ビートルズはどこから来たのか・その2

前回の続き。

「独立構想」とインド行

このインド行きには「独立構想を固める」という目的もあったんで、ビートルズマハリシに別料金を払って課外授業を受けていました。(略)
 ジョンとポールは、アップル設立に向けて4人の結束を固めたかった。そこに精神性を持ち込まないと、「4人が共同出資する会社」がつくれないんじゃないか、と思っていたんじゃないですかね。なぜなら、ビートルズがレコーディング・グループとして活動を続けても、多額の印税が入るのはレノン/マッカートニーであって、「共同出資」はジョージ、リンゴには分が悪い話ですからね。
 ジョージはすでに〈オンリー・ア・ノーザン・ソング〉なんて曲を書いて、「金が欲しけりゃ曲を書け」的な体制に物申していたし、曲を書かないリンゴには会社にする利点がない。リンゴは「食べ物が合わない」と言って2週間ほどでロンドンに帰っちゃうんですが、さまざまなことに納得していなかったんじゃないでしょうか。
 『ホワイト・アルバム』のセッションに、リンゴは初めて単独で書いた〈ドント・パス・ミー・バイ〉を持って臨みます。それは、アップルがリンゴからはいちばん遠い「音楽出版社の設立」から事業をスタートさせたことへのあてつけだったのかもしれない。
(略)
 リンゴはそれでも、意地で曲を書いてきた。ジョージはリンゴの曲づくりに協力し、ジョンは息子ジュリアンのために書いた〈グッド・ナイト〉を唄わせて、リンゴの居場所を確保しようとするんですが、ポールは違ったんです。事件は8月22日に起こった。〈バック・イン・ザ・USSR〉のセッションが始まったと思ったらリンゴがスタジオから出て来て、「辞める」と言い残して帰ってしまったんです。このときの脱退の意志は固かったようで、リンゴは地中海に行ってしまう。

JOHN WESLEY HARDING

JOHN WESLEY HARDING

『ジョン・ウェズリー・ハーディング』の影響

 ジョンはディランを「そういう刺激を与えてくれるライヴァル」と見ていたと思うんですが(略)
[バイク事故後の隠遁があっても]「ともに先頭を走っている」と認めていたヤツの新作としては、何とも判断がつかなかったはずです。煮えたぎるポップ・ミュージックやポップ・カルチャーの世界からは遠いところで、〈見張搭からずっと〉なんて言いながら、オールド・スタイルのフォーク・ソングやマーダー・バラッドを歌うなんて、ビートルズのジョンにはできないことでした。
(略)
 ところが、ビートルズを追いかけるあまり、不似合いなサイケ・アルバムまでつくってしまったストーンズは、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』をきっかけに“ルーツ回帰”に目覚めるんです。アメリカのミュージシャンとの直接交流――とくに、グラム・パーソンズとキースが仲良くなったことから、ブルース、フォーク、カントリーの“本場”のエッセンスを吸収しようという気運が高まり、ストーンズはサイケ満載の『サタニック・マジェスティーズ』から1年で、ルーツ色の濃い『ベガーズ・バンケット』に辿り着く。(略)[ジャケの]トイレの壁には“Bob Dylan's Dream”という文字がはっきりと見えます。

ドノヴァンが教えたフィンガー・ピッキング

 インドでのビートルスはどうだったのか、という話を、私はドノヴァンから直接聞いたことがあるんですが、ギターを持っていたのはドノヴァンだけだったために、ジョン、ポール、ジョージが代わるがわるドノヴァンのバンガローにやってきて、ついでにフィンガー・ピッキングを習って帰ったというんです。ビートルズはそれまで、アルペジオをピックで弾くことはあっても指では弾いてないんですが、『ホワイト・アルバム』にはなるほどフィンガー・ピッキングが満載です。
(略)
 ジョージは半音下降の曲を考えていて、「これってもとはバッハなのかな?」とAmでベースが下降していくフレーズを弾いた。ドノヴァンが「それはデイヴィ・グレアムの〈アンジー〉と同じようなもので、バート・ヤンシュとかポール・サイモンもやってるよ」と説明するとジョージは熱心に聞いて、やがて〈ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス〉を完成させる。ドノヴァンは『ホワイト・アルバム』を聴いて、自分が教えたフィンガー・ピッキングがいっぱい入っているのに驚いた、と言っていました。〈ジュリア〉なんかもそうですからね。
 瞑想に関して言えば、「ジョンはいつも自分の考えをめぐらせているようだったし、ポールは形だけだったかもしれない。ちゃんと瞑想していたのはジョージだけかなぁ」ということでした。(略)
ケルアックの『禅ヒッピー』から、鈴木大拙の著作やタオイズムに至ったと[ジョンから聞かされた]
(略)
マハリシはどうやら、「怪しいヤツを簡単に信じてはいけない」とジョンに進言していたらしく、それに気づいたマジック・アレックスは矛先をマハリシに向け[ミア・ファーロウの妹のプルーデンスに手をだしたと噂]

Angi

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ビッグ・ピンク

[バイク事故]がなければ、66年8月末からディランとホークスは60公演の北米ツアーに出ていた。ちょうどビートルズ最後のツアーと入れ替わるように、です。実現されていれば、ディランは間違いなくロックの先頭に立っただろうし、『ブロンド・オン・ブロンド』の次にふさわしいアルバムをつくったかもしれない。
 ところが事故で計画は帳消しになった。ホークスは仕事にあぶれてしまった。マネージャーのアルバートグロスマンは、やってもいないツアーのギャラをホークスに払うのが癩だったんでしょうね。そこで講じたのが、ウッドストックの自宅にこもっているディランに新曲を書かせる、という策です。(略)どんどん曲を書かせて、それを誰彼かまわず売ってしまおうとした。グロスマンはそれに投資するつもりでホークスに家を与えた。そして、「そこでディランに新曲を録音しろ」と命じたんです。(略)
南部にツアーに出ていたリヴォン・ヘルムが(略)戻ってからは、“ザ・バンド”単体としてのデモ録音が多くなり、11月後半にナッシュヴィルで『ジョン・ウェズリー・ハーディング』を録音したディランとは、路線が違っていくんですね。グロスマンがザ・バンドとキャピトルの契約を決めた時点で、ビッグ・ピンクでのデモ録音は終了となったんでしょう。
(略)
[出回ったベースメント・テープのブートは、ビートルズストーンズも当然聴いていたに違いなく]
キースがグラム・パーソンズに急接近したのも、バーズの『ロデオの恋人』で、グラムが〈ゴーイング・ノーホエア〉をみごとなカントリー・ロックに仕上げたのに感服していたからだと思います。
(略)
ルーツ・ミュージックを“新しいロック”として聴かせるミュージシャンが、68年、69年にはいちばん“イケてるヤツ”だった。
(略)
[グラムの契約問題で完成が遅れ、さらにグラムが脱退、その間にザ・バンドの『ビッグ・ピンク』が出てしまい、インパクトが薄れ、80年代半ばに再評価されるまで『ロデオの恋人』は]バーズの熱心なファンにしか聴かれていませんでした。
 正しい順番に置き換えると、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』『ロデオの恋人』『ビッグ・ピンク』『ベガーズ・バンケット』なんです。そしてどこかにディランの“Missing Album”が挟まったんでしょうから、事情を知っていた先頭集団は、秘かに始まっている“70年代ロック”にどうやって乗っかるかを考えるようになります。
(略)
 そういう状況は、ビートルズをも焦らせました。ユナイテッド・アーティスツと交わしていた映画の契約を『イエロー・サブマリン』のアニメで逃げたものの、主演映画をもう一本撮らないといけなかったという事情もあって、ポールは「ビートルズが原点に帰るセッション」をドキュメントした映画を企画するんです。ジョンがストーンズと仲良くしているのに勘づいたポールは、ストーンズのエンジニア、グリン・ジョンズに、撮影用のスタジオでのセッションをそのままレコーディングさせる、というアイディアを出し、みんなを納得させ(略)“ゲット・バック・セッション”が始まるわけですね。

You Ain't Goin' Nowhere

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Sweetheart of the Rodeo: Legacy Edition

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多重録音と“スタジオ・ライヴ”

[『ビッグ・ピンク』風にバンドで一発録音をやってみたが、多重録音にどっぷり浸かっていた後期ビートルズではうまくいかなかった]
〈タックスマン〉がいい例ですが、ジョージは自分の曲でも支配的ではないんです。でもポールはそれが腹立たしい。「なんで自分の曲を仕切らないの?」と思っちゃうんでしょうね。
(略)
 ジョージはアップルのアーティストをプロデュースするようになって、レコーディングを仕切るのが急激にうまくなるんですが、それはゲット・バック・セッションのあとです。
(略)
ジョージは頭の中にある音を徐々に形にしていくタイプですから、一緒にやっていたら、途中までは目標としている地点がわかりにくいかもしれない。それに対してポールはアイディアが常に明確で、自分が演奏できない楽器のソロまで決められる。(略)
[ポールは]弟分みたいなジョージには平気でズケズケ言いますから、ポールのどこが気に障るのかをジョージはよく知っていた。だから、逆のやり方をした。ポールみたいに何でも仕切りたがっちゃダメだと思っていたはずです。
 ジョージがビリー・プレストンを呼んできたのは、「いまのビートルズにはミュージシャンが必要だ」と思ったからでしょうが、おかげでポールは随分引いた。ルーフ・トップ・セッションがうまくいったのは、ビリーが加わったアップル・スタジオでの1週間で、ビートルズに“バンドらしい人間関係”と“ミュージシャンの勘”が戻ったからです。
 けれども、それで次も行けるとは思わなかった。ビートルズはディラン/ザ・バンドのような“スタジオ・ライヴ”ではレコードはつくれない、と自覚する。だから[多重録音で塗り重ねる]“ワックス・ワークス”で『アビイ・ロード』をレコーディングするんですが、69年のビートルズが無自覚にロックのレコーディングの“両極”を残したのは面白いですね。フィル・スペクターの手が入って原型は見えにくくなったとはいえ、『レット・イット・ビー』として完成したアルバムには、彼らが「スタジオ・ライヴは苦手」と思ってしまった要素が詰まっている。
(略)
 じゃあディランやザ・バンドは、得意の“スタジオ・ライヴ”でアルバムをつくっていったかというと、そうでもない。
(略)
ボブ・ディラン自伝』では自らレコーディングヘの苦手意識を語っていますが、総合すれば、ようするに“曲に対するアイディアをオーヴァーダビングに持ち越せない”ということなんですね。あとから切ったり貼ったりすることで一発録りの真剣勝負感が失われると思い込んでいるのか、誰かのプレイをオーヴァーダビングするぐらいなら、そいつを呼んで“せーの”で録ってしまおうとする。

ザ・ホークス

 ザ・ホークスは、上の世代では最もミクスチュア度の高いシンガー、ロニー・ホーキンス(35年生まれ)のバック・バンドとしてスタートしました。(略)
ホーキンスと同郷のリヴォン・ヘルムは、58年後半からの2代目ホークスのドラマーで、ホーキンスと一緒にカナダに渡っていたんですね。[そこにロビー・ロバートソンら4人のカナダ人が合流](略)
63年暮れにホーキンスとホークスが袂を分かったときに「リヴォン&ザ・ホークス」が誕生したのは、ホームシックにかかっていたヘルムと、アメリカで活動したがっていたロバートソンらの意見が合ったからでしょう。(略)
[ディランの]66年の英国ツアーにヘルムはいません。ディランと一緒にブーイングを浴びせられるのが嫌だった彼は、勝手にドラマーとしての仕事を取ってアメリカ南部に行ってしまったんですね。(略)
それでもロバートソンがヘルムを諦めなかったのは、ヘルムは彼らにとって、ロニー・ホーキンスと並ぶ「アメリカ音楽の先生」だったからだと思います。ロックンロール・シンガーとしてデビューしたホーキンスですが、彼の音楽はブルースとフォークとカントリーとR&Bを一緒にしたようなもので、「スワンプ・ロック」なんて言葉ができる以前からスワンプ・ロック的だった。カナダ人のロバートソンらは、ホーキンスやヘルムの資質に「アメリカの原風景」を見ていたんでしょう。だからリヴォン&ザ・ホークスは、アメリカ中西部や南東部のミクスチュア感や、乾いているのに粘っこいリズムを根幹とした音楽をつくろうとしていた。

エルヴィス復活プロジェクトが参考にしたフィル・スペクター

[除隊後、映画にシフトしていたエルヴィスが68年テレビ・スペシャル『ELVIS』で復活。さらに69年の『フロム・エルヴィス・イン・メンフィス』で追い打ちをかけ、そこからのシングル]〈サスピシャス・マインド〉は全米/全英1位になります。
 このときに英国のミュージシャンは、エルヴィスがロックンロール時代に放ったセックスを連想させる色気が、60年代のウィルソン・ピケットオーティス・レディングにつながっていたことを思い知ったはずです。エルヴィスがソウル・レヴュー的なサウンドを求めてメンフィスに帰ったとき、彼が50年代に白人音楽と黒人音楽を交配させてつくった苗木は大きな木に育って実をつけていた。(略)
ロックにもソウルにも通用するファンキーなグルーヴに、フィル・スペクターばりのオーケストレーションというのは、70年代の「王道」を見据えて導き出されたに違いありません。
 エルヴィス復活に向けたプロジェクトが参考にしたサウンドは、フィル・スペクターがプロデュースしたアイク&ティナ・ターナーの66年5月のシングル〈リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ〉と、同曲を含むアルバムだったんじゃないかと思います。なぜかといえば、スペクターの先鋭的な仕事だったわりに[不発で](略)そういう“隠れた重要作”は新しい作品をつくるときにベストなサンプルになりますから、研究されたはずです。(略)
 ジョン・レノンも、実はそういうところを見逃していません。(略)
[9月13日]トロントでの、〈ブルー・スウェード・シューズ〉から始まり、ヨーコのアヴァンギャルドで終わるという[プラスティック・オノ・バンドの]ステージは「永遠にロックなもの」を並べたような格好になりました。ジョンとヨーコは12月16日からまたトロントに飛んで、平和運動を展開したんですが、このときに滞在したのはロニー・ホーキンスの農場だったんです。ポール以外のビートルズは8月31日にワイト島フェスティヴァルに出掛け、ディラン/ザ・バンドのステージを観ました。そして翌日、ジョンはディランをティッティン・ハーストの自宅に招いています。このときふたりがどんな話をしたかは明らかにされていませんが、急な誘いだったにもかかわらずカナダのフェスに出演したのも、そのステージでワイト島のディランと同じような白いスーツを着たのも、ディラン/ザ・バンドの演奏から何かを感じ取ったからに違いありません。
(略)
ポールがのちにスペクターのオーヴァー・プロデュースを責めたために、ジョンやジョージも『レット・イット・ビー』を認めていないかのような印象になってしまいましたが、ジョンとジョージは演奏の粗をスペクターのオーケストレーションで隠すことで、復活後のエルヴィスのような「ゴージャス感」が出ることを期待したはずです。

『ワイルド・ライフ』ポールのミーターズ研究会

[ジョンからの攻撃に対し]『ワイルド・ライフ』はションがいちばん好きな音楽を実践をもって批評したようなアルバムになったんでしょう。
 ジョンは〈ヤ・ヤ〉がヒットした62年からリー・ドーシーのファンで、そのプロデューサーだったアラン・トゥーサンを頂点とするニューオリンズのR&Bをこよなく愛していました。ずっとドーシーを追いかけていたことは、ドーシー65年の〈ゲット・アウト・オブ・マイ・ライフ、ウーマン〉のリフを〈ヘイ・ブルドッグ〉に引用していることからも明らかですが、ジョンの影響でニューオリンズR&Bを聴くようになったポールは、プロフェッサー・ロングヘアやドクター・ジョンのピアノを研究して〈レディ・マドンナ〉をものにしました。ジョンとジョージがディラン/ザ・バンドストーンズからスワンプ・ロック的なものに入っていったからか、ポールはあまりスワンプには向かわずにニューオリンズR&Bの研究を続け、69年か70年にはミーターズを聴くようになっていたようです。(略)
ミーターズのダンサブルなインスト曲が、シンプルなフレーズをループさせることによって出来上がっているのを参考に〈マンボ〉や〈ビップ・パップ〉を書き、すぐに『ワイルド・ライフ』のレコーディングに取りかかります。それがミーターズ研究会と呼んでもいいものだったのは、本家そっくりにつぶしたハイハットの音色や、隙間の多いアンサンブル、繰り返すことでファンキーさを増幅させていくアレンジからも明らかです。ここでポールが凄いのは、ミッキー&シルヴィアが56年にヒットさせた〈ラヴ・イズ・ストレンジ〉をミーターズ・スタイルでカヴァーしていることで、オールディーズの「普遍」と秘境の「職人技」を「最新のポップ」に集約させたミクスチュア感覚はみごとと言うほかありません。
 当時ミーターズを聴いていたのはわずかな人たちでしたから、『ワイルド・ライフ』の意義は理解されませんでした。

Get Out of My Life Woman

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