ぼくたちにはミンガスが必要なんだ・その2

前回の続き。

ミンガスのファイヴ・スポット事件について

 さてこれからドーア=ドリネックの記事を読んでみることにするが、彼女はミンガスの親しい仲間の一人だった。彼女はつぎのように語りだす。(略)
仕事ぐちのことから説明すると、グリニッチ・ヴィレッジにミンガスのためなら死ぬまで勝手に使っていいというクラブがあり、オーナーはそういう条件で二年前に契約書をつくった。ところが昨年二月に、この契約が一方的に破棄されたのであって、調べてみると警察の横ヤリだったのである。その理由はミンガスのような黒人グループがいつも出演していると、そのクラブには黒人の客がふえるようになって白人の客がいやがるからというのだった。
(略)
仕方なしにミンガス・グループだけで客は大勢くるというのに、二流クラスの白人グループをあいだに挟むというポリシーをとるようになった。
(略)
ステージで演奏をはじめたところ客がうるさくてしようがない。(略)ついにミンガスは我慢しきれなくなった。それでべースから手をはなすとマイクを引きよせて、つぎのような長い演説をブッたのである。
 きみたち、ぼくの前にいるポパロッパー(Poppaloppers鼻ったれ小僧といった軽蔑語)、みんなそうだろう。風に吹かれてゴロゴロ飛んでいたタンブリング・ウィーズにすぎないんだ。みんな潜在意識でウロウロしているんだろう。それは潜在的な無意識っていうやつさ。聴いているのかい。芸術的であり真理まで語っている音楽という名の言葉が理解できないのなら、そいつも仕方がない。美しい色彩なのに残念だな。きみたち自身のように美しいといってもいいものが、きみたちには判らなくなってしまった。判らなくなったのは、きみたちの醜悪な面だとか、嘘だらけで出まかせな生きかたに目をつぶっているからなんだ。
 そんなのがぼくの音楽を聴きにきて一番前のテーブルに陣取っている。それはいいけれどあんまりガヤガヤするじゃないか。話していることが筒抜けだよ。それを耳にしながら、きみたちが考えてることを想像すると、ついシンフォニーが書きたくなってくる。けれどそのシンフォニーをきみたちは聴くことができないだろう。なぜならそれを捧げたい相手がほかにいるからなんだ。
(略)
 かわいそうにきみたちはバカでニセモノだといわれたことがなかった。わざわざこのクラブヘやってきたのは、ジャズが話のタネになってポピュラーでもあるし、すこしは知っておこうと思ったからだろう。けれどそんなやりかたでは覚えられっこないのさ。ちょっとばかりディレッタントになれるかどうかといったところだ。ピカソやクラインの展覧会に出かけたメクラが絵を見ないで満足しながら、なるなど凄いやと黒眼鏡ごしに感心しているようなもので、黒眼鏡をかけたツンボのきみたちには、ぼくの音楽なんか聴こえやしない。
 ぼくのまえのテーブルで臆面もなく女に惚れられた話をし、ジャンキー型のコップを鼻に押しつけ、足をバタバタやっているきみたち。ぼくのまえでオッパイを半分出し、ボーイフレンドは困った顔をしているのに、ぼくたちにも見ろといってるようなきみたち。まえにかがむと丸だしになるから、ハンケチや白い古手袋や汚ない札びらで隠そうとしたりしている。どれもこれもがヒップだといわんばかりの格好をしているんだから情けない。きみたちはオブジェクトだ。自分では偉い人間だと思い、ジャズが判ったような顔をしているが、それとは何の関係もないメクラとツンボの世界のなかにいるんだ。
 そんななかに、ほんのすこしだが本当にジャズを聴きにきた者がいる。それから今夜はどんなジャズの言葉で語り合ったかと、それを楽しみにしてやってきた仲間のミュージシャンたちがいる。そういう仲間にも本当に意志が通じるのと、機械的にしか通じない者とがいることを、ここでハッキリさせておこう。
 心のなかから演奏しているのに耳をかすときは、テクニックから離れてそのとき話し合えるものなのだ。しかし考えるのがすきな演奏者が言葉づかいを気にしてやると判りにくくなるらしい。それでいま判りやすい言葉で説明したわけだが、納得がいったら、これからもうひとつの言葉である音楽のほうを聴いてくれ。それはずっと意味があり、生きいきとしていて温かく、伝えにくい気持をあらわしていると思うし、きっと……。
 ここでテープが中絶しているが、ミンガスが喋っているあいだ、あたりは騒然となり、それに混じって『ブラボー!』『みんなが聴きたいんだ!』『よくいったぞ、それが聴きたかった!』『やれやれ!チャーリー』という声がする。そうだ。
 以上のミンガスの長演説は、とても日本語には移せないような語調で喋っているのだが、これを最初に読んだとき、ミンガス・サウンドのなかにある怒りの要素が、よりよく理解できるようになった。

敗け犬のミンガスが、きみ、はやく原稿を
書かなくちゃ困るなあといっているようだ

[ミンガス自伝「敗け犬の下で」から話が始まり、入院していた話へ]
入院中に一回だけ休み、いままで七回「中間小説時評」というのを、東京新聞ほか二紙に執筆してきた。これはかなりの重労働であって(略)たとえば先月から今月にかけて雑誌に掲載された短編を一五三編も読む必要があった。これは枚数にすると約七〇〇〇枚の分量がある。(略)
 中間小説の特色は、いったいどんなところにあるんだろう。ひとくちにいうと、なるべく材題をぼくたちの日常生活に接近した世界のなかにさがし、読み物としてのエンターテインメイトを提供することにある。そこまではいいが、おもしろく読ませようという、技巧の競争みたいになっていて、そういった現状だし、ごく少数の作家をのぞくと、おもしろいだけでエモーションを感じさせない。どうしてかというと人間が書けていないからだ。ジャズではエモーションが生命であり、そこから人間性を感じさせるのではないか。ただの技巧だけで人間的でないジャズには誰の耳にも価値はない。
 そういった理由で中間小説を読みすぎると人間ではなくなっていく。それにやっと気がついた。ぼくの入院期間は五十日間で、三〇〇時間ほど本を読んだ。そのあいだに中間小説をきっちり二〇〇編読んだが、つまらなくなって頭がフラつくと、すこし眠り、目がさめると英語かフランスの小説が気分転換に読みたくなってくる。ジャズのほうは告白すると、ウェザー・リポート公演初日のぶんを盗聴した。ナマで聴きたかったが行くことができない。いけないことだが親せきの者にカセットテープ・レコーダーを持たせ、こっそりと録音したわけだ。このテープを枕もとで聴きながら一人ぼっちでよろこんだ。このときの実況録音盤が、やっと発売されたが、もし盗聴してなかったらウェザー・リポートの本領が、このレコードを聴くまでわからなかったということになる。
 よろこんだというのは、最初のウェザー・リポートのレコードやザヴィヌルのレコードが話題になったサウンドのデリカシーよりも、特殊なサウンド処埋がおこなえないステージ演奏のヴァイタリティのほうが、ぼくには彼らに親近感をいだかせたということだ。
 そうしてこれがキッカケになって、ぼくは入院中にミンガスを勉強しなおそうとした。
(略)
 ごぞんじのとおり「デビュー」レーベルは数年前にミンガスが貧乏して手放してしまい、「ファンタジー」レーベルとなって再発売され、それから「バーナビー」レーベルやフランスの「アメリカ」レーベルになった。ぼくは「デビュー」盤を数枚持っているがこれはもう役に立たない。発売当時はサウンド再生をよくするため溝の間隔をたっぷりとったと自慢していたが、いまのステレオにかけると、モノラルのせいもあって音がよく出ないのだ。
 それはさておき、このレコードをミンガスが製作しはじめたのは一九五二年で、五五年の終りまで続いた。好調だったのは五三年から五四年にかけてであって、マックス・ローチサド・ジョーンズ、それからマッセイ・ホールでの実況録音盤が出たころである。最後のレコードは五五年十二月二十三日の「カフェ・ボヘミア」における実況録音盤だった。そうしてこれから五週間後に、やはりカフェ・ボヘミアで「直立猿人」を初演したが、これがバンド・リーダーとしてのミンガスの出発だったのである。(略)
付録のディスコグラフィを見てビックリしたのは、シングル盤がたくさん発売されていることだった。あのころの思い出で買っておけばよかったなと思うのは、モンクのシングル盤で、そのちっぽけなジャケットにはモンクがピアノを弾いている絵がかいてあった。
(略)
 ぼくがジャズのとりこになって五年くらいしたとき、ふと頭を横切った考えは、もしジャズを聴かないようになったら、そのときはもう人間としてダメなんだということだった。なぜならエモーションが受けつけられないような人間、つまり老衰現象をきたしているということだ。ところがどうだろう。さっき書いたように、必要にかられた中間小説の読みすぎと、そこからエモーションがないところからすっかりボケてしまった。(略)
 そんなとき、しきりとミンガスを思い出すようになっている。そのキッカケは来訪初日のコンサートが終ったあとで『ミンガスもボケたなあ。ジャズ・ミュージシャンは、いったんボケたら最後、まえどおりに立ち直ることはむずかしいよ』と、ある批評家にいわれた、これは残酷な言葉だが、そのときぼくには返す言葉が口から出なかった。そうかもしれない。けれど日本へ来る直前にパリで公演したときの評判がとてもよかったことが、すこしたってからジャズ・オット誌などの記事でわかると、不思議でしょうがない。ミンガスの公演として迫力に欠けた理由としては、ジャッキー・バイアードやチャールズ・マクファーソンやダニー・リッチモンドが参加できず、メンバーが弱体だったことがあげられるが、問題はミンガス自身にあるのだといっていい。彼に対する残酷な言葉は否定できない重みを持っていた。
 ぼくはミンガスのために反発したくなったが、その機会がやっとおとずれた。(略)
昨年発売された三枚セットの「チャーリー・ミンガス・グレイト・コンサート」からは、その強靭な力でミンガス的興奮にひたらせてくれたこともいっておきたい。けれどそんなミンガスではなくなっちゃったんだよという声が、そのときどこからか聞こえてくるのだ。そんなときやっと一九七〇年十一月にパリで演奏した「直立猿人」を聴くことができた。(略)
話題レコード「レット・マイ・チルドレン・ヒア・ミュージック」も、近く発売されることに(略)
付録になったミンガスのエッセーをざっと読んでみよう。原文は訳すと二十枚以上になるから、以下は、ぼくなりのダイジェストにすぎない。
 ジャズ・ミュージシャンはソロをとるとき、ある作曲のソロ・パートを即興でいくが、そのとき彼は自分が頭にうかべたコード・チェンジや、自分のコンセプションでメロディを生かすから、つまり作曲家になっている、アドリブしているときの彼は、「ぼくは作曲家なんですよ」といっているわけだ。そんなわけでジャズ界には、じつに大勢の作曲家がいることになる。そのなかにはリズム・パターンだけでいく者がいる。メロディに対する発想はとぼしい。それでもスイングすることができるんだ。そうしてジャズ・ファンで、そういったのが好きになるか嫌いになるかは、たいていがフィーリングの問題になってくるし、相手の格好がよければ、それだけフィーリングもよくなってくるだろう、つまりその場の雰囲気がものをいうことになる。
 そうしてぼくが好きなジャズ・ミュージシャンはというと、リズム・パターンやメロディのコンセプションがあたらしくて、スイングできる人たちだ。そうしてぼくは作曲家として譜面主義ではなく即興主義だし、オリジナリティがある人にぶつかると尊敬したくなるが、エモーションを感じさせないと逆に軽蔑したくなる。フィーリングとエモーションとは違うんだ。
 つまり、自分のなかから自然と生まれてくる即興的な独創性だが、こいつが最近では行きすぎになっている。なにもかも工夫すればできると思っているし、それはいいけれど、めくらめっぽうにやっているんだ。それがフィーリングかもしれないが、エモーションは生まれてこない。ずっと昔の話になるが、コールマン・ホーキンズイリノイ・ジャケーをはじめソロに自信がある連中はみんなそのときの即興ソロをよくおぼえていて、聴衆がやってくれというとそのまま繰りかえしたものだった。
(略)
 なぜこんなことをいうかというと、いまのジャズ・ミュージシャンは、レコーディング・セッションでソロをやっても、あとで忘れてしまい、二度とおんなじことは繰りかえせないだろう。それでもいいかもしれない。けれど正確に繰りかえせればそこにあるよけいなものと残すだけの価値あるものの判断がつき、フィーリングだけでなくエモーションが生まれるようになるだろうと思うからである。
 ところでこのレコードのことを話すと、ぼくの音楽をとおしていいたいことが三つあった。第一は、いったい何でこんなアメリカに生きているのかということだ。第二は雑音にいためつけられた子供たちにほんとうの音楽を聴かせたかったことだ。そうしてそれはぼくの本音だが、批評家たちにむかって、きみはほんとうにミンガスを知っているのかい、といってやりたかった。たとえば〈死の寒け〉という曲は一九三九年に作曲したものを、はじめてそのまま演奏したものである。もしアメリカでない国に生まれていたら、もし白人に生まれていたとしたら、ずっと以前に演奏することができたろう。けれど三十年も待たなければならなかった。
(略)
 ぼくの少年時代での音楽の勉強といえば、黒人教会音楽のほかは、もっぱらクラシックを聴くことだった。ナイトクラブには出入りしなかったからジャズとは近づいていない。そうしてレコード屋は白人相手だから、クラッシックや現代音楽ばかりだった。ぼくはドビュッシーストラヴィンスキーシュトラウスが好きになったが、あるときドビュッシーが書いた本を読んでいると、彼はなにかひとつ作曲を完成するとそのことを忘れてしまう。そうしないと新しい構想をうかべる邪魔になるからだと打ち明けている個所にぶつかり、そのときアート・テイタムのことを連想した。
 テイタムはロイド・リースを先生にしろとすすめてくれたが、テイタムと付き合っているうちに、あまりにも音楽理論を頭につめこみ、譜面になった音楽は全部そらでも弾けることに気がつくいっぽう、そのため作曲でいいものができないことが分った。ピアノのテクニックは、驚くべきものだったが、バッド・パウェルやパーカーのように自分のためのメロディを発見することはできなくなってしまったのである。ぼくはアドリブにうつったときジャズ・ミュージシャンは作曲者なんだ、と前のほうでいった。けれど、このことは原則的にそうなのであって、あらゆるミュージシャンに適用されることではない。テイタムはそんな一人だった。
 ミンガスは、ここでビートルズはじめイギリスのロック・グループの攻撃にうつる。あまりにもジャズからのメロディの盗用が多いからだ、前に雑音と書いたのはロックのことなのである。(略)

エリック・ドルフィーと三人のトランペッターのレコードをめぐって」と「モンタレー・ジャズ祭でミンガスが真価を発揮した」は、こっち(→kingfish.hatenablog.com)にも収録されてるので、そちらで引用済。

ミンガス?自伝・敗け犬の下で (晶文社クラシックス)

ミンガス?自伝・敗け犬の下で (晶文社クラシックス)

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