「自然主義」と呼ばれたもの達 橋本治

二葉亭四迷は『平凡』 

小説は沢山読む。(略)しかし若し何と思って読むかということを作者が知ったら、作者は憤慨するだろう。芸術品として見るのではない。金井君は芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。金井君には、作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。それだから金井君の為めには、作者が悲しいとか悲壮なとかいう積で書いているものが、極て滑稽に感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、却って悲しかったりする。

 

そんなわけで

 

 二葉亭四迷森鴎外は、自然主義をからかっている。しかし、性急に自然主義を否定してはいない。「自然主義にはなにか意味がある」と思っているから、自然主義のあり方をなぞり、自然主義の悪口をストレートに言わないのである。
 ということになって、「では、その自然主義が抱えている“意味”とはなにか?」である。二葉亭四迷の書いたものが「性欲論」を中核に置く『平凡』で、森鴎外の書いたものが明からさまにも『ヰタ・セクスアリス』であるということからすれば、この答は簡単に出るようにも思う。「人の枢要でもあるような性欲のあり方を書く」である。しかし、これが正解であるかとうかは分からない。
[二人ともラストで「無意味だ!」と投げ出してしまう]

 

 「性欲がらみの懊悩」ばかりを問題にして、「それが人生だ」ということにしてしまう自然主義の悪口は、言いにくい。森鴎外は、「性欲だけが人生か?」と考えるが、性欲が人の枢要に位置を占めるようなものであることを知っている以上、そう簡単に自然主義を否定し去ることは出来ない。
(略)
[自然主義を]やってみても身にしみない。なぜ身にしみないのかというと、金井湛が「ままにならぬ性欲を抱えて悶々とする」というタイプの人間ではないからである。おそらくこれは森鴎外自身のあり方でもあって、森鴎外は「性的な自分」にあまり関心がなく、「性的な日本」の方に目が行ってしまう。(略)性的なもの(略)と出会い、あるいは出会わされた金井湛は困惑し、翻弄され、「これはなんだろう?」と自問し続ける

本家フランスより進んでいた前近代日本 

 砕けた言い方をしてしまえば、本家フランスの自然主義は、「そこにそういうものがあるんだから、いやがらずに認めろよ」という、既成のモラルに対する挑戦、挑発である。
(略)
[森鴎外=金井湛は、本家フランス自然主義「家元」エミール・ゾラが、なぜ「炭坑労働者のストライキ話の最中に男女の逢引を覗きに行く挿話を書く?」と疑問を抱く。]
「自分の性的淡白は行き過ぎているのだろうか?」と思う金井湛だから、「なんでこんな余分なことに筆を削くのだろうと思った」ではあるのだが、そういう疑問を持つ金井湛は、「ストライキ中に男女が逢い引きをしていて、それをまたわざわざ覗きに行く人間などいるはずはない」という考え方をしないのである。(略)
本の森鴎外にとって《わざとらしく書いている》と思えることでも、フランスの読者達はそう思っていないから、作者はそれを敢えて書くのである。その書き方を《わざとらしく》と森鴎外に感じさせる日本は、自然主義を生まざるをえなかったフランスより、文化的には進んでいるのである。
 前近代の日本は、ある面でフランスよりも自由で、だからこそ進んではいるのだが、進んでいる西洋の「近代文明」を取り入れてしまった日本の近代青年達は、結果として、進んでいた日本の「前近代的現実」を放擲してしまうことになる。だから、進んだ近代青年達は、「我が身の性的不自由」を嘆くことになる。(略)
しかし、自分が「フランスよりも進んでいる前近代の日本」に生きていることを知っている近代人の森鴎外は、そんなにみっともなく短絡的なことが出来ないのだ。
 金井湛の手記が、日本の自然主義より本家フランスの自然主義に似てしまった理由は、金井湛が日本の前近代的土壌の上にいて、「性的なものに満ち満ちている日本の現実」を、ただ「ここにそれがあるよ、こっちにはこういうものもあるよ」と、淡々と記述しているからなのである。「主義」を言う以前に、それはただ「当たり前の事実」で「現実」で、森鴎外自然主義が本家のそれと違って淡々としているのは、「ここにこういう現実があるよ」と言われて、日本の読者が「まさか?!」などという拒絶的な態度を見せないからである。これを読まされた当時の人間は、「あ、知ってる」と思って、笑みを浮かべる程度だろう。これを「だめ!」というのは、ようやく出来上がって来た日本近代の「官憲」という制度だけなのである。
 本家の自然主義は、外部に対して挑戦的なだけで、「性的なものを抱えて悶々とする」などということはしない。「外部にそれはある」と言っても、「私の内部にそれがある――であればこその人生である」などというムチャな展開はしない。
 真面目な森鴎外は、『ヰタ・セクスアリス』で無意識的に本家自然主義的展開をした。そしてそれが日本的現実の上で空回りをすることを、おそらくは知っていた。

日本自然主義文学を誕生させたのは島村抱月

 

 日本の「自然主義」は、「我、自然主義者たらん」と志す実作者によって実現されたものではない。日本の「自然主義」は、それを書いた作者の意志あるいは意思とは別箇の、評論家をはじめとする第三者による「これが日本の自然主義だ!」という認定によって出現させられ、確立されてしまったものなのである。日本に「自然主義の文学」を誕生させてしまったのは、国本田独歩でも島崎藤村でも田山花袋でもない。明治四十一年の一月に『文芸上の自然主義』という評論を発表してしまった島村抱月なのである。

 

 「自然主義」が《今までに無かった新しいものを経験する》という、《長い前途》へ向かうプロセスとして存在するのなら、その《経験》を達成した後の書き手の進む先は、一つしかない――「自然主義という手本を離れて独立し、自分なりの作品を書く」である。
 島村抱月は、国木田独歩島崎藤村以降の作者、作品名を挙げて「後期の自然主義」と言っているが、それは「自然主義という手本を離れた彼等なりの作品」か、あるいは「自然主義とは無関係に生まれた彼等なりの作品」でしかないかもしれない。だからこそ、国木田独歩島崎藤村も「我こそは自然主義なり」とは言わないのだ。
 「日本の自然主義」は、いつの間にか「私小説」というものへ変貌する。それを謎と思う人にとっては謎だろうが、「日本の自然主義」と言われていた作品が、実は「自然主義という手本とは距離を置く各作家なりの作品」であったら、その「自分なり」が進んで「自分のことを書く私小説」になったとしても不思議ではない。

なぜ『小説神髄』に若者は熱狂したか

 

つまり、「小説」という言葉だけはあっても、現代にまで続く「小説」というものはまだ存在していないということである。
小説神髄』が当時の若者達を興奮させるのは当然だろう。坪内逍遥の言うことは、「そこに“小説”という華麗な花を咲かせ、豊かな実をつけさせる無人の広野がある。誰でもいいから、行って花を咲かせろ」に等しいのだ。世に名を高からしめる新しいゴールが設定されて、小説家志望のゴールドラッシュが始まるみたいなものだ。「小説家を志す若者」はあっという間に誕生してしまうだろう。
(略)
 「実例はないが理論はある。小説家志望者はその理論達成をゴールとして進むしかない」というのが、近代日本の小説の始まり方である。

「近代自我」は言文一致体の中から

 

 成熟した文語体や口語体の文章なら、文章そのものが「語るべきこと」を語っていて、「書き手のありよう」が意識されることはない(略)『少女病』での田山花袋は、「文章が語るべきことを語る」という公式を踏まえて書いている。しかし『蒲団』になるとそうではない。書き手とは距離を置いて存在するようになっていてしかるべき「作中人物のありよう」に語り手が接近しすぎて、《渠は》と三人称で書かれたものが、いつの間にか作中人物「竹中時雄の独白体」のようなものになってしまう。
(略)
 近代文学というものは、書き手のありようと作中人物のありようがどこかで重なって、そうなって、「第三者」にはならない作者の声が重要なことを語る――そのことによって「近代自我」のありようが浮き彫りになってくるようなものである。(略)
私はこの「近代自我」と呼ばれる「作者のあり方」あるいは「作者のポジション」が、やがては「口語体」と呼ばれることになる言文一致体の中から、半ば無意識的に受け継がれたものではないかと思っているのだ。
 成熟した文語体や口語体の文章では、文章そのものが「語るべきこと」を語る(略)
その成熟を獲得して行くことになる言文一致体には、「文章そのものが語るべきことを語る」という能力はまだない。なぜかと言えば、「まず語り手が言う(喋る)――それを同じ語り手が文章として整えて行く」という二度手間が言文一致体だからだ。言文一致の「言」は、作者の「言う」なのだ。それが「文」との間で距離があるから、「言文一致」が必要になる。作者が「言う」ということをまず考えて、それが作者の頭の中で文章化される。言文一致体は、「己が思考の翻訳」で、である以上、「思考する者」と「翻訳する者」の二人三脚になる。

言文一致体の完成

 

 私が驚くのは、夏目漱石の『吾輩は猫である』『坊ちゃん』と、島崎藤村の『破戒』が、ほぼ同時と言ってよいような形で出現してしまうことである。島崎藤村を「自然主義の作家」とすれば、夏目漱石は「反自然主義」あるいは「非自然主義」と言われるような存在である。主義の観点からすれば、この二人が同時に並ぶことはないし、また同時に並んでいることに対して「なんらかの意味がある」と言われることもない。しかし、この二人の作家は、ほぼ同時に登場するのである。その点で、明治三十九年は「画期的な年である」と言ってもいいような年なのだ。(略)
これまで「末だし」でもあった言文一致体が、ついに本格的な成熟を獲得してしまったという点で、画期的なのである。
(略)
だから私は、明治三十九年を「言文一致体の達成あるいは完成が起こった年」と思う。

 

明日につづく。