ギャングスター・ラップの歴史 スクーリー・Dからケンドリック・ラマーまで

序文 イグジビット 2018年4月

(略)俺がギャングスター・ラップに共感をもったのは、俺の魂に語りかけてきたからだ。辛い目に遭ったり、目撃したこと、興味を持ったことに関して、俺が引き寄せられていたこの音楽にはまるで答えがあるかのようだった。

 いま振り返ってみれば、子どもの俺には何もかもがマジで酷い状況だったから、ギャングスター・ラップは俺の人生のサウンドトラックだったんだ。(略)[信心深い両親]はラップ・ミュージックが大嫌いだったから(略)俺は極秘に聴いていたんだ。この音楽は俺の攻撃性や怒りのはけ口で、友達と一緒に新しい音楽を発見するようになっていった。俺にとってドープなことだったんだ。

 アイス・キューブがN.W.Aと決別したときに、俺は本気で彼に夢中だった。彼のリリックや表現方法に惹きつけられた。度胆を抜かれたよ。1990年に彼のファーストアルバム『AmeriKKKa's Most Wanted』が出たとき、インターネットもなければMTVにもアクセスできなかったから、一部始終はおろか、なんでアイス・キューブがN.W.Aと分かれたか知らなかった。彼はソロ・レコードを出したんだと思ってた。でも実際にそのレコードを聴いてみると、それがニガネットだったんだよ。探していた情報がそこで手に入ったんだ。あのアルバムはクレイジーだと思ったよ。クッソ素晴らしいと思ったね。音作りが超ドープで、擦り切れるまで聴きまくった。俺の大好きな制作チーム、ザ・ボム・スクワッドが関わっていた。彼らはパブリック・エナミーと共に難関を突破してきたんだ。もう、「すげぇ」って感じだったね。キューブの表現、声の抑揚。そのすべてに畏敬の念を抱いていたよ。

 キューブはストーリーテラーだった。アルバムでの彼はキマってた。ほかの人たちもストーリーを語ったけど、キューブとは大違いだった。そのストーリーを思い描くことができるんだ。彼が言っていることを思い浮かべるのに、ビデオなんて観る必要はなかった。彼は聴き手の心に浮かぶような絵を描いていたんだ。共感できる内容だったし、サウス・セントラルに興味はあるけど、共感をもてない人たちも、ギリギリまで近づくことができたんだ。

(略)

 子どもの頃にギャングスターラップを聴いていたときは、自分がアーティストになりたいなんて思いもしなかった。いやむしろ、実を言うと、あの頃の俺は建築家になりたかったんだ。建築製図、コンピューターを使った製図をやっていた。俺はそれが得意だったのさ。橋やボートとかを作りたかったんだ。とは言っても、俺は刑務所に行ったから叶わなかったけどな。

 それからカリフォルニアに行って(俺は17か18だった)、ジェームス・ブロードウェイに会ったとき、彼の周りには(略)マッド・キャップ、キング・ティー、ザ・アルカホリックスといったグループがいた。(略)どんなに長くなっても、俺はただラップした。構造はなかった。小節はなかった。ただラップしていたんだ。

(略)

ギャングスター・ラップ以前

 レーガン大統領は学校のカリキュラムを骨抜きにし、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアにはまだ祝日がなかった(略)

クリップスとブラッズのギャングがサウス・セントラルを支配していた。CDプレーヤーの販売が始まり、ディスコは廃れかけ、ギャングスター・ラップが生まれようとしていた。スヌープ・ドッグは11歳、アイス・キューブは13歳で、彼らはそれぞれロングビーチとサウス・セントラルに住んでいた。17歳のドクター・ドレーは、グランドマスター・フラッシュの"The Adventures of Grandmaster Flash on the Wheels of Steel"を聴いた後に、最初のターンテーブルのセットを手に入れた。24歳のアイス・Tは、犯罪に明けくれる暮らしから、ラジオトロンの名でも知られるLA唯一のラップ・クラブ、ラジオ・クラブにラッパーとして出演するようになっていた

 この時点では、ラップのレコードのほとんどが、自慢屋で気立ての良いライムに溢れたパーティソングだった。1979年に、このジャンルで最初の大ヒットとなったシュガーヒル・ギャングの"Rapper's Delight"で、ラップは初めて商業的に大きな一歩を踏み出した。(略)

ラッパーのワンダーマイク、マスター・ジー、ビッグ・バンク・ハンクは、ファッションの好みや女性と近づきたいという欲望、友達の家で標準以下の食品を食べることの居心地の悪さについて、シンプルで陽気なリリックをデリヴァリーした。ラップが流行っていて、それ自体が画期的だったときでさえ、シュガーヒル・ギャングや、カーティス・ブロウやファンキー・フォー・プラス・ワンのような同時期の人たちは、時に機知に富んだ辛らつな言葉をライムしていたが、それらはせいぜい会話形式で単純なものに過ぎなかった。

(略)

 1982年になると、先駆的なブロンクスのヒップホップDJ、グランドマスター・フラッシュと彼のラップ・クルー、ザ・フューリアス・ファイヴも共にやってきた。グループの革新的な曲"The Message"と共に、ラッパーのメリー・メルは、多くのラップ・コミュニティの仲間が故郷と呼んだ荒廃した地元を描写した。「そこらじゅうに壊れたガラス(略)人は階段で小便してる、気にしちゃいないのさ」

 "The Message"は、アメリカの多くの黒人が経験していた現実を深く伝えた暗く憂鬱な曲であり、そのときのラッパーのほとんどがリリースしていた陽気な音楽とは、まったく対照的だった。

 多くのラップ・ファンにとって、レコードで冒涜的な言葉を聴いたのは、これが初めてだった。"The Message"の混沌とした結末で(略)ある警察官(または警察官になりすました誰か)が「クソ車ん中に入りやがれ」とうっかり口走ったとき(略)未来のギャングスター・ラッパー、若かりし頃のジェイヨ・フェロニーは圧倒された。それらのリリックは、今日のラッパーが使う言葉に比べれば非常におとなしいが、1982年には衝撃的だった。

(略)

ジェイヨ・フェロニーやラップを買うオーディエンスの心に、新しく強烈なやり方で響いた。アメリカの黒人の激しい怒り、カオス、どうすることもできない感情が、初めてラップ・ソングの中で披露されたのだ。

スクーリー・D

 その後1984年に、ギャングスター・ラップの祖先、スクーリー・Dが状況を覆してしまった。(略)この先駆的なフィラデルフィアのラッパーは、"Gangster Boogie"というレコードを作り、脅すように恐怖を植えつける人物を演じ、メリー・メルが説明した劣悪な環境のゲットーに住む人たちに対する犯罪を聴き手の記憶にとどめた。スクーリー・Dはその曲をレコードにプレスして、当時全米で最も影響力のあるラップラジオ番組のひとつだった、フィラデルフィアのパワー99で放送されていた「Street Beat」という番組のラジオDJ、レディ・Bのところにもち込んだ。

 レディ・Bはスクーリー・Dに率直に言った。彼と契約したり、彼のレコードを流通したがるレコード会社はいない、と。その理由とは?彼はクサと銃についてラップしていたからだ。とはいえ、スクーリー・Dは自身の音楽が不快だとは思っていなかった。

 「俺はアーティスト然としていただけだ(略)俺は土曜日の夜にラジオでコメディの伝説、リチャード・プライヤー(略)を聴いて育ったんだ。土曜日の深夜に、DJが彼のアルバム『That Nigger's Crazy』をかけていた。俺たちは特になんとも思わなかった。アートだったのさ。俺たちにとっちゃ、それはアートだったんだ。あんたたち部外者にとっちゃ、『こういう声は止めなければならない』って感じだった。でも仲間たちは聴いてたのさ。(略)

今なら言ってやるよ、『お前らがどう思おうと知ったこっちゃねぇ』ってな。(略)俺は仲間たちのためにレコードを作っていたんだ、俺の生活を向上させるためにな。(略)俺は自分のやり方で、俺のストーリーを語りたかった。だからこそ俺は、自分のアートを絶対に変えたくなかったのさ」

 ラジオでは絶対にかけてもらえない、レコード契約を結べないかもしれないという、ハッとするような現実を直視して、スクーリー・Dは自分のレコードをプレス制作するために資金を貯め始めた。彼はファンク・オー・マートやサウンド・オブ・マーケットのようなフィリーの有力な家族経営のレコード屋のバイヤーと繋がった。(略)

 1985年にリリースされた"P.S.K. What Does It Mean?"は、ギャングスター・ラップ・ソングとみなされた初めての曲(略)

その雷のような自主制作ビートで音楽界中に衝撃を与えた。ほかの多くのラッパーたちとは異なり、スクーリー・Dは音楽を自分で制作、作曲した。彼はジャズやファンクを聴いて育ち、非常に長いギターソロやカ強いホーン・セクションのある曲を高く評価していた。オハイオ・プレイヤーズやジェームス・ブラウン、シカゴ、ビートルズの曲が彼のお気に入りだった。

(略)

 「この曲の目的は単にラップだけじゃなかった(略)音楽が目的でもあったんだ。俺が音楽を書いて、その音楽が俺をリプレゼントするんだから、あの曲を書くのには相当な時間を費やしたよ」

 「8街区分の大きさの教会の会堂に響き渡るようなサウンドだった」とクエストラヴは"P.S.K. What Does It Mean?"について述べた。「あれほどのエコーをさ。それぞれのフレーズの終わりのトップの部分にドラムをオフビートで入れ続けるやり方には、さらにうっとりしたよ」

 「彼らが使ったドラムは画期的だったよ」と(略)テック・ナインは言った。「あんな曲を聴いたのは初めてだったんだ」

 "P.S.K. What Does It Mean?"の影響は何年も響き渡った。それはラップの歴史上、最もサンプリングされ、参考にされた曲のひとつとなった。音質的には薄っぺらなこの曲は、ゴールドやプラチナを取ることもなければ、それを着服したアーティストに頻繁に引き合いに出されることもないが、何世代ものアーティストたちに影響を与えた、ジャンルを変えた芸術作品なのだ。

(略)

スクーリー・Dが属していたギャング、パーク・サイド・キラーズの頭文字、P.S.K.(略)スクーリー・Dは、曲の中でギャングであることについてラップしたことはなかったが、ギャングのメンバーであることをリプレゼントして誇示しているという評判がラップ界に広まり、この曲にいっそうの神秘や好奇心、脅威をもたらした。

 「俺は『じゃあ、これはちょっとしたギャングのアンセムみたいなもんだな』と思ったね」とアイス・T

(略)

N.W.A『Straight Outta Compton』

 「80年代に育った子どもたちには、父親的存在がいたことがなかったんだ」とケンドック・ラマーは言った。「俺の地元のホームボーイのうち、人生で親父がいたのは俺だけだった。彼は完璧じゃなかった。まだストリートにいたけど、俺が頭をぶつけしたときは、いつもそこにいてすぐに俺を引き戻してくれた。ほかのキッズたちにはそれがなかったから、ストリートに出て行って見つける父親代わりは、ブロックにいるビッグホーミーたちだったのさ」

 こうした"父親のいない"子どもたちは多くの場合、スポーツやギャング、犯罪を通してストリートに頼るか、または新たに出現してくれたヒップホップ・カルチャー、ラップ・ミュージックのおかげで家族を見つけた。

(略)

ギャングスター・ラップは音楽業界で勢いを増していたが、過半数の作品をリリースしていたのも、ロサンゼルス、シカゴ、ヒューストンなどの大都市圏で、アルバムやコンサートのチケットを最も多く売り上げていたのもエンパイア・ステートのアーティストだったため、ラップは依然ニューヨークが中心のムーブメントのままだった。アイスTはこの傾向に逆らい、彼の2枚目のゴールドアルバム『Power』を1988年にリリースした。

 同じ年に、カリフォルニア州オークランドのラッパー、トゥー・ショートはプラチナアルバム『Life Is... Too Short』で、ストリートのピンプと売春の世界を露骨な性的表現で考察し、カリフォルニア州コンプトンのラッパー、キング・ティーはBボーイの感覚とギャングスターの精神を『Act a Fool』で融合

(略)

[しかし音楽史の転換点となったのは]

N.W.A『Straight Outta Compton』

(略)

 ちょうどワールド・クラス・レッキン・クルーが創作上の意見の相違をぶつけていたときに、80年代半ばに9万人未満が住んでいたコンプトンのちっぽけな音楽シーンでドクター・ドレーとイージー・Eは友達になった。グループのリーダー、アロンゾ・ウィリアムズは(略)エレクトロダンス・シーンに忠実であり続けたかった。ウィリアムズはまた、一連の軽犯罪からドクター・ドレーを保釈するのに嫌気がさしていたため、次にドクター・ドレーが獄中から誰かに出してもらう必要が生じたとき、彼はイージー・Eに電話をかけた。常にビジネスマンであったイージー・Eは(略)ドレーに何曲か制作する助けになってもらうことで、彼の気前の良さに報いてほしいと思っていた。

 ウィリアムズが仕事関係において、そして個人的にもドクター・ドレーを追い払ったのと時を同じくして、ストリートでラップの人気が急上昇した。N.W.Aのメンバーと周囲のアクトが共作をし始めると、イージー・Eは(略)音楽業界の熟練マネージャー兼プロモーターのジェリー・ヘラーに会ってほしいと、ウィリアムズにせがみためた。イージー・Eは、自分に欠けていた音楽ビジネスの知識を提供してくれたヘラーと会わせるために、ウィリアムズに750ドル支払った。

映画『スカーフェイス

 『スカーフェイス』は、ほかのどの映画よりもラップに影響を与えてきたかもしれない。アル・パチーノ主演の1983年の同作は、下級のドラッグの売人から親玉の地位へ出世するキューバからの移民トニー・モンタナの軌跡をたどる。モンタナの権力の座への就任、倫理感、世知にたけた印象的な台詞はラッパーたちの心に訴え、彼らは主人公の希望、夢、野心、苦闘に自分を重ね合わせることができた。ザ・ゲトー・ボーイズやスカーフェイスなどのアルバムは、『スカーフェイス』のテーマ曲や映画音楽をふんだんに使い、いくつものモンタナのキャッチフレーズ(「これがご挨拶だ[(略)この台詞と共にモンタナが敵に向かってロケットランチャーを撃ち込む]」や「俺にあるのはタマと約束だけだ。絶対に破りやしないぜ」)を、曲やコーラスに取り入れて有名にした。

ドクター・ドレー『The Chronic』

デス・ロウ・レコーズを相手取って申し立てていた訴訟での合意の一端として、イージー・Eはドクター・ドレーの来たるべきレコード販売から支払いを受けることになっており、その事実はドクター・ドレーの離脱によるイージー・Eの痛手をほんの少し和らげた。「俺はドレーと独占的なプロデューサー、独占的なアーティストとして契約を交わしたんだ(略)だからドレーがインタースコープと契約を交わそうとしたとき、俺は次の6年間その中に含まれていたんだ」

 イージー・Eのビジネス感覚が再び発揮され、彼はドクター・ドレーのデビューアルバム『The Chronic』の売上の一部として、たっぷり報酬を受け取った。1992年12月15日にリリースされた『The Chronic』は、1年で300万枚以上も売り上げ、芸術上の画期的な事件、かつ商業面では圧倒的な破壊力となった。それはまた、ラップ全体の、特にギャングスター・ラップのサウンドと方向性を変えてしまった。

 『The Chronic』より前のギャングスター・ラップ(略)は、攻撃性、騒々しさ、怒りの組み合わせが典型的だった。

 『The Chronic』は、ファンクにインスピレーションを受けた音作りでラップのサウンドを変えた。EPMD、イージー・E、N.W.A、アイス・キューブ、MCブリードなども(略)ファンク音楽を使ったが、彼らは力強い拍手の音や、攻撃的なシンセサイザー、ヘヴィーで泥臭いベースを音のパレットの基盤として使用した。一方ドクター・ドレーは(略)耳障りな感じを抑え、平均的消費者がより聴きやすいものに入れ替えた。ゴツゴツしたそのほかのギャングスター・ラップとは異なり、『The Chronic』の重要な何曲かはスムーズで、ほとんど誘いかけているかのようだった。

 同様に、ドクター・ドレーのしわがれ声、N.W.Aの作品の多くで彼が自信たっぷりに見せつけた威嚇的なデリヴァリーを、たくましさと力強さはそのままに、それほど攻撃的ではないデリヴァリーに交換した。『The Chronic』の15曲の半分以上に参加したスヌープ・ドギー・ドッグは、"Deep Cover"で見せた不安が消えた、絹のようなスタイルでラップした。

(略)

ゲットーにおけるストリートの脅威から脱線して(略)夏のバーベキューの幸せな気分にさせる雰囲気と交換した(略)

 新しいサウンドは(略)非常に魅惑的で、すぐさま音の境界線として認識された。

(略)

[チャック・D談]

「ドレーは"'G' Thang"でジャンル全体の速度を落とした。彼はヒップホップをクラックの時代からクサの時代へともっていったんだ」

 強力なクサを意味する『The Chronic』のタイトルから、ドクター・ドレーによるリスナーへの「ジョイントを吹かせ、でもムセんなよ」という要請まで、マリファナへの言及はこのアルバムの重要な部分であった。

(略)

 ドクター・ドレーは"Let Me Ride"でもうひとつ重要な立場を取った。

(略)

ニューヨークで顕著だった、政治に関心のある社会意識の高い 「コンシャス」 ラップに対抗した。

 

 メダリオンドレッドロックも黒い拳もなし/ギャングスタの睨みがあれば十分/ギャングスタ・ラップと一緒にな/そのギャングスタ・シットが大金を稼ぐのさ

 

 その時代のコンシャスラッパーは、アフリカのイメージを特徴としたメダリオンを付けていた。先祖のルーツへの賛同としてドレッドロックを誇示した者もいれば、1968年のオリンピックで黒人スポーツ選手のトミー・スミスとジョン・カルロスが行ったブラックパワーの称賛に敬意を表して、ビデオや写真で拳を掲げた者もいた。 "Let Me Ride" でドクター・ドレーは、 社会的、政治的課題を推進するのではなく、ギャングスタリズムを支持していることをリスナーに知らしめた。(略)

ドクター・ドレーの主眼は、クサや女性、競争相手を打ち負かすことだった。 

ブラッズとクリップス

1988年には映画『カラーズ 天使の消えた街』が、70年代から80年代にかけてロサンゼルスの黒人の都市生活を支配していた地元のふたつのギャング集団、ブラッズとクリップスの出現を紹介した。最初に出現したクリップスは、青いバンダナをつけていた初期メンバーを称える意味も込めて、青を身につけて70年代に名を上げた。数年後に生まれたブラッズは、メンバーがクリップスから身を守る手段として結成された。ブラッズが選んだ象徴的な色は赤だった。

(略)

公の場では、いまだにギャング自身とアーティストのあいだには隔たりがあった。アイス・T、キング・ティー、N.W.Aのメンバー(略)はクリップスの地元の出身だったが、ギャングの特徴となる青の服やバンダナを身につけている者は誰もいなかった。(略)アルバムカバーやビデオ、宣伝用写真で黒を身につけていた。

 実際に、ロサンゼルスのストリートラッパーたちの第一波は、80年代から90年代初期にかけて、外見的には特定のギャングとの関わりを音楽にもち込まないようにしており、大部分はイメージ的に中立の立場に留まった。それは身の安全とビジネスの両方に根ざした意識的な決断だった。

 「もし青を着たら、クリップスだけを惹きつけることになる」と(略)MCエイトは言った。「それじゃブラッズはお前の音楽を買いやしない。年がら年中赤を着てりゃ、クリップスはお前の音楽を買いやしない。(略)黒を着るのは中立的だから、お前がいるところには、ブラッズもクリップスもいられるし、ハスラーズもいられて、彼らにとってお前はどちら側にもついていないことになる」

 「N.W.Aに関しては、イージー・Eがクリップだったことは誰もが知っていた(略)MCレンがクリップだったこともみんなが知っていた。人はドクター・ドレーの出身地を知っていたし、アイス・キューブが出身地に住んでたことを知っていた。黒を着ることで俺たちは中立でいられたんだ。だから俺たちは全域がブラッドの地元でショウをやらきゃいけないときは、マジで大勢のヤツの癇に障らないようにしていたのさ。(略)

俺は絶対にレコードで『俺はクリップだ』って言ったり、ビデオに出て青いバンダナをつけたりはしない。青い帽子とかは被ったかもしれないが、中立的でいようとした。ツアーに行くときはしょっちゅう、黒のTシャツに黒のジーンズ、黒の靴、黒のレイダースの帽子になる。黒、黒、黒。グレー、グレー、グレーだ。中立的でいようとするもんなんだ、どこに行くことになるか分からないからな。(略)」

アバヴ・ザ・ロウ

(略)ルースレス・レコーズの最盛期にイージー・Eは(略)アバヴ・ザ・ロウとの契約を交わした。(略)

作品の多くに政治的な暗示を加え、正真正銘のギャングスターになるより、ハスラー、プレイヤー、ピンプになることに重点を置いた。(略)

多くの同輩たちに比べて、より慎重で安定したデリヴァリーを選んだ。

(略)

「 彼らはまるで聴き手に話しかけているかのようなレベルまで、すっかり速度を落としたんだ」とヤックマウスは言った。「車の中で聴いていると、まるで会話をしているかのようだった。音楽に体を揺らしながら、『このバカ野郎、俺に話しかけてんのか?』ってくらいにな。そんな風に感じたし、胸をグサッと突いたんだよ。理解できたし、コイツが何を言ってるか理解するのに1000回聴かなくちゃいけないってほど巧妙ってわけじゃない。単刀直入だったんだ」

 しかしアバヴ・ザ・ロウが最も絶大な影響を与えたのは、音質面だった。

(略)

 アバヴ・ザ・ロウが1990年に現れたとき、プロデューサーのコールド187umは、クインシー・ジョーンズアイザック・ヘイズのように、その時点ではラップにとって型破りだった音楽ネタからサンプルを取り入れた。翌年コールド187umは、次の数年間のギャングスターラップを形作ることになるサウンドを開発した。(略)

[91年EP『Vocally Pimpin'』]

9曲入りのこのプロジェクトでは(略)"One Nation Under a Groove"から拝借したシングル"4 the Funk of It"が中心となった。(略)

 コールド187umは(略)セカンド・アルバム『Black Mafia Life』で、ファンクの貯蔵庫をより深く掘り下げた。

(略)

ラップでは、革新的なものを創り出したり、インスピレーションを与えた人よりも、商業的に人気を上げるものを作った人の方が崇拝されるため、ドクター・ドレーとスヌープ・ドッグの人気は、アバヴ・ザ・ロウのもたらした革新性の影を薄くしてしまったかもしれない。

 「彼らがGファンクの創始者だ」とヤックマウスはアバヴ・ザ・ロウについて言った。「(略)アバヴ・ザ・ロウが出てきてスピードを落としたんだ。グルーヴィーだったね。ベイエリア出身の俺たちにしてみれば、大勢のピンプに大勢のピンプに大勢のハスラーがいるから、スピードを落とした、モブとかグルーヴィーなヤツが好きで、だからアバヴ・ザ・ロウが好きだったのさ。ファンキーだったね」

 アバヴ・ザ・ロウがGファンクを創った後、それをドクター・ドレーが世に広め、スヌープ・ドッグ命名した。

マスター・Pとノーリミット・レコーズ

1995年2月、当時プライオリティ・レコーズの営業担当だったデイヴ・ウェイナーは、ミュージック・ピープルズ・ワンストップを訪れるために、 カリフォルニア州オークランドへ出張に出掛けた。当時、ワンストップ[訳注:1ヶ所でなんでも買えるサービス]として知られていたミュージック・ピープルズは、レコード会社からアルバムとシングルをレコード、CD、カセットで買い付け(略)各地のインデペンデントのレコード屋に売っていた。

 1991年にプライオリティ・レコーズの郵便仕分け室の仕事から始めて、 販売部で地道に働いていたウェイナーは、プライオリティのプロジェクト、具体的に言うとN.W.Aやアイス・キューブなどの主力商品をミュージック・ピープルズに売るための出張に出掛けていた。

(略)

ミュージック・ピープルズの駐車場で(略)ある新進アーティストが彼に近づいてきた。その人物はパーシー・ロバート・ミラー、 別名マスター・Pだった。 ウェイナーは(略)マスターPのことも(略)駆け出しのノーリミット・レコーズのこともよく知っていた。

 マスター・Pは彼のプロジェクト『99 Ways to Die』 のコピーをウェイナーに渡し、翌週のビルボードチャートでどこにチャートインするかを伝えた。Pの自信とビジネスの知識に関心したウェイナーは、『99 Ways to Die』 のコピーと一緒にそのラッパー/ビジネスマンの情報を持ち帰った。

 翌週、マスター・P の 『99 Ways to Die』はPの予測よりひとつ低い順位でデビューした。「彼がなんの援助もなくそれを成し遂げた事実にぶっ飛んだね」(略)

ウェイナーにあるアイディアが浮かんだ。 そのアイディアはひとたび実行されると、 音楽業界に大改革をもたらし、 プライオリティ・レコーズはラップ業界の大物、 N.W.Aやアイス・キューブで稼いだよりもさらに大金をもたらした。

 ウェイナーのアイディアは、ノーリミット・レコーズを手始めに、CEMA (キャピタル・レコーズ、EMIレコーズ、マンハッタン・レコーズ、エンジェル・レコーズ)と独自の配給契約を結ぶことによって、ほかのレコード会社の作品をプライオリティ・レコーズから配給させるというものだった。 そのときプライオリティ・レコーズは、ラップ・ミュージックで全米唯一の自己所有のインデペンデント配給業者だった。 プライオリティ・レコーズを始める前は、オーナーのブライアン・ターナーとマーク・セラミはふたりともコンピレーションのレーベル、 K-テルで働いていた。 K-テルにいるあいだ、ターナーはA&Rとして働き、アルバムの音楽の部分をまとめていた。 一方のセラミは販売を担当した。

 業界では、レコード会社からアルバム、シングル、またはEPを受け取った配給業者がそれを大量生産して、小売店に発送するというのが慣例だった。小売店は音楽を受け取ると、配給業者に支払いをし、次に配給業者がレーベルに支払いをしていた。

 この仕事を通して、セラミは全国のあらゆる音楽ビジネスの顧客と強固な関係を築いてきたのだが、プライオリティ・レコーズのプロジェクトをチェーン店のレコード屋やワンストップ、ほかのビジネスに直接売りたかった。結果的にセラミがその手はずを整えたことで、プライオリティ・レコーズは作品を製造して小売店に発送し、小売店はその引き換えとしてプライオリティ・レコーズに商品代金を支払ったのだった。レーベルがあらゆるレコード屋の棚スペースの大部分を牛耳っていたことから考えると、これは大きな資産であり、それはつまり、アルバムの在庫を置いておく不動産には限りがあったということでもあった。

 ビジネスの過程を中抜きすることに加え、プライオリティ・レコーズにはまた、もうひとつの明白な利点があった:その売り掛け金は、製造者/配給業者であるCEMAによって保障されていたのだ。これは、もしプライオリティ・レコーズが1作のアルバムを小売店に10万枚売れば、CEMAが小売店にもつ圧倒的な影響力により、その10万枚のアルバム全額の支払いを受け取ることができるということだった。見返りとして、CEMAは小額の配給手数料を受け取った。この関係がなかったら、プライオリティ・レコーズはおそらく、支払いを受け取るために小売店を追い回し、支払い期限からだいぶ送れて受け取るも、商品製造の割増金を支払わねばならないという、ほかの小規模レーベルのような運命に苦しんでいたことだろう。

 それゆえに、プライオリティ・レコーズは事実上、独自の全国配給業者であり、インデペンデント・レコードレーベルでもあったのだ。ほかのどのレコード会社とも異なり、プライオリティは配給ニーズに柔軟に応えることができたため、アーティストやレーベルと配給契約だけを結ぶことができるように手はずが整えられていた。

 ウェイナーが、マスター・Pのノー・リミットと手を組んで配給を任うアイディアをプライオリティ・レコーズに提案できたのは、このお膳立てがあったためだった。ターナーもセラミもラップシーンの実情を正確に把握している熱心なラップファンではなかったため、プライオリティはすでにそういう業界内部の仕組みに最適な取り決めを実施できるよう作られていた。

「プライオリティ・レコーズは、決してヒップホップ・レーベルになるように設計されていなかった」とウェイナーは言った。「彼らはコンピレーションを扱っていて、それがカリフォルニア・レーズンズに繋がって、さらにそれがN.W.Aを世に出すための資金繰りに繋がったんだ」

(略)

 セラミはウェイナーの構想を理解し、マスター・Pとノーリミット・レコーズと画期的な契約を結ぶことに同意した。マスター・Pは25万ドルを手に入れ、彼の作品の原盤権と音楽出版権を100%保持した。プライオリティ・レコーズは、独占的な製造/配給権を手に入れ、ノーリミットの商品を店に置くことを保障する引き換えに、配給手数料を取った。「そうしたチャンスの対価として、所有権の分け前を取ることなく全国的な配給契約を提供していたレコード会社は存在しなかった」と、プライオリティ・レコーズがマスター・Pのノー・リミット・レコーズと契約したときに、プライオリティが流通していたレーベルに新設された重役に就いたウェイナーは言った。「彼は前払い金を手に入れ、俺たちは出版も原盤も所有せず配給手数料だけを取るっていうのは、今までに類を見ない契約だった。単純だろ」

(略)

 今や全国に手が届くプライオリティ・レコーズと投資金が増えたおかげで、ノー・リミットは新たなファンを獲得し、雑誌やテレビ、ラジオでの露出も増え始めた。

(略)

マスター・Pはすでに西海岸と南部にファン層を抱えていた。ひとたびノー・リミット・レコーズの音楽に人気が出始めると、この地理的な恩恵は、彼がスターの座へ駆け上がる助けとなった。

(略)

 のちにノー・リミット・レコーズの慣行となったように、マスター・Pはレコード屋を彼のレーベルの作品で溢れさせた。

(略)

プライオリティ・レコーズのユニークな位置づけが、その持続的成功にとって極めて重要である理由のひとつだった。

 「(小売店の)顧客はラップ・ミュージックをどう扱っていいかよく知らなかったんだ、特にチェーン店はね」とウェイナーは言った。「だから自社の営業社員をそこに派遣して、ウエストサイド・コネクションとはなんなのか説明し、ノーリミットとはなんなのか説明し、なぜシルク・ザ・ショッカーを20万枚発送する必要があるのか説明することが、とても重要だった。俺たちが取り組んでいることを理解していない大手レーベルの営業担当を通していたら、あんな風にはならなかっただろう。ヒップホップの売り方を知っている営業マン、それがパズルの重要な一部だったんだ」

(略)

マスター・Pとノーリミットの面々が使う南部のスラングやアティテュード、大抵はけばけばしいアルバムカバー、そしてアル・イートンやK・ルーなどのサンフランシスコ・ベイエリアのプロデューサーが奏でるキーボード、ファンク、 Gファンクの組み合わせは、 ギャングスター・ラップに新たなひとひねりを加えた。(略)明らかに西海岸っぽいサウンドに南部の感覚を混ぜ合わせていた。 ゲットーで育つこと、ハッスルする[訳注:あらゆる手段を使って必死に金を稼ぐこと]こと、いかなる手段を取ろうともゲットーから抜け出そうとすることについて、暴力的で淫らな言葉に満ちた、しわがれ声のライムの(略)組み合わせには中毒性があることが証明された。

(略)

業界のベテランは彼の勢いに気づき始めた。

「まずストリートを動かすんだ」と(略)MCエイトは言った。「ストリートにお前をリスペクトさせろ。『ああ、俺はドープを売ってたぜ』ってな。だから彼はその方面のヤツらからあんなにリスペクトを得たのさ。 『俺はお前らと一緒に辺から出発したんだ』っていう姿勢でやってきたからな。でも彼はあれだけのカネを手に入れてレコードを売り始めたときに、『単にドープを売ったり、プロジェクトでヤバいハッスルをすることだけがすべてじゃない。観客を動かすことが大事なんだ』って感じで音楽野郎に変わったんだ。だから事態が移行したのさ、スマートだったよ」

 音楽帝国の基盤作りに取り組みながら、マスター・Pはまたほかの分野にも移行していた。1996年の後半に、彼は自分で資金を調達して長編映画デビュー作『I'm bout it』を撮影し始めた。マスター・Pは映画を配給するために、プライオリティ・レコーズに話をもちかけた。

 「彼が映画のコンセプトと一緒に『I'm bout it』の話をもってきたとき、俺たちは誰ひとりとしてどう判断していいか分からなかったんだ」とウェイナーは言った。

 ウェイナーはマスター・Pに、プライオリティはレコード会社だと伝えた。「いや、あんたたちは映画会社になろうとしてるんだよ」とマスター・Pに言われたことをウェイナーは思い起こした。マスター・Pはプライオリティレコーズの営業社員に、彼らからアルバムを買ったタワーレコード、ウェアハウス、ミュージックプラスの同じ担当者たちに働きかけるよう要請した。レコード屋で映画を仕入れる人たちは、アルバムを仕入れる人たちと同じではないと言われても、Pは諦めなかった。

 「彼は全然引き下がらなかった」とウェイナーは言った。「彼は『うーん、それじゃあ、あんたの音楽バイヤーに売ってくれよ』と言ったんだ。いや、それビデオだし。映画だろ。俺たちの音楽バイヤーには売れないよって。でも彼は『やらなきゃだめだ。彼らは俺が誰だか知っている。マスター・Pの価値を知っているんだ』と言ってね。それで俺たちはお互いに顔を見合わせて言ったんだ、『一理あるね。やってみようか』」

 マスター・Pの断固とした主張の結果、プライオリティ・レコーズの営業社員は彼の映画『I'm bout it』を異例な経路(略)を通して売り込んだ。その結果は並外れだった。ウェイナーによると、『I'm bout it』は50万枚以上売り上げたという。(略)

映画『グリンチ』(略)が年末までに140万本売れたということは、マスター・Pの『I'm bout it』は、その何分の一かのコストで、主要ハリウッド俳優たちが作った映画のおよそ3分の1を売り上げたことになる。

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「ハリウッドを迂回して自分の映画を発売し、製作費を回収し、いくらか金を稼ぎ、次の映画を撮ることができるってことをインデペンデント映画制作者に見せたことが、この作品の功績だと思うよ」とウェイナーは言った。「それは、それまで俺たちが通過した経路では前例のないことだったんだ」

 ほかのラッパーたちはすぐにマスター・Pのビジネス手腕の重要性を理解した。「俺たちのことをあまり熱心に追ってないか、マジで何も知らない人たちに対しては、異なる手段で働きかけなくちゃならないんだ」と(略)マック・10は言った。「『I'm bout it』はマスター・Pにたくさんの扉を開いたのさ。誰かがそれを観て、出演者のひとりに大作映画の役を与えるかもしれないし、俺たちのレコードを買っていなかった人たちに、もっとレコードが売れるかもしれないんだ」