憲法改正とは何か: アメリカ改憲史から考える

著者のスタンスは「根拠もなく憲法を神聖視するのはほどほどにして、精神的な改憲論や感情的な護憲論を慎み」というもので、この本(安全保障を問いなおす―「九条-安保体制」を越えて - 本と奇妙な煙)同様、9条だけ変えて、他のカビ臭い愛国改憲はやるなということなのだろう。
ただ冒頭いきなり、改正の内容と時期を理解している著者が、アメリカは27回改正してると書くのは、ちょっと意識的に誤読を誘ってる気がする。この本にも書かれているけど、ここ(1920年の女性参政権以降の改正は、下記の通り、著者も「比較的地味な内容」と書いているもの。1920年以降は重要な改正はないと知っていながら、アメリカは27回ですよと、戦後できた日本国憲法と比較するのはなんか少しアレな気もする。
[正副大統領と連邦議員の任期] [1933 年成立]
[禁酒修正条項の廃止] [1933 年成立]
[大統領の三選禁止] [1951 年成立]
[コロンビア地区の大統領選挙人] [1961 年成立]
[選挙権にかかわる人頭税の禁止] [1964 年成立]
[大統領の地位の継承] [1967 年成立]
[投票年齢の引下げ] [1971 年成立]
[連邦議員報酬の変更] [1992 年成立]

憲法改正とは何か: アメリカ改憲史から考える (新潮選書)

憲法改正とは何か: アメリカ改憲史から考える (新潮選書)

 

とりあえずこの憲法を認めて

いつでも「憲法の改正」できるから、とりあえずこの憲法を認めてくれ

 さて共和制の思想にもとづき新しい邦憲法が制定されたものの、各邦での共和制の試みがうまくいったわけでは必ずしもない。共和政体の担い手たる議会に多大な権限を与えた邦憲法が、実際には一部の邦で衆愚政治を引き起こす。総督という対抗軸をなくした多くの議会が、権力の濫用に走った。
 たとえば議会は司法の領域に介入し、裁判所の判決を変更し、くつがえし、裁判をやり直させた。無制限に紙幣を発行し、債務を取り消し、それにより債権者の権利を無視し、権利の行使を妨害した。法律を制定したと思ったら、1年後にはもう廃止する。共和政治への信頼性は著しく損なわれた。革命の結果生まれた政治体制が機能しない。事態は深刻であり、放っておけなかった。こうした各邦における政治的な混乱は、新しい国のかたちとそれを表わす憲法を必要とする大きな理由の1つになる。
(略)
独立を達成したアメリカの国のかたちが邦憲法と連合規約だけでは不十分であったがゆえに、アメリ憲法が制定され、新しい連合、すなわちアメリカ合衆国が誕生した。
(略)
採択された憲法草案を吟味した反対派はこれらの事実を取り上げ、新憲法は違法であり正統性がないと主張した。彼らの主張は形式的にはまったく正しい。そう言われても仕方ない。しかしそうだとしたら新憲法の正統性は本当にないのだろうか。(略)
 マディソンはじめ憲法の制定を推進する人々は、新しい憲法案の採択と憲法案が定める批准手続きが連合議会の指示に反し連合規約の規定に違反することを、実はよく認識していた。それどころかむしろこうした違反を恐れず、まったく新しい手続きに沿って憲法を制定せねばならない。そう確信していた。(略)
連合規約に内在する様々な欠点を乗り越えるためには、その規定を部分的に改定するだけではだめだ。まったく新しい憲法を、その正統性を担保しつつ制定せねばならない。
(略)
フェデラリスト憲法草案の修正についてアンチ・フェデラリストと妥協をはかった。(略)
今はこの憲法案を変更せず、そのまま批准してほしい。新憲法が発効して連邦政府が発足したら、反対派の求める憲法の改正を手がける。そういう暗黙の了解がなされた。
 この妥協を可能にしたのが、憲法草案第5条の改正に関わる規定である。この改正手続きにしたがえば憲法制定後の改正が可能であること。そして制定後の改正のほうが草案修正よりも容易であること。フェデラリストはこの点を強調して各邦での一括無修正での批准を求め、それが結局各邦の批准会議で受け入れられる。最終的に憲法制定を可能にしたのは、すでに草案に盛りこまれていた憲法の改正条項であったとさえ言えよう。

それほど簡単に改正できないようにしておくのが、マディソンをはじめとする起草者の意図であった。憲法第5条が、改正の提案に連邦議会両院の議員の3分の2、批准には全州議会の4分の3の賛成を必要とすると定め、全会一致、単純多数決のいずれも採用しなかったのは、その微妙なバランス感覚の表れであろう。彼らは、あまりに頻繁な改正は憲法の正統性を損なうと考えていた。また憲法が一般法と同じように単純多数決で変更できるのでは、基本法である意味がなくなってしまうと理解していた。そもそも、憲法のもとで誕生した合衆国政府は、建国初期から南北戦争に至るまで、存外脆弱であった。憲法改正によって合衆国政府が骨抜きにされるのは、防がねばならなかった。
 それでも、時には憲法の改正が必要とされる事態が起きる。厳しい要件を乗り越えて憲法改正が実現するのは、どんなときだろうか。
 まず提案された改正の内容が、党派を超えて合意できるものである場合が考えられる。国民が一致して支持する内容の改正案は、比較的厳しい要件にもかかわらず、スムーズに提案がなされることが多い。
(略)
アメリカの憲法史を見ると、改正が立て続けに行われる時期と、まれにしか行われない時期がある。(略)
 このうち、変革の時、改正の季節は、いつだろうか。(略)独立を勝ちとり、イギリス不文憲法の秩序から脱した1775年から1783年までの約8年間。「より完全な連合」を実現するため(略)合衆国憲法を制定した1781年から1791年までの10年間。(略)[南北戦争後]新しい国の形を模索するなかで3つの修正条項が採択された1861年から1870年までの9年間。進歩主義の思想が高まり、それにともなって4つの進歩的改正が実現した20世紀はじめの約20年間。
(略)
[安定期は]権利章典と呼ばれる最初の10の改正が行われた後、南北戦争終結までの74年間。この時期には、修正第11条と修正第12条の2つの技術的な改正しかなされなかった。次に南北戦争集結直後の5年間に3回も重要な改憲が実現した後、1913年に修正第16条が誕生するまで1回も改正がなかった43年間。さらに1913年から1920年までの4つの進歩的改正の後今日までのほぼ100年間。

初めての憲法改正

 実はいったん憲法が発効し連邦政府が発足すると、権利章典を具体化する熱意は急速に冷めた。(略)
 そもそもハミルトンやジェームズ・ウィルソンを筆頭とするフェデラリストの論客は、合衆国憲法権利章典を盛りこむ必要はないと考えていた。その最大の理由は、新しい憲法のもとで連邦政府、特に連邦議会に与えられるのは第1条8節に「列挙された権限」であって、そこに記した以外の権限は行使できない。であれば、連邦政府が国民の有する基本的権利を侵害できるはずがない。憲法上、連邦政府がしてはならないことは明白であって、権利章典を付け加える意味はない。しかも権利章典に特定の権利を列挙すれば、却って列挙された権利以外の国民の権利を連邦政府が侵害できるように解釈されてしまう危険さえあるではないか。本音を言えば連邦政府の権限をこれ以上制限されたくないフェデラリストたちは、こう反論し、権利章典は必要ないと主張した。
 皮肉なことに、アンチ・フェデラリストもまた最初の議会で憲法改正の動きが具体化すると、それに反対する。権利章典が実現すれば、憲法は必要な条項をほぼすべてそろえることになる。そうなれば彼らがまだあきらめていない、第2憲法制定会議開催の可能性が消えてしまう。そう恐れたらしい。そんなわけで最初の議会では、フェデラリストもアンチ・フェデラリスト憲法改正にそれほど熱心でなかった。
 しかし、憲法の制定にあたって他の誰よりも勤勉に働き、他の誰よりも深い思索を行ったマディソンは、やはり最初の連邦議会権利章典憲法に加えるべきだという結論に達する。(略)
 実はマディソンもまた、権利章典の意味と効力について懐疑的[だった](略)権利章典追加を唱える人たちは、イギリス名誉革命の(略)「権利の章典」を念頭に置いている。確かに君主制のもとでは、主権を有する君主の恣意的な権力濫用に歯止めをかける意味で、権利章典は意味がある。
 しかし人民主権にもとづく共和政体を採用したアメリカ合衆国では、連邦政府の権限は憲法に個別具体的に規定されたものに限られている。権力の無制限な濫用は考えにくい。人々の権利を侵害するのは、むしろ州の政府であろう。もしそうなら、連邦政府の権力濫用を恐れて連邦政府を対象とした権利章典を定めても、効果がない。さらに言えば、『ザ・フェデラリスト』第10篇でマディソン自身が雄弁に論じたように、共和国において恐れるべきは政府による権力濫用ではなく、むしろ主権を有する人民の多数による権力の濫用である。そして本当に悪質な権力の濫用が起きた場合には、ただ国民の権利を並べ宣言するだけでは効果がない。マディソンは冷静にそう考えていた。
 それでもマディソンが、最初の連邦議会権利章典の草案を提出したのはなぜか。1つには批准の際に憲法発効後その改正を検討すると約束した手前、たとえ権利章典を採択する法的義務はないとはいえ信義条上の義務を感じたのかもしれない。マディソンはそういう人物であった。
(略)
[それ以上に国民が憲法最高法規とし、自分たちが合衆国市民であることを自覚するために必要だと]憲法制定の過程をつぶさに観察してきたマディソンは、そう確信したようだ。実質的な効果はなくても、守るべき国民の基本的権利を憲法に列挙することによって、新しく発足する連邦政府の立法、行政、司法の各部門、さらには各州政府もまた、それを1つの高い基準として仰ぎ見て、その維持に努めるだろう。国民もまた、新しくできた連邦政府権利章典に列挙された権利を守ることを期待し信頼を寄せるだろう。彼は権利章典がこうして政府と国民に対し、いわば「教育的効果」を持つことを望んだのである。
(略)
 連合規約第13条の規定によらず、連合議会の指示に背いて起草され批准された憲法はそもそも違法であると考えるアンチ・フェデラリストは、その違法性を正すにはもう一度憲法草案をまったく新しく起草するところから始めるしかないと信じていた。こうしたの動きを封じるには(略)憲法が改正を重ねることによってより良きものに改善しうることを示すのが、最も効果的である。(略)
だからこそマディソンは第1回の議会で改正案を起草し提案することにこだわった。改正案が批准発効すると、それ以降再度憲法制定会議を開催しようという動きは急速にしぼむ。(略)
起草以来違法性を指摘され続け[た](略)アメリカ合衆国憲法は、最初の修正10条が発効して初めて独り立ちしたと言えそうである。

ロー判決

[妊娠中絶の権利を生み出した1973年のロー判決]
 これに対し、厳格解釈主義、原意主義の立場に立つ判事や憲法学者は、一般に進歩派と分類される一部の人々も含めて大きな危機感を抱いた。憲法に明確な規定のない妊娠中絶の権利を、最高裁の判事多数が自らの価値観と過去の判決が生み出した理論上の権利にもとづいて認めるのは、大方のことは多数決にもとづいて決めるという民主主義の原則に反し、彼らの権限を越えている。それを許せば、さらに新しい権利が司法の判断で次々に憲法上の権利として認められかねない。司法には憲法を変える権限はない。したがって許すべきでない。彼らはこう主張した。
(略)
「プロライフ」の運動家たちは、同判決をくつがえすことを目指して運動を繰り広げる。(略)そのためにはロー判決を否定する最高裁判事最高裁に送りこまねばならない。(略)
[実際、レーガン、ブッシュ]と12年間続いた共和党政権の時代、最高裁判事が退職するたびに新しい保守的な判事が任命され、ロー判決がくつがえされるのは時間の問題だと思われていた時期もあった。しかしそれにもかかわらず、現在まで最高裁は、結局ロー判決の中核部分を否定していない。最高裁は1992年に下された南東ペンシルバニア家族計画協会対ケイシー事件判決において、5対4の僅差でロー判決の内容を相当変更したものの、その基本的中味、すなわち一定条件が満たされる場合には女性はなお妊娠中絶を行う憲法上の権利があるという部分をそのままにした。その理由として、法廷意見はロー判決から19年が経過し、その間に多くの女性がロー判決に依拠して人生設計を行っている現実を挙げた。(略)
 ケイシー事件判決が下ってから今日までさらに24年、ロー事件判決が下ってから43年経ち、憲法上の妊娠中絶を行う女性の権利は今でも生きている。憲法に規定のないこの新しい権利はどうやら定着し、法的に安定しているように思える。ロー判決が下されたあとも、最高裁は死ぬ権利、同性愛の権利、さらには同性婚の権利など、憲法に規定のない新しい権利をさらにいくつか認めてきた。そうした最高裁憲法解釈にはいまだに根強い反対がある。

憲法解釈による実質的な改憲

過去の例を見ると司法による憲法解釈によって実質的な改憲がなされたと判断しうる例がある。わかりやすいのは、正式な手続きにしたがって試みた改憲が失敗したのに、同じ結果が最高裁の判決を通じてもたらされた例であろう。(略)
[1918年保守的な最高裁は児童労働を禁ずる連邦法を違憲とした。1924年連邦議会は児童労働を禁じる憲法改正を提案、改正案を批准したのは6州、それ以来、改憲は実現しないままに。しかし17年後の1941年最高裁の]
新しい憲法解釈によって、改憲では不可能だった児童労働の禁止が実現した。これほど明確な司法による実質的改憲はないだろう。(略)
[同様に男女平等も改正案が出たのが1923年、両院可決され各州議会による批准に回されたのが1972年、期間内に批准が完了せず]改憲の試みは1982年失敗に終わる。ところがその間、最高裁は1970年代に下した一連の判決を通じて、女性差別憲法修正第14条の定める法の平等保護原則に反するという新しい解釈をうちだした。これによってERAが目指したものと同じ結果が得られた。これもまた改憲では達成できなかった憲法上の両性の平等保障が、司法による新しい憲法解釈によって実現した例である。実質的改憲と言えよう。
 司法による実質的改憲が一気にではなく、段階を踏み、長い時間を経て実現する場合もある。(略)
[1791年の権利章典基本的人権連邦政府が侵害するのを禁止したもので州には適用されない]
ところが1920年代になって、最高裁権利章典を州に適用しはじめる。(略)
 この背景には、特に南部の多くの州で黒人の刑事事件被疑者が、偏見と差別に満ちた司法手続きにさらされていたという事実がある。ウォーレン・コートは、権利章典を州に適用することによって、こうした状況を打開しようとした。ウォーレン・コートの一連の判決は、憲法の本来の意図にそぐわない拡大解釈だとして批判も多い。しかし、組み込みの法理によって権利章典の規定を修正14条のデュープロセス条項を通じて州に適用し、逆に修正14条の平等保護条項を修正第5条のデュープロセス条項を通じて連邦政府に適用する(これを逆組み込みという)のは、今日では憲法の解釈手法としてすっかり定着している。こうして、20世紀初頭にはっきりした理由を示さぬまま行われた憲法解釈の部分的変更が、それから半世紀近く経って憲法の内容の大きな変化につながった。ここでも司法によって実質的改憲がなされたのである。
 さらに正規の手続きによって実現した改憲が、「現状変更」型の司法審査によって初めて効力を発揮する例もある。たとえば南北戦争後に制定された人種や皮膚の色によって市民の投票権が否定されることなしと定めた修正第15条は、南部の改革が挫折したあと南部諸州によって完全に無視された。(略)
しかし1960年代になって、最高裁は修正第14条の平等保護条項を根拠に黒人の投票を制限する南部のさまざまな法律を違憲と判断しはじめる。これによって初めて、修正第15条は効果を発揮した。憲法の文言の変更のみでは、改正の意図は実現せず、実際にそれが司法によって後押しされなければ効力を発揮しない、その代表的な例であろう。

法律の合憲性

 忘れてならないのは、憲法第6条3項の規定のもとで、大統領、連邦裁判所の裁判官とともに、連邦議会議員もまた合衆国憲法の遵守を義務づけられていることである。(略)
 それでも時には議会が合憲性について多少とも議論の余地のある法案を可決し、その法案が大統領の署名を得て法律として施行されることがある。その場合には何が起こるのだろうか。おそらくもっとも一般的な答えは、「何も起こらない」である。(略)
 かつて日本の雑誌に頼まれてインタビューしたスカリア最高裁判事は、「議会が制定する法律のなかには、その合憲性があやしいものもあるけれども、最高裁は一々それに文句を言ったりはしない」と、笑って語っていた。そもそも裁判所は訴訟が提訴されないかぎり、法律の合憲性を審査しない。個々の法律の合憲性は、第一義的に議会が検討すべきものである。スカリア判事は、合憲性の判断は連邦司法のみが行うものではないことを強調した。
 それでも毎年制定される多くの法律のなかには議会の思い切った憲法解釈を反映していて、その合憲性が議論となるものが、ときたまある。たとえば1973年、連邦議会ニクソン大統領の拒否権発動を乗り越え、戦争権限法という法律を[制定](略)大統領が宣戦布告もしくは議会の承認なしに海外で軍事力を行使する場合には、それから48時間以内に議会へ通知を行い、その後議会の承認を得ないかぎり60日以内に軍事力行使を停止して90日以内に部隊を撤収させねばならない。(略)
ニクソン政権は、憲法上大統領に与えられている戦争権限を同法が不当に制限するものであるとして議会を激しく非難した。それ以来、共和党民主党を問わず歴代の政権は、この法律は違憲かつ無効との立場を取っている。しかし最高裁は同法の合憲性について一度も判断を示しておらず、法律は今でも有効なままである。そして海外で米軍が武力行使に踏み切るたびに、大統領はこの法律に従わなくていいのかという論争が起こる。

違憲判決

議会も大統領も、おおかたの違憲判決には素直にしたがう。(略)
[それでも]どうしても司法の憲法判断に納得できない場合には、まだ取りうる道が2つある。
 1つは判決をよく検討し、違憲にならないように文言を変えたうえで法律をもう一度制定する道である。
(略)一連のニューディール関連法が1935年から36年にかけて最高裁で次々に違憲とされたとき、ローズヴェルト政権ならびに大統領と同じ民主党が多数を占める議会は判決に屈せず、違憲と判断されないように工夫した新しい法律を制定して最高裁憲法解釈に挑戦した。最高裁違憲判決を下し続けたものの、ほどなくこうした新しい法律を合憲と解釈するようになる。これは実質的には憲法改正と考えるしかないほどの、革命的な憲法解釈の変更であった。議会と大統領が一致協力して最高裁憲法解釈に抵抗して勝利を収めた珍しい例である。この背景には大恐慌という国家の危機があり、大胆なニューディール政策を支持する世論があった。

政治問題化した最高裁判事任命

 実は20世紀前半まで、連邦判事の任命は基本的に大統領が決めることがらであり、議会上院はそれを追認するだけという暗黙の了解があった。最高裁判事の候補についてさえそれほど厳しい審理はなされなかった。(略)
 ところが20世紀半ば以降、たとえばブラウン事件判決のように最高裁憲法解釈と判決が大きな政治的影響を及ぼすにしたがって、判事の任命過程は政治的色彩を濃くする。特に1980年代に入ってレーガン大統領が登場し司法の保守化を公然と目指すようになると、様子は一変した。先に述べたとおり、レーガン政権は妊娠中絶を合憲化したロー事件判決をくつがえすことを公約にしていた。ロー事件判決を支持する民主党議員たちは警戒感を強め、上院司法委員会の公聴会での判事候補審問は長く厳しいものとなった。(略)
[厳格な憲法解釈を唱えるボーク判事が]指名されるや、前年の選挙で上院の多数を奪い返した民主党は猛烈な反対運動を展開した。その結果ロー事件判決を間違っていると言い切るボークの任命は議会上院によって否決される。最高裁人事が完全に政治問題化した結果であった。これ以後最高裁判事の候補は上院での公聴会で、法律家としての見識や能力だけでなく、その政治的信条、私生活における問題さえをも、微に入り細に入り検討されるようになった。(略)
いったん任命されてしまえば、連邦裁判所の判事は他の二権には見られない高度の独立性を与えられるため、判事が下す判決に介入したり指示したりできない。だからこそ任命のときの審理と決定が重要である。実際ボーク判事の任命を阻止していなかったら、その後最高裁がロー事件判決を完全にくつがえしていた可能性が大いにある。(略)
最高裁判事の任命が政治的にきわめて重要であり、議会上院の判事任命拒否権が重いものであることがわかる。

大統領が憲法に挑戦するとき

南北戦争の開始時に議会が実際には何もできなかったと同様、司法も戦争が始まるときにわざわざ開戦に反対する訴訟を取り上げて違憲性を問うようなことは、通常しない。(略)問題が高度に政治的な性質のものであるゆえに、司法は判断できないし、すべきでもない。そう考える。
 それでもなお、戦争を行うにあたって大統領が憲法に違反していると主張する訴訟を取り上げ判断を示した例は、憲法史上少なくない。そのなかでもっとも重要ないくつかの判決は、南北戦争のさなか、もしくは直後に下された。
(略)
[開戦後リンカーンは南部諸港を封鎖。その際拿捕され積荷を競売された中立国の船舶所有者が、議会の宣戦布告がないままの封鎖は憲法国際法に違反していると訴えた]
 ところがリンカーン大統領は、南部との戦いを国際法上の戦争とは認めず、南部による叛乱の鎮圧だとの立場をとっていた。戦争と認めれば交戦権を与えねばならず、南部連合が列強の承認を得て国家として独立することにつながりかねない。したがって大統領は議会の宣戦布告なしで戦いを始め、これは戦争ではないと主張しつづける。
 しかしもしこれが単なる叛乱であったら、封鎖は国際法上効力をもたない。戦争でもないのに捕獲された商船や積荷の所有者たちが自分たちの所有物を奪われるのは、憲法修正第5条が定める「何人も、配当な補償なしに、私有財産を公共の用のために収用されることはない」というルールに反し、違憲無効である。彼らはそう主張した。
 1863年最高裁はプライズ事件判決を下し、5対4の僅差で南部諸港の封鎖を合憲であり有効と判断した。確かに大統領は憲法の規定上、議会の宣戦布告なしに戦争を始めることを許されていない。しかし同時に国軍の最高司令官として、正式の宣戦布告なしに始まる叛乱を鎮圧し、治安を維持し、国民の安全を保障する義務と権限がある。そしてどうやってそれを実現するかを決めるのは大統領である。その大統領が封鎖の実施を選んだのであり、封鎖宣言そのものが実質的に戦争状態にあることを認めたに他ならない。したがってこの封鎖は合憲であり、有効である。法廷意見を著したロバート・ダリア判事はこう説明した。
 法廷意見の論理は、あまり明確でない。単純化して言えば、現在続いている南部との戦いにおいて大統領が封鎖を選んだ以上、それを違憲とすることはできない。国家の存亡がかかった戦いにおいては、司法も大統領の憲法解釈に異議を唱えることはできない。このような状況では憲法の枠組を厳格に守ることにそれほど意味がない。司法は口を出さない。そう言っているに近い。

 プライズ事件でもメリーマン事件でも、リンカーン大統領は連邦分裂の危機を理由に、憲法の枠組を超えたと言わざるをえないような強引な政策を採用、実行した。この結果、憲法の枠組と国のかたちは変化したのだろうか。実質的な憲法改正がもたらされたのだろうか。
 もちろん大統領は、国難に直面した場合に緊急措置として議会の承認のない軍事行動を起こすことを、憲法が許すという立場を取っている。ところがプライズ事件判決の結果、議会による宣戦布告を待たなくても大統領は時と場合によって実質的な戦争を戦うことができるという、新しい憲法の有力な解釈が生まれた。実際、第2次世界大戦を最後に、アメリカは朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争、アフガン・イラク戦争のいずれにおいても、正式な宣戦布告をしていない。
 またメリーマン事件判決の結果、大統領は侵略や叛乱などの危機に際して独自に人身保護令状を停止し、令状なしで不穏分子を逮捕して無期限に拘束することができるようになった。メリーマン事件のあと議会は新しい法律を通して、大統領による人身保護令状停止を認めている。
 もちろんこうした措置は南北戦争という国家的危機に際して取られたものであり、平時には許されない。そのことはリンカーン大統領もよく理解していた。それでもなお、南北戦争のあともアメリカが戦争を行う、あるいは戦争に巻きこまれるたびに、大統領はその党派を問わず憲法上の戦争権限を根拠に大胆な政策を採用し実行するようになる。リンカーン大統領が取った戦時の政策は、こうして後の大統領にとって前例とされ、政策正当化の材料になった。それは憲法制定者が考えていた比較的無力な連邦行政府を前提とする国のかたちや仕組みとは、明らかに異なるものである。危機において大統領の権限をしばるのを嫌ったハミルトンさえ考えていなかったほど大きな権限が、一時的とはいえ大統領に集中する。その意味で南北戦争以降、少なくとも戦時における大統領の権限は著しく拡大し、憲法の内容が、さらには国のかたちが、大きく変わった。
 リンカーン大統領が行った連邦行政府の権限拡大は、しかし南北戦争が終わるとおおむね元に戻る。後任のジョンソン大統領はじめ、比較的弱い大統領が続くのを横目に、むしろ連邦議会が権限を大幅に強化した。(略)
[しかし]ウッドロー・ウィルソン大統領は、第1次世界大戦に参戦するにあたって、それまでにない大きな権限を連邦政府に集中し、時には個別の法律による議会の承認を得ないまま、国民総動員体制、戦時経済体制を確立する。(略)
[この流れに乗り権限を拡大し新しい憲法秩序を築いたフランクリン・ローズヴェルト大統領]
彼がしたことは実質的な憲法改正であり、憲法革命とさえ呼べるものであった。きっかけとなったのは、南北戦争と並んでアメリカ史上最大の国難の1つである大恐慌である。

アメリカと日本の違い

アメリカの憲法史を振りかえると、どちらかといえば進歩派の掲げる目標を実現する手段として、正式な手続きにもとづく改憲もしくは最高裁による憲法解釈を通しての実質的改憲がしばしば行われてきた。たとえば前者によって奴隷解放婦人参政権が実現し、後者によって両性の平等、妊娠中絶や同性婚の権利が憲法に組みこまれた。そして憲法改正ないし実質的改憲を目指すのは、どちらかといえば進歩派であり、解釈改憲が安易になされる傾向を嘆き防ごうとするのは、主として保守派である。この背景には、もともとアメリカの憲法が保守的な性格を有しており、特定の価値観を憲法の条文として盛りこむのを排しているという事情があるのかもしれない。たとえば奴隷制の是非について、当初憲法は何も述べていなかった。
 これに対し日本では、これまで憲法改正に熱心なのはもっぱら保守派であり、進歩派は概して改憲に反対もしくは慎重である。解釈改憲に対しても否定的であるようだ。
(略)
[日本国憲法には第25〜28条などの]新しい権利が盛り込まれている。人権に関する委員会の3人の委員が起草した同章の原案は、社会保険制度の保証、レクリエーションの権利、ストライキ権などを含み、さらに進歩的な内容であった。
 これらの規定の多くはワイマール憲法の影響を強く受けたもので、そうしたヨーロッパの思想に強く共感するアメリカ人起草者の手を経て、日本国憲法は進歩的かつ大きな政府の手による福祉国家的価値観を強く打ち出すものとなった。そうした性格を有する日本国憲法の専門家である憲法学者の多くが、憲法統治機構に関する規定より基本的人権に関する規定を好み、もっぱら研究する傾向があるのは、自然な成り行きであったかもしれない。
(略)
 対照的に18世紀末に制定されたアメリ憲法は、特定の価値観を憲法に盛りこむのを極力排し、もっぱら憲法学者統治機構と呼ぶ国家の仕組みを構築することに重点を置いた。したがって当時の価値観を反映する規定はほとんどない。それを物足りなく思うアメリカの進歩主義勢力は、19世紀の末から20世紀にかけて労働者、女性、少数民族の権利を、改憲あるいは実質的改憲を通じて憲法に盛りこむ運動を展開し、現在に至っている。
 しかし制定から約230年経っても当初の憲法典が、改正や解釈を通じてそのかたちを少しずつ変えながらもそのまま機能しているのは、憲法典が時代の価値観を盛りこまなかった点に負うと考える学者も多い。

アメリカと日本で明らかに異なるのは、憲法をめぐる国家的論争における司法の役割である。建国当初は弱体で明確な役割がなく、三権のうちでもっとも危険が少ないと言われたアメリカの連邦司法、特に最高裁は、マーベリー事件判決で獲得した司法審査の権限を用いて国政に対し大きな影響力を発揮するようになった。そして最高裁はみずからの憲法解釈によって憲法の内容まで変え、解釈改憲も行うようにさえなった。
 その劇的な例は、2000年に下されたブッシュ対ゴア事件の判決である。この判決で連邦最高裁憲法解釈を通じて、大統領選挙の勝者を事実上決定した。本来国民の投票によって決めるべき大統領選挙の結果を、司法が憲法の解釈によって決めていいのか。当時大きな論争があったけれど、この判決にしたがってブッシュ大統領が誕生し、8年間その地位にあったのである。(略)
 それに対して、日本の最高裁判所は、直接国政に影響を与えるような違憲判決を下さない。まして憲法解釈によって憲法の内容を変えよう、実質的改憲をめざそうなどとはまったく考えもしない。
 そもそも違憲判決がそれほど多くない。(略)法令違憲とした判決が10件、適用違憲とした判決が12件あるだけである。(略)国政に大きく関わるような違憲判決は、議員定数に関する2つの事件ぐらいしかなく、その他の判決の多くは個人の基本的人権に関わるものである。(略)
特に憲法9条のもとで自衛隊の合憲性を争う訴訟が提起されるときには、統治行為論などを用いて極力憲法解釈を避けてきた。
(略)
皮肉なのは日本国憲法が世界で恐らく初めて、司法審査の制度を明示に規定した成文憲法であるという事実である。アメリカでは司法審査の権限が判例によって確立されたので、憲法そのものには規定がない。この権限をGHQ民政局の起草者たちは、日本国憲法に世界で初めて盛りこんだ。背景には、司法審査が国民の権利を守るうえで有効だと考えたGHQの意向がある。(略)
 ただし彼ら起草者たちは、ニューディール期のローズヴェルト大統領と最高裁のあいだの憲法解釈に関する対立をよく記憶していて、強すぎる司法が民主政治にとって害になりうるとも考えていた。そこで最高裁判事の定年制、国民審査の制度などを憲法に盛りこみ、司法の力を抑制しようともした。これに日本独自の法文化や裁判所の伝統に起因する理由が重なって、日本の最高裁アメリカの最高裁のごとく積極的に司法審査権を行使するようにはならなかった。
 しかし日本の司法がアメリカの司法と比較して、憲法解釈について非常に抑制的かつ慎重であることは、必ずしも悪いことではない。安易な解釈改憲を目指さないのは、きわめて健全である。
(略)
 それにアメリカのように司法審査が活発に行われれば、国政を左右する難しい憲法問題がよりよく解決されるかどうかもわからない。アメリカの裁判所には、イギリスから継承した衡平法の伝統があり、たとえば違憲とされた選挙区の区割りの新しい線引きを自ら実施する裁量権さえ有している。そうした権限を持たない日本の裁判所が、単に違憲判決を出しただけでどこまで行政や立法に影響を与えられるかは難しいところだ。
(略)
 ただ日本の最高裁憲法間題の判断に慎重であることは、アメリカと比較して2つ残念な結果を生んでいると感じる。その1つは、憲法判例が少ないために、憲法解釈が内閣法制局憲法学者という憲法の専門家集団にもっぱら委ねられ、抽象的、学問的になりがちな点である。彼らはいわば学説の世界に生きている。
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彼ら自身が自らの解釈の変更によって時に事実上解釈改憲を行ってきたとさえ言えよう。
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 もう1つは、憲法の解釈に慎重であるために、司法が憲法問題に関する国民的論争に積極的には加わっていないことがある。
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アメリカでは連邦最高裁の下す憲法判例が、全国的反響を呼び、論争を巻き起こし、賞賛と非難の両方を浴び、学者によって分析され、場合によっては大統領や議会さえも敵に回し、その結果特定の憲法問題に関する議論がさらに深まる。そうした例が沢山ある。日本の最高裁も論争を引き起こすのを恐れず、憲法の内容を多少変えているのではないかと思わせるような判決をもう少し頻繁に下してくれたら、国民の憲法に対する関心ももう少し高まるのではないか。

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