黒人ばかりのアポロ劇場・その2

ビリー・ホリデイ

四〇年代にさしかかるころには、彼女は全世界にその名を知られるようになった。けれども、その時すでに彼女は、痛ましい麻薬の虜にもなっていた。

 厳密に言えば、ビリーを掘りだしたのは、ジョン・ハモンドではなく、アポロ劇場専属の照明家ボブ・ホールであった。

(略)

「はじめのうちは彼女も素直で、純情でした。酒に溺れることもなく、麻薬などまったく縁がないようでした。アルハンブラの店での、あんな一件のすぐあとから――そういえば、アポロ劇場のアマチュア・コンテストでも彼女は優勝しました――彼女は人気がではじめました。数年の間は健全そのものだったんですが、やがてあの麻薬中毒にかかってしまいました。哀れとしか言いようがありませんでした。あんなに可愛かった娘がと思うと……」

 私が個人的にビリーと会った最後の時といえば、彼女がまだ若くして逝った日の四、五年前のことだった。異常な美しさで胸を締めつけるような彼女を見ると、私はいつも、ゴーギャンの"南海の島の人びと"に描かれた人物の一人を思い出した。だが彼女の暗い瞳には、陰惨な影が宿っており、時にその視線はひとの心を見通していた。まるで彼女は虚空からの便りを聴いているかのごとく、そこに誰がいるかもわからないらしかった。彼女の舌は終始もつれたり、途切れたりして、泥酔しているかのようだった。彼女は麻薬常習者の空想の世界へと心を奪われていたのだ。

 その朝、私は彼女の楽屋を訪れた。たぶん、自分のマネジャーと口論して、そのほとぼりのさめない彼女を追いかけて行ったのだ。彼女はそこに立ちつくしていたが、光沢のある黒髪はひときわ艶を増し、類いまれなほど彫りの深い顔の奥にある素晴らしい眼は、大きく開かれたままだった。彼女は前後に身を揺らしながら、こう呟いていた。「あたしって、なんてドジなの!救いようのない馬鹿だわ」私は彼女の楽屋をあとにした。こういう彼女の煩悶を見るに忍びなかったからである。

ソウル・ミュージックの生みの親、オリオールズ

 いずれにしろ、バップは一本の支流にすぎず、それが流れこむ大河こそ、やがてソウル・ミュージックとなるものだった。ここには、別に源を発したR&B(略)も流れこんだ。

 リズム・アンド・ブルースとはなにかを、簡潔に示すのは至難に属する。なにしろ、それを形成するのは、過去に存在したありとあらゆるものであり、その中にプログレッシブ・ジャズ、バップ、ブルースといった比較的新しいビートが混じり合い、さらにゴスペルの味わい、カントリー=ウエスタンも散りばめられ、その底にはクリエイティヴ・マジックという黒人芸術の血が流れている。悲しくも皮肉なめぐり合わせの結果、実質的にはソウル・ミュージックの生みの親ともいうべきコーラス・グループは、現在ではほとんど世間から忘れ去られてしまった。(略)

このグループこそ、その名をオリオールズと称し、リーダーは、美男で才人の誉れの高い、若き日のソニー・ティルだった。

(略)

 当時のポップ・ミュージック界の状況を考えれば、もしオリオールズがあの時期に現われなかったとしても、彼らに代る別のグループが似たような立場を築き上げたにちがいない。第一、オリオールズでさえ、自分だけではやっていけなかったのである。彼らがボルティモアからニューヨークへ来たときには、財布にはビタ一文残っていなかった。(略)

なかば義侠心から(略)なかば興行師としての直感から、父はチャンスを与えてやった。(略)

数年が経つうちに彼らの人気は高まり

(略)

オリオールズのメンバーが舞台中央に登場するやいなや、一階の前から十列目あたりは、混沌を絵に描いたようで(略)

 新しい歌がはじまるごとに叫び、ソロを受けもつ若者がセンターマイクを握るごとにわめき、彼らが歌の間に、おさだまりの器用なステップを見せるごとに絶叫するしまつで、場内は興奮にどよめいた。そして、ソニー自身が、その痩躯を傾け、まるでそこに熟れた女体があるかのごとく、悩まし気にマイク周辺の空気を愛撫しはじめた時!なんと女の子たちは、自分のボーイフレンドだろうが、手近かにいる男の子を抱き締め、キスを浴びせ、身もだえていたのだ。それに、「やって、ソニー!あたしを犯して!」というあの嬌声!

(略)

彼らが生みだしたのは、現在なら、私たちが"グループ・サウンズ"と考えるもの――つまりゴスペルとジャズを組み合わせたり、一つの旋律の途中に声門を止めて息で歌ってみたり、裏声でテナー・ソロを歌うもの――といえよう。これらの様式こそが、自分たちだけに固有な象徴を探し求める世代の敏感な聴覚をとらえたのだ。また、以上のことを理解して、オリオールズにつきものの踊りを考えれば――これは最後の一歩に至るまで振り付けされ、一定の型があった――情緒不安定な思春期の世代にとって、抗しがたく壊しがたい斬新なアイドルの実体が理解できるだろう。

 オリオールズが新しいサウンドと様式を創ってから十五年過ぎた時点で、テンプテイションズ、スプリームズをはじめ、いちおう名の通ったコーラス・グループはすべて、彼らの余情を伝えていると言ってもよく、ビートルズローリング・ストーンズも例外ではない。またアポロ劇場の側からすれば、ソニー・ティルと彼のグループが劇場の番組編成に与えた影響も、重大なことだった。

 私の父は、こう回想している。「ほとんどの人が、毎場面に"ニュー・サウンド"が演奏されるものを望んだ」伝統を誇っていたバラエティ・ショーは、すべてヴォーカル・グループの波の前に押しながされた。ダンスもその色香を失い、時代遅れの喜劇にはだれも笑わなくなってしまった。その挙句、十年前であったら、単調すぎると非難されたはずのもの――一枚のプログラムに、コーラス・グループの名を連綿と並べたもの――が、出しものを編成する上での見本となった。観衆は、単調さを敬遠するどころか、まるで飽和状態すらもいとわぬ素振りだった。

 ほどなく、舞台の上では、オリオールズのすぐあとを追いかけてきたグループがひしめき合うようになった。ビリー・ワードとドミノズ、ザ・ファイヴ・キイズ、ザ・クローヴァーズザ・ドリフターズ、ザ・ハープトーンズ、ザ・ソリテアーズ、ザ・ムーングロウズ、ザ・ヴァレンタインズ、ザ・ダイヤモンズ――まるで、数人のメンバーと一台のピアノ、それにグループ名がついていれば、それだけで舞台にあがれるのではないかと錯覚しかねなかった。

 ミルズ・ブラザーズをはじめとし、それを手本として多くの忘れ得ぬグループが生れたが、その中にはジ・インク・スポッツ、キング・コール・トリオ、ザ・チャリオティアズ、ザ・ビリー・ウィリアムズ・カルテットもふくまれていた。とはいえ、オリオールズは着想のすばらしさで新しい境地を開拓した。また、彼らの名前が今日でも伝説と化してはいないとすれば、彼らの力が目に見えない形で、レイ・チャールズ、アリサ・フランクリン、チャック・ベリー、ボディドリーに伝わり、サム・アンド・デイヴ、ミッキー・アンド・シルヴィアにも流れ、さらにコーラス・グループ界の巨峰ザ・テンプテイションズをうるおす一方、まだギターを習得して間もない長髪の連中が新たに組織するグループにも受け継がれているからなのだ。オリオールズこそは、第二次世界大戦後のポップ・ミュージックと一九六〇年代のソウル・サウンドの間にあって重要な橋わたしの役をつとめたのである。

ゴスペル

ゴスペル・ミュージックの感化を受けなかったとしたら、モダン・ポップ・ミュージックの歴史には、いささかの発展もなかったと言っても過言ではなかろう。"黒人霊歌"という形で存在したごく初期のころから、ゴスペルは断片的にではあったが、当時の人気歌手によって取り上げられ、ジャズやブルースという大河へとそそいでおり、一方では、芸能界に籍をおく黒人にほとんど例外なく、大きな影響を及ぼしていた。けれども、ゴスペルが純粋な形のままで、堅固な聖域から形をみせることは、まずなかった。というのも、ゴスペル及びそれを守りつづける人びとが、卑俗な流行文化によって毒されるのを恐れたのであろうか。だが銘記すべきは、ジャズの発祥をたどれば、売春宿に至るものも多いのだ!

 ゴスペルを歌わせたら、並ぶ者のないほど傑出しているマヘリア・ジャクソンが、アポロ劇場には出ようとしない理由は、この辺にあると考えてもよかろう。私たちは彼女を相手に幾時間も、いや半日近くも費やして説得に努めたがアポロ劇場への出演が彼女自身にとっても、観客にとっても、おそらくは教会のためにも良い結果をもたらすことを理解してもらえなかった。彼女は、商業劇場の舞台に立つのは冒瀆行為になるという信念をあくまでまげず私たちは結局、お客様に彼女の晴姿をおめにかけたいという夢を断念せざるを得なかったのである。

 こんなわけで、一九四〇年代から五〇年代の初期に、私たちの舞台で生粋のゴスペル・ミュージックを歌ってくれたのはシスター・ロゼッタ・サープだった(時には美貌のマリー・ナイト夫人も加勢してくれた)。

(略)

父はこう考えていた。「ゴスペルの歌手たちが普段歌っているようなホールではとてもできないことを、アポロ劇場は大衆のために提供する。坐り心地のよい座席、すぐれた音響装置、完全な照明器具、劇場にあるその他の付帯設備、これらの設備はすべて、聴衆の心をほぐし、出演者の力量を発揮してもらうためなのだ」

(略)

父は牧師さんたちに集まってもらい、自分の計画、出し物はゴスペルだけとし、その情緒、厳粛さ、純粋性を紹介する意図を説明におよんだ。

(略)

 私たちは"ゴスペル・キャラヴァン"と名づけたが、第一回目から二つの貴重な教訓を学んだ。第一に、劇場でゴスペルを観たいというハーレムの住人は、私たちの予想を上回る数だった。第二に、次回からのキャラヴァンでは、熟練した看護婦をかなり多勢、待機させる必要があるということだった。第一回のキャラヴァンに、アポロ劇場の"会衆"から寄せられたものは歓迎というより、いまだお目にかかったことのない集団ヒステリーに近かった。金切り声でわめき、涙にむせび、手足を痙攣させ、意識不明となり、発作を起す始末だった。

 現在でもアポロ劇場には、ありとあらゆる種類のショーがかかるが、イースターとクリスマスのころ年に二回行われるゴスペル・キャラヴァンで、熱狂のあまり生じる精神的錯乱状態は何物にもたとえがたい。なにしろ、ザ・ステイプル・シンガーズ、ザ・ゴスペラーズ、ザ・マイティ・クラウズ・オブ・ジョイ、ザ・ファイヴ・ブラインド・ボーイズ、ザ・ピルグリム・トラヴェラーズ、ザ・キャラヴァンズ、クララ・ワード、ジェイムズ・クリーヴランドといった震えの出そうな面々が舞台をつとめるからなのだ。

 さて、ゴスペル歌手といえば、アポロ劇場の観衆にワンマン・ショーでは空前絶後の驚嘆を与えた人として、やがては劇場の歴史にその名を刻むと思われる歌手がいる。彼女の名をクリスティーン・クラークといい、現在ではオリオールズと同様、実質的にうもれてしまった。

 だが私の兄ボビーは二千人もの人たちがすっかり暴徒と化すさまを目のあたりにしたときのことを記録に残している。

(略)

[浮かない顔のクリスティーン]

私はいつも神様を忘れたことはないわ。(略)自分でしているのは神様の仕事だといつも思っているのよ。だけど、あのお方が私のところへ来たことはないの。自分で救われたと感じたこともない(略)。ボビー、なにかがいけないのよ。

(略)

そこでボビーはクリスティーンにいってやった。「いいことを教えてあげよう。この次に歌い終って、自分の席にもどったら、頭をうしろにそらして、できるだけ高い音を出してごらん」

「それでどうなるの?ボビー」

「結果はあとのお楽しみさ」

(略)

[自分の席へもどった]彼女は腰をおろすやいなや、頭をうしろにひくと、想像を絶した甲高い声を張り上げた。彼女がそのまま絶叫しつづけると、隣にいたキャラヴァンズの女の子は、まるで背中に弾を受けてはじかれたように飛びあがり

(略)

 彼女は通路のあちらこちらを駆けめぐり、ゴスペル歌手ならだれでも知っているステップで踊り出し、救われた喜びを叫びに託して有頂天になっていた。舞台の上でも、出演者がどんちゃん騒ぎを演じ、観衆の右往左往も三十分以上続いた。気絶した女性は十二人にのぼり、男性もあたりをはばからず泣いていた」

(略)

「ショーのあとで彼女のところに行ってみると、彼女の瞳は以前には考えられなかったほど輝きわたっていた。彼女はまだ雲の上をさまよってる感じだった。そして彼女は同じ言葉を繰り返すだけだった。"あなたのいったとおりよ、ボビー。確かに、あなたのいったとおりだわ!"クリス・クラークはついに救われたのだ!」

 蛇足ながら、彼女は牧師と結婚して、主婦となった。もはや、その美声に接する特権を有する聴衆は片田舎の教会に集う人たちだけになってしまったがおそらく彼女の歌は、どんな歌手にも真似のできない程、感動へ導く力を今なお有していることであろう。

障害者ダンサーたち

ハロルド・キングはローラー・スケートをはいたまま、見事なダンスぶりを見せてくれた。彼はフィナーレとして、二フィート四方の台上でローラー・スケートのタップ・ダンスをした。しかも、目隠しをしたままなのだ!(略)

うしろ向きに滑りながら徐々に速度を増してゆくと、あわや背中から観客席へ墜落かと思いこんだ人たちは、悲鳴をあげて逃げたり、彼を支えてやろうと手を伸ばしたりした。だが、彼は決して落ちなかった。

 ハロルド・キングは少々無鉄砲だったにしても少なくとも五体健全だった。では、松葉杖をつきながら踊った、ジェシ・ジェイムズのようなひとのことは、なんと説明すればよいのだろうか。(略)

純白のタキシードに身を包み、無残な足をかばいながら舞台にいざりより、想像を絶した珍妙無類の格好で踊りはじめ、床につけた松葉杖でリズムをとり、良い方の足でタップを踏むと素晴しいシンコペーションがつくり出されるのだ。

 それにしてもジェシには、曲りなりにも両手両足があった。だが、次に紹介する"クリップ"ハードと呼ばれた気だてのいい若者には、なんと片手片足しかなかったのだ。クリップは片足を使い、片腕で平衡をたもちながら、カルテットで踊るなまじっかの連中よりも見事な踊りを披露した。彼にはタップは無理だった。だが、踊っていることに違いはなかったのだ!(略)床にぴったり腹ばいになったかと思うと機敏に起上がり、ハックルバックやその他、当時ハーレムで大流行していたダンスを見事にやってのけるのだ。その痛ましいハンディキャップにもかかわらず、彼は実に楽天的で感じのいい男だった。

 ハンディキャップを背負った芸人の話なら、その仲間の王様ともいわれたペッグ・レッグ・ベイツの剽軽ぶりを紹介しないわけにはいかない。ペッグの片足は、膝のすぐ下のところで切断されており(その上、片手の指も何本かなかった)、そこに義足をつけていた。生来の愛敬とリズム感ではだれにもひけをとらなかったし、彼の腕前は溜息が出るほどだったので、私たちはいつも破格の待遇を与え、主演スターのすぐ前に彼を出した。彼は良い方の足でタップをしたかと思うと、ゴムで被った義足の方でも同じことをした。足さばきがどんなに速く、複雑になっても、義足でそっくりそのまま繰り返した。

 彼のフィナーレは、自分で"ジェット機"と名付けたステップだった。走ってきて宙に飛び上った彼は、義足に全体重をのせて着地し、観衆から声にならない溜息が洩れるのを見届けてから、オーケストラのチェーサーにのって義足で後向きにジャンプしつつ舞台から消えていった。

 身体的な疾患で思い出すのは(略)バディ・リッチが(略)[二日前に骨折し]片腕をギプスで固めて[初日前日稽古に現れた時のこと]

(略)

ショーも終りに近づくと、彼は舞台に出て、やや控え目にソロ演奏をやりはじめた。それでも、片腕のドラマーには十分な出来映えだといえよう。ところが、続いてテンポを上げたバディはその程度のものでは満足せず(略)花火を音にしたような絢爛たる演奏に移ったので、みんなただただあっけにとられて見ていたのだ。(略)

片腕の天才を一目見ようと、長蛇の列が全期間にわたって続いたのは言うまでもない。

口コミに勝る宣伝はない

一九五三年には新劇を上演してみようと思いたったことがあった。(略)

[話を持ちこんだベン・カッチャー]は戦争中にブロードウェイで黒人による《アンナ・ルカスタ》を制作し、そのときの主演俳優がカナダ・リー

(略)

 一日二回、一週間限りの興行がはじまったとき、私たちは不安を隠せなかった。そして、第一回目(金曜昼の部)が終ってみると、身が縮む思いさえした。切符の半片は全部集めても握り拳に隠れてしまい、そのまま、さらにコーラの瓶をつかめる有様だったのだ。金曜夜の部も大差なく三百人ほど――私たちはいよいよ臨終が近づいたことを疑わなかった。

 土曜昼の部の開場時間には、父は保険金めあてに劇場へ火をつけようと思ったことだろう。けれども、辛うじて彼に思いとどまらせるだけの客足(六百人)に達した。その日の夜になると、九百人はいった。私たちはようやく愁眉を開く思いで、このまま切り抜けて、なんとかして損益分岐点まで売上げをのばしたいと願う気持だった。日曜昼の部には千人の客がつめかけ、また夜の部にはいると、千二百人を記録した。どうしたわけなのだろうか。

 ひそかに調べてみたところ、こんな噂が流れていた。「アポロ劇場は何か変わったことをやりだしたぞ。よくよく聞いてみると、バンドもいなければ、音楽が鳴るわけでもなく、歌手やコメディアンもいないんだとさ!そうらしいな、だけども、おめえ、あいつらには魂胆があるんだろうな。そりゃそうだ、ことによると……」

 木曜の午後になると、人びとは早くから並びはじめ、夜の最終公演の前に切符は売り切れた。父と私が夕食をすませて、八時ごろ劇場にもどると、びっくり仰天することが起きていた。西側にあるアポロ劇場と東側の七番街にはさまれたブロックはかなり長かったが、えんえんと並んだ人々は街角を越えて、アルハンブラ劇場付近まで続いていたのだ!その列には少なくとも二千人はいたことだろう。それにしても席はたった千七百しかなく、第一みんな売り切れてしまったではないか。

 私たちは早速、数週間後にはそのショーを再演する(今度はカナダ・リーを使った)旨を知らせて切符売場を閉鎖したのだった。自らの手で大当りをとってみて、私たちは、種類のいかんを問わず、どこかに魅力があれば、人びとはそれをみにくることを知った。それにしても、その時以来、果たして広告に金をかけてどのくらい効果があるのだろうかと、疑問を持つようになった。しょせん、口コミに勝る宣伝はないのである。

(略)

続いて私たちは《雨》《タバコ・ロード》《恭々しき娼婦》《探偵物語》といった作品を取り上げたが、最後にあげた作品にはシドニー・ポワチエというフランス系の名前をもった若くて美男の役者が主演した。

(略)

 私たちはジャン・ポール・サルトルの戯曲《恭々しき娼婦》も取り上げたが、多分に不安をもっていた。(略)"ニガー"という蔑称が頻出する点であった。サルトルはその単語に大きな皮肉をこめて使っていた。だが観衆にそこのところを感じとってもらえるだろうか?

 第一回のショーの半ばにロビーにある事務所へある女性がやってきて、切符の半券を下におくと、太い腕を腰にあてたまま、私をにらみすえた。彼女は一言もいわず、私も無言だった。私が入場料に相当する金を窓の下から差しだすと、威嚇するように身体の向きをかえ、立ち去った。ありがたいことに、全期間中、あからさまに反感を示した観客は彼女ひとりであった。

(略)

 父の思いつきに端を発し、やがてポップ・ミュージック界ではごく普通のことになったアイディアといえば、ディスク・ジョッキーにショーの司会をさせるということであり、その根底には、DJたちがラジオを通じて語りかけるよりは、劇場で実際の姿をさらした方が人を引きつける効果は大きいのではないか、という考えがあった。

 試金石として最初に登場したDIは、シンフォニー・シッドとして知られた、白人のシッド・トリンだった。

ソロモン・バーク

ボビーの話によれば(略)「一九六六年(略)ソロモン・バークに契約書を送ったところ、返送されてきた書類には、"公演中に限り、劇場内でのポプコーンの販売権はソロモン・バークに帰すること"という意味のことをタイプした契約条項がつけ加えられていた。

 俺はそんなものは一笑に付して、消してしまい、契約書はファイルにとじ込んだ。"この男はなかなか茶目っ気があるな"と独りで言ったりして。ひょっと不安な気もした。あれは本気でしたことかな?そしてまた安堵した。仕事をすれば、週に四千ドルもかせげる人がなんでポプコーンを売りたがるのだ?

 しかし、頑固者のソロモンが、劇場に到着したとき手にしていたのは、楽屋仲間に売りつける豚の厚焼用の鍋と、これまた商売用の飴を入れたボール箱だった。俺は彼がしたいようにさせておくつもりだった。あのトラックがきて止まるまではな。トラックはポプコーンを満載していた。俺は態度をはっきりさせようとしたが、ソロモンは言いはった。

"契約どおりだろう。契約書をみてみろよ"

"ポプコーンの条項は消してしまったぜ"と俺は言った。

"あんたの手元にある契約書では、そこのところを削ってしまったかもしれないがね、こっちの手元にある方は削ってないよ。だから、あの条項はまだ有効というわけだ"と彼は答えやがった。

"歌手一人と契約するのに、法律をふりかざす必要があるとはな"と俺は言ってやったが、腹わたは煮えくり返るようだった」

「仕方がないから、ヤツと取引きしたよ」と、ボビーは苦笑する。「あのいまいましいポプコーンをまとめて五十ドルで買いとった。そして手元には、トラック一台分のポプコーンが残ってしまったが、あんなものを置いておく場所がない。そこで、幾人かの男の子を集めて、どっかで処分して来てくれと頼んだ。それぞれ校庭や、街角や酒場や、公演へ行ったが、中にはユダヤ教の成人式にまで出かけていったものもいた。積荷の山は減ったが、まだかなり残っていたので、宣伝マンのピート・ロングを呼び、トラックでひと回りして、これを街の子供たちにやってくれと命じた。

「数時間が過ぎたとき、八才ぐらいの男の子が、五才ぐらいの妹と一緒にやって来た。ピートは、あの袋を手渡しているうちに腕がすっかり疲れてしまったのだろう、面倒くさそうに一袋を二人に差しだした。その子は拳固をつくると、あごを前に突き出しながら言った。"おじさん、その袋をもう一つおくれよ、それともおじさんに噛みついてもいいのかい?"」ボビーの話も幕切れだ。

「そいつが、あのとき俺たちが処分した最後のポプコーンだったのさ」

ミンストレル・ショー、「焼きコルク」メイク

 ほんの十八年か二十年前まで、アメリカの黒人コメディアンたちは、まず例外なく、顔をまっくろに塗って――焼きコルクをなすりつけて――ステージに立った。NAACP(全米黒人地位向上協会)が執拗にその改革をせまるにいたって、ようやくこのメーキャップは廃止された。

(略)

ジョン"スパイダー・ブルース"メイスンがステージでビル・ロビンソンの前を通りかかると、ビルは彼の腕をつかまえて、肌がむきだしになるまで、一方の手袋を引きおろした。その肌の色は、焼きコルクとは似ても似つかぬ、はるかに明るい色をしていたのである。「これがわれわれのいいところで」と、ビル・ロビンソンはアポロ劇場の客席に披露した。「ありとあらゆる色つやをお目にかけられる、というわけです」

(略)

 焼きコルクを塗るこのしきたりは、南北戦争以前の、ミンストレル・ショーにまでさかのぼる。(略)

ニグロにそんな大事な役をまかせられるものではない。もしニグロがおもしろいとしたら、それは偶然のいたずらというものである、と考えられていたのだ。(略)

南北戦争終結後、こうしたミンストレル・ショーのなかには、コメディアンとして、黒人を雇い入れるところが出てきた。しかし、それでも、この黒人俳優たちは焼きコルクのメーキャップをさせられていて、それはつまり、あるプロデューサーがその回想録で述べているように、"まちがえられないため"だった。

(略)

 白人プロデューサーが黒人コメディアンを取り扱う態度は、その後も変わらなかった。コメディアンは司会者とジョークで渡り合い、ときには司会者をからかったりすることも許される。だが、そのからかい方は白人に対する敬意を失わず、「イエス・サー」のふんだんに混じったものでなければならなかった。

出演料変遷

 立身出世物語は、アポロ劇場の会計決算台帳に、くり返し、くり返し、出てくる。一九六二年に、すんなりと背の高い、牧師の息子が三百ドルで、はじめての契約期間を歌っていた。七年たった一九六九年五月、その同じマーヴィン・ゲイは、週労働時間のらくな時でさえ、七千五百ドルはとっていた。(略)

マーサとヴァンデラス、一九六二年十月、四百ドル。一九六八年十一月、七千ドル。(略)

兄ボビーの索引カードからザ・テンプテイションズの頭の部分を抜き書きしてみよう。

 

一九六三年八月、九百ドル。ぱっとしない歌手グループである。動きはいい。

一九六九年六月、二万二千五百ドル。ステージでも、ステージを降りても、実に仕事を大事にする。ぴったり息の合った、ペースのしっかりした舞台。最高だ。

 

 アポロ劇場のアマチュア・コンテストで優勝したのち、ジョー・テックスは生れてはじめて週百二十五ドルでアポロ劇場に出演した。一九六九年に彼が帰ってきたときには、週一万四千五百ドルになっていた。

 ナンシー・ウィルソンの索引カードは、スターの成長の過程を物語っている。

 

一九六〇年六月、五百ドル。きれいだが印象はぱっとしない。

一九六二年八月、千五百ドル。ショーは大成功!

一九六九年四月、一万ドル最低保証。ほんもののスーパースター。偉大!

 

 ついでにいっておかなければならないが、ナンシーのギャラはいつも歩合制である。それも莫大な歩合なのだ。(略)

ジェイムズ・ブラウンの一九五九年の出演料は二千二百五十ドルだったが、いまでは最高の歩合がついて、世界中の黒人の芸人としてはこれまた最高の出演料である。比類なきレイ・チャールズ、かつて一九五七年には四千五百ドルを歌手一名楽団員十二名とで分けなければならなかったレイ・チャールズは、今日では一回の最低保証として三万ドルを手に入れている。

白い黒人

父が自分で説明していたように、「(略)わたしがやったことの中で最大のものはね、何百人という才能のある黒人アーティストや、何ダースもの黒人の裏方や、永年のあいだわれわれのところで働らいてきたそのほかの人たちに、仕事を与えてきたということなんだよ」

 永年のあいだ、アポロ劇場は黒人の裏方を使っているマンハッタン唯一の劇場だった。(略)

 ある面で、父は百二十五丁目の非公式の王者だったといってもよい。つまり、ここの住民たちもビジネスマンたちも、黒人、白人を問わず、すべて父の指導をたよりにしていたからで

(略)

父のユニークな功績をたたえるべきだと思うことのひとつは、百二十五丁目のレストランで、黒と白の境界線を打ち破った、ということである!

(略)

フランクの店は、ギリシャ人の経営する小さな店で、ハーレムのどまんなかに存在する人種差別のとりでだったのだ。

 父は一人の黒人の友だちを昼食に連れていった。映画のプロデューサー、オスカー・ミーショウである。ミーショウのステーキがとどいたが、コショウでむせび返るようなステーキだった。父は彼におだやかな態度で自分のステーキをすすめておき、それからウェイターに、コショウのかけてないステーキを持ってくるようにいいつけて「じゃないとこの場で見たこともないような大喧嘩を見せてあげることになるよ」といったのである。今日ではそこでギリシャ人のウェイターと黒人のウェイターが一緒に働らいている。お客のおよそ八〇%は黒人である。

(略)

 父は自分たちで立ち直ろうとするハーレムの住民たちの手助けをする努力を決して止めなかった。ストークリー・カーマイケルが、自分たちの地域内なのに黒人たちには責任ある仕事をさせようとしないといって白人を非難していたとき、父は黙々として、ハーレムに本拠を置く黒人の建築会社を雇い、五万ドル相当のアポロ劇場の改修工事をさせていた。改修工事はフリーダム・バンクから借りた建設ローンの助けによって行われていたが、この銀行もまた、父がその創立に一役かった銀行で、彼はいまでもその重役をつとめている。この銀行でも、父のうるさ型の気性は、ハーレムの社会全体の利益に向けられた。黒人の同僚重役たちを説得して、黒人の顧客のためだけにことさらやっきになるのを止めさせたのである。父の考え方によると、それもまた、裏返された一種の偏見なのだということなのだ。

 ところで一方では、YMCA理事会唯一の白人(それも唯一のユダヤ系白人)として、ほかの理事たちがそれも一つの偏見ではないかと抗議しているのに、白人のバスケットボールのコーチの代りに黒人のコーチを雇うべきであるとして、熱心な説得を行なった。

 父の挙げた理由は単純なものだった。「問題は」と父はいった「あの子供たちが、かつて黒人を指導者、権威者として尊敬する機会を得なかった、ということです。彼らが仰ぎ見ることになるのは、常に白人です。子供らに、黒人だってそのような地位につくことができるのだということを理解させる、その機会を持たせなければならないのです」

 YMCA理事会は、この父の見解に沿って、白人コーチを解雇するという暗黙裡の差別待遇は、黒人青少年が白人以外の人間を尊敬することを学ぶこととくらべればそれほど重大ではない、と決議した。マルカム・Xがその自伝のなかで、好意をもって父のことを書き残したことに、何の不思議があるだろう。

(略)

 数年前、父はそのまれな、短かい内省の間につぎのような文章を書いていたのである。

 

 "私はかつて衆人を瞠目させるがごとき行動をなそうと願ったことはなく、また大いなる富を集積しようとのぞんだこともない。その起源さえ定かでない一つのみじかいことばが、週ごとに、月ごとに、年ごとに、ラファイエット劇場の、また、ハーレム・オペラハウスの、あるいはアポロ劇場のささやかな成功の物語とともにわたしの胸に思い浮かぶ。闇を呪うならむしろ小さなローソクをともした方がましではないか。わたしの願いはこのささやかなローソクの火にあった。納屋に火をつけようと望んだのではないのだ"

人種問題解決への願い

 ルー・ロウルズの場合、アポロ劇場の舞台を初めて踏んだときには、ザ・ピルグリム・トラヴェラーズの一員だった……。

 ジェイムズ・ブラウンの場合(略)そもそもはゴスペルを歌っていた……。

 ディオンヌ・ワーウィックの場合、ザ・ドリンカード・シンガーズの一員、リー・ワーウィックの娘である……。

 マーヴィン・ゲイの場合、子供のころは父の教会で歌っていた……。

(略)

今日の芸能界にあって黒人の身で傑出した存在となり得た最大要因を語るとすれば、歌手と聴衆の別なくあらゆる世代の黒人たちを育てたゴスペルを媒介として、足で床を踏み、手を打って拍子をとり、指を鳴らしたことに尽きるだろう。

(略)

アリサ・フランクリンは牧師の娘として生れ、ゴスペル隊の一員として歌っていた。

 ゴスペル・ミュージックの実質的な原型ともいうべき地方色豊かな形式は、棉畑で汗する人たちの単調な調べから派生したものであり、そこの労働者は生れ落ちるとすぐに、奴隷制というわくのもとで死ぬまで苦しみ続ける運命を背負っていた。現世の終末は望むべくもないところから、奴隷達は来世における救済に願いを託して慰め合ったが、彼らが宗教的な会合のおりに歌った宗教音楽から近代のゴスペル礼拝が誕生した。

 南北戦争後の"自由"も幻想にすぎなかったことは周知の事実であり(略)

 棉畑にたれこめていた意気阻喪の感情は今や都会の街頭を覆い、大農園で飼い殺し同然だった労働者の絶望感は黒人居住区で暮す人びとの諦念に変った。(略)

都会のこうした挫折感があるからこそ、ゴスペルは今なお会衆を引きつけるのであり、それが福音啓示の一形態であるからこそ、今日のブルース歌手は自分の霊感をかきたてることになる。(略)

もっぱら夢想に傾きがちであった初期の作品とは異なり、今日のブルースは社会に対する抗議運動から発しており、その結果として、黒人の個人的な挫折感、つまり常にブルースの核心に存在していたものの中に、人種的屈辱感という新しい要素が溶けこんでいる。

 ところが、今日の黒人音楽からはさらに性質を異にする旋律を聴きとることができ(略)

それは、希望の高鳴りに他ならない。(略)今日の黒人は現世において自由、正義、均等な機会を享受できる日が来ることに一沫ののぞみをつなぎ、もはや世俗的な希望を放棄する気構えも、この世の苦しみを甘受する気構えもない。彼はこの地球上にある自分の楽園を希求し、あるいは少なくとも鮮明な模型写真を手に入れようとする。

(略)

 皮肉な見方をすれば、この新しい姿勢によって黒人たちの文化的エネルギーの源泉そのもの、すなわちゴスペル教会が脅威にさらされている。教会は諦念に支配されており、それが必需品として存在しているのは、はかない希望など街頭で吹き飛ばされてしまう黒人社会であってみればこそなのだ。

 ゴスペルの支配力が弱まった場合に、それにとって代るものはなにか?そもそも、黒人たちがこの地球上で待望久しい楽園を見つけ、そこから新たな活動力を引き出すだろうと考えては、どうしていけないのだろうか?私が問題にしているのは架空のユートピアではなく、少なくとも自由と平等がうたい文句だけに終っておらず、われらが建国の父たち、つまり"理性の時代"に生きた白色人種系のゴスペル歌手たちが描いた夢が実現されている場所なのだ。

 最近、白人の友の一人が由々しき疑問として口に出したのは、黒人と白人とは互いに手を携えて生活できるのだろうか、ということだった。彼は、こう言い足した。「だけど、どこかで可能だとすれば、まずアメリカをおいて他にはあるまい。また、それがだれかの手で実現するとすれば、今後の世代に委ねられるだろう」

 私も彼の説に賛成だ。そのわけは、今日すでにあらゆる人種に属する若者が、価値観、野心、不安、遺恨、娯楽などの面で共通の基盤を見いだしている。

(略)

 文明批評家で『エボニー』の編集者でもあるフィル・ガーランドは『ソウルの響き』[『ソウルの秘密』三橋一夫訳、音楽之友社、一九七三年]という彼女の好著中に、有名なブルース歌手B・B・キングとの会見記を収録しているが、キングは予想以上に説得力をこめて、次のような考えをのべている。

 

 変化のきっかけはローリング・ストーンズやイギリスの別のグループがブルースを手がけはじめ、それらが再びアメリカに入ってきた(略)ときだった。それらのブルースは、白人しかもイギリス人の手を経ただけに一風かわった響きを伝えていたが、彼らにすれば、自分たちが感じとったなりにソウルをこめて演奏していたのだし、僕もその点は十分感じたけれども、同様に奥行きの深さでは彼らをしのぐ人が、僕の知っている中にも何人かいた……。(略)

 こうした中で、おおぜいの白人の子供たち(アメリカの子供たち)がブルースについて追求を始めた。そして彼らが発見したのは、ローリング・ストーンズをはじめ、幾多のイギリスのグループがやっているのは、他ならぬアメリカの黒人たちから吸収したという事実だった。そこでそれ以後、彼らは僕たちがつたえようとしていたのは、一体、どのような啓示なのかと耳を傾けはじめ、理解しようと努力しはじめた。僕からみると、こういう人たちの一部には、その一端を感じはじめている者もいる。

 当然のことだが、彼らの感じ方では僕たちに及ばない。僕たちにはそれが血となり肉となっているからだ。とはいえ別の言葉を使えば、こうも言えよう。他人の足を踏んだとする。それが気分をそこねるものであることはあなたにも察しがつくだろう。ところが、その感じ方がどの程度で、どれだけの痛みを伴っていたかはわからない。でもとにかく、他人の気分をそこねたことがわかるのは、たぶんあなたにも他人に足を踏まれた憶えがあるからだ。僕らに対してちょうどこれと似たようなことを今日の白人系アメリカ人は気づきはじめている。若者たちやそれ以外にも少なくない人びとは、僕らの苦しみがどれほど奥深く、広範に及ぶものかは、わからないにしても、僕らがずっと感情を傷つけられてきたことだけはわかる。それはたぶん、彼らも感情を傷つけられたことがあったからだろうが、彼らの受けた苦しみが僕らの受けたものと同じほどだとは考えられない。いずれにしても、彼らにはその心情が理解でき、だからこそ、ブルースが今日隆盛をきわめているのだ。

 彼らは門戸を開いて、ブルースを真に体得している人たち、しばらくの間、啓示を守り伝えてきた人を迎えはじめている。そして僕が思うに、この事実こそ、B・B・キングの真価が理解されはじめた証拠に他ならないと言えよう。

 

(略)

 肌の白いアメリカ人は、これまで黒人たちの自尊心を手際よく取り去ってしまい、代りに自己侮蔑と自己不信を植えつけたあげく、われわれ側から見た彼らのイメージを彼らに押しつけた結果、彼らはそれを誤りなきものとして認めていたにひとしかった。

 この国の黒人英雄譚の素晴しさは、奴隷制のもとで故国から隔離され、われわれのきめ細かい洗悩教育を通じて自我と遮断されても、なおめげず、自分の手でなんとか文化を創造し、しかもその内容の豊富さと活気に溢れる点では、アメリカ社会が生みだしたいかなるものにも負けない文化であったことにある。けれども、私たちの汚点として永遠に残るのは、私たちがこの文化の極致をささやかな感謝ぐらいでほとんど代償もなく取り去ってしまったことだ。白人社会には、黒人たちはすぐに暴力をふるいたがると考える輩もいる。私自身の判断からすれば、これまでの彼らの抑制力と度量は筆舌に尽しがたい。

(略)

[黒人は]これまで禁じられていた自主独立を主張し、過去のくすぶる欲求不満の灰の中から威厳と自己の構築にとりかかっている。白人の助けがあろうとなかろうと、白人の反対を向うにまわしても、自己を完成しようという決心はかわらない。(略)

教育計画、美術展覧会、文化的行事には白人の理解と尊敬が欠かせない。このような点を十分に認識してこそ、現代の不均衡が正常に復し、私たちの二分された社会を改造する助力が得られよう。

 本書に託したのは、そういう目的に寄与したいという願いなのである。