前回の続き。
- 作者: リヴォンヘルム,Levon Helm,Stephen Davis,菅野彰子
- 出版社/メーカー: 音楽之友社
- 発売日: 1998/12/10
- メディア: 単行本
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離脱
ぼくはしだいに、こういう暮らしはばかげていると思うようになった。ボブの十三人乗りのロードスターで移動をし、急いでリムジンに乗り、また急いでリムジンを降り、そして野次られる。
(略)
どちらにしても、ぼくはだれかのバック・バンドでいるのがいやになった」
リチャードはぼくを見ていった。「ぬける気か?」
「どうしてわかる?」
「わかるよ(略)この音楽では、ドラマーがあまり活躍できない」
ぼくは自分たちのレコードをつくりたいという気持ちを捨てきれなかった。(略)
[ぼくはロビーに]やめるつもりだと話した。(略)
「これからもみんなでおなじ夢と方針を持ちつづけていけるか、確信がない」
「それはわかる」ロビーはいった。「だが音楽についてはどうだ?いまやっていることのなかには、すばらしいものがある。爆発しそうだって思うこともある」(略)
こうして一時的にボブに雇われ、ボブが自分の音だと感じるスタイルの音楽をつくっている。ほかのメンバーたちは、それが同時に自分の音だと感じているのに、ぼくはまだ確信できない――だから、ここで一線をひきたい。ぼくにとっては、音楽とは、いいコードとしっかりしたリズムがあればいいんだ。いまやっているものは重たすぎる」
「リヴォン」ロビーは熱心にいった。「それを自分たちのものにするんだよ。これをやりとおして、そこから何かを得るんだ」
「ぼくはつきあえない。ぼくの夢は、だれかの雇われドラマーになることじゃない。これからのコンサートはぼくなしでやってもらうことする。みんなによろしくといってくれ。それから、もとのバンドでやろうという話になったら会おうと伝えてくれ」
ロビーはぼくにどこに行くのかと訊いた。まだ決めていないが、アーカンソー州スプリングデイルのJ・Dの家で連絡がつくようにしておく。ぼくはそういった。
それで終わった。(略)
ビル・エイヴィスはつぎのように思いだしている。「そういうことだった。リヴォンはロビーだけに話をした。朝、眼を覚ますと、リヴォンがいなくなっていた。リックが『リヴォンはどこだ?』というと、リチャード・マニュエルが『きょうで終わりにしたのさ』といった。
(略)
「わたしの考えでは、リヴォンがぬけたのはアルバート・グロスマンのせいだ。リヴォンはとても礼儀正しい人間だったが、アルバートは傍若無人だった。それにリヴォンはホークスを自分のバンドだというように考えていて、自分がリーダーでなくなったのが不愉快だったのかもしれない」
そのときには当然、ホークスのメンバーといっしょにやることは二度とないだろうと思っていた。(略)しかし、心の深いところで、これは一時的なことだという気持ちもあった。
(略)
ぼくはまずメキシコヘ行き、金がなくなるまでビーチで暮らした。(略)
[それからフロリダへ行き]浮浪者のように暮らしていた。そして新聞を見て、フロリダからニューオリンズまで車を連べば、ただで行けるという広告をみつけた。それで「行こう」ということになった。
だからホークスがオーストラリアやヨーロッパで敵と戦っているあいだ、ぼくはずっと友好的な街、ニューオリンズにいた。(略)カービーとぼくは何回か素人コンテストに出て賞金を稼いだ。大勢の酔っぱらい、流れ者、ミュージシャン、ギャンブラー、売人、そして南部マフィア。ジャック・ケネディを殺したのは、やつらのひとりかもしれなかった。(略)ぶらぶらしているうちに、ほんとうに一文なしになって、働かなくてはならなくなった。
(略)
ぼくたちは、メキシコ湾の石油掘削現場のすぐそばに浮かんだ[パイプ敷設]作業船の上にいた。(略)
夜はカードをしたり、ラジオを聞いたりした。ボブ・ディランが「みんな、ストーンするべきだ」と歌う〈レイニー・デイ・ウーマン〉が大ヒットしていた。だれがドラムをたたいているのか、みんなはどうしているのか。そう考えながら、その曲を聞くのはおかしな気分だった。
ビッグピンク
バイク事故のあと、ボブは(略)イギリスで撮影したフィルムの編集をはじめた。アルバート・グロスマンはホークスのメンバーたちに、拘束料をもらっているのだから、もうじきアルバムのレコーディングをはじめようとしているボブのそばにひっこしてきたらどうかと提案した。(略)
[リック・ダンコ談]
「ビッグ・ピンクはぼくたちのクラブハウスだった。リチャードが料理をし、ガースが皿洗いをし(汚いのをきらって、ぼくたちに洗わせてくれなかった)、ぼくはごみをごみ捨て場に運び、暖炉の火を絶やさないように薪割りをした。そうやってウッドストックの暮らしがはじまった。ボブが週ぎめの給料を払ってくれていたので、生まれて初めてほんとうの意味でからだと心を休ませる時間を持った。六年間、ほとんど休みなくツアーをつづけたあと、初めて食べるためにどこかの小屋に出て演奏をしなくてもよくなったんだ。
(略)
「ビッグ・ピンクの生活に慣れたころ、地下室をかたづけ、ガースが何本かマイクを立て、それを2トラックのテープ・レコーダーにつなぎ、そこがスタジオになった。一九六七年三月から十二月までの十ヵ月間、ぼくたちは一週間に六日、一日に二、三時間ずつ、全員でその地下室に通った。ほんとうにそんなふうに勤勉にやったんだ。そこで曲をたくさんつくった。すばらしい経験だった!」
ほかのメンバーが録音をしているあいだ、リックはありあまる活力を駆使して、自分たちのバンドだけでレコードをつくる時期が到来したとアルバート・グロスマンに働きかけた。サリー・グロスマンがホークスの音楽を気にいり、味方になってくれたことが、効を秦した。一九六七年の終わり近く、ボブ・ディランがしばらくツアーを再開するつもりがないことをアルバートに表明したとき、アルバートは本気でホークスのレコード契約先を探すことにした。(略)
ワーナー・ブラザーズが興味を示した。(略)しかし、モー・オースティンが街を留守にしたか何かのときに、キャピトル・レコーズが話に飛びつき、アルバートは了承した。リックが、メンフィスのメアリー・キャヴェットの家にいるぼくに電話してきたのは、このときだった。そのときもまだ、ぼくはテレビを見つづけるだけで何もせずにいた。(略)
[リック談]「リヴォンに電話をかけ、キャピトルと契約したと話した。『二、三十万くれるという話だ、リー。こっちに来て、おまえも分け前をとれよ!』ってね」(略)
「そしたらリヴォンは『うさんくさい話に聞こえるな。気にいらないけど、とにかくつぎの飛行機でそっちに行くよ。うまく話がつけられるかもしれない』といった」(略)
「こんなふうにして、リヴォンはぼくたちのところにもどってきた」
復帰
ぼくがいないあいだはリチャードがドラマーをやっていたことを聞かされた。実際にたたかせてみたら、リチャードがすごくいいドラムをたたいたという話だった。ゆったりとドラムをたたき、すこしビートから遅れるが、それがとてもよいのだと(略)。
リチャードの才能はよくわかっていたから、意外だとは思わなかった。しかし彼がとてもうまくなっていたのには、おどろかされた。何の訓練もうけていないのに、むずかしい左手の動きをマスターし、ピアノの楽節に似た、とても価値あるフレーズをたたきだした。ほかのだれにも真似のできないものだった。リチャードがマスターしたものを聞いたあとは、「この曲ではリチャードのほうがいいドラムをたたく。この曲では交替しないほうがいい」と判断せざるを得なかった。そういうわけで、バンドにはドラマーがふたりいることになった。(略)
ボブ、リチャード、リックが共作した何曲かがすでに録音されていた。(略)ぼくはみんながつくりだしているものの質の高さにおどろいた。
(略)
このころからヴォーカルの研究もはじめた。ぼくたちはずっと前からソウル・ミュージックを好んでいたが、その理由のひとつはステイプル・シンガーズやインプレッションズといったグループのコーラスにあった。ひとつひとつの声がタイミングをずらせて入ってきて、重なりあい、最後にひとつに溶けあって魔法のようなすばらしい効果をあげる、あのコーラスだ。そこで、地下室で〈エイント・ノー・モア・ケイン〉を録音したとき、おなじ方法を試してみた。ぼくは子供のころ、親父に教えられてからずっと、この曲を聞いて育った。(略)
地下室の録音では、ぼくが一番を歌った。それからリチャードが二番を歌い、ロビーが三番を歌い、リックが最後を歌った。コーラス部分では、全員がハーモニーをつけて歌い、ガースが各所にアコーディオンをかぶせた。リチャードがドラムをたたいたので、ぼくはマンドリンをひいた。〈エイント・ノー・モア・ケイン〉の録音が、ひとつの突破口となった。声を重ねあい、楽器を持ちかえることによって、自分たちのサウンドがみつかった。
(略)
(あのとき何曲が録音されたのか、正確な数字を知っているのはガースだけだ。リックは最高の作品はいまだに発表されていないと考えている)
バンド名
リックはいった。「すごく気取ったばかばかしい名前にしよう」
「チョコレート・サブウェイはどうだ?」リチャードがいった。「マシュマロ・オーバーコートってのもある」
みんなが笑った。ぼくはいった。「これがいいよ。ホンキーズ(黒人が白人を呼ぶ蔑称)。ありのままのぼくたちがわかる!」ぼくは昔から、挑発が好きな性格だ。
最終的に、ぼくは、クラッカーズにしたらどうかと提案した。クラッカーズとは、南部の貧しい白人たちを指すことばで、ぼくが考えるかぎり、ぼくたちがやっているのはそういう人たちの音楽だった。ぼくはその名を主張し、いまもそれを後悔していない。いずれにしてもキャピトルとの契約は、その名でおこなわれた。(略)
[キャピトルとの契約は簡単にいえば]アルバムを十枚つくる契約であり、ぼくたちはそれをうけいれた。そうするしかなかった。(略)
ぼくたちの主張で、ボブ・ディランのバンドであることの権利が確保された。(略)ボブ・ディランの共演者として演奏し録音する権利を保留する。こうした活動は、本契約から除外されるものとする」
しかし皮肉なことに、そのころボブ・ディランはアルバート・グロスマンのもとをはなれていた。(略)
というわけで、ぼくたちがやっとアルバートのもとにたどりついたころ、ボブはアルバートのもとを去っていった。(略)ジョン・サイモンが登場したのは、このころだ。
ジョン・サイモン
アルバムづくりを真剣に考えはじめたので、それについて詳しい人間が必要になった。ぼくたちは、レコーディング・コンソールの操作法も4トラック・テープのことも何もしならかった。三年間は、スタジオに入ることもほとんどなかったのだ。そこに、若くて良心的で実力があるという(略)ジョンが現われた。ジョンはぼくたちに力を貸し、ファースト・アルバムをプロデュースし、そのあともずっとよき友でありつづけた。
ジョンがどういう人間かいうと……(略)
「六〇年代の初めに大学を卒業士学業した。プログレッシヴ・ジャズが好きで、ロックンロールが嫌いで、R&Bが好きだった。とくにルイス・ジョーダンが気にいっていた。ぼくはコロンビア・レコーズのクラシック部門で仕事をするようになり、やがておなじ会社のポップスとジャズの部門へ移動した。(略)[共同プロデュースしたチャールズ・ロイドから『すごい男がいる』と紹介されたのがロビー・ロバートスン]
[ブライアン・エプスタインのアメリカ代理人と自称するナット・ワイスがアメリカ版ビートルズになると推すサークルの〈レッド・ラバー・ボール〉というシングルをつくり]即座に二位まで上がった。このシングルがその年のコロンビアの最高にクリーンなレコードになった――返品がいちばんすくなかったレコードということなんだ。それでクリスマスに、一万一千ドルのボーナスをもらい、さらに窓と鉢植えのある専用オフィスをもらった」
「ロックの時代が到来していた。レコーディング技術の重要性が増していた。会社が契約するバンドには、才能のかけらもなさそうなのが多かった。(略)ぼくがそれをいやがったので、会社はレナード・コーエン、アル・クーパーがいっしょのブラッド・スウェット&ティアーズ、マイク・ブルームフィールドといった質の高いミュージシャンをぼくに担当させた。ぼくが悩んでいるのを見て、アル・クーパーはフリーになれとすすめた。ぼくはそのとおりにした」
「そのころ街でアルバート・グロスマンに会った。(略)自己紹介をし(略)ジャニス・ジョプリンのコロンビアのアルバムをプロデュースすることになった。(略)
[ピーター・ヤーローがつくっている映画『ユー・アー・ワット・ユー・イート』の音楽監督に推薦され]
この映画は、最初はヘルス・エンジェルスのドキュメンタリーになるはずだった[が途中で消え] (略)
ラヴ・インやドラッグ・インなど、奇抜な場面を撮影したテーマのはっきりしないフィルムが山のようにあるだけだった。(略)
「ぼくはこのころ、マリワナを少々やってぶっとんで、意識を拡大することをはじめていた。(略)ウッドストックに行き、問題の映画の編集をしていたハワード・アークに会った。アークは、のちに『サタデイ・ナイト・ライヴ』に発展したセカンド・シティというシカゴのコメディ劇団のオリジナル・メンバーだ。とてもおもしろくて賢い男だった。
(略)
一九六七年のハロウィンだった。アークとぼくが必死になって働いていたとき、外でものすごい音がした。その日がハワードの誕生日だったことがわかった。映画でタイニー・ティムのバック・バンドを演じていた連中が、ホーンやウォッシュボードやアコーディオンなどのおもしろい楽器でハワードに捧げる演奏をしていたんだ。そのときは、ロビー・ロバートスン、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドスンの四人しかいなかった。四人ともが古びた服を着て仮面をつけていた。いかにも六〇年代らしく、すべてがこの世のことでないもののように思えた」
(略)
とたんに、つながりができた。(略)
ロビーがいった。『リヴォンがもどってきてる。リヴォンはぼくたちのバンドのドラマーで、一度やめていたが、もどってきた。(略)
リヴォンは、そのすこし前までルイジアナの油田で働いていた。
(略)
「そのとき初めてビッグ・ピンクの地下室のリハーサルを見て、メンバーたちそれぞれの人となりを知った。ロビーは中心の人物、リーダー役だった。ガースはホーンと機材の係で、だれとでもうまくやれる人物。リックは活動的でおもしろくて、商売っ気があり、ガールフレンドが大勢いた。リヴォンは、とてもおもしろくシンコペートしたバス・ドラム、それに右足の独立した動きを持つ、才能豊かなユーニクなドラマーだった。そして、あらゆる点で自分を曲げない男だった」
「そしてリチャード。とても気のいい男。いつも酔っていた。薬をたくさんやっていた。ツイナールとヴェイリウムだ。何でも限界まで試してみる人間だった。家の前のひきこみ道を、道路を走るときとおなじ時速百五十マイルで突っ走った。(略)
アルバートにすこし金を出してもらってA&RサウンドのAスタジオに入った。(略)
ビッグ・ピンクから持ってきた曲のなかから〈ティアーズ・オヴ・レイジ〉〈ウィ・キャン・トーク〉〈ザ・ウェイト〉〈チェスト・フィーヴァー〉を録音した。〈ロンサム・スージー〉もやったと思う。
(略)
キャピトルはテープを気に入り、ぼくたちは一カ月間LAに行って、キャピトルの8トラックのスタジオでレコーディングした。
《ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク》
歌詞の登場人物はすべて(略)実際に知っている人たちだ。いなかの静かな生活のなかで、ぼくたちがそれまでの十年間をふりかえって蒸留させた経験。それを集めたものが、あのレコードだ。ヴェトナム戦争の時代、若者たちは従来とちがう生きかたを模索しはじめ、当時のアメリカには、いなかの重要性を見おなす大きなうごきがあった。あのアルバムは、そのうごきとも同調していた。
(略)
アルバムの一曲目は、ゆっくりとした〈ティアーズ・オヴ・レイジ〉(略)一曲目にスローな曲を持ってくるアーティストはほとんどいない。だから、ぼくたちはそうすることを選んだ。(略)リチャードはボブ・ディランの協力を得て、両親の心痛を歌うこの曲をつくり、生涯最高ともいえるすばらしい歌を聞かせた。この曲には、特徴的なホーンとオルガン、そしてすすり泣くようなタムタム・スタイルのドラムが入っている。ぼくがこのスタイルの創始者だと思っている人もいるようだが、リンゴ・スターもおなじ時期におなじようなことをやっている。頂点でドラムの音をひずませて音程を変える。ドラムの音はうなり音を残しながら消えていく。バンドとのアンサンブルがぴったりとあっていれば、ドラムの音がベルの音のように持続して、強く心に訴える。この方法で、スローな曲におもしろい変化がつく(ジョン・サイモンはこれを聞いて、ぼくを、面とむかってではないが、バイユーのフォーク・ドラマーと呼ぶようになった)。
〈トゥ・キングダム・カム〉はロビーの曲で、彼自身が歌っている。彼はこのあと、ぼくたちのアルバムでは歌っていない。ロビーはふつう歌わなかった。シンガーにはむいておらず、歌うのをきらったが、この曲だけは歌っている。(略)
ぼくが貢献したのは〈ザ・ウェイト〉だ。「ナザレスヘ行く」の部分はロビーのものだ(略)この歌には、ぼくたちが好きな人物がいっぱい出てくる。「ルーク」はジミー・レイ・ポールマンのことだし、「ヤング・アナ・リー」はターキー・スクラッチのアナ・リー・ウィリアムズのことだ。「クレイジー・チェスター」は、フェイエットヴィルの住民で、ぼくたち全員が知っている。チェスターは毎週土曜日、おもちゃの銃一式を腰につけ、治安を守るために街を歩きまわった。嘘じゃない。(略)
ホークは彼の友達で、彼に会うといつも、街にもめごとはないかと訊いた。するとチェスターは、すべてが平穏であり、自分が警戒にあたっているので心配ないと答えた。二丁のおもちゃの銃だけじゃなくて、禿げかくしのかつらまでつけていた!「カーメンとザ・デヴィル」や「ミス・モーゼズ」や「ファニー」のモデルも実在する。
(略)
何年か前、ロビーが「ザ・ウェイト」は聖者でいることのむずかしさを歌った歌だといっているのを何かで読んだ。何度もその歌を歌ってきたぼくとしても、それに賛成だ。
次回に続く。
ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク(50周年記念スーパー・デラックス・エディション)(限定盤)
- アーティスト: ザ・バンド
- 出版社/メーカー: Universal Music =music=
- 発売日: 2018/08/31
- メディア: CD
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