エレクトリック・ギター革命史・その3 フランケンストラト

 前回の続き。

エレクトリック・ギター革命史 (Guitar Magazine)

エレクトリック・ギター革命史 (Guitar Magazine)

 

マーシャル・アンプ

 ロンドン生まれでビッグ・バンドのドラマー/ボーカリスト/タップダンサーだったジム・マーシャルは[60年ドラムショップを開店。父親がジムとバンド仲間だったピート・タウゼントなどに勧められ他の楽器も扱うように](略)

“彼ら[ロン・ウッドリッチー・ブラックモア他]はこぞって私のところへ来て、当時入手可能だったギター・アンプが彼らが志す音楽に向いていないと訴えた”とマーシャルは語る。
 第二次世界大戦中に戦闘機の分野で電子工学系の仕事に携わったマーシャルだが、オーディオ・エレクトロニクスに関してはまるで経験がなかった。しかしながら、彼はケン・プランという若いミュージシャンを雇い、店でアンプの修理を請け負っていた。彼はそこへ3人目のチーム・メンバーとしてダドリー・クレイヴンという元EMIの有望な見習い技術者を加えた。3人は共同で1962年までに35ワットのギター・アンプのプロトタイプを作り上げた。これはマーシャルの楽器店で一番の売れ筋商品だったフェンダー・ベースマンを参考にしたアンプだった。それでも彼らの設計書にはいくつか独自性の高い電子部品が採用されていた。当時の英国で容易に入手できたパーツを使用したのである。この際、マーシャルはアンプの本体とスピーカーを一体化するのではなく、各々を別々に作ることを思い立つ。(略)

ギターからの信号を増幅する繊細な作業を担う配線がつまったヘッドを、音の振動が激しいスピーカー・キャビネットから切り離して独立させるというのは、とても優れたアイディアだったのだ。

(略)

 最大のパワーを供給するために12インチ・スピーカーを4つ内蔵し、背面をパネルで塞ぐというキャビネットのデザインを手がけたのはジム・マーシャル自身だ。(略)

この特徴と、回路内の様々なイギリス製の部品との組み合わせにより、ここにまったく新しい個性的なトーンが誕生したのだ。これが伝説の“マーシャル・サウンド”である。従来のアンプは音の歪みを避けるように設計されていた。その点、最初から意図して音が歪むようデザインされたマーシャル・アンプは、電源を入れるだけで優れたディストーションサウンドが得られる。

(略)

当初マークHと命名されたこの初期のマーシャル・アンプは、最終的にJTM45という商標に変更された。JTMとはジム&テリー・マーシャルのイニシャルである(ジムの息子のテリーは、フリントストーンズいう地元ロンドンのグループのサックス奏者だった)。
 1962年後半に生産が開始されたJTM45は順調に売り上げを伸ばした。英国産の製品だったため、店頭価格は高い輸送費をかけてはるばる大西洋を渡ってくるフェンダー・アンプなどの米国からの輸入品よりも手頃だった。しかもマーシャル・アンプには(略)ロンドンの若手ミュージシャンの声が反映されていた。 

ジミヘンvsピート・タウンゼント

 大型のマーシャル・アンプもフィードバックも、そしてステージ上の芝居がかった攻撃的なアクションも、ジミ・ヘンドリックスがライブの呼び物としていた要素はすべてピート・タウンゼントザ・フーから直接ヒントを得ていた。(略)

[だが67年モンタレーで同じ日のステージに立つことに。どちらもアメリカでは無名なので出演が後になった方が真似をしてるように見えてしまう。しかもザ・フーはコストの関係でいつもの機材をアメリカに持ってこれなかった]

“(略)ジミ、ちょっと話を聞いてくれ。俺はお前のあとに出るのは嫌なんだ。(略)お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃになってしまうかもしれない。お前に俺のお株を奪わせるわけにはいかないんだ。俺たちの見せ場はあそこしかないんだからな。お前は類稀なる天才だ。客は大いに感動するだろうよ。しかし俺といえばどうだ?ユニオン・ジャックのジャケットを着て、自分のギターを壊すことくらいしか能がないんだぞ。もう勘弁してくれ!俺たちが先に出させてもらうからな」と私は訴えた。(略)

[だがジミは]相変わらず椅子の上に立ったままギターを弾いていて、私のことなんか無視だ。だが、ブライアン・ジョーンズがあとで教えてくれたところによると、あのときジミは完全にアシッドでブッ飛んでいたそうだよ”。 

パンク

 パンク・ロックのリスナーは、偉大なるギター・ヒーローの時代の第一期の終焉を声高に明瞭に宣言した。かつてのギター・ヒーローは時代の波に押され、流行の商業ロックに感染して消えていった。

(略)

ジョニー・ラモーンによると、グループには基本的なルールが一つだけあったそうだ。“ヒッピーのネタは禁止だ。俺は全力で拒否することに努めた。ブルースや何かの要素が音楽に入り込むことを極力避けながら、ピュアなロックンロールをプレイしたんだ”。 

フェンダー

[70年代、フェンダーギブソン製品の質が低下し、“交換用パーツ”産業が発展]

“僕はマンハッタンの48thストリートにあったギブソンのラボで働いていたんだ”とラリー・ディマジオは語る。“新品のレス・ポールが届くと、僕らはまず張ってあるヘヴィ・ゲージの弦をはずし、適切な処理を怠っている工場に代わってフレットを研削して磨いてから、全体を再調整していたんだ”。程なくして彼は自作のピックアップヘの載せ替えも工程に加え、質の悪い楽器から(略)往年の銘品ギターに迫るようなサウンドを引き出そうと試みた。
 ここから80年代に至るまで、ほかにも進取の気性に飛んだ数多くの技術者やルシアーがこの業界に参入してきた。(略)

[ジミー・ペイジ、ジミヘンらのリペアを担当していたセイモア・ダンカンはLA]を拠点に交換用パーツの会社を設立して成功を収める。また、フェンダーの下請業者をしていた70年代初期に、リペアの手腕と見事なカスタム・フィニッシュが地元の伝説となったウエスト・コーストの才能溢れる起業家、ウェイン・シャーベルもその道で名を上げた。(略)

ギターに加えて、純正の4倍の強度のストラトキャスター用ステンレス製トレモロ・アームといった独自の発明品を発売した。(略)

[腕の立つ二名の木工職人を起用]もはや大手メーカーからは供給されなくなった精密な形のボディやネックを自ら製造するためである。(略)

 シャーベルは持ち前の人を見る目を大いに発揮し、従業員選びばかりでなく、自分のカリフォルニアのリペア・ショップに定期的に通ってくる好奇心旺盛で熱意ある若いミュージシャンに目をかけ、良き相談相手として指導に当たった。(略)

 “”初めて店に現われたとき、エド[エディ・ヴァン・ヘイレン]はディマジオのピックアップのキーキーいう音を止めることはできないものかと僕に尋ねてきた”とシャーベルは語った
 “”できるよ、と僕は彼に返答したんだ。僕はかつてボブ・ルーリーというエレクトロニクスの天才から学んだ、溶かしたロウの中にピックアップを浸けるというトリックを彼に教えてやった。今でこそ「ポッティング」と呼ばれて浸透している手法だが、僕が知る限り、既製品のピックアップをロウに浸けたのは僕らが初めてだと思うよ。それを機にエドはショップに入り浸るようになり、僕が彼のギターを何本も修理している間、ずっと床に座ってギターを弾いているようなこともあったね”。

 エディ・ヴァン・ヘイレン、“フランケンストラト

 先のゴールドトップのレス・ポールの一件でギター改造の味をしめてしまったエディは、1961年製のギブソンES-335や、1958年製と1961年製のフェンダーストラトキャスターを含む複数のギターを手術台に乗せた。

(略)

ビブラート・アームを押し下げるたびにチューニングが狂ってしまうES-335(略)テイルピースを糸鋸で半分にカットし、ワミー・バーを操作しても1弦~3弦までしか動かないようにしてしまった。“そうすることによって(略)俺は常に低いほうの3本の弦でコードをプレイできた”とエディは語る。(略)

フェンダーストラトキャスターのビブラート・システムの方がチューニングをキープしやすいことに気づいた。だが残念なことに、彼の辛辣なバンドメイトからはストラトのか細いトーンは不評だった。そこでエディは(略)1961年製のストラトのボディ内の配線をたどり、リアの位置に太いサウンドギブソンPAFハムバッカーを取り付けたのだ。

(略)

[試行錯誤の末、ボディ材のせいでトーンが貧弱だと考え]
エディは、ついに楽器の分解後にスクラップと化した安価な部品をシャーベルの仲間たちから購入し、それを使ってオリジナルのギターを一から作ることを思い立つ。

(略)

[当時のLAはホット・ロッド全盛でジャンク・パーツによるカスタムカーだらけ、それゆえギターの改造という発想も出た。]

[75年にシャーベルの]工場に立ち寄ったエディは、50ドルでアッシュのストラト・タイプのボディを購入した。(略)[ボディの]山の一番下にあった“クズ”だったそうだ。彼はさらに80ドルを支払って、塗装前のメイプル・ネックも手に入れた。

(略)

彼は自分のギブソンES-335からハムバッカーを取り外し、新しいボディにマウントしたのだ。これでギターの低音域のレスポンスとトーンのメリハリ、及びサステインが向上した。

 ボディにはピックアップ取付スペースがあと二つ残されていたにもかかわらず、エディはそれらを空のまま放置した。彼には複数のピックアップやトーン・コントロールをつなぐための配線回路はわからなかったからだ。“ともかく俺はトーン・コントロールには触ったこともない”。

(略)

 また、エディは空のピックアップ・キャビティを隠すために黒いプラスティック板を切り抜き、穴を覆って釘付けした。最後に取り掛かったのは、このギターの最大の特徴である白黒ストライプ・フィニッシュの作業である。エディは最初に黒のアクリル・ラッカー・ペイントを数回吹き付けた上からテープを巻き、白のラッカー・ペイントを何度かスプレーした。テープは最後のコーティング剤が乾いた後に除去された。こうして仕上がったのが、エディが大好きなレス・ポール・スタンダードとES-335とストラトの各々の良さを組み合わせたギターだった。
 “フランケンストラト”の誕生である。

(略)

2009年に逝去したレス・ポールは、晩年エディと非常に親しい間柄になっていた。エディがよく笑いながら話してくれたのは、おもむろにギターにまつわる奥儀のようなことを語り出したり、時には馬鹿馬鹿しい話に終始した、午前3時のレス・ポールからの迷惑電話の思い出だ。(略)

長電話の締めに、“この世で偉大なエレクトリック・ギター・メイカーと呼べる者は、私と、君と、レオ(フェンダー)の三人しかいない”と言ってくれたことは、今もエディの誇りだ。

 

ポール・リード・スミス

 80年代初期、飽くなき探究心に導かれてヴァージニアの米国特許商標庁に赴いたスミスは、そこでギブソンの初期のエレクトリック・ギターの名作デザインに関する資料にじっくりと目を通した。[何度も目にしたのが]

“「誰だ、テッド・マッカーティって?」て気になっちゃってさ”。(略)

“そこでようやく僕は、彼こそ僕が愛し、尊敬してやまない楽器の大半を作った張本人であることに気付いたんだ。初めて彼と会えたのは1986年のことだったんだが、僕はすべてを知りたかった。だから彼がどのような接着剤を使用していたのか、フレットボードの高さはどうやって決めたのか、どのように乾燥させていたのか、なぜエクスプローラーとES-335を作ったのかなど、おもむろに質問責めにしてしまった。するとテッドは迷惑がるどころか少し感傷的になり、自分にそんな質問をしてくる人とはもう何年もお目にかかっていなかったと漏らしたんだ。とても信じ難いことだよ。そこで僕らは会社の顧問として彼を雇い、僕は2001年にテッドが亡くなるまで、彼が持つ多くの知恵をできる限り引き出すことに努めたんだ”。

安物プラスティック・ギターの逆襲

[ホワイト・ストライプスによる復活劇]

エアラインはファイバーグラスの一種であるレゾグラスをボディに使用した斬新なギターだった。端的に言えばこれはガラス繊維で強化されたプラスティックである。

(略)

 可塑性に長けている点もレゾグラスという材質の大きな強みだった。溶融ポリマーを金型に注入して製造されるギターのボディは、事実上どんな形状にでも作り上げることができた。(略)

また、楽器の彩色も材料の溶融時に混入するだけで済んでしまうため、ギターの塗装や手の込んだ木材のフィニッシュといった製造プロセスは必要ない。しかもこの工程にはもう一つメリットがあった。(略)レゾグラスの色は決して褪せることがなかったのである。今日ビンテージのレゾグラスのエアラインやナショナルは、恐らく1500~3000ドル程度の価格で販売されていることと思うが、いずれも最初に工場から出荷されたときとまるで変わらない、20世紀半ばという時代ならではの鮮やかな色を保っている。

(略)

“エレクトリック・ギターのボディは共鳴させる必要がないということがわかっていた”とアル・フロストは振り返った。

(略)

“そこで私たちはボディをポリエステル樹脂とガラス繊維で作ることを試みた。金型を作り、ポリマーにカラーをスプレーして混ぜ込み、ファイバーグラスで成形して型から抜けば、すでにフィニッシュが施されたような状態のボディができ上がった。ああ、なんと美しいことか。私たちは赤や青や白や、ありとあらゆる色のレゾグラス・ギターを作った。あれは本当に逸品だった”。

(略)

[安っぽいと嘲りの対象だったエアラインがミレニアル世代には違うものに映る。レス・ポールストラトのような音はでない、オーバーロードした時の音の歪み方も違う]

しかし実はそこがポイントだったのだ。(略)サステインが乏しい反面、重厚な中音域という武器を持っていた。(略)

それは新たなサウンドと新たな美意識を求める者たちの耳に面白く魅力的に響く

ピーウィー・ゲット・マイ・ガン

ピーウィー・ゲット・マイ・ガン

 

ブラック・キーズのダン・オーバック(2014談話)

“僕が好きなのは完全にぜい肉を削ぎ落とした、生々しいブルースなんだ(略)

そんな嗜好のせいで、僕はマディ・ウォーターズハウリン・ウルフをあまりまともに聴いてこなかった。バンド編成の音が仰々しすぎるから、シカゴでレコーディングされた音源も趣味じゃない。僕はメンフィスものが好きなんだ。ジョー・ヒル・ルイス、パット・ヘア、ウィリー・ジョンソンあたりがいい。あと、僕が17歳だったとき(1997年)に出たTモデル・フォードのアルバム、『ピーウィー・ゲット・マイ・ガン』が本当に好きでたまらなかった。(略)

当時、僕はTモデルとR・L・バーンサイドばかり聴いていた。(略)”。
 Tモデル・フォードとR・L・バーンサイドは、いずれもミシシッピ州オックスフォードを拠点とするファット・ポッサムというレーベルから音源を発表していたアーティストだ。このレーベルは、それまでほとんど、あるいはまったく露出がなかったミシシッピの実力派ブルース・アーティストを発掘してレコーディングさせるという使命を掲げて1991年に発足した。所属していたのはフォード、バーンサイド、ジュニア・キンブローら。ロバート・ジョンソンやチャーリー・パットンといった伝説のブルースマンたちが20年代~30年代に出演していたような、地元のジューク・ジョイントで当時も現役だった荒削りなプレイヤーたちだ。
 アメリカ南部の貧しい農村部に住むブルース・ギタリストたちは、何十年にも渡ってシアーズモンゴメリー・ワードから配布される通販カタログで楽器を購入してきた。(略)

かの偉大なハウリン・ウルフでさえ、50年代の駆け出しの頃には庶民的なケイのシン・ツインをプレイしていた。

(略)

ファット・ポッサムはブルースとパンク・ロックの間のある種の橋渡し役となった。70年代に登場したオリジナルのパンク・ロッカーたちは、ベビーブーム世代への反発の意味を込めてブルース・リックを拒絶していた。しかし、ファット・ポッサムが見出すアーティストはどこか違う。[コンピのタイトルは“お決まりのブルースだと思った大間違い”]

Fat Possum: Not Same Old Blues Crap (Sampler)

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Vol. 2-Not the Same Old Blues

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 グレン・ブランカソニック・ユース

グレン・ブランカのギター・アンサンブルには、ソニック・ユーススワンズのメンバーを含め、ニューヨークのアンダーグラウンドのロック・コミュニティから多くのギタリストが参加していた。こういったギタリストたちは変則チューニングや無調性ノイズなど、ブランカのアイディアの一部を独自のバンド活動に反映させ、ロック色を強めた作風へと進化させていった。
 “あれは完全に無調のギター・ミュージックという枠の内側にいた”。サーストン・ムーアはブランカの作品についてこう語った。“だけど俺はそれをMC5やストゥージズのようなエネルギーに満ちたロックと結びつけたいと考えていた。グレン・ブランカのような人からはなかなか出てこない発想だよ”。
 特に初期の活動において、ソニック・ユースはライブ・パフォーマンスとレコーディングの両面で、様々なリサイクル・ショップのエレクトリック・ギターを活用していた。バンドが使用していた変則チューニングの一部は、粗悪すぎてスタンダード・チューニングがキープできないようなギターに由来したものもあった。そうなったらどんな音階だろうとお構いなしで、1曲プレイする間だけでも比較的安定したチューニングが保てるキーに合わせていたという。

[よくギターを破壊していたカート・コバーンもリサイクル・ショップにある安価なフェンダーのモデルを購入していた]

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