ページと力 鈴木一誌 その2

 前回の続き。

輪郭重視の世界観

[スーパーのチラシ]刺し身や野菜の写真にメリハリが強くついている。シャキシャキ感の強調だろう。(略)輪郭を立てると野菜が歯切れが良さそうに見えてくる。この輪郭ばかりを強調した製販が、スーパーのチラシばかりではなく世の中のあらゆる映像に蔓延したように感じる。
輪郭偏重の世界観は、情報理論によく馴染む。輪郭の箇所で情報量が上がって、輪郭の内部では冗長度が高いとみなされる。エッジの内部を張りつめて支えている階調を、情報量が低いとしてしまう。写真は本来、トーンを見せるものだった。たとえばなだらかな人肌や衣服の肌理などのトーンのなかにノイズは潜んでいたのだが、いつのまにか輪郭を見せるものになった。(略)

杉浦康平と書物

一九七〇年代のはじめ、学生運動から身をひき剥がし大学に退学届けを出して、わたしはグラフィック・デザイナー杉浦康平さんのアシスタントになった。(略)[コピー機がないので]本のジャケットに写真をどの大きさでどのようなトリミングで入れるかの指定は、元写真にトレーシングペーパーをかけ一〇ミリや五ミリ間隔の方眼を引き、その格子を目安に写真を別の紙に鉛筆で描き写していた。杉浦さんが短時間で描いた写真指定用の鉛筆デッサンを見たことがある。化石の写真だったが、驚くほどうまいものだった。
記憶に残っているのは、杉浦さんの「デザイナーはイラストレーターではないのだから、絵を描いてはならない」とのことばだ。装頓が、画家の余技からようやく抜けだし、自立したしごととなりつつある時代だった。杉浦さんは(略)[奥付に]デザイナー名の表示を渋る出版社と絶縁したケースもあったときく。

杉浦さんはなにを目ざしていたのか。いまふりかえると、書物を、紙面という平面の集積から一個の立体物へ奪回しようとしていたのではないか、と思う。装幀ばかりではなく本文の組指定もし、書籍全体を一定のユニットで統御する。装幀を、本の包装であることから救済し、本文ページの仲間にする。(略)

ページとは立体物だとつくづく思う。校正刷りを一枚ずつ仕上がり断裁して束ねたものと、できあがってきた実際の一冊とはまったくちがう。書物が立体物として立ちあがる、とでも言おうか。その隆起の度合いが、本のできばえを実感させる。表裏を同時に見ることはできず、背後の文字列をわずかに透かせて開かれているページは、揺れうごく襞のワンショットなのだ。

(略)
はなしは現在である。日本のグラフィック・デザイン教育の多くは、フライヤーをどうデザインするか、に費やされているようだ。(略)

写植の指定すら習っていないのだという。気になるのは、決して積み重ならないその平面性である。立体であるページが平面であるフライヤーに駆逐されつつあるように見える。ブック・デザインもそれにつれて、装頓という紙が書物に載っているかのようだ。(略)

版面

紙メディアの危機を身近に感じるときがある。デザイナー志望の若者たちから〈版面〉の意識が消えかけている点だ。(略)

一冊の本は、共通した版面によって組まれるのがふつうだ。ページによって、文字面があちらこちらへ移動したら落ち着かない。(略)

ブック・デザイナーが、本文フォーマットを設計するときに、まっさきに心を砕くのが、この版面の手法と位置である。版面は、行を収めると同時に、余白の設定でもある。どの書体をいかなる大きさで、何行、何字詰めで組むかとも関わり、行間や字間にも連動する。

デザイナー志望者のしごとを見ながら、版面意識が希薄だと、と思いはじめたのは、コンピュータでブック・デザインをするのが当たり前になったころからだ。(略)

文字面を、自分でよかれと思う場所に置く。どこまでも自由なのだ。金属活字による物質的な制約とは無縁の、モニタ上での組版では、どこに組もうと自在なのだから、版面にとらわれるのは時代錯誤だ、との思いも彼らにはあるだろう。

(略)

版面は、限定された区画なのだが、じっさいに組まれてみると、段落の一字下げや改行などの余白が矩形にしきりと浸入してくる。末尾の行のうしろが空き、写真や図版が食いこむ。ページ数が決められているばあいは、多すぎて溢れたテクストは視野から消えている。版面は、ページごとに波打ち際のように揺れ、その矩形はまぼろしのようである。だが、版面意識のなさからくる浮動とはちがう。波打ち際のとどまらなさが、重力下で海水と地形とがわたりあったのっぴきならない結果であるように、版面という汀線の揺曳は、ルールと素材との衝突によって起きている。
複数のページを重ねあわせると、はじめて版面が矩形としてすがたを現わす。しかし、版面を見せるためにデザインをしているのではない。版面は、ページそれぞれのたたずまいを見せる境界線であり、例外を生みだすための共通項である。すべてが例外ならば、例外はなくなる。
版面意識がページの重層を前提としているのに対し、版面意識に縛られないデザインは、極端に言えば一枚の平面を相手にしている。具体的には、チラシやビラなどフライヤー(略)

共有する枠組がないのだから、プリンターが吐きだした紙をホチキスで綴じた会議用資料ふうになる。フライヤー的な紙面づくりは、一枚物の集積とも言えよう。対して版面は、折られていったんは閉じられたページをつぎつぎと開いていくなかで、まぼろしの矩形がすがたを現わす。

(略)

組版ルールとセットになった版面では、文字や図版は、川がうねるようにページを流れていき、止めどない。(略)

おのずと具体化していくレイアウトと対面していると、不思議なことに、文字や図版が生き生きと振る舞っているように思えてくる。デザインする意志がゼロとは言わないが、レイアウトは、「なるべくしてなる」と感じさせるレイアウトでなければ、読むのがつらい。川のように流れる組版だからこそ、読みが持続できる。定められた版面が吃水線を幻視させるゆえに、テクストのなかの高まりやおどろきを感受できる。版面は強制力を湛えており、それゆえの躍動が生まれる。

(略)

テクストの〈階層の深さ〉にも頭を悩ませる。階層の深さとは(略)見出しレベルの多さである。

(略)

見出しは、テクストの素性を露わにする。ある章にあったレベルの見出しがほかの章にはなかったり、ひとつの見出しが収容する文章量の極端なバラツキは、構成に難があるのを露呈させる。かたや、見出しのデザインが悪いと、ページをめくっていてもリズムが生まれない。目立つ見出しに、本文が耐えられないときもある。見出し倒れというやつだ。テクストは本文デザインを試し、本文デザインはテクストを批評する。両者は、版面という場で、たがいを照らしあう。
ブック・デザイナーは、読者に、読者自身が本全体のどの地点に立っているのか、いかなる階層の文章を読んでいるのかを明示しようとする。ノンブルや柱、見出しなど構造明示子と呼ばれる、本文以外のいわば脇役の、多くはセンテンスではない文字列を動員して、読まれつつある行文の位置を示す。そのためにも、書物は適切な階層を要請する。四ページほどの記事に三階層は深すぎるだろうし、数百ページの本に見出しがなければ不便きわまりない。

(略)

山田規畝子著『壊れた脳 生存する知』は、リハビリテーションのドキュメンタリーである。三度の脳出血を体験した著者が、重い後遺症に立ち向かい、「「からっぽになった脳」を少しずつ埋めていく「成長のし直し」の記録」だ。(略)

山田は、アナログの時計が読みにくいと述べる。たしかに、「2」を指している分針が、なぜ「10分」を、「9]がどうして「45分」を表すのか。ふだんのわたしは、手間のかかる思考の階層を端折って時計の針を読みとっているのだが、著者には「端折る」ことができない。階層の深さを無視できず、時計はどっち回りだっけ?二本の針の意味は?と、いちいち理論化しなければならない。絵を描く場面では、「私には紙と、その下の机の境界線が見えなかった」。紙の下には机があるとの階層関係が把握できない。山田は、自覚する。「私には遠近感がないのだ」。そして、「私は、二次元の世界の住人」と記す。山田が本を読むくだりだ。

 

一行読んだところで、思わぬ困難を自覚した。次にどこを読めばいいのかわからない。
左隣の行も、反対の右隣の行も、次に読むべき行の頭のような気がして、目移りしてしまう。結局わからなくなってもとの行に戻り、もう一度読む。文の内容から、次の行はこんな内容だろうと推測し、どうやら該当するらしい行を選び、たぶんここからだろうと読みはじめる。
ページが変わるときは、さらに大変だ。めくる、という行為のあいだに、今度は記憶障害が顔を出す。前の行の情報は、目を離した数秒でかなり薄くなっている。
一行を何度も読み返す作業が続き、なかなか本全体としての内容をつかむに至らなかった。
(略)
新聞や雑誌には、また別の困難があった。この種のものには、読む順序の約束事がある。大きな紙の上でここまで読んだらこっちへ飛ぶ、というレイアウト上の暗黙の了解があってはじめて、迷わず読み進んでいけるのだ。その、約束事がわからない。ひとかたまりの活字を読んだら、次はどこに行けばいいのか。

(略)

デザイナーは、二次元でしかない紙の上のレイアウトに遠近感をもちこもうとする。文字の大きさや太さ、書体の対比、色彩のコントラスト、行長と行間の演出などによって、ページのすがたにメリハリを与える。書体を変えて、見出しを本文から切り離して、タイトルと本文のあいだに境界線をつくる。ブック・デザインは、紙上に多様な境界線を配置していく。見出し、注、巻末資料、ノンブルや柱などと版面とのあいだにも、大きな切断面がある。
山田の証言は、「レイアウト上の暗黙の了解」の複雑さを見直させる。次の行に移るという当たり前の行為のうちに、どれほど深い溝が横たわっているのか。(略)

レイアウトの妙味は、「次はどこに行けばいいのか」わからない不安と背中合わせにあるのかもしれない。読むとは、読み手が階層をなめし、境界線を乗り越え、意味を辿りながら、「いま読んでいることが後で意味を持つと予測」しながら、ページ上で辿られる道に高低と緩急を与える。読者は、与えられた階層に、みずからの階層を布置し、もうひとりの話者となっていく。(略)  

壊れた脳 生存する知 (角川ソフィア文庫)

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