核エネルギー言説の戦後史1945-1960

被爆の記憶」と「平和利用」

 われわれは原爆の被害国であるから、その点を外国に訴えて、原爆の被害国は最もフェアーに原子力の研究をやる権利があり、必要量のウラニウムを平和利用のためにのみ無条件に入手する便宜をはかる政務を諸外国はもっているはずである、と主張すべきだというのである。
 物理学者の武谷三男が1957年に発表した文章からの引用である。大江健三郎の場合と全く逆に「被爆の記憶」が、原発の撤廃の理由としてではなく、むしろ「平和利用」の推進のために使用されていた。1950年代においては、「被爆の記憶」は核エネルギー研究開発の推進と矛盾なく共存し、「原子力の夢」の駆動要因になることさえあったのである。

 

仁科芳雄

(については→kingfish.hatenablog.com

[仁科芳雄原子力の管理」1946]
 今日原子爆弾を製造し得るのはアメリカだけである。そしてこの国は平和を愛し、侵略を否定する国である。こんな国が原子力の秘密を独占し得る間は、侵略行為は不可能であり、従って世界平和は保持せらるることとなるであろう。即ちアメリカは世界の警察国として、原子爆弾の威力の裏付けによって国家の不正行為を押え、国際平和を維持し得る能力を有しているのである。(略)
仁科の認識の背景には、1946年に創設された国連原子力委員会と、アメリカが提案していた原子力国際管理案の存在があった。(略)原子爆弾の製造競争が始まるようなことがあれば、世界は文字通り広島・長崎のように壊滅してしまう、そのような危機感を仁科は持っていた。

台風をぶっとばせ

物理学者の嵯峨根遼吉は1949年の著作で以下のように述べていた。
 一ヵ所でごくわずかの燃料で強大な爆発力を利用できるという点から、大規模な運河あるいは湖水をつくろうなどという利用方法も考えられるし、あるいは海流を変化させるというような思いもよらない土木工事が可能になり、大山を移すということも一発ですむのではないかともいえる。このような点でほぼ確実な見込みがあるといわれているものに気象の管理という問題がある。すなわち日本に毎年やってくる台風がそれだ。(略)
 ここでは、台風の進路変更のために核エネルギーが有効であると述べていた仁科の言説が拡大再生産されていた。(略)
[嵯峨根は『東洋経済新報』座談会でも]
台風がどいてくれるように、適当の時期に巧いところに原子爆弾を落としてくれれば可能だと思います。そういう試験を早くやってくれ、というのがわれわれの希望です」として、同様の見解を繰り返している。

武谷三男原子力の思想的意義」

原子力は悪いように使える代物ではない。必ずいいようにしか使えない代物である。人類が、すべて生の本能をもっている限り、人類絶滅の道具として使用することはあり得ない。
(略)
原子爆弾は使えないのであるから、核エネルギーは「いいようにしか使えない代物」というのが、武谷の主張であった。アメリカのみが原子爆弾保有していた1948年においては、この主張はある程度の現実感を持っていたとも考えられるが、ソ運が早晩原爆を開発するであろうことは予想されており、それを思えばやや楽観的すぎる見解とも言える。

核攻撃されるのは

武谷三男は、当時翻訳出版された[湯川の前年ノーベル賞受賞者]ブラッケットの著書『恐怖・戦争・爆弾 原子力の軍事的・政治的意義』をしばしば論拠として引いた。(略)もし戦争が起これば、原子爆弾が使われる可能性は高いが、それは都市爆撃ではなく、前線の基地や軍事施設に対する攻撃に使用されると述べたのである。(略)
もしロシアが原子爆弾を、この時持っていたとしたら、これらの原子爆弾は、たとえそれが可能だとしても、アメリカ都市攻撃には使用されず、真先に空軍基地や他の軍事目標に対する攻撃に使用されることは確実とみてよい。
 ブラッケットの分析に触れた武谷が連想したのは、占領下の「中間に挟まれた国」、日本に他ならなかった。

広島のイメージの変転

 高邁な理想としての「平和」な広島のイメージが広まった後、朝鮮戦争によって「平和」は急速に政治化した。そして占領終結後には、被爆直後の悲惨な視覚的イメージが拡散していき、それに言及する言説の氾濫によって原水爆に反対する「被爆の記憶」が立ち上がった。それを踏まえて、中央文壇からは、広島の文学に原爆を求める声が提出されていた。
 わずか数年の間に起こったこのような変転のなかで、被爆者の生活実態はほとんど願みられることはなかった。被爆者の志条みよ子の「あんなむごたらしい地獄絵図なんか、もはや見たくも聞きたくもない」という言葉を生んだのは、被爆者の実状と乖離した被爆地広島のイメージの変転に対する強い違和感だったのではないだろうか。

1954年の清水幾太郎

[「われわれはモルモットではない」『中央公論』]
 第三に、ビキニの事件は、ナシクズシのヒロシマを意味する。(略)危険な魚や家畜や野菜が、今日まで、目の届かぬところで、消費されて来ている。ガイガー・カウンターを持ち出す前に、人間は危険な食品を食い、危険な空気を吸って来ている。破滅の自然的過程は、三月一日の遥か以前に開始されて、人類は日一日とこの過程に深く巻き込まれている。今日は昨日よりも深く、明日は今日より深く。私たちは、米ソの双方が原子爆弾水素爆弾を投げ合って、全世界が巨大な火の塊と化して行く有様を心に描いては恐怖して来たのだが、そんな壮大な風景が現れる以前に、人類は、地球上の至るところで、少しずつ、ナシクズシに破滅して行くのである。

映画『世界が恐怖する』

が訴えた問題のなかでも、最もショッキングだったのは、畸形児の問題であろう。この映画は、放射線による生命体の変異、畸形の問題を取り上げていた。(略)金魚の受精卵に放射線を照射する実験のシーンでは、「受精した卵に当てるのですから、ちょうど広島の原爆当時、母親の胎内にあった胎児が、放射線を受けたのと似ています」というナレーションが入り、カウントダウンの後に画面がきのこ雲と丸木夫妻の「原爆の図」を映すという演出が施されていた。そして、孵化した金魚が二つの頭を持っていることが判明するシーンには、畸形児の写真が重ねられていた。
(略)
[1957年の新聞広告には]
「一つ目の人間の出現!広島長崎の秘密 忍び寄る怪物“死の灰”」「前代未聞!凄いショック」という、ホラー映画さながらの煽り文句が記されていたのである。
[『世界が恐怖する』でぐぐると画像色々でます、グロ注意]

第五福竜九事件

放射性降下物を浴びて変色した皮膚の写真に添えられた記事には「原子力を平和に」というキャプションがつけられ、以下のような記事が掲載されていた。
『オレらあ、モルモットになるのはいやだよ!』
 水爆第一号患者の増田三次郎君(29)は、東大で全身を診察され、頭の毛をかられ、イガグリになった真黒な顔で、目ばかりをギロギロ光らせ、とりかこむ新聞記者を見回して、そう言った。(略)
 『モルモットにされちゃたまらぬ』という増田君の叫びもあたりまえだ。しかし、いかに欲しなくとも、原子力時代は来ている。近所合壁みながこれをやるとすれば恐ろしいからと背を向けているわけには行くまい。克服する道は唯一つ、これと対決することである。
 恐ろしいものは用いようで、すばらしいものと同義語になる。その方への道を開いて、われわれも原子力時代に踏み出すときが来たのだ。

1954年、ソ連原発始動

ソ連原子力発電所アメリカとイギリスに先立って稼働し始めたというニュースは、日本の左翼陣営を「平和利用」への期待感に合流させたと考えられる。文学者の野間宏は「死の灰」を降らせたアメリカと、「平和利用」を実現したソ連とを対比させ、以下のように述べていた。
(略)
世界最初の原子力発電所がソヴエトで完成されたということは、この人類の立場にこの上ない希望と力をあたえたのだ。(略)このニュースが新聞紙上にあらわれたとき、涼しい風が生々と肌にふれたような感じが私たちにおとづれた。
(略)
第一回原子力平和利用国際会議から帰国した藤岡由夫の言葉
(略)
「「これからは灰の処理の問題よりも原子力を平和的に利用した如く、如何に灰を平和的に利用するかに世界は力を入れる方向に向かいつつある」と報告した。そうなると近い将来この最大の嫌われものも社会福祉貢献の良薬となるわけだ」。