柳田国男論 吉本隆明

[法制局参事官として閲読した犯罪調書のうち柳田の心にかかったのは]
おなじ出生、おなじ環境に迫られたとしたら、誰もがおなじ殺人や、自殺や、死に至る犯罪にゆきつくほかない。そんな必然のようなものがこれらの調書には体現されていた。偶然が積み重なってゆくと、そのまま必然になり、その必然の曲線がほとんど例外なく死に至るといった事件が、柳田によって提供されたことになる。法社会学者としての柳田は、すべての〈法〉は極限まで追いつめていけば、万人にとって、おなじ出生と、おなじ環境に置かれれば、おなじ行為を犯すにちがいない事柄にたいして、はじめて刑罰が設定されるものだと考えていた。(略)
[もうひとつの特徴は]
〈死に至る犯罪〉の事件が、いずれも自然の風光のなかでの惨劇だということだった。人間と人間とのあいだの濃密な親和力がこじれて惨劇となった巷のなかの犯罪ではなく、自然の風光のなかで、自然の〈眼〉があるとすれば、どれもこれも等しなみに人間という類にしか視えないのに、その人物の心のなかには、異様な惨劇や悲劇や葛藤が準備されていて、美しいさり気ない風光のなかで、やがて追いつめられて犯行が演じられる。
 すこし遠くから斜めに俯瞰された自然の風光のなかで、ちいさな人間が斧を振りあげたり、滝つぼにとび込んだり、葱を盗んだり、火をつけたりしている像が浮んでくる。
(略)
 柳田国男は、文学上の旧友田山花袋が、話してきかせた惨劇や悲劇のうち、特異で必然の迫力で破局に至る、ほんとの意味で「深刻」な事件を作品化せずに、おなじ悲劇や惨劇でも、通常の平凡人の情念が、解釈によってつきまとう余地がある話だと作品化してみせるのが不満だった。柳田と花袋のあいだにはいわば「深刻」の意味にずれがあった。柳田の「深刻」には自然法と実定法の、それぞれの起源にあたる人間的な行為のうち、このふたつの法概念のあいだの断層や亀裂や空隙ともいうべき意味空間に陥ち込んだ不可避の殺人や、死や、犯罪の行為こそが、ほんとの意味で「深刻」であった。だが花袋はそうではなかった。(略)そこに通常の情念が働きあい、またその働きの如何によっては、もしかすると惨劇までに至らなかったかもしれない余地をもった事件だけが「深刻」の名に値するものだった。
 なぜならその「余地」だけが、文学的描写に価するとみなされたからである。柳田の「深刻」は自然権的な無雑作な残酷が基礎になっているため、かえってロマンティシズムや神秘主義の思い入れが入りこむ余地があった。そこでは像の多義性がゆるされる。花袋の「深刻」は、どんなばあいも通常の人間の情念から切りとられた断面をもっているから、像は事実の次元をそんなに遠く跳躍できない。この差異から柳田の自然主義批判が発生している。

柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

 死の四年前に書かれた回想録『故郷七十年』は、柳田の生涯の動機をさぐろうとするものには、いわば動機の集積のような不思議な文章である。むしろこれは逆さにいうべきかもしれない。柳田があまりにじぶんの生涯を、動機の集積のようにみなしているのを読んで、動機とはなにかかんがえさせられてしまう不思議な文章だというように。柳田の「法」解釈の根柢にあるのは、動機に自然権的な不可避の格率をもつ行為の連鎖は、それが殺人にいたるばあいも、自死にいたるばあいも、犯罪行為にいたるばあいも「法」を超越するか、または「法」制度の枠外に逸脱する自然の無意識が露出されたものだという観点だった。もしかするとこれは観点というものではなく、柳田の無意識の理念というべきかも知れなかった。
 (略)なぜ大学の法科を出て農政学をやることになったか、なぜ柳田家に養子に行ったか、なぜ官界に入り、また官界をやめて、わが民俗学を産み出そうと志すようになったか、というように、生涯を「なぜ」の累積として覆いつくそうとしているかにみえる。柳田は常人にくらべて、「なぜ」という問いを仕掛けなければ説明しかねるような変更の多い生涯の曲線を、ほんとは自然な動機が積み重なってひとりでに与えられた、不可避な曲線として描き出したかった。またそれはできるとおもわれた。

柳田はこの種の事態の根源に、生れ落ちてすぐじぶんでは養いもならず、歩くことも、視ることもできぬ乳胎児のときに「母」に冷たくひき離されたものの悲哀をみていた。(略)
 もし故郷の村里がツワイ・キンダー・システム(二児制)の風習になっていたら、じぶんは母から間引かれる存在だっただろうという柳田の潜在的な恐怖感や哀切感が、地蔵堂の[風習によりしめ殺される新生胎児の]絵馬に衝撃をうけ、特異的に記憶にとどめた理由だった。また母の兄が悪質な性病にかかって四国巡礼に出たまま、永久にかえらなかったという痛々しい実話を記憶に焼きつけたのも、かえらずに他郷の路傍で野垂れて死んだその人の像に、母からひきとめられもせず、死ににゆく旅にでたであろうじぶんの姿を、二重に映したからであった。
 この種の自然法的な裁定が、習俗によって黙々と行われるとき、この習俗とは何を意味するのか。また人間の心象と情念の影に、どこまで入り込むことができるものなのか。そして「愛」の自然な直接性である家族(親子・兄弟姉妹)の紐帯は、この種の習俗の裁定にたいしてどこまで逆らえるものなのか。これらすべての疑問は柳田の民俗学への志向の根柢に横たわっているにちがいなかった。
 柳田の動機がとび去ろうとする力を、繰返しひき戻し、ひき戻すことで広さと幅をもった領域にまで、動機の概念を高めたのは、幼く遠い乳胎児期にすでに形成された、かれの資質の無意識であった。