ワード・オブ・マウス ジャコ・パストリアス 魂の言葉

生い立ち、音楽的バックグラウンド

父親はギリシャ系で(略)ドラマーで歌手なんだ。フランク・シナトラとかトニー・ベネット風のジャズ・シンガーだ。もちろん現在も現役としてやっている。

(略)

僕が7歳になった時、両親は離婚してしまい(略)母と一緒にフロリダに移住することになった。(略)アメリカとキューバが国交を断絶する前だったから、フロリダではキューバの音楽がとても盛んだったんだよ。トリニダッドのカリプソとかスティール・ドラムのバンドなんかもよく聴かれていたね。ラジオでもこの種の音楽がしょっちゅう放送されていた。フロリダではこのほかに、R&Bなんかのブラック・ミュージックも盛んで、僕は11歳か12歳になる頃には、ジェームス・ブラウンとかオーティス・レディングウイルソン・ピケットのファンになっていたよ。一方、父がドラマーだったので、子供の頃からドラムをよく叩いていてね。当然のようにリズムには特に感受性が強かった。だからフロリダで聴いたカリブ諸島の民族的なリズムは、僕のリズム感に大きな影響を与えたんだ。

(略)

ベースは15歳になった春(略)

ジャズを自分で聴き出したのはこの頃からで、母親のベッドの下のほこりにまみれた(略)マックス・ローチの(略)チャーリー・パーカーの曲ばかりを演奏したアルバムだった。もちろん最初、僕はチャーリー・パーカーのことなんて皆目知らなかった。家にあったレコード・プレイヤーがまたひどいもので、ベースの音なんてはっきりとは聴きとれないような安物だった。でも僕は、トランペットとテナー・サックスが吹くメロディを聴きとって、その曲のラインを記憶すると、そのラインがどのコードになっているかをピアノで探り出し、それに番号をつけたりして、ベースで弾き始めたんだよ。自慢じゃないけど僕は記憶力がとても良くてね。その上ベースを弾くにはいい具合に手も大きかったから、上達は早かったと思う。一度弾いたスケールは記憶できたし、いくつものラインをいく通りにも弾いたりして、どんどん覚えていったんだ。こうしてベースを手にしてから間もなく、パーカーの6曲を弾けるようになった。

 実際のところは、ベースを始めて1週間目で僕はもうR&Bのバンドに入って仕事をしたんだ。もともと学校で勉強をするのはあんまり好きではなかったしさ。でも、学校ではいつも成績は優秀だったよ(笑)。高校生の身分で、朝方の4時頃までナイト・クラブで演奏し、2~3時間の睡眠をとって、午前7時頃には学校に出かけるなんてことをよくやってたよ。

影響を受けたベース・プレイヤー

▼では、影響を受けたベーシストと言えば誰?

(略)ジェームス・ジェマーソンジェームス・ブラウンとプレイしていたバーナード・オーダム、アレサ・フランクリンとやっていたジェリー・ジェモットかな。でも、僕が一番インスピレーションを駆り立てられるのは、いつもフランク・シナトラなどのシンガーだった。歌い手というのは、パーソナルな表現に秀でているからね。僕がベースをプレイすると、ほとんどの人が、これは僕だと言い当てることができる。なぜなら僕は、そういうパーソナルなものを自分のベース・トーンに織り込もうとしているからだ。

自由と現実が訪れる街、フロリダ

少年時代のジャコの友人(略)ボブ・ボビング[回想](略)

「(略)ふたりともソウル・バンドでベースを弾いていて、宗教はカトリックで、ハイスクールで建築製図を学んでいた。共通する部分が多かったんだ。また僕たちはホンダのオートバイを持っていたんだよ。赤、白、黒の3種類があったホンダのニューマシンは、ごく普通の少年にとって抗しがたい魅力を放っていてね。今日に至るまで、僕は初めて新しく買った白の"ホンダCB-160"に乗って走り回ったときに勝る経験をしたことはないよ。ジャコもホンダに魅せられ、新聞配達で貯めたお金で黒の"ホンダ・ブラック90"を買ったんだ。ティーンエイジャーにとっては、オートバイに乗ればどこにでも行けるという自由を新しく発見したようなものだったんだ。当時、フォート・ローダーデイル周辺は、白い砂浜と南国的な気候で、美しい冒険の世界という雰囲気を持っていた。まるでこの世の楽園のような場所だったんだ。大きな転換期にあったアメリカという国から完全に隔離されていたよ。変化の時代だった60年代。(略)社会的、政治的な問題は、南フロリダで育っているふたりの少年の頭からは抜け落ちていた(笑)。そんなことよりも、頭のなかは週末のダンスとバンドのリハーサルのことで占められていたよ。ジャコもとても前向きだった。彼は元気に満ちあふれ、楽しく音楽に打ち込んでおり、人生をエンジョイしていた。彼にとってまるでエデンの園のような時代だったと思うよ。僕が当時録音した、ジャコの初期のレコーディングを聴くと、メロディに関する彼ならではのアイディアが無数に散りばめられていて、ファンにはお馴染みの特徴的なプレイの萌芽を随所に発見できる。すでに才能が開花した演奏からは、後年の彼のベスト・プレイにも匹敵するファンク・ラインやソロも聴き取ることができるよ」。

(略)

▼(略)フロリダの良さはどんなところにあると感じている?

 フロリダには本物のリズムがある。それは海のせいだ。カリブの海には何か特別なものがある。そこから来た音楽がみんな本物のリズムを持ってるのは、そのためなんだよ。うまく説明できないけど、僕にはそれがわかるんだ。その場にいると、それが感じとれるんだ。カリブ海の水はほかの海の水とは違っていて、少し冷たい。フロリダでは波もそんなに立たない――ハリケーンがこなければの話だけどね。ハリケーンの時はまたほかのどこよりもすさまじく荒れ狂う。フロリダの音楽もそれと同じで、リズムは洗練されてなくても、ノリがスムーズで、それが知らないうちに聴いてる者を引きずり込んでいく。いつのまにか心が奪われてしまうんだ。

(略)

フロリダは音楽的に偏見がないところが素晴らしい。

(略)

どんな音楽スタイルをプレイしようと、誰も気にしなかったからね。純粋にライヴを楽しむのがフロリダの流儀だ。

(略)

ナイト・クラブでは、どんなスタイルの音楽でもやった。時には楽器も持ちかえたりした。テンプテーションズではキーボードをプレイしたし、フォー・シーズンズの場合はギターを弾いたよ。僕はいろんなことをやることによって楽譜を読むことも練習したんだ。最初にやったステージは、メルバ・ムーアとだったんだが、その時は一応楽譜は読めてたけど、ステージ全体を通してとなるとまだ不十分で、緊張のしっぱなしだった。ピーター・グレイヴスという僕にとっては最高のミュージシャンがいるんだけど、彼は僕のデビュー・アルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』にも参加していて、僕の知る限りでは、最高のベース・トロンボーン奏者だと思う。その彼が、僕を作曲家として雇ったことがあったんだ。というのは、彼は僕のことを曲を書くやつとしか思っていなかったんだ。僕は曲を書いていたけど、曲を書くほどうまく楽譜は読めなかったわけ。まあスローだったんだな(笑)。それを知った彼は僕のためにつきっきりになって教えてくれた。そのおかげで彼とのステージで一緒にやった曲はひとつひとつの音まで暗記しちゃったよ。だからコードから何からすべて記憶でやっちゃったくらいだ。そういうことがあって、1年以内に僕自身がビックリするぐらい楽譜には強くなった。そのうちフロリダでの僕の評判は最高になっていたんだ。

(略)

僕は自分の好きな音楽に関しては、一度聴くと忘れなくて、すぐ歌ったりすることができたんだ。特に、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』なんかだと、メンバーのひとりひとりがやっていることがすべて頭の中に入ってしまった。

(略)

[18歳で結婚したから]僕はやれることはなんでもやったさ。(略)音楽を正式に勉強したわけじゃないけど、写譜の仕事をやっているうちに、譜面が読めるようになっていったね。

(略)

▼楽譜は読めたの?

 うん。自分で覚えたよ。あれは簡単さ。譜面をまったく読めない時にショーやギグを頼まれ、金をもらうためには必死で覚える以外に道はないからね。そういう状況に自分を追い込めば一晩で読めるようになるよ。耳に全神経を集中して覚え、あとは試行錯誤だ。僕はそうやって覚えたんだ。

カリブ海の船旅をする、観光クルーズ船の専属バンドに雇われていたこともあるそうだね。

 それはけっこう楽しい経験だった。音楽的にという意味ではないよ。(略)カリブ海のいろんなところに行ったことさ。メキシコに2日間、それからジャマイカバハマ諸島、ハイチといった具合にね。出航して1週間後の土曜日の正午に帰ってくる。そしてまた数時間後に出航、というサイクルのくり返しだった。船が港に着いた時は、よく街に出て通りをぶらついたよ。ウェイラーズのメンバーと親しくなったこともあった。それを辞めたあとは、フロリダでカントリーやソウルのバンドで働いた。アメリカ本土に入ってきて流行り始めたばかりのレゲエなんかもやったよ。残念だったのは、フロリダには誰もそれらを語り、心を許しあえる仲間がいなかったってことだ。ミュージシャンの友人はいたけど、全国的な水準にはほど遠い人たちばかりだった。そういったことを話し合える友達すらあまりいなかった。ニューヨークなんかにあるような、志を同じくした若いミュージシャンのグループもなかった。彼らのやることと言えば、喋ったり、食べたりするだけで、僕にとってはちっともおもしろくなかった。

ロン・カーターフランク・シナトラ

僕がジャズのベース奏者で真剣に耳を傾けたのはロン・カーターひとりだった。(略)

あの頃のマイルス・グループの音楽は、いつ聴いてもいい気持ちになった。そして僕は『ソーサラー』のロンのベース・プレイを聴いて、彼がウォーキングベースで生み出すフィーリングや、マイルス・バンドの音楽が持っている独特のフィーリングの中で、ロンがどういう風にベースを弾いているかといったことを参考にした。僕はベースを弾くけれど、作曲することも大切だと思っているから、レコードを聴く時はベースのラインを聴くだけといったような聴き方はしない。音楽として聴き、作品として聴くんだ。しかも好きなのしか聴かないから楽しみで聴く場合が多いけど、聴けばその作品がどうなっているかが同時にわかるんだ。

(略)

▼ジャズで一番大きな影響を受けたのは、やはりチャーリー・パーカー

 一番とは言わないけれど、大きな影響を受けたのは事実だ。彼は本当に素晴らしいラインをプレイするからね。チャーリー・パーカーのプレイの仕方が僕は大好きなんだ。(略)

フランク・シナトラは最高だね。(略)彼の声域は、僕がプレイする音域とほとんど同じなんだ。バリトン・テナーの音域に近いと思う。僕はその音域でプレイするように心がけている。その音域では、僕は本当に歌えるし、ひとつひとつの音のクオリティに集中することができるんだ。それが難しいところなんだけどね。だから、どんなに速弾きをしている時でも、流れていくひとつひとつの音を考え、そこから最大のものを引き出すように心がけている。

(略)

▼あなたの音楽をフュージョン・ミュージックというファンも多いけど、それに対してはどう?

 フロリダ時代から僕は、今とまったく同じことをやっていた。ジャズとR&Bのコンビネーションをね。僕はレコード会社が騒いでいるバカげたフュージョン・ミュージックなんか好きじゃないよ。僕はジャズとR&Bが好きなんだ。というか、ジャズこそR&Bとも言えるんだ。チャーリー・パーカージェームス・ブラウンとか、僕はそんな人達を聴いて育ってきた。僕の音楽をフュージョン・ミュージックなんて呼ばれるのはイヤだ。まあ、誰が僕のことを何と言おうと関係ないよ。僕はただのミュージシャンであり、ベーシックなベース・プレイヤーなんだ。(略)

リトル・ビーヴァー

 1974年、ジャコは、憧れていたファンクの人気スター、ウィリー"リトル・ビーヴァー"ヘイルのアルバム『パーティ・ダウン』のなかの「アイ・キャン・ディグ・イット・ベイビー」に1曲だけ参加した。(略)

[リトル・ビーヴァー回想]

「俺はミュージシャンにいつも指示を出していた。(略)だけど、ジャコの場合は違った。あいつには何も言う必要はなかったよ。言わなきゃいけなかったのは、"もうちょっと、ゆっくりやれよ"くらいのものだった(笑)。あいつはベースをギターのようなフレーズで弾いていた。だから俺としては、そのプレイを邪魔しないように気をつけていたんだ。本当にファンキーだったよ。聴いたこともない曲でも、あいつにかかっては何の問題もなかった。すごかったのはイントロのプレイだ。ハーモニクスで演奏するんだぜ。それがあいつさ。本当にクレイジーだったよ(笑)。とにかく、白人のガキがこれだけファンキーに弾けるのには驚いたね。きっと、これまでいい音楽を聴いてきたんだろう(笑)」。

パーティー・ダウン

パーティー・ダウン

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カルロス・ガルシア

[ボブ・ボビングのバンドが出演したクラブの対バンの]

カルロス・ガルシアというベース奏者は信じられないほどユニークだった(略)ジャコに話すと、ジャコは早速、翌日にはカルロスを観にクラブにやって来た。それは有意義な、歴史的とも言える夜だった(略)

 最初にジャコが注目したのは、アコースティック360のベース・アンプ。そのアンプは奇妙な形をしていたが、明らかにそれまで聴いてきた中で最高の音を出していた。その上、カルロスの独特のスタイルは大いに目を奪った。ときどき左手でミュートをかけて、新しい次元のパーカッシヴな響きを作り出すというものだ。(略)

「ジャコはカルロスを観て、"あのミュート・スタイルは、絶対に掘り下げてみる価値がある"と言っていたよ。そして演奏が終わると、僕たちはステージにいるカルロスのところに行った。カルロスが、スピーカーはキャビネットのなかで裏側に向いていると話すと、ジャコがひどく興奮していたのを覚えているよ」と、ボブは当時をふり返る。

 その翌日、ジャコとボブは楽器店に行き、アコースティック360を2台注文したという。(略)

ジャコ奏法の確立へ向けて

▼わずか1年の練習で、どうやってこれほどまでに豊かなベースの知識を身につけられるのかな?

 耳をオープンにしておく。それだけさ。僕の音楽知識の大半は、演奏体験を積む中で培われたものだ。

▼プレイを始めた頃は、ピックを使っていたの?

 いや親指が先だ。一ヵ月ぐらい親指だけでプレイして、その後にほかの指も使い始めた。

▼どうやって右手のテクニックを身につけていったのかな?

 右手の練習は一度もやったことがない。自然に弾けるようになったんだ。最初の2本の指(人差指と中指)で弦をはじき、ほかの2本の指はミュートに使った。飛びまわる時は親指もミュートに使ったね。一番難しかったのは、プレイしていないストリングスを鳴らさないことだった。「ドナ・リー」なんかを聴いてもらうと、ノイズを出さないようにプレイしていることに気がつくと思うよ。

▼具体的にベースで行なった練習は?

 何年間もありとあらゆるスケールの練習はした。でも大半は3和音(トライアド)に関することだ。これは今までのベース・プレイヤーが練習してこなかったことだよ。だから僕がまるで新しい何かをプレイしているように聴こえるわけだ。ひょっとしたら、実際にそうなのかもしれない。でも僕はそれが当たり前のことだと思っていたんだ。だって、ピアノ・プレイヤーがウォーミング・アップをする時、あるいはソロなんかをとる時、そんな3和音を駆使してプレイしているじゃないか。でも、それをベースでやるのは至難の業なんだ。3和音を演奏するということがね。3和音を速弾きするのは物理的にものすごく難しいよ。だから3和音スケールをうまく使わないといけない。ドミナント・トライアド、またはメジャー7のトライアドは練習しないとね。全音階スケールであればどれでもいいから、そのスケールの各コード・ナンバーから離れたところでアルペジオをやってみるといい。おそらくこれはベース演奏で最も難しいことのひとつだ

(略)

僕は本当にそれを"オン・ザ・ジョブ・トレーニング"だけで身につけたんだ。振り返ってみると、6年前にウェイン・コクランのバンドを辞めるまで、僕はずっとそれをやり続けてきたけど、そのあとはまったく練習してこなかった。いや、弾き始めた頃、ベースの音がどこにあるかを確かめたことが唯一の練習と言えるかもしれない。音がどこにあるかを覚え、いろんなキーで演奏すること、それだけさ。あとは、ひたすら外で仕事をこなした。ほんと、音がどこにあるかを確かめることは数日もあれば充分だったよ。数学的に考えるだけでいいんだからね。みんなあまりにも音楽的に考えすぎるんだよ。数学の基礎さえ身につけていれば、そこからどんな風にでも応用可能なんだ。

 練習に関して言えば、1972年にウェイン・コクランのもとを去ったあと、1年くらいだったと思うけど、かなり真剣に練習した。1日数時間、どんなに忙しい時でも1時間から4時間は練習に費やした。その時間はものすごく集中してやった。

(略)

いったん僕が集中するとまわりの存在がすべて消えてしまう。それぐらい集中すると、モーター・スキルのようなもので手が勝手に動き出す。(略)

モーター・スキルが得られたあとは、メロディを考え始めてもいい。その時点では、どこにでも自分の思いのままに動くことができるはずだから。(略)

ビ・バップの譜面

[アレックス・ダーキ回想]

「僕のアパートメントには、古いビ・バップ曲の譜面があってね。チャーリー・パーカーの「ドナ・リー」や「コンファメーション」、「デクステリティ」など、とにかく素晴らしい曲がたくさん載っていた譜面集なんだけど、それを部屋に置きっぱなしにしていたんだ。するとジャコは、それに載っている曲を初見で次から次に弾き始めた。とにかく、暇さえあれば弾いていたよ。彼はビ・バップの曲が好きだったんだね。メロディラインが好きだったんだと思う。そこで弾いた曲たちは、彼にとって大いにプラスになったはずだよ。掲載していた曲はほとんど全部、一緒にメロディを演奏した。最終的には譜面なしでも演奏できるまでになったよ」。