ジョニー・マー自伝 その3

前回の続き。

僕とモリッシー、テープ奪還計画、解雇

 アルバムを作り終えてしまった僕らは何かやることはないかと探し始めた。ラフ・トレードとの争議によってアルバムは宙ぶらりん(略)

僕とモリッシーはレアな60年代や70年代のシングル盤を探しにレコード店詣でをすることにした。かつて一度でも持っていた、もしくは一度でも好きだったレコードなら何でも探し出そう、と2人の協定を結んだ。それは楽しい時間だった。僕らは面白いことをいっぱいして、たくさん笑った。様々な狂気から離れ、本当の自分たちに戻れる、こういうほっとする時間をどれほど心待ちにしたことか。週末にはブライトン近くをぶらつき、モーカムまで足を伸ばした。そんな時、2人で語り合ったバンドに描く夢があったから、僕らの関係は誰をも寄せ付けないものになったのだ。

(略)

ある晩のことだ。決めた。フィルに運転してもらい、マンチェスターからサリーまで、マスターテープを盗みに行く。バンドにアルバムを所有することが許されないのだとしたら、それは誰のものにもなるべきではない。スタジオに押し入り、僕が『ザ・クイーン・イズ・デッド』を自由にする。朝1時半頃、マンチェスターを発つと雪が降り始めた。雪程度で計画を思いとどまらされるわけもない。インディーズの正義を貫くためだ。(略)ようやくスタジオに着いたのは、東の空が白む頃。(略)

スタジオを抜け、テープが保管してあるパントリーを開けた。棚の上に僕らのテープがあるのを確認した時、背後で明かりがつき、家主の1人ティムが立っていた。(略)

「ジョニーじゃないか。何をしてるんだ、ここで?」と彼は言った。

「やあ、ティム」。僕は努めて明るく答えた。(略)「僕らのテープを取りに来たんだ」(略)

ティムは(略)テープは渡せない、と言った。法的な争いに巻き込まれたくない、というのもあっただろうが、一番の理由は請求したスタジオ料金が未納だからだと言う。もっともな話だ。

(略)

 ラフ・トレードとは、僕らがもう1枚アルバムを彼らのところから出すことで決着がついた。

(略)

[問題は]アンディの状況だった。(略)

最悪の事態を迎えたのは、あるライヴの途中に彼が〈悪夢〉を見てしまった時だ。(略)

[解雇]を告げる役目は僕に回って来たが、それで正しかったのだろう。

(略)

僕らは抱き合って泣いた。ベースを手に玄関から出ていく彼の後ろ姿を見送った時の気分は、それまで経験したどんな気分より最低だった。

(略)

彼の代わりになれる人間がいるとしたら、クレイグ・ギャノンしかいない。見知らぬ外部者をオーディションするなど、考えられない。

(略)

朝、呼び鈴が鳴り、出てみるとアンディだった。ヘロイン所持で逮捕されたというのだ。(略)

この最悪の状況をどうするか(略)アンディをバンドに戻す。それが一番だと全員が感じていた。

(略)

クレイグを2人目のギタリストにすることにした。(略)僕にとっては、レコードで弾いた別のギター・パートをライヴでも演奏できるようになり、音楽的に解放された気分だった。

(略)

アルバムがリリースされ(略)プレスと向き合わねばならないモリッシー(略)がロンドンの(略)オスカー・ワイルドゆかりのフラットに引っ越すと言い出した。(略)マンチェスターに戻ったことで手に入れた僕らの自治アイデンティティ(略)が犠牲になろうとしている(略)プロモーションのため、テレビ局や写真撮影でしか顔を合わせない生活へと。(略)その時初めて、僕とパートナーのバンドに対するヴィジョンの食い違いに、僕は不安を覚えていた。

(略)

[ロンドンではホテル住まいをしていたが、カースティ・マッコール所有のフラットに住むことに。ある晩、カースティから電話]

「あなたと話したいっていう人がいるんで代わるわね」(略)

「よお、ジョニー……キースだ(略)今、手元に何本か生ギターはあるか?」と僕のヒーローが僕に聞いてきた。

(略)

間もなく、年代もののベントレーがやって来た。僕をキース・リチャーズが待つカースティの館に送り届けるために。(略)

カースティも一緒に、まるで昔からずっと一緒にやってきたかのようにロックンロール・ソングを演奏した。

『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』、脱退

 『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』を作るにあたって、僕はこれまでよりもオーヴァーダブを用いず、余白をサウンドで埋め尽くすことがないようにしよう、と決めた。そう考えたのは、新たに手に入れた自信と、旋風を巻き起こしたいという思いからだ。あとは、ビートルズの『ホワイト・アルバム』から感じた〈一旦休止〉そして〈未解決な何か〉という空気。もっとキーボードを使うべく、自宅に借り物のエミュレーターを置き、"Orchestrazia Ardwick"のサウンドを作った。そしてデヴィッド・ボウイの『ロウ』を改めて好きになったのをきっかけに、"サムバディ・ラヴド・ミー"のシンセのイントロを作った。シンセで曲を書くことで広がった可能性は、新作の1曲目はギターを一切使わないキーボードだけの曲にするぞ、と僕に思わせてくれた。僕以外、誰も気にしなかったとしても、僕には大事な問題なのだ。これまでにない新しい試みをしながら前進していると思えることが。

(略)

 ようやくバンドが納得するマネージャーが見つかり、ザ・スミスを取り巻くビジネス状況は良くなっているように見えた。ケン・フリードマンはサンフランシスコのライヴ・シーンでビル・グレアムとも仕事をしていた野心的カリフォルニア人。僕が彼を知ったのは、モリッシーの紹介だった。彼が関わるようになり、物事はあっという間に解決し始めた。僕らが弁護士費用に莫大な金を費やしていたこと、そしてザ・スミスほどのビッグ・バンドがすべて自分たちで賄い、電話番さえ置いていないことにケンは呆れていた。そこでケンはまず会計士を雇った。(略)

何はともあれ、ようやく僕らのビジネス面を見てくれる人間が現れたのだ。決して誰かの言いなりになるタイプではなく、僕らに敬意を払ってくれるマネージャーが。

(略)

『ストレンジウェイズ』の最高の瞬間は“サムバディ・ラヴド・ミー"。ツアー・バスの後部席、ちょっと寂しい気分の時に思い浮かんだリフを中心に書き上げた曲だが、完成した時、これまでで最も高い感情レヴェルに達せたと思った。(略)僕らの人生のドラマそのものの音がした。

 『ストレンジウェイズ』を作っていた時期は僕にとっては明るい時期だった。衝突事故を機に、ようやく僕も目から鱗が落ちたようだった。(略)

すべてはうまく行っていた。

 ところがレコーディングの中盤、突然、それを変える出来事があった。残りのメンバーが密かに手を組み、新しいマネージャー派は僕1人になってしまったのだ。

(略)

僕が良いマネージメントに求めるものを、彼らはそれは介入だ、自分たちのコントロールを手放すことだ、と言った。(略)

こうして生まれた新たな対立はまるで支配ゲームのようになり

(略)

["ショップリフターズ"のビデオ撮影現場にモリッシーが現れず]

1分時間が過ぎるごとに莫大な金が無駄になっている(略)

僕はモリッシーの家のドアをどんどんと叩いていた。(略)僕は叫んでいた。「こんなことしないでくれ!」。でももう僕らは味方同士でもなければ、友達でもないようだった。

(略)

 3人の回答は無気力で、無愛想だった。結局は〈僕〉対〈彼ら〉のままだった。もう3人の間では話がついていたようで、新たなスポークスマンになったらしいマイクが、バンドはスタジオで新曲のレコーディングをするつもりだと言った。信じられなかった。ついこの間、新しいアルバムを完成し、まだ何ヶ月も経っていないのだ。僕は休暇を取りたいと言っているのに。

(略)

凍りついた雰囲気。彼らは間違いなく、何かが面白くないのだ。でもそれが何なのか、僕にはわからない。(略)バンド内には明らかに新たな力関係が生じていた。そしてどうやら服従すべきは僕のようなのだ。

 それで皆が満足するなら、と僕はスタジオに入ることに同意

(略)

マイクが僕のところに来て言った。「カヴァー曲をやる。シラ・ブラックの曲だ」(略)

僕はシラ・ブラックのカヴァーなんてやりたくないし、それをマイクから告げられたくなかった。そんなの許さない。僕は頭に来始めていた。バンドに対する僕のひたむきさを彼らが試すような真似をしたこと自体、僕には受け入れがたかった。だってこのバンドを最初に作ったのはこの僕なんだぜ!

(略)

 そんな中でもモリッシーと僕は1曲、"アイ・キープ・マイン・ヒドゥン"という新曲を書き上げ、さらにもう1曲、カヴァーを試みた。エルヴィス・プレスリーの"ア・フール・サッチ・アズ・アイ"だ。それは文字どおりに絶望的で、何テイクか録音したものの、ボツになった。(略)

[2曲を完成させ、ヴァカンスへ。そして帰国]

残りの3人もマンチェスターに戻っていた。そうやって数分と離れていない距離にいながら、ザ・スミスの誰からも連絡がないのは実に奇妙なものだ。

(略)

ザ・スミスのパブリシティ・エージェントのパット・ベリスから電話があった。彼女が言うには、プレスが僕がバンドを抜けたという噂を聞きつけたのだという。どうしたい?と彼女は出し抜けに聞いてきた。何か変じゃないか?なぜ僕が彼女に、バンドに、もしくはそれ以外の誰かに対して、解散とやらの公式発言をさせられなきゃならないんだ?2日後、僕がザ・スミスを脱退、と新聞は書き立てた。広報担当者がたまたま捉えた、僕だけがしかめっ面で残りの3人が笑顔というおあつらえ向きの写真と共に。(略)

僕の気持ちはただ「ファック・ユー」だけだった。事実を直視し、僕はザ・スミスを脱退する、と発表した。

(略)

僕らの別離はバンドの終焉というだけでなく、とても親しかった友情、特に僕とモリッシーの友情の終焉を意味していた。最後の最後まで、メディアを通じて、彼とやり合う気はなかった。

(略)

解散した時、僕はまだ23歳、アンジーは22歳。気付けばまた2人に戻っていた。

ポール・マッカートニー

[パリでトーキング・ヘッズ『ネイキッド』録音に参加]

 イギリスに戻ると、ザ・スミスの解散ドラマに誰もが夢中になっていた。僕は〈民衆の最大の敵〉になった気分だった。(略)

僕はザ・スミスのことが大嫌いな野心家。つまり、ザ・スミスという金の卵を産むガチョウを殺しておきながら、トーキング・ヘッズやブライアン・フェリーとプレイし、その墓前を汚した恥知らずなのだ。

(略)

ポール・マッカートニーのマネージャーが、ポールと一緒にやる気はないかと打診してきた。(略)古いロックンロール・ソングのリストがファクシミリで送られてきた。(略)エディ・コクランの"トゥエンティ・フライト・ロック"とリトル・リチャードの"ロング・トール・サリー”は知っていた。バディ・ホリーエルヴィス・プレスリーの何曲ずつかも知っていた。次の週、街はずれのリハーサル・スタジオに行くと(略)僕はダントツの最年少だったので、死ぬほど緊張しまくっていた。

(略)

ポールとリンダがやって来た。僕にとっては世紀の一瞬(略)

僕はリンダのファンでもあった。ガキの頃から、彼女のファンだったのだ。菜食主義にこだわり続ける彼女を尊敬していたし、『ザ・クイーン・イズ・デッド』で彼女に何かをしてもらえないだろうか、と実は頼んだことがあるくらい、彼女の生き方をロール・モデルとしていたのだ。(略)

2人ともフレンドリーで気さくだった。ポールは音を作りながら、トーキング・ヘッズとの仕事はどうだった?と聞いてくれた。

(略)

彼がベースを手にした瞬間、どれほどさまになるかということだ。楽器は完全に彼の一部となる。ポールがアンプを前にブーン!と1音、ベースを鳴らした時の、耳を突き破るような音(略)それはこれまでに聴いたベース・サウンドの中で最高の、そして最もデカイ一音だった。

(略)

「やばい!今、僕の目の前で歌ってるのはポール・マッカートニーなんだぜ!

(略)

しばらくしてポールに"アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア"は知っているか?と尋ねられた時、僕はポーカーフェイスで「ああ、知ってると思いますよ」と答えた。すると事もなげに、彼は言うのだ。ハーモニーを歌ってみるかい?僕の頭の中では叫び声が聞こえていた。「つまり、ジョン・レノンが歌ってたパートを歌うってこと?ボクガジョンレノンノパートヲウタウッテコトデスカ?!」。

(略)

休憩時間、ポールとリンダは僕の近況を知りたがった。リンダはすごく良い人で、おかしくて、魅力的で、僕が最近どうしているのか、知りたがってくれた。ザ・スミスの解散についても聞かれ、僕はどこに行ってもそのことから逃れられないようで辛い、と正直に答えた。彼女は真剣に耳を傾けてくれ、ポールも頷いていた。そのあとはよくあるミュージシャン同士の話になったが、そんな時、ポールは「ああ、ビートルズも日本でそんな感じだった」とか「ああ、僕たちにもそういうことがあったよ」と、ごく自然なことのように言うのだった。

(略)

今こそ彼に意見を求める一生に一度のチャンスかもしれない。

(略)

僕はここ最近に起きた出来事の基本的なディテールを今いちど、彼に説明した。そして息を凝らし、ポール・マッカートニーからの見識ある一言を待った。彼は無言のまま。僕は待つ。さらに無言。するとポールはこう言った。「それが君にとってのバンドなんだよ」。それだけ。「それが君にとってのバンドなんだよ」。僕はその後、自分が逆の立場で、ミュージシャン仲間からそれぞれのバンドの悩みや苦境に関する話を聞かされることもあった(略)が、結局これに勝る言葉はなかった。

プリテンダーズ、スプリングスティーン

 みんなそうだと思うけど、僕も昔からのプリテンダーズ・ファンだ。

(略)

[離脱したロビー・マッキントッシュの代役を頼まれ]

ザ・スミスの解散にまつわるドラマと(略)イギリスの重苦しい空気からのがれられる[と了承、クリッシー宅を訪問]

(略)

〈私はギターを3分で覚えた〉と書かれたTシャツを着た、僕が思い描いていた通りの女性。(略)

 ツアーは(略)U2ヨシュア・ツリー・ツアー〉のオープニング・アクト

(略)

 プリテンダーズはロック・ミュージック・ファンなら誰でも大好きなバンドだ。税関の職員に職業は?どのバンドにいる?と尋ねられ、「ザ・プリテンダーズ」と答えた時の彼らの満面の笑みときたら。プリテンダーズが大好きだという人たちの中には超有名人たちも大勢いて、僕も何人かに紹介された。ロスでの2日間ともにやってきたジャック・ニコルソンはずっと楽屋にいた。クリッシーからはボブ・ディランに紹介された。その晩、ディナーに友人も招待したから、とクリッシーに言われ、僕は待っていた。するとベルが鳴った。ドアを開けるとそこにいたのはブルース・スプリングスティーンだ。僕、アンジー、クリッシーでブルースの運転するフォルクスワーゲン・ビートルにぎゅうぎゅう詰めになって向かった店では、食事をしながら、ほとんどずっと60年代のガレージ・バンドの話をしていたような気がする。楽しい人だった。売れたコンサート・チケットはそのファンとの1対1の契約書なんだ、という彼の哲学を聞けたのは光栄なことだったし、その言葉を僕は一生忘れないだろう。

(略)

クリッシーとは、ボブ・マーリー・トリビュート・コンサートでジャマイカにも一緒に行った。ジャマイカではグレース・ジョーンズやウェイラーズのメンバーらと〈地元の習慣〉に僕らも倣った。(略)僕はあまりにレイドバックしてしまい、ボブ・マーリーが一体全体どうやって〈ゲット・アップ、スタンド・アップ〉なんていう歌詞を書き、ましてやそれを行動に移せたんだろうか?と真剣に考えたくらいだ。

バーナード・サムナー、デニス・ホッパー、ザ・ザ

 サンフランシスコでニュー・オーダーとエコー&ザ・バニーメンのライヴ後、バーナード・サムナーと会うことになった。僕はデニス・ホッパー主演映画〈カラーズ 天使の消えた街〉のプロデューサーからサントラの依頼を受け、カリフォルニアを訪れていた。バーナードと会うのは、マンチェスターザ・スミスニュー・オーダーが出演した〈フェスティヴァル・オブ・ザ・テンス・サマー〉以来だ。

(略)

バーナードも人生の転換期を迎えていた。何かグループのフォーマットを越えたところで、これまでと違うことがやりたい。彼がそう思った時、僕はそれがやれるフリーな人間だったわけだ。

 僕らはまるでつい昨日別れたかのように話し始めた。一緒に曲を書かないかと切り出したのはバーナードの方だった。僕は良いねと答えた。(略)

曲の作り方やアプローチは異なるかもしれないが、感性は一緒だ。何てったって、同じところから出て来ているんだ、僕らは。

(略)

[サントラ録音]

ハービー・ハンコックがプロデュースにあたり、僕はロバート・デュヴァル演じる警官が運転するパトカーのシーンに合わせてギターを弾いていた。立ったまま弾いていた僕の首元に誰かの気配と息遣いがした。見るとそれはデニス・ホッパーで、僕の顔のすぐ横に顔をくっつけるようにして、こう囁いたのだ。「サツみたいな音にしろ、サツみたいに弾け」。僕がギターを弾き続ける中、彼はうろうろと歩き回りながら、スクリーンに映し出されるアクションをじっと見つめたかと思うと、僕の様子をチェックし、またスクリーンを見つめた。僕はこれまでやったことがないような方法で、うめき声やサイレンの音を呼び起こそうとした。そのシーンが終わり、2フィートほど離れたところから彼の視線を感じていた。顔を見ると完全に無表情のまま、何も言わない。するとパッと目も眩むほどの謎めいた笑顔を見せたかと思うと、こう言ったのだ。「お前が気に入った、ジョニー」

 ザ・スミスを辞めたあと、僕には先のことは一切わからなかった。(略)

まさかポール・マッカートニーデニス・ホッパートーキング・ヘッズから電話がかかってこようとは思ってもみなかった。ただギターが弾ければそれで良いと思っていたのだ(略)セッションをやるのは、声がかかるのがどれも面白そうで最高な誘いだったからだ。僕は人とレコードを作るのが好きだ。(略)今はこのままセッションを続けよう。それが僕に一番向いている。今はバンドに所属したくないのだ。少なくとも今は。そう思っていた僕の気持ちを変えることになったのはマット・ジョンソンとの再会、そしてザ・ザに参加しないか、という彼の誘いだった。

(略)

彼は『インフェクテッド』のあと、新しい段階に入ろうとしているところ(略)

今後、お互いがまったく違う方向に進んで行ってしまう前に、80年に2人で交わしたあの〈協定〉を守ってくれたというわけだ。僕らはブリクストン・アカデミーでのイギー・ポップのコンサートのあとに会おうと約束した。終演後のイギーの楽屋で、新生ザ・ザを作りたいというマットの計画に僕が耳を傾けていると、目ざとくイギーが近づいてきた。(略)「お前ら何か一緒にやるのか?やるべきだよ」。偉大なるイギー・ポップ本人のお墨付きをもらったのだ。これ以上、幸先の良いスタートがあるだろうか。

(略)

ロンドンでザ・ザの仕事をやり、北に戻ったならニュー・オーダーの仕事がない時間でバーナードと何かをやる(略)

[プロジェクト名未定のままミーティング]

バーナードは部屋を見回し、エアコンに書かれた〈エレクトロニック〉というブランド名を指さして言った。「エレクトロニックだよ、僕ら」

(略)

ザ・スミスは再結成するのか?」、そして「ニュー・オーダーは解散するのか?」といつまで僕らはプレスに聞かれ続けることになるのか。バーナードも僕も、正直考えたくもなかったのだ。

(略)

バーナードが1週間ほど留守にしていたその日曜の午後も僕はスタジオで、古いソウルのレコードからサンプリングしたベース音をいじっていた。しばらくするとすごく良いなと思えるサウンドができ上がったので、ドラム・ビートをプログラミングしてみた。リズム・トラックに合わせるともう完璧なサウンドができ上がり、どんなギターを乗せるべきかが直ちにわかった。そこで12弦アコースティック・ギターでコードを弾き、ストリング・アレンジを加え、気づけばこれまで書いたどんな曲とも違う、聴いたこともないようなインストゥルメンタル・ トラックが完成していた。

(略)

「この新しいデモ、どう思う?」(略)

バーナードが言った。「こう呼ぼうぜ。"ゲット・ザ・メッセージ"だ」

(略)

[アメリカではワーナーと契約]

その夜、ワーナーの東海岸トップの人間から電話があり、モリッシーと会うのだが、かつてのパートナーとよりを戻すことを考えないかと言われたのだ。僕が丁寧に断ると、彼は言った。「考え直した方がエレクトロニックのためにもなると思うよ」。どんな思惑があってそんな電話をしてきたのかは結局わからずじまいだった

(略)

[マットの弟ユージーンが24歳で死去]

[『ダスク』の]中でも最もパワフルな感情をもって訴えてきた曲は"愛は死よりも強し"だ。「僕と 僕の友人で 哀悼の冷たい光の中を歩いていた」という冒頭の一行で歌われるのは、ユージーンの死後、ロンドンの街をマットと歩いた時のこと。 マットの歌に合わせ、僕はハーモニカを吹き、気づけば頬を涙が伝っていた。

オアシス、カール・バルト

僕はすぐに[マネージャーの]マーカスに伝えた。「オアシスが金曜日にやる。絶対来なきゃだめだ」。

(略)

[アラン・マッギーから]レコード契約を持ちかけられたという。ノエルは契約したいが、バンドにはマネージャーがいないので、僕の意見を聞きたいというのだ。これはマーカスに連絡を取っても問題ないだろうか?とノエルが僕に気を遣っているのだな、と理解した僕は言った。「君らとマーカスは一緒にやるべきだよ」。

(略)

僕はノエルに、もし1つだけアドバイスさせてもらえるなら、とにかく曲を書き続けることだよと言った。何曲も、何曲も。たとえどんなに他のことがすべて揃っても、曲がなければ仕事にならない。僕の知る限り、それが最も賢明なやり方だ。

(略)

もう1つノエルに言ったのは、予備のギターを買えということだった。曲間のチューニングにものすごい時間がかかっていたからだ。「そう言われても、俺にはあのエピフォンしかない」受話器を置き、しばらく考えた末、スタジオに置いてある自分のギター群を見回した。そして決めた。ザ・スミスで"パニック"と"ロンドン"をレコーディングした時に使った、かつてはピート・タウンゼントのものだった1960年レスポールにしよう、と。それをケースに入れると、その足でノエルの家まで行き「ほら、これを使えよ」とケースごと渡した。

(略)

オアシスの初めてのレコードがリリースされ、その注目度は瞬く間に彼らを全国区にした。僕があげたギターの話をリアムがいろんなところで話すのを目にしたし、あれで書いた初めての曲が"リヴ・フォーエヴァー"だったとも語っていた。実際、オアシスのライヴで彼があのギターを弾いているのを見た時、あれは彼の元にあるべきギターなのだ、と思えた。

(略)

初の全英ツアーが半分進んだあたりで、切羽詰まった声の電話がかかってきた。ニューカッスルでのライヴのステージ上、バンドと客の間でもめ事が起こり、僕がノエルにあげたレスポールが壊されたというのだ。「で、どうしてほしいの?」と僕は聞いた。

「替わりに貸してもらえるギターはないかな?」

 僕は持っているギターを見回し、思った。ザ・スミスザ・フーのもとにあった60年代のレス・ポールを弾くのに慣れていたのなら、ぼろギターでも大丈夫だろう。そこで『クイーン・イズ・デッド』で使った黒の70年代のレス・ポールをケースに入れると、ニューカッスルに送りつけた。こんなメモを添えて。「前のよりは重量もサウンドも少し重めだ。うまいこと、ぶん回すことができるなら、敵の頭くらい簡単にぶっ飛ばせるよ。愛を込めて、ジョニー」

(略)

エレクトロニックのセカンド・アルバムに、カール・バルトスを招いてはどうか。(略)

プログラムされた音楽ファイルが最新モデムラインで送られてきて、それに僕らが演奏を重ねてやりとりすることになるとか、そんな風に僕らは予想していた。ところがデュッセルドルフで僕らの前に現われたのは(略)おしゃれなファッションに身を包んだ現役ミュージシャン。屋外カフェでアイスクリームを食べながら、僕らは話をし、どういうプロセスでレコーディングを進めたいか?とカールに尋ねた。すると驚くことに彼の答えは「簡単さ。楽器を持って丸くなって座って演奏しよう」だった。(略)スタジオを見学し、クラフトワークがレコードで出していたサウンドの作り方を目の前で再現してもらった。カールが何気なしに弾く"コンピューター・ラヴ"や"アウトバーン"や"ヨーロッパ特急"に、バーナード・サムナーの開いた口が閉じなかったことは言うまでもない。

 新たなエレクトロニックのアルバムのレコーディングが始まり、カールが僕の家に住み込むことになった。(略)

カールとの作業を通じて、僕は直接多くのことを学んだ。ドイツの作曲家や哲学者について、ドイツにおけるカウンターカルチャー誕生後のミュージシャンの動向について。

バート・ヤンシュ

 僕がバート・ヤンシュと会った時、彼は長く表舞台から姿を消していた。(略)80~90年代を通じ、人知れずひっそりとライヴを行ない、レコードも出し続けていた。だが音楽シーン、とりわけメディアからは気付かれることもなく、批評家の検証に晒される必要もなく、バートのキャリアは続いていた。僕が僕になるための成長期、彼の存在はとてつもなく大きかった。ジミー・ペイジニール・ヤングもバーナード・バトラーもそうだったと言うだろう。他にもどれほどのギタリストの大群がそこに加わることか。いつの時代も、僕の書く曲にはバートからの影響があった。ザ・スミスの"アンハッピー・バースデイ"も"バック・トゥ・ジ・オールド・ハウス"も、彼のスタイルをそのまま借りたと言って良い。

 その頃、僕はバーナード・バトラーと親しくなった。彼とは本当に気が合った。バート・ヤンシュがクラウチ・エンドにあるパブ地下の小さな会場でライヴをやるから観に行こうとバーナードに誘われ、2人で行くことにした。

(略)

終演後、バートがギターを片付けているのを横目で見ながら、バーナードが僕に言った。「彼のところに行って話してくれば?」

「何だって?」

「行くんだよ」。(略)「は な し て く れ ば ?」(略)

僕は言われた通り、近づいた。長年、僕の想像の中で謎めいた存在だった、その男に。そしてぼそぼそっと言った。「やあ、バート、ちょっと良いですか?」

 片付けていた手を止め、バートは顔を上げ、僕を見た。「何だ?」。いかめしい顔で。

 「僕はジョニー・マーって言いまして。えっと、僕ギターを弾くんです。あの、す、すごく良いライヴでした。で、僕はあなたの大ファンで……」

 その時点でバーナードが助け舟を出してくれた。実は彼はバートと一度会っていて、顔見知りだったのだ。突然、しどろもどろになってしまった友人と、その友人のヒーローが直接話せる機会を作ろうという、バーナードの粋な計らいだったわけだ。そんなグダグダな初顔合わせを経て、僕とバートはすぐに親しくなった。奥さんのローレンと暮らすキルバーンの彼の家を訪ね、一緒にギターを弾いたこともあった。バートというと、無口で無愛想だと思われがちだが、それは正しくない。正しく言えば、彼はどうでも良い話には興味がないのだ。でもたくさんのことに関して、言うべきことはたくさん持っていた。かつてフランスをヒッチハイクした時のこと、ギターやギタリストに夢中だったエジンバラでの青年期のこと、60年代初め、気づけばロンドンのビートニク・シーンの中心にいた時のことなど、彼は雄弁に語ってくれた。僕から質問することもあった。最初に聞いたのは、かつてペンタングルでサイケデリックとフォークを融合させた音楽を演奏していた頃、いわゆる〈ヘヴィ〉だとされたバンドをどう思っていたのか、ということだ。そんなやつらは取るに足らない、ポーズだけの軽い連中だと思っていたのだろうか?僕がそう思っていたのと同じように。するとバートはにっこりと笑った。そんな質問をされたのは初めてだよ、と言う。紅茶のカップを手に取り、笑みを浮かべたまま言った。「君はどう思う?」

カースティ・マッコールの死

カースティ・マッコールの死を教えてくれたのは(略)ニュースで知るよりは自分から聞いた方が良いだろう、と連絡をくれた友人のマットだった。

(略)

船舶侵入禁止区域に猛スピードで侵入してきた金持ちの豪商が所有するモーターボートに巻き込まれたのだという。最後に彼女がしたのは、息子たちを必死で押し避け、かろうじて2人の命を救うこと。(略)

カースティとは少し前に話したばかりだった。思い出されるのは、その時の陽気な会話、そして彼女の幸せな暮らしぶり。パートナーのジェイムズを愛し、長年悩まされていたステージ恐怖症もついに克服し、ライヴを行なうこと、ステージで歌うことを心から楽しんでいたのだ。ジェイムズだけでなく、ファンも自分を愛してくれている、と彼女自身が感じていることがわかり、友人として僕も嬉しかった。(略)

いつももっと一緒に曲を書こうという話をしていたし、2人で作ったレコードはどれも僕の自信作だ。ザ・スミス時代、彼女は自分の家に僕を住まわせてくれて、僕が嫌な人間になりそうな時は注意してくれる真の友人だった。彼女の死は僕を打ちのめした。

(略)

カースティは実に魅力的な人間だった。僕らを家に招き、大好きなレコードに合わせて踊って歌っていた時の楽しそうな姿を僕は永遠に忘れない。(略)

彼女と知り会えた僕は何と恵まれていたことだろう。彼女が死んだと言われても(略)まだ僕とカースティの関係は終わりじゃない、そう思えたのだ。

 

モデスト・マウス

 モデスト・マウスとの先行きはまったくわからなかったが、とりあえずポートランドに飛んだ。人から見れば常軌を逸した行動だっただろうか。自分のアルバムを作ろうと思っていた矢先、荷物をまとめ、4千マイル離れた街で、会ったこともないバンドと何かをやるだなんて。

(略)

 ホテルにチェックンし、荷物を解いていると、アイザックがやって来た。そのまま彼の家に行き、すぐに曲作りに取りかかることにした。

(略)

 僕ら2人、向き合うように座った。アイザックが最大音量で鳴らしているのは普通のアンプの3倍はある大型フェンダー・スーパー・シックスのアンプだ。しかも僕の方に向けられている。僕の普通サイズのフェンダー・デラックスじゃ、到底かないっこない。そこで僕は彼が予備で持っていたスーパー・シックスにつないだ。これでおあいこだ。その時、埃をかぶった黒のフェンダージャガーがギター・スタンドに立てかけられているのを見つけた。そのルックスに惹かれ、僕はアイザックに頼み、それを弾くことにした。アイザックの横にワインの大瓶が置かれ、スタンバイOK演奏が始まった。最大音量レヴェルでの接近戦だ。20分後、僕らは興奮状態の中、即興でリフの応酬を続けていた。ジャム・セッションが進むにつれ、時差ぼけのせいもあり、僕の頭はもうろうとし、何が現実なのかわからなくなり始めていた。アイザックは1940年代の飛行帽をかぶり、ゴーグルをかけている。

(略)

「何かリフはない?」。そんな彼の単刀直入な物言いが好きだった。余計なことは一切なし。実際、僕にはずっとモロッコで弾いていたファンキーで痙攣的なリフがあったので、それを弾き始めた。フェンダージャガーにはそのリフを放たせる何かがあったのだ。アイザックはマイクを掴むと、何もないところから歌い始めた。「それはそうなるべきだった そうなったかもしれない 君が思うよりひどく ダッシュボードは溶けてしまったが ラジオはまだ生きている」。彼の口からは、車がバラバラになりながら山を転げ落ちていく様が描かれるヴァースがスラスラと飛び出す。車はバラバラ、でも、心配は無用。だって、ラジオは生きているから。飛行帽とゴーグルのアイザックは1曲丸々、その場で歌い切った。気に入った。こんな風に次々とヴァースを歌うやつを見たことがない。「フロントガラスは粉々だけど 新鮮な空気が良いよね」だなんて。

(略)

「他にもあるかな、リフは?」とアイザックに聞かれ、温めていたリフに僕らは怯むことなく頭から突っ込んでいった。彼の口からはさらなる歌詞が飛び出す。「僕らにはすべてがある 僕らにはすべてがある 波が砕け散るように星の中に飛び込もう」。午前3時。この時点で僕は連続28時間寝てなかった。"ウィヴ・ゴット・エヴリシング"はすごく良い曲のように思えた。

リマスター化を機に、モリッシーと再会

 ビジネスとしてのザ・スミスは、断続的ながら常に背後でアイドリング状態を続けていた。1992年、モリッシーと僕は倒産の危機を迎えていたラフ・トレードからカタログを救出するため、アドバイスに従い、ワーナーに売却する契約にサインした。

(略)

唯一の収入源であるザ・スミスのレコード売上を借金の返済に充てることで何とかやってきていたが、長い期間、レーベル内の他のバンドには一銭の印税も支払われていなかったのだ。選択の余地はなく、他に手段もなく、モリッシーと僕は大慌ての契約を交わした。これでワーナーからカタログがリリースされることになり、管財人に没収されるのだけは免れる。決して最良の条件の契約ではなかったが、音楽を僕らが知る人たちに届けられる。

 ザ・スミスのカタログを手にしたワーナーがまずやったのは、すべてのアルバムのCDリイシュー、つまりリマスター化だった。

(略)

 僕はザ・スミスのレコードのマスタリングには常に同席していた。プロデューサーとして、それは当然の職務だと思ってきた。というか、自分が精魂込めて作ったレコードのサウンドを他人にいじくり回されるなど、もってのほかだからだ。

(略)

ザ・スミスの不幸は、この90年代のカタログCDリマスター化の際、僕に意見を求めてもらえなかったことにある。僕の知らないところでマスタリング・エンジニアがランダムに調整を加えたものが、アルバムとしてリリースされ、それは僕がレコードを作った時に聴いていたものとはまったく別物だった。こんなサウンドじゃないとわかっていながら、それが世に出てしまうことのフラストレーションと落胆は大きく、何が何でもあるべき姿に戻してみせると僕は思った。ワーナーと何度も話し合ったものの、その当時まだ続行中だったモリッシーとマイク・ジョイスの裁判の一件が事態をより複雑にしていた。奮闘の末、やっとの思いで僕とモリッシーとワーナーは合意に至った。僕がザ・スミスのマスターテープを一度引き取り、すべてのレコードを一流マスタリング・エンジニアとともに、あるべき形にマスターし直す。それできっぱりとケリをつけるのだ。

 ザ・スミスのカタログ全曲を聴き直し、1曲ずつ作業していくのは、本当に好きじゃなきゃできない仕事だ。僕はまず"ハンド・イン・グローヴ"から始め、年代順に作業を進めた。ギター・パートはもちろん、ベースのどの1音も、シンバルのクラッシュに至るまで、僕はすべて知り尽くしている。それでもレコードを解析しながら、改めて驚かされずにはいられなかった。アンサンブルとしてのバンドのうまさと、それをやっていた時、どれほど自分たちが若かったのかということに。本来、僕の仕事はなれる限りテクニカルに、当時のスタジオで鳴っていたのと寸分違わぬサウンドにレコードを復元することだ。でもあれらの曲が作られた時、どんな1音にも、言葉にも、僕らなりの意図や感情が込められていた。それが嫌ってほどわかるだけに、すべてが思い出されてしまうのだ。レコードに再び向き合い、僕は改めてバンドが誇らしくて、思わずモリッシーとアンディにメールを打った。〈本当に聴こえてくるんだよ、込められた愛が〉。どちらからも嬉しい返事が返ってきた。

 ワーナーとの交渉が続くことで、当然、モリッシーと僕はそれまでになく連絡を密にするようになった。(略)

数マイルと離れていない場所にお互いいるのだ。近くのパブで会おう、ということになった。元ソングライティング・パートナーとの嬉しい再会。最後に会ったのは10年かそれ以上前。話は山ほどあった。彼の近況に僕も興味があったし、共に経験したアメリカでの生活を比較しあったりした。(略)ライヴの話やツアー先で訪れた街のこと、何が好きで何が嫌いか、と話は尽きない。私生活や家族の近況、昔話を少し、それと僕らが初めてシェリーの家の下宿部屋で会った時、僕が〈バンドにこうなってほしいというリスト〉で書いていた願いがいかに現実になったか、という話をした。(略)

会話はディープな方向へと進んでいた。過ぎてしまったことではあるものの、いかに僕らの関係が外部の世界に取り込まれて、たいがい悪い方向に向かってしまったか、ということをモリッシーが話し始めた。僕も、彼も、ミュージシャンとしての人生のほとんどをお互いの存在によって定義づけられてきた。だから、モリッシーがそれを口にしてくれたのはありがたかった。なぜなら、それが真実だからだ。

(略)

そして話題はついに〈例のこと〉になった。何年も前から、マスコミはザ・スミスが再結成目前だという噂を流していたが、それが真実だったことは一度もない。僕から再結成を求めたことも、そう願ったこともなかった。最近もまた噂になっているがその出所はどこなのか?という話をしながら、2人がそれを話題にしていることのおかしさを感じていた。モリッシーといられるのはやはり良かった。その時だ。ほんの一瞬、僕らはバンド再結成の可能性について話したのだ。正しい意図があるなら再結成もあり得ると思えた。そうなったら素晴らしい。

(略)

僕らはハグをし合い、別れた。それから数日間のやりとりで、僕らはもう一度会おうと約束をした。モリッシーとまた連絡が取れるようになったことが心から嬉しくて、ザ・スミスとしてコンサートをやるかもしれないと、ザ・クリブスにも話したほどだった。その4日間、再結成は現実のものになりそうだった。

(略)

僕はザ・クリブスとメキシコに発った。するとそこでプッツリと返事が来なくなった。僕らの音信もここまで。これまでどおり、これからもそうだと思えるとおりの状態に戻ってしまった。

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ジョニー・マー自伝 その2

前回の続き。

マット・ジョンソン、モリッシー

 ピート・ハントはサウス・マンチェスターでディスカウント・レコーズというレコード店を経営していた。(略)

[ロンドンで出会った男が]お前と気が合うんじゃないかと(略)マンチェスターに呼んだよ、と。そいつはレコードを出していて、それもすごく良いらしい。名前はマット・ジョンソン。(略)ピートはそのアルバムをかけてくれた。『バーニング・ブルー・ソウル』と言い、聴いた僕はさらに感心した。革新的で実験的、そしてサイケデリック

(略)

年季の入ったリーバイス・ジャケットに同じリーバイスの501S、そしてヨレヨレのブーツ。話してみてわかったのは、彼は僕が子供の頃に好きだったのとまったく同じチャートものが好きだということだ。(略)

ピートのヘフナー・ギターを交互に弾きながら、互いのリフには共通点があることを確かめ合った。マットも僕も何かが起きていることを感じていた。そしてついにマットが僕に言った。「バンドを作ろうと思うんだ。次のレコードはザ・ザというバンドで作るよ。どうだ、参加しないか?」

「良いよ」と僕は答えた。「ロンドンに住む方法さえ見つけられればね。参加するよ」

 これで決まりだ。僕は心から気持ちが通う友達を見つけたのだ。年齢も一緒だし、新しい音楽を作ることが楽しみな気持ちも一緒。僕らは街に繰り出し、レジェンズで夜通し語り合い、互いを知り合った。

(略)

 アンジーが免許を取ったのと同じ頃、僕はハーモニカをまた吹くようになった。みんなから文句を言われずに練習できるのはビートルの中だけ。アンジーには我慢してもらうしかない。どこへ行くにもストーンズのセカンド・アルバムのテープに合わせて、僕はハーモニカを吹いた。運転手段を手に入れられたことで、僕らは前よりも会えるようになった。ハーモニカも上手くなっていき、次に組むバンドではハーモニカを入れるべきかな、などと思うほどだった。

 レコードに囲まれた小さな部屋での毎日は最高だった。(略)

クリスタルズやシャングリラス、もしくはワイヤーやカンのアルバムを引っ張り出してはギターを弾き、気づくとそのまま眠ってしまうこともあった。

 バンドではなく、自分1人で曲をまた書くようになったことは、僕のギター・プレイを大きく上達させた。ベーシストやドラマーに縛られることなく、コード・チェンジで冒険することができるので(略)合間にメロディやちょっとしたフレーズを織り込むこともできたし、どう展開させるかも僕の自由。すでに他のギタリストが試したことからはどんどん離れて行くようになっていた。(略)小さな3トラック・カセット・マシンにアイディアを吹き込み、その上にリフを重ねた。そうやって、他の楽器があまりなくとも、ギターだけでかなり完結したものが作れるようになった。

 ヴォーカルなしのインストゥルメンタルだったが、気づけば何曲もの曲ができ上がっていた。(略)そろそろシンガーを探し始めるべきかもしれない、と。僕自身はフロントマンにはなりたくなかった。

(略)

店に来る客を僕はチェックするようになった。何人か、シンガーになりたいやつらはいたが、年をとり過ぎているか、ゴス過ぎた。トニー・ウィルソンに誰か知っているかと聞いてみると、ファクトリーに所属する女の子と僕を組み合わせようと熱心に売り込んできた。でも彼女がやってるのはジャズやボンゴを使った音楽だったし、そもそも僕が探していたのは女じゃなくて男だ。

(略)

リヴァプール出身のカップルとの会話で、バニーメンが解散するので、シンガーのイアン・マッカロクの居場所を突き止めてはどうだ?と言われた。良いじゃないか。イアン・マッカロクはその時点での僕が好きなシンガーのトップだった。(略)

そのカップルがバンドのマネージャーからイアンの連絡先を聞いてやる、と言ってくれたのだが、その翌週、バニーメンのギグの告知がされ、計画はふりだしに戻ってしまった。

 僕の頭の中は新しいバンドのことでいっぱいだった。(略)

今のところ、唯一候補として良いと思えるのはスティーヴン・モリッシーというやつだけで、そいつは今ロンドンにいるビリー・ダフィが何年か前に一緒にバンドをやっていたやつだ、と僕はジョーに話した。(略)

わかっていたのは、そいつがストレットフォードのどこかに住んでいて、NMEにニューヨーク・ドールズに関する記事を書いたということだけだ。

(略)

 その晩、ジョーがVHSのビデオデッキで録画していた〈サウス・バンク・ショウ〉のジェリー・リーバー&マイク・ストーラーの回を観させてもらうため、彼の家を訪ねた。ビデオ・レコーダーの登場は当時、画期的なことだった。音楽ファンや映画ファンにとってまさに天の恵み。

(略)

ジョーが僕の方に振り返って、こう言った。「ここを観ろよ」。それはジェリー・リーバーがマイク・ストーラーとの出会いを語るシーンだ。未来のパートナーのことを彼は知らなかったが、曲を書くことができるやつだと噂を聞き、どこに住んでいるかを突き止め、家のドアをノックしたという。これだ!と僕も思った。どうすれば良いか、これでわかった。でもそのドアがどこにあるのかがわからないのだ。

(略)

 それは本当に良く晴れた日だった。早くも夏が訪れたかのようで、サウス・マンチェスター郊外を歩きながら、僕らは舗道に落ちる長い影と一緒だった。10分ほど歩くと、このあたりでは多く見かける、感じの良い、赤レンガの2軒が連なったセミデタッチハウスに着いた。外には小さな門扉がある。僕は門を開け、ドアの前に立ち、ノックした。(略)

出てきたのはブロンドの若い女性で愛想が良かった。僕は挨拶をし、スティーヴンはいるかと尋ねた。「呼んでくるわ」と彼女は行き、しばらくすると若い男が出てきた。

「やあ」と僕は言った。「僕の名前はジョニー。ポミーは知ってるよね」

「やあ、スティーヴン」とポミー。

「ああ、やあ、ポミー」。そう答えるモリッシーにまず僕が驚かされたのがその声だった。とても柔らかく、穏やかな話し声だ。予想もしない2人の来客にちょっと戸惑った風だったが、彼は礼儀正しく僕に言った。

「やあ、初めまして」

「突然、訪ねて来てしまって悪かったね」と僕は説明を始めた。「実はバンドを作るんだけど、歌に興味ないかなと思って」

(略)

モリッシーの後ろから階段を上がりながら、彼の服に目が行った。スーツのズボンにボタンアップ・シャツ、下にはTシャツを着て、ゆったりしたカーディガンを羽織っている。髪型はクイッフではないがショートの50年代風。ファクトリーあたりにいた年上の連中に似ているな、と思った。ア・サーティン・レイシオのような、ストリートというよりは学究的なインテリ・タイプ。階段の隅に、映画〈ジャイアント〉のジェイムズ・ディーン等身大パネルが置かれていた。部屋に入るとタイプライターがあった。

(略)

僕は彼の珍しいタムラのシングル盤のコレクションを褒め、彼からはアメリカに行ったことがあるか?と尋ねられ、僕はダスティ・スプリングフィールドの"リトル・バイ・リトル”を絶賛した。彼は僕が初めて聴くサンディ・ショウの"メッセージ・アンダーストゥッド"を、そしてザ・トイズの"ラヴァーズ・コンツェルト”をかけてくれた。

(略)

モリッシーと一緒にいて、僕はしっくりくるものを感じていた。気まずさは何もなかった。初対面の誰かに、そいつのベッドルームで、自分の希望や夢を語っていたということを考えれば、なおさらだ。すごく自然に感じられた。僕よりは何歳か年上だったが、たちまちお互いを理解し、共鳴し合えた気がした。

(略)

[帰り際]言葉がタイプされた紙を何枚かよこした。曲かな、と僕は心の中で思っていた。(略)明日の正午、Xクローズに電話をくれるように頼んだ。(略)

照りつける太陽の中を歩きながら「もし明日、彼が電話をかけてきてくれたならこのバンドはいよいよだ」と思っていた。

 翌日の正午、電話が鳴った。僕らは長いこと、レコードやバンドのことを話した。すると彼が昨日の歌詞は見てくれたか?と聞いてきた。もちろん見たさ。それは"Don't Blow Your Own Horn"とタイトルが付けられていて、それなりのコードを付けてみたのだが、まだこれだ!と思えるものにはなっていなかった。でもそれは大した問題じゃない。それからもう何度か電話で話し、僕の家で一緒に曲を作ろうということで話がまとまった。家に封筒が届いた。中に入っていたのはカセットテープとジェイムズ・ディーンの写真のコピー。カセットはクリスタルズ、シャングリラス、シレルズ、サンディ・ショウ、マリアンヌ・フェイスフルの曲を集めたコンピレーション・テープ。良い兆候だぞ、と僕は思った。

 2度目に会うことになったその午後(略)モリッシーはさらに歌詞を持参していた。何ページ分かあった中に"ザ・ハンド・ザット・ロックス・ザ・クレイドル"はあった。僕は深く考えることなく、パティ・スミスの"キンバリー"をなぞったコード・チェンジを弾き始めた。すると言葉とぴったり合うだけでなく、ベース・ラインが自然と浮かび上がって来たので、僕はそれも同時に弾いた。そこへモリッシーが言葉を乗せ、ものの5分もしないうちに曲ができていた。たくさん笑いながら音合わせを数回したのち、テープ・マシンに録音し、上からギターをオーヴァーダブした。こうして僕の新しいパートナーと僕の最初の曲が完成した。それはとても大切な瞬間に感じられた。歌詞については、どこかヴォードヴィル風だなと思ったりもしたが、内容を分析するようなことはしなかった。

 他にも"サファー・リトル・チルドレン"という歌詞があった。(略)

歌詞に目をやりながら、僕の手は勝手に曲を弾き始めていた。何かが起きていた。曲がどこからともなく湧き出てきたのだ。ヴァースを弾き進める僕に合わせてモリッシーが歌い、僕の目と頭の中に言葉と物語が浮かび上がっていた。ギターがヴォーカルの下で鳴る中、僕は勢いにひっぱられるようにその後を追い続けた。そして気づくと、曲は完成していた。誰の曲とも違う、誰の曲のような感じさえしない曲。それは〈ムーアの殺人〉を歌った曲だった。どう判断すべきか、僕にもわからなかった。わかるのはどう感じるかということだけ。不思議なくらいの真実。僕の感情は漂い、僕はただその瞬間を追っているだけのような気がした。部屋にあったオルゴールのネジを巻き、窓に近づき、オルゴールを外に差し出した。そして別の手にはマイクを持ち、オルゴールのメロディと遊ぶ子供の声を同時に録音した。(略)北に育った人間として、この2曲目が醸し出す心情には、他の何よりも僕の心に引っかかるものがあった。それが僕らを決定づけたのだ、初めて一緒に曲を書いたあの日から。それは僕に語りかけていた。「僕らは他とは違うんだ」

 モリッシーと僕のパートナーシップが始まった。

(略)

僕らはそれぞれに、なりたい自分になるために若き日の大半を捧げてきたのだ

(略)

僕らは互いに認め合った。性格も違えば、多くの部分で正反対だったが(略)僕らは僕らだけの固い絆で結ばれた。

(略)

まずは、デビュー・アルバムのタイトルはグループ名そのままにしよう。そしてファースト・シングルはネイヴィ・ブルーのレーベルにシルバーの文字で曲のタイトル、その下に括弧で〈モリッシー・アンド・マー〉と表記する。契約はラフ・トレード・レコードとするべきだ。そして何年もレコードを作っていないかもしれないが、サンディ・ショウのために曲を書くのも良いね、とそんな予言までしていた。グループはおろか、とても変わった2曲以外に曲すらない。それでも僕はそれだけのことを夢見ていた

(略)
インスピレーションはあらゆる音楽から見つけられたが、特に良く聴いたのはガール・グループだ。彼女たちの曲のアプローチをギター・バンドにも適用できないだろうかと僕は考えた。一方で、書けた曲にトラディショナルなロック・ギターの片鱗が少しでも感じられたならそれは捨てた。同時に自分らしいサウンドは留めたいと思った。現代的な曲を書きたかったし、それを友人に好きになってもらいたかったし、クールだと思ってもらいたかった。

(略)

その日の午後も僕は彼の家から帰るところで、家の前の舗道で2人で立っていた。その時だ。白い小さなカードを彼が差し出したのだ。カードには青いボールペンで3つの名前が書かれていた。〈ザ・スミス・ファミリー〉〈ザ・スミス〉〈ザ・ウォーキング・ウンデッド(歩く負傷者)〉。気に入る名前があるのかないのか自分でもわからなかったので答えに一瞬ためらったが、〈ザ・スミス〉を指差した。これが一番嫌いじゃない。「オーケー、それなら」とモリッシーは言うと、微笑みながらこくりと頷いた。「ザ・スミスで」。

(略)

[モリッシーは]ファクトリーのボスであるトニー・ウィルソンの元へテープを持って行った。のちにトニーは、チャンスはあったがザ・スミスとの契約を自分が蹴ったと言いふらしていたが、僕にザ・スミスをファクトリーと契約させる気などまるでなかったこと、彼もわかっていたはずだ。トニーのことは好きだったが、すでにいくつかファクトリーのバンドに加入しないかという誘いを断っていたし、自分のバンドにカーキの短パンを着させるつもりもなかった。インディ・レーベルならラフ・トレードだ、ファクトリーでは絶対ない。僕はそう信じていた。モリッシーからテープを聴かされたトニーが店に来て、僕らのことを「特別だと思った」と言ってきた。プレス受けも良いはずだ。だって君のシンガーは元ジャーナリストだからね。そう言われ、これは遠回しの批判だと思った僕は、彼に何かを言われた時にいつも言うやつを言ってやった。「失せろよ、トニー」

(略)

 ベースには何が何でもアンディ・ルークを入れなきゃダメだ。もうこれ以上、見知らぬ誰かをオーディションする気もなかったし、どうせ彼ほどうまいやつはいないのだ。(略)ヘロインの一件はまだ頭に来ていたし、そうその問題が解決されるのか、自分でも分からなかった。

(略)

会うのはひさしぶりだ。(略)僕はさっそく本題にはいり(略)[バンドに]入る気はないか?と話を切り出した。ただしヘロインを断ち切ることが条件だ。リッツのギグのテープを聴かせるとアンディも気に入り、わかったとEMIでのデモ録音に顔を出すことに同意した。

(略)

 最初に合わせたのは"ハンサム・デヴィル"。良い感じだ。(略)アンディのベースも最高だ。前のバンドで一緒にやっていた時、互いの演奏を聴いてプレイし合っていたあの頃のままだ。全員、彼が適任だとわかった。

ハンド・イン・グローヴ

 ハシエンダでの来るべきライヴは重大事件だった。それまでのどこよりも権威ある会場。それでいて僕らにとってはまだ3度目のステージなのだ。

(略)

なのに僕らには数曲しか、というか具体的に言えば1曲しか新曲がないのだ。(略)

古いアコースティック・ギターを取り出し、ぼんやりとリフを弾いていた。最初、それはさもシックでナイル・ロジャースが弾きそうなリフに思えていたのだが、気づくと自分のものになっていた。できたぞ。でも家には録音する手段が何もなかったので(略)忘れないうちに弾いて聴かせるしかない。アンジーに僕をビートルで送ってくれるように頼むと、大急ぎで出発した。車の中でも曲を忘れないよう、何かが変わらないよう、何度も何度も弾きながら。その車中でアンジーが彼女にしては珍しく、こう提案したのだ。「イギーみたいにして」(略)と命令するような口ぶりで。僕はそれまでの歯切れ良いリズミックなアプローチではなく、さも『ロー・パワー』の曲にありそうなオープン・コードのリフに変えてみた。するとものの数秒ですごく良くなった気がした。僕はリフを弾き続けた。モリッシーの家に着き(略)

僕が玄関先で歌い続ける間に、モリッシーは慌てて部屋からテープレコーダーを取ってきて、その場で録音した。数日後、リハーサル(略)

初めて僕らは曲を合わせた。ばっちりだ。タイトルは"ハンド・イン・グローヴ"。これまでの最高傑作。(略)この曲こそが僕らであり、固い友情に支えられた献身と絆が形となった結果なのだ。僕らの宣言であり、声明書。歌詞も完璧なら、曲も完璧、僕の人生も完璧だ。

 ハシエンダのライヴの夜がついにやってきた。DJはアンドリューだ。

(略)

アンドリュー・ベリーとの生活が最高だったもう1つの理由は、ハシエンダのDJでかけるレコードの数々だ。彼の部屋の前にはスーサイド、マテリアル、ジェイムズ・ホワイト・アンド・ザ・ブラックス、ZEレーベルのアルバムならすべて、何箱も並んでいた。エレクトロ関係の12インチも選び放題だ。

(略)

僕が聴き漁っていたポスト・パンク・ギター・ミュージックとはまるで違っていたが、僕がその後もクラブ・ミュージックを好きでい続けたのは彼のおかげだ。そんなアンドリューのクラブ系レコードの知識、ジョーの60年代ソウル・シンガーへの愛情、僕自身のモダンなギター・ミュージックへの探究心のすべてが1つ屋根の下にあるのだ。

ラフ・トレード

[マット・ジョンソンの家に泊めてもらうことにして、ロンドンへ。ラフ・トレードにデモを持ち込んだが門前払い]

「うん、良いね(略)でも僕にはどうすることもできないんだ。ジェフに聴かせないと」(略)

「ジェフってのは?」と僕は尋ねた。

「ジェフはレーベルのヘッドだよ。リリースを決めるのも彼だ(略)テープを送ってみたらどう?」

 送るだと?それじゃお払い箱にされるのと一緒だ。(略)

[建物を出て、倉庫に勝手に入り込み、ジェフを待ち伏せて突撃]

「(略)ぜひラフ・トレードから出したい曲があるんです(略)

もしあなたのレーベルから出せないと言うなら、僕らは自分たちのレーベルで出すのでディストリビュートしてくれるだけでも良いです」。(略)

「週末に聴いてみるよ」。彼は言った。(略)

僕は思わず口走らずにはいられなかった。

「今まで聴いたこともないもののはずです」

 ミッション達成。ラフ・トレードのビルを出て[マット・ジョンソンの家に]

(略)

わずか24歳にして、彼はCBSレコードとアルバム5枚の契約(略)2枚の素晴らしいシングルをリリースしたばかり

(略)

カシオのキーボードと黒のフェンダーストラト、ドラム・マシンが小さな4トラック・カセット・レコーダーに繋げられ、エレクトリック・オートハープとマイクも数本転がっていて、そのうちの1本はエコー・ペダルに繋がっている。こんな仕事のやり方を見るのは初めてだった。とてつもなく新しく独創的だと思った。完全に自給自足なのだ。作業を終えたマットは僕に新曲を聴かせてくれた。床に転がっているエレクトリック・オートハープを土台にして作ったという"ディス・イズ・ザ・デイ"は実に素晴らしい曲だった。

(略)

 月曜の朝、ジョーのオフィスに行き、僕は知らされた。ジェフ・トラヴィスが"ハンド・イン・グローヴ"を大いに気に入り、ラフ・トレードからリリースしたいと言っていると

(略)

最初から、僕はメディアとの対応はモリッシーに任せるのが一番だと思っていた。彼には彼のアジェンダや世界観がある。年上だったということもある。でも何よりも、うまかったのだ。(略)我らのフロントマンは対プレスの天才だった。(略)インタヴューしてきたどんな連中よりも、彼の方が上手だった。

(略)

 カムデンでザ・フォールの前に演奏した時のことだ。ザ・フォールこそ(略)ラフ・トレードの現国王、マーク・E・スミス率いるバンドだ。レーベルがザ・スミスにばかり肩入れしているとミスター・スミスが文句を言っていた、とラフ・トレードの社員から僕は聞いていた。

(略)

ステージに上がるまであと少しという時、スコット・ピアリングに呼び止められ、僕らは写真を撮られた。時間にしてわずか1秒。壁に寄りかかったその写真は、ザ・スミス初めての、そして最も有名なイメージとなった。花を持ったモリッシーが前に、マイクとアンディは白のTシャツで、そして僕は後ろの方に、アイヴァーで働いていた時に買った黒のレザーコートを着て、Xクローズで買ったレイバンをかけて。

(略)

 ラフ・トレードと僕らは1枚のシングルのみの契約だったが、彼らは契約の更新とファースト・アルバムを望んだ。その頃、僕らはメジャーのレコード会社からの求愛を受けるようになり、ジョーにはヴァージン、ワーナー、ポリドールなどから声がかかった。一番真剣だったのはCBSだ。楽屋にスーツを着た連中が挨拶をしに来て、悪い感じではなかった。モリッシーと僕は何度かミーティングにも同席した。メジャーがどういうものか、あくまでも好奇心で知りたかったからだ(略)

まず驚かされたのはオフィスのどこにもレコードがなかったことだ。ラフ・トレードやファクトリーではそこらじゅうにダンボールが置いてあった。

(略)

もう1つ気づいたのは、僕が嫌いなポップ・スターたちのでっかい写真が、ビルに入った瞬間から僕らを待ち受けていたことだ。(略)

最終的にモリッシーも僕もラフ・トレードのままでいるのが良いと決めた。

 僕とモリッシーが署名するラフ・トレードとの契約書を持って、ジェフ・トラヴィスマンチェスターのジョーのオフィスまでやって来た。(略)

マイクとアンディも同席した。2人が契約書に署名を求められることはなかったが、マイクは証人として署名した。前払金は4千ポンド。

LSDザ・バーズ

 その頃だ。ジョーの奥さんのジャネットから(略)マープル・ブリッジのコテージを使って良いと言われたのは。(略)絵のように美しい小さな街。曲作りに専念できる場所を提供してもらえるのはありがたいことだった。(略)

アンドリューとレコードを聴きながら、その頃の新たな趣味となったLSDをやるかだった。若い頃、LSDは何度か試したことがある。それは興味深くも決してヘヴィな体験ではなく、良い気晴らし、そしてクリエイティヴな行為だと僕は思っていた。(略)

僕のサウンドを形成したのは昔好きだったグラム・ロックやニュー・ウェイヴで、フォーク・ミュージックの影響はもちろんあったものの、僕とロジャー・マッギンのサウンドが似ていたのは偶然としか言いようがない。逆に比較されたことで、僕はザ・バーズのことをもう少し知ろうとした。そこにLSDと夏の時期を田舎街で過ごしたことが重なって、ザ・バーズバッファロー・スプリングフィールドラヴィン・スプーンフルなどを好んで聴くようになったのだ。音楽というのは生活と実に密着している。

(略)

 僕が初めて本当の意味の金を手にしたのは、音楽出版契約をした時だ。音楽出版が何を意味するのかまったく見当すらつかなかったが、数千ポンドをもらえたのはすごいことだった。僕はアンジーに婚約指輪を買い(略)

残りの金で僕はアンディにベース・アンプを、マイクにドラム・キットを、そして自分には黒のリッケンバッカー330の6弦ギターを贈った。リッケンバッカーを買ったのはルックスが良かったこともだが、曲を書くのに役立つプレイができるようになると思ったからだ。ギターの中にはなるべく楽にプレイできるようデザインされたものもあり、ロックなアプローチには最高だ。例えばギブソンレスポールはそんなギターだ。そういうのも大好きなのだが、僕のスタイルに悪影響を及ぼすことにも気づいていた。でもリッケンバッカーなら弾けば自動的にロックになる落とし穴に陥ることはない。サウンドという点からもブルージーにはならない。僕にはぴったりだ。これによって"ユーヴ・ゴット・エヴリシング・ナウ"や"スティル・イル"といった曲は生まれた。

 たいてい新曲は、まず僕が音楽をカセットに吹き込み、モリッシーが1~2日考えたのちに歌詞とヴォーカルのメロディ・ラインを乗せるという形ででき上がった。僕の家で一緒に書くこともあった。3フィートくらい離れたところに座り、僕は膝の間に挟んだテープ・レコーダーにギターを吹き込む。アンジーが部屋にいることもあった。"リール・アラウンドザ・ファウンテン"を書いた時はアンドリューも一緒だった。

(略)

その朝、どこかとても明るそうな曲のアイディアとともに目が覚めた。レーベル・メイトであるアズテック・カメラの陽気な曲がラジオでしょっちゅう流れていたことが関係していたのかも、と後で思ったものだ。窓から日が差し込み、僕はギターを手にすると、ぽろんぽろんとコード進行を探し(略)また別のコード進行がどこからともなく僕の指の下に現れた。しばらくその後をついていった時、曲だと思える何かができていた。それ以上磨きをかけることもなく、ありのままをテープ・マシンに吹き込むと、その上に最初に思い浮かんだギターを重ねた。聴き返してみるとなかなか良い。まるで空気の中から生まれたかのようだ。(略)

モリッシーが歌い、でき上がったのが"ジス・チャーミング・マン"。実際はどれほど複雑でエモーショナルな曲だったとしても、苦労の跡なくできたかのように聴こえる曲というのは、作っている時からその良さがわかるものだ。

(略)

"ホワット・ディファレンス・ダズ・イット・メイク?"のレコーディングに取りかかろうとしていた頃、金銭的な取り決めに関する議題が持ち上がった。その時点で、僕は僕らにそれほど金が稼げるとは思っていなかった。(略)そこでグループ内の分配は、僕とモリッシーが40パーセントずつ、残りの2人で100パーセントずつにすることにした。僕らがバンドを実質率いていることを考えれば、それで妥当だと思ったのだ。(略)

マネージメントとレコード会社との窓口は僕とモリッシー。少なくともラフ・トレードにとってのザ・スミスは〈僕とモリッシー〉だったのだ。

(略)

つくづく[書面に]残しておけば良かったと思う。その後(略)そのような取り決めに同意した覚えはないとマイクとアンディが主張し、裁判沙汰にまで発展してしまったことを考えると。

(略)

 10月、"ジス・チャーミング・マン"が(略)あっという間に全英チャート・インし(略)僕らの家族の人生をも変えてしまった。

渡米、サイアー・レコード

 すべてのイギリス人ミュージシャンがそうであるように、僕の夢はアメリカに行くことだった。

(略)

 その日、ジョーと僕はオフィスでアメリカ・ツアーのプランを立てた後、いつものように音楽を聴きながら、ジョーの家まで戻った。家に着き、車のエンジンを切った後もジョーは動こうとせず、何かを考えていた。(略)長い沈黙ののち、ジョーがついに口を開いた。「僕は君らと一緒にニューヨークへは行かない(略)辞めようと思う。バンドのマネージメントはもうできない」

(略)

ジョーなしでどう前に進めばいいのか僕には見当もつかない。他のメンバーがまだ誰もいなかった時から、彼は僕を信じてくれ、家を、仕事を、すべてを僕に与えてくれた。そしてザ・スミスを、本業よりも家族よりも優先してくれたのだ。バンドを支え、リハーサルの場を用意し、バンやPAを買い与えてくれ、初めてのシングルも彼が自腹を切って作った。ジョーは僕だけでなく、バンドのあらゆる面倒を見てくれていた。(略)部外者は、彼とモリッシーの不和がその原因だと囃し立てた。しかしその当時、僕はジョーからもモリッシーからも、そういったことは一度も言われていない。(略)未だになぜジョーが辞めねばならなかったのか、不可解なままだ。

(略)

 僕らがニューヨークにいたもう1つの理由は、アメリカでのレコード契約をサイアー・レコードと交わすためだった。彼らとの契約を僕もモリッシーも望んでいた。何てったってサイアーにはパティ・スミス、ザ・ラモーンズトーキング・ヘッズなどを抱えるレーベルというレガシーがある。それ以上に重要なのは、サイアー・レコードの創設者がシーモア・スタインだったことだ。

(略)

 ロンドンで初めて会った時、シーモアブライアン・ジョーンズを48丁目にあるギター・ショップに連れて行った話をしてくれた。僕自身、サイアーとの契約にほぼ気持ちは固まっていたのだが、シーモアに1つだけ条件を出していたのだ。もし僕にも48丁目でギターを買ってくれるなら契約するよ、と。そもそもザ・スミスのことが大好きだった彼はそのアイディアを大いに気に入り、僕の条件を飲むと言ってくれた。1984年1月2日、僕らはサイアー・レコードと契約。シーモアは約束通り一緒に48丁目まで歩いて行くと、どれでも好きなギターを選んでいいよと言った。(略)

ウィ・バイ・ギターズの店内に赤の59年製ギブソン355が掛かっているのが見えた。(略)手に取るまでもなく、それが特別なギターであることがすぐにわかった。(略)

[ホテルに帰り]手に入れたばかりの355で最初に書いたのが、僕らの次のシングルとなる"ヘヴン・ノウズ"。続いて、B面曲となる“ガール・アフレイド”だった。そういう楽器が世の中には存在する。つまり、その楽器の中にすでに音楽が眠っている、ということだ。

(略)

曲がチャートに入り、まとまった金が入ってくるようになると、メンバーそれぞれにもちょっとした贅沢が許されるようになってくる。僕の場合はウエスト・ロンドンにあるギター・ショップだ。その頃の僕はVHSで発売されたばかりのビートルズのドキュメンタリーを何度も繰り返し観ては、ホリーズの『グレイテスト・ヒッツ』を聴きまくっていた。おかげで他の3人も僕につられるように、ビート・グループ期に突入していた。そこで僕が目星をつけたのが、ビートルズホリーズの両バンドが使っていた古いギブソンJ-160アコースティック・ギターだ。モリッシーが貪るように聴いていたハーマンズ・ハーミッツもギブソンJ-160を使っていた。これは神のお告げだ。何が何でもこのギターを買わねば。もう1本、キース・リチャーズストーンズの代表的なシングル曲の数々で使用していたのと同じ、64年製エピフォン・カジノも手に入れた。

"ウィリアム""ハウ・スーン・イズ・ナウ?"

ポップ・スター・ライフを送る一方、バンドは常にライヴを行ない、ツアーを続けていたが、僕が一番楽しんでいたのは曲を書くことだ。その日、ギグに向かうバン後部席のマットレスの上で、僕はギブソンアコースティック・ギターを弾いていた。その時だ、リフが思い浮かんだ。(略)数日間、弾き続けたそのリフは次のシングルにぴったりと思える曲を生んだ。(略)

[数日のオフ]録音環境は(略)タスカム社ポータスタジオの4トラックとローランド社ドラマティックス・ドラム・マシンへとアップグレードしていた。せっかくだ。A面だけでなくB面、さらには12インチ用のエキストラ・トラックのデモも録音してしまおう、と僕は決めた。

 A面用の曲はアコースティック・ギターであっという間にでき上がり、何回か試しただけで、ほぼ完成した。約2分という、ザ・スミスの曲としてはこれまでで最も短い曲だ。大好きなバズコックスのシングルも短かったので、2分10秒のままでいい、そう思った。B面には全く違うアプローチで取りかかった。(略)

家族への思いは母が好きだった曲を思い出させ、そのコードを僕はギターで弾いていた。メランコリックな気分に浸っているうちに、ぴったりの感情に導かれ、とてもきれいなB面曲ができ上がった。土曜日中に2曲が完成してしまった(略)

12インチ用に3曲目を書こう(略)A面が短く速い曲で、B面も短いがワルツのような曲だったので、長く、グルーヴのある曲にしよう。ジョイントを巻くと、買ったばかりのエピフォン・カジノをアンプにつなぎ、リズムを弾き始めた。昔から好きだったザ・ガン・クラブのスワンプ・ブルースをどこかで意識しながら、トランス風なリフを試してみた。まるでスローなボハノンの曲のようだ。何度も試しているうちに、ヘッドホンで聴くその曲はサイケデリックになり、何かができ上がりつつあるようだった。僕はさらにドラム・マシンでシンプルなビートをプログラムし、催眠的なリズム・ギターと2音だけのフレーズをその上に乗せた。

(略)

そうやって出来たのが"ウィリアム""プリーズ・プリーズ""ハウ・スーン・イズ・ナウ?"の3曲だ。

 その間、僕らのラジオとテレビのプロモーション担当だったスコット・ピアリングが急遽、代理マネージャーの役を兼ねることになった。とはいえ、彼にバンドに代わって物事を決める権限はなく、全部の責任が僕の肩にかぶさってきた。スタジオ機材の予算がこれくらいだ、車のレンタル費にいくらかかるなど、特に金に関わることを承認するのは僕。

(略)

スコットからは自分か誰かをマネージャーに雇い、一切を任せるべきだと何度も言われていた。

(略)

 そんな時、ニューヨークからルース・ポールスキーが飛んできた。誰から呼ばれたわけでもない。突然、ロンドンに現れ、みずからマネージャーの役を買って出たのだ。そのことを知ったのはライシアム劇場のステージの上だ。サウンドチェックでギターと悪戦苦闘していた僕にルースは近づいてきて宣言したのだ。「ハーイ、ジョニー!あなたたちのマネージャーになったわ、私!」。満面の笑みで彼女は僕をぎゅっと抱き締めた。ギターごと。(略)

「そうよ。さっきモリッシーと話したわ。あなたの仕事を私が受け継ぐから。最高でしょ!?」

 どっちが、より頭に来ていたのかわからなかった。誰かに突然やって来られ、その人間に僕のマネージャーだと言われたことに対してか、それともそのことをステージ上、サウンドチェックで必死な時に言われたことに対してか。

(略)

 こんなバカな話ってあるか?(略)楽屋に引き揚げるとモリッシーが説明を始めた。ルースは何の予告もなく彼の家に現れ、自分がバンドをマネージメントすると主張した挙句、こうして皆に宣言しているのだと。バックステージでは、どちらがマネージャーかでルースとスコットが言い争っていたが、最後はスコットがルースに、バンドは君にやってもらう気などない、とピシャリと言い放った。

(略)

["ハウ・スーン・イズ・ナウ?"]バッキング・トラックが完成。(略)デモの段階で僕が良いと思っいた催眠的でサイケデリックな雰囲気が、いつの間にかなくなってしまっていた(略)

数回のテイクでヴォーカル録音は終了(略)テープを聴き返しながら、僕はまだ何かが足りないと思っていた。実は僕は子供の頃からトレモロの音(略)が大好き(略)

すでに弾いたギターの音をテープから取り出し、トレモロ・アンプで鳴らすのはどうか。(略)ジョン・ポーターがアンプを1台だけではなく、右左1台ずつでステレオにするのはどうだろう、と提案した。それどころか、スタジオにはちょうど4台のフェンダーのツイン・リヴァーブがあるから、4台全部を使ったらどうだろうか?ジョンと僕ですべてのトレモロ・スピードをトラックとぴったり同期させるのだ。

(略)

やるたびにどれか1台のアンプがずれてしまうため、数秒巻き戻してはそこからやり直す、という作業を繰り返さねばならず(略)朝の3時、バンドは皆帰り、残って〈ギターケストラ〉と奮闘していたのは僕とジョンだけ。(略)

もう少しダークにするため、メタル・スライドで弾いてハウリング効果を出すことにした。さらにはエコーをいっぱい利かせた上にハーモニーを加え、張り詰めた偏執感あるサウンドにした。

(略)

"ハウ・スーン・イズ・ナウ?"は朝の5時頃、命を宿した。スタジオ全体が鼓動していた。僕はあまりの気持ちの良さに、白のストラトキャスターをつなぐと即興でワイルドなリード・ソロを弾き倒した。

(略)

アメリカで[『ミート・イズ・マーダー』が]リリースされた際、[アメリカのレコード会社により]アルバム冒頭に"ハウ・スーン・イズ・ナウ?"が勝手に加えられたことは不愉快きわまりなかった。だって僕らは統一感や全体のサウンドを考えてこの最新作を作ったのだ。

(略)

しかしその結果、"ハウ・スーン・イズ・ナウ?"はアメリカのオルタナティヴ系ラジオで大ヒットし、アメリカの音楽ファンのある特定世代に、僕らのこのアルバムを、ひいてはその後のサ・スミスの音楽をも知らしめることになったのだ。

『ザ・クイーン・イズ・デッド』

 次のスミスのアルバムは真剣なものにしなければ。(略)

前作はナンバーワンになったし、シングルはヒット連発だった。(略)

次のアルバムは僕が作り得る最高のアルバムでなければならない。

(略)

 その晩、モリッシーが僕の家にやって来た。(略)

しばらく取りかかっていた新曲をマーティンのアコースティック・ギターで弾いて聴かせることにした。(略)最初の曲はワルツ風バラード(略)

コーラス部分はドラマティックに曲が進むに連れ、激しさを増していくようだった。未完成ながらも期待が持てて、アルバムにぴったりだと2人の意見は一致した。次に弾いたのは、わずか数日前から書き始めたばかりの、マイナーながらも快活なコード進行が高揚感あるコーラスに続く曲。僕はお遊びのつもりで、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのスキップするリズムをインサートした。彼らもそれをストーンズからパクったからだ。あまりに楽に書けてしまったので、せいぜい良くてB面用かな?と思っていたのだが、何度も弾くうちに何かが感じられるようになってきた。どこからともなく生まれる、言い知れぬ何か。はっきりとはわからないが良いものができている手応えを感じていた。勢いに乗ったついでに3曲目も録音した。先の2曲とはまるで対照的だ。サンディ・ショウのような、というかエキセントリックなヴォードヴィルのどんちゃん騒ぎのようだった。(略)

別れ際に渡したカセットに入っていた3曲はやがて"アイ・ノウ・イッツ・オーヴァー""ゼア・イズ・ア・ライト""フランクリー、ミスター・シャンクリー"となった。

 僕らは時間を無駄にすることなく、早速新曲を録音することにした。

(略)

"ゼア・イズ・ア・ライト”の時は紛れもないマジックの予感がしたし、曲が自然と書かれているように思えた。(略)

どの1行も完璧だった。言葉と音楽が、僕らを僕らの新たな〈アンセム〉へと導いてくれるような最高の気分。何回かのテイクで、これまで書いたどの曲よりもベストだ

(略)

 『ザ・クイーン・イズ・デッド』の制作中、バンドのプラスとなり、将来につながる大きな発見があった。エミュレーターと呼ばれる最新デジタル・シンセサイザーだ。オーケストラ・サウンドなど(略)を再現可能にするそのシンセ(略)

アレンジャーにとっては新たな世界を広げてくれる機械。まず使ったのは"ゼア・イズ・ア・ライト"のストリングスだ。それ以外にも(略)さらに音楽をオーケストレートできる。さらなる可能性、既存のシステムにはないサウンドを僕は考えるようになっていった。

 アルバムのスタートは順調だったのだが、集中力を乱される出来事が起きた。原因を持ち込んだのは、バンドの新たな弁護士となった男。どんな経緯でそいつを起用することになったのかはわからない(略)すでにEMIとの交渉に入っていた。(略)あとはラフ・トレードにその旨を知らせるだけだという。僕自身、ラフ・トレードに不満があったわけではない。みんな良いやつらだったし(略)僕らとの関係はすごく良かった。(略)しかし彼らと再契約というのは、この期に及んで、選択肢には含まれていなかった。キャリアということを考えた時、次なる大きな一歩に踏み出す時期を迎えていたのだ。(略)

 その年の初め、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのロスト・トラックを集めたアルバムが発表されていた。タイトルは『VU』。マンチェスターの僕の知り合いは誰もが、ヴェルヴェッツの曲のすべての音を貪るように聴き尽くしていた。だからまだ聴いたことのない曲が10曲もあってそれらが発見されたというのは、まるで新たなモーゼの十戒が発見されたようなものだった。中でも僕は"アイ・キャント・スタンド・イット"の虜になった。ルー・リードのヴォーカルも大好きだったが、何よりもヴォーカルが入ってくる数秒前のスターリング・モリソンのひっ掻くようなリズム・ギターに心奪われたのだ。(略)

簡潔さと印象に残るリズムは、ボハノンやボ・ディドリーを聴いた時に感じる何かと一緒だった。普通、人はテクニックを前面に押し出したギター・プレイに感心しがちだが、僕は〈ダ、ダ、ダ、ダ、ダ〉というタイプのギターに惹かれてきた。それは原始的で、人間的で、シンプルな主張を遮る〈厄介なエゴ〉の侵入を防いでくれる。僕は作りかけていたコード・チェンジにスターリング・モリソンのひっ掻くようなスクラッチ・スタイルを取り入れてみた。そうしてでき上がった6分半にも及ぶ、唸るような完全にワイプ・アウトしたトラックこそ、来るべきニュー・アルバムのタイトル曲"ザ・クイーン・イズ・デッド"だった。レコーディングを終え、ワウペダルで弾いていたギターをスタンドに立てかけた瞬間、キーンと耳をつんざくようなフィードバック音が鳴り響いた。しかも曲と同じキーで。僕は即座にスティーヴンに頼み、テープ・マシンを録音状態にした。そしてギターを鳴り響かせたまま、ワウペダルを何度も切り替え、不気味なハウリングを作り出した。

(略)

[弁護士がEMI移籍をラフ・トレードに通告]

あとでわかったことだが、実は僕らにはもう何枚か、ラフ・トレードからレコードを出さなければならない契約だったため、話はこじれ、かれらは『ザ・クイーン・イズ・デッド』の発売を差し止めることも辞さないと脅してきた。

次回に続く。

ジョニー・マー自伝 ザ・スミスとギターと僕の音楽

一族

 幼少期の僕は、何をするにも、ほぼ常にキルデアからやってきた親戚と一緒だった。父方の親戚が5人、母方が14人。つまり、何人ものおじとおば、そして増え続ける一方のいとこがいたというわけだ。

(略)

これだけの数がいると、僕ら親戚の中だけで一種のコミュニティが形成される。同じバックグラウンドと歴史を共有する大家族。

(略)

 その朝(略)母がメイおばさんと慌てた様子で部屋に入ってきた。(略)母が45回転盤レコードをターンテーブルに乗せた。赤いレーベルのやつだ。針が落とされ、流れてきたのはエヴァリー・ブラザーズの"ウォーク・ライト・バック"のシンプルなギター。それに聴き入る2人の様子を見ながら、母は音楽が大好きなんだな、とわかった。(略)2人が心から楽しんでいる様子を見ながら、良いなと僕は思っていた。

(略)

母たちは何度も曲をかけ直しては、ここはこうだとか言いながら、曲に合わせて歌っていた。あまりに何度もそうするもんだから、僕もしまいには曲を覚えてしまったほどだ。(略)

あの時、何よりも僕が惹かれたのは大音量のギター・フックだ。それ以来、どんな曲を聴いても、僕の耳は自然とギター・フックを探すようになった。

(略)

 僕らの家では常に音楽が流れていた。(略)母はしょっちゅうレコードを買っていた。自分の予想ポップ・チャートをまとめては、本物のトップ20と比べるなんていうことをしていた。

アイルランド、ミス・コケイン、色彩

僕の一家がアードウィックから8マイル(約13キロ)離れたウィゼンショウに引っ越した時、気分はまるでビヴァリーヒルズに引っ越したかのようだった。僕は8歳。(略)インナーシティ問題の解決策として打ち出された行政のクリアランス計画の一環として、僕らは古い家から立ち退きを 命じられたと。でも僕にしてみれば、新世界を開拓しに行く気分だった。

(略)

ウィゼンショウはサウス・マンチェスター郊外の労働者階級の街で、ヨーロッパ最大の公営集合住宅だ。

(略)

セントラル・ヒーティング完備な上、何よりも嬉しかったのは家の中にトイレと本物のバスタブを備えた風呂場があったことだ。これまでのように 、金属のたらいにお湯を張って行水をする必要もない。

(略)

人種のるつぼだという点は新たなコミュニティでも変わらなかった。イギリス人、東洋系、ジャマイカ移民、アイルランド移民がすべてそこに放り込まれていた。70年代初頭、イギリスでは暴力と人種差別が過激さを増していたが、本国での爆弾やテロ騒ぎが報道されたことはアイルランド移民の状況を悪化させた。ある日の午後、僕は友人の家にいた。するとその友人の母親が近所に住む、とある家族のことを大声で非難し始めたのだ。(略)最後に「アイリッシュの豚どもめ」と吐き捨てた時、その言葉が僕に向けられていることに気づいた。家族が悪質な攻撃を受けたようでショックだった。

(略)

 新たな担任はミス・コケインという20代後半の女性教師だった。放課後に教室で煙草を吸うような、現代的で、皮肉にもその名の通りに印象的な女性だった。非常に厳しい一面がある一方で、僕には興味を示してくれ、ギターはどのくらい上達した?と、時々聞いてくれたりした。僕にクリエイティヴな一面があることを見抜いてくれたのも、彼女だけだったかもしれない。ある午後、教室を出ようとした時、僕は呼びとめられ、教室に戻った。(略)

「君には気づくべき才能があるわ。アーティストになるっていうのはどう?」。そう言われた僕は嫌な気はしなかった。「道は2つ。退屈して、面倒に巻き込まれるか、好きなことを見つけ、それを極め、アーティストになるか、そのどちらかよ」。彼女の口調は優しかったが、本気で僕を心配してくれていることがわかった。「でもそれは簡単なことではないわ。本気で頑張らないと」。(略)

「君はギターが弾きたいのよね?でもこの学校ではギターは教えていない」。(略)

「でも、ギター以外にも君にはできることがあるはずよ。それを頑張ったことを見せてくれたなら、学校にギターを持って来ても良いことにしましょう。どう?他に君が好きなものは何?」(略)

しばらく考えたのち、僕は答えた。「色、かな」

「色?(略)どんな色?木とか?自然?どういう意味?」。彼女は興味をそそられたようだった。僕はどう答えたら良いものかとまたしばらく考えた。「自転車」。さらにこう付け加えた。「それと、服」

その答えに彼女は笑った。でも僕は真剣だった。

「わかったわ、ええ、そうよね」

家に歩いて帰る途中、僕はさっきの会話を思い返していた。アーティストか。悪い響きじゃない。そう言われて悪い気もしない。まるでドアが僕の前に示されたようだった。しかもそのドアは大きく開いている。

(略)

実際、僕は色に夢中だった。緑は緑でも、青は青でも、その細かい色合い1つにまで、僕にはこだわりがあった。音楽に対して感じていたのと同じくらいに。

(略)

[中古自転車]を分解し、色を塗り直すやり方を教えてくれたのはマイクおじさんだった。もともとは古ぼけたパープルだったオンボロ自転車が、目を見張るようなメタリック・ブロンズ(略)の新品に変身したのだ。その数週間後、今度はメタリック・ゴールドに、その次はダーク・レッドがかったシルバーに、その次はと、どんどん僕は色を塗り替えた。自転車の色を塗るのが楽しかったのだ。近づいては色を確かめ、その色の中に吸い込まれていった。不思議だったのだ。なぜある色ではこう感じるのに、別の色だとまた違う感覚になるのだろう。

 服に関しては、これ以上ないというくらいの環境が僕には揃っていた。労働者階級の人間はファッションにこだわる。なぜなら服装は自分自身、そしてなりたい自分の表現手段だからだ。(略)

オックスフォード・バッグスと呼ばれる、靴まで隠れる幅広ズボン(略)

僕は派手な「エレクトリック・ブルー」や美しい「ボトル・グリーン」がお気に入りだった。(略)でも一番は何と言っても「ペトロール(ガソリン)・ブルー」と呼ばれる絶妙な色だった。それは完璧と呼べる色合いで、僕が生涯好きな色になった。モス・サイドにあるジャスティンズに行き、ただその色を眺め続けていたほどだ。しかし、そのさらに上を行く色という点では、トニック・スーツの色に勝るものはなかった。(略)

グラデーションで色が変わる「玉虫色」の生地のジャケット&パンツ。その崇高さは自然をも超えていた。

マーク・ボラン

[T・レックス]"ジープスター"は僕が自分のお小遣いで始めて買ったレコードだ。

(略)

ドラムのビート、すぐにギターと手拍子。まるで誰かがそこらへんの部屋で演奏しているみたいだった。その頃のポップ・ソングがオーケストラやピアノやボーイ・バンド・ハーモニーをバックにつけていたのとは違う。この曲は何かが変わってる。面白い。ちょっと変だ。するとシンガーが歌い出した。「優しい君 きれいな君」。(略)数秒もすると、曲はフックに到達した。「ガール 僕は君の愛のジープスター」。すると次の瞬間、予想もしなかった奇妙で暗いコードが飛び出した。曲が始まってたったの45秒。僕はもう一度聴こうと心に決めていた。旅に乗り出してしまったのだ。初めて聴く"ジープスター"は曲を聴くというよりは、サウンドの発見だった。男が歌う内容はどうでも良かった。というか、サウンドに合っているからそれで良かった。どうせ飛び出してくるのは「君の髪にもたれかかる宇宙」といったフレーズで、9歳の僕には意味はわからない。でも心に引っかかる。どういうわけか、それで良いんだと思えた。

 その時からマーク・ボランがアイドルとなった。僕は見つけられる限りのポスターや写真を集めた。(略)映画館に出かけ、彼の映画『ボーン・トゥ・ブギー』も観た。(略)

そのわずかあとに、T・レックスはシングル"メタル・グルー"をリリースした。それは別世界からの音かと思えるほどに美しい曲だった。「トップ・オブ・ザ・ポップス」で演奏するボランを観たあと、僕は興奮状態のまま自転車を乗り回していたのだろう。気づくと道に迷い、我に戻ってからようやく家に帰れたのだった。この出来事の直後、僕はボランがマークのスペルをMarkからMarcに変えたことを考えていた。そして良いことを思いついた。発音しづらい僕の苗字 Maher、を(略)Marr のスペルにするのが良い。

(略)

  あの時、あの年齢で、あのレコードを初めて手にしたことの意味は大きかった。なぜなら僕が初めて聴いてギターを弾けるようになったのが"ジープスター"とB面曲"ライフズ・ア・ガス"で、そこから自分で曲を書く道のりが始まったからだ。

(略)

[色々な]レコードを聴き込むうちに、アレンジやプロダクションに関することにも気づくようになった。例えば違う楽器が入ったり出たりすることで、ある種の効果を生み出せること、もしくはヴォーカルを力強くしたければ、ギターやオルガンでユニゾンで弾けば良いこととか。70年代初めのレコードはどれも型にはまらず、奇抜だった。僕はギター・パートだけをコピーするのではなく、曲から聴こえてくるサウンド全部をギターで弾こうとした。それは偶然ながらも、1人ですべてをこなすワンマン・バンド的なアプローチだったわけだ。

(略)

[同じ集合住宅で一番仲が良かったクリス・ミルン]

2人でグループを作ろうと言い出したのがどっちだったか、覚えていない。(略)

僕はどうすればクリスが歌える曲が書けるようになるのか、考え始めた。そうやって書いた初めての曲は、基本、ボランのパクリだった。ボランの歌の内容を何もわかっていなかったことを考えると、自分でも驚いてしまう。ボラン自身、わかっていたとは思えないが。曲を書くこと自体はそれほど難しいことではなかった。パクリではない曲も何曲か書けたし、それを歌ってくれる友達もいる。あと何人か同じ11歳をみつければ、バンドができ上がる。しかしその実現を前に、クリスと僕の世界征服計画はいったん保留せねばならなかった。僕らには向かうべき場所があったのだ。マンチェスター・シティFCのホームグラウンド、メイン・ロードだ。

恐怖のフットボール観戦

 70年代初めのイギリスにおけるフットボール観戦。子供にとってそれは恐怖を伴う、他の何事にも例えようがない体験だった。種族意識と粗暴さと敵意のオンパレード。ブーツとサスペンダーにフェザーカットやスキンヘッドの男や少年が、手首やベルトにスカーフを巻き、罵声を上げ、徒党を組んでいる。誰もどいつが何歳かなんて気にしていない。この中にいる限り、みんな一緒。いったん小競り合いになったなら(それはいつもなるのだった)100歳だろうと11歳だろうと、年齢は関係なく、とにかく走る。そして構わず誰かに蹴りを入れるか、入れられるか。でなければ、フェンスにしがみついているかだ。テラスの中、大声を上げる年上の男たちに混じってもみくちゃになるのは、大人になる試練のようなものだった。テラスと呼ばれる立見席にはイアリングをし、髪を染め、眉を剃り落した男たちがいた。皆、スキナーズと呼ばれるパンツを向こうずねのあたりまで折り返し、24穴のドクターマーチンを履き、針と墨を使った自作タトゥーを入れている。そのすべてが僕には驚きだった。

 僕はホーム戦にはすべて行き、たまにアウェイ戦に行くこともあった。アウェイの試合に出かけるのは自殺行為だった(略)

何百という血に飢えたミドルズブラ・ファンが僕らを取り囲んでいた。(略)

モンスターの大群が突進してきた。大パニックだ。僕はシティ・ファンの波に飲み込まれ、気づくと通りに掃き出されていた。(略)通りを猛ダッシュで渡り、死に物狂いで走り続けた。どこをどう走ったか覚えてもいない。たどり着いた横道で、完全に迷って、独りぼっちになったことに気づいた。すると、通りの向こうから若いミドルズブラ・ファンが駆け込んできて、僕の目の前で止まったのだ。鉢合わせのまま、僕らは数秒立ち尽くした。叩きのめされるのは嫌だ。かといって、僕も誰かを叩きのめしたいわけじゃない。目の前にいる敵を見定めた。年齢は僕と同じくらいだ。怯えている。どちらも同じような苦境に立たされているのだ。僕はとっさに両手を挙げ、喧嘩したいわけじゃないと態度で示した。相手は手を伸ばし、握手をした。そして手首に巻いていた赤と白のシルクのスカーフを外し、言った。「スカーフ、交換しないか?」。アウェイ戦で、敵チームのスカーフを手に入れるのは、戦利品を手に入れることを意味している。僕はそれをもらうと、自分のを外して渡した。肩をポンと軽く叩かれ、僕らは別れた。僕はそのまま無我夢中で走り続け、最終的にはヒッチハイクでシティ・ファンの車に乗せてもらい、家に帰ったのだった。

グラマー・スクール

 75年の夏季休暇[初日、険しい丘を走り降りる途中、前輪に足が絡まり]

ハンドルの上を飛び越えるように回転して、放り出された。(略)立ち上がった僕の手首が手からだらりと逆方向に垂れ下がっている

(略)

6週間もすればギプスが取れるということだった。つまり夏休み中、新しい学校に通い始める寸前まで、ずっとギプス生活を送らねばならない(略)

僕の脳裏に浮かんだのは「この腕でどうやってギターを弾けば良いんだ!?」ということだった。

 夏季休暇は拷問となった。ギターが弾けないだけでなく、自転車にも乗れない。僕はレコード・プレイヤーの脇に座って7インチ・シングルの山を聴き続けた(略)

その夏、僕がひっきりなしに聴いていたのが、ハミルトン・ボハノンという何とも興味をそそられる名前のアーティストの曲、"ディスコ・ストンプ"だった。催眠的なギターは聴けば聴くほどクセになる。この腕が治ったらすぐにコピーしよう。僕は待ちきれなかった。ギターが弾けないなら別のことに気持ちを集中するしかないわけで、僕はザ・ホリーズの『グレイテスト・ヒッツ』に合わせて歌ううちに、ヴォーカル・ハーモニーを独学でマスターした。

(略)

 セント・オーガスティン校に通うことに対して、僕の気持ちはまだぐらついていた。一方でここに通えることの特権を僕は感じるべきだった。それは僕の成績が良かったからであり、学校もすぐさま、生徒にエリート意識を植え付けるようになるわけだった

(略)

 グラマー・スクールの現状をしっかり受け止め、僕は順応しようとした。中流者階級や上流者階級の子と一緒になるのは生まれて初めてだ。良い家に住み、休暇は外国に出かけるような生活は聞こえは良いが、特権意識はともすると人を小心者にするのだとわかった。両親が離婚した子に会うのも初めてだった。労働者階級の人の集まりでは、離婚という言葉は一度も聞いたことがなかった。

(略)

 英語と美術、それとなぜか得意だった数学以外で、僕が学校で夢中になれたのはフットボールと音楽だけだ。学校のフットボール・チームに入部した僕は小さくて足が速かったのでライト・ウィングになった。ウィングというポジションが僕は好きだった。僕のメンタルにも合っていた。スピーディに動いたり、切り返したり、相手に追われたり、追い返したりするのは楽しかった。

フーリガンの暴力、トニーのキス

 ウィゼンショウ出身であることのマイナス点は、噂通りの暴力を受けるに値する点だ。地下鉄構内を歩く時も、公園を横切る時も、間違って悪い相手に出くわさぬよう、万全の注意を払う。(略)ギターを持っている時はなおさらだ。ある晩、友人宅からの帰宅中(略)遠くに2人のフーリガンが見えた。どちらも知った顔だ。日によっては親しげに接してくるが、別の日には理由もなく襲いかかってくるような連中だ。今日がその前者であることを願いながら、彼らの脇を通り過ぎようとした時、後頭部にレンガの破片が投げつけられたのを感じた。さらに石が頬のあたりに投げつけられ、鈍いブーンという音が耳のあたりにした。でもどうしても僕はそこから走って逃げることができなかった。何かが、僕をそうさせなかったのだ。というか、もし僕が走れば、きっと彼らは追いかけてきて、僕を蹴り回したに違いない。頭からの出血で家に帰る頃には両手いっぱい血だらけだったので、母にまた病院に連れて行かれ、何針縫った。その後も、僕に石を投げつけた連中と顔を合わすことはあったが、彼らは何もなかったかのようだった。それが日常だったのだ。

 友達のトニーは実に美形だった。ボウイ・ファンの彼はブロンドのジギー・ヘアカット、高い頬骨、シャム猫のようなグリーンの瞳

(略)

3歳年上だったが、僕が初めて会った、自分がゲイであることを隠さなかったやつだ。

(略)

ゲイと言っても女っぽいわけではなく、辛辣で、穏やかで冷静沈着。(略)猫のような身のこなし(略)

 僕とトニーはよく一緒にいた。そのことで色々と噂をされたが、僕はまるで気にしていなかった。(略)

ノース・マンチェスター訛りの2人の大柄の醜男が近づいてきて、あやすように何かを言い、投げキスをしてきた。トニーは知らんぷり(略)

「お嬢ちゃんたちはホモなのかな?」。間違いなく、彼らは喧嘩がしたいのだ。(略)トニーは2人に背を向けたまま相手にせず、僕に話しかけ続けている。痺れを切らした1人がトニーの背中を小突き、こう言った。「おい、ホモ野郎」。その瞬間、トニーは僕の頭をぐいっと鷲掴みにすると、唇にキスをしたのだ。僕にはうんと長い時間だったように感じられた。すると今度は男たちの方を振り返り、でかい方の顔にパンチを喰らわした。何発も。ついにそいつは膝からガクンと落ちた。次に、後ずさりしかけていたもう1人に重たい顔面パンチを喰らわすと、車が往来する通りに体ごと放り投げた。車に轢かれて死んじゃうんじゃないかと僕は思ったが、そのまま電車の駅を目指して走り始めた。途中、トニーがくるりと振り向き、こう言った。「あのキスは良かった」。そして笑いながら言い加えた。「心配するなって。もうしないよ」

(略)

僕は、横にいるトニーに目をやり、"すべての若き野郎ども"の歌詞を思い出していた。「ルーシーは女王のように素敵な着こなし でも相手を蹴らせたらラバみたいで まじにやばいチームだぜ俺たち」

初めてのエレキ、ロリー・ギャラガー、ストゥージズ

1日2回の新聞配達のバイト代すべてと両親からのカンパを合わせた32ポンドで、僕は初めてのエレクトリック・ギターを購入した。

(略)

[ロブ・オールマンの家に集うミュージシャン]全員が共通して好きだったギタリストはニルス・ロフグレンピート・タウンゼント、そしてビル・ネルソン。僕はキース・リチャーズが大好きだった。ウエスト・ウィジーのジュークボックスで60年代のデッカからのシングルを聴いて以来の、ローリング・ストーンズ信奉者だった。キースの第一印象を決定づけたのは、誰かの家で見た『スルー・ザ・パスト・ダークリー』でのイメージだ。レコードで耳にしたギターの音を鳴らしていたのが、写真のこの人物なのだと知り、僕は心奪われた。ルックスもヒーローそのものだったし、クールなリフでバンドを駆り立てる役割は僕にとっての灯台のように思えた。60年代後半から70年代初めにかけてのキースのギターのフリーキーっぷりを皆、忘れてやしないか。実にフリーキーで危険なギタリストだったのだ、キースは。彼の編み出すリフは誰よりもカッコよかった。

 もう1人、当時の僕が影響を受けたのはロリー・ギャラガーだ。レコード店で彼のアルバムを見つけた時、きっと僕が好きな音楽だな、とわかった。当時のバンドがどこかよそよそしく、トールキン風の華美なイメージを纏うか、オルガンを変に多用したり、意味のないことをサウンドに盛り込んだりする中、アイリッシュのロリー・ギャラガーには大いに共感できた。彼がおんぼろギターでかき鳴らす、無駄を削ぎ落としたローファイなロックは完璧な音楽の見本そのもの。ギターを演奏するために生きているかのようであり、もしそうしたいなら、一生、ギターとアンプのある部屋でギターを弾いて生きることもできる、それが永遠の世界になるのだ、と彼の存在そのものが物語っているようだった。

(略)

前の晩、ロンドン出身のセックス・ピストルズという新人バンドのギグが行なわれ、何人かが観に出かけていた(略)ビリーはこのバンドを大絶賛していた。彼らはでかい音で短い曲を演奏し、めちゃめちゃ若いんだ、とビリーは言った。「すごく良かったよ、ジョン。すごくね」。(略)次には前座を務めたバズコックスというバンドの話でもちきりになった。マンチェスター出身で、壊れたギターを使っていたという。僕は気づいた。たった1日のうちに、何かが明らかに変わったと。その後、友人の兄貴が買ったバズコックスの7インチEP『スパイラル・スクラッチ』に入っていた"ボアダム”が、僕が初めて聴いたパンク・ソングとなった。

(略)

 その間に僕のギター・プレイも進歩していた。これは良いな、これは僕らしいんじゃないか、そう自分でも思えるスタイルができつつあった。アコースティックとエレクトリックはどちらも弾くようにしていた。それができてこそ、ギタリストとして完成する。どちらも同じくらい上手くなる必要がある、そう思ったのだ。ある時、ロブの家でリフを弾いていると、ビリーが入ってきて、こう僕に聞いた。「それってジェイムズ・ウィリアムソン?」。(略)

誰なのか、僕は知りたくなった。「イギー&ザ・ストゥージズの『ロー・パワー』の中の曲に似てたんだ」とビリーは言った。「きっと君もすごく好きじゃないかな」

(略)

[ヴァージン・レコードで]『ロー・パワー』を探した。わお!なんてジャケットだ!?そこに写っているのはそれまで僕が見たこともないような、信じられないほど強烈で不気味な生き物。(略)

"サーチ・アンド・デストロイ"を初めて聴いた時の衝撃はすごかった。なぜ誰も僕に教えてくれなかったのだ?次の曲"ギミ・デンジャー”が流れた。そのアコースティック・ギターサウンドは僕がやってたことと同じだった。どうすれば一体?それまでに聴いた中で最もヘヴィでセクシーでダーティで、僕みたいな人間に探せる限り最高の兄貴といったところだ。ジェイムズ・ウィリアムソンの演奏も完璧。アルバムを一度聴き終えると、それから何度も聴き返した。聴きながら、僕の進むべきはこれで良いんだ、と思った。

(略)

僕、クリス、ケヴィン、ボビーのラインナップが揃い、ついにバンドができた。(略)パリス・ヴァレンティノズ(略)が僕らの名前となった。

 パンクの到来により、ファッションも変わった。(略)

僕らはスーパーから髪染め液を万引きし、ほぼ毎週のように違う色の髪になった。ジョニー・サンダースニューヨーク・ドールズに夢中になり、自分で髪を切り、目にはアイライナーを引くようになった。(略)

名簿の名前をMaherからMarrに変えてほしいと言い張ったが却下されたため、教科書にはMarrと書き、出欠をとる際、〈マーハー〉とか〈メイヤー〉と呼ばれたなら、答えるのを拒んだ。

(略)

初めてのギグは77年夏、エリザベス女王即位25年祝典で行われた路上パーティ(略)

太陽が照りつける中、テーブルに登ってまず演奏したのはシン・リジィの"甘い言葉に気をつけろ"のちょっと不安定なヴァージョン。(略)"ジャンピン・ジャック・フラッシュ"、トム・ペティの"アメリカン・ガール"と演奏

(略)

 ある日、父がリヴァプールでの1週間の仕事に付き合う気はないか?と聞いてきた。ジョン・レノンが通ったクオリー・バンク高校近くの道路が現場だったので、ポップ・カルチャー絡みで僕が興味を持つんじゃないかと思ったのだ。さらには学校の休暇中、何かまともな仕事を経験させるのも僕のためになると思ったのだ。

(略)

月曜の朝5時半(略)なんで俺はこんな時間に起きてるんだ?と思いながら父のバンに乗り込んだ。(略)

「先が見えるか?」と父が言った。(略)「これからあの先まで掘る。先までずっとだ。そして金曜日にはここに俺たちがいたことすら、誰も気づかんだろう」

(略)

それは長く続く道だった。バンから重機を引きずり出し、まだ何も始めてないというのにすでに泥だらけだ。あとはひたすら頭を垂れ、道を掘り続けた。(略)

毎日僕は堀に入り、ガス管を設置。(略)

1週間後、道は最初の姿に戻っていた。父から渡されたのは125ポンド。悪くない。こんな大金を手にしたことは一度もない。体を張って得た金だ。これを父は毎日やってきたのだ。そのことが何より僕を感心させた。

アンディ・ルーク

[学校では]誰とでもわりとすぐ友達になれたが、共通の趣味を持つ者は誰もいなかった。そんなある日、授業の合間の休憩時間、1人の少年が近づいて来て、僕がつけていたニール・ヤングのバッジを見て言った。「『今宵その夜』」。いや、もっと正確に言うのなら、そう歌ったのだ。ニール・ヤングと同じ歌声で。感心すると同時に、笑わずにはいられなかった。そいつの名前はアンディ・ルークといって、僕とは違うクラスで、僕らの学年で唯一、規則の髪型にしていないやつだった。レコードの話をしているうちに、2人ともギターを弾くことがわかり、もっと話をしようということになった。明日、うちへ来ないかとアンディが誘った。彼の母親が僕をピック・アップしてくれるという。

 僕はギターを持って、家の外で待っていた。すると大きな白い車がやってきた。出てきたアンディの母親はエリザベス・テイラーマンチェスター人にしたような顔つきだった。電動で車のトランクが魔法のように開き、僕はギターをトランクに入れ、後部席に乗り込み、アンディにやぁ、と言った。エグゼクティヴ用の社用車に乗るのは初めてだったが、その瞬間、アンディの家庭環境は僕とはどこか違うのだということがわかった。

(略)

 部屋に入ってすぐ目についたのは壁の絵だった。アンディの母親が描いたというそれはクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのアルバム・カヴァー。そのアルバムを彼が知っていたこともだが、息子の部屋の壁に母親がそのジャケットの絵を描いたということに、僕は感心させられた。

ニール・ヤングナイル・ロジャース

 友人の何人かはヘヴィなロックやプログレに夢中だったが、僕はどうしても好きになれなかった。そこにももちろんギターは入っていたのだが、僕には年寄りみたいなフルート奏者がいるのも、ドラゴンも、ローブも、興味が持てなかったのだ。レコードは一応はチェックしたが、クラシカルなキーボード奏者がとりとめもなく即興演奏しているだけ。ギターもあるにはあるが、同じことを繰り返しているだけで、これという何かがないように思えた。あるとしたら、そのミュージシャンがよほど練習しているんだということがわかる、というくらいだ。もう1つ、ヘヴィ・ロックのシーンには女の子がいなかった。まさに女子禁制の世界。そんなものが良いはずがない。

(略)

 ある晩、僕は部屋の赤い電球をつけ、友人たちとニール・ヤングに聴き入っていた。すると隣の妹の部屋からはいつものようにズンズンと低音を響かせたディスコ・ミュージックが聴こえてきた。(略)『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』の内省的な瞑想の世界に浸り続けようとしていたその時、妹がドアをガバッと開けて入ってきた。部屋の中を見回し、呆れたように「あなたたち、楽しんでるんでしょうねぇ」とそれだけを言うと、ダンスをしながら自分の部屋に戻っていった。僕は妹の後を追い、隣のディスコについていった。そこでかかっていた音楽のすばらしいことと言ったら!高揚感があって、メロディがあって、何よりもギターがすぐに耳に飛び込んできた。それはシックというバンドで、ギタリストはナイル・ロジャースだった。すっかり虜になってしまった僕は、それからシックを聴きまくった。どの一音も覚えてしまうくらいに。そこで聴こえる、癖になるようなギターのリズムと同じくらい、ハーモニックなコード・チェンジが好きだった。ナイル・ロジャースのプレイには、片手に彼のハートが、もう片手に彼のソウルが感じられるのだと僕は思った。

パティ・スミスモリッシー

 ライヴ会場でも集合住宅でも、たむろしているやつらはほぼ全員ドラッグをやっていた。(略)メインだったのはハッシュかドローと呼ばれる大麻で、人生の内在的な一部と言えるほどだった。マジック・マッシュルームも界隈では好まれていた。ブルックウェイ・フィールズにわんさと生えていたので、僕らはそれを沸騰させたサイケデリック・ドリンクを作り、幻覚を起こしながらウィゼンショウをさまよい歩いた。

(略)

幻覚症状や、いわゆるオルタード・ステイト(注:日常的意識状態以外の意識状態)が僕は好きだった。だからパティ・スミスを知り、彼女が読むランボーウィリアム・ブレイクを引用した超越的なポエトリーを知った時、受け入れる準備はできていた。アポロでパティ・スミスを観たのは14歳の時。(略)『ホーセズ』の反響は大きく、"ビコーズ・ザ・ナイト"はチャートに入るヒットになった。僕は『ラジオ・エチオピア』での彼女が歌うピュアなロックンロールの奔放さが大好きで、それこそ毎日のようにアルバムを聴き返した。パティ・スミスのファンになったことでCBGBのことも、ニューヨーク・シーンのことも知ることができた。ザ・ヴォイドイズもトーキング・ヘッズも、テレヴィジョンも、そのギタリストのリチャード・ロイドもとにかく最高だったのだ。

 パティ・スミスのライヴへは1人で出かけた。会場に入り、バーに行くと、そこにはビリー・ダフィと何人かがいた。ビリーから紹介されたのは、スローター&ザ・ドッグスのハワード・ベイツ(略)それと眼鏡をかけたスティーヴン・モリッシーという男。新しくなったザ・ノーズブリーズでビリーと一緒だということで、彼の名前だけは知っていた。僕は軽く挨拶だけをして、会場内に入った。

 パティ・スミスとバンドがステージに登場した。(略)それは呪いの儀式を目撃するようで、彼女はまったく別レヴェルにいるように思えた。ライヴは電気が走るロックンロールな儀式で、ステージそのものが別次元のようだった。こここそが僕の生きる次元だ。翌日、僕の世界はそれまでとは違って感じられた。また1つ道標が見つかった瞬間だった。

フットボール、ドラッグ

フットボールは好きだった。(略)マンチェスター・ボーイズの選抜選考会が開催されていて、僕は学校の推薦でそこに参加したのだ。トライアルの結果、僕は選考に受かった。次はマン・シティのユース・チームの選考会だ。練習グラウンドに行けたこと、そこで選手の姿を見られたことは大事件だったが、同時にフットボール選手になりたい少年たちのひたむきな献身ぶりを目の当たりにし、自分はミュージシャンなのだということに気づかされたのだった。

(略)

[教師に呼び出され]行ってみるとアンディ・ルークも呼ばれている。何か僕ら、まずいことをしただろうか。すると要は、アンディが僕のクラスに移ってくるので、僕にアンディの近くにいてもらえないかという話だった。何でも彼の両親が離婚し、大量のドラッグを摂って、ヘロヘロな状態で学校に来るようになっていたらしい。アンディには辛い時期だった。でも学校は、ドラッグを断ち切れなければ退学にすると言う。僕のずる休みも見逃すわけにはいかなくなってきたと言われた。そこで教師は、僕とアンディが常に行動を共にすることが、互いのために一番良いのではないかという型破りな推論を下したのだ。

 アンディも僕もその提案に大喜びだった。朝、彼はバスで僕の家まで来る。しかしそこからバスを乗り継ぐのではなく、母が仕事に出るのを隠れて待って、そのまま昼まで僕の家でぶらぶらして過ごす。学校へは一緒に遅れて登校し、同じクラスで授業を受け、一緒に下校し、夜はアンディの家へ行く。そんな毎日が始まった。彼の生活環境は特殊だった。彼と3人の兄弟はまだ全員ティーンエイジャーだったがそれぞれに自立していた。父親はほとんど家を空けていて、母親はスペインに住んでいた。弟のジョンが12歳、アンディと僕は14歳、次男のフィルが15歳、長男クリスは17歳。居心地良い家に子供だけで住み、何でもやりたいことをやれる自由を与えられていたわけだ。で、僕らがやりたかったのは音楽をプレイし、ドラッグを試すこと。

アンジー

[生協スーパー]バイト初日の夜から、僕に与えられたのは最も屈辱的な仕事。僕が何かヘマでもやらかして、一からやり直さねばならなくなることを期待していたのだ。一番上の棚にハシゴをかけて登り、200缶のドッグフードを積み上げる。

(略)

 大雪が1週間降り続いた1月の終わり、バス運転手がストライキを起こした。ということはつまり、生協まで8マイルを歩くしかない。凍える寒さの中を歩き始め、ブルックウェイ高校近くのバス停を過ぎた時だ。何人かの女の子に声をかけられた。「ジョニー、ジルの家のパーティに行く?」(略)「もしかしたらね」とだけ答え、シフトに間に合うようにと雪道をまた歩き始めた。

 歩くうちに辺りはどんどん暗くなり、点灯したナトリウム灯の薄いオレンジ色に雪が照らされた。通りには誰も歩いていない。車もほとんど走ってない。その中を歩き続けているうちにひどく寂しくなってきた。僕は15歳になったばかり。ただ成功したい、そしてどこかに行きたい、それだけだった。なのに夢を隠さず追うことを理由に、恥をかかされ、見下される。そんな場所に行くため、雪の中を何マイルも1人で歩いてるなんて。その間、僕の頭の中ではジ・オンリー・ワンズのアルバムがずっと鳴っていた。僕は彼らが大好きだった。一音残らず、曲も歌詞も知っていた。まるで世界には僕1人しかいない気分だった。

 バイト先に着くと(略)10分遅刻したのでクビだ、ということだった。

(略)

生協では誰かが辞める時、建物の裏にある搬入口で、ずらっと並んだ全職員に生卵を投げつけられるという送別の儀式があったのだ。かなり大きなスーパーだったので職員の数も、卵の数もハンパない。搬入口を出た僕めがけて一斉に生卵が投げつけられた。(略)

全身卵まみれの僕はそのまま帰るしかなかった。(略)家まであと数マイルというところで、僕はあまりの寒さと気持ちの悪さに耐えられず、友達ダニー・パットンの家に寄らせてもらおうと決めた。(略)シャワーに直行し、服を借りて、さっぱりした僕にダニーが言った。

「ジルの家のパーティに行く?女の子も来てるはずだぜ」

(略)

雰囲気はおとなしめだったが、僕たちが来たことに不満な連中もいたようだった。

(略)

酔いが回った連中は僕をやっつけるチャンスを窺うことだろう。(略)以前にも、見知らぬ男がシンクに叩きつけて割ったボトルを手にゆっくりと近づいてきたことがあった(略)

当時はバンドをやっているというだけで、そんな目に遭うこともあったのだ。

(略)

ブロンディの新しいLP『恋の平行線』がかかる居間のソファに座った。(略)

部屋の向こう、横を向いて立っている女の子が目に入った。何てきれいな子なんだ。よく映画で見るみたいに、部屋全体の動きが止まり、彼女の周りだけが光り輝いて見えた。僕には「ついに見つけた」ということしか考えられなかった。彼女こそが、僕が探していた子だ。僕はすぐさまボビーに言った。「あの子と僕は結婚する」

(略)

彼女は本当に美しくて、毅然としていて、とにかくクールだった。(略)僕は誕生日をたずねた。(略)

「31日。ハロウィンの日」。彼女が答えた。

「え?僕ら誕生日が一緒だよ」

 僕は思った。これは男と女ということを越えた、魂と魂の関係だ。すぐにでも僕のことを彼女に好きになってもらわなきゃ。(略)

あとでわかったことだが、彼女は僕のことを知っていて、実は僕に気があったのだという。でもそれをまるで表に出さなかったのだ、アンジーは。

 それからの数週間、彼女の行く所にはなぜか必ず僕も現れた。朝、僕の家の前を通って登校する彼女を待ち、僕は窓辺に座り、上を向いてくれ、と願った。すると毎回、彼女は上を向き、僕らは手を振り合った。昼食時間、外に買い出しに行く彼女が通る校門近くに僕は必ず立っていた。(略)

でも彼女は僕がいることを期待してたし、僕も彼女が期待してくれてるのを知っていた。

(略)

 出会ったばかりの、互いを知り合う時間。(略)それは魔法の時間だった。(略)

「2人でここを出よう。僕はバンドを組んで、レコードを出す。2人でロンドンに行き、世界中を回ろう。僕はギタリストで、君はギタリストのガールフレンド。それが僕らの将来だ」。

ジョイ・ディヴィジョンイアン・ブラウン

 もし本気で成功したいと思うなら、僕のバンドももっと真剣にならなくてはダメだ。(略)

僕がイメージするバンドのレヴェルに達するには、もっと真剣にならねばならない。そのための1つの方法は、アンディにベースを弾かせることだった。実際、ケヴのベースを弾かせるとアンディはいつだって最高で、そのアプローチのしかたは実にユニークだった。最初、アンディは躊躇していたが、数週間もするとすごくうまいベーシストになっていた。

(略) 

 ある日、下校して帰宅すると電話が鳴った。相手はロンドン訛りで聞いてきた。「ジョニー・マーかい?ジェイク・リヴィエラエルヴィス・コステロのマネージャーなんだが(略)

送ってくれた君のバンドのテープ、聴いたけどすごく良かったよ。スタジオに来てくれないかな」(略)

ロンドンまでの交通費を持つので1日スタジオでやってみろ、というのだ。本物のレコーディング・スタジオでやれるというだけで心が躍った。しかもそれがニック・ロウの自宅だというのだから。

(略)

ドアが開くと、眠そうな顔のカーリーン・カーターがそこにいた。(略)ネグリジェ姿の美しいロックの女神に出迎えられた経験などない。(略)

プロデューサーに6曲聴かせたところ、そのうちの4曲を仕上げてみようと言われた。エルヴィス・コステロリッケンバッカーが廊下に置いてあったので、僕はそれを弾いた。

(略)

君たちのマネージャーになりたい、という連絡がいつ来るかと心待ちにしたが、そんな電話はかかってくることはなかった。

(略)

 僕らはマンチェスター界隈でリハを続けた。(略)

[スタジオの]上の階ではジョイ・ディヴィジョンがリハをしていた。(略)彼らはとても変わっていて、他のどんなバンドとも違っていた。着てる服はオヤジの服みたいで、髪も30年代から出て来たみたいだった。

(略)

 フリーク・パーティは(略)シンガー探しを始め、何人かオーディションを行った。

(略)

 サイが一緒にバンドをやっていたイアン・ブラウンという友人の名前も挙がった。年齢は僕らと一緒。音楽の趣味も良い。イアンに来て歌ってもらえないかとサイに頼んだが、彼もちょうど自分のバンドをスタートさせようとしていた。それからすぐイアンとは知り合いになった。大いにリスペクトできる男で、僕らはすぐに友達になった。

(略)

 [ケイヴを辞め]Xクローズという新しいショップ[へ](略)

オルタナティヴ・ファッションを愛する若者中心に着実にファンを増やしてきた会社

(略)

[働きながら]新しい曲をいっぱい書き、磨けるだけ腕を磨いておこう。僕は実家に戻り、メロディやリフに専念し始めた。曲のストラクチャーは、ガール・グループのレコードやモータウンのシングルから学んだ。フィル・スペクターのレコードを聴き倒しては、どうやって作られているのかを研究した。

 店でかける音楽は交替で選んだ。ラスはキリング・ジョークやファド・ガジェット(略)キャバレー・ヴォルテール、ヒューマン・リーグ、クロックDVAなどのシェフィールド勢、そこにスロッビング・グリッスルがたまに混じる、という選曲だった。ジュールスはザ・ストゥージズ、ザ・フォール、あとはヴェルヴェット・アンダーグラウンド。リーがジ・アソシエイツが好きだったのには感心したものだ。あとクラフトワークも。

(略)

 ファクトリー・レコードに所属するバンドも店にやって来た。トニー・ウィルソンからセクション25というバンドに入る気はないか?と誘われたことがあった。聴かせてもらったテープは良かったが、自分のバンドがやりたかったのでその旨を伝えて断った。この頃、グラフィック・デザイナーのピーター・サヴィルも、ファクトリーのマイク・ピカリングと連れ立ってやって来た。新しく建てられるナイトクラブのミーティングの帰りだと言っていた。(略)

何ていう名前になるのかと尋ねると、彼らは「ハシエンダだ」と教えてくれた。

 仕事は順調だった。となると、そろそろ家から出て住む家を探す時期だ。

(略)

大学時代の知り合いだったオリー・メイが店に来るようになった。(略)彼はスイス人。家庭は裕福で(略)祖父は著名な哲学者だった。(略)

「だったら僕が住んでるとこに越してくれば良いじゃないか」と彼は言った。「上に部屋がある。週2ポンドでどうだ。シェリー・ロードの家なんだ」。シェリー・ロードはジャーナリスト兼テレビ・プレゼンター

(略)

オリーは陽気な性格で、毎日ジャズ・ファンクのレコードを(略)大音量で聴いていた。(略)

[僕は]だいたい1人で部屋でシャングリラスやクリスタルズを聴いて、ブリル・ビルディングのレコードを分析していた。それはポップスに今よりも希望がある時代からやって来た音楽で、巷にあるたいていの音楽よりもユニークで、優れていた。

(略)

ティアックのカセット・マシン(略)を使って僕は納得行くコード進行をまず録音。その上に2つめのギター・パートを録音。バランスを見ながら実験を進め、さらにギターを重ねた。そうやってアイディアをぶつけ合わせたり、多重録音することで自分なりの〈音の壁〉を作った。最終的に、ギターで弾いたコード・パターンやリフを録音したテープが何本もでき上がった。僕とオリーはそれを何度も聴き返した。

次回に続く。

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