サウンドシステム闘争、スカの語源

これは面白い。レゲエ好きじゃないとキツイかなと思いつつ借りたのだけど、部外者も興奮。それとも愛好者には耳タコ話なのか。まだ第一部までしか読んでないけど、これで三千円は安い!と図書館で借りた奴が書いてます。

サウンドシステム

1940年代半ば客寄せにバーや商店が音楽を流したことからはじまり、50年代には

[野外でのダンスは]単なる都市部のエンタテイメントから、キングストンのインナーシティの中心的存在へと進化した。(略)
心意気あるサウンドマンは、ラジオ局が流しているような陳腐なレコードを決して使わなかった。炎のように熱いR&B、メレンゲ、ラテン・ジャズ、淫らな言葉でいっぱいのメント、ディープなバラードなど、活気ある、魂がこもったナンバーだけをターンテーブルにのせた。

キラー・チューン

当時ターンテーブルは1台のみ、客のブーイングで急遽レコード交換を迫られた時

クロス・フェイディングなど問題外。その早技はこんな具合だ。利き手の中指と小指と手の平で次にかけるレコード(B)を挟み、もう一方の手でお客を怒らせてしまったレコード(A)から針を上げ、(B)を持っている方の手の親指を使ってターンテーブルから(A)をはらいのけるのとほぼ同時に、中指でターンテーブルの真ん中の芯に(B)を突き剌す。手首をピシッ!と一振りする間に、一連の動作を行なうことができれば、(B)がつつがなく流れ出す。

店で普通に売ってるレコードでは勝負にならないので船員などが持ち込むレコードを波止場で買い付け

サウンドマンであるからにはショウマンでなければならない。ホットな新曲が届くと、「船で到着したばかりのホヤホヤの新曲」であることを彼らは誇大に宣伝した。人気ディージェイはプライドが高く、自ら船まで出向くことはない。代わりに子分が波止場に出かけた。子分は太陽の光を避けて座り、お目当ての船が港に繋がれるのをじっと待った。次に予め決められていた商品を受け取り、親分の元までまっしぐら、レコードを自転車で、しかも超特急で運ぶ。それ自体が素晴らしいパフォーマンスになっていて、多くの人がその様子を目撃して「ああ、あそこのサウンドシステムは、今夜は新曲でいっぱいだ」と期待に胸を膨らませることになる。

キラー・チューンのクレジットがライヴァルに漏れないよう硬貨の縁で全て削り取り

それら「匿名」の新曲には、「Count Smith Shuffle」「Goodies’ Boogie」「On Beat Street」といった具合に、その曲をプレイしているサウンドマンやサウンドシステムを称えるような、新たな名前が付けられた。
(略)
 この正統とは言いがたいレコードの輸入方法は、1950年代の半ばまで続けられた。(略)[米国ではジャマイカ受けしないロックが台頭]
50年代前半に人気だったビッグ・ビート系の音の供給ラインは枯渇し始めた。
(略)
ついにジャマイカのレコード買い付け担当者たちは、他に代替品を探さなければならなくなった。そして、それは他ならぬこの島の中にあったということが、まもなく明らかになる。

サウンドマン第二世代登場

  • コクソン(クレメント・ドッド)

熱烈ジャズ愛好家の彼は母親のリカーショップにパーカー、ガレスピーetcを持ち込みかけまくり。大工職人としてスピーカー・キャビネット制作を依頼されるうち、機材やレコードを買い付けるようになり「サー・コクソンズ・ダウンビート」を興す。コクソンが新曲を流すたび親友ブラッキーが新しいステップを提供。斬新な選曲。システムの放つ音のレンジ、立ち方は文句なしにチャンピョン。

  • デューク・リード

妻が宝くじを当て警官を辞め、リカーショップ開店。ラジオ番組の広告主となり、やがて番組の選曲他を仕切るように。その成功を土台に「トロージャン」始動。警官時代の裏社会とのコネを元にギャング・グループを組織し、ライヴァルに暴力行為を働く。
当時コクソンの下で働いていたプリンス・バスターとリー・ペリーはコクソン・クルーとして最前線に立ってデュークのギャング・クルーと戦った。バスターの頭頂には石で殴られてできた陥没痕が。

  • プリンス・バスター

コクソンに忠実に仕えていたが待遇に不満を持ち独立。「ヴォイス・オブ・ザ・ピープル」始動。遂に三大巨頭の時代に突入。

  • キラー・チューン「Later For Gator」

コクソンによって「Coxsone Hop」と名付けられたウィリス《ゲイターテイル》ジャクソンのこの曲は7年間キラーチューンとして君臨した。だが遂にデュークはコクソン関係者から情報を入手し「Later For Gator」を手に入れた。噂は広まり動揺するコクソン。部下だったバスターは代わりに確かめに行くことに。

コクソンは『行かなくていいよ』と言った。コクソンは真実を知りたくなかったようだ。俺は行った。まっすぐデュークのところへ行って、『デューク、アレを持ってるのか?』と単刀直入に訊いた」
 「デュークはでっかい銃を持って座っていた。腕輪をじゃらじゃら着けた腕を組んで、腹の底からガハガハと笑いやがった。『コクソンがオマエをよこしたのか? え?』と訊いてきた。一触即発という感じだったね。デューク・リードの子分が勢ぞろいして俺を囲んでいる。
(略)
[デュークは曲名にちなんだ韻を踏んで曲を知っているとほのめした。戻ってきたバスターに]
(略)
コクソンが『デュークは何と言っていた?』と訊いてきた。俺は『レイター(あとでな)と言っていました』と答えた。コクソンはガーンと一発食らわされたようになったよ」(略)
[デュークがやっているホールに出掛け、自分のキラー・チューンが鳴り響いているのを聴いたコクソンはがっくり崩れ落ちる。]
 「俺とファントムはコクソンをしっかり立たせて、鼻先で『しっかりしろ!』と何度も叫んだ。デュークはだけじゃなく、コクソンのキラー・チューンを7曲、全部かけたんだ。それがどういうことかわかるか?

レコード制作が商売に

ジャマイカ産のレコードが使われるようになるとサウンドマンはレコードをプロデュースするように。

[レコードが商売になるとは思っていなかったコクソンだったが]
コクソンのレコードは売れた。当時、ジャマイカ産のレコードはドアからドアヘの訪問販売で売られるのが常だった。レコードの戸別訪問販売(レコード行商)はこんな感じだ。行商人がダウンビートの最新のキラー・チューンを手にし、戸口で「昨夜、これでコクソンがダンスをマッシュ・アップしたんだけどね」といった話をする。買い手は賭けをするようなものだが、曲名も何も印刷されていないホワイト・レーベルのレコードを行商人の言葉のみを信じて購入する。(略)各プロデューサーが小ヒット曲を幾つか重ねたのちに自分のショップを開店するようになるまで、長く続いた。実際にはレコード店ができてからも、この販売方法は廃れることはなかった。行商人は頑丈な靴を履き、大型の旅行力バンかスーツケースを担いで無限の情熱を持って行商に出かけた。レコード行商は、この島の音楽にとってはベース・ラインと同じように、極めて重大なものだった。

スカの語源

「ベーシストでバンド・リーダーだったクルーエット・ジョンソンが、挨拶として使ったり、演奏が頂点に達したときに発した言葉『Skavoovie!』の短縮形(略)
ピアニストのセオフィラス・ベックフォードが自宅のポーチにあったピアノでスカのようなリフを弾いた。それを耳にして集まってきた人々が興奮して叫んだのが「Skavoovie!」という言葉で、後はその言葉を1959年のヒット曲〈Easy Snappin'〉の中で使った」(略)
コクソンの記憶では「ギタリストのアーニー(アーネスト)・ラングリンにオフ・ビートを強調して演奏してもらいたくて『〜ッスキャ、〜ッスキャ、〜ッスキャと弾いてくれないか』と言ったのが最初(略)
ウェスト・キングストンのスタジオ周辺で使われていた流行言葉「ッスタヤ、ッスタヤ、ッスタヤ」がオリジナル(略)
そして、それらを「スカ」という、もっと響きが優しい夢の言葉にまとめあげたのは、アップタウンのバイロン・リーだという説もある。

初期スカ誕生

 「スタジオではたいていコクソンがビートを決めていた。あの時もそうだった。彼は慎重に、R&Bのシャッフル・ビートを保とうとした。しかし、アクセントを後ろ、つまり2拍目と4拍目に置くようにと指示した。アレンジが可能な限りやってみてくれ、と。チン・カ〜チン・カ〜チン・カが、〜カッ・チン〜カッ・チン〜カッ・チンとなる瞬間が来た。私たちはその極めて初期のスカを〈アップサイド・ダウンR&B〉と呼んだものだよ。そのアクセントをさらに強調するのがギターだ。そしてこのオフ・ビートは、その後、全てのジャマイカ音楽が従うスタイルになった」

Destiny: Rare Ska Sides From Studio 1

Destiny: Rare Ska Sides From Studio 1

 

 1999年の半ばにリイシューされたウェイラーズのCD『Destiny : Rare Ska Side From Studio One』を聴けば、1963年の終わり頃にコクソンが何をやろうとしていたかが容易に想像できる。この作品は「スカとはこういうものである」という現在の認識に則って編集されたレトロなセレクションではなく、当時サウンドシステムでプレイされていた曲を純粋に集めたものだ。おかげで、その頃ジャマイカのレコードにはどんな音楽が吹き込まれていたかを示す良いサンプルになっている。

アーニー・ラングリンが表に出なかった理由

コクソンに指示されたスタイルでアーニー・ラングリンがアレンジをつけ、ダウンビートのスペシャル用としてのレコードを何枚もカットした。その中で最も反応が良く、独創的で、将来のジャマイカ音楽の発展に影響を与える曲になったのが「Easy Snappin'」だった。皮肉なことに、レコードとしてリリースされたヴァージョン(略)[ではラングリンはクレジットされていない。その理由は]
 「私は表に出たくなかった。できあがったものは純粋なゲットーの音楽だ。ジャマイカにはその種の音楽を潰したいと考える人もいたからね。だから私は、クルーエット・ジョンソンの名前を前面に出すことに反対しなかったのさ。この音楽は当時、充分にレベル・ミュージック(抵抗の音楽)だった。社会が、この音楽やそれを創る者たちを見る目は厳しかったからね。まるで反社会的なもののように扱うんだ。『そんな音楽を演奏する輩は追放するぞ』という感じだ。スカという音楽がきちんと出来上がった時点で、私が制作やアレンジをした曲はそれこそたくさんあったけれど、決して自分の名前を出さなかった。私は支配階級の人々の集まりやホテルなどで演奏しなければならなかったからね。そういう場所では、私には何ら力はなかった。彼らは完全に私を見下げていたし。仕事がなくなってしまったらどうする? そうするしかなかったんだ」

明日につづく。