ボビー・ギレスピー自伝 その2

前回の続き。

ザ・ウェイク

 シーザーはいい曲を書いた。(略)他の曲は民主主義的に作られていた。全員でセッションを続けると、クレアが歌詞ノートに書きつけたものを歌いだす。俺はオルタード・イメージズのギグに機材を運び、設置するのを手伝っていた。関われるだけでエキサイティングだった。彼らのドラムビートは普通のロックと違い、すべてトライバルなビートで、俺にも演奏することができた。(略)

スージー&ザ・バンシーズのロンドンの事務所にデモテープを送ると、電話がかかってきた。「テープを聴いたんだが、すごくよかったよ。バンシーズとツアーをしないか?」と。"ハッピー・ハウス"と"クリスティーン"が大ヒットしていた頃だ。バンシーズは俺たち全員にとって、神みたいなバンドだった。崇拝していた。曲、イメージ、スタイル、何もかも。(略)オルタード・イメージズのローディとしてバンシーズのツアーに同行するため、俺は印刷工場の仕事を1週間休み、毎晩バンドの機材を運び、設置し、片づけた。このツアーが俺の人生を変えた。

(略)

 俺はザ・ウェイクがギグをやるたびに観にいっていた。でも観客はほとんどいなかった。シーザーはどう思ってるんだろう、と考えたものだ。彼はオルタード・イメージズが成功を収める直前に脱退したのだから。信条を曲げず、自分のヴィジョンを実現させようとするシーザーを俺は尊敬していた。

(略)

[ザ・ウェイクにオルタード・イメージズ凱旋ライヴのサポート依頼]

シーザーは俺に、数曲でバンドに加わってギターとシンセサイザーを弾いてくれと言った。

(略)

[ジョイ・ディヴィジョンのマネージャー、ロブ・グレットンからシーザーに電話]

ニュー・オーダーのライヴのサポートを務めて、ファクトリー・レコードでアルバムを作らないか、という提案だった。神からの贈り物だ。(略)

[ライヴ当日、びびったベースが逃亡]

シーザーは俺に、ベースを弾けるか訊いてきた。ベースは持っていなかったが、俺はやるよ、と答えた。(略)

[ベースとアンプを貸してくれと頼むと]ロブは俺をじっと見て、からかうような、にべもない調子で「フッキーに訊いてくれ」と答えた。俺はピーター・フックを探してバックステージを見回した。漏らしそうなほどびびりながら。フッキーは俺のヒーローだったのだ。(略)どきどきしながら彼に自己紹介し、ロブに言ったのと同じ話を繰り返した。気まずい沈黙が流れた。フッキーは俺を睨んで、「本気か?」と言ってから、「もちろん。ステージにあるから、ヤマハを取ってくれ――エディには俺から借りたと言えばいい」と答えた。その瞬間の気持ちをどう言えばいいだろうか。恐怖と高揚がない混ぜになりながら、俺は(略)巨大なヤマハのベースを手にすると、そのままフッキーのハイワットのベース・アンプに挿した。雷神ソーが現れたような轟音、その強力なベース・サウンドに俺はほとんどステージから転げ落ちそうになった。(略)デモを聴いていたおかげでベースラインはわかっていたし、バンドの練習を何度も見ていたからすぐに呑み込めた。ライヴは緊張したまま、あっという間に過ぎていった。(略)

持っているヤマハのベースは、フッキーがジョイ・ディヴィジョンの”ラヴ・ウィル・テア・アス・アパート"のビデオで弾いていたものだった。それほどクールなことが他にあるか?そのあとロブ・グレットンが俺たちの楽屋に来て、ニュー・オーダーの他のライヴもやらないか、と言った。

(略)

俺はポータブルのカセットレコーダーで、自分で聴くためのブートレグ・テープを作った。セットには毎回、それまで聴いたことのない新曲があった。時間が経つにつれ、そうした曲はギグごとに変化し、改良された。ニュー・オーダーの音楽は「進行中」であることを恐れない好例だった。曲をいじって、毎晩違う形でプレイしてみせるのだ。ニュー・オーダーとのツアーで俺は多くを学び、それを将来、プライマル・スクリームで実践することになる。

プライマル・スクリーム誕生

[ザ・ウェイクの]アルバムが出ると、ヘンリー・ウッド・ホールでライヴをやった。(略)興行は自分たちでやり、俺の友だちのジム・ビーティが前座を務めた。ビーティはカセットレコーダーからあらかじめ録音した曲を流しながら、ベースを弾き、歌った。

(略)

俺は1981年の夏からビーティと一緒に音楽を作っていた。(略)

 ビーティの母親はボーイ・スカウトやガール・ガイドが集まるホールの鍵を持っていた。ビーティと俺は土曜の夜、ホールが使われていない時にそこへ行った。ビーティは日本製のレスポール・クラシックの安いコピーと小さなギター・アンプを持ち、俺はゴミの缶の金属製の蓋を持っていった。(略)

ビーティがバンシーズやPILみたいな1コードの叫ぶようなギター・リフを弾くと、俺がゴミ缶の蓋で原始的なトライバル・ビートを叩き、金属のガンガンしたインダストリアルな音が響き渡る。するとふたり一緒に延々とスクリームするのだった。歌詞も何もなく、ただただスクリームし、叫び、叫びつづける!最高のサウンドだった。どっちもまともに楽器を弾けなかったが、そんなのどうでもよかった。大したことじゃない。大事なのは、悪魔祓いの儀式を始めることだ。(略)

スカウト・ホールの壁を這う太い排気管やセントラル・ヒーティングの配管をふたりして拳でガンガン叩くこともあった。排気管からはものすごいサウンドが返ってきた。不協和音のポリリズムだ。空っぽのホールは天井が高く、壁はコンクリートで、床が寄木だった。そのがらんとした空間では音がよく反響した。ドラムはまるで戦争のような、暴力的な音に聞こえた。グラスゴー労働者階級のインダストリアル・ブルーズだ。

(略)

[ザ・フォールの"クラップ・ラ ッ プ2"を気に入っていたので]

 

俺たちはザ・フォール

白人のゴミが言い返す……(略)

俺はロックンロールの夢を信じる

俺はプライマル・スクリームを信じる

 

 俺はビーティに、自分たちがスカウト・ホールで作っている音楽をプライマル・スクリームと名づけるのはどうか、と提案した。ビーティはその名前をひどく気に入った。パンク、かつポストパンクで、完璧だと。(略)

長年、この名前にはジョン・レノンの影響があるのかと何度も訊ねられたが、当時はレノンとアーサー・ヤノフによる精神療法の関わりなんてまったく知らなかった

ジム・モリソン

地獄の黙示録』で"ジ・エンド"を聴いてから、取り憑かれたようにドアーズを聴くようになっていた。弟のグレアムと俺は深夜、グラスゴーで母親の小さなルノーを乗り回しながら、片面にベスト盤『13』、もう片面にデビュー盤が入った30分のテープをずっと聴いていた。ジム・モリソンの挑発的な態度、痛烈な物言いを俺は愛していた。ベルトルト・ブレヒトのように(略)

モリソンは演者と観客の間の「第4の壁」を壊そうとしていた。(略)

60年代のカウンターカルチャーから出てきた真に反抗的なものはどれもレコード会社に買収され、マディソン街の広告代理店にパッケージされ、ロックに飢えたキッズに「革命」として売られていた。(略)

モリソンは(略)ロックがマス・カルチャーに変化を起こす可能性が去勢され、骨抜きにされ、パッケージされて、単なる娯楽として大衆に提供されていることに気づいていた。大衆には革命的な変化にコミットする準備ができていなかったし、ジム・モリソンにはそれがわかっていた。

 だからこそ、彼はそれを与えたのだ。あのライヴは実質的にドアーズのキャリアに終止符を打った。たっぷり儲けるはずだった全米アリーナ・ツアーは不安になったプロモーターにキャンセルされ、モリソンは逮捕されて、公然わいせつ罪で裁判となった。(略)あの夜会場にはフォトグラファーが何人もいたが、それを示す写真は存在しない。警官たちはモリソンを憎んでいた。各地のライヴで警官を敵に回していたからだ。コネチカット州ニューヘイヴンでは、楽屋のトイレで女の子といちゃついていたら突然おまわりが入ってきた、という話を観客に語り、そのままステージで逮捕された。楽屋のお楽しみを邪魔した奴を「ちっちゃな青の制服を着て、ちっちゃな棒を持った、ちっちゃな男」とからかったのだ。警官がステージをぐるっと囲み、ハイエナが鹿を追い詰めるようにジムに襲いかかろうとしている写真が残っている。ジムは観客の目前で逮捕された。

(略)

5対1だ、ベイビー!

5つにひとつ

ここから生きて出られる奴はいない

 

 ジム・モリソンはまさにこの歌のままに生きていた。将来、俺自身も、それが非常に危険なゲームであるのに気づくことになる。

絶頂期のニュー・オーダー

チャートでは"ブルー・マンディ"が急上昇し、あらゆる場所で旋風を起こしていた。アンダーグラウンドの音楽が勝利したようなものだ。(略)実験的なエレクトロニック・ダンスのトラックというだけでなく、はっきりした曲の構造がなかった。(略)それが状況主義にインスパイアされたファクトリー・レコードからリリースされた、という事実にも俺は興奮した。ナイーヴかもしれないが、無政府組合主義の思想を音楽ビジネスに適用した、彼らの手法に心酔していたのだ。ファクトリーのレコード契約では利益が分配された。十分な数のレコードが売れると、会社がレコーディングにかかったコストを差し引き、レーベルとアーティストで印税を2等分する。何らかの理由でレーベルが閉鎖になれば、トニー・ウィルソンは録音物をアーティストに返却する。つまり作品の著作権は会社ではなく、作者が所有しているのだ。

 いま聞くと破天荒に思えるかもしれないが、あの頃にはそういう気風があった。パンクはいわゆる「ビジネス」の新たなやり方を切り開き、ファクトリーのようなレーベルが既存のレコード業界の腐敗した慣習に疑問を突きつけていた。バンドの妥協しない姿勢が「トップ・オブ・ザ・ポップス」での演奏を混乱に陥れたことさえあった。ロブ・グレットンは、ニュー・オーダーが番組のスタジオで完全に生演奏するのを要求したのだ。本当かどうか知らないが、バーナード・サムナーはあの時LSDでトリップしながら"ブルー・マンディ"をやった、と聞いたことがある。ジム・ビーティと俺にとっては伝説的な偉業だった。

(略)

ニュー・オーダーは絶頂期だった。そこにはまだジョイ・ディヴィジョンを動かしていた暗い力、彼らがまとっていた神秘のベールも残っていた。バンドは一切観客に語りかけなかった。ピーター・フックはギグのほとんどの間、観客に背を向け、「ベース・ネロ&サルフォード」とペイントされたアンプの方を向いていた

(略)

ロブが「バーニー」と呼んでいた男は青のアノラックのポケットから小さなポルノ本をのぞかせ、舞台を歩き回っていた。[アシッドで]彼の意識は銀河の果てまでぶっ飛んでいた。(略)

俺がクールだと思ったのは、彼の明らかなカリスマだけでなく、あの小さなポルノ本だった。ザ・ウェイクが醸す抑圧的なカトリックの罪悪感、禁欲的で童貞的なセックスの不在とはまるで正反対だ。シーザーはニュー・オーダーと50年代フランスの実存主義小説について会話を交わすのを夢見ていたが、俺が立ち聞きしたバーニーとフッキー、そしてローディたちの会話はいつだってツアー中に知り合った「女の子」のことだった。彼らはまぎれもなくロックンロール・バンドで、「アンチ・ロック」なところはどこにもなかった。あれはただ、「NME」の訳知り顔のライターがニュー・オーダーにかこつけ、自分の文学的影響を喧伝していただけだ。(略)

実際のバーニーが持っていたのは安いポルノ本で、それを気にもしていなかった。俺はそこにやられた。

プライマル・スクリーム結成

[ザ・ウェイクで演奏中]半分くらいのところで俺は興味を失っていった。バンドに退屈し、曲に退屈したのだ。(略)まだ演奏している3人を残して楽屋に向かった。

(略)[セット終了後激怒する三人に]俺はやっとこう言った。「曲が長すぎて退屈なんだよ」。

(略)

[後日、シーザーとスティーヴン・アレン来訪]

ふたりがわざわざうちまで来たことは一度もなかったので、俺はすでに妙な事態になったことに気づいた。ふたりともそわそわしていたが、やがてシーザーが吐きだすように言った。「もうおまえとは音楽をやりたくない、バンドにいてほしくないんだ」。(略)

俺はショックを受けた。まったく予想もしていなかった。(略)俺はバンドを失ったばかりか、3人の友だちを失い、傷ついていた。何日か経ってやっと落ち着くと、俺はシーザーに電話をかけ、やり直してほしいと頼んだ。3人と会い、バンドにいられるよう自分の言い分を伝えたが、屈辱的でみじめになっただけだった。俺がその場に来る前から、もう結論は出ていたのだから。まるで彼らは俺をわざと傷つけ、懇願するのを見物しにきたようだった。残酷で、サディスティックでさえある。死んだような沈黙が流れ、何も起きなかった。それでおしまい。俺はバンドをクビになった。

(略)

俺は電話を取り、ビーティの家にかけた。「いま、ザ・ウェイクから追いだされた。バンドを組まないか?」。ビーティは「ああ、いいよ。明日の夜は何してる?うちに来て曲を書くか?」と言った。(略)

次の夜、俺たちは正式にプライマル・スクリームを結成した。(略)

ザ・ウェイクの音楽に俺が退屈し、不満だった大きな理由は、ビーティと一緒に60年代のサイケデリック・ロックを山ほど聴いていたせいでもあった。俺もビーティもいわゆる当時の「ロック」にはまったく興味を持てなかったせいで、シド・バレットピンク・フロイド、ディラン、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、アーサー・リーのラヴ、 ドアーズ、バーズ、ローリング・ストーンズキンクスの聖なるサウンドを聴くようになり、それによってもっと深く、遠く、「ガレージ・パンク」の異界を掘り下げていた。サーティーンス・フロア・エレヴェーターズ、ザ・シーズ、エレクトリック・プルーンズ、チョコレート・ウォッチバンド、そして無名のティーン・パンクのシングルを集めたコンピ盤『ペブルズ』のシリーズ。 彼らの曲は2分半のハイエナジー・ロックの爆発で、ほとんどが10代の性的不満と社会への怒りを歌っていた。より「ヘヴィ」で文学的なバンドでは、ドラッグのサイコシス、パラノイア、狂気もテーマだった。彼ら60年代のアーティストには、俺たちが好きな70年代のパンク・バンドに共通する反抗精神があるのにも気づいた。

(略)

ストゥージズは至高の存在だった。よくアシッドをやって、絨毯に寝転がり、頭をスピーカーの間に入れてストゥージズの最初の2枚をずっとかけていたものだ。言っとくが、このやり方で"ウィ・ウィル・フォール"と"ダート"を聴かないかぎり、生きている価値はない。あの美しく原始的なアーバン・ブルーズ。(略)ザ・ストゥージズは「原始的なモダニスト」だったのだ。彼らはブルーズをやったが(略)イギリスのブルーズ・エクスプロージョンのバンドみたいに、元々のアメリカの黒人アーティストをそのまま模倣はしなかった。その代わり、イギーとアシュトン兄弟、ベーシストのデイヴ・アレクサンダーは青年後期の白人アーバン・ブルーズを生み、あらゆる10代のアウトサイダーの恐怖、希望、性的不満、欲望、そして実存的な退屈をとらえた。

1984年の夏

 ザ・ウェイクで演奏していた曲にはロックのダイナミズムが一切なかった。(略)

俺はずっと、曲を作るのはリアルタイムの実験だと思っている。新曲を書くたび興奮して、これは史上最高の曲だと思う。そしてレコーディングする。何年か経ってたまたまどこかで耳にすると、「あそこの歌詞はこうすればよかった」とか「あのギター・リフはいまいちだ」とか、「アレンジが間違ってる」とかなんとか、果てしなく考えてしまう。つねに「進行中」なのだ。大事なのは過程であり(略)作曲の技法やミュージシャンシップ、歌唱、プロダクションをどれだけ進化させられるかが鍵だ。そのプロセスに終わりはなく、だからこそ永遠に魅力的なのだ。新作を作りつづける理由はそこにある(略)

ビーティと俺は、ミック・ジャガーキース・リチャーズ、ジム・モリソン、ルー・リード、レイ・ディヴィス、イギー・ポップのようなソングライターのやり方が好きだった。彼らは多くてもふたつ、3つのヴァースで言うべきことが言える。ディランもいいが、あの悪意に満ちた言葉、 象徴主義的でビート的なイメージ、次々に移り変わるアンフェタミンの幻想が7、8ヴァースも続くのは俺たちの手に余った。ボブ・ディランは天性の詩人であり、到底及びもしない。俺は覚えているかぎりずっと、家で彼の音楽を聴いていた。1980年からは母のタイプライターで詩を書きはじめ、仕上がると切り取って青いノートに貼り付けていた。書くことに夢中になっていたが、誰にも言わず、ザ・ウェイクのメンバーだった頃も秘密にしていた。俺は時が来るのを待っていた。ザ・ジャムポール・ウェラーが出版社、ライオット・ストーリーズを設立したという記事を読んだ時にはインスパイアされた。ウェラーは音楽メディアでそれを発表し、キッズに詩や短編、小説を送ってくれと言っていた。気に入ったら出版すると。いまもそうだが、労働者階級にとって出版界は手の届かない場所だった。(略)ウェラーの試みは本当にパンク・ロックだと思った。あの男を俺は愛している。ライオット・ストーリーズに自分の詩を送るつもりはなかったが、それが存在しているだけで嬉しかった。俺みたいな人間のことを気にかけている人がいる、と知るだけで。

 

 ビーティと俺は、没頭していた60年代の名曲のテクニックや構成を使って曲を書こうとしていた。(略)

 ビーティはアコースティックの12弦ギターを買った。俺たちはラヴやバーズみたいなフォーク・ロック・バンドになるというアイデアを気に入っていたし、ビーティはロジャー・マッギンのリッケンバッカーが鳴らすジングル・ジャングルの魔法にかかっていた。俺もバーズとラヴにはとことんハマっていた。

(略)

1984年の夏には、曲が溢れでてくるようだった。(略)エリオット・デイヴィーズはティアック(東京電気音響の略だ)の4トラックの録音機材を持っていて、それを使って音を普通の30分のカセットテープに移すことができた。あの頃しばらくティアックの機械が流行ったのは、曲のアイデアを家で安くデモテープにできたからだ。

(略)

ある晴れた日、俺たちは"ジェントル・チューズディ"と"リーヴズ" の初期ヴァージョンを録音した。俺がリズム・ギターとヴォーカル、ビーティは12弦のアコースティック・ギターとベース。ドラムはローランド606のドラムマシンでビーティが設定した。トラックが完成すると、納得するまでミキシングした。ビーティはサウンドのバランスを取るのがうまかったし、レコーディング、それに音を操作するのも大好きだった。

ジーザス&メリー・チェイン

[後にBBCラジオのプロデューサーとなるニック・ロウが、おまえらなら気に入ると思う、とデモテープを送ってきた]

 カセットの厚紙には黒のボールペンで、子どもみたいな字でこう走り書きされていた。「ジーザス&メリー・チェイン(略)

テープを三菱の日本製の赤いカセットプレイヤーに入れると、ひずんだドラムマシンの轟音がスピーカーから流れ、シンセサイザーのホワイト・ノイズがそれ続いた。

(略)

 なんだこれは!まるでビリー・アイドルが歌うスーサイドみたいだった。

(略)

デモテープはまさに俺たちの好みだった。しかも、カセットの片面にはシド・バレットのアルバムが録音されていた。

(略)

[ダグラス・ハートに電話すると、あらゆるところにデモを送ったが]

ポジティヴな反応を見せたのは俺が初めてだと彼は言った。

(略)

 ダグラスと話して俺は大いに刺激を受け、ぐんとやる気が出るのを感じた。それまではパンクの力をまだ信じているのはスコットランドで俺たちだけなんじゃないか、とビーティと俺は思っていた。ふたりともサイケデリックに夢中で、アンダーグラウンド・ロックの先駆者、あの傷ついた男の情報に飢えていた。(略)シド・バレットだ。

(略)

予定より早く着くと、3人が俺を待っていた。(略)彼らはみんなラモーンズみたいな破れたジーンズを履いていた。(略)3人の髪は高く逆立てられていた。ゴスというよりは、バニーメンを大袈裟にした感じだ。(略)

3人は俺にジョイント・ライヴをやるつもりはあるか訊いてきた。俺は自分たちの状況を説明し、でもドラマーを見つけてあと何曲かできたら、もちろん一緒にやりたいと答えた。(略)

すでにもうひとりメンバーが増えようとしていた。ロバート・ヤングだ。

(略)

「ダンゴ」と呼ばれていたロバート・ヤング(略)

の部屋へ行くと、ダンゴは興奮して段ボールの箱からクリーム色のフェンダーテレキャスターのコピーを取りだし、手に取ってクラッシュの"イングリッシュ・シヴィル・ウォール"を弾きはじめた。(略)普段いじめられている14歳の子が、ミック・ジョーンズと同じくらい巧みにクラッシュの曲を弾いている。いったいどういうことだ? すごい音だった。ロバートは弟のグレアムの仲間で、同学年だった。グレアムがうちで俺のレコードを聴かせて、パンク・ロックにハマらせたらしい。(略)

1984年の夏、俺はロバートをブラック・イースターから奪取し、彼ならではのメロディックなベースという素材が俺たち のサイケデリックなシチューに加わることになった。(略)

初期プライマル・スクリームサウンドは、ビーティが(略)"ミスター・タンブリン・マン"を繰り返し聴き、ロジャー・マッギンによる12弦のアルペジオの魔法を吸収した賜物だ。ロバートのほうはラヴのファースト・アルバムに執着していた。

(略)

俺たちは60年代の快楽的で超越的なサイケデリック・ポップと、80年代のエレクトロニック・ダンス・ビートの融合を目指していた。メリー・チェインと初めて会った時、ギグをやらせてもらえる場所がないと聞き(略)

俺はアラン・マッギーに電話(略)

マッギーはテープはまあまあだと考えた。最高とは言えないが、それでも俺の推薦でメリー・チェインはギグをやることになった。ある日曜の午後、マッギーが電話をかけてきた。(略)

「ギレスピー、昨日のメリー・チェインは天才的だった」。(略)

兄弟がステージで殴り合ったが、ふたりともへべれけで、パンチはひとつも当たらなかった。すると全員が逃げだし、それがギグの終わりだったらしい。マッギーは電話の向こうでずっと、「天才だよ!奴らは天才だ!」と叫びつづけていた。俺はまったく驚かなかった。1984年の夏中、マッギーはロンドンのインディ・サーキットのコネを通じてジーザス&メリー・チェインのギグをブッキングしていた。ほとんどはパブの裏の部屋か小さなソーホーのクラブで、そうした場所ではネオ・サイケデリックサイコビリーのシーンが生まれていた。

トリップ三昧

マッギーはシングル・リリースを決定した。1984年夏、リード兄弟とダグラス、俺と他の数人は一緒にアシッドでトリップすることにした。イースト・キルブライドにはトリップするための場所があって、アシッド・ファクトリーと呼ばれていた。工場の跡地で、俺たちはそこへ行った。メリー・チェインはよくそういう廃墟になった工場に行っては音楽を聴き、写真を撮っていた。終末後の世界、まるでチャールトン・ヘストンの映画 『地球最後の男オメガマン』みたいで、すごくクールだった。(略)

トリップは順調に始まり、俺たちとメリー・チェインの魂は深く結ばれつつあった。彼らはカセットプレイヤーを持ってきていて、この機会のために特別に作ったコンピレーション・テープをかけていた。"アイ・ウォナ・ビー・ユア・ドッグ"が流れると、ジム・リードが転がっていた金属のパイプをコンクリートの壁に叩きつけ、素晴らしくパーカッシヴな音を鳴らした。(略)

ノイバウテンが西アフリカのヨルバ族に出会ったみたいに、原始的でバイオレントな音がインダストリアルの儀式と融合していた。陽光が俺たちに降り注ぎ、熱くなった地面に腰を下ろすと、ザ・クランプスの"ケイヴマン"がかかった。俺は木の枝を2本手に取り、クランプスの原始的かつモダンな名曲に合わせて叩いた。まるで時間を遡って退行するようだった。俺は何百万年もの人類学的な「文明の進化」が逆再生されるのを感じ、真にプリミティヴな自分に戻ると、曲中のケイヴマンとなった。枝のドラムスティックで叩くひとつひとつのビートが青紫のサウンドとして鳴り響き、視覚的イメージがノイズになる。俺には色が見えるだけでなく、聴こえた。めちゃくちゃに強力なアシッドだった。外界のヴィジョンと内なるヴィジョンの両方がリズムと同期し、神になったような心地だった。だが神の妄想が消えると、俺にはあらゆる場所に無数のイナゴがいるのが見えた。どっちを向いても、草原の緑と茶のテクスチャーがイナゴへと変化していく。(略)

パラノイアに襲われ(略)切り株か岩の上に立てばイナゴをよけられると自分に言い聞かせ、俺は頑として切り株から離れようとしなかった。あたり一面の草がイナゴに見えていたし、アシッドがキマりすぎて口もきけなかった。俺は自分で創作した、自分だけに見える地獄に閉じ込められていた。その頃にはジムとウィリアムはふたりして姿を消していた。あとで聞くとウィリアムもバッド・トリップしていて、目から蜘蛛が入り、脳みそを這い回る幻覚でパニクっていたらしい。(略)

トリップのあと、俺はパニクっていた間に服を全部脱ぎ、ダグラス・ハートにしがみついていたことを知った。彼はどうやって突き放せばいいのかわからなかったという。ダグラス自身トリップしてびびっていたので、ただ寝っ転がっていた。聞いた話では、森のなかで寝ていた彼の上に俺が乗り、だんだん自分が1枚の厚紙になったような気持ちだったらしい。裸の死体のような俺が乗っかる下で、自分がどんどん薄くなっていったと。(略)

このあともずっと、ドラッグや酒をやると何度もその状態になった。自分ではまったく覚えていないが、一度は裸で田舎の道路に飛びだし、走っている車を襲って意識不明になった。あとでそう言われた。あの日、帰宅して鏡を見ると顔や髪が汚れていて、田舎の乾いた地面の砂や土にまみれていた。なにせ1日中、裸で森のなかを転がり回っていたのだから。

(略)

グラスゴーに、文明に、正気に戻らなくてはならない。じりじり太陽が照りつけるなか、イースト・キルブライド郊外のきつい坂を延々歩いていると、滝のように汗が流れた。だが悪夢はまだ終わりではなかった。町が近づくと何棟か建物が見えた。(略)俺の呼吸に合わせて建物が拡張しては、収縮するのが見えた。(略)ビルの屋上が吹っ飛んだら、俺の頭のてっぺんも爆発して脳みそが飛びだすだろう(略)心臓がどくどくと脈打ち、恐怖が迫ってきた。頭のなかでドン、ドン、ドン、と音が響き、俺は自分のゴルゴタの丘を上っていた。俺は汚れていて、罪深い。こんな目に遭って当然だ、と言い聞かせていた。こんな悪魔のクスリをやるなんてバカでしかない、サイケデリックな罪を背負ったのは全部自分のせいなんだ、と。LSDは悪魔の毒薬だった。

(略)

1984年の夏、俺たちはずっとトリップしていた。サイケデリックのヒーローたちと同じようになろうとしていた。ジム・モリソン、ラックス・インテリア、ロッキー・エリクソンシド・バレット、アーサー・リー。サイケデリックな音楽をやるなら、サイケデリックなドラッグをやらなきゃダメだ、じゃないとサイケデリックな人間にはなれない、トリップを体験する必要がある。俺はそれが曲を書く助けになると本気で思っていた。もちろん、アシッドをやってる時には何も書けない。そんな状態じゃない。でもおそらく感覚や、グラスゴーという街への見方は変わったと思う。ある晩、みんなでトリップして(略)歩いて帰ったことがある。(略)

どの場所もまるで印象派の美しい油絵、ターナーの絵のように見えた。夜のなかで輝いていて、魔法みたいだった。

ジザメリ初シングル

 その夏、俺はグラスゴージーザス&メリー・チェインの初ライヴをセッティングした。(略)

 会場が半分くらい埋まると、メリー・チェインがステージに飛びだしてきた。明らかに泥酔している。(略)演奏はただのノイズ、殺戮で、粗大ゴミ置き場がヒステリーになったみたいだった。(略)

ぼろい服を着た、痩せっぽちの若い男たちがぶつかり合い、全員にハイ・ヴォルテージの電気的エナジー、ぴりぴりしたアドレナリンが満ちている。すごくホモエロティックだった。ほかのスコットランドのバンド、アズテック・カメラやオレンジ・ジュース、ジョセフ・K、ザ・ファイア・エンジンズにはこの暗いセクシュアリティがなかった。メリー・チェインは暴力的な脅威と性的混乱という、イカれたオーラを放っていた。実際に会うとみんなシャイで、神経質で、短気で、疑い深いパラノイアだったが、ステージに上がるとファズトーンの狂乱という4つ頭の怪獣になる。彼らの内的宇宙は精神が溶けるほど暴力的だった。(略)

それがどんなにパワフルか、彼ら自身意識していなかったと思う。自分たちが呼び覚ました邪悪なエナジーをコントロールすることもできていなかった。演奏したのは3曲ほどで、どれもバイオレントで挑発的なノイズ。まったく非音楽的だったが、ビーティと俺はそのランゲージを理解していた。(略)

 ビーティと俺は目の前の光景、不穏な不協和音、彼らの受動的攻撃性にぞくぞくしていた。(略)ただ俺たちふたり以外はメリー・チェインを気に入らず、バンドはステージから引きずり下ろされた。(略)

俺たちはメリー・チェインを褒めちぎった。ギグはぶっ飛んでいた、これで何もかも変わると彼らに告げた。次の革命の先鋒になるのはこいつらだ。(略)ライバルなんていない。1984年、ロックンロールは死に絶えていた。だが俺たちはロマンティックにも、自分たちがロックンロールを取り戻すと信じていた。(略)

 9月にアラン・マッギーがやっとメリー・チェインのシングルをレコーディングした。バンドは何度か音楽紙に取りあげられたが、大きな記事にはならなかった。マッギーは電話で、新たにレコーディングした音源のすごさについて熱弁をふるった。俺に会いに、わざわざグラスゴーまで夜行バスで来るという。(略)「今晩バスに乗る、おまえに聴かせたいんだ――ヴァージョンがふたつあって、どっちがいいか決められなくて。おまえに決めてほしい」。

(略)

8時間バスに乗ったあとでも彼は興奮していた。そしてコートのポケットからカセットを取りだし、俺がデッキに入れた。(略)

ジョー・フォスター(略)が手がけたヴァージョンはフィードバックがなく、ラモーンズみたいに聴こえた。いまみんなが聴いているヴァージョンは、ウィリアム・リードとアラン・マッギーがやったほうだ。俺はすぐに「こっちだな、天才的だ」と言った。

「そう言うと思った」とマッギー。「よし、こっちをリリースする」。

フォーク・ロックの幻覚

その頃もビーティと俺はバンドをなんとかしようとしていた。(略)曲のギター・コードと上に乗るヴォーカル・メロディができ、歌詞が付くと、ビーティが12弦のリフを作り、その時点でロバート・ヤングも一緒にセッションをして、あいつがベースラインを付ける。(略)

俺たち3人は(略)アカイの2トラックのテープレコーダーを囲んで、何度も何度も曲を繰り返し弾いた。生まれつつある曲にぴったりだ、と全員が納得できるベースラインをロバートが思いつくまで。プライマル・スクリーム初期のサウンドは、まさにそこが本質だった。マウント・フロリダの同じ通りで育った3人が、頭と心とソウルを深く同期させて作るハーモニー。俺たちはサイケデリックの神を呼びだそうとしていた。(略)俺は昔から、音楽が人々を本当にひとつにするところを愛している。エゴが消え、全員はひとりのため、ひとりは全員のためになる。

(略)

グラスゴー共同住宅から生まれた、フォーク・ロックの幻覚。俺たちはそれでハイになっていた。(略)

俺は本当の自分について正直に書くと、曲がよくなることに気づいた。(略)"ジェントル・チューズディ"では女の子のふりをして、自分という存在に対する疑念、痛み、恐怖について書くことができた。(略)

俺は自分のソウルから呼び起こせる、最高に美しいメロディを歌っていた。メロディを書くのは簡単だった。ビーティとロバートの魔法のようなギターがアシッドの天国、夢の世界を作りだしていたのだから。

新たなセックス・ピストルズ

 9月の終わりに、マッギーがいきなり電話をかけてきた。「メリー・チェインがドラマーをクビにした。代わりにお前にやってほしいそうだ。やるか?」

 俺はこう答えた。「まあ、いいアイデアだな、マッギー(略)問題なのは、俺がドラマーじゃないことだ」。(略)

「でもおまえが叩けるのもわかってる。ジムには、ボビーはオルタード・イメージズのドラマーをやってたって話したんだ。あいつらはオルタード・イメージズが大好きだった。本当におまえにメリー・チェインのドラマーになってほしがってるんだよ」

(略)

[ドイツ・ツアーのためにパスポートを取得。興奮したダグラスが]

「ボビー、きっとハンブルクビートルズみたいになるぜ。俺たち全員、頭から爪先まで黒革で決めて、イギリスに戻ってきたらロックンロール・スターになるんだ」。

 俺はカフェのテーブルの向かいで笑い、「だといいな」と言った。

(略)

[ドイツから戻ると]

"アップサイド・ダウン"はすべての音楽紙で「今週注目のシングル」に選ばれていた。(略)

1984年の末にもう1回ライヴをやった。(略)部屋は人でいっぱいだった。全員が自分の目で、「新たなセックス・ピストルズ」を見ようとしていた。マッギーはあとで俺に、ザ・スミスジョニー・マーモリッシーが来ていたと言った。俺は有頂天になった。彼らの作る音楽、テイスト、そして姿勢を尊敬していた。ザ・スミスは単独で、地味で惨めで、瀕死状態だったインディ・シーンをよみがえらせていた。スミス以前とスミス以後はまるきり別物だった。

サイコキャンディ

 アルバム『サイコキャンディ』のレコーディングはウッド・グリーンのサザン・スタジオで行われた。スタジオを所有し、経営していたのは40代初めのジョン・ローダーという男だった。アルバムのエンジニアを務めた彼は小さなスタジオの勝手を知り尽くしていて、いいサウンドになった。(略)

 ジョン・ローダーはディストリビューションの会社も経営していた。彼が扱うのはクラスというアナーキストのグループによる同名レーベルのレコードで、同時にディスコードのようなアメリカのアンダーグラウンドの新興パンク・ロック・レーベルも扱っていた。実際、最近知ったのだが、『サイコキャンディ』のセッションにはフガジのイアン・マッケイもいたらしい。彼はジョンのアシスタントとしてケーブルを繋いだり、茶を汲んだりしていた。エイドリアン・シャーウッドもあのスタジオをよく使い、オン・ユー・サウンドマーク・スチュワート、ビム・シャーマン、タックヘッド、ニュー・エイジ・ステッパーズの作品を手がけていた。

 スティーヴン・ストリートで大失敗したあと、"ネヴァー・アンダースタンド"がヒットしたので、トラヴィスとWEAはメリー・チェインがアルバムをセルフ・プロデュースするのを信頼してくれた。あのアルバムはジムとウィリアムが全部、ジョン・ローダーの手を借りて作った作品だ。

(略)

ウィリアムが俺に"ジャスト・ライク・ハニー"を演奏させようとした。彼は「ロネッツの"ビー・マイ・ベイビー"のドラムビートみたいにやってくれ――できるか?」と言った。

 俺は「ああ」と答えた。

(略)

『サイコキャンディ』のレコーディングに参加していることが俺は本当に嬉しかった。ふたりが書いてきた曲がどんなにすごいか、知っていたから。(略)

ステージを降りたジムは、まるで田舎の教会の庭みたいに静かだった。(略)外界とのコミュニケーションを一切遮断することで自分を守っていた。(略)俺はジムに似ていたし、ふたりともそれを知っていて、理解していたと思う。

(略)

メリー・チェインのファズトーンは、チープな日本製のファズ・ペダルから生まれている。シンエイという会社のエフェクト・ペダルだ。(略)25ポンドか30ポンドだったはずだ。(略)楽器店の男はあのペダルの在庫を抱えていて、買ったのはメリー・チェインだけだったと思う。そのくらい流行から外れていた。みんなが欲しがったのはコーラス・ペダルで、あれを使うといちばん良くてザ・キュアー、最悪だとザ・ポリスみたいなサウンドになる。しかも、ファズ・ペダルから出るサウンドはコントロール不能だった。たとえば、巨大な蜂の巣がぱかっと割れ、何千もの怒った巨大スズメバチが巣を守るために飛びだし、敵を刺して死に至らせる場面を想像してほしい。(略)シンエイのファズ・ペダルからはまさにそんな音が出た。 ダークで恐ろしい、黙示録的サウンドだったが、ウィリアム・リードはなぜかしらその怪物をコントロールし、意のままに操ることができた。

(略)

 ジーザス&メリー・チェインと過ごした時間は俺にいろんなことを教えてくれた。ジムとウィリアムは、世界に自分たちをどう提示するかに取り憑かれていた。ジャケットのデザインから、オーディエンスと一切関わらないことまで、彼らはあらゆる側面を考え抜いていた。「レディ・ステディ・ゴー」の昔の映像を見て、有名なアーティストの振る舞いを研究していたほどだ。(略)

ジムとウィリアムの細かな配慮に俺は刺激された。メリー・チェインでは、イメージもラインナップも完璧だった。まるでギャングみたいに見た目が決まっていた。黒革に破れた黒のシャツ、クールな髪型。一方、初期のプライマル・スクリームはイメージがばらばらだったし、それは俺にもわかっていた。

次回に続く。