ページと力 鈴木一誌 その2

 前回の続き。

輪郭重視の世界観

[スーパーのチラシ]刺し身や野菜の写真にメリハリが強くついている。シャキシャキ感の強調だろう。(略)輪郭を立てると野菜が歯切れが良さそうに見えてくる。この輪郭ばかりを強調した製販が、スーパーのチラシばかりではなく世の中のあらゆる映像に蔓延したように感じる。
輪郭偏重の世界観は、情報理論によく馴染む。輪郭の箇所で情報量が上がって、輪郭の内部では冗長度が高いとみなされる。エッジの内部を張りつめて支えている階調を、情報量が低いとしてしまう。写真は本来、トーンを見せるものだった。たとえばなだらかな人肌や衣服の肌理などのトーンのなかにノイズは潜んでいたのだが、いつのまにか輪郭を見せるものになった。(略)

杉浦康平と書物

一九七〇年代のはじめ、学生運動から身をひき剥がし大学に退学届けを出して、わたしはグラフィック・デザイナー杉浦康平さんのアシスタントになった。(略)[コピー機がないので]本のジャケットに写真をどの大きさでどのようなトリミングで入れるかの指定は、元写真にトレーシングペーパーをかけ一〇ミリや五ミリ間隔の方眼を引き、その格子を目安に写真を別の紙に鉛筆で描き写していた。杉浦さんが短時間で描いた写真指定用の鉛筆デッサンを見たことがある。化石の写真だったが、驚くほどうまいものだった。
記憶に残っているのは、杉浦さんの「デザイナーはイラストレーターではないのだから、絵を描いてはならない」とのことばだ。装頓が、画家の余技からようやく抜けだし、自立したしごととなりつつある時代だった。杉浦さんは(略)[奥付に]デザイナー名の表示を渋る出版社と絶縁したケースもあったときく。

杉浦さんはなにを目ざしていたのか。いまふりかえると、書物を、紙面という平面の集積から一個の立体物へ奪回しようとしていたのではないか、と思う。装幀ばかりではなく本文の組指定もし、書籍全体を一定のユニットで統御する。装幀を、本の包装であることから救済し、本文ページの仲間にする。(略)

ページとは立体物だとつくづく思う。校正刷りを一枚ずつ仕上がり断裁して束ねたものと、できあがってきた実際の一冊とはまったくちがう。書物が立体物として立ちあがる、とでも言おうか。その隆起の度合いが、本のできばえを実感させる。表裏を同時に見ることはできず、背後の文字列をわずかに透かせて開かれているページは、揺れうごく襞のワンショットなのだ。

(略)
はなしは現在である。日本のグラフィック・デザイン教育の多くは、フライヤーをどうデザインするか、に費やされているようだ。(略)

写植の指定すら習っていないのだという。気になるのは、決して積み重ならないその平面性である。立体であるページが平面であるフライヤーに駆逐されつつあるように見える。ブック・デザインもそれにつれて、装頓という紙が書物に載っているかのようだ。(略)

版面

紙メディアの危機を身近に感じるときがある。デザイナー志望の若者たちから〈版面〉の意識が消えかけている点だ。(略)

一冊の本は、共通した版面によって組まれるのがふつうだ。ページによって、文字面があちらこちらへ移動したら落ち着かない。(略)

ブック・デザイナーが、本文フォーマットを設計するときに、まっさきに心を砕くのが、この版面の手法と位置である。版面は、行を収めると同時に、余白の設定でもある。どの書体をいかなる大きさで、何行、何字詰めで組むかとも関わり、行間や字間にも連動する。

デザイナー志望者のしごとを見ながら、版面意識が希薄だと、と思いはじめたのは、コンピュータでブック・デザインをするのが当たり前になったころからだ。(略)

文字面を、自分でよかれと思う場所に置く。どこまでも自由なのだ。金属活字による物質的な制約とは無縁の、モニタ上での組版では、どこに組もうと自在なのだから、版面にとらわれるのは時代錯誤だ、との思いも彼らにはあるだろう。

(略)

版面は、限定された区画なのだが、じっさいに組まれてみると、段落の一字下げや改行などの余白が矩形にしきりと浸入してくる。末尾の行のうしろが空き、写真や図版が食いこむ。ページ数が決められているばあいは、多すぎて溢れたテクストは視野から消えている。版面は、ページごとに波打ち際のように揺れ、その矩形はまぼろしのようである。だが、版面意識のなさからくる浮動とはちがう。波打ち際のとどまらなさが、重力下で海水と地形とがわたりあったのっぴきならない結果であるように、版面という汀線の揺曳は、ルールと素材との衝突によって起きている。
複数のページを重ねあわせると、はじめて版面が矩形としてすがたを現わす。しかし、版面を見せるためにデザインをしているのではない。版面は、ページそれぞれのたたずまいを見せる境界線であり、例外を生みだすための共通項である。すべてが例外ならば、例外はなくなる。
版面意識がページの重層を前提としているのに対し、版面意識に縛られないデザインは、極端に言えば一枚の平面を相手にしている。具体的には、チラシやビラなどフライヤー(略)

共有する枠組がないのだから、プリンターが吐きだした紙をホチキスで綴じた会議用資料ふうになる。フライヤー的な紙面づくりは、一枚物の集積とも言えよう。対して版面は、折られていったんは閉じられたページをつぎつぎと開いていくなかで、まぼろしの矩形がすがたを現わす。

(略)

組版ルールとセットになった版面では、文字や図版は、川がうねるようにページを流れていき、止めどない。(略)

おのずと具体化していくレイアウトと対面していると、不思議なことに、文字や図版が生き生きと振る舞っているように思えてくる。デザインする意志がゼロとは言わないが、レイアウトは、「なるべくしてなる」と感じさせるレイアウトでなければ、読むのがつらい。川のように流れる組版だからこそ、読みが持続できる。定められた版面が吃水線を幻視させるゆえに、テクストのなかの高まりやおどろきを感受できる。版面は強制力を湛えており、それゆえの躍動が生まれる。

(略)

テクストの〈階層の深さ〉にも頭を悩ませる。階層の深さとは(略)見出しレベルの多さである。

(略)

見出しは、テクストの素性を露わにする。ある章にあったレベルの見出しがほかの章にはなかったり、ひとつの見出しが収容する文章量の極端なバラツキは、構成に難があるのを露呈させる。かたや、見出しのデザインが悪いと、ページをめくっていてもリズムが生まれない。目立つ見出しに、本文が耐えられないときもある。見出し倒れというやつだ。テクストは本文デザインを試し、本文デザインはテクストを批評する。両者は、版面という場で、たがいを照らしあう。
ブック・デザイナーは、読者に、読者自身が本全体のどの地点に立っているのか、いかなる階層の文章を読んでいるのかを明示しようとする。ノンブルや柱、見出しなど構造明示子と呼ばれる、本文以外のいわば脇役の、多くはセンテンスではない文字列を動員して、読まれつつある行文の位置を示す。そのためにも、書物は適切な階層を要請する。四ページほどの記事に三階層は深すぎるだろうし、数百ページの本に見出しがなければ不便きわまりない。

(略)

山田規畝子著『壊れた脳 生存する知』は、リハビリテーションのドキュメンタリーである。三度の脳出血を体験した著者が、重い後遺症に立ち向かい、「「からっぽになった脳」を少しずつ埋めていく「成長のし直し」の記録」だ。(略)

山田は、アナログの時計が読みにくいと述べる。たしかに、「2」を指している分針が、なぜ「10分」を、「9]がどうして「45分」を表すのか。ふだんのわたしは、手間のかかる思考の階層を端折って時計の針を読みとっているのだが、著者には「端折る」ことができない。階層の深さを無視できず、時計はどっち回りだっけ?二本の針の意味は?と、いちいち理論化しなければならない。絵を描く場面では、「私には紙と、その下の机の境界線が見えなかった」。紙の下には机があるとの階層関係が把握できない。山田は、自覚する。「私には遠近感がないのだ」。そして、「私は、二次元の世界の住人」と記す。山田が本を読むくだりだ。

 

一行読んだところで、思わぬ困難を自覚した。次にどこを読めばいいのかわからない。
左隣の行も、反対の右隣の行も、次に読むべき行の頭のような気がして、目移りしてしまう。結局わからなくなってもとの行に戻り、もう一度読む。文の内容から、次の行はこんな内容だろうと推測し、どうやら該当するらしい行を選び、たぶんここからだろうと読みはじめる。
ページが変わるときは、さらに大変だ。めくる、という行為のあいだに、今度は記憶障害が顔を出す。前の行の情報は、目を離した数秒でかなり薄くなっている。
一行を何度も読み返す作業が続き、なかなか本全体としての内容をつかむに至らなかった。
(略)
新聞や雑誌には、また別の困難があった。この種のものには、読む順序の約束事がある。大きな紙の上でここまで読んだらこっちへ飛ぶ、というレイアウト上の暗黙の了解があってはじめて、迷わず読み進んでいけるのだ。その、約束事がわからない。ひとかたまりの活字を読んだら、次はどこに行けばいいのか。

(略)

デザイナーは、二次元でしかない紙の上のレイアウトに遠近感をもちこもうとする。文字の大きさや太さ、書体の対比、色彩のコントラスト、行長と行間の演出などによって、ページのすがたにメリハリを与える。書体を変えて、見出しを本文から切り離して、タイトルと本文のあいだに境界線をつくる。ブック・デザインは、紙上に多様な境界線を配置していく。見出し、注、巻末資料、ノンブルや柱などと版面とのあいだにも、大きな切断面がある。
山田の証言は、「レイアウト上の暗黙の了解」の複雑さを見直させる。次の行に移るという当たり前の行為のうちに、どれほど深い溝が横たわっているのか。(略)

レイアウトの妙味は、「次はどこに行けばいいのか」わからない不安と背中合わせにあるのかもしれない。読むとは、読み手が階層をなめし、境界線を乗り越え、意味を辿りながら、「いま読んでいることが後で意味を持つと予測」しながら、ページ上で辿られる道に高低と緩急を与える。読者は、与えられた階層に、みずからの階層を布置し、もうひとりの話者となっていく。(略)  

壊れた脳 生存する知 (角川ソフィア文庫)

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ページと力 鈴木一誌

 

刷り出し立ち会い

 なぜ刷り出し立ち会いが必要なのだろうか。(略)

両面刷りや重ね刷りをするさいの各版の位置合わせを「見当を合わせる」という。(略)

[ある日印刷工場へ行くと校正紙が積んであり]

何日か前に刷り出し立ち会いが終わったアメリカの本のものだとのことだった。刷り出し立ち会いを専門としている女性が訪れ、この部屋に一週間、事実上、泊まりこんだのだという。

(略)

色校を見せてもらいながら、いくつものことを感じた。まず刷り出し立ち会いを専門としている人間がいること。(略)

出来ばえがすばらしいと「thank you」とちゃんと書くことにも、心を動かされた。(略)

白抜き文字が抜けきれずにインキでつぶれかけているときには、riseと書けばいい。見当ズレはregister outで、never mindとあるのは、日本語でいうと「ママ]という意味ではないかと想像した。

校正と本機のちがい

早朝、眠い目をこすり印刷工場にたどり着く。立ち会いが始まるまでに、何時間も待たされることもある。印刷機ごとにその日の予定がある。(略)ひとつのトラブルがあとの印刷予定を乱す。印刷できず、その日は空振りということもある、
色校正がすんでいるのになぜ立ち会いが必要なのだろうか。印刷する機械がちがう、このことに尽きる。本番で印刷する機械のことを本機という。校正機は、手作業の版画のように、ローラーでインキをつけ、紙を一枚一枚、置いては刷る単色機を基本にする。四色ならそれを四回繰りかえす。インキの盛りがかなり自在に調整でき、同色を二度刷るなどという芸当もできる。前の色が紙にしっかり定着してからつぎのインキを刷るので、アミ点の再現がよい。弱点は、見当合わせがむずかしいのと遅いことだ。四色をつぎつぎに刷ってしまう自動校正機もある。

(略)

おなじ印刷は二度とできないのも事実だ。おなじ工場のおなじ印刷機でも、時間が経てば厳密にはおなじ刷りあがりにはならない。気温や湿度、印刷機の各部の消耗、担当者の変更などがさまざまに組みあわされる。
おなじ銘柄の紙でも、厳密にいえば、製造年月日によって品質がちがう。季節や湿度によっても紙のコンディションが変わる。重版がきまって、おなじ機械でおなじメンバーで印刷する場合でも厳密にいえば立ち会いは必要だということになる。印刷は一回性のできごとである。

完全な見当はない

校正刷りでは小さな紙に刷ることが多い。(略)

しかし、本機では、たとえば紙の大きさとしての四六判を半分に断裁した紙に三面刷られている。その三面すべての見当を完全に合わせるのはむずかしい。紙の右端を合わせれば、左が合わなくなる。手前を合わせれば向こうがずれてくる。そのときはどちらを優先するのか、あるいはどちらも少しずつ犠牲にして中間に合わせるか、誰かが決断しなければならない。
面積が広くなれば、また紙が薄くなればなるほど、見当は合いにくくなる。通常のしごとでは一〇〇パーセント近くがオフセット平版印刷方式によっているが、水が油をはじく原理を応用しているので、どうしても紙に水分が加わり、紙が伸びる。四色機ならば、あとで刷る色のとき、紙がより伸長していることになる。完全に見当が合うことはないのだろう。紙は生きている。立ち会いがなくとも、印刷には決断が集積される。

一色がむずかしい

刷り出し立ち会いでむずかしいのは、意外と一色の印刷だ。多色刷りなら、色彩同士が助けあって調整がきく。一色の印刷では、印刷機の性能と印刷技術が直截に発揮される。日常的な機械の手入れや品質管理能力がものをいう。いっぽう、世間に出まわる印刷のかなりの比率を一色が占める。書物の本文はほとんどが単色である。だが、本文の印刷立ち会いに出かけるという話はあまり聞かない。(略)

 インキを盛る

 もちろん、盛すぎはだめだが、インキが盛れていない印刷物は、印刷物としての存在感がない。「インキを盛る」ためには、平アミの濃度を明るく設定しておいたり、写真の階調も浅めにしておく必要がある。色校正を「しらけ気味」で校了にする関係者の意志一致も要る。刷版上のアミ点を小さめに仕上げるために、露光時間を調整しなくてはならない。

(略)

[盛るために]文字どおり、インキの量を増やすほかに、インキの濃度・純度を高めることもあれば、印刷機回転時の圧力を高める手段もあると聞く。それら相互の比重によっても刷り上がりはちがってくる。インキ粘度は単純には計測できないと聞く。(略)

どのくらいインキを盛ることがその印刷物にふさわしいのか、作業者の解釈が要請される。

 印刷会社のこれから

 印刷会社には、文字組版と写真分解を社内に残してほしい。デジタル技術の伸長で[外注でよしとし](略)

印刷会社は、すでに面付けされたフィルムを受け取って刷るだけ、という事態が進行している。

三者が作成したフィルムを刷るほかないならば、どのような印刷物にしたいとの動機が印刷現場からは失われ、平準的な物しかできあがらない。文字のない印刷物はなく、輪郭にではなく階調にこそ画像の命は潜んでいる。文字組版と写真分解を手放した印刷会社は、みずからを品質において存立させることができないと思う。

ページネーション

本をつくっていていつも不思議に思うのは、ページの表裏は非常に密接なものなのに同時に見られないことだ。(略)ページとは、めくったらどうなるのか、というサスペンスの連続のことだ。(略)

ページネーションは、読者の身体において起きる「連続」と「切断」を前提にしている技術体系である。(略)

『シカゴ・マニュアル』

[『英文日本大事典』のブック・デザインで英語圏の人達と仕事をした時、

難問にさしかかるとアメリカ人同士のひそひそ話に「シカゴ」という単語が頻出。なにかと思えば『シカゴ・マニュアル』のことだった]

本づくりのバイブルとも呼ばれる。書物についての書物。どうしたらよいか迷ったときアメリカ人編集者は、『シカゴ』がどう書いているかに丹念に立ち返っていたのだ。

(略)

[93年の第14版]序文には、シカゴ大学出版局が創設されてまもなく、ひとりの校正者が一枚の紙片にいくつかのルールを書きとめたのが『シカゴ』のルーツだと記されてある。いまから一世紀前である。

(略)

『英文日本大事典』の本文版面を決める際、こんなこともあった。(略)

わたしのフォーマットの設計方針は、版面が地面に置かれてその周囲を余白がとりまき、そこを空気が通うというイメージだった。柱が、本の下にあるわけだ。ここで、外国人編集者とのあいだで議論が起きた。

(略)

柱のことを、英米ではランニング・ヘッドと言う。書物の全ページを通して、上部を走りつづけているもの、とでもいったニュアンスだろうか。外国人編集者が、柱は、ランニング・ヘッドというのだから、ページの上部に配置されなくてはならず、下部にあるのは認められない、と主張する。
上にあろうと下にあろうと、柱がその役割を果たしていればいいのではないか、とわたしは思ったのだが、彼らの「組版ルール」はちがう。組版が文化として迫ってくるのを感じていた。結果的には、版元の後押しもあり、自分の意見を貫き、ランニング・フットとでも言うべき位置に柱を置くことができた。彼らの粘り強い反論をささえていたのが、『シカゴ・マニュアル』だった。

DTPとマニュアル

 『シカゴ・マニュアル』には、イタリックで組まれた文章の末尾の約物を、イタリックのままにするべきか、立体(ローマン)に戻すべきかなど、組版に関する指針がこと細かく記されている。目次の前に前書きが来るべきか、来ないほうがいいか、来るとしたらどうすべきか

(略)

砂漠のまんなかに住んでいても、この一冊を先生にすれば、人に笑われない本ができる可能性がアメリカ合州国にはあった。(略)

日本のDTPに足りないものは、どう組みたいかというパーソナルな意志をサポートするマニュアルなのではないか。
日本製の「家電」商品を買ってくる。マニュアルや取扱説明書の組版がひどい。製品に貼ってあるシールや背面の注意書きも見苦しい。ファミリーという概念を尊重して書体が選ばれているものはまずない。「見やすさ」や「やさしさ」を求めてだろうが、なぜ大きすぎる丸文字が狭い行間で一様にずらずらと並ぶのだろうか。アルファベットと数字だけの組でも、『シカゴ・マニュアル』の水準で見直したら、合格するものはほとんどない。(略)

 印刷界の人間国宝

尊敬する印刷人に吉田寛さんがいる。(略)

ひそかに印刷界の人間国宝と呼んでいる。
デザイナーの笠井亨から「ページネーション・マニュアル」に対してこういう反論をもらった。


インキの盛り加減は、原則として仕事や折りなどで「盛る」とか「盛らない」という性質のものではありません。常に、同じ紙、同じインキ粘度、同じ印圧、他各種印刷機設定の一定化、当然ながら同じインキ盛りに努めるのが近代的デジタル的な印刷技術の原則です。

 

このくだりを、吉田さんに見せたことがある。読んだあと「人間国宝」は、紙を置いて黙ってしまった。ようやく聞くことができた吉田の感想は、短いものだった。
「これじゃあ刷れない。これで刷れるなら俺たちは必要ないということだね」

(略)

吉田は、決して勘だけのひとではない。(略)機械のメンテナンスにきびしい。(略)印圧や刷られた各インキ濃度も丹念に計っている。制御できる数値は最大限に活用して、それでも残る領域に自身の解釈を打ちだしているのだ。(略)

吉田とは別の印刷人に、日々のしごとで数値で制御できるのはどれくらいの比率だろうか、と聞いたことがある。

「六割ぐらいじゃないかな」

行というシステム

多様に揺れるタイポグラフィを見ながら、それでも行というシステムは崩れない、と感じる。自分たちの言語、文字を相手に、日常的な馴れあいを揺り動かそうと思い、単語を切断し、改行を破壊し、文字を上下に切断する実験も、結果的に、行を炙りだすように思えてならない。

 

写植機のシステムを考えているうちに見出しとケイがオーバーラップすることに確信を抱いたフリンは、さらに考えを進めて、ベクターという架空の「線」を思いつく。ベクターは目にこそ見えないが、ある長さを持っていて、その上にはさまざまなイメージがのせられるようになっている。フリンは、見出しもケイもともにこのベクターの上に、文字や模様といった一つのイメージをのせたものと考えたのである。
杉山隆男『メディアの興亡』)

引用したのは、一九七〇年代、日本の新聞をコンピュータで組むことができないか、という課題に取り組んだひとびとを描いたノンフィクションの一場面である。「ベクターという架空の「線」」が、行なのではないか。行を線としてとらえる。現実的には行は文字幅をもたざるをえない。文字幅もさまざまに変化する。ヨコ組で組んだときアンダーラインが下に入るということは、下の行間は上の行に接続していることになる。いっぽうルビがついたときでは、ルビの入っている行間は次の行に接続する。ルビやアンダーラインの入った行は、行に前後の行間が接続したものと考えなければならない。さらに、行送りとは、文字のセンターから次の文字のセンターまでを行と考えているわけだ。
日本語の行をセンターをとおる線としてとらえるならば、文字はセンターライン上に引力をもって並ぶ点だと考えられる。ひと文字が集まって、語になって意味を担う。文字と語の衝突が行頭・行末の禁則を生みだすのだと理解できる。組版ルールとは、語や文がひと文字の集合でしかないことが露呈されかかるのに対して、意味が、単なる文字を、もういちど語や文のほうへ押しもどそうとする壮絶なたたかいなのではないか。

次回に続く。

 

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エレクトリック・ギター革命史・その3 フランケンストラト

前回の続き。

エレクトリック・ギター革命史 (Guitar Magazine)

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マーシャル・アンプ

 ロンドン生まれでビッグ・バンドのドラマー/ボーカリスト/タップダンサーだったジム・マーシャルは[60年ドラムショップを開店。父親がジムとバンド仲間だったピート・タウゼントなどに勧められ他の楽器も扱うように](略)

“彼ら[ロン・ウッドリッチー・ブラックモア他]はこぞって私のところへ来て、当時入手可能だったギター・アンプが彼らが志す音楽に向いていないと訴えた”とマーシャルは語る。
 第二次世界大戦中に戦闘機の分野で電子工学系の仕事に携わったマーシャルだが、オーディオ・エレクトロニクスに関してはまるで経験がなかった。しかしながら、彼はケン・プランという若いミュージシャンを雇い、店でアンプの修理を請け負っていた。彼はそこへ3人目のチーム・メンバーとしてダドリー・クレイヴンという元EMIの有望な見習い技術者を加えた。3人は共同で1962年までに35ワットのギター・アンプのプロトタイプを作り上げた。これはマーシャルの楽器店で一番の売れ筋商品だったフェンダー・ベースマンを参考にしたアンプだった。それでも彼らの設計書にはいくつか独自性の高い電子部品が採用されていた。当時の英国で容易に入手できたパーツを使用したのである。この際、マーシャルはアンプの本体とスピーカーを一体化するのではなく、各々を別々に作ることを思い立つ。(略)

ギターからの信号を増幅する繊細な作業を担う配線がつまったヘッドを、音の振動が激しいスピーカー・キャビネットから切り離して独立させるというのは、とても優れたアイディアだったのだ。

(略)

 最大のパワーを供給するために12インチ・スピーカーを4つ内蔵し、背面をパネルで塞ぐというキャビネットのデザインを手がけたのはジム・マーシャル自身だ。(略)

この特徴と、回路内の様々なイギリス製の部品との組み合わせにより、ここにまったく新しい個性的なトーンが誕生したのだ。これが伝説の“マーシャル・サウンド”である。従来のアンプは音の歪みを避けるように設計されていた。その点、最初から意図して音が歪むようデザインされたマーシャル・アンプは、電源を入れるだけで優れたディストーションサウンドが得られる。

(略)

当初マークHと命名されたこの初期のマーシャル・アンプは、最終的にJTM45という商標に変更された。JTMとはジム&テリー・マーシャルのイニシャルである(ジムの息子のテリーは、フリントストーンズいう地元ロンドンのグループのサックス奏者だった)。
 1962年後半に生産が開始されたJTM45は順調に売り上げを伸ばした。英国産の製品だったため、店頭価格は高い輸送費をかけてはるばる大西洋を渡ってくるフェンダー・アンプなどの米国からの輸入品よりも手頃だった。しかもマーシャル・アンプには(略)ロンドンの若手ミュージシャンの声が反映されていた。 

ジミヘンvsピート・タウンゼント

 大型のマーシャル・アンプもフィードバックも、そしてステージ上の芝居がかった攻撃的なアクションも、ジミ・ヘンドリックスがライブの呼び物としていた要素はすべてピート・タウンゼントザ・フーから直接ヒントを得ていた。(略)

[だが67年モンタレーで同じ日のステージに立つことに。どちらもアメリカでは無名なので出演が後になった方が真似をしてるように見えてしまう。しかもザ・フーはコストの関係でいつもの機材をアメリカに持ってこれなかった]

“(略)ジミ、ちょっと話を聞いてくれ。俺はお前のあとに出るのは嫌なんだ。(略)お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃになってしまうかもしれない。お前に俺のお株を奪わせるわけにはいかないんだ。俺たちの見せ場はあそこしかないんだからな。お前は類稀なる天才だ。客は大いに感動するだろうよ。しかし俺といえばどうだ?ユニオン・ジャックのジャケットを着て、自分のギターを壊すことくらいしか能がないんだぞ。もう勘弁してくれ!俺たちが先に出させてもらうからな」と私は訴えた。(略)

[だがジミは]相変わらず椅子の上に立ったままギターを弾いていて、私のことなんか無視だ。だが、ブライアン・ジョーンズがあとで教えてくれたところによると、あのときジミは完全にアシッドでブッ飛んでいたそうだよ”。 

パンク

 パンク・ロックのリスナーは、偉大なるギター・ヒーローの時代の第一期の終焉を声高に明瞭に宣言した。かつてのギター・ヒーローは時代の波に押され、流行の商業ロックに感染して消えていった。

(略)

ジョニー・ラモーンによると、グループには基本的なルールが一つだけあったそうだ。“ヒッピーのネタは禁止だ。俺は全力で拒否することに努めた。ブルースや何かの要素が音楽に入り込むことを極力避けながら、ピュアなロックンロールをプレイしたんだ”。 

フェンダー

[70年代、フェンダーギブソン製品の質が低下し、“交換用パーツ”産業が発展]

“僕はマンハッタンの48thストリートにあったギブソンのラボで働いていたんだ”とラリー・ディマジオは語る。“新品のレス・ポールが届くと、僕らはまず張ってあるヘヴィ・ゲージの弦をはずし、適切な処理を怠っている工場に代わってフレットを研削して磨いてから、全体を再調整していたんだ”。程なくして彼は自作のピックアップヘの載せ替えも工程に加え、質の悪い楽器から(略)往年の銘品ギターに迫るようなサウンドを引き出そうと試みた。
 ここから80年代に至るまで、ほかにも進取の気性に飛んだ数多くの技術者やルシアーがこの業界に参入してきた。(略)

[ジミー・ペイジ、ジミヘンらのリペアを担当していたセイモア・ダンカンはLA]を拠点に交換用パーツの会社を設立して成功を収める。また、フェンダーの下請業者をしていた70年代初期に、リペアの手腕と見事なカスタム・フィニッシュが地元の伝説となったウエスト・コーストの才能溢れる起業家、ウェイン・シャーベルもその道で名を上げた。(略)

ギターに加えて、純正の4倍の強度のストラトキャスター用ステンレス製トレモロ・アームといった独自の発明品を発売した。(略)

[腕の立つ二名の木工職人を起用]もはや大手メーカーからは供給されなくなった精密な形のボディやネックを自ら製造するためである。(略)

 シャーベルは持ち前の人を見る目を大いに発揮し、従業員選びばかりでなく、自分のカリフォルニアのリペア・ショップに定期的に通ってくる好奇心旺盛で熱意ある若いミュージシャンに目をかけ、良き相談相手として指導に当たった。(略)

 “”初めて店に現われたとき、エド[エディ・ヴァン・ヘイレン]はディマジオのピックアップのキーキーいう音を止めることはできないものかと僕に尋ねてきた”とシャーベルは語った
 “”できるよ、と僕は彼に返答したんだ。僕はかつてボブ・ルーリーというエレクトロニクスの天才から学んだ、溶かしたロウの中にピックアップを浸けるというトリックを彼に教えてやった。今でこそ「ポッティング」と呼ばれて浸透している手法だが、僕が知る限り、既製品のピックアップをロウに浸けたのは僕らが初めてだと思うよ。それを機にエドはショップに入り浸るようになり、僕が彼のギターを何本も修理している間、ずっと床に座ってギターを弾いているようなこともあったね”。

 エディ・ヴァン・ヘイレン、“フランケンストラト

 先のゴールドトップのレス・ポールの一件でギター改造の味をしめてしまったエディは、1961年製のギブソンES-335や、1958年製と1961年製のフェンダーストラトキャスターを含む複数のギターを手術台に乗せた。

(略)

ビブラート・アームを押し下げるたびにチューニングが狂ってしまうES-335(略)テイルピースを糸鋸で半分にカットし、ワミー・バーを操作しても1弦~3弦までしか動かないようにしてしまった。“そうすることによって(略)俺は常に低いほうの3本の弦でコードをプレイできた”とエディは語る。(略)

フェンダーストラトキャスターのビブラート・システムの方がチューニングをキープしやすいことに気づいた。だが残念なことに、彼の辛辣なバンドメイトからはストラトのか細いトーンは不評だった。そこでエディは(略)1961年製のストラトのボディ内の配線をたどり、リアの位置に太いサウンドギブソンPAFハムバッカーを取り付けたのだ。

(略)

[試行錯誤の末、ボディ材のせいでトーンが貧弱だと考え]
エディは、ついに楽器の分解後にスクラップと化した安価な部品をシャーベルの仲間たちから購入し、それを使ってオリジナルのギターを一から作ることを思い立つ。

(略)

[当時のLAはホット・ロッド全盛でジャンク・パーツによるカスタムカーだらけ、それゆえギターの改造という発想も出た。]

[75年にシャーベルの]工場に立ち寄ったエディは、50ドルでアッシュのストラト・タイプのボディを購入した。(略)[ボディの]山の一番下にあった“クズ”だったそうだ。彼はさらに80ドルを支払って、塗装前のメイプル・ネックも手に入れた。

(略)

彼は自分のギブソンES-335からハムバッカーを取り外し、新しいボディにマウントしたのだ。これでギターの低音域のレスポンスとトーンのメリハリ、及びサステインが向上した。

 ボディにはピックアップ取付スペースがあと二つ残されていたにもかかわらず、エディはそれらを空のまま放置した。彼には複数のピックアップやトーン・コントロールをつなぐための配線回路はわからなかったからだ。“ともかく俺はトーン・コントロールには触ったこともない”。

(略)

 また、エディは空のピックアップ・キャビティを隠すために黒いプラスティック板を切り抜き、穴を覆って釘付けした。最後に取り掛かったのは、このギターの最大の特徴である白黒ストライプ・フィニッシュの作業である。エディは最初に黒のアクリル・ラッカー・ペイントを数回吹き付けた上からテープを巻き、白のラッカー・ペイントを何度かスプレーした。テープは最後のコーティング剤が乾いた後に除去された。こうして仕上がったのが、エディが大好きなレス・ポール・スタンダードとES-335とストラトの各々の良さを組み合わせたギターだった。
 “フランケンストラト”の誕生である。

(略)

2009年に逝去したレス・ポールは、晩年エディと非常に親しい間柄になっていた。エディがよく笑いながら話してくれたのは、おもむろにギターにまつわる奥儀のようなことを語り出したり、時には馬鹿馬鹿しい話に終始した、午前3時のレス・ポールからの迷惑電話の思い出だ。(略)

長電話の締めに、“この世で偉大なエレクトリック・ギター・メイカーと呼べる者は、私と、君と、レオ(フェンダー)の三人しかいない”と言ってくれたことは、今もエディの誇りだ。

 

ポール・リード・スミス

 80年代初期、飽くなき探究心に導かれてヴァージニアの米国特許商標庁に赴いたスミスは、そこでギブソンの初期のエレクトリック・ギターの名作デザインに関する資料にじっくりと目を通した。[何度も目にしたのが]

“「誰だ、テッド・マッカーティって?」て気になっちゃってさ”。(略)

“そこでようやく僕は、彼こそ僕が愛し、尊敬してやまない楽器の大半を作った張本人であることに気付いたんだ。初めて彼と会えたのは1986年のことだったんだが、僕はすべてを知りたかった。だから彼がどのような接着剤を使用していたのか、フレットボードの高さはどうやって決めたのか、どのように乾燥させていたのか、なぜエクスプローラーとES-335を作ったのかなど、おもむろに質問責めにしてしまった。するとテッドは迷惑がるどころか少し感傷的になり、自分にそんな質問をしてくる人とはもう何年もお目にかかっていなかったと漏らしたんだ。とても信じ難いことだよ。そこで僕らは会社の顧問として彼を雇い、僕は2001年にテッドが亡くなるまで、彼が持つ多くの知恵をできる限り引き出すことに努めたんだ”。

安物プラスティック・ギターの逆襲

[ホワイト・ストライプスによる復活劇]

エアラインはファイバーグラスの一種であるレゾグラスをボディに使用した斬新なギターだった。端的に言えばこれはガラス繊維で強化されたプラスティックである。

(略)

 可塑性に長けている点もレゾグラスという材質の大きな強みだった。溶融ポリマーを金型に注入して製造されるギターのボディは、事実上どんな形状にでも作り上げることができた。(略)

また、楽器の彩色も材料の溶融時に混入するだけで済んでしまうため、ギターの塗装や手の込んだ木材のフィニッシュといった製造プロセスは必要ない。しかもこの工程にはもう一つメリットがあった。(略)レゾグラスの色は決して褪せることがなかったのである。今日ビンテージのレゾグラスのエアラインやナショナルは、恐らく1500~3000ドル程度の価格で販売されていることと思うが、いずれも最初に工場から出荷されたときとまるで変わらない、20世紀半ばという時代ならではの鮮やかな色を保っている。

(略)

“エレクトリック・ギターのボディは共鳴させる必要がないということがわかっていた”とアル・フロストは振り返った。

(略)

“そこで私たちはボディをポリエステル樹脂とガラス繊維で作ることを試みた。金型を作り、ポリマーにカラーをスプレーして混ぜ込み、ファイバーグラスで成形して型から抜けば、すでにフィニッシュが施されたような状態のボディができ上がった。ああ、なんと美しいことか。私たちは赤や青や白や、ありとあらゆる色のレゾグラス・ギターを作った。あれは本当に逸品だった”。

(略)

[安っぽいと嘲りの対象だったエアラインがミレニアル世代には違うものに映る。レス・ポールストラトのような音はでない、オーバーロードした時の音の歪み方も違う]

しかし実はそこがポイントだったのだ。(略)サステインが乏しい反面、重厚な中音域という武器を持っていた。(略)

それは新たなサウンドと新たな美意識を求める者たちの耳に面白く魅力的に響く

ピーウィー・ゲット・マイ・ガン

ピーウィー・ゲット・マイ・ガン

 

ブラック・キーズのダン・オーバック(2014談話)

“僕が好きなのは完全にぜい肉を削ぎ落とした、生々しいブルースなんだ(略)

そんな嗜好のせいで、僕はマディ・ウォーターズハウリン・ウルフをあまりまともに聴いてこなかった。バンド編成の音が仰々しすぎるから、シカゴでレコーディングされた音源も趣味じゃない。僕はメンフィスものが好きなんだ。ジョー・ヒル・ルイス、パット・ヘア、ウィリー・ジョンソンあたりがいい。あと、僕が17歳だったとき(1997年)に出たTモデル・フォードのアルバム、『ピーウィー・ゲット・マイ・ガン』が本当に好きでたまらなかった。(略)

当時、僕はTモデルとR・L・バーンサイドばかり聴いていた。(略)”。
 Tモデル・フォードとR・L・バーンサイドは、いずれもミシシッピ州オックスフォードを拠点とするファット・ポッサムというレーベルから音源を発表していたアーティストだ。このレーベルは、それまでほとんど、あるいはまったく露出がなかったミシシッピの実力派ブルース・アーティストを発掘してレコーディングさせるという使命を掲げて1991年に発足した。所属していたのはフォード、バーンサイド、ジュニア・キンブローら。ロバート・ジョンソンやチャーリー・パットンといった伝説のブルースマンたちが20年代~30年代に出演していたような、地元のジューク・ジョイントで当時も現役だった荒削りなプレイヤーたちだ。
 アメリカ南部の貧しい農村部に住むブルース・ギタリストたちは、何十年にも渡ってシアーズモンゴメリー・ワードから配布される通販カタログで楽器を購入してきた。(略)

かの偉大なハウリン・ウルフでさえ、50年代の駆け出しの頃には庶民的なケイのシン・ツインをプレイしていた。

(略)

ファット・ポッサムはブルースとパンク・ロックの間のある種の橋渡し役となった。70年代に登場したオリジナルのパンク・ロッカーたちは、ベビーブーム世代への反発の意味を込めてブルース・リックを拒絶していた。しかし、ファット・ポッサムが見出すアーティストはどこか違う。[コンピのタイトルは“お決まりのブルースだと思った大間違い”]

Fat Possum: Not Same Old Blues Crap (Sampler)

Fat Possum: Not Same Old Blues Crap (Sampler)

 
Vol. 2-Not the Same Old Blues

Vol. 2-Not the Same Old Blues

 

 グレン・ブランカソニック・ユース

グレン・ブランカのギター・アンサンブルには、ソニック・ユーススワンズのメンバーを含め、ニューヨークのアンダーグラウンドのロック・コミュニティから多くのギタリストが参加していた。こういったギタリストたちは変則チューニングや無調性ノイズなど、ブランカのアイディアの一部を独自のバンド活動に反映させ、ロック色を強めた作風へと進化させていった。
 “あれは完全に無調のギター・ミュージックという枠の内側にいた”。サーストン・ムーアはブランカの作品についてこう語った。“だけど俺はそれをMC5やストゥージズのようなエネルギーに満ちたロックと結びつけたいと考えていた。グレン・ブランカのような人からはなかなか出てこない発想だよ”。
 特に初期の活動において、ソニック・ユースはライブ・パフォーマンスとレコーディングの両面で、様々なリサイクル・ショップのエレクトリック・ギターを活用していた。バンドが使用していた変則チューニングの一部は、粗悪すぎてスタンダード・チューニングがキープできないようなギターに由来したものもあった。そうなったらどんな音階だろうとお構いなしで、1曲プレイする間だけでも比較的安定したチューニングが保てるキーに合わせていたという。

[よくギターを破壊していたカート・コバーンもリサイクル・ショップにある安価なフェンダーのモデルを購入していた]

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