慰霊と招魂―靖国の思想 村上重良

慰霊と招魂―靖国の思想 (岩波新書)

慰霊と招魂―靖国の思想 (岩波新書)

靖国の思想

大老の暗殺と攘夷の実力行動の続発に危機感を深めた幕府は、総力を傾注して反幕分子の掃滅を図り、それにたいして尊攘派は自己防衛と報復のテロで反撃した。幕府倒壊前夜の数年間、日本をおおったこの政治的極限状況は、悽惨な流血で満たされており、倒幕、佐幕の両勢力のあいだには、報復と憎悪の念がみなぎっていた。靖国の思想は、こういう歴史上の特異な一時期に普及した国事殉難者の招魂の思想を原型として形成された。(略)
 桜田門外の変を契機として攻守所を変えた尊攘派は、公武合体の進行とともに大獄の刑死者をはじめ自派の犠牲者の名誉回復に乗りだした。
(略)
 明治維新に先立つこと六年のこの時点で、倒幕派は自派に忠誠を尽した犠牲者すべての名誉回復と顕彰を、国家的規模で企図するにいたったのである。[長州藩の内請で孝明天皇が下した勅文を受け、幕府は尊攘派囚人を赦免、墓をつくることを許した。](略)
 天皇によって、尊攘派の志士の死が、藩を超えた「国事」の殉難者として位置づけられたことは、現に身命を賭して苦闘している倒幕運動の担い手たちを感奮させた。志士たちは、京都に在る現実の天皇を、しばしば「玉」と称して、大義名分を言いたてるための政治的道具と見なしていたが、志士草莽の徒を死地に赴かせた情熱の根源は、理念のなかにのみ存在する「天皇」そのものへの絶対的忠誠という狂熱的な信念であった。
 孝明天皇による国事殉難者の招魂弔祭の下命にこたえて、各地の志士たちのあいだで、殉難した先人の招魂祭がさかんに提唱され、挙行されるようになった。

長州藩の招魂場が護国神社の源流

 下関の対外戦争から、蛤門の変、第一次長州征伐の内戦と、うちつづく戦争で戦死者が続出した長州藩では、戦役者を手あつく葬り、祭祀を営む施設を設ける必要が生じたのである。(略)
はげしい内戦を経た藩士のあいだでは、藩主への忠誠は、もとよりすべての行動の大義名分ではあったが、すでに藩への帰属意識を超えた天皇への忠誠と、天皇中心の国家という意識が広がっていた。とくに、自力で外国連合軍と戦った攘夷戦と、幕府軍との軍事的対決の経験は、封建的境界を乗りこえた国家の意識を高揚させた。吉田松陰が説いた(略)「国事」の意識は、倒幕前夜の長州藩内では、現実のたたかいで裏づけられた行動原理にまで高められていた。
(略)
 長州藩は、幕末に招魂場(のち招魂社)を設けた唯一の藩であり、その数は、明治維新までに(略)16社に達した。こうして長州藩の招魂場は、全国の招魂社(のち護国神社)の源流となった。

東京招魂社創建

[1869年諸藩主の版籍奉還が続き]新政府の政治的基盤は、一年余の短期間で着実に固まってきたが、前年12月、蝦夷地全域を制圧して箱館に共和制の独立政府を樹立した榎本武揚らの旧幕府軍は、活発な外交攻勢を展開して、諸外国の承認をとりつけはじめた。新政府は、北辺の独立国の動向を監視しつつ、討伐の準備をちゃくちゃくと進めた。(略)
[2月事実上の東京遷都を発表、それを機に]政府部内で、東京に招魂社を創建することが提議された。内戦継続中の緊張した雰囲気のなかで、戦没者の招魂は、戦意高揚のためにも、ゆるがせにできない重要事であった(略)
 社地の候補地は、当初、上野が有力で、ほかに赤坂の江戸見坂上も挙げられていた。(略)[大村益次郎は上野の寛永寺東照宮一帯を考え、木戸の同意も得たが]みずから指揮した彰義隊との戦闘のあともなまなましい上野は、亡魂の地であるとして、ほかに社地をもとめることになった。(略)
[五稜郭が開城し]鳥羽伏見の戦い以来の内戦の天皇軍全戦没者が、あらためて招魂されることになったが、政府は、中央集権の実をあげるために、全戦没者の招魂祭を諸藩にゆだねず、みずからの手で実施する方針をとったのである。
(略)
 東京九段坂上の広大な旧幕府歩兵調練場あとにくりひろげられた招魂祭は、七月一日から三日間の奉納相撲に老若男女郎あつまり、花火があがって、近年にない賑わいとなった。この祭典は、東京奠都、内戦終息後に、新首都の東京ではじめて営まれた一大祭典であり、天皇の新政府に反発する空気が根づよい東京の民心を新政に向かわせるために、ことさら大がかりな祭典が演出されたのであろう。     

神道国教化政策

 政府は、仏教に強圧を加えつつ、神社をもって寺院にとってかわらせて、中央集権的政治支配の末端としての役割を担わせる方針をとった。同時に(略)[西洋文明導入による]キリスト教の進出に、深刻な危機感をいだいていた。政府は、成立当初、幕府の禁教政策を受けついでキリスト教を「邪宗門」として国禁としたが、この禁令は、キリスト教諸国の大公使の抗議によって、キリシタン禁止と邪宗門禁止の二項に書き改められた。しかし政府は、キリスト教を異教、外教とよんで、なお禁教の方針をゆるめなかった。(略)
 政府のキリスト教弾圧は、江戸時代を超える激しさで強行された。(略)長崎近郊の浦上のキリシタン農民3109名が検挙され、津和野藩など西日本の21藩に流刑(略)苦役、教諭、拷問の数年間をおくらねばならなかった。(略)
外国使臣団の知るところとなり、大・公使の抗議が相次いだが、政府は、所行の悪い者を他に移住させたにすぎないと言い抜け、弾圧をつづけた。流刑者を割り当てられた藩のなかには、政府に迎合して残忍な拷問をくりかえした藩もあり(略)
 明治初年の神道国教化政策は、仏教、キリスト教へのきびしい弾圧をはじめ、陰陽道系の天社神道、六十六部、普化宗修験道の禁止、廃止等の措置を背景に強行された。(略)
全国の神社は、それぞれの歴史的伝統や性格の差異にかかわりなく、天皇と直結する伊勢神宮のもとに中央集権的に再編成された。地縁的な鎮守、土産(うぶすな)、氏神の社も、習合神道系の祭神をまつる宮、社も、現世利益信仰の社司も、特定の人間を祭神とする宮社、宮司、霊廟も、それぞれの個性を無視されて、一括して「神社」とよばれることになり、すべての神社は、天皇崇拝を国民に普及するための国家的公的施設に変質した。伊勢神宮じたいも(略)アマテラシマススメオオミカミを祀る至聖所へと、つくり変えられた。同時に政府は、より直接的に天皇崇拝の普及定着に役立つ新しい性格の神社をつぎつぎに創建していった。
 明治初年の神社の創建は、南朝の「忠臣」を祭神とする諸神社に始まり、つぎに天皇じしんを祭神とする諸神社へと進んでいった。

別格官幣社

[国民教化の一環として楠木正成の]湊川神社をはじめ、「忠臣」を祭神とする神社があらたに創建されると、その社格が問題となった。代表的な忠死者を個人として顕彰するという創建の目的からも、国民にあたえる教育的効果からも、この種の神社は高い社格で遇する必要があり、最高の社格である官幣社が適当とされた。しかし、古来、官幣社には、人間を祭神とした例はなく、しかも、祭神が「臣下」にすぎないという難点があった。これを大中小の官幣社に列格することは、古代以来の神祇制度の伝統からいって、異例にすぎるのである。そこで、別格官幣社という新しい社格が発案され(略)
湊川神社列格の翌年(略)
[家康を祀った東照宮は]幕府の倒壊によって、明治初年にはその存続すら危ぶまれ[たが](略)政府は、徳川家康をあらためて「臣下」として遇する列格をし、東照宮の地位を安定させたのである。同時に政府は、東照宮の宗教的権威を低めるために、明治維新当初から、豊臣秀吉織田信長を祭神とする神社の創建を計画した。(略)
[信長の]建勲神社列格の翌年には、新田義貞を祀る福井県藤島神社別格官幣社に列格
[制定6年で別格官幣社は9社に、東照宮は最下位のランク]
大化の改新の功労者、「逆賊」道鏡皇位「簒奪」をはばんだ模範的忠臣、建武の中興をささえ南朝に殉じた武将たち、衰微した朝儀を復興した近世的統一者たちであり、徳川家康以外は、すべて幕末に尊攘派の志士草莽を熱狂させた歴史上の英雄であった。

西南戦争が契機に

 いっきょに多数の戦没者を出した西南戦争は、東京招魂社の性格を大きく変える契機となった。政府は、天皇にそむく「賊徒」を征討してたおれた西南戦争戦没者のために、招魂社で三日間にわたるかつてない盛大な臨時大祭を行なって、戦没者を合祀し顕彰するとともに、国民のあいだの反政府の気運をおさえ、天皇と国家への忠誠心を盛りあげることにした。(略)
相撲、競馬、射撃、仕掛け花火等が催され、境内は老若男女で埋まり盛況をきわめた。(略)
 この画期的な臨時大祭に、さきの台湾出兵戦没者のさいにつづいて、明治天皇は三回目の参拝を行なったが、以後は、臨時大祭のたびに、天皇の参拝が例となった。天皇の名による戦争で一命を失った戦没者の処遇は、合祀と天皇の参拝で完結することになったのである。
(略)
 東京招魂社は、神社を所管する内務省社寺局の管轄外にあり、神社ではないため、有力な神社[に比べ](略)不備であった。(略)
陸軍省内の意見書が、とくに神官をおくことを強調していたのは、軍の唯一の宗教施設である東京招魂社を、官社なみに強化したいという年来の願望の表明であるとともに、西南戦争を機として、各地の招魂社が相次いで創建整備されるという新しい情勢に促されたものであった。(略)
[1879年東京招魂社は]靖国神社と改称され、別格官幣社に列格された。

靖国神社に改称

招魂社の社名については、かねてから神道家をはじめ関係者のあいだで異論が出ていた。(略)招魂とはもともと天に在る霊魂を一時的に招き降して祭る祭儀をさすことばであるから、その斎場は、祭典ごとにしつらえる招魂場のはずであった、恒久的な施設を意味する社祠ではないというのである。(略)
祭神が永久に鎮祭されている神社の名称としては、ふさわしくないことは明らかであった。そのうえ、全国各地の招魂場が、招魂社の名称に統一された結果、中央の招魂社であり、陸・海軍の唯一の宗教施設である東京招魂社を、社名のうえでも、一般の招魂社と明確に区別する必要があった。
(略)
日本では、古来、「靖国」を熟語として用いたり、「やすくに」と訓ませた例は見られないようである。(略)国を安らかにする意味の「安国」が広く用いられており、改称列格の祭文も「安国」を用いていた。「靖国」の名称は、儒教に通じた神道家の発案であったろうが、あえて歴史的伝統のある「安国」を避けたのは、この語が、「立正安国」の形で、中世以来、日蓮系の仏教宗派の布教で広く普及し、「安国」が寺号、院号にも用いられていることから、仏教色をきらったためと思われる。
(略)
[改称は]この宗教施設そのものの変質を意味していた。招魂社では、いわば忠死者の霊魂が主人公であったが、靖国神社では、「国」がはっきりと前面に出てきた。(略)
個性をつよくとどめていた「忠魂」が、しだいに個性を失って(略)天皇のための死者集団を、均質で無機質の祭神集団に仕立てあげる宗教的装置であった。こうして靖国神社は、無限に祭神が増えつづけ、しかも、どれほど多数の祭神があらたに加わっても、神社そのものの性格にはいささかも変化がないという、神社としてはほかに類例のない特異性をそなえる結果となった。
(略)
 靖国神社は、別格官幣社であるから、その祭神は特定の個人でなければならなかった。(略)
靖国神社では、先例のない一万を超える祭神集団の処理に、新しい方式をつくりだした。祭神を選定する合祀の基準には、客観的には、幕末維新の国事殉難者と、天皇の名による内戦および対外戦争の戦没者等という枠があったが、形式上は、合祀は天皇の意志によるものとされ(略)ひとしく忠良な「臣民」である祭神たちは、生前の位階や功績はさまざまでも、すべて同格であって、そこにはなんらの差別も存在しないはずであった。何万名に増えても、祭神は、まったく平等で、ひとりひとりが主祭神であり(略)一君万民の神社版が、靖国神社の構造の特徴であった。
(略)
合祀のたびに、巻物に新祭神の官位姓名を列記して社殿の内陣に納めてきたが、これを社殿の左右の床に安置して、神体に準ずる扱いをすることになったのである。こうして靖国神社では、実際には個性をほとんど失った祭神集団を祀りながら、祭神の名簿を宗教的に意義づけて副神体に高めることで、特定の個人を祭神とする別格官幣社のたてまえを保持した。

英霊

[1911年の『靖国神社誌』]の序文で、祭神を「英霊」とよんでいることから、日露戦後には、戦没者の霊を英霊と称するようになったことが知られる。英霊は、もともと霊魂の美称であるが、幕末に、水戸藩藤田東湖が、「文天祥の正気の歌に和す」と題する漢詩で、「英霊いまだかつてほろびず、とこしえに天地の間にあり」とうたい、この漢詩が志士のあいだで愛唱されて以来、広く普及したことばであった。戦没者の霊は、これまで忠魂、忠霊とよばれてきたが、日露戦争を境に、より個性のうすい抽象的な英霊というよびかたが一般化するようになった。

明治神宮

[大正デモクラシーに「臣民」道徳の危機を感じた政府は思想統制を強化、1920年明治神宮を創建]
この造営事業を、明治天皇にたいする国民の崇敬と思慕の念を結集する一大カンパニアとして盛りあげていった。(略)
 靖国神社につづいて東京に出現したこの巨大な神社は、近代天皇制の宗教的モニュメントであった。靖国神社天皇のための忠死者を顕彰する宗教施設であるのにたいして、宏大森厳な施設をもつ明治神宮は、直接、同時代の天皇、皇后を祭神とすることによって、天皇の神性を国民に示威する役割をはたした。

靖国神社法案

朝鮮における南北の緊張の激化とベトナム戦争の拡大によって、アメリカの極東戦略の一翼を担う自衛隊の陸海空の戦力は加速度的に増強され、日本軍国主義の復活が現実の問題となった。自衛隊靖国神社護国神社との結びつきも、時とともに公然化し、1966年7月には、海上自衛隊将兵160名が、靖国神社に集団で参拝した。この参拝は、個人の自由参拝と称しながら、制服で社頭に整列し、号令でいっせいに拝礼するという、事実上の公式参拝であった。また各地の護国神社の祭典には、地方自治体の首長とともに自衛隊幹部が参列し、自衛隊員が集団で参拝したり、自衛隊の殉職者を、遺族の意志とかかわりなく、護国神社に合祀または併記するなど、護国神社の公的復権のための既成事実がつみ重ねられていった。
 1967年、国民の広範な反対を押しきって、国民の祝日として「建国記念の日」を判定し、記紀神話に発する紀元節の復活を実現した政府・自民党は(略)「靖国神社法案」を発表した。同法案は、靖国神社から宗教性を除去して合憲を装っていたが、遺族会神社本庁等の反対にあって、国会提出は見送られた。(略)
靖国神社の国営化は、いっきょに現実の問題となり、宗教界をはじめ、国民各層のあいだから、反対の声が高まった。(略)
同法案は、第三条で「第一条の戦没者及び国事に殉じた人々は、政令で定める基準に従い、靖国神社の申出に基づいて、内閣総理大臣が決定する」と述べ、事実上の新祭神合祀の決定権を内閣総理大臣にゆだねたが、この条文は、同時に、来たるべき戦争における戦没者の処遇をさだめたものにほかならない。
(略)
自民党は、「靖国神社法案」をとくに重視し、執拗にその成立を企図したが、宗教者をはじめとする国民の広範な反対にあって、そのたびに成立を阻まれた。(略)
[反対請願署名は]1973年には累計約1100万に達し、反対運動は、しだいにその規模を拡大するとともに、質的にも深化した。全国各地で、「町のヤスクニ」として、神社と公共団体との癒着など、信教の自由と政教分離を侵害している身近な事例が摘発され、住民による反対運動が組織されるようになった。

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