ウッドストックへの道 その2

 前回の続き。

  アビーホフマンの恫喝

 「お前らのフェスティバルなんか、俺たちにはネズミの穴ほどの意味もあるもんか!そんなクソフェスティバル、俺たちの要求を呑まないのなら、てめえの耳の穴に突っ込んでやる!」

 アビーホフマンがジョエルの面前でわめている。
(略)

ローズ・ペイン(活動家/映像作家)(略)

ある日、アビーとマイケルのオフィスに乗りこんで 「このイベントは強盗と同じだ。俺たちの分け前を貰いにきたぜ!」と彼に言った。あの頃はツッパっていたのよ、私は。マイケルはキュートで髪も可愛いかった。怒って怒鳴り返すかと思ったら、とてもフレンドリーな態度で、あっさりと「オーケイ!」。拍子ぬけしちゃったわよ。アビーはフェスティバルに乗りこんで、自分たちのことをやってやろうってつもりだったのね。と同時に彼らは自分たちの敵じゃないな、とも感じていたんだと思うな。マイケルはニコニコと感じよく私たちの要求すべてに応じてくれた。

(略)

 ウッドストックベンチャーズという仮面をかぶった大企業体アメリカが、自分たちのアイディアを利用しようとしているのでは、と彼らは危惧しているようだった。そこで僕らがカウンターカルチャーの一部であること、一般的なルールでビジネスはするが、それは夢見てきたより良い世界を具体的な形にして、世の中にマニフェストするための手段であること。ウッドストックは人民による人民のためのものであること。そしてこのイベントで相応の利益を上げたいと投資を希望する人々の参加は拒まないこと、等々を僕は説明した。

 しかし(略)アビーは2万ドルを自分たちの主張のために寄付しろとせまってきたのだ。

「おまえたちはこのカルチャーから金を取るのだから、俺たちに還元すべきだ!」

「僕たちの主張はどうなるんだ?」、僕は切り返した。「いったいこのためにどれだけの金を使ってると思う?」

「いいかい」、彼は答えた、「スモークとアシッドをやりに都会のガキどもが田舎のおまえたちのイベントに集まってくるんだ。なんの準備もキャンプもしたことのない連中だ。だから毎日サバイバル・マニュアルを発行しに行ってやる。そして俺たちが係わってる政治活動や社会運動のことを知らせるパンフレットをまくんだ。金儲けのことしか頭にないおまえたちとは違って人民の世話をしたいんだ、俺たちはな!」

(略)

僕らは部屋の外に出た。

「彼らは本当に面倒を起こすのか?」、とジョエルは尋ね、僕は「イエス」とうなずいた。「なんか他に金を払わないですむ方法はないか?」、と彼は尋ね、僕は「ノー」、と首を振った。

「ただし、彼らはやると言ったことはきちんとやる。そう僕は信じている。彼らが参加すれば会場の大きな助けにもなるし、僕らのメッセージの信用にもなるよ」。

(略)

部屋に戻り、僕は言った。「みんなが助け合えるように協力してもらえるのなら、サバイバル・マニュアルを出せるように印刷機を買う費用を出そう。そして、きみらの活動を伝えるパンフレットを並べるテーブルの置けるスペースを提供するよ。僕らが十分な準備をしていないと言っていたけど、それなら会場にやってくる子供たちを助けて、僕らに協力してくれよ」。

 アビーは僕の提案が気に入った様子だった。そして今度は彼らだけで協議することしばし……。こういう交渉にたけていたアビーは、僕らがどれだけの金額の用意があるかと突っこんできた。僕らは5000ドルと答えたが、最終的に1万ドルで手打ちとなった。

(略)

アビー・ホフマン 受け取った1万ドルの半分で印刷機を買った。印刷機はまさにライフセーバー、あの印刷機を使って刷ったサバイバル・インフォメーションで命を救われた人間もいるはずだ。残りの金は、出版物や印刷用紙を運ぶトラックレンタルや、バッド・トリップした時に俺たちが使う特定のビタミン剤を買うのに使った。100枚、いや200枚のチケットをただでもらって、それをさばいてできた金はWBAI-FMの運転資金にしたね。あと残ったチケットは、フェスティバルに行きたくても切符が買えない連中にあげたりしたな。

デンバーで学んだこと

6月29~3日の3日間、デンバーのマイル・ハイ・スタジアムで行われるポップ・フェスティバルを見に行った。そこで僕が出会ったのは、ウッドストックでは絶対に起きてほしくない光景だった。

 

 まずフェスティバルが始まる前から、アメリカ解放戦線を名乗るグループと警察の間で小競り合いがあった。リーダーたちは(略)集まってきた若者たちに、「コンサートをただにするべきだ!」とアジっていた。(略)

完全装備の警官隊が150人ほど待機していた。彼らはゲートから闖入しようとする連中や、抗議にやってくる連中をそうやって威嚇していたのだ。でも僕には、まったく正反対の効果を生むのではないかと、イヤな予感がしていた。

 はたしてまもなく数百人の若者がゲートを襲い(略)さらに多くの警官隊が現れた。石やビンを投げる若者たちと警棒で殴りかかる警官隊――結局多数の負傷者がでた。そしてジョニー・ウィンターが演奏をしている最中に正面ゲートでオマワリたちは催涙ガスを撒きはじめた。ガスは風でステージにまで届き、聴衆やスタッフの多くがひどい目に会った。最終的に警察は主催者側にゲートを開けるように指示。最後の出演グループ、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの演奏が始まる頃には何千人という人々がスタジアムへなだれこんできた。

 日曜日の夜にはニューヨークへ帰る予定だったが、急に僕はジョー・コッカーとグリース・バンドを聴いてみたくなった。そして、日曜は前の日より事態はさらに悪化した。切符を持たない何千人の若者たちが「フリーコンサートにしろ!」とスタジアムに押しよせ、それに対して警察は獰猛な犬たちを放ち、催涙スプレーを振りまき、警棒を振りかざして彼らに襲いかかった。(略)

僕らのフェスティバルではデンバーでのようなことが起こらないように、会場には一人も制服警官を置かないようにしよう、と固く心に決めたのだった。

 けれど、ジョー・コッカーとグリース・バンドの演奏は最高だった。僕は(略)ほとんど無名の存在だったこのシンガーを出演させることにした。

ピート・タウンゼントを寝かさない

[ザ・フーは全米で『トミー』ツアー中]

けれど、ピートはウッドストック出演にまったく興味を示さなかった。バンドは明らかにハード・スケジュールで疲れきっていて、ツアーが終了したらすぐに、故郷イングランドへ帰りたがっていたのだ。

 そこでフランクが一計を案じ、ピートとジョン・モリスを彼の家のディナーに招待した。(略)その晩、ジョンとフランクは何度も出演の話を持ちかけた。しかし、頑としてピートは首を振らない。

(略)

しかし、あきらめずにフランクとジョン・モリスは徹夜作戦を開始。明け方の5時、ピートはウトウトしはじめた。それでも彼ら二人はピートを寝かせず、午前8時ついに彼は叫んだ。

「オーケー、わかった、やればいいんだろ。だからお願いだから、もう俺を寝かせてくれ!」。

 こうしてやっと交渉が始まり、ウルフは1万2500ドルで契約書にサイン。その場で半分が支払われた。もちろん契約書には“宣伝ポスター、チラシにはいかなるスター扱いもせず、出演者名はアルファベット順とする” と明記されていた。“これは主催者側の要請に基づくもので、当フェスティバルの重要なコンセプトである”と。後にザ・フーは彼らのアルバム『ライヴ・アット・リーズ』のアルバム・ジャケットの内側に、この時のファクシミリで送った契約書を載せていた。

マックス・ヤスガー

 エリオットの所から、ルート17B沿いに2、3マイル走っていくと、僕らは息を飲むほど見事な田園地帯に入っていった。そこは見渡すかぎり緑の草原が広がる美しいファームランドだった。(略)ここだ!

 「車を停めてくれ!」、僕は自分の眼が見ている風景が本物かどうか信じられないまま、叫んでいた。そこは僕のフィールド・オブ・ドリームス。このフェスティバルを思いついた時から夢に見ていた場所だった。僕たちはウォールキルを去り、ベセル――“ 神の家”に着いたのだ。車を降りると僕はこの自然がつくった緑のスタジアムの中を歩いていった。なだらかな斜面のいちばん下には少し隆起した場所があり、まるで僕らがそこにステージをつくるのを待っているようだった。

(略)

僕たちは40代後半のすてきなカップル、農場の持ち主のマックスとミリアム・ヤスガー夫妻に会うことができた。

 「マックス、この人たちはきみの土地の一部を借りて音楽フェスティバルを開けるかって、きみに訊きに来たんだ」、アブラハムが説明した。

鋭い知性を持った顔つきのマックスは、まっすぐ僕の眼を見た。

「きみたちはウォールキルで候補地を失くしたって人たちだろう?」、僕は彼の口から次に出る最悪の言葉に備え、一瞬身がまえた。だが彼の言葉は僕の思ったものとは違っていた。

「あっちの連中はきみたち若い者をつかまえて、ずいぶん不誠実な真似をしたようだな。いいとも、僕の土地を見せてあげよう。きみたちの音楽の祭典に都合のいい取引ができるかもしれんしな」。(略)

車で走る途中、マックスは自分の土地を指さしながら説明してくれる。

(略)

「それでどれだけの土地がきみたちには必要なのかな?」、彼が尋ねた。

「そうだな。まずこのフィールドとあなたの持っているこのまわりの土地。あと別にキャンプ場と駐車場用に600エイカーくらいが必要なんです」。

(略)

[メモ帳を取り出し数字を書き始めるマックス]

彼はどれだけの収穫をフイにし、また種まきができるようになるまでにかかる費用を計算しているのだった。(略)

[彼が提示した額は]フェアな金額に思えたので、僕は即座にイエスと言った。

(略)

 マックス・ヤスガーなしには、ウッドストックは存在しなかっただろう。サリバン・カウンティでは彼は自分の言葉を守る、強い意志の男として知られていた。(略)

[十代で父を亡くし大黒柱として家族を支え農場と土地を少しずつ買い続け酪農場を建てついにはサリバン・カウンティ最大の牛乳生産者となった]

[翌日5万ドルの土地借用代に補償金を加え7万5千ドル支払うことで合意]

(略)

彼は誠実で高潔な理想家なのだ。お金のためだけに土地を貸してくれたのではない。彼のモチベーションはそれだけではなかった。マックスは酪農場をつくって自分でもしたように、僕らにも夢をかなえるチャンスを与えてやりたかったに違いない。僕らがウォールキル会場のために作った地図や詳細なデザインなど、すべての計画を見せた時、彼は目を丸くして、僕らの勤勉さに驚いていた。「これはとても1日や2日のやっつけ仕事でできるもんじゃないな!」。彼は自分の土地に支払いを求め、僕らはそのかわり彼の協力を手に入れたのだった。

 必要な許可を得るためにホワイト・レイクの役人たちと会いに行かねばならなかった。しかし、あんな目に遭ったばかりで、僕らは神経質になっていた。その様子を見ると、マックスはできるかぎり助けてあげようと約束してくれ、手始めにその週末、ベセルの町のスーパーバイザー、ダニエル・アマタッチに会わせてくれた。(略)

僕らは猛烈な速さで動きはじめた。

 ウォールキルの役人たちはウッドストックベンチャーズをミルズの地所から蹴り出してやろうと、厳しい立退き命令を準備していたが、もうそこはとっくにモスケのカラ!(略)家具、ファイル、道具類、僕らは納屋にあった物を一切合切トラックに積みこみ、ホワイト・レイクに運んできた。

 地元民の反発

 だが、すべての町民が僕らを歓迎していたわけではなかった。日曜日の夜、誰かがマックスの地所への道路の入り口に大きなベニヤのプラカードを置いていった。そこには恐ろしい文字でこう書かれていた。

“マックスのヒッピー音楽フェスティバル阻止! この町に5万人のヒッピーは要らない! ミルクを買うな!”

 またしても僕らには悪い予兆だった。だが、マックスはその悪意のこもったメッセージを見て、逆に僕らのフェスティバルを実現に向けて、いっそう強く支援しようと気持ちを固めていた。マックスはそういう男なのだ。

(略)

マックスは僕らをかばうように発言を続けてくれた。「彼らはとても良い子どもたちだ。僕は彼らみたいな連中は大歓迎だ」、と彼はハッケンサック・レコード・コール誌に語っていた。「僕は彼らとは世代も違うから、別のことをしてきた。でも彼らは長い髪をしてるから、法律を破るなんて思わない。そんなのはバカげた思いこみだよ。これは何か違ったものになるだろうよ。僕は何の不安も感じていないよ」。

 住民たちの不安を和らげたいと思った僕は「フェスティバルの参加人数について誤解があるようです。新聞等では15万人と報告されていますが、あくまでもこれは3日間通じての合計数であり、一日の参加人数は一度に5万人前後となるでしょう」とコメントを発表した。これはちょっと眉唾だったが、ベセルでのこの最初の時期には必要だったのだ。

(略)

ジョン・ロバーツ マックスが加わったとたんに、僕らはなぜかとても気前よく、太っ腹な気分になった。あまりに事態が早く進んでいき、もう損得勘定なんてどうでもよくなってきたんだ。(略)

今から振り返ってみれば、あの段階で僕はよくそこまで不注意になれたもんだって思うよ。だけどあの1週間前、僕らは完全にそれまでの努力をパアにされてしまったところだったんだ! 7月1日までに使ってきた75万ドルが水の泡と消え、60万ドル分のチケットを返済する破目になった。あわせて約130万ドルの大損害さ。それに比べれば、他のなにもかもが思いがけない儲けものって気分だった。もう僕らはこの先いくらの収入があるかなんて計算もしなくなっていたんだ。さもなければフェスティバルなんてできっこない。どんな付随条件があろうと、どれだけチケットを売ればトントンになるかなんてもう考えてる余裕もない。毎週チケット代が何万ドルも入ってきて、いつも資金繰りはなんとかうまくいっていた。ホワイト・レイクへ移ることになったあの最後の週までね。膨大な金額の出費に、もう収入はゼロ。(略)最初の予算案なんて窓の外に捨てちまったよ。

 アップルからの手紙

 ちょうどウォールキルで何もかもがメチャクチャになっていた頃、アップルから僕あてに一通の手紙が届いていた。ジョン・レノンは相変わらずアメリカへの入国が認められていなかったが、彼らはジェームス・テイラービリー・プレストンというニュー・アーティストの出演オファーをしてきた。またアップルはこちらが希望するなら、会場で上映するための実験映画と、実物大の銀色でプラスチック製のプラスティック・オノ・バンドの模型を送ってもよいと通知してきた。しかし、会場引っ越しのゴタゴタでその手紙はどこかにまぎれこんでしまい、気がついた時は、時すでに遅かった。もし、あのウィークエンドに間に合っていたら、みんな喜んでくれていたかもしれない――たとえ、プラスティック・オノ・バンドのコンセプチュアルな立てかけ模型でも……。

 地元の人々の変化

 僕らがお金を使えば使うほど、地元のコミュニティの僕らへの対応は良くなっていった。僕らは町でさまざまな必要品を買い、地元の住人を雇い、そういう状態が町の多くの人の目にはっきりと映るようになった時、最初に一部の人々が示したネガティブな態度が消えて、町の人々はやさしく、ていねいに接してくれるようになった。

 設営

 水曜日はまたしても雨。おかげで最後の電気系工事はとても危険なものになった。主電源の設置場所のすぐ横に停まっていたトレイラーの階段は“ホット”、うっかり手すりなどに触れるとビリビリと痺れた。電気技師たちがいくら頑張っても、きちんとアースできず、結局、階段で何人が“熱く痺れる”ダンスを踊ったことだろう。急いで完成する必要があったのは荷物のローディング・ゾーンから9メートル上のステージにアンプや機材を運ぶエレベーターだった。

(略)

コンサートの演奏は、僕がマイアミ・ポップ・フェスを手がけた時にジミ・ヘンドリックスと一緒に会ったエディ・クレイマーが、リー・オズボーンとともにステージの後ろのサウンド・トレイラーでレコーディングすることになった。コンサートのレコード化権はアトランティック・レコードのアーメット・アーティガンが買った。

次回に続く。