ジョニー・マー自伝 その3

前回の続き。

僕とモリッシー、テープ奪還計画、解雇

 アルバムを作り終えてしまった僕らは何かやることはないかと探し始めた。ラフ・トレードとの争議によってアルバムは宙ぶらりん(略)

僕とモリッシーはレアな60年代や70年代のシングル盤を探しにレコード店詣でをすることにした。かつて一度でも持っていた、もしくは一度でも好きだったレコードなら何でも探し出そう、と2人の協定を結んだ。それは楽しい時間だった。僕らは面白いことをいっぱいして、たくさん笑った。様々な狂気から離れ、本当の自分たちに戻れる、こういうほっとする時間をどれほど心待ちにしたことか。週末にはブライトン近くをぶらつき、モーカムまで足を伸ばした。そんな時、2人で語り合ったバンドに描く夢があったから、僕らの関係は誰をも寄せ付けないものになったのだ。

(略)

ある晩のことだ。決めた。フィルに運転してもらい、マンチェスターからサリーまで、マスターテープを盗みに行く。バンドにアルバムを所有することが許されないのだとしたら、それは誰のものにもなるべきではない。スタジオに押し入り、僕が『ザ・クイーン・イズ・デッド』を自由にする。朝1時半頃、マンチェスターを発つと雪が降り始めた。雪程度で計画を思いとどまらされるわけもない。インディーズの正義を貫くためだ。(略)ようやくスタジオに着いたのは、東の空が白む頃。(略)

スタジオを抜け、テープが保管してあるパントリーを開けた。棚の上に僕らのテープがあるのを確認した時、背後で明かりがつき、家主の1人ティムが立っていた。(略)

「ジョニーじゃないか。何をしてるんだ、ここで?」と彼は言った。

「やあ、ティム」。僕は努めて明るく答えた。(略)「僕らのテープを取りに来たんだ」(略)

ティムは(略)テープは渡せない、と言った。法的な争いに巻き込まれたくない、というのもあっただろうが、一番の理由は請求したスタジオ料金が未納だからだと言う。もっともな話だ。

(略)

 ラフ・トレードとは、僕らがもう1枚アルバムを彼らのところから出すことで決着がついた。

(略)

[問題は]アンディの状況だった。(略)

最悪の事態を迎えたのは、あるライヴの途中に彼が〈悪夢〉を見てしまった時だ。(略)

[解雇]を告げる役目は僕に回って来たが、それで正しかったのだろう。

(略)

僕らは抱き合って泣いた。ベースを手に玄関から出ていく彼の後ろ姿を見送った時の気分は、それまで経験したどんな気分より最低だった。

(略)

彼の代わりになれる人間がいるとしたら、クレイグ・ギャノンしかいない。見知らぬ外部者をオーディションするなど、考えられない。

(略)

朝、呼び鈴が鳴り、出てみるとアンディだった。ヘロイン所持で逮捕されたというのだ。(略)

この最悪の状況をどうするか(略)アンディをバンドに戻す。それが一番だと全員が感じていた。

(略)

クレイグを2人目のギタリストにすることにした。(略)僕にとっては、レコードで弾いた別のギター・パートをライヴでも演奏できるようになり、音楽的に解放された気分だった。

(略)

アルバムがリリースされ(略)プレスと向き合わねばならないモリッシー(略)がロンドンの(略)オスカー・ワイルドゆかりのフラットに引っ越すと言い出した。(略)マンチェスターに戻ったことで手に入れた僕らの自治アイデンティティ(略)が犠牲になろうとしている(略)プロモーションのため、テレビ局や写真撮影でしか顔を合わせない生活へと。(略)その時初めて、僕とパートナーのバンドに対するヴィジョンの食い違いに、僕は不安を覚えていた。

(略)

[ロンドンではホテル住まいをしていたが、カースティ・マッコール所有のフラットに住むことに。ある晩、カースティから電話]

「あなたと話したいっていう人がいるんで代わるわね」(略)

「よお、ジョニー……キースだ(略)今、手元に何本か生ギターはあるか?」と僕のヒーローが僕に聞いてきた。

(略)

間もなく、年代もののベントレーがやって来た。僕をキース・リチャーズが待つカースティの館に送り届けるために。(略)

カースティも一緒に、まるで昔からずっと一緒にやってきたかのようにロックンロール・ソングを演奏した。

『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』、脱退

 『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』を作るにあたって、僕はこれまでよりもオーヴァーダブを用いず、余白をサウンドで埋め尽くすことがないようにしよう、と決めた。そう考えたのは、新たに手に入れた自信と、旋風を巻き起こしたいという思いからだ。あとは、ビートルズの『ホワイト・アルバム』から感じた〈一旦休止〉そして〈未解決な何か〉という空気。もっとキーボードを使うべく、自宅に借り物のエミュレーターを置き、"Orchestrazia Ardwick"のサウンドを作った。そしてデヴィッド・ボウイの『ロウ』を改めて好きになったのをきっかけに、"サムバディ・ラヴド・ミー"のシンセのイントロを作った。シンセで曲を書くことで広がった可能性は、新作の1曲目はギターを一切使わないキーボードだけの曲にするぞ、と僕に思わせてくれた。僕以外、誰も気にしなかったとしても、僕には大事な問題なのだ。これまでにない新しい試みをしながら前進していると思えることが。

(略)

 ようやくバンドが納得するマネージャーが見つかり、ザ・スミスを取り巻くビジネス状況は良くなっているように見えた。ケン・フリードマンはサンフランシスコのライヴ・シーンでビル・グレアムとも仕事をしていた野心的カリフォルニア人。僕が彼を知ったのは、モリッシーの紹介だった。彼が関わるようになり、物事はあっという間に解決し始めた。僕らが弁護士費用に莫大な金を費やしていたこと、そしてザ・スミスほどのビッグ・バンドがすべて自分たちで賄い、電話番さえ置いていないことにケンは呆れていた。そこでケンはまず会計士を雇った。(略)

何はともあれ、ようやく僕らのビジネス面を見てくれる人間が現れたのだ。決して誰かの言いなりになるタイプではなく、僕らに敬意を払ってくれるマネージャーが。

(略)

『ストレンジウェイズ』の最高の瞬間は“サムバディ・ラヴド・ミー"。ツアー・バスの後部席、ちょっと寂しい気分の時に思い浮かんだリフを中心に書き上げた曲だが、完成した時、これまでで最も高い感情レヴェルに達せたと思った。(略)僕らの人生のドラマそのものの音がした。

 『ストレンジウェイズ』を作っていた時期は僕にとっては明るい時期だった。衝突事故を機に、ようやく僕も目から鱗が落ちたようだった。(略)

すべてはうまく行っていた。

 ところがレコーディングの中盤、突然、それを変える出来事があった。残りのメンバーが密かに手を組み、新しいマネージャー派は僕1人になってしまったのだ。

(略)

僕が良いマネージメントに求めるものを、彼らはそれは介入だ、自分たちのコントロールを手放すことだ、と言った。(略)

こうして生まれた新たな対立はまるで支配ゲームのようになり

(略)

["ショップリフターズ"のビデオ撮影現場にモリッシーが現れず]

1分時間が過ぎるごとに莫大な金が無駄になっている(略)

僕はモリッシーの家のドアをどんどんと叩いていた。(略)僕は叫んでいた。「こんなことしないでくれ!」。でももう僕らは味方同士でもなければ、友達でもないようだった。

(略)

 3人の回答は無気力で、無愛想だった。結局は〈僕〉対〈彼ら〉のままだった。もう3人の間では話がついていたようで、新たなスポークスマンになったらしいマイクが、バンドはスタジオで新曲のレコーディングをするつもりだと言った。信じられなかった。ついこの間、新しいアルバムを完成し、まだ何ヶ月も経っていないのだ。僕は休暇を取りたいと言っているのに。

(略)

凍りついた雰囲気。彼らは間違いなく、何かが面白くないのだ。でもそれが何なのか、僕にはわからない。(略)バンド内には明らかに新たな力関係が生じていた。そしてどうやら服従すべきは僕のようなのだ。

 それで皆が満足するなら、と僕はスタジオに入ることに同意

(略)

マイクが僕のところに来て言った。「カヴァー曲をやる。シラ・ブラックの曲だ」(略)

僕はシラ・ブラックのカヴァーなんてやりたくないし、それをマイクから告げられたくなかった。そんなの許さない。僕は頭に来始めていた。バンドに対する僕のひたむきさを彼らが試すような真似をしたこと自体、僕には受け入れがたかった。だってこのバンドを最初に作ったのはこの僕なんだぜ!

(略)

 そんな中でもモリッシーと僕は1曲、"アイ・キープ・マイン・ヒドゥン"という新曲を書き上げ、さらにもう1曲、カヴァーを試みた。エルヴィス・プレスリーの"ア・フール・サッチ・アズ・アイ"だ。それは文字どおりに絶望的で、何テイクか録音したものの、ボツになった。(略)

[2曲を完成させ、ヴァカンスへ。そして帰国]

残りの3人もマンチェスターに戻っていた。そうやって数分と離れていない距離にいながら、ザ・スミスの誰からも連絡がないのは実に奇妙なものだ。

(略)

ザ・スミスのパブリシティ・エージェントのパット・ベリスから電話があった。彼女が言うには、プレスが僕がバンドを抜けたという噂を聞きつけたのだという。どうしたい?と彼女は出し抜けに聞いてきた。何か変じゃないか?なぜ僕が彼女に、バンドに、もしくはそれ以外の誰かに対して、解散とやらの公式発言をさせられなきゃならないんだ?2日後、僕がザ・スミスを脱退、と新聞は書き立てた。広報担当者がたまたま捉えた、僕だけがしかめっ面で残りの3人が笑顔というおあつらえ向きの写真と共に。(略)

僕の気持ちはただ「ファック・ユー」だけだった。事実を直視し、僕はザ・スミスを脱退する、と発表した。

(略)

僕らの別離はバンドの終焉というだけでなく、とても親しかった友情、特に僕とモリッシーの友情の終焉を意味していた。最後の最後まで、メディアを通じて、彼とやり合う気はなかった。

(略)

解散した時、僕はまだ23歳、アンジーは22歳。気付けばまた2人に戻っていた。

ポール・マッカートニー

[パリでトーキング・ヘッズ『ネイキッド』録音に参加]

 イギリスに戻ると、ザ・スミスの解散ドラマに誰もが夢中になっていた。僕は〈民衆の最大の敵〉になった気分だった。(略)

僕はザ・スミスのことが大嫌いな野心家。つまり、ザ・スミスという金の卵を産むガチョウを殺しておきながら、トーキング・ヘッズやブライアン・フェリーとプレイし、その墓前を汚した恥知らずなのだ。

(略)

ポール・マッカートニーのマネージャーが、ポールと一緒にやる気はないかと打診してきた。(略)古いロックンロール・ソングのリストがファクシミリで送られてきた。(略)エディ・コクランの"トゥエンティ・フライト・ロック"とリトル・リチャードの"ロング・トール・サリー”は知っていた。バディ・ホリーエルヴィス・プレスリーの何曲ずつかも知っていた。次の週、街はずれのリハーサル・スタジオに行くと(略)僕はダントツの最年少だったので、死ぬほど緊張しまくっていた。

(略)

ポールとリンダがやって来た。僕にとっては世紀の一瞬(略)

僕はリンダのファンでもあった。ガキの頃から、彼女のファンだったのだ。菜食主義にこだわり続ける彼女を尊敬していたし、『ザ・クイーン・イズ・デッド』で彼女に何かをしてもらえないだろうか、と実は頼んだことがあるくらい、彼女の生き方をロール・モデルとしていたのだ。(略)

2人ともフレンドリーで気さくだった。ポールは音を作りながら、トーキング・ヘッズとの仕事はどうだった?と聞いてくれた。

(略)

彼がベースを手にした瞬間、どれほどさまになるかということだ。楽器は完全に彼の一部となる。ポールがアンプを前にブーン!と1音、ベースを鳴らした時の、耳を突き破るような音(略)それはこれまでに聴いたベース・サウンドの中で最高の、そして最もデカイ一音だった。

(略)

「やばい!今、僕の目の前で歌ってるのはポール・マッカートニーなんだぜ!

(略)

しばらくしてポールに"アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア"は知っているか?と尋ねられた時、僕はポーカーフェイスで「ああ、知ってると思いますよ」と答えた。すると事もなげに、彼は言うのだ。ハーモニーを歌ってみるかい?僕の頭の中では叫び声が聞こえていた。「つまり、ジョン・レノンが歌ってたパートを歌うってこと?ボクガジョンレノンノパートヲウタウッテコトデスカ?!」。

(略)

休憩時間、ポールとリンダは僕の近況を知りたがった。リンダはすごく良い人で、おかしくて、魅力的で、僕が最近どうしているのか、知りたがってくれた。ザ・スミスの解散についても聞かれ、僕はどこに行ってもそのことから逃れられないようで辛い、と正直に答えた。彼女は真剣に耳を傾けてくれ、ポールも頷いていた。そのあとはよくあるミュージシャン同士の話になったが、そんな時、ポールは「ああ、ビートルズも日本でそんな感じだった」とか「ああ、僕たちにもそういうことがあったよ」と、ごく自然なことのように言うのだった。

(略)

今こそ彼に意見を求める一生に一度のチャンスかもしれない。

(略)

僕はここ最近に起きた出来事の基本的なディテールを今いちど、彼に説明した。そして息を凝らし、ポール・マッカートニーからの見識ある一言を待った。彼は無言のまま。僕は待つ。さらに無言。するとポールはこう言った。「それが君にとってのバンドなんだよ」。それだけ。「それが君にとってのバンドなんだよ」。僕はその後、自分が逆の立場で、ミュージシャン仲間からそれぞれのバンドの悩みや苦境に関する話を聞かされることもあった(略)が、結局これに勝る言葉はなかった。

プリテンダーズ、スプリングスティーン

 みんなそうだと思うけど、僕も昔からのプリテンダーズ・ファンだ。

(略)

[離脱したロビー・マッキントッシュの代役を頼まれ]

ザ・スミスの解散にまつわるドラマと(略)イギリスの重苦しい空気からのがれられる[と了承、クリッシー宅を訪問]

(略)

〈私はギターを3分で覚えた〉と書かれたTシャツを着た、僕が思い描いていた通りの女性。(略)

 ツアーは(略)U2ヨシュア・ツリー・ツアー〉のオープニング・アクト

(略)

 プリテンダーズはロック・ミュージック・ファンなら誰でも大好きなバンドだ。税関の職員に職業は?どのバンドにいる?と尋ねられ、「ザ・プリテンダーズ」と答えた時の彼らの満面の笑みときたら。プリテンダーズが大好きだという人たちの中には超有名人たちも大勢いて、僕も何人かに紹介された。ロスでの2日間ともにやってきたジャック・ニコルソンはずっと楽屋にいた。クリッシーからはボブ・ディランに紹介された。その晩、ディナーに友人も招待したから、とクリッシーに言われ、僕は待っていた。するとベルが鳴った。ドアを開けるとそこにいたのはブルース・スプリングスティーンだ。僕、アンジー、クリッシーでブルースの運転するフォルクスワーゲン・ビートルにぎゅうぎゅう詰めになって向かった店では、食事をしながら、ほとんどずっと60年代のガレージ・バンドの話をしていたような気がする。楽しい人だった。売れたコンサート・チケットはそのファンとの1対1の契約書なんだ、という彼の哲学を聞けたのは光栄なことだったし、その言葉を僕は一生忘れないだろう。

(略)

クリッシーとは、ボブ・マーリー・トリビュート・コンサートでジャマイカにも一緒に行った。ジャマイカではグレース・ジョーンズやウェイラーズのメンバーらと〈地元の習慣〉に僕らも倣った。(略)僕はあまりにレイドバックしてしまい、ボブ・マーリーが一体全体どうやって〈ゲット・アップ、スタンド・アップ〉なんていう歌詞を書き、ましてやそれを行動に移せたんだろうか?と真剣に考えたくらいだ。

バーナード・サムナー、デニス・ホッパー、ザ・ザ

 サンフランシスコでニュー・オーダーとエコー&ザ・バニーメンのライヴ後、バーナード・サムナーと会うことになった。僕はデニス・ホッパー主演映画〈カラーズ 天使の消えた街〉のプロデューサーからサントラの依頼を受け、カリフォルニアを訪れていた。バーナードと会うのは、マンチェスターザ・スミスニュー・オーダーが出演した〈フェスティヴァル・オブ・ザ・テンス・サマー〉以来だ。

(略)

バーナードも人生の転換期を迎えていた。何かグループのフォーマットを越えたところで、これまでと違うことがやりたい。彼がそう思った時、僕はそれがやれるフリーな人間だったわけだ。

 僕らはまるでつい昨日別れたかのように話し始めた。一緒に曲を書かないかと切り出したのはバーナードの方だった。僕は良いねと答えた。(略)

曲の作り方やアプローチは異なるかもしれないが、感性は一緒だ。何てったって、同じところから出て来ているんだ、僕らは。

(略)

[サントラ録音]

ハービー・ハンコックがプロデュースにあたり、僕はロバート・デュヴァル演じる警官が運転するパトカーのシーンに合わせてギターを弾いていた。立ったまま弾いていた僕の首元に誰かの気配と息遣いがした。見るとそれはデニス・ホッパーで、僕の顔のすぐ横に顔をくっつけるようにして、こう囁いたのだ。「サツみたいな音にしろ、サツみたいに弾け」。僕がギターを弾き続ける中、彼はうろうろと歩き回りながら、スクリーンに映し出されるアクションをじっと見つめたかと思うと、僕の様子をチェックし、またスクリーンを見つめた。僕はこれまでやったことがないような方法で、うめき声やサイレンの音を呼び起こそうとした。そのシーンが終わり、2フィートほど離れたところから彼の視線を感じていた。顔を見ると完全に無表情のまま、何も言わない。するとパッと目も眩むほどの謎めいた笑顔を見せたかと思うと、こう言ったのだ。「お前が気に入った、ジョニー」

 ザ・スミスを辞めたあと、僕には先のことは一切わからなかった。(略)

まさかポール・マッカートニーデニス・ホッパートーキング・ヘッズから電話がかかってこようとは思ってもみなかった。ただギターが弾ければそれで良いと思っていたのだ(略)セッションをやるのは、声がかかるのがどれも面白そうで最高な誘いだったからだ。僕は人とレコードを作るのが好きだ。(略)今はこのままセッションを続けよう。それが僕に一番向いている。今はバンドに所属したくないのだ。少なくとも今は。そう思っていた僕の気持ちを変えることになったのはマット・ジョンソンとの再会、そしてザ・ザに参加しないか、という彼の誘いだった。

(略)

彼は『インフェクテッド』のあと、新しい段階に入ろうとしているところ(略)

今後、お互いがまったく違う方向に進んで行ってしまう前に、80年に2人で交わしたあの〈協定〉を守ってくれたというわけだ。僕らはブリクストン・アカデミーでのイギー・ポップのコンサートのあとに会おうと約束した。終演後のイギーの楽屋で、新生ザ・ザを作りたいというマットの計画に僕が耳を傾けていると、目ざとくイギーが近づいてきた。(略)「お前ら何か一緒にやるのか?やるべきだよ」。偉大なるイギー・ポップ本人のお墨付きをもらったのだ。これ以上、幸先の良いスタートがあるだろうか。

(略)

ロンドンでザ・ザの仕事をやり、北に戻ったならニュー・オーダーの仕事がない時間でバーナードと何かをやる(略)

[プロジェクト名未定のままミーティング]

バーナードは部屋を見回し、エアコンに書かれた〈エレクトロニック〉というブランド名を指さして言った。「エレクトロニックだよ、僕ら」

(略)

ザ・スミスは再結成するのか?」、そして「ニュー・オーダーは解散するのか?」といつまで僕らはプレスに聞かれ続けることになるのか。バーナードも僕も、正直考えたくもなかったのだ。

(略)

バーナードが1週間ほど留守にしていたその日曜の午後も僕はスタジオで、古いソウルのレコードからサンプリングしたベース音をいじっていた。しばらくするとすごく良いなと思えるサウンドができ上がったので、ドラム・ビートをプログラミングしてみた。リズム・トラックに合わせるともう完璧なサウンドができ上がり、どんなギターを乗せるべきかが直ちにわかった。そこで12弦アコースティック・ギターでコードを弾き、ストリング・アレンジを加え、気づけばこれまで書いたどんな曲とも違う、聴いたこともないようなインストゥルメンタル・ トラックが完成していた。

(略)

「この新しいデモ、どう思う?」(略)

バーナードが言った。「こう呼ぼうぜ。"ゲット・ザ・メッセージ"だ」

(略)

[アメリカではワーナーと契約]

その夜、ワーナーの東海岸トップの人間から電話があり、モリッシーと会うのだが、かつてのパートナーとよりを戻すことを考えないかと言われたのだ。僕が丁寧に断ると、彼は言った。「考え直した方がエレクトロニックのためにもなると思うよ」。どんな思惑があってそんな電話をしてきたのかは結局わからずじまいだった

(略)

[マットの弟ユージーンが24歳で死去]

[『ダスク』の]中でも最もパワフルな感情をもって訴えてきた曲は"愛は死よりも強し"だ。「僕と 僕の友人で 哀悼の冷たい光の中を歩いていた」という冒頭の一行で歌われるのは、ユージーンの死後、ロンドンの街をマットと歩いた時のこと。 マットの歌に合わせ、僕はハーモニカを吹き、気づけば頬を涙が伝っていた。

オアシス、カール・バルト

僕はすぐに[マネージャーの]マーカスに伝えた。「オアシスが金曜日にやる。絶対来なきゃだめだ」。

(略)

[アラン・マッギーから]レコード契約を持ちかけられたという。ノエルは契約したいが、バンドにはマネージャーがいないので、僕の意見を聞きたいというのだ。これはマーカスに連絡を取っても問題ないだろうか?とノエルが僕に気を遣っているのだな、と理解した僕は言った。「君らとマーカスは一緒にやるべきだよ」。

(略)

僕はノエルに、もし1つだけアドバイスさせてもらえるなら、とにかく曲を書き続けることだよと言った。何曲も、何曲も。たとえどんなに他のことがすべて揃っても、曲がなければ仕事にならない。僕の知る限り、それが最も賢明なやり方だ。

(略)

もう1つノエルに言ったのは、予備のギターを買えということだった。曲間のチューニングにものすごい時間がかかっていたからだ。「そう言われても、俺にはあのエピフォンしかない」受話器を置き、しばらく考えた末、スタジオに置いてある自分のギター群を見回した。そして決めた。ザ・スミスで"パニック"と"ロンドン"をレコーディングした時に使った、かつてはピート・タウンゼントのものだった1960年レスポールにしよう、と。それをケースに入れると、その足でノエルの家まで行き「ほら、これを使えよ」とケースごと渡した。

(略)

オアシスの初めてのレコードがリリースされ、その注目度は瞬く間に彼らを全国区にした。僕があげたギターの話をリアムがいろんなところで話すのを目にしたし、あれで書いた初めての曲が"リヴ・フォーエヴァー"だったとも語っていた。実際、オアシスのライヴで彼があのギターを弾いているのを見た時、あれは彼の元にあるべきギターなのだ、と思えた。

(略)

初の全英ツアーが半分進んだあたりで、切羽詰まった声の電話がかかってきた。ニューカッスルでのライヴのステージ上、バンドと客の間でもめ事が起こり、僕がノエルにあげたレスポールが壊されたというのだ。「で、どうしてほしいの?」と僕は聞いた。

「替わりに貸してもらえるギターはないかな?」

 僕は持っているギターを見回し、思った。ザ・スミスザ・フーのもとにあった60年代のレス・ポールを弾くのに慣れていたのなら、ぼろギターでも大丈夫だろう。そこで『クイーン・イズ・デッド』で使った黒の70年代のレス・ポールをケースに入れると、ニューカッスルに送りつけた。こんなメモを添えて。「前のよりは重量もサウンドも少し重めだ。うまいこと、ぶん回すことができるなら、敵の頭くらい簡単にぶっ飛ばせるよ。愛を込めて、ジョニー」

(略)

エレクトロニックのセカンド・アルバムに、カール・バルトスを招いてはどうか。(略)

プログラムされた音楽ファイルが最新モデムラインで送られてきて、それに僕らが演奏を重ねてやりとりすることになるとか、そんな風に僕らは予想していた。ところがデュッセルドルフで僕らの前に現われたのは(略)おしゃれなファッションに身を包んだ現役ミュージシャン。屋外カフェでアイスクリームを食べながら、僕らは話をし、どういうプロセスでレコーディングを進めたいか?とカールに尋ねた。すると驚くことに彼の答えは「簡単さ。楽器を持って丸くなって座って演奏しよう」だった。(略)スタジオを見学し、クラフトワークがレコードで出していたサウンドの作り方を目の前で再現してもらった。カールが何気なしに弾く"コンピューター・ラヴ"や"アウトバーン"や"ヨーロッパ特急"に、バーナード・サムナーの開いた口が閉じなかったことは言うまでもない。

 新たなエレクトロニックのアルバムのレコーディングが始まり、カールが僕の家に住み込むことになった。(略)

カールとの作業を通じて、僕は直接多くのことを学んだ。ドイツの作曲家や哲学者について、ドイツにおけるカウンターカルチャー誕生後のミュージシャンの動向について。

バート・ヤンシュ

 僕がバート・ヤンシュと会った時、彼は長く表舞台から姿を消していた。(略)80~90年代を通じ、人知れずひっそりとライヴを行ない、レコードも出し続けていた。だが音楽シーン、とりわけメディアからは気付かれることもなく、批評家の検証に晒される必要もなく、バートのキャリアは続いていた。僕が僕になるための成長期、彼の存在はとてつもなく大きかった。ジミー・ペイジニール・ヤングもバーナード・バトラーもそうだったと言うだろう。他にもどれほどのギタリストの大群がそこに加わることか。いつの時代も、僕の書く曲にはバートからの影響があった。ザ・スミスの"アンハッピー・バースデイ"も"バック・トゥ・ジ・オールド・ハウス"も、彼のスタイルをそのまま借りたと言って良い。

 その頃、僕はバーナード・バトラーと親しくなった。彼とは本当に気が合った。バート・ヤンシュがクラウチ・エンドにあるパブ地下の小さな会場でライヴをやるから観に行こうとバーナードに誘われ、2人で行くことにした。

(略)

終演後、バートがギターを片付けているのを横目で見ながら、バーナードが僕に言った。「彼のところに行って話してくれば?」

「何だって?」

「行くんだよ」。(略)「は な し て く れ ば ?」(略)

僕は言われた通り、近づいた。長年、僕の想像の中で謎めいた存在だった、その男に。そしてぼそぼそっと言った。「やあ、バート、ちょっと良いですか?」

 片付けていた手を止め、バートは顔を上げ、僕を見た。「何だ?」。いかめしい顔で。

 「僕はジョニー・マーって言いまして。えっと、僕ギターを弾くんです。あの、す、すごく良いライヴでした。で、僕はあなたの大ファンで……」

 その時点でバーナードが助け舟を出してくれた。実は彼はバートと一度会っていて、顔見知りだったのだ。突然、しどろもどろになってしまった友人と、その友人のヒーローが直接話せる機会を作ろうという、バーナードの粋な計らいだったわけだ。そんなグダグダな初顔合わせを経て、僕とバートはすぐに親しくなった。奥さんのローレンと暮らすキルバーンの彼の家を訪ね、一緒にギターを弾いたこともあった。バートというと、無口で無愛想だと思われがちだが、それは正しくない。正しく言えば、彼はどうでも良い話には興味がないのだ。でもたくさんのことに関して、言うべきことはたくさん持っていた。かつてフランスをヒッチハイクした時のこと、ギターやギタリストに夢中だったエジンバラでの青年期のこと、60年代初め、気づけばロンドンのビートニク・シーンの中心にいた時のことなど、彼は雄弁に語ってくれた。僕から質問することもあった。最初に聞いたのは、かつてペンタングルでサイケデリックとフォークを融合させた音楽を演奏していた頃、いわゆる〈ヘヴィ〉だとされたバンドをどう思っていたのか、ということだ。そんなやつらは取るに足らない、ポーズだけの軽い連中だと思っていたのだろうか?僕がそう思っていたのと同じように。するとバートはにっこりと笑った。そんな質問をされたのは初めてだよ、と言う。紅茶のカップを手に取り、笑みを浮かべたまま言った。「君はどう思う?」

カースティ・マッコールの死

カースティ・マッコールの死を教えてくれたのは(略)ニュースで知るよりは自分から聞いた方が良いだろう、と連絡をくれた友人のマットだった。

(略)

船舶侵入禁止区域に猛スピードで侵入してきた金持ちの豪商が所有するモーターボートに巻き込まれたのだという。最後に彼女がしたのは、息子たちを必死で押し避け、かろうじて2人の命を救うこと。(略)

カースティとは少し前に話したばかりだった。思い出されるのは、その時の陽気な会話、そして彼女の幸せな暮らしぶり。パートナーのジェイムズを愛し、長年悩まされていたステージ恐怖症もついに克服し、ライヴを行なうこと、ステージで歌うことを心から楽しんでいたのだ。ジェイムズだけでなく、ファンも自分を愛してくれている、と彼女自身が感じていることがわかり、友人として僕も嬉しかった。(略)

いつももっと一緒に曲を書こうという話をしていたし、2人で作ったレコードはどれも僕の自信作だ。ザ・スミス時代、彼女は自分の家に僕を住まわせてくれて、僕が嫌な人間になりそうな時は注意してくれる真の友人だった。彼女の死は僕を打ちのめした。

(略)

カースティは実に魅力的な人間だった。僕らを家に招き、大好きなレコードに合わせて踊って歌っていた時の楽しそうな姿を僕は永遠に忘れない。(略)

彼女と知り会えた僕は何と恵まれていたことだろう。彼女が死んだと言われても(略)まだ僕とカースティの関係は終わりじゃない、そう思えたのだ。

 

モデスト・マウス

 モデスト・マウスとの先行きはまったくわからなかったが、とりあえずポートランドに飛んだ。人から見れば常軌を逸した行動だっただろうか。自分のアルバムを作ろうと思っていた矢先、荷物をまとめ、4千マイル離れた街で、会ったこともないバンドと何かをやるだなんて。

(略)

 ホテルにチェックンし、荷物を解いていると、アイザックがやって来た。そのまま彼の家に行き、すぐに曲作りに取りかかることにした。

(略)

 僕ら2人、向き合うように座った。アイザックが最大音量で鳴らしているのは普通のアンプの3倍はある大型フェンダー・スーパー・シックスのアンプだ。しかも僕の方に向けられている。僕の普通サイズのフェンダー・デラックスじゃ、到底かないっこない。そこで僕は彼が予備で持っていたスーパー・シックスにつないだ。これでおあいこだ。その時、埃をかぶった黒のフェンダージャガーがギター・スタンドに立てかけられているのを見つけた。そのルックスに惹かれ、僕はアイザックに頼み、それを弾くことにした。アイザックの横にワインの大瓶が置かれ、スタンバイOK演奏が始まった。最大音量レヴェルでの接近戦だ。20分後、僕らは興奮状態の中、即興でリフの応酬を続けていた。ジャム・セッションが進むにつれ、時差ぼけのせいもあり、僕の頭はもうろうとし、何が現実なのかわからなくなり始めていた。アイザックは1940年代の飛行帽をかぶり、ゴーグルをかけている。

(略)

「何かリフはない?」。そんな彼の単刀直入な物言いが好きだった。余計なことは一切なし。実際、僕にはずっとモロッコで弾いていたファンキーで痙攣的なリフがあったので、それを弾き始めた。フェンダージャガーにはそのリフを放たせる何かがあったのだ。アイザックはマイクを掴むと、何もないところから歌い始めた。「それはそうなるべきだった そうなったかもしれない 君が思うよりひどく ダッシュボードは溶けてしまったが ラジオはまだ生きている」。彼の口からは、車がバラバラになりながら山を転げ落ちていく様が描かれるヴァースがスラスラと飛び出す。車はバラバラ、でも、心配は無用。だって、ラジオは生きているから。飛行帽とゴーグルのアイザックは1曲丸々、その場で歌い切った。気に入った。こんな風に次々とヴァースを歌うやつを見たことがない。「フロントガラスは粉々だけど 新鮮な空気が良いよね」だなんて。

(略)

「他にもあるかな、リフは?」とアイザックに聞かれ、温めていたリフに僕らは怯むことなく頭から突っ込んでいった。彼の口からはさらなる歌詞が飛び出す。「僕らにはすべてがある 僕らにはすべてがある 波が砕け散るように星の中に飛び込もう」。午前3時。この時点で僕は連続28時間寝てなかった。"ウィヴ・ゴット・エヴリシング"はすごく良い曲のように思えた。

リマスター化を機に、モリッシーと再会

 ビジネスとしてのザ・スミスは、断続的ながら常に背後でアイドリング状態を続けていた。1992年、モリッシーと僕は倒産の危機を迎えていたラフ・トレードからカタログを救出するため、アドバイスに従い、ワーナーに売却する契約にサインした。

(略)

唯一の収入源であるザ・スミスのレコード売上を借金の返済に充てることで何とかやってきていたが、長い期間、レーベル内の他のバンドには一銭の印税も支払われていなかったのだ。選択の余地はなく、他に手段もなく、モリッシーと僕は大慌ての契約を交わした。これでワーナーからカタログがリリースされることになり、管財人に没収されるのだけは免れる。決して最良の条件の契約ではなかったが、音楽を僕らが知る人たちに届けられる。

 ザ・スミスのカタログを手にしたワーナーがまずやったのは、すべてのアルバムのCDリイシュー、つまりリマスター化だった。

(略)

 僕はザ・スミスのレコードのマスタリングには常に同席していた。プロデューサーとして、それは当然の職務だと思ってきた。というか、自分が精魂込めて作ったレコードのサウンドを他人にいじくり回されるなど、もってのほかだからだ。

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ザ・スミスの不幸は、この90年代のカタログCDリマスター化の際、僕に意見を求めてもらえなかったことにある。僕の知らないところでマスタリング・エンジニアがランダムに調整を加えたものが、アルバムとしてリリースされ、それは僕がレコードを作った時に聴いていたものとはまったく別物だった。こんなサウンドじゃないとわかっていながら、それが世に出てしまうことのフラストレーションと落胆は大きく、何が何でもあるべき姿に戻してみせると僕は思った。ワーナーと何度も話し合ったものの、その当時まだ続行中だったモリッシーとマイク・ジョイスの裁判の一件が事態をより複雑にしていた。奮闘の末、やっとの思いで僕とモリッシーとワーナーは合意に至った。僕がザ・スミスのマスターテープを一度引き取り、すべてのレコードを一流マスタリング・エンジニアとともに、あるべき形にマスターし直す。それできっぱりとケリをつけるのだ。

 ザ・スミスのカタログ全曲を聴き直し、1曲ずつ作業していくのは、本当に好きじゃなきゃできない仕事だ。僕はまず"ハンド・イン・グローヴ"から始め、年代順に作業を進めた。ギター・パートはもちろん、ベースのどの1音も、シンバルのクラッシュに至るまで、僕はすべて知り尽くしている。それでもレコードを解析しながら、改めて驚かされずにはいられなかった。アンサンブルとしてのバンドのうまさと、それをやっていた時、どれほど自分たちが若かったのかということに。本来、僕の仕事はなれる限りテクニカルに、当時のスタジオで鳴っていたのと寸分違わぬサウンドにレコードを復元することだ。でもあれらの曲が作られた時、どんな1音にも、言葉にも、僕らなりの意図や感情が込められていた。それが嫌ってほどわかるだけに、すべてが思い出されてしまうのだ。レコードに再び向き合い、僕は改めてバンドが誇らしくて、思わずモリッシーとアンディにメールを打った。〈本当に聴こえてくるんだよ、込められた愛が〉。どちらからも嬉しい返事が返ってきた。

 ワーナーとの交渉が続くことで、当然、モリッシーと僕はそれまでになく連絡を密にするようになった。(略)

数マイルと離れていない場所にお互いいるのだ。近くのパブで会おう、ということになった。元ソングライティング・パートナーとの嬉しい再会。最後に会ったのは10年かそれ以上前。話は山ほどあった。彼の近況に僕も興味があったし、共に経験したアメリカでの生活を比較しあったりした。(略)ライヴの話やツアー先で訪れた街のこと、何が好きで何が嫌いか、と話は尽きない。私生活や家族の近況、昔話を少し、それと僕らが初めてシェリーの家の下宿部屋で会った時、僕が〈バンドにこうなってほしいというリスト〉で書いていた願いがいかに現実になったか、という話をした。(略)

会話はディープな方向へと進んでいた。過ぎてしまったことではあるものの、いかに僕らの関係が外部の世界に取り込まれて、たいがい悪い方向に向かってしまったか、ということをモリッシーが話し始めた。僕も、彼も、ミュージシャンとしての人生のほとんどをお互いの存在によって定義づけられてきた。だから、モリッシーがそれを口にしてくれたのはありがたかった。なぜなら、それが真実だからだ。

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そして話題はついに〈例のこと〉になった。何年も前から、マスコミはザ・スミスが再結成目前だという噂を流していたが、それが真実だったことは一度もない。僕から再結成を求めたことも、そう願ったこともなかった。最近もまた噂になっているがその出所はどこなのか?という話をしながら、2人がそれを話題にしていることのおかしさを感じていた。モリッシーといられるのはやはり良かった。その時だ。ほんの一瞬、僕らはバンド再結成の可能性について話したのだ。正しい意図があるなら再結成もあり得ると思えた。そうなったら素晴らしい。

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僕らはハグをし合い、別れた。それから数日間のやりとりで、僕らはもう一度会おうと約束をした。モリッシーとまた連絡が取れるようになったことが心から嬉しくて、ザ・スミスとしてコンサートをやるかもしれないと、ザ・クリブスにも話したほどだった。その4日間、再結成は現実のものになりそうだった。

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僕はザ・クリブスとメキシコに発った。するとそこでプッツリと返事が来なくなった。僕らの音信もここまで。これまでどおり、これからもそうだと思えるとおりの状態に戻ってしまった。

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