レイモン・サヴィニャック自伝

レイモン・サヴィニャック自伝: ビジュアル版

レイモン・サヴィニャック自伝: ビジュアル版

 

自転車レースのすべてが好きだった

 自転車へのこの愛情は、ロードレース競技も選手も大好きだった父から受け継いだに違いない。
 毎年、父は私を連れて、自転車競技場にツール・ド・フランスの選手たちが到着するのを観に行ったものだ。
(略)
 自転車レースのすべてが好きだった。オートバイに誘導されるドミ=フォン・レースも、アメリカ式レースも、冬季競技場で開かれる「六日間レース」も。
(略)
[セミ・ロードタイプを買ってもらい]
何時間もかけて念入りに磨き上げたこのマシーンに乗って、私は学校のレースに参加した。一度たりともレース参加を見送ったことはない。
(略)
[ある時は70キロをビリッケツで走り、辿り着くと]ロッカールームはもう三時間も前からカラッポだった。
(略)
 しかし、こんなつらいレースが続いても、気持ちがくじけるどころか、決意は深まった。――きっと自転車の神様は、ボクを試そうとして、こんな苦難を与えているんだ。(略)
いつの日か、栄光の日がやって来る(略)
 「いつの日か」はたしかにやって来た。ただし、それは夢に見た日ではなかった。(略)
ロンシャン競馬場を、将来のチャンピオン候補見習いたる者たちが10人ほどのメイン集団を作って走っていた。私もそこにいた。(略)
そのときだ。仲間のひとりが、植え込みの脇に、自転車に乗ったトト・グラサンを見つけたのは。
 トトは偉人なるチャンピオンだった、オリンピックのチャンピオン、グラン・ツールのチャンピオン、などなど。
(略)
トトはお喋りしながら、私たちと肩を並べて走り始めた。
(略)
 トトのほうは、必死にペダルを踏む私たちの脇で、悠々と落ち着き払っている。まさに世界一の男だ。ハンドルの高いところに適当に手を置き、ひとりでお喋りを続けていた。(略)三周ほどしたあと、無駄話にも飽きたらしい。身体を二つ折りにして前屈みの姿勢を取り、ハンドルの下部分を丁寧に握ると、かつて耳にしたこともないような名文句を吐いたのだった。
 「じゃやあな、坊やたち。まだ遊んでいたいけど、ボクはちょっと練習しなくちゃいけないから」
 そして彼は走り出した。私が顔を上げたときには、もう、地平線の黒い点にしか見えなかった。
 今度ばかりは、なんだかすっかりやる気が失せてしまった。才能のある者とない者の間にはどれほどの差があるのか、イヤというほど思い知らされたのだ。その日以降、私は勝利の花束を夢見なくなった。

エアブラシ

 場所ふさぎで高価なものだとはいえ、エアブラシは噴霧器にすぎない。洗練されてはいる。でも、やっぱりそれはたんなる噴霧器なのだ。使用説明書にだってこう書かれている――「これをお使いいただければ、お子様でも素晴らしい効果が上げられます」。
(略)
 私はエアブラシと理解し合うべくあらゆる努力を試みた。やさしく扱う、軽々しく扱う、不意打ちする、確固たる態度で臨む。どれもなんの効果もなかった。
 同僚の手の中でなめらかに作動していたこの器具を次に私が使うだけで、とたんに器具はガアガア鳴いて唾を吐き、ダラダラとよだれを垂らし始めるのだ。虐殺行為である。
 当時はすべてエアブラシが使われていただけに、私の絶望は深かった。エアブラシに夢中になっていたクライアントの弁護のためにひとこと言っておかなくてはならないが、これを使うとたいしたことのないイラストレーターでも驚くほどの描写ができるのである。エアブラシを使った模写は、もとの写真よりも美しい。写真より効果的だ。特徴的な細部を強調し、神秘的な陰影を施し、画と面を調和させることができるからだ。
 たとえばカッサンドル。エアブラシを手にすると、恐ろしいほどの技巧をもっていた。誰にも真似できないように使いこなした。巨匠として、この道具に爵位を授けたのだ。彼は、オランダ絵画に匹敵するほどの、驚異的なトロンプルイユの画面を作り出した。カッサンドルは、白紙にじかにエアブラシを使うようなことはけっしてしない。まず、一様に彩色し、そのあとで密輸入者のようにこっそりと立ち戻り、軽やかな噴霧のヴェールをかけていく。人はカッサンドルがエアブラシを使ったことなど忘れてしまう。それこそが偉大な芸術なのだ。
(略)
 もしエアブラシが使えていたら、私の失業時代はあれほど不毛なものにはならなかっただろう。でも、黙って居候させてくれている両親に向かって、そんなに高価な道具を手に入れたいとは、どうしても言い出せなかった。しかも使いこなせるようになるかどうかもわからない。すっかり素寒貧になっていた私は、モノにできたちっぽけな仕事に、何回も同じトレーシングペーパーを使いまわす羽目に陥っていた。
 あんないまいましい道具を使ったテクニックが流行っているせいで自分がメシを食えないなんて、馬鹿げている、ムカつく、と思ったものだ。

広告ポスターと芸術

 広告ポスターは表現のための芸術で、装飾芸術ではない。あんまり綺麗に仕上げたら、途中で何を言いたかったのか忘れてしまう。そしたらそれはもう入れ物にすぎない。目を見張らせることはあるだろうけど、それはたんなる入れ物で、入れ物の中身ではない。そして、中身こそがポスターで大事なものなのだ。
(略)
 カッサンドルは例外だった。彼の作品の中では、すべてがうまくいっている。中身も入れ物もよくて、調和し合っている。とても安定していて、とても美しく、そして何より、とても力強かった。
(略)
 言葉は添え物程度しか使われないけれど、でもポスターはやはりメッセージだ。つまり、長々しい能書きのかわりをする、キャプションなしの絵だ。ポスターの絵は、それ自体が目的とは見なされない。それはたんなる手段、乗り物で、考えを伝え運び、それを荒々しく映し出すのである。
 たんに伝達手段であるからには、人や物の正確な描写が目標ではない。表現や創意工夫の必然性に、一〇〇パーセント従うべきものなのである。戯画になるほどデフォルメしてもかまわない。けれど、いつも大まかなシンプルさは保たなくてはいけない。それなしには、ポスターが何を言いたいかわからなくなってしまうからだ。

ライバル

[ピカソの愛人フランソワーズ・ジローから聞いた話]
ピカソとブラックのように、互いに嫉妬も尊敬もしている偉大な創造者の間に結ばれる関係を物語る話だ。
 ある日のこと、ピカソは、長年の友人ブラックから、新作を掛けるお披露目会に招待された。友人だけに断わるわけにはいかない。だからピカソはイライラと腹を立て、画廊に着いたときにはもうカンカンだった。ブラックは、教会の前の花嫁さながらに、画廊の戸口に立って待っていた。ピカソはそのブラックに挨拶するなり、駆け足で絵を見てまわり、立ち去り際に、こう言葉を投げてよこした。
 「ちゃんと壁に掛かっているね」
 それから数年もあとのこと。
 ビカソは海辺に引きこもり、陶器の制作を始めた。
 ヴァロリスに落ち着いて二年たったころ、ビカソは、もうパリには飽き飽きしたというブラックの手紙を受け取る。(略)
明るい太陽の下の人生がいかに素晴らしいかとっくり説いてみせたあと、こんなふうに締めくくった。
 「こっちに来るといいよ。とにかくスゴイから」
 ブラックは、ピカソの勧めに従い、南仏に落ち着いた。そしてある日、ピカソの制作した陶器作品の展覧会への招待状が届く。
 ブラックは展覧会に赴いた。
 画廊に着くとブラックは駆け足で作品を見てまわり、そして立ち去り際にこうピカソに言葉を投げたのだ。
「よく焼けてるね」
(略)
 このクレイジーな時代、モンパルナスは芸術の国際的な中心地だった。ヘミングウェイフィッツジェラルドは、アメリカ人をこの街に吸い寄せていた。(略)
 私はといえば、彼らのただ中で暮らしながら、彼らと知り合いにもならなかった。(略)
 見てすぐわかるフジタ(藤田嗣治)を別とすれば、誰か有名人と遭遇したことがあるかどうかも覚えていない。あのころみなの話題になっていたのは芸術家の作品で、顔はあまり表に出ていなかったのだ。

カッサンドル

 カッサンドルは、私より7歳しか年上ではなかったけれど、最初のポスター「オ・ビュシュロン(樵)家具店」を出したときからもう有名になっていた。これは今でも彼の最良の仕事のひとつだ。22歳のときの作である。
 彼は私より少し背が高く、筋肉質ですらりとしている。鋭い人だった。
(略)
[彼は画家とポスター画家とは全く異なるものであることをこう説明している]
 「ポスターを描くには、画家であることをきっぱりあきらめなくてはならない。画家はポスターの中に自分を表現することはできない。そんな権利はないのだから、できるはずがあろうか……。絵画は絵画自身を目標とする。いっぽう、ポスターは、売り手と大衆とのコミュニケーションの手段にすぎない。電報のようなものだ。ポスター画家の役割は電報配達人だ。つまり、彼はメッセージを発するのではなく、それを伝えるのである。彼の意見が求められるわけではない。求められるのはただ、明確で力強く精確なコミュニケーションを打ち立てることなのだ」(略)
 彼はこんなことも言っている――「ポスターは、見られるために作られ、そして、それを意図して見るわけではない人々の記億にとどめられる」。街路は美術館ではない。それは通り過ぎる場所だ。
(略)
 ポスターが向かう相手である公衆は、冷淡なものである。自分の目の前にあるあれこれの標識よりもポスターを優先して見てくれはしない。だから、ポスターは、大衆の心に触れなくてはならない。その感覚の中に入り込まなくてはならない
(略)
 カッサンドルは教師の役まわりは演じなかった。でも(略)彼は私にとって目の前で生きているお手本だった。何かを学ぶには、ただ彼がすることを眺め、耳をそばだてて彼の言うことを聞けばいい。
(略)
 何週間も何週間も、彼がカンヴァスの泥沼で足掻くのを私は見ていた。できたものを消し去り、再開し、また別の袋小路に迷い込む。この悪天使との格闘で、負けるのはいつも彼だった。だが、それにもかかわらず、彼は、何か表現すべきことがあると確信していた。自分が、未来の時代のための真理の輪郭を描く(デッサンする)ことを固く信じていたのである。そう、輪郭を描くならば、おそらくは……。

印刷所の衰退

 広告ポスター、かつてはあんなにも華々しい存在だったポスターの衰退は、印刷所の衰退とともに、そして広告代理店の台頭とともに始まった。
 かつて、印刷業者たちが自分のクライアントと関わっていた時代、つまり、父親の世代と同じように自分で直接コンタクトを取るか、あるいはポスターの販売経路を通してクライアントの考えを探っていた時代は、ずっとうまくいっていた。ポスターも同じだ。しかしその後、少しずつ広告代理店が取引に介入してくるようになる。担ったのは仲介という役割だ。印刷所は、持ち込まれた注文をただこなすだけの存在になっていった。彼らはクライアントがしだいに目に入らなくなり、そのかわり、代理店がクライアントを取り込んで莫大な利益を上げるようになった。印刷所で行なわれるのはもはや商品製作だけだ。工場生産品を作るだけの労働。これ以降、印刷所は株式会社に変わっていく。自分の仕事に夢中のボスはもういなくなる。いるのはただ「株式会社社長」だ。社長たちにとっては、機械を回すものならばなんでもいい。できた製品に納得できなければ仕事をやり直すような気概の職人魂から、遠く隔たってしまったのである。
 近代化のため、印刷所は使っていた偉大なる機械を廃棄処分にしてしまった。哀しいことだ。石版印刷に使われていた巨大な石灰岩はスクラップにされた。
 手で磨いた石での版画印刷のかわりに、亜鉛板が使われるようになる。芸術面から見ると、これは進歩とはまったくいえない。いちばん美しい石版画が刷れるのは、やはり石なのである。
(略)
深々とした豊かな色合い、下絵と同じようにニュアンスに富んだ色合いがそこにはあった。
 近代的なやり方にそんな繊細な仕上がりを望むのは論外である。できるのはまるで粗いものだ。
 私が色を単純にするようになったのは、そのためだった。印刷術が退化するいっぽうなので、これではリスクを減らさなくてはならないと思ってしまったのだ。自分のためにではなく、ポスターのために。予期していたよりよく刷れるなどという嬉しい誤算はめったにないのである。
(略)
写真製版の技術自体も質が低下した。かつて長い白衣に腕を通した写真製版技師たちが、どんなに愛情を込めてネガを現像していたか、思い出さなくてはいけない。
 彼らは、まるで宗教儀式を取り仕切るようなしぐさで自分の仕事をしていたものだ。

剽窃

 私のクライアントはある広告編集者から訴えられた。その編集者は戦前に出された広告ポスターを掘り出してきて、私がそれを剽窃したと言い出したのだ。(略)
 私のクライアントは、私を攻撃した。私は裁判で弁明しなくてはならなかった。法廷は、この二つのポスターがなんの関係もなく、私が議論の余地なく自分の作品の作者であることを認めた。(略)
 私に対して四〇〇万フランの賠償金とその利子の支払いを求めていたクライアントの主張は却下され、逆に訴訟費用の支払いが命じられた。それでも、この事件は私にとって、とても高くついたのだ。自分のほうが完全に正しかったにもかかわらず。
(略)
 いっとき、私の絵を真似する者がたくさん出た時期があった。多少なりとも意識的に私を模倣したそれらの人たちはみな、私の描く線を真似て写そうとしていた。私のポスターは、大まかな図から出発しているので、描くのは簡単だと思ったのだろう。間違っている。そう断言できる立場に私はいる。何しろ、あの線を引くのにあんなに苦労したのは私なのだから。
 一度、どんな癇癪の虫にそそのかされたのかわからないけれど、ある盗作に抗議したことがある。私はひどく不愉快な状況で自分の時間を失ってしまった。だから、それ以来、盗用されたときにはシャネル嬢を見習って、それは自分に対する称賛なのだと思うようにした。
 盗作者が作った作品に力が足りないほど、私の虚栄心はくすぐられた。彼らはその作品に私と同じ精神を注いだわけではなく、同じ煩悶があったわけでもない。
 タフなポスターを作ること。たしかにそれが私の目標だ。でも、同時に、人間味があって、共感を呼ぶものでなくてはいけない。人の心に触れるポスターであってほしい。どうやってそういう絵にたどり着くのか自分ではわからない。でも、私のポスターにはどこかしらやさしい感じが表れていると思う。