第一次世界大戦はいかにして始まったか・その3

前回の続き。

君主たちの影響

 大戦前のヨーロッパを統治していた君主たちの寄り合いの中心にいたのは、それぞれに帝国に君臨していた三人の従兄弟、すなわちロシア皇帝ニコライ二世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世、そしてジョージ五世であった。二〇世紀になる頃には、ヨーロッパを統べる王侯の血統上の繋がりはほとんど融合の域にまで達していた。ヴィルヘルム二世とジョージ五世は、ともにヴィクトリア女王の孫であった。ニコライ二世の妻(略)はヴィクトリアの孫娘であった。ジョージ五世の母とニコライ二世の母はデンマーク王家の姉妹であった。(略)
こうした観点からすれば、1914年の戦争勃発は家族内の不和の総決算のようにさえ見える。
 これらの君主がそれぞれの執行機関に対して、あるいはその内部でどれほどの影響をふるっていたのかを評価するのは難しい。(略)
ロシアの政体は少なくとも理論的には独裁であり(略)エドワード七世とジョージ五世は立憲議会制のなかの君主であり、権力を直接操ることはできなかった。皇帝ヴィルヘルム二世はその中間的存在であった
(略)
エドワード七世は外交に一家言もっており、事情に精通していることを誇りにしていた。彼の態度は帝国主義的な「好戦的愛国主義者」のそれであり(略)アフガン戦争に自由党が反対したのに激怒し[こう語った](略)「余であれば、アフガニスタン全土を手に入れ、守り抜くまで満足しないだろう」。(略)
彼は成人して以来、ドイツに対して強烈な敵意を抱き続けてきた。この反感の一部は、母親であるヴィクトリア女王ヘの反発に根差していたと思われる。彼は母のことを、プロイセンに好意的過ぎると見なしてした。反感の別の一部は(略)[少年時代のドイツ人教師への]恐怖と憎悪に根差していたようである。(略)
1903年、彼はパリを公式訪問し(略)ライバル関係にあった二つの帝国主義国家が協商締結に向かう道を整えることとなった。フランスがボーア戦争に憤激していたために、西欧の二つの帝国主義国家の関係は当時なお険悪であった。他ならぬエドワードの主導で実現したこの訪問は、目覚ましい宣伝効果を発揮し、わだかまりを一掃するのに大いに貢献した。協商が調印された後、エドワードはロシアとの合意を目指して尽力し続けた。
(略)
 ジョージ五世はまったく違った。1910年に王位に就くまで、彼は外交にほとんど関心がなく、イギリスと他国の関係をごく表面的に理解していたに過ぎなかった。(略)
ジョージは父の人脈に対立するような人間関係を決して築こうとせず、裏で陰謀を企てるのを自制し、大臣たちの明確な承認なしに政策を口にするのを避けた。彼は多かれ少なかれ常にエドワード・グレイと対話し続け、ロンドンにいる時はいつも、外務大臣を頻繁に引見した。(略)
かくして、二人の君主は国制上まったく同じ権力を有していたにもかかわらず、ジョージの即位によって、外交の基本方針に対する国王の影響力は著しく低下することとなった。
(略)
[ヴィルヘルム二世は]「外務省だと?それがどうした、余が外務省だ!」と豪語した。イギリス王太子(後のエドワード七世)への手紙では、「私はドイツの政策のただ一人の主人です」とうそぶいたものである。「そして我が国は私の行くところどこにでも付き従わねばならないのです」、と。(略)
[1906年アメリカ大使館での晩餐会で]皇帝はドイツ人口の急激な増大に対応するためにはさらなる空間の確保が必要だと言い出した。(略)
フランスのかなりの地域では住民が少な過ぎて開発が必要と思われる。ドイツの人口過剰に対応して、国境を西方に後退させる気があるかどうか、フランス政府に問い質すべきではなかろうか、と。(略)
もう一つの例は、アメリカ合衆国と日本との間で戦争が起こるのではという臆測が広く報道された1908年11月のものである。この予測に興奮し、また大西洋の強国アメリカの歓心を懸命に買おうとして、皇帝はローズヴェルト大統領に手紙を送りつけ、――今度は大真面目で――プロイセンの軍団をカリフォルニア沿岸に派遣しようと申し出た。
(略)
1890年代後半、皇帝はブラジルに「新ドイツ」を建設するという計画に執心し、この地域への移民を可及的速やかに奨励し促進するよう、「苛立ちながら要求した」(略)
1899年、彼はセシル・ローズに、「メソポタミア」をドイツの植民地として確保することが自らの意志だと伝えた。義和団の乱があった1900年には、彼が中国分割を視野に入れつつ、ドイツ全軍を中国に派遣するよう提案していたことを確認できる。1903年、彼は再び「ラテンアメリカが我々の標的だ!」と宣言
(略)
 カイザーはあれこれの案を打ち出しては熱狂し、飽きるか失望するかしては捨て去った。カイザーはある週にはロシア皇帝に怒り出し、翌週には彼にのぼせ上がっていた。同盟の計画は無数にあった。例えば、露仏と結んで日英に対抗し、あるいは露英仏と和してアメリカ合衆国に立ち向かい、あるいは米中と組んで日本と三国協商に対峙し、あるいは日本とアメリカ合衆国と結んで三国協商に抗する等々。トランスヴァールの地位をめぐる緊張の後に英独の関係が冷却化した1896年の秋、皇帝は仏露と大陸連合を結び、イギリスに対抗して植民地を共同で防衛するという提案を行った。しかしながら、これとほぼ同時期に彼は、シンプルに東アフリカを除くドイツの全植民地を手放して、イギリスとの確執の原因を除去するという思いつきを弄んでいた。しかし1897年の春には、ヴィルヘルムはこの案を捨て、ドイツはフランスと緊密な関係を結ぶべきだと提案していた。
 覚書や端書きを大臣たちに矢継ぎ早に送りつけるだけでは飽き足らず、ヴィルヘルムは外国の代表者に直接、自分のアイデアを持ちかけもした。
(略)
[ロシアとの条約の草案を勝手に書き換え、宰相に激怒され]
蚊帳の外に置かれたこと、重要な外交文書に触れるのを拒まれたことに、皇帝は絶えず不平を鳴らし続けた。
(略)
ヴィルヘルムの妄想に火がついたのは、自らが無力で、真の権力の舵取りから遮断されているという意識が深まったがゆえだったのかもしれない。(略)
実際に紛争が差し迫っているような場合にはいつも、ヴィルヘルムは控えめな態度をとり、ドイツがどうしても戦争に乗り出せない理由をすぐに探し出した。フランスとの緊張が頂点に達した1905年末、ヴィルヘルムは恐怖に取り憑かれて、宰相ビューロに、国内での社会主義者アジテーションが海外での攻撃的行動をまったく不可能にしていると伝えた。翌年、国王エドワード七世が失脚したフランス外相、テオフィル・デルカッセの元を訪れて予定外の会談を行ったという知らせに焦った彼は、宰相に、ドイツの砲兵隊と海軍は紛争に耐えられる状態にはないと警告した。ヴィルヘルムは口は達者でも、危機が迫ると踵を返して及び腰になりがちであった。
(略)
 二〇世紀初頭の君主たちを概観すると、彼らが不安定で、結局は比較的限定的な影響しか現実の政治的結果に及ぼしえながったことが窺える。

武官と文官

「[ヨーロッパの]情勢は異常です」と、エドワード・ハウス大佐は1914年5月のヨーロッパ旅行の後に、アメリカ合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンに報告している。「まったくもって狂気じみた軍国主義が広がっています」。
(略)
高位の政治家、皇帝、国王は公の場に軍服を着て参列していた。入念に整えられた閲兵式は、国家の公的行事の欠くべからざる一部をなしていた。大量の電飾を施された軍艦をお披露目する式典が多数の群衆を引きつけ、絵入り雑誌の紙面を埋め尽くした。徴兵による軍隊は、男子国民の小宇宙とも言うべき規模に拡大していた。
(略)
 フランスでは1890年代の「ドレフェス事件」が第三共和政に関する文民と軍人の合意を破壊し、教権主義的で反動的意見の牙城と目されていた軍上層部を公衆、とくに共和主義を支持する反教権的な左派の疑惑の視線に晒すことになった。スキャンダルを受けて、相次いだ三つの急進派政府(略)が、軍隊を「共和主義化」するために攻撃的な改革案を追求した。軍隊への政府の統制が強められ、文民としての意識をもった陸軍省が正規の軍司令官に対して力を増し(略)
ドレフュス事件の時期の政治的に怪しげな「古代ローマの近衛兵風」の軍隊を、予備役の市民が戦時に国防にあたる「市民軍」へと改変しようという意図が伴っていた。
 フランスの軍部に有利な方向へと潮目が変わり始めたのは、ようやく戦争直前の数年間になってからである。(略)
1912〜4年、ポワンカレ内閣、そしてその後のポワンカレ大統領の下での親軍隊的な態度はフランスの政治と世論の複雑な再編成によって強化され、かつてなく再軍備に繋がりやすい環境が作られた。
(略)
 ドイツでも、古代ローマの近衛兵的な性格を体制が帯びていたことによって、軍部が策略をめぐらす自由をかなりまで確保することができた。参謀総長のような重要人物が明らかに政策決定を断続的に左右しており、とりわけ緊張が高まった時には影響力を行使した。軍司令官がどのような発言を行ったのかを確証するのは極めて容易である。これに対して、政府の政策決定において彼らの助言がどれだけの重みを有したのかを確認するのは一筋縄ではいかない。ロシアの大臣評議会のような合議制の決定機関が存在しない状況の下では、武官と文官とが公然と衝突する必要がなかったために、とくにそうである。
(略)
[1911年11月ロンドン駐在ドイツ海軍武官ヴィーデンマンの本国への報告では]
アガディール危機のあった夏の間にイギリスが「全艦隊を動員した」ことを、イギリスの海軍将校たちは今や公然と認めた。イギリスは「ドイツに襲いかかるために、後はフランスからの信号を待っていただけ」のように思われた。曰く、事態を悪化させたのは、「無節操で野心的で信用のおけない扇動家」たるウィンストン・チャーチルの新海軍大臣就任だ。それゆえドイツは、1807年にコペンハーゲンでイギリスがデンマーク艦隊を壊滅させた時のように、いわれのない攻撃を受ける覚悟をしなければならない。さらなる海軍増強が不可欠だ。「イギリスが心にとめるのはただ確固たる目標と、それを達成するための不屈の意志だけ」だからだ。この至急報はヴィルヘルム二世の手に渡ったが、彼はこの報告を嬉々とした書き込みで埋め尽くした。「そのとおり」、「そのとおり」、「素晴らしい」等々と。
(略)
[ヴィーデンマンが]パニックをばらまくのに苛立って、ベートマン=ホルヴェークはロンドン駐在大使のメッテルニヒ伯に、ヴィーデンマンの主張を論駁する至急報を提出するよう注文した。メッテルニヒ(略)曰く、「全イギリス」が1911年夏に「戦争の準備」をしていたのは事実だが、実のところ、これは攻撃行動の用意を意味してはいなかった。確かに、海軍には戦争を「厭わない」青年将校が多数いるが、これは他の国の軍人にも共通した態度であった。いずれにせよ、メッテルニヒは――皮肉を込めて――、イギリスではこうした問題が陸軍や海軍の将校、あるいは陸軍大臣でもなく、はたまた海軍大臣でもなく、議会に責任を負った大臣たちから成る内閣によって決定されていると述べている。
(略)
 この報告に接した皇帝は、今度は愉しげではなかった。「間違い」、「下らぬ」、「信じられぬナンセンス!」、「臆病者」。文書の余白を埋める殴り書きは叫んでいる、「余は大使の判断に同意せぬ!海軍駐在武官が正しい!」。
(略)
後年、ある高位の司令官が観察したように、ドイツでは「皇帝が一つの政策をこしらえ、宰相が別の政策をこしらえ、[そして]参謀本部も自分たちなりの答えで張り合っています」。

運命論的な戦争必要説の蔓延

ヨーロッパ中、とりわけ教養あるエリートの間で、おそらくは戦争の心構えが深まっていたことを確認できる。それは他国に対する暴力を唱える血に飢えた呼びかけのかたちではなく、むしろ、必ずしも歓迎してはいない戦争の可能性を意味する、「防衛的愛国主義」のかたちをとった。そしてこの見解は、紛争は国際政治の「生来の」特徴なのだという確信で補強されていた。英仏協商の立役者で、エドワード七世の親友にして助言者であったイーシャー子爵は、「長期的平和という考えは無為な夢想だ」と1910年に書いた。(略)
[オックスフォード大学軍事史教授]ヘンリ・スペンサー・ウィルキンソンは就任講義において、戦争は「人類の交渉の一様式」だと述べている。こうした運命論的な戦争必要説の容認は、論拠と論理の雑多な掻き集めによってもっともらしさを保っていた
(略)
 英独の双方においてかくのごとき見解を下支えしていたのが「犠牲のイデオロギー」であり、こうした考え方は、新聞や学齢期の少年たちの読み物に登場する、軍事衝突の肯定的な描写によって育まれた。(略)
民兵役連盟によって出版されたパンフレットはすべての男子生徒に、「自分の母親や姉妹、恋人や女友達、そして出会ったすべての女性と、外国の侵略がもたらす想像も及ばぬほどの汚名との間に自分が立っている」ことを思い起こすよう勧めている。ボーイスカウト運動までもが(略)「戦争直前の数年間を通じて重視されていた強固に軍事的な特性」を有していた。
(略)
イギリスでも、防衛的、愛国主義的風潮の蔓延が立法府に爪痕を残した。1902年には国民兵役連盟を支持する庶民院議員はたった3名であったのに、1912年にはその数は180名に達したのである。