天才ジミヘンドリックス・その2

前回の続き。

ビルボード誌の酷評

 正統派のマスコミは、大部分がエクスペリエンスのモンタレーにおけるデビューをあくび混じりに伝えるだけだったが(略)[ビルボード誌は酷評]
 「ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスは、ポップであろうがなかろうが、音楽というよりは実験であることを証明した。変調の度が過ぎる雑音と大袈裟なドラミングに彩られたヘンドリックスの演奏ぶりといえば、巧みに観衆を興奮させはしても、その煽情主義が音楽かといえばそうではない。そして、(もう15年も前にこんなことはやっていた)チャック・ベリーとは異なり、ヘンドリックスは歌っている間はフレージングをミスるし、モード旋法を応用した鳥の首を絞めるようなワンハンド奏法にしても、強烈な才能を示してはくれなかった」

モンキーズ

 「ジミと私がどうしてそんなに怒っているのかジェフリーにはわからなかったんです。彼にしてみれば、ヘンドリックスをモンキーズと組ませることも、アニマルズがハーマンズ・ハーミッツと一緒にツアーに出ることとなんの違いもなかったんですから」――チャス・チャンドラー
(略)
[モンキーズファンの女子は前座のジミ達を嫌悪。「モンキーズを出せ」と怒号。うんざりしたジミ達は、ディック・クラークから訴えられずにツアーを降りるため、米国愛国婦人会が年端もいかないモンキーズ・ファンに見せるにはヘンドリックスは不埒かつ卑猥すぎると考えている、というデマを流すことに。これがかえって宣伝になって国中のロックファンの注目を集めることに]
ただ、米国愛国婦人会から訴えられることは覚悟していたんですが、そんなことにもなりませんでした。(略)
この話でいちばん興味深いのは、誰ひとり事実関係の調査さえ行おうとしなかったことだ。

セルフ・プロモーション

 コンサーツ・ウェストが、さらにはコンサーツ・イーストが、全米の津々浦々でエクスペリエンスの公演を仕掛けていったが、中間業者抜きで公演地を押さえることで、地元のプロモーターたちは割高な歩合にありつくことができた。(略)
 セルフ・プロモーションというコンセプトが成功を収めたことで、ヘンドリックスのチームは極端に自信を深めた。エクスペリエンスのツアーは、異常なまでに大きな利益をもたらしていた。収益の面では、同時代のライヴァルたちを一貫して上回っていた。彼らの場合、公演地での売り上げの六割を手にするのがやっとという状態だったのである。ヘンドリックスの場合は、ドアーズやジャニス・ジョプリンらの稼ぎを楽々と上回っていた――常に、1ドルの売り上げのうち85セントをものにしていたのだ。

この週末に行われた二回のコンサートだけで、エクスペリエンスの取り分は経費を差し引いても10万ドルを超えていた。さらにプログラムやポスターの売り上げが加算されるのである。

インディアンと黒人

ロンドンを後にして仕事の勢いが加速してゆくなか、ヘンドリックスの読書時間もめっきり減っていった。それでも彼は折に触れて、ローリング・ストーン誌から、『スパイダーマン』やアメリカ先住民を描いた『トリック』といったコミック本にいたるまで、ページをめくっていた。『トリック』は、ヘンドリックスにふたつの深い興味を抱かせていた。SFと、チェロキー・インディアンという自身の血である。ジミはジョン・マーシャルに話して聞かせた。
 「先史時代に迷い込んでしまったインディアンの話なんだ。まったくの異次元なんだよ。ふざけたものじゃない。すごく美しく描かれてるんだ。ほとんどすべてのコマが、独立した絵画みたいでね。すごく真面目なんだよ」
 ヘンドリックスの場合、自分の血統に対する感情を公にすることはほとんどなかったが、マーシャルには親近感を抱き、他のアメリ先住民族たちへの感情移入を打ち明けている。
「彼らは決して人並みの仕事にありつけなかったんだ。(略)
黒人たちほどではないにしても、同じくらいにはひどい目にあってきたんだ。居留地にスシ詰めにされてさ、どの家もちっちゃくて、家っていうよりは小屋みたいなもんだよな。えらく悲惨な光景なわけだけど、それでも彼らは自分の肌の色や、(かつて)持っていたビーズとかそういうものを誇りに思って受け継いできたわけでね。どこかに捨ててしまったものなんて何もない……。(略)」
 彼個人の作品に関しては、ヘンドリックスは気の向くままに言葉を紙に書きなぐり、その後でそれを削ってゆく辛いプロセスを自分に課すという段階を踏んでいた。作詞こそ、彼にとっての伝達手段なのであり、特定の感情を表現したいとなれば、彼の曲にうまく合うように細心の注意を払って詞を紡ぐのだった。ミッチ・ミッチェルは述懐している。
 「彼はいつも、曲にとりかかる前に歌詞に耳を傾けてくれることがすごく大事なんだぞって、俺に言い聞かせてたよ」
(略)[「I Don't Live Today」]は、自分自身と同族のインディアンと並んで、インディアン全般に宛てて書いたものだ、とヘンドリックスはジョン・マーシャルに語っている。(略)
「“May This Be Love”も、別の形でインディアンを扱った曲だ」(略)
「Little Wing」に話が及ぶと、ヘンドリックスは明らかにインディアンの問題が影響していることを認めた。
 「もちろんそのとおりだよ。『彼女は雲間を縫って歩いて行く』なんてところはね」
(略)
楽譜は読めなかったが、自分に宿ったアイディアやインスピレーションをなんとか失うまいとするヘンドリックスは、コードの展開や進行を、ソロ・パートやリズム・パートでどの弦のどのフレットをどんなスタイルで弾くかということまで添えてメモするのだった。
(略)
 ヘンドリックスの心の奥底で煮えたぎっていたのは、幅広く黒人聴衆の心を捕らえられないという思いだった。ハーレムのアップタウンをぶらついていても、ヘンドリックスは腫れた親指のごとく目立ってしまうのだった。アーサー・アレンは振り返る。
 「当時の黒人コミュニティというのは非常に保守的でした。あのコミュニティでも、ジミはまったく異質の存在だったんです。老巨匠みたいにブルース・ハットをかぶっててね。(略)それで、自分らしいスタイルにしようとボタンをつけたりしてね。ブローチもつけてたなあ。私の弟や私も、彼の影響でベルボトムをはき始めたんです。ほとんどの黒人っていうのは、ベルボトムからピエロを連想してたくらいですから」(略)
[ジミ談]「自分の地元でさえ、街角をを歩いてると、女の子だろうがバアさんだろうが『ごらんよ。なんだろうね。サーカスかなんかかな』とか言うんだぜ」

「Foxy Lady」

サンタクララにおける印象深いハイライト・シーンは、「Foxy Lady」が始まる前に生まれた。ヘンドリックスはそれまでも、この曲を紹介するに当たってはたびたび茶目っ気たっぷりな口上を披露していた。(略)見知らぬ女性ファンを指さしては「そこに座ってる黄色の下着を着けた女の子に捧げる」などと紹介していたのだ。この日は、たまたま一陣の風が起こり、先にステージを終えて舞台の袖からヘンドリックスを見つめていた美人フォーク歌手のスカートをめくり上げていた。このチャンスを見逃す手はない。ヘンドリックスは意地悪そうに、「Foxy Lady」を「あそこにいる黄色いパンティの彼女に」捧げたのだった。ヘンドリックスは「そう、あんただよ」と念を押しながら、恥ずかしさで顔を真っ赤に染めた若き日のスティーヴィ・ニックスを指さしたのである。

アラン・ダグラス

 アラン・ダグラスは、ディーヴォン・ウィルスンが妻のステラやコレットミムラムと友人関係にあったことから、ジミ・ヘンドリックスと知り合った。ステラとコレットは、フィルモア・イーストからすぐの場所で人気ブティックを経営していた。(略)[フェイ・プリジン談]
 「ジミはコレットに参っちまったようだったわ。あたしが、ジミに好きな女ができたと思ったのは、彼女の時だったもの」(略)
ヘンドリックスがウッドストックで身に着けていた丈の長いレザー・ジャケットも、彼女たちの作品である。(略)
[UAで発足したばかりのジャズレーベルに呼ばれたダグラスは]
 「コルトレーンとかミンガスとか、子どもの頃からのヒーローたちとはみんな契約してやれ、と思っていたんですが、彼らは皆、すでに契約でがんじがらめにされてましてね。ただし当時は、彼らの所属するレコード会社に五千ドルも払えばそれぞれについて一枚レコードを作れることになってたんですよ。そこで私は、サインできる限りの偉大なアーティストを集めて、アンソロジーを編む計画に乗り出したわけです」(略)
[67年UAを去り自身のレーベルを発足。レニー・ブルースの遺族の保管していたテープを書き起こした『ジ・エッセンシャル・レニー・ブルース』という]本は大変な成功を収め、財を成すうえでの基礎となってくれました。その後で、レコード作りにとりかかったわけです」(略)
 ダグラスは(略)あるアーティストに再び焦点を合わせて関心を集めるような、死後の財産を構成する自身の戦術に磨きをかけていった(略)
 「マルコムXに関しても、基本的には同じことをやったんです。彼の奥さんがテープ類を渡してくれたものて売れるレコードが三枚作れました。プロセスは単純なものです。あるアーティストを引き受けて、彼らの人生よりも彼らの価値のほうを理解してもらえるようにもっていくにはどうしたらいいか、ということですからね。(略)
[資金調達に走り回りさらなる拡大を目指していた]
当時すでにアレン・ギンズバーグやラスト・ポエッツ、ジョン・マクラフリンなどとサインを済ませていたもので、行動に出たんです」
(略)
 1969年も10月に入ると、ダグラスは自身のふたつのプロジェクトにヘンドリックスを参加させた。ティモシー・リアリーとラスト・ポエッツのレコーディングである。ジェフリーとの仲が険悪になり、ミッチ・ミッチェルもイギリスに引っ込んでしまった今、ヘンドリックスはバディ・マイルスとの絆をさらに強めていた。ダグラスを盾としながら、マイルスはバンド・オブ・ジプシーズの支配権をそれとなく握っていった。マイルスは強調する。
 「俺こそがバンド・オブ・ジプシーズのリーダーだったんだ。ジミは『アイディアがあるんだ』とかなんとか言ってきちゃあ、それを俺がまとめてくれることを期待してたんだよ。ひとつだけ整理しておきたいことがあるんだ――競争関係なんてのは存在しなかったってことさ。そんなことはまるで関係なかった。ジミと俺は、ただ一緒にやりたかっただけなんだよ」
(略)
ダダラスは回想する。
 「ラスト・ポエッツのジャラルがオフィスに来て、ぶらぶらしてたんです。それで彼らとレコード・プラントに行ってみると、バディ・マイルスがヘンドリックスを待ってたんです。私はジャラルに『バディに一曲、歌詞を読んでやったらどうだ?ほら、あいつ、困っちまうぞ』と言ってみました。その最中にジミがやって来て、事の成り行きに盛り上がってしまったわけなんです。(略)
昔の黒人の囚人たちが監獄でラップをやるといった趣の詩だったんです(略)
私たちはワン・テイクだけ、13分通して録音してみました。終わってみると、みんなノンストップでやり通せたことに戸惑ってましてね。ジミがギターを弾き、バディがドラムを叩きました。それからジミの弾くベースとバディが弾くオルガンをオーヴァーダブしたんです(略)
 ヘンドリックスの音楽を、話し言葉ないしラップと統合してみせたブライトとダグラスは、今度はジャズに焦点を当てていた。ダグラスは回想する。
 「どんなものになるか、ヘンドリックスに私の十八番のジャズをやらせてみたくてたまらなかったんです。ジャズ・プレイヤーたちのほうも、常に彼を理解しようと考えてましたからね」
(略)
ヘンドリックス、トニー・ウィリアムス、それにマイルス・デイヴィスの三人は、それぞれが三曲ずつオリジナルを持ち寄ることになっていました。[セッション開始30分前に、マイルスのマネージャーから電話](略)
彼は『アラン、ちょっと言いにくいんだが、マイルスがスタジオに行く前に五万ドルほしいって言ってるんだ』と言いましてね。私は信じられない思いでヘンドリックスを見つめ、『聞こえたか?』と彼に聞きました。それからジミ本人を電話口に出させたんですが、それもなんの役にも立たなかったんです。(略)
[マイルス本人に電話し]
『ジャックから聞いた話は本当なのか?』と質問したところ、彼は『ああ。そうだよ、わかってんだろ!』と言ったんです。私は彼をののしって、受話器を叩きつけました。だって、このプロセスはすべて、マイルスのためにやったことだったんですよ。彼がどうしてもヘンドリックスとレコードを作りたいと言ってたわけですから。ヘンドリックスは肩をすくめて『クソくらえだ。オジャンになったおかげで、ホッとしたようなもんだぜ』と言ってましたね。それで、食事に行こうと決めて出かける寸前にまた電話が鳴ったんです。かけてきたのはトニー・ウィリアムスで、『マイルスに五万ドル払うんだそうじゃないか。俺も五万ドルほしいんだけどな!』って言うんですよ。私は笑って、『トニー、あのセッションはキャンセルになったんだよ』と言ってやりましたがね」
 マイケル・ジェフリーの目には、ダグラスがこそこそとワーナー・ブラザースと内通したように映り、彼は激怒していた。ここにいたって、ダグラスがヘンドリックスを横取りしようとしていると確信したジェフリーは、直接彼に照準を定めたのだった。
(略)
ジェフリーは数カ月前、マフィアの手からヘンドリックスを取り返したばかりだというのに、今度はダグラスが自分のアーティストを奪おうとしているという観念に取りつかれていたんです。
(略)
 ダグラスは、自分の意志は純粋なものだったし、常にヘンドリックスのためを思っていたのだと主張し、自分の行動を弁護している。ヘンドリックスが、自分に非公式なマネージャーの地位を与えたことから、ジェフリーとの緊張関係も生まれたのだと彼は語る。(略)
 ダグラスによれば、問題は彼が関わったことではなく、むしろバディ・マイルスの存在にあったという。
 「ジェフリーはバディ・マイルスに我慢がならなかったんです。(略)
[ジミがツアーにも出ず、レコードも完成させず、金を稼がなかったので]ジェフリーもプレッシャーを感じていたんでしょう。彼はジミとバディを仲たがいさせようと、あらゆることを画策していました」
 マイルスも認める。
 「俺とジミの関係のせいで、ジェフリーは俺を恐れてたね。俺はジミを利用しようとしたことなんて一度もなかったわけだけど、それでもジェフリーの奴は、俺を子分扱いして犠牲にしようとしてたんだ。俺が強欲だったっていうのかい? 俺だって給料制だったんだ――ヘンドリックスのアルバムで印税なんかもらえやしなかったのさ。(略)
ダグラスだってジェフリーと五十歩百歩さ。ジミに近づくために、ディーヴォンや俺をスケープゴートにしたんだからな」
(略)
ダダラスの監督のもとにひきつづき11月に行なわれた三回のセッションを経ても、完成した作品はひとつもなかった。(略)
69年12月4日、ダグラスはヘンドリックスに宛てた手紙のなかで、自身の多忙なスケジュールやマイケル・ジェフリーから執拗にかけられるプレッシャー、さらにはヘンドリックス自身の無関心ぶりなどを並べ立て、ジミに別れを告げたのである。
(略)
ジェフリーとの関係が修復不可能なまでに崩壊していたヘンドリックスには、やはりチャス・チャンドラーが必要だった。(略)ダグラスでさえ、ジミが「“自分の仲間”としてずっとチャス・チャンドラーを必要としていた」ことは認めている。駆け出しのエクスペリエンスを育て、情熱と完璧な確信のもとに彼らを導いていったのはチャンドラーにほかならなかった。もっとも重要なのは、チャンドラーがヘンドリックスを理解し、彼の“大風呂敷のような”ヴィジョンを実際的なビジネスやマーケティングの決定に見事に結びつけていたことである。ひとりニューヨークで、ストレスやドラッグ、さらには自分と意見を異にする人間たちにがんじがらめにされていたヘンドリックスは、必死に安定を求めていた。チャンドラーは好意から、トロントで行なわれる公判にヘンドリックスの代理人として出廷することを承諾していた。
(略)
 ヘンドリックスの公判は迅速に進行した。そして、チャス・チャンドラーが、その素朴な誠実さで陪審員たちの心をつかんでしまう強力な証人であることも判明していた。ところが、判事と陪審員の双方を驚かせたのは他ならぬヘンドリックス本人だった。おとなしく証言席に座ったヘンドリックスは、陪審員たちをまっすぐに見つめ、人生において長年ドラッグをやってきたことは認めながらも、この件に限ってはまったく自分のあずかり知らぬことであると言い切ったのだった。興味をそそられた判事は、さらに詳しく述べるよう彼をうながした。ボブ・リヴァインは回想する。
 「彼は人生を通じて試してきた違法物質のリストを、LSDからベイリアムにいたるまで口述していったんですが、まるで永遠につづくかと思わせられるようなものでした。彼は自分に問題があることは認めつつも、誰かが知らない間にヘロインをバッグに忍ばせたことを判事や陪審員に確言したんです。彼の率直かつ正直な態度が彼らの心を動かしたことは私にもわかりました。陪審員たちは彼がけばけばしくて好戦的な人物だと予想していたのに、実にへりくだった態度を見せられ、説得されてしまったんですよ」
[無罪評決が下りた]
(略)
[エディ・クレイマー談]
「ヘンドリックスの場合、なんらかの制限を課せられているときのほうが演奏もいいように思っていました。チャスがいた頃は、彼も限界を超えてやろうと頑張ってたものです。それが全権をまかされてしまうと、しょっちゅう脱線してしまうようになりました」

次回に続く。