ロスト・ジェネレーション

文学者だらけの救護部隊

1916年から17年にかけての冬、教授たちは国境を越えた学問の世界について話すのを止め、愛国心を説きはじめた。(略)
僕らが吹き込まれていたのは、フランスの農民たちが抱いたような、「侵略者から自分たちの土地を守ろう」といった類の愛国心ではない。(略)
 戦争がはじまると、大学にいた若い物書きたちは外国軍所属の負傷兵輸送班に志願するという考えに惹きつけられた(略)
こういう組織なら、きっと最速で僕らを国外に連れ出してくれるはずだ。ちょうどドス・パソスの登場人物の台詞にあるように、僕らは「すっかり祭りが終わっちまう前に」事に加わりたくてうずうずしていたのである。
(略)
僕のいた第526輸送班が特別だったわけではない。友人たちのいる別の班にはもっと多くの若い作家たちがいて、「君は俗物ばかりの部隊でかわいそうだな」などとよく同情されたものだ。
 1917年の時点で、救急班や輸送班に属していた作家たちの名を挙げていったらなかなか面白いだろう。ドス・パソスヘミングウェイ、(略)ダシール・ハメット――こうしてみると救急班やフランス軍輸送班というのは、ある世代の作家たちに向けて開講された、大学の特別コースのようなものだったのかもしれない。だが、それはなにを救えてくれたのだろう?
 この特別コースは、僕らを外国へと連れ出してくれた。ほとんどの者にとってははじめての国で、そこで異郷での恋を――いや、たどたどしい外国語で女を口説くことを学んだ。自分とは関わりのない政府から衣食住を与えられ、僕らはかつてないほど無責任になった。(略)
僕らはそこで、傍観者的態度とでもいうべきものを吹き込まれたのである。
(略)
食事はまずまず、仕事内容も性分に合っていたし、休暇にはパリを訪れ、軍服を着ていたおかげで一流ホテルにも出入りできた。一生に一度見るチャンスがあるかないかの大スペクタクルを西部戦線で見せてもらっていたし、フランス軍に属していたおかげで、アメリカ軍の新米少尉や二等兵たちが無理強いされていたような過酷で馬鹿馬鹿しい訓練を受けずにすんだ。

安全な部隊にいたから逆に危険を渇望

危険は僕らを退屈から解放し、心を鼓舞し、くすんだ世界を色鮮やかに変えてくれたのである。フランスではときおり、翌日か翌週には死ぬかもしれないなどと考えて、これ以上ないほどに神経を尖らせたこともある。そんなときには、いつも見ている緑の森もふだんとは違って見えてくる。まるでハリケーンに襲われる寸前の静かな姿を見つづけているようで、空はたとえようもない鮮やかな青色となり、草の匂いは生気にあふれはじめる。二十歳で死のうとする自分、愛する人の姿といったイメージが一気に混ざり合い、鋭く危うい快感で満たされた。ひょっとするとこうした経験こそが、若い作家たちが戦争から得た一番大きな教えかもしれない。すでに手垢にまみれ、意味を失ったものとして遠ざけられていたかに見えた古くさい主題の数々に、戦争はふたたび命を与えてくれた。

ジョイス

[情報収集してできあがった1923年のジョイスのイメージ]
散らかり放題で気がふさぐような安宿に住んでいたけれど、そのみすぼらしさが様になっているわけでもない。ホメロスのように盲目になることを恐れ、微々たる収入の多くを医者通いに費やしていたけれど、それというのも憂鬱症で病気が悪化していたためだ。自分と同程度の知性を持つ人間は周りに存在せず、いるのは家族ぐるみで付き合っている人や、自分を賞賛する弟子ぐらいのものだった。文学とオペラにかんすることをのぞけば、彼の見識は四流ないし五流の批評眼の持ち主と変わらなかったし、野心を叶えるために人生で他のことはすっかり断ち切ってしまったとでもいうようだった。
(略)
 インタビューを許可されたので、僕はジョイスが泊まっているホテルヘと向かった。彼はすえた匂いのする湿った部屋で僕を待ち受けていて、その様子はよろい戸の向こうに閉ざされた家具が、ビロードのようなカビに覆われて発酵しているかのようだった。背が高く、やせ衰えた男の姿が見えた――突き出した白い額に曇ったメガネ、薄い唇や目尻のしわには苦しみの痕がありありと刻まれていて
(略)
彼は天才だ――と、僕は考えた――でもその才能にはどこか冷たいところがある。別れの握手のとき感じた彼の指の冷たさ、長くすべすべした、濡れて冷え切った大理石のようなあの指と同じ冷たさが、と。

エズラ・パウンドヘミングウェイ

エズラ・パウンドを「村の解説者」と評し、「村人にとっては素晴らしい人物だけれど、他の人々にとっては別段どうということもない」と述べたのはガートルード・スタインである。彼女自身はわざわざ人に解説したりすることは滅多になかった。ただスタインは若い男たちを自分の足元にはべらせておくのが好きだったし、若い作家に対するパウンドの影響力に嫉妬をおぼえていることを特に隠そうともしなかったのである。
(略)
何度か彼に会いに行ったけれど、今でも覚えているのは最後の会合だ。1923年の夏のことで、(略)
意志の強そうな目つきをした、歯ブラシみたいな口髭を生やしたがっしりした若い男がいっしょだった。パウンドはその男を「アーネスト・ヘミングウェイだ」と紹介した。「聞いたことがある名ですね」と僕は言った。ヘミングウェイはニヤリとしてみせたけれど、それは中西部特有の、あの悠然とした笑い方だった。(略)
その日の午後、ヘミングウェイは自分の短篇のことはなにも話さなかった。パウンドが文学界について論じているあいだ、まるで眼でものを聴いているかのようにじっと相手を見すえていた。まもなく彼は席を立ち、翌日パウンドとテニスをする約束をして出て行った。ボクサーのような、爪先に重心をかける歩き方だ。

明日につづく。