雑誌のカタチ/山崎浩一

ぴあ、「自立的な受け手」

 「『ぴあ』を見て映画やコンサートに行くヤツ」というのが、後に(今も?)侮蔑的なイメージになったりもした。が、元来『ぴあ』は、映画・演劇・音楽に関する「二次情報」を必要としない、むしろマニアに近いファンに向けて作られた「一次情報源の束」だったのだ。つまり配給元や興行主の宣伝文句、評論家の提灯記事や小難しい批評を押しつけがましく感じていた「自立的な受け手」たち。彼らが必要としているのは「いつ、どこで、だれが、何をする」といった文化的イベントのスケジュールだ。それを読み込み、使いこなし、行動し、作品を評価するのは、自分たち受け手の領分に属する――と、そこまで「自覚的」かどうかはともかく、少なくとも『ぴあ』のカタチが、70年代前半=ポスト60年代の時代相を象徴的に反映するものだったことは確かだ。

二代目編集長林和男談

情報としては平等・等価なものとして扱う。そして、そこにだれかの主観を紛れ込ませない。「面白い」という情報を与えられた人が「面白くない」と感じたら、その情報は間違いだったことになる。そして、その選択肢はすべて網羅されていなければならない。そのためには少しでも選択しやすい機能や工夫が凝らされていなければならない……。《もの言わぬ饒舌誌》という矢内によるキャッチフレーズは、それらをひっくるめたものです。

週刊文春/金子勝昭

「デザイン」どころか「レイアウト」という言葉も、あまり使った憶えがないですね。活版のたとえばタイトル部分なんて、担当者が前号のページをビリッと破いて「これと同じでお願い」と原稿に添えるだけ、という調子でしたから。
(略)
デザインというのはトータルな視点があってこそ成立すると思うんですが、そんなものはなくて、おまけに週刊ですから。すべて個々の担当者まかせでした。たまたま担当者が凝り性ならそのページはちょっと凝ったものになり、そうでなければいい加減なものになる。しかも編集長がまたコロコロ代わるから、その個性や体質によっても変わってくるんです。

「無意識の意図」によるデザイン

 創刊後数年間の『週刊文春』をまとめて眺めてみると、そんな崖っぷちギリギリの「デザイン」の生成と試行錯誤の過程が、まるで炙り出しのように見えてくる。締め切り間際に最低限の基本だけは踏まえて大急ぎで構成されたページ、やや余裕のある時間を大胆かつ実験的な構成に費やしたページ、先発誌やライバル誌を巧妙または露骨に模倣したページ……。それらが互いに積み重なり合って、やがて、いつの間にか現在へと連綿とつらなる「『週刊文春』のカタチ」へとデザインされていく。大勢の「無意識の意図」によって生命を吹き込まれた雑誌という生き物が、自身で「生きのびるためのデザイン」を志向し始めるプロセスが、変色したザラ紙に刻印されている気がする。おかしな言い方だが、当時の活字書体やヴィジュアル素材の選択肢の乏しさが、かえって不思議な秩序と統一感を醸し出していて、今見ると「美しい」とさえ感じられるのだ。

書き文字

金子 (略)週刊誌の「伝統」的デザインに書き文字タイトルがありますが、あれは活字から写植への過渡的文化という以前に、専門の書き文字屋さんが傍に張り付いてくれている方が仕事が早かったからですよ。
 書き文字について若干補足しておく。写植初期のオペレーターには女性が多く、深夜労働を強いるわけにいかなかった結果、写植時代に入っても週刊誌界には「活字・書き文字文化」が根強く残ったと言われる。活字よりインパクトの強い「週刊誌的」な扇情的タイトル書体を求めると、書き文字という選択肢しかなかった。「早い」とは、つまりそういう意味である。

広告はジャマ者:金子談

表紙が和田さんのイラストになって文字が消えていった頃は、営業サイドから反発や不安も出ました。でも、当時の製作スケジュールだと表紙に時事的な目玉記事を打つのはキツい、という事情もありました。表紙は別進行だから間に合わないケースも出てくる。営業部や広告部との対立といえば、広告のことでもよく揉めました。なにしろ編集者たちは「雑誌は記事で売れるんだ」という矜持が今より強い時代でしたから、広告なんてジャマ者くらいにしか考えてない。「この記事は広告的・営業的にマズイ」なんていう発想は持ちようがない。たとえば広告媒体的に見れば、グラビアは全部カラーにしちゃった方が「有利」なのでしょうが、なかなかそうならないのは、やっぱりどこかかに「週刊誌ジャーナリズムの伝統」へのイメージ的こだわりがあるのかもしれませんね。

津野海太郎

『ワンダーランド』(宝島前身)
「スミ一色なのになぜかカラフル」

今の大判雑誌みたいに贅沢に洗練された空間じゃなくて、とにかく空間貧乏性的に文字もヴィジュアルも詰め込めるだけ詰め込んでね。(略)
まだ素材の版権もうるさくなかった時代だった。第四号の「an・an、non・noの京都なんてどこにあるのだろう」というぼくの記事では、文中に誌名が出てくるたびに本文活字サイズに縮小した誌名ロゴをいちいち切り貼りして使った。本文までがコラージュだから、切り貼りした本文のラインが各段でズレてないか、台紙を水平視線で見上げてチェックするのも全員の仕事。あれは当時、自在に剥がせるペーパーセメントやリムーバーやラバークリーナーがなかったら不可能な作業だった。ローテクながら「最新のテクノロジー」に支えられてたんだね。平野も「肉体労働のデザイナー」だから、とにかくバラ打ちされた写植を一字ずつ徹底的に詰め貼りする。文字の組み合わせによって字間のバランスを見極めながら、詰められるだけ詰める。それによって文字に独特の緊張感が生まれる。あれはもう書道に近いですよ。あのタイポグラフィは、おそらく原弘(戦時下の宣伝誌『FRONT』や戦後の『太陽』のデザイナー)→杉浦康平平野甲賀という「系譜」なんだろうな。スミ一色なのになぜかカラフルなんだ。

きっちりディレクションされた統一感よりも雑誌・新聞的なモザイク感やアクチュアリティを優先したい、という平野の狙いだったんだろうけど。アーティスティックな完成度より現在進行のダイナミズム。ツルツルよりザラザラな手触り。ただし、あくまでもアングラでも同人誌でもないポップな商品としての魅力を保って、そこはしっかりコントロールしながら、それでも「世の中そんなにキレイにゃいかねえよ」というシニシズムも保って。そのへんはまあ、「平凡出版=マガジンハウス的気分」のようなものに対するぼくらの反発の表現でもあったわけだけれどさ。

学年誌:六位一体のパラレルワールド

 学年で輪切りにされた「六位一体のパラレルワールド」を形成する学年誌にとって、ドラえもんは一編のマンガ作品のキャラクターを超えた「学年誌統合の象徴」だった。「全学年一斉」の決断は、まさに学年誌というメディアの特性と構造を知り抜いた慧眼と言えるかもしれない。

編集者談

学年誌の編集部は、同じ年齢の読者とは12ヶ月しかつきあえないのです。その一方で、六つの編集部がトータルに全読者とつきあえる、という見方もできる。それもまた学年誌の不思議さであり、学年誌編集者という仕事の特殊さです。

少年マガジン内田勝

確かに大伴昌司さんのデザインは、まったくの独学です。彼が描く下絵も、緻密なときもあればラフに描きなぐるだけのときもある。画家さんたちにも職人的プライドがありますから、自分たちの解釈で描いてしまう。すると大伴さんは烈火のごとく怒るわけです。「もうこの仕事やめさせてくれ」とまで言って。画家にしてみれば、下絵の遠近法的パースを修整して、絵としてより正確で自然なものに仕上げているわけです。でも、大伴さんが要求するのは「リアルな図解」よりも「インパクトのある映像」なんです。(略)
ただ、さすがに、小松崎茂さんは早い段階から大伴さんのよき理解者で、「この人は天才だね」と言ってました。

当時の東京国際空港(羽田)や深夜放送のスタジオをフォトルポルタージュ風に「大図解」したときも、大伴さんはカメラマンを怒らせました。彼らがプロとして効果・構図を考えて撮影したカットも、大伴さんのストーリーやイメージの断片的素材として、大胆にズタズタにトリミングしてレイアウトされてしまう。「『アサヒグラフ』じゃないんだ」って調子で。当時は、まだそんなデザインは常識的に考えられないものでした。でも、完成したグラビアを見れば、それ以外考えられないほど斬新で効果的なデザインなんです。前衛的で遊び心に溢れてて。