政治的なものについて シャンタル・ムフ

リベラリズムの中心的欠陥

本書の目的は、政治の領野におけるリベラリズムの中心的欠陥――敵対性の打ち消しがたい特質を否認すること――を白日の下にさらすことである。(略)
合理主義的で個人主義的(略)リベラリズムは、多元主義のひき起こす対立――いかなる合理的な解決もありえないような対立――をともなった、社会的世界の多元的性格を正しく把握することができない。(略)
敵対的な次元における政治的なものを否認するのである。
 このように理解されるリベラリズムに対するもっともラディカルな挑戦は、カール・シュミットの著作にみいだされる。
(略)
 シュミットの方法の主要点は、あらゆる合意が排除の行為に依拠することを示し、このことで、完全に包括的な「合理的」合意の不可能性をあきらかにすることにある。
(略)
リベラリズムは敵対性を否認しなければならない。なぜなら敵対性は、決断という逃れようのない瞬間――決定不可能な地勢で決断しなければならないという強い意味合いで――を前面に押し出すことにより、あらゆる合理的合意の限界をあきらかにするからだ。
(略)
彼によれば、政治的なものを無化しようというリベラリズムの試みは失敗する運命にある。政治的なものは消滅しない。なぜならそれは、人間の、きわめて多様である活動から活力をえるからだ。「いかなる宗教的・道徳的・経済的・人種的その他の対立も、それが実際上、人間を友/敵の両グループに分けてしまうほどに強力である場合には、政治的対立に転化してしまう」。
(略)
 討議モデルの主要な提唱者であるユルゲン・ハーバーマスは、シュミット[を](略)
次のように主張することで厄介払いしようとする。合理的合意の可能性に疑問をいだき、のみならず政治について、不一致が当たりまえの領域であると断言する者は、民主主義の可能性そのものを掘り崩す、と。
(略)
[だが]政治がその本性上、対立をはらむことを強調するシュミットの議論は、民主主義政治の目標を認識していくうえで出発点になる、と[著者]。(略)
民主主義政治の種差性は、われわれ/彼らの敵対を乗り越えることにあるのではなく、むしろこの敵対を設定するやりかたの多様性にこそあるのだ。
(略)
 もちろんこの点で、私たちはシュミットと意見を異にする。なぜなら彼は、民主主義の政治的共同体の内部において多元主義の余地はないと決然と主張するからである。(略)
だから私がここでやろうとするのは、「シュミットとともに、シュミットに抗しつつ」思考することである。シュミットを援用するからといって、リベラル民主主義の政治そのものを否定しようとは思わない。むしろ、その新たな理解を提示するために、リベラルな個人主義と合理主義に対するシュミットの批判を活用するのである。
(略)
[われわれ/彼ら、友/敵のように]
政治的アイデンティティの本性が関係的であることを示すことで、彼はたとえばポスト構造主義(略)のような、いくつかの思考の流れを予見している。
(略)
 「構成的外部」という概念は(略)ヘンリー・ステーテンが、「代補」「痕跡」「差延」といった概念をめぐってジャック・デリダが展開したいくつかのテーマに言及するときに提示した概念である。
(略)
[黒人と白人、男と女、といった]差異の肯定がアイデンティティの存在の前提条件であること、すなわち差異の肯定とはアイデンティティの「外部」を構成するなんらかの「他者」の知覚であること――これらのことを理解するならば、おそらく、敵対性はつねに実在している可能性であるというシュミットの主張をよりよく理解し、さらに、社会的関係がいかにして敵対性を醸成する土壌になりうるかについても、理解をふかめていくことができるだろう。
(略)
敵対性の関係を「和らげられたもの」へと構築するものはなにか?
(略)
対立者を、諸々の利害を交渉で調整できたり、あるいは、討議によって調停できたりするような競合者とみなすべきではない。なぜならこのような場合においては、端的に敵対的な要素が除去されているからだ。一方で、対立の敵対的な次元が永続することを認め、他方で、それを「和らげること」の可能性を認めるのであれば、関係性の第三の類型をみいだす必要がある。これは、私がかつて「闘技」と呼ぶことを提案した関係性の類型である。(略)
そこでは、彼らは「対抗者」であり、敵ではない。つまり彼らは対立において、自分たちが同じ政治的連合体に属しており、共通の象徴的空間――そこに対立が発生する――を共有する者と把握する。民主主義の課題は、敵対関係を闘技へと変容させることといえるのである。(略)
異議申し立てする声のために闘技的で正当性をもった政治的回路が存在するなら、敵対的な対立は出現しにくくなるだろう。さもなければ異議申し立ては、暴力的な形態をとる傾向を帯びる
(略)
[著者の「対抗者」の観念がリベラル派と違うのは]
敵対性は抹消しえず、むしろ、「昇華」されなければならないからだ。リベラル派にとって対抗者は、競合者でしかない。政治の場は彼らにとって中立的な領野でしかなく、そこで異なる集団が権力の位置を占有しようとたがいに競い合うと考えられているのだ。競合者たちの目的は、他者を退かしてそのあとをかわりに占めることでしかない。彼らは支配的なヘゲモニーに疑義を呈することなく、また、権力諸関係を根本的に変容しようと試みることもない。それはせいぜいのところ、エリート間の競合でしかないのだ。

情動を民主主義的に動員することの意義

 ナショナリズムを構成する諸々の同一化の形態において、情動の次元はきわめて強力である。(略)
集合的な同一化が、つねに、われわれ/彼らの分化を通じて生じることに留意するなら、ナショナリズムがいとも容易に敵意へと転化することがわかるだろう。(略)
[それを]回避するやりかたを認識するには、それらを支える情動的な紐帯の存在を認める必要がある。合理主義的方法が締めだしてしまうものはまさしくこれであり、それゆえにリベラリズムの理論は、ナショナリズム的な敵対性の噴出を前にしてなす術がないのだ。
(略)
 フロイトとカネッティから導き出される教訓は、個人主義化をきわめた社会であっても、集合的な同一化はずっと必要とされるということだ。それは人間存在の実存の様態を構成するからである。
(略)
政治的な問題が合理的に処理される時代に移行しつつあるなどと信じるならば、情動を民主主義的に動員することの意義を見逃すことになり、そのせいでこの領域を、民主主義を掘り崩そうと望む人びとに譲り渡すことになりかねない。
(略)
政治にはつねに、「党派的な」次元が備わっており、それゆえに政治に関心をいだく人びとは、現実の選択肢を提示する政党のあいだで選択が可能である必要がある。だが、これこそがまさしく、「党派なき」民主主義を賞賛する現代の趨勢に欠落している事柄なのだ。

左派の課題

共産主義の失敗から導き出しうる教訓があるとしたら、民主主義の闘争は友/敵の観点からみられるべきではないということ、そして、リベラル民主主義は破壊されるべき敵ではないということだ。「万人の自由と平等」をリベラル民主主義の「倫理的政治的」原則(略)とみなすなら、私たちの社会で問題となるのは、それらが唱導する理想そのものではなく、むしろ、これらの理想が実践されていないという事実である。それゆえに左派の課題は、これらの理想を、資本主義の支配を隠蔽する虚偽でしかないと主張して拒むのではなく、これらが効果的に成就されるのを目指して戦うことなのだ。そしてもちろんこれは、現行の資本主義を統御する様態であるネオリベラリズムに挑戦することなくしては不可能である。

ウルリッヒ・ベックの見解

ウルリッヒ・ベックは、懐疑が妥協の形成を促し、それが対立の乗り越えを可能にしていく積極的な役割を好んで強調する。(略)
彼は、いまや懐疑主義が一般化し、疑念が中心的なものになっていることで敵対的諸関係の出現がはばまれているという。私たちは、真実を所有することができるという信念、すなわちまさに敵対性がそこから湧きでてくるところの信念をもつことのできない時代、両義性の時代へと移行しつつある。それゆえ、敵対性が出現するための土台そのものが除去されつつある、というのである。それゆえ、左派と右派の見地から語ったり、集合的アイデンティティを「過去の遺物」を中心にして組織化したりする試みは却下されることになる。そして、「徹底化された近代化に特有の政治綱領は懐疑主義だ」と断言するところにまでたどりつくのである。
 ベックの見解によれば、懐疑が一般化した社会においては、友と敵の見地から思考することができず、それゆえに対立の緩和がつづくことになる。所有できる真実があるという信念を放棄するなら、人びとはすぐ、自分とは異なる考えに対し寛容でなければならないことに気づくだろうし、それにつれて、自分たちの考えを押しつけることなく、妥協が可能であると信じるようになるだろう。このことはベックにとっては自明なのである。闘技的なやりかたでいまだにふるまう者がいるとしたら、それは旧来の範疇にしたがいながら思考するため、独断的な確実性を疑えない者だけである。(略)かくして当然のごとく、コスモポリタン的な秩序の到来が展望できるのである。

アンソニー・ギデンズ

主要概念は「ポスト伝統社会」である。(略)
 ギデンズは、いまや「生きることの政治」、すなわち「解放」を志向する政治とは正反対の見地から思考すべきであるという。(略)
 ギデンズはベックとともに、新しい個人主義が成長しつつあり、通常の政治のやりかたに対し現実的な挑戦を突きつけていることを強調する。(略)
制度化された個人主義を、たとえば個人的責任と集合的責任のあいだにより適切な均衡をもたらすなど、多くの積極的な可能性を切り開くものとみなしている。
(略)
ギデンズは、左派/右派の区分を時代遅れのものとみなしている。(略)
ポスト伝統社会という情勢から生まれた新しい諸問題、つまり「生きることの政治」にかかかるすべての争点は、左派/右派という枠組みのなかでは表現できないのである。(略)
[「生成的な政治」とは](1)望まれた成果は上層部から決定されない、(2)能動的な信頼が構築され維持されうるための状況がつくりだされる、(3)特定のプログラムや政策によって影響をこうむる人びとに自律が認められる、(4)物質的な富をふくむ、自律性を高める諸々の資源が生成される、(5)政治権力が脱中心化する。(略)
ギデンズがいうには、いま必要なのは「能動的な信頼」である。ポスト伝統化の情勢では、諸制度が再帰的になり、専門家の提示する案は市民の批判にさらされる。そのため、信頼は受動的であるだけでは十分でなく、能動的にならなければならない。(略)
専門家システムは対話的にならなければならない。こうして彼は、「対話型民主主義」を提唱するのである。(略)
素人が専門家の権威をあてにするのではなく、むしろ専門家のシステムヘと再帰的に関与していくことを意味している。
(略)
ベックの議論と同じように、(家族をふくむ)おもな社会制度を、討論と異議申し立てへと開くことで民主化しなければならないとギデンズは主張する。
(略)
 もちろんギデンズは逆行の可能性を考慮に入れていないわけではなく、伝統的な諸関係の復活の主張が原理主義や暴力の温床となりうることをわきまえている。しかし彼は、ポスト伝統社会の未来について、基本的には楽観しているのである。ギデンズの強調するのは、再帰的近代では、伝統が自己正当化を強いられているという事実、そのうち言説によって正当化されるものだけが存続可能であるという事実である。
(略)
個人主義が進展するにつれ、労働組合と政党は瓦解し、それらがかつては醸成していたたぐいの政治は無力化する。
(略)
[問題は]ベックとギデンズの方法が、政治の対抗モデルの終焉を宣言するあまり、政治的対立を「闘技的」形態にする可能性をあらかじめ除去してしまうということだ。それゆえに、異議申し立てのための唯一可能な形態は、「敵対的」なものでしかなくなる。
(略)
 ベックとギデンズはもちろん、「進歩派諸勢力」が勝利し、コスモポリタン的な秩序が確立されるだろうと確信している。(略)[しかし]どうすればそこにたどり着くのか?そしてその途上、なにが起こるのか?(略)
彼らは社会的流動性を強調するが、「再帰的近代」が新しい階級の出現をどうみるのかについては完全無視を決め込んでいる。
(略)
ベックとギデンズは、対抗モデルの終わりを宣告しておきながら、対抗者、ないしは敵を定めてしまう。すなわち、再帰的近代化の過程に反対する「原理主義者」という敵である。(略)
彼らはこの対話の過程に参加することができない。というのもその対話の過程の境界線はじつのところまさに彼らの排除によって構築されているからである。これがはたして、典型的な友/敵の区別でなかったらいったい何だろう?

ギデンズと第三の道

彼はいつも「第三の道」として言及される中道左派の立場を知的に基礎づけようとしたと評される。(略)
 ギデンズは断言する。社会民主主義は、二極的な世界システムが終わり、共産主義のモデルが失効したことと歩調を合わせていかなければならない、と。(略)
 彼の論旨の背景には、現在のグローバリゼーションのもとでは、かつては社会民主主義の要石だったケインズ主義の経済運営が徹底的に弱体化したという前提がある。(略)左派と右派とを隔てていた主要な境界線が消えてしまった。社会民主主義者は、資本主義に対するオルタナティヴがもはや存在しないことを認識しなければならない。(略)
古典的社会民主主義は、新しい個人主義の本質をうまく捉えることができず、それを、共有される価値観と公共的な関心を破壊するものと非難してしまう。(略)
彼は自由貿易を是認するが、その破壊的影響は社会正義との関連で是正する必要があると忠告している。そして最後に彼は、こう宣言するのである。集産主義は放棄すべきである、そして個人主義の進展は自己責任の拡張をともなわなければならない、と。(略)この新たな関係性を表現するモットーは、「責任なくして権利なし」だろう。第三の道のそれ以外のモットーには、「民主主義なくして権威なし」がある。ポスト伝統社会では、権威を正当化する唯一の道は民主主義である、とギデンズはいう。(略)
彼が唱導する改革には、分権化、公共圈の役割の拡大、行政の効率化、月並みな投票制度を超える新しい民主主義の実験、リスク管理における公的介入の増大といったものがふくまれる。
(略)
 ギデンズがこの新しい民主主義国家を、「敵のない国家」とみなしている[のは](略)
対テロ戦争」が叫ばれる今日においてはもはやどうしようもなく時代遅れのようにみえる。(略)
彼は自分の目的が、社会民主主義の再建に寄与することにあると主張する。しかしながら、ここでいわれる再建がじつのところ、社会民主主義のプロジェクトに、資本主義の現段階を受容させることでしかないのは明白である。
(略)
 ギデンズは、旧来の左派と右派の分裂を乗り越える方策の一つとして、国家と市民社会のパートナーシップを設立していくことを提唱する。このアイデアは、新労働党が積極的に採用し、「官民パートナーシップ」なるものによって実現されたが、公共サービスに悲惨な結果をもたらすことになった。
(略)
国家が投資のために資金を調達し、企業家が利潤を獲得する。(略)被害を受けるのは市民なのだ!
 このように、社会民主主義の再建なるものは、「ネオリベラリズム社会民主主義的変種」を産み出している。
(略)
政治は、左派と右派のあいだで闘技的な論争が生じる場であることをやめ、「操作」へと引き下げられる。もはやそれらのあいだには根本的な差異がないため、諸政党は広告業者の助力をえながら怜悧なマーケティングをおこない、みずからの製品を売り込もうとするのである。その帰結は、政治不信の増大であり、投票率の激減である。民主主義の過程への信頼を市民が完全に喪失するのは、もはや間近のことではないか?

次回に続く。

 

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