ターミナルから荒れ地へ 「アメリカ」なき時代のアメリカ文学

 「国際線ターミナル」にて

 飛行機による攻撃を受けて以降、合衆国は愛国的感情に突き動かされるようにして、対テロ戦争に足を踏み入れていく。(略)
 そんな国家の歩みに、アメリカの文学はどう応答しているだろうか。(略)
高度二千メートルから三千メートルの間で、僕たちは街の上空を旋回し続けてきた。僕たちの計算では、もう二十年ほどになるはずだ。
 マヌエル・ゴンザレスというこの作家が二〇〇五年に発表した短篇「操縦士、副操縦士、作家」(短篇集『ミニチュアの妻』所収)では、テキサス州にあるダラス=フォートワース空港を離陸してすぐに飛行機がハイジャックされる。(略)
 しかし、ゴンザレスの短篇では何も起きない。何しろ、操縦士はどこにも飛行機を向かわせず、ひたすらダラスの上空を旋回しているだけなのだ。操縦士は妙に陽気で、「俺は一方向にしか操縦できないんだよ」と冗談を飛ばす始末。じゃあそのうち燃料切れになって着陸するのではないか?と思いきや、何でも「氷久燃料」なるものによって好きなだけ飛んでいられるらしい。(略)
[食料については]飛行機に積まれているシロップ状の謎の液体を少し飲むだけで、食べ物がなくても問題ない状態が維持されるのだ。かくして、飛行機はダラスの空をぐるぐる巡ること二〇年、今ではすっかりおなじみの風景になっている……。こうして、ハイジャックの衝撃はやがて日常に、そして諦念に変わっていく。

ミニチュアの妻 (エクス・リブリス)

ミニチュアの妻 (エクス・リブリス)

 

僕たちの「グローバル化」した日常は、次第に無国籍化し、つまりは国際線のターミナルのような風景が空港の外に広がりつつある。
 何よりも重要であるのは、そこには人はほとんど留まらず、誰もが移動しているということだ。(略)
誰かに「居場所」を与えるところではない。「私は誰なのか」という問いは、空港ではほとんど何の意味も持たない。「私はどこへ行く予定か」こそが、空港内部での人間の存在意義である。
 そんな現代の状況をぴたりと言い当てる文章が、現代ポーランドの小説家によって書かれている。オルガ・トカルチュクの『逃亡派』は、断片的な語りが現れては消える、不思議な構成の作品である。(略)
トカルチュクは「ターミナル化する世界」をこう言い表している。
かつて、空港は街のはずれにあった。街を補完する駅みたいなものとして。でもそれも昔の話。いまや空港は、唯一無二の場所となった。きっとそのうち街のほうが、働く場所やベッドを提供する、空港の付属物と呼ばれるようになるだろう。だってじっさいの生活は、移動そのものなのだから。
 人々がいつもどこかへ移動している世界では、動かない家が集まった都市(略)よりも、空港という移動のための空間のほうがはるかに重要になっている。トカルチュクはこうして、定住が日常であって移動は非日常であるという関係を反転させてみせる。そして、住民が定住していることを前提とした国家に代わって、空港という場所は新しい都市、さらには国になっていく。「所在地は変わらなくても、移動する住民をかかえた、街や国家の特別なカテゴリー」なのだとトカルチュクは言い、そこを「空港共和国、世界空港共同体の一員」と名付けている。その国家では、搭乗券が身元証明になる。
 僕は今どこにいて、何をしようとしているのか?空港でそのことを教えてくれるのは、パスポートでも住民票でもなく、搭乗券である。
(略)
トカルチュクにならって言えば、アメリカ文学は、今世紀に入って一気に「ターミナル化」しつつある。
(略)
二一世紀に入ってアメリカでデビューした作家たちは、合衆国に密着するというよりは、無国籍な雰囲気を漂わせる設定で、ポップな幻想に満ちた寓話を作り出している。(略)
そう、彼らにとっての重要な先駆者の一人は、ハルキ・ムラカミなのだ。国際線ターミナルの書店に行けば、必ずといっていいほどハルキ・ムラカミの小説があるのは偶然ではない。 

逃亡派 (EXLIBRIS)

逃亡派 (EXLIBRIS)

 

彼らと僕のベスト3

現代のアメリカ作家たちにとってのインスピレーションとなっている作家を[著者が三人あげるとすれば]
1.フランツ・カフカ
(略)ポール・オースターからもう一世代若いアメリカの作家たちになると、カフカは多彩な影をあちこちに投げかけている。
 カレン・ラッセルの短篇「帝国のための糸繰り」に、カフカの『変身』などの作品が大きなインスピレーションを与えていることは明らかだろう。また、『城』で描かれるような曖昧な組織と個人の生活との関係は、その現代版として、モス・フリードの短篇「フロスト・マウンテン・ピクニックの虐殺」を生み出してもいる。毎年多数の死傷者を出しながら、結局は街の住民たちが必ず参加してしまう地域イベント「フロスト・マウンテン・ピクニック」は、住民たちがどれほど奔走しても全貌がつかめないままなのだ。どこに着地するのかわからない寓話性、個人の置かれた状況の不条理さ、といったカフカ的なモチーフは、現代作家たちにとっていまだに大きなインスピレーションの源であり続けている。
 実存なり世界の不条理なりといったカフカ的な主題を、オースターは正統的に継承していると言えるかもしれない。
(略)
 世界におけるみずからの位置のちっぽけさ、惨めさを嘆くのではなく、フリードに見られるように、ブラックユーモアに転化して「自分たちの不条理を笑う」という感性は、特に現代作家たちに共通する特徴かもしれない。二一世紀のアメリカ作家たちにとっては、「笑えるカフカ」という側面が重要になっていくのではないか、という気がする。
2.イタロ・カルヴィーノ(略)
 二一世紀のアメリカ作家たちにとっては、モンゴル帝国全盛期にフビライ汗のもとを訪れたマルコ・ポーロが架空の都市を次々に語っていくという『見えない都市』の存在感が大きいようである。「微小生物集」を書いたセス・フリードのように、架空の微小生物を列挙するという発想(略)
ケヴィン・ブロックマイヤーの『終わりの街の終わり』の冒頭に登場する死者たちの街、ポール・ラファージの『失踪者たちの画家』のプロローグで、死者が旅をしてやってくる幻想の街など、『見えない都市』なしには書かれなかっただろうと思わせる小説は数多い。(略)
3.村上春樹
 どこかポップな奇想という点では、この作家の影響力も外せない。事実、アメリカの若手小説家たちは、ハルキ・ムラカミの英訳が出るたびに我先にと読んでいる節があるのだ。二〇一〇年にロサンゼルスで僕を迎えてくれたサルバドール・プラセンシアは、『走ることについて語るときに僕の語ること』を発売されてすぐに読んだと言っていた。
 アメリカ文学における「ハルキ・チルドレン」としては、まだ邦訳が出ていない作家ではあるが、一九八〇年生まれの作家シェーン・ジョーンズが挙げられる。長篇第三作『ダニエル、ハリケーンと闘う』は、二〇〇五年に合衆国を襲ったハリケーンカトリーナ」を意識して書かれている。ハリケーンと闘おうとするダニエルという若者を描く小説だが、ハリケーンは現実ではなく心象風景のなかで象徴化されたものになっており、どう見ても村上春樹阪神・淡路大震災をテーマにした短篇集『神の子どもたちはみな踊る』のアメリカ版という色彩が濃い。ほかにも、都甲幸治から教えてもらった情報として、リヴカ・ガルチェンという作家の小説に「星マークのついた羊を探してアルゼンチンに行く」という話が出てくるという……。
(略)
ポケットサイズの象がペットとして人気である(ジョー・メノ)とか、近所の幼なじみがユニコーンをペットにしている(マヌエル・ゴンザレス)、といったポップな奇想が急増しているのが、アメリカ文学の今の姿である。

大いなる不満 (新潮クレスト・ブックス)

大いなる不満 (新潮クレスト・ブックス)

 

それは外からやってきた――新世紀の英語とその翻訳

原文の見事さをどれくらい「自然な」日本語に移し替えることができるのか、という課題は、僕に一生付きまとうことは間違いない。
 ところが、翻訳に際して、また別の課題を突きつけてくる文学がある。英語を母国語としない作家たちがアメリカに移り住み、英語で書いた小説である。
(略)
[76年メキシコに生まれ8歳でアメリカに移住したサルバドール・プラセンシアは]
学校では英語で教育を受け、教室から出れば友人たちとスペイン語で話をしていたという。
 やがて、一八歳のときに出会ったガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』に衝撃を受け、創作を志すようになった彼は、ニューヨーク州シラキューズ大学の創作科で学ぶ。そのとき彼を指導した教師の一人に、「作家から見て最も『ブラック』な職業とは何か?」の章に登場してもらったジョージ・ソーンダーズがいる。こうして英語作家プラセンシアは着実に成長し(略)二〇〇五年にデビュー作『紙の民』を刊行した。
 本気なのか脱力しているのか、両者が入り混じった不思議な小説である。メキシコで妻と娘とともに暮らしている農家のフェデリコ・デ・ラ・フェ。彼はおねしょが止まらないという悩みを抱えており、ついに妻が家から出て行ってしまう。傷心のフェデリコは娘を連れてアメリカ合衆国に移民し、ロサンゼルス郊外の町で働き始める。しかし、そうしたドラマを生きるなかでも、彼はずっと妙な気配を感じていた。誰かが自分の人生を見下ろし、操っている気がするのだ。アメリカで、フェデリコはその「誰か」の正体をついに知る。空に浮かぶ土星である。土星にコントロールされている自分たちの人生を奪還せねばならない。そうして、フェデリコ率いるギャングたちと、土星との奇妙な戦争が暮を開ける。
(略)
スペイン語に翻訳してメキシコで刊行したい、と提案されたプラセンシアは、もちろん快諾した。ところが彼は、翻訳にあたって妙な条件を一つ出した。翻訳者はメキシコ人ではなく、スペイン人にしてほしい、と。しかし、なぜスペイン人なのか?
 メキシコ人が翻訳すれば、プロレスから民間療法の薬草店までメキシコ文化があちこちにちりばめられた小説の細部は「あまりに自然に」訳されてしまう、それは嫌だった、とプラセンシアは語っている。小説には異物感を残しておきたい、そのためにはメキシコ文化にそれほど明るくないスペイン人が翻訳するべきなのだ。そうすれば、スペイン語版にも「ずれ」が生まれる。
 つまり、彼には執筆言語である英語や、あるいは母国語であるスペイン語が物語にとっての安住の地であるという感覚はない。『紙の民』は英語でもスペイン語でもどの言語においても異物として読まれるべきなのだ。その小説はどの文化からも少しはみ出した場所にある。翻訳をめぐるプラセンシアのエピソードからは、そんな創作への姿勢が見えてくる。

紙の民

紙の民

 

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