アメリカ小説を読んでみよう 植草甚一

今こう評価されてるアレが当時はこうだったんだなというとこが味わいポイント。
この本の最後の方に1970年『ユリイカ』掲載の佐伯彰一丸谷才一との鼎談が収録されていて、そこでの、佐伯「正統的な小説といえば、ごく自然にまずイギリス小説ということが来るわけで」や、丸谷「率直に言えば、アメリカ小説は好きじゃない」という発言が当時の〈アメリカ小説〉に対する空気だったということふまえると、『アメリカ小説を読んでみよう』というタイトルの印象もだいぶ変わってくる。

ジョン・オハラの最近作を中心に

[引用者註:これだけ初出が1949年と他より10年以上古い]

[1ページ程度の引用があって]
 日本文にすると原文の味はすっかり飛んでしまうが、この書出しを読んだニューヨーカー誌の愛読者なら、作者の名を見なくてもジョン・オハラが書いているのだと必ず気がつくに違いない。また、それでなければ、この雑誌を読む資格はないのである。ニューヨーカー誌の特色の一つは、作者の名を標題の下に記さず、文章の結末に持って来ていることである。だから読むときには、最後のセンテンスを見ない限り作者が誰かは分らない。(略)
読者のほうでも、作者の名を見ずにS・J・ペレルマンとかジョン・チーヴァーとかフランク・サリヴァンとかウラジミール・ナボコフとかジョゼフ・ウェクスバーグとかが書いていることを、書出しの数行で判別するだけの鑑識力がなければならないのである。ジョン・オハラは、こういう意味で最もニューヨーカー式な作家の一人であり、独自なスタイルを身につけた作家であって、過去二十年ちかくのあいだ少数の例外をのぞき、もっぱらニューヨーカー誌上に短編を発表してきたのである。
(略)
[1ページ程度の引用があって]
 この何でもないような書きかたが、原文の場合だと誰にも真似ができないジョン・オハラ独自のものだと言われている。最近の彼の短編は概してこうした書きだしではじめられ、次いで登場人物の対話となり、それが、ぽっきりと終って最後の捨て科白に薄気味わるい暗示と余韻をのこすのである。とくに会話のやりとりがジョン・オハラ文学の生命となっていて、『じつに耳が鋭敏にはたらく』といわれているが、彼の場合は、なにげない会話がそのまま文字に移されているだけでなく、やがて無意識に放たれる言葉が、地の文では表現できない人間同士の感情のたかまりの或る醜い一瞬間を記録するまでに至っている。この点は外国語に移すことがほとんど不可能であろう。そして彼の短編がいままで諸外国に紹介されなかったのも理由はここにあるような気がするのである。とにかく彼の短編は最近にいたってますますこの傾向が強くなり、アメリカ風景のなかに人物を導入しようとする場合の作者の意図には、現代風俗にたいする観察の仕方とそれへの執着が病的にまでつのっていることが感じられるのである。
(略)
 また彼は「相棒」に出てくるマロイのようにハリウッドで脚色の仕事をしていた。最初はパラマウント撮影所(一九二四年頃)にいたが、ついでゴールドウィン・プロ(一九三七年頃)、RKO(一九三九年頃)、二十世紀フォックス(一九四〇年頃)と移った。ルイス・マイルストーン監督の「将軍暁に死す」には彼自身俳優として出演していたが、戦後私たちの見た映画ではマーク・ヘリンジャーが製作した二十世紀フォックス映画「夜霧の港」の科白担当が彼であった。
(略)
彼はルイス・ブロムフィールドやジェームズ・ヒルトンレイモンド・チャンドラーなどと同じく、原作の映画化に当たっていかに脚色者がプロデューサーの掣肘をうけるかをよく知っており、いかに原作が改変されるかを弁えているので、上記三者が妥協して原作を売っているのに、彼自身だけは自作が映画化されることを嫌っている。昨年あたりからユニヴァーサル社との間に「サマラの約束」の映画化の話があり、またワーナー社との間にも「バターフイールド8」の映画化の話があるが、なかなか彼は首を縦にふらないのである。(略)

テネシー・ウィリアムズのエピソードを二つか三つ

 きのうは日曜だったので一日ずうっと家にいてテネシー・ウィリアムズの研究書を読んでいました。
(略)
 テネシー・ウィリアムズって名前は、響きがよくっていいなあ。いつも漠然とこう考えていたんですけれど、本名はトマス・レーニア・ウィリアムズでしょう。(略)
一九三八年の秋、ウィリアムズが二十八歳だったとき(略)精神に異常をきたしていた姉のローズが、とうとう病院ゆきになったり、じぶんも劇作家としてさっぱり芽がでないといった暗い気持から、ニューオーリンズヘ、なにかを見つけに出かけたのでした。
 このころからウィリアムズに独自なデカダンスの世界がきずきあげられていったのでしょうね。ベンジャミン・ネルソンの本には、こう書いてあります。『ニューオーリンズにきた彼は、生活のため、アパートのおかみさんが経営している二十五セント均一の食堂でボーイをした。一日じゅう働きづめで、夜になって解放されると、アパートヘすぐ帰って芝居をすこしずつ書いたり、気がむかないときはニューオーリンズの町をぶらついた。そうするうちに、こんどはバーで時間をつぶしたり、安ホテルに泊ったりするようになり、つきあう連中も奇妙な性格の人たちや、世間から相手にされない人たちが多くなった。このようなタイプの人たちは、芝居の登場人物として空想したことはあったにしろ、直接なじんだことはなかったのである。ところがつきあううちに、ふつうの人間には感じられない親しみをあじわうようになった』テネシー自身も、こう告白しています、『ぼくはニューオーリンズで、やっと自由を発見した。ぼくのピュリタン的な生きかたは、この町でショックをうけ、このショックから、ぼくの芝居が生れるようになった』と。
 トマス・レーニアをテネシーと変えたのは、この当時であって、トマス・レーニアと発音すると《南部の上品な家庭の客間で紅茶のコップが割れたような音》を連想させるが、テネシーと発音すると《みなぎった力と早熟な演劇精神》を感じさせるから、とてもいい、というんですね。こうして二十八歳のときからテネシー・ウィリアムズとなりました。(略)

テネシー・ウィリアムズ雑談

 [1962年]一月のはじめにブロードウェイのロイヤル・シアターで、テネシー・ウィリアムズの新作「イグアナの夜」が初演されたときの話だけれど(略)
[幕があいた]とたんウーンとみんなきちゃったんだよ。それもそのはずだとおもうのは、ベティ・デイヴィスジー・パン姿でさ、ブラウスの前ボタンを全部はずして登場したからなんだが
(略)
「イグアナの夜」って芝居は、ちょうど映画のうまいカッティングのようにさ、たとえばワイラーの「噂の二人」で感心しちゃったように、人間的なものが絶えずピーン・ピーンとこっちへ伝わってくるんだ。嘘だとおもったら、二月号のエスカイア誌を古本屋でさがして読んでごらん。これに決定台本のまえの全文がはいっているから。そして、もうひとつピーンとくることは、いい芝居だなあ、とは思うけれど、日本の舞台ではとてもコナせないという弱みなんだよ。
(略)
 テネシー・ウィリアムズの芝居は当るねえ。また当ってるよ。だから台本が手にはいればパラパラとやりたくなるだろう。(略)
日本で遊んでアメリカヘ帰ったとき、オレも年とったから、こんどは大人になって喜劇を書こう。真面目な喜劇なんだ。もう出来かかっている。(略)題は「調整期間」とつけて置いた。ピリオド・オブ・アジャストメント。まあ悪くはない題だろ。こうテネシーはインタヴューのときに喋ったもんだった。
 ぼくは夜の十二時ころになって、オヤオヤこいつは!とチョイ愉快になって、しばらく読むのをやめたなあ。というのはだね、テネシーは、この芝居をどこでいつ考えたかという秘密を嗅ぎつけてしまったからなんだよ。いいかい、テネシーは東京へ来たとき、トルコ風呂のなかでアイデイアを浮かべ、どこかの待合へ泊ったけれど目的がはたせず、それは京都あたりかもしれないけれど、おまけに地震にあったりしてだね、そうした経験を、かたちを変えて料理しちゃったんだなあ。アメリカ人なんかに分かるもんか!

ワイセツ語だらけのノーマン・メイラーの新作

「なぜぼくらはベトナムヘ行くのか」の話といっしょにアメリカの青年と先輩とがやった「対話」をサカナにして

 ノーマン・メイラーの新作「なぜぼくらはベトナムヘ行くのか」から話をはじめたいので読みだしたのだが、まったく厄介な作品ときている。銀座のイエナ洋書店で、この本が目についたときは、安っぽい造本のうえに、カヴァー・デザインが下手クソなので、二千円ちかく出して買う気にはなれなかった。けれどアメリカで話題になっているし、どんな調子の文章なんだろうと、五分ばかり腰を落ちつけて読んでみると、ははあ、やっているな!という気がしてくる。さしずめヒプスター調だといっていいだろう。それで買ってしまった。
 そのときまた、こいつは!と思ったのには、たとえば「ファック」が一番いい例だが、四文字のワイセツ語だらけで出来あがっているような感じの文章だった。アメリカのワイセツ語には、日本のワイセツ語とは、ちがった響きかたと強さがあり、それがたくさん一緒につながって文章になると、いくら苦心したって日本語にはならない。
(略)
十年ほどまえだがメイラーは大統領選挙に出馬するつもりだったと「私自身のための広告」の序文で告白したものだ。その後あきらめたとみえるが、そのかわりに自分が書く小説が、ほかの作家の小説なんか、くらべものにならないくらい、読者に影響をあたえることになるだろう、と自己宣伝をやった。
 ところがどうだろう。「アメリカの夢」で読者に一杯食わした。なんという悪文だろう、これは!物語にしたってバカバカしい。メイラーは、わざと三文小説のつもりで書いたんだと、うそぶいているが、いくら彼の忠実なファンでも騙されはしなかっただろう。こんどの「ベトナム」は?ひとことでいえば、悪ふざけだ。
(略)
[「ニューヨーク・レヴュー」誌のデニス・ドノヒューの批評を紹介]
問題は、この穢らしい言葉でしゃべりまくっている〈ヴォイス〉の受けとりかたになってくる。(略)気をつけて聴いているうちに、それはアメリカに害毒を流している、あらゆるものにたいする攻撃の〈ヴォイス〉であり、だから穢らしい言葉づかいになってくるのだ。(略)
 D・Jは、しゃべりまくりながら『こうして狂気が社会現象の中心となって支配しているからには、その狂気には、かなりな強さの力があるにちがいない』というのである。メイラーにとっての問題は、この狂気に原因する社会的害毒を追い出して、狂気の力をエネルギーとすることにあった。「ベトナム」という小説は、力とエネルギーの譬え話なのである。まるでアンダーグラウンド・レコードでも聴いているように、荒っぽくって狂暴じみ、ワイセツ語だらけだが、しゃべっていることには積極的な一貫性があり、すこしも乱れていない。処女作「裸者と死者」いらい、もっとも力のこもった作品であって、彼にとっての再出発になるだろう。

  • ぼくの好きな50冊の小説

[64〜66年「図書新聞」連載をまとめたもの]
ドナルド・バーセルミー「カリガリ博士帰っておいで」

 最近ニューヨーカー誌が持ちあげている新人の短編集で、なにより題名がいいし、表紙の絵がまた面白いので、つい読みだしたところ、十四編のうち最初の六編が歯が立たないので驚いた。あとの八編は、ずうっと分かりやすくなる。つまり逆に読めば楽なのだが、むずかしい順に並べたところが、あとで奇妙な印象をのこすことにもなる。
 ドナルド・バーセルミーが短編を書きだしたのは四年前で本年三十二歳。もともとシュルレアリストなのだが、非条理の世界に入りこむようになり、そこからいかにもアメリカ的なアヴァン=ギャルド手法が生まれるようになった。
(略)
[内容紹介のあと]
共通していえることは、人間ってこんなにも弱々しい存在なのかという感じが、非条理なシチュエーションから、じつによく出てくることで、こうしたオリジナリティのよさは否定できない。

リチャード・チョピング「蝿」

 リチャード・チョピングはジェームズ・ボンド・シリーズのイギリス版にジャケット・デザインをかいて有名になった画家である。あの鉛筆による精密画は007号の新しい冒険を読みだそうとする者にとって不思議な魅力をまずあたえたものだが、この処女作は、こんなに汚ないものをよく描いたと思わせるような人間の孤独の精密画であって、ある朝の出勤時に始まっている。
 最初の光景は、獲物をさがしている一匹のハエがドブに棄てられた避妊サックを砥めだしたところだが、そこへ十一歳の少女と弟があらわれ、少女が小枝のさきでサックを拾いあげると弟の鼻っ先へと突きつける。弟はゴム風船だと思って膨らまそうとするが、それを少女は引ったくると、また小枝のさきにはめて振りまわし、ドブに沿って歩いてくる男や女たちに向かって『これは何なの?』とききはじめる。第一章は全部こんな描写なので驚いた。
 この男や女たちはドブのそばにある会社に勤めているのだが、何の会社だかは分からない。課長らしい中年すぎの男がいて、最後には自殺してしまうのだが、棄ててあったサックに結び目があるのを見て、なんで結んだのかと考えはじめる。この男は一番きれいな女事務員に惚れていて、なんとかしてモノにしたいと思いながらラヴレターを書いているのだが、それを渡す勇気がなかなか出てこない。女事務員のほうは若い男と仲よくなり、会社の便所で彼を満足させようとしたとき心臓発作に襲われて死んでしまう。翌朝その死体を発見した雑役婦は、地下室にはこぶと暖房カマドで焼却した。
 焼却した動機は、この雑役婦が若い男の秘密の日記を読み、まだ女を知らない彼が空想を逞しくして書いた情事の場面に刺激されたからである。こうして男を自分のものにしようとするが、やがて相手は気が狂っていく。
 会話はほとんどコクニー訛りであり、おそろしいほどのスロー・テンポで書いてあるから、らくには読めない。だがイギリスの批評家も言うように、ハエがいつも飛んでいる腐敗状態の克明な描写は、たしかに類例がないものだった。

トンマーゾ・ランドルフィゴーゴリの妻」

 ゴーゴリの伝記作家がいて、頭がシビれるような話をはじめる。いったいゴーゴリには妻がいたのか?(略)じつは精巧な等身大ゴム人形を可愛がっていたのだという前置きをして、どんなエロ小説もかなわないようなフェティシズムの世界へと誘いこんでいく。
(略)
 ある詩人が告白をはじめる。よく知らない外国語で表現したほうが、面白い詩が出来るだろうと考えた彼は、知り合った船長から一年がかりでペルシア語を教わり、三編の詩を物した。ところがあとでペルシア語の本を取り寄せたところ一語も解読できない。でたらめな架空言語を教わったのだった。
 夜中に檻から抜け出して教会の聖パンを盗みにいくサルの話になったときだが、サルが聖壇に小便を引っかけ、檻に戻ると器用な手つきでカンヌキをおろし、おまけにタヌキ寝入りをするあたり、どんな恐怖小説にもないようなコワサを味わった。全部で九編あるが、まったく素晴らしい。

ジョン・オハラ「でっかい笑い」

 ジョン・オハラの作品は短編ひとつ訳されたことがなかった。それもふしぎではない。訳者泣かせの条件が、ことごとく揃っているのがオハラの書きっぷりだし、日本の読者に受ける要素にしても、ほとんどないものと考えられてきたからである。
 こんどやっと処女作「サマラで会おう」が訳されることを知ったが、こうなったらいっそのこと短編をひっくるめ年代順に全作品を紹介していったらどうだろう。こんなに面白い味の作家がアメリカにいるのかと、オハラを知らなかった読者は驚くにちがいない。そしてオハラ・ファンが生まれてくるのは絶対だが、彼のファンになったのに気がついたときは、とりもなおさずアメリカ文学が非常によく分かったということになるのだ。
(略)
オハラが他人とちがうのは、まるで私室に隠されたテープ・レコーダーのような耳を持ってることで、彼が得意とする〈ヒール〉(げす野郎)の世界を、こうした生きた会話をとおして描いたのが、スコット・フィッツジェラルドヘミングウェイの影響として注目の的になったのだった。(略)

スーザン・ソンタグ「恩恵者」

 ニューヨークで生まれたスーザン・ソンタグは、英仏に留学して哲学を専攻し、現在はコロムビア大学の哲学講師であるが、最近は「パーティザン・レヴュー」誌でジュネの書評やアンチ・テアトルの劇評などをしているのが目立ち、去る一月に評論集「反解釈」を出した。写真で見ると、まだ若い女性だが、処女作として話題になった「恩恵者」を読んでみると、いかにも評論家らしいものを感じさせる。だが、フランス十九世紀小説の文体を使ったり、ゴーチェの「マドモアゼル・ド・モーパン」を思い浮かばせるあたり、ただの女ではなさそうだ。(略)
[以下内容紹介]

カート・ヴォネガット・ジュニア

「神はローズウォーター氏を祝福する、あるいは豚に真珠」

 ヴォネガットという変な名前のアメリカ作家は(略)週刊誌向き短編をやたらと書きまくってきたので、ともすると二流あつかいにされがちだったが最近になって評価がガラリと変り、グレアム・グリーンコンラッド・エイキンあたりが最も面白いアメリカ作家の一人だといいだした。それを証明するのが、この「ローズウォーター氏」である。
 彼の長編は初版本の古本値段があがりだしている「プレイヤー・ピアノ」ほか「タイタンの妖女」「猫のゆりかご」など普通のSFだと勘ちがいされたアメリカ文明のサタイアだった。「プレイヤー・ピアノ」なんか読みにくいからサタイアだということはアメリカ人にも分からなかったらしい。
 それが「ローズウォーター氏」ではブラック・ユーモアとなり、イヨネスコとは違う純アメリカ的な非条理の世界に入りこむことになった。(略)
[内容紹介があって]
 この種の作品ではテリー・サザーンの「怪船マジック・クリスチャン号」が面白かったが、それを上回ることになったのは、アブストラクトなものによる感動という新しいものがあるからだろう。こんなにもオリジナルな作家がアメリカには隠れていたのだ。

次回に続く。