ビーチ・ボーイズ・その3 ブライアン崩壊

前回のつづき。

ビーチ・ボーイズとカリフォルニア文化 はるかな場所の一番近いところ (P‐Vine BOOKs)

ビーチ・ボーイズとカリフォルニア文化 はるかな場所の一番近いところ (P‐Vine BOOKs)

ゲイリー・アッシャー、〈409〉

ブライアンのソングライティングにおける新しいパートナーになったゲイリー・アッシャーは、大変なホットロッド狂でもあり(略)そんな彼がブライアンに[欲しくてたまらなかった車]〈409〉という曲を作ってみないかと持ちかけたのは、1962年の春もまだ早いころ(略)ふたりはたった15分でこの三コードの曲の大まかなスケッチを完成させた。
(略)
 アッシャーのマッスル・カーヘの情熱は、当時フォードとシボレーがしのぎを削っていた高性能車対決によって、ますますヒートアップした。
(略)
 ゼネラル・モーターズは改造インパラのレースヘの使用禁止を正式に発表したが、この驚異的なマシーンを硬派なロッダーたちが放っておくはずもなく、409は彼らの夢のマシーンとなった。米軍による常設の飛行試験場建設のためにミューロック乾湖から追い出された南カリフォルニアのロッダーたちは、50年代終わりにはモハヴェ砂漠の中央部に位置するロザモンドとエヴァンス乾湖周辺をさまよっていたが、その後ようやく落ちついたのが、日中の気温が摂氏約49度まで上るエル・ミラージュという無水湖だった。
(略)
ピズモ・ビーチの200フィートの砂丘では、フォードの改造モデルAで好き放題走り回るロッダーたちの姿が見られた。
(略)
 夜のロサンゼルスの街を我がもの顔で走り回るロッダーたちが必然的に集ってくるのが(略)ウィッチ・スタンドだった。ここはアーメットとデイヴィスの設計による、傾斜したアングルのガラスの開廊に巨大な尖塔が突き刺さった斬新なデザインのレストランで(略)「宇宙家族ジェットソン」に登場する、宇宙のランチ・カウンターのモデルとなった。サーフィンが若者の新しいカルチャーならば、車は彼らをサーフ・シティにいざなうカルトな交通手段だった。

409

409

409

409

The Wich Stand
The Wich Stand
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ブライアンの心を悩ませていたのが、日に日に緊張度を増していくアッシャーとマリーの対立だった。マリーからすればビーチ・ボーイズに資金を援助したり面倒をみているのは自分なのに、もと銀行員のアッシャーが我がもの顔で自宅に出入りして、ブライアンと曲作りをしていること自体、そもそも気に食わなかったのだ。〈409〉が〈サーフィン・サファリ〉の裏面として便乗ヒットしたことで、シー・オブ・チューンズとしてはアッシャーにかなりの額のロイヤリティを支払ったうえに、アッシャーをロサンゼルスの著名な作家兼プロデューサーにしてしまったとあって、マリーの嫉妬心は今にもB・ウィルソン=G・アッシャーの絆を引き裂いてやらんばかりだった。そして〈テン・リトル・インディアンズ〉が今ひとつふるわずにホット100の76位で行き詰まるやいなや、マリーはおおっぴらにアッシャーを誹謗中傷するようになった。
 いまだにアッシャーを尊敬し好いているブライアンは、彼との協力体制を力づくで壊そうとする父親をそう簡単には喜ばすまいとする一方で、徐々に、自分の詩的霊感を展開させてくれるかもしれない次なる交友関係に手を伸ばしつつあった。それはシンギング・デュオのジャン・ベリーとディーン・トーレンスであり、航空学校の学生でサーフ・ギタリストのデイヴ・ノーレンであり、ホーソーン高校出身のドラマー、マーク・グロースクローズであり、KFWBのディスジョッキー、ロジャー・クリスチャンだった。
(略)
レギュラー番組の中で、リスナーたちに向かってビーチ・ボーイズの最新シングルに歌われている409について詳しく解説をしていた[ホットロッダーの]クリスチャンに[マリーから電話、ブライアンと会う事に](略)
放送が終了した深夜、オットーズというカフェでホットファッジ・サンデーを囲んでの席だった。クリスチャンにノートを見せてもらったブライアンはすぐに〈シャット・ダウン〉の歌詞が頭に浮かんだ。そして413ダッジコルベット・スティングレイが繰り広げる四分の一マイルの路上レースを題材に、改造車の難解な専門用語をあちこちにちりばめた歌詞にみごとにマッチしたメロディーを作り上げた。
(略)
ロジャー・クリスチャンはKFWBにダイヤルを合わせた夜更かし族に向けて、自分が一役買ったビーチ・ボーイズのヒット曲を夜な夜なかけまくるのだった。
(略)
 アッシャーはブライアンとの曲作りの時間が減るにつれ、マリーを毛嫌いしているという共通点を持つデニスと、より多くの時間を過ごすようになった。

ハニーズ

[62年末パンドラ・ボックスでのギグに]自分が曲を提供しているバンドを見せようと、ゲイリー・アッシャーが三人のうら若き乙女たちを連れて見にきたのだ。アッシャーはそのうちのひとり、15歳のジンジャー・ブレイクとつき合っていた。(略)その従姉妹というのがローヴェル家の三姉妹(ダイアン16歳の、マリリン14歳、バーバラ13歳)だった。
(略)
ブライアンは14歳のマリリン・ローヴェルにさかんに視線を送っていた(彼女の方はカールがお目当てだった)。(略)
ダイアンとマリリン(まだカールが本命だった)の両方に惹かれていたブライアンだったが、結局おしゃべり好きで気取らない性格のマリリンに電話をかけることにし、それが何回か続いたあと彼らはステディな仲になった。彼女はプライベートにおいても仕事熱心なブライアンに惹かれ、彼はマリリンの歌手としての経歴に興味を持った。(略)
[ブライアンはこの三人組にいくつかの曲を書き、〈サーフィン・サファリ〉の冒頭の歌詞からとって「ハニーズ」と命名。]

離婚したてのマイク・ラヴ

本領を発揮できるのはステージの上であり、そここそ自身の趣向や意見や態度が満足いく評価を得られる場所だった。(略)
彼はブライアンの共作者の中で、最も重要ながら最もその価値を認められていない、あるいはちゃんとクレジットされていない人物だった。スタジオでも絶妙なアドリブを発するラヴは、譜面どおりのコーラスでできた余白を埋めるために、“アイツは最高、僕の409”など印象的なフレーズがさらっと口に出るような男だった。(略)南海のサーフィン・ソングのきわめつけである〈ハワイ〉やブライアンが作品化にあまり気乗りしていなかった〈キャッチ・ア・ウェイヴ〉といったナンバーに絶妙な歌詞を供給したのもマイクだった(略)
〈ビー・トゥルー・トゥ・ユア・スクール〉というタイトルの、熱いスクール・スビリットを歌った新曲(略)オープニングに「どこかの自慢屋が君を凹まそうとして」という、まさにこの曲にピッタリの強気なフレーズを考えついたのもラヴだった。

ブライアン離脱

1963年5月、ブライアン・ウィルソンは次第にビーチ・ボ−イズのコンサートに嫌気がさしていた。度重なるライヴ活動は良い方の耳にも支障をきたし、そのうえステージ恐怖症による発作も悪化していた。さらに当時、ハニーズのマリリン・ローヴェルヘの想いに気力を奪われていた彼は、彼女が発する感情のシグナルが、最初の恋の相手で、彼の純潔を奪い、そして婚約まで考えたジュディ・ボウルズ(彼女は婚約を拒否した)のものと微妙にオーバーラップしていることに悩んでいた。
 そんなブライアンがすべての外的ストレスから解放され、スタジオにおいてこれまでのビーチ・ボーイズの全作品の改良に集中するには、今が適切な時期だった。中でも特に重要視されていたのが(略)いまだリリースされていない〈サーファー・ガール〉だった。ドライヴ途中にふと浮かんだメロディーをもとに、自宅のピアノに向かい、わずか一日ですべて(ブリッジも歌詞も)を作り上げたというフォー・フレッシュメンふうのこの曲については、弟たちでさえ、ジュディ・ボウルズに捧げたナンバーだと思っていた。だが実際、この情感あふれるバラードのひらめきとなったのは
[ディズニー映画『ピノキオ』の挿入歌〈星に願いを〉](略)
人形には美しい神の使者からの祝福が贈られる。その使者こそ、ブライアンが憧れてやまない美しい妖精ブルー・フェアリーだった。
(略)
〈サーファー・ガール〉が完成すると、それまで蓄積してきた緊張や対立が一気に表面化し始めた。ついにブライアンは予定されていたツアーへの参加を拒否
(略)
〈サーファー・ガール〉のリリースからちょうど十日後[フィル・スペクターのクリスマス・アルバム録音に招かれ]
(略)
 ブライアンがスタジオに到着するやいなや、フィルはピアノの方に行ってメロディー・ラインを弾くよう促した。だがヒーローのあまりのぶしつけな態度にブライアンが思わず拒否すると、スペクターはしぶい顔をし、集まっていた他の13人のミュージシャンもイライラしながら見つめていた。再びキーボードに座るよう急かされたブライアンはおどおどしながらそれに従い、インストゥルメンタル・トラックを何テイクか演奏したが、それが終わるとスペクターはそっけなく彼を解放した。それから一ケ月後となるハロウィンの直前、ブライアンはフィレス・レコードから一通の小切手を受け取った。そこには、アメリカ音楽家連盟が取り決めたユニオン・ローカル47条によって承認された56ドルという金額が書かれていた。

トップ・ピンストライパー、エド・ロス

ロスが一番充実感を感じるのが、スプリット式マニフォルードの39年型シェヴィと向き合い、そのドア・ハンドルやホイール周りの狭い隙間にスタビロのエンピツで完璧な飾り模様をほどこしたり、西ドイツ製のMACかダガーのリス毛の極細ブラシを使い、ボディーラインに洽って64分の1インチの細い線で黄色いサクラソウを描いているときだった。
(略)
すべての手順はリリカルな線をただひたすら描き続けることであり、よって、その色や曲がり具合の選択は、車体の輪郭がスピードや気品、機動力の確かさを明らかにするのと同じくらい、描かれているものの意味を伝えるのに重要な役割を果たした。(略)
作業の合間合間、自分の思考と手元をしっかり安定させるために大きく息を吸い、自己の芸術性の声に耳を傾け、それから禅のような意識の調和を待ってゆっくり息を吐き出すと、その印象や特徴を忘れないようにしながら、それらがどうしたら適切かつ楽しい旅立ちができるかを工夫するのだった。そしてこの作業がひと段落すると、彼はまるで子供のようにワクワクしながら、周囲がほんのささいな筆運びや渦巻き模様に気づいてくれるかどうか、その反応を待った。
(略)
ブライアンが作ったカー・ミュージックによって、かつてのブルーカラー色は今や格上げされていた。(略)
 ピンストライプというデリケートな分野で最初に注目を浴びたのは、ヴォン・ダッチという、コンプトンで看板屋を営みながらバイクや車のリフィニッシュ[劣化などを修復すること]を手がける青年だった。1955、ヴォン・ダッチはドアハンドルや部品が取り外されたあと車体に残るグラインダー・マーク(メタル・ボディーワークの接合縁)の上に、グラムバッカー社製の半月型“フラッツ”(筆先がフラットになっている看板用ハケ)を使って、非常に細かい線や扇形で模様を描き始めた。また、改造して表面がピカピカになったことでさらに目立つようになった車体の傷やヒビには、そのイレギュラーな接合線を隠すために、シンメトリックなパターンの“チキンスクラッチ”というカモフラージュ方法を考案した。そんな彼が最も気に入っていた作品が、有名なロゴにもなったフライング・アイボールである。やがてファイヤーストーン・ブールヴァードに店舗を並べる中古車ディーラーたちの間、このピンストライプそのものに注目が集まり始めるようになり、地元で店を出していたウォールズ・カスタム・カーズは、フライング・アイボールを商品として仕入れるようになった。
 ヴォン・ダッチと親しかったロスも、1959年ごろ、ついに自分自身のトレードマークと出会う。(略)
『蒸気船ウィリー』のころの初期のミッキーマウスをツンツンにとんがらせ、それにオーバーオールを着せたグロテスクな太鼓腹のネズミを描き始めた。そしてしおれた胸元にラット・フィンクを短縮したR.F.というイニシャルを加えたのである(レース用語でフィンクとは、ルールを無視してズルする人間をさす)。翌日、Tシャツにラット・フィンクをエアブラシで描いてほしいと仕事場のアシスタントから頼まれたロスは、それがきっかけで、数ヶ月の間にシルクスクリーンで何千枚というTシャツを作ることになった。そしてそれらはホットロッド誌やカー・クラフト誌の通信販売で飛ぶように売れた。
(略)
[大手模型メーカーから商品化の話が来て]
ロスは、一組売れるごとに二セントのロイヤルティーを得ることになった。商品はたちまちアメリカ中の子供たちの人気を集め、ラット・フィンクはアンチ・ミッキーマウス派を自負する腕白小僧たちのアイコンとなった。
 だがキャンペーンを展開するにあたって、ロスという名前では今ひとつパンチが弱いと感じたレベル社の広報担当ヘンリー・ブランクフォートは、ロスの高校時代のニックネームが“ビッグ・エド”で、また最近ハリウッドでビートニクスラングが再び流行していたこともあって、ロスに“ビッグ・ダティ”を命名した。「クール!」と本人も快諾し、ここにエド“ビッグ・ダティ”ロスが誕生。
(略)
63年下旬、キャピトル・レコードの重役フレッド・ライスはカー・クラフト誌に電話をかけると、こう尋ねた。
「車関係で誰か詳しい人間はいるだろうか?」。電話に出たエド・ロスは、こう言い切った。「ここにいますよ。それもめちゃくちゃね」。(略)
ミスター・ギャサーと変人たち)というバンド名でロスのアルバムが制作されることになり、その調整役として雇われたのが、ゲイリー・アッシャーだった(略)
 ホットロッド・ミュージック旋風で一番オイシイ思いをしたのが、ゲイリー・アッシャーだった。マリー・ウィルソンに追っ払われたあと、期せずして第二のキャリアをプレゼントされた彼が、1963年後半から1965年の間にプロデュースしたり作曲したり歌ったりした(しばしばブライアン・ウィルソンの友情参加もあった)カーもののレコード数は、クラッチ踏みっぱなしの上がり状態だった。

ビートルズ、マリー解雇

[64年]ブライアンはマリーと行き来しなくなり、マリーはオードリーと疎遠になり、キャピトルはブライアンと不仲になりつつあるマリーと距離を置くようになった。
(略)
[キャピトルは英国親会社の圧力でビートルズを発売、予想に反し、25万枚売れた。2月ビートルズ上陸]
 ファブ・フォーへの異常な歓迎ムードに衝撃を受けたブライアンは、マイク・ラブと会って不安を分かち合い、応戦の策を練ることにした。
(略)
[羽をのばすつもりのオーストラリア・ツアーにマリーが急遽参加。毎晩メンバーの寝室を見回り、メディアやプロモーターの前でブライアン達を侮辱し暴力]
自分からも、そして子供たちからも見放されつつあったマリーは、どうにかしてそれを阻止しようと(そして決定的にしようと)不吉な見張り役を懲りずに務めるのだった。
(略)
[4月のスタジオ録音中、マリーは]
〈アイ・ゲット・アラウンド〉のテイクごとに、そんなベース・パターンではせっかくの曲の構成が台無しだなどと言ってブライアンをいびるのだった。さらに嘲笑の矛先はデニスにも向けられた。
 恥をかかされたデニスは怒ってゲンコツで壁をぶち岐ると、スタジオを出て行ってしまった。それでもなお執拗に嫌味な批評を続ける父親に、ブライアンはつかつかと歩み寄り、ずんぐりした休躯の前に立ちはだかった。そして必死で抑えていた感情の糸がプツンと切れたとき、ブライアンは親でありマネージャーであるマリーを押しのけると、もう我慢できないと言い放った。こうしてマリーはクビになった。
(略)
 同じ屋根の下で暮らし始めてから26年、オードリーとマリーはついに別居し、マリーはシー・オブ・チューンズの出版利益で得た収入で、もう一軒ホイッティアに家を買った。(略)
 ホーソーンの家が空き家となることで(売りには出さなかった)一番ショックを受けたのはカールだった。

ブライアン崩壊

 11月、二度目のオーストラリア・ツアーに向けて飛行機に搭乗したその直後、ブライアンは軽いパニック状態に陥った。興奮を鎮めてくれるのはマリリンだけだと、彼は彼女に電話をつないでくれるようパイロットに頼んだ。そしてオーストラリアに到着するやいなや、ブライアンはすぐにマリリンに電話をかけ、プロポーズした。あまりに突然のことでマリリンは驚いたが、ブライアンは必死だった。彼の人生で安定したものなど何ひとつなかったのだ。
(略)
 だがブライアンの行動は相変わらず気まぐれかつ予測不可能で、その態度には新婚らしさがまったく見られなかった。ミュージシャン仲間や芸能関係の業界人とつるんではマリファナを吸い、若くまだそんなことに手を染めたこともないマリリンを苦しませた。ふたりは、ブライアンの奇行や彼女の感情を傷つけるような身勝手なふるまい、突然姿を消したり一緒にいるのを避けるような態度を巡って言い争いを繰り返した。
(略)
12月23日のことだった。その晩ヒューストンでおこなわれるコンサートのために、朝のロサンゼルス国際空港でマリリンに別れを告げているとき、ブライアンは彼女がマイクを見つめているように、ふと感じた。これはほんの他愛もないことなのか、それとも何か深い意味があるのか。ひどく間違っていないにしても、何か煮え切らないものを感じたブライアンは、マリリンの自分への愛が揺らいでいるのかもしれないと思った。動揺したブライアンは彼女から顔をそむけると、そのまま飛行機に乗りこんだ。
 ロサンゼルスを飛び立ってわずか五分、叫び声が起きた。機内前方に座っていた長身でなまっちょろい青年が突然泣き出したかと思うと、枕につっぷしてでうなっているのだ。連れの青年たちは彼のそばに駆け寄ると、その感極まった顔から枕を引き離そうとした。
 「落ち着け、ブライアン!」アル・ジャーディンがどなった。
 「どうしたんだい、ブライアン?」カール・ウィルソンが声をかけた。「何があったのか話してよ!」。
 今や座席から転げ落ちたブライアンは、床の上で激しくむせび泣いていた。
 「耐えられない!」ブライアンは機内をヨロヨロと歩きながら叫んだ。「耐えられないんだよ!わからないのかい?この飛行機から降りられないなんて!」。
 その夜の演奏はなんとか済ませたものの、翌朝目を覚ますと、ブライアンはホテルの部屋で一日中、30分おきにさめざめと泣いていた。新しいロード・マネージャーは、遅い時間の飛行機に乗せて彼をロサンゼルスに帰すことにした。空港には母が迎えにくることになっていた。父には会いたくないと伝えていたからだ。
[急遽、代役としてグレン・キャンベルが呼ばれた]
(略)
[迎えに来てくれた母と、空き家になったかつての自宅に]
きっとそのうち良くなるわとオードリーが声をかけたが、事はそう簡単に修復できるものではないことを、彼は知っていた。音楽以外では見つけられなかった静寂も、夜とても疲れているときに悪い方の耳に起こる耳鳴りも、チューニングの合わないラジオから流れてくる電波障害のようなノイズも、悪夢の中でうまくかわした父親の幻のゲンコツも、ファルセットで歌うことに強い思い入れと同時に人には言えない恥ずかしさを感じていたことも、思春期になっても続いたおねしょの屈辱も、セックスに対して抱いた咎めの気持ちと葛藤も、ジュディ・ボウルズが自分とは同じ感情を抱いていないと知ったときに感じた恐怖も、マリリンに対する煮え切らない態度も、自分の母親以外に心の内を明かせる人間がいないという、決定的な親友の不在も。
 カールはずっとお母さん子だった。デニスはいつも母親にかばってもらったり仲裁してもらっていたりした。だがオードリーが最も期待をかけ、マリーが羨むほどの技量を持ち合わせていたのは、ほかでもないブライアンだった。幼いブライアンが大勢の前で歌を歌ったときも、大事なレコーディングのときも、そしてジュディ・ボウルズに渡す婚約指輪を買う勇気が出なかったときも、オードリーは彼のそばにいてくれた。小さなダイアモンドがついた150ドルの指輪を選ぶのにつき合い、自信がないことだってやってみるのも大切だと教えてくれたのはオードリーだった。だが結局、ブライアンは愛の証をジュディに渡すことができなかった。
 空き家となったホーソーンの家の息が詰まるような静けさの中、穏やかな時間がとうに過ぎ去ったことへの悲しみで、カビ臭さが漂う空間はいっぱいになった。

次回につづく。