民間企業からの震災復興 関東大震災を経済視点で読みなおす

幻の遷都論

震災で最も被害を受けたのは、東京よりも横浜であった。市街地の90%以上が消失(略)生糸輸出を一手に手掛けてきた港湾機能が壊滅した。

(略)

[地震発生の]世界への第一報は(略)横浜に停泊中の東洋汽船のコレア丸から発信された無線[から](略)英文電が作成されホノルルやサンフランシスコに送信された。

(略)

都内では新聞本社の社屋も焼け落ち、正確な情報を把握できなかった。

 むしろ日本を離れていた方が正確な情報をつかむことができた。(略)泰安丸に乗船していた上原勇作元帥一行である。(略)

[副官今村均回想録によると、無線傍受で状況を把握、小笠原に到着した](略)今村は、現地司令部に陸軍中央からの震災に関する電報が一通も入っていないことを知り愕然とした。(略)

[東京に上陸]日本陸軍の中央部局内ですらあまり地震の情報があたえられていないことに驚いた。今村が乗船中に知りえた情報に基づき、震災の一般状況を説明するというありさまであった。

(略)

上原は、この大震災は国家の大災害であるにもかかわらず、不逞な在留朝鮮人の動向ばかり電報で伝えているが、正気の沙汰とは思えない(略)非常時における日本人の脆弱性を表している。大和魂や武士道は景気の良い時には発揮されるが、「大勢非となると滔々として脆弱性を発揮しても恥じない」、「集団の一致行動を鍛錬する必要も大切だが、個人性格の修練を積まなければならない」と。

(略)

 ここに、現在に至るまでの日本の情報空間の問題点が浮き彫りにされているといえよう。つまり、政府や軍部中央はかなり正確な情報を把握しているにもかかわらず、現場で対応する人々になぜか正確な情報を伝えないという姿勢である。幕末に徳川幕府はペリー来航の可能性について、一年前に長崎の出島に来訪したオランダ人からの情報で知っていた。ペリーが来航した時に浦賀や下田で交渉にあたった出先の役人には事前に全く情報が伝えられていなかったことを想起させる。軍部中央が出先機関に緊急かつ重要な情報を提供しなかった点は、第二次世界大戦中にもしばしば起こり、大きな問題点として指摘されている。

(略)

 大震災が発生した時、日本には首相がいなかった。八月二四日、加藤友三郎首相が死去し、二八日に山本権兵衛に組閣の大命が下ったが、山本は「挙国一致」内閣を目指したため、九月一日時点では新内閣は発足していなかった。前内閣の外相内田康哉が臨時首相となり、連絡が取れた伊東巳代治枢密顧問官と相談し、緊急の対応を行ったのである。同日組閣された山本権兵衛内閣はさっそく戒厳令を敷き、内務大臣に前東京市長後藤新平を起用した。後藤は親任式から戻るとすぐに大震災復興のための四原則を発表した。その内容は、一)遷都は行わない、二)震災復興のために必要な予算は約三〇億円、三)欧米先進国の最新の都市計画を取り入れ、日本にふさわしい新都を造る、四)新都市計画を実行するにあたり、地主に対しては断固たる態度を取る、というスケールの大きな発想であった。

 後藤はいち早く遷都は行わないと決めたが、首都壊滅という事態に直面し、遷都論が盛んに議論された。

(略)

[「大阪朝日新聞」論説では]近畿は関東に比べ天災が少なく、台湾、朝鮮半島が支配地にあることから地理的にも日本の中心にあるといえる。再び京都へ遷都を求めるべき意見(略)

陸軍中枢部では、首都防衛という見地から検討がなされ(略)今村均少佐が三つの候補地を探った。(略)東京は、台湾や韓国を併合した大日本帝国の領土の中では東に寄りすぎていた。古くから数多くの大地震に見舞われ、富士山、浅間山など火山の噴火による被害を大きく受けていた。また東京は海岸に近く広大な関東平野があるため、防空体制を整えるのが困難な地形であった。こうした東京の欠点を補う候補地として三地点が示された。第一候補は、朝鮮半島京城(現在のソウル)の南の竜山、第二候補は兵庫県加古川、やむを得ない時は八王子付近であった。(略)

加古川平地は、過去に大地震に見舞われていない。一級河川加古川は水量が豊かで、水質も良好である。加えて加古川丘陵地帯の起伏は理想的な防空施設を構築できる。連接する阪神地方はすでに日本一の商工業地帯となっている。したがって米国の首都ワシントンを模範として、皇居と政府機関、教育施設だけを加古川に移転させるという案である。

(略)

九月一二日山本首相は伊東巳代治枢密顧問官と協議し、詔書案を起草させた。この結果、「東京は依然として国都としての地位を失わない」という大正天皇詔書が同日発せられた。

 これを機に遷都を口にするのは恐れ多いという雰囲気が醸成され、遷都論は立ち消えになった。(略)銀座の大地主で政友会を支持する地主たちの支持を受けていた伊東巳代治の私利私欲からというのが本当の理由らしい。

渋沢栄一の対応

 東京商工会議所よりも素早く活動したのが(略)渋沢栄一であった。(略)埼玉の生家へ戻るように勧める息子たちを「こういう時にいささかなりとも働いてこそ、生きている申し訳が立つようなものだ」と叱りつけ

(略)

[火災により]『徳川慶喜公伝』の原資料や幕末の栄一の書簡など一級の史料が焼失したことを渋沢は後悔した。(略)

地震が発生した翌九月二日、内田康哉臨時首相、警視庁、東京府知事東京市長へ使者を送り、被災者への食糧供給、バラック建設、治安維持に尽くすように注意を与えた。(略)

埼玉県から米穀を取り寄せるため、私邸近くの滝野川町に依頼し、調達の手配を行い、以後九月一二日まで渋沢の私邸が滝野川食糧配給本部となった(略)。興味深いのは、渋沢が食糧配給の際に、食糧調達・配給の実務を滝野川役場に担当させ、渋沢自らが取り寄せた米穀の代金を負担したことである。震災対応にも、適材適所、自助精神、コスト意識という「合本主義」が貫かれていた。これは渋沢の社会事業に共通した考え方であった。

 政府の震災復興の体制と大方針が固まるのを見て、渋沢は「民」の力を結集し素早く対応するための組織と体制作りを開始した。協調会と大震災善後会の設置である。協調会とは、一九一九年に労働者と資本家の融和を図るために設立された組織で、渋沢は副会長を務めていた。(略)

[震災三日目、後藤内相からの要請を渋沢は快諾し]

協調会は被災者収容、炊き出し、災害情報板の設置、臨時病院の確保など「官」ではなかなか手が回らないきめ細かい対策を迅速に実行してくことになった。

[自ら5万円の寄付、米国知人24人に援助依頼、巨額の義援金、大量の救援物資が届けられた]

 ここまでの初動対策を渋沢は地震発生後二週間で行った。八三歳の渋沢をここまで動かした動機は何であったのか。それは明治時代にさかのぼる。

 一八八〇年(略)「中央市区画定之問題」の検討に、渋沢は経済界を代表して加わった。(略)それは軍都であった江戸を、近代的な商都東京に変えようとするものであった。

(略)

日本一の港である横浜を外港、東京を内港として整備し、二つの都市を運河で結び、東京の商業を発展させるという内容であった。

(略)

 しかし井上馨が主導した臨時建築局の「官庁集中計画」のためにいったん改正案の審議は休眠状態に陥る。一八八八年に検討が再開されるものの、神奈川や横浜の巻き返し運動が功を奏し、結局渋沢や益田など東京の商工業者が強く望んだ国際商業都市計画は日の目を見なかった。

(略)

渋沢はあきらめなかった。後藤が復興の中心で活躍していた関東大震災後に、再び東京復興案として、東京商都案を大倉喜八郎らと提案することになった。さらに渋沢は東京の近代化のために、電気、ガス、上下水道敷設などのインフラ整備に深くかかわっていた。パリの下水道まで見学した渋沢は、水道工事にも携った。東京市上水道工事は一八九二年に開始された。この工事を巡って鉄管を国内産にするか外国産にするかで対立が起きた。渋沢は、現在の日本の技術力では決められた工期に間に合うように優れた鉄管を製造することは難しいので、鉄道やガスと同じように外国製を輸入し、エ間にその技術を学ぶことが肝要と主張した。しかし彼の意見は取り入れられず、国内製の水道管を敷設したため、欠陥が明らかになった。この時に渋沢は暴漢から襲われ、軽傷を負った。

関西商人の東京進出、在京企業の関西移転

[多くの商人は]大阪から商品を運び通常より高い値段で売りさばき、かなりの利益を上げた。

(略) 

[一方、震災前販路拡大に苦しんだコクヨは]

このような時こそ便乗値上げやまがい物を売らず、被災民のことを第一に考えるという訓示を出し、品質管理を怠らなかった。この結果、問屋組合からの信用を獲得することができ、東京へ製品を卸し販売できるようになり、販売高は飛躍的に増加した。

 このような関西商人の東京進出と相まって、在京企業が関西に移ってしまうのではないかと政治家や財界人が危惧する新聞記事がみられる。(略)

もしそれが実現すると、災害後の東京市は容易に回復できないばかりか、日本の商工業は、永遠に阪神地方を中心に回ることになって(略)東京はわずかに政治的に残存するだけの存在になってしまう。これを東京市会議員の多くは心配し、協議会を開き、応急策を講ずることになるだろうと述べている。

(略)

[早川徳次の]発明したシャープ・ペンシルはアメリカでヒット商品になっていた。しかし大震災で早川は(略)工場と家族すべてを失った。三一歳の早川は心機一転、同年一二月に大阪へ移り、早川金属工業研究所(現在のシャープ株式会社)を設立、再起を図った。

(略)

自動車生産は、すそ野の広い産業(略)

復興需要がビジネスチャンスとなり、焼け野原は経営者や労働者を呼び戻すだけでなく、新たな人材を呼び込んだ(略)

帝都復興を宣言したため、もともと圧倒的な経済規模を誇る東京地区に、さらに自動車産業や部品メーカーなど多様な潜在需要を内包する都市経済を発達させることになった。その中心となったのは大企業ではなく中小零細工場であった。起業家精神にあふれる中小零細の企業家が(略)旧式設備を一新し、新たな需要に応えていった。

(略)

[震災前業界第三位だった資生堂は]便乗値上げせず、被災民に石鹸を配布した。これが同社に対する信用を一気に高めたのである。

横浜港壊滅

 横浜の歴史は日本の近代史と重なる。(略)

 幕末から横浜港は日本の生糸の最大輸出港であった。(略)

人的被害が最も大きかった首都東京に焦点が当たりがちであるが、横浜の方が被害はより甚大であった。(略)

 横浜財界が最も衝撃を受けたのは、横浜の誇る港湾施設が壊滅し、横浜の輸出総額の70%以上を占めていた生糸貿易が停止したことであった。

(略)

 幕末の開港以来、幕府は外国船をできるだけ江戸には近づけたくないという方針をとった。したがって東京付近に外国船が接岸できるような港湾設備はまったくなかった。

(略)

[埋立地売却で資金を捻出して東京市は1917年東京湾竣工]

横浜側は、東京市が第三期工事を完成した時には、すべての外国航路の寄港地を横浜から東京に移動させようと考えているのではないかと危惧したのであった。

(略)

[横浜は東京が主張する京浜間回漕問題を]京浜運河の開削により、解決できると主張した。

(略)[京浜運河実現の可能性が高まっていたところに震災]

横浜港は壊滅し、横浜側のシナリオはもろくも崩れ去った。

(略)

[震災後]

帝都復興院は横浜港を帝都の外港とし、東京港を内港と位置づけ、横浜第三期拡張工事の再開、京浜運河の開削、東京築港(略)を決定した。(略)

閣議では了承されたが、帝都復興審議会ではこの計画は総花的だと批判が相次ぎ、了承されなかった。(略)[帝国議会でも]批判が相次ぎ、京浜運河開削と東京築港はいずれも削除されてしまった。

 しかし、震災の結果かえって帝都の都市化は進み、すでに東京市が今まで行ってきた東京築港への準備の実績が評価され、復興の対策上からも、東京築港と京浜運河開削は止められない流れになっていた。(略)

こうした状況を見て、横浜側は(略)横浜港の拡張と京浜運河開削を実現させ、東京・横浜両港の併存を図るほうが得策と考え、東京築港反対運動は沈静化した。

「横浜・神戸二大港制」をめぐる争い

 神戸にとって最大の関心事は、この際神戸港での生糸輸出を横浜の代わりに行うことであった。

(略)

神戸は(略)横浜と同時期に生糸検査場が設けられた。しかしいくつかの不祥事が起こり、生糸輸出は中断していた。神戸港では、西日本の製糸業の発達を背景に、神戸生糸市場を再開すべきという動きが第一次世界大戦後から出始めていた。いわゆる(略)「横浜・神戸二大港制」(以下「二港制」)であった。(略)

震災による横浜港の壊滅と生糸輸出の停止は、長年の希望であった「二港制」へ移行する絶好の機会になった。しかし火事場泥棒という批判を考慮して、臨時輸出港として準備を進めたが、横浜側はこれに猛反発した。

(略)

横浜は蚕糸業者に対して圧力をかけた。つまり、もし今後名義を変えても、海外進出を目的とする生糸およびくず糸の販売または輸出行為およびその幇助を、ほかの市場または港湾において行った者には対しては、本組合員は永久絶対に取引を謝絶することという強硬な警鐘を鳴らした。

(略)

 当初の予想よりもかなり早く横浜港の機能が回復したことと原・井坂をはじめとする横浜商業会議所と横浜生糸貿易復興会の強い働きかけにより(略)関西では鈴木商店を除いて、大手輸出商は神戸港利用の方針を変更し、神戸での生糸買い付けを手控えた(略)

もともと政府は横浜一港論を支持していたので、その方針を変えず、農商務省は横浜生糸検査所復旧のために、神戸市が依頼したのと同じように京都や福井検査所からの機器借り入れを計画した。このため農商務省と神戸市が対立することとなった。(略)農商務省監督官庁の立場を強調して、京都検査所の神戸市への検査機器貸与を認めなかった。

(略)

横浜の「一港制」への執着にはすさまじいものがあり、政府もそれを認めていたが、全国の蚕糸業者の多数は、「二港制」を支持していた。

(略)

 神戸側はさらに攻勢を強めた。神戸生糸輸出会社の設立計画を進め(略)

大手輸出商社の三井物産、日本綿花などは証券を確保するため、神戸で買い付けをする必要に迫られ、新しく生産された生糸から神戸での取引を開始することになった。

 こうした動きに対して、横浜側は有効な対抗策を打ち出すことができかった。

(略)

 ついに一九二四年から神戸港は生糸輸出港に復帰することができた。こうして横浜の独占体制は崩れたわけである。一九二八年からは生糸清算取引も神戸で開始された。

(略)

 商工省も神戸側の申請に対して時期尚早という態度を取っていたが、一九二七年頃から認可を検討するように変わった。

(略)

横浜側にとっては厳しい宣告となった。(略)

[震災前]全国の貿易額に占める横浜の割合は約43%(略)震災後には33%にまで低下した。さらに昭和恐慌期には25%にまで下がってしまった。

ユーハイム

 震災で横浜から神戸に移った企業もあった。(略)ユーハイムである。

(略)

洋菓子店の基礎が固まるには、第一次世界大戦ロシア革命により日本へやってきた外国人経営者の洋菓子店の開店を待たなければならなかった。それはドイツ人パン職人のハインリッヒ・フロインドリーブ、ドイツ人菓子職人カール・ユーハイム、ロシアからの亡命者のマカロフ・ゴンチャロフとフィヨドル・ドミトリー・モロゾフであった。

 一九〇九年に当時二三歳であったユーハイムは、ドイツの所有する青島市内で、ケーキ店を開業した。一九一五年日本の青島攻略が始まった。翌年ユーハイムは日本軍の捕虜となり、大阪俘虜収容所へ連行されてから、広島の似鳥検疫所に移送された。一九一九年に広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開催されたドイツ作品展で、バームクーヘンの製造販売を行った。これが日本初のバームクーヘンとなった。

 一九二〇年に捕虜から解放されたユーハイムは青島から妻子を呼び寄せ、横浜へ来て、一九二二年に店を開いた。翌年の関東大震災で店を失い、神戸へ移り再び店を開いた。店は繁盛し、ユーハイムゴンチャロフモロゾフと共に、洋菓子を神戸の新しい魅力の一つに育てた。(略)一九四〇年に日独伊三国同盟が結ばれると、ユーハイムにとってはさらに追い風が吹いた。(略)

カールは一九四五年終戦直前に死去した。まだ四六歳であった。戦後連合国の占領下に置かれたためカールの妻エリーゼは国外退去処分になった。ユーハイムが営業を再開するのは、占領期が終わり、エリーゼが再来日した時まで待たなければならなかった。

震災手形問題

 火災保険よりも大阪経済全体に深刻な影響を及ぼしたのは、震災手形の償還であった。震災手形とは、関東大震災のため支払いができなくなったため、一時的に政府が肩代わりをした手形を指す。

(略)

 しかし実際には第一次大戦後の不況のなかで、不良債権になっていた手形がどさくさに紛れ、震災手形として紛れ込んでいた。一九二〇年代に繰り返し発生した恐慌により体力を弱らせていた会社にとっては、震災手形の償還は命取りになる危険があった。そのため政府も償還時期を延ばし延ばしにしていたがついに一九二七年には償還期限を迎えた。しかし震災手形善後処理に対する政府法案にたいしては様々な批判が出た。

 たとえば武藤山治率いる実業同志会の反対論である。(略)「正直者は馬鹿を見る政商保護法案」と題し、法案に対する反対声明書を読み上げ、反対演説をした。ここでいう政商とは和田豊治のように、震災による自社の損害を火災保険金の支払いにより救済してもらおうと考え、政府圧力をかけた大企業経営者であった。

(略)

今回政府が提案した震災手形一億七〇〇万円の中には、大部分が震災に関係ないものである。日本銀行において割引した手形は総額四億三〇〇〇万円ほどであったが、そのうち二億二三〇〇万円はすでに取り立てられて、残っていたのは救済する理由のないものばかりである。政府が震災手形の所有者名と金額を公表しないのは、世論の反対を受けることを恐れているからだ。

 ここからわかるように、震災で被害を受けた者は大部分が救われず、かえって震災手形の口実の下に大実業家を国民の負担により救済しようとするものである。

(略)

 事実、台湾銀行の約二億円にも上る不良手形が含まれていたのである。

ソ連からの救援物資

 これほどまでにソ連関東大震災に対して全力を挙げ支援体制を築いたのは、暗礁に乗り上がっていた日ソ国交樹立交渉を進展させる思惑があったことは間違いないであろう。

 加えてボルシェビキ革命の成功に自信を持ったソ連が、米国とは違った意味で、新外交を展開しようとしていたのである。つまり、日本の労働者との連帯意識の確立や社会主義思想の宣伝という戦略が背景にあったのである。この点がソ連からの支援物資受け入れの際に障害となった。

(略)

 こうなると、日本政府や陸軍は震災に対する救援物資だからといって、国交のない社会主義国から無条件で受け入れることは難しくなった。

(略)

 しかしソ連側は、日本の外務省の杞憂などお構いなしに、支援物資の運送を開始した。

(略)

 レーニン号が横浜に到着すると外務省の心配は現実のものとなった。日本側は神戸に寄港するものと考えていたので、横浜に来たことに驚いた。そのうえ上陸した船員が、日本の労働者階級を救うという内容の話をしたことが大きな問題となり、内務省や陸軍は態度を硬化させた。これに対して外務省と海軍は救援物資だけは受け取り、乗組員の上陸は認めず、帰らせるつもりであった。しかし両者の話し合いはつかず、結局陸軍の意見が通り、救援物資は一切受け取らず、レーニン号を追い返すという最悪の事態を招いてしまった。幕末に薪や飲料水の補給を求め来航した米国漁船を、異国船打払令により追い返したのと何ら変わりなかった。

 こうした外務省とソ連側の意思疎通の悪さや日本の内務省・陸軍と外務省・海軍の受け入れに対する考え方の違いとそれを調整するリーダーや機関の不在は、日本の意思決定の欠点であるが、情報活動の問題点ともいえよう。

外国人から見た関東大震災

震災から一年が経過(略)復興にあたり外債を引き受けた英米が日本の信用をどのように見ていたのかは興味深い。

(略)

英国では、著名な銀行家や実業家は皆口をそろえて、日本国民が天災に対して発揮した勇気と決意を激賞した。(略)

 特に金融業者が日本の公債が高値を維持し、投資家の信用を保っているのは、今まで日本が公債の条件を忠実に守っているからだと説明した。

(略)

マンチェスター・ガーディアン」紙経済部長は、具体的に三つの点を指摘した。まず貿易の復活が迅速で、輸出入ともに震災以前の状態に戻っている。次に震災に伴う通貨の膨張と物価高騰の勢いを阻止して、むしろ反対の経済状態を誘致している。三番目に円の為替相場は一時下落したものの、すでに回復し安定している。さらに、九月二日に募集した外債が発行高よりも四ポイント高値を示していることから明らかなようにすでに日本の海外からの信用は回復している。

(略)

 米国はどのように日本を見ていたのであろうか。震災直後、日本の財政を健全なものにするためには、第二回の外債を米国で募集しなければならなくなるのではないかと危惧したが、日本当局が第五回外債により得た資金を実にうまく配分した手腕を高く評価していた。特に銀行筋は、後藤新平内相が焦眉の必需品を世界の市場に求めたのはやむを得なかったが、その後必需品、特に復興材料を求める際、値段が折り合う時期まで待ったことは、賢明な招致であったと称賛した。日本政府に対する信頼も厚く、今後も、実業界の思惑取引を徹底的に取り締まることを日本政府に強く求めていた。

日本の情報空間の問題点

[情報収集の甘さと情報発信の統一性の問題について的確に指摘したのが]

英国人特派員ヒュー・バイアスである。

(略)

日本語をほとんど理解できないバイアスは、もっぱら英語による日本情報と、英語に堪能な日本人から聞いた話を、その取材源としていたという。

(略)

 一九三一年の満州事変以降、日本が国際連盟を脱退し、孤立化への道を歩み始める。外国人特派員の情報源が徐々に制限されていくなかで、国際派の政治家、軍人、財界人、知識人からの情報を重要視した。井上準之助高橋是清幣原喜重郎池田成彬団琢磨鈴木貫太郎新渡戸稲造らであった。彼らはみな英語に堪能で、ヒュー・バイアスら英米特派員と緊密な関係にあり、日本情報を提供した。しかし当時こうした人々の国際認識や見識が必ずしも日本の主流であったとは言えなかった。

 ともあれ第一次世界大戦の始まった一九一四年から(略)バイアスは二三年間日本を取材し続けた。

(略)

日本では英米における意味での報道の自由はないが、概して自由に日本社会の出来事を取材し、本国へ送信することができた。しかし特定のテーマについては本国への公表や送信が禁じられていた。もちろん陸海軍の装備や軍の移動に関しては、どこの国でも機密扱いになっている。日本では、共産主義思想の波及や共産主義者の逮捕などについては、その捜査が完全に終わるまで公表を差し止められた。ただし、何日か経つと確実に情報が得られたので、公表の遅れが日本のイメージをゆがめることにはならない。

 批評家の中には、日本当局の秘密主義をとらえて、戦前の日本を全体的に暗いイメージで描きたがるが、バイアスの特派員生活での経験からは、それは日本社会のごく一部分を過剰に拡大している。ともかく政府批判をモットーとしている米国の編集者や国民に、海外情報を提供しなければならない特派員にとっても、それほど仕事がやりにくいところではなかった。日本の官僚も自分たちの立場を配慮した建設的な記事ならば、歓迎することも多かったと述懐している。

 では日本の情報発信の問題点は何かというと、それは「原則のない検閲(blind censorship)」で、それはつまり恣意的で意味のない秘密主義であった、とバイアスは指摘している。「原則のない検閲」とは、だれがどのような基準で行っているのかわからない匿名の検閲のことを指す。この恣意的な検閲は特派員たちに不要のいら立ちを起こさせた。例えば、軍や軍艦の行動については一般的に報道が禁じられているが、日本の報道機関が及ばない国々からニューヨークやロンドンへは情報が自由に入ってくる。こうした時期に、日本から検閲した白々しい内容の電信が届くと、かえって不信感や猜疑心を増幅することになりかねないのであった。

 さらに日本の検閲自体にも合理的なルールが欠けていた。例えば報道規制の目的が達成された後にも、不必要な規制が延々と続くことがあった。

(略)

[英国王族コノート公アーサー来日をめぐる報道規制]

大戦中でドイツのUボートが大西洋を荒らしまわっていたため、皇太子の行動は秘密にされていた。ところが検閲にミスがあり、日本のある新聞が皇太子の出発日を紙面に堂々と公表してしまったのである。これは大問題であったが、後の祭りであった。その後皇太子がカナダのバンクーバーを出航したため、英国大使館はその旨を日本の外務省に連絡し、ニュースを公表した。ところが、なぜか日本政府はこの時になっても報道規制を解かず、このニュースを掲載しようとした東京のある英字新聞は、政府から発刊を差し止められてしまった。だが、同じ記事を掲載した別の英字新聞は何の咎めも受けなかった。

 この二つの新聞の違いは、前者が経営者が日本人で、後者は、外国人経営であっただけであった。同様なことは他にもあった。神戸では報道規制されたのに、東京では自由に報道されたり、満州の軍関係から報道されていたことが、日本の国内では当局の検閲によって差し止められたり報道されなかったといった具合であった。

 つまり日本では、「ニューヨーク・タイムズ」が唱える報道の自由は存在しなかったのである。軍関係情報を秘密にする必要性は認めるが、原則として情報は公開するべきであり、国民にはそれを知る権利がある。報道規制が行われる場合には、明白な理由がある場合に限られ、はっきりとしたルールに基づいて実施されなければならないという考え方であった。当時の日本では、往々にして軍関係者は何事も秘密にしたがる。それに比べて日本の各省庁は信頼できる報道関係者からの問い合わせに対して、適切な情報を提供してくれた。合理性を欠いた秘密主義は、かえって日本の立場を悪くすると結論付けた。

 さらにバイアスは、より根の深い問題点を指摘した。それは日本社会には公の議論を回避する傾向があることであった。報道の自由とは、ただ正確な報道をするだけではなく、国民の利益に影響を及ぼす様々なアイデアに対して寛容であること、つまり知的活動の自由を保障することを意味する。日本は自然科学や産業分野では、大胆なまでに新しいアイデアを取り入れるのに、新しい政治思想を取り入れることに対して驚くほど臆病である。例えば、バイアスの体験によれば、旅行者のカバンを開けさせて少しでも日本にとって好ましくない立場から社会問題を議論している本を見つけると没収する。日本に言論の自由がないのは、法律や役人のためではなく、国民性によると断定している。(略)

本人は心の中では根拠のない規制や検閲に対しておかしいと思っていても、公には議論したがらないのである。

エピローグ

関東大震災により何が変わったのであろうか。(略)

 まず、東京、横浜を中心とする首都圏の地位が定着した。(略)

遷都をせず、大規模な復興計画をもとに再建させたことにより、東京の首都としての地位は不動のものとなった。

(略)

 歴史でイフを語ることは好ましくないとされているが、あえて首都加古川を考えてみよう。加古川には、米国のワシントンD.C.のように、立法、行政、司法の政府機能だけが移転され、皇居は京都に戻ったかもしれない。このスリムで機能的な首都加古川が今日まで続けば、現在のように東京に政財官が集まり、ほとんどの大企業や報道機関の本社と大学、研究機関が東京首都圏に集中し、一都四県に全人口の三分の一以上が住むような一極集中の国にはならなかったであろう。

(略)

 とくに関西以西の経済界は、震災の被害はあくまでも東京、横浜の地域的なものであり、関西中心の通信・輸送ルートを復活させれば、十分日本経済は回っていくとみていたのである。

(略)

被災地である東京、横浜もこれを契機に地盤の固い郊外に次々と新しい住宅地が醸成され、住民を都心に運ぶ私鉄は路線を拡大していった。(略)

その意味では大震災は鉄道の普及を後押ししたのであった。

(略)

 

エレベーター・ミュージック・その2

前回からの続き。

レイ・コニフ

 マサチューセッツ州アットルボロに生まれ、父親のピアノ演奏をいつも気まずい思いで聴いていたコニフは、自分でトロンボーンに親しみ、通信教育で編曲を勉強した。(略)

ニューヨークに行ってボブ・クロズビーとアーティ・ショー率いるソサエティー・オーケストラに加わった。

 陸軍で兵役を勤めたのち、一九四五年にハリー・ジェイズのスタッフ・アレンジャーに。(略)ジェイムズは流行の「ビーバップ」サウンドに夢中だったが、コニフはどうもなじめなかったため、バンドを辞めて、大きな借金を抱えたままハリウッドに向かった。

 「所得税の申告のとき、総所得は二千六百ドルだった。妻と三人の子どもを抱え、家は抵当流れの通告を受けていた。私は絶望して、宅地造成地でシャベルを手に土方仕事をした」とコニフは回想する。

 一九四九年、週給はいぜん手取り三十ドルの日々に、自分の才能を葬ってしまったのではないかと悩んだコニフは、ヒットソングの作り方をひとりでひそかに研究した。

(略)

「バックグラウンドにはかならず、あるひとつのパターンがある。表の旋律の陰にある幽霊音楽と呼んでもよい。そのほかにも、もうひとつパターンがある。テンポのパターンだ。それは一種の鼓動のようなものだ。平均的な人が聴きたがっているのは鼓動だ。それも、目立つものではなく、バックグラウンドに頼もしく控えている鼓動なのだ」

 その後、コニフは知り合いのレコード・プロデューサーにかたっぱしから売りこんで回ったが、返ってきたのは丁重なことわりの返事ばかりだった。だが、ミッチ・ミラーは彼の「幽霊音楽」に興味を示してくれた。

(略) 

一九五五年十月、「幽霊音楽」のことがまだ頭にあったミッチ・ミラーから(略)ドン・チェリーのために「バンド・オブ・ゴールド」を編曲するよう依頼された。この仕事でコニフは、初めてコーラスを実験的に用いた。

 コーラスはレコーディングのあいだじゅうバックで歌いつづけた。これを聴いたミッチ・ミラーは「レイ、これはすごいサウンドだ!じつにすばらしい!」と叫びながらコントロール室からとびだしてきたという。このようにして、インストゥルメンタルにボーカルを加えるというコニフの手法が生まれ、「バンド・オブ・ゴールド」は全米ヒットチャートで五位になった。

(略)

 レイ・コニフサウンドの出現で、突如コロムビアのスタジオじゅうに幽霊が浮遊するようになった。朗々と響きわたる一方で、ゆったりとくつろいだ気分にさせてくれるスタイル。心を乱すかと思えば、やさしくなだめてもくれる。その非凡で得がたい手法は、今日まで誰にもまねすることができない。(略)コニフはつぎのように語っている。

 

ボーカルを楽器として用いたのは私が最初ではない。昔のクラシックのシンフォニーでも行なわれていることだ。けれども、ボーカルと楽器を区別できないほど一体化させたのは、私が初めてだろう。トランペットの音と女性の声はよくマッチする。というのも周波数域がほぼ同じだからだ。男性の声はテナーあるいはバリトンサックスのほうが調和する。

(略)

女の子が「ラ・ラ・ラ」と歌い、男の子が「バ・バ・バ」と歌って、人間の声が滝、そよかぜ、虫の群れる巣、電子共鳴器をまねるユートピア

(略)

一九五〇年末から六〇年初めには、シャドー・コーラスは非常に広く浸透していて、インストゥルメンタルのアーティストは少なくともアルバム一枚はコーラスをフィーチャーしなければ成功しなかったし、この強力なバックグラウンドの魔法を使わずにすませられるポップス歌手はほとんどいなかった。コーラスの歌唱法は、ジャズ、ソウル、ロック、フォークの汗まみれの情熱とはまったく正反対だった。スキャット以外の出番でも、彼らは仲間の静かで夢見るようなバイオリンのように控えめに、静かに歌詞を口ずさんでいた。

(略)

 レイ・コニフ・シンガーズのような現代のアンサンブルは、商業ポップスのためにグレゴリオ聖歌のスタイルを再創造したのである。(略)

コニフは正確さをとことん追求し、「ダ・ダ・ダ」、「バ・バ・バ」、「ドゥ・ドゥ・ドゥ」とスコアに書きこみさえした。

(略)

 一九五〇年代初めのキャピトル・レコードは、まさにセイレンのスタジオだった。コーラス隊とテレミンを同時に起用したレス・バクスターのアルバム『ミュージック・アウト・オブ・ザ・ムーン』は、ムード音楽界で初めて「見えないコーラス」を起用したといわれている。通常、そこまで高い人間の声を録音したことはないので、ポール・ウェストンの指揮するキャピトルのスタジオは心配した、とバクスターは述べている。このレコードはカルト的な人気を博することとなり(略)宇宙飛行士のニール・アームストロングは、アポロの月飛行の際にもNASAのスピーカーから流してほしいとリクエストしたという。

ベルト・ケンプフェルト

ケンプフェルトは少年時代は音楽の神童としてちやほやされ、ハンブルク音楽学校では模範生だった。(略)

 戦後はポリドール・レコードの編曲家兼レコード・ディレクターになった。

[ビートルズをトニー・シェリダンに紹介](略)

一九六〇年、ケンプフェルトのシングル「星空のブルース」は全米ホット一〇〇チャートの第一位に輝き、ミリオンセラーになった。

(略)

自伝『ワンナフル、ワンナフル!』を読むと、彼の音楽がその夜の光景にいかにぴったり寄り添っていたかがわかる。「シャンパンで乾杯が行なわれ、われわれはワルツやロマンチックなダンス・ナンバーをつぎつぎと演奏した。シャンデリアの光がすべての鏡に反射し、部屋全体がきらきらと光っているように見えた」

 ファンレターに目を通していたバンドの司会者フィル・デイビッドが、ウェルクの音楽を形容するのに「泡のような」という言葉がもっとも頻繁に使われていることに気づいて、「シャンパン・ミュージック」という言葉を思いついた。そのときから、ホノルル・フルーツ・ガム・オーケストラは「ローレンス・ウェルクシャンパン・ミュージック・メーカーズ」になった。

(略)

 けれどもウェルクによれば、シャンパン・スタイルは偶然と、やむを得ぬ事情の産物だったという。いつでも熟練ミュージシャンを調達できるわけではなかったため、やむを得ずドサ回りのミュージシャンを雇わなければならないこともあった。ところが、彼らは正しいピッチで長い音を演奏することはおろか、場合によってはキーを保つこともろくすっぽできなかった。ウェルクは彼らの限られた能力にあわせて編曲した。「短くて、軽くて、デリケートな音形」と元気のよいアコーディオンの組み合わせから、偶然に「はじける効果」が生まれ、大ヒットにつながったのである。

(略)

 ウェルクのテレビ番組は、一九五一年にローカル局で始まり、五五年(ディズニーランドのオープンした年)にはABCの全国ネット番組になった。『ローレンス・ウェルク・ショウ』はやがてテレビ史上最長寿番組という記録を打ち立てることになる。今日その再放送を見ると、バックの紫色の照明、ソフトフォーカスの輪郭、スパンコールの衣装、大舞踏会を思わせるラインストーンのシャンデリアなど、番組全体が七〇年代のディスコの雰囲気を予感させる。

 ウェルクはショウビジネス界で二番目にリッチなミュージシャンという栄誉に浴した。

アニタ・カー、サンドパイパーズ

メンフィス生まれのカーは一九四九年にシンガーズを結成(略)女性として初めてナッシュビルでカントリー・レコードのプロデューサーをつとめた(略)

 メキシカーリ・シンガーズをプロデュースしたときには、カーはより専門的な手法をとった。「ややバロック風」のスキャットが、マリンバ、バイオリン、トランペットの代わりをつとめて「ボーカルによるインストゥルメンタルのまね」を作り上げている。伝説によれば、カーは神秘的な偶然から彼らを発見したのだという。アリゾナ州プレスコットを三マイル過ぎたところで道をまちがえて曲がってしまったカーは、メキシカーリ村の広場に出た。そこではアルト、ファースト・テナー、バリトン、バス各一人、ソプラノ二人が村人たちを聴衆に歌っていた。(略)

ベルト・ケンプフェルトからビートルズそしてティファナ・ブラスと、つぎつぎスタイルを変えてみせた。この変化を際だたせたのがカーの幽霊のような少女の声で、ケンプフェルト風に演奏された「バイバイ・ブルース」のトランペットのまねにその特徴がもっともよく表れている。

(略)

サンドパイパーズ(略)には謎のゲストがいた。ほとんど人目につかず巧みに姿を隠したこの女性は、多くの曲のバックで歌い、ツアーにも同行した。この女性パメラ・ラムシェは、たいていはゴーゴー・ブーツを履き、ミニスカートを着て、生身の背景としてステージに登場した。(略)

「彼女はずっとバックの暗がりにいるので、サンドパイパーズの一員にまちがえることはない。彼女のスキャットのソプラノは、ボーカルよりもバイオリンの仲間という感じだ。だが彼女は、一瞬たりともじっとしていない。暗がりの小さな台の上で動きつづけているので、観客はうしろに何が隠されているのだろうと目をこらすのだ」

エキゾティカ、スペース・エイジ・バチェラー・パッド・ミュージック

 ハワイが正式にアメリカ合衆国の州になると、それまで太平洋の楽園のことなどなにも知らなかった欧米からの何万人もの旅行客が、ホテルのラウンジやナイトクラブ、シェル・バーといった閉じた空間で、ほら貝、ウィンドベル、ウクレレ、琴、竹製の棒、南洋の鳥の鳴き声がかもしだす最高のシンフォニーを耳にした。この魅惑的で、活気にあふれ、胸が高鳴り、うんざりするようなイージーリスニングサブジャンルが「エキゾティカ」と呼ばれる音楽である。

(略)

 エキゾティカの精神をもっともよくとらえていたのが、今では伝説となっているサンフランシスコのフェアモント・ホテルにあったトンガ・ルームだった。南洋をテーマにしたこの部屋では、「正統派」の島の民謡を英語で歌う「オリエンタル」なショウがあり、カクテルのメニューにはマイタイなどの楽園の飲みものが並び、再現された熱帯雨林には一時間に最低二回、スコールが降った。

(略)

 テレビや映画の印象的なサウンドトラックで知られるレス・バクスターは、エキゾティカ・ブームの創始者兼ツアー・ガイドである。(略)バクスターの『未開の儀式』とエキゾティカのテーマ曲「静かな村」がきっかけとなって、われわれは禁じられたほら貝の音を耳にするようになった。

(略)

 バクスターはフル・オーケストラがお気に入りだったが、マーティン・デニーはもっと小ぢんまりとした方法で人々を魅惑した。木琴、チャイム、ジャングルの太鼓を使って異星人の子守歌のような音を作り出したのである。バクスター版の「静かな村」は、金管とシンバルによる野蛮なシンフォニーだが、デニー版はもっとゆっくりしており、低音のピアノの不協和音と沼地で待ち伏せする捕食者のガーガー、ホーホーという鳴き声で始まる――あまりに静かすぎる村だ。

 デニーの名声は実業家のヘンリー・J・カイザーに負うところが大きい。カイザーの所有していたホノルルのハワイアン・ビレッジのナイトクラブは、椰子の木、大皿に盛られたおつまみ、テーブルのランタンで有名なシェル・バーだった。最初のコンボのメンバーは、ビブラフォーンにアーサー・ライマン、ボンゴにオージー・コロン、ベースにジョン・クレーマー、ピアノはデニー本人。(略)

ライマンはアーサー・ライマン・グループを結成し、大ヒットアルバム『タブー』は二百万枚近い売り上げを記録した。

 甘く美しい旋律から離れることなく、曲を奇妙な方向に漂わせるというずば抜けた才能がデニーにはあった。

(略)

 デニーのファースト・アルバム『エキゾティカ』はホノルルのヘンリー・カイザーのハワイアン・ビレッジの一角にあるアルミニウム・ドームで録音された。半球形のドームには、三秒間の残響効果が備わっていた。(略)

本物のハワイアン・ミュージックではスティール・ギターがあまり使用されないことにがっかりした彼は、南洋の「感じ」をだすために世界中のさまざまなリズムを重ね合わせたのである。『エキゾティック・パーカッション』は、リバティーの「ビジュアル・サウンド・ステレオ」をさまざまなものと組み合わせて最大限に活用している。たとえば水、日本の琵琶、ハワイのひょうたん、ミニチュアのチェレスタ、鉄、木、ウインドベル、ビルマの銅鑼、耳に強烈に響く楽器「ブーンバン」などだ。

(略)

 航空会社で働いている仲間が世界じゅうから奇妙な楽器を持ってきてくれた。デニーはすべての音が色に対応していると考えており、また、木琴を完璧なグリッサンドに作りかえたこともあった。またあるときは、もっともおもしろい音楽を作るのは、ハーモニーではなく不協和音だと述べた。琴バージョンの「マイ・ファニー・バレンタイン」を聴いてみると、考えられないようなコンテクストに音を放りこんで、互いにきしみあわせるのを彼がどんなに好んだかがわかる。

(略)

冷戦のさなか(略)イージーリスニングであると同時に耳障りな新しいサウンドが、ハイファイとステレオの分野に押しよせた。気味の悪い「大気圏外空間」のオペラ、電子シタール、前衛的ハーモニーなどを特徴とするこのカテゴリーは、一般に「スペース・エイジ・バチェラー・パッド・ミュージック」と呼ばれた。(略)命名したのはハリウッドの特殊効果の専門家バイロン・ワーナーで、「あり余る可処分所得があり、ステレオにうるさいひとりものの男性」のための音楽であると説明した。

(略)

都会のテクノロジーと上品なホワイトカラーの仕事で(略)軟弱になった男はステレオ完備の抱卵室で心をなぐさめ、そこでは、スピーカーが適切に配置されていることが空調と同じように大切だったのである。

101ストリングス

 デビューから三年後、101ストリングスは少なくとも二十八カ国で一千万枚を超える売上げを記録していた。彼らは世界を隅々まで演奏しつくす意志だけでなく、ステレオ・サウンドにも大いに執心し、音楽界に大きく貢献したといえる。新しい音響技術を採用し、複数のマイクロフォンによる「ステレオの深み」を実験的に使い、生演奏ではまず耳にすることのできない音を生み出すために幾重にも音を重ねる技術を用いた。こうして彼らはマントヴァーニと同じようにクラシック音楽を近代化したのである。101ストリングスのアルバムのライナーノーツには、謎めいた模様が刷られていたが、これは(人間の耳が感じとることのできる)三十から一万六千ヘルツの周波数域のグラフであった。

(略)

 一九六四年、アル・シャーマンとアルシャー・インターナショナルが101ストリングスを買い取り、レコーディングの場はドイツからロンドンに移った。以後、主としてロンドン・フィルハーモニー管弦楽団ロンドン交響楽団に所属するイギリス人のセッション・ミュージシャンによって101ストリングスは構成されるようになり、メンバーは固定されなかった。

(略)

 101ストリングスが再現しようとしたのは、外国人観光客の目で見たアメリカであった。(略)アメリカが征服したと思いこみ、模倣することでへつらった世界が、アメリカに向かってへつらい返している。

(略)

 一九七〇年代初め、101ストリングスは「ジュ・テーム」ブームに乗り、多くのアーティストのあとを追ってエロスの世界に入っていった。

(略)

『ザ・サウンズ・オブ・ラブ』には、ベイブ・バードンによる「歌詞はなくてため息だけ」のセクシー・ヒット・ポップスが収録され

(略)

[次に]『『エキゾティック』サウンド・オブ・ラブ』を出した。この作品は変態度を一段と増し(略)「成人指定」という文字がでかでかと書かれたジャケットには、男性(姿はフレームの外)の手にもたれた、もの欲しげな女性の顔が描かれている。内ジャケットには、レザーに身を包み、片目にアイパッチをした若い娘が描かれている。曲は「地獄のエマニエル夫人」といったアレンジで、SM風「愛の鞭音」や、東洋の神秘的ポルノを思わせる「カーマ・シタール」などが収録されている。

(略) 

さらに『アストロ・サウンズ』では、低予算SF映画にヒントを得たノイズを満載して、宇宙にまで進出した。「ナウ・ジェネレーションを越えて、明日の斬新なサウンドへの地図のない旅」とライナーノーツは謳いあげている。

ミスティック・ムード・オーケストラ

対照的に、ミスティック・ムード・オーケストラは小宇宙を得意とした。彼らは最先端のオーディオ機材を用いて、音楽を日頃耳にする「本物」の音――雷鳴、波の音、汽車、カーレース、馬、牛、足昔、小さな虫などの背景として扱った。音楽で雑音を隠すのではなく、音楽の中に雑音を取りこむことで、ミスティック・ムード・オーケストラは耳を欺いたのである。

(略)

アイディアの源は、音響技術およびプロデュースを担当していたレオ・クルカだった。クルカは(略)一九六一年に、二本のステレオ・マイクとアンペックス社のテープレコーダーを使って寝室の窓から激しい嵐を録音し、その後、リラックスしたくなるとそのテープを流した。

(略)

一九六四年(略)スタジオを開いて、嵐などのサウンド・エフェクトとお気に入りの音楽を組み合わせる実験を始めた。組み合わせたものは、さらに四チャンネルのレコーダーを通して変換された。四つのうち三つのチャンネルを音楽と効果音が占め、第四のチャンネルにはウィンドチャイムやかすかなパーカッションを入れる。雷の音と音楽のクレシェンドが一致するように、曲と嵐のタイミングを調整した。

(略)

クルカはかつて、ミューザックのために編曲し、一九六〇年から六一年にかけてシカゴのBGM会社シーバーグ社で録音とミキシングをした経歴がある。編曲家ラリー・フォティーヌの助力を得て、クルカは正しいBGMを製作するための民間療法を編みだした。「よく知られた曲の上下と裏表を逆さまにする。その結果、たしかに聴いたことはあるけれど、響きが違うので何の曲だかわからない音楽ができあがる」

 一九五九年、クルカはちょっといたずらな実験をした。ロングビーチの油井のピストンがたてる、ポンポンという性交を連想させる音の入ったレコードを作り、この「成人指定」の珠玉の作品集をハリウッドのニック・オデルのレストランでひそかに販売したのである。もともと好色なところのあるクルカは、その後、電子オルガンを使って「オーガズム」という題のロマンチックな作品を作ったところ、イリノイ州の郵便局長に「猥褻」であるとして没収されてしまった。こうした背景を考えれば、ミスティック・ムード・オーケストラにセクシーな活力があるのも不思議ではない。

 だが、クルカのコンセプトが実を結んだのは、サウンド・エフェクトの天才ブラッド・ミラーと組んでからのことだ。一九六五年、クルカとミラーは同じような四チャンネル・シリーズのマスターテープを作り、サンフランシスコ空港のヒルトン・インに設置した。

 ヒルトンには最上階に「タイガー・ルーム」という回転式の広いカクテルラウンジがあった。クルカとミラーはこのラウンジを四つのセクションに分け、それぞれのセクションをさらに十の窓に分けた。それぞれの窓には周波数のオクターブを十に分類するイコライザーのフィルターがついていて、色とりどりのライトにつながっていた。低音は深紅に沈み、周波数が高くなるにしたがってどんどん明るくなっていって、ついには白色光になる。クルカとミラーはテープをイコライザーにつないで、ラウンジでスコッチのソーダ割りを飲むような人々にヒッピーのライトショウの予告編のごときものを体験させようとしたのである。まぼろしの世界の効果を上げるために彼らは香水と刈りたての牧草の匂いで部屋を満たし、室温を下げるというより、雨音とのアンサンブルの効果を上げるために冷房をフルに駆動させた。

 ふたりはこのプログラムを音が見えるという意の「シネスシージア」という名で売り出したかったらしい。クルカはこう語る。「脳が混乱すると、光を見ているのか音を見ているのかわからなくなる。ヒルトンのプログラムをデザインしたときは、強いリズムを避けてメロディアスな音だけを用いたので、ライトはだいたいいつも赤かった。われわれは大編成のオーケストラとコントラバスを使った。耳はさまざまな喜びを感じる。目も同じだ。私はいつも音楽を色で見ていた」

 当初クルカとミラーは、この装置の売りこみ先として、ラスベガスのナイトクラブがぴったりだろうと考えていた。実際にラスベガスのクラブのマネージャーに見せると、何人かは気に入ってくれたが、店に設置するのは断られた。タイガー・ルームの客が、光と音に心を奪われて、酒を飲むのも忘れてしまうほど陶酔してしまう、という理由からだった。そのうちタイガー・ルームの経営側が、システムをいじりはじめた。「私たちの音楽ではもの足りないと思ったのだろう。私たちの意向に反して、ロックバンドを採用した。結果は失敗。人間の脳はあまり強烈にいじると、少々よからぬ発作を招くのだ」とクルカはいう。(略)

[ある時、てんかん]発作を起こした人がいて、ヒルトンはシステムをそっくり捨てざるを得なくなった。

(略)

 ラスベガス進出の野望がくじれたクルカとミラーは、製品のパッケージを変えて、一種の「トータル・ホーム・シアター」として一般向けにレコードの形で売り出すことにした。大成功のきっかけは、ふたりの友人であるサンフランシスコのKFOGラジオのDJ、アーニー・マクダニエルが、彼らのテープをおもしろがって取り上げてくれたことだった。

(略)

ブラッド・ミラーは、自分たちは運がよかったという。「六〇年代中頃、FMステレオは売り出されたばかりの新しいおもちゃだった。(略)ある夜、私たちがマスターテープのコピーを番組に持ちこんだら、電話が鳴りだして止まらなくなった」

(略)

リスナーの熱意に応えるため、クルカとミラーはアンサンブルの名前を募集し(略)[選ばれたのが、ミスティック・ムード・オーケストラ、だった]

(略)

マーキュリー・レコードに持ちこんだが、一笑に付されてしまった。それでもくじけずにマーキュリーの子会社フィリップスに持ちこむと、多少はましな感触が得られた。

(略)

最初のアルバム『ワン・ストーミー・ナイト』は、のちにフィル・スペクターによって有名になったスタジオ、ゴールドスターで録音された。

(略)

ミラーはつぎのように述べている。

 

当時は、ラジオ関係者の多くがサウンド・エフェクトは耳障りだと考えていた。サウンド・エフェクトをやめればもっと人気が出るのに、とフィリップスの人間もいつもいっていた。(略)私はべつにマンシーニパーシー・フェイスではない。これは特別なすき間をねらったユニークな音楽なのだ。AMラジオでは、雨音がベーコンを焼いているような音になってしまうので、まったくだめだった。コンセプト全体がハイファイとFMステレオを念頭に置いていた。リアリズムと品質、それがつねに私の強みだった。

(略)

二枚目のアルバム『ナイトタイド』は(略)ある面でより野心的な作品で(略)有名な映画のテーマ曲を、打ちよせる波から馬にいたるさまざまな音とうまく組み合わせている。それぞれの効果音はミラーが実際に現地に出かけて録音した。浜辺の音はすべてカーメルのモンタレー湾で録音された。「夜のストレンジャー」を歌うコオロギは、秋の夜にハリウッド・ヒルズを見おろす場所で録音された。

(略)

『ミスティック・ムード・オブ・ラブ』(略)には、なまめかしいサウンドだけでは足りなかったときのために、リスナーのフェロモンを高める香りを染みこませた布がついていた。

(略)

サンフランシスコでは「サマー・オブ・ラブ」へと時代の気運が盛り上がりつつあった

(略)

 ペリー&キングズレイの電子的な実験がスペース・エイジ・バチェラー・パッド・ミュージックを形づくっていたとすれば、ミスティック・ムード・オーケストラによる特殊化したサウンドの探求は、ドラッグではなくステレオ・サウンドとの交感によって意識の拡大を図るサイケデリック・クラッシュ・パッド・シンフォニーであったと。ティモシー・リアリーは、薬物による精神の旅を効果的に行なうには「場所と雰囲気づくり」が欠かせないと唱えたが、ミスティッミスティック・ムード・オーケストラのやり方はリアリーのモットーとたいへんよく似ている。

(略)

ダンスホールにさよならして、サウンドの響きわたる、雨は入りこまないけれど雨音はポタポタ聴こえる穴の中を漂う、そんな喜びに若者を誘い入れること。とぎれることのないバックのノイズと対話を織りあわせたピンク・フロイドの音楽物語『狂気』は、彼らから間接的な刺激を受けたのかもしれない。

 ミスティック・ムード・オーケストラのアルバムでは、性的な雰囲気がつねに重要な部分を占めていた。サウンドバード社という販売会社が『タッチ』という再発シリーズを出した七〇年代には、エロチックな冒険はソフトコアポルノへと変化した。(略)折り込み式のジャケットを広げると、今まさに抱きあおうとしている裸の恋人たちが描かれていた(これはもしかしたらジョンとヨーコの「トゥー・ヴァージンズ」へのオマージュなのかもしれない)。

 ミスティック・ムード・オーケストラはさまざまに生まれ変わりながら、二十枚近いアルバムを発表した。

(略)

 八〇年代初め、『ビルボード』誌主催のニューエイジについての一大シンポジウムで、音楽プロデューサーのドン・グレアムが、ニューエイジ音楽のコンセプトの発祥はミスティック・ムード・オーケストラであると発言した。「サラウンド・サウンド」やワイドスクリーン・シアターやテーマパークのアトラクションなどの実験が大流行している今日の状況を見ても、ミスティック・ムード・オーケストラは時代を先取りしていたことがよくわかる。

 

Moods for a Stormy Night

Moods for a Stormy Night

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J・G・バラード

私はまったく音楽的ではない。レコードプレーヤーもカセットテープも持っていない。じつのところ、旅行をするたびにガールフレンドにあきれられていた。というのも私は缶詰音楽が大好きで、ホテルの部屋でいつも流していたからだ。ムードを制御するというテーマはじつに魅力的だ。BGMの意図というのはあからさまに政治的であると私は思うし、政治権力の所在が、投票箱から有権者が投票用紙に印をつけられないような領域へと着々と移動していることの証でもある。未来においては、もっとも重要な政治選択が意識的に行なわれることはけっしてないだろう。おもしろいことに、BGMのなかには驚くほど攻撃的なものがある。とくに消費者苦情窓口、銀行、航空会社、あるいは電話会社で流している音楽までもが耳ざわりで、リズミカルではなく、よそよそしくて、まったく利用者のことを考えていない……。

  ―― J・G・バラード

サブリミナル

ドイツのシュトゥットガルトの売春宿(略)ミューザックのアップテンポな「産業向け軽音楽」セレクションでは客の回転が不十分で、儲からなかったからである。やむを得ず売春宿の主は、一時間の第二、第四クォーター(十五~三十分/四十五~六十分)にはもっと威勢のよい音楽を、という特別の注文を出した。

(略)

なかには獣の心を鎮めてほしいというなんとも興味深い注文もあった。(略)

イリノイ州の全米家畜取引センターで、黒ずんだ豚肉が多発する事件があった。豚が恐怖のためにアドレナリンを出して血が固まってしまい、肉が変質したのが原因だった。ところがミューザックを導入してみると、家畜は安らかにあの世へ行くようになった」

(略)

 一九七二年頃、ミューザックの技師ポール・ワーナーは、世界じゅうの時計を同調させて一秒たりとも無駄にしない「ミューザックによる時間統制システム」なるものを考案した。

(略)

ワーナーは、ミューザックがサブリミナル手法を用いたことがあるかというおなじみの質問に「音楽がかぶさっているから、われわれはラッキーだ」と答えた人物でもある。

(略)

 一九八一年、ミューザックはウェスティングハウス社の傘下に入り、理想的なオーナーを見つけたかと思われた。なんといってもウェスティングハウス社は、労働者および消費者の特異な傾向を探るための市場調査に出資した先駆けだったからである。それなのにウェスティングハウス社は不可解なことに――運営委員会にミューザックのスタジオを見学させ、担当者の面接を行なって、ミューザックが心理操作を行なっていないことをわざわざ確認した。

(略)

[番組編成担当エルフィ・メアン談]

ウェスティングハウス社はなかなか厳しかった。人々を洗脳しているのではないかと訊いてきた。私はかんかんになって、そんなことはないと答えた。テレビと同じでまったくそんなことはない、と。私はウェスティングハウス社が作っている原爆のことを持ち出して、そちらは洗脳ではなく脳を破壊することに興味があるようですな、と言ってやった。ずいぶん嫌な顔をされたがね」

(略)

[エイミー・デニオ談]

「ときにはサブリミナル・テープを受けとることがあった。奇妙なチラシ類も受けとった。サブリミナルに一番近かったのは、ワシントンDCのシンクタンクからのホワイトノイズの注文だ。ホワイトノイズが創造的な志向を増進させ、問題解決を促進するという触れこみだった」

 音楽の場でありビジネスの場でもあるミューザックは(略)移り気な上層経営陣と、(比較的)芸術指向の番組編成部の平社員とのあいだで、つねに、その場しのぎの交換取引をしながら、驚くほど効果的に機能してきた。

(略)

 歴代のミューザック社長のなかでも、派手で影響力もあったのがウンベルト・V・ムジオで、一九六六年に同社の社長に就任するなり「現代環境としての新ミューザックの誕生だ!マントヴァーニやストリングスの時代はもう終わった」と高らかに宣言した。

 以前にエアコンメーカーのフェダーズ社の重役をつとめていたムジオは、室温管理技術の原理をムード管理の分野に応用しようとした。

(略)

「ミューザックが、たんにCMの入らない感じのよい穏やかなBGMであるとはもはや考えていない。わかわれは今、音楽は原料であると考えている。ある種の効果を上げ、実用的な目的にかなうよう曲順をアレンジすること、それがわが社の使命だ」

(略)

 ムジオは重役陣の先頭を切って、経営ツールとしてのミューザックの役割に力点を置き、「実用音楽」という言葉を強調した。そのときの発言と彼の設定した優先事項は、やがて同社が「ミュージック・バイ・ミューザック」には美的な価値があると主張しだしたときに企業イメージを傷つけるもとになった。ふたつの例を挙げよう。ひとつはミューザックは耳に入るものであって耳を傾けるものではないという、ムジオの馬鹿げた主張。もうひとつは「退屈な仕事は退屈な音楽によって退屈さを減じることができる」というミューザックの意地悪な(それゆえ廃止された)スローガンである。

 これは何人かの社員が鋭くも指摘していることであるが、ミューザックは、意図的でないにせよ、ある種のスタイルの音楽を創造してきていて、それを業界の主流アーティストが模倣するようになっていた。ミューザックは「芸術」から距離をとることで、ある独特な芸術の形態に近づいていたのである。ミューザックで番組編成を担当していたエルフィ・メアンはこのパラドックスを承知しており、よいことだと考えている。「邪魔にならないよう控えめにしながらも、いい音楽を提供してミューザックを利用しつづけてもらわなけれげならなかった。だれが社長になろうとも、つねにそうした意気ごみがあった」

 ミューザックで番組編成を担当していたジェーン・ジャービスはつぎのように語っている。「音楽は編成しだいでちがったように聴こえる。スローな曲を二曲つづけて流すと、ちがいはほとんどわからない。刺激はテンポの変化と音調から生まれる」

(略)ジャービスは、ほとんど独力で同社の音楽ライブラリーをコンピュータ化して、何万もの曲を刺激促進上昇カーブと同調するメモリー・バンクに収め、二十四時間以内に同じ曲が繰り返さないようにした。また彼女は、ミューザック用のオリジナル曲も数曲作っている。

(略)

ジャービスは番組編成の仕事以外に、ミルウォーキー・カウンティ・スタジアムとシェイ・スタジアムのふたつの野球場でオルガンを演奏していた。ミルウォーキーブレーブスニューヨーク・メッツの華麗な動きをBGMで引き立てていたというわけである。

(略)

「私を裏切り者だと思っているミュージシャンも大勢いた。でも、バッハしか聴くものがなかったら世の中はずいぶん退屈でしょう?だからこそ、わが社に貢献し、やっていることを理解してくれるトップクラスのミュージシャンを讃えなければ」

そのミュージシャンとは、ディック・ハイマン、グレイディ・テート、ニック・ペリート(略)、フランク・ハンター、リチャード・ハイマン、エリオット・ローレンス、アーサー・グリーンスレイド、トニー・モットーラなどであった。

「ビューティフル・ミュージック」

アダルト・コンテンポラリー」という近年爆発的に増えているフォーマットは、じつはかつて栄えた「ビューティフル・ミュージック」の領分を横取りしているのである。

 六〇年代半ばから末頃に始まったビューティフル・ミュージックは、ソフトで邪魔にならないインストゥルメンタル曲を綿密に構成されたスケジュールで流し、CMによる中断も最小限に抑えていた。

(略)

 ムード音楽供給会社は自社の利益のためにラジオの電波を利用したが、一方の主流の商業ラジオ局は、しだいにミューザック風のフォーマット(略)を採用するようになり、しかも無料であった。

(略)

 FMムード・ラジオの出現は、「ビューティフル・ミュージック」の名づけ親、ジム・シュルクの努力に負うところが大きい。(略)

シュルクは音響機器メーカー、マグナボックス社の広告部長時代に、FM局の放送時間を大量に買い、それをブロックに分けて興味のある広告主に転売する方法を考えだした。FMは儲かる新領域であると見抜いたシュルクは、年間使用料を支払ってFMを使用する契約をNAFMB(全米FM放送局連合)との間で結んだ。

(略)

 やがてシュルクはQMIという会社を設立し、FM独立局に代わってスポンサーと契約を結ぶ事業を始めた。その後、契約局の聴取率を上げ、さらに多くの代理契約を獲得するためにSRPを設立(略)

 並べると対比のはっきりしすぎる曲や、テンポや音調の違いすぎる曲を演奏することをシュルクは禁じた。気が散るほど圧倒的なボーカルが入っている曲は禁止。アンディ・ウィリアムズのボーカルや、アニタ・カー・シンガーズ、ジョニー・マン・シンガーズなどのコーラスのように、さほど情熱的ではないものに限って認める。

(略)

音の雰囲気を壊したり各広告主のメッセージのインパクトを損なうことを恐れたため、皮肉なことにCMの数を制限しなければならなかった。

(略)

DJには演奏曲のアーティスト名を言うことを禁じたが、これはよけいなおしゃべりを避けるためだけでなく、ラジオ局のライブラリーにストックされているアーティストが少ないので、やむを得ず同じ曲を繰り返し流していることをリスナーに気づかれないようにするためでもあった。ターゲットとするリスナー層は十八歳から四十九歳の女性が大半を占めており、ソフトなストリングスがもっとも確実に支持を集めることができた。「女性は男性よりもより高い周波数を聴く能力がある。女性のほうが音質の良さに敏感だ。男女の区別はとても重要であり、ダイナミック・レンジが損なわれれば、女性リスナーを失うことになるという結論に達した」とシュルクは語っている。

(略)

イージーリスニング」というのは著作権のある言葉でもなければ登録商標でもなく、出所も不明である。六〇年代末にはビルボード・トップ四〇チャートのカテゴリーに用いられるようになり、軽インストゥルメンタルとボーカル(略)を表していた。

(略)

SRP社の影響は非常に広範囲に及び、一九七九年の秋には、ビューティフル・ミュージックは全米ナンバーワンのフォーマットである、と『ビルボード』誌の巻頭でほめ讃えられたほどだった。

(略)

攻撃的なジョン・パットン社長の率いるボンヌビル社は、イージーリスニング最大の配給元になろうとシュルクの領分を侵略した。(略)一九八〇年の春には、シュルクの顧客の多くがボンヌビル社に奪われてしまった。

 八一年、SRP社をコックス放送に六百万ドルで売却したものの、シュルクはあいかわらず音楽に全力を注ぎつづけた。(略)

シュルクは彼の局を聴いていた熟年層がさらに歳をとってしまい、購買力が衰え、収入も固定されてしまったことに気づきはじめた。イージーリスニングが衰退に直面したというまぎれもない徴候を、シュルクはこう語っている。

 

一九八〇年にはビューティフル・ミュージックは傾きはじめ、リスナーが歳をとるにつれて急速に衰退していった。(略)

SRP社をコックス放送に売却したのは、『ビルボード』誌がビューティフル・ミュージックをナンバーワンだと讃える直前のことだった。石油が漏れる前に油井を売ってしまったといって責められたが、新しい需要を満たすなにかを私は求めていた。調査を重ねた結果、「シュルクII」というソフトなボーカルのプログラムを考えだしたのである。

(略)

[調査結果に]基づいてシュルクⅡはボーカル曲が大半を占め、そこに時折インストゥルメンタルが入るプログラムの放送を開始した――ビューティフル・ミュージックのちょうど逆であり、今日のライトFMやアダルト・コンテンポラリーの先駆けであった。

 ミューザックのプログラム編成を担当していたロッド・バウムはいう。「ライトFMがビューティフル・ミュージックの棺桶の蓋に釘を打ちこんだ。ビューティフル・ミュージックは時代の変化についてゆけずに、感傷的すぎると感じられだした。人々はボーカルのほうを好むようになった」

(略)

 あくまでもイージーリスニングにこだわる人々は、必死に代案を出しつづけた。

(略)

クラシックやジャズのFM局は、ビューティフル・ミュージックの原則を採用してイージーリスニングをしのぐようになった。それらの局は知的な高潔さというイチジクの葉をつけたまま、よりライトでより輪郭だけになった協奏曲を指向した。『ニューヨーク・タイムズ』紙でジェイムズ・B・オーストライクは「クラシック音楽は芸術としてではなく、娯楽やBGMとして扱われるようになるだろう」と嘆いた。

スペース・ミュージック、ニューエイジ音楽

 ニューエイジ音楽は、たしかに一時代前の「ビューティフル・ミュージック」とは明らかに異なってはいる。ニューエイジ音楽は異質で流動的な「音の風景」にこだわり、ビューティフル・ミュージックのもつ親しみやすいメロディー、シンセサイザー抜きのフル・オーケストラや、郷愁にずばり訴えかける手法を避けた。(略)

[デイビッド・ランツ談]

「長三度で和音の響きを決めるよりも、むしろ基音、二度、五度、属七度を用いる。それによって長調短調の両方が示唆され、よい効果を生む。一種の禅のようなものだ」

(略)

考え抜いたうえでアンビバレントな音を作っているにもかかわらず、マスコミでは繰り返しエレベーター・ミュージックと比較されてしまうことには、なにかまっとうな音楽上の理由があるのではないか。スペース・ミュージックは、じつは記憶喪失を伴ったイージーリスニングというべきなのではないか。その愛好者が未来の音として聴いているものは、じつは過去のエレベーター・ミュージックと無意識の絆を保っているものなのではないか。

(略)

ジョゼフ・ウッダードは『ミュージシャン』誌で、ニューエイジ音楽を「ヤッピーの交尾儀式のための音楽」と評した。もはやロックからは刺激を受けないし、クラシックとは疎遠なヤング・アダルトがこの種の音楽に熱を上げた気持ちというのは、戦後まもなく家庭を築いた世代がスウィング・ジャズを捨ててムード音楽に執心した気持ちと同じなのである。

 初期のニューエイジ音楽の製法は、ピンク・フロイドのトリップしているようなアート・ロックと、マハビシュヌ・オーケストラのジャズ=ロックのフュージョンと、タンジェリン・ドリームシンセサイザーによるブレインスケープを混ぜ合わせて、シンセサイザー、ハープ、電子ピアノなどの催眠術のようなエフェクトをつけ加え、よりソフトで浮遊するようなスタイルに作り替えたものであった。

(略)

 ニューエイジサウンドの先駆けとなったのは、一九六四年にトニー・スコットが非公式にこの運動を始めるきっかけになったアルバム『禅の瞑想のための音楽』であった。

(略)

ウィンダム・ヒル・レーベルのスターであるジョージ・ウィンストンの録音した、自称「音の香」が、あまりに夢うつつの境地へ誘うものだったため、キース・ジャレットはこの世界から遠ざかるべきだと感じて、つぎのように批評した。

 

彼(ウィンストン)の音楽の意味するところは興味深い。なぜなら音楽が瞑想、リラクセイション、睡眠、会話のために用いられているからだ――それは私の演奏する理由のまさに正反対である。音楽が鳴っているときに眠ったり瞑想できるとすれば、そこにあるのは私の考える正しい音楽精神とは異質のものだ。

 

(略)

 宇宙の力による治療を高らかに謳うニューエイジ音楽を聴いていると、どうしてもある疑問におそわれる。魂を癒し背骨を矯正する高邁なサウンドは、数十年前に仕事を終えたあとでマティーニを飲む人々を慰めたイージーリスニングと、いったいどこがちがうのだろうか?

アンビエント・ミュージック

 BGM界に知性の化身、ブライアン・イーノが登場して、深い思索や切迫した運命という感覚を促すような、ためらいや揺れをはらんだ音の旗手となったのは、ようやく七〇年代半ばになってからのことであった。ときにニューエイジ音楽の父と讃えられることもあるイーノだが、彼はこの呼び方を非常に嫌っている。というのもニューエイジの作品には、彼の作品に広がる「悪と疑い」の感情が欠けているというのである。イーノによって処理された冷たく金属的な音の影には、感情的に中立の状態とはほど遠い、恐ろしくて陰鬱な世界がある。

(略)

イーノが「アンビエント・ミュージック」を作り出したのは偶然からで、予定されていたロバート・フリップとの即興演奏の準備のためにバックグラウンドのエフェクトをまとめていたときのことだった。「長さの違うふたつの矛盾しないメロディー・ライン」をデジタル・リコールに記憶させ、エコー・デイレイ・システムを通して再生した。誤って機械のスイッチをつけっぱなしにしてしまったイーノは、その音がとりわけ可聴値以下のときに、周囲にまるで呪文のような力をおよぼすことに強い印象を受けた。その結果生まれたものが、基音とする調を固定しないコード進行が繰り返される作品『ディスクリート・ミュージック』であった。

 ミューザックと芸術を隔てる偽りの境界線をぼかしてしまうイーノの才能が公に認められたきっかけは、『ミュージック・フォー・エアポート』である。イーノははっきりと反ミューザックの立場をとっていたにもかかわらず、このプロジェクトはありふれた缶詰音楽と本質的には変わらない。『ミュージック・フォー・エアポート』は物憂げなピアノのフレーズと超自然的なコーラスを織りつむいでいるが、これはジャッキー・グリースンが何十年も前に完成させた「オー」とか「アー」とかいう官能的な声だけで作品全体を構成するテクニックを借用したものである。ミューザックは口ずさみたくなるようなメロディーを、たんにもう一度作りなおすだけだが、イーノはドイツの作曲家カールハインツ・シュトックハウゼン(略)を思わせる。これほど高度な才能が示されている『ミュージック・フォー・エアポート』なのに、批評家のケン・エマーソンからは「アバンギャルドなミューザック」と一見ほめているようでじつは侮辱的な評価を下されてしまった。

 

ディーヴォモーガン・フィッシャー

 ディーヴォのいう「退化の改新」のコンセプトを編み出す哲学者であるマーク・マザースボーは、ミューザックをはじめとする各種イージーリスニングの熱烈なファンである。彼のいう「インフラ=ミュージック」誕生のいきさつを、つぎのように説明している。

 

ミューザックはぼくの音楽革命戦略の形成に役だった。ビートルズ、バーズ、ボブ・ディランのミューザック・バージョンを聴いたとき、自分の音楽には他人にやられる前よりも先に自分の手で同じような加工をしようと心に決めたのさ。ぼくらの『イージー・リスニング・ディスク』ができるまでにはおもしろい歴史がある。ぼくらはファースト・アルバムが出る前から、曲をミューザック風にアレンジしたものを作っていたんだ。七六年ごろ、『イン・ザ・ビギニング・ワズ・ジ・エンド ディーヴォ革命の真実』という短い映画を作った。これはアン・アーバー・フィルム・フェスティバルで優勝した。ビートルズの曲を周波数分析機にかけて録音したりもした。イージーリスニング・チャンネルからとってきた曲も、この装置にかけた。するとミューザック風の曲が、とんでもないロボット・バージョンに変身したんだよ。ぼくらはミューザックを突然変異させたわけさ。

バンドをはじめたばかりのころ、「ディーヴォの夕べ」みたいなものをやりたいと思っていた。ちゃんとショウアップしたものをやりたかったんだ。コンサートに来た人たちにトーキング・ヘッズみたいなものを聴かせるのはいやだったからね。だから「ディーヴォ再教育計画」の一環として、自分たちの曲のミューザック版を演奏した。『アンディー・グリフィス』や『ビーバーにおまかせ』のテーマ曲も加工した。するとテープを買いたいという人が音響担当のところに大勢やってきた。それでファンクラブのためにいくつか録音したんだ。最初の『イージー・リスニング・ディスク』が飛ぶように売れたので、二年後には第二弾を作った。ロックンロールは破産してだめになってしまったから、みんなやけになってこうした領域を発掘しているというわけさ。

(略)

スペース・ニグロズは、八七年に(略)『スペース・ニグロズ、六〇年代のアングラ・パンク/サイケデリック・ソングの人気ナンバーの包括的にエスニックなミューザック・バージョンを演奏する』という、ぶっ飛んだタイトルのアルバムを発表した。スペース・ニグロズを結成したエリック・リンドグレンは「サウンズ・インタレスティング・ミュージック・ライブラリー」という独自のムード音楽楽団を所有していて、イーストパックなどのコマーシャルのBGMを作曲している。アルバム・ジャケットにマクドナルドやKマートの水彩画が描かれているところからしても、この作品は安っぽいアメリカ風物への一種幻想的な賛美になっている。このアルバムには「民族的かつ包括的に正しい」バージョンの「フライデイ・オン・マイ・マインド」、ストウージズの「ウィ・ウィル・フォール」、バルーン・ファームの「ア・クェスチョン・オブ・テンパラチュア」が収録されており、「はるかかなたの土地のイメージを喚起するよう」すべてダルシマー、コンガ、マンドリン、神秘的な詠唱による音づくりが施されている。

(略)

 ジョン・レノンは殺される少し前に、オノ・ヨーコが外出しているときは家で一日中ミューザックを聴いて楽しんでいる、と『ローリング・ストーン』誌にうちあけた。それから十年後、モーガン・フィッシャーはレノンが作ったメロディアスな曲をインストゥルメンタルで演奏した『エコーズ・オブ・レノン』というアルバムを発表した。シンセサイザーとかすかなパーカッションを用いて、ソフトでゆったりとした幽霊のようなスタイルで表現しているため、原曲がほとんどわからないものもある。当初からフィッシャーのプロジェクトに熱心だったオノ・ヨーコは、いかにも彼女流の詩的な言葉でこのアルバムを絶賛した。「音楽をぎりぎりまでスローにすることで、モーガン・フィッシャーは空間に音符を宇宙の大きさで漂わせることができた」

(略)

フィッシャーは、自分がムード音楽に興味を持つようになったのは、ロックを出発点として音楽をやってきた必然的な結果だったと考えている。

 

日本画には「間」という伝統があって、見る人を空っぽでくつろいだ状態にすることを絵画の目的としている。私はこういった考えを音楽に組み込もうと試みてきた。小休止につながる音。その音がなければ、聴く人が小休止を感知することはできない。それと同じで、私がハード・ロックをあれほどやらなかったら、ほんとうに静かな音楽を演奏することはできなかただろう。おそらく、極限までとことんやったことのない人の作った音楽よりも、私の音楽はより多くの空間とくつろぎを作り出すことができるはずだ。

 

Echoes Lennon

Echoes Lennon

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エレベーター・ミュージック BGMの歴史

堅苦しい宮廷音楽を「軽音楽」に

 ムード音楽の歴史は、教会で行なわれた最初のオルガンリサイタルにさかのぼる。オルガンの調べは、説教の合間に信者の心を和ませた。大聖堂はまさしくサウンドスケープと化し、のちのショッピング・モールや、アトリウム、自動車ショウルームの設計に影響を与えたのである。

 十七世紀、ヨーロッパの貴族の世俗の生活には、つねにBGMが流れていた。バロック風庭園では水力オルガンや人工の鳥のさえずりが響き、自然に対する文明の優位を祝福した。現代のオーディオ愛好家がうやうやしく「クラシック音楽」と呼ぶものの大半は、もとをただせば高貴な方々のBGMであった。デイビッド・ワイスの小説『聖と俗』で、モーツァルトはコロレド大司教の要望について、「大司教は夕食にお客様を招かれる。セレナーデがご所望で、耳にここちよく、けれども会話や消化の妨げにならないものを、とのことだ」と言っている。

 十八世紀半ば、ドイツの作曲家ゲオルク・フィリップ・テレマンは「インストゥルメンタル」BGMシリーズ「ターフェルムジーク」を作曲して、聖と俗の音楽を隔てるかつて強固であった壁を壊した。凝った協奏曲には興味なしとみずから認めるテレマンは、厳格な構造を無視し、単純なメロディーを多用して、堅苦しい宮廷音楽を「軽音楽」に変容させた。

 ヨハン・セバスチャン・バッハも、独自の方法でテレマンの軽音楽スタイルを展開してみせた。バッハの有名な「ゴルトベルク変奏曲」は、ドレスデン宮廷駐在の元ロシア大使、カイザーリンク伯爵の依頼を受けて作られたものだ。伯爵は家来のヨハン・テオフィリウス・ゴルトベルクをバッハのもとにやり、不眠症を癒すための「やさしく明るい曲想の」、「基本的な和声がつねに同じようにくりかえす」クラビーアの曲を学ばせた。おそらくゴルトベルクは、眠れぬまま羊を数える伯爵につきあって、カノンとフーガとエチュードの混じったこの曲を、控えの間でくたくたになるまで弾きつづけたことだろう。

(略)

 産業革命によって内燃機関の轟音や、発電機や空調システム、鋲を打つピストン、電気照明のうなる低周波音が生じた結果、静寂はたまに生じたとしても歓迎されざる異常な事態になった。このため、まったく新しい種類の犯罪や、工場では騒音がらみの病気が爆発的に発生した。金属をひっかく音が原因の「ボイラーメーカー病」もそのひとつである。音楽はたんなる娯楽ではなく、都市のたえまない騒音の苦しみを緩和する「音の麻酔薬」になった。のちにドイツの作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンは、公共の場所における好ましくない音を逆の波長を用いて相殺する、コンピュータ制御の「音吸収器」を提唱した。

未来派の音楽

 イタリアの未来派画家ルイージルッソロは、近代的機械の美しいノイズを賛美した。本職は画家ながら、ルッソロ未来派の音楽活動のリーダーを自負していたところがある。一九一三年に書いた「騒音芸術」というマニフェストは、ハーモニーを重んじる伝統的な音楽観を拒否して、われわれが毎日無意識のうちに耳にしている不協和音の傑作を讃えている。従来のピアノ、バイオリン、ハープ、ホルンといった楽器よりも「商店のシャッターのガシャンという音や、ドアがバタンと閉まる音、人混みのガヤガヤ、駅、鉄道、鋳鉄工場、紡織工場、印刷所、発電所、地下鉄などのさまざまな喧噪」のほうがずっとすばらしい、とルッソロは主張する。

 「すべての工場がめくるめく騒音のオーケストラになる」という夢を実現するため、ルッソロは「イントナルモーリ」(ノイズ調音装置)を発明した。これはひょろ長いスピーカー・ボックスで、まるで内燃機関が十種の全音をとどろかせているような、チェーンソー顔負けのメロディーを奏でた。ルッソロは主たるノイズを、爆発する音、割れる音、ブンブンいう音、ひっかく音の四つに分類した。それぞれの音の高低と音色は、脇のレバーで操作する仕掛けになっていた。

 未来派の音楽家フランチェスコ・バリーラ・プラテラはルッソロの装置にたいへん感銘を受け、「未来派音楽の技術宣言」を書いた。これもまた、「群衆、大工場、大西洋横断客船、列車、戦車、自動車、飛行機等々に宿る音楽の魂……機械の支配と電気の君臨」への賛辞である。

(略)

 ルッソロの「ノイズ調音装置」は、イギリスで何回か展示会を開いて作曲家のストラビンスキーとシュトックハウゼンにも披露されたが、結局は有望な発明というよりも、ただの新奇な装置という扱いを受けた。その後ルッソロはいくつかの調音装置を組み合わせて「ルッソロフォノ」という原始的な鍵盤楽器を作ったが、これも珍発明の域を出なかった。

(略)

 ドイツの「実用音楽」は、未来派ほど声高には(略)語らなかった。(略)

クルト・ワイルは、後期ワイマール共和国時代、この運動を熱心に推進して、「芸術音楽」と「実用音楽」の区別をなくすことに力を注いだ。音楽を大衆のものにするため、ワイルは「人間の単純な感情と行動を表現する」よう努めた。大衆に味方する彼の姿勢をあざ笑うお高くとまった連中をからかって、ワイルは「ジャズの要素や、表面的には軽音楽とよく似ている親しみやすい旋律を用いることで……陳腐であることに対する恐怖はついに克服された」といってのけた。

 当時にしてみればワイルの発言は革命的だったかもしれないが、彼の提唱した音楽は、今日では当たりまえの、軽音楽と映画音楽をミックスしたものとさほど変わらない。こんなデザートを想像してみてほしい。まず、数学的なフィリップ・グラスの砂糖がけ、それからパーシー・フェイスのストリングスの甘いシロップ、ボストン・ポップスのアイスを山盛り、エンニオ・モリコーネのマシュマロソース、レイ・コニフ・シンガーズのチェリーをてっぺんにのせれば、「実用音楽」のできあがりだ。

(略)

 「実用音楽」という言葉は、社会的芸術運動のために作られたものだが、やがてドイツ語の「キッチュ」という言葉と同様、軽蔑的な意味あいで使われるようになった。

サティ「家具の音楽

 未来派の大騒ぎと「実用音楽」の平民賛美に代わって、エリック・サティは都市生活に寄り添う音楽として、旋律はあっても、特定の感情を喚起しない作品を発表した。サティの音楽は、いわば未来派が反ブルジョア的音楽環境の設計をもくろんで、できあがってみたら中流階級の旗手になってしまったようなものだ。

(略)

 サティが「家具の音楽」という言葉とコンセプトを作るに至った背景に関しては、いくつかの説がある。アンリ・マティスが主題などというやっかいな代物のない芸術を作りたいと口にして、それを安楽椅子にたとえたのを、サティが小耳にはさんだのだという説もあるが、画家のフェルナン・レジェと昼食をとっていたときに思いついたという説のほうが、おそらく本当だろう。ふたりが食事しているとき、レストラン専属のオーケストラの音が大きすぎて、客が次々と帰ってしまった。レジェの話では、サティは憤慨してこういったという。

 

 家具の音楽」を創造しなければ。周囲の音の一部となって溶けこむ音楽だ。メロディアスで、ナイフやフォークの音を隠すけれども、完全に消しはしない、押しつけがましくもない、そんな音楽だ。この音楽は、ときおり訪れる気まずい沈黙を埋めることもできる。わざわざ陳腐な文句を口にしなくてもすむ。なによりも、強引に割りこんでくる町の騒音を和らげることができる。

 

 さらにジャン・コクトーに宛てた手紙では、「法律事務所、銀行などに家具の音楽を……結婚式に家具の音楽を……家具の音楽の流れていない家など問題外だ」と述べている。

(略)

壁紙の模様のように何度も繰り返される断片的なフレーズからなるこの音楽は、ただ背景となることのみを目的としており、注意を惹くことはまったく意図していない」音楽だったという。

 芸術とはかしこまって鑑賞するものだと思っている客は、サティの説明などおかまいなしに、耳をそばだてて音楽を聴こうとした。いらだったサティは、観客のなかにとびこんでいって、話したり、音をたてたり、廊下に展示された絵画を見たりするよう促した。(略)サティのいらだちは、五十年後のジョン・ケージのいらだちと対照的だ。彼は、音楽をまさに背景として聴くのに慣れきってしまった人々に、サティの「家具の音楽」を聴かせたのである。ケージは受動的な聴きかたをやめさせようと、演奏している三組の室内楽団を照らすまばらなスポットライトしかない曲がりくねった暗い廊下を、客に歩いてもらった。

(略)

ロンドンの王立音楽院教授ロデリック・スワンストンは、家具の音楽は「みずからを真剣に考えすぎる作曲家に対する反発だった」と述べている。あるいはそれは、サティがキャバレーのピアノ弾きとして過ごした不遇の時代には相手にしようともしなかった上流気取りのパトロンたちへの「最後に笑う者」の笑いだったのかもしれない。

(略)

 家具の音楽はよくあるようなダダイストの独善的な悪ふざけとは異なる。サティは缶詰音楽と映画のサウンドトラックを同時に発展させようとしたのである。

(略)

サティはルネ・クレール監督の『幕間』のために、「シネマ」と題する曲を作曲した。この曲ではフレーズのカットアップ、並置、繰りかえしという手法を用いて、各フレーズに固有の意味をもたせないようにしている。

 サティの異端指向は音楽に限った話ではない。家具の音楽を提唱するはるか以前に、深い、超自然的なあこがれを抱いていた彼は、(メロディーではなく)ハーモニーによって超越的なものに近づくことができるという結論に至っていた。

 サティは当時親独的であったフランスの中流階級のここちよい環境で育った。初期のサティの課題は、同時代の多くの作曲家を捕らえていたワーグナーの触手を振りきることだった。ワーグナーの亡霊から逃れようと、彼はグレゴリオ聖歌の単旋律を賛美した。中世への懐古趣味を、ドイツ風の過剰さに対する解毒剤にしようとしたのである。

 劇的な抑揚を削ぎおとしたサティの音楽は、グレゴリオ聖歌のようにある程度の距離感をもって聴こえるため、聴き手は周囲をよりはっきりと認識する(場合によっては、疑う)ようになる。(略)ロデリック・スワンストンは、サティの手法を同時代のふたりの作曲家と比較している。「ドビュッシーとラベルは、聴き手が耳を傾けるし、彼らも聴き手が耳を傾けることを期待している。けれども皮肉なことに、彼らが作品で用いた手法の多くは、のちのバックグラウンド音楽作曲家の手法の基礎になった」。ドビュッシーの「パラレル・コード」(それは、のちのマントヴァーニ一派において、より官能的で感傷的な音を生むことになる)とは対照的に、サティの音楽はミニマルでどこか冷淡だった。バックグラウンド音楽に対するドビュッシーとサティの方法論の違いは、今日の「イージーリスニング」と、「環境音楽」といういささか怪しげな区分と似ているところがある(「イージーリスニング」はノスタルジックなメロディーを武器とするが、ブライアン・イーノなどの「アンビエント・ミュージック」は感情を明確には表現しないことを特徴とする)。

 サティがグレゴリオ聖歌の実験を行なったのは、薔薇十字会とかかわっていた二年間のことである。この時期、サティは、カルトのリーダーであり、あいまいでいかがわしいジョセファン・ペラダンの強い影響を受けていた。ペラダンの教団は世紀末的なカルト集団で、物質万能主義とダーウィンの影響を拒否し、精神的な戒律、快楽主義、「自然」愛好を形而上的にごった煮にしたものを信奉していた。

 ペラダンのサロン展のために、サティは「偶然の音楽」(流れに付随するという意)を作曲した。この作品は(拍子記号と小節の縦線を省くというサティの癖によるところも多少はあるが)漫然としていて眠気を催すのが特徴である。作曲家というよりはまるで室内装飾家になったかのように、サティは楽譜に「白く動きのない」とか「青白く神聖な感じの」といった指示をたくさんつけて、謎めいた雰囲気をかもしだした。

 サティの伝記作家アラン・ギルモアはつぎのように述べている。「サティは調性やリズムそれ自体に関心はなかった。あいまいで、浮かぶような……雰囲気を作り出すことが彼の狙いだった。ゴールを目指さない音楽、ただそこにあるだけの音楽、なによりもある種の宗教的な雰囲気をもつ『家具の音楽』を求めていた」

 家具の音楽の十年以上前に、サティは三つの「ジムノペディ」を作曲している。この作品を聴くと、彼の「ミニマリスト」の作品には抑圧された感情が秘められており、これを感傷的に演奏することも不可能ではないことがわかる。

(略)

[時代状況から]彼が実体のない美学だけから家具の音楽を生み出したわけではないことがわかる。十九世紀中頃、パリはヨーロッパ諸都市の先頭を切って市場経済から消費文化に移行した。

(略)

 フランス革命百周年を祝して開かれた一八九八年の万国博覧会(略)

サティは博覧会のために建てられたばかりのエッフェル塔の下に立ち、今でいうテーマパーク風の雰囲気に魅了されて、優雅でどこか不気味な「グノシェンヌ」を作曲した。

 家具の音楽は、ペラダンからダダイズムへのサティの変化を示している。一九二〇年代には第一次世界大戦後のシニシズムのせいで、サティの信仰に陰りがみえていた。一九一六年に始まり、八年後に解散したダダイズムは(略)ヨーロッパの古い秩序をニヒリズムによって破壊した。そのニヒリズムが純粋なあまり、ダダイズムは結局みずからを破壊してしまうことになる。

(略)

家具の音楽誕生から二年後、ジョージ・オーウェン・スクェアという名の陸軍技師が、缶詰音楽をケーブルを通してレストランやタイプ室に送りこみ、その場をコンサートホールに変えるシステムを開発してサティの夢をよみがえらせた。時は一九二二年。ダダイズムが臨終の苦しみにあえいでいた年に、ミューザックは誕生した。

ハックスリー、ザミャーチン

オルダス・ハックスリーは『すばらしい新世界』で「あたりには陽気な合成音がとぎれることなく流れ、何ともにぎやかだ」と風刺した。この小説に描かれた未来社会では、「合成「音楽」が「ハイパー・バイオリン、スーパー・チェロ、代用オーボエ」の音を流しつづけ、テクノロジーで結ばれた同族意識を高揚させる。「大衆が政治権力を掌握すれば、かならず真実や美よりも、幸福が優先されるものである」とハックスリーはいう。

(略)

エドワード・ベラミーが日常のBGMを博愛主義的に思い描いていたのに対し、ハックスリーは、個人の権利を奪い、監督者の亡霊としてつきまとい、なにもない空間を「ここちよい倦怠感」で得意げに満たす幽霊シンフォニーを嘆くばかりであった。

(略)

 ハックスリー、オーウェルに先だって、エフゲニー・ザミャーチンは一九二〇年に『われら』という反ユートピア小説を書いた。かつてロシア革命を支持し、マクシム・ゴーリキの友人でもあったザミャーチンは、革命がたどった全体主義への道を痛烈な風刺をこめて描いている。(略)

ザミャーチンの仮想未来は、全員の合意を至上命令としている。生活は厳しく統制され、理性が至高のものとされ、「魂」は悪性腫瘍のような扱いを受ける。「統一国家のマーチ」にあわせて市民を行進させるべく、「音楽工場」は一時間につき三曲、「ミュジコメーター」の作曲するソナタを奏でる。(略)

「収斂、分岐をくり返しながら無限に連なる水晶のような半音階の調べと、テイラーとマクローレンが処方した合成和音。全音の、がっしりとして重々しいテンポの『ピタゴラスのズボン』、しだいに弱まっていく悲しいメロディー、太陽スペクトルの暗線による休止と交互に現れる生き生きとしたビート……なんと壮麗なのだろう!なんとすばらしい永遠の論理だろう!」

軽音楽、ビクター・ヤング、モートン・グールド

クラシック純粋主義者だけでなく、ジャズこそは都市の神経症の解毒剤だと信じて疑わないセンチメンタルな原始主義者も、ラジオからジャズが流れるのをこころよく思わなかった。

 その一方で、軽音楽は安全な中間地点に位置していた。クラシックでもなければ、ジャズでもない。ミュージカル音楽というわけでも、ワルツというわけでもない。軽音楽は、こまごまとした分類から逃げおおせることで成功をおさめた。

(略)

ビクター・ヤングはのちに映画音楽を手がけるが、一九三〇年代にはラジオ向け音楽の指揮者として活躍した。一九三一年にみずからのバイオリン独奏で録音した「スターダスト」は、ホットなジャズのナンバーからソフトなバラードに姿を変えた。ダンスナンバーを夢見るための音楽に変えることによって、ヤングは曲の音楽的な意味づけを拡げただけでなく、それまで閉じこめられていたスタイルの枠から解放して、いろいろな目的に使えるようにしたのである。

 ヤングと並ぶ軽音楽のパイオニアであり、のちに「イージリスニング」と呼ばれる分野のスターとなったモートン・グールドはつぎのように回想する。

 

 いわゆるシリアスな音楽家は、あらゆるメディアの軽音楽を軽蔑したが、それにはもっともな理由がいくつもあった。軽音楽を見下せば、シリアスな音楽家はそれだけ偉くなったような気になれる。会員制クラブに入れば偉くなったような気分になるのと同じだ。(略)

当時の偉大なアーティストたちは、音響技術や初期のラジオ放送にも積極的に取り組んでいた。たとえば、レオポルド・ストコフスキー(略)はやがて、ハリウッドで『ファンタジア』の音楽を担当した。ところが純粋主義者たちは、それをよき音楽の堕落の極みだと考えた。

 

(略)

 ラジオの音質が改善され、技術的には「巨匠たちの音楽」を放送できるとプロデューサーが胸を張れるようになってからも、軽音楽は、ライト・サロン、夕食の音楽、真夜中の「まどろみの音楽」など、さまざまに名を変えながら依然として生き残った。スポンサー(たばこのチェスタフィールド、オーディオのフィルコ、タイヤのファイアストーンなど)のマーケットが拡大するにつれて、ラジオはいちばんホットなセールスツールになった。そして最大のリスナー層を引きつけたのが軽音楽だった。

(略)

ラジオが登場するまでは、オーケストラの音楽を何百万の人間が体験するとしたら、百年近くかかっただろう。けれどもラジオなら、一回の放送で、一時間あれば、同じ数の人間に伝えることができる。ラジオのリスナーは、きらびやかに着飾った人々の世界とはまるで無関係なところで、音楽作品と一対一の関係をもったのである。

(略)

 コンサートホールやオペラハウスで押しつけられる堅苦しいマナーから解放されて、ようやくごくふつうのリスナーは、自分の部屋や性格にあった音楽を自由に選べるようになった。(略)

ミューザック

 ミューザックの録音はすべて、垂直に溝を刻む331/3回転のディスク(略)にプレスされた。傷のつきやすいセラック製SP盤のかわりに、ビニール樹脂に録音したのはおそらくミューザックが最初だろう。ビニール樹脂の前は蠟管に録音していた。一九五〇年代、ミューザックがキャピトル・レコードと同居していた時代にスタジオ・セッションの音響技師をつとめていたアーブ・ジョエルは、つぎのように語っている。

 

 三〇年代の初めに、ミューザックの主任技師が「金吹きつけ法」というのを発明した。蠟盤に音楽の原盤を刻みこむ方法だ。その蠟盤から、溝の凸凹が反対になった「マザー」盤を作る。蠟盤に金の薄い被膜をスプレーして、蠟盤をはがすと、こういう原盤ができるわけだ。次にその原盤に電気メッキをして、そこからプレス型を作って、レコードを作った。ほかのレコード会社もこのやりかたに従った。そのうち銀のほうが安上がりだとわかるまではね。

(略)

 ミューザックは、より大きな目標に向かって一歩一歩前進しつつあった。その目標とは、士気が低下する時間帯用の強壮薬として、気分に応じて分類された音楽プログラムを提供することである。これはミューザックの社長ワディル・キャチングズお気に入りのアイディアだった。キャチングズは有名な投資家で、かつては「ウォール街ゴールデンボーイ」と呼ばれていた。すでに収益性の高い事業をいくつも実現していたキャチングズは、音楽をリズム、テンポ、楽器編成、楽団規模別に保管・放送できるよう、ミューザックのライブラリーにあるすべての曲に「刺激分類コード」をつけることを思いついた。

 いまだ黎明期にあったミューザックは、ザビア・クガート、クライド・マッコイ、ハリー・ホーリックといった有名どころが演奏するクラシック、セミ・クラシック、ポップ・ボーカル、ポリネシア風音楽、ジプシー音楽などの寄せ集めを流していた。一九三六年八月、キャチングズが曲順、時間帯、ボーカルの効果を研究するよう番組制作者に命じたのを受けて、よりスタンダードなフォーマットが誕生した。午後九時から昼の十二時三十分までは、ボーカル曲は流さない。十二時三十分以後は、ワルツとタンゴは避ける(時折ヒットソングを入れるのは可)。一般に、スローな曲は避ける。使用する場合は、プログラムの一区切りのまんなかか最後で用いること。

 レストラン用の典型的なプログラム(略)

朝食タイム(午前七時-九時)には、朝日のように元気のよい音楽と、カフェイン入りのリズム。九時から正午までは、ランチの食欲をそそるBGMでつなぎ、ランチタイムには、ちょっぴり気取った軽クラシックとスパイスのきいた音楽。午後二時からは、ふたたびつなぎのBGM。午後五時からのカクテル・チューンには、ピアノや、ビブラフォンのようなエキゾチックなサウンドが混じる。午後六時から九時のディナータイムは、控えめで静かなクラシックで栄養をつけ、夜のダンスナンバーに備える。夜が更けるにつれて、音量は大きくなり、テンポもアップしていく。

(略)

 一九三〇年代にスティーブンズ工科大学が行なった先駆的研究の結果、「実用音楽」によって職場の欠勤が八八パーセント減少し、早退が五三パーセント減少したことが指摘された。

「缶詰音楽」と戦ったペトリロ

 一九三八年、ミューザックはワーナーブラザーズ社に買収され、より大きな事業の中に組みこまれていった。(略)

けれども一年後、ワーナーはこれらの会社を野心的で如才のない三人の企業家に売り払ってしまった。その三人とはワディル・キャチングズ、アレン・ミラー、ウィリアム・ベントンである。利益のためならどこへでも出かけていく男、と称されたミラーは、イギリスで、ミューザックと同じように電話回線を利用して音楽を配信する会社、レディフュージョン社の設立に協力した。宣伝のスペシャリスト、ベントンはこの三人組の中でもとりわけ大物で、のちにコネチカット州から上院議員に選出された。

(略)

 ウィリアム・ベントンは一九四一年(略)『源泉徴収方式』の著者で経済学者のビアズリー・ラムルのアドバイスに従って、わずか十万ドルでミューザックの支配株式を取得し、経営権を完全に掌握した。

(略)

 ベントンが一九四五年に国務省の広報担当副長官の職につき、米国のプロパガンダ機関「ボイス・オブ・アメリカ」(VOA)を推進したことは注目に値するだろう。(略)[ユネスコ]の創設にも積極的にかかわったが、皮肉なことにこの機関は、のちに公共の場におけるBGMの使用を公然と非難することになる。

(略)

 ミューザックは戦時中に強大な影響力をふるい、アメリカには欠かせないものとなっていった。兵器工場に音楽を配給するだけでなく(略)戦時情報部に協力して、訓練の指示の伝達にも一役買った。

(略)

 ミューザックと米国音楽家連盟(AFM)とのあいだのいざこざは、しだいに大きくなっていった。最大の敵は、連盟の悪名高き会長ジェイムズ・シーザー・ペトリロだった。元ピアニスト兼バンドリーダーのペトリロは、誰彼かまわず厳しい要求をつきつけて、音楽業界に混乱を引き起こした。(略)

楽家の生計を脅かすことを理由に、シカゴから「缶詰音楽」を一切閉め出そうと、ミューザックを相手に長く厳しい戦いを展開した。

(略)

一九四〇年(略)RCAの訴訟に対して、ラジオでのレコード演奏は著作権を侵害しないという裁決を下した。ペトリロはこの裁決に不満で、レコーディングと放送によって音楽家が失業することを証明しようと、ベン・セルビンに依頼した(略)がセルビンは(略)連盟の団体行動は解決策にならないという報告書を提出した。なぜなら、機械化された音楽を閉め出すことははや不可能であり、スタジオ・ミュージシャンはレコード会社から何百万ドルという金を支払われて十分補償を受けているからだ。セルビンの提案に、連盟に所属するミュージシャンは、みな立ちあがって拍手し、支持を表明した。

 セルビンは弁護するよう依頼されたペトリロの策略を覆してしまったわけだが、それもそのはず、彼はミューザック創成期の番組制作主任だったのである。(略)

一九四二年八月一日、ペトリロはストライキを命じ、すべてのミュージシャンをスタジオから閉め出した。レコード会社がペトリロを降参させるには四年の歳月を要した。音楽史の専門家のなかには(略)このストライキのせいで、多くの有望な演奏家の芽をつむことになり、ビッグバンド時代が終わりを告げたと考える者もいる。

トーキーの音楽、プロダクション音楽

 『グランド・ホテル』の終盤、グレタ・ガルボ(略)

はなんとなく悪い予感がする。「音楽が止んだ。今夜はなんと静かなのだろう。グランド・ホテルがこんなに静かなのは、はじめてだ……」

 ガルボが不安を感じるのも無理はない。それまでは映画の始まりからずっと、スィートルームの見えないスピーカーから流れてくるラフマニノフのロマンチックなピアノ協奏曲第二番が、彼女の感情の起伏を際だたせてきたのだ。音楽という支えがなくなった今、飾りをはぎとったありのままの人生を見つめなければならない。

(略)

 MGMが一九三二年に公開した『グランド・ホテル』をきっかけに、あらたに始まったトーキー時代に音楽はどのような役割を果たすべきかをめぐって、厄介な論争が繰りひろげられることになった。登場人物が嘆いたり、キスしようとするたびに、バイオリンやハープや金管による幽霊のようなシンフォニーがどこからともなく流れてくると、まだトーキーに慣れていない観客からは、ばかにしたような笑いが起こった。そのため監督やプロデューサーも、蓄音機、ラジオ、生オーケストラなどの音源が物語に書きこまれているときしか音楽を使わなかった。

(略)

 当初から映画音楽の技術は、BGM業界のニーズを明確にする役割を果たしてきた。初期の映画一般、特に『グランド・ホテル』のサウンドトラックにヒントを得て、ミューザックがわれわれの生活を彩る音楽のアレンジ方法を編みだしたということも大いにあり得る。「ミューザックの音楽」は、ハリウッドの映画音楽のように、目覚めているときも、夢を見ているときも休みなく演奏され(略)

BGMは空間と時間の不連続性を最小化し、不信感を休止させた状態に主体を引きずりこむ。

(略)

 ミューザックの曲の内容が、聴き手の感情や状況と一致することがあるとすれば、それはまったくの偶然(略)

けれども公共の場では、同じ音楽でも、そこにいる人の数だけさまざまに解釈されることになる。(略)さまざまな時間、場所、都市、州、国で、ミューザックがシンクロする瞬間がたしかにある。エレベーター、オフィス、空港、デパートで流れてきた音楽が、突然、まるで自分のために演奏されているような気がするときがあるはずだ。

 人々がようやくトーキーの音楽に慣れた一九三四年ごろ、映画製作者は「アップ・アンド・ダウナー」という装置を大いに利用するようになった。これは、サウンドトラックに会話の信号が入ると、自動的に音楽の音量を下げる装置である。

(略)

ヘンリー・マンシーニは自伝で、ユニバーサル・スタジオで過ごした薄給時代のことを語っている。当時は、低予算の西部劇や時代物の映画音楽に数人の編曲家が同時にとりかかり、撮影所のライブラリーにある昔のスコアをつぎはぎして大量生産していたという。

(略)

一九四〇年代、アメリカの作曲家アーロン・コープランドはつぎのように書いた。映画の「バックグラウンド」音楽は「作曲しても報われない音楽だ。なぜなら、それはせりふのうしろ、または下にある音楽であり、観客がじっと耳を傾むけることはなく、音楽があることすら気づかない可能性もある。(略)

表に出てはならない音楽を作るのは、作曲家にとってたやすいことではない。ふつう、作曲家は、できるだけ表現豊かであろうとするものだから」

(略)

 ムード音楽ライブラリーは、初期の映画音楽と同じように、演奏者やジャンルではなく、直観的にずばりわかるようなテーマ別に曲を分類することが求められた。「大騒ぎ」、「もやのかかった」といった説明的な題名がついていれば、放送局の担当者は曲のイメージをつかむことができる。演奏者にしても、いわゆる「巨匠」である必要はなく、その場かぎりのセッション・ミュージシャンが集められた。グループ名にしても「音の鍛冶屋」のような間に合わせのもので、そもそも名前がないこともあった。

(略)

 プロダクション音楽には、覚えられてしまった曲や、有名になってしまった曲はスクラップにするという昔からの伝統がある。なぜなら、音楽が耳につくようになると、映画や演劇、広告そのものから聴き手の注意がそれてしまうからだ。

(略)

 一九五〇年代、テレビ局がまだ独自のスタジオ編曲者を雇っていない時代に、プロダクション・ライブラリーは、わずかな費用で著作権を心配する必要のない音楽を無尽蔵に提供した。

ポール・ウェストン、ジャッキー・グリースン

 一九四〇年代末のこと。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、サンシメオンの豪邸で愛人マリオン・デイビスと食堂でディナーをとったあと、家庭劇場で映画を楽しむのを日課としていた。毎回、映画の始まる前に、映写技師は『夢の音楽』という驚くべき新アルバムを一枚まるごとかけなければならなかった。このエレガントに演奏されたセンチメンタルな人気曲集は、エジプトの彫刻や博物館級の骨董品に囲まれた邸内で、ハースト氏と愛人をゆったりとくつろいだ気分にさせる最高の鎮痛薬だった。アルバムの作者であるポール・ウェストンがこの逸話を知ったのは、一九八六年になってからのことだ。

(略)

ビング・クロスビー、ダイナ・ショア、(やがて彼の妻になる)ジョー・スタッフォードといった歌手の伴奏をつとめながらも、ウェストンは神経をかき乱すような音楽をかねてから偏愛していた。一九四四年、産声をあげたばかりのキャピトル・レコードのレコード・ディレクターになったときも、彼の音楽生活は、変化に富むフリーフォームのテンポや、耳をつんざく金管、バディー・リッチやジーン・クルーパが叩く猛スピードのドラムスにどっぷりとつかっていた。ウェストンはつぎのように回想している。

 

(略)フランク・シナトラドリス・デイがバンドよりも有名になって、音楽もどんどんスローになっていった。ジルバはすたれて、私の作るアルバムはどれも行き場を失ってしまった。

 

 雰囲気が変わったことを察したウェストンは、一九四五年に『夢の音楽』を録音した。(略)緩慢なテンポのやさしいスイング、ほどほどの音量、弦楽器とピアノの陰に隠れて金管は目だたない。歌もぐっとソフトになった。(略)当時としては天文学的な十七万五千枚の売り上げを記録した。

(略)

 ウェストンは、自分のムード音楽のアルバムは、大人のジャズと壁紙音楽とのあいだのきわどい一線にあることを認めている。

(略)

 

私はインストゥルメンタルのソロと対旋律を用いた。枠組みはダンスバンドだが、それにストリングスを加えた。ロバート・ファーノンならクラシックなオーケストラを使って、ジャズの要素はまったく取りいれないだろう。パーシー・フェイスも、コステラネッツも同様だ。このように、皆がまったくジャズっぽくないストリングスを多用したことが(私自身はバラードにもジャズの風味を用いた)、のちに「エレベーター・ミュージック」という言葉が大半のムード音楽を象徴するようになったゆえんではないだろうか。

(略)

 太って、陽気で、メランコリーで、大酒飲みだったといわれるジャッキー・グリースンは、「華麗なムード」という言葉の意味をさらに押し拡げることになった。

(略)

彼が『ジャッキー・グリースン・プレゼンツ』シリーズにどれほど関わっていたかは、意見が分かれるところだ。(略)

ゴードン・ジェンキンズによれば、グリースンは「アレンジ係に指揮を任せ調整室で太い葉巻をふかしているような」影の人物だったという。

(略)

 グリースンのレコードは、通俗的な男の欲望に臆面もなく媚びている。アルバムジャケットに描かれているのは、シルクとレースをだらしなくまとってソファに横たわる官能的な女性、誘うような唇で色目を使う妖婦、宝石で着飾ってバーのスツールにまたがっているファム・ファタール、暗い森にひそむ北欧のニンフ。

(略)

 一説によると、これらのレコードを製作するための資金の大半を、グリースンは自分でかき集めなければならなかったという。だが、やがてキャピトルも発売に同意し、ファースト・アルバム『恋人たちの音楽』は当時としては驚異的な五十万枚の売り上げを記録した。一九五二年から一九五五年にかけて、『ジャッキー・グリースン・プレゼンツ……』シリーズに、アメリカ国民は少なくとも二百万ドルを支払ったのである。

 『音楽、マティーニ、メモリー』は、無数のカクテルパーティーのBGMに使われ、『恋人たちのポートフォリオ』(略)にはバーテンダーのためのレシピがついていた。

マントヴァーニ、コステラネッツ

 五〇年代になると、生々しさを抜かれ、幾重にも音を重ねて音響処理を施した華麗なストリングス・アレンジが巷にあふれた。

(略)

 生まれたばかりの軽音楽の世界では、スタジオの新技術を利用して、無数のストリングスによる音のタペストリー作りが盛んだったが、なかでもマントヴァーニはそのチャンピオンだった。とぎれることなく続くエコーのかかったバイオリンのハミングの音は霧状に広がり、のちのスペース・ミュージック期のシンセサイザーによる和声を予感させる。

 ベネツィアに生まれたマントヴァーニは、トスカニーニコンサートマスターをつとめ、ベネツィアとミラノの音楽学校の教授でもあった父ベネデット・パオロと同じ道に進んだ。(略)子どものころに、一家はイギリスに移った。(略)初めての仕事は十五歳のとき、バーミンガムのレストランで演奏したことだった。やがてプロになり、母親の旧姓「マントヴァーニ」を芸名として使用した。

 マントヴァーニの音楽のスタイルは、一九二〇年代中頃に、バイオリニストのフリッツ・クライスラーから強い影響を受けたという。

(略)

 マントヴァーニはクラシック・バイオリンの素養とクライスラーの大衆的なスタイルを合体させて、たくさんの曲をホテル向けにアレンジして演奏し、一九二七年にはBBCの仕事をするようになった。

(略)

 マントヴァーニの特徴である「滝のような」サウンドが誕生するのは、五一年、デッカのアメリカ部門であるロンドン・レコードからワルツのアルバムを依頼されたときのことだ。(略)

 「アメリカで聴き手の心をつかむには、どうすればいいか考えた」というマントヴァーニは、四十人編成のオーケストラ(うち二十八人は弦楽器)をデッカの最新スタジオシステムで処理して、中世の教会の音響を二十世紀によみがえらせた。

(略)

「(略)私はビオラとチェロをたっぷり使って、クラシックなストリングスの音色を出したかった。きめ細かなハーモニーが欲しかった。大聖堂で演奏しているような、音が重なり合う効果が欲しかった」

(略)

かくしてマントヴァーニは(略)「百万ドルの音楽帝国」を築きあげたのである。

 マントヴァーニは、アメリカでステレオ録音のレコードを百万枚売りあげた最初のミュージシャンである。一九五三年から七二年の間に、五十一枚のアルバムを売り上げトップ五○に送りこんだ

(略)

 マントヴァーニの成功は、初期の頃からずっと録音技師をつとめたアーサー・リリーの力によるところが大きい。たとえば、耳をつんざくロックンロールを録音するためにデッカのスタジオにカーペットが敷かれていたような場合、マントヴァーニが録音の準備をしているあいだに、リリーは率先してカーペットをはがし、エコーの効果を高めた。フィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」並みの残響効果を得るために、彼はストリングスだけでも最低九本のマイクを使った。また、マントヴァーニは、戦時中に開発されたデッカの「FFRR」(Full Frequency Range Recording=高音域録音)の恩恵も受けている。この技術開発の歴史をさかのぼると、ひとつはドイツ・グラモフォン社がしばしばその音響効果を利用していたベルリンのイエス・キリスト教会にたどりつく。ドイツの復興期にアメリカがRIAS(アメリカ管理区ラジオ)を設立した際、ある技師がこの教会を発見したのがきっかけで、その「聖なる音」が近代録音の世界に応用されるようになったのである。

(略)

 チャペルのプロダクション音楽ライブラリーの所長をつとめたこともあり、軽音楽オーケストラ界の大物たちとも親しく交際していたアーサー・ジャクソンは、マントヴァーニについてこう回想する。「気さくに話せる人物だったが、壮大な妄想を抱いているところがあった。三十五年たった今でも、彼との会話は一言残らず思い出せる。『アーサー、なかなかいい評を書いてくれたね……でも、私がほかのだれよりもすばらしいってことが、読者に伝わっていないじゃないか』ってね」

(略)

コステラネッツの天才的なテクニックが証明されたのは、アメリカが第二次世界大戦に参戦したときのことであった。コステラネッツは志願して軍楽隊の指揮者になり、ドイツからビルマまで慰問演奏を行なった。このとき彼は、演奏者が自分の耳に頼らなくても、音程が合っているかどうかを知らせてくれる装置を導入した。マサチューセッツ工科大学は、この装置を潜水艦を探知するソナーに応用した。大西洋海戦の勝利に寄与したとして、コステラネッツはのちにイギリス海軍省から讃えられた。

エセル・ゲイブリエル、パーシー・フェイス

 『ムード・イン・ミュージック』シリーズの制作スタッフの顔ぶれをみてみよう。最重要のアレンジャーはウィリアム・ヒル・ボウエン。ほかにロバート・シャープルズ、ロバート・アームストロングもアレンジを担当した。けれども真の立役者は、女性プロデューサーの草分けのひとり、エセル・ゲイブリエルであった。

(略)

女の子にしては珍しくトロンボーンに興味を示し、すでに十三歳のときにはダンス・バンドのリーダーだった。

(略)

「(略)ボブ・アームストロングを起用したのは、五種類の楽器からすばらしい和音を作りだす才能があったからだ。ボブはピッコロを基本にして、低音部、中音部、高音部まですべての音域に音を広げてみせた」とゲイブリエルはいう。

(略)

 リビンリビング・ストリングスのメンバーの多くは、BBCや口ンドン交響楽団の出身だった。初期のリビング・ストリングスの曲はイギリスで録音され、しゃれたアルミ箔のカバーでパッケージされていた。音楽はゲイブリエルの考案した、スタジオ外の環境を利用した「室内サウンド」エフェクトの処理を施されていた。当時のレコーディング・アーティストがよく録音に使っていたニューヨークの一九丁目にある教会を、リビング・ストリングスも利用したのである。ゲイブリエルは回想する。

 

当時はエコーが重要だった。六〇年代初めにドイツでエコー室が作られるまでは、最高のエコーが得られるのは二四丁目にあるRCAのスタジオの男子便所だった。マンハッタン・センターのような場所でトスカニーニがレコーディングするときなど、音楽をそこに通してからスタジオに送りこんだものだ。

(略)

「リビング・シリーズは、音楽を愛しているけれども、少しでも高尚になりすぎると、とたんに理解できなくなってしまうような人に合わせて調整されている。リビング・ストリングスとメラクリーノによって、私はラジオのイージリスニングの少なくとも九五パーセントは支配した」

 ゲイブリエルはさらに守備範囲を広げようと、のちにニューエイジの時代に盛んになった音によるセラピーの先駆けである『禁煙するための音楽』というアルバムを制作した。このアルバムは、ゲイブリエルをはじめとする業界関係者が「コンフォート・ゾーン」と呼ぶ環境を作り出すよう設計されている。音による心理操作を狙ったと思われるのを嫌って、この件に関するゲイブリエルの発言は控えめだ。

(略)

心を落ちつかせるためには、安定したムードの助けが必要なことは知っている。今日、じつに多量の情報が飛びかっているけれども、平均的な人間は情報に対して無防備だ。ニュースではありとあらゆることが大げさに報じられている。絶えず頭の切替えを要求されて、ストレスと緊張に対処しきれない。感情面の成長が技術面の成長に追いつかないのだ。だからストリングスが、感情を支える杖の代わりになってくれる。音楽は洗脳だ――一部の人間はこのことを知っている。プレッシャーをかけ、強制的に聴かせれば、マインド・コントロールができる。だからこそ、抱きしめ、愛撫してくれる音楽がまた求められるはずだ。

 

 そのもっともよい例がパーシー・フェイスだ。マックス・スタイナー作曲「夏の日の恋」をフェイスのポピュラーなアレンジで演奏したバージョンは、センチメンタルで人畜無害なBGMの典型といえるが、フェイス自身はけっしてこの作品を好まなかった。じつのところ、彼好みのラテン風のパンチが効いたかつてのヒット「デリカード」ではなく、「夏の日の恋」のほうが代表曲になってしまったことをフェイスはくやしく思っていた。けれども、彼の意に反して「夏の日の恋」は世界的なセンセーションを巻きおこした。グラミー賞を受賞しただけでなく、一九六〇年の一年間、この曲は一度もヒットチャートから落ちなかったのである。

(略)

 メロウになりすぎず、騒々しくなりすぎないというフェイスのデリケートなバランス感覚は、天性の音楽の才能であると同時にキャリアの上では災いでもあった。甘いバイオリンを扱わせれば右に出る者がないのに、その点ばかり評価されるとかえって警戒してしまうのが常だった。けれども一九五〇年の発言には、そのような不安は見られない。当時彼は、自分の目標は「自宅でくつろぐ静かな夕べというアメリカならではのひとときを大切にして、安楽椅子と室内履きとよい音楽こそくつろぎだと考えるような何百万もの人を満足させること」であると述べた。だが、こんなにここちよい感慨を語った当の本人は、あまりに快適になるのを嫌ったのである。

 

Four Classic Albums

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フェランテ&タイシャー

クルト・ワイル=ベルトルト・ブレヒトの「モリタート」(のちの「マック・ザ・ナイフ」)のアレンジでミューザックのお気に入りになったディック・ハイマンは、もともとはジャズ畑出身であったが、ジョン・ギールグッドのシェイクスピア朗読の伴奏や、テレビのゲーム番組『バック・ザ・クロック』でオルガンを弾くうちにムード音楽寄りになっていった。

(略)

ドイツのホルスト・ヤンコフスキーはベルリン音楽学校でコンサート・ピアニストの資格を得て、戦後の若者世代のひとりとして登場した。十八歳のときには、すでに自分のジャズ・コンボを結成していた。カテリーナ・バレンテの伴奏者としてヨーロッパを回り、マイルス・デイビスオスカー・ピーターソンのディレクターをつとめたあと、親しみやすいインストゥルメンタル曲「森を歩こう」で本来の才能を開花させた。

(略)

 大衆へのアピールを追求したことから生まれたクリエイティブな作品を語るには、アーサー・フェランテとルイス・タイシャーを欠かすわけにはいかない。マンハッタンのジュリアード音楽院で神童と呼ばれたふたりは、アヴァンギャルド界の腕白小僧から、近代音楽史上もっとも成功し、もっとも多産なイージーリスニング界の大立者に成長した。

(略)

「……私たちが二台のピアノのための新しい作品の実験と創造に手を染めたのは、教師をしていたときだった。目新しい音楽を求めて、ピアノに紙や棒きれ、ゴム栓、メゾナイト線、ボール紙の楔、紙やすりなどをつめこんで、銅鑼やカスタネット、太鼓、木琴、ハープシコードに似せた(ジョン・ケージ風の)奇妙な効果を出そうと苦心した。(略)今の私たちの演奏が、昔のジュリアードの同僚をいささかたじろがせるのはまちがいない」

 『ブラスト・オフ!』『ヘブンリー・サウンド・イン・ハイ・ファイ』といったタイトルのアヴァンギャルドなアルバムを何枚か出したあと、一九六〇年にユナイテッド・アーティスツと契約したのを機に、ふたりは大きく軌道修正した。

(略)

「映画音楽やショパンチャイコフスキーラフマニノフの人気曲を単純化したバージョンが大成功したので、私たちはいかにもクラシックのピアニストというようなレパートリーをやめて、広告のうたい文句も『ピアノ・デュオ』から『ふたりのショウ』に変えた」

 一九六〇年から七〇年のあいだに、ヒットチャートのホット一〇〇に入った彼らの曲は十一曲。

(略)

「クラシックを『捨てた』ことは後悔していない。私たちのよさは『シリアスな』時代と少しも変わっていないが、当時は演奏会に出かけてくるごく少数の人にしか知られていなかっただけだ。より軽い音楽に移ったことで、生活のために教師をしなくてもよくなった」

次回に続く。