トム・ウェイツが語るトム・ウェイツ・その2

前回の続き。

 

Small Change

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《スモール・チェンジ》

(略)全体的にオーセンティックなジャズ色が濃くなったのは、シェリー・マンに負うところが大きい(ツアーには不参加)。(略)メンバー同士の微妙なハーモニーとリズムの掛け合いを力任せなプレイで邪魔しないマンの演奏は、まさにウェイツの求めるものだった(略)

 毎日スタジオに入ると、ウェイツはただ床に歌詞を書いた紙をばらまいた。一日レコーディングに精を出しても、でき上がるのは曲の断片のみ。それでも夜になると安食堂でプロデューサーのボーンズ・ハウを相手に、アルバムのコンセプトをまくしたてた。お陰でハウはウェイツへの親近感をいっそう深め、このわがままなアーティストに真の友情を感じるようになった。

 《スモール・チェンジ》のウェイツは非常にペシミスティックだ。収録曲のタイトル〈身も心も疲れはてて〉そのままの死に方をしたケルアックとチャネリングでもしたのか、ウェイツは収録曲の数々で運命の落とし穴を描いた(略)

フランシス・サムに「《スモール・チェンジ》で初めて音楽に物語をつけるまでは、自分の芸にちょっと自信がなかった」と打ち明けている。「《スモール・チェンジ》でようやく、よし、おれは進歩してる、この調子なら音楽を続けていけると初めて思えた。〈トム・トラバーツ・ブルース〉と〈スモール・チェンジ〉と〈想い出のニューオーリンズ〉のお陰で、少し自信がついた」

 〈トム・トラバーツ・ブルース〉を書いていたときのウェイツはインスピレーションを求め、ウィスキーの酒瓶を入れた茶色い紙袋を片手にロサンゼルスのドヤ街に乗り込んだ。(略)取材で何よりショックだったのは、話を聞いたホームレスの男たちが一人の例外もなく、ドヤ街暮らしに落ちたのは女が原因だと語ったことだったという。

 (略)

チップ・ホワイトのインタビューより

 

 「あれは確かトム・ウェイツの誕生日だった。(略)ロード・マネジャーが誕生日の今夜はトムに内緒でストリップ嬢を雇い、演奏中にステージに上げようって言い出した。そんなわけで〈ペイスティとGストリング〉が始まると、観客席からそしらぬ顔でストリップ嬢が近づいて(略)トムの目の前で(略)おもむろに服を脱ぎ始め、最後はペイスティ[乳首を隠すために貼る飾り]とGストリングだけの姿になった。場内は大騒ぎさ……(略)

それからというものトムは行く先々でロード・マネジャーにストリッパーを手配させ、観客席から登場させた。やがて僕らはストリップ嬢の品定めを始めた。(略)一位はウィスコンシン州マディソンの娘だった。(略)」

トム・ウェイツには誰も追いつけない

『ノースイースタンオハイオ・シーン』紙 一九七六年

ジム・ジェラード

(略)

 ――四枚のアルバムは、それぞれテイストがずいぶん違います。最近はグッとジャズ寄りですね。《クロージング・タイム》は正統派のシンガーソングライター・アルバム、《土曜日の夜》は場末感を強めながら郊外の雰囲気も出ていました。次の《娼婦たちの晩餐》はとびきりファンキーでアーバンでリアル。《スモール・チェンジ》は同じ路線ですがさらにジャズ色が濃く、サウンドはシンプルになっています。こうした進化はすべて意図的なものだった?最初からいずれはこういうスタイルに、という計画があったのですか?それとも次第に変化していった?

(略)

 

こいつはトップクラスに長い質問だな。(略)

 

 ――OK。質問を変えましょう。作風がずいぶん変わりましたよね?

 

 (略)アルバムは最終的に、一つ一つが独立したプロジェクトなんだ。前のやつとは完全に違うものになる。《クロージング・タイム》は初めてのアルバムで、書きためていた曲を集めた。誰だって初めてレコーディングスタジオに入るときは、知識もないし、ちょっと気後れがするだろ?《クロージング・タイム》が出てからはずっとドサ回りの日々だ。今はあちこちの町や移動中に曲を書いていて、暮らしはかなり変わった。生活が変われば、言うこともやることも変わらざるを得ない。

 

 ――新しく作った曲はレコーディングする前にステージで披露し、観客の反応を確かめるんですよね?

(略)

曲ができれば、そりゃすぐにでも生でやりたい。一人で小さなクラブを回ったり前座に呼ばれたりしていた頃は、どんな曲をやろうが構わなかった。(略)何をやるかは完全におれ次第だった。おれの音楽に詳しい客などいなかったから。だが最近はちょっとばかし事情が違う。観客はおれの音楽を聞きに、特定の曲を目当てにライブを見に来る。となると、好き勝手やるわけにもいかない。クリーブランドで《スモール・チェンジ》の曲を中心にやるのは、このアルバムがここでは一番親しまれているからだ。(略)

都会の彷徨がトム・ウェイツには似合う

『カントリー・ランブラー』誌 一九七六

リッチ・トレンベス

(略)

「おれも前座が長かったんだ。ようやく少しずつメインアクトを任されるようになったところさ。まるで別世界だね。昔はフランク・ザッパマザーズ・オブ・インヴェンションやチーチ&チョンの前座だった。ありとあらゆる果物やゴミをぶつけられたもんだ。時にはフルーツサラダができるほど飛んできた」

(略)

 この六年間、住まいはロサンゼルス郊外にあるエレベーターなし、家賃一三五ドルのワンルームアパート。料理はホットプレートで作り、フィリコ社製の白黒テレビを見る。とはいえ家にいられるのは年にわずか四カ月ほどで、その四カ月はもっぱら安酒場で友達とたむろする。「友達のほとんどは普通の労働者だ。なぜおれが長いこと家を空けるのかわかっていないやつも多い」

(略)

高校を出てから音楽で食べられるようになり始めた五年前まで、ウェイツは本当にその日暮らしだったのだ。その職歴は求人広告さながらで、タクシー運転手、酒屋の店員、消防士、コック、用務員に夜警、倉庫や宝石店で働いたかと思えばアイスクリームの移動販売もやった。

 子供時代はロサンゼルスのメキシコ系やアジア系が多く住む地域で過ごした。(略)「ごく普通の子供だった」らしい。「よくドジャー・スタジアムに行った。熱烈なドジャース・ファンだったんだ。駐車場で遊んだり新聞配達をしたり、車にいたずらしたり雑貨屋で万引きしたりと、普通の子供がやることは全部やった」

 本人も認める通り今の質素な暮らしは自ら選んだもので、子供の頃も生活苦には縁がなかった。家庭は裕福ではないが、暮らしには困らなかった。父親は今もロスのダウンタウンにあるベルモント高校でスペイン語を教えている。

(略)

ウェイツが尊敬するのはジェローム・カーンガーシュウィンアーヴィング・バーリンコール・ポータージョージ・シアリング、オスカー・ブラウン・ジュニア、ロード・バックリー、ピーター・ポール&マリーにミシシッピジョン・ハート。(略)

「初めてステージで歌ったのは、サンディエゴの小さなナイトクラブだった。フォーク系の店で、死ぬほどブルーグラスを聞かされたよ。おれはドアマンだったから、もぎりをやりながらいろんなバンドを聴いた。そもそもドアマンの仕事に就いたのは、いつかこの店に出てやると心に決めていたからだ。そんなわけでおれは人知れず店の奥で人脈作りに励み、下っ端なりにのし上がろうと頑張った。(略)」

《パラダイス・アレイ》

『ダラス・モーニングニュース』紙 一九七七年

ピート・オペル

(略)

「(略)ここだけの話だが、マーフィー病院の駐車場に停められたタクシーの後部座席で、おれは生まれた。育ったのはロサンゼルス。親父はスペイン語の教師で姉貴は共産主義者、このおれは失業中のガソリンスタンド店員ってわけだ。親父が翻訳会社を始めるっていうんで、家族でサンディエゴに引っ越した。高校もサンディエゴで入ったんだが、まずいことになって退学した」

(略)

 「(略)ステージのおれはちょっと誇張されているが、おれはおれでない人間を演じるつもりはない。妥協するつもりも、自分を偉そうに見せるつもりもない。知っていることしか話さない。心の奥をのぞいても、そこにレジャースーツ[七〇年代に流行したカジュアルなスーツ。派手な色使いとベルボトムが特徴]を着た男はいない」

 「住んでるのは安宿のトロピカーナ・モーテルだ。宿泊料は全室前払いでね。おれの他に四速オートマチックのドラァグクイーン、失業中の消防士、レズの男役、チンピラ、娼婦、サディストにマゾヒスト、身を持ち崩したエイボンのセールスレディー、執行猶予期間中の殺人犯、元ビバップ歌手に片腕のピアノ弾きが住んでる。何でもござれ、だ」

 「おれはフィラデルフィアじゃビッグでね。だからあの町にはよく呼ばれる。後はミズーリ、モンタナ、日本だな。日本じゃ大物さ。ちっこい日本人が、カメラ片手にわんさか押し寄せる。ブリュッセルでもビッグだ」

 (略)

 「一月には日本に行くか、ハリウッド大作に主演する。どっちにするかはまだ決めてない」

(略)

 シルヴェスター・スタローンの関心を引いたのも、独特の風貌だった。(略)

『パラダイス・アレイ』(略)にウェイツを抜擢し、落ちぶれたピアノ弾きのマンブルを演じさせた。最終的に(スタローンが弟のフランク・スタローンともども自慢の喉を披露することにしたため)出演シーンは大幅にカットされてしまったが、全体的にぱっとしない映画のなかで、ウェイツが提供した挿入歌〈アニーズ・バック・イン・タウン〉と〈ミート・ミー・イン・パラダイス・アレイ〉は光っていた。『パラダイス・アレイ』は酷評され興行的にも失敗したが、ウェイツにとっては新しい世界への入口だった。この映画がきっかけでハリウッドを代表する監督の一人、フランシス・フォード・コッポラの目に留まったのだ。

 

ブルー・ヴァレンタイン

ブルー・ヴァレンタイン

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ブルー・ヴァレンタイン》、リッキー・リー・ジョーンズ

(略)楽曲に「恋の病」が見え隠れするのは、二二歳のシンガーソングライター、リッキー・リー・ジョーンズへの想いが染み込んでいたためだろう。(略)

ジョーンズの音楽をそこはかとなく彩るボヘミアン的な感性は、ウェイツの音楽世界にも通じていた。二年後の七九年、ジョーンズはリトル・フィートローウェル・ジョージの目に留まったことから念願のレコードデビューを果たし、デビュー作《浪漫》でグラミー賞最優秀新人賞を獲得した。

(略)

 

 リッキー・リー・ジョーンズ、新しい家族を語る

『ロック・ライブ――スプロフィールとインタビュー』一九七九年後半

 あの頃(七七年)は友達が一人もいなくて、住む場所もなかった。一文無しだったし。だからよくトロピカーナ・モーテルに行ってひと休みしたの。そんなある日、知り合いのアイバン・ウルツがトルバドールに出たときに、君もステージに上がって何曲か歌えよと誘ってくれた。トルバドールの厨房では、チャック・E・ワイスって子が働いててね。(略)

トムが私のステージを見て、トムとチャックと私の三人でつるむようになったの。人生で一番楽しい時期だったな。それまでの私はたぶん経験からだと思うけど、人を頼らなくなっていたの。生活を人に振り回されると困るから。でも今はチャック・Eとトムが私の家族。ときどきね、私たち三人は生まれる時代を間違った、とびきりロマンティックな夢想家なんじゃないかしらって思うのよ。だから三人はいつも一緒。心から愛し合ってるわ。

 

トム・ウェイツリッキー・リー・ジョーンズを語る」一九七九年

 リッキー・リーを見たときは、ジェーン・マンスフィールドを思い出した。最高にイカした娘だと、グッと来たんだ。(略)ステージでのリッキー・リーはセクシーな白い黒人娘とでもいおうか、見てるとゾクゾクした。

(略)

 リッキー・リーが初めて、少なくともおれと知り合ってから初めてハイヒールを買ったときのことははっきり覚えてるよ。おれの部屋の窓の前まで来て、ハイヒールを買ったお祝いに連れ出してよってわめくんだもん。言われた通りに連れ出したら、リッキー・リーのやつ、べろべろに酔っ払ってサンタモニカ大通りを歩くもんだから、何度もハイヒールが脱げちまって。おれたちの関係はマイク・トッドとエリザベス・テイラーにはほど遠いがおれはおれなりに、頭がおかしくなりそうなくらい彼女を愛してる。でもおれはリッキー・リーが怖いんだ。ストリートで生き抜くあのしたたかさときたら、地球ができたときから生きてるんじゃねえかと思うほどさ。なのに普段は無邪気な少女そのものなんだ。

(略)

ジョーンズは、酒と女と歌からなる三位一体の象徴だった。トロピカーナ・モーテルのプールに裸で飛び込み、黒いベレー帽と手袋と中古の靴を身につけるその生き方はまさに自由人だった。やがてジョーンズとウェイツの友情は恋愛に発展したが、ふたりの関係が公になるのはジョーンズのデビューアルバムがヒットしてからのこと。それまでのジョーンズは、《ブルー・ヴァレンタイン》に登場する「謎のレディー」だった。

(略)

ウェイツ、音楽シーンにもの申す

『クリーム』誌一九七八年五・六月号

(略)

「パンクを不快に思う人は多いだろう。だけど少なくともパンクはこの一〇年間のさばってきたゴミに代わる音楽だ。クロスビー・泥棒[スティールス]・アンド・現金[キャッシュ]みたいなのには飽き飽きしてる。ちんぽこが二本要らないのと同じように、あの手のバンドはもう要らない。カウボーイブーツに刺繍入りのシャツを着た冴えない連中の〈シックス・デイズ・オン・ザ・ロード〉(略)を聞くくらいなら、革ジャン姿の若造が『かーちゃんのアソコを舐めてえ』とわめくのを聞きたいね。ミンク・デヴィルが気に入ってる」

 「(略)CBGBの表に立ってたんだ。襟の細いジャケットと先の尖った靴でめかし込んだあんちゃんたちが煙草を吸いながら、酔っ払いどもと世間話をしてた。いい感じじゃないか」

(略)

ウェイツが力説するには、曲がいつも簡単に書けるとは限らない。曲作りは最もつらいが、最もやり甲斐のある作業だという。一方レコーディングは「残酷で異様な刑罰。歯医者に行くような拷問」で、スタジオに入るときは緊張で身がすくむ。レコーディングを手っ取り早く片付けるために二トラックで録音し、オーバーダビングはしない。要はスタジオでライブをやるようなものだ。

新しいバンドでいつもの音を

サンタバーバラ・ニュース・アンド・レビュー』紙 一九七八年

 現在二九歳の彼は、下積みのつらさを今もはっきりと覚えている。長距離バスに揺られてサンディエゴからロサンゼルスに通ったこと、ナイトクラブの用心棒稼業、〈オール’55〉そのもののキャデラックに寝泊まりしたこと(この車は、最近憧れの六四年型サンダーバードに買い換えた)。

(略)

ウェイツが表現者としてもソングライターとしても完成していることは、シルヴェスター・スタローンの新作映画『パラダイス・アレイ』が証明している。「スタローン本人が、家に電話をくれたんだ。あれは光栄だった」と、ウェイツは語る。「挿入歌を作るだけのはずが、スタローンはおれのために役を作ってくれた。マンブルスってキャラクターなんだ」

(略)

  ウェイツは二年半の間、苦楽を共にしたバンドを解散し、新しいバンドを組んだ。「少し音を変えようと思ってさ。違うことが試したいんだ。マンネリはまずい。だが前のメンバーと別れるのはつらかった」。言葉を切って、頭を振る。「いっそマンネリになった方がましなくらいさ」。(略)新しいメンバーは全員が黒人だ。(略)ウェイツは愉快そうに言う。「白人はおれだけ」

(略)

 「この業界に現状維持はない。這い上がるか落ちるかのどっちかなんだ。このアルバムはデカい山だった。プレッシャーはあったが、それは自分で自分に課したもの。(略)」

 

 六枚のアルバムを発表し、そのたびに馬車馬のごとく各地を巡業し、テレビや映画にも出演。それでも世間に認められていないという不満は根強く残った。リッキー・リー・ジョーンズがスターダムに駆け上がった七九年は、ウェイツにとって失意の年だった。映画初出演で映画俳優協会に入会を認められたものの、『パラダイス・アレイ』の出番はちらりと顔が映る程度までカットされた。この映画のために書いた挿入歌はどこで流れたかわからないような扱いで、別の映画の企画は頓挫した。しかもジョーンズのミュージックビデオでは、自分とそっくりな風貌の男が実際よりも清純そうなジョーンズをストーカーのように追い回している。このビデオを見るに至り、ウェイツは音楽シーンへの幻滅をいっそう深めた。業界の罠にうんざりし、一年が終わる頃には心の底から新天地を求めていた。

(略)

 公演では、舞台美術が少々大がかりになった。(略)紙吹雪が舞い、街灯やガソリンスタンドの給油機やタイヤがステージを彩った。(略)

時折ライブの演出にひねりを加えた。(略)〈ペイスティとGストリング〉の演奏中にバスローブに着替えて現れ、安楽椅子に座って電源の入っていないテレビに見入るという趣向で客を楽しませた。

 

トム・ウェイツには誰も追いつけない

『サーカス・ウィークリー』誌 一九七九年

(略)

 七九年の春はヨーロッパを回り、続いてオーストラリアをツアーした。その後、自分の仕事はひと休みしてリッキー・リージョーンズのヨーロッパ・ツアーに同行、帰国すると年末まで全米各地で公演を行った。

 短気な観客からブーイングを受ける屈辱を身に染みて知るウェイツは、(フランク・ザッパとは違って)自分の前座を野次からかばおうとした。(略)

ミンク・デヴィルがステージに上がるなり、観客は激しいブーイングを浴びせた。嫌気が差したバンドは、楽器を置いて退場。するとウェイツは自らステージに出て、観客に不満を表明した。出演時間は契約で決められているので自分の時間が来るまでは歌わないと宣言し、アイビーリーグのエリート学生たちを開演時間まで待たせておいた。愚か者には我慢がならないたちなのだ。

 七九年は音楽の面でもプライベートでも、人生の大切な一章が幕を閉じた年だった。もはやステージの給油機にも街灯にも紙吹雪にもストリッパーにも、トロピカーナ・モーテルにもリッキー・リー・ジョーンズにも用はない。ウェイツは突破口を求めていた。毎日毎年同じことの繰り返しのような日常を変えたかった。音楽を安酒場から連れ出し、演劇界に進出することを考えた。(略)試験的に東海岸に移るのも一つの手だと考えた。

 ある日、ハリウッドにあるフランシス・フォード・コッポラの映画会社「ゾエトロープ」の狭苦しいオフィスにボーンズ・ハウとこもっていたウェイツは、脚本編集アシスタントのキャスリーン・ブレナンという年下の女性と出会い、夢中になる。ふたりは間もなく親しくなり、八カ月後に結婚した。

(略)

『メロディー・メーカー』誌 一九七九年

(略)

アン・チャーターズが書いたケルアック伝は、ケルアック神話をぶち壊していませんか?ビート文学の王様が母親の家に入り浸りだったなんて、がっかりでは?

 「いいや、おれは、むしろ意外な面を見たいんだ」と、ウェイツ。「ケルアックは完全無欠のヒーローじゃない。いろんなものを見て、いろんな場所に行った。ニール・キャサディほど狂っちゃいないし、衝撃的でもなかった。ニールが死んだことをケルアックは認めなかった。『ニールは帰って来る――ここに帰って来る』と言い続けた。

(略)

[ケルアックが死んだ]セントピーターズバーグにはおれも行ったよ。ライブをやって、ケルアックを偲んだ」

《ハートアタック・アンド・ヴァイン》、結婚

 ウェイツにとって、妻のキャスリーン・ブレナンはアイディアの宝庫だった。熱烈な音楽マニアであるブレナンは、彼女と出会わなかったら知ることもなかったであろう音楽をウェイツに教え、その影響はアルバムにも、依頼された映画音楽にもはっきりと表れている。

 またフランシス・フォード・コッポラ監督とのコラボレーションは、自己変革のチャンスという意味でかけがえのない経験となった。映画音楽を手掛けたことでウェイツはソングライティングに自制心を働かせるコツを学び、そのストイックな姿勢のままにニコチンと強い酒への依存を断った。フィットネスジムに入会したのもこの頃の話だ。

(略)

プロモーション用インタビュー 一九八〇年

(略)

――(略)声の調子が良さそうです。

 レコーディング中に煙草をやめた。そのお陰かもしれない。健康のレベルを引き上げようと思うんだ。アルバムのためにはそれくらいしてやらないと。少しばかり、自分を浄化したかった。

(略)

――(略)去年、あるインタビューで、「音楽的な岐路に立たされている」と発言しましたよね。もう少し詳しく説明してもらえる?

 ソングライターの季節も移り変わる。今のおれは、曲を速く書くコツを学んでるところだ。昔は何カ月もうじうじ悩み抜いて書いたもんだが、《ハートアタック・アンド・ヴァイン》の曲はもっと自然にできた。(略)

何ていうか、音楽的な視野が狭かったんだな。今回はもう少し冒険したかった。ある程度は成功したと思うよ。すべては今も続く変化のプロセスの一環だ。

(略)

――(略)今回はプロデューサーにジャック・ニッチェの起用も検討したそうですね。

 ああ、プロデューサーを変えることは考えた。(略)だがボーンズとはツーカーの仲だし、個人的な付き合いもある。信頼できて、おれのことをよくわかっていて、よくわかっているがゆえにズルを許さないやつと組むのが、レコーディングでは何より大事なんだ。ボーンズとのそんな信頼関係を揺るがす気にはなれなかった。だが一方で、すべてを根底から変えたい気持ちもあった。そんなふうに悩んでいるうちに、おれは悟った。変化ってのはおれのなかで、音楽的成長と共に起きなきゃいけないんだとね。今回は危ないこともやってみたかったから、やっぱりボーンズが一緒だと心強かった。

《ワン・フロム・ザ・ハート》、コッポラ

《ワン・フロム・ザ・ハート》は、ボーンズ・ハウがプロデューサーを務める最後のウェイツ作品となった。ハウによればコンビの解消は友好的で(略)

トムが打ち明けるには、ある晩、曲を書いていて『これができたら、ボーンズは気に入ってくれるだろうか』と自問したんだという。だから、僕は言った。おれたち、老夫婦みたいになりかけてるんだ。アーティストの創造性を阻む存在にはなりたくない。そろそろ他のプロデューサーを探してくれってね。握手を交わして、僕らは別れた。トムとの仕事は最高に楽しかった」

(略)

マネジャーのハーブ・コーエンとも、ウェイツは縁を切った。しかしこの件についてはメロディー・メーカー誌で、不快感もあらわに「マネジャーをクビにした」と語っている。「これまで組んできたがりがり亡者や害虫どもはまとめてお払い箱にした。今後ビジネスは、妻とふたりでやっていく」

(略)

『シティ・リミッツ』誌 一九八三年

(略)

「映画音楽の仕事はどうだったって?しんどかったの一言に尽きるよ(略)ああいう状況に身を置いたのは初めてだった。サウンドトラックの作り方には細かい制約があって、おれはそういうのに慣れてない。それに今回は自分だけでなく他人のお眼鏡にかなわなきゃならない。だから最初は手こずった」

 そもそもなぜサウンドトラックを引き受けることに?「夜中に電話で、フランシスに呼び出されたんだ。教皇に拝謁を賜る気分だった。映画監督ってのは翼の生えた魔王みたいなもんだと思ってたし……」

(略)

「面白そうな企画だし、おれには初めての体験だった。カネは二の次さ。おれはカネで仕事を選ばない。昔からそうなんだ」。(略)必要な場面に使えるようにと一二曲ほどの楽曲を用意した。「それをミュージカルの前奏曲みたいにつなげた。フランシスに頼まれたのは、コップの中の水のように足したり減らしたりできる音楽だった。スタジオに入って、ストーリーに当てはめる音楽を録り、メロディーを練り直した。音楽を入れる箇所は全編で一七五もあった。楽な仕事じゃなかった」

(略)

「フランシスはおれのアイディアを歓迎してくれた。(略)

あるスクラップ場のシーンで、おれはハンクにオイルゲージで指揮をさせたらどうだろうって提案したんだ。するとフランシスはその案を採用してくれた。他にもいくつかアイディアを出したよ。

 フランシスが名監督だってことは、あんたも知ってるだろ?彼は頭で想像したものをそのまま映像にしてしまう。悪魔みたいだ。こういうのはどうかなと、おれが提案したとする。フランシスはいいねと答えるやいなや、どうしたら映像化できるか模索する。いや、フランシス、ちょっと思いつきで言っただけだから真に受けないでくれよとこっちは恐縮する。次の日現場に行くと、フランシスは装置から何から準備万端整えて、撮影に取りかかってるんだ」

 ウェイツはコッポラを絶賛する。「フランシスは天使だ。ビジョンのある男だ。(略)そんじょそこらの大物とは違う。本気で映画を愛してる。社会的良心があだになって、トラブルに巻き込まれることも多い。気骨があるなあ、と尊敬するよ。フランシスは映画のことを、映画の未来を本気で心配してるんだ」

 ウェイツが映画に関わるのは、今回が初めてではない。数年前には自分で『夢はなぜ経験よりもずっと甘美なのか』なる脚本を書いて売り込んだ。舞台はロスのダウンタウンで、主人公は中古車ディーラー。(略)

晦日の物語だというあたりも、妙に――独立記念日が舞台の――『ワン・フロム・ザ・ハート』を彷彿とさせる。

(略)

 「ニコラス・ローグ監督に『ジェラシー』のテーマソングを依頼されたんだが、おれには時間がなかった。そこでローグは既成の曲を使った」。ローグが選んだのは《スモール・チェンジ》収録の〈ブルースへようこそ〉。流れ者による安食堂のウェイトレス賛歌は(略)ローグの気取った心理劇にはちっとも合っていなかった。『ジェラシー』を見た感想は?「うーん。上半身裸のアート・ガーファンクルを見たいやつはいないだろうよ」

 シルヴェスター・スタローンの『パラダイス・アレイ』には、ホーギー・カーマイケル風のピアノ弾き役で顔を出した。スコアもテーマソングも書かなかったが(略)ウェイツの曲はサウンドトラックに収録された。(略)

三週間も撮影した割に出演シーンが少ないですねと指摘すると、ウェイツはうなずいた。「もっと撮ったのに、カットされたんだ。結局、映画はテレビで妻と見た(略)

。わくわくしながら(略)ハニー見てくれ、おれが映るよってね。だがほんの一瞬で、おい、おれはどこだ、どこに消えた?って感じだった」

ソードフィッシュトロンボーン》、妻の影響

(略)

 七九年末、エレクトラ/アサイラムに幻滅したウェイツはあわただしく契約を解消すると、アイランド・レコードに移籍した。この決断が呼び水となり、画期的なアルバムが生まれることとなる。(略)風変わりな楽器使い(と、いっそう迫力の増したダミ声)で新たなトレードマークとなるサウンドを作っていった。

 そんな進化に不可欠だったのが、妻キャスリーン・ブレナンの存在だ。ウェイツはブレナンを対等なパートナーと見なし、共作者としてアルバムにクレジットした。ウェイツがキャバレー音楽やタンゴに開眼し、ヨーロッパのマイナーな民俗音楽と出会った陰には、オルタナティブな音楽に詳しい妻の影響がある。

(略)

ウェイツはハモンドオルガンにピアノというお決まりの楽器を卒業し、ハーモニウムやベルやシンセサイザーに挑戦した。

(略)

『フェイス』誌 一九八三年

(略)

ロスの左端はメキシコ系移民を閉じ込めておくエリアだ。(略)

 界隈に住む白人は、トム・ウェイツとその妻だけ。

(略)

 ウェイツは想像していたよりも若い。実際、まだ三〇歳を少し過ぎたばかりなのだ。実年齢より老けて見えるように演出してきたのだろう。ウェイツは自分のイメージにうるさい男だ。

(略)

 「この業界に一〇年以上いれば、誰だってカネがどろんと消えた怪談話が一つや二つできるさ」。

(略)

「彼は新しいものを生み出す人、常に未来を見ているんだ」と高く評価するコッポラとは親しい仲で、今後も組むつもりだという。オクラホマで撮影中の青春映画『ランブルフィッシュ』にも、小さな役で出演が決まった。

(略)

 車の中でウェイツと私は、一度聞いたら忘れられない『タクシードライバー』のテーマを口笛で吹いた。(略)ウェイツは次第に心のガードを緩めた。(略)

 「数年前にサンディエゴで死んだハリー・パーチのすごさが、最近やっとわかった。パーチは自分が使う楽器を自分で作ったんだ。彼のアンサンブルはハリー・パーチ・アンサンブルの名前で今も続いているよ。(略)」

 尊敬するミュージシャンを尋ねたときの答えが、これ。一方、奥さんとのなれそめを尋ねたときは、にこりともせずこう答えた。「サン・カセードラってシケた町のシケた葬式で出会った。彼女はサーカス・バルガスの綱渡り芸人で、傘を一緒に使うことになった。話せば長い話だ。故人は七〇代だった。鶏の骨を喉に詰まらせて死んだのさ」

 プライベートに関する質問は、大抵拒否されるかあくびを返された。だが高校教師の父の転勤であちこちを転々とし、ロサンゼルスで生徒の大多数が黒人の中学に通い、ジェームス・ブラウンウィルソン・ピケットテンプテーションズの音楽に目覚めたことは、事実として書いても差し支えないだろう。一五歳でウェイツは学校の友達とソウルバンド、ザ・システムズを組み、後にはポルカバンドでアコーディオンを弾いた。そして多民族国家アメリカならではのさまざまな民族音楽とジャズに対する興味を深めていくうちに、ごった煮的でエキセントリックなシンガーソングライター、トム・ウェイツができ上がった。

(略)

ソングライターとしてもパフォーマーとしても、一流であることは間違いない。ブルース・スプリングスティーン漬けの大衆にアピールしようと腹をくくれば、名声も喝采も莫大な財産も転がり込むはずだ。だがそう水を向けると(略)ウェイツは辛辣な口調で答えた。

 「大衆の好みを勝手にこうだと決めつけ、初めて己を曲げた挙げ句にコケるほど、みっともないことはない。そんな真似をするつもりはないね」

(略)

「他人の言うなりになって成功するより、自分らしく失敗したい。まあ、口で言うほど簡単なことじゃないんだが。大切なのはファンの数よりファンにどんな影響を及ぼすかだと、おれはずっと信じてきた」

(略)

「自分の縄張りを確立したアーティストにとって大事なのは、そこから踏み出そうと挑戦し続けること。だから今回は今までよりもエキゾチックな音を盛り込んだ。東洋のキャバレーのイメージだ」

(略)

『NME』誌 一九八三年

(略)

――頭に刻み込まれている一番古い記憶を教えて下さい。

 かなり幼い時分、夜中に目が覚め、廊下の端にある部屋の前に立っていたのを覚えている。汽車が通り過ぎるのを待っていたんだ。汽車が通り過ぎてからでないと、廊下を走って両親の寝室に行けなかった。

(略)

――子供の頃はどんな音楽を聞いてました?

 記憶にある一番古い音楽はマリアッチやランチェラやロマンチカ――メキシコの音楽だ。親父がよく車のラジオでかけてたんだ。ジルバとかそういうのは、親父は聞かなかった。

 

 

夢はなぜ経験よりもずっと甘美なのか

トム・ウェイツには誰も追いつけない」より

『メロディー・メーカー』誌一九八三年(略)

 数年前、トムのツアーに同行したとき(略)トムは『夢はなぜ経験よりもずっと甘美なのか』という脚本を書いていて、映画化を大いに期待していた。(略)

「結局お蔵入りさ。ふん!だがコッポラにあらすじを話したら、一部を『ワン・フロム・ザ・ハート』に使ってくれた。男が車を指揮するシーンと、女がスクラップ場で綱渡りをするシーンだ。

(略)

インタビュアー不明 一九八三年

(略)

 ソングライターが讃えられ、貴重な存在だと考えられた時代もあった。歌を作るのは貴重で大事なことだ。肝心なのはアプローチの仕方。どこでアイディアを仕入れ、どうやってそれを自分のものにするかが鍵なんだと思う。おれはフォークミュージック・シーンの中心にはいなかった。なんとなく、い損ねた。おれはいつでもシーンの外側にいた。居場所のないはぐれ者だったからこそ、歌を作り始めたんだ。他人に「いやいや、あんたの居場所はここだ」なんて決めつけられたくない。居場所がなかったからこそ、自分の音楽を作り始めたんだから。一九三九年だろうが一九七九年だろうが、創作のプロセスは変わらないよ。まったく同じだ。

(略)

一時期(略)マリアンヌ・フェイスフルとのコラボレーションを考えた。フェイスフルは自伝で当時のことをこう振り返っている。「(略)トムは意欲を見せてくれたけれど、結婚したり、子供ができたり、アルバムを作ったりと自分のことで忙しかった」

(略)

ダウン・バイ・ロー』(略)撮影中の逸話をジャームッシュが明かしている。「ロケ地のそばには看護学生がたくさん住んでいた。おかしな感じさ。撮影中に誕生日が来たトム・ウェイツは両手にシャンパンのボトルを握り、それを交互にラッパ飲みしながら、看護師の卵の部屋のドアをたたいて回った。『パーティーだ!盛り上がっていこうぜ!おい、入れてくれよ』とね。看護学生たちは防犯チェーンをつけたまま細めにドアを開け、トムを一目見るなりぴしゃりと閉めた」

 一方、契約がまだ残っていたエレクトラ・レコードはウェイツがにわかに脚光を浴びたことにつけ込み、ベスト盤の《アンソロジー・オブ・トム・ウェイツ》と《アサイラム・イヤーズ》をリリースした。この二枚には完璧主義のウェイツが却下したデモやアウトテイクも収められており、彼はプロモーションに一切関わらなかった。

 

フランクス・ワイルド・イヤーズ

フランクス・ワイルド・イヤーズ

  • アーティスト:トム・ウェイツ
  • マーキュリー・ミュージックエンタテインメント
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《フランクス・ワイルド・イヤーズ》

『ミュージック&サウンド・アウトプット』誌 一九八七年

(略)

「(略)『ダウン・バイ・ロー』の撮影のとき、ジョン・ルーリーがでっかい排水管を湿地から拾い上げて、それを吹き始めたんだ。そうしたらディジリドゥのような音がした。分別くさい大人じゃなく、子供のようなアプローチができさえすれば、窓は開いて世界がよく見える」

(略)

トム・ウェイツは三七年前にカリフォルニアのポモナで生まれた。母ちゃんは小学校の教師、父ちゃんはベルモント・ハイスクールでスペイン語を教えていた。(略)食卓ではスペイン語が話され、ウェイツー家のラジオからはメキシコ音楽が流れていた。(略)

「一族には教師がうようよしている」とウェイツはこぼす。「教師と牧師ばかりだ。おれは窓をぶち破りたかった。葉巻を吸って、遅くまで起きて。わかるだろ。おれの理想はピノキオの世界だった。プレジャー・アイランドに行って、ビリヤードを好き放題突いていたガキ。おれがなりたかったのはそれだ。(略)」

(略)

「レストランで働くのが一番楽しかったよ」と彼は真顔で語る。「エプロンをして、裏で腰を下ろして、皿を洗って、あれこれ気を配り、ちゃんと役目を果たして。一人前になれたと思ったね」そのうちそうした経験は、ごろつきや遊び人たちという彼の登場人物となって、レコーディング・スタジオや舞台へとつながって行った。

(略)

[4曲でメガホンを使っている]

「(略)ぶっ壊れたマイクを使ったり、ブリキの缶に歌いかけたり、マイクに向かって両手をメガホンみたいにして歌ったり(略)

いろいろやった末にメガホンというのが答えとして出てきたわけだ」

 ウェイツによると、後になって、機械的に音を操作するよりも、リアルタイムでサウンドを変化させられれば、その場でエフェクトに反応して自分の声を調節できて良いのだそうだ。「イコライザーとかそういうので気に入ったサウンドを探すより、自分自身がサウンドを作っているという感じがしていいんだ。その方が自分で自分の場所、小さな世界をコントロールできている感じがして気分がいい」

 「昔はただ曲だけ作ってたけど、それはもういいって感じだ。前はスタジオを怖がっていた。でも、もし怖がりさえしなければ、やれることはたくさんある。スタジオは実験室なんだ。何でも持ち込んでいいけど、自分が何をしたいかだけはわかってないといけない。たくさんの素晴らしい人たちが助けてくれた。数カ月前に亡くなったばかりのビクター・フェルドマンというパーカッショニストに、楽器のことでとても世話になった。おれはもうスタンダードな楽器というのには飽き飽きしていて、何か新しいことを試したいと思ってた。バリの楽器とかそういうのだ。ブーバンとかアンクルンとか、アフリカの太鼓とか。で、彼はとても助けになった」

 「おれはできるだけ、自分がやりたいことができるように、オープンな環境を作っておきたいんだ。それが一三人のベーシストの場合だってあり得るし、野外での録音ということもあるし、バスルームで録音っていうこともある。あらゆるやり方があるってわけさ。スタジオにいるっていうことは、ノイズから音楽を作り出すみたいなことだ。自分が何をしたいのかを完璧に知ってないといけないし、それが実現するまで満足しちゃあいけないということを学ばなければならなかった。旅みたいなものなんだ。廃品回収業をやっているようなものさ」

次回に続く。