民主主義の逆説

民主主義の逆説

民主主義の逆説

ロールズ式だと多元主義はありえない

つまりロールズは、合理的な人間とは自由主義の根本原理を受け入れる人びとであるということを間接的に主張しているわけだが、もしそうでないとしたらどうだろう?(略)
こうした区別でロールズが真に指し示しているのは、政治的なものの諸原理にかんするかぎり、多元主義はありえないということであり、自由主義の諸原理を拒絶する概念構成は排除されるべきであるということである。この点について私は、彼に異議を唱えるわけではない。しかしこれは道徳的要請の表現ではなく、明らかな政治的決定の表現である。反自由主義者を「非合理的」とよぶことは、自由民主義体制の枠組みのなかではそうした見解が正統なものと認められないことを表明する手段となる。(略)
ロールズは、道徳的区別としての善にたいして正の優位を示すことで、問題を回避しようとしている。しかしそれでは問題の解決にはならない。(略)
[そして循環論に陥る]
政治的自由主義は、合理的な人びとのあいだでの合意を提供しうる。その人びととは、定義上、政治的自由主義の諸原理を受け入れる人びとにかぎられる、と。

ロールズの正義。

抑圧じゃないのよ、正義の強制です

[ロールズ]にとって、よく秩序づけられた社会とは政治が消去されている社会であるということを示している。正義の概念は、その命令にしたがって行動する、理にかなって合理的な市民によって相互に実現される。おそらく彼らは、善にかんして異なる、さらには相互に対立するような概念をもっている。しかしそれはあくまでも私的な問題であり、彼らの公的生活に影響を及ぼすものではない。経済的、社会的問題にかんする利害対立は---もしそれがまだ生じるならば---、誰もが裏書きする正義の諸原理を喚起することによって、公的理性の枠組みのなかで討議をつうじてスムーズに解決される。もし理にかなっていない、もしくは非合理的な人物がその問題状況に賛同せず、その素晴らしい合意を破壊するようなことが起こるならば、彼女もしくは彼は、強制的に、正義の諸原理に服従させられるにちがいない。しかしながら、そうした強制は、抑圧とは無関係である。なぜならそれは理性の行使によって正当化されるからである。

民主主義の本質をなす同質性。

それには異質の排除が必要となる。

シュミットは次のように宣言する。「あらゆる現実の民主主義は、平等なものが平等に取扱われるというだけでなく、その避くべからざる帰結として、平等でないものは平等には取扱われないということに立脚している。すなわち、民主主義の本質をなすものは、第一に、同質性ということであり、第二に――必要な場合には――異質的なものの排除ないし絶滅ということである」。私はこのことを否定しようとは思わないが、後のシュミットの政治的展開を考慮に入れると、この主張はぞっとさせる効果をもっている。しかしながら、そのことを理由に民主主義において同質性が必要だというシュミットの主張を退けることは、近視眼的すぎる。

毒にも薬にもならない平等

シュミットの見解によれば、平等を語る際には、自由主義的平等と民主主義的平等という、ふたつのまったく異なる理念を区別しなければならない。自由主義の平等概念は、すべての個人がひとりの人間として、自動的に他のすべての人びとに対して平等であると措定する。しかし民主主義の平等概念では、デモスに帰属する者とその外部にいる者とを、区別する可能性が必要となる。そのため、それは必然的に不平等と関係する。自由主義の主張に反して、人類の民主主義とは、かりにそのようなものがあったとしても、純粋な抽象にすぎない。なぜなら平等が存在しうるのは、特殊な領域――政治的平等、経済的平等など――における特定の意味をつうじてのみなのである。けれどもそうした特殊な平等は、その可能性の条件として、何らかの形態の不平等をともなっている。したがってシュミットは、絶対的な人類の平等とは、実践的には意味のない、毒にも薬にもならない平等であるほかないと結論づけたのだった。
民主主義の平等概念が政治的なものであり、したがって区別の可能性をともなっていることを強調するとき、シュミットは重要な論点をついている。政治的民主主義がすべての人びとの一般性を基礎とはしえないこと、特定の人民に帰属しなくてはならないことを指摘する点において、シュミットは正しい。

(略)表むき、政治的平等が存する場合には、実質的不平等を合む他の領域、例えば今日においては、経済的なものが、政治を支配することになる。--シュミット

こうした議論は自由主義者の耳には心地よいものではないとしても、注意深く検討する必要があると、私には思われる。ここには、グローバリゼーションの過程は世界規模での民主化の基礎と、コスモポリタン・シティズンシップの確立の基礎となると信じている人びとへの重要な警告が含まれている。また、政治に対する経済の優位という今日支配的な状況への貴重な洞察も与えられている。実際のところ、そうしたコスモポリタンな市民流浪者は、帰属するデモスがなければ、法を措定するという自らの民主主義的権利を行使する可能性を失ってしまうことになりかねないことを意識すべきであろう。

自由主義は「人民」を定義できない

民主主義的な政治共同体の同一性が「われわれ」と「彼ら」の境界の線引きの可能性次第であることを強調することで、シュミットは、民主主義がつねに包摂と排除の関係を内包していることを浮き彫りにしているのである。これは決定的に重要な洞察であり、シュミットの思想は好ましくないといってこの問題を拒否するならば、民主主義者は間違った方向に進んでしまうことだろう。(略)
自由主義理論は、「人民」という政治的構成の中心的問題について適切に取り組むことができない。なぜならそうした「境界」の線引きの必然性それ自体が、自由主義的な普遍主義のレトリックと矛盾してしまうからである。自由主義が「人類」を強調するのに対して、民主主義の鍵概念が「デモス」と「人民」であることを強調することは重要である。

明日につづく。