ストリップティーズとW・アレンのティーズ
ティーズ(tease)ということばがある。これは、いじめる、悩ます、からかう、ひやかす、なぶる、などの意味が一般的には知られているが、ぼくはこのことばから、どういうわけかすぐ「じらす」という日本語を想像してしまうのだ。
(略)
ぼくにとってのティーズは、ストリップティーズのティーズなのである。(略)
お客をじらしながら裸になってゆく踊りがストリップティーズなのであって、なるほどいまのようにじらし抜きでズバリ御開帳ではストリップとしかいいようがないのだろう。
(略)
実は、ティーズこそエンタテインメントのコアとなる技術であり、思想でもあるとぼくはつねづね考えているのである。ティーズこそ芸であり、ティーズ抜きのエンタテインメントなんて、チーズのはいっていないチーズバーガーのようなものなのである。一流の芸人や芸の世界のつくり手の仕事には、かならずティーズがはいっている。ヒチコックの映画はその典型で、ぼくにいわしてもらうとヒチコックはシネマティーズの名人なのだ。ビリー・ワイルダーもかなりのティーザーだ。そしてぼくの大好きなウディ・アレンは、ミスター・ティーズマンとでも名付けたいほどの、ティーズの天才である。
(略)
ウディ・アレンのティーズは、ヒチコックやワイルダーのようなシネマツルギーに内包された技術としてのティーズとちがって、ことば遊びの中にとじ込められた思想としてのティーズなので、翻訳のプロセスで洗いおとされてしまうこともあってちょっと判りにくいのである。
英語、いや米語、それもユダヤ的発想のアメリカン・イングリッシュが判れば、ウディ・アレンは最高におもしろいのだ。この意味では彼の著作は、映画よりも判り易いかも知れない。
(略)
誤訳字幕
(略)
六八年公開の「ダイヤモンド・ジャック」というジョージ・ハミルトンが宝石泥棒になる映画で傑作誤訳があった。
ザ・ザ・ガボール扮する有閑マダムが、別れた亭主からの長距離電話を受けて話しているうちに「ところであなたはどうして自分の過去の罪をむかえしてばかりいるの」という。(略)斜体の部分が誤訳で、ここは原語では、Reverse charge といっているので、これはコレクトコールつまり受信人払いのことなのだ。どうして私に料金を払わせてばかりいるの、と金持ちの女がケチなことを言っているのがおもしろいのに(さらにこのとき彼女のダイヤモンドが盗まれるのだ)字幕の訳では、つじつまも合わないしおもしろくもなんともない。
(略)
「スーパーマンⅡ」の冒頭の部分で、新聞記者クラーク・ケント(実はスーパーマン)が編集長に休日をどう過ごしたと問われ「本を読んでいました」と答えるシーンがあるが、カッコの字幕に対して原語では「ディケンズを読んでいました」といっているのだ。ただ本を読んでいたのと、ディケンズを読んでいたのではまるで人物のおもしろさがちがってくる。宇宙の孤児スーパーマンがディケンズの、おそらく「ディヴィッド・コパフィールド」か「オリバー・ツイスト」(ともに孤児が主人公の小説)を読んでいたと想像するだけで、この映画がぐんと楽しくなるのだ。事実、このスーパーマンの人間を愛しすぎる優しさが、ドラマの重要なポイントになっているのだから、ディケンズを省略したのはセンスのない訳といわなければならないだろう。アラさがしが本意ではないので提案をひとつ。どうでしょう、字幕翻訳者をもっと自由に選んでみては。たとえば、スーパーマンを小野耕世さんに頼むとか、ハードボイルドものは小鷹信光さん、コメディなら片岡義男さん、だが。文芸ものは村上春樹、青山南さん。この顔ぶれならポスターに名前を出しても効果があると思うのだが。
スポンタニティということ
(略)
[「駅STATION」]
高倉健の主人公は、そのまわりの人物がよく描けているからその人たちの存在感という栄養分を充分に吸収して、魅力的な人物たり得ている。(略)
[高倉健が]デビューした時、三白眼のおもしろいやつが出てきたな、と思ったことがある。たしか、沖縄の空手使いの役だったはずだが、これはよくなるぞという予感がピーンときたのを今でもよく覚えている。(略)
石原裕次郎だって、あの太陽族映画でデビューした時、兄貴の七光りだけじゃないものが、スポンティニアス(自然発生的)に伝わってきた。スポンティニアスな魅力がなければ、俳優なんてデクのぼう同然である。うまい、へた、はそのあとである。とりあえず、そんなにうまくなくともスポンタニティさえ持っていれば俳優稼業は立派につづけられるのだ。
(略)
スポンタニティこそが俳優の存在理由である、とぼくはつねづね書いているが、ごく最近、それについて蘆原英了さんが書かれた文章を見つけ、それがとてもわかり易いので、ちょっと引用してみたい。
「モーリス・シェヴァリエは、一つの唄を三ヵ月ぐらい準備し振付師によって振りまでつけてもらう。これはイヴ・モンタンも同じことである。両人とも器用でないので、振付師や演出者の手をかりて、アンコールのお辞儀まで稽古する。しかしそれを舞台で見ると、まるで彼等が今そこで自由にやっているように見える。振付師や演出者の手を借りた芸とは、とても見えない。これをフランスではスポンタネテ(偶然性とか自然に内面から湧きでる性質)といって、非常に重要視する。そしてスポンタネテのないものは、ダメだというのである。
越路吹雪が何度もピアフの同じ舞台を見たために、たいせつなことを発見したことはいいことだった。毎日毎日新たに見える芸が、実は毎日毎日同じ芸だったというわけである。ついでにおまけをつけ加えておけば、越路吹雪もじゅうぶんにスポンタネテを持っている。」
この文章は、昭和四六年日生劇場で行われた越路吹雪ロングリサイタルのプログラムに掲載されていたものだ。さすがは見識ある評論家だった蘆原さんの文章である。スポンタニティが、フランス語のスポンタネテであり、しかもエンターテイナーの必要条件であると、ハッキリ書いておられるのに感心した。
実は、スポンタニティをエンタテインメント論で意識的にとりあげたのは、このぼくが最初ではないかといささか己惚れていたので、偶然にこの蘆原さんの文章を発見したときは正直なところショックだった。
大体、スポンタニティということばをぼくがはじめて見たのは、植草甚一さんの文章だったと思う。昭和三六年頃だったのではないか。映画雑誌のはずだが誌名も、また何について書いた文章だったかも憶えていない。ただ、スポンタニティというカナ文字がやけに印象的に使われていたことだけが頭に残っているのだ。
「駅」の中でスポンティニアスな演技をしていたのは、電車の中にほんのちょっと出てくる武田鉄矢ひとりである。あとの俳優たちはみんななんだか計算した芝居をして、それがちょっと気になっているのだが……。
ウディ・アレンの素顔をのぞく
オーストラリアで手に入れたシネマ・ペイパーズという雑誌のバックナンバーに、ウディ・アレン関係の記事があったので紹介してみよう。
これは、ウディのマネージャーであり、プロデューサーでもあるチャールズ・H・ジョフェにインタビューした記事である。
Qまずふたりがビジネス仲間になったきっかけは?
A私がマイク・ニコルズとエレイン・メイのマネジャーをやっていた頃ですから、およそ二十年ほど前ですが、シャイで小柄なウディにはじめて会いました。当時彼はジョークやコントの作家でしたから、何か書いてもらおうとして会ったわけです。それ以来、ずっと仕事をともにしているのです。
Qその時、現在の彼が想像できたでしょうか?
A才能のひらめきはたしかにありました。それでもその頃の彼は、一所懸命に自分の道を探しているという感じでした。
Q監督しているときの彼は画面の中の彼と同じでしょうか?
Aいいえ、まるで別人です。マジメな顔つきで笑顔ひとつみせてくれません。
Qセットを出たときは?
Aいずれにせよ彼はシャイを絵に書いたような人ですから、知らない人の中ではまるで居心地が悪いのです。友人となら自然にふるまえるのですが。
A彼は映画はコンテストではないと考えています。それに大体「スタ・ウォーズ」と「アニー・ホール」はどう考えても比較のできる作品ではないし……。
Qウディ・アレンは観客を頭において作品をつくっているのでしょうか?
Aいいえ、彼は自分のつくりたいものをつくっているだけで、それが観客の気に入ってくれればうれしい、という考えです。もし、俗受けを狙うのなら、セクシーな女優を五人ばかり使ってたっぷりヌードを見せるようなものをつくるでしょうが。
(略)
Qいままでの作品で一番興行成績の悪かったのは?
A「インテリア」と「バナナ」です。それでも赤字になってはいませんし、「インテリア」はある程度それを予想してつくったようなところもあったので。
(略)
シゴニー・ウィーバー
ウディ・アレンのことを最近ウッディ・アレンと表記するようになったが(略)とんでもない間違いである。WoodがウッドだからYがついてもウッディだろうとお考えなら短絡すぎます。これはむしろウーディなのだが、ウディでいいのだ。(略)
ある雑誌にウディと書いた原稿を渡したのに全部ウッディに直されていた
(略)
スタンリー・カブリック→キューブリックのときもおもしろくなかったが、これはその後の調査によってクブリックが正しいと確信を得たのでぼくはそのように書くようにしている。そういえば植草甚一さんがクブリックと書いていたような気がする。
(略)
シガニー・ウィーバーは本人がいっているように、シゴニーが正しいのだから、やはりガをゴにすべきである。