに出演するためリーズを訪れるという話が伝わってきた。彼らは私の家に滞在してほしいという申し出を受け、幼い娘のキョーコを連れてやって来た。

 彼らのパフォーマンスにはふたつの演目があった。メインとなったのはブラック・バッグだが、もうひとつはパーティ・ゲームを模したもので、列を作った人々があるセンテンスをささやいて伝えてゆく。このゲームでは、最後の人に達するまでにはメッセージがまるで誤って伝わってしまう。ヨーコは最前列の端に座っていた観客の耳に口を当て、自分が他のことをしている間に、すべての列を経由して最後列の端の観客までそれを「伝える」よう指示した。終わった後、彼女は最後の観客や途中のいろいろな地点にいた観客にどう伝わったかを尋ねた。奇怪なほどバラバラな言葉や旋律、擬音などが披露された。そして、ヨーコが――もうおわかりとは思うが――何もささやきはしなかったことが明らかにされたのである。

 ブラック・バッグは、大人ふたりが楽々潜り込めるほどたっぷりした袋だった。ヨーコとトニーは袋に入って床に横たわり、袋の口を閉じた。しばらくの間、大したことは起こらなかった。講堂を埋めた人々は、期待に満ちた沈黙の中で、壇上の白い塊を見つめていた。袋に入ったふたりが動き始めると、観客はその動きを詮索し始めるのだった。ふたりは裸になったようにも見えた。袋はねじれ、落ち着くことがなかった。裸になったのだろうか?あの出っ張りは膝なのか、それとも肘なのか?抱き合っているのだろうか?そして長い休息……。彼らは今度は争っているように見える。セックスなどできるはずがない。それとも?少なくとも三〇分はつづいていた。ついに袋から出てきたとき、彼らは入ったときと何ら変わっていないように見えた。袋の中で起こっていたはずのことは、観客の想念の中で起こっていたに過ぎなかったのだ。観客の想像力は、ささやかれた“メッセージ”を作り出したのと同様、今度は袋のシナリオを書き上げたのである。トニーとあらためて話したとき、彼はこれを「観客を創造のプロセス自体に巻き込む試み」と説明した。

(略)

 ヨーコは映画を企画しており、その元手となる現金を必要としていた。私は五〇ポンド貸してやった。私の協力に対しては、このアンダーグラウンドの傑作《Bottoms》のクレジットで謝意が表された。循環ベルトの上を“歩く”一○○人の尻を、二○秒ずつ撮影した作品である。映画の画面はぐらぐらする十字型のシャドウで四つに仕切られ、それぞれの中で肉が柔らかに波打っているのだ。ひとりとして、同じ演技をする者は見当たらない。人間の尻の多彩な形状には、観賞の価値がある。この映画はすべてを備えている。強固な主題には、一○○にのぼるヴァリエーションや形式の一貫性、人間的興味、そしてちょっとしたユーモアが込められているのだ。

(略)

 映画が発表される前に、ヨーコは借金の半額を返済する小切手を郵送してきて、その後トニーから、残りの半分はアップルに払ってもらうように、という指示があった。ある朝、私は一〇代のファンたちに囲まれたポール・マッカートニーのすぐそばで待機し、新任のビートルズ経理部長から二五ポンドを現金で受け取った。

 数カ月後、ある配達人が大学の研究室で私を待っており、秘書の指示で私の自宅に向かった。彼は妻に巨大な花束を届けたのだが、その中には新たな二五ポンドの小切手と「ラヴ・アンド・ピース ジョンとヨーコ」と書かれたカードが埋もれていた。

 私はこの余分な小切手をアップルのヨーコあてに送り返した。だが、一週間後、この封書は「宛先不明」という判を押されて戻ってきてしまったのだった。

パワー・トゥ・ザ・ピープル レッド・モール 71年

(略)

ジョン いつだったか、フットボールの観客が“All together Now”って歌ってたのも楽しかったな(略)

アメリカで起こった運動が〈Give Peace a Chance〉を取り上げてくれたのも嬉しかった。そういうことを思い浮かべながら書いたんだからね。一八〇〇年かそこいらあたりから歌ってる 〈We Shall Over Come〉の替わりになる現代的な歌があればいいのにって思ってたわけさ。あの頃でも、みんながパブやデモで歌えるような曲を書く義務を感じていたんだ。だからこそ、今は革命のための曲が書きたいのさ。

(略)

 僕が音楽をやり始めた頃は、僕の年齢や環境にとってはロックンロール自体が基本的に革命だったんだ。僕たちみたいなガキの身に襲いかかってくる冷酷さや重圧から逃れるために、何か音がデカくてハッキリしたものが必要だったわけだよ。アメリカの猿真似から始めることは、ちょっとばかり気になってたけどね。でも、その音楽を探究してゆくうちに、それが半分は白人のカントリー・アンド・ウェスタン、半分は黒人のリズム・アンド・ブルースでできていることがわかった。曲の大部分はヨーロッパやアフリカから伝わってきたわけで、これで僕たちのほうに戻って来られたってことになったのさ。ディランの最高の作品にしたって、スコットランドアイルランドイングランドから伝わったものが多いんだよ。文化の交換みたいなものだったんだね。ただし、もっと関心を惹いた音楽は黒人のヤツだったと言わざるを得ない。よりシンプルだったからさ。ケツだのオチンチンだのを振り回せとか言ってるようなものなんだから、まさに革新的だったよね。それから、主に自分の苦痛を表現する田舎者の歌が出てきた。連中は知的に自分を表現することができなかったから、自分たちに何が起きているかをわずかな言葉で表わさなきゃならなかったわけだよ。すると今度はシティ・ブルースが出てきたんだけど、こっちはもっぱらセックスや喧嘩の歌だったね。こういうのにしても、自己表現になり得ていたものも多かったけど、ブラック・パワーとして自分たちを完全に表現できるようになったのはほんのここ数年だよね。エドウィン・スターが戦争のレコードを作るとかさ。それ以前は、黒人歌手の多くはまだ神の問題に悩まされてたんだ。「神はわれらを救い給う」みたいなヤツばっかりだったわけさ。でも、それから苦痛やセックスについてもダイレクトに、即座に歌う黒人たちが登場してきたおかげで、僕も気に入ることができてるんだよ。

(略)

 子どもの頃、僕らはみんな、あまりに中流っぽいという理由でフォークにそっぽを向いていた。でかいスカーフを首にまいてビールのジョッキを手に、僕たちが気取り声って呼んでた歌声でフォークを歌ってたのは、みんなカレッジの学生だった――「炭鉱で働いたニューゥキャァースルッ」とか、そんな下らないヤツさ。本物のフォーク歌手なんてほとんどいなかったわけだけど、ドミニク・ビーハンはちょっと気に入ってたし、リヴァプールでは結構いい曲も聞けたんだ。ほんの時たま、アイルランドかどこかの本物の労働者たちがそういう曲を歌ってる、えらく古いレコードがラジオやテレビでかかるんだけど、そのパワーといったら凄いもんだぜ。でも、大部分のフォークといえば、甘ったるい声の持主が古ぼけたり死んじまったりしたものを生かしておこうとしてるだけでね。まるでバレエみたいに退屈なんだ。少数のグループがつづけてる少数の音楽さ。現代のフォーク・ソングはロックンロールだよ。

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