憲法誕生 大久保利通の構想

憲法誕生: 明治日本とオスマン帝国 二つの近代

憲法誕生: 明治日本とオスマン帝国 二つの近代

狐狩りにおける「規律」

この同じ書翰の中で、大久保がウスターで見物した狐狩りの様子を、工場見学よりはるかに精彩のある筆致で描いているのも、じつは興味深い。大久保は、とくに六〇騎の人馬と猟犬「五千匹」とが一体となって行動する様に感心した様子で、
犬に隊長あり、副長あり。衆犬みなこの長の進退指揮を待つ。実に競馬の勢、犬隊の規律、廻歴中の一奇観なり。
と記している。「規律」という、近代国家の一要素が、大久保というリーダーの心に強く印象づけられている様が、手に取るようにうかがわれる。さらにおもしろいのは、これに続けて、
この騎馬の内に八十五歳の老人あり。太く逞しき馬に打ち乗り凛然として他に先を譲らず。その容体あたかも中老の人のごとし。聞く、この老人、狩りあることに未だ嘗て行かざることなしと。
と書いているくだりで、このあとフランスヘ移ってから(略)当時七十代後半に入っていたフランス大統領ティエールの壮気に感服したと記していることとあわせると、大久保が西洋で活躍する老人たちに、ひそかな注意を向けていたことが理解できるのである。
(略)
久米は次のように伝えている。
バーミンハウに行くときの汽車の中では、突然話に『私のような年取ったものはこれから先のことはとても駄目じゃ。もう時勢に応じんから引く方じゃ』とこれだけ言われた。(略)
(略)
[西徳二郎宛て書翰の中で]
 英語もフランス語もしゃべれず、西洋人の好奇の視線を感じながら見物して歩いている自分を、このように[木偶人に斉しくと]戯画化し、あるいは冷笑している大久保の、汽車の中での「引退のつぶやき」は、その時点では真情の吐露であったにちがいないと思うのである。

失意落胆、政争の中での目覚め

自分は幕府を倒して天皇の政府になそうと考えた。そして、その事業もほぼ成って我々のやることだけはやった。しかし、後はどうも困る。こうして西洋を歩いてみると、我々はこんな進歩の世には適しないシビリゼーションには全く辟易する。
と語っていたのである。さらに大久保が、何らの成果も上げられなかった岩倉使節派遣の失敗を自覚し、その責任も感じて失意落胆の状況であったことも知られている。(略)
[帰国後政務復帰せずにいたが、西郷の朝鮮派遣をとどめるために引っ張りだされ、あげく失敗]
日和見に回った三条・岩倉への失望(あるいは怒り)もあって、大久保はただちに辞表を提出し、西郷の朝鮮派遣は、上奏と勅裁とを待つだけとなった。
 しかし、こうした論争、政争の場に再度入ったこと、しかもそれに敗れたことで、大久保本来の政治家としての資質が目覚めたのではあるまいか。閣議後に彼は反撃の道を採ることになる。三条がストレスで倒れたのを好機に、岩倉をその代理とした上、閣議決定とあわせて派遣延期の私案をも岩倉に上奏させて、天皇にこれを採用させるという「秘策」を敢行(略)
[それを知った]西郷は即座に参議の職を辞して東京を去った。翌日には板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣の四参議がこれに続く。(略)
 しかし本書の文脈で言えば、この政変で、岩倉の意見を聞いた天皇が、政府の正式決定をくつがえす形で「西郷派遣案」を押さえ込んだこと、つまり、天皇の意思が政府の決定より優位に立つという前例を作ったことが重要であろう。仮に江藤らを中心とした「政敵」を追い落とすための策であったとしても、(のちに見るように)憲法制定という形で近代国家としての体裁を整えようと考える大久保にとって、これは、自らがその所在を明らかにしてしまった深刻な問題だったにちがいない。しかも、彼が追い落とした「政敵」たちによって、翌年には「民撰議院設立」の建白書が提出されるから、「民意」と「君主の意向」との間にあって、後進日本をいかにして西洋諸国に認められるような国へ導いてゆくかは、明治六年政変後政府に残った人々にとって、切実な課題と受け取られたはずである。
 そうした中で大久保は、すでに建白書が出される以前に憲法の構想を語っていた。

憲法構想

 意見書の中で大久保は、まず世界の政体を「民主政治」と「君主政治」とに二分している。(略)
それ民主の政は天下をもって一人に私せず、広く国家の洪益を計り、あまねく人民の自由を達し、法政の旨を失わず、首長の任に違わず、実に天理の本然を完具するもの。
であると述べている。大久保にとって、民主の政治が望ましいのは自明だったのである。ただそれは、
旧習に馴致し、宿弊に固着するの国民においては適用すべからず。
であるとともに、その運用を誤ると、進取・先進の国民をも悲惨な状況に追いやるのである。大久保はその悲惨の例としてフランスをあげている。(略)パリ・コミューン直後にフランスを訪れただけに、民主に対する彼の姿勢に、コミューンは薄からぬ影を落としたにちがいない。大久保は、
往事フランスの民主政治、その兇暴残虐は君主専制より甚だしと。名実相背くに及んではまたかくのごとし。
と書いている。(略)したがって、民主が必ずしも「至良」であるとは限らない。いっぽう、民が無知蒙昧である場合は、衆に抜きん出る才をもったものが「威力権勢」に任せて民の自由を束縛し、道理を説いてこれを賀御するのは、「まさに一時適用の至治」であると言う。過渡的であることを留保してはいるが、強いリーダーシップの称揚へ連なるこの見方は、ムスタファ・レシトの考えにも通じる見解だと言うことができるだろう。しかし、名君が立ち、これを良吏が輔弼していれば問題はないが、いったん暴君が現われ、これにおもねる「汚吏」が権力を濫用すれば、民の怒りは輔弼する官僚をとびこえて君主に向けられることになり、その「廃立簒奪」にいたるであろう。イギリスのクロムウェル、一七〇〇年代のフランス(ルイ十六世の運命)を見れば、それは明らかなのである。(略)
プロイセンの政体をイギリスで施行することも、イギリスのそれをアメリカに当てはめることもできないのであり、同様に、それらの国の政体をそのまま我が国に当てはめることもできない、と言っている。必ず、日本の「土地風俗人情時勢」に適した政体を立てるべきなのである。(略)
 そして日本の現状は、
その政は依然たる旧套に因襲し、君主専制の体を存す。
状況なのである。君主専制を排そうとする、大久保のこの認識は重要なものだろう。つい一月前に、政府の決定が天皇によって覆ったところだった。「良吏」が――すなわち自分が(!?)――輔弼していたから、そして「名君」であったから、それは「正しい」結果をもたらしたが、このまま行けるわけでないことを、大久保はよく理解していたにちがいないのである。では、「政体もって民主に帰すべきか」と自ら問うて大久保は「不可」と言う。ようやく廃藩置県を実行して中央集権体制はできあがったが
人民久しく封建の圧制に慣れ、長く偏僻の陋習もって性をなすほとんど千年。豈に風俗人情のもってこれに適用するの国ならんや。民主もとより適用すべからず。君主もまた固守すべからず。
大久保の興味深いところは、日本の民衆がいまだ民主を適用する段階に達していないがゆえにそれは採れないが、しかし君主に長くとどまっていてよいとも考えていないことであろう。ではどうすればよいのか。(略)
君主の権限、ならびに民権、いずれにも制限を設け、君民互いの暴走を抑止しつつ公正の実現を図ろうとするこの「君民共治」の体制こそ、立憲君主制と言うことができるだろう。最終的にその体制へと導くべく、大久保は伊藤に対して定律国法(憲法)の調査を命じたのだった。
(略)
さらに重要なのは、この三権が一人の手に握られれば、その人物が、
その威権を逞うし、私意に任せて法制を妄立してその権理を意とせず、恣ままに衆人を奴視して、あえてその疾苦を顧みず、全国の利害に関せずして特に一己の情欲を専らにせんこと有らんとす。
という弊害、あるいは危険があると述べていることである。そうであるがゆえに、ヨーロッパ諸国は[三権分立を確立した](略)
 このように大久保は、「衆人」の福利を意識し、これを擁護し、あわせて「全国の利害」を優先させる政治を保障するために、三権の分立を基礎に据えた憲法を制定せねばならないと明言していたのである。
(略)
また、大久保案の中では天皇司法権行使に関わる記述もなされておらず、ただ、
 ・一般法律の羈束を受けず。
 ・訴訟の被告とならずといえども、裁判官に特命してこれを聴かしむること有るべし。
とあるだけで、これらはむしろ、天皇が法の上に超然と存在しているものであるにもかかわらず、場合によっては裁判官による聴取が可能としている点に注目すべきであるかもしれないのである。
 このように、大久保は、維新後わずか六年という大きな時代的制約の中で――「万世不朽の天位」にある天皇を戴くことを前提とし、欧米視察においてプロイセンの存在にもっとも深い感銘を受けつつも――専制的政治の排除に重点をおいた憲法を構想していたと言うことができるのである。とくに、十六年後に公布される憲法が、神聖化の進んだ君主に「天皇大権」と呼ばれる広汎な権限を与えることを考えるならば、「衆人」や「権理」や「全国の利害」を前面に出した大久保のこの姿勢を確認しておくことには、少なからず意味があるように思われる。

次回に続く。