政治的なものについて・その2 右翼ポピュリズム

前回の続き。

政治的なものについて ラディカル・デモクラシー

政治的なものについて ラディカル・デモクラシー

右翼ポピュリズム

 右翼ポピュリズムの侵攻が深刻化しているすべての国において、民主主義政治がどのような状態なのかを検討するなら、そこには驚くほどの類似性が認められる。(略)
オーストリアのような場合は、連立政権が長期化したこと、あるいはフランスのような場合においては(略)[左翼]政党が中道へ移動したこと(略)[いずれも]中道での合意が確立されてきたため、はっきり異なる政策のあいだで真に選択することが投票者には許されなかった。それゆえ(略)右翼のデマゴーグたちが、息苦しい合意に対するべつの選択肢への欲求を表現/節合[アーティキュレート]することができるのである。
(略)
 右翼ポピュリズム政党の成功の大部分が、伝統的な諸政党は考慮に入れない真に民主主義的な要求を、まがりなりにも彼らが表現/節合している――たしかにきわめて問題ぶくみのやりかただが――という事実のおかげであることをそろそろ認めてよいころだ。
(略)
[この現象の]新しさを、「極右」とレッテルを貼ることですぐさま無視してしまう(略)
[「褐色の悪疫」[=ファシズム]の再来に一致団結せよと]
道徳的な弾劾と「防疫線」を設けることが右翼ポピュリズム運動の躍進に対する返答とされるのだ。
(略)
 私がみるところでは、対抗モデルの特質である政治的境界線が薄れつつあることと政治の「道徳化」とのあいだには直接的な関連がある。(略)
しばしばいわれるように、政治が道徳に取って代わられたということではなく、政治が道徳の作用領域で実践されるようになったということである。(略)
いまや政治的な敵対性が道徳の範疇で形成されるようになったという意味において理解してもらいたい。(略)
政治が道徳の作用領域で実践されるならば、敵対性は闘技的な形態をとることができない。(略)
「対抗者」ではなく「敵」とみなされるのである。

シュミットとネオコン

シュミットとネオコンのあいだに親和性があるとの想定には、とんでもない誤解がひそんでいる。たしかにこれまでにみてきたように、シュミットは、政治的なものの「種差的差異」は友/敵の区別であるとくり返し強調している。しかしながら彼はつねに、このような区別は、経済や倫理にもとづくものであってはならず、政治的なものに固有のやりかたでおこなわなくてはならないことを強調している。シュミットはきっと、ブッシュが自分の敵たちを道徳的な悪のカテゴリーを用いて描きだすのを容赦しなかっただろうし、自由と民主主義を世界にもたらすことがアメリカの義務であるというブッシュの救世主的な言説をはねつけただろう。
(略)
シュミットは、リベラルな普遍主義こそが真実で唯一の正当な政治システムを提示するのだという思い上がりに対し、きわめて批判的であった。彼は、リベラル派が「人間性」という概念を、帝国主義的拡張のイデオロギー的な武器として利用したことを批判し、人道主義的な倫理を、経済的な帝国主義の媒体とみたのである。
(略)
人間性の名において戦われる戦争においては、敵が人間性の無法者として提示されるやすべての破壊手段が正当化されてしまうため、きわだって非人間的なものになってしまう
(略)
 シュミットは、排除なくして包摂はなく例外なくして規範はないと論じ、完全なる包摂というリベラリズムの思い上がりと「人間性」の名において語る主張が欺瞞であることを執拗に暴露した。しかしながら、人間性とみずからを同一視させつつ、みずからの支配に刃向かうすべてを不当なものとする、リベラリズムのレトリックの力をも認識していたのである。
(略)
シュミットのみるところでは、政治的なものの衰退は、三世紀にわたって戦争を一定の制約内に抑制してきた間国家的なヨーロッパ法である「ヨーロッパ公法」の解体と結びついている。(略)
ヨーロッパ公法が存在するかぎり、戦争は制限され、戦闘行為が絶対的なものになることもなかった。敵は、犯罪者として処遇されることも、人類の最終的な敵とみなされることもなかったのである。(略)
破壊の技術的手段が発達し、リベラル派が戦争を非合法化しようと企て、「正しい戦争」という範躊がふたたび導入された結果、戦争をめぐって差別化していく概念が出現したのである。
(略)
問題は、政治の目的(略)が単一のモデルに依拠して合意を確立することにあると信じるならば、正当な異議申し立ては不可能になってしまうことにある。既存の秩序を根底的に否定する言説と実践が増殖していることのそもそもの理由は、グローバリゼーションのネオリベラルなモデルのヘゲモニーに挑戦する政治的回路が欠落していることにあると考えるべきなのだ。
 こういった視点からみれば、テロリズムは、普遍主義的でグローバル主義的な言説(略)の欺瞞がはらむ危険をきわだたせている。普遍主義的な人道主義者は、政治的なもの、対立、否定性を克服していくにつれて世界が一つになり、そのおかげで、敵対性は消え去るだろうと考えているようだが、テロリズムはこういった幻想を粉々にするのだ。

ハーバーマス

ハーバーマスの回答はもちろん、道理のある意思形成のためのコミューニケーション的条件を制度化する人権によってのみ正当性は獲得できる、というものだ。(略)
 ハーバーマスのいうところでは、「人権は、構造上は、個人の訴訟を起こすことが可能な主体的権利要求の根拠となる実定的で強制的な法秩序に属している。そのかぎりで、人権には、ともかく現存する法秩序の枠組み内で保障される基本権としての地位が必要であり、人権の意昧には、すでにそのことがふくまれているのである」。このことによって人権の普遍的な道徳的意味とその実現の局所=地域的な条件――というのも、これまでその人権が実定的な形式をもちえたのは民主主義国家の国家的法秩序の枠内でのみであったから――のあいだには独特の緊張が生み出されていることを、ハーバーマスは認めている。にもかかわらず、人権のグローバルな規模での制度化はいまや軌道にのっており、コスモポリタンな法システムが世界中で受け入れられるのも時間の問題であると確信されているかのようなのである。
(略)
「人権は今日、選択の余地のないものとしてあらわれている」と、頑迷なまでに主張するのである。(略)かくして次のように高らかに宣言されることになる。
 アジア社会は、個人主義的な法秩序の成果を利用しないかぎり、資本主義的近代化には参画できない。一方を望んでおきながら他方を拒むのは無理なのである。(略)
(略)
 ここでは、西洋化に代わる道筋は存在しておらず(略)
非西洋社会にとって選択肢がこのようなものしかないのであれば、暴力的な抵抗が勃発するのを目のあたりにしてなにを驚くことがあるだろうか?(略)西洋モデルの強制的な普遍化は平和と繁栄をもたらすどころか、この過程によって文化と生活様式が破壊された人びとからの血なまぐさい応答を呼び起こすことにしかならないことをはっきり自覚すべきである。(略)
[リベラル民主主義の優越性という信念こそが]世界は、シュミットが観察したように、「普遍的」ではなく「多遍的」であるという認識を徹底的に妨げてしまうのだ。
(略)
 ハーバーマスの方法の本質が反政治的であることがはっきりとあらわれるもう一つの特徴がある。ハーバーマスは民主主義を討議理論によって理解するのであるが、これによって、民主主義の意思形成には認識論的な機能がそなわることになり、みずから認めるように、「民主主義的な手続きにとって、政治参加と政治的意思表示は、もはや、みずからを正当化する唯一の根拠ではないばかりか、主要な根拠ですらない。合理的に容認できる結果がもたらされることへの期待を根拠づける構造をもつ審議過程の一般的受容可能性が、正当化する理由となるのである」。「合理的に容認できる結果」とはなにか? 政治的意思の表示に課せられる制限についてだれが決定をくだすのか? なにが排除の根拠になりうるのか? シュミットは、リベラル派が回避しようとするこれらの問いすべてについて、正当にもこう述べている。
(略)
真に力を持つ者こそが概念と言葉の内容を決めることができるという事実である。カエサルは文法をも支配するのだ。

結論

 国内政治について私が示したのは、政治の対抗的形態が終焉し左派/右派の区別が乗り越えられたと信じることは、調和した社会の確立を容易にするどころか、むしろ、右翼ポピュリズム運動が台頭するための土台を準備することにしかならないということだ。
(略)
民主主義社会には利害と要求の多元性が存在すること、これらは対立し、最終的な和解が困難であるにもかかわらず、その多元性は正当なものとみなされるべきであることがはっきりと示される。左派と右派の意味内容自体は変化するかもしれない。しかしながらそれらを分かつ境界線は存続すべきである。なぜなら、これが消え去ることは、社会的分裂が否定されること、および多くの声が沈黙させられることを意味するからだ。
(略)
 あらかじめ混同を避けるために、次のことをはっきりさせておきたい。ポストモダンの思想家のなかには多元主義を手放しで賞賛する者もいるが、これとは反対に私は、民主主義的な多元主義の政治においては、所与の社会で形成される要求のすべてを正当なものと捉えるべきだとは考えない。私が唱導する多元主義においては、闘技的な討論をなすものとして受け入れられるべき要求と、そうでなく除外すべき要求を区別することを必要とするのである。(略)
討論が起こるためには、共有される象徴空間の存在が必要なのである。(略)
これらの価値観を無条件に拒絶する者と、それらを受け入れたうえで、たがいに対立する解釈をめぐって闘う者のあいだには線が引かれるべきである。
 このような私の立場は、ジョン・ロールズのようなリベラル派の理論家の立場と似ているようにみえるかもしれない。なぜなら彼は「単純な」多元主義と「理性的な」多元主義を区別し、正当な要求とそうでない要求のあいだに線引きしようと試みるからだ。しかしながら私の立場は、ロールズとはあきらかに異なっている。彼はこのような区別が理性と道徳性に依拠すると考えるのに対し、私は正当なこととそうでないこととのあいだに境界線を引くことはつねに政治的決断であり、さらにこの線引きはつねに異議申し立てへと開かれるべきだと考えているのである。ウィトゲンシュタインにならって、こういうことができる。私たちが民主主義の価値観と制度に忠実であるのは、それが理性的だからではない。リベラル民主主義の原則が擁護されるのは、それが私たちの生活形式を構成するからである。
(略)
 (脚注1)ウィトゲンシュタインがいうところによれば、意見が一致するのは、その語の定義に関して一致するからではなく、むしろその語を用いるやりかた(生活形式)を共有するからである。不一致が生じる場合、それは生活形式を共有しえないところに生じるものであり、だから説得という強制措置に頼らざるをえない。このような説得を介した同意は、討議民主主義が想定する理性的なコミュニケーションを介した同意と異質である。ムフは「闘技的多元主義」を提唱するうえで、以上の議論が示唆的だったと述べている。
(略)
「人権」という、今日におけるリベラル民主主義の言説の中心に位置する概念に、このような「近代性の多元主義」はどのような帰結をもたらすのだろうか?
(略)
ヨーロッパがアイデンティティを主張するさいに問われるべきは「西洋」の観念そのものである。こうすることで多元化の活力が解き放たれ、ネオリベラルのヘゲモニーに抵抗するための基盤の創出が可能になるのである。
 ヨーロッパ統合について懐疑的な左派もいるが、その理由は、国民国家が民主主義的なシティズンシップにとって必要な空間であり、この空間がヨーロッパという制度によって危殆に瀕していると捉えられているからだ。彼らはヨーロッパのプロジェクトを、ネオリベラリズムを導き入れるトロイの木馬であり、社会民主主義政党が獲得してきた果実を危うくするとみなしている。現在のヨーロッパの政策への彼らの不信に根拠があることを否定はしない。しかしながら、ネオリベラル的なグローバリゼーションに対し国家のレヴェルで抵抗できると考える点で誤っている。ネオリベラリズムに代わりうるオルタナティヴの構想が可能になるのは、ただヨーロッパのレヴェルにおいてのみである。

監訳者解説:酒井隆史(2008年)

右翼ポピュリズムの擡頭は、右翼ポピュリズムの政党のみが、なんらかの仕方で敵対性を保持しているところに求められている。(略)
 それに対して、「左派」の側では、こうした政治的なものの敵対性の成分を活用しながら勢力を拡げる右翼ポピュリズム潮流に対し、むしろ政治的なものをさらに否認すること、つまりみずからの立場性を否認することで対応しようとする傾向が顕著であるようにみえる。ある時期から、支配的な流れに批判を加える場合でも、みずからが特定のポジション(「従来の」と漠然と指示される左や右のような)にあるわけではない、そうした対立に囚われていないというように、みずからをいわば「無垢化」するような前提をおいてはじめる物言いが目立ちはじめたようにみえる。このような傾向に、ムフのいう「政治的なものの道徳的領域での作動」、すなわち、みずからを闘技的領域ではなく、ひそかに「善」のポジションに位置させたい欲望をみることもできるかもしれない。とするならば、「左派」がこうした政治的なものの否認をとおして右翼ポピュリズムに抵抗しようとすること自体が、政治的なものをますます右翼ポピュリズムに独占させ、友/敵型の敵対性を再生させてしまうということになるだろう。

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