ジョニー・マー自伝 その2

前回の続き。

マット・ジョンソン、モリッシー

 ピート・ハントはサウス・マンチェスターでディスカウント・レコーズというレコード店を経営していた。(略)

[ロンドンで出会った男が]お前と気が合うんじゃないかと(略)マンチェスターに呼んだよ、と。そいつはレコードを出していて、それもすごく良いらしい。名前はマット・ジョンソン。(略)ピートはそのアルバムをかけてくれた。『バーニング・ブルー・ソウル』と言い、聴いた僕はさらに感心した。革新的で実験的、そしてサイケデリック

(略)

年季の入ったリーバイス・ジャケットに同じリーバイスの501S、そしてヨレヨレのブーツ。話してみてわかったのは、彼は僕が子供の頃に好きだったのとまったく同じチャートものが好きだということだ。(略)

ピートのヘフナー・ギターを交互に弾きながら、互いのリフには共通点があることを確かめ合った。マットも僕も何かが起きていることを感じていた。そしてついにマットが僕に言った。「バンドを作ろうと思うんだ。次のレコードはザ・ザというバンドで作るよ。どうだ、参加しないか?」

「良いよ」と僕は答えた。「ロンドンに住む方法さえ見つけられればね。参加するよ」

 これで決まりだ。僕は心から気持ちが通う友達を見つけたのだ。年齢も一緒だし、新しい音楽を作ることが楽しみな気持ちも一緒。僕らは街に繰り出し、レジェンズで夜通し語り合い、互いを知り合った。

(略)

 アンジーが免許を取ったのと同じ頃、僕はハーモニカをまた吹くようになった。みんなから文句を言われずに練習できるのはビートルの中だけ。アンジーには我慢してもらうしかない。どこへ行くにもストーンズのセカンド・アルバムのテープに合わせて、僕はハーモニカを吹いた。運転手段を手に入れられたことで、僕らは前よりも会えるようになった。ハーモニカも上手くなっていき、次に組むバンドではハーモニカを入れるべきかな、などと思うほどだった。

 レコードに囲まれた小さな部屋での毎日は最高だった。(略)

クリスタルズやシャングリラス、もしくはワイヤーやカンのアルバムを引っ張り出してはギターを弾き、気づくとそのまま眠ってしまうこともあった。

 バンドではなく、自分1人で曲をまた書くようになったことは、僕のギター・プレイを大きく上達させた。ベーシストやドラマーに縛られることなく、コード・チェンジで冒険することができるので(略)合間にメロディやちょっとしたフレーズを織り込むこともできたし、どう展開させるかも僕の自由。すでに他のギタリストが試したことからはどんどん離れて行くようになっていた。(略)小さな3トラック・カセット・マシンにアイディアを吹き込み、その上にリフを重ねた。そうやって、他の楽器があまりなくとも、ギターだけでかなり完結したものが作れるようになった。

 ヴォーカルなしのインストゥルメンタルだったが、気づけば何曲もの曲ができ上がっていた。(略)そろそろシンガーを探し始めるべきかもしれない、と。僕自身はフロントマンにはなりたくなかった。

(略)

店に来る客を僕はチェックするようになった。何人か、シンガーになりたいやつらはいたが、年をとり過ぎているか、ゴス過ぎた。トニー・ウィルソンに誰か知っているかと聞いてみると、ファクトリーに所属する女の子と僕を組み合わせようと熱心に売り込んできた。でも彼女がやってるのはジャズやボンゴを使った音楽だったし、そもそも僕が探していたのは女じゃなくて男だ。

(略)

リヴァプール出身のカップルとの会話で、バニーメンが解散するので、シンガーのイアン・マッカロクの居場所を突き止めてはどうだ?と言われた。良いじゃないか。イアン・マッカロクはその時点での僕が好きなシンガーのトップだった。(略)

そのカップルがバンドのマネージャーからイアンの連絡先を聞いてやる、と言ってくれたのだが、その翌週、バニーメンのギグの告知がされ、計画はふりだしに戻ってしまった。

 僕の頭の中は新しいバンドのことでいっぱいだった。(略)

今のところ、唯一候補として良いと思えるのはスティーヴン・モリッシーというやつだけで、そいつは今ロンドンにいるビリー・ダフィが何年か前に一緒にバンドをやっていたやつだ、と僕はジョーに話した。(略)

わかっていたのは、そいつがストレットフォードのどこかに住んでいて、NMEにニューヨーク・ドールズに関する記事を書いたということだけだ。

(略)

 その晩、ジョーがVHSのビデオデッキで録画していた〈サウス・バンク・ショウ〉のジェリー・リーバー&マイク・ストーラーの回を観させてもらうため、彼の家を訪ねた。ビデオ・レコーダーの登場は当時、画期的なことだった。音楽ファンや映画ファンにとってまさに天の恵み。

(略)

ジョーが僕の方に振り返って、こう言った。「ここを観ろよ」。それはジェリー・リーバーがマイク・ストーラーとの出会いを語るシーンだ。未来のパートナーのことを彼は知らなかったが、曲を書くことができるやつだと噂を聞き、どこに住んでいるかを突き止め、家のドアをノックしたという。これだ!と僕も思った。どうすれば良いか、これでわかった。でもそのドアがどこにあるのかがわからないのだ。

(略)

 それは本当に良く晴れた日だった。早くも夏が訪れたかのようで、サウス・マンチェスター郊外を歩きながら、僕らは舗道に落ちる長い影と一緒だった。10分ほど歩くと、このあたりでは多く見かける、感じの良い、赤レンガの2軒が連なったセミデタッチハウスに着いた。外には小さな門扉がある。僕は門を開け、ドアの前に立ち、ノックした。(略)

出てきたのはブロンドの若い女性で愛想が良かった。僕は挨拶をし、スティーヴンはいるかと尋ねた。「呼んでくるわ」と彼女は行き、しばらくすると若い男が出てきた。

「やあ」と僕は言った。「僕の名前はジョニー。ポミーは知ってるよね」

「やあ、スティーヴン」とポミー。

「ああ、やあ、ポミー」。そう答えるモリッシーにまず僕が驚かされたのがその声だった。とても柔らかく、穏やかな話し声だ。予想もしない2人の来客にちょっと戸惑った風だったが、彼は礼儀正しく僕に言った。

「やあ、初めまして」

「突然、訪ねて来てしまって悪かったね」と僕は説明を始めた。「実はバンドを作るんだけど、歌に興味ないかなと思って」

(略)

モリッシーの後ろから階段を上がりながら、彼の服に目が行った。スーツのズボンにボタンアップ・シャツ、下にはTシャツを着て、ゆったりしたカーディガンを羽織っている。髪型はクイッフではないがショートの50年代風。ファクトリーあたりにいた年上の連中に似ているな、と思った。ア・サーティン・レイシオのような、ストリートというよりは学究的なインテリ・タイプ。階段の隅に、映画〈ジャイアント〉のジェイムズ・ディーン等身大パネルが置かれていた。部屋に入るとタイプライターがあった。

(略)

僕は彼の珍しいタムラのシングル盤のコレクションを褒め、彼からはアメリカに行ったことがあるか?と尋ねられ、僕はダスティ・スプリングフィールドの"リトル・バイ・リトル”を絶賛した。彼は僕が初めて聴くサンディ・ショウの"メッセージ・アンダーストゥッド"を、そしてザ・トイズの"ラヴァーズ・コンツェルト”をかけてくれた。

(略)

モリッシーと一緒にいて、僕はしっくりくるものを感じていた。気まずさは何もなかった。初対面の誰かに、そいつのベッドルームで、自分の希望や夢を語っていたということを考えれば、なおさらだ。すごく自然に感じられた。僕よりは何歳か年上だったが、たちまちお互いを理解し、共鳴し合えた気がした。

(略)

[帰り際]言葉がタイプされた紙を何枚かよこした。曲かな、と僕は心の中で思っていた。(略)明日の正午、Xクローズに電話をくれるように頼んだ。(略)

照りつける太陽の中を歩きながら「もし明日、彼が電話をかけてきてくれたならこのバンドはいよいよだ」と思っていた。

 翌日の正午、電話が鳴った。僕らは長いこと、レコードやバンドのことを話した。すると彼が昨日の歌詞は見てくれたか?と聞いてきた。もちろん見たさ。それは"Don't Blow Your Own Horn"とタイトルが付けられていて、それなりのコードを付けてみたのだが、まだこれだ!と思えるものにはなっていなかった。でもそれは大した問題じゃない。それからもう何度か電話で話し、僕の家で一緒に曲を作ろうということで話がまとまった。家に封筒が届いた。中に入っていたのはカセットテープとジェイムズ・ディーンの写真のコピー。カセットはクリスタルズ、シャングリラス、シレルズ、サンディ・ショウ、マリアンヌ・フェイスフルの曲を集めたコンピレーション・テープ。良い兆候だぞ、と僕は思った。

 2度目に会うことになったその午後(略)モリッシーはさらに歌詞を持参していた。何ページ分かあった中に"ザ・ハンド・ザット・ロックス・ザ・クレイドル"はあった。僕は深く考えることなく、パティ・スミスの"キンバリー"をなぞったコード・チェンジを弾き始めた。すると言葉とぴったり合うだけでなく、ベース・ラインが自然と浮かび上がって来たので、僕はそれも同時に弾いた。そこへモリッシーが言葉を乗せ、ものの5分もしないうちに曲ができていた。たくさん笑いながら音合わせを数回したのち、テープ・マシンに録音し、上からギターをオーヴァーダブした。こうして僕の新しいパートナーと僕の最初の曲が完成した。それはとても大切な瞬間に感じられた。歌詞については、どこかヴォードヴィル風だなと思ったりもしたが、内容を分析するようなことはしなかった。

 他にも"サファー・リトル・チルドレン"という歌詞があった。(略)

歌詞に目をやりながら、僕の手は勝手に曲を弾き始めていた。何かが起きていた。曲がどこからともなく湧き出てきたのだ。ヴァースを弾き進める僕に合わせてモリッシーが歌い、僕の目と頭の中に言葉と物語が浮かび上がっていた。ギターがヴォーカルの下で鳴る中、僕は勢いにひっぱられるようにその後を追い続けた。そして気づくと、曲は完成していた。誰の曲とも違う、誰の曲のような感じさえしない曲。それは〈ムーアの殺人〉を歌った曲だった。どう判断すべきか、僕にもわからなかった。わかるのはどう感じるかということだけ。不思議なくらいの真実。僕の感情は漂い、僕はただその瞬間を追っているだけのような気がした。部屋にあったオルゴールのネジを巻き、窓に近づき、オルゴールを外に差し出した。そして別の手にはマイクを持ち、オルゴールのメロディと遊ぶ子供の声を同時に録音した。(略)北に育った人間として、この2曲目が醸し出す心情には、他の何よりも僕の心に引っかかるものがあった。それが僕らを決定づけたのだ、初めて一緒に曲を書いたあの日から。それは僕に語りかけていた。「僕らは他とは違うんだ」

 モリッシーと僕のパートナーシップが始まった。

(略)

僕らはそれぞれに、なりたい自分になるために若き日の大半を捧げてきたのだ

(略)

僕らは互いに認め合った。性格も違えば、多くの部分で正反対だったが(略)僕らは僕らだけの固い絆で結ばれた。

(略)

まずは、デビュー・アルバムのタイトルはグループ名そのままにしよう。そしてファースト・シングルはネイヴィ・ブルーのレーベルにシルバーの文字で曲のタイトル、その下に括弧で〈モリッシー・アンド・マー〉と表記する。契約はラフ・トレード・レコードとするべきだ。そして何年もレコードを作っていないかもしれないが、サンディ・ショウのために曲を書くのも良いね、とそんな予言までしていた。グループはおろか、とても変わった2曲以外に曲すらない。それでも僕はそれだけのことを夢見ていた

(略)
インスピレーションはあらゆる音楽から見つけられたが、特に良く聴いたのはガール・グループだ。彼女たちの曲のアプローチをギター・バンドにも適用できないだろうかと僕は考えた。一方で、書けた曲にトラディショナルなロック・ギターの片鱗が少しでも感じられたならそれは捨てた。同時に自分らしいサウンドは留めたいと思った。現代的な曲を書きたかったし、それを友人に好きになってもらいたかったし、クールだと思ってもらいたかった。

(略)

その日の午後も僕は彼の家から帰るところで、家の前の舗道で2人で立っていた。その時だ。白い小さなカードを彼が差し出したのだ。カードには青いボールペンで3つの名前が書かれていた。〈ザ・スミス・ファミリー〉〈ザ・スミス〉〈ザ・ウォーキング・ウンデッド(歩く負傷者)〉。気に入る名前があるのかないのか自分でもわからなかったので答えに一瞬ためらったが、〈ザ・スミス〉を指差した。これが一番嫌いじゃない。「オーケー、それなら」とモリッシーは言うと、微笑みながらこくりと頷いた。「ザ・スミスで」。

(略)

[モリッシーは]ファクトリーのボスであるトニー・ウィルソンの元へテープを持って行った。のちにトニーは、チャンスはあったがザ・スミスとの契約を自分が蹴ったと言いふらしていたが、僕にザ・スミスをファクトリーと契約させる気などまるでなかったこと、彼もわかっていたはずだ。トニーのことは好きだったが、すでにいくつかファクトリーのバンドに加入しないかという誘いを断っていたし、自分のバンドにカーキの短パンを着させるつもりもなかった。インディ・レーベルならラフ・トレードだ、ファクトリーでは絶対ない。僕はそう信じていた。モリッシーからテープを聴かされたトニーが店に来て、僕らのことを「特別だと思った」と言ってきた。プレス受けも良いはずだ。だって君のシンガーは元ジャーナリストだからね。そう言われ、これは遠回しの批判だと思った僕は、彼に何かを言われた時にいつも言うやつを言ってやった。「失せろよ、トニー」

(略)

 ベースには何が何でもアンディ・ルークを入れなきゃダメだ。もうこれ以上、見知らぬ誰かをオーディションする気もなかったし、どうせ彼ほどうまいやつはいないのだ。(略)ヘロインの一件はまだ頭に来ていたし、そうその問題が解決されるのか、自分でも分からなかった。

(略)

会うのはひさしぶりだ。(略)僕はさっそく本題にはいり(略)[バンドに]入る気はないか?と話を切り出した。ただしヘロインを断ち切ることが条件だ。リッツのギグのテープを聴かせるとアンディも気に入り、わかったとEMIでのデモ録音に顔を出すことに同意した。

(略)

 最初に合わせたのは"ハンサム・デヴィル"。良い感じだ。(略)アンディのベースも最高だ。前のバンドで一緒にやっていた時、互いの演奏を聴いてプレイし合っていたあの頃のままだ。全員、彼が適任だとわかった。

ハンド・イン・グローヴ

 ハシエンダでの来るべきライヴは重大事件だった。それまでのどこよりも権威ある会場。それでいて僕らにとってはまだ3度目のステージなのだ。

(略)

なのに僕らには数曲しか、というか具体的に言えば1曲しか新曲がないのだ。(略)

古いアコースティック・ギターを取り出し、ぼんやりとリフを弾いていた。最初、それはさもシックでナイル・ロジャースが弾きそうなリフに思えていたのだが、気づくと自分のものになっていた。できたぞ。でも家には録音する手段が何もなかったので(略)忘れないうちに弾いて聴かせるしかない。アンジーに僕をビートルで送ってくれるように頼むと、大急ぎで出発した。車の中でも曲を忘れないよう、何かが変わらないよう、何度も何度も弾きながら。その車中でアンジーが彼女にしては珍しく、こう提案したのだ。「イギーみたいにして」(略)と命令するような口ぶりで。僕はそれまでの歯切れ良いリズミックなアプローチではなく、さも『ロー・パワー』の曲にありそうなオープン・コードのリフに変えてみた。するとものの数秒ですごく良くなった気がした。僕はリフを弾き続けた。モリッシーの家に着き(略)

僕が玄関先で歌い続ける間に、モリッシーは慌てて部屋からテープレコーダーを取ってきて、その場で録音した。数日後、リハーサル(略)

初めて僕らは曲を合わせた。ばっちりだ。タイトルは"ハンド・イン・グローヴ"。これまでの最高傑作。(略)この曲こそが僕らであり、固い友情に支えられた献身と絆が形となった結果なのだ。僕らの宣言であり、声明書。歌詞も完璧なら、曲も完璧、僕の人生も完璧だ。

 ハシエンダのライヴの夜がついにやってきた。DJはアンドリューだ。

(略)

アンドリュー・ベリーとの生活が最高だったもう1つの理由は、ハシエンダのDJでかけるレコードの数々だ。彼の部屋の前にはスーサイド、マテリアル、ジェイムズ・ホワイト・アンド・ザ・ブラックス、ZEレーベルのアルバムならすべて、何箱も並んでいた。エレクトロ関係の12インチも選び放題だ。

(略)

僕が聴き漁っていたポスト・パンク・ギター・ミュージックとはまるで違っていたが、僕がその後もクラブ・ミュージックを好きでい続けたのは彼のおかげだ。そんなアンドリューのクラブ系レコードの知識、ジョーの60年代ソウル・シンガーへの愛情、僕自身のモダンなギター・ミュージックへの探究心のすべてが1つ屋根の下にあるのだ。

ラフ・トレード

[マット・ジョンソンの家に泊めてもらうことにして、ロンドンへ。ラフ・トレードにデモを持ち込んだが門前払い]

「うん、良いね(略)でも僕にはどうすることもできないんだ。ジェフに聴かせないと」(略)

「ジェフってのは?」と僕は尋ねた。

「ジェフはレーベルのヘッドだよ。リリースを決めるのも彼だ(略)テープを送ってみたらどう?」

 送るだと?それじゃお払い箱にされるのと一緒だ。(略)

[建物を出て、倉庫に勝手に入り込み、ジェフを待ち伏せて突撃]

「(略)ぜひラフ・トレードから出したい曲があるんです(略)

もしあなたのレーベルから出せないと言うなら、僕らは自分たちのレーベルで出すのでディストリビュートしてくれるだけでも良いです」。(略)

「週末に聴いてみるよ」。彼は言った。(略)

僕は思わず口走らずにはいられなかった。

「今まで聴いたこともないもののはずです」

 ミッション達成。ラフ・トレードのビルを出て[マット・ジョンソンの家に]

(略)

わずか24歳にして、彼はCBSレコードとアルバム5枚の契約(略)2枚の素晴らしいシングルをリリースしたばかり

(略)

カシオのキーボードと黒のフェンダーストラト、ドラム・マシンが小さな4トラック・カセット・レコーダーに繋げられ、エレクトリック・オートハープとマイクも数本転がっていて、そのうちの1本はエコー・ペダルに繋がっている。こんな仕事のやり方を見るのは初めてだった。とてつもなく新しく独創的だと思った。完全に自給自足なのだ。作業を終えたマットは僕に新曲を聴かせてくれた。床に転がっているエレクトリック・オートハープを土台にして作ったという"ディス・イズ・ザ・デイ"は実に素晴らしい曲だった。

(略)

 月曜の朝、ジョーのオフィスに行き、僕は知らされた。ジェフ・トラヴィスが"ハンド・イン・グローヴ"を大いに気に入り、ラフ・トレードからリリースしたいと言っていると

(略)

最初から、僕はメディアとの対応はモリッシーに任せるのが一番だと思っていた。彼には彼のアジェンダや世界観がある。年上だったということもある。でも何よりも、うまかったのだ。(略)我らのフロントマンは対プレスの天才だった。(略)インタヴューしてきたどんな連中よりも、彼の方が上手だった。

(略)

 カムデンでザ・フォールの前に演奏した時のことだ。ザ・フォールこそ(略)ラフ・トレードの現国王、マーク・E・スミス率いるバンドだ。レーベルがザ・スミスにばかり肩入れしているとミスター・スミスが文句を言っていた、とラフ・トレードの社員から僕は聞いていた。

(略)

ステージに上がるまであと少しという時、スコット・ピアリングに呼び止められ、僕らは写真を撮られた。時間にしてわずか1秒。壁に寄りかかったその写真は、ザ・スミス初めての、そして最も有名なイメージとなった。花を持ったモリッシーが前に、マイクとアンディは白のTシャツで、そして僕は後ろの方に、アイヴァーで働いていた時に買った黒のレザーコートを着て、Xクローズで買ったレイバンをかけて。

(略)

 ラフ・トレードと僕らは1枚のシングルのみの契約だったが、彼らは契約の更新とファースト・アルバムを望んだ。その頃、僕らはメジャーのレコード会社からの求愛を受けるようになり、ジョーにはヴァージン、ワーナー、ポリドールなどから声がかかった。一番真剣だったのはCBSだ。楽屋にスーツを着た連中が挨拶をしに来て、悪い感じではなかった。モリッシーと僕は何度かミーティングにも同席した。メジャーがどういうものか、あくまでも好奇心で知りたかったからだ(略)

まず驚かされたのはオフィスのどこにもレコードがなかったことだ。ラフ・トレードやファクトリーではそこらじゅうにダンボールが置いてあった。

(略)

もう1つ気づいたのは、僕が嫌いなポップ・スターたちのでっかい写真が、ビルに入った瞬間から僕らを待ち受けていたことだ。(略)

最終的にモリッシーも僕もラフ・トレードのままでいるのが良いと決めた。

 僕とモリッシーが署名するラフ・トレードとの契約書を持って、ジェフ・トラヴィスマンチェスターのジョーのオフィスまでやって来た。(略)

マイクとアンディも同席した。2人が契約書に署名を求められることはなかったが、マイクは証人として署名した。前払金は4千ポンド。

LSDザ・バーズ

 その頃だ。ジョーの奥さんのジャネットから(略)マープル・ブリッジのコテージを使って良いと言われたのは。(略)絵のように美しい小さな街。曲作りに専念できる場所を提供してもらえるのはありがたいことだった。(略)

アンドリューとレコードを聴きながら、その頃の新たな趣味となったLSDをやるかだった。若い頃、LSDは何度か試したことがある。それは興味深くも決してヘヴィな体験ではなく、良い気晴らし、そしてクリエイティヴな行為だと僕は思っていた。(略)

僕のサウンドを形成したのは昔好きだったグラム・ロックやニュー・ウェイヴで、フォーク・ミュージックの影響はもちろんあったものの、僕とロジャー・マッギンのサウンドが似ていたのは偶然としか言いようがない。逆に比較されたことで、僕はザ・バーズのことをもう少し知ろうとした。そこにLSDと夏の時期を田舎街で過ごしたことが重なって、ザ・バーズバッファロー・スプリングフィールドラヴィン・スプーンフルなどを好んで聴くようになったのだ。音楽というのは生活と実に密着している。

(略)

 僕が初めて本当の意味の金を手にしたのは、音楽出版契約をした時だ。音楽出版が何を意味するのかまったく見当すらつかなかったが、数千ポンドをもらえたのはすごいことだった。僕はアンジーに婚約指輪を買い(略)

残りの金で僕はアンディにベース・アンプを、マイクにドラム・キットを、そして自分には黒のリッケンバッカー330の6弦ギターを贈った。リッケンバッカーを買ったのはルックスが良かったこともだが、曲を書くのに役立つプレイができるようになると思ったからだ。ギターの中にはなるべく楽にプレイできるようデザインされたものもあり、ロックなアプローチには最高だ。例えばギブソンレスポールはそんなギターだ。そういうのも大好きなのだが、僕のスタイルに悪影響を及ぼすことにも気づいていた。でもリッケンバッカーなら弾けば自動的にロックになる落とし穴に陥ることはない。サウンドという点からもブルージーにはならない。僕にはぴったりだ。これによって"ユーヴ・ゴット・エヴリシング・ナウ"や"スティル・イル"といった曲は生まれた。

 たいてい新曲は、まず僕が音楽をカセットに吹き込み、モリッシーが1~2日考えたのちに歌詞とヴォーカルのメロディ・ラインを乗せるという形ででき上がった。僕の家で一緒に書くこともあった。3フィートくらい離れたところに座り、僕は膝の間に挟んだテープ・レコーダーにギターを吹き込む。アンジーが部屋にいることもあった。"リール・アラウンドザ・ファウンテン"を書いた時はアンドリューも一緒だった。

(略)

その朝、どこかとても明るそうな曲のアイディアとともに目が覚めた。レーベル・メイトであるアズテック・カメラの陽気な曲がラジオでしょっちゅう流れていたことが関係していたのかも、と後で思ったものだ。窓から日が差し込み、僕はギターを手にすると、ぽろんぽろんとコード進行を探し(略)また別のコード進行がどこからともなく僕の指の下に現れた。しばらくその後をついていった時、曲だと思える何かができていた。それ以上磨きをかけることもなく、ありのままをテープ・マシンに吹き込むと、その上に最初に思い浮かんだギターを重ねた。聴き返してみるとなかなか良い。まるで空気の中から生まれたかのようだ。(略)

モリッシーが歌い、でき上がったのが"ジス・チャーミング・マン"。実際はどれほど複雑でエモーショナルな曲だったとしても、苦労の跡なくできたかのように聴こえる曲というのは、作っている時からその良さがわかるものだ。

(略)

"ホワット・ディファレンス・ダズ・イット・メイク?"のレコーディングに取りかかろうとしていた頃、金銭的な取り決めに関する議題が持ち上がった。その時点で、僕は僕らにそれほど金が稼げるとは思っていなかった。(略)そこでグループ内の分配は、僕とモリッシーが40パーセントずつ、残りの2人で100パーセントずつにすることにした。僕らがバンドを実質率いていることを考えれば、それで妥当だと思ったのだ。(略)

マネージメントとレコード会社との窓口は僕とモリッシー。少なくともラフ・トレードにとってのザ・スミスは〈僕とモリッシー〉だったのだ。

(略)

つくづく[書面に]残しておけば良かったと思う。その後(略)そのような取り決めに同意した覚えはないとマイクとアンディが主張し、裁判沙汰にまで発展してしまったことを考えると。

(略)

 10月、"ジス・チャーミング・マン"が(略)あっという間に全英チャート・インし(略)僕らの家族の人生をも変えてしまった。

渡米、サイアー・レコード

 すべてのイギリス人ミュージシャンがそうであるように、僕の夢はアメリカに行くことだった。

(略)

 その日、ジョーと僕はオフィスでアメリカ・ツアーのプランを立てた後、いつものように音楽を聴きながら、ジョーの家まで戻った。家に着き、車のエンジンを切った後もジョーは動こうとせず、何かを考えていた。(略)長い沈黙ののち、ジョーがついに口を開いた。「僕は君らと一緒にニューヨークへは行かない(略)辞めようと思う。バンドのマネージメントはもうできない」

(略)

ジョーなしでどう前に進めばいいのか僕には見当もつかない。他のメンバーがまだ誰もいなかった時から、彼は僕を信じてくれ、家を、仕事を、すべてを僕に与えてくれた。そしてザ・スミスを、本業よりも家族よりも優先してくれたのだ。バンドを支え、リハーサルの場を用意し、バンやPAを買い与えてくれ、初めてのシングルも彼が自腹を切って作った。ジョーは僕だけでなく、バンドのあらゆる面倒を見てくれていた。(略)部外者は、彼とモリッシーの不和がその原因だと囃し立てた。しかしその当時、僕はジョーからもモリッシーからも、そういったことは一度も言われていない。(略)未だになぜジョーが辞めねばならなかったのか、不可解なままだ。

(略)

 僕らがニューヨークにいたもう1つの理由は、アメリカでのレコード契約をサイアー・レコードと交わすためだった。彼らとの契約を僕もモリッシーも望んでいた。何てったってサイアーにはパティ・スミス、ザ・ラモーンズトーキング・ヘッズなどを抱えるレーベルというレガシーがある。それ以上に重要なのは、サイアー・レコードの創設者がシーモア・スタインだったことだ。

(略)

 ロンドンで初めて会った時、シーモアブライアン・ジョーンズを48丁目にあるギター・ショップに連れて行った話をしてくれた。僕自身、サイアーとの契約にほぼ気持ちは固まっていたのだが、シーモアに1つだけ条件を出していたのだ。もし僕にも48丁目でギターを買ってくれるなら契約するよ、と。そもそもザ・スミスのことが大好きだった彼はそのアイディアを大いに気に入り、僕の条件を飲むと言ってくれた。1984年1月2日、僕らはサイアー・レコードと契約。シーモアは約束通り一緒に48丁目まで歩いて行くと、どれでも好きなギターを選んでいいよと言った。(略)

ウィ・バイ・ギターズの店内に赤の59年製ギブソン355が掛かっているのが見えた。(略)手に取るまでもなく、それが特別なギターであることがすぐにわかった。(略)

[ホテルに帰り]手に入れたばかりの355で最初に書いたのが、僕らの次のシングルとなる"ヘヴン・ノウズ"。続いて、B面曲となる“ガール・アフレイド”だった。そういう楽器が世の中には存在する。つまり、その楽器の中にすでに音楽が眠っている、ということだ。

(略)

曲がチャートに入り、まとまった金が入ってくるようになると、メンバーそれぞれにもちょっとした贅沢が許されるようになってくる。僕の場合はウエスト・ロンドンにあるギター・ショップだ。その頃の僕はVHSで発売されたばかりのビートルズのドキュメンタリーを何度も繰り返し観ては、ホリーズの『グレイテスト・ヒッツ』を聴きまくっていた。おかげで他の3人も僕につられるように、ビート・グループ期に突入していた。そこで僕が目星をつけたのが、ビートルズホリーズの両バンドが使っていた古いギブソンJ-160アコースティック・ギターだ。モリッシーが貪るように聴いていたハーマンズ・ハーミッツもギブソンJ-160を使っていた。これは神のお告げだ。何が何でもこのギターを買わねば。もう1本、キース・リチャーズストーンズの代表的なシングル曲の数々で使用していたのと同じ、64年製エピフォン・カジノも手に入れた。

"ウィリアム""ハウ・スーン・イズ・ナウ?"

ポップ・スター・ライフを送る一方、バンドは常にライヴを行ない、ツアーを続けていたが、僕が一番楽しんでいたのは曲を書くことだ。その日、ギグに向かうバン後部席のマットレスの上で、僕はギブソンアコースティック・ギターを弾いていた。その時だ、リフが思い浮かんだ。(略)数日間、弾き続けたそのリフは次のシングルにぴったりと思える曲を生んだ。(略)

[数日のオフ]録音環境は(略)タスカム社ポータスタジオの4トラックとローランド社ドラマティックス・ドラム・マシンへとアップグレードしていた。せっかくだ。A面だけでなくB面、さらには12インチ用のエキストラ・トラックのデモも録音してしまおう、と僕は決めた。

 A面用の曲はアコースティック・ギターであっという間にでき上がり、何回か試しただけで、ほぼ完成した。約2分という、ザ・スミスの曲としてはこれまでで最も短い曲だ。大好きなバズコックスのシングルも短かったので、2分10秒のままでいい、そう思った。B面には全く違うアプローチで取りかかった。(略)

家族への思いは母が好きだった曲を思い出させ、そのコードを僕はギターで弾いていた。メランコリックな気分に浸っているうちに、ぴったりの感情に導かれ、とてもきれいなB面曲ができ上がった。土曜日中に2曲が完成してしまった(略)

12インチ用に3曲目を書こう(略)A面が短く速い曲で、B面も短いがワルツのような曲だったので、長く、グルーヴのある曲にしよう。ジョイントを巻くと、買ったばかりのエピフォン・カジノをアンプにつなぎ、リズムを弾き始めた。昔から好きだったザ・ガン・クラブのスワンプ・ブルースをどこかで意識しながら、トランス風なリフを試してみた。まるでスローなボハノンの曲のようだ。何度も試しているうちに、ヘッドホンで聴くその曲はサイケデリックになり、何かができ上がりつつあるようだった。僕はさらにドラム・マシンでシンプルなビートをプログラムし、催眠的なリズム・ギターと2音だけのフレーズをその上に乗せた。

(略)

そうやって出来たのが"ウィリアム""プリーズ・プリーズ""ハウ・スーン・イズ・ナウ?"の3曲だ。

 その間、僕らのラジオとテレビのプロモーション担当だったスコット・ピアリングが急遽、代理マネージャーの役を兼ねることになった。とはいえ、彼にバンドに代わって物事を決める権限はなく、全部の責任が僕の肩にかぶさってきた。スタジオ機材の予算がこれくらいだ、車のレンタル費にいくらかかるなど、特に金に関わることを承認するのは僕。

(略)

スコットからは自分か誰かをマネージャーに雇い、一切を任せるべきだと何度も言われていた。

(略)

 そんな時、ニューヨークからルース・ポールスキーが飛んできた。誰から呼ばれたわけでもない。突然、ロンドンに現れ、みずからマネージャーの役を買って出たのだ。そのことを知ったのはライシアム劇場のステージの上だ。サウンドチェックでギターと悪戦苦闘していた僕にルースは近づいてきて宣言したのだ。「ハーイ、ジョニー!あなたたちのマネージャーになったわ、私!」。満面の笑みで彼女は僕をぎゅっと抱き締めた。ギターごと。(略)

「そうよ。さっきモリッシーと話したわ。あなたの仕事を私が受け継ぐから。最高でしょ!?」

 どっちが、より頭に来ていたのかわからなかった。誰かに突然やって来られ、その人間に僕のマネージャーだと言われたことに対してか、それともそのことをステージ上、サウンドチェックで必死な時に言われたことに対してか。

(略)

 こんなバカな話ってあるか?(略)楽屋に引き揚げるとモリッシーが説明を始めた。ルースは何の予告もなく彼の家に現れ、自分がバンドをマネージメントすると主張した挙句、こうして皆に宣言しているのだと。バックステージでは、どちらがマネージャーかでルースとスコットが言い争っていたが、最後はスコットがルースに、バンドは君にやってもらう気などない、とピシャリと言い放った。

(略)

["ハウ・スーン・イズ・ナウ?"]バッキング・トラックが完成。(略)デモの段階で僕が良いと思っいた催眠的でサイケデリックな雰囲気が、いつの間にかなくなってしまっていた(略)

数回のテイクでヴォーカル録音は終了(略)テープを聴き返しながら、僕はまだ何かが足りないと思っていた。実は僕は子供の頃からトレモロの音(略)が大好き(略)

すでに弾いたギターの音をテープから取り出し、トレモロ・アンプで鳴らすのはどうか。(略)ジョン・ポーターがアンプを1台だけではなく、右左1台ずつでステレオにするのはどうだろう、と提案した。それどころか、スタジオにはちょうど4台のフェンダーのツイン・リヴァーブがあるから、4台全部を使ったらどうだろうか?ジョンと僕ですべてのトレモロ・スピードをトラックとぴったり同期させるのだ。

(略)

やるたびにどれか1台のアンプがずれてしまうため、数秒巻き戻してはそこからやり直す、という作業を繰り返さねばならず(略)朝の3時、バンドは皆帰り、残って〈ギターケストラ〉と奮闘していたのは僕とジョンだけ。(略)

もう少しダークにするため、メタル・スライドで弾いてハウリング効果を出すことにした。さらにはエコーをいっぱい利かせた上にハーモニーを加え、張り詰めた偏執感あるサウンドにした。

(略)

"ハウ・スーン・イズ・ナウ?"は朝の5時頃、命を宿した。スタジオ全体が鼓動していた。僕はあまりの気持ちの良さに、白のストラトキャスターをつなぐと即興でワイルドなリード・ソロを弾き倒した。

(略)

アメリカで[『ミート・イズ・マーダー』が]リリースされた際、[アメリカのレコード会社により]アルバム冒頭に"ハウ・スーン・イズ・ナウ?"が勝手に加えられたことは不愉快きわまりなかった。だって僕らは統一感や全体のサウンドを考えてこの最新作を作ったのだ。

(略)

しかしその結果、"ハウ・スーン・イズ・ナウ?"はアメリカのオルタナティヴ系ラジオで大ヒットし、アメリカの音楽ファンのある特定世代に、僕らのこのアルバムを、ひいてはその後のサ・スミスの音楽をも知らしめることになったのだ。

『ザ・クイーン・イズ・デッド』

 次のスミスのアルバムは真剣なものにしなければ。(略)

前作はナンバーワンになったし、シングルはヒット連発だった。(略)

次のアルバムは僕が作り得る最高のアルバムでなければならない。

(略)

 その晩、モリッシーが僕の家にやって来た。(略)

しばらく取りかかっていた新曲をマーティンのアコースティック・ギターで弾いて聴かせることにした。(略)最初の曲はワルツ風バラード(略)

コーラス部分はドラマティックに曲が進むに連れ、激しさを増していくようだった。未完成ながらも期待が持てて、アルバムにぴったりだと2人の意見は一致した。次に弾いたのは、わずか数日前から書き始めたばかりの、マイナーながらも快活なコード進行が高揚感あるコーラスに続く曲。僕はお遊びのつもりで、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのスキップするリズムをインサートした。彼らもそれをストーンズからパクったからだ。あまりに楽に書けてしまったので、せいぜい良くてB面用かな?と思っていたのだが、何度も弾くうちに何かが感じられるようになってきた。どこからともなく生まれる、言い知れぬ何か。はっきりとはわからないが良いものができている手応えを感じていた。勢いに乗ったついでに3曲目も録音した。先の2曲とはまるで対照的だ。サンディ・ショウのような、というかエキセントリックなヴォードヴィルのどんちゃん騒ぎのようだった。(略)

別れ際に渡したカセットに入っていた3曲はやがて"アイ・ノウ・イッツ・オーヴァー""ゼア・イズ・ア・ライト""フランクリー、ミスター・シャンクリー"となった。

 僕らは時間を無駄にすることなく、早速新曲を録音することにした。

(略)

"ゼア・イズ・ア・ライト”の時は紛れもないマジックの予感がしたし、曲が自然と書かれているように思えた。(略)

どの1行も完璧だった。言葉と音楽が、僕らを僕らの新たな〈アンセム〉へと導いてくれるような最高の気分。何回かのテイクで、これまで書いたどの曲よりもベストだ

(略)

 『ザ・クイーン・イズ・デッド』の制作中、バンドのプラスとなり、将来につながる大きな発見があった。エミュレーターと呼ばれる最新デジタル・シンセサイザーだ。オーケストラ・サウンドなど(略)を再現可能にするそのシンセ(略)

アレンジャーにとっては新たな世界を広げてくれる機械。まず使ったのは"ゼア・イズ・ア・ライト"のストリングスだ。それ以外にも(略)さらに音楽をオーケストレートできる。さらなる可能性、既存のシステムにはないサウンドを僕は考えるようになっていった。

 アルバムのスタートは順調だったのだが、集中力を乱される出来事が起きた。原因を持ち込んだのは、バンドの新たな弁護士となった男。どんな経緯でそいつを起用することになったのかはわからない(略)すでにEMIとの交渉に入っていた。(略)あとはラフ・トレードにその旨を知らせるだけだという。僕自身、ラフ・トレードに不満があったわけではない。みんな良いやつらだったし(略)僕らとの関係はすごく良かった。(略)しかし彼らと再契約というのは、この期に及んで、選択肢には含まれていなかった。キャリアということを考えた時、次なる大きな一歩に踏み出す時期を迎えていたのだ。(略)

 その年の初め、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのロスト・トラックを集めたアルバムが発表されていた。タイトルは『VU』。マンチェスターの僕の知り合いは誰もが、ヴェルヴェッツの曲のすべての音を貪るように聴き尽くしていた。だからまだ聴いたことのない曲が10曲もあってそれらが発見されたというのは、まるで新たなモーゼの十戒が発見されたようなものだった。中でも僕は"アイ・キャント・スタンド・イット"の虜になった。ルー・リードのヴォーカルも大好きだったが、何よりもヴォーカルが入ってくる数秒前のスターリング・モリソンのひっ掻くようなリズム・ギターに心奪われたのだ。(略)

簡潔さと印象に残るリズムは、ボハノンやボ・ディドリーを聴いた時に感じる何かと一緒だった。普通、人はテクニックを前面に押し出したギター・プレイに感心しがちだが、僕は〈ダ、ダ、ダ、ダ、ダ〉というタイプのギターに惹かれてきた。それは原始的で、人間的で、シンプルな主張を遮る〈厄介なエゴ〉の侵入を防いでくれる。僕は作りかけていたコード・チェンジにスターリング・モリソンのひっ掻くようなスクラッチ・スタイルを取り入れてみた。そうしてでき上がった6分半にも及ぶ、唸るような完全にワイプ・アウトしたトラックこそ、来るべきニュー・アルバムのタイトル曲"ザ・クイーン・イズ・デッド"だった。レコーディングを終え、ワウペダルで弾いていたギターをスタンドに立てかけた瞬間、キーンと耳をつんざくようなフィードバック音が鳴り響いた。しかも曲と同じキーで。僕は即座にスティーヴンに頼み、テープ・マシンを録音状態にした。そしてギターを鳴り響かせたまま、ワウペダルを何度も切り替え、不気味なハウリングを作り出した。

(略)

[弁護士がEMI移籍をラフ・トレードに通告]

あとでわかったことだが、実は僕らにはもう何枚か、ラフ・トレードからレコードを出さなければならない契約だったため、話はこじれ、かれらは『ザ・クイーン・イズ・デッド』の発売を差し止めることも辞さないと脅してきた。

次回に続く。