東電帝国―その失敗の本質

東電帝国―その失敗の本質 (文春新書)

東電帝国―その失敗の本質 (文春新書)

四代目社長木川田動く

松永安左ヱ門が九電力体制をつくるとき、GHQが反対していた「電力会社は電気を供給する区域外にも電源をもつことができる」という特例を、松永がGHQを説得して認めさせていたことを木川田が知っていたから、供給区域外の福島に出て行ったのだった。

東電・田中直治郎(技術担当常務)論文より

この地域の海岸線は35メートルの断崖をなす浸蝕性の丘陵地で、太平洋の波濤が四六時中岸をかんでいる。この断崖上の丘陵地を建設地点に選び、太平洋の波浪のものすごいエネルギーの破壊力に逆らって防波堤を築造し、冷却水取水と重量物荷揚げに備える構想は、発電所建設地点としては世界に例がないもので、これを敢えて断行したのは、当社の先見と決断によるものと思う。また、これは当社の土木技術陣が長年にわたり、このようなレイアウトの研究を重ねてきた成果でもある。

最初は労組対策が主だったが、やがて政治献金の窓口となり、原発広報の拠点となった

  • 朝日の転換

1974年、石油危機による広告収入を補うため原発推進の意見広告もよしという方針に。
1979年、朝日新聞は全国の原発担当記者21人を集め研修。報道姿勢が「No,but」から「Yes,but」に変化したことを徹底通知するため。
朝日で一点突破

[原子力のPRには新聞・テレビ共にアレルギーが強かったが、1974年]
朝日新聞に、原子力のPR広告が載り始めると、同じ大手町にあるすぐ近くの読売新聞の広告局が電事連に飛んできた。
 「原子力は、私どもの正力松太郎が我が国に初めて導入したものです。それをライバル紙の朝日にPR広告を取られたのでは、私たちの面目が立ちません。何とか読売にもお願いします」(略)
朝日に遅れること数カ月、読売にも全国版で広告を打つことになった。 「朝日が良いなら、うちも朝日の線でお願いします」
と、ブロック紙や地方紙もあちこちから広告掲載を願い出て来た。
「朝日の新聞界への影響力はさすがに大きかった」
と、鈴木は一点突破で全面展開できたことを、一人ほくそ笑んだのであった。(略)
毎日の広告局もやってきた。このとき、毎日は原子力反対のキャンペーン記事を連載中。鈴木は、強気に出る。
「御社ではいま、原子力発電の反対キャンペーンを張っている。それは御社の自由である。(略)反対が天下のためになると思うなら、反対に徹すればいい。広告なんてケチなものはどうでもいいではないですか」
鈴木も元新聞記者。たんかを切って追い返してしまった。
毎日の広告局は、何度も足を運んできた。そのうち編集局の幹部も来るようになった。(略)
消費者運動をあおって企業をつぶすような紙面づくりをやっていたのでは広告だって出なくなる。『政治を暮らしへ』キャンペーンはそのうち終わるだろうから、その上で話に来たらいいのではないですか。私は、原子力発電のちょうちん記事を書いてくれというのではない。正しい真実を報道するのが新聞の使命ではないですか」
そのうち、毎日から『政治を暮らしへ』のキャンペーンが消えた。編集幹部も「原子力発電の記事も慎重にあつかう」と約束した。毎日新聞も「原発反対」から「原発賛成」に転向したのだ。
読売に遅れること一年、毎日にも原子力PR広告が出稿された。(略)
朝日新聞と読売新聞の広告費は高かった。(略)年間にすると七、八億円にもなってしまう。地方紙を人れると10億円にもなる計算だ。(略)鈴木は、毎月一度開く九電力会社の社長会に出て、「原発PR予算は建設費の一部だ」と訴えたのであった。(略)この豊富な資金で、「原発安全神話」がつくられてゆく。

原子力

[原子力の専門家がおらず]最初は、ダム屋や火力屋が原子力を猛勉強して建設に携わり、大学の原子力工学科を卒業したての若者に頼らざるをえなかった。原発を、二基、三基……六基、七基と建設して行くうち、原子力部門は他の部門との人事交流もなく閉ざされた部門として成長していく。その中でヒエラルキーが構成され、原子力本部長が絶対の権限をもった。社長や会長といえども口が出せない聖域が形成されていったのだった。(略)
[低コストで経営に貢献しても原子力部門からは副社長止まり]
「外の部門から文句を言われる筋合いはない」
というのが、原子力村の言い分なのだ。(略)
[第九代南社長]は言う。
〈問題なのは、……そうした空気を放置してきてしまったことなのです。(略)経営サイドとしてやるべきだったのは、もっと明確な判断基準の物差しを社内に徹底しておくべきだったということです。

産業界の反対は強かったが平岩(第六代社長)の政治工作で批准承認。「京都議定書目標達成計画書」の最後には「原子力発電の着実な推進」という項目が。

 京都議定書の推進で動いてきた平岩外四東京電力の思惑はここにあったのである。(略)
地球温暖化防止京都会議でも、温室効果ガスの削減目標をクリアするため、日本は、出力125万キロワットの原発20基の新増設が必要、との方針が打ち出された。〉と、ある。
「当時、原発20基増設などとは、国会に対し一言も説明がなかった」 と、入沢は述懐する。

  • 交際費

88年頃国際通信会社事業部長(年間交際費60万)がかなり年下の東電総務課長に交際費をたずねるとなんと年間20億。政治家パー券や原発地元対策費も含まれるからだった。三十前後の総務課長は通産省からの出向で二年もすると帰る。

  • なぜ関東電力ではないのか

[1927年]松永の東邦電力が[東京電力として]東京に進出していった。東京は五大電力の筆頭である東京電燈の牙城だった。(略)
値下げ競争で、朝晩で需要家がくるくる変わる。朝、東京電力が東京電燈から値下げで需要家を奪うと、その晩には、東京電燈がまた値下げして切り替える。配電工夫が現場で鉢合わせして、大立ち回りになり、血の雨が降ることもあった。(略)
松永安左ヱ門の猛攻に震え上がったのは東京財界である。東京電燈の大株主である三井銀行の総帥・池田成彬が先頭に立ち、松永に東京電燈との合併を申し入れた。(略)池田は安左ヱ門を「財界の共産党」と呼んだ。安左ヱ門は合併会社の社外取締役にしか就任できず、心には敗北感だけが残った。(略)[戦争激化による国家統制で]松永安左ヱ門が手塩にかけた東邦電力は消滅した。松永は徹底的な自由主義者だった。軍部に追随し権限拡大を狙う官僚たちを「人間のクズ」と発言し、新聞に謝罪広告を出すなど、直前まで国有化に強く反対を表明し続けていたが、ついに引退を決意する。松永は、またもや敗れたのである。(略)
戦争が終わると松永安左ヱ門は、「さあこれから僕が、アメリカと戦争するのだ」 と訪ねてきた人にまず語った。(略)GHQ相手に粘り腰で三年、思い通りの九電力をつくる、このとき77歳。
[電力再編成で東北配電が東北電力というように他も全て「配電」が「電力」になったが、関東配電だけは関東電力ではなく、東京電力となった。何故か。]
24年前、東京財界が仲裁に入り無念にも松永の東京電力は東京電燈に吸収合併され、松永は名古屋への撤退を余儀なくされた。(略)
「木川田君、関東は東京電力にするぞ」
「はい、わかりました」
“電力の鬼”と呼ばれた安左ヱ門の“ツルの一声”だった。「東京電力」の社名復活は、上手に負けた後で、松永が勝ったのであった。

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