無くならない アートとデザインの間 佐藤直樹

無くならない: アートとデザインの間

無くならない: アートとデザインの間

 

美学校

赤瀬川原平さんの活動などで知られた美学校という私塾でした。1986年、25歳のときです。美学校はアートもデザインもごちゃごちゃのまま渾然一体となっている場所でした。別の言い方をすれば、そのように思えた唯一の場所が美学校だったということです。(略)
 美学校でのエピソードはたくさんあってどれもおもしろいのですが、なかでも印象的だったのが、校長の電話対応です。有名なイラストレーターなども輩出していたので、「イラストレーター向けのクラスはないのですか?」といった問い合わせがあったのですけれど、「そんなコースはありません」「そんなものは教えていません」「ただ勝手になっただけです」などと校長自らが電話を切っていたのを目撃したのです。それでものすごく貧乏そうだった。バブル真っ盛りの時代にです。これはちょっと凄いな、と思ったのでした。

アキ・カウリスマキ

アキ・カウリスマキ監督は2014年のインタビューで(略)「1986年以降、新作映画は観るのはやめた」と答えています。いまは主に1920〜30年代の映画を観ており、それである賭けに出ているのだと。
小津安二郎溝口健二黒澤明の名を挙げて、この人たちのフィルムは、人が社会に対して張りめぐらしているバリアのようなものをすり抜けて、心の奥底に深く入り込んでくる、とも語っています。

「アート」と「デザイン」

 現在の「アート」は、それ自体の定義づけを拒んでいるものと言ってよく、そうなるとアートならざるものに対する否定的な見解とともに説明するしかなくなります。しかしこれは一種の他者依存で、自立や自律を旨としていたはずの存在が、結果として自家撞着に陥ります。
 「デザイン」は利用者の存在を前提にしていますから、そのような矛盾が露呈することはあまりありません。が、それも少し前までの話で、いまでは新たな問題を抱えています。経済的基盤が崩れ、何らかのプログラムとセットでなければ回らなくなっている。すると独立した「デザイン」は空回りを始めます。そこから「アート」を語り始めたりもする。それを避け、かつ他者依存もしないと決意するなら、基盤そのものに関与するしかない。
 個々の営みを存続させるためには、「アート」や「デザイン」といった大括りな業界に属することをよしとせず、そのような概念自体を疑い、個別に具体的な立ち位置を明確化するしかない。インデペンデントであり続けるしかないのです。
 わたしはいま、木炭を使って板に植物などを描くことを、延々と続けているわけですが、いったい何をやっているのか、うまく説明することができません。けれども、絶対に必要なこととしてやっています。何かどう絶対に必要なのかは描かれたものに証明してもらうしかなく、証明は死ぬまで続けるしかありません。描くことというのは他の何かでは代替されえない行為であり、何の目的もなく始まったことであり、すべての目的は後付けである。現時点で言えることはそれだけです。
 何の目的もないのなら、なぜ意味性を帯びてしまうような造形を描くのか。抽象造形の世界を彷徨い続けないのはなぜなのか。
(略)
 「アート」も「デザイン」も西洋的・歴史的な概念にすぎませんし、今後もどんどん変化を重ねて、いずれわたしたちが想像し得るようなものとはまったく異なった姿になっていくでしょう。そんなことを思いつつ日々描く作業を続けているわけですが、アートなりデザインなりの概念がどうなろうとも、それを越えていくだけのものがそのなかにあるのかどうか、それだけが最後に残された「大事なこと」だと思うようになっています。

「絵画作品」はいつから自明なのか

正直なところ、「絵画作品」というかたちで昨今発表されている絵画然とした絵画のなかに、わたし自身が強く心惹かれるものは多くありません。まず「作品」というこの考え方自体にどうしても怪しさを感じてしまう。(略)
「作品」と言いさえすれば「作品」ということだと、そこを自明化してしまった瞬間から、大事な部分が蒸発してしまう、生気が失われてしまう、そんなふうに感じられるのです。
 それは「生命」ではなく「死」ですらありません。そこから目を背けさせる何か。そこまで言ったら言いすぎでしょうか。しかし自明なものをただ自明なものとして疑わない態度というのはときに暴力的です。「作品」という概念は明らかに何かを隠蔽しています。美術史を繙けば浮かびあがることが多々ありますが、「自明性そのものを問う作品」(現代美術作品)の登場は必然的な帰結であったとも思います。ただやはりそれでも、わたしの心を離さずにいるのは、そのもとのところに存在したであろう「絵画」なるもののほうなのです。「生命」や「死」に寄り添いながら「自由」を運んで来てくれる「絵画」をどうしても希求してしまうのです。

長新太

 あらためて「絵画」に「入門」しようとしている自分が、なぜ長さんのことを考えているのか。書くべきことは限りなくあるのですが、ここではまず色の話からします。長さんの「作品」(あえてそう呼びます)は、ほとんどの場合、印刷物としてわたしたちのもとに届きます。絵本の形態が多いからですが、印刷された色が、とにかく独特なのです。廉価で普及させることを念頭に置いた通常のカラー印刷なので、シアン・マゼンダ・イエロー・ブラックの四色の掛け合わせで構成されています。その条件は他のみなと同じなのに、長さんにしか出せない色がいつも出ているのです。そしてここがとても大事なところですが、その色でなければできあがらない世界が描かれている。ファンタジックと言えば言えますが、たとえば『ちへいせんのみえるところ』(1978年)の空の色などは、ものすごくリアルに響きます。(略)
イラストレーターは「複製された状態」をこそベストな状態にする仕事と言えます。「原画はもっといいんですけどねえ」などと言ってはいられません。ですから印刷であれモニター表示であれ、複製の場所ではじめて完成する絵というものも登場します。これはもっと言うと、受け手の脳内で完成することを目指した絵であるとも言えます。「描く」行為が完成するのは、見ている人間の脳内においてである。長さんの「作品」に接するたびにそのことが思い起こされます。
 しかし考えてみれば「絵画」とは元来そういうものであるはずです。長さんの絵は原画も素晴らしく、その前でいつまでも眺めていられる美しさを有しています。原画か複製かのどちらかに重点が置かれているのが普通ですから、これはなかなかに希有なことではないかと思っています。

ちへいせんのみえるところ

ちへいせんのみえるところ

 

赤瀬川原平

 デザインは完全に経済成長とともにあろうと舵切りをしていきますが、赤瀬川さんと同学年の横尾忠則さんがイラストレーションを駆使するデザイナーとしてデビューしています。その横尾さんが82年に画家宣言したことは非常におもしろい問題を浮かび上がらせています。赤瀬川さんが尾辻克彦として純文学作家デビューしていた時期で、赤瀬川原平としてのイラストレーションの画風も大きく変化しています。ジャンルとしては完全に分かれて整備されてしまっているものの、おそらくは無意識の、それぞれの行き来とそのクロスが見てとれます。
 2010年にわたしは「本当はただ絵を描いていたいだけなんじゃないですか?」という不躾な質問を赤瀬川さんにしました。その直後の複雑で優しい表情を忘れることは一生涯ないでしょう。その表情を見て「赤瀬川さんの絵であればどんな絵でも見たいです」と重ねましたが、その答えは「いまは何を描いてもイラストになっちゃうんだよ」というものでした。
 赤瀬川さんは死の直前まで「絵」が描きたいと願っていたはずです。しかし結局それは叶わないことでもあったのです。横尾さんにしても、まだ何も達成できていないと考えているはずです。

秋岡芳夫

 わたしは、戦争から戻った20代の秋岡芳夫さんの最初の活動拠点が「童画」だったことに注目したいのです。自己表現という観点だけでも、クライアントワークという観点だけでも、成立しないのが「童画」です。それからの10年間を追うと、装丁もやり、工芸指導所の仕事にも参画し、椅子をはじめとする家具のスケッチなども描き、新しい玩具をつくり、版画をやり、アマチュア無線にのめりこみ、そこからラジオキャビネットをデザインすることになり……そのラジオにしても、自ら文字盤もつくれば、真空管のレイアウトもし、回路の設計からパッケージまでやり、日本の近代工業デザイン史に残る数々の露出計やカメラ、バイクをデザインし、かと思えば学研『科学』付録を教材へと劇的に変え、二次元から三次元を立ち上げる紙工作に没頭し……といった具合です。(略)
 「口紅から機関車まで」の言葉で語られてきたレイモンド・ローウィとのもっとも大きな相違は、大衆を購買者・消費者としてではなく、共同生産者として見出そうとしていた点にあったんじゃないか。僕が秋岡さんを「20世紀のど真ん中を生きた人」だと思うのは、文字通りその期間を生き抜いたからでもあるわけですが、最初期の「アバンギャルド」と「モダン」がもっていた最良の部分を受け継いでいるように感じるからです。
 つくる人間とつくらない人間がいるのではない、そもそも人というのは皆つくるもので、つくらなくなっているとすれば、そのような生活こそがつくられたものであり、それは歪な様式なのだから、そこを脱し、誰もが楽しんでつくることのできる状況を取り戻そう、と。そんな考えからさまざまな地域に足を運び実践を重ねて行ったように思えます。

「デザインならざるもの」

 「いやそういう専門家ではなくわたしはあらゆるところに存在するトータルな意味でのデザインの専門家でありたい」という考え方をする人もいるでしょう。ただ「ありたい」のは自由ですが、そういうことばかり言っていると、どうしてもだんだんとどこか詐欺師っぽい感じになっていきます。かつての「ハイパーメディアクリエイター」のような。「マルチタレント」のような。「アートディレクター」にしてもそろそろ怪しくなってきていると思います。
 そういう危うさが漂ってきたら「なぜそんなことを言わなければならないのか」「なぜそんな人間が必要になっているのか」を考えてみればいいのです。情報の独占がなくなれば基本的にはすべての人間に開かれていくことになるわけで、誰かに先導してもらう必要もなくなるはずです。しかしやはりどうしても維持したい秩序というものもある。それが限定的であるうちはいいのですが、あらゆる局面に拡大されてしまうと社会的なヒエラルキーに転化してしまう。そしてそれは端的にグローバルな経済と結びついていきます。
 しかしわたしたちにはもっと切実なことがあります。それぞれの現場で創意工夫するということです。それぞれの必然性をもって答えを探すということです。実際に試しながら考えるということです。
 最近では学校でも「ものづくり」の時間が縮小されており、家庭科などでも裁縫や刺繍などの機会をなくし、コーディネートを覚えさせたりしているようです。「賢い消費者になってもらうため」だそうですが、本当に酷い発想です。人を消費の奴隷にすることしか考えていないのかとクラクラしました。(略)
 こういうところに象徴的に現れていると思うのですが、要するに経済を中心にしすぎているのです。デザインもずっとそんな経済と並走してきて、いまになってコミュニケーションだソーシャルだサスティナブルだと言い出している。しかしそれらはデザインとはまた異なる側面の話です。別の価値をもった話をもってきて「デザインそれ自体」を救い出そうとすることはやめたほうがいい。それは無意味な延命にすぎません。
 いまは「デザインならざるもの」のほうが圧倒的におもしろく見える時期だと思うのです。

東京五輪エンブレム騒動

 感覚に対して直接的に働きかけるデザインのプロセスにおいては必ず「職人的な知」が介在しているはずです。つまり「言語化しようがないもの」のことです。(略)
「言葉を介在させない直接性」が最重要であるような領域。それが「できた」ときにだけ直接やってくる感覚の在処。
(略)
[東京五輪エンブレム騒動]
 確かに似てはいます。(略)
しかし盗用ではなく、また見たことすらなかったのだとしても、両者が「まったく似ていない」ことにはなりません。ここに、ある深刻な、感覚のズレがすでにして浮かび上がっていたようにわたしには思えました。では佐野氏はどのような意味で「まったく似ていない」とまで言ったのでしょう。またこのときに「自分はゼロからつくった」とも語っています。この言葉の意味も重要です。五輪組織委員会の人の発言で「彼独自の発想で」「独自の制作意図を持って」「オリジナルな作品である」という説明もなされていました。
 このエンブレムはコンペ後に修正されたものだったという話ですから、その独自性において「デザインに対する考え方」も修正前後では変化がなかったことになります。では貫かれていた「考え方」とは何でしょうか。似た商標が見つかったために修正が行われたとも説明されていますが、それが誰のどんな判断かは不明なままです。専門家として問題視すべき点があるとしたらこの部分で、ここを不問にして成立する「独自性」「オリジナル」とは何なのかが問われなければなりませんでした。その説明がきちんとなされなければ、人に紐づいた話になってしまいます。
 何がデザインされているかではなく誰がデザインしているかが問題になってしまう。そして炙り出されていたのはまさにここでした。選考理由として「拡張性や展開力で優れていた」という話が出てはいます。だとするとそもそもこのコンペの焦点はエンブレムそのものではなかったとも言えてしまうのではないか。
(略)
 エンブレム問題の問題性は、この「どこまで行ってもすべての立場がフラットになることはない」という原理に対して、誰も解答を用意していないことに尽きます。(略)
 では、グラフィックデザインの専門性とはそもそも何なのか。商業意匠や工業意匠が画家や技術者の副産物のような位置づけでしかなかった時代に「それ自体が独自の価値をもつもの」という意識をもち、そこに専念することによって他を寄せつけない成果物を次々と世に送り出して行った。その代表が、1964年の東京五輪のシンボルを考案した亀倉雄策さんだったのだと思います。
 しかし、その路線で立派なレールが敷かれてしまうと、そこから人心が離れてもなお「それ自体が独自の価値をもつもの」と言い続けなければならなくなるわけで、これは大変に不幸な事態です。「現在の亀倉雄策」というべき存在があるとしたら、「亀倉雄策のように、華々しくデザインする人」ではなく、「亀倉雄策のように、認められていない価値を認めさせる人」ではないのか
(略)
[野老朝雄によるエンブレムが]これまでのグラフィックデザインの追求とは異なった価値軸を示していることについて、日本のいわゆる「グラフィックデザイン界」で議論らしい議論が起こっていないことについて、かなり驚いています。
 「グラフィックデザイン界」などもともとなかったものですから、ここまで駄目だとまたもとに戻るだけなのかなという気もします。
(略)
 グラフィックデザインという呼び方がまだ聞き慣れなかったころ、この言葉こそがまさにそういうものを総称していました。このよさはいったい何だ!これがグラフィックデザインってやつか?と。そのことに気づいた瞬間、本当に震えるほどわくわくしたのです。世の中にはこんなにも素晴らしいものがあるのかと。こんなにも新鮮で、喜びに溢れ、どうにかなってしまいそうな感覚、それがグラフィックデザインでした。少なくとも、ある時期までの自分にとってはそうでした。
 しかし、認められていなかった価値を見出し称揚することから、それを業界の確実な道筋に据えてしまったあたりで、何かが変わったのだと思います。正直、現在の「グラフィックデザイン界」でよしとされているもののそのよさがわたしにはイマイチよくわかりません。JAGDAにしろADCにしろTDCにしろ(つまりその受賞歴が最初のオリンピックエンブレムの応募資格となった国内団体ですが)、独特の感覚の人々の集まりとしか言いようがないと思っています。独特な人々がサロン活動を通してお互いの感覚を誉め称え合うこと自体は悪いことではないと思います。が、そこは率直に認めたほうがいいでしょう。あくまで趣味の集まりであってけっして何かが優れているというような話ではないのだと。
(略)
 わたし自信、最初は見抜けなかったので、偉そうなことは言えませんが、新しいものというのはどこから出て来るかわからないものです。野老さんは独特の感覚をもった、幾何学の世界の住人であり、ひたすらそのなかで遊び倒してきた人と言っていいでしょう。
(略)
それは「計算づくでやった」ということとはまったく違います。誤解を恐れずに言えば、一種のアウトサイダーアートではないかと思うほどです。

次回に続く。

 

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