吉本隆明〈未収録〉第8巻その2 柳田國男

前回の続き。

柳田國男田山花袋

柳田は田山花袋に批判的になったのは、『蒲団』[から](略)あれは「きたならしい作品」だというのが柳田國男のおもな批判の根拠でした。二十歳前後の青春期から仲のよい文学仲間ですから、田山花袋に会うといつでも、身辺とか家庭とか近親とかに素材をとって作品を書いて、自然主義を無理やり主義としておし通そうとするとそれに縛られて、かえってじぶん自身を窮屈にしてしまう、じぶんの方法をもっと拡げることをやったらどうだと批判していたと柳田は言っています。またそれに関連してじぶんは田山花袋自然主義のかかわりについてかんがえるたびに、時代が人間を拘束する力がとてもきついものだと感じたとも述べています。つまり花袋はじぶんで築いた城のなかに立てこもり、自然主義の山の上にのったまま、そこからなかなかおりてくることができなくなった。おりてこようにも自然主義といえば花袋が象徴だとおもわれていることで、その思潮から出にくくなってしまった。いかに人間というものは時代に拘束されるものか、田山の生き方をおもうたびにそんな感想をもったと、柳田は述べています。
 柳田國男のうけとりようなのですが、自然主義は、どうして社会的不公平とか悲惨にたいする抵抗を文学の主眼にしないのか、田山花袋にたびたび話したが、自然主義にとっては社会に役立つか役立たないかは、文学の本道ではないとかたくなに固執していて、いつでも花袋に拒まれたとも述べています。
 どちらの言い分か妥当なのかは微妙ですが、このあたりから柳田国男田山花袋との別れ道がみえてきます。ここの見解をおしすすめていきますと、一方で花袋に象徴される自然主義の本質的なところにぶつかってきますし、また他方で柳田國男民俗学の方法みたいなところにつきあたっていきます。
 一方で柳田は、じぶんは世間からかけ離れたこと、世間の常識どおりの尺度ではないこと、あるいは世間が現実に役に立つとおもわないことでも、かまわずに気がつくと記録をとったり、かんがえたりしてきた。これは田山花袋自然主義から学んだことだといっています。つまり社会に役立つかどうか、面白いか、面白くないかよりも客観描写も主観描写も含め徹底的に描ききってしまわなければならないとする花袋ら自然主義から学んで、民俗的な記録とか文章とかメモを固執して書きつづけてきたというのです。
 それからもうひとつ若い頃田山花袋から、いっしょに旅して、旅の仕方をおしえられたと述べている文章があります。(略)ある村をとおって、そこに関心をひくものがあると寄り道したり、二、三日でも一カ月でも滞在して、村人の生活や風俗習慣を見聞して、関心がみたされるとその村を出てゆきます。これが柳田のいう旅人なのです。[関心を持ちすぎて定住してしまうと旅人ではなくなる](略)
そこに定住して村人といっしょに生活し、耕したり、宗教をひろめたり、知識をひろめたりしながら、そこに居着いてしまうと、柳田國男のかんがえる旅人から外れてしまいます。(略)
柳田國男はいつも関心がおわればそこを出ていくというやり方をしていますが、それは若いときに田山花袋から学んだことだといっていいのです。田山花袋は旅行家であり、紀行作家でありました。柳田は花袋に誘われてよく旅をし、紀行文も書いています。その観察は風景だけでなく、土地の風俗や習慣や生活にわたっていますが、これは田山花袋から影響をうけたとても重要なところではないかとおもわれます。
(略)
[生活苦で飢え]じぶんたちを殺してくれと父親にせがんで、小屋の敷居を枕に子供たちは横になります。炭焼きはついフラフラとなって子供たちを殺しじぶんも死のうとするが死にきれないで自首してきます。柳田はそういう犯罪記録を役所で調べていて感銘をうけ、その話を田山花袋に語ってきかせるのです。柳田が書いているところでは、田山花袋はそれはとても特殊で、あまりに深刻すぎて文学にはならないといって、小説にすることはできなかった。自然主義は客観描写、現実暴露の悲哀みたいなことをいうが、その描写も現実もたいしたものではない、そう柳田は書いています。
 これは柳田國男自然主義文学にたいする根本的な批判だったとおもいます。そうはいいながら青年期に抒情詩人として柳田國男の仲間だった人たちが自然主義文学の主流をつくっていきました。田山花袋国木田独歩、太田玉茗、島崎藤村といった人たちがそうです。柳田国男はそういう人たちの作品に素材を提供しています。誰だってこういう境遇だったらこういうふうにしちゃうのじゃないかとおもわれる犯罪記録などを、感銘をうけると素材として語ってきかせるわけです。たとえば田山花袋に『一兵卒の銃殺』という作品がありますが、それはじぶんが提供した素材で田山花袋が書いたといっています。
(略)
 柳田國男にも反省はあります。自然主義文学のまえに現実を客観的におそれず描写することが重要だと最初に身をもって示したのは二葉亭四迷だと柳田國男は書いています。なるほどこういう描写の仕方があるものなのだと感心したけれど、好みからいうとどうしてもそれについていけなかったと述べています。小説というと、美男子と美女とが出てきて、恋愛を育んでゆくという才子佳人の活躍する物語という通念がどうしてもじぶんのなかにあって、現実暴露ということになると、ついていけなかったというのです。田山花袋たちの自然主義にたいする柳田國男の反撥もある意味ではとても根深いわけです。そこに柳田國男なりの「歌のわかれ」があって、じぶんの農政論や民俗学の方向にいく道をつけていったとおもいます。一方、田山花袋は美男と美女のでてくる夢のような物語が文学じゃないという道をつきつめていったわけです。そして自然主義文学が同時代のおもな思潮になるところまで、田山花袋を象徴的な担い手として移っていきました。
(略)
[『蒲団』のあらすじを説明し]
妻君が死んじゃったら、あの女をひきいれてということを誰も空想したことがないというのは嘘なので、どんな人でも空想することがありうる。それは万人に共通なものだというのが自然主義文学の確信のひとつです。もしそうだとして妄想のなかでやっているのだとすれば、それを描写してあきらかにすることくらいができなければ文学とはいえないのじゃないかというのが花袋らのもうひとつの確信でした。この二つの確信が『蒲団』のなかに含まれています。真っ当だというこの二つの確信が、柳田國男にとってきたならしく人間の卑小さを示すだけで、何の意味もないことにおもえました。皆さんはどうおもわれるでしょうか。文学という立場からは田山花袋の感じ方を肯定せざるをえないとおもいます。またそれを描くことも自由だとおもいます。文学にはその種の制約は何もないのです。
(略)
平凡な人間の卑小な行為もあまり崇高でない行為も全部真実であるかぎり大胆に描かなければならないという自然主義の理念、思想は、だんだんと私小説の身辺雑記みたいなところに凝縮していきます。でも日本の明治以後の文学が西欧近代に近づいてゆくためには一度はくぐるべき重要な理念、思想だったとおもわれます。
 柳田國男自然主義にたいする批判は、いい点ばかりだとはおもわれません。社会の悲惨や政治の悲惨や制度の悲惨をみている柳田國男の場所はかなり特別な(特権的な)高みの場所だからです。つまり悲惨の真只中にいて悲惨を問題にしているわけではありません。
 さきの『山の人生』に描かれている悲惨な炭焼きの話もそうです。この犯罪を、柳田国男は敏感に反応して、悲惨が社会や政治の制度に原因があり、その場所にいれば誰にでも犯罪を犯す可能性がある自然権的な善だとみているわけです。柳田國男がこの悲惨の外に、むしろ裁くものの場所にいるということが、逆に悲惨にたいして敏感にしているともいえます。田山花袋が『蒲団』で描いている女弟子にまつわるゴチャゴチャみたいなことは、悲惨でも何でもない瑣末な出来事で、しかも主人公が賢明ならば避けられることかもしれません。しかし花袋にとって目の前におこったもっとも切実な課題だということで『蒲団』という作品は書かれていることはたしかです。花袋からすれば社会的事件でないから問題にならないとか社会的悲惨だから重要なのだという観点はないとかんがえられています。柳田国男の批判は一面では深刻な響きをもちますが、一面では外側の遠くにいて傍観しているからそういえるのだ、ともかんがえられましょう。もっといえば柳田國男はごく普通の人がどんな瑣末なことにあくせくかかずらわりながら生活しているのかほんとは知らないのだと花袋はいいたいのだとおもいます。(略)
[『蒲団』の]世評が高まれば高まるほど柳田國男は反撥して、もう『蒲団』の評判を聞くのもいやでしょうがないというふうになって、それから以後しばらく田山と行き来しなくなってしまった、しかしよくかんがえてみると、そのとき花袋は花袋なりに、自然主義文学は自然主義文学なりに成熟していった時期だとおもうと柳田國男は書いています。

行動的文体。柳田と田山、互いの影響。

田舎教師』の文体は行動的な文体です。(略)主体が行動していることを主体が描いているという文体をもっています。(略)
 羽生からは車に乗つた。母親が徹夜して縫つてくれた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯、車夫は色のあせた毛布を袴の上にかけて、梶棒を上げた。何となく胸がおどつた。
[「清三は」と主語をつければ]記述者あるいは作者がひとつの場所にいて、清三という主人公が羽生から車に乗ったところを描写しているという文体になるはずです。ところがいまのようにいきなり「羽生からは車に乗った。」といったら、清三という人がじぶんの動作をそういっているように皆さんに(読者に)おもえてくるわけでしょう。(略)
「羽生から」のつぎに「は」という助詞をつけたのは文体上たいへんな意味があるのですが、「羽生からは車に乗った。」といったら、車に乗っている清三が単に乗っているじぶんを描いているふうにきこえるでしょう。つまり何をいいたいかといいますと、「清三」という主語を省いたことと、(略)この「は」をつけるかつけないかというその二つのことで、文体にふくみができるわけです。そのふくみがなぜできるかといいますと、客観描写のように清三が車に乗ったことを作者が描いているのだともうけとれますし、また「羽生からは車に乗った」というと清三が車に乗ることを清三自身が書いているようにもとれるわけです。その二つのうけとられ方の幅が読む人にふくみを与えるのです。
(略)
この作品の行動的文体が、柳田國男の『遠野物語』の文体とよく似ているということです。(略)
この種の文体で『遠野物語』を書いているばあい柳田國男はどんな主題をとり上げているかといいますと、たいていは里の人が山に行って、山人に出会って夢うつつのうちに奇怪な出来事に出あったということになっています。この特徴がなければ『遠野物語』は昔話を誰それから聞いて、記録しただけということになります。(略)
ここですぐに、柳田國男は『遠野物語』を書くときに花袋の『田舎教師』の影響をうけたといいたいわけではありません。またそれを確定することはとても難しいことです。
 また逆にこの『田舎教師』の行動的な文体は『遠野物語』の文体から田山花袋がうけとったのだということもなかなか困難です。
(略)
[『田舎教師』のもうひとつの特徴は]一種の「地名小説」だということです。それからもうひとつ野原に咲く花「花づくしの小説」なのです。それからもうひとつ、一種の「歴史地史を描いている小説」ということもできます。つまり、地名とか、野原の花の名とか、地勢地形のなかに一人の孤独な文学好きの埋もれていく青年教師をおいた物語といえるとおもいます。(略)
花袋は紀行文を初期の頃たくさん書いています。その紀行文の延長線でひとりでに花袋の初期の特徴がこの『田舎教師』のなかに出てきているわけで、この描き方は柳田國男がどこそこの地誌を描くときの描き方とたいへんよく類似しております。それもまた、どちらがどちらに影響を与えたと確定することは難しいのですが

太宰治

太宰治が、志賀直哉を『如是我聞』(略)の中で、「俺は読者にサービスしている。」志賀直哉っていうのは、ちっともサービスしていないじゃないか。いつでもエゴの絶対なところで自分の感想に似たものを書いて、それで愉快だったとか不愉快だったとかいう言葉で小説を書いているだけじゃないか。そう志賀直哉を攻撃しているところがあるんです。俺はそうじゃない、読者にどうやったらおいしい料理を提供できるか、ということをたえず考えて苦しんでいる。
(略)
 それからもうひとつはさきほども言ったとおり、倫理ということに関連するわけです。志賀直哉に対してお前の小説は詰将棋だ、つまり必ず詰むに決まっている詰将棋じゃないか、だけど俺のはそうじゃない、俺は詰むか詰まないか、いつでもわかんない、っていうそのおののきっていいましょうか、そういうのが俺の小説にはあるんだ。つまり俺はそういうふうにしか小説を作ってないと述べています。
(略)
いまでもその問題はとても切実なんです。誰か具体的に挙げられるといいんですが。例えば大江健三郎の小説はサービスのない小説なんですよ。だけど、例えば村上春樹の小説はサービスしている小説だと思います。もっと、例えば、村上龍はもっとサービスしていると思います。
(略)
[太宰の批判はある意味、当時より、現在の方がもっと切実で]
だけどあんまりサービスするとサブカルチャーのエンタテイメントになっちゃうぞ、という言い方まで広範に拡がっています。
(略)
 僕なんかに言わせれば、大江さんの『懐かしい年への手紙』なんていうのはもう文学じゃないよってことになりそうです。(略)ちょっと読んじゃいられないよ、これを本当に読んだ人がいたら、お目にかかりたいもんだ。僕を除いてはそんなにいないはずです。それほど読めない小説なんです。
(略)
僕に言わせれば、売文っていうことの最小限度の心構え、最小限度のモラルは、自分が旅芸人だっていう自意識です。つまんねえことを言って歩いて、それで金もらってるやつなんで、要するに普通の人の生活からどこかでそれちゃったんだ、そこのとこが後ろめたいんだっていうのが、たえずどこかにあるのです。だから普通の人っていうのが何なんだ、普通の人っていうのはどうなんだっていうことが、たえず気に掛かってしようがないはずなんです。
(略)
 大江さんの小説や言動に何が足りないかといえば、それが足りないんです。あの志賀直哉に何が足りないかっていえば、太宰治にいわせればそれなんですよ。つまり、どっかで、普通の人より上等だと思っているところがあるんですよ。志賀直哉にもあるんですよ。そんなことを俺は思ってないっていうかもしれないけれど、それはもう無意識の領域まで入ってきますからね。(略)太宰治がサービスって言っている部分には普通の人から自分は落っこってるっていう意識がものすごくあると思うんです。だからいつでも普通の人とか、普通の人の生活とか、健康な生活が気に掛かってしようがないっていうことがあると思います。それは僕に言わせれば、芸術がかつて芸術であった時代に本質的にあったもんなんです。それがまた、太宰治の作品を永続する古典にさせているし、いまの人たちに読ませている、何かだと思いますね。
 僕は、大江健三郎の『懐かしい年への手紙』などを誉めている批評家なんて、全くだめな野郎だっていう(場内、笑い)ふうに思ってます。つまり、しようがないやつだと思ってます。そんな作品じゃないんです。ちょっと読んで御覧になればいいですよ。何か海外的規模のイモじゃないかっておもいます(場内、爆笑)。これはイモの知識自慢じゃないか。こんなのが小説になるわけはない。つまりテキストからテキストヘ渡り歩いたっていうことを自慢たらしく書いたことが、どうして文学作品なのでしょうか。そういう問題だと思うんです。
(略)
メキシコ行ったとか、どこ行ったとかいって、何を頼まれて、こういうことをお話したとかって(略)
どうして文学作品になるかということが問われるべきだと思います。
 太宰治にもあります(略)新潟高校へ行って講演した時の、「みみずく通信」っていう作品などそうです。僕は好きな作品です。そういうことを書いただけなんですが、あれはりっぱな文学作品だと思うんです。イロニーが沢山ありますが、やっぱり自分が旅芸人だという思いがちゃんとあるからだと思います。それは、かろうじて芸になっています。
 しかし、志賀直哉はそれを、そういうふうに読めなかったんです。なぜかっていえば、真面目な人だからです。主観的に真面目な人で、自分を無意識に偉いと思っているからです。だから、この「みみずく通信」っていう作品を読んで、「俺は不愉快だった」と、こういうふうに批評をしたわけです。つまり不愉快だった。なぜかって、こいつは卑下しているように見えて、やつは新潟高校へ行ってしゃべって、そのことを自慢たらしく書いていると受けとったのです。
(略)
[それに対し太宰は志賀の「小僧の神様」こそ自慢話だと言い返した]
おごられた方の小僧さんの気持ちが、どういうものかお前は全然分かってない、わかろうともしない、お前の文学はいつもそうだと言ってるわけです。それに対して、自分の「みみずく通信」は、そうじゃない、お前は全然読み違いしているということを言っているのだとおもいます。
 そこの問題は、いまはその当時よりもっと切実なんです。いまは戦後すぐの時よりもっと、文学の世界、売文家の世界はもっとこわれているんです。そしてある意味じゃとても鮮明なんです。文章をひさいで食っているヤツと食わないヤツと、大いに食ってるヤツとそうじゃないヤツの区別は、とても鮮明になっていて、双方ともに居直らざるを得ないところです。そういう場面がみんなきついところなんです。
(略)
日本からメキシコから広島の原爆から渡り歩いて、おしゃべりして金貰って社会の木鐸というか、お手本になるみたいなことを文学作品のなかに書き込んだりしていると、そりゃもう思い違いだよ、ということがあると思うんです。

  • オマケ

月報8---「鮎川信夫吉本隆明」瀬尾育生

[鮎川と吉本の交友が始まった]時期について年表を作ってみると――
48-49ベルリン封鎖 49ソ連初の核実験 50朝鮮戦争 53スターリン死去 54吉本「荒地詩人賞」 55ワルシャワ条約機構設立 56ハンガリー事件 58鮎川信夫解説『吉本隆明詩集』ユリイカ版……
 鮎川・吉本の出会いが、日本の無条件降伏から始まる「戦後」よりは、むしろ朝鮮戦争後の「戦後」、いいかえると世界のシステムが「冷戦」体制として構築されてゆく時間と重なっていることが見えてくると思う。
(略)
[十数回の対談の話題は]主題が何であれ、前面に出たり背後に隠れたりしながらつねに対話に情動の強度を供給していたのが、ソ連批判であり、その系統につらなる日本の左翼・進歩派のコンフォーミズムヘの激しい拒絶だった。
 二人の論旨を比較してみると、これは冷戦を過去のこととして見ている今だから言えることかもしれないのですが、鮎川さんにおいて「冷戦」という状況が、不断に変容をはらみながらも、はるかに長く――ほとんど摂理と言えるほどに――持続すると考えられていたように思う。だからこそ世界システムのなかでの米ソの核戦略とそのリアル・ポリティクスの分析にあれほどの情熱を傾けることができたし、また文学的関心を、このなかば永続的な世界観権力のもとで激しく孤立している人間像に対して、やはり永続的なものとして、向け続けたのだと思う。ソルジェニーツィンがつねに彼の関心の中心にあり、デルモア・シュワルツを主人公とした「必敗者」という作品が、詩人という存在の宿命的を語するものになっている。
 だが吉本さんにとって、認識は微妙に違っていたと思う。冷戦についての吉本さんの判断は、1963年の「非行としての戦争」あたりからすでに明確になっているのですが――もはや古典的な「戦争」も「平和」も存在しない。それら古典的な表象をたよりにした「反戦運動」も「平和運動」も意味を持たない。帝国主義的な平和と帝国主義的な戦争との「同在」こそが、情況の本質である。核兵器の高度化は世界の破滅の接近を意味するのではない。それは「平和の中の戦争」の高度化、《生産交通の収奪戦》の高度化以外のものを意味してはいない。したがって課題は核兵器の廃絶などではない。世界規模での《生産交通の収奪戦》の克服である……。
 20年後の80年代初め、吉本さんはこの姿勢の延長上で、80年代はじめポーランドの労組「連帯」の運動のなかに、あらたな世界秩序への展望を描くことになる。冷戦の変容と崩壊に向かっての吉本さんのコミットは終始具体的実践的なもので、30年後に社会主義圈が崩壊しても、50年後に核兵器の問題が原発問題に置き換わっても、変更する必要がないくらいの射程があった。
(略)
では鮎川さんはどうか?(略)日本語に翻訳される前の、早い時期のハンナ・アーレントが何度か言及されているのに気づく。アーレントクリント・イーストウッドに代表されるもの。アメリカの共和主義。(略)鮎川さんが体現していたのは、冷戦の中で凍結されたアメリカ独立革命の理念だった。戦後とても早い時期から鮎川さんは、それを政治理念としてだけではなく、無名にして共同なるものの複数性――という詩作品形成の理念としてとりだしてみせた稀有な詩人、特異な革命思想家だったと思う。
 フランス革命の内在的批判から出発したマルクスを引き継ぐようにして、ロシア革命に対する批判を徹底し、それを突き抜けるように思想を展開した吉本さんと、アメリカ独立革命理念の流れを引く鮎川さんとの間には、革命の像を巡って、ほんとうは激しい齟齬が存在したに違いない。だが二人はともに20世紀前半の世界戦争の時代からやってきて、冷戦の時代をとおして「共闘」を実現した、日本戦後の革命思想の両極だった、と言ってみたい気がするわけです。
(略)
[月報9に続く]