ロックの歴史・その2 中山康樹

前回のつづき。

ロックの歴史 (講談社現代新書)

ロックの歴史 (講談社現代新書)

ヤードバーズ

[ジョン・ポール・ジョーンズ談]
ヤードバーズは、『おやおや、これはまったく』という感じで、リズム&ブルースというよりはパンクだった。それはそれでよかったけれど、でも彼らの『リトル・レッド・ルースター』の演奏を聴いていると、『いやはや、頼むからやめてくれ』といいたくなったよ」
(略)
[ヤードバーズは黒人音楽に傾倒していたが]
実際に表現される音楽は、「本物のブルース」でも「ブルースもどき」でもなく、完全なるロックだった。しかしその「ロックの感覚」は、当時はまだ理解されざるものとして、すなわち「ブルースもどき」の「稚拙な音楽」として投げ出されていた。(略)私見では、ブリティッシュ・ロックの誕生を告げたのはヤードバーズであり、『ファイブ・ライヴ・ヤードバーズ』は、その誕生の瞬間を捉えたドキュメントにほかならない。

ファイヴ・ライヴ・ヤードバーズ+5

ファイヴ・ライヴ・ヤードバーズ+5

 

マディ・ウォーターズ

ブリティッシュ・ロック/ブルースとは、アメリカ黒人に同化するのではなく、「そこ」からいかに遠くまで行けるかという挑戦であり、その到達点によって評価される側面を持つ。
(略)
ジェフ・ベック「俺にとって衝撃だったレコードは、マディ・ウォーターズのEP『マディ・ウォーターズ』だ。そのうちのー曲が《ユー・シュック・ミー》で、レッド・ツェッペリンと俺は、それぞれファースト・アルバムでそれを拝借した」
 ジミー・ペイジアコースティック・ギターをほんとうにうまく弾けるギタリストは何人かいたが、彼らはエレクトリック・ギターにうまく移行できなかった。彼らにとってエレクトリックは、とにかくしっくりこなかったんだ。でもマディ・ウォーターズはあのスタイルを築き上げて、彼の存在そのものをきっちりとかたちにすることができた。十代のガキだった私は、マディ・ウォーターズの曲に身体の芯まで揺さぶられた」

アニマルズとディラン

「私たちはグリニッチ・ヴィレッジでボブ・ディランと会った。ディランは、私たちの《朝日のあたる家》がエレクトリック・サウンドを取り入れる上で大いに参考になったといった。私たちのヴァージョンを最初に聴いたのは、ドライヴしているときだったそうだ。ラジオから流れてきたとたん、車を停め、聴き入り、それから頭のなかで大きな感嘆符が点灯したらしい」
 アニマルズによって「発想の転換」を突きつけられたディランは、65年5月のイギリス・ツアー中、気に入っていたジョン・メイオール&ブルースブレイカーズエリック・クラプトン参加)との共演でレコーディングを行なう。しかしこの試みは完成されることなく未発表に終わり、それはまたディランにエレクトリック化への準備ができていなかったことを示唆していた。エリック・クラプトンによれば、ディランとメイオールの共演は、ディランがイギリス滞在中、メイオールの《クロウリング・アップ・ア・ヒル》を聴いたことがきっかけという。
(略)
[クラプトン談]
「私にとってディランはフォーク・ミュージシャンだった。なんで騒がれるのかわからなかったし、まわりの人間全員が彼のことをちやほやしすぎているようにも思えた。(略)セッションのことはよく覚えていない。どの曲も完成したとは思えなかったのに、ディランは急に消えてしまった。誰かが行き先を聞くと、『マドリッドに行ったよ』と教えられた。しばらくはディランのことはあまり考えなかったが、ありがたいことに『ブロンド・オン・ブロンド』(66年)を聴いて、やっと彼の良さがわかった」

無名の黒人ギタリスト、ジミー・ジェイムズ

66年チャス・チャンドラーが連れ帰った無名の黒人ギタリスト、ジミー・ジェイムズは『キングコング』のようにロンドンで暴れまわった。

[クラプトン談]
ロンドンの音楽的な傾向は、ヘヴィーでソウルフルなものに移行しようとしていた。ブルースのブームは終わりつつあった。ジミ・ヘンドリックスは、絶妙のタイミングでロンドンに現れた。

《ヘイ・ジョー》

[66年《ヘイ・ジョー》を録音したところで資金が尽きたチャンドラーは、著作印税のいらない自作曲をジミヘンに求めた]
この段階では、ヘンドリックスはまだレコード会社と契約していない。翌日、ヘンドリックスは《ストーン・フリー》を書き上げ、レコーディングする。(略)
[訪英中だったマイク・ネスミス(モンキーズ)談]
「ぼくはジョン・レノンと夕食をとっていた。エリック・クラプトンや数人のジョンの友人も同席していた。夕食も半ばに差しかかったころ、(略)[ジョンが持参のテープで《ヘイ・ジョー》をかけた]
ジョンは『おい、みんな、こいつを聴かなきゃダメだ』といった。ぼくたちは完全に言葉を失った。それは、誰もがやってみたいと思うような音楽だった。だが、それは誰にもできない音楽でもあった」
(略)
[同時期、ジョンが『僕の戦争』の撮影中、スペインで書いた、《ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー》レコーディング・セッション開始。]

『サージェント・ペパーズ』

[エプスタインは広がる解散説、人気の下降を食い止めようと強力な両A面シングルを求め]ジョージ・マーティンは、その時点で完成していた《ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー》と《ペニー・レイン》を差し出した。(略)
核となりうる二曲を「もがれた」かっこうになった未来のアルバムは、手元に《ホエン・アイム・シックスティフォー》という呑気な曲だけが残り、いわば空洞ができた。以後の作業は、その空洞を埋めることにあてられる。しかも両A面で華々しく発売された《ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー》と《ペニー・レイン》は、ともにヒット・チャートの首位に立つことができず、エプスタインの憂鬱の種を増やすだけに終わった。(略)ジョージ・マーティンは(略)B面に《ホエン・アイム・シックスティフォー》を収録すべきだったと、反省の弁を述べている。
 未来のアルバム、すなわち『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は、空洞を新たな曲で補完し、さらに種々の効果音でそれらを連結させ、あらゆる空間を音で埋め尽くすことによって完成した。
(略)
[シングルにした二曲をアルバムに入れなかったこと「痛恨の極み」と表現したジョージ・マーティン]
同様の発言は、ジョンも残している。「要するに『サージェント・ペパーズ』というアルバムは、曲をつなげて入れただけのものだ。あのときは面白いアイデアだったけど、いまじゃ何の意味もない。《ア・デイ・イン・ザ・ライフ》は好きな曲だけど、それでもやってるときは、あの二倍くらいいい曲だと思っていたよ。曲を全部つなげるっていうコンセプト以外、あのアルバムにどんな音楽的意味があるっていうんだい?」
(略)
[『ペパーズ』制作終盤の67年4月、ポールは単独で短期訪米]
ポールにしてみれば、『サージェント・ペパーズ』は完成したも同然だったのだろう、その日(四月三日)はジョージが書いた《ウイズイン・ユー・ウイズアウト・ユー》のセッションが行なわれていたが、アメリカに向けて飛び立つ。(略)
アメリカに着いたポールは、サンフランシスコの「フィルモア」でジェファーソン・エアプレインを聴き、彼らが共同生活を送っていたアパートに出向き、ジャム・セッションに興じた。ロサンゼルスでは、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウイルソンと会い、折から行なわれていたレコーディングの一部に参加した。翌日には、ブライアンを連れて、ママス&パパスのジョンとミッシェル・フィリップス夫妻宅を訪れ、セッションをくり広げた。
(略)
[デレク・テイラーと再会し、モンタレー・ポップフェスの企画に巻き込まれる]
なおデレク・テイラーは、記者時代にブライアン・エプスタインの自伝『ア・セラーフル・オブ・ノイズ』のゴーストライターをつとめたのら、ビートルズの広報担当として雇用され、当時は西海岸に移り、ビーチ・ボーイズやバーズの広報として活動していた。ブライアン・ウイルソンに「天才」というフレーズを冠し、時代遅れになりつつあったビーチ・ボーイズと切り離し、ブライアン個人を「生ける伝説」として神格化することに成功した。(略)
[ビートルズの出演を断った代わりに実行委員となり]
ポール自らフェスティヴァル用のポスターを描くことに同意する。さらに出演者にジミ・ヘンドリックスを強く推薦する。ヘンドリックスの凱旋ライヴは、こうして用意された。
(略)
[帰国時の機内で『マジカル・ミステリー・ツアー』のアイデアがひらめく]
4月21日、ポールが帰国したことによって久々にスタジオに集まったビートルズは、最後の仕上げとして、奇妙な音とでたらめの会話を録音する。これによって、長く「制作中」の状態にあったアルバムが完成する。ビートルズが最後に吹き込んだ騒音もしくは効果音は、《ア・デイ・イン・ザ・ライフ》が終わってしばらく時間が経過したあとに、犬にしか聞こえないとされる高周波音とともに収録された。
[『ペパーズ』発売三日後、ジミヘンの「最後のイギリス公演」にジョンとポールが行くと、オープンニングはなんと『ペパーズ』タイトル曲]
(略)
[『ペパーズ』発売二週間後のモンタレー・ポップ・フェスティヴァルで英米ロックは融合]
さらにオーティス・レディングやルー・ロウルズといった黒人歌手を若い白人層に紹介する役割を果たした。

『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(68年)

ロック史では、このディランとホークスのセッションを称して「アメリカン・ルーツ・ミュージックの探求」と過大に評価される傾向にあるが、ディランもホークスも知っている曲を次から次に歌い演奏していったにすぎない。
(略)
はたしてウッドストックの片田舎とロンドンはいかに結びつくのか。そのためにはホークスがザ・バンドとなり、デビュー・アルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を発表する必要があった。
(略)
[ロジャー・ウォーターズ2008年談]
[『ペパーズ』]以後のロックの歴史において最も影響力をもったレコードだった。私はあのレコードによって大きく変えられた。そしてピンク・フロイドは、さらに深い表現を目指すようになった」
(略)
タイトルと、前述したような数々の伝説によって、ウエスト・ソーガティーズのピンクの家の地下室で吹き込まれたような印象を与えるが、実際にはニューヨークとロサンゼルスのスタジオで吹き込まれた。ただしセッションは、それまでの自由で気ままな環境を思えば、不自由かつ不満の残るものだった。(略)
五人はスタジオの中央に車座になって歌い演奏することを望んだ。それが彼らのやり方であり、地下室ではそうしていた。しかしエンジニアは「非常識」と、決められた位置で演奏することを求める。(略)
最終的にはエンジニアが折れるかたちでセッションは続行された。ただしエンジニアは「音質に関して責任はもてない」と釘を刺した。しかしこれが逆効果として奏功する。広いスタジオの中央に寄り添うように集まって演奏したために独特の自然なエコーが生まれ、それが演奏に予想をはるかに超える幻想美を付加することにつながった。もっとも当事者たるメンバーの意見は分かれる。ロビー・ロバートソンは「革命的なサウンド」と肯定しているが、ガース・ハドソンは「あまり聴き返したくないサウンド」と否定的な立場をとっている。
(略)
アセテート盤をウッドストックに持ち帰る。最初に聴いた人物がディランだった。ロビー・ロバートソンは、全曲を聴き終えたディランが呆然としていたことを記憶している。「自分がいないにもかかわらず、私たちが独力で成し遂げたことの大きさに驚き、ショックを受けた様子だった」
(略)
一説では、ジョージ・ハリスンの《オール・シングス・マスト・パス》は、《ザ・ウェイト》の影響から生まれた曲とされる。(略)
ブリティッシュ・ロックに与えた影響は、しかしそれだけではなかった。特定の楽曲に顕在化するような表面的なものでもなかった。前述したように、それは地殻変動と呼ぶにふさわしい。ザ・バンドの音楽と視点は、『サージェント・ペパーズ』以後の極彩色にあふれ、時計の針が「まどろみの時」を刻みつづけ、ドラッグでトリップすることに忙しいイギリスのミュージシャンたちに、ウッドストックの朝がやってきたことを告げた。
(略)
[《怒りの涙》は]ザ・バンドと彼らの音楽に対する「誤読」に基づくアメリカ南部の音楽でも、いわゆるルーツ・ミュージックでもなかった。架空の土地で奏でられる幻想の音楽であり、それは架空であるがゆえに誰にとっても故郷になりえた。そしてその幻想性は、前述したジョージ・ハリスンエリック・クラプトンをはじめとするイギリスのミュージシャンを惹きつけ、新たな方向へと導く役割を果たした。彼らイギリスのミュージシャンは、アメリカ音楽やブルースの向こう側に、自分たちが共鳴し共有しうる世界を見出した。
 もっともザ・バンドの奇妙な音楽が(ヘンとは気づかれずに)抵抗なく受け入れられた背景には、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の約半年前に登場した、ボブ・ディランの『ジョン・ウェズリー・ハーディング』の存在があった。そのアルバムは、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に象徴される極彩色の世界観に対し、「もうレコーディング・スタジオで遊ぶのはやめよう」と諭し、やさしい声で「庭に出て遊ぼうよ」と誘っているようなものだった。それはたしかに「現実」、ではあったが、どこか浮世離れしていた。
 ザ・バンドはディランの頭のなかを覗き込み、その浮世離れした感覚をさらに先鋭化させ、より音楽的に表現しようとした。
(略)
[『ペパーズ』の半年後に発売された『ジョン・ウェズリー・ハーディング』]
ディランが提示したカントリー・ロックは、新しいアメリカのロックとして、いまだサイケデリックな熱に浮かされていたイギリスのミュージシャンに「目覚め」を促す。くり返せば、だからこそ『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』は、安眠を妨害するものではなく、サイケデリックな白昼夢のつづきとしてイギリス人に受け入られた。
(略)
ディランの新作は、レコード会社にとって、レコードが最も売れるクリスマス前に発売する必要性が認められない類の「愚作」だった。いまさらカントリー・ミュージックを演奏して何になるというのか。カウボーイの時代は、ジョン・ウェインとともに終わった。「ジョン・ウェズリー・ハーディングは貧者の味方」ってどういう意味なんだ?
(略)
[翌68年]バーズが『ロデオの恋人』を発表、カントリー・ロックの波は、それがきわめてアメリカ的な音楽だったがゆえに、イギリス人ミュージシャンには「次代のロック」として認識され、新しい価値観とともに受け入れられた。

ジョン・ウェズリー・ハーディング

ジョン・ウェズリー・ハーディング

 

旧世代クラプトン

[ZEP出現で旧世代にカテゴライズされたクラプトン]以下の発言は、旧世代の心情を素直に吐露したものに聞こえる。
レッド・ツェッペリンは好みではなかった。とくに高音と、ものすごく速いテンポのヴォーカルにはついていけなかった。よくクリームと比較されたが、少なくとも私にはロバート・プラントのようなパワーはなかった。私がザ・バンドに傾倒していった理由も、たぶんそういうところにあったのだろう」

ワイト島

ジョンとリンゴが着いた日の午後から夜にかけて、居合わせたミュージシャンを中心にした気ままなジャム・セッションが始まる。ディラン、ジョン、ジョージ、リンゴに加えてエリック・クラプトンジンジャー・ベイカーが参加した。またキース・リチャーズチャーリー・ワッツ等も加わったとする説や、ジョージが持参した『アビー・ロード』のアセテート盤を全員で聴いたとする証言も残されている。彼らの多くは、フェスティヴァルに出演するためではなく、ただディランとザ・バンドを聴くためだけにワイト島にやってきた、「ただのファン」にすぎなかった。ディランが無意識とはいえ結果的に指し示した方向性と、ザ・バンドが結果的につくってしまった「ヘンなレコード」は、ジョン・レノンジョージ・ハリスンをはじめ、レッド・ツェッペリンによって旧世代に追いやられたミュージシャンにとって、一筋の光明に匹敵した。
ディランとザ・バンドは、三日間にわたって行なわれたフェスティヴァルの最終日に登場した。客席には、ビートルズの二人とローリング・ストーンズのメンバーをはじめ、何人もの主要なミュージシャンの顔があった。ディランとザ・バンドのワイト島出演は、フェリーニの映画のような幻想的ともいえる舞台裏も含め、イギリスとアメリカの代表的なミュージシャンが一堂に会した歴史的な場として記録されるべきだろう。この宗教的儀式のような集会は、イギリス人がアメリカ人に飲み込まれ、ひいては「ブリティッシュ・ロック」という、そこにあったはずの概念や世界が崩壊したことを意味している。それはイギリス人ミュージシャンのアメリカ化として捉えることもできる。とはいえ「アメリカン・ロック」がそれに取って代わったということではない。ロックは国境を越え、人種を越え、統合の時代を迎えようとしていた。その中心にいたのが、ビートルズを含めたイギリスのグループ/ミュージシャンではなく、ボブ・ディランであり、そのディランとはまったく別種の影響力を秘めていたザ・バンドだった。やがて事態は、ジョージ・ハリスンエリック・クラプトン、そしてデイヴ・メイソン(元トラフィック)がアメリカのグループ、デラニー&ボニー&フレンズに一メンバーとして参加するという異例の局面を迎える。

レオン・ラッセル

ロックの正史におけるレオン・ラッセルの立場は、ほとんど無に等しい。しかし60年代末期から70年代初頭にかけて、レオン・ラッセルは「統合の時代」の触媒・媒介者そして架け橋として重要な役割を果たした。
 発端は、ビートルズアメリカに上陸した64年、ラッセルがノース・ハリウッド、スカイヒル・ドライブの自宅内につくったスタジオだった。(略)数年後には、デラニー&ボニー、JJケイル、ジム・ケルトナージェシエド・デイヴィス、ジム・プライス、グラム・パーソンズといった、ロサンゼルスに活動拠点を置くミュージシャンの溜まり場となっていく。(略)ボニー・ブラムレットは、「レオンはグールー(導師)だった」と語り、グールーの隣りには常に女神然としたリタ・クーリッジがいた。
(略)
ラニー&ボニーはたしかに黒っぽくソウルフルではあったが、当然のことながら、黒人音楽とは一線を画し、あえて名づけるとすれば「ホワイト・ブルース」と呼びうるものだった。そしてそれはエリック・クラプトンローリング・ストーンズ等、ブルースに傾倒した体験をもつイギリスのミュージシャンが追い求め、いまだ手中にしていない、いやできなかった表現法であり領域だった。
(略)
[グラム・パーソンズに連れられてライヴを観て衝撃を受けたジョージが私的にライヴを録音、クラプトンに聴かせると、ジョージ以上に衝撃を受け、ブラインド・フェイスの全米ツアー前座にデラニー&ボニー&フレンズを抜擢]

著作権ビジネス・ロック産業

ポール・マッカートニーは、音楽とは空中に浮かんでいるものであり、それは誰がつくったとしても「みんなのもの」と思い込んでいた。ミック・ジャガーキース・リチャーズは当初、曲を「つくるもの」というふうには認識していなかった。曲とは「そこにあるもの」で、自分たちは「それ」を歌い演奏するものだと思い疑わなかった。
 アメリカの田舎で青春時代を過ごしたボブ・ディランは、いま少し彼らより思慮深かったが、曲とは自分で書くものではなく誰かが書いた曲を盗むもの、あるいは「盗んでもいいもの」との開かれた認識を抱いていた。ディランが知っていたフォークやブルース、カントリーといった分野の伝承曲の大半は、そのようにして歌い継がれ、これからも歌い継がれていくはずのものだった。
(略)
 しかしロックは、ポップ・ミュージックは歴史になった。「みんなのもの」だった曲は「誰かのもの」となり、彼らが書いた曲は即座に大金を生み、しかもそれは半永久的に富をもたらす。

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