民主主義の逆説・その2

前日のつづき。

民主主義の逆説

民主主義の逆説

討議民主主義者は、

利益集団中心の多元主義の限界を乗り超えようとして、シュミットの次の論点を見事に例証している。すなわち「自由主義的思考は、きわめて体系的なしかたで、国家および政治を回避ないしは無視する。そして、その代りに、二つの異質の領域、すなわち倫理と経済、精神と商売、教養と財産という典型的な、そしてつねにくり返しあらわれる両極のあいだを動揺するのである」。

ウィトゲンシュタイン

二つの相いれない原理がぶつかり合う場合は、どちらも相手を蒙昧と断じ、異端と謗る。さきに、私は他人を「攻撃」するだろう、と言った――だがその場合、私は彼に理由を示さないであろうか。勿論示す。だがどこまで遡るかが問題である。理由の連鎖の終るところに説得がくる」

われわれはなめらかな氷の上に迷いこんでいて、そこでは摩擦がなく、したがって諸条件があるいみでは理想的なのだけれども、しかし、われわれはまさにそのために先へ進むことができない。われわれは先へ進みたいのだ。だから摩擦が必要なのだ。ザラサラした大地へ戻れ!

シャンタル・ムフ

「政治的なもの」の位相を承認し、「政治」が敵意の馴致と人間関係のうちに存在する潜在的な抗争性の緊張を和らげることのうちにあると理解してはじめて、民主主義にとっての中心的な課題と私が考えているものについて問うことができるだろう。この課題は、合理主義者には悪いが、排除なき合意にいかにして到達するかという問題ではない。なぜならそれは政治的なものの消去を意味するだけだからである。政治が目指すのは対立と多様性のコンテクストにおいて統一を創出することである。

彼らが支持する複数主義は、抗争性なき複数性、敵なしの友、抗争性なしの闘争性を示唆している。ひとたび他者に対する責任をとり、その差異に取り組むことが可能になれば、あたかも暴力と排除は消えうるかのようである。それは倫理と政治とが完全に合致しうる一点が存在すると想像しているのであり、まさにこの点こそ私が否定しているものにほかならない。