「投壜通信」の詩人たち 細見和之

フランスでのポー評価

『ポオ全集』全三巻を一読すれば明らかなように、上記のようないわゆる「名作」に比して、いささか安易であったり、作りものめいていたりする「ほら話」のたぐいがあまりに多いのだ。それは彼のいわゆる「名作」にも、眉に唾をつけて読むような態度を強いる。その結果、彼の死後四〇年ほどして[のアンケートでは30位以内にも入らず、しかも](略)
専門的な作家・批評家のあいだでも、敵意に満ちた悪評に曝されていたのであり、むしろ忘却の彼方に沈められていても何ら不思議でないぐらいだったのだ。
 その状況を決定的に覆したのは、フランスにおけるポーの受容だった。とりわけボードレールは、よく知られているように、ポーをまたとない自らの精神的血縁と感じ、ポーの翻訳に文字どおり心血を注いだ。(略)
二十五、六歳でポーの作品と出会ってから、三六歳での『悪の華』の初版刊行をあいだに挟んで、その早すぎる最晩年にいたるまで、ポー翻訳の仕事はつねにボードレールとともにあった。
(略)
ボードレールマラルメヴァレリーというフランスのじつに正統的な詩人の系譜においてポーが決定的に深く受容されたこと、そのことが、長年にわたる本国での冷淡な扱いにもかかわらず、ポーを合州国の世界的文豪のひとりへといわば格上げしていったのである。
(略)
ボードレールは、美術批評家テオフィル・トレが当時悪評に曝されていたボードレールの友人マネの絵画を高く評価しつつも、マネの「闘牛」をベラスケスとゴヤの模作、「キリスト教と天使たち」をグレコの模作と批判したことに対して、精神的に類似した者のあいだでは結果として思いもかけぬ同質の表現がなされることがありうるということを指摘して、その例証として自分とポーの関係を説いている。(略)
 なぜ私が、これほど辛抱づよくポーを訳してきたか、ご存じでしょうか。彼が私に似ていたからです。初めてポーのある本を開いた時、私は、私の夢見てきた主題というだけではなく、私が考えてきた文句がそっくりそのまま、二十年前ポーによって書かれているを見て、驚愕と、有頂天になるまでの歓喜の念とをおぼえたのです。
(略)
[T・S・エリオットはポーに対し、超自然の驚異、暗号文の解読、謎に迷宮など思春期以前の読者向けの代物、と辛辣。そんなものを「三人のフランス詩人」が崇拝したのは、三人の英語力不足ではないのか]
韻律を整えるためにだけ選ばれた言葉は、その「意味」の次元において、あまりに不自然なぎこちなさを保持している。英語を母語とする者にとっては、その違和感は抑え難く、その結果「『大鴉』はポーの最良の詩どころではない」とエリオットは述べている。(略)
[一方で三人の]ポー受容をつうじて、「ポーの重要性、全体として見た彼の作品の重要性を、よりいっそう確信するようになった」と述べている。

ポーの宇宙論

 このポーの宇宙論は、岩波文庫版の「解説」で訳者がやはり縷々述べているように、ラプラスニュートン宇宙論をはるかに超えて、ビッグバンにもとづく宇宙膨張説や、やがては巨大なブラックホールに呑み込まれてゆく宇宙という現在の宇宙イメージに近い印象を、私のような宇宙論の素人は抱いてしまう。しかもポーは、現在の宇宙は拡散の時期から収縮の時期に向かっていると見なしているのだった。以下は『ユリイカ』の後半からである。
実際のところ、強力な望遠鏡で「星雲」を観測するにあたって、ひとたびこの「崩壊」なる観念をいだくと、いたるところにこの観念の確証を見出さざるをえなくなろう。星々が殺到しているように見える方向には、かならず核が見つかるし、そういう核が単なる遠近法上の現象と見あやまたれることはありえない――星団は中心に近いところほど実際に緻密で――中心から遠ざかるほどまばらである。手短に言えば、すべてのものが崩壊を起こしていれば、そう見えるであろう姿をしているのだ。
 このように、現在、宇宙総体は「漸進的崩壊の過程」にあるというのが、ポーの確信するところなのである。

「詩作の哲学」とマラルメをめぐる後日譚

 一八八八年七月、マラルメの『エドガー・ポー詩集』がようやく(略)八五〇部の豪華限定版で刊行されたとき、マラルメは「『ポー詩集』評釈」を添える。あの個人アンソロジー『落穂集』にポーの八篇の逐語訳と一篇の原文を書き込んでから、じつに二八年以上の歳月が流れていた。(略)[刊行に]先立って、マラルメは、ある書簡をつうじて、「詩の哲学」についてポー自身、あれがたんなるトリックであったことを語っていた、という事実に接する。
(略)
「『大鴉』について話し合っているうちに(と、スーザン・アーシャー・ワーヅ夫人はウィリアム・ギル氏に宛てて書き送っている)、ポー氏は私にこう断言しました、この作品の創作方法について自分が公にした例の詳しい報告には、事実通りのことは何ひとつ含まれてはいない。人々があの報告をあんな風に受け取ろうとは、自分は全く予期してもいなかった。批評家たちの註釈や穿鑿に示唆されて、詩はそういう風にも構成され得るのかもしれぬという考えが頭に浮かんだ、そこで自分は、単に気の利いた経験談としてあの報告を作成したまでのことで、それがあんなにも速かに、本気で書かれた宣言として受け取られるのを見ては、おかしくもあったし、驚きもした、と。
(略)
およそ二五年まえに自分の「詩学」の礎ともなったポーの「詩作の哲学」について、ポー自身がそれを「単に気の利いた経験談」として書いたに過ぎないと語ったことを伝える思わぬ書簡――。それを丁寧に「註釈」のうちに書き写すマラルメ――。そこにはまるで自虐的な所作すら感じられる。ここでとうとうマラルメは、若い日から追い求めた、ポーに学んだあの「詩学」が幻影だったことを認めざるをえなかったのか。けっしてそうではないのだ。彼はこの「証言」を自ら書き写したあと、こう綴っているのである。

ドレフュス事件マラルメヴァレリー

一九〇六年にようやく無罪判決を得て、ドレフュスの名誉回復がなされるが、一九三〇年代にはふたたびドレフュス真犯人説がまことしやかに流布されることになる。よく知られているように、新聞記者としてこの事件を取材していたテオドール・ヘルツルは、もっとも先進的と見なされていたフランス社会にも蔓延している反ユダヤ主義に直面して、シオニズムを提唱することになる。
 あたかもドレフュス派と反ドレフュス派にフランスの言論界が二分されるかの状況のなかで、ヴァレリーが反ドレフュス派に明確に与したことは、ヴァレリーについて書いた本ならたいていふれられている。しかし、なぜか踏み込みは浅い。ヴァレリーは、ドレフュス事件で書類の捏造に関わったアンリ中佐が獄中で自殺したあと、その未亡人のための基金集めが行なわれた際(略)三フランを醵金したのだった。一方、ヴァレリーの師に相当するマラルメは、前章の終わりで確認したとおり、ゾラがドレフュスを擁護して発した「我、弾動す」という大統領への公開状で誹謗罪に問われた裁判の最終日、ゾラを支持する熱烈な長文の電報をゾラ宛に送った。マラルメは、ドレフュスの再審請求などの公的な署名に名前を出すことはなかったが、個人としてはゾラに自分の立場を明示していたのだった。
 このマラルメヴァレリーの断絶のあいだには、たんに個人の資質を超えた時代の徴候を読み解くべきではないか。マラルメは、反ユダヤ主義にもとづく冤罪などけっしてあってはならないとする、啓蒙の流れを汲む一九世紀の知識人だった。一方ヴァレリーは、個人の権利よりも国家的な秩序のほうを断然優先すべきとする、ポスト啓蒙の思想家だった。とはいえ、ヴァレリーの言動には、たんに個人か国家かという対立以前に、ごく素朴な意味で反ユダヤ主義的と思える部分が散見する。すくなくとも風潮としての反ユダヤ主義の流れに足を浸していたヴァレリーの姿を、私たちは黙殺することはできない。

若き日のヴァレリー

[普仏戦争でのフランス敗戦の翌年に生まれた]ヴァレリーの生涯の出発点において、ドイツは明確な「敵だった」。ヴァレリーがはじめて執筆した政治論と呼ぶべき「方法的制覇」は、当初は「ドイツ的制覇」と題されていた。ヴァレリーがこの論考を書いたのは、一八九六年、彼が二五歳のときだった。彼はそのときロンドンに滞在して、セシル・ローズのチャータード・カンパニーに臨時雇用されて、英語の記事のフランス語訳に従事していた。(略)
陸軍省の採用試験を受けて合格通知を得ながらも、採用通知がいっこうに届かない宙吊り状態に置かれていた当時のヴァレリーは、人生の転機を賭けてロンドン行きを決意したのだった。
 そのとき彼が出会ったのは、イギリス帝国主義の最先端に位置しているひとびとだった。ヴァレリーは友人のジッドにロンドンからこう書き送っている。
僕は途方もなく強力な連中の間に捲き込まれているんだ。(信頼してまかされた)この仕事のおかけで、極めて重大な事柄を知った。かなり重要な書類を手中におさめているんだ。僕の言うことは決して口外しないようにしてくれたまえ。(略)それはチャータード・カンパニーという名前で、南アフリカ全体を所有しようとしているんだ。実際、これは並外れた政策だ。(略)この連中のカ強さ、深さ、英知、そして荒々しいまでの明確さは、君には想像もつかないだろう。理は常に彼らにあるんだ。彼らの倫理がやっと判ったよ。フランスではこういう連中は決して理解されないだろう。
 若いヴァレリーが当時の政治の世界の最先端と出会って興奮している様子がよく窺えるだろう。いままさに世界を動かしている現場と自分が接触している感覚である。(略)
三〇年後になって、ヴァレリーを雇用したフランス人リオネル・デクレがじつはイギリスとフランスの二重スパイであったことが判明している。当時のヴァレリーがかなりきわどい仕事に関わっていたことは疑いがない。実際ヴァレリーは、その仕事のもたらす消耗と孤独に苛まれて、あたえられていたアパートの一室で自殺未遂を企てたことまで、のちに告白している。

ジッドへの手紙

[ゾラが「我、弾劾す」を発表し、ドレフュス事件が頂点に達するころ、ヴァレリーは]
ジッドへの手紙で、「もしこの弾劾文が《日の目を見る》なら、『メルキュール』にはもう一行も書くまいとほぼ心を決めている」と告げる。ただし、その際ヴァレリー反ユダヤ主義の危険にもふれている。(略)
急速に反ユダヤ主義が出てきて、とてつもない混乱をひき起こすことになりかねない。ユダヤ人全体のおちいっている興奮状態は注目すべきものだ。その気持はよくわかる。亦、不安でもある。他方では、軍の幹部クラスの精神状態もよほど変ったのであるに違いない。最後に、急進派と社会主義者はありったけの火をかきたてかっかとしている。
 ここでヴァレリーはドレフュス派、反ドレフュス派のどちらに対しても距離を置こうとしているとも取れる。それに対して、ジッドはこのとき[逃れるようにローマに赴き、それでいて、事件に強い関心を寄せ](略)「我、弾劾す」を掲載した『ローロール』紙にジッドはゾラ支持の署名を送る。(略)そのことを知ったヴァレリーは愕然と[し、翻意をうながす長い手紙を書いた。何通かのやりとりがあって]
 百年前の原則がこの状態に導いたのか、この状態が近付くに及んでこうした原則を生み出したのか、そんなことは大した問題ではない。ようするに、僕は、もう久しく前から、ここで、解体状態にないものを空しく求めているってことだ。自由は金持に利をもたらしただけだ。つまり、権力を抹殺することによって、自由は、危険な、無統制の、際限のないいくつかの反権力を、まず目につかぬ形で、ついで突然誰の目にも明らかなように、存在させた。その結果、いまの局面で支配しているのは、金融界、自由聖職者の組織、革命家、臆病者、それにE・M[参謀本部]等々の徒党ということになる。ようするに、僕らのような個人にとって、従属している点では、確固とした権力下におけるのと同じだ。服従の総量は変わらず、その配分だけが変化したんだ。ただ、僕らはもう誰に懇願したらよいのか、誰の首をはねたらよいのか、わからなくなっている。/その一方では、現在の状態が、知的水位で、誰の利となっているかは、君のよく知っているところだ。僕らが、経済面で、海軍力の面で、政治面で、科学の面で、また風俗面で、どこまで落ち込んでしまったか、それは見るもあわれじゃないか。
(略)
フランス革命以来、自由は金持ちに利をもたらしただけであって、権力は抹殺されてしまった。こういう文面に、絶対王政の時代に対するヴァレリーのノスタルジーがこだましているのは聞き落としようがないだろう。(略)
 それでも、ジッドと自分のあいだに横たわっているものが「ユダヤ人問題」であることを、ヴァレリーはこの箇所ではことさら取り上げないかの態度である。(略)とはいえ、手紙のこれに続く箇所では、ヴァレリーは「ユダヤ」という言葉を繰り返す。
 だから僕は、この際は権力を支持すべきだった、と思う。この場合、権力とは民族国家なのだからね。権力が宣戦布告するとき、民族は機能する。権力が倒れるとき、民族につけがまわってくる。(略)僕は、軍法会議のようなあほらしく愚劣な文書があんなに反響をよんだことに、憤慨させられた。前代未聞のプロパガンダによってだぜ。アナトール・フランスなんぞは、おおっぴらにユダヤの女におぶさって(略)ユダヤの文学づいた御婦人達のおよそ想像にかたくない環境で、暮らしているわけだが、あんな手合の臆面のない態度を思うとねえ。僕が自由な身分だったら、あのプロパガンダについて知りえたことを公然と喋っただろう。(略)僕は反ユダヤ主義者ではない――ただ……
(略)
 引用のなかほどに登場するアナトール・フランスは、ゾラが有罪判決を受けてイギリスに亡命してからは、ドレフュス派知識人の事実上の指導者と目されるほどに、ドレフュス派だった。アナトール・フランスの愛人だったアルマン・ド・カイヤヴェ夫人は、裕福なユダヤ人家庭の出身で、アナトール・フランスを中心としたサロンを開いていた。
(略)
 ヴァレリーがアカデミー会員となるのは、ほかでもないアナトール・フランスが死去することで空いた席を埋めるためだったが、その就任演説に際して、ヴァレリーは、前任者を讃える慣例に反して、アナトール・フランス批判を繰り返し、しかも、「アナトール・フランス」というフルネームを一度も口にしないでそれを行なうという、いささか奇矯な振る舞いにおよぶ。それは、アナトール・フランスマラルメの作品に無理解な嘲笑を浴びせたことへの報復とも解されているが、やはりドレフュス事件との関わりを抜きにはできないのではないか。

ユダヤ人のドイツ

 そもそも当時のフランスの多数派から見た場合、ドイツはユダヤ人のドイツと見なされ、フランスのユダヤ人はその名前からして「ドイツ人」と見なされていた、というポリアコフの指摘も示唆的である。つまり、ヴァレリーの「方法的制覇」の時点で、あの凡庸な知性の寄せ集めとしての「ゲルマニア」に、すでにユダヤ人のイメージが重なっていたと解することができるのだ。そこに、ドイツのスパイの嫌疑をかけられたアルザス出身のユダヤ人将校ドレフュスが登場する……。
(略)
 ヴァレリーは自他ともに認める「地中海的知性」のひとである。彼がヨーロッパの「精神」として位置づけるのは、ギリシア文明、キリスト教文化、そしてローマである。(略)彼の「精神」の記述のなかで、アラブ文化はかろうじて地中海の背景に顔をのぞかせることがあるが、ユダヤ文化はほとんど位置を占めてはいない。しかし、それでいて、彼は「ユダヤ」に対する嫌悪感ないし忌避感だけは着実に身につけていた。その嫌悪感ないし忌避感が、さらに広々とした海原のような無意識に注がれるとどうなるのか。

エリオット『荒地』

 鮎川信夫らのエリオット『荒地』の顕揚も受けて[59年に選集、60年に全集が出版](略)
しかし、以来、そのエリオットが反ユダヤ主義的な作品をいくつも書いていたという事情については、現にその作品が翻訳されていながら、日本では本格的に論じられることはなかった。
(略)
 もちろん、エリオットが現に反ユダヤ主義的な作品を書いていたとして、そのことと『荒地』という作品の素晴らしさをどう考えるかは、さしあたり別問題といえる。
(略)
 結論的にいうと、エリオットの反ユダヤ主義はじつにステロタイプで表層的である。「ユダヤ人」ということで彼が具体的にイメージできた人物がどれだけいたかもじつは怪しい。しかし、偏見とか差別とかは元来そういうものなのである。むしろ、そういう典型がT・S・エリオットであって、だからこそ彼の反ユダヤ主義にはきちんと目を向けておく必要があるのだ。(略)
一八七一年に生まれたヴァレリーに対して、T・S・エリオットは一八八八年の生まれである。ふたりの世代間の距離は、反ユダヤ主義がさらに浸透してゆく時間を示している。
(略)
『荒地』以降のエリオットは、虚無的な古典主義の立場から一転して、宗教色を強めてゆき、一九二七年にはイングランド国教会の洗礼を受け、翌年、「文学においては古典主義者、政治においては王党派、宗教においてはアングロ・カトリック」という有名な宣言を行う。
(略)
 さらに、引用三連目の「ネズミ」と「ユダヤ人」を重ねた記述などは、反ユダヤ主義者の用いていたステロタイプそのものだ。ちなみに、この箇所について、岩波文庫で訳者の岩崎ははっきりとこう注釈している。
ユダヤ人は鼠のように姿は見せないが(金融を通して)ヴェネツィアを支配している、という意味。この部分は反ユダヤ的と非難されるが、この詩のブライシュタインは、ヴェネツィアの他のすべてと同じ「時間蝋燭の燃えかす」、精神的伝統を蝕む害虫である。

(略)
このブライシュタインのイメージは、「直立したスウィーニー」、「ナイチンゲールたちに囲まれたスウィーニー」その他に登場する、卑俗な類人猿のような「スウィーニー」の姿にそのまま引き継がれているように思われる。「ナイチンゲール……」にはわざわざ「レイチェルの旧姓はラビノヴィッチ」という、ユダヤ人女性をあてこすった表現が見られる。ユダヤ人が名前を変えて非ユダヤ人になりすましている、というのである。このあたりの作品は、今風にいえば、詩の形をまとったヘイト・スピーチ以外の何ものでもない。
(略)
 エリオットは友人パウンドのように、ムッソリーニフランコなどのファシストを讃美することはなかった。そういう市民的な感覚はさすがにエリオットが保持していたもので、ここでも悪名高いナチスニュルンベルク法のフランスヘの導入に、エリオットは反対の意思表示をしている。(略)
ニュルンベルク法は、祖父母の代までさかのぼって、四人の祖父母のうち三人がユダヤ教徒であれば、孫にいたるまで「ユダヤ人」と定義した。ただしこの「定義」は、実際の運用の過程では、祖父母のうちひとりでもユダヤ教徒であれば孫まで「ユダヤ人」という形に拡大解釈されていった。これによって、本人がたとえ洗礼を受けたクリスチャンであっても、祖父母にまでさかのぼって「ユダヤ人」と見なされたのである。
 それが現に戦争中の敵国の政策であったということを割り引いても、ニュルンベルク法のフランスヘの導入に反対しているエリオットの姿勢は、それなりの市民的勇気を示しているものと呼ぶべきだろうか。しかし、さきの露骨に反ユダヤ主義的なエリオットの表現とこの良識的な態度のあいだにこそ、エリオットの反ユダヤ主義、ひいてはホロコースト以前に欧米の知識人が抱いていた反ユダヤ主義の微妙さがあるのではないだろうか。実体としての反ユダヤ主義ではなく、いわば精神としての反ユダヤ主義である。

田村隆一パウル・ツェラン

 ここで田村隆一の「立棺」を取り上げるのは、ほかでもない田村自身がこの詩の成立過程について素直な文章を残してくれているからであり、それがヴァイスグラースとツェランの関係について、私たちに貴重な光を投げかけてくれると思えるからだ。(略)
 まず田村は、同じ荒地派のメンバーだった鮎川信夫が「裏町にて」という詩にさり気なく書きつけていた「立棺」という言葉に強く刺激された。(略)
さらに中桐雅夫の「立棺」という「二十行たらずの詩」の第一行「わたしの屍体を地に寝かすな」を読むことによって、「立棺」という詩を書きたいという欲望を田村は強く刺激されたという。(略)
氏から「立棺」という詩を見せられたとき、わたくしの心のなかにあった種子がいつのまにか根を下ろし、成長しているのに、わたくしははじめて気がついたのです。このときのわたくしのはげしい欲望をいまでも忘れることができません。(略)この一行を見た瞬間に、わたくしの九十行の詩ができてしまったのです。
 ここでの田村隆一の語り口は、ツェランとヴァイスグラースの関係を考えるうえで、私たちにとってきわめて示唆的ではないだろうか。(略)
まさしく一九四四年一二月末、チェルノヴィッツの「或る冬の夜」、ヴァイスグラースが「こんな詩を書いてみたよ」と「彼」という作品をツェランに見せるということがあったのではないだろうか
(略)
ツェラン田村隆一と同様に、ヴァイスグラースの「彼」を見たとき、まさしく「黒いミルク」という暗喩の「種子」が自分のなかで「いつのまにか根を下ろし、成長しているのに」はじめて気づいた……。
(略)
わたくしは、鮎川氏から「立棺」というタイトルと、中桐氏から「わたしの屍体を地に寝かすな」という一行の詩句をじかに分けてもらったのです。そして素晴らしいことには、中桐氏はそのために自分の詩を放棄してくれたということです。それでは、わたくしの「立棺」は、わたくし一人の作品ではなく、鮎川氏と中桐氏との共作ということになるのでしょうか?答は、厳密にいってわたくしだけの作品なのです。なぜでしょう?
(略)
どのような素材が周囲からあたえられたとしても、それを「一篇の詩」に作りあげるのは、あくまでひとりの詩人の個人的・個性的な仕事である、というのが彼の断固とした主張だと思われる。まさしくツェランの場合も同様であって、たとえヴァイスグラースやアウスレンダーらの暗喩や作品を前提にしていたとしても、それを「死のフーガ」という一篇の詩へと個性的に「物質化」したものとして、やはりその作品は「厳密にいってツェランただひとりのもの」なのだ。アウスレンダーが「黒いミルク」という暗喩について、鮎川や中桐と同様の態度を示していたことは、さきに確認したとおりである。
(略)
[このヴァイスグラースの]文面の端々からは、「彼」が事実としては先行して書かれ、「死のフーガ」がそれをはるかに凌駕する作品としてのちに書かれた、というヴァイスグラースの了解が窺えるのではないだろうか。