僕を作った66枚のレコード 松村雄策

個人的に耳タコ[←悪い意味ではない]な著者の定番ネタ(ビートルズ関連)を外して、目新しいとこを中心に引用しました。

僕を作った66枚のレコード

僕を作った66枚のレコード

『妖女ブロンディ』

[ロンドンのパンクとはちがって]
ニュー・ヨークではそれまでの音楽への尊敬の念が、明らかになっていた。(略)
 ブロンディのレコードを初めて聴いたときのことは、今でも覚えている。(略)いやあ、面白かった。まるでフィル・スペクターの作るガール・グループのような曲を、ウォール・オブ・サウンドとは真逆のチープな演奏で飛ばしている。
 かっこいいっちゃ、ありゃしない。その頃、そういう表現はなかったかも知れないのだけど、正にガレージ・バンドだった。明らかに香港映画にインスパイアされた“戦え、カン・フー・ガールズ”とか、東京が巨大アリに襲われるという“恐怖のアリ軍団”なんていう曲もあった。いかにもニュー・ヨークの下町のバンドらしくて、面白かった。
 しかし、このデビュー・アルバム『妖女ブロンディ』は、ヒットしなかった。パンク・バンドととらえたのが、間違いだったのだろう。1976年である。パンクは破壊的であるか文学的であるかという概念が、強い時期だった。ブロンディ自身も、パンク・バンドだとは思っていなかっただろう。CBGBあたりによく出演していたから、いっしょになっただけだろう。
(略)
一枚目のジャケット写真を見てもらいたい。全員黒ずくめの服装で、デボラ・ハリーもTシャツのようなものを着ている。裏の写真でも、彼女はチェックのシャツに黒のジーパンである。
 つまり、パンク・バンドでもなかったし、セックス・シンボルになるつもりもなかったのだろう。それが、二枚目のジャケットではピンクのミニ・ドレスになり、レコードもヒットする。三枚目の『恋の平行線』では白いドレスで、“ハート・オブ・グラス”というナンバー・ワン・ヒットも作ってしまう。もともと、彼等はディスコが大っ嫌いで、冗談で“ハート・オブ・グラス”を録音したら、それが大ヒットしてしまったという。(略)
[さらに]ジョルジオ・モロダーで“コール・ミー”をレコーディングして、これもナンバー・ワン・ヒットになった。大っ嫌いだったディスコを冗談でやっていたロック・バンドが、世界中のディスコで流されるスーパー・ヒット・ソングを二曲も作ってしまったのだ。
 ここらへんから、バンド・メンバーは違和感を持つようになったようだ。

妖女ブロンディ(紙ジャケット仕様)

妖女ブロンディ(紙ジャケット仕様)

『チープ・トリック・アット・武道館』

 70年代の日本の洋楽ロック・ファンには、女子高生がいっぱいいた。(略)そういった女の子達が洋楽ロックを支えていたところもあったなと今では思う。
 彼女達は実に活動的であって、たとえば「ロッキング・オン」の編集部にみんなでやって来たりもした。(略)
 また、コンサートのチケットを取ってくれとか、東京へ行くのでホテルを予約してくれとか、ファンレターを本人に渡してくれとか、分からないことをたくさん言われた。
(略)
 どこで調べたのか、自宅にまで電話がかかってきた。深夜であろうと早朝であろうとまったく関係なくて、まだ留守番電話がない頃だったので困った。休み明けの始業式の日は、一日中ベルが鳴っていた。久しぶりに仲間が集まって、誰かが僕の電話番号を知って、面白がって、みんなでかけてくるのである。
 なかには、「友達のAちゃんが松村さんと初体験をしたと言ってるんですが、本当ですか?」なんてのもあった。思わず、「それは事実ではないけど、Aちゃんの電話番号を教えてくれる?」と言いそうになったりもした。
 イギリスやアメリカでブレイクする前に、日本でスターになったバンドというのは、考えてみると、みんなそういった女子高生のロック・ファンが後押ししていたのだろう。彼女達にとっては、音楽とルックスは同じぐらいに重要だったのだから。
 おそらく、それの最初がクイーンだろう。そして、その次がチープ・トリックだろう。
(略)
美青年二人とコミカルなおじさん二人のグループ
(略)
 このキャラクターは当時全盛だった少女マンガにぴったりで、どのロック・ミニコミを見ても必ずチープ・トリックの四こまマンガが載っていた。
 このライヴ・アルバムは当初日本でのみの発売だったのに、アメリカでも評判になって日本盤を輸入するという騒ぎにな[り、米盤も400万枚の大ヒットに]
(略)
なんといっても、“甘い罠”だろう。
 レコードではエコーのように繰り返されていた“クライン、クライン、クライン”を、武道館いっぱいの女子高生が歌ったのである。
 そうなのだ、『チープ・トリック・アット・武道館』を世界のベスト・セラー・レコードにしたのは、日本の女子高生達の歌声だったのである。

ザ・ウォーカー・ブラザーズ『ダンス天国』

 さて、1967年2月から約一年間、日本でもっとも人気があったグループは、ウォーカー・ブラザーズだと、僕は確信している。
(略)
プロモーションのために来日して(略)“ダンス天国”を歌いまくったのだ。これが、かっこ良かった。ロック史上もっともかっこ良かった男を選べと言われたら、僕はこのときのスコット・ウォーカーを挙げる(略)
 ともかく、ミーハーの女の子のロック・ファンがみんな飛びついて、1967年の春はウォーカー・ブラザーズの“ダンス天国”一色になった。ところが、その三か月後の五月に、彼等は解散してしまう。
(略)
 しかし、日本でのウォーカーズの人気は凄まじく、なんと1968年1月には日本ツアーが行われた。(略)これに関して、スコットは「断れないくらいのギャラを提示されたから」と素直に語っている。

Take It Easy With

Take It Easy With

ザ・スパイダース〜ファースト・アルバム』

デビュー・シングル“フリ・フリ”に、ロック・ファンはみんなびっくりした。マージー・ビート系の曲を、日本人が日本語で演奏していたのだから。
(略)
 このレコードが画期的だったのは、全曲オリジナル作品だったことである。全十二曲中、かまやつ作曲が九曲、大野作曲が二曲。かまやつ作詞が二曲、田辺作詞が一曲。惜しいのは、メンバーが作詞作曲に関与していない曲が一曲だけあることである。(略)
 それはともかくとして、『ザ・スパイダース〜ファースト・アルバム』こそ、初めての日本のロック・バンドのLPということになる。これは寺内タケシとブルー・ジーンズもそうなのだけど、ベースやドラムスがしっかりと録音してあるというのは、1965年1966年の日本では、考えられないようなことだった。

ザ・ドアーズ『ハートに火をつけて』

 このレコードは4トラックでレコーディングされて、ほぼスタジオ・ライヴだったという。「音を重ねることも、ほとんどなかった。注意深く聴けば、ギターとオルガンが同じチャンネルに入っていることが分かるよ(笑)」ということだ。
 11分35秒の“ジ・エンド”だけ、2テイク録ったという。「ふたつのテイクの前半と後半を、編集してつなげたんだ。ジムが〈ザ・キラー・アウォーク・ビフォー・ドーン〉と言ったところで、サウンドが徴妙に変わるのが分かるよ」
 この“ジ・エンド”をレコーディングした後、ジム・モリソンは興奮が収まらなかったようで、真夜中にスタジオに侵入して、中を目茶苦茶にしたらしい。訳がわからない。そう、知性と狂気が、ジム・モリソンだったのである。リザード・キング!(略)
 記者に「LSDとは何か?」という質問をされて、ジム・モリソンは「ラヴ、セックス、デス」と答えている。ここらへん、さすがである。『ザ・ドアーズ』はラヴ、セックス、デスでもあり、セックス、ドラッグ、ロックンロールでもある。奇跡的な名作である。

ザ・ワイルド・ワンズ・アルバム』

 [加瀬に]あの頃好きだったバンドは?と訊ねたら、ローリング・ストーンズと言うので、僕はびっくりしてしまった。だって、髪を七・三に分けた、慶應の大学生だぜ。
 寺内タケシは事務所からの独立を考えて、加瀬さんも誘った。しかし、もうヴォーカル中心のバンドを考えていた加瀬さんは断った。翌日、寺内タケシは病気という理由で、ブルー・ジーンズを脱退した。そして、バニーズということになるわけだ。
 自分が抜けようと思っていた加瀬さんは、逆にブルー・ジーンズのリーダーにされてしまった。(略)
ビートルズのステージを見た加瀬さんは、自分のバンドの結成を目指す。それまでのバンドマン的気質を嫌っていた加瀬さんは、東京・神奈川のアマチュア・バンドから三人を誘う。
 ワイルド・ワンズである。(略)
ブルー・ジーンズ脱退後約半年である。ここらへんの素早さは、やはり普通の人ではない。「だけど、リハーサルを始めたときは全然駄目で、これは失敗したかなと思ったよ(笑)」
 ストーンズが大好きな加瀬さんは考えるだけ考えて、十二弦ギターのフォーク・ロックにする。それで、“想い出の渚”を作ったのだから、これは才能というしかない。
 三曲目のシングル“夕陽と共に”はエレキ・シタールを弾くつもりだったのに、レコード会社のディレクターに反対された。四枚目のシングル“青空のある限り”はファズを使って、ストーンズに近い音になっている。やりたかったんだろうな。「十二弦にファズかけてるんだからね(笑)」

ザ・ワイルド・ワンズ・アルバム(紙ジャケット仕様)

ザ・ワイルド・ワンズ・アルバム(紙ジャケット仕様)

『ジャックスの世界』

 デビュー・シングルの“からっぽの世界”を聴いて、デビュー・アルバムの『ジャックスの世界』を聴いて、これは日本のドアーズなのではないかと、僕は思った。しかし、これは最近になって分かったのだけど、リーダーの早川義夫が“からっぽの世界”や“マリアンヌ”を作曲したのは、ドアーズの“ライト・マイ・ファイアー”がビッグ・ヒットする1967年夏以前のことだったのである。
(略)
 早川が影響を受けたバンドは、ビートルズだけである。しかし、ジャックスには、あまりビートルズ的要素は見つけられない。というのは、早川が受けたビートルズの影響は、その思考行動だったからだろう。あったとすれば、イントロなしで歌い始めるというところだろう。
 ビートルズに影響を受けたと言って、ビートルズっぽいサウンドを作っている人が、よくいるけれど、どうもあまり興味を持てない。ジャックスのように、ビートルズを自分の血や肉にして、そこから自己表出していくほうが、正しいのではないだろうか。

ジャックスの世界(紙ジャケット仕様)

ジャックスの世界(紙ジャケット仕様)

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