一四一七年、その一冊がすべてを変えた

 

1417年、元教皇秘書のブックハンター・ポッジョが見つけた写本には「万物は目に見えない粒子でできている」「宇宙には創造者も設計者もいない」「神の摂理は幻想である」といった「きわめて危険な思想」が美しい詩によって記されていた。

第一章 ブックハンター

 一四一七年冬、馬に乗ったポッジョ・ブラッチョリーニ(略)目的地は、古い写本を所蔵していると評判の修道院である。(略)
 当時の南ドイツは繁栄していた。壊滅的な三十年戦争が田園を荒廃させ、この地域のすべての都市を破壊し尽くすのは、まだずっと先のことである。
(略)
 彼が通りすぎるのを見かけた人々にとって、さぞかしポッジョは不可解な人物に見えたことだろう。当時はほとんどの人々が、自分が何者で、階級社会のどの部分に位置しているかを、はっきり目に見える形で示していた。それは、染料が染みついた染物師の手のように、誰でも読みとれるものだった。ところがポッジョには読みとれるものがなかった。孤立した個人は、家族や職業という組織から外れた者とみなされ、ほとんど意味をなさない存在だった。重要なのはどこに属しているか、さらには誰に属しているかだったのだ。
(略)
 家、血族関係、ギルド、組合――これらは人であることの基本要素であった。独立性、自立性は文化的にはまったく価値がなかった。(略)
[命令と服従の]連鎖を断ち切ろうとするのは愚かな行為だった。(略)罰として鼻を切り裂かれたり、首の骨を折られたりしてもおかしくない暴挙だった。そんなことをして何になるというのか?選択の余地などなかったのである。(略)最善の道は、運命が割り振ったアイデンティティを謙虚に受けいれることだった。
(略)
 では、ポッジョとは何者だったのか?(略)彼はなんの印も身につけず、売り物の品も持っていなかった。上流社会になじんだ者特有の自信に満ちた雰囲気を漂わせていたが、本人は地位の高い人物ではなさそうだった。
(略)
 彼が探し求めていたのは(略)精巧な装飾と見事な装丁によって字の読めない人々にもその価値がわかるような類の本ではなかった。(略)
彼が探していたのは古い写本で、その多くはかびが生え、虫に食われ、どれほど訓練を積んだ読書家でもほとんど判読不能のものばかりだった。
(略)
この男は誰に仕えているのか?
 ポッジョ自身、返答に窮したかもしれない。ごく最近までローマ教皇に仕え、それ以前も、何人もの教皇に仕えていた。ポッジョの職業はスクリプトールという、教皇庁の官僚組織で働く公文書の書記官であった。その如才なさと狡猾さによって、教皇秘書という念願の地位にまでのぼりつめた。そして、教皇の間近にいて、その発言を書きとめ、最高意思の決定を記録し、優雅なラテン語で長文の外交書簡をしたためた。教皇庁の公式の場では、絶対的な支配者のそば近くにいることが大きな強みとなり、ポッジョは重要人物であった。教皇が耳元で何かささやく間、それを謹聴する。それから今度はこちらからささやき返す。(略)「秘書」という言葉が示唆するように、ポッジョは教皇の秘密を知る立場にあった。
(略)
[だが]もはや教皇秘書ではなかった。(略)情勢が一変した。ポッジョが仕えていた(略)畏怖の対象であった教皇はそのとき、すなわち一四一七年の冬、ハイデルベルクの帝国監獄にいた。肩書きも、名前も、権力も、尊厳も奪われたうえに、公の場で恥辱を受け、自身の教会の諸侯からも非難された。「神聖にして絶対的な」コンスタンツ公会議は次のように宣言した。教皇はその「忌まわしく見苦しい生活」によって、教会とキリスト教世界に不名誉をもたらした。よって、教皇という高貴な地位にとどまるのは適当ではない、と。(略)彼を教皇と呼んだり、その命令に従うことは禁じられた。(略)これは空前絶後の大事件であった。
(略)
ヨハネス二三世の政敵たちが勝利し、今やすべてを牛耳っていた。かつてポッジョに開かれていた扉は、固く閉じられた。(略)嘆願者たちは、教皇のご機嫌をとる手段として、その秘書のご機嫌をとっていたものだが、今ではみんなそっぽを向いていた。ポッジョの収入は突然途絶えた。(略)
 それなのに、なんとポッジョは、この苦難の時期に(略)本探しを始めたのである。

ポッジョ自身は修道士でも司祭でもなかったが、ローマ教皇庁に長く仕えていた経験から、教会という組織の内情については熟知していたし、歴代の教皇をはじめとする多数の有力聖職者を個人的に知っていた。
 たとえこのような高貴な人脈でさえ、人里離れた修道院図書館の錠のかかった扉を開けるには不十分だったとしても、ポッジョにはそれを補うほどの大きな人間的魅力があった。
(略)
もう一つ、本を探し求める他の人文主義者たちをはるかにしのぐ優れた才能があった。ポッジョは修練を積んだ優秀な筆写人であり、ひじょうに繊細な文字、驚くべき集中力、高度な正確さで書き写すことができたのだ。時を経た現代のわれわれには、そのような才能の重要性を理解するのは難しい。
(略)
[のちに]考案された活字書体(略)は、ポッジョら人文主義者たちの美しい手書き文字を基に考案されたものだった。ポッジョは手書きで一冊の写本を作っていたが、まもなく、そうした作業は機械に取って代わられ、一度に一〇〇冊もの本が作られるようになる。
(略)
 ポッジョは修道士たちが好きではなかった。道徳的にひじょうにまじめで、学識の高い、立派な修道士を何人か知っていたが、全体としては、迷信深く、無知で、どうしようもない怠け者ばかりだと思っていた。ポッジョの考えでは、修道院というところは、世の中に適応できないとみなされた者たちの掃き溜めだった。貴族は息子が虚弱、不適応者、穀潰しだと判断すると修道院に押しつけ、商人は知的・身体的障害を持つわが子を放りこみ、農民は口減らしのために子供を厄介払いした。
(略)
この厄介者たちは、回廊の分厚い壁の向こうで、ただ祈りの言葉をつぶやくだけで、他の者たちが修道院の広大な土地を耕して得た収入に頼って生活していた。教会は大地主であり、地域の最も有力な貴族よりも裕福だった。
(略)
 教皇庁時代のポッジョは、修道士たちの金への執着、愚かさ、性欲などについて、同僚たちとよく冗談を言い合った。(略)「私には彼らがキリギリスみたいに鳴いているだけとしか思えない」とポッジョは書いている。「どう考えても給料をもらいすぎている。ただ肺を鍛えているだけだというのに」
(略)
 パピルスはもはや手に入らなかったし、紙が広く一般に使われるようになるのは一四世紀に入ってからのことだった。そのため一〇〇〇年以上の間、筆写用の材料は主に獣皮から作られた――牛、羊、山羊、ときに鹿の皮も使われた。獣皮の表面は滑らかに加エする必要があった。そこで修道院の司書はまた別の道具すなわち軽石を用意した。軽石で皮の表面をこすり、残っている毛やでこぼこ、その他の不具合を取り除くのである。質の悪い羊皮紙を渡された筆写人は、ひじょうに不愉快な仕事をすることになる。現存する修道院の写本の余白には、ときどき、激しい嘆きの言葉が書きこまれている。「この羊皮紙は毛だらけだ」……「インクは薄いし、羊皮紙は質が悪いし、文章は難しいし」……「ありがたや、もうじき暗くなる」「もうこんな仕事は終わりにさせてくれ」と、ある疲れ果てた修道士は自分の名前、日付、働いている場所の下にそう書いた。別の修道士はこう書いている。「やっと全部書き終わった。頼むから一杯飲ましてくれ」
 そんな筆写人の仕事をずっと楽にしてくれる、彼らが最も甘美な夢の中で見たであろう最高級の皮紙は、子牛の皮でできたもので、ヴェラムと呼ばれていた。中でもいちばん上質とされていたのが子宮ヴェラムという、流産した子牛の皮でできたものだった。純白で、滑らかで、丈夫なこの皮は、最も貴重な本のために取っておかれた。そしてその本は、宝石のような精巧な彩飾面で飾られ、ときに本物の宝石が表紙にちりばめられることもあった。今でも世界各地の図書館に、かなりの数の逸品が保存されている。
(略)
修道士たちはナイフ、ブラシ、ぼろきれを用いて、古い文書――ウェルギリウスオウィディウスキケロセネカルクレティウス――を念入りに洗い落とし、筆写するよう指示された別の文章を書きこむこともあった。元の文章を消すのは面倒な作業だったにちがいない。そして、自分が消そうとしている作品に本当は心惹かれていた数少ない筆写人にとっては、やりきれない作業だったことだろう。
 元のインクが残っている場合、前に書かれていた文章の痕跡がまだ見える可能性があった。たとえば、四世紀に作られたキケロの『国家について』のめずらしい写本は、七世紀の聖アウグスティヌス詩篇に関する黙想録の写本の下に残っていた。
(略)
これらの上書きされた奇妙な写本はパリンプセストと呼ばれる。由来は「再度こすられた」という意味のギリシア語である。このパリンプセストからは古代の重要作品がいくつも見つかっており、どれも、そうでなければ知られることのなかった作品である。
(略)
ポッジョはページをめくっては[蔵書目録に]熱心に目を走らせ、閲覧を希望する本を次々に指さした――図書館における沈黙の規則は厳格に守られた。
(略)
 古代ローマの亡霊たちが次々にあらわれた。ネロの治世に活躍したある文芸批評家は、多くの古典作者たちについて注釈や解説を書いていた。別の批評家は、ホメロスを模倣して書かれた失われた叙事詩から、たくさんの文章を引用していた。
(略)
 ポッジョの発見は、最も小さな発見も含めて、どれもきわめて重要性の高いものだった――何百年という長い歳月を経て出現したのだから、すべてが奇跡的な発見のように思われた――しかし、それらの発見はすべて、(現代のわれわれの観点からするとそうでもないのだが)あっという間に影が薄くなってしまった。それまで見つけた他のどの作品よりも、もっとずっと古い作品が見つかったからである。その写本の一つが、紀元前五〇年頃に書かれた長い作品で、作者は詩人で哲学者のティトゥスルクレティウス・カルスという人だった。(略)
ルクレティウスの作品は危険なまでに過激だった。
 ポッジョがルクレティウスの名前を知っていたのはほぼ確実である。オウィディウスキケロといった、ポッジョが仲間の人文主義者たちとともに丹念に読みこんだ古代の諸作品にたびたび登場していたからだ。しかし、ルクレティウスの作品そのものには、ほんの一つか二つの断片にさえ、誰も出会ったことがなく、永遠に失われたというのが通説となっていた。
 ポッジョにはあまり時間がなかったかもしれない。夕闇迫る修道院の図書館で、修道院長や司書から油断のない視線を向けられていて、書き出しの数行を読むのが精一杯だったかもしれない。それでもポッジョにはすぐにわかっただろう。ルクレティウスラテン語の詩は、びっくりするほど美しい。(略)
この本はその後、ポッジョの生きる世界をまるごと解体するのに一役買うことになる

教皇ヨハネス二三世とコンスタンツ公会議

人文主義者の筆写人として、学識ある作家として、教皇庁の部内者として、その才能を存分に誇示していた彼は、職業人生の中で最も名誉ある、最も危険な地位を受けいれたのだ。かくしてポッジョは教皇秘書として(略)卑劣で、狡猾で、無慈悲な男、バルダッサレ・コッサに仕えることになった。
(略)
ポッジョより10歳年上のバルダッサレ・コッサは、ナポリに近いプローチダという小さな火山島に生まれた。彼の高貴な一族が個人資産としてその島を所有しており、隠れた入り江と堅固な要塞は、一族の主な稼業には明らかにうってつけだった。一族の稼業は海賊だったのである。それは危険な稼業だった。彼の二人の兄弟は最後には捕らえられ、死刑を宣告された。(略)コッサの政敵たちが主張するところでは、彼は若い頃にこの稼業に手を染めており、そのせいで生涯、夜目覚めている習慣が抜けず、またこの稼業を通じて基本的な世界観を身につけたという。(略)
エネルギッシュで抜け目のないバルダッサレは(略)ボローニャ大学で法学を学び(略)卒業後はどうするのかと尋ねられたバルダッサレ・コッサは答えた。「教皇になる」
(略)
 コッサの才能は、巧妙なマーケティング戦略だけに発揮されたわけではない。ボローニャの統治者に任じられたときには、ひじょうに優れた指導者、軍司令官であると同時に、迫力ある雄弁家であることを自ら証明した。多くの点で、鋭い知性、雄弁、大胆な行動、野心、好色、底なしの精力といった資質を体現した人物だった――まさにこれらが一つになるとルネサンス人の理想像ができあがる。しかし、聖職と現実の生活のずれには慣れっこの時代にあってさえ(略)本当なら聖職者の衣をまとうような人物ではないように見えた。(略)ひじょうに才能に恵まれた男だったが、宗教的な使命感などというものは爪の垢ほども持ちあわせていないのは明白だった。
(略)
 要塞化されサンタンジェロ城として生まれ変わっていた多神教時代の霊廟の中で、枢機卿や秘書に囲まれた狡猾な教皇は、公会議を開催するという圧力に応じる理由はないと考えていた。そんな会議は、必然的にローマヘの長年の反感を爆発させ、自分の地位を脅かすだけだ。そこでコッサは、時間稼ぎや先延ばしをくりかえし、同盟関係の構築と解消に奔走し、南の野心的な敵、ナポリ王のラディスラオに対して策略をめぐらしつつ、財源を確保した。
(略)
[だがラディスラオ軍勢が突然侵攻]
教皇教皇庁フィレンツェに避難した。(略)
 追い詰められたコッサは、公会議をイタリアで開くことを提案した。イタリアなら主要な同盟者を集めることができるからだ。しかし皇帝は反対した。高齢の司教たちにはアルプス越えの長旅は無理だというのだ。公会議はコンスタンツで開催する、と皇帝ジギスムントは宣言した。
(略)
 イタリアの教会内の競合する派閥だけが相手なら、コッサはおそらくキツネの落とし穴を回避できる自信があっただろう。なんといっても、何年もの間支配してきた実績があり、少なくともローマの教皇の地位をなんとか保ってきたのである。問題はそれ以外の人々、自分の支援も毒も届いていない多数の人々が、キリスト教世界全体からコンスタンツに押し寄せていることだった。

次回に続く。

 

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