翻訳教室-村上春樹

翻訳教室に村上春樹が登場したとこだけを。

翻訳教室

翻訳教室

「ニホン語、話せますか?」(id:kingfish:20040522)での指摘に答える春樹。

村上 そうか、「きみ」ですね。「きみ」って訳したんです。僕もずいぶん迷ったんだけど、それについてもいろいろ批判がありました。訳しすぎだというんです。あれは実体のない「you」だから訳すべきではないと。僕の作品を翻訳してくれているジェイ・ルービンも同じ意見で、アメリカ人にはやはりそういう意見の人が多いようですね。でも、僕はそうは思わない。アメリカ人は「you」は実体のない「you」だと言っているけど、実体は本当はあるんですよ。あるけれど彼らが気づいてないだけじゃないかと、僕は思うんです。架空の「you」は彼らの頭の中には存在しない。でも存在しているんです。日本人である僕らが見るとそれが存在しているのがわかる。でも彼らにしてみれば、もうDNAに刷り込まれているからわからない。だから僕らが日本語に訳すときは、ちょうど中間ぐらいの感覚で訳さなければいけないんだけど、中間というのは難しい。だから僕としては、二回「you」を使う部分があれば、一回はなし、一回はありでいこうと決めている。でもそのへんの理解のしようは、アメリカ人にはわからないだろうな、たしかに。だから、これは僕は何度も言っていることだけど、翻訳というのはネイティブに訊けばわかるというものではないんです。

アメリカン・サイコ』のブレット・イーストン・エリス人物評
「あの人はおもしろいですよ」「危ない人です」「どうしてあの人の書く小説が壊れているかというと本人が壊れているからですよ」

村上 あんまり人のことを壊れてるなんて言うのも問題があるんだけど、たとえばエリスは、小説でブランドネームをいっぱい出してきますよね。それから洋服の描写とか食べ物の描写がやたら詳しいし、繰り返しがしつこい。そういうのって普通、悪文なんですよね。だからそれを悪文ととるか、たとえばジェームズ・ジョイスみたいな意識的な解体ととるかというのはものすごく難しいところなんです。エリスの場合は悪文のほうに近いんじゃないか……(笑)。(略)
意識的な解体じゃないですよね。あの人の神経そのものが、ブランド名の羅列とか繰り返しとかに行ってしまう人なんでしょう。でも、ジョイスだってひょっとしてそうだったかもしれない。それは僕にはよくわからない。ただ僕は、エリスは身体を張って書いてる人だなと思ったわけ。(略)
僕はエリスって好きなんだけど、みんなだいたい悪く言うんですよ。でもエリスが好きなのは、あの人の文章を読んでいて、ひどい文章だけど何か本当のものがあるという風に感じるわけ。で、本人に会ってみると、そういう風にしか書けないというところで書いているというのがわかった。だから僕があの人を壊れてると言うのはそういう意味なんです。神経系が、文章の神経系と同じ神経系なんですよ。軽薄、浅薄なわけ。 shallowなの、作品も本人も。これはいい意味で言ってるんですけどね。

忘れえぬ人

忘れえぬ人

'63紅白涙合戦(婦人画報掲載)
1963年の出来事にコメントをつける企画なのだが、コメントより出来事の方に驚いて
美智子妃をパパラッチ

昨年葉山海岸を水着で憩う美智子妃の盗みどり写真が女性週刊誌のグラビアを飾ったこともある。この写真はたいへん問題になり、日本雑誌協会に対して、宮内庁から強硬な申し入れがあった。
しかし、その種の雑誌は、手入れをうけた全裸ストリップなみに、ほとぼりがさめるのを狙って、またぞろ同じことをくりかえしている。

堤清二店長号泣

八月二十二日、西武百貨店が火事を出した。[お詫びセールに客が殺到、45分で閉店。](略)
まず、出火の翌日、実地検証が行なわれ、七人目の死者が発見された。二十二日から一睡もせずに陣頭指揮に当った堤店長は、途端にがっくり首をうなだれた。しかし、未曾有の火事騒ぎに、涙など流している余裕はなかったのである。
彼が本心から声をあげて泣いたのは、その夜、店で行なわれた通夜の席であった。彼は死者に対する哀悼と痛恨に、男の涙を流した。
二十四日のお詫びセールには五万人の客がつめかけた。シームレス・ストッキング三十円、下着五十円。その「奉仕ぶり」をテレビが聴視者に知らせた。
店内は大混乱におちいった。

67年朝日夕刊掲載。お題は「ミレイユ・ダルクとツイッギーについて何か書け」。
67年のプチカリスマ定義

私は、現代の英雄とか現代の人気者とかいうのは、女性週刊誌や男性週刊誌の人気者なのであって、それは、つまり十六、七歳から、せいぜい二十二歳まで、それも東京を中心にしていえば、関東近県の中小都市における人気者なのだと考えている。それは「マスコミに弱い頭」であり「マスコミによわい年齢」である。私だってそうだった。

ミレイユ・ダルクを酷評

[まずブスだと酷評。]
無軌道をよそおっているけれど、なにやらモノホシゲな女である。
野暮なことを言うようだが、すべては生活の「根」がないことに発している。片方に、まっとうな暮しがないから、目つきがさもしくなるのである。根なし草だから、女のあわれがない。
誤解されるといけないのでつけ加えるが、私は、女は体を売って暮したとしても、それはまっとうな暮しであると考えている。この映画のように商人をごまかしたり、金持に媚を売って暮している若い女を見るとヘドが出る。
原宿族とか新宿フーテン族とかを支えているものは、こういう映画の設定であり、こういう女の美化によるものだと思われる。
ツイッギーとは何か。あれは、アメリカと去年の日本の少女の間で「爆発的に」流行した着せかえ人形である。たまたま、だれかがそういう奇形児を発見したのである。