脱構築とプラグマティズム シャンタル・ムフ編

脱構築とプラグマティズム 〈新装版〉: 来たるべき民主主義 (叢書・ウニベルシタス)

脱構築とプラグマティズム 〈新装版〉: 来たるべき民主主義 (叢書・ウニベルシタス)

『1.脱構築およびプラグマティズムと民主政治』
ローティの長所

ローティが最も役立つのは、カントの影響を受けたハーバーマスのような哲学者たちの主張を批判するときだと思われる。彼らは民主主義の優秀さを保証しうる超政治的な立場をみいだそうとしている。「民主政治を追求せよと言えるような、政治的に中立ですべての人にとって正当であるような前提をみつけだそうとする無駄な仕事はやめるべきだ」というローティの主張は文句なく正しい。ローティによると、民主的でリベラルな原則で定義されるのは一つの言語ゲームにすぎないことを認めなければならない。したがって、「コンテクストに依存」しない論拠を探し出して、他の政治的言語ゲームに対して民主的でリベラルな原則を守ろうとするのは不毛なことなのだ。
 アーベルやハーバーマスとは反対に、ローティは普遍主義的な道徳哲学を言語哲学から導き出すのは不可能だと主張している。彼によれば、あらゆる聴衆に向かって自由民主主義の優秀さを証明する基礎となりうるものが、言語の本質のなかに存在しているわけではない。民主主義の進歩は合理性の進歩と結びついていると考えても無駄である。
(略)
ローティにとって民主主義が進歩するのは、合理性とか普遍主義的道徳論によってではなく、センチメントや共感によってなのだ。ローティは道徳的進歩を獲得するには、哲学論文よりも『アンクル・トムズ・キャビン』のような書物のほうが、はるかに重要な役割を果たしたと考えている
(略)
「啓蒙のリベラリズムから啓蒙主義的な合理主義という外皮を剥ぎとる」べきときだというローティの確信には、私も同感である。現在のように民主主義に対して不満が増大している状況では、民主主義的な価値や制度への強烈な支持を確実にする方法を理解するとともに、そうした理解にとって合理主義は一つの障碍にほかならないのを理解することが特に重要なのである。
(略)
最近の道徳哲学や政治哲学では、リベラルな制度の正統性の確保に必要な議論ばかりが強調されてきたが、それは問題の立て方を間違えていたのだ。
(略)
自由民主主義の原則への忠誠や支持を確保するために必要なのは、民主主義的なエートスを創り出すことである。そのためには、情動や情念を動員する必要がある。つまり民主的主体や民主的形態の意欲を実現できる状況をもたらすような、実践や制度や言語ゲームを増大させることが必要なのだ。
(略)
無知のベールのもとで、あるいは歪みのないコミュニケーション状況において、合理的個人によって選択されることが証明できれば、民主的制度はより確固たるものになると信じるようなタイプの自由主義とは反対に、ローティのプラグマティズムは理性の主張の限界に気づかせてくれる。

ローティの欠点

クリッチリーやラクラウと同様に、私にもローティのリベラルなユートピアやそれにともなう自己満足の危険については大きな疑問がある。
(略)
彼の考えでは、人間的幸福の敵は貪欲や怠惰や偽善であって、それらを取り除く方法を理解するには格別鋭い分析が要るわけではない。「われらリベラル」がめざすべきものは、リベラルな制度について最大限可能な同意を創り出すことである。必要なのは――彼が寛容の強化と苦痛の軽減という言葉で定義する――自由主義を最大化することであり、自由社会を増やすことである。民主政治とはより多くの人々をモラルや会話の「仲間」にするという問題にすぎない。彼が敬愛するジョン・デューイと同様に、社会的葛藤に関するローティの理解には限界がある。それは価値の多元主義の意味を彼が受け入れえず、基本的価値の間の対立はけっして解決できないことを認めないからである。
(略)
実に奇妙なことだが、政治や民主主義についてのローティの暗黙の前提を吟味すると、彼が――対話や会話を強調することも含めて――予想以上にハーバーマスに似ているのがわかってくる。たとえばモラルや政治の進歩を、ふたりとも自由民主主義のモデルの普遍化という観点からみている。ふたりの違いは、ハーバーマスがその過程は合理的議論によって進むと考え、西欧自由主義の優越性の根拠ともなってあらゆる文化に妥当する前提の上に立つ議論が必要だと考えているのに対して、ローティが説得や経済的進歩に望みをかけているところにある。
(略)
問題は、ローティがハーバーマスと共有している事柄にある、いやむしろ両者に欠けている事柄にあるのだ。はっきり言えば、どちらも対立のもつ重要な役割や、多元的社会において対立が果たす重要な統合機能を理解できないのである。ふたりが民主主義についてのいわゆる「合意」論を提示するだけに終わっているのはこのためである。
 こういうやり方でふたりは、民主政治の極めて重要な次元を一掃してしまおうとしているのである。実を言うと自由民主主義の特性は、対立を正当なものとして認め、権威主義的な秩序を作って対立の除去を図ったりしないところにある。自由民主主義は、何よりもまず多元的な民主主義なのである。
(略)
ハーバーマスの場合のように、抑圧のない自由なコミュニケーションという統制的理念に近づくものとしてみるにしても、対立は最後には最終的解決に達しうると信じるのは、多元的民主主義のプロジェクトを危険にさらすものである。
(略)
 デリダが力説しているように、決定不可能性を厳密に考慮しないかぎり、政治的決定や倫理的責任という概念を考えることはできない。
(略)
決定にはどこまでも決定不可能性がつきまとう以上、政治化がやむことはない。どういう合意も、本質的に不安定である混沌の固定化として現れるが、混沌や不安定を何ものかに還元することはできない。しかしデリダが指摘するように、継続的な安定が政治や倫理の終わりをあらわすものであるかぎり、混沌や不安定は危険であるとともにチャンスなのだ。
(略)
葛藤や対立は多元的民主主義が存在しうる条件なのだから、葛藤や対立は民主主義の究極的達成が不可能であることの条件でもある。これが脱構築が明らかにしている「ダブル・バインド」である。デリダの言葉を借りれば、これこそ民主主義がいつまでも「来たるべきもの」であり、決定不可能性によって妨害されて、約束という要素がどこまでも開かれたままになっている理由なのである。

『2.脱構築プラグマティズムについての考察』

 合衆国でもイギリスでも何も知らない保守的な人々がデリダを読むと、彼は常識や伝統的な民主主義的価値を軽薄かつシニカルに軽蔑しているような気がする。(略)
 それに対してアメリカ文学界のデリダ・ファンたちは、彼を言語や自己についての考え方を変えさせた哲学者として読んでいる。
(略)
 こういうデリダの解釈はどちらも同じように疑わしいものだと思う。
(略)
[このような誤解は]大衆ジャーナリズムが、デリダフーコーを「フランス・ポスト構造主義」というレッテルを貼って一括して扱ったせいである。
(略)
フーコーデリダの大きな違いは、デリダは感覚が鋭く未来を信じ、ロマンティックなほど理想主義的な著作家であるのに対して、フーコーは社会に関する希望や人間的感情はいだかないようにしているかに思われがちであるところにある。(略)
「書物」は「テクスト」によって取って代わられるだろうという予言はしても、デリダは注解を加えるテクストの背後にいるすぐれた作者に賞賛を惜しまない。彼らが作者であることに何の疑いもいだいていない。(略)
人間のすぐれた想像が無名の「ディスクール」の形で自由奔放に広がっている書物を解体しようとしているわけではない。
(略)
 次に英語圈のファンによるデリダの誤解について言うと、デリダのファンたちが彼はヒューマニズムを批判していると考えているのは実に不幸なことだと思う。
(略)
デリダは、ミルやデューイと同じようなヒューマニストであるように思われる。デリダ脱構築のことを「来たるべき民主主義」を予告するもののように語るとき、私には彼が民主主義初期の夢想家たちがいだいていたのと同じユートピア的社会理想を表明しているように思われる。
(略)
 英語圈のデリダ・ファンたちは、文芸批評家がマルクスフロイトを長いこと使ってきたのと同じ目的のためにデリダを使っている。(略)
書物や著者の仮面を暴く新しい優れた道具をデリダが与えているように思われるのだ。
(略)
 そうしたファンたちはまた、「脱構築」という一つの方法があって、それをテクストに適用したり、学生に教えたりすることができるように思っている。しかしそういう方法がどういうものなのか考えようがない。「自己矛盾にみせかけられる何かをみいだし、その矛盾こそがテクストの中心的メッセージであると主張して、それに何らかの変更を加えよ」というような原理を除けば、学生に何を教えることができるのか私には想像もつかない。そうした原理を適用して1970年代や1980年代に作り出されたのが、テクストに関するアメリカやイギリスの大学教授たちによる無数の「脱構築的解釈」というものだ――それは紋切り型の退屈きわまる解釈であって
(略)
 こういった脱構築的活動の混乱は文学理解に資するところはほとんどなく、左翼の政治にもほとんど役立たなかったと思われる。それどころか現実政治から目をそらして、――1960年代の左翼と同様――体制に吸収されないことを誇りとしていただけに、体制の改善に資することもない自己満足に陥った狭量な大学の研究活動を生み出すのに役立っただけである。「この連中が望んでいるのは政権をとることではなく、英文科を牛耳ることにすぎない」というよく引かれるアーヴィング・ハウの嘲笑が、私には依然として大学の研究活動に対する垂要な批判であるように思われる。
(略)
彼の思想のなかにある独特のレヴィナス的な調子には悩まされる。特にレヴィナスの無限者へのパトスは、私にはそれを倫理や政治と結びつけることができない。倫理や政治――文化としての政治に対立するものとしての現実政治――は、対立する利害を調停することであって、――哲学的分析は不必要で哲学的前提も要らない――陳腐な身近な言葉で論議されるべきものだと私は考えている。

『7.脱構築プラグマティズムについての考察』

解放の言説を目的論や形而上学や終末論や古典的メシアニズムに刻みつけようとは思いませんが、解放に対する「肯定」、解放の言説の「肯定」、さらに付け加えればある種のメシア性の「肯定」を抜きにして、倫理的・政治的決定や意志表示はないと考えています。
(略)
約束では口を開けた瞬間にもう約束したことになります。「真理があるとは信じない」とか何であれ、口を開いた瞬間に、「私を信じてください」が働いています。たとえ嘘をつくときでも、特に私が嘘をつくときには、「私を信じてください」が働いています。
(略)
たとえ守られなくても、たとえ守られえないことがわかっていても、なされるのが約束であり、約束であるかぎりメシア的なものなのであります。この観点からみると、解放というモチーフやメシア的なものを放棄した場合に、どうして倫理の問題を立てることができるのか私にはわかりません。
(略)
私はこの態度をユートピア的とよぼうとは思いません。
(略)
約束や語るという事実は今ここで起こる事実であり、ユートピア的なものではありません。それは参加という独特の出来事において起こります。そして私が「来たるべき民主主義」と言ったとき、それは民主主義は明日には実現されるだろうという意味ではありませんし、未来の民主主義のことを言っているのでもありません。むしろそれは、メシア的な瞬間に「それは到来するかもしれない」と言う約束の消去不可能性を承認することを本質とするような民主主義に関する参加があるという意味なのです。未来があります。来たるべき何ものかがあるのです。
(略)
それは今ここで起こることであり、私が現前とはいつも区別しようとしている今ここで起こるのです。
(略)
脱構築はわれわれに政治的なものを考えることを許し、民主主義的なもののなかに閉じ込められないために必要な余地を与えて、民主主義的なものを考えることを許します。政治的なものについて問題提起をつづけるためには、政治的なものから何かを引き去り、民主主義のためにそれと同じものを与える必要があります。これが民主主義を非常にパラドクシカルな概念にすることは言うまでもありません。
(略)
[政治的左翼の衰退をみる]ローティが正しいとしても、左翼の人間である私は、脱構築のある要素が、単にアカデミックではない立場について左翼を政治化する、あるいは再び政治化するのに役立ったし、――特に合衆国では闘争がつづいているわけですから――役立つだろうと思っています。
(略)
 決定不可能性または無限責任というテーマが、ローティが言ったようにロマンティックであるとは思いません。
(略)
レヴィナスのためにも私自身のためにも、責任の無限性を捨てれば、責任は存在しないと私は言いたい。
(略)
「決定した」とか「自分の責任は果たした」と誰かが言うのを耳にするたびに、私はそうかなあという気がしますが、それは責任や決定というものがあるかぎり、それを明確に決定することはできず、それについて確信したり安心したりすることはできないからです。もし誰かについて特によく行動したとしても、それが他の人にとっては損失になることはわかっており、ある国のためになることは他の国にとっては損失であり、ある家族にはいいことも他の家族にとっては損失になり(略)
これが責任のうちに刻みつけられている無限なのです。そうでなければ倫理的問題は存在しないでしょうし、決定ということも存在しないでしょう。
(略)
最終的にはローテイは、選択はないのだとか、選択という言葉が使われてもそれも「そういうもの」にすぎないと言おうとしているのでしょうか。私たちと選択や決定や責任との関係について語る場合に、私はしばしば「もしあれば」という言葉を使いますが、この言葉はそういうものは存在しないとか、不可能だという意味ではありません。
(略)
私たちと選択や決定や責任のような事柄との関係は(略)いつでも保留状態にある関係なのです。たとえ最善の決定をしたと思っていても、実際に自分が決定したかどうかはわかりません。しかしこういう決定をする可能性に身を委ねて、「もしあれば」と考えることが必要なのです。

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