ウッドストックへの道 その3

前回の続き。

リッチー・ヘイヴンス 

 そもそも僕の最初の計画はジミ・ヘンドリックスに予告なしでアコースティック・セットを演ってもらって、それで金曜日からのすべての始まりにしたかったのだ。(略)

[だがまだ到着しておらず]

リッチーの他に一番手としてやってくれそうな可能性があったのはティム・ハーディンだけだった。(略)

「ヘイ、ティム、このフェスの皮切りで演ってみたくないか?」。

「だめさ、ごめんだね!俺はいま出られないよ。俺じゃないよ、最初はごめんさ!そんなのできないよ!」、彼は必死に訴えるようなまなざしで僕を見た。(略)

 僕は彼がもろく傷つきやすいことを知っていた。彼はつい最近ヘロインの習慣を断ち切ろうと、メタドン治療を受けはじめたところなのだ。それだけに彼にもうプッシュしたくはなかった。ティムは友だちだったし、彼の音楽は大好きだったから、彼には最高の状態でステージに立ってほしかったのだ。これは彼にとっても大きな飛躍のチャンスなのだから。

 そうなると、やはり一番の大役はリッチーしかない。僕は彼ならその役目を立派に果たせるとわかっていた。彼のパワフルだが静かな物腰、それこそ、ここから始まるすべてのトーンを決めるために僕らが必要としていたものなのだ。

(略)

リッチー・ヘイヴンス マイケルがゆっくり俺のほうに歩いてきたんだ。彼が何を言うのか、俺にはすっかりわかっていたよ。近づいてくるにつれて、彼の笑顔がどんどん大きくなっていくんだ。それから頭を片側にかたむけて、「リッチー、助けてくれよ、お願いだから、僕らを助けてくれなきゃいけないよ」って言うんだ。(略)

「マイケル、俺は5番目のはずだよ、1番じゃなくて」

「お願いだよ、リッチー、頼む、お願いだから」――ついに折れたよ。

(略)

40分のセットを演奏すると、後はストゥールをおりた。けれど、僕らはまだ次の出演者の見通しがたっていなかった。そこで僕は首を振って、続けるようにうながした。さすがに長いキャリアを持つベテラン、彼は次から次へと歌い続けてくれた。

(略)

あれは6度目、いや7度目のアンコールだったろうか、全身汗まみれになっていた彼は、ついにその目で僕らにサインを送ってきた――“いいかい、これで最後だぜ”、と。

 

リッチー・ヘイヴンス(略)

俺はこれで終わりにして、ステージを降りなくてはいけない。そこでギターをチューニングしながら、歌い忘れた曲はなかったかと頭の中で記憶のファイルをめくっていた。すると、その時またあの言葉が聞こえてきた。(略)フリーダム!そう、それは“自由”って言葉だったんだ。

(略)

 ギターをかき鳴らしはじめると、口から自然にフリーダムって言葉がとびだしてきたよ(略)自然なリズムで、足が勝手に動きだして、どんどん速く、パワフルなリズムをギターにうながすんだ。(略)

気がつくとそれは、あの「時には母のない子のように」って歌、昔おばあちゃんがブルックリンで子供だった俺によく歌ってきかせてくれた古いスピリチュアル・ソングにまじっていたんだ。

ジョン・セバスチャン

 出演の予定はなかったけれど、ジョン・セバスチャンはみんなの顔なじみだったから、バックステージで誰、彼となく挨拶をかわし、一緒にくつろいでいた。彼を有名にしたバンド、ラヴィン・スプーンフルは前の年に解散。それで彼はカリフォルニアへ行き、ファイアサイン・シアターのコミューンで暮らし、最初のソロ・アルバムの曲作りをしていたんだ。たまたま彼は金曜日の朝にアルバニー空港で、インクレダブル・ストリング・バンドの一行と出会い、彼らの誘いに乗って、僕らがさしむけたヘリコプターに同乗して、ウッドストックに現れた、というわけだった。

 

ジョン・セバスチャン(略)

あたりを回っていたら、8×8のワーゲン・バスのテントが(略)いつのまにか倒れて、みんなの足蹴にされていたその哀れなテントをひろいあげ(略)きれいに立て直していると、チップ・モンクが通りかかって「なんだ、うまいんだな」って言う。だから「だって、ここ2、3か月、こんなテントで暮らしているからね」と僕。すると彼は「素晴らしい! じゃあ、このテントはきみが責任者で、頼むぜ!」って言うじゃないか。それで僕はテント管理人になって、インクレダブル・ストリング・バンドの楽器を全部そこにしまってあげた。

(略)

会場内をひとまわりしてみることにした。それは3時間もかかる長い散歩になった。ふと気がつくと木々がはえてるあたりにジャングル・ジムがあり、よく見るとクラフト系のアーティストたちがそこに彼らの小宇宙を作っていた。

雨の中のキャンドル・ライト

 ラヴィ・シャンカールの感動的なパフォーマンスの後、バックステージにアーティ・リップに連れられて、メラニーというフォークシンガーが姿を見せた。(略)

 その時点では、ほぼ無名の存在だったが、そのかすれて不思議にふるえる声で、彼女が「ビューティフル・ピープル」の最初の一節を歌いおえると、奇蹟のような出来事が起こった。彼女の前で闇の中でひとつになっていた何千人の参加者たちはキャンドルやマッチに火をともし、それをかざして揺れはじめたのだ。(略)

彼女は家に戻るとすぐにこの時の体験を「レイ・ダウン (キャンドルズ・イン・ザ・レイン)」という曲に書いた。それは、1970年、彼女、メラニーの最初のビッグ・ヒットになった。

 

メラニー マジカルだったわ。あの時、わたしは初めて幽体離脱というのを体験したの。ステージに出る橋を渡っていると、わたしは体から抜けだして空中に昇っていって、そこからもうひとりのわたしがステージに歩いていき、腰をおろして、最初の数行を歌いだす姿が見えたの。わたしが出る直前に、また雨が降りだしていた。ラヴィ・シャンカールが演奏を終えた時に、チップ・モンクが「ろうそくに火をともせば、雨をとめることができるはず」ってみんなに言っていた。わたしがセットを終えた時には、丘の一面にいっぱい小さな火がまたたいていたわ。あの時、あの場所にいられたのは、ほんとに素晴らしい体験だった。

(略)

 コンサート会場で人々がキャンドル、火をともしたのは、おそらくこの時が最初だったのではないだろうか

サンタナ 

カルロス・サンタナ ヘリコプターで運んでもらって、僕らは朝の11時にウッドストックに到着した。被災地みたいなひどい状況だ、って聞いていた。僕はすぐに大好きなジェリー・ガルシアを見つけて、一緒にわいわいやっていた。出番は夜の8時ぐらいだから、それまでゆっくりしていてくれって言われていたんだ。

そしたら(略)とんでもない七転八倒のドタバタになっちまった(笑)。つまりこうさ。まず、時間があるからっていうので、僕はメスカリンをやりたくなって、いい感じになってた。ところがその効きがちょうどピークになってきた、その時に、進行役らしい奴が「さあ、今、出なかったら、もう、きみたちの演奏のチャンスはないぞ!」って言うじゃないか。それであわててステージに出てみたら、見渡すかぎり、人、人、人の海だ。体と揺れる髪と笑う歯、突き出された手でいっぱいの海。もうパニックなんてものじゃない。神様、時間のキープが狂いませんように、うまく弾けますようにって祈りながら演奏を始めたよ。前にもイッてる状態で演ったことはあったけど、こんな大勢の観衆の前じゃなかった“あの時はみんなのハートに、プラグインだ!それも、いっぺんにプラグインするんだ!”みたいな気持ちだったよ。でも僕らはなんとかやりとげた、それも最高にごきげんに、だ。どんなサウンドだったか、どんな風に人々の体がはねていたか、僕は一生忘れないよ。バンドの仲間全員にとっても、あそこでの時間は最高だったんだよ。

スライ&ザ・ファミリー・ストーン

カルロス・サンタナ フェスティバルのピークを目撃しに出かけたよ。そうさ、スライ・ストーン、彼のステージだ。でも彼は二度とあんな素晴らしいパフォーマンスをしなかったと僕は思うんだ。ほんとに最高だったよ。彼のアフロ・ヘアーから蒸気があがるのが見えたんだ、ほんとだってば。

 

エレン・サンダー グレース・スリックとジャニス・ジョプリンが一緒に踊っていた。彼女たちは目をつぶり、拳を握りあい、体をぶつけあっていた。“ハイヤー!”――もっと高く飛べ!とスライは聴衆に呼びかける。すると5万の聴衆、そのひとりひとりが声のかぎりに叫び返した。“ハイヤー!”

ザ・フー 

[朝の3時30分、ザ・フー登場間近]

アビー・ホフマンは僕の隣で落ち着かず、喋り続けていた。「俺はジョン・シンクレアについて何か言わないといけないんだ!ジョイント1本吸っただけで彼はずっとムショ暮らしなんだぞ!」。シンクレアはデトロイトの急進的ロック・グループMC5のマネージャーで、ホワイト・パンサー党の創立者。おとり捜査にはめられ、わずか2本のジョイント所持で10年の禁固刑で監獄につながれていたのだ。

 「わかったよ、アビー」、僕は彼の理性に語りかけようとした、「後でチャンスがあるさ、セットの間とかにさ」。

 でも彼は聞かなかった、「いや、俺はほんとに言わないといけないんだ!たった今だ!」。

 「アビー、フーが演奏しているんだぜ」僕は彼に思い出させようとした――フーはロック・オペラ『トミー』の半分あたりにさしかかっていた。どうしてそんなことがわからないのか不思議だった。「彼らのセットの真ん中でスピーチなんかできないだろ。彼らに最後まで演らせてやれよ!頭を冷やせよ!」。

 ちょうど「ピンボールの魔術師」が終わった時、アビーは椅子からとびあがった。そして僕がつかまえるよりも早く、タウンゼントのマイクに駆けよった。ピートは後ろを向いてアンプの調整をしているところだった。アビーは誠実な口調で聴衆にジョン・シンクレアについて考えてみてくれ、と訴えた、彼には僕らの助けがいるのだと。そして、無邪気に楽しんでいる聴衆を責めた。

(略)

バシッ!振り返って客席の方を見ると、自分のマイクの前にアビーを見つけたタウンゼントはギターで彼の頭を殴りつけたのだった。

 アビーはよろめき、それから前のカメラマン席に飛びこみ、一目散でフェンスを乗りこえ、その向こうの群衆の中へと消えていってしまった。それが、その週末、僕がアビーの姿を見た最後だった。

(略)

 その前の演奏中にも、彼の前でかがみこんで撮影カメラをかまえていたマイケル・ワドレー監督の胸をピート・タウンゼントは蹴りつけていた。今度は彼、タウンゼントはカンカンだった。「次にこのステージを横切る奴がいたら、そいつの命はないぜ!」、彼はギブソンSGをチューニングしながら言った。聴衆は彼がジョークを言っているのだと思い、笑い声を上げ、手を叩いた。「笑えばいいぜ」、彼は冷たく言い放った、「だが、俺は本気だぜ!」。

 

ピート・タウンゼント 俺の反応は考えてというより反射的なものだった。アビーの言っていたことはいろんな意味で政治的に正しいんだ。ウッドストックの奴らは本当はただの偽善者どもだ。コズミックな革命だとかぬかしやがって、ただフェンスを壊して、野原を乗っ取っただけじゃないか。それで悪質なアシッドをとって、バンドにギャラも払わずに逃げようとしやがった。その間もジョン・シンクレアはでっちあげ麻薬捜査ではめられてぶちこまれたまま、ブタ箱で腐ってくたばりかけていたんだ。

 

ザ・フーは『トミー』の至福感あふれる演奏を続けた。

(略)

どれも驚くほど素晴らしい演奏だった。後になって彼らが“ウッドストックでの演奏は平均以下のでき”で、また“聴衆が『トミー』にはまってくれなかったみたいだ”と発言しているのを知ったが、とても信じられなかった。

 

ピート・タウンセント 『トミー』は誰にも受けなかった。セットが終わる頃、俺はかろうじて起きていたって状態で、誰か別の奴の演奏を聞いているような気分だった。そして、バーン!と太陽が昇ってきた。すごかったぜ。ある意味じゃ、俺たちはそんな値打ちがないって感じがしたんだ。俺たちは悪いバイブをばらまいてたんだからさ。演奏を終えると、もう昼になっていたよ。俺たちはステージをおり、車に乗って、一目散でホテルに戻ったんだ。クソ嬉しかったぜ。

 

ビル・グラハム ザ・フーは冴えていたな。タウンゼントは蒸気機関車みたいだった。走りだしたらどこまでも止まらない裸の黒い馬って感じだった。奴が演奏を始めたら、“気をつけろ!はね飛ばされるぞ!” だ。

ウォール・ストリートでの苦い時間

 午後3時頃、ウォール街ヘリポートに到着した僕はめざす銀行の重役室へと急いだ。(略)

[仲間の]まわりには弁護士をしているジョンの兄のビリー、さらに何人かの弁護士タイプの人々、そしてずっと年長の老紳士――後で銀行の頭取とわかった――がいた。(略)

僕は部屋に充満する恐れと怒りの匂いに圧倒されそうになった。

(略)

 僕には知らせずに、アーティ・コーンフェルドはこのミーティングに何人かの付き添いを連れてきていた。(略)

[アルバートグロスマンとアーティ・リップは]儲け話の匂いを嗅ぎとったのだろう。ふたりは、ウッドストックベンチャーズのジョンとジョエルの持ち株を買い取る金を出してもいいと持ちかけたのだ。このフェスティバルを撮影したフィルムがこれからどれだけの金を産み出すか、彼らは直感的に理解し、その利益を手にするためにはこの大きな価値を持つ会社名が必要だとふんだのだ。

(略)

 会議はその朝の9時からずっと続いていた。ジョンは週末中ずっと、なんとかテレフォン・ビルに到りついた人間たちに次から次へと小切手を書いて渡していたのだった。そして今、彼と彼のファミリーはそれらの小切手が不渡りにならぬように銀行に百万ドルを超える保証をしなければならなかった。もうひとつの選択肢はウッドストックベンチャーズが破産宣告することだった。

(略)

 だが、僕たちに財産がないわけではなかった。僕らはまずたくさんの善意を産み出していた。そしておそらく歴史的とも呼べるだろうこのイベントのフィルムとそのすべてをレコーディングしたテープを持っていた。しかし、ジョンの兄、ロバーツ・ファミリーを代表するビリーは彼らが実質的にウッドストックベンチャーズを占有していると主張し、ジョンをバックアップしてきたという優位な立場を理由に、これから先はロバーツ一族が僕らを破産地獄から救出してやろうと、お情けモードの救済案をちらつかす。彼らにはこの先僕らのパートナーシップが続くことにはこれっぽっちの興味もないのだと、僕はその時やっと気づいた。僕がヘリポートに到着する前から、すべては決まっていたのだ。

 それでも、この先ジョンがどんな苛酷な立場に立つのか、僕は考えずにはいられなかった。彼とジョエルは、ウッドストックでアーティと僕がしたような素晴らしい体験をなにひとつできなかった……、そのことを思うと、僕の胸は疼いた。どんな理由があったにしても、彼らはあの3日間、ホワイト・レイクのテレフォン・ビルに閉じこもったまま、惨めな思いで過ごし、今は僕らの支払いのために家族に忠誠を誓わなければならないのだ。

 もちろん僕にも、アーティにも、ジョエルにも自分たちの持ち株を買い取るお金はなかった。僕にはまた、ずっと自分の片腕だったジョエルの立場を思うジョンのつらい気持ちが痛いほどにわかった。ロバーツ一族はジョエルをまったくのよそもの、あるいはそれ以下、単なるゴロつきくらいにしか考えていなかった。

 ジョンとジョエルはフェスティバルを無料で人々に開放せざるをえなくなった時点から、激しく落ちこみ、すさんだ気持ちを怒りと憎しみの言葉にして、僕とアーティにぶつけてきたのだ。ジョンのファミリーも同じように僕らに敵意をあらわにしていた。

(略)

リー・マックラー・ブルマー  (セキュリティ・アシスタント) 会議から戻ってきたらジョンとジョエルはふたりとも困惑しきった表情をしていた。ジョンの父親が「保釈金を積んでやる」とでも言ったからだろう。後になってジョンは「もうこの先二度とあのロゴも、何ひとつウッドストックの名を冠して使うことができなくなった」と言っていた。ジョン・ロバーツは父親が生きている間、誰にもあの登録商標は渡さないと誓約したのだ。父親はウッドストックが一族の名前を汚したと考えたんだわ。私が思うに、ジョンの兄さんはずいぶん後になって、やっとあれが偉大な文化的出来事だったこと、そしてジョンがそこで大きな役割を果たしたことに気づいたのよ。けれどジョンの親父さんは死ぬまでウッドストックに関して、ジョンを許そうとはしなかったんだわ。

解散 

 続く数週間の間に、僕ら二人は話し合ってウッドストックベンチャーズの解散を決めた。ベンチャーズ社は1400万ドルの負債を抱えていることがわかった。(略)

僕たちは、払える金ができるまでしばらくふたりに負債を引き受けてもらえないかと提案をした。だがこの提案にジョンは激怒し、たちまち全員がお互いをののしり始め、結局何ひとつ解決しなかった。

(略)

 アーティと僕は、ワーナー・ブラザース社のフレディー・ウェイントラウブに会いに出かけ、将来のフィルムからの取り分はなしという条件で50万ドルの前払いをしてくれるように申し出た。こうすればいくつかの支払い請求に答えて、とりあえずの危機からベンチャーズ社を救い出すことができるだろう。ところがこの申し出にウエイントラウブはノーと言った。映画が当たるか疑わしいというのだ。テッド・アシュリーとワーナーブラザースの重役たちは、彼らが金の卵を持っていることを百パーセント承知していたのだ。そして僕らが苦境にいることをひそかに喜んでいた。となればフィルムを買いたたいても、僕らがシッポを振ってくるだろうと……。

(略)

次のミーティングで僕らは解決策を討議した。今回僕らは残りの負債額を推定して、ジョンとジョエルに5万ドルを支払って彼らにベンチャーズ社から消えてもらうか、あるいは逆に彼らが僕らに7万5000ドルを支払い、プラス僕らの負債分をなしにしてもらえるかと申し出た。(略)

 結局、アーティと僕は持ち株をジョンとジョエルに売らねばならないことになった。突然ロバーツ一党は方針をガラリと変え、8月の初めにはあんなに反対していた破産をちらつかせて僕らを脅したのだ。

(略)

 アーティと僕の持ち株譲渡の買い取り金は一人3万1750ドルに決まった(略)

 僕らがこの取り決めをした直後、ワーナー・ブラザースは100万ドルをジョンとジョエルに支払い、ウッドストックベンチャーズに、わずかな収益からの配当金を支払うという条件で、ベンチャーズが持っていた、映画所有権の残り半分を買い取ってしまった。アーティと僕なら絶対に売りはしなかっただろう。おそらくウエイントラウブとワーナーの幹部たちは、取引相手のふたりが映画の価値をよくわかっていないことに気づいていたのだろう。後になって気づいたことだが、僕らがベンチャーズを離れる前から、彼らはロバーツ一党に接触して買い取りの交渉を、僕らに知らせず、秘密裏に進めていたのだろう。

(略)

[映画『ウッドストック』は大ヒット]

最初の10年間で、ワーナーに5000万ドルを超える収益をもたらした。映画を上映する前の1969年のワーナーはハリウッドの8つのメジャー会社の中で最もランクの低い会社だった。しかし『ウッドストック』を買って、彼らは何年ぶりかの大ヒット作品に恵まれたのだ。

(略)

映画がヒットしても、アルバムがベストセラーになっても、アーティと僕には一銭も入ってこなかった。

[関連記事] 

kingfish.hatenablog.com 

kingfish.hatenablog.com

kingfish.hatenablog.com

 

ウッドストックへの道 その2

前回の続き。

アビーホフマンの恫喝

 「お前らのフェスティバルなんか、俺たちにはネズミの穴ほどの意味もあるもんか!そんなクソフェスティバル、俺たちの要求を呑まないのなら、てめえの耳の穴に突っ込んでやる!」

 アビーホフマンがジョエルの面前でわめている。
(略)

ローズ・ペイン(活動家/映像作家)(略)

ある日、アビーとマイケルのオフィスに乗りこんで 「このイベントは強盗と同じだ。俺たちの分け前を貰いにきたぜ!」と彼に言った。あの頃はツッパっていたのよ、私は。マイケルはキュートで髪も可愛いかった。怒って怒鳴り返すかと思ったら、とてもフレンドリーな態度で、あっさりと「オーケイ!」。拍子ぬけしちゃったわよ。アビーはフェスティバルに乗りこんで、自分たちのことをやってやろうってつもりだったのね。と同時に彼らは自分たちの敵じゃないな、とも感じていたんだと思うな。マイケルはニコニコと感じよく私たちの要求すべてに応じてくれた。

(略)

 ウッドストックベンチャーズという仮面をかぶった大企業体アメリカが、自分たちのアイディアを利用しようとしているのでは、と彼らは危惧しているようだった。そこで僕らがカウンターカルチャーの一部であること、一般的なルールでビジネスはするが、それは夢見てきたより良い世界を具体的な形にして、世の中にマニフェストするための手段であること。ウッドストックは人民による人民のためのものであること。そしてこのイベントで相応の利益を上げたいと投資を希望する人々の参加は拒まないこと、等々を僕は説明した。

 しかし(略)アビーは2万ドルを自分たちの主張のために寄付しろとせまってきたのだ。

「おまえたちはこのカルチャーから金を取るのだから、俺たちに還元すべきだ!」

「僕たちの主張はどうなるんだ?」、僕は切り返した。「いったいこのためにどれだけの金を使ってると思う?」

「いいかい」、彼は答えた、「スモークとアシッドをやりに都会のガキどもが田舎のおまえたちのイベントに集まってくるんだ。なんの準備もキャンプもしたことのない連中だ。だから毎日サバイバル・マニュアルを発行しに行ってやる。そして俺たちが係わってる政治活動や社会運動のことを知らせるパンフレットをまくんだ。金儲けのことしか頭にないおまえたちとは違って人民の世話をしたいんだ、俺たちはな!」

(略)

僕らは部屋の外に出た。

「彼らは本当に面倒を起こすのか?」、とジョエルは尋ね、僕は「イエス」とうなずいた。「なんか他に金を払わないですむ方法はないか?」、と彼は尋ね、僕は「ノー」、と首を振った。

「ただし、彼らはやると言ったことはきちんとやる。そう僕は信じている。彼らが参加すれば会場の大きな助けにもなるし、僕らのメッセージの信用にもなるよ」。

(略)

部屋に戻り、僕は言った。「みんなが助け合えるように協力してもらえるのなら、サバイバル・マニュアルを出せるように印刷機を買う費用を出そう。そして、きみらの活動を伝えるパンフレットを並べるテーブルの置けるスペースを提供するよ。僕らが十分な準備をしていないと言っていたけど、それなら会場にやってくる子供たちを助けて、僕らに協力してくれよ」。

 アビーは僕の提案が気に入った様子だった。そして今度は彼らだけで協議することしばし……。こういう交渉にたけていたアビーは、僕らがどれだけの金額の用意があるかと突っこんできた。僕らは5000ドルと答えたが、最終的に1万ドルで手打ちとなった。

(略)

アビー・ホフマン 受け取った1万ドルの半分で印刷機を買った。印刷機はまさにライフセーバー、あの印刷機を使って刷ったサバイバル・インフォメーションで命を救われた人間もいるはずだ。残りの金は、出版物や印刷用紙を運ぶトラックレンタルや、バッド・トリップした時に俺たちが使う特定のビタミン剤を買うのに使った。100枚、いや200枚のチケットをただでもらって、それをさばいてできた金はWBAI-FMの運転資金にしたね。あと残ったチケットは、フェスティバルに行きたくても切符が買えない連中にあげたりしたな。

デンバーで学んだこと

6月29~3日の3日間、デンバーのマイル・ハイ・スタジアムで行われるポップ・フェスティバルを見に行った。そこで僕が出会ったのは、ウッドストックでは絶対に起きてほしくない光景だった。

 

 まずフェスティバルが始まる前から、アメリカ解放戦線を名乗るグループと警察の間で小競り合いがあった。リーダーたちは(略)集まってきた若者たちに、「コンサートをただにするべきだ!」とアジっていた。(略)

完全装備の警官隊が150人ほど待機していた。彼らはゲートから闖入しようとする連中や、抗議にやってくる連中をそうやって威嚇していたのだ。でも僕には、まったく正反対の効果を生むのではないかと、イヤな予感がしていた。

 はたしてまもなく数百人の若者がゲートを襲い(略)さらに多くの警官隊が現れた。石やビンを投げる若者たちと警棒で殴りかかる警官隊――結局多数の負傷者がでた。そしてジョニー・ウィンターが演奏をしている最中に正面ゲートでオマワリたちは催涙ガスを撒きはじめた。ガスは風でステージにまで届き、聴衆やスタッフの多くがひどい目に会った。最終的に警察は主催者側にゲートを開けるように指示。最後の出演グループ、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの演奏が始まる頃には何千人という人々がスタジアムへなだれこんできた。

 日曜日の夜にはニューヨークへ帰る予定だったが、急に僕はジョー・コッカーとグリース・バンドを聴いてみたくなった。そして、日曜は前の日より事態はさらに悪化した。切符を持たない何千人の若者たちが「フリーコンサートにしろ!」とスタジアムに押しよせ、それに対して警察は獰猛な犬たちを放ち、催涙スプレーを振りまき、警棒を振りかざして彼らに襲いかかった。(略)

僕らのフェスティバルではデンバーでのようなことが起こらないように、会場には一人も制服警官を置かないようにしよう、と固く心に決めたのだった。

 けれど、ジョー・コッカーとグリース・バンドの演奏は最高だった。僕は(略)ほとんど無名の存在だったこのシンガーを出演させることにした。

ピート・タウンゼントを寝かさない

[ザ・フーは全米で『トミー』ツアー中]

けれど、ピートはウッドストック出演にまったく興味を示さなかった。バンドは明らかにハード・スケジュールで疲れきっていて、ツアーが終了したらすぐに、故郷イングランドへ帰りたがっていたのだ。

 そこでフランクが一計を案じ、ピートとジョン・モリスを彼の家のディナーに招待した。(略)その晩、ジョンとフランクは何度も出演の話を持ちかけた。しかし、頑としてピートは首を振らない。

(略)

しかし、あきらめずにフランクとジョン・モリスは徹夜作戦を開始。明け方の5時、ピートはウトウトしはじめた。それでも彼ら二人はピートを寝かせず、午前8時ついに彼は叫んだ。

「オーケー、わかった、やればいいんだろ。だからお願いだから、もう俺を寝かせてくれ!」。

 こうしてやっと交渉が始まり、ウルフは1万2500ドルで契約書にサイン。その場で半分が支払われた。もちろん契約書には“宣伝ポスター、チラシにはいかなるスター扱いもせず、出演者名はアルファベット順とする” と明記されていた。“これは主催者側の要請に基づくもので、当フェスティバルの重要なコンセプトである”と。後にザ・フーは彼らのアルバム『ライヴ・アット・リーズ』のアルバム・ジャケットの内側に、この時のファクシミリで送った契約書を載せていた。

マックス・ヤスガー

 エリオットの所から、ルート17B沿いに2、3マイル走っていくと、僕らは息を飲むほど見事な田園地帯に入っていった。そこは見渡すかぎり緑の草原が広がる美しいファームランドだった。(略)ここだ!

 「車を停めてくれ!」、僕は自分の眼が見ている風景が本物かどうか信じられないまま、叫んでいた。そこは僕のフィールド・オブ・ドリームス。このフェスティバルを思いついた時から夢に見ていた場所だった。僕たちはウォールキルを去り、ベセル――“ 神の家”に着いたのだ。車を降りると僕はこの自然がつくった緑のスタジアムの中を歩いていった。なだらかな斜面のいちばん下には少し隆起した場所があり、まるで僕らがそこにステージをつくるのを待っているようだった。

(略)

僕たちは40代後半のすてきなカップル、農場の持ち主のマックスとミリアム・ヤスガー夫妻に会うことができた。

 「マックス、この人たちはきみの土地の一部を借りて音楽フェスティバルを開けるかって、きみに訊きに来たんだ」、アブラハムが説明した。

鋭い知性を持った顔つきのマックスは、まっすぐ僕の眼を見た。

「きみたちはウォールキルで候補地を失くしたって人たちだろう?」、僕は彼の口から次に出る最悪の言葉に備え、一瞬身がまえた。だが彼の言葉は僕の思ったものとは違っていた。

「あっちの連中はきみたち若い者をつかまえて、ずいぶん不誠実な真似をしたようだな。いいとも、僕の土地を見せてあげよう。きみたちの音楽の祭典に都合のいい取引ができるかもしれんしな」。(略)

車で走る途中、マックスは自分の土地を指さしながら説明してくれる。

(略)

「それでどれだけの土地がきみたちには必要なのかな?」、彼が尋ねた。

「そうだな。まずこのフィールドとあなたの持っているこのまわりの土地。あと別にキャンプ場と駐車場用に600エイカーくらいが必要なんです」。

(略)

[メモ帳を取り出し数字を書き始めるマックス]

彼はどれだけの収穫をフイにし、また種まきができるようになるまでにかかる費用を計算しているのだった。(略)

[彼が提示した額は]フェアな金額に思えたので、僕は即座にイエスと言った。

(略)

 マックス・ヤスガーなしには、ウッドストックは存在しなかっただろう。サリバン・カウンティでは彼は自分の言葉を守る、強い意志の男として知られていた。(略)

[十代で父を亡くし大黒柱として家族を支え農場と土地を少しずつ買い続け酪農場を建てついにはサリバン・カウンティ最大の牛乳生産者となった]

[翌日5万ドルの土地借用代に補償金を加え7万5千ドル支払うことで合意]

(略)

彼は誠実で高潔な理想家なのだ。お金のためだけに土地を貸してくれたのではない。彼のモチベーションはそれだけではなかった。マックスは酪農場をつくって自分でもしたように、僕らにも夢をかなえるチャンスを与えてやりたかったに違いない。僕らがウォールキル会場のために作った地図や詳細なデザインなど、すべての計画を見せた時、彼は目を丸くして、僕らの勤勉さに驚いていた。「これはとても1日や2日のやっつけ仕事でできるもんじゃないな!」。彼は自分の土地に支払いを求め、僕らはそのかわり彼の協力を手に入れたのだった。

 必要な許可を得るためにホワイト・レイクの役人たちと会いに行かねばならなかった。しかし、あんな目に遭ったばかりで、僕らは神経質になっていた。その様子を見ると、マックスはできるかぎり助けてあげようと約束してくれ、手始めにその週末、ベセルの町のスーパーバイザー、ダニエル・アマタッチに会わせてくれた。(略)

僕らは猛烈な速さで動きはじめた。

 ウォールキルの役人たちはウッドストックベンチャーズをミルズの地所から蹴り出してやろうと、厳しい立退き命令を準備していたが、もうそこはとっくにモスケのカラ!(略)家具、ファイル、道具類、僕らは納屋にあった物を一切合切トラックに積みこみ、ホワイト・レイクに運んできた。

地元民の反発

 だが、すべての町民が僕らを歓迎していたわけではなかった。日曜日の夜、誰かがマックスの地所への道路の入り口に大きなベニヤのプラカードを置いていった。そこには恐ろしい文字でこう書かれていた。

“マックスのヒッピー音楽フェスティバル阻止! この町に5万人のヒッピーは要らない! ミルクを買うな!”

 またしても僕らには悪い予兆だった。だが、マックスはその悪意のこもったメッセージを見て、逆に僕らのフェスティバルを実現に向けて、いっそう強く支援しようと気持ちを固めていた。マックスはそういう男なのだ。

(略)

マックスは僕らをかばうように発言を続けてくれた。「彼らはとても良い子どもたちだ。僕は彼らみたいな連中は大歓迎だ」、と彼はハッケンサック・レコード・コール誌に語っていた。「僕は彼らとは世代も違うから、別のことをしてきた。でも彼らは長い髪をしてるから、法律を破るなんて思わない。そんなのはバカげた思いこみだよ。これは何か違ったものになるだろうよ。僕は何の不安も感じていないよ」。

 住民たちの不安を和らげたいと思った僕は「フェスティバルの参加人数について誤解があるようです。新聞等では15万人と報告されていますが、あくまでもこれは3日間通じての合計数であり、一日の参加人数は一度に5万人前後となるでしょう」とコメントを発表した。これはちょっと眉唾だったが、ベセルでのこの最初の時期には必要だったのだ。

(略)

ジョン・ロバーツ マックスが加わったとたんに、僕らはなぜかとても気前よく、太っ腹な気分になった。あまりに事態が早く進んでいき、もう損得勘定なんてどうでもよくなってきたんだ。(略)

今から振り返ってみれば、あの段階で僕はよくそこまで不注意になれたもんだって思うよ。だけどあの1週間前、僕らは完全にそれまでの努力をパアにされてしまったところだったんだ! 7月1日までに使ってきた75万ドルが水の泡と消え、60万ドル分のチケットを返済する破目になった。あわせて約130万ドルの大損害さ。それに比べれば、他のなにもかもが思いがけない儲けものって気分だった。もう僕らはこの先いくらの収入があるかなんて計算もしなくなっていたんだ。さもなければフェスティバルなんてできっこない。どんな付随条件があろうと、どれだけチケットを売ればトントンになるかなんてもう考えてる余裕もない。毎週チケット代が何万ドルも入ってきて、いつも資金繰りはなんとかうまくいっていた。ホワイト・レイクへ移ることになったあの最後の週までね。膨大な金額の出費に、もう収入はゼロ。(略)最初の予算案なんて窓の外に捨てちまったよ。

 アップルからの手紙

 ちょうどウォールキルで何もかもがメチャクチャになっていた頃、アップルから僕あてに一通の手紙が届いていた。ジョン・レノンは相変わらずアメリカへの入国が認められていなかったが、彼らはジェームス・テイラービリー・プレストンというニュー・アーティストの出演オファーをしてきた。またアップルはこちらが希望するなら、会場で上映するための実験映画と、実物大の銀色でプラスチック製のプラスティック・オノ・バンドの模型を送ってもよいと通知してきた。しかし、会場引っ越しのゴタゴタでその手紙はどこかにまぎれこんでしまい、気がついた時は、時すでに遅かった。もし、あのウィークエンドに間に合っていたら、みんな喜んでくれていたかもしれない――たとえ、プラスティック・オノ・バンドのコンセプチュアルな立てかけ模型でも……。

 地元の人々の変化

 僕らがお金を使えば使うほど、地元のコミュニティの僕らへの対応は良くなっていった。僕らは町でさまざまな必要品を買い、地元の住人を雇い、そういう状態が町の多くの人の目にはっきりと映るようになった時、最初に一部の人々が示したネガティブな態度が消えて、町の人々はやさしく、ていねいに接してくれるようになった。

 設営

 水曜日はまたしても雨。おかげで最後の電気系工事はとても危険なものになった。主電源の設置場所のすぐ横に停まっていたトレイラーの階段は“ホット”、うっかり手すりなどに触れるとビリビリと痺れた。電気技師たちがいくら頑張っても、きちんとアースできず、結局、階段で何人が“熱く痺れる”ダンスを踊ったことだろう。急いで完成する必要があったのは荷物のローディング・ゾーンから9メートル上のステージにアンプや機材を運ぶエレベーターだった。

(略)

コンサートの演奏は、僕がマイアミ・ポップ・フェスを手がけた時にジミ・ヘンドリックスと一緒に会ったエディ・クレイマーが、リー・オズボーンとともにステージの後ろのサウンド・トレイラーでレコーディングすることになった。コンサートのレコード化権はアトランティック・レコードのアーメット・アーティガンが買った。

次回に続く。

ウッドストックへの道

ジミ・ヘンドリックス

 いま月曜日の朝、10時だ。1969年8月8日。ジミ・ヘンドリックスは4万人の観客に向かって演奏している。もうすでに50万人ほどの人々が、昨日の晩に会場を後にしていった。(略)

ステージから見ていても、去っていく人の数がどんどん増えているのがわかる。ジミもそれに気づいたのか、マイクで会場にいる人々に声をかける。

「行きたければ行っていいぜ。俺たちはジャムってるだけさ。去るもよし、手を叩いてくれるのもよしさ!」

雲が切れて合間から陽の光りが差しこみ、彼は空を見上げる。ひさしぶりに見る光りだ。

「まだ空の教会が俺たちの上にあるぜ。見えるだろ」、つぶやくように彼は言う。

(略)

 ジミは曲の間にチューニングしなおしながら、「チューニングがしっかりしているのはカウボーイだけさ」と、言ってクスリと笑みをもらす。ジョークをとばしていたかと思えば、次は「そこの黄色いパンツの女の子!」、とゆうべからシッポリとつるんでいた娘に声をかける彼。そして行くぞ、とバンドを一瞥し、手を振ると、“ギターが俺を未知のどこかへ連れていくんだ”とでも言わんばかりに、新しいギター・リフの中にはまりこんでいく……。

(略)

「みんなよく辛抱したよな――でもこの3日間はその価値があったぜ! 少しの愛と理解と、ごきげんなサウンドがあれば、どんなイカしたことができるか、きみたちは世界に示したんだぜ!」。

(略)

フィードバック、そしてディストーション。ジミはアメリカ国歌をズタズタに切り裂き、思うがままに自分だけのバージョンに仕立てなおしていく。

 轟音が足元から爪先まで、まるで竜巻のように僕を、そこに居合わせたすべての人間を包み、どこかへ連れていく。電流のような感動が背骨を走り、そして僕は感じた。もう僕らの国歌は、これから先、二度と同じままではいられない、と……。

(略)

その「星条旗」は戦争に、社会的、人種的差別に加担する人々への激しい抗議であり、と同時に、この社会の至るところにできた亀裂を、今こそ修復すべき時だ、と呼びかけていた。

マイアミ・ポップ・フェスティバル 

 リック・オーバリーは僕の家の近くに住んでいて、知り合うとすぐ友だちになった。前の年にあったモンタレーで起こったことが刺激になって、フロリダで最初の音楽のフェスティバルをやろうってふたりで決心したのだ。(略)

僕の家のキッチンがオフィスになり(略)さらにドラマーや弁護士の友人が参加した。(略)

 あちこち見てまわり、会場はハランデールのガルフストリーム・パーク競馬場に決まった。(略)

マーシャル・プレヴィッツは「ニューヨークのウィリアム・モリスのブッキング・エージェント、ヘクター・モラレスに会うといい」、と教えてくれた。そこで 早速、僕は飛行機でその男に会いにニューヨークへ飛んだ。

 「たった3週間で、そんなでかいショーをやりたいって言うのか?」。2万5千人の観客を見こんでいて、それぐらいの客を満足させる6つか7つのビッグ・ネームのアーティストと契約したいんだ、と僕が言うとヘクターは繰り返した。「気でも狂っているのか!」

 でも時間をかけて話し、僕は彼から協力の約束をとりつけることができた。(略)

ジョン・リー・フッカーチャック・ベリーマザーズ・オブ・インベンション(フランク・ザッパ!)、ブルー・チアー、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウン、そしてジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス!その春、彼らは全米ツアー中で、僕らのイベントはすべりこみでツアー最後のショーになった。

(略)

 5月18日は魔法のような日だった。開場すると2万5千人の客が次々と芝生の上に毛布を広げ、スタンドを埋めていったのだ。

(略)

[ジミ]の熱演が海賊盤になってこの後、何年も出回っていた。今日でもインターネットには、「ジミ・ヘンドリックス&エクスペリエンスの、もっともミステリアスで、もっとも魅惑的なライヴ演奏!」、「他のどんなプレイヤーもなしえなかった最高のセットを聴かせてもらった!」と新しいファンたちの熱狂的なコメントが並ぶ。ドキュメント映像以外にも、これまでヘンドリックスを追いかけてきたABC-TVがこの時の演奏も一部を撮影していた。ジミと仲良しだったロック・フォトグラファーのリンダ・イーストマンもエクスペリエンスのすばらしい瞬間をキャッチしている。ヘンドリックスのサウンド・エンジニア、エディ・クレイマーも(略)このフェスティバルの様子を自分のカメラにおさめていた。

 何十年も後、ロサンジェルスのピーターソン・ミュージアムでは、このフェスでジミが弾いたギターを展示したが、あの日このギターを持ち帰ったのは、誰あろうフランク・ザッパだった!「まんまと手に入れたよ!」とザッパは語っていた。「ヘンドリックスが叩きつけてネックをへし折ると、ライターの液体燃料をふりかけ、火をつけ、ステージからほうり投げた、あのギターをな」。ザッパは燃えて溶けたピックガードを取り替え、ネックを直して、ちゃっかり弾いていたのだ。

(略)

 土曜日のショーは豪華な花火の打ち上げで終わった。(略)

最高のフィナーレだった。すべてがこんなにうまくいったことが信じられない気持ちだった。だが、翌日はそうはうまくいかなかった……。(略)

[旱魃が続いていたので雨天中止時の保険に入らなかったのだが]

地方政府は土曜日にエバーグレイズの上空に科学薬品を打ち上げ、雲を集めて降雨をうながすオペレーションを実施していたのだ。かくして作戦が成功したのか、日曜日は風がやってきて、激しい土砂降りの雨に、あられ、かみなりが風速50メートルという強風をともなって、僕らを襲った。雨は昼も夜も降り続け、地上4インチ。おかげで客足は遠のき、入場者の数は前日から激減となった。このトラブルに加えて、偽造チケットが出回っていたことが発覚。二日間の売り上げに大きなダメージを与えた。

(略)

 フェスティバルが終わってしばらくすると、僕らはたくさんの未払いになっている請求書と格闘しなければならなかった。フェスティバルの演奏の録音テープや映像記録は、結局僕らのものにはならなかった。僕らが支払いをするまで、録音チームや撮影者の手元に保管されたまま。そして僕らはついに支払えずに終わったのだ。年月の流れとともに、それらの音源や映像はどこかに消えていってしまった。マザーズ・オブ・インベンションのあの時の演奏の一部は1969年に発表されたアルバム『アンクル・ミート』に登場した。

(略)

 僕らはといえば、弁護士のアドバイスを受け入れ、破産を宣告することにした。

ウッドストック 

 あふれる緑と青い山々の懐に抱かれた静かな山村。(略)

 町の人々は“オランダからの入植者の子孫たちと、工芸家、舞踏家、音楽家など(略)都市生活からの確信犯的ドロップアウトたち

(略)

そのユニークな歴史は1903年に3人のユートピアを夢見る人々――富裕なイギリス人ラルフ・ホワイトヘッド、作家のハーヴィー・ホワイト、芸術家のボルトン・ブラウン――が、哲学者、ジョン・ラスキンの“とどまることを知らない産業化が社会の非人間化を招く”という教えに感銘し、その思想を実践して、理想的小社会を作ろうとウッドストックに来たことに始まる。彼らはオーバールック・マウンテンの裾野にある1200エイカーの土地にバードクリフ・アーツ・コロニーを設立。アート&クラフト運動の理想を追求する実験場にしようとしたのだ。(略)

1912年にはNYCのアート学生リーグの支部がサマー・プログラムを始め、これに参加した画家、彫刻家の中にはプログラムが終わってもこの町に残り、居着いてしまった人たちもいたらしい。

(略)

 フォーク・ミュージックの収集家やアーロン・コープランドのようなクラシック音楽家も40年代からこの地域に暮らしていたが、ウッドストックにいきいきとした音楽シーンが生まれてきたのは、60年代の初めにアルバートグロスマンが、ここに別荘をかまえ、ひんぱんに訪れるようになってからのこと。

(略)

そのピンクの家が、まもなく『ベースメント・テープス』の名で世界最初の海賊盤として出回り、伝説にもなった地下室のある家だった。

(略)

68年夏には、それまで長くハードな旅を続けてきた(略)ザ・バンドの5人のミュージシャンはウッドストック・コミュニティのあちこちに散らばって、自然の中のボヘミアン・ライフを満喫しながら、自分たちの音楽生活を続けていた。

(略)

ガース・ハドソン 俺たちは気に入ったね、木を切って薪をこさえたり、ハンマーで親指を叩いたり、テープレコーダーやスクリーンドアを修理したり、森の中を散歩したりっていう、このライフ・スタイルがね。(略)

(略)

 エレファント・カフェでは集まった客たちの間から、いきなり即興ジャム演奏が始まったりすることもあった。(略)

[ポール・バターフィールドや]ティム・ハーディン、などおなじみの顔をまじえて。カフェ・エスプレッソではリック・ダンコがチェッカーズに夢中になっている姿、ディーニーズでは赤ワインを飲んでいるリチャード・マニュエルの姿をよく見かけたものだ。彼らはみんな、1年後のフェスティバルに出演することになった。

(略)

 1968年の9月、この町は――後でディランが歌ったように――“嵐からの隠れ家”のように僕には感じられた。ベトナム戦争は拡大の一途を続け(略)キング牧師が、そしてロバート・ケネディがあいついで凶弾に倒れ、各地で人種暴動が起こり、町は炎につつまれ、反戦デモに参加する人々は警官隊に殴り倒され

(略)

 そんな混乱と混沌、まっ暗な嵐の中にいたアメリカ全土に比べて、ウッドストックにはなんと対照的な光景が広がっていたことだろう。あのサウンドアウトの会場では、子供たちが笑い声をあげて草原を駆けまわり、大人たちは寝転んでゆっくり西の山々を染める夕焼けを眺め……そこには平和と喜びと癒しの空気があった。

(略)

「こんな風にみんながキャンプできるような所で、週末の間続くようなでっかいコンサートができたらクールだと思わないかい?」、僕はソニアに訊いてみた。

 ウォールキルでの公聴会

「ありゃあ“ミスター・ラング”かね?“ミス・ラング”なんじゃないか。男かね?女かね?」人々があざけるように言う声が、演壇に向かって歩いている僕の耳に届く。ひそひそと囁く声と。ワーワー、ピーピー、かん高い口笛を背中に浴びながら、僕はもう一度自分がここに来た目的に意識を集中する。

(略)

ウォールキル市民ホールは満員で立錐の余地もない。人々は興奮状態。中年の主婦たち、田舎町の商売人たち、日焼け顔の農民たちは口々に、彼らが知っているヒッピー話を披露し合っている。「まあ、なんて恐ろしい!」長い髪の一団が嵐のようにやってきて、自分たちの町をメチャクチャにするのではないかと住民たちは本気で恐れているのだ。

(略)

「みなさん、僕たちはウォールキルのすべての方々にとって良きこと、利益となるであろう計画を持ってここへ来ました」、僕は切り出した。「僕たちは宇宙人でも、麻薬中毒でもありません。自分たちが何をしているのか、きちんと心得てこの領域で仕事をしているプロフェッショナルです」。こんな風に話を始めると、人々の間に驚きの声が広がる。“女のように髪の長いヒッピー野郎だと思っていたが、なんと、こいつ俺たちにも理解できるような言葉をちゃんと話せるではないか!”渋々とではあったが、人々の敵意は少しずつ後退を始めている。

(略)

話を締めくくろうと僕は一呼吸おいて、声をかける。「なにかご質問がありますか?」。

「あるよ!」高校のフットボール・コーチのような男が立ち上がって、僕に質問をぶつける。「有名なミュージシャンがたくさん来て演奏するって聞いたが、そういうミュージシャンを聴きに集まってくる連中はどうなんだ? 彼らはどんな人間たちなんだい?」。

「みなさんの子供たちのような若い人たちです」、僕はためらわずに言葉を続ける。「みんな音楽が好きな子供たちですよ」。公聴席にいた若い連中が喝采の声をあげ、背広姿の大人たちの中にも嬉しそうに笑う人たちがいる。

ブッキング

マイアミでやったいろいろなコンサートの体験からどんなステージングが聴衆を喜ばせるのか、どんな形がだめなのか、僕は多くを学んでいた。マイアミ・ポップではブルース、クラッシック・ロックンロール、アシッド・ロック、ポップ、フォークなど、実験的にたくさんジャンルの違う音楽をやったが、観客はそのすべてを喜んでくれた。カウンターカルチャー世代の若者たちは、音楽の好みの枠にこだわらないオープンハートの人たちだったのだ。そこで僕は、ジミ・ヘンドリックスからジョニー・キャッシュまで、多種多彩なジャンルの希望出演者リストを作ってみた。

(略)
 僕はウィリアム・モリス・エージェンシーのヘクター・モラレスのオフィスで多くの時間を過ごすようになった。彼がマイアミ・ポップの出演者のブッキングに協力してくれて以来、僕らは友だちになったのだ。

(略)

まず、僕はビッグネームのアーティストの数人に、彼らの信頼を得るべく、かなりのギャラで出演のオファーをした。たとえば向こうが7500ドルと言えば、僕は1万ドルをオファーしたのだ。こうして数人のビッグ・アーティストが出演を快諾してくれると、僕は他のエージェントやマネージャーが僕をいいかげんなプロモーターではなく、真剣に受けとめてくれるようになったのに気がついた。そして、交渉はとても楽に、また。ギャラもよりリーズナブルになっていった。ジェファーソン・エアプレイン、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、キャンド・ヒートが真っ先に出演を承諾してくれた。(略)クリーデンスは1万ドル(略)キャンド・ヒートは1万2500ドル、ジェファーソン・エアプレインは1万5000ドルで契約ができた。

 クロスビー、スティルス&ナッシュ(CSN)はデビュー・アルバムが出る前に出演が決まった。ある日、彼らのマネージャー、デヴィッド・ゲフィンが、完成したばかりのテスト・プレス盤を持ってヘクターのオフィスにあらわれ、「これを聴くまで待てよ!」と叫んだ。そして僕らはその素晴らしさに打ちのめされた。(略)

 ゲフィンはグループの最初のツアーを始めるのにふさわしいベニューを探していた。そしてそこにいたみんなでウッドストックこそ、その場所だと意見は一致。僕はその場で彼の言い値、1万ドルを支払って、出演契約を決めたものだ。

ビル・グラハムの恫喝

「 おまえが予定している出演者をかたっぱしから出せなくしてやる!この業界からおまえなんか締め出してやる!」

 テーブルを挟んで僕の向かい側にはこの業界で一番パワフルなプロモーター、ビル・グラハムがいて、今にも掴みかかろうかという剣幕で、大声でまくしたてているところだ。そう、そもそもこの業界のすべてを作りだしたのは彼なのだ。

「俺が買い上げて、おまえとの契約なんか反古にしてやる!」。

(略)

 この数日前、ビルはジョン・モリスに電話をかけ、脅しの文句を並べた。フィルモアでグラハムの下で仕事をしているジョンは縮み上がり、弱りきった表情で、僕のオフィスに飛びこんできた。

「やばいぞ、俺たちは終わりだ! ビルがプラグを引っこ抜くと言っている!」

(略)

「これは俺のビジネスだ!」(略)

「どこまでやる気なんだ、若いの。俺をやっつけるつもりかい?」

(略)

「まず、第一に僕らはこれをやっています。誰も止めることはできないでしょう、例えあなたでも」。まっすぐその眼を見ながら僕はビルに言った。

「僕たちの何が問題なんでしょう? 僕たちはあなたと競いあうつもりなんかありません。100マイルも離れた所でやるんですよ」。

「貴様は俺の春のショーの出演者のほとんど全員をブッキングしてるじゃないか」。彼は言う。「出演するスターたちをウッドストックでいっぺんに見られるのなら、客たちはフィルモアの個々のショーのチケットを買わずに待つだろうぜ」。説明する彼の口調は前よりソフトになっていた。

 その瞬間、僕の頭に解決の名案が浮かんだ。

「OK、わかったよ。(略)この問題を両方にとって上手く解決する方法がひとつあります。僕はフェスティバルが開かれる週まで出演者を追加するつもりでいます。だから……」、僕はまっすぐ彼に向かって言う。「これから8月いっぱいのそちらのスケジュールを僕の方に送ってください。そうしてもらえれば、僕は彼らがあっちで出演する後まで、フィルモアに出演するアーティスト名は一切アナウンスしませんよ」。

 しばしの沈黙があった。彼がこの新しい提案でギアチェンジをしているのが見て取れた。僕らのやっていることは気に入らないのだろうが、本当のところ、彼には本気でそんな戦いをするつもりはなかったのだ。「OK、それならやれる!」。

 グラハムは自分のショーのほとんどで司会をしている。出演者の紹介をするのが彼は好きなのだ。そこで僕は彼をフェスに招待して、一日MCをしてもらおうと思いついた。僕の申し出を聞くと、彼は少し照れたような、嬉しそうな表情を見せたが、辞退した。

「会場には行かせてもらうが、司会はお断りだ」。彼は言う。

「きみがプロデューサー。こいつはきみのショーなんだ。同じ日にふたりの神が登場するわけにはいくまい」。

最後の仕上げ 

 6月初めまでに、僕はできるだけのブッキングをして、最後の仕上げに取りかかっていた。まずフェスティバル・ウィークエンドの始まる金曜日はフォークの日。そして土曜日は主に西海岸からのアーティストをメインにしたプログラム。日曜日は世界的な大物ロック・バンドの登場。8月15日金曜日のブッキングはほぼ完了。それもリーズナブルな値段で決まっていった。ティム・ハーディンは友人でもあったから2000ドル(略)インクレダブル・ストリング・バンドは4500ドル(略)ラヴィ・シャンカールも4500ドル(略)アーロー・ガスリーは5000ドル(略)ジョーン・バエズは1万ドル。どうしても出てもらいたかったドノヴァンとジョニー・キャッシュにも出演を依頼したが辞退されてしまった。(略)ローラ・ニーロも候補に上がったが、ステージで上がり性の彼女は、僕らのオファーを受け入れてくれなかった。

 

 土曜日の出演ラインアップにサイモン&ガーファンクルが加われば最高だと思っていたが、この年の初めにツアーを終えたばかりのふたりは少しお互いにも疲れていたようで、夏は演奏したくないという返事。僕らのリストのトップにはドアーズの名もあったが、ジム・モリソンは3月にマイアミで逮捕されて以来、極度のパラノイア状態。自分のエージェントに「ウッドストックに出たら、ステージで暗殺されるかもしれない。やりたくないよ!」と語っていたそうだ。

(略)

ビル・グラハムはグレイトフル・デッド(7500ドル)の出演を確約してくれた。僕はアルバートグロスマンに掛けあいジャニス・ジョプリン (1万5000ドル)をブッキングしたが、グロスマンはさらにザ・バンド (1万5000ドル)もつけてくれた。

(略)

 もちろん、できることならビートルズにも出演してほしかった。でもそうなれば彼らは他の出演者を圧倒してしまうだろう。それにどっちみち彼らはもうツアーをやめていたし、解散の寸前だった。

大バーゲン価格でサンタナ

 最後にブッキングしたバンドはサンタナだった。(略)

ビル・グラハムは「自分がマネージメントを始めたベイ・エリアのバンドをリストに加えないと、デッドの出演をキャンセルするぞ!」、とまた、脅しのグラハム に戻っていたのだ。イッツ・ア・ビューティフル・デイサンタナ――どちらのグループもまだレコードを出しておらず(略)「テープを送ってくれ!」と僕はリクエストした。(略)僕はどちらのグループも気に入った。特にサンタナは脳天をぶち抜かれるような気がした。(略)

 「サンタナをやるとビルに伝えてくれ!」、僕はジョン・モリスに言った。「日曜日のショーの皮切りに彼らに演ってもらうんだ。すごいバンドだよ」。ビルは彼らの出演料を1500ドルにまけてくれた。フェスティバルのハイライトとなったバンドを、僕はこうして大バーゲン価格で手に入れたというわけだ。

次回に続く。

 

[関連記事] 

kingfish.hatenablog.com

kingfish.hatenablog.com

kingfish.hatenablog.com