ラスタファリアニズム、柳田国男『先祖の話』をめぐって

宗教を語りなおす―近代的カテゴリーの再考

宗教を語りなおす―近代的カテゴリーの再考

ジャマイカの宗教イデオロギーと社会運動 スチュアート・ホール

 19世紀になってキリスト教が奴隷たちに布教されはじめたとき、この「民族宗教的な」基盤と融合することで、特異なアフロ・キリスト教が生み出されるようになる。1840年代以降、ジャマイカキリスト教リバイバルが起こるが、それは「アフリカ的な要素」をとおしておこなわれたものだった。没我的な神憑りや、夜の集会、太鼓の音でキャプテンが率いる行進、アフリカの「水崇拝」のような聖なる川でのキリスト教的洗礼
(略)
イスラエルの導き、神の選民、エジプトでの従属、失われた部族民の苦しみ、隷属と暗黒、そしてモーゼによる解放、これらの物語がバビロン捕囚と救済の予言とともに重要な位置を占めた。新世界中の黒人たちは、モーゼと約束の地についてつねに歌い語っていた。ここには、キリスト教の終末論と救世主の観念が、アフリカの宗教と奴隷体験と融けあった姿をみることができる。
(略)
 モラント・ベイの反乱が1865年に失敗(略)結局、ジャマイカは完全に英国に依存した直轄植民地となった。(略)
[反乱は強烈な宗教的リバイバルに裏打ちされており]
神がジャマイカに降臨する日が近づきつつあるという新たな局面へと展開していった。この反乱の二人の指導者はいずれも「宗教的な」人物であった。裕福なカラードの弁護士、ゴードンは熱烈なナショナリストであり、支配階級の植民者たちに対立していた。彼は「福音主義的な宗教的熱狂者」であったが、その努力のあげく、エア総督によって絞首刑に処された。もうひとりのポール・ボウグルは民衆反乱を引き起こした人物だが、旧奴隷で土着バプティストの聖職者であった。彼もまた、大英帝国軍艦の帆柱で絞首刑に処された。
 奴隷解放から1920年代にかけて、ジャマイカは奴隷社会から、英国に依存した「植民地」へと移行していった。
(略)
1930年代に入ると、中流階級上層のジャマイカ人たちは「国家の独立」を夢見るようになるが、それはこの「クレオール文化」が植民地から解放されたあとに取って代わって確立される夢であった。
(略)
夜になると、中流階級上層のジャマイカ人の眠りは、太鼓や歌、埋葬の「通夜」、「九日間の夜」の祝典によって邪魔される。キングストン近郊のバラック居住区では、召使いの男女や、売春婦、膨大な数の黒人失業者たちが、宗教礼拝のおこなわれる「庭」へと引寄せられてくる。(略)
ムーディとサンキーの賛美歌も、タンバリンや手拍子や太鼓をともなったより暗くて深いリズムを帯び、長大なものと化した。その「礼拝」はしばしば忘我状態や高揚感、トランス状態をもたらし、重労働と生き残りに必死な彼らを、つかのまの精神的「彼岸」へと導いた。

ラスタファリアニズ

 ラスタファリアニズム、それは宗教、政治、ナショナリズムの諸要素が新たに融合したものである。この時期の偉大な救世主的人物のひとりにアレクサンダー・ベドワードがいる。彼は、教育を受けていない労働者であり、魅力に富んだ説教師であり、治療者であり洗礼者であった。最後には自分が神の子であり、火の戦車に包まれ神の選民とともに昇天することが約束されており、残された異教徒を滅ぼすだろうと告げた。しかし、その昇天は延引されることになり、予言した1921年の「飛翔」も自分が精神異常者として収容されたキングストン施設までしかとどかなかった。
(略)
福音主義のジャマイカ人の説教者、マーカス・ガーヴィが1914年にユニバーサル黒人改良協会を結成し、北米に移住したことはよく知られている。そこで彼は黒人ナショナリズム福音主義的なリバイバリズムを混合した教えを説き、1920年代までに二百万人を入信させ、1960年代以前のアメリカではもっとも巨大な黒人集団運動へと発展した。ガーヴィは畏敬にみちた雄弁家であると同時に手管に長けた日和見主義者であり、煽動家であり、詐欺師ではないかとさえ怪しまれた。その教義は極度に混乱しており、反帝国主義であると同時に反共産主義でもあった。そして、ブラック・スター・ラインによるアフリカ本国への送還という彼の実際の計画は挫折に終わった。
(略)
「アフリカへ戻ること」、それが彼のスローガンであった。ガーヴィは、世界中の黒人を保護できるような、強力なアフリカ国家が建設されないかぎり、自分たちは自由になれないと信じていた。しかし、それがアフリカのいったいどこになのか、どのようにしてその「国家」が建設されるのかは、具体的に説明されることはなかった。「黒人の国王が戴冠するアフリカを見よ」とだけ、彼は言った。
 ガーヴィがアメリカからジャマイカに追放されたのは1927年のことであった。ジャマイカではアメリカほど多くの支持者を得ることはなく、成功を収めることはできなかった。しかし、彼のメッセージは「もうひとつのジャマイカなるもの」と共鳴し、そこからひとつの宗教運動が発生した。それが、ラスタファリ兄弟団である。
(略)
 ガーヴィは黒人たちを聖書へと引き戻した。これまで聖書の熱心な探究が多様な解釈を正当化してきたように、そこからラスタファリアニズムの教義と運動が生まれた。『黙示録』は、神の七つの聖霊を解放した「ユダのライオン」について語っているとされた。ガーヴィに感化された人々は、独立アフリカ国家の最初の近代的国王、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世が現実世界に生きる「ユダのライオン」だと思った。かれらはハイレ・セラシエイエス・キリストの蘇りであり、生き神であり、王のなかの王、黒人のメシアであり、救世主ジャーだと言明した。黒人をバビロンから「解放すること」、それがハイレ・セラシエの任務だと考えられた。
(略)
 ラスタファリアニズムが彼岸志向的なセクトと異なる点は、ガーヴィ的な内面の自己規律を求めたこと、不条理な社会状況を改革する必要を説いたこと、「バビロン」に囚われた自分たちを抑圧する力に対して戦闘的な意思をもつこと、黒人アフリカの系譜に誇りをもつこと、千年王国的な救済願望、「約束の地に戻る」という希望にある。1930年代に起こったムッソリーニによるエチオピア侵略は、『黙示録』のもうひとつの予言、すなわち「キリストの敵と地上の諸王とその軍隊」が「彼に戦争を仕掛けるために」結集するというくだりが、実現したことを示すものとされた。
(略)
 ラスタファリアニズムの教義は、聖書に対する細かな釈義的解読にもとづく[ため](略)各自で「論理的な判断をくだす」ことができ(略)高度に個人化され、脱中心化された運動であり(略)驚くほどヒエラルキーや権威構造が存在しない
(略)
「バビロン」は還ばれた民が今ここで「受難」し「抑圧」され、「無限の圧迫に苦しむ」体験を意味する。(略)ジャマイカの「体制」を支配する褐色の中流階級であったり、英国の白人の権力構造であったりする。バビロンはラスタたちを打ちのめすために極度な抑圧をおこなう一方で、巧妙なやりかたで、ラスタマンのエネルギーや創造力を盗み取ろうとする。
(略)
ラスタたちは簡素で貧しい生活を送らざるをえず、兄弟団のなかで愛と平和をもって暮らさなければならなかった。ラスタファリアニズムでは、ジャーの霊がすべての個人に等しくそなわっていると信じられている。(略)だから、他人に征服され支配されてよい者など、誰一人として存在しない。呼称として三人称を使用しないことも、この根本的平等さという精神の現われである。言語的にみると、ラスタファリアニズムではつねに「君と私」、あるいは「私と私」という表現が用いられている。
(略)
女性たちは男性の従属的な地位におかれ、男性を世話し支える義務を与えられてきた。彼女たちは敬意をもって扱われ、節度と威厳をもってふるまい、慎み深い着物を着るよう諭される。ラスタの男性の「女王」として尊敬される一方で、男性優位社会を当然のものと受け入れるように教育されてきた。この点で、ラスタファリアニズムは伝統的なジャマイカ社会の男性家父長制とほとんど変わらない。
(略)
総じて、かれらは菜食主義者である。雇用される場合にも、小耕作者や人工や職人のような自由業を好む。自由業を職とすることで、社会生活を避けようとするのである。大半は共同生活によって無職のまま辛うじて生計を立てている。「バビロン」に接触し依存することを抑えるために、かれらはお金のいらない生活を送ろうとする。そうすることで、自分たちを抑圧する異様な社会に巻き込まれるのを防ごうとしているのだ。兄弟愛や「平和と愛」の福音を説くものの、一方で白人社会に対して極端に攻撃的な面もある。
(略)
キングストンの「粗野な少年たち」がその文化的象徴としてラスタの記章やスローガンや信念をつかった。かれらストリートの若い「悪党たち」は、既存の権威を無視して、自分たちのスタイルを作った。
(略)
 ジャマイカの下層階級文化におけるラスタファリアニズムの普及は、北米の公民権運動や黒人ナショナリスト運動、あるいはブラック・パワー運動と同時に起こった。

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ベース・カルチャー レゲエ~ジャマイカン・ミュージック

ベース・カルチャー レゲエ~ジャマイカン・ミュージック

死とノスタルジア――柳田国男『先祖の話』をめぐって 磯前順一

死者として現れる他者との会話の不能性という眼前の謎を見過ごしてしまうとき、柳田の提起する問題は十五年戦争が引き起した特殊な出来事として、事後的な議論として処理されてしまいかねない。そのような出来事からの超越意識、裏返せば疎外意識があるがゆえに、自分が当事者ではありえないのだという安心感とともに、ネイションなるものを想像したいという渇望もまた生じてくる。自分と遠く隔たった過去を強引に今に結びつける架橋として。わたしたちが遠さに同化するとき、身近さは見えなくなる。身近さを見なくてすむようにするため、遠さに同化するのだから。公的な歴史意識が発生してくる理由もそこにある。公的な歴史を語ることで、それぞれの裡に出没する死を封じ込めてしまうのだ。身近なものでありながらも、同時に私たちの手の届かないところにあるもの、それが死である。
 『先祖の話』に戻ろう。この本は、戦没者を弔うために、家の祭祀を軸とした祖霊信仰を体系化したものである。(略)
柳田の祖霊理解によれば、死者は同時に神であり、先祖ということになり、戦慄させるような性質をいっさい含まない霊的存在ということになる。
 この見解の実証的な妥当性については、すでにたくさんの疑問が出されており、今日そのまま信じることは困難である。(略)
柳田を言表行為に駆り立てるトラウマがどのようなものであったのか、それに対して彼がどのように面していったのかを問う必要があろう。
 『先祖の話』が書きはじめられたのが一九四四年十一月であり(略)敗戦直前の七月に脱稿されている。固有信仰をめぐる柳田の言説は、林淳が指摘するように「日本人の古来からの信仰が、バラバラの断片や外来宗教の残存の集積ではなく、ある種の完結し、まとまりをもったものであることを示すことで、地域をこえてすべての日本国民が自覚せねばならない固有信仰の原像をうかびあがらせ」ようとした点で言遂行的な有効性をもつものであった。それがこの時期『先祖の話』というかたちで収斂したのは、死にゆく者は死を恐れることはない、生き残る者も死者の魂を懸念することはない、なぜなら彼らは私たちとともに国土に留まっているのであり、私たちに日本民族とそれを支える家という魂の帰ってくる場所がある以上は、幾度でもくり返し現世に戻ってくるのだから、ということを国民に、そして柳田自身に説くためにほかならなかった。それと同時に、日本固有の信仰という等質な語りをとおして、家を基体とする日本国民という想像の可能性もまたもたらされるわけである。本書の「六四 死の親しさ」と銘打った節のなかでは、死はけっして恐ろしいものではないこと、われわれの死は孤独ではないこと。その二点が強調されている。
(略)
『先祖の話』では、死者を祭る主体が、政府の掌る靖国神社ではなく、個々の家に求められる。それは当時、政府が喧伝していた、国家のために幾度でも生まれ変わって戦うという「七生報国」の政治スローガンを、民衆の立場に引きつけて、死の親しさという日常的な感情の発露として捉えなおそうとした試みであった。柳田が、死を悲観的なものととらえる仏教だけでなく、国家神道の提示する理念とも相容れなかったことはよく知られている。近代的な政教分離の理念を建前として利用し、神社を西洋的な国民道徳のなかに封じ込め、皇室ゆかりの人格神のみが常住する場に限定する政府のやり方は、神社を家々の祖霊が去来する場として捉える立場の柳田にとっては、国民本来の信仰心を無視するものと映じたのである。
 国家神道とて、実際の内実は政府の思惑に収まりきるようなものではなく、靖国神社明治神宮にしても、造営に携わった人々、参拝に来る人々の願いはさまざまであり、政府の公的な言説に均質化されてしまうようなものではなかった。ただ、「多数のわが同胞は感覚においてこれを是認しつつも、実はこれを考えまた言葉にする機会だけをもたなかった」と柳田が懸念するように、概念化された言説、とくに制度に結びついた言説によって、そのような多様な動きが実際に存在しながらも、人びとの概念的認識からは遮断されてしまい、みずからの行為を特定の権威的言説のもとに無理やりに押し込めて理解する歪みを生みだしてしまう。私たちが均質な言説を主題化しなければならない理由は、そのような言説と、そこに回収しきれないものの隙間をこじあけてゆくことにある。
(略)
[『先祖の話』の]印刷を準備しているあいだに、ほどなく戦争は終ってしまう。そして、同年一二月には神道指令が出され、肝心の論敵である国家神道がいともたやすく取り潰されてしまい、社会状況は柳田の思いもよらない方向へと変転することになる。
(略)
今や、死者は、家によって慰められるべき戦没者から、家をまもる「先祖」へと、その姿を変えていく。戦中期に書かれた著作が突然に戦後の社会状況のなかに放り込まれたのは、柳田のこの著作だけでなく、石母田正『中世的世界の形成』、丸山眞男『日本政治思想史研究』など、戦後の人文・社会科学の方向性を大きく規定することになる諸作品がおかれた、多かれ少なかれ似た問題状況であった。
 戦中期、絶対的な権力を握っていた政府に抗する一方で、アジアのために西洋諸国と闘うというイデオロギー空間にあった彼らは、みずからの言表行為を人々の信憑性に訴えるものにしようとするかぎり、ナショナリズムの言説の内部に棲みついて、その内部でいかに別の共同性を構想しうるかという戦略に訴えざるをえなかった。それが突如、大日本帝国の公的ナショナリズムの言説が連合軍の力によって外から政治的に消去されたため、かれら自身の共同性の論理が戦中期のナショナリズムの影に包まれたまま、ある種の公的権威として流布しだすことになった。そこに、内側からの文化闘争が共有されないまま、外からの政治的圧力でもたらされた戦後の言説空間の落とし穴がある。
 一九一〇年、まだ民俗学を名乗らない時期に、若手の農政官僚として働きながら著述した『遠野物語』においても、柳田はやはり死と共同体の問題に突き動かされていた。
(略)
遠野物語』において柳田は、近代的自我と表裏一体をなすような身体的情動ではなく、個人に回収されることのない土着的な風景を求めて、明治末年に農村や山村の人々の生活へと眼を向けていった。それは、これまで見てきた『先祖の話』と同じく、家を基体とする共同体への志向性を示すものともいえるが、その共同性が、死や山人など異質なものの侵入にたえず晒されている場でもある点に決定的な違いがある。
(略)
柳田と花袋は、西洋近代化された合理的な自我の自明性がじつはつねに不安や理解不能なものにさらされていることを想起させようとした点で、共通性をもつ。花袋は近代的都市空間の日常の内部に、恋という、当人の意のままにならない情動を、柳田はその都市空間の外側に死に囲まれた戦慄すべき世界を見出したのである。
(略)
柳田は紆余曲折を経たのち、一九二〇年代半ばにはみずからの学問を西洋の普遍性から切り離して、日本固有のものとしての「民俗学」と称しはじめる。山人に代表される不可解な存在を日本の国土のなかに繰り込む作業を停止させ、閉ざされた国民共同体へと彼の表現は転じていく。このとき柳田のノスタルジアは、家と常民という内に向かって閉じはじめる。内に向かって閉じるとは、その外側を排除するだけではない。その内側をも同質化することで窒息させてしまう危険性も有している。
 このような変化を柳田の学問にもたらした大正期の社会的要因としては、資本主義の進展がもたらした農村と都市などの社会格差の増大、地縁的共同体から乖離してゆく大衆社会のうちに潜む内的不安をあげることができる。そして、同質性への志向性がさらに強まった『先祖の話』では、十五年戦争を通して増大してゆく死者の数、空襲や米軍の沖縄上陸などによって喚起される死への不安、長く続く戦争への疲弊感、それらが考えられる。国家体制はますます強化されていくものの、その内部で増大してゆく国民の不安感。そのような大正期以降の社会状況のもとに、柳田の学問はアイデンティティの危機にさらされた人々に日本人の固有信仰という同質性を賦与し、不安を鎮めようとしたのである。
(略)
遠野物語』では鎮められることのなかった死者の霊が、『先祖の話』では「一定の年月を過ぎると、祖霊は個性を棄てて融合して一体になる」とされ、死者は個性をいつしか失い、大いなる共同体のなかへ祖霊として吸収されてしまう。それが柳田にとっての、「永く祖霊となって家を護り、またこの国土を護ろうとする」ことの意味であった。この場合の弔うとは、差異の消去であり、共感の共同体への封じ込めの行為となる。そこでは死の不安は共同体にも見えない完全な外部へと追いやられ、そこに属する成員たちの視野に入る地平には何も不協和音をひきおこすものは存在しないとされる。その空間を支配する時間観念もまた、いっさいが個性を失い同質化された時間へ吸収され、あらゆるものが曖昧さのなかへと呑み込まれていく。
(略)
皮肉にも、柳田の確立した民俗学という学問が、彼自身がもっとも恐れていたもの、他者とのつながりをなくし、生きながら死者として葬られるという言説をふたたび産み落としてしまったことになる。それが死者を本当に弔うということなのだろうか。

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