黒人ばかりのアポロ劇場 ジャック・シフマン

1971年出版、アポロ劇場初代経営者の息子による様々なエピソード。

スラング、百二十五丁目のにぎわい

 言葉使いの中にもハーレムの住民たちの特徴がはっきりとあらわれている。たとえば"マザー"といったごく普通の言葉にさえ、信じられないほどの意味と感情がこめられ、泣きたくなるような優しさから侮辱まで含んでいる。言葉は、胸にキュッとくるような微笑かまたは野卑でワイセツな響きとともに語られる。黒人たちの発音の中で実に特徴的で描写的なのは、口の中で音をころがすようにして言う"シイイイット[sheeeit](畜生)"のような短音節だ。これはおそらく黒人たちの辞書の中でも、もっとも豊富な意味をもった単語であり同時に黒人社会のつき合いにおいて欠かすことのできない小道具なのだ。冗談ばなしのときには"シイイイット"が笑いとともにとび出してくるし、いやな話をきいたときの"シイイイット"は悲しい響きをもっている。言葉の意味にもいろんなニュアンスがあり、人や声もさまざまなように"シイイイット”にもいろいろあるのだ。

 黒人の変化に富んだ言葉は、彼らが奴隷だった時代に生れたものであり、仲間うちの内緒ばなしのとき、白人の主人に意味をさとられないよう、暗号としてのなまりを作ったのだ(略)

もちろん、なまりだけが次代に受けつがれてきたのではなく、暗号を作った精神もちゃんと伝えられているのだ。

 アメリカの都市の黒人地区の中で、きわだった独自性をみせているものは、言葉なのだ。黒人たちの口から何気なく飛び出す、生きのいいスラングを、いち早く白人社会がとり込む。例えば次のような言葉である。

“Outa sights(最高にスバラシイ)""Right Ons(よし、やったぞ)""Where it's ats(これなのだ)""Uptights(ヤバイぞ)""Get it togethers(さあ、やろうぜ)"

 白人には判読できない黒人文化の新鮮さこそ黒人の自治を維持するものでもあるのだ。

(略)

 百二十五丁目のにぎわいは昼も夜ものべつ幕なし、ハーレムっ子によるハーレムっ子のための見せ物がひとりでにできあがって行く。

(略)

肝っ玉かあさんは賛美歌をうなりながら、がっちり太い褐色の腕で食料品を引きずり、我が家へ向っているし、やせっぽちの新聞少年はタクシーやトラックの間を通り抜けながらバスケット・ボールのシャドー・プレイをやっている。ちょいと格好のいい秘書のネエちゃんたちも、ランチ・タイムに外出したついでに黒い、アーモンドのような瞳をくりくりさせて、精一杯セクシーな視線をあっちこっちへ放射している。サラリーマンはヒットソングの口笛を吹き、ませた子供たちはスピーカーの前で歌手の物真似をやっている。

(略)

道路のあっちこっちで握手したり、手をたたいたり(略)

あかの他人だってかまうことはない、お互いに気安く「やあ」「やあ」と挨拶すればそれでいいのだ。(略)

劇場の前でこのにぎやかな見せ物を見た私の友人がこう言った。「こいつは、アポロのショーの、まるでリハーサルそっくりだ!」

おれたちの劇場

 アポロ劇場のロビーは細長い廊下のようで、いつも私にボーリング場を連想させる。「こっちの壁からそっちの壁へ、つばをかけることだってできる」と案内人のひとりが言う。「実は、みんなやってるんです」

(略)

 モギリのところでロビーはいくつかにわかれる。まっすぐ行くと一階席、モギリの前を右へ曲ると三階席、うしろを右へ曲ると二階席

(略)

三階席の客は、階段が完全に別になっているので、値段の高い、下の階へは絶対に出入りできない。

(略)

 三階席につけられた呼び名のなかで一番ピッタリなのは"愚連隊屯所"というやつだ。いつもの騒がしい子供たちのほかに、酔っぱらい、麻薬常用者、やくざ、夜の女、落後者、奇人、変人など、とにかく一風変った個性的な連中がたむろして、三階席を自分たちのなわ張りにしているのである。映写室と照明室は三階席の上にある。

(略)

頭のいい芸人は三階席に向けた演技をする。そして三階の愚連隊屯所のうるさ方さえ手に入れてしまえば、もうこっちのもの、成功は疑いなしなのだ。三階席の連中は、露骨で残酷だが、本物を見分ける鋭い嗅覚を持っている。だから本物にはちゃんと反応してみせる。

(略)

 劇場はそれほど大きくはない。座席は千七百だが、通路に補助席を出し、一階と二、三階の後部にある立ち見席まで一杯になると、収容人員は二千三百に増える。平土間の勾配はかなり急なので、二階の張り出し部分がちょっとばかり一階の後方の客の視界をさえぎる。舞台は三階から相当遠いのでまるでチェス盤のように小さく見えるのだ。

(略)

[ハービー・マンがテレサ・ホテルから出てくると]

ブラック・パワーの闘士がホテルの前の群衆に向かって何やらぶっていた。

「白人だ!(略)われわれを窮地に陥れている犯人は。ハーレムから白人を追い出すんだ。(略)誰が白人なんだ?」闘士は迫った。

「誰だか教えてやろう。そいつだ!(略)」彼の右腕がさっとあがり(略)

驚いたミュージシャンの顔から血の気がなくなり

(略)

 だが、幸運にも波乱は起きなかった。群衆の一人がこう言ったからだ。「違う、違うよ、そいつは白人じゃない、ハービー・マンだ」

(略)

 一九四三年のハーレムの暴動や、そのあとに起きた百二十五丁目周辺の騒動や不穏な状態のときなど、大勢の黒人たちが自発的に集まってアポロ劇場を守ってくれた。(略)集まった黒人たちはアポロの従業員ではなかった。彼らは顧客だったのだ。この事実を私は強調したい。街にある他のどんな施設に対しても同様の行動がとられたという事実はないのである。

 一九六八年の夏、アポロ劇場のロビーは改装された。父は黒人の建設業者を雇い、街の北にある新しい(ほとんど黒人が経営している)フリーダム・ナショナル・バンク(父は重役の一人である)の建設ローンを利用した。それは実に見事な出来ばえだった。旧式の柱は、渦巻模様のついたものになり、金箔をはりめぐらせた装飾的な天井は、さっぱりと単純化されたものにかわり、壁画も新しくなった。

(略)

私の兄ボビーが、ロビーに入って行くと、二人の若者が片側に立って、彼らの新しい劇場を眺めているのに気づいた。彼らは最新流行の服を身につけた、このへんの言葉でいえばグルービーな若者だ。「すごいぜ!」一人がため息をついた。「やってくれたじゃないか」「やったぜ」相棒が答えた。「見ろよ、おれたちの劇場なんだ!」

世界で最も"うるさい"観客

アポロの観客は世界で最も"うるさい"観客なのだ。あまりうるさいので、なかには出演をいやがる芸人もいる。リナ・ホーンなどは、いやがるどころか絶対に出演しないというのだ。

 たとえば、偉大なるビリー・エクスタインは、名声をきわめたあと、突如としてアポロには手の出ないスターになってしまった。(略)

名実ともに第一人者となって、われわれから離れてしまった。理由は?彼は恐れていたのだ。アポロのうるさい観客が、スターの彼を容赦なく鼻であしらうかも知れないということが恐かったのだ、と私は思っている。

 これは、後年、彼が再びアポロ劇場に出演した時、結局は自分が間違っていたことに気がついた。彼の出演期間中、劇場は立ち見席まで満員の盛況だったのだ。今日では、ビリーはアポロに年に一度は出演しているし、彼も彼のファンも、それを楽しみにしているのである。

「ありがとう、ほんとにありがとう」最初の一曲を唄い終ると彼は言う。「またアポロに出られて気分は最高……故郷はいいもんだ」これは舞台用のセリフではない。ビリーにとって、アポロ劇場は本当に故郷なのだ。

 最高クラスのスター(略)でさえ、相手がアポロの観客となるとかなり緊張する。舞台袖で出を待っていたエラ・フィッツジェラルド(略)は檻の中の熊のようにそのあたりを行ったり来たりしながら、ハンカチを握りしめ、額の汗をせわし気に拭いていた。

「具合でも悪いの?」と私は彼女に尋ねた。

「医者を呼びましょうか?」

「いらいらしてるのは観客のせいよ」彼女は答えた。

「舞台にあがってみるまでは、一体どんなことが起るか分らないんだから」

(略)

ハーレムほど、どんな社会よりも、音楽意識が高く、またそれが必要とされている社会はないのだ。

(略)

 ほかの舞台に立っても、うけることは出来るだろうが、何かが決定的に失われるのだ。その何かを一言で説明すれば、それは"電撃"である。アポロ劇場の内部空間を支配している熱狂的興奮は言葉に置き換えられない。普通の劇場なら、観客はおとなしくて節度を保っている。たとえロック・コンサートでさえ、興奮した若者が見物人の域からはみ出すことは少ない。いかに強烈なビートが彼らをしびれさせようと、そこに理性が働いて、とことんまで行こうとする情熱を管理してしまうのだ。

 アポロにはそんな抑制力は存在しない。それは理性がないからではなく、出演者と交流する姿勢がほかの劇場とはまるっきり違っているからである。ハーレムの住人たちは、ゴスペル・オリエンテーションによって、どんな活動においてもリーダーとそれにつづくものという形で、個人的に参加することに慣れているのだ。礼拝、市民権運動、あるいはショーにおいても、この形に変りはないのだ。一方には、牧師、リーダー、出演者がいて、もう一方の群衆、大会、観客とお互いに競い合い、それぞれが相手の爆発を求めている。誠実と怒りと熱狂による爆発である。

(略)

 ソニー・ティル(後述するが、彼のオリオールズは、二十年後にビートルズがやったと同じような世紀の音楽革命をやってのけたのだ)がアポロでラブ・ソングを歌ったときのことだ。ソニーは独特のスタイルで身体を曲げ、マイクにおおいかぶさり、肩をなまめかしくゆすり、両手で見えぬ相手をかき抱くようにして歌う。これが女の子たちを完全にしびれさせてしまった。金切り声が劇場中に鳴り響いた(略)

「やって頂戴!私を犯して!」

 たとえテープ・レコーダーが、この雰囲気をある程度は伝えることができたとしても、それはこの場の光景を見せてはくれない。彼女たちの表情をこの目で見なければ駄目だ。悲しいバラード、ハッピーなリズム、それぞれの曲のもつムードによって移り変る感情の動き、生き生きした瞳の輝き、ヒップのゆれ加減、肩のこきざみなゆすり、指を鳴らす音、そして足でリズムをとる音などのすべてを実際にその場で味わってみなければなんにも分りはしないのだ。またそれらをフィルムに収めたにしても、あの動き、あの興奮の中で感じられる刺激的な若者の体臭、ポプコーンとチョコレートをミックスした麝香のような匂いを嗅ぐことはできないのだ。

 このなかには、最低所得層の連中も結構いるのだが、彼らこそ舞台と客席の交流を左右する切札的存在なのである。もし彼らが気に入ればもう大丈夫だ。彼らは喜んで金を払い、あなたをスターにしてくれるだろう。しかし彼らの期待を裏切ったが最後、一巻の終わりだ。三階席に巣くう愚連隊のめんめんは、あなたの死体の骨をしゃぶることだって出来るのだから。

ライオネル・ハンプトン

 ライオネル・ハンプトンは、その強烈な興奮で髪の毛を抜けさせるほど多才な音楽家なのだが、一九五五年に登場してきたときはすごかった。どんなに強力な興奮の壁でもたちまち打ち破ってしまうスタイルを持っていた。もちろんまずは彼自身を血祭りにあげて。彼はショーを最後までうまくコントロールし、自分のソロがくるまで、はれものにでもさわるように注意深く緊張を盛りあげていく。ヴァイブのソロになると彼は二十分以上もたたきっぱなし。その天才的なテクニックは、ハーモニーとリズムをいつの間にかだましこんで、見事な彼独自の世界を創造しているのだ。スロー・ナンバーをやるとき、彼は一度に六本から八本のマレットを使うこともあり、テンポの速いもののときは、軽快な音がめまぐるしく動く彼の両手からまるで滝のように流れ出てくる。

(略)

彼が何かに憑かれたように首を振るたび、汗がにじみ、潤滑油をさしたようにライオネルの手にひろがっていく。彼は意味不明瞭なことをうなりながらコードをたたく。観衆もうなり返す。彼が創造のたかみをいつまでもさまよっていられるように雰囲気を盛りあげているのだ。彼はいまや最高潮をきわめようとしていた。

 クライマックスに達した「ウー!」といううめき声とともに、彼のきまりのフィナーレ、〈フライング・ホーム〉の最初の一小節が鳴りはじめる。観衆の感きわまった叫び声が場内にこだまする。そしてイリノイ・ジャケーのあの有名なテナー・サックス・ソロにはいってゆく。

(略)

またライオネルのソロになった。彼がすばらしいクレッセンドをくり返しているとき、舞台に紗幕がおりてきた。オーケストラもいっせいに演奏しはじめる。ライオネルは、自由奔放にたたきはじめた。低空飛行をつづけるジェット機の映画が紗幕に映され、エンジンの爆音とエキサイトした音楽が混じり合って一大音響となった。

(略)

劇場中の、二千人もの人間ほとんど全員が、気が狂ったように立ちあがり、胸もはりさけんばかりに叫びはじめた

(略)

ライオネル自身は、もうひとつの世界へはいり込んでいた(略)

タムタムを引っぱり出し、ありったけの力でたたきはじめた。それからその上にとび乗り、そこから彼のメンバーたちをもっと高みへ(宇宙かも知れない)導こうとした。次の瞬間、さっと身をひるがえして、うしろのヴァイブにとびつく。と、繊細なアルペジオがさざ波のように劇場の中を伝わっていった。十分、十五分、二十分とこの大混乱は、裏方の一人が父の肩をたたき三階席を指さすまで続いた。(略)

父の目は恐怖でとび出した。三階が揺れているのだ。間違いなく揺れている!

(略)父は、舞台監督のロイ・モンローにサインを出した。ロイはライオネルのヴァイブにつながっている電気のコードをそっとはずし、楽器を舞台袖に引っ込めはじめた。ライオネルは演奏に集中しているので何も気付かず、またミス・ノートひとつしない。彼は楽器と一しょに動き、演奏しつづけた。彼と楽器が舞台袖に消えてゆくのにあわせてゆっくり幕が下りた。だが拍手は鳴りやまなかった。それがやっと鎮まったのは、十分から十五分経って、力尽きた観客がロビーのドアに向って歩きはじめ、虚脱状態のミュージシャンたちが楽屋へ引きあげてからだった。しかし、この大混乱のほんとうのハイライトは、それでもまだライオネルが舞台袖で演奏をつづけ、"もうひとつの世界"に没入していたことにあった。バンド・ボーイは彼のそばに立って、額からあふれ出る汗をなんとかしてふき取ろうとけん命になっていたのである。

奇妙な果実、ナンシー・ウィルソン

 不思議な力の働くもうひとつの世界は、必ずしも喧噪の中にだけ出現するとは限らない。ビリー・ホリデイの歌う〈ストレンジ・フルーツ〉などは、あまりの静けさに心を乱され、思わず叫びたくなるような名唱である。この歌はリンチにあった黒人の身体(奇妙な果実)が木に吊り下げられ、ねじれた唇から血がにじみ出し、顔の傷痕が黒からどす黒く変色するさまを描写したものだ。

 この歌をどこかほかの場所で聴けば、ただホロリとするだけでおしまいになるだろうが、アポロでのこの歌はもっと深い意味を持つのだ。その"果実"を、目のあたりに見るような恐怖を呼び起すだけでなく、ビリー・ホリデイの中に、木に吊られた犠牲者の妻や姉妹そして母の悲しみと怒りにうちひしがれた姿を発見するのである。

 もしもあなたの精神の運動がアポロの観客とおなじ方向にあるとしたら、あなたはもうひとりの、リンチをうけた犠牲者の苦悶を見、そして感じるはずである。それはゴルゴタの丘で木の十字架にかけられた犠牲者なのだ。ビリー・ホリデイが自分の唇から最後のフレーズをもぎり取るように出したとき、観客の中で絶息に近い状態に陥らない者は、黒人白人の別なく、ただの一人もいない。息苦しく重い沈黙の時が流れ、それから聞いたことのないような音がする。それは二千人のため声なのだ。そのうちの一つは私のものだ。私はまるで、首にまきつけられたロープがやっとはずせたばかりのような気がしたのである。

 ナンシー・ウィルソンの舞台には、また違った形のスリルがある。いつのショーでも、四、五十人のファンが催眠術にかかったように席を立ち、舞台のかぶりつきまで歩いてゆく。そしてナンシーの手や衣裳に触わり、芳香のあとを追い、彼女の輝くばかりの美貌を眺め、ただ恍惚の人となるのである。(略)彼女は多彩な照明の中で、きらめき輝いている。それから〈ゲス・フー・アイ・ソウ・トゥデイ〉を歌いはじめる。小味な気のきいた曲で、夫がガールフレンドと一緒のところを私は見た、というような内容の歌だった。だが彼女がたっぷり心をこめて歌ったので、曲はかなりドラマティックなものになり、聴衆をしびれさせた。何回かこの舞台を見たあと、かつては名ダンサーでいまは劇場支配人のホニ・コールズに私はたずねてみた。「ナンシーは、最近旦那とうまく行っていないのかい?」

「ズバリだ」ホニは答えた。「別れたんだ、ふたりは。彼女、だいぶまいってるね」

(略)

彼女は観衆を親友に見立てて、自分のみじめな気持ちを舞台にさらけ出していたのだ。そして不思議なことには、彼女の足もとで共に嘆き悲しんだ人々のやさしい気持ちを通して、彼女は新しい活力を手に入れたのだ。

ハーレムの黄金時代

 「十九世紀から二十世紀になったばかりのころ」と九十四才のリー・ホイッパーは語る。

 このハーレムに黒人はほとんどいなかった。いまのアポロの建物の地下にナイトクラブがあったけれど(略)黒人は立入禁止だった。(略)この頃のハーレムは白人の街、すべて白人のものだった」

 リー・ホイッパー、性格俳優として永いキャリアを持ち、黒人俳優協会の創始者の一人である彼は当時のことを体験的に知っている。彼は一九〇〇年にニューヨークへ出てきたのである。

(略)

百四十五丁目にあったオデオン劇場は、一九一〇年における至宝のような劇場であった。オデオンは銀行家、弁護士、政治家によって創設され、まるで三頭政治のようだったが、珍しいことに彼らには、金儲けの意志はまったくなかったのである。オデオン劇場は、労働者とその家族に、安い入場料で娯楽を提供するためにつくられたのだ。

 ところが、この先進的な意図は、ジョージー・ジェッセルやジミー・デュランテたちを雇ったために失敗してしまった。つまり意図に反して金を儲けたのだ。(略)彼らは劇場にいや気がさし、興味を失なってしまった。そして一九二〇年までには、普通の映画館に衣替えされてしまい、レオ・ブレッチャーと呼ばれるやり手の若者がそこをきりまわしていた。ここで、フランク・シフマンが登場する。

 両親は移民で(略)父は、貧乏とたたかい、大家族の生計を助けながら一九一四年、ニューヨーク・シティ・カレッジの学位をとった。(同級生にエドワード・G・ロビンソンがいた。)それからの父は、レオによって劇場へ誘い込まれるまで、先生から靴屋の店員までなんでもやっていた。(略)

 一九一〇年頃まで、現在のハーレムにあたるこの地域は、上流社会の白人たちの遊び場であり、また居住区でもあったのだ。そこへ二、三組の黒人家族が、ひっそりとダウンタウンのサン・ホアン・ヒルからレノックス街百三十五丁目付近へ引越して来た。これを皮きりに百四十五丁目の新築アパートが黒人家族に部屋を貸すと、あとはあっという間に黒人の大群がアップタウンに移住していった。やがて南部から移ってきた人たちによって、黒人人口は大きくふくれあがり、一九二〇年までには、百三十丁目から百四十五丁目にかけての地域はほとんど黒一色に染められてしまったのだ。

(略)

 一九二二年になって、レオ・ブレッチャーと彼のブレーンたちは、ヴォードヴィル劇場のチェーンのひとつとして(略)ハーレム・オペラハウスを手に入れた。

(略)

 一九二五年、七番街百三十二丁目のラファイエット劇場は、父とブレッチャーのものになり、同年五月、新装オープン。小編成のオーケストラと黒人のショーガールによるバラエティ・ショーを上演した。ところで、そのオーケストラにはすばらしいオルガン奏者がいたのだ。彼の名はトーマス・ウォーラー、のちに"ファッツ"のニックネームで知られた男である。

 短期間のうちにラファイエット劇場の舞台は、ハーレムにおけるブラック・ショー・ビジネス創世期の伝説をつくった無数のスターたちで飾りたてられた。その人たちの名は、ベッシー・スミス、エセル・ウォーターズ、ビル・ロビンソンキャブ・キャロウェイ、ノーブル・シスル、ユービー・ブレイク、メイミー・スミス、ミラー・アンド・ライルス、ルイ・アームストロング、ミルズ・ブラザーズ……。

(略)

 ラファイエット劇場は、かなり永い間ショーをやっていたため、ショー・ビジネスの歴史の中で、いわば中間駅とでもいうべきものになっていた。不況の襲来とハーレムの活動の中心が百二十五丁目に移ったことが、父と彼の仲間たちの行動を決定した。(略)

ハーレム・オペラハウスは、シフマン=ブレッチャー組の活動の新しい本拠となったのである。

(略)

 新しく復活したハーレム・オペラハウスの寿命も比較的短かかった。(略)

元ハーティグ・アンド・シーマンズ・バーレスクだったアポロ劇場は、シフマンやブレッチャーと同じような経営理念を持つシドニー・コーエンによって動かされていた。二つの劇場は、お互いにしのぎを削ったのである。(略)一年後、コーエンが死ぬと、実演の製作はすべてアポロへ移った。その時以来、ハーレム・オペラハウスは不振に陥り、悲しい下り坂をゆっくり、しかも確実に降りはじめ、映画館からボーリング場へ、そして一九六九年にはついにオフィス・ビルへと変身したのである。ちなみに、オデオン劇場、ラファイエット劇場はともに、教会になった。

 父とレオがつんぼ桟敷におかれたまま、シドニー・コーエンとの取引きは、すんでのことでご破算になるところだった。

(略)

[ジョン・ハモンド談]

「私がジャズや黒人ミュージシャンに興味を持っていることを知ると、シドニーは自分と一緒にアポロをやらないかといったんだ。私はびっくりしたが、願ってもない感激だと返事した。そして契約書にサインするため彼の事務所へ向う途中で、コーエンは心臓発作で死んだんだ。それですべてがおしまいなのさ」というわけでジョン・ハモンドは、私の父にかわってハーレム興行界の第一人者になるチャンスをおしくも逃してしまったのだ。

ベッシー・スミス

 ビッグ・バンド・サウンドが伸長しようとしているとき、あのブルースの灯は一時的にではあるが消えかかっていた。というのは、一九三〇年代初期には、例のニューヨーク株式市場大暴落や押し寄せる不況の波をまともに受けて、レコード会社のほとんどがつぶれるか、あるいは深刻な打撃を受けていたからだ。ベッシー・スミスやメイミー・スミス(略)のように、"レイス"レコードからの収入で生計を立てていた歌手は、一夜のうちにがっくりやせてしまった。ベッシーの週給は三千五百ドルあたりから一挙に二百ドルまで下り(略)なんともひどい没落ぶりだった。

 ベッシーは"ブルースの女帝”とうたわれ、多くの人も彼女のことを最高のブルース歌手と信じている。(略)

 彼女のブレーンであり、友人であり、そしてプロデューサーでもあったジョン・ハモンドは、彼女についてこう語った。「ベッシーこそ不世出の歌手だった。彼女が観衆を一人残さず泣かしてしまうのをこの目で見たことがある」

(略)

 何と偉大な才能だったことだろう!彼女はそれまでのブルース歌手の誰よりも、声量豊かに歌うことができた。エレクトリック・サウンド装置が出たばかりの頃、彼女はマイクなしで大ホールのすみずみまで鳴り響かせるほどの声量を持っていた。父はいう。「彼女は自分の声に感情移入することができた。そんなことができたのは、あとにもさきにも彼女だけだった」

(略)

 ベッシー・スミスが一九二三年にはじめてレコーディングした〈ダウン・ハーテッド・ブルース〉というレコードの売上げは、なんと八十万枚を突破し、コロンビア・レコード会社にとって空前の大ヒットとなった。それ以前から彼女は年間二万ドルをコロンビアから貰っていた。そのうえ、週千ドルをTOBAから受けとっていた。

(略)

ベッシーはかなり以前からアルコール中毒だったが、例の大恐慌がそれに輪をかけ、それが一九三七年の自動車事故で悲劇的な死を招く原因となったのであろう。

 ラファイエット劇場で歌っていたベッシーのことを私はよく覚えている。当時、私はまだ六才だったので彼女がとても大きな女性にみえたものだ。髪の毛をうしろできっちりと束ね、目は重いまぶたで半分ほど閉じられ、その表情は、歌っている歌に合わせてナイーブに変化する。あるときはいたずらっぽく、またあるときはいくぶん陽気に、そして突如として私が見たこともないような、とても悲しげな表情に変るのだった。彼女はステージの中央にしっかりと立って、その顔と首だけが、あざやかな白いスポットライトの中で浮き彫りにされるのだ。ロマンティックな恋の歓びや、失恋のメランコリーは、子供の私にはとうてい理解できなかったが、それでも彼女の魂をゆすぶるような表現力によって、私のみぞおちのあたりが、何かこう、きゅっとなったのをいまでも覚えている。

レッドベリー

 沈んでいきつつあったブルースに橋を架けたのは、正確にはブルース歌手ではなく"ワーク・ソング"の元祖として有名だった男である。"レッドベリー"の名で知られたフーディ・レッドベターがラファイエット劇場に姿を見せたとき、ハーレムの住民たちはショックをうけた。有罪の判決をうけた殺人犯レッドベリーは、自分が作曲し歌った歌によって世論を味方につけ、ついに一九三四年、ルイジアナ州知事から赦免を獲得したのだ。

 父は彼のことを次のように語る。「多分、彼が人殺しだということを知っていたからだと思うが、私はいつもあの男が恐かった。見るからに恐かった。彼が大男だったからでない。それどころか彼は中肉中背だった。だがなにか得体の知れない不吉な影が彼のまわりにただよっていたのだ。それでもわれわれは彼を出演させたし、私はいまでも彼がラファイエット劇場に登場したときのことをはっきりと覚えている。われわれは州知事室のセットをつくり、レッドベリーを囚人服で登場させた。知事は囚人の歌に感動し、彼を赦免するのだ(略)彼が歌うのをはじめて聴いたときのことは、決して忘れられない。(略)彼は泣き叫んだ……なんともすさまじいものだった」

カウント・ベイシー

 父とレオ・ブレッチャーがアポロを手に入れ、現在のアポロに作りあげた年、一九三五年までにはジャズは原子反応にでもたとえられるような状態にあった。まるで高速度で動く粒子のように、ファッツ・ウォーラーカウント・ベイシー、ジミー・ラッシング、ライオネル・ハンプトンなど無数のすばらしい新人たちが、ポール・ホワイトマンルイ・アームストロングなどの古くからある原子核とさかんにぶつかり合ったのだ。その結果は、すさまじい光と熱と核爆発が起った。灰が落ちつくとそこには新しいリズム、新しいハーモニー、さらには新しい楽器までもたずさえた新しい超一流のオーケストラが出現していたのである。

(略)

やはり一流のオーケストラのリーダーだったフレッチャー・ヘンダーソンはジョン・ハモンドにこう語った。「おれのバンドをぶっつぶして、そのかわりにベイシーのバンドをそっくりそのまま雇いたいと思ってるんだ」

 カウント・ベイシーサウンドにもひとつ問題があった。それはあまりにも時代を先取りしていたことだ。一九三〇年代の聴衆は、ジャズとともに、相変らずラグタイムやセンチメンタルなものを要求していたのだ。

楽譜を読めなくても

 私がいまもって不思議に思っている一つの事実は、当時のバンド・リーダーの多くが楽譜を読めなかったということだ。もっとも何人かは独学で読めるようになっていた。ルシアス・ラッキー・ミリンダー、タイニー・ブラッドショーそしてキャブ・キャロウェイたちがその仲間であり、あとにはディジー・ガレスピーがいた。

 ディズは彼がキャブ・キャロウェイに雇われ、はじめてのリハーサルをやったときのことをこう話してくれた。「おれにはどの頁にも黒い虫が運動会をやっているとしか思えなかった。だがおれはシャープも、フラットもちゃんと吹いたし、休止符だって正確だった」

 ラッキー・ミリンダーは、譜面上の半音も知らなかったが、それが彼のバンドをハーレム一の人気バンドにすることのさまたげにはまるでならなかった。しかも実に気持のいいリハーサルをやってくれるのである。ラッキーは生れながらの音楽の天才だった。「さあ、ハ調でやろう」と彼がメンバーに言うとき、それは譜面を見ているのではなく、頭の中で覚えているフレーズで言っているのだ。

(略)

アポロに出演した有名な歌手、ダンサー、演奏家たちの多くもまた楽譜が読めなかった。ピアニストのエロール・ガーナーはなかでも傑作だった。(略)

メンバーのひとりが、なにも知らないでエロールに尋ねたことがある。(略)「ねえ、エロール、この歌はどんなキーでやるんだい?」エロールはにっこり笑ってピアノのそばへ行き、コードをたたいた。「これだ」こんなハンデがあるにもかかわらず彼は〈ミスティ〉のような名曲をたくさん作っている。そんな才能があるのなら、楽譜なんぞ読めなくともかまわないのである。

ビ・バップ

チャーリー・パーカー――友人は彼を"ヤード・バード"(俗語で囚人の意)と呼び、のちには単に"バード"と呼んだ(略)

彼は演奏するたびに、まるで種子をまくようにして、陶酔へ誘う音楽の真髄を伝えた。彼のまいた種子からは、何千という芽があらゆる方向に伸び、一九五〇年代には彼の弟子たちが輩出することになった。(略)

〝バード"は三十四才にして悲劇的な最期をとげたが、彼の影響力は今日もなお及んでいる。

 "キャノンボール"アダレイと私は、ある日昼食をともにしたが、話が最近のジャズの歴史に及んだとき、彼は私にこう言った。「チャーリー・パーカーという天才が亡くなって、ジョン・コルトーンという異才が現われるまで、サックス界には目新しい出来事は全然といっていいほどなかったね」

(略)

 時を経ずしてダウンタウンのミュージシャンたちも大革新の動きに加わったが、彼らの運動はまったく異なるものだった。ジャズ創世期における"生粋"のミュージシャン、いわば"音楽を肌で感じる"ような、"生れついての"ミュージシャンは、バラエティに富んだ大衆芸能のなかで育てられ、ささえられ、そして遂には大衆芸能に吸収され、そのアリバイを喪失しようとしていた。だが、この革新派の連中は、ニューヨークのジュリアード音楽院のような由緒ある養成機関の門を一度はくぐっていた。彼らの信奉の対象はイゴール・ストラヴィンスキー、サージ・プロコフィエフ、ウォルター・ピストンであって、"ジェリー・ロール"モートンビックス・バイダーベックシドニー・ベシェではなかった。(略)

 黒人、白人を問わず、そうしたミュージシャンたちは、自分たちの崇拝者が用いた無調で、フリー・リズムの音楽の上に、伝統に根ざした形式、すなわちジャズ、ブルース、そしてのちにはカントリー=ウエスタンまでをも溶けこませていた。この新しいサウンドは、"ビ・バップ"と呼ばれた。名づけたのは、チャーリー・クリスチャンだという説もある。

 "ビ・バップ"は、ブロードウェイにできた真新しいナイトクラブ"バップ・シティ"から響いてきたり、ダウンタウンの薄汚れたビストロやグリニッチ・ヴィレッジのジャズ・クラブから聞えたりしているうちに、ついに定着する場所を得た。そこはニューヨークのミッドタウンにあって、流行に敏感な"バードランド"であった。

(略)

 一九五〇年代にさしかかるころには、ビッグ・バンドの演奏は衰退し、かわって小編成のコンボが親しまれるようになった。とはいえビッグ・バンドがことごとく消えてしまったわけではない。十五人から二十人で編成するデューク・エリントン楽団やカウント・ベイシー楽団は微動だにせず、依然として人気を保っていた。またアポロ劇場では、五〇年代の初期から半ばにかけても、金管二十人編成というライオネル・ハンプトンと彼の楽団の強力な演奏につめかける客足は衰えをみせなかった。

 新興勢力であるビバップ派にしても、時には普段よりもメンバーをふやす必要が生じた。クールで、クラブ向きのバードランド・サウンドは、アポロ劇場では音がかき消されてしまい、三階席まで届かなかったからである。

 ディジーガレスピーがアポロ劇場で最初の成功を収めたときも、十五人編成のバンドであった。オープニング・ナンバーとして陽気な曲をいくつか並べて観衆を虜にした彼は、得意中の得意とする曲に移るころには、バンドをも完全に融合させてしまった。また、かつてチャーリー・パーカーがアポロ劇場に出演したおり、十五人編成の仲間に、さらに十二人の弦楽器奏者を加えたことも語り草になっている。この時の即興演奏は、私が今まで耳にしたものの中でも、迫力と味わいの点で屈指のものだった。

 スイング全盛時に見られた人びとの熱狂的な騒ぎに比較すると、バップの方は一沫の寂しさを隠せない。けれども、バップ・ミュージシャンたちが意図していたものは、ことごとく熱心に受け継がれていくことになった。この意味でバップもやはりビッグ・バンド時代の立役者といえた。またバップには、独特のスタイルと独自の神秘的な力が備わっていた。山羊ひげ、ベレー帽、黒ぶち眼鏡というディジー・ガレスピーの扮装や寡黙のうちにユーモアを秘めた彼の態度は、それを具象化したものだった。自分のショーで司会を勤めながら、彼がこんなことを言っている場面が想い出さいでたちれる。

「皆さん、次にお聴かせするものは、御紹介するまでもないと思います」

場内に沈黙が続く。ディジーも山羊ひげをしごいて考えこむ。やがて一言「とにかくやってみましょう」

 バップの神秘性について云々するには、もう一度、美男のビリー・エクスタインにふれないわけにはいかない。ヴィブラートをふんだんに使い、新しいスタイルをわかりやすく表現したことによって彼は芸能界の黒人としてはじめて、黒人、白人双方のティーンたちのアイドルとなった。

 彼がアポロ劇場の舞台に立つと、若者たちは黄色い声援をあげ、まるでトランポリンの上で跳ねるように、座席で飛び上がった。

エラ・フィッツジェラルドサラ・ヴォーン

 幾年かの間エラの編曲者を勤め、傑作も残したサイ・オリヴァーとの会話を私は憶えている。「あなたの編曲なら、彼女も文句は言わないでしょう」と私はきいた。

「いや、とんでもない」と彼は憤然として言った。「エラは、自分の意に沿うものを正確に心得ているし、他人があれこれと口を出すことはできないのです。もし私のやった編曲が、彼女の気に入らなければ、あとは彼女が自分で完璧なものに仕上げてしまいますよ!」さらに言葉を添えるなら、私が知る限りでもエラはこの上なく洗練された人だったと言えば十分であろう。ジョン・ハモンドも、こう評している。「ショー・ビジネスの世界の中で、彼女は優等生のひとりなのです」

(略)

サラ・ヴォーンは、永きにわたって"ミュージシャンの鑑"と言われてきた(略)

[絶対音感]がかえって禍いとなる場合もあった。仲間が間違った音を出してしまったり、楽器のチューニングが不正確であったりして、苦虫をかみつぶしたような表情をしていたミュージシャンを、私はこの眼で見たこともあった。

 サラ・ヴォーン(略)も、そういった宿命を背負いこんでいた。(略)彼女があるオープニング・ショーのあとで私のもとへやって来て、不平を言っていたのを憶えている。「ミスター・シフマン、ここのピアノの調律はおかしいわ。何とかして下さい」

 私はこう弁解する。「だけどサラ、あれはショーのはじまる前に調律したばかりだよ」

「それじゃ、その調律師が手を抜いたんだわ。まるで中途半端な音しか出ないんだから」

 二回目のショーまでにピアノを調律し直しておいたのだが、彼女が舞台に立って、こう口ずさむのを耳にした私は、すっかりあわててしまった。"調子はずれのこのピアノ、あたしの歌を狂わせる”

「あなたが正しい調律をして下さらないのなら、私に道具をかして下さい。自分でやりますから」とそのショーが終ってからサッシーは言った。もちろん、そんなことはさせられなかったので、とにかく新しいピアノを手に入れ、各ショーの前に必ず点検を怠らなかった。だが、調律がすむと、きまってサラは道具を持参して、ピアノに向かい、調律師の仕事ぶりを確認してみるのだった。

次回に続く。